歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。 皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪ …と、思って書いています。 写真・本文・構成・無断転用禁止! 関係先と小生の個人的な信頼関係で了解をとって記事にしているので、転載したい場合は当方へ確認願います。

紅葉の季節に成ったので、神奈川を中心に京浜地区のメジャーな紅葉の名所の情報を纏めた記事をリニューアルしてみました。
これクリックすると記事を読めます。
 ↓

簡単な歴史と名物も合わせて紹介しています。
まだ、紅葉を見に行く場所が決まってない方の参考に成れば幸いです。

中華圏の迷信と事実考証を交えない思い込みの強さと自国文化への理解の低さを露呈する人が結構な割合で中国人にいる・・・

“月子”は正しい産後の民間療法

“冷水”飲んだら腹壊す”

“刺身”を食ったら腹下す

・・・と思い込んでる阿呆。コイツ等は漢族を自称する資格すら無い。

月子は女性が出産直後は一ヶ月間入浴しない方が健康でいられると言う“迷信”だ。
冷水飲んだら腹壊すと思ってる馬鹿も多い。
古来、中国人は日本人同様に魚を生食した上に、来客の際に新鮮な魚介の刺身を振舞う事は最上の接待だったのだ。

“月子”と“冷水”と“魚介類の生食”に関する中国人の思い込みは極めて簡単な言葉で論破できる、迷信だ
これを信じている奴は洗脳され易いか、我彼を比較して戦力分析する人間かどうか、思い込みが強く客観性の無い人間かどうかが中国人・台湾人限定で良く解る。

中国大陸では昔から自然環境を大切にせず森林を切り開き南方では水田を北方では畑と牧草地を無軌道に拡大したせいで緑地水源が無くなり砂州も無く成り浄化作用の無く成った河川と土壌の地下水は汚染されている。

水が汚染され不潔だから煮沸していない生水を飲めないのであって、それが冷水が駄目とすり替わっている。その水質問題は現代でも同じ、寧ろ中国政府のせいで悪化している。
冷たい水が駄目なのに、冷たいアルコールは飲める事の理由を先ず客観的に見ていない。
身体が冷たい飲料や食物を受け入れないから冷たい水が駄目なんじゃない、中国の生水が不潔なんだよ。
そんな生水、つまり当然ながら出産で裂傷の有る“産道”に中国の井戸水や水道水を触れさせれば感染症を起こす訳だな。
だから傷が塞がる間つまり最低1ヵ月間は頭も洗えない、当然入浴もダメ。
皮膚の脂垢と頭垢(ふけ)塗(まみ)れのままでいた方が感染症を起こすリスクより、よっぽど危険度が低かった訳だ(笑)。
これを理由も考えずに正しい民間医療として妄信している奴が未だにいる。 月子なんて日本では関係無い、大丈夫、日本の水道水のシャワー使って平気だよ。他の欧米でも衛生的に安全な国は大丈夫。まぁ、傷に沁みる内は痛いから止めた方が良いかも知れないけれどね。

中国の水が不潔なのは悠久の時間をかけて無軌道伐採で森林を消し清涼な湧水源を消し田畑に変え、川の砂州を無くし自然による水の浄化能力を失わせた歴史に責任が有る訳だし。

「刺身や寿司を食ったら腹を壊す」
「遺伝子的に中国人の体は生食を受け付けない」
こんな事を言う中国人は“根本的に愛国心も足りない”し“中国古来の文化を学んだ事が無い人間”だと断言出来る。

日本で食う刺身は“汚染された中国の河川の淡水魚と違い安全”な事を客観的に理解出来ないで、生食が原因だと考えている訳だ。

だから刺身や冷たい物を食べたら御腹を壊すと発言する中国人の知り合いがいた際に日本人の小生が中国人に教えた漢文が有る。
この漢文の作者は日本人との友情も伝わっている・・・
仙人橋
霜落荊門江樹空

布帆無恙挂秋風

此行不為鱸魚鱠

自愛名山入剡中

※小生個人の解釈で意訳するなら以下の通りだ。

荊門(の土地:湖北省の真ん中辺りの荊門市)に霜が降(お)り、江(川辺)の樹も(葉が落ち)空(むな)しい(様子だ)。

(船の)帆布は恙(つつが)無く秋風にかかげられている

此(これ=今回)は鱸魚(ろぎょ=スズキ)の鱠(なます=刺身)の為に行く訳じゃなくて

名山(廬山の綺麗な風景)が好きだから(ここから)剡中(浙江省紹興市)に向かうんだがな。

・・・この漢詩の題名は“秋下荊門(秋に荊門へ下る)”日本人でも尊敬する人の多い唐の時代の大詩人、李白が詠(うた)った漢詩だな。
だな。
生食が腹下すってのが中国の迷信と言う解説の前に、この漢詩自体と李白の事績の分析をしたいと思う。
荊門山
荊門と言うのは古代の揚子江(長江)と言う中国の大河川の流域の荊州管轄区域の端に在る荊門山と言う河岸に連なる宜昌市の山の事を指していると解釈が一般的だそうだ。
だがこれは間違いかも知れない。
そもそも荊門山は古くから宜都と呼ばれた土地に在る。隋時代には夷陵郡夷道県と呼ばれ唐の時代には夷陵郡が峡州に地名を改められている。いずれにせよ古代の荊州の中には有ったが、唐代の荊州の入口では無いので漢代~唐代まで荊門山の名は無かっただろう。比較的に後から付けられている筈(はず)だ。
※漢代の州区分は“はじめての三国志”さんの解説記事が中国古代史を良く知らない人でも見ると解り易いです。クリックで→初めての三国志ホームページにリンク。
はじめての三国志 公式様より拝借 三国時代の州
荊州と言うと歴史知識の乏しい中国人や台湾人は現在の荊州市の事しか思い浮かばないだろうが、漢代で言う“荊州”は都市名では無く広大な行政区分、文字通りアメリカのケベック州やニューヨーク州の様な州を指した。
後漢当時の州は14州の行政区分を指し、南方や西方に広域の行政区分が多いのは漢帝国(中国)から見た未開の地で漢帝国“自称:漢の征服地だし”で仮設置されている州区分。当然、朝貢しているだけの部族も多くいる。
南蛮扱いされてる古代ベトナムの王:孟獲サンや、胡王(非漢族の未開地の王=ウィグル族)沙摩柯サンなんかがこの部類だな。
漢代に設けられた荊州の行政区分は現代の範囲で言うと河南省南陽市~湖北省~湖南省を全て合わせた地域だ。
荊州7郡
※“もっと知りたい三国志”さんからの拝借地図です~。
ちゃんと史実に基づいて可視化した地図書いてくれている人がいるから助かる(笑)。ネットの情報はゲームの間違った地図転載している人も多いですからね。
そして漢代当時に荊州市は存在せす江陵県と呼ばれた地域の一部であり南郡に属していました。
この後、三国時代には更に南郡の地名は臨江郡に改められ、その2年後に更に宜都郡に改められています。宜都は現在では宜昌市の下部市町村として宜都市が存在し、そこが後漢時代の夷陵県であり、そもそも現代の荊門山の有る場所です。
南郡=臨江郡=宜都郡の下部には“県”単位の行政区が置かれていました。 それは・・・ 中廬県、襄陽県、当陽県、臨沮県、夷陵県、夷道県、江陵県、枝江県、華容県、宜城県、郢県、邔県、編県、秭帰県、州陵県、鄀県、巫県、高成県
・・・漢代の荊門山は宜都郡夷陵県に在り、現在でも宜都市の地名の残る場所に存在しています。漢代の価値観で言えば広い意味で益州(蜀=四川省)との州境ですが、荊門山は荊州の入口と言うにはだいぶ下流の州内部域に位置に在る上に、漢より後の唐の時代ではもはや行政区分的に荊州の入口でもなんでも無い位置に在ります。
はじめての三国志様より拝借 三国時代の勢力
※又々はじめての三国志さんの画像拝借。
三国志で言うと
益州領主の劉備サン(首府は蜀郡成都城=成都市)の義兄弟の関羽サンが治めていた荊州を、揚州領主の孫権サン(首府は呉郡姑蘇城=蘇州市、後に建業城=南京市)が参謀で大都督の呂蒙サンと陸遜サンに攻めさせて関羽サンが殺され、義弟関羽の死に発狂した劉備サンが怒り狂って荊州を取り戻す為に夷陵の戦いを起こした辺りが現在の宜昌市界隈ですね。
はじめての三国志 公式様より拝借 三国時代の州
余談ですが、ちょっと紹介した沙摩柯さんが胡王と記述されているのですが、胡王の“胡”が指す胡族や突厥(とっけつ)と言うのはウィグル族の騎馬民族の事です。
ウィグル族の中で漢や唐や元の圧迫で西に逃げた
現代のトルコ人達と同じ祖先を持つのが胡族です。
なので沙摩柯サンはウィグル人だと思いがちだが、彼は武陵から攻め込んでいるのでチワン()族の系統の王族と考えた方が良いと思う。漢代に壮族と言う部族の区分が存在していなかったのかも知れない。
当時の劉備サンの敵対勢力である魏の曹操(首都:洛陽、首府:許昌)は雍州を抑え西藏(チベット)も同盟勢力だったので、沙摩柯サンが胡族だとしたら雍州経由でもチベット経由でも武陵に辿(たど)り着(つ)く事は不可能なんだな。

荊州7郡
まぁ、そんな訳で我々現代の読む側は、李白さんの秋下荊門含めて漢詩や和歌が詠(よ)まれた各時代の細かい行政区分の変遷や詩に書かれた季節と各地域の名産品考慮して時代背景や歴史的な内乱の発端と成る異民族や反乱勢力の位置関係も踏まえて、詩の内容を読んで行かないといけないんだな。
・・・しかし中国に関して言えば、これ等の位置関係が現代に成ると中国共産党のせいで更に解りづらくなります。
現在の荊州市は江陵城と呼ばれた城で、荊州市から長江を50km程下った地域のに昔の江陵県の地名がそのまま江陵県として残っていますが、江陵県の中心だった江陵城が荊州市として近年に分離されてしまい歴史を混乱させる要因にも成っています。
まぁ、そんな訳で漢代の荊州と言うのは荊州市(江陵城)の事では無くて古代の漢代の巨大な行政区分の事だった訳ですが小生の住まう横浜にも少し関係が有る人が三国時代に水軍を率いて治めていた場所なんだな。
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三国時代に一騎打ちで無敗の名将軍だった関羽雲長さんの最期の根拠地。
DSC_3615~2
※北京旅行の時に60元で購入した銅像(笑)。部屋で走水神社の御守りの横に陪神として祀ってる(笑)。
関公は曹操によって神格化され協天大帝関聖天君の名で商売の神様として祀れているが、商売の神様に成った理由は生前に塩の行商の商隊をやっていた事、そして一騎打ちに負けない勝負強さから民間信仰の対象に成った訳だ。

そして
実は、この関羽さんの治めた本来の荊州の広大な行政区分は春秋時代の“楚”の領土が元に成っている訳だ。
楚の都を郢(えい)と言ううのですが、漢代の県を含め荊州市荊州区等も古代の楚王国の首都だった場所で、複数個所、遷都する場所に郢の地名が残されました。

さんざん漢代の荊州の話と宜都市の荊門山の話をした上で話題を“秋下荊門”に登場する“荊門”の地名由来に話題に戻すと、荊門の地名は李白の生きた唐代に初登場する地名なんだな。
唐朝の統治下で荊門県と呼ばれた地域だ。
これが❝荊門❞の名の初出だな。それが現在は荊門市と呼ばれる行政区分に成った。
洛陽~荊門~四川省の位置関係 久良岐のよし
李白は実は塔克拉瑪干沙漠(たくまらかん砂漠)の入口に当たる甘粛(かんしゅく)省出身、その後に巴蜀の地、つまり現
在の四川省に移住した。だから四川省から船で
剡中(浙江省紹興市剡県=嵊州市)に向かうなら長江に違いないと思い込んだ歴史音痴中国人や観光振興が横行した結果だろう。
悪いが歴史事実を突きつけると、李白が剡中(紹興市剡県)方面、つまり江南地方に行く用事が有るのは洛陽に住んでいた時代以後の話なんだな。
江西省の廬山に隠棲する時に江南地方へと下って行ってる。
後は罪人と成って貴州から解放された時だが、その頃には安徽省を拠点にしている。
だから少なくとも、
秋下荊門の詩は時期敵に秋に荊門を川下りしているのだから秋下荊門を読んだ時は洛陽を離れ南陽方面から漢水を下っている筈なので宜昌の荊門山ではなく荊門郡(荊門市)の土地を指すと言うのが小生の推測だ。
荊門門市行政区域 久良岐のよし
荊門市は南面に西から流れ込む長江と、北から市域に流れ込み南へと突っ切る漢水の二つの大河が有る。
当時李白の居た唐の都の西安や洛陽から江南地方
剡県(浙江省嵊州市)に向かうには、漢水を利用する。
上流には襄陽市(じょうようし:漢代に荊州で最も栄えた襄陽城)が存在している。
しかし荊門山(湖北省宜昌市)を船からを見るには、わざわざ巴蜀(四川省)方面から長江を下って来なければ成らない。
これは余りに非現実的。しかも李白の生きた唐代の価値観からすれば洛陽から荊門はそのまま荊門県を指し現在の荊門市の事そのものだろう。
それに現在の荊州市の行政区分と都市名は、つい最近の数十年前に中国共産党によって決められたものだ。
荊門山の有る宜昌市が漢代の荊州と言う大きな枠組み以外で荊の名を冠するのは、唐の滅亡後の五代十国時代に荊南に編入されてからだ。唐代に宜昌に荊門山の地名が有ったか誰か確認したのか?
時代的なズレが有る。最初に訳した人間のテンプレートが広まって無いか?
李白は没する直前の晩年に安徽省の宣城市や当塗県辺りを拠点にしているので、やはりこの時期に川下りで荊門を通り
剡県に向かうとは考え難い
若い時に蜀を出てから暫く長江流域を旅したりしているし、罪人に成って貴州に抑留された時期も有るので宜昌市界隈に来た事も有るし山河の風景を詠んだ事も有るだろうが、小生は秋下荊門の漢詩の中の荊門は荊門郡の事だと思う。状況的に。
彼は洛陽に住んでいた頃、日本人の国費留学生で唐の玄宗皇帝に重用されていた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や同じ大詩人と成る杜甫(とほ)と友人に成り飲んだくれていたりした。

風流だが豪快で情が厚い人で、結構、言いたい事を言ってしまう人だったらしい(笑)。
こんな逸話が有る。
親友だった阿倍仲麻呂が日本へ帰国する船が難破して生死不明に成った際に「阿倍仲麻呂の帰国船が海難事故に遭って死んだ」と誤報を聞くや(実は漂流してベトナムに到着している)泣いて詠ったとされる詩が残っているのだが・・・

題名:哭晁卿衡(ku chao qing heng=阿倍仲麻呂卿に泣く)
※阿倍仲麻呂公の唐での姓名は姓:晁(chao:ちょう)名:衡(heng:こう)。
※卿(きょう)は官位、帰国前に秘書監、衛尉卿の二つの役職を拝命している。
これは凄まじい事で現代の日本の政権に例えるなら秘書監(内閣官房長官)と
衛尉卿(防衛大臣)を兼務している事に成る。優秀さから如何に玄宗皇帝に重用されていたか解る逸話。
※日本の貴族武士と同じく名を名乗る際は織田上総介信長の様に姓と名の間に官位を置く。

日本晁卿辭帝都

征帆一片遶蓬壺

明月不歸沈碧海

白雲愁色滿蒼梧


※小生の意訳
日本晁卿辭帝都
日本人(親友)で衛尉卿の晁衡が辞職して帝都(洛陽)を離れた

征帆一片遶蓬壺
帆(船)は(親友の晁衡を乗せ、海に浮かぶ)
小さな蓬莱の壺を遶(めぐ=廻)って征(ゆ=行)く
※蓬莱島は不死の妙薬が有るとされた島で、日本や台湾を指す。この場合は日本を指すが、一般的に日本を指す言葉は扶桑(fu sang)を使う。釜山(fu shan)と扶桑(fu sang)の中国語の発音が似ているが、漢帝国に認められて以来~日本が百済を救援して唐朝と対立し白村江の戦が勃発するまで、古代倭人の王権の支配地は本州~四国~九州~朝鮮半島南部に及んでいたので釜山も倭人の国土だった。つまり日本を当てる言葉としては本来は蓬莱島より扶桑の方が適切。
※壺を日本に例えている。

明月不歸沈碧海
明るい月(の様に唐の腐敗の闇を正そうとした阿倍仲麻呂は)碧(あお)い海に沈んでしまい歸(かえ=帰)らない

白雲愁色滿蒼梧
解釈1:白雲は愁(うれ)いの色に染まり蒼(あお)い梧(あおぎり)で満ちている。
解釈2:白雲は愁いの色で満ちる、ベトナムに。
※蒼梧は色と地名二つの意味が有る。
一つは青々とした熱帯植物、若(も)しくはその色。
もう一つは唐代の行政区での蒼梧郡(広西省チワン族自治区~ベトナム)の行政府を示している。
※この詩の蒼梧を色や木として解釈しない場合は、李白が事前に阿倍仲麻呂が日本に帰国せずに当時は唐の領土だったベトナムに赴任する事を知っていた事に成る無事を伝える暗号化された詩に成る。
広西省チワン族自治区
まぁ、こんな風に李白さんは日本人とも仲が良くて友達の死を悲しんだか、対立者による暗殺を恐れて帰国を装って船に乗りベトナムに計画渡航した無事を玄宗皇帝に風流な漢詩で表現したのかも知れない。
まぁ、李白さんは歴史も熟知し詩歌にも通じた大文化人だった訳です。
そして
哭晁卿衡の漢詩はこんな背景がもしかしたら有るかも知れません・・・
当時、玄宗皇帝は傾国の美女として有名な楊貴妃によって政治的に堕落した生活をしていました。
この頃、李白さん始め玄宗皇帝と話す機会の有る人はアノ手コノ手で諫(いさ)めていましたが助言に耳を貸さずに腐敗して行きました。
その楊貴妃の楊一族は、唐朝で外国人部隊を率いる将軍の安禄山の安一族と対立して権力争いをしていましたから、当然ながら玄宗皇帝の側近である阿倍仲麻呂卿も暗殺される可能性が有り都を離れた上で玄宗皇帝の配下で居続ける必要が有ったのでしょう。
阿倍仲麻呂卿は天平勝宝四年(752年)に日本への帰国船に乗船します。
だから予め玄宗皇帝達と画策し都の洛陽から退避し日本帰国船で遭難(を装って?)、唐の支配地のベトナムへ漂着(計画渡航)。ベトナムなら安禄山一族の手は及びませんから。
「船が遭難した」と言う暗号で彼の計画の無事を確認した李白は悲しんだフリしながら安堵した気持ちを玄宗皇帝に伝えたのかも知れませんね。
阿倍仲麻呂卿は唐の朝廷で死んだ事にされていたのかも知れません。
李白によって哭晁卿衡の漢詩が詠まれたのは天平勝宝六年(754年)です、この時期に成っても阿倍仲麻呂卿は死んだ事に成ってる(笑)訳です。当時の中国は駅伝制が確立されており、馬で皇帝の下へ直ぐに情報が伝達される仕組みが有るにも関わらずです。
唐時代の版図 
そして天平勝宝七年(755年)まで洛陽へも長安へも戻りません。
のらりくらい、安全が確保されるのをまっていたのでしょうか?
この間に玄宗皇帝は蜀(四川省)に遷都(都を移す=逃げた)し、モンゴルやウィグルの騎馬民族に援軍要請をし、騎馬民族の軍事介入で安禄山の大軍を撃破しています。阿倍仲麻呂卿は760年まで浪人し無役でいます。
もしかしたら長安にとどまって幕末の桂小五郎さんみたいにスパイをし玄宗皇帝に情報を伝えていたのかも知れませんね。

そして実際に757年に成ると安禄山は自分の息子の安慶緒に暗殺され、更に安慶緒は父安禄山の部下の史思明と対立し759年には更に安氏と史氏の抗争に発展し安氏は滅亡、反乱勢力は一気に自壊して行く事に成りました。
そして天平宝字四年(760年)に阿倍仲麻呂公はタイミング良く復職すると“あの哭晁卿衡”の小生が意訳した解釈2の内容を漢詩を再現するかの様に・・
白雲愁色滿蒼梧
解釈2:白雲は愁いの色で満ちる、ベトナムに。
・・・唐の朝廷に復職しベトナムに赴任、鎮南都護、安南節度使に任命されて三位の官位まで得ています。
鎮南都護は南方方面軍長官
安南節度使は南方統括政府の長官兼財務長官
鎮南都護安南節度使として管轄したベトナムや広州は大切な交易ルートです。
そして、この頃にはメコン川流域は既に大穀倉地帯に成り兵糧補給地としての存在価値も有ったでしょう。
阿倍仲麻呂卿はベトナム赴任の後、最終的には潞州大都督(ろしゅうだいととく)に任命されています。
[画像:d72c085d.png]
唐代の潞州には三国志好きなら聞いた事の有る“壺関(こかん)”と言う洛陽防衛の最終ラインが有り、そこを任され更に大都督(大元帥とか参謀総長に当たる)に任命されている訳です。
これだけの出世をすると成ると、安禄山の乱の鎮定にかなりの功績を残していないと不可能な訳ですね。

さて、李白さんから阿倍仲麻呂さんの話に逸(そ)れてしまいましたが、そんな凄い人とも直接友達だった李白さんですが・・・
洛陽で知り合った阿倍仲麻呂さん達と別れ、一路江南地方に移住する為に南下します。
つまり、この時に漢水を船で下り荊門郡(荊門市)の辺りを通過している訳です。
霜落荊門江樹空
布帆無恙挂秋風
此行不為鱸魚鱠
自愛名山入剡中
だから小生は言う訳です、この詩でも荊門って言ってんだから荊門山じゃなくて荊門郡でしょ?
状況的にも一番自然な解釈でしょってね。

さて、彼の詩で現代中国人で「刺身食うと腹壊す」と言う奴は迷信を信じ客観的に情報を判断しない煽動され易いか自己判断能力の無いか情弱な人間と、最初に小生指摘した根拠と成るのが、この
秋下荊門です。
DSC_3602
秋下荊門の意訳でネタバレしてますが、李白達の時代の中国人も生魚を食べていました。
しかも高級な料理として。
此行不為鱸魚鱠
此(これ)は鱸魚(ろぎょ=スズキ)の鱠(刺身)の為に行く訳じゃない
ばりばり唐代の人等食ってるし(笑)!
つまり、寿司食って腹を下すと言う中国人は自国の本来の文化を全く知らないし、自国の川や海の水が魚が汚染される程に汚い事を理解していないし、水道水や地下水や泥臭いのが異常な事だと認識も出来ていないし、川魚は寄生虫がいるから生食は余り適さないけど海鮮は下処理気をつければ鮮度次第と言う事を知らない訳です。
李白移動箇所 久良岐のよし
さて、そんな訳ですが李白さんが言っていた
剡中(紹興市界隈)の唐代の名物は鱸魚(ろぎょ)=鱸(すずき)ですね。
つまり海の魚です。だから鱠(なます)で食べれるのでしょう。
釣りをやる人は知っているんですが冬季に成るとスズキは寒い外海から湾内や川の汽水域へ移動し越冬します。
唐の時代の海岸線は当然、現代よりも内陸だったろうし、揚子江は内陸まで水深が深いので紹興市界隈のだいぶ内陸辺りまで汽水域が有ったんでしょうか?
因みに日中戦争の時、日本軍は荊州市辺りまで余裕で海から軍艦で川を遡(さかのぼ)って来て、長江沿岸の都市に艦砲射撃を加えている事からも長江の水深の深さが伺えるんじゃないでしょうか。
まぁ・・・孫文先生の樹立した中華民国が袁世凱に乗っ取られたとは言え、その後の蒋介石さんは知日派だったんだから戦争するんじゃなくて英国と一緒に支援するべきだったと小生は個人的には考えています。
まぁ、尼港事件も有りましたから、当時の日本人の感情として袁世凱がいなくなっても中華民国を許せないと言う風潮が有ったのかも知れませんが。
日中戦争のエピソードも水深が深い事を例える素材には成りますね。

もう一つ、李白さんが船の中から見て
霜落荊門江樹空 布帆無恙挂秋風と詠んでいる事も思い出して下さい。
季節は霜が降りる晩秋で鱸魚(スズキ)が湾内や川の汽水域に移動して来る季節位に紹興市方面に向かっている
様子も解りますね。
いずれにせよ、当時の紹興市辺りの名物は鱸の刺身だったし、当時の人々も生魚の刺身を好んで食べていた訳です。そして漢詩の内容の洛陽から南陽郡を通過し襄陽から船で漢水を南下して荊門を通過し江南地方を訪れるタイミングの漢詩と解る訳です。
司馬遼太郎さんも“街道を行く”シリーズの江南地方への旅の中で、この詩を確か紹介していたと思います。こんな解析はしてないですけどね。
案外、日本人の方が普通の中国人より中国文化を大切に思っているかも知れない。

さて、小生は現代の中国人には迷信に振り回されている人間が多いだけでなく、“愛国心を謳いながら自国の文化も歴史も大切にしない奴が多い”と指摘しました・・・
小生が中国蘇州の網師園と言う、とても綺麗な中国古民家を訪れた際こんな事が有りました。
・・・中国には中共以前の中華民国時代から受け継がれている“文物保護単位”と言う文化財があるのですが網師園もその一つで、当然ながら火気厳禁で禁煙な訳で。
しかし静かに見学している小生達日本人の後から中国人の団体客(中国なんだから当たり前かww)が大挙して建物に入って来て、その内の一人が煙草を吸い、その吸殻を中庭の石畳にポイ捨てしました。
それを見た小生は憤慨しその中国人の前に立ってこう言いました・・・
「喂!你是中国人吧?」
(オイ!オマエ中国人だろう?)

「你因该知道这里是保护单位。」
(ここが文化財指定だって知ってんだろうが。)

「你这么做不觉得害羞吗?」
(オマエ、こんな事やって恥ずかしくないの?)

「到底你们在哪里有爱国心?」
(オメ~等愛国心なんて無いだろ?)

・・・結構低い声でユックリだが、まくしたてましたかね。
こう言うと、コチラを相手の低文化な人間も睨んできたが、生憎と小生はガタイが良いので相手は押し黙って動かなく成りました。これが中国人同士か一般的な日本人男性の身長と体格なら殴り合いに成っていただろうなと思います。

相手は外人に片言の中国語で話しかけられた経験も無いだろうし、しかもガタイの良い外国人に片言の怒気を孕んだ中国語で正論を言われて怖かったかも知れないし当惑したでしょうね、なんせ歴史文化礼儀軽視でポイ捨て当たり前の民度の人が多い国ですから(当時、約20年前)。
でもメンツを大切にする中国人だから謝る文化も無いし、人に言われて自分の捨てた吸殻を拾うなんてプライドが許さない訳だ。
小生はソイツにガン飛ばしながら吸殻を拾うとソイツのツアーガイド(中国人女性)に吸殻を渡し、注意し指導する様に言いました。

小生「你为什么让他在这里抽烟呢?你也应该批评他,对不对?」
(アンタなんでアイツにここで煙草吸わせてんの?アンタもアイツを糾弾するべきじゃ無ぇ~のか?)

すると、そのガイド(导游)から怯えた様子で開口一番、先進国では考えられない一言が帰って来た・・・
导游「我不会・・・」((;゚Д゚)できません・・・)

小生「啊?为什么?」(は?何で?)

导游「对不起・・・」(;Д;)

小生「チッ・・・(舌打ちからの無言でガイドの姉ちゃんを侮蔑する)」(-_- ×)ノ

・・・こんなやりとりをした事が有り、中国人の中国伝統文化や文化財や自然に対する保護意識の軽薄さは身に染みている。
このガイドの発言は客を注意する事が批判したと会社に騒がれたらクビに成るとでも思っての事だろう。自己保身だな。
そして中国は簡単に従業員を気分で解雇出来るし、上司が部下を選ぶ事も出来るから日本以上に愛人関連の問題も有る。法律は有るけれど末端と上層部が酷く法治国家として機能はしていない訳だ。
中間層は真面目なのにね。

無論、小生の友人達の様に昔から素養が高く協調性も有り柔和で文化を大切にする人も多い。
反面、自分だけ良ければ良く自国の文化に対して平気で破壊を行う奴も多い。
モラルに置いて全員がそこそこズルくてソコソコ理性を持て振舞う日本人と違って、中国人は良い人は凄く良いが悪い人は何事においても凄く悪い。人の民度の差が激しい。
そして中国の自称愛国者は何故か自国の歴史を知らず文化を愛さ無い人間が多い。
とにかく善悪の差が激しい。

こんな事も有った・・・
大型スーパーの客が「御釣りが1毛(日本人の感覚で1円みたいな)足りない」と騒ぎだし店員のネエチャン殴る。

更にコンナ事も・・・
食堂で客が「他の客より米が少ない」と騒ぎだし店員も店員で喧嘩腰に「んなわきゃ無ぇ」と言い返し、客が配膳台から米を分捕り、怒った店員がその客を突き飛ばし、逆上した客が空の御椀を持って店員を殴りつける。
店員はオデコがパックリ割れて流血。
周りの中国人は誰も止めず俺が暴れてる中国人を後ろからフルネルソンでクラッチして羽交い絞めにしてホールドし周囲で傍観してる薄情な連中にこう叫んだ・・・
「不要打了!」
(止めろ!)
「喂,你们快报警吧!」
(オイ、オメー等(他の客と店員)さっさと通報しろ!)
・・・と言うまで誰も動かない始末。

こんな事も有った。
中国では人力三輪車がタクシー替わりに使われている観光地も多いのだが、仲良く成った現地の女の子と二人で市場に夕食の食材を買い出しに行く途中で三輪車が窪地に嵌(はま)って出れなく成っていた。
それを小生が普通に後ろから持ち上げて穴から出した。
まぁ、日本人ならその三輪車を持ち上げられる力が有るか複数人いれば普通に小生と同じ事をするだろう。
ところが、一緒にいた女の子にコンナ事を言われた・・・
「何で助けたの?」
・・・これは小生は衝撃的だった。当たり前の事をしたのに怪訝そうに眉をひそめて聞かれたのだ。
当然、この女の子みたいなのばかりじゃなくて、小生と同じ事をする中国人もいる。でも、“そうじゃない奴もいる”国民性が有る土地なんだな。

あと中国に出張に行くと気を付けている事が有った。
中国のTAXIは日本より遥かに事故る頻度が高い。
もし事故に巻き込まれたら、さっさと料金を払い車降りないと口論に巻き込まれ警察が来れば更に面倒に成り立ち去れなく成る事が有る。
小生も一度、中国滞在中に乗っていたTAXIが事故に巻き込まれた。上海の環球金融中心と言う日本の森ビルが建設した高層ビルに行く用事が有ったのだが、そのTAXI発着場所の入口近くの交差点で一般車両と右折直進衝突された。
さっさと金払って降りた。

中国人も自国の文化を大切にする人、古典を読み本当に史料を読む程に歴史が好きだったり伝統芸能の評弾を聞きに行く様な若者は寧(むし)ろ日本人に対して偏見の無い人や客観的に物事を判断する人も多い。

逆に中国人なのに自国の文化に左程興味が無い奴程、自国の事も知らないし対外的に無差別に攻撃的だったりする。
そして迷信を信じる奴も、この部類に多い。

まぁ~あれだ。
日本人もそうだが、右翼って無文化な奴が多いし、左翼って文化破壊者が多いし、そのどちらも笑える事に民族主義者と民族逆差別主義者が多い。
万国共通だな。

歴史に興味の無い奴、文化に興味の無い奴、金と利益が絡まない事に対して無関心な奴、どこにもいるけど、中国の場合は特に差が極端。
文化的で良い奴と友達に成れば良いだけだし、日本や先進国での生活の長い中国人に対し素養を見分ける素材が“月子”“冷水”“刺身”の迷信を習慣として海外にいても是とするか非とするかで客観性が有るか順応性が有るか判断も出来るって体験談だな。

中国人はもっと本来の中国である明や唐や宋や漢の文化を大切に、そして政府や人からの情報では無くて自分で活版印刷されて読み易く成っている古文書を読んで、己の文化と現代中国の闇を知るべきだと思う。
これを日本人が好み中国人が忘れた中国の諺で温故知新、継往開来と言う。

中国人の皆さん、もっと自国の本当の文化を自然を大切にして下さい。
私達日本人は和服を来て正月に神社仏閣を参詣したり、書道で書初めをしたりします。
小生は書初めはしませんが、ちゃんと写経もして御寺に奉納しますし神社も氏神様と土地神様と厄除けの神様と知恵の神様と御参りもします。
さて、中国で日常生活の中で唐装いを着て歩く女性がいるでしょうか?
普段から御先祖様が大切にした御神廟や御寺を御参りする若者がどれだけいるでしょうか?
そう言う所から、本当の愛国心に通じる自国文化を大切にする心は育まれるのだと思います。
そう言う所です。
明孝陵に行って中国人の自称愛国者は朱元璋洪武帝に礼拝するでしょうか?
洪武帝はモンゴル元朝を倒して中華を取り戻した大功労者ですよ?
きっと反日=愛国心と思っている人間には洪武帝の明孝陵の存在も知らない阿呆も多い事でしょう。
そして何で“月子”を中国人は行わないといけなくて、何で“生水”を飲んではいけないか理由すら考えた事も無いでしょう。

もっと自国の歴史から古来の文化も学んで下さい。
そして出来れば人民解放軍が行っているプロパガンダと異なり、実際に日本軍と勇敢に戦ったのが中華民国軍とアメリカ義勇軍だった事実も知って下さい。
中国からどれだけ貴重な歴史偉人の陵墓が文化大革命のドサクサに紛れ盗掘破壊され消えたか調べて下さい。

でね、折角日本に来たら御刺身も御寿司も美味しいから試しに食べて見て下さい。
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海鮮を生食しても腐って無ければ腹壊しません。
小生は中国人の同僚が帰国する際も来訪する際も、台湾の友人が遊びに来た時も、三崎で鮪を食べさせてあげました。
誰も御腹壊してませんよ。
アノサキス等がいるイカは刺身にする時にちゃんと化粧包丁いれて寄生虫駆除したり湯引きします。
先ずは体験してみて下さい。
中国出張中に買ったペットボトルの水が偽物で腹下したり、屋台の料理で腹下したり、別に小生は中国の不衛生な店も怯まずチャレンジしてますよ~(笑)。

まぁ、自国の物は大丈夫だって思いたいですよね。でも日本にも原産地偽装食品も有りますし、御互い、気を付けないといけないのは変わらないけど、迷信かも知れない通説も信じる前に自分で理由を考えて調べてみたらどうでしょうか?

では、又!




留学初期にほぼ毎日食事通学旅行で皆でつるんでたいたのだが、その留学仲間の一人である大阪のITが都内に出張で来てるので先週末に観光案内して来た。
出張先が渋谷の近くだそうで田園都市線でアクセス便利だし新大阪から新幹線で一本と言う事で、宿を新横浜駅近くのホテルを予約したらしい。
一ヶ月前から小生が作成中の神奈川観光の刷子原稿を送り行きたい場所はリサーチ済み。
そのITの仕事はニッチな産業のデザイナーだが廃墟マニアと言う趣向が有ると今回、訪問に当たって事前に行きたい場所の趣向を聞いた際に発覚し、とても意外だった。
かれこれ人生の半分近くの年数関わり、歴代の彼氏がどんな人物かも知っているのだが廃墟が好きなんて趣向は全く知らなかった。

そんな訳で近代の廃墟廻りを今回の観光案内の目的地にした。待ち合せもホテルに朝9時に迎えに行くと申し合わせて有り万全だった。
後は天候次第で臨機応変に訪問地を雨天仕様に組み替えるだけ。
んな訳で時系列で当日の行動を紹介するとこうなる。

04:00前後
早朝、睡眠少しで起きてしまい、小机城の紹介記事のリニューアルの為に加筆していた。

08:00
自宅を出発。新横浜駅へ向かう途中のコンビニATMで現金引き出しノンカロリーのレッドブル飲んで無理矢理に脳内シャキッとさせる。
09:00
迎えに新横浜駅前に到着。
大阪の親友ITはちゃんと寝れた様でシャキッとしてた。因みに留学で知り合った親友だが、たまたま小生とは祖先が同族。でも外見は似ても似つかない。
しかし好きな物は割りと似ていて気は合うし漫画も好き、廃墟好きと歴史好きも似ている。
奴は家具や革製品を、小生は銀の指環や組紐のブレスレットを造るのが趣味と言う工作好きなのも似てる。
関西に土着した奴の祖先は弥生系と古墳時代の渡来系との混血が進んでおり小生の如き胴長短足の縄文遺伝子は最早体形にも頭蓋骨にも名残が無い(笑)。多分、はた目に見て美人の部類だろう。
同氏族だからでも外見でもなくリスペクト出来るし信頼もしている。
まぁ、気が合う訳だ。
小生の親友は皆、そんな奴が多い。
09:45
野島に到着。
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季節柄、野島の海には昭和まで江戸前と呼ばれた東京都大田区~神奈川県川崎市~横浜市~横須賀市~三浦半島の東京湾沿岸部で盛んだった“海苔ひび”を見る事が出来た。
海苔“ひび”の“ひび”は現在では国語辞書にも元の漢字が掲載されていないが、小生は竹で海を囲った様子から轞(ひび)が語源では無いかと思う。この轞と言う漢字は三国志好きなら知っている古代中国の囚人や罪人を護送する際に用いた轞(jian=和音読み:ケン/カン)の事だと推測している。
盧植
三国志演義で後の蜀の皇帝と成る劉備と同郷であり学問の師匠に当たる“盧植(ろしょく)”先生が朝廷を私物化した奸臣の董卓の事を大将軍の何進に諫言(かんげん=上司への忠告)をした事で後に逆に逮捕されてしまったのだが、その際に乗せられていた護送車のアレが“轞(jian)”だな。
轞は文字通り、檻(おり)+車の構造物だ。
罪人を護送しながら晒し者にする為に檻(おり)の下に車輪を付けた構造、解り易く言うと馬車の幌(ほろ)が監獄(かんごく)に成った物だ。
この轞(jian)を日本語では訓読みで“轞(ひび)き”と呼んだ様(よう)だが、日本語辞書の解釈では護送車を引く音の形容詞と説明している物も有るがハッキリ言って辞書の筆者が知らないだけで轞は護送車その物の事だ・・・
まぁ轞は日本語にするなら護送車しか今が無いのだが敢えて言うなら“見せしめ晒(さら)し囚人輸送車”とでも言う物だろうか。
・・・もしかしたら轞の漢字は“車”+“監”で轞だが、現代では失われた発音として海苔が東京湾の大森海岸で開始された当時には"監(カン)”の発音の訓読み自体が"監(ひび)”だったのかも知れない。
そう言えば格子(こうし)状に割れる事を“ヒビが入る”とも言う。
そうなると現代では漢字の伝わらない"海苔ひび”の"ひび”は檻(おり)に似ている事から檻(おり)と書いて檻(ひび)と読む訓読みがもう一つ有ったのかも知れないと思う。
まぁ、檻(おり/ひび)は監獄(かんごく)を指すし、監獄(かんごく)って書いて檻(おり)を指す時点で小生の推測は100%間違い無いだろう。
恐らく海苔ひびの漢字は“海苔ひび=海苔檻”か“海苔轞”だった筈だ。
因(ちな)みに、今現在、江東区と大田区で帰属を巡ってモメている埋立地の人工島一帯が昔は大田区の海域で江戸前海苔の生産で有名だった地域だ。
歴史好事家(オタク)として個人的な意見だが、江東区はどの面下げてアソコを江東区の区域と主張するのか理解出来ない、ハッキリ言って片腹痛い(笑)。
折衷案を出した裁判官は歴史的な素養が乏し過ぎる(笑)。
あの一帯は昔から大田区だったのだから、江東区は引き下がるべきだと同じ海苔の名産地だったのに自民党に漁業権を捨てさせられた横浜市民の漁民の心痛と大田区の漁民の立場を重ねて思う所が有る。

もっとも、この風景を見て一緒に来たITはソンナ事は微塵も考えていなかったかも知れない(笑)。
まぁ、今回大阪から出張に前乗りして神奈川に遊びに来た親友は女性ながら"廃墟マニア”と変わった趣味の持ち主なので、今回は先(ま)ず野島掩体壕(旧海軍零式艦上戦闘機の格納庫)に連れて来た訳だ。
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この掩体壕=格納庫は実際には零戦の格納庫としては使用されなかった。
隣の日産自動車追浜工場とテスト用走行コースの敷地が横須賀鎮守府海軍飛行場だったので、当時は滑走路から先に在る野島に格納庫を作り米軍のB21爆撃機から戦闘機を守る計画が進行していた訳だ。
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説明の看板でも解る通り、戦時中の物資不足でコンクリート擁壁は入口と出口の先に掘削された部分だけに止まり、中心部はまだ完全な幅に広げられてもいなかった。
幸い、この基地が利用される前に戦争は終結したので戦争史跡として現存している。
明治時代の軍人と違って太平洋戦争末期当時の無責任に成っていた海軍の上級将校達は内陸の現在の慶応大学日吉キャンパスの地下に基地を掘って隠れてしまっていた。
そうこうする内に末端の将校は頑張っていたが、無駄に本土に戦火を及ばせた戦争末期には物資が不足し、この野島掩体壕ばかりか日吉の海軍参謀本部でさへ物資不足で入口のみ煉瓦とモルタル造りで奥は素掘りのままと悲惨な状況だった訳だ。
こんな状況で勝てる訳が無い。
そもそも陸軍の暴走で英国との条約を無視して万里の長城を超えて中国侵攻をしてしまったので英国による日本の満州宗主国としての地位保証も破棄される事に成ってしまった上、素人の小生すら理解している“兵站”の確保を陸軍は楽観的に無視、結果、日中戦争は完全に無益な物で更に収拾不可能に成り海軍の足を引っ張り、真珠湾攻撃にしても有利な状況で和睦を成立させて満州利権を連合国に承認させると言う目的が有ったのだが、開戦前に「3年かかったら負けますよ」と言う主旨の発言をしていた山本五十六サンも既に戦死して連合国と不利な現実を直視し和睦を提言する人もいなかった。
その間にも今日左翼を煽る様に当時は“朝日新聞が軍部と民衆を煽り捲って戦争へと向かわせた”のだが、そんな痴れ者の朝日新聞がプロパガンダで支持した当時の陸軍政府(一夕会)は当時の外務省の外交敗北と責任をすり替えようとしたが、ハッキリ言って越権行為の外交交渉を陸軍が勝手にやった挙句に条約を無視して全てを水泡に帰したのが日本斜陽の始まりだったと言う歴史も知っておかないといけないと思う。
だからと言って“鼻から日本文化破壊と日本の共産主義国化を目指して中国共産党やソビエト(ロシア)を誘引しようとする日本共産党や極左テロリストの支援を受けている政党政治家の主張はそもそも“外患を招く内憂”であり獅子身中の虫でしかない。
実はそう言った近代の歴史を知れるのが、この野島掩体壕と伊藤博文邸だったりする。
野島掩体壕から南側に回り、時計回りに反対の西側の出口に行く途中に野島稲荷神社が在る。
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ここは旧紀州徳川家金沢野島屋敷の鎮守の神社だな。親友のITは横浜市に紀州徳川家と所縁の場所が在(あ)るとは知らず意外だった様だ。
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この野島稲荷は鎌倉文化の影響を色濃く残しており、境内社は壁面に掘った横穴の中に御社が其々(ぞれぞれ)祀られている。
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この横穴は“矢倉(やぐら)”と呼び、平安時代からの関東武士団の墳墓や宗教施設に見られる様式で壁面に人工的に掘られた横穴の事を指す。
鎌倉武士には矢倉に祠(ほこら)や石仏や供養塔を祀る事が多かった。関西や中部地方からは想像がつかないかも知れないが、鎌倉武士の葬送は火葬も多く五輪の塔の真ん中に骨壺を納骨する四角いスペースが存在しており、地下に埋める形式と五輪の塔の中に収納するケースが両方存在した。
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武士の墓の構造は横須賀市衣笠に在る薬王寺廃寺の三浦義澄公の御廟の墓石を見ると解り易い。
納骨スペースが大きな四角の箱状の造りに成っている。残念ながら不届き物が骨壺を盗掘する際に箱状の構造物を破壊されているが、そのせいで納骨スペースの存在が目視で理解出来る状態に成っている。
恐らく、身分の高い武士の御廟所が一人に一つの菩提寺(ぼだいじ=供養する為の御寺)が築かれる様に成って来た鎌倉時代初期に成ると寺院に御廟所を設(もう)ける際は矢倉の掘れない地形の場合、五輪塔に納骨し其処を築地塀(つきじべい=数層に土と瓦を重ねて作る土塀)や石柱で取り囲んだのだろう。
まぁ野島稲荷神社の場合は・・・
礼拝所である神社なので矢倉には神様が祀られている訳だ。

野島稲荷神社から野島掩体壕の西側入口へ回る途中、野島掩体壕を含めた“野島砲台=野島要塞”の名残の塹壕が数ヵ所剥き出しで現存している。
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戦後に防空壕の入口はコンクリートで塞ぐ命令が施行されたので、中に入る事は現在では出来ない。
それでも戦時中に野島が要塞化されていた事を見る事が出来る訳だ。
そこから掩体壕西側の入口を見て、伊藤博文金沢別邸に移動した。
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余り日本国民のみならず、横浜市民でさえ知る人は少ないが金沢区の瀬戸神社の辺りと野島と夏島は昔は別荘地で、そこの宿を転々と変え宿泊しながら伊藤博文公等が明治憲法の草庵を起草した場所の一つが野島だったりする。
昔は金沢八景と呼ばれ源頼朝公以来、有力者と文化人に昭和初期のアホの横浜市の建設利権に因(よ)って海が埋め立てられるまで、その別荘地として景勝地としての文化は続いた。
伊藤博文公も野島の風景を紀州藩主徳川頼宣(よりのぶ)公と同じく愛されたので、終いにはここに金沢別邸つまり別宅を構えてしまった訳だ。
そして・・・
ここは日本と韓国が友好国で無二の友邦に成れたかも知れない韓国皇室のキーマンが愛した場所でも有ったのだが、それも知る人は少ないだろう。
・・・まぁ、“金沢八景”と“伊藤博文公金沢別邸”については以前に解説記事を書いているので御興味の有る方は以下の記事タイトルをクリックして過去記事を御覧頂くと良いと思う。





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さて、野島の伊藤博文公の別宅は実は明治天皇も利用した建築文化財であり“御所”だったと言う事実は伊藤博文金沢別邸の存在その物より更に知らない人が多い。
実は、この建物は明治天皇の旧赤坂仮御所の“御会食所”を解体移築した物である。
説明すると、明治天皇は赤坂の仮御所に御住いだったのだが、明治時代に欧米列強に倣(なら)って西洋式の御所と公館と接待所を新設するまでの御住いであり、接待所だった。
伊藤博文公御自身は神道形式の御廟所に埋葬されていらっしゃるが、実は仏教文化も大好きで金沢別邸からそう遠くない氷取沢の宝勝寺にも良く参拝してらっしゃって武士時代の遺物を奉納してらっしゃったりする。古来の神仏習合の文化が御好きだったようだ。だから明治時代の近代建築よりも和風の木造住宅が本当は好きだったみたいだ。
まぁ、こんな他府県民にとって意外な歴史が凝縮した場所が野島なのだ。
一頻り散歩して腹も減った(ITには朝食食べずに空腹にして置く様に要請してあった)ので昼食には少し早い11時少し前、ブランチに小柴の柴漁港へ移動し古来の横浜名物の穴子と地魚の天丼を食べに移動した。
11:00
鉄腕DASHで良く登場する芝漁港に到着。
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ここはTVでロケも来るが小生が好きで良く見るYouTubeのキャンプ動画投稿者“ソータロー”が漁協の許可を得た上で一般人が釣りが不可能な漁港内で夜釣りをした事でやっかみの対象と成り“密猟者”扱いされ“炎上した場所(笑)”だったりもする。

※一般釣りマニアのやっかみで炎上した動画は削除されてた(笑)。
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小柴のどんぶり屋で当日水揚げされた横浜名物の穴子を食べる事が出来る。
いつもは開店前に人が並びあっと言う間に品薄に成るのだが、ITの日頃の行いが良いのか運良く客は小生達を含めて未(ま)だ3組しか来店してなかった。
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穴子の三色天丼と地魚天丼を注文。
そして、この日はカワハギの煮付け定食が有ったので、カワハギの煮付けだけ食べたかったので米無しで注文をした。
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結果的に“かき揚げ”がもう一つ付いて来てしまい二人で朝から天麩羅三昧、胃袋もキャパオーバーに成った。腹も満たされ、次の廃墟、猿島へと向け移動。
11:20
横須賀海岸通りの駐車場に到着。
SAIKAYAパーキングと言う美少女アニメオタクが好きそうな(笑)アイコンが目印の駐車場はフェリーの乗船券が駐車料金割引券代わりに成るのを、去年の猿島散策で知っていたので今回も利用・・・
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何と300円も安く成るんだな。
・・・ITに小生の趣向と誤解されない様に(笑)ちゃんと割引券の説明した。小生はロリコンでは無いし、適齢期以上の女性にしか女性としての認識も持てない上に、どちらかと言うと同世代の女性が恋愛対象なのだが、そんな事を一々説明すると親友でもIT「何なんコイツ必死に弁解してホンマはロリコンとちゃうん⁉」と思われそうなので、2次元のSAIKAYAキャラ説明で深追いしないで置いた(笑)。
徒歩で三笠公園に移動。
ここから5分程度の距離と近く非常に便が良い。
11:30
三笠桟橋に到着。
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三笠桟橋は文字通り“世界三大記念艦の三笠”の横に有る桟橋で、桟橋の前で乗船券を購入出来る。
乗船券は純粋な船賃1200円(往復)+入島税300円と安い。
丁度タイミング良くチケット売り場に到着した頃に乗船時間と成り、ギリギリ待つ事無く猿島行きの遊覧船に乗船出来た。
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三笠桟橋~猿島は10分の航路と非常に近い。
この日は三連休最終日と言う事も有って大変な賑わいだった。
もう5分遅れたら定員オーバーで次便まで乗船出来なかっただろう。まぁ、そんな場合も想定して、その場合は三笠公園の売店で横須賀土産の物色と戦艦三笠に乗艦して時間を潰す計画だった。
バッチリ、小生の旅行は毎回ヌカリは無い(自画自賛)。
11:45
猿島桟橋に到着。
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今回初めて知ったのだが、何と猿島の休憩所兼売店の3F事務所でガイドツアー(200円)に入れる。
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小生は一度来ているし大体の解説を出来る知識を有している心算(つもり)だったので・・・
「ツアーに入る必要も無いかな。」
・・・と内心思いながら、ここはゲストであるITの意思を尊重すべきと思い確認。
小生「ツアーに入って専門的にガイド聞いて見たいか?それとも自分達で自由に回る?」
IT「ツアーに入ってみよう」
・・・このITの判断は正しかった。
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島内の明治時代の要塞跡を見学ツアーに入ると、一般では見学できない場所も入る事が出来たり小さな疑問も質問するとガイドさんが詳細な解説で回答を下さった。
例えば直接歴史とは関係無いが・・・

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・・・ツワブキの花。小生はこれが食べられる野草のツワブキと知らなかった。綺麗だなと思い写真を撮っていたら団体の先頭を歩くガイドさんが「黄色い花はツワブキです」と解説をして下さった。
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この構造物は通風孔かと思っていたら、中の穴は兵舎として利用されていたそうで明り取りの穴だったそうだ。
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この壁面の穴も質問する前に解説が有った。これは送電線を固定する金具を埋め込むモルタルのブロックが嵌(は)められて有った跡そうだ。
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この写真の様な金具が嵌っていたそうだ。
自然の砂岩の場所には煉瓦の様に直接金具を埋め込めないので方形のブロックに金具を取り付けてから砂岩に嵌め込んだ訳だ。
ここに島の浜辺近くの発電所から電気の送電線が伸びて、各砲台や兵舎へと電力が供給されていた訳だ。
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これはガイドさんがツアー客に質問する前に小生は正体を当てていた施設だ。
実はトイレの跡。
写真撮影するの忘れたが、実は下部に配水構造が有り便器が嵌っていた様な跡が有る左側のモルタルと、右側は壁状のモルタルの下が配水構造に成っていたので直ぐに解った。
三笠の小便のトイレに右側のモルタルの設計が似た構造だったのだ。
先に進むと今度はレンガの積み方に関して講義が始まった。
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この様に長辺と短辺を交互に並べ重ねて行くのを“フランス積み”と言うのだが、小生はこれを知らなかった。
これに対して横一列毎に長辺だけを並べ更に上に短辺だけを並べる積み方を“イギリス積み”と言う。
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このイギリス積みに関しては小生はたまたま本で見て知っていた。この写真の場所は変わっていてフランス積みとイギリス積みを両方一箇所で見られる日本でも珍しい近代史跡だそうだ。
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煉瓦の積み方の講義の次に、一般観光客は見学不可な弾薬庫内部の案内が始まり正直予想外の幸運。
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内部は漆喰で固められており、当時は白く綺麗な洋館の内部の様だ感じだっただろう事を推測出来る。
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天井には穴がポコポコ開いており、小生はコレをITに「空気孔かな?」と見当違いな予想を問いかけたらガイドさんによると“伝声管”の配管がココに通されていたそうだ。
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この弾薬庫は外部からは判り難いが2階建て構造に成っているらしい。
その2Fには砲台への弾薬補給の指示を出す人が居り、その伝令を配管を通じて糸電話の要領で行っていた訳だ。
だから当然ながら弾薬を2Fに送る人力のエレベーターも存在しており、今もその穴を見る事が出来る。
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こんな素晴らしい史跡なのだが、残念な馬鹿はいつの時代もいる様で、今の団塊~バブル世代が戦後に無断上陸して猿島要塞史跡に落書きをして回ったそうだ。
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おい石井智樹見てるか?
オマエのアンチモラルで低文化な落書きは、施錠の向こうで末代まで消される事無く晒し者にされ続けるぞ(笑)。反日文化テロリストと同類の己の傍若無人な振舞い、子々孫々まで恥として晒されれば良い。
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2Fと砲台の有る上部へは写真の様に階段を登って移動していたそうで、弾薬庫や兵舎の中から登れた訳では無いそうだ。
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今でも立派な煉瓦組みのトンネルも残っている。
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このトンネルの横にも多数の外へと通じる階段が設置されており、更に階段の途中にも先程の弾薬庫の様に横に伸びる穴状の構造物が有るそうだ。
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トンネルはともて趣が有り、ヨーロッパの城内を散策している様な感覚だな。
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最期に猿島の北端の砲台跡の開けた場所を抜け海辺に出て解散と成ったのだが、ここでも猿島要塞と同じ役割をした東京湾に浮かぶ明治時代の人工島要塞の東京湾第1海堡と第2海堡の解説が有った。
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実は東京湾には陸軍大将だった山縣有朋公によって建設された人工島の要塞が3つ在った。その内、第1海堡と第2海堡が現存していて第3海堡は前東京都知事の石原慎太郎に因って撤去された際にライオンズクラブによって解体され追浜の日産自動車の工場近くに移築され展示されていたりする。
そこ等辺の事も過去の記事で解説しているので、興味の有る人は以下の記事タイトルをクリックして解説を読んで見てくれると良いと思う。

望遠鏡やカメラのファインダー越しでないと目視し難いのだが、猿島からも第1海堡と第2海堡がガイドさんの言う通りに見る事が出来た。
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灯台が有る方が東京湾第一海堡。
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奥に見えるのが富津岬の直ぐ傍に在る第一海堡。
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繰り返しに成るが第三海堡は日産追浜工場近くの夏島地区の岸壁に移築されている。
ガイドさんの薦めもあり、島の海辺に在る通称“日蓮洞”と呼ばれる日蓮宗信者にとって聖地である縄文時代からの貝塚が発見されている洞窟も見学した。
島の北端の西側に当たる。
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この洞窟は江ノ島に繋がっていると昔から伝承しているが、ガイドさん曰(いわ)く・・・
「江ノ島の方では江ノ島の洞穴は富士山に繋がってると解説しています(笑)。」
・・・との事(笑)。江ノ島のガイドと真偽確かめ様と画策中らしい。
そこから日蓮洞と反対側の島の北東に移動。
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途中、又、要塞の中も通る。しかしココを抜けると入口に戻ってしまうのでトンネルは抜けないで山側に行った。
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・・・このショボい見張り台と言うか展望台、実は“仮面ライダーのロケ地”“ショッカーの秘密基地の入口”の設定の場所らしい(笑)。
ガイドさんによると、なのでコスプレイヤーの聖地に成っていて猿島全体含めてコスプレした女の子達が良く自分の写真集を作る際に撮影の為に来るらしい。実際、この日もコスプレした女性達が数人来ておりカメラマンが撮影していた。
まぁ、人畜無害な趣味なので、御寺や神社で撮影して場の雰囲気を乱すよりは猿島で撮影してくれた方が良いかと思う。
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こちら側から山の尾根伝いに島の桟橋方面に戻ると、砲台上部構造も見学出来る。
この穴を使い1F弾薬庫から弾薬を補給し、方形の小さい穴に弾薬を仮置きしたのだろう。
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関西には中々こう言った場所が残っていないらしく、和歌山県の方まで行かないと戦争史跡の廃墟は無いそうだ。
一頻(しき)り見学を終えて時間に合わせて桟橋に戻る。
14:45
ギリギリ乗船定員20人前位で乗船する事が出来た、ラッキー♪
14:55
三笠桟橋に到着。
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三笠公園に着いたら先ず、戦艦三笠の写真撮影タイム。そして三笠公園売店で御土産を物色。
余り興味を引く物は無かったようで、ITの要望で三笠公園前の古着屋に移動。
ここも気に入る衣服は見つからなかったそうで、駐車場に戻った。
15:30
駐車場から三浦半島三崎町へ出発。
16:10
城ヶ島第2駐車場に到着。
実は最初は城ヶ島公園の第1駐車場に行ったのだが、第1駐車場は17時で閉門施錠される為に管理人のオジちゃんのアドバイスで17時以降も出庫可能な第2駐車場に移動したと言う次第だ。
第2駐車場から城ヶ島公園はそれ程遠くない。
16:15
第2駐車場から徒歩で神奈川県立城ヶ島公園に到着。
すると綺麗な黒猫様が御出迎えして下さり、寛大な事におおいに“モフらせて”頂けた。


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凄く綺麗な毛並みと顔立ちの猫様。
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可愛かったな~。
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顔を洗っていたので「明日は雨だな」と言ったら、どうやら関東ローカルの迷信らしい。
それもとITが知らないだけなのだろうか。
取り合えず、翌日の天気は雨ではなかった(笑)。
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城ヶ島の海岸の夕景と富士山を見物予定が海がガスって秋季には珍しく富士山見えず。しかし夕陽と海と岸壁の風景は相変わらず綺麗だ。
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城ヶ島は展望台の近くに海岸に降りる階段が在る。
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そこを降りるとこんな風景が見れる。
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本当は今の季節、もっと水蒸気が少なく富士山も見えるのだが、生憎(あいにく)と低い所に雲が掛かっており富士山も今回は見られず日没も途中までしか見られなかった。
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釣り船は見えた。これはこれで風情が有る。
3月に台湾の友人夫妻を連れて来た時は雹(ヒョウ)が降った不運に比べれば綺麗な風景も見れて良かったのだろう。ITも満足してくれた様だ。
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日没後の夕闇迫る時間帯だが、小生達の他にも散策する観光客が数組居た。
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展望台に戻る階段は季節柄、薄木(ススキ)が茂って秋らしく綺麗な風景を見せてくれた。
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そして黒猫様と他の茶虎猫様達が再び見送って下さった(笑)。
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でもコイツ等、愛想悪かった(笑)。黒猫の神対応に感謝♪
写真を撮影するのを忘れたが実は城ヶ島も猿島や野島と同じく戦争史跡の廃墟が有り、明治~大正時代の砲台跡が花壇として保存されている他、岸壁には猿島要塞の弾薬庫と同じ構造物が残っているが弾薬庫の方は一般見学は不可能だ。
腹も空いたので夕食に三崎漁港に鮪を食べに移動する事にした。
17:10
駐車場に戻り城ヶ島を出発。
17:25
三崎漁港に到着。
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三崎漁港の鮪を夕食にしたのは、ITに折角なので神奈川名物を食べさせてあげたいと思い事前に・・・「葉山牛と、三崎漁港の鮪料理と、鎌倉野菜と海鮮のイタリアンとどれが良い?」
・・・とリサーチして「肉より魚、鮪食べたい」と回答が有ったからだった。
しばし三崎漁港の商店街を散策し鮪漁で栄えた頃の倉屋敷の外観を見物して廻り店の選定に入る。
17:45

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有名な鮪料理専門居酒屋の“黒羽亭”か・・・
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・・・鮪稀少部位を食べれる行き付けの寿司屋“紀の代”から好きな方をITに選ばせ“紀の代”に入店。
3月に台湾の友人もこの店に連れて来てあげたかったのだが生憎と当日は店が開いてなかった。ITはラッキーだったな。
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まぐろ寿司(インド鮪赤身漬け、中トロ、大トロ、備長鮪のトロの握り)、鮪サラダ、ワタ(鮪の胃袋湯引き)、皮ポン(鮪の皮のポン酢和え)、鮪のカマの焼き、鮪のツミレのお吸い物を食べる。
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鮪丼(大トロ、鮪ユッケ、漬け鮪、ネギトロ)、ネギトロ巻きを追加(笑)。
※因みに、この日、小生は先月ダイエット8㎏成功したのが1日で2㎏リバウンドした(笑)。
ITも美味しい美味しいと満足してくれた様で何より。
臺灣の友人が来た時も中国人の同僚が帰国する際もここに連れて来たが、一緒に来た人が自分の美味しいと思う店に連れて行って喜んでくれると嬉しいもんだな。
そして気兼ねなく安心して御腹いっぱに食べてくれる様子を見るのも嬉しい。
自分が大切に思う人達が幸せそうにしている様子を見るのは嬉しいもんだ。自分の御腹も幸せに成るしねぇ~(笑)♪
18:50
三崎町を出発。
19:20
横須賀PA(上り)に到着。
横須賀土産を物色。
海苔と葉山牛の佃煮と海苔と鎌倉の蛸の佃煮を購入し神奈川土産に渡す。
写真は撮り忘れた。
19:50
小生の地元、横浜最高峰の栄区の円海山(海抜たった300m)に到着。
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横浜の中心部の夜景を見物。去年の出張でITを案内した中華街~大桟橋界隈を指さし、みなと未来地区とベイブリッジの位置を解説。
一頻り夜景を見て新横浜のホテルへ送り届ける為に出発。
運転中に春に出張来るらしいので遊ぶ計画を相談。此方(コチラ)も間宮直元公の顕彰活動と城マニアの趣味で但馬地方に行く予定が有るので一応、ザックリと訪問予定地を伝え予定の擦り合わせを相談をしておいた。
20:20
新横浜駅近くのホテルに到着。
うむ、留学最初の半年の仲間達とは毎日皆で食事をし皆であちらこちら旅行して廻ったので、IT等初期の仲間と遊ぶと何だか留学中を思いだし面白い。
そして、未だに色んな事を相談する関係であり、ベタベタせず数ヵ月に一度のやり取りでも信頼関係が絶えない位信頼出来る奴。
それでなくても古馴染が訪ねて来てくれるのは嬉しいね。

子曰学而時習之不亦説乎
有朋自遠方来不亦楽乎
人不知而不慍不亦君子乎。

儒教は年長者の失態の責任追求を許さない組織の自浄能力を昨日不全させるばかりか実力主義も認めない年功序列の腐敗の温床で大嫌いだけど、論語のこの一文は気持ち解るかな~。
ITの御陰で有意義な時間を過ごす事が出来た1日だった。
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因みにITの土産は何故か鹿児島の醤油と煎餅だったが、この醤油がイカ刺しに付けて食べたら凄く美味かったので個人的に大瓶で取り寄せようと思う。
ありがとうIT!次は関西か又、神奈川か。又な!

昨晩ジム行った後で爆睡してしまい、今から京都から出張に来た友人を迎えに行くので余り書き込めませんでしたが出来る所まで小机城の記事を追記リニューアルしました。

 ↑
クリックして御覧下さい。
又、今晩帰宅したら続き書き上げますが、一応、読める状態にまで編集してあるので公開します。




※今回のはちゃんとした記事じゃなくて懐かしくて色んな人の事思い出した独り言です。
※歴史解説の観光案内の記事は今晩ちゃんと別途書きますよ~。

懐かしいアニメの動画で京都での生活の事とか、歴史偉人の御子孫との邂逅とかを思い出した。

るろうに剣心の池田屋騒動の再現。
三条大橋近くの池田屋も今じゃ居酒屋だな。
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今でも三条界隈には池田谷騒動の名残が有って池田屋側から三条京阪駅に向かって三条大橋を歩くと、橋の右側の欄干に池田谷騒動の時に付いた刀傷が残ってたりするんだな。
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詳細は知らないけど、昔聞いた話だと逃げた討幕派をここで新選組隊士が切り付けて欄干に刀が当たったとか。真偽は不明だけど確かに刀傷。
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三条大橋を真っすぐ、三条京阪駅の反対側に行くと三条名店商店街の入口が在って、三条大橋側から入ると入口の割と近く左手に沖田総司サンの佩刀だった刀の菊一文字の店が今でも刃物屋さんとして営業していたりするんだよ。
坂本龍馬
三条商店街の近く、河原町通りには坂本龍馬先生最期の地と成った近江屋の跡地も商店街の人が守っている。
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実は坂本サン本人では無いが、その大切な人が小生の住まう神奈川県横浜市と横須賀市に深い御縁が有る。
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お龍サンその人だ。
横浜市神奈川区台町の旧東海道の神奈川の宿場だった場所に今も営業している田中家(たなかや)と言う江戸時代の“さくらや”の後継の料亭が在る・・・
お龍さんは龍馬さんが亡くなってから龍馬サンの家族に龍馬サンの名跡を乗っ取られ居場所が無くなり、紆余曲折会って田中家に住み込みで一時働いていた。
・・・明治新政府は坂本龍馬サンの功績を当初は隠していたし、お龍さんを支援した西郷さんも西南戦争起こして亡くなっちゃって身寄りが無くなった。だから、住込みで働かないといけなかった。
・・・田中家の前には神奈川台場と言う龍馬サンの師匠の勝海舟サンの設計した要塞が在り、初代横浜駅からも遠くなく海軍の軍人さんが良く田中家を利用したそうだ。
海軍軍人の良く来る田中家で働いていたのは、もしかしたら勝海舟サンの紹介が有ったかも知れない。それに坂本さんが有る意味、近代日本海軍の父の様な存在で明治の海軍軍人等はお龍サンにとっては息子達みたいなもんだったからなのだろうか?
田中家にいれば勝サンや龍馬サンの育てた後輩達を見て過ごせたので心の支えに成ったのかも知れない。
今では真意は解らない。
お龍サンは最期まで悲惨で、明治天皇の皇后の昭憲皇太后様が霊夢を見て「お龍さんを探し出し支援して!」と言い出すまで放って置かれた。
お龍サンの最後はとっても孤独で、昭憲皇太后様から始まった義援金の支援が集まった時には既に危篤で支援金も受け取れず悲しく死んでいった。
横須賀市大津で亡くなった。
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救いは葬儀の日に誰彼示し会わせた訳でも告知された訳でも無いのに、お龍サンと龍馬サン“二人の子”である海軍軍人達が多く参列し、お龍サンを見送ったそうだ。
菩提寺は横須賀市大津の信楽寺だ。
だから坂本龍馬サンと御龍サンの御縁で横浜~神奈川~京都は結ばれている。
有る意味横浜や横須賀市と舞鶴市で勤務している海自の諸君は幕末からの神戸海軍操練所の遺伝子を受け継ぐ坂本サンと御龍サンにとって孫や曾孫であり兄弟みたいな存在なんだな。
小生の住んでいた出町柳~百万遍辺りの地域は大学も駅も近く商店街も有り学生の町として便利で生活しやすい上に自然も豊かで尚且つ風流な場所だ。
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まぁ、留学時代から同棲し京都は出町柳~百万遍界隈で生活していたけど結局は結婚しなかった彼女との個人的に悲しい思い出と極左共産主義者に対する忌々(いまいま)しい思い出(笑)も残る土地でもあったりする。
でも出町柳~百万遍界隈が好きなんだな。
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う~ん、仲良し夫婦の写真を見ていると思い出す。
夏の夜、浴衣や作務衣を着て下駄を履き、近所のコンビニでリキュールとツマミを買い、下鴨神社前の高野川と鴨川の三角州に行き、川に架かる飛石に腰かけて下駄を脱ぎ川の水に足を浸して、彼女と一緒だったり1人だったりで晩酌していた。
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余談だけど、下鴨神社には“御手洗(みたらし)祭”と言う神事が有るのだけど、この下鴨神社近くに加茂みたらし茶屋と言う御店が在り、そこが御手洗団子の発祥地なんだな。
小生は我家の祖先神や崇拝する神様達や仏様達と同様に崇敬する、天満大自在天神菅原道真公、そして建勲神織田信長公を神様として特に個人的に崇拝している。
その信長公と御子息の信忠公と忠義の臣下達の御本廟の蓮臺山阿弥陀寺も出町柳駅から徒歩10分程度の距離に所在していたりする。
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それに、その直ぐ近所には出雲阿国が幼い時に巫女として奉公していた出雲路幸神社や、山中鹿之助幸盛公の菩提寺の本満寺も存在していて、歴史好きが散歩すると尊敬する人々の名前が沢山登場する一角なんだな。
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出町柳と知恩寺界隈自体は今でも大好きで、京都に行く度に出町柳駅~知恩寺まで今出川通りを通らずに、裏道の鯖街道から延びる旧道の商店街を歩いて知恩寺まで行く。
その商店街に“大力餅屋”が有って、そこで1本太巻きを購入して知恩寺に持って行き、境内の御庭に腰かけて御昼ご飯に食べたりしたもんだ。
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そんな事を思い出させてくれた“るろうに剣心”の池田屋騒動の動画に登場した近藤サンや沖田サン達と御縁の深い現代人と一昨年前に御会いして色んな御話しを教えて頂く機会が有った。
2015年の初春に親友O型君に付き合って貰い、間宮綱信公の顕彰活動でまだ残雪の八王子城に訪問した。
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八王子城は間宮綱信公が縄張りしたと八王子では伝わっている。
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そんな訳で、ソンナ歴史が好きでも無い(笑)O型君に無理矢理付き合って貰い、八王子城から程近い日野市の新選組関連の史跡や博物館も数年ぶりに廻りまくった。
元々、小生の昔の御客さんが立川市界隈の大工場だったので営業で何回も訪問していた頃に行って以来だった。
この時、歴史好事家に成ってから1、2の幸運な事が有って天然理心流の継承者であり、現代の師範の宮川先生(近藤勇サンの実兄の御子孫)と井上源三郎サンの名跡を御継ぎに成られた御親族の子孫の井上先生に事前にアポを取付け面会の機会を頂いた。
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宮川先生が人を斬り殺す心構えと鍛練の事を説いた近藤さんの言葉を熱く(笑)教えて下さって、凄く楽しかった(猟奇的な意味では無くww)。
何だか近藤さんや井上源三郎さんと話している様だった。
ウチが○○家で○○一族だって話したら血統的な格闘技センス買われて「ウチの道場に練習に来なさい」ってリクルートして頂いたのに結局通わなかった。
今年身体を絞ったら御世話になろうかな。
2年越し?3年越し?
正月に多摩地区の式外社と式内社の宮司様にも用事有るし、御挨拶に行こうかな来年。
天然理心流。日野なら高速で一時間ちょい、まぁ下道でも二時間半だから車で通えるし。
八王子は滝山城、八王子城と間宮綱信公と寄親の北条氏照公の所縁の御城が2箇所も有るし。
きっと、小生にとって運気は良い方に向くだろう。

そう言えば小生が崇拝する神様の中でも神奈川県に縁が深いのが日本武尊と弟橘姫の夫婦神なのだが、この川崎市~横浜市~三浦半島横須賀市にかけて来訪と仮御所での滞在の神話が残る日本武尊は、所領が山背(やましろ)国=京都だったそうだ。
天満大自在天神菅原道真公の五男、菅原淳茂公(小生は三男の景行公の可能性も考えている)が横浜市に住んで居られた事も有るし、鎌倉の荏柄天神社は日本三古天神社と呼ばれる場所でも有るし、菅原家との御縁でも神奈川県と京都は結ばれているのかも知れない。
そう言った意味では神様の御縁でも尊敬する人々との御縁でも京都と神奈川は結ばれているんだなぁ~。
結ばれなかったのは留学時代~京都時代の彼女との御縁だけ(笑)!

・・・と、言う、るろうに剣心を見て思い出した事を何となく書いて見ました。

さぁ~ジム行って腹筋と腕と胸と背中の筋肉バキバキに鍛えて来るぞ~。

皆さんは杉田駅と新杉田駅の真ん中辺りに大きな御寺が在るのを知っていますか?

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その御寺の名前は東漸寺(とうぜんじ)と言います。
実は江戸時代まで“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を有した横浜市内では貴重な、とても寺格の高い御寺でした。“禅宗臨済派”と言うのは現在の臨済宗の事ですが、昔は禅宗は臨済宗も曹洞宗も分離しておらず派閥が違うだけと言う認識で幕府からも扱われていたんですよ~。
同じ様に浄土宗も日蓮宗も時宗も“法華宗”の派閥として認識されていました。昔は派閥同士も喧嘩するのではなく別の修行をしていても協力し合って共存していたんですね。
さて、東漸寺の正式名称は…
靈桐山(れいどうさん)東漸寺と言います。鎌倉幕府を開いた源頼朝公の甥っ子の名越北条朝時公の曾孫(ひまご)に当たる北条宗長公が開いた途轍(とてつ)も無く由緒正しい御寺なんですが
…え?こんな写真の立派な門の有る大寺院なんかアソコ等辺りに在(あ)るの?ってのが普通の横浜市民の一般的な反応だと思います。
何で、こんな立派な門なのに目立たないかは、後の解説を読んでいただければ理解出来ると思いますが、先にヒントを言うと明治政府の宗教政策の失敗のせいと、GHQのせいです。

東漸寺の解説をする前に少し鎌倉市浄明寺地区の話をすると、この御寺の凄さが良く解ると思いますので先に名越北条家と鎌倉の話を簡単に解説します。
先程も書きましたが名越北条家は源頼朝公の甥っ子の家系です。なので当然、鎌倉幕府初代執権の北条時政の血を継いでいます。
その北条時政が住んでいたのが鎌倉市浄明寺地区の衣張山一帯に在った“名越邸”と呼ばれる邸宅でした。邸宅とは言っても立地的には半(なか)ば城砦の様な機能を周囲の地形が果たしており、その傍らには“釈迦堂の切通し”と呼ばれる鎌倉を代表する景勝地が存在しています。
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現在、鎌倉市はアホの左派市長の執政下で劣化を補修も保全もせずに落石を発生させてしまった挙句、これ幸いと落石を言い訳に交通封鎖してしまい一般市民の通行を遮蔽し阻害しています。その結果、人の往来が無くなってしまい逆に植物が茂り放題茂りだして釈迦堂切通しの劣化を加速させる事態を巻き起こしてしまっています。
この釈迦堂切通しの洞門の上部には門を固定する材木を通したであろう穴が岩盤に穿(うが)って有るので、ここが名越邸の城門の役割を果たしていたのでしょう。
名越邸と釈迦堂切通しと衣張山の位置関係 久良岐のよし
この釈迦堂の切通しを含めた山が衣張山で、その山腹に名越邸が存在していました。
北条家は源頼朝公の相模川での死没後(恐らく北条時政と稲毛重成による暗殺)に執権と成り鎌倉幕府を乗っ取ってしまいます。北条時政は源頼家公への謀反が事前にバレて追放されますが、その子の北条義時公が結局は二代目の執権と成り源氏にとって事態は悪化しただけでした。
この北条義時公には特に有力な跡継ぎ候補がいて…
北条朝時公

北条頼時公
…の二人が別格の扱いを受けていました。
この内、名越北条家の祖先は北条朝時公です。母親が比企(ひき)家の姫で絶世の美女でしたが、比企家と源頼朝公の関係は密接だったので当初は北条朝時公が後継者候補かと思われていました。
対して北条頼時公は特に源氏と血縁的な深さは北条朝時公程深くは有りませんでした。しかし源頼朝公の名前の“頼”の字を頂いている事からも、頼朝公の生前に可愛がられていた事が窺(うかが)い知れますね。
しかし、事態は祖父や父による恐らく頼朝公の暗殺によって急変し、源頼朝公御本人と御子息達と比企家は北条家によって根絶やしに暗殺されていきます。そして比企家を駆逐すると、比企家との血縁の有る北条朝時公の存在は北条一族内でも“面倒臭い存在”に成ってしまい、後継者指名から外されてしまいました。そして何故か北条“頼”時公は名前から源頼朝公由来の“頼”の字が抹消されると、同世代で北条に次ぐ有力者である三浦家の三浦泰村公から一字を貰う様に北条“泰”時と名乗る様に成り第三代鎌倉幕府執権と成りました。
しかし朝時公を蔑(ないがし)ろにする訳にも行かないので、北条朝時公は御爺ちゃんの北条時政の財産を継承する事で決着し、その際に北条時政の邸宅の名越邸も相続する事と成りました。
これが“名越”北条家と呼ばれる様に成った由縁です。
さて、そんな訳で名越北条家は本流から外れた事で反本家姿勢を強くし頼朝公の子息の将軍や藤原家から来た将軍と密接に成る事で存在感を増して行くのですが、これが益々北条一族にとって煙たい存在と成って、執権が北条時頼公の時に名越北条家で本家に反抗的な人間は粛清され勢力を失う事に成りました。
元々今の横浜市金沢区の北部一帯は名越北条家の土地だった様で、富岡辺りも所領だった事が判っています。
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御寺の説明にも少しその事が書いて有りますね。
安土桃山時代~江戸時代~明治時代~昭和初期に、この周辺は杦田(すぎた)梅林と呼ばれ京都の関白家や本願寺家の当主が観光に来た程だったのですが、杦田梅林へ観光に来る江戸市民からは靈桐山東漸寺は御本尊が御釈迦様の立派な御寺として大変に有名で親しまれたそうです。
東漸寺場所 久良岐のよし
現在では明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈、第二次世界大戦後のGHQの方針で境内地は縮小していますが、本来はもっと広かった事が国道16号線に接続する参道の位置から推測出来ます。普通、参道は御寺の正面に作りますから今みたいに端っこに寄ってる筈が無いんですね。
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だから周辺は不可解に狭い路地だらけに成ってしまっています。
恐らく室町幕府鎌倉府の崩壊の切っ掛けに成った永享の乱や、戦国時代の房総半島の里見家の海賊の焼き討ち、第二次世界大戦の横浜大空襲の戦災等で御堂や建物の無くなってしまっていた部分の御寺の境内地がGHQの政策で接収され縮小された後で、横浜市が御寺に返却せずに民間に払下げ民家が乱立していまの細い路地だらけに成ったんでしょう。
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まぁ、小生はコンナ路地も好きなので、これはこれで散歩していて楽しいのですが。
さて、この路地を含め境内地だったとして、この東漸寺は境内地の中にも更には周辺の妙法寺や八幡社含め広大な杦田梅林が広がっていた事がアホの横浜市が日本規模で有名だった杉田の杦田梅林を破壊容認してしまい消滅した現代でも当時の規模が解る史料が有ります。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡之七 杉田村…この杉田村の解説の中に下の挿絵が有ります。
杦田梅林 久良岐のよし
これを見ると解りますが、東漸寺や妙法寺が凄く広い境内で、海岸線も昭和のアホの横浜市が埋立地利権で海岸線を変えてしまう以前の様子が解ります。そして杉田と言うより屛風ヶ浦近く中原の辺り~青砥坂の辺りまで広大な梅林だった事が見て取れます。
ここに明治天皇御一家も遊覧に来られたそうですが、この杦田梅林を植樹したのが間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の間宮一族で、主に杉田周辺は分家の杉田間宮信繁公が梅林を拡張しました。
この梅が現代でも幻の杉田梅として流通していますが、本家本元の杦田梅林は横浜市のせいで消滅してしまいました。
そんな江戸時代に東漸寺を支援したのが、この杦田梅林を造営した間宮家でした。
ですから間宮家が書いた文書が江戸時代末期にも残っており、新編武蔵風土記稿の中で古文書が紹介されており中興開基間宮左衛門尉敦信と記載されています。
この杉田間宮の戦国時代~江戸時代の当主は梅林を造営した間宮信繁公ですが、実は関ヶ原の戦いで東軍が大勝利する徳川軍本隊3万の前進行軍を成功させる切っ掛けになる偵察と献策をした名軍師であり、そして江戸幕府将軍家の初代の鷹匠頭でした。
ですから間宮家の御縁で御寺の収入源と成る寺領が家康公によって安堵された事で徳川家の葵の御紋の寺紋としての使用を許された様ですね。
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実は新編武蔵風土記稿の中には小生の“東漸寺の境内は昔はすさまじく広かった説”を立証する証拠が文章で乗っていましたので紹介します。
東漸寺場所 久良岐のよし
※本堂の位置と今も残る池の位置を見てから以下の解説を読んで下さい。そうすると現代では失われた江戸時代の御堂や江戸時代以前に失われた御堂の跡の位置関係が詳細に理解できます。
※現存する池は二倍の大きさがあり、昔真ん中で橋が架かってた部分から半分が埋め立てられてしまっている事が判ります。

惣門(そうもん:外門)を入(はいる)こと凡(おおよそ)十八(~)九間(けん:1間=1.81m、十九間=約34m)にして、中門を立(たてる)、靈桐山の額を掲ぐ、落款(らっかん:サイン)に見圓覺俊衡碩(けんえんかくしゅんこうじゃく=和尚様の名前)書とあり、又五(~)六間にして池あり、小橋を架す、又ニ(~)三十間にして本堂に至るー以下中略ー
塔頭(広大な境内に有る子会社みたいな別運営の御寺)
眞樂庵 本堂に向(かい)て右にありー以下中略ー
多福院 (本)堂に向(かい)て左にありー以下中略ー
保福院蹟 堂の西方にあり(※現在の杉田駅辺り)ー以下中略ー
成願院蹟 堂の西南にあり(※現在の杉田商店街杉田駅寄りの辺り)ー以下中略ー
直傳庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
長慶庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
正永院 境外(寺の敷地外)巽(たつみ=北東)の方にあり(※現在の新杉田の交番辺り)ー以下省略ー

文字だけではイメージ出来ない人がいると思うので、総門~中門~池と小橋~本堂の距離を、旧参道の道上に距離から逆算してGoogle earthの衛星写真上に再現した地図で位置関係を御覧下さい。
東漸寺 失われた惣門と中門と池の小橋の位置関係 久良岐のよし
こうしてみると、新編武蔵風土記稿の記載を立証する様に池の小橋、中門、惣門が昔所在したと思われる場所には横道の名残が住宅街の小道として残っている事が解りますね!
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つまり、これらの商店街裏の住宅街の路地は、昔の塔頭寺院と門や橋を繋ぐ境内の横道の歩道だった事が理解できます。境内の歩道跡に沿って家を建てちゃったもんだから、こんな狭っくるしい路地に成った訳ですね(笑)。
さて、ここまで旧境内の規模と、関わった御殿様達が凄い人ばかりだったのは御理解頂けたと思います。
この御寺の権威も凄かったので“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を歴代の室町幕府鎌倉公方や徳川将軍家から保証されていた訳ですね~。 

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今でも御釈迦様が祀られている御本堂はとても立派で迫力が有ります!是非、杉田商店街で御買物する機会が有りましたら、東漸寺御参りして見て下さいね!
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所で杉田商店街ですが…
実は商店街の中に老舗の和菓子屋さんが在りまして、梅の和菓子を売っています。
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甘味処 菓子一と言う御店です。
そうです、今では横浜市役所と昔のアホの市長の建設利権のせいで消滅してしまった杉田梅林の梅を昔は特産にしていた元は観光の町なので、今でも杉田梅は無くなりましたが梅の和菓子を製造販売してらっしゃるんです。是非!菓子一さんの梅の和菓子も食べて見て下さい!
ところで杉田の杉は古文書を読むと昔は杦田(すぎた)と書いていた事が解るのですが、その昔は日本全国で最高級ブランドとしてもてはやされた旧久良岐郡(横浜市)の特産品だった杦田梅、実は今でも別の場所で梅林を見て梅干を食べる事も出来ます。
それは・・・
小田原市に今も存在する南関東最大の梅林の曽我梅林です。
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富士山も梅林越しに見られる曽我梅林は、実は今では特産の蘇我十郎梅を生み出す為(ため)に昭和初期に杉田梅林から大量の杦田梅の苗木買い付け植林し、その杦田梅を品種改良して生み出されたのが蘇我十郎梅なんです。
だから今でも杦田梅の梅林が曽我梅林の中にはちゃんと保存されているんです。

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曽我梅林も素敵なので、是非、来年の3月頃に皆さん見学に行ってあげて下さい!

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梅のジェラート、一粒500円の梅干“雲上”、そして神奈川名物足柄茶、美味しい物も沢山有りますよ~!

では最後に、今日紹介した御寺とか御店とかアドレスを掲載して今日のブログを〆ます。

【靈桐山東漸寺】


【菓子一】
【曽我梅林】
では皆さん、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪










歴史巡り観光案内も何も関係無いけど・・・

1ヶ月間8㎏減量計画・・・完遂!
尚、筋肉量の増量にも成功。
ジムでのトレーニング
サバスのプロテイン
ジムのプロテイン
ファミリーマートの0kcalゼリー
オツマミのメザシの干物
スルメそうめん
イカの燻製
牛乳
ヴァームウォーター
袋入サラダ
魚肉ソーセージ
午後の紅茶無糖2literペットボトル
肉屋の夕方セールのローストビーフの御蔭♥️

因みに毎日、崇拝する神様仏様尊敬する歴史偉人と祖先神と御先祖様と子供の頃の恩人と学生時代の恩師に感謝し御祈りした御利益も有ると思います~。

今晩中にちゃんと御利益有る神社仏閣か歴史巡りスポットの紹介記事書いておきます~。

では、 又、明日!

日本で生活する外国人を一色単に「在日○○人」とカテゴライズし差別するのは良くない。 これには歴史オタクとして少々思い入れが有るし、隣の中国や朝鮮や欧米諸外国やアジアの友邦から日本に留学に来たり働きに来て生活する人の内で何割かに当たる反日朝鮮人や反日韓国人や反日中国人や欧米史観至上主義者とを区別せずに、親日の人まで一色単に攻撃する事に成る。
無論、民主主義の韓国政権と自称民主主義の北朝鮮金王朝が存在するのは、その国民の政治的な意思や正義を貫かない不正義の結果なので批判しても良いと思うし責任を取らせても良いと思うし見捨てて良いと思うが、人種差別的な発言は宜しくない。
その言い回しだと「古代の在日朝鮮人から帰化した亡命者」を愚弄する事に成る。 そして「日本人を悪と教育する現代の中・韓・北朝のロジックと同程度」の歴史弱者としか言えない。
伊藤博文公
更には明治時代に朝鮮王族を保護し、明治・大正の政府の外交戦略に反して朝鮮王朝復活の可能性も温存していた伊藤博文公まで侮辱する事に成る。
伊藤博文公&李垠殿下
伊藤博文公は日本政府の中で朝鮮王族の李垠(りぎん)殿下を保護し、朝鮮王族血統排斥派から守り通した人物なのを知る人は日本人にも少ない。
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李垠殿下は伊藤博文公を慕っており、良く横浜市金沢区の野島の伊藤邸へ遊びに行って海水浴をしたそうだ。野島は平安時代末期には源頼朝公が景勝地として御好きだった金沢(かねさわ)の海に浮かぶ島で、江戸時代以降は周辺と合わせ金沢八景と呼ばれる名勝と成り、紀州徳川家の別荘も在った。
昔から海鼠(なまこ)、蝦蛄(しゃこ)、穴子(あなご)の特産地として知られ、李垠殿下もそれらの海産物を御召上がり成り舌鼓を打たれたのだろう。
小柴の穴子天丼と小柴の蝦蛄刺身 久良岐のよし
今でも金沢区柴の柴漁港では小柴穴子の天丼を提供する“小柴のどんぶりや”や・・・
小柴のどんぶり屋 久良岐のよし
鎌倉時代に京の都を統治した武家最高の教養を誇る金沢北条家の邸宅跡の真言宗の別格本山寺院である稱名寺参道の文庫茶屋や・・・
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伊藤公の時代の与謝野晶子さんや海軍人達から愛された料亭“金沢園”の後継旅館である喜多屋で李垠殿下も食したはずの穴子料理を食べる事が出来たりする・・・
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・・・なので、小生同様に本当に歴史や神社仏閣や御城と古民家と日本料理が好きな“保守派”横浜市民は結構、この史実を知っている。
しかし、己の朝鮮民主主義人民共和国なり大韓民国なりの国家元首としての地位の保持の欲の為に国策として
嘘の反日歴史観を韓国国民や朝鮮国民に教えて普及させた李承晩や金日成の当該国籍の横浜市民達も当然この事実を知らない人間ばかりだろう。
伊藤博文公は当時の死に際し欧米のマスコミからも「朝鮮人の最良の友人であった」と批評されている事も、その真実が解る。
李垠殿下
李垠殿下は李皇帝の正式な跡継ぎとして戦時中には後継者指名を受けていたが、第二次世界大戦終結後も晩年まで帰国できなかった。それは李王朝復興に由(よ)って大統領の権限が脅かされる事を恐れた李承晩大統領が殿下の帰国を拒否し阻止したからだった。恐らく李承晩によるアメリカ合衆国への根回しも有っただろう。
小生は思う、李垠殿下が日本の無条件降伏後に米国の支援を受けれて直ちに韓国に帰国出来ていたら、明治時代に清王朝から独立して皇帝と成った韓国皇朝を復活させ見事に立憲君主制を実現させ、米国や昭和天皇や吉田茂総理や白洲次郎サンと協力して朝鮮半島の統一の原動力と成って民主化と先進国化を成功させる事が出来、現代の北朝鮮国民の餓死者も出す事も無く、キリスト教系カルト宗教の韓国人による日本の神社仏閣へのテロ行為を起こさせる事も無く、日本と韓国は真に対等で皇族同士が血縁も有る友邦と成り、古代の神功皇后こと息長長足媛命以前の日本ー朝鮮半島の様に素晴らしい盟友に成ったんだろうと思う。
・・・まぁ、何度も言うが歴史に「i f」は無いし、考えるだけ無駄。でも朝鮮には李垠殿下の名跡を継いだ李源サンがいらっしゃる。

伊藤博文公は李王朝の末裔達の命脈を保ったが、現代の日本人も助けている・・・
東日本大震災発生時に東北地方で一人の凍死者も出さずに済む要因と成った鉄道貨物輸送網整備は明治時代に横浜新港埠頭(みなと未来21地区)の赤レンガ倉庫を起点に整備された事業だった。
2011年03月11日に発生した2回の大地震と沿岸部の市町村を襲った津波に因って東北地方の鉄道網は壊滅した。その為(ため)に東北地方沿岸部を通る鉄道貨物輸送が利用不能に成り、東北地方は燃料補給が滞り救援物資輸送のみならず暖房の燃料すら確保出来ずに凍死者を多数出す危険性が迫り一刻を争う事態に陥っていた。
初春の東北の気候は関東や関西の冬の様に寒く厳しい。
この危機を救ったのが磐越西線だった。

これは明治時代に旧武士達まだ士分が保証されていた時代に明治政府が士分に与えた秩禄
(ちつろく)給与と言う旧武士階級特権と身分制度が廃止され四民平等に成り、旧武士へは金録(きんろく)公債の発行が行われ言わば退職金の手形が渡された。当時、その公債を売却した武士達が多くの民間銀行や鉄道会社を設立したが、磐越西線はそんな民間鉄道区間と伊藤博文公達の国家事業の合同の事業だった。
今でも小生の郷里に横浜銀行(旧:第二銀行)や信州には八十二銀行も健在だが、これらの漢数字を冠した銀行が当時、多くの民間鉄道会社と同様に日本の発展に寄与した幕末~明治の豪商や武士達によって設立されている事を知る人は歴史好きでも無いと少ないだろう。
はまぎん今昔写真 横浜銀行様ホームページより拝借
※横浜銀行ホームページ“はまぎん今昔写真”で近代と現代の横浜の風景の変遷を見られます。

因(ちな)みに横浜銀行を開いたのは原財閥で、幕末に生糸の貿易で日本有数の大家と成り財を成した集団だった。横浜銀行の他に昨年ユネスコに文化財認定された富岡製糸場ニューグランドホテル等も経営していた。そして関東大震災で横浜市街地が崩壊した際に政府よりも復興に寄与し私財を投げ打ったのも原財閥だった。
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そんな原財閥の当主、原三渓さんの個人宅だったのが現在の国指定名勝:横浜三渓園だ。
この原三渓サンの横浜銀行(明治七年:1874年)の創業から24年後に奥羽山脈の大森林と山川を切り開いて線路が引かれ磐越西線(明治三十一年:1898年)開通と成ったが、この区間は現在も無送電区間が有り、蒸気機関車やディーゼル機関車によって客車が牽引(けんいん)されている。そして川に架かる橋梁(きょうりょう)は正に明治時代の煉瓦造りやトラス鉄橋等が現在も利用されている。
その磐越西線を使い日本海側を通って横浜市中区の本牧埠頭に在るENEOS根岸製油所~根岸駅~関東平野を通り抜け~福島県~山形県~秋田県~青森県へと石油を大震災発災から僅か1週間で第一便が送り届けられた。無論、この事業を成し遂げたのは無能な民主党ではなく民間のENEOS根岸製油所JR貨物の職員達の独自の立案と迅速な判断に由(よ)る偉業だった。
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その根岸製油所は最近では若い女性から京浜工業地帯の夜景クルージングで人気のスポットだったりする。
ENEOSも又、明治時代創業の起業だ。明治の人達の国民の利益に寄与する公益世務の企業理念が活きている。そして彼等が東日本大震災でタッグを組んだのがJR貨物だ。
そもそも伊藤博文公等の明治政府の元勲等の起こした旧国営事業から後に民間会社化した神奈川臨港鉄道やJR貨物の職員達の企業精神の中には日本を支えるDNAが有り、それが東北の被災者を思う正義感として発揮された結果の迅速な対応だった訳だ。そして明治時代の人々の遺産で有り活きた鉄道史跡の磐越西線が東日本大震災で多くの東北の人を助ける事に成った訳だ。
・・・この旧国鉄貨物線の基礎を築いた伊藤博文公を始めとする幕末に佐幕派‐倒幕派の敵味方に分かれて戦い、後に協力して日本の近代化を成し遂げた先人に対する尊敬故(ゆえ)の願望で有る事は否めないが、いつか
韓国国民が歴史を直視して李王朝を復活させて今の国際条約を軽視する堕落した韓国が立憲君主政治国として皇帝の下で生まれ変り民主主義国法治主義国として成熟する事を、日本の真の友邦に成る事を、1人の歴史好事家(オタク)として切に望む。
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横浜のミナト未来21地区の赤レンガ倉庫の軌道や汽車道遊歩道が、正に伊藤博文公が整備した初代横浜駅の桜木町の先に築いた新港埠頭の貨物線の名残だったりする。
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果たして、ここをデートで散歩する現代人のどれだけが伊藤博文公の思いを理解している事か。
皆無だろうな・・・
古代の朝鮮からの亡命者、彼等の子孫には日本の天皇家の祖先に当たる大王家(おおきみ)の忠臣として活躍した人が多くいる事実を先ず馬鹿にするのは歴史に対する知識が薄いと批判されかねない。
・・・左派右派問わず。
彼等、古代の日本を心から好きで亡命して来た開拓民を同僚として受け入れ供に日本国家を築き上げた日本古来の豪族の子孫や天皇家から臣籍降下し鎌倉幕府の基礎を築いた人々が多くいる。即ち貴族では無くて武士と成った人々の祖先達だ。彼等が協力して元寇を撃退した訳だ。 だから、簡単に「朝鮮人を全て悪とする」するカテゴライズは、古代の天皇家を批判する事にも成る。 もし日本人を差別したり日本国や日本企業を転覆しようとする部類の朝鮮半島の国家の国民や中国大陸の中国人を批判するのであれば以下の言葉を必ず付け足すべきだと思う・・・ ●「反日思想の」+朝鮮人or韓国人or中国人or白人至上主義者or在日○○人 ●「中国共産党の」+中国人or在日○○人 ●「共産党の/左翼の/左派政党に献金する」+在日○○人 ●「革マル派の/中核派の/オウム真理教系統カルトの/某韓国キリスト教系カルト宗教信者の/極左の/外国人参政権を求める」+在日○○人 ●「偽右翼の/ヤクザの/パチンコ利権の/カジノ事業推進派の」+在日○○人or左派市長or左派知事 ・・・こうやって言葉を少し付け足せば、帰化してから古代の大王や天皇に忠誠を誓い日本の発展に寄与した渡来系古代豪族であり功労者の御子孫の一族を愚弄しないで済むのではないか? そもそも日本人の中にも多くの渡来人の遺伝子が組み込まれている。
エラが張っているのは朝鮮人と言う流言飛語を鵜呑みにする「ネトウヨ」や「低学歴者」もいるが、こんな事は中学時代に真面目に社会科の教科書を読んでいれば縄文人と弥生人の骨格の違いを学んでおり惑わされる事も無い。
三殿台遺跡 縄文人女 久良岐のよし
エラが張っている骨格は寧ろ日本在来種の縄文人である琉球人・隼人・熊襲・アイヌ等の生粋の九州人や東日本の土着民に多いのは周知の事実だ。
そして韓国人に日本の縄文系同様にエラが張っている人が多いのは「古代邪馬台国時代の釜山周辺がそもそも古代日本の国土だった」からと言う基本的な事実さえ知らない“中卒”程度の学力も無いネトウヨが多過ぎるのも真の保守派や右派から見ると恥ずかしい事実だ。
彼等に日本の縄文系遺伝子同様に顎の四角い骨格が多いのは当たり前、中国の三国志、魏志倭人伝でも「倭人」として登場する訳で、百済滅亡時に大和王朝が唐帝国と逆徒の新羅王朝連合軍に敗れ朝鮮南部の領土を失地するまで、彼(か)の地は遥か神話の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の頃の弥生時代より日本領土であり住んでいる人々も日本人だった訳だ。
その後、三浦半島の走水神社の近くの御所ヵ崎を仮御所にして一時期暮らした日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)は西暦100年代に走水から東京湾を超えて大伴氏や吉備氏の古代豪族の水軍を与力として房総半島へ渡航している。日本武尊は複数人の古代大和王権の皇族将軍が合祀された神号だと考古学的には推測されているが神奈川県の複数の日本武尊関係の延喜式内社の神話や社宝と周辺から出土する遺跡を考慮すると、走水に来た日本武尊と弟橘姫は恐らく初代の王族将軍で弥生時代の終わり~古墳時代の始まりの人と推測出来るので神話と考古学的な誤差100年前後と整合性も高く成る。丁度卑弥呼の時代の人なので、そうなると倭姫(やまとひめ)が卑弥呼らしい事も解る。つまり景行天皇が卑弥呼の弟で行政を担当した人物らしい事も窺(うかが)い知れる。
丁度、この時代を境目に青銅器が普及して古墳時代に突入する。
古墳時代の王族の甲冑
その古墳時代の発展によって大和王権の成立に古代の在来豪族と一緒に協力して活躍したのが大王家に忠節を尽くした渡来系豪族達な訳だ。だから、その頃に鉄器製造や騎馬文化が日本でも開始され根付いたし大和王朝統治下で渡来民族と兵庫や大阪や奈良や京都辺りの古代人は多く混血したので、今では近畿には一重瞼で卵型の顎の骨格を持つ日本人が多い。

この歴史をネトウヨと低学歴右翼は知らない。
彼等は当然、ギャーギャー人の言葉を借りて騒ぐ割には、左翼同様に日本書紀も古事記も読まず、古来の延喜式内社も式外社も御参りせず、事もあろうか古代人の聖地が天皇家によって霊場として寺院化された御寺を外来文化として排斥する罰当たりまでいる。コイツ等と天皇家を潰そうとしたり日本の宗教施設に油を撒いたり放火したり石仏や御神像を破壊するアホの左翼やキリスト教系カルト信者の韓国人のやってる事と実質的害悪として差は無い!

結局、低学歴な右翼やオコ様ネトウヨは偽右翼に韓国人無差別排斥を煽る国際的に日本人を貶めるプロパガンダに利用され、朝日新聞や毎日新聞等の極左新聞社に良い様に書かれている。
ハッキリ言って、真の保守派からすれば左派や偽右翼同様に一部の低教養右翼は迷惑な存在だ。

寧ろ平安文化を築いた関西人の遺伝子は渡来系のエラが無い卵型の頭蓋骨に一重瞼(まぶた)の弥生系が多くて完全に帰化遺伝子が濃いんだがな・・・
近代に成って一重瞼が増えたってのは偽保守や在日右翼によるデマだ。在日右翼が自分の出自を粉飾する為の正当化に、低学歴右翼とオコサマネトウヨが騙されている訳だ。
先ず、本当の保守派ならば伊勢神宮や靖国神社だけでなく御朱印帳を購入して延喜式内社と式外社を巡拝して回るべきだ。合わせて各市町村の考古学関連の歴史博物館に行き、縄文人と弥生人の違いを学ぶべきだろう。
ここまでして漸く日本人の先人功労者を敬う精神を理解した上で最低限中卒程度の歴史知識が視覚的にも理解出来るだろう。
アイヌ人 
アイヌ人の服の文様は縄文時代の土器の文様にソックリだ。
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小生は子供の頃から近所の縄文時代~弥生時代遺跡で土器や石器を採取して遊んでいたので、写真でアイヌの人の服装や顔を見ると・・・
「あ~、素戔嗚尊の時代の縄文時代の終わり~弥生時代の人はこんな感じだったんだろうな~」
・・・と思う様に成った。丁度、青銅器の輸入やガラス製管玉の輸入も始まった時期だな。
弥生時代、後漢の時代に古代の九州の豪族達は漢帝国に朝貢して、これらの物資を得ていた訳だ。
考古学的には関西人は完全に弥生系の遺伝子が多い。だから一重瞼も多い。 対して生粋の九州人や東日本の人間は琉球人やサモア系人種と同じ海洋民族系の胴長短足でガッチリした体形、二重瞼、方形に近い顎を持つ頭蓋骨が多い。つまり縄文人系統だ。そして遺伝的に酒も強い。
例えばロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した柔道の山下サン、彼を含めた熊本近辺に多い山下姓の一族は阿蘇家臣団であり阿蘇家の末裔と伝わるそうだ。尊卑文脈を読むと清和源氏と書かれているが、これは阿蘇家が神武天皇直系だと称しているので河内源氏の徳川家を憚り、同じ天皇家の一族だが古すぎて出自の良く解らない阿蘇家の事より源氏(天皇家の子孫)と江戸時代の学者が改ざんしてしまったのだろう。だから尊卑分脈と山下一族の伝承が異なる事態が起きたと推測出来る。
山下泰裕サンの実家はやはり熊本県出身で、出生地も阿蘇家の戦国時代の本拠地である岩尾城下の矢部町だったそうだ。
山下泰裕氏
この山下家が阿蘇家だと言う伝承を元にするならば、限りなく生粋の縄文人に近い遺伝子である事は九州中央部の出身である事からも推測出来るが・・・
同じく縄文人の遺伝子を引くサモアンのマークハント選手、K1やUFCで活躍した選手だが、この人の骨格や顔つきもやはり山下サンにソックリだ。
マークハント選手 UFC
実際、アチラの方には縄文時代に船で日本の方から祖先が移住して来たと伝承が有ったり、縄文文化が有ったと子供の頃に「世界ふしぎ発見!」で見た事が有る(笑)。
つまり、日本文化は先住民で海洋民族の南方から来た縄文人つまり生粋の日本人と、後に呉や秦や漢の滅亡時に移住して古代日本の大王家に服属し早い段階で日本人に成った中国大陸南部や西域からの渡来人。そして後から来た朝鮮半島系も一緒に協力して農耕を普及させ餓死者を減らし、日本文化を育んで行き南宋から亡命してきた蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚等と鎌倉文化の中で南宋の失敗と中国伝来の兵法を学び、元軍を撤退させた訳だ。
そんな歴史が有る訳で、渡来系には卵型頭蓋骨一重瞼遺伝子の在日朝鮮人と同系統の祖先の人だけじゃなくて、海洋民族に似た胴長短足騎馬民族系統のモンゴル系もいるし、中国大陸からの渡来系だか「中国系」と一括りに出来ない中国の漢帝国成立以前に日本に亡命した秦氏もいれば、それ以前に来ている呉王系統の「臥薪嘗胆」の諺(ことわざ)で有名な夫差の子孫も居るんだわ。 当然、漢帝国滅亡時に日本に亡命した漢皇室系統の部族もいるしな。 それに南宋の滅亡時に鎌倉文化の発展に寄与して元寇撃退の一助と成った南宋時代の中国系渡来人もいるし、元朝の滅亡時に日本に来て室町文化発展に寄与した中国系渡来人もいる。当然、明朝の滅亡時に日本に帰化した中国系渡来人もいる訳だ。そして彼らは亡国の経験を日本に伝えた義の人であり、故国に対する忠義の人達でもある。 特に夫差の子孫の呉太伯は日本の天皇家のルーツである高天原(たかまがはら)に通じる高千穂峡とかが近い辺りに土着していた形跡が有るから、天皇家の祖先の大王(おおきみ)家を助けた忠臣に成っていた可能性も高いんだぞ? だから鹿児島県には太伯神社も有るだろう?隼人民族の強さのルーツは古代に兵法を理解していたからかもな。 逆に藤原家なんか初代の墳墓を見ても中臣氏の唐突な歴史の表舞台登場の時期を見ても「百済系」の状況証拠ばっかりだし、更に逆に蘇我氏は古代からの日本人だったとしか思えない方形墳墓だったり出雲大社の本殿の裏に古代の奥殿とも思える素我社が祀られていたりする訳だ。そして東日本は蘇我に通じる蘇我や須賀の漢字の付く地名が多い。 そこを平安時代に横取りしてるのが藤原氏な訳だ。古代の関東は製鉄と軍馬生産の先進地域だったからな。 蘇我氏を駆逐した後で何が起きたかは想像し易いだろう。例えば千葉県八千代市高津一帯は平安時代も軍馬生産地だったのだが、そこは菅原道真公を謀略で陥れた藤原時平の庄園に成っていた。千葉県には千葉市に蘇我の地名が残り神奈川にも小田原市に曽我の地名が残るし横須賀市が有り、福島県にも須賀川市が在る。 [画像:bd03d43d-s.jpg]
八千代市高津の高津比咩(たかつひめ)神社には菅原道真公を陥れた後に悲惨な目に遇った藤原時平一族が散り散りに成り、この地で時平の姫が隠遁生活を過ごした伝承が有る。
まぁ、蘇我家の旧領を藤原家が横領していた状況証拠だな。 中臣鎌足が暗殺した蘇我馬子のフルネームは「蘇我嶋"大臣”馬子」なんだが、これを見れば古代日本には大臣、中臣って官位の名残が伝わっていた事が判ったりすんだな。 ついでに言えば藤原家の家祖の中臣鎌足には苗字が無い(笑)。つまり古代大和王権に服属した何処ぞの小王国の末裔だから苗字が無いんだろう。恐らく百済人だ。そして蘇我家の財産を横領し蘇我家の古代爵位を歴史から消し去ろうとした事が状況証拠でバレバレなんだよ。 しかし蘇我が大臣の家柄なのは歴史書から抹消されてるが名前に残ってしまっている。 早くから原初の日本人に成っていたのに藤原氏の陰謀で日本書紀等で後に外国人扱いされた系統も有る訳だ。

【葛原親王の御子孫の坂東平氏】 村岡(坂東平氏の氏神の鎌倉坂ノ下の御霊神社の元宮司家)・鎌倉・梶原・大庭・長尾(上杉謙信の実家)・三浦・佐原・朝比奈・蘆名・平子・熊谷・畠山(平姓)・足利(平姓)・豊島・比企・渋谷・江戸・喜多見・入来院・東郷(東郷平八郎元帥の系統)等
東郷平八郎元帥上杉謙信
【清和天皇の御子孫の河内源氏】 源・平賀・佐竹・足利(源姓)・吉良・今川・畠山(源姓)・武田(武田信玄の系統)・仁木・二木・榊原等
源頼朝公武田信玄 【摂津源氏】 多田・太田(太田道灌公の系統)・土岐・明智(明智光秀の系統、坂本龍馬さんの祖先?)等
太田道灌公坂本龍馬先生
【敦実親王の御子孫の近江源氏】
佐々木・六角・京極・黒田(黒田如水の系統)・舟木・間宮(間宮林蔵・杉田玄白の系統)・乃木(乃木大将の系統)等
※家祖の敦実親王は延喜式内社で近江源氏の氏神である沙沙貴神社の御祭神として祀られる。
黒田如水公間宮林蔵公
【村上天皇の御子孫】
村上(村上義清・村上水軍棟梁家の系統)・北畠(北畠顕家の系統)・浪岡・白河・木造・田丸・藤方等
北畠顕家公村上義清公 【素戔嗚尊の系統】
千家(高円宮典子様が嫁いだ出雲大社大宮司家)・賀茂(京都の上賀茂神社・下賀茂神社宮司家)・鴨(賀茂家の別字)・松平(東照大権現徳川家康公の系統、本来は賀茂一族、源氏を僭称)・徳川等
※賀茂氏系統は渡来人説が有る。現在の京都市街を早くから開発した一族。土木や土地開発の伝承が多い。
※古代に東日本を開拓した系統。
徳川家康公
鴨長明
【野見家・土師家・和珥家系統】
菅原(菅原道真公の系統)・前田(前田利家の系統)・
和邇・和珥・丸子・能見・乃美・大江(大江広元公、毛利元就の祖先の系統)・毛利等
※採石や食器加工等に精通
※学問や文化的素養に精通した豪族。
※菅原道真公の功績を評価する醍醐天皇と、霊威を恐れた藤原貴族によって「天満大自在天」の神号を追贈された一族。
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前田利家
【忌部家系統】
織田(織田信長公の系統、平姓を僭称)・高河原等
※神事に精通した。古代の祭祀(葬礼)に深く関わった一族。
※戦国時代の信長公の代に伊勢神宮復興、御所復興、足利家が中絶させてしまった古代からの祭祀や有職故実を復活させた。
※明治天皇により織田家の功績に対して織田信長公が「建勲神」の神号を追贈され神に成った。
織田信長公
【大伴(おおとも)家・佐伯家系統】
佐伯・大伴・伴・大友(河内源氏を僭称、自称源頼朝公の御子孫)
※古代大王(天皇)家の近衛兵を率いた部落を纏め軍事や水運に精通した系統。
※古代に東日本を開拓した系統。
※応神天皇の天皇号成立以前の御名が大鞆別命(おおともわけのみこと)なので、血縁の可能性を窺(うかが)い知れる。
大伴家持公大友宗麟公
【物部家系統】
穂積・鈴木・紀(紀貫之の系統)・越智・河野・弓削・中原・曾禰・曽根等
※熊野信仰と水運に精通した系統。
※製鉄や学問に精通した一族、軍事にも精通した武士(もののふ)の語源と思われる一族。
※古代に近畿地方南部~東海地方~神奈川県域西部南部を開拓した一族。
紀貫之公
【宇治家・阿蘇家系統】
阿蘇(阿蘇神社大宮司家)・高森・中村・竹崎等
※古代からの天変地異観察や文化的素養に精通した一族。古く婚礼の場で歌われた高砂のルーツの一族。
※土地開発の伝承も多い一族。
※神武天皇直系を称するが、古代の熊襲長(くまそたける)の一族から大和朝廷に服属した一族と考えられる。後に大王家からも血縁が入っているとも考えられている。
くまもん
【東漢家・秦家・百済王家系統】
大内(鷲宮神社旧宮司家/藤原家や佐伯家一族とする説も有る)・長曾我部・香宗我部・曾我部等
※文化に精通し中世以降は武士団として大変に活躍した一族。
※大内家は関東最古の大社である鷲宮神社宮司家を代々明治時代まで務め、歴代には徳川家光が利根川で溺死寸前の所を助けた大内泰秀等がいた。
※大内義興は与力の毛利家等小豪族を従えて応仁の乱を収束させた大功労者。
大内義興公長宗我部元親公

【中臣家系統】
藤原・
丈部・成田・児玉(児玉源太郎大将の系統)・菊池・近藤・首藤・工藤・伊東・伊藤・伊達等
伊藤博文公児玉源太郎大将
確かに現代の韓国政府と反日教育はクソ、北朝鮮政府と抗日勢力もクソ、その両方の親分のヤクザ国家中国共産党独裁政府もクソで、悪いのは反日教育を信じて日本人を差別したり攻撃したり、日本人のフリをして偽名を使いながら反日活動をしたり反社会的活動をする連中な訳で、中国人や朝鮮人の全てが悪い訳ではない。
だから日本人は日本人を差別したり日本文化破壊を行う連中を「差別」では無くて親日の人と「区別」して対応し批判するべきなんだと常々思っている。
そして当然、差別は良くないと言いながら「日本人を差別し日本文化を破壊する悪い奴を区別しない日本人」も同様に批判するべきだろう。
だけど日本の原子国家の中には、我々「日本人と気の合う臺灣人の祖先と同じ呉‐越‐楚王国の亡命者の子孫」が居た事実を無視してはいけないし、臺灣の人々には敬意を払わないといけない。それを馬鹿な右翼とネトウヨは中国語=中国人とステレオタイプで己が語学力と知識不足から区別出来ない阿呆が多い。
中国人以外にも批判の対象にやたらめったらする朝鮮系の在日外国人だって、そもそも古代から高麗神社ってのが全国に有り、滅亡した古代日本の友邦だった百済王朝からの亡命者や、それ以前に息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと)=神功皇后(恐らく歴人上の卑弥呼の後継者女王の臺与(とよ))の新羅征伐で古代大和王権の善政を慕って新羅から亡命して来た騎馬民族が移住して開拓民に成り土地を切り開いた土地の開拓者の氏神だったりする訳だ。
だから重ねて言う、簡単に「朝鮮人や在日外国人を全て悪とする」するカテゴライズは、古代の天皇家の価値観を批判する事にも成る。
もし朝鮮人や中国人の政治や外交姿勢や日本人差別や日本文化破壊行為を批判するのであれば以下の言葉を必ず付け足すべきだと思う・・・
●「反日思想の」+朝鮮人or韓国人or中国人or白人至上主義者or在日○○人 ●「中国共産党の」+中国人or在日○○人 ●「共産党の/左翼の/左派政党に献金する」+在日○○人 ●「革マル派の/中核派の/オウム真理教系統カルトの/某韓国キリスト教系カルト宗教信者の/極左の/外国人参政権を求める」+在日○○人 ●「偽右翼の/ヤクザの/パチンコ利権の/カジノ事業推進派の」+在日○○人or左派市長or左派知事or左派議員 ・・・こうやって言葉を少し付け足せば、帰化してから古代の大王や天皇に忠誠を誓い日本の発展に寄与した渡来系古代豪族であり功労者の御子孫の一族を愚弄しないで済むのではないか?

皆さんは鎌倉市の二階堂地区に源頼朝公が建立した壮麗な“永福寺”と言う御寺が曾(かつ)て存在していたのを御存知でしょうか?
その御寺は有名な京都府宇治市の平等院鳳凰堂や奥州藤原氏の拠点平泉の毛越寺と比肩して壮麗と当時は言われた寺院でした。
近年その永福寺跡の発掘調査が進み、この度、鎌倉市によって史跡として整備された記念に鎌倉歴史文化交流館で企画展“甦る永福寺”が12月09日(土)まで開催される運びと成りました。
鎌倉歴史文化交流館 企画展甦る永福寺 
小生は直接知り合いがおり今回の招待券を頂いていたので企画展の見学に行って参りました。
知り合いの職員の方と情報交換も有ったり調べ物を御願いしてあったので丁度良かったんですね。

先ず、鎌倉歴史文化交流館自体が今年開館したばかりの博物館で余り知名度も高くないので全国的には御存知の無い人も多いと思いますが、小生の個人的な感想として・・・
中規模の博物館ながら「恐らく南関東で一番、展示と解説の見せ方が美しく解り易い」美術館の様な素敵な博物館なのです。
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それもそのはず、この場所は旧三菱財閥岩崎家が住んでいた邸宅跡にして鎌倉時代の大寺院、無量寿院の跡地でもあります。建物も岩崎家の後にココに住んだ某出版社社長の巨大な自宅を改装しているので現代建築としても見応えが有りますよ。
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どんな場所かは以前に“今年6月の休日雑記”の中で解説しているので、博物館自体の様子を知りたい人は御参考までに以下の記事タイトルをクリックして記事を御覧下さい。

さて、では今回の解説の本題に戻ります。

この鎌倉歴史文化交流館の素晴らしい所は“館内の展示物の全てが写真撮影OK!”な上に、“触れる為の展示物も存在している”所です。常設展の素晴らしさは休日雑記の中でも紹介して有るので、其方(そちら)を御覧頂ければ良く感じ取って頂けるかと思います。
学芸員さんは歴史の楽しさを伝える為に、来館者と鎌倉時代の人の“歴史の時間を共有して貰いたい”との思いから、今回は発掘された永福寺の瓦2種類を実際に触ったり持ってみたりする事が出来ます。
体験を大切にする素晴らしい学芸員さんの素晴らしいアイディアですね。
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ジムで筋トレしまくってる小生でも「ん?」と感じる程度の重みは有ります。
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これは女性や子供からしたらソコソコ重いんじゃないかと思いました。実際に持つ事で御寺の規模を感じられれば子供にも良い経験に成りますね~♪。学芸員さんGood job👍
他の博物館はショボいレプリカの写真撮影すら拒む場所が殆(ほとん)どですからね~。
企画展で最初にパネルの解説で興味を惹かれたのが源頼朝公の彫像の写真でした。
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色が落ちちゃってますが、造形は良く姿を留めていますね~。
甲斐善光寺に保存されているらしいので、本来は信州の大寺院の善行寺から武田信玄が略奪した彫像の様ですね。武田信玄は信州や関東に来ては略奪と強姦と腐女子の奴隷売買を行った悪逆非道な輩として有名です。まぁ、この頼朝公像も鎌倉時代のまま信州の善光寺に在ったら、武田氏の滅亡で後ろ盾を一時無くした甲斐善光寺に保存されるよりも色彩も状態良く残ったのかも知れませんね。
次に目を引いたのが宇治の平等院鳳凰堂と平泉の毛越寺跡の写真です。
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実はこの両方が鎌倉の永福寺に酷似しているのです。
鎌倉歴史文化交流館 永福寺CG 
それもそのはず、そもそも頼朝公は都の文化が御好きな風流人だったのですが、奥州征伐で藤原氏の拠点の栄え様をまざまざと見せつけられ、そして自分と同じ様に風流を愛した奥州藤原氏の文化をリスペクトし、“平等院と毛越寺の両方の良い所を取り入れて永福寺を造営した”と言うのが通説に成っています。確かに発掘調査後の予想復元CGは両方にソックリですからね。
そんな頼朝公に建てられた永福寺も各時代に火災で再建されたり規模も様子も少しづつ変化した様で、その調査結果も見取り図で解説されていました。
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こんな感じで説明が有るので、素人でも良く理解できます。
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他にも経塚から出土した経筒や龜も展示されています。
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とても美しい水晶と純金製の数珠や・・・
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・・・盒子(ごうす)等も展示されています。
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800年前の人も素敵な装飾品を身につけてらっしゃったんですね~。
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他にも出土した柱や永福寺の瓦を組み上げた展示物が有ります。
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屋根や柱の装飾品も。
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・・・う~ん、全部の写真を掲載してしまうと企画展の面白みが薄れてしまいますので、展示物の写真の掲載はここまでにして置きましょう(笑)。
実は学芸員サンのアイディアと大学生有志ボランティアで今回、この他にも見所が有ります!
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これらの復元CGをバーチャルリアリティーで体験出来るんです!
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台数は3台有り、上映時間は一人につき5分程度、恐らくこの企画展に人が殺到すると混みあうので、まだ博物館の知名度の低い(笑)今の内が、この体験をしに行く絶好のチャンスだと思いますよ~♪
なんせ博物館の中は風雨も寒さも関係無いので、これから秋冬に向けても良いレクリエーションに成ると思います。
今週末、又、天気荒れるらしいですがソレも関係無く楽しめますしね(笑)。

皆さん、どうでしょう?
企画展“甦る永福寺”を見学して見たく成りませんか?小生の様に招待される客で無くても、ここは広く歴史と鎌倉文化を広め様と言う志の高い経営方針の博物館なので一般来場者の入館料も500円と激安です!

そして鶴岡八幡宮の近くの鎌倉国宝館では今年の10月21日時点~12月03日(日)の間、「鎌倉公方足利基氏」企画展も開催されています。永福寺展と合わせて見に行くなら今がチャンス!
・・・まぁ、紅葉の季節に成ってから扇ヵ谷地区の海蔵寺や佐助稲荷神社界隈の紅葉散策や、反対側の浄明寺地区の浄妙寺や報国寺の紅葉散歩と合わせて見学に来るのもアリですね♪
一応、以下に鎌倉歴史文化交流館のアドレスと企画展のホームページ掲載して置きます。
【鎌倉歴史文化交流館】
【CGによって復元された永福寺ホームページ】
http://www.bukenokoto-kamakura.com/yofuku-ji/cg.html

皆さん、そろそろ肌寒さを感じる季節に成りました。風邪等引かれません様に~。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪



















今年も戦国時代の小田原北条家の白備え隊、小机衆と言う軍団の拠点だった小机城で日本の竹ファンクラブにより「小机城址市民の森 竹灯籠まつり」が開催されます。
本稿の最後の方で小机城で活躍した記録の残る武将達の紹介もしますが先ずは、御祭りの紹介を!
小机城址市民の森竹灯籠まつり 日本の竹ファンクラブ公式より転載
竹灯籠まつり詳細は以下リンクへ!
日本の竹ファンクラブ 小机城址市民の森竹灯籠まつり
Twitterに途中経過も掲載されていますので御興味有る方は御覧下さい!


さて、小机城址の竹灯籠まつり、余り御存知無い人の為に一応、過去の竹灯籠まつりの写真と、小机城に関するブログ記事リンクを掲載して置きます。



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以下、小机衆だった主だった武将の名前です。
【小机衆】
[歴代城主]
●北条 長綱公=入道号:幻庵宗哲
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその遺領も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・早世
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
[城代家老]
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。
[軍団重臣]
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
・・・この他にも沢山の代官や北条家の被官が居ますが挙げていたらキリが無いのでひとまずこれまで。
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小机城で活躍した現在では名も知られない武将達の御子孫達が横浜市の行政による宅地開発に抵抗し守って来てくれた小机城の城址で毎年開催される風流な竹灯籠まつり、皆さんも楽しんでみませんか?

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