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神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。
皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪
…と、思って書いています。

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ネットで横浜市には武将もいないし城も無いと言う無知な人の書き込みが有るのを見かけたので、知らない人の為に有名な人達が居城した城が沢山、横浜市内に在った事を列挙してみようと思う。

平安時代末期~鎌倉時代末期

源範頼公・・・鎌倉武士団の北関東軍団長
※平安時代末期~鎌倉時代前期
埼玉県比企郡吉見領主
・・・源頼朝公の腹違いの弟。武将としての軍才に兄弟中最も優れていた名将で大軍団を任され敗戦する事が無かった。当初は源頼朝公の南関東武士団とは別派閥の北関東武士団から大将として人望を集めた。源頼朝による幕府の成立以前、まだ関東の平定戦が行われていた頃には常陸国の志太義広率いる三万の大軍を、与力の小山家と共同で撃破している。
平氏追討戦線では常に堅実な戦果をあげ平氏を滅亡寸前まで追い詰めるが、政権内での政治的な背景があり壇之浦の合戦では弟の源義経公に職務を引き継いだ。結果的に源義経公は朝廷と接近し過ぎる等の政治的な姿勢が鎌倉幕府内で武士団から反感と不信を産み対立が表面化、鎌倉幕府へ反乱を起こす事になる。
源範頼公も南関東武士団と北関東武士団の権力闘争から北条家の謀略に巻き込まれ吾妻鑑では殺害された事に成っているが、実際は横浜市金沢区の太寧寺での蟄居中に自ら切腹した。当時の太寧寺の所在地は関東学院大学の敷地、昭和初期の大戦中に海軍によって飛行場建設の為に現在地の金沢区片吹に縮小移転させられた。
神奈川県での菩提寺は金沢区太寧寺。

佐々木高綱公・・・長門守護・備前守護
※平安時代末期~鎌倉時代前期
横浜市港北区鳥山城主、川崎市川崎区川崎館城主
・・・宇多源氏佐々木氏、宇治川合戦等で活躍した名将。
鳥山八幡宮と背後の鳥山が鳥山城跡と伝わる。鳥山八幡宮の前には旧街道が通り、近くには源頼朝公から高綱公が恩賞として授けらた名馬の池月を埋葬し奉った馬頭観音の祠がある。
また、源頼朝公の命令で鎌倉の北東の鬼門の街道上に当たる鳥山を佐々木高綱公が任せられた際に頼朝公の名代で鎌倉鬼門鎮護の寺院として開いた三会寺も存在する。三会寺の寺紋は源頼朝公に使用を許された源氏の笹竜胆の家紋。

佐々木(六角)泰綱公・・・近江守護 
※鎌倉時代前期
佐々木高綱公の兄佐々木定綱公の嫡孫で高綱公の武蔵国域の遺領を継ぐ。
・・・宇多源氏佐々木氏六角家初代、神奈川区~港北区の新田開発を行った人で、六角橋地名由来の説の一つにも成った人。
子孫には六角定頼公等、太平記や信長公記等の軍記書物に登場する名将が多い。川崎市川崎区の宗三寺の梵鐘には佐々木泰綱公の奉納と記されていた事が記録に残る。

多田行綱公・・・摂津国総追捕使 
※平安時代末期
横浜市都筑区茅ヶ崎城主
・・・摂津源氏の棟梁。源義経公の功績と誤認されている❝鵯越逆落とし❞奇襲の実際の主導者。作戦立案は三浦一族で名軍師の三浦半島佐原城主佐原義連公だった。横浜市での菩提寺は都筑区の寿福寺。

和田義盛公・・・鎌倉幕府初代侍所別当 ※平安時代末期~鎌倉時代前期
横浜市港南区野庭関城主、三浦市初声和田和田城主、横須賀市吉井怒田城主
・・・源頼朝公の忠臣で鎌倉幕府成立時に軍事長官である侍所別当の初代に任命される。戦国武将の様な経済観念と築城技術を持っていて、彼の築城した城は何処も戦国時代の縄張りに近い平山城に食違い虎口を用いた上に江戸時代の城の様に港を城下に備えており、防衛だけではなく流通経済も掌握していた事が解かる。更に内陸の城も街道を押さえる場所に立地しており、城以外にも幕府成立以前に鎌倉街道旧道に
港南区餅い坂等の関所を設けて治安向上と通過税の徴収で経済的な利益を得ていた事が史跡から解る。武勇に優れた武将として有名だが、実は神奈川県内の義盛公関連の史跡を見て廻ると軍政家として実務力に長けていた武将だった事が良く解る。
菩提寺は三浦半島横須賀市長坂の無量寺、三浦市初声和田の白幡神社等。

金沢北条実時公・・・引付頭人・評定衆
※鎌倉時代前期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主
・・・鎌倉幕府の引付頭人、評定衆として幕府の中枢で活躍した人物。日本初の私設図書館である金沢文庫を邸宅である金沢山稱名寺の隣の谷戸に開いた人物で、高い教養を持ち全時代の武士文化を通じて細川幽斎公をも上回る教養を証明する和漢の蔵書と仏具美術品を収集した人物でもある。その文化財は明治時代に金沢区野島に別宅を構え大日本帝国憲法を起草した伊藤博文公によって保護され金沢文庫は現代では日本のみならず中国台湾のシルクロード研究等の歴史学者からも❝東日本の正倉院❞の異名で呼ばれ、大量の古文書を保有する博物館の神奈川県立金沢文庫に継承されている。
子孫は六波羅探題として関西地方を統治する役割を担った。
菩提寺は金沢区称名寺。

金沢北条顕時公・・・引付頭人・評定衆
※鎌倉時代後期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主で北条実時公の子で跡を継いだ。
・・・幕府で重鎮として舅の安達泰盛公と主君で本家の北条貞時公の時代に活躍したが、北条貞時公の内管領である平頼綱の陰謀で安達泰盛公が攻め殺されると自身も下総国埴生の所領に蟄居(ちっきょ=謹慎)を命じられた。
菩提寺は金沢区称名寺。

金沢北条貞顕公・・・六波羅探題南方探題 
※鎌倉時代後期
横浜市金沢区金沢城主、青ヶ台城主で北条顕時公の子で跡を継いだ。
・・・鎌倉幕府の西日本を統治する機構の六波羅探題南方の探題を務めた人物で鎌倉幕府の重鎮だった。統治能力だけでなく教養が高く、兼好法師こと吉田兼好の兄が金沢北条家の執事を務めていた経緯から所領の金沢領六浦(横浜市金沢区)の浄願寺(上行寺東遺跡の跡地)に兼好法師が住職として長期滞在して金沢八景の景勝を遊覧した記録が、浄願寺の再興寺院である金沢区町屋の真言宗の龍華寺や日蓮宗の上行寺等に伝わる。鎌倉幕府滅亡時も重鎮として活躍し、兵を率いて小袋谷(こぶくろたに)方面から侵入しようとする新田義貞率いる倒幕軍を一歩たりとも巨福呂坂(こぶくろざか)切通しから内側に侵入させず鎌倉城防衛網を堅守し活躍したが、新田軍本隊が幕府軍の別部隊の守備する極楽寺坂の切通し方面へ回り稲村ヶ崎の干潮時に潮の引いた由比ヶ浜の海中から鎌倉市街に侵入された凶報を聞くと本家の北条高時公の籠城する衣張山~大町の名越城の防衛網の市街地側の山裾にある東勝寺で一族と共に自害した。
菩提寺は金沢区称名寺。

名越北条宗長公・・・能登国守護・安芸国守護・豊前国守護
 ※鎌倉時代後期
磯子区杉田領主(恐らく鎌倉幕府成立後は旧鎌倉郡と金沢領を除く横浜市全域が名越北条家の所領)
・・・名越北条家は本来は鎌倉幕府執権北条家の嫡流だが、父の北条義時公が再婚して腹違いの弟の北条泰時公が跡を継いだので家を相続する事が出来なかった。その火種が後々にも続き事有る毎に本家と成った北条泰時公の子孫の家系と権力争いをしたが祖先が本家から誅殺される事件が起きて以降は円滑な幕府運営に協力した。北条宗長公の頃には幕府の中でも三ヶ国の守護を任せられる等の厚遇を得ている。磯子区杉田にある臨済宗関東十刹の一つ、東漸寺は今では本寺の
東漸寺その物は巨大な釈迦堂と寺名を引き継いだ塔中寺院の真楽庵が残るのみだが名越北条家が支援した歴史が今に伝わる。

室町時代~安土桃山時代~江戸時代初期

足利尊氏公・・・室町幕府征夷大将軍(北朝)
横浜市神奈川区の権現堂(権現山)城に籠城
・・・旧東海道の通る神奈川区権現堂城に籠城し南朝と戦った。京急神奈川駅と国道1号線は権現堂城の権現山を掘削し掘り切った道で、以前は幸ヶ谷公園~江戸時代の東海道神奈川宿だった神奈川区台町の本覚寺にかけて全てが権現堂城だった。権現堂城は一般的に権現山城と呼ばれているが、戦国時代の間宮家の歴史から権現堂城が正しい名前である事が解かる。

足利直義公・・・左兵衛督(鎌倉府長官)
鎌倉城主(鎌倉市街地を囲む城塞群の歴史学的な呼称)、鎌倉郡秋葉郷領主(戸塚区東戸塚~品濃町一帯)
・・・兄で将軍の足利尊氏公の統治下で内政を担当しながら自身も軍団長としてかつやくした名将。観応の優乱で兄弟が北朝南朝に分かれ対立するまで活躍した。関東の統治を任されており、征夷大将軍しか住職を任命出来ない臨済宗鎌倉五山の大寺院5ヵ寺を保護し、現在の戸塚区品濃町界隈を5ヵ寺筆頭の建長寺の塔中に寄進した事が執事を勤めた斯波高経公の古文書に記録され伝わる。観応の優乱の後に暗殺され足利家の鎌倉時代の足利家邸宅跡の菩提寺鎌倉市浄妙寺に眠る。

ー以下戦国時代の人物ー

太田道灌公・・・扇谷上杉家家裁(関東管領代理)、相模守護代
東京都千代田区江戸城主、横浜市都筑区佐江戸城主、港北区篠原城主、南区太田館城主
・・・鎌倉公坊を支えた関東管領扇谷上杉定正公の執事を勤め、存命中は築城の名手としても名を知られ合戦では無敗を誇った名軍師。又、それまで武士の武具だった“大弓”を下級兵士にも配備し日本で最初に組織的な“足軽弓兵部隊”を用いた人物でもある。しかし主君の上杉定正公と鎌倉公坊に対する外交方針で軋轢があり伊勢原市に存在した大城郭の上杉家糟屋館の湯殿入り虎口で主君からの刺客に奇襲され七人の従者に逃げる時間を稼いで貰い宿所兼実務所だった洞昌院公所寺の山門まで退避したものの重症を負っており絶命した。
扇谷上杉家が古河公坊家から再度離反し北条家が扇谷上杉家討伐の大義名分を得て伊勢原市域から上杉家勢力が駆逐された後に、友輩の伊勢宗瑞(北条早雲)公と万里集九和尚により太田道灌公の首の無い遺骸が洞昌院公所寺に改めて埋葬され現在に至る。首塚は太田道灌公の鎌倉での私邸跡の鎌倉市扇ヵ谷鎌倉山に改葬され英勝寺初代尼住職で道灌公の子孫で徳川家康公の側室だった太田お梶=英勝院尼より首塚は守られ現在に至る。
菩提寺は伊勢原市洞昌院公所寺と鎌倉市英勝寺。

吉良成高公・・・左京大夫、左兵衛佐(鎌倉公坊代理)
横浜市南区蒔田(蒔田御所)城主、東京都世田谷区世田谷城主
10万石の勢力を誇った大名で太田道灌公と伊勢宗瑞公と臨済宗の高僧で雅人の万里集九和尚の共通の親友だった。特に太田道灌公との親睦が深く、戦上手な事が解る逸話が万里集九和尚の著書“梅花無尽蔵”で紹介されている。
太田道灌公が主君の上杉定正公に殺害されると上杉家従属下から離反し、同じく古河公坊を支えた北条家と従属同盟を結び北条家から姫を娶った。
暫時空白と成った鎌倉公坊代理を務めた。菩提寺は蒔田御所跡の城下に在る勝國寺。

吉良頼康公・・・左京大夫、左兵衛佐(鎌倉公坊代理)
横浜市南区蒔田(蒔田御所)城主、東京都世田谷区世田谷城主
吉良成高公の跡継ぎで高い内政力を持った高家大名。古河公方の跡継ぎだった足利義氏公が元服するまでの間、蒔田城で鎌倉公方代理を行った人物。家臣団には多摩川や荒川流域と東京湾の水軍衆が多くいる。物流によって高い経済力を保持した。房総半島の里見家や正木家の鎌倉市街地焼き討ちの際には、その家臣団と自らの権威で北条家に敵対する上杉方の大名にも鎌倉市街地と鶴岡八幡宮再建の資材や資金を供出させた上で、間宮家と協力し集積した材木を海運で5万人の人足を動員して間宮家の軍港だった杉田湊まで輸送する偉業を成し遂げている。
比較対照として織田信長公が安土城や二条城を建設した頃の領国石高は700万石超、対して当時の北条家の勢力圏は100万石未満だった頃に周辺の敵対勢力も外交的に屈服させて鎌倉再建の資材を供出させ集めた経済力と外交能力と権威は凄まじい。しかし全く合戦をしなかった小大名としても有名で、後に足利幕府が滅亡すると足利家一族の吉良家の権威も失墜したのか養子をとり北条家の姫と結婚させて隠居している。
世田谷のボロ市は頼康公の存命中に吉良家が北条氏政公に許可を貰って始めた楽市楽座が始まりで現在に続くイベントで無形文化遺産だったりする。
菩提寺は南区勝國寺と東京都世田谷区の勝光院。

多米元忠公・・・北条家五色備え黒備え大将
横浜市神奈川区青木城主(青木城は権現堂城の改修後の名前)
・・・北条氏綱公の代に三河国から移住して来た。父の代には父の元益公が今川家臣だった伊勢盛時(北条早雲)公の与力として❝伊勢七騎❞と呼ばれ今川家による松平家の居城三河安祥城攻めの頃に活躍していた事が多米家菩提寺の神奈川区豊顕寺の寺伝から確認出来る。一般的に父と誤認されている多米元興と言う人物は世代的に多目元忠公本人だろう。今川家による三河征服が失敗して松平家の勢力が拡張した事で領地を失陥し北条氏綱公の世代に小田原城に亡命して来ている。
後に北条氏綱公が危篤して山内上杉家・扇谷上杉家旧臣・古河公方が連合して北条家の河越城を攻めた際は、北条氏康公の軍師として❝日本三大夜戦❞と呼ばれ俗に河越夜戦と呼ばれる合戦で活躍している。
菩提寺は横浜市神奈川区の豊顕寺。

笠原信為公・・・北条家五家老の一人、小机衆副将、
北条五色備え隊白備え隊大将
横浜市港北区小机城代、横浜市港北区大曾根城主
・・・和歌等の文化教養に精通し外交官を務め、北条氏綱公の代には五家老の一人に数えられ五色備え軍団の内、白備え隊の大将も務めたので武将としての資質も高かった事が解かる。北条氏綱公による江戸城攻略の帰路、小机城代に任じられており、菩提寺は廃寺の神奈川区神大寺と伝わる。神大寺は支院の小机城下雲松院に現在では機能移転しているが、雲松院は笠原信為公が父君の笠原信隆公の菩提寺として開いた寺院でもある。
現在の菩提寺は港北区小机の雲松院。

笠原康勝公・・・小机衆副将、
北条五色備え隊白備え隊大将
横浜市港北区小机城代、横浜市港北区大曾根城主
・・・笠原信為公の跡継ぎ。北条家の織田家への外交使者を北条氏照公付家老間宮綱信公と供に務めた記録が残る。北条五色備え軍団の白備え大将を務め、小机衆大将の北条氏尭公等歴代の小机衆大将を補佐した。北条氏尭公は河越城に来襲した上杉謙信の大軍勢を撃退する活躍をした名将だった事から、その小机衆を実質的に取り仕切っていた笠原康勝公の武将としての資質も高かった事が解かる。
大曽根城下に龍松院を開いている。
菩提寺は港北区大倉山の龍松院と港北区小机の雲松院。

中田加賀守公・・・小机衆与力の官僚
横浜市港北区日吉矢上城主、川崎市高津区井田城主
・・・1560年頃は北条家臣として小机衆与力と成り内政を仕切った人物。元々は太田家の家臣だったと思われ、太田康資公が北条家から離反する以前は太田康資公の陪臣として家禄を与えられていた。
江戸時代の昌平坂学問所(東大の前身)の地誌編纂所の間宮士信と言う歴史学者が「中田加賀守は吉良家の与力だった」とも書いているので、小机衆に成る以前か、後に吉良家の与力として編成されていた時期も有った様だ。最大時には三万石相当の所領の代官を務めていた事が中田家関連の各所の寺院で伝えられている。中田加賀守の姫君の鶴野姫は北条家の港南区野庭関城下に住した下総国臼井城主名代で臼居衆を率いて武田信玄との三増峠合戦に参戦した臼居胤知公の妻女となる。
菩提寺は港北区日吉の保福寺と保土ヶ谷区東川島の正観寺。

間宮信冬公・・・古河公方家臣で小田原北条家与力相模十四騎筆頭
横浜市神奈川区権現山(権現堂)城主、鶴見区末吉(下末吉~上末吉~三ッ池)領主
・・・初期の小田原北条家臣団の中で相模十四騎と呼ばれた旗本中、筆頭の相模十四騎筆頭と呼ばれた武将。権現山城の戦いと俗に呼ばれる伊勢宗瑞(北条早雲)公と小沢城に逃げた扇谷上杉朝興公の残党の戦いで活躍し一騎駆けをして敵中に突撃した武勇が記録に残るが生死は不明。年代的には子息ではない親族と思われる間宮信盛公が間宮家の頭領と成っている。
尚、この時に反上杉家として北条側に内応した上田家と供に籠城した❝権現堂城❞だが、一般的に権現山城と歴史学者には呼ばれているが正しい名称は権現堂城と言うのが横浜市港南区の真言宗福聚院の寺伝に伝わっている。同地に籠城した間宮家臣の子孫には修験道の大家である権現堂松本家がいる。この松本家には間宮家子孫で江戸時代の間宮家の家譜から笹下間宮子孫の武内家の更に祖先で間宮家からも養子が入っている事が確認出来る。権現堂家は元修験道の法印で明治以降は社家と成った家で、元は鎌倉時代に鎌倉市扇ヵ谷地区の亀ヶ谷に所在した修験道の大道場で源頼朝公から深く信奉された修験道門跡寺院の亀谷山福禅寺の名代を室町時代に務めた権現堂の別当家に当たる。同じく頼朝公が信奉した修験道鎌倉山崎泉蔵坊から機能を移転した大靈山泉蔵院桐谷寺(現:熊野神社)が間宮家の旧領の磯子区中原に存在するが、江戸時代を通じて権現堂が旧久良岐郡の修験道系神社仏閣の大半を統括し、残りを泉蔵坊が管理した歴史が有る。
その権現堂松本家の深く関わった横浜市港南区の真言宗福聚院は明治の廃仏毀釈で鎌倉時代の福禅寺の本尊だった不動明王を権現堂家から譲り受けているが、福聚院の寺伝で「権現堂家は❝権現堂城の権現堂合戦❞で戦火に遭って港南区域に移転して来た」と伝わる事から権現山城の名は後世に❝権現堂の跡の山の城跡❞から伝え間違えられ江戸時代の風土記を元に現代の歴史学者が呼び始めた名前である事が名白。又、権現堂城跡は後に青木城として改修され北条五色備え軍団の黒備え大将を務めた北条家の名軍師である多米元忠公が城主を務めた。
菩提寺は鶴見区下末吉の宝泉寺。

間宮信盛 宗三公・・・古河公方家臣→小田原北条家臣相模十四期筆頭
横浜市磯子区杉田領主、川崎市川崎区堀之内城主
・・・権現堂城の敗戦で間宮家所領の久良岐郡杉田郷(磯子区杉田~中原~森~峯~洋光台~港南区の旧鎌倉郡を除いた地域)に退避して来て以来、杉田郷を間宮家の本拠地と定めた。
この人物を権現山合戦の間宮彦四郎とする説も有るが、その場合、間宮家の歴代当主は彦次郎(※次は継ぐの意味)を名乗るので、俗に権現山合戦と呼ばれる合戦で間宮彦四郎と名乗った事と整合性が無くなる。
菩提寺は川崎市川崎区の宗三寺。

間宮宗甫公・・・北条氏康公奏者(秘書)
神奈川区斎藤分(斎藤分町~白楽)、横須賀市紺屋(西浦賀)領主
・・・北条所領役帳に奏者として北条氏康公に検地の報告等を行っている事が確認出来る。北条氏康公の直属だったが西浦賀を領有している事から北条家の初期段階の軍団編成では北条氏康公の実弟で早世した北条為昌公本光院殿が三浦半島も統治していた様なので、元々その与力だった可能性が有る。
子孫は今も斎藤分町に多数在住している。間宮家は水運の要所を拠点にしており、水軍も持っていた事から間宮宗甫公も神奈川区神奈川と横須賀の西浦賀で水軍を管理していたと考えられる。
斎藤分町の間宮一族菩提寺は神奈川区三ツ沢西町の豊顕寺。

間宮康俊 宗覚公・・・小田原北条家五色備え軍団、黄備え隊玉縄衆付家老
横浜市磯子区~港南区笹下城主。
・・・北条氏康公の義弟で関東最強の武将だった北条綱成公の付家老を務めた人物。里見家正木家等の房総半島の大名による鎌倉焼き討ちの後の鶴岡八幡宮再建では間宮家の杉田湊に材木を集積して鶴岡八幡宮に海路輸送しているが、寄親の北条綱成公が材木奉行だった事から実務を間宮康俊公が取り仕切っていた事が解かる。その為か鶴岡八幡宮再建では北条家一族と共に築地塀の奉納する事を許されている。
合戦でも活躍しており、小田原北条家滅亡時も箱根山中の山中城に当時の玉縄衆大将の北条氏勝公や城主松田康長公と兵3000で籠城するが、北条氏勝公が籠城兵の大半を率いて所領の玉縄城に逃亡してしまう中で自身は手勢200騎を率いて松田康長公の手勢と合わせて兵300で敵軍豊臣秀次公の2万6千の大軍を迎撃し、敵大名の一柳直末公を討ち取る活躍をしている。この戦いでは同じく北条家臣の長谷川近秀公や多米長定公も討死している。
間宮康俊公の戒名は江戸幕府の寛政重修諸家譜を編纂した役人が誤って年代的に康俊公の父君に当たる信元公の戒名である❝宗閑❞としているが、これは明白な誤りで、横浜市南区の弘明寺の江戸時代の扁額や間宮家菩提寺で信冬公が開基して康俊公が再興した鶴見区下末吉宝泉寺の江戸時代の記録からも寛政譜の通り❝宗覚❞が正しい戒名である事が解かる。
娘の於久が徳川家康公の愛妾となり駿府城で姫を産んでいるほか、嫡孫の間宮直元公が徳川幕府初代の但馬奉行生野銀山代官を務め、更に二代目佐渡金山代官、本牧奉行(横浜市南部の支配)を務め大坂城攻めで生野銀山衆を率いて参戦し真田丸や総掘りの埋め立て作戦を徳川家康公に進言した名軍師として記録に残る。
間宮康俊公の菩提寺は鶴見区下末吉の宝泉寺、江戸幕府が戒名を誤って開いた菩提寺は三島市山中城跡の宗閑寺。
間宮直元公の菩提寺は間宮直元公の彫像を奉る御神廟が昭和初期まで在った磯子区田中の妙蓮寺。

間宮綱信公・・・滝山衆与力北条氏照公付家老、安土桃山時代の北条家外交官。
氷取沢陣屋領主(江戸時代)
・・・名前に間宮家が与力した玉縄城主北条綱成公から一字頂いている。自身は北条氏照公の付家老として日本100名城の一つ八王子城の設計者と伝えられる。内政を担当した記録が残るが北条家の外交官としても活躍しており、小机城代で白備え隊大将の笠原康勝公と共に織田信長公への使者を務めており、面会して褒美を賜わっている。安土では滝川一益公に接待を受けて上方を観光した記録が残っている。
徳川家康公と直接面識が有り、北条家滅亡後に小緑では在るが間宮家旧領の内磯子区氷取沢を与えられている。子孫に昌平坂学問所で頭取を務めた学者の間宮士信がいる。
間宮綱信公の菩提寺は磯子区氷取沢の宝勝寺で、同寺には伊藤博文公の武士時代の遺品も残る。
間宮士信公の菩提寺は千葉県八千代市の観音寺。

間宮信繁公・・・北条氏康公の御馬廻り衆、江戸幕府初代鷹匠頭
小田原市水尾城代、磯子区杉田(杉田~中原)領主
・・・始め北条家臣として間宮家の杉田湊を預かった。間宮信繁公の頃には笹下城主間宮家からは完全に分家して別家として成立していたが、当然ながら一族間で交流は有ったので関ヶ原合戦には徳川家康公の参謀、鷹匠頭として手勢50騎の鷹匠部隊全員を鉄砲で武装させ参戦しているが、この鉄砲は金山銀山の代官として実高5万石を誇った笹下間宮本家の財力で賄われている事が経済規模から解る。その鉄砲で武装した鷹匠の特殊部隊を率いて南宮山の毛利本隊を偵察して徳川本隊の前進行軍の本陣移動を上申し、それにより間宮家と同族の黒田長政公が行った小早川秀秋公の西軍大軍勢の徳川方への寝返りを成功させた名参謀でもある。この時の功績から江戸幕府成立後に徳川家康公が関東で鷹狩を行う度に関ヶ原の功績を話に挙げては鷹匠衆の家禄を増額した記録が残り、最終的に杉田間宮家は2000石の大身旗本に成り、歴代が徳川綱吉公による生類憐みの令発布まで江戸幕府の鷹匠頭を務めた。
菩提寺は杉田妙法寺。

安藤良整公・・・内政に長けた北条家中最高の名奉行
横浜市港南区野庭関城代
・・・善政を行った北条家でも特に内政に優れた武将として広く知られる。村同士の水利権争いを調停する等の北条家領国運営に寄与し、税率40%と徴税権が抑制され豊かではない北条家臣団が領民の百姓達から不当な搾取を行えない徴税システムを確率した。安藤升と呼ばれる徴税に用いる計測用の規格を北条家臣団の標準化させる等の公正公明な徴税機構を成立させた。
江戸時代の画家、歌川広重は好んで旧北条家所縁の地を描いて廻り、本名が安藤広重である事や名に古河公坊所縁の“重”の一字がある上、画の師匠は歌川=宇田川と同じく北条家臣団の子孫の姓である事から安藤良整に連なる人物かも知れない。

石巻康保公・・・北条氏康公、氏政公、氏直公三代の御馬廻り衆の重臣
横浜市港南区野庭関城代
・・・旧相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境で平安時代の鎌倉街道古道を守備する位置に鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公が築城した野庭関城を戦国時代の北条家臣として城代を務め治めた人物。他大名家との外交官も務めた重臣。北条家滅亡後に早い段階で亡くなり、跡を弟の石巻康敬公が継いだ。
石巻康敬公は泉区中田を領有し江戸時代に土地開発を行い重税を課さず善政を行ったと現在も御当地に伝承する。
石巻家の江戸時代以後の菩提寺は泉区中田東の中田寺。

板部岡江雪斎公・・・北条家寺社奉行で外交官、豊臣家御伽衆
横浜市緑区長津田領主
・・・実家の田中家から板部岡康雄(実家は石巻家)に養子に入った人物。北条家の祐筆であり寺社奉行を務めた経緯で北条氏直公の代には北条家の外交を代表する人物に成り、豊臣秀吉との外交折衝に当たった人物として有名。武将としての事績は余り残らないが、外交能力が高かった事から北条家滅亡後に豊臣秀吉に抜擢されて山名家等の名族と並び御伽衆に登用されている。大河ドラマや小説にも良く登場する人物。
菩提寺は緑区長津田の大林寺。

宅間上杉規富公・・・初代関東管領の末裔
横浜市港南区伊予殿根永谷城主、旭区本村の二俣川陣屋領主。
・・・祖先は足利尊氏公の母姉妹の子孫で室町幕府初代関東管領を勤めた家系。鎌倉公坊に忠節を尽くし室町幕府の勢力争いに巻き込まれ永享の乱で宅間上杉家は勢力が縮小した。しかし家名は存続し古河公坊家臣から北条家臣化し、宅間殿と北条家の歴代当主から敬称で呼ばれた。安土桃山時代に成ると宅間上杉規富公が三崎城主と成った北条氏規公の付家老と成った。そのせいか宅間上杉家関連の神社仏閣の檀家氏子には三浦半島所縁の苗字を姓にする一族が多い。
徳川家康公の江戸入城時に小録ながら登用され旭区二俣川~本村一帯の領主と成った。徳川幕府の外交官として徳川家を代表し伊達家への使者も務めた。
菩提寺は旭区本村の三仏寺。


瀬上沢と言う横浜市最大最後の蛍の生息地が在り例年5月~6月は蛍の乱舞が観察できるのですが、東急建設と横浜市都市計画課と林文子市長が❝日本最大規模の蹈鞴遺跡❞もろとも破壊しようとしています。
教育委員会も建設関連部署との市庁舎内での部局間の政治力の問題で以前の市長の施政時代と異なり保護を強く市長に対して上申出来ない状況が発生しているそうです。
今回の試掘でも教育委員会の埋蔵文化財センターは発掘調査を一部だけ行い、全国の蹈鞴製鉄や工業史の学者や考古学者や製鉄文化の専門家に通知せず開催しました。それどころか遺跡が出土した主要な場所は埋め戻し公開せず、丸で日本全国の歴史学者や製鉄や工業の文化関連の有識者の耳目に触れない様に画策したかに思わる様に周辺住民が参加する慎ましやかな規模のまま説明会を行いました。
しかし林文子市長が統治する以前の横浜市長の施政下で教育委員会が行った試掘調査の資料を公開しており、それを元に瀬上沢の自然環境と合わせて猿田遺跡と深田遺跡の保護活動を行っている皆さんが作成した資料の転載の許可を頂いたので如何にスキャンした資料を添付し皆さんに紹介します。
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SAVE THE SEGAMI!ホームページ→http://savesegami.com/
瀬上沢の蛍生息地域と上郷猿田遺跡・深田遺跡の保護活動団体

さて、この❝上郷深田遺跡を守る会❞の資料より詳しい資料は、発掘調査を行った❝横浜市埋蔵文化財センター❞と❝横浜市教育委員会❞が情報を持っていますので、見学なさりたい方や詳細を知りたい方、はたまた保護活動に参加されたい方は要望や保護陳情を伝えたい方もいらっしゃると思うので以下に連絡先を紹介して置きます。

公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター

東急建設株式会社

横浜市建築局都市計画課

林文子市長への陳情窓口 

市長の部屋 政策局秘書部秘書課

横浜市教育委員会庶務課

税理士による林文子後援会

林文子市長支援者の黒岩神奈川県知事の窓口
黒岩裕治事務所

林文子市長を推薦した自民党の横浜市選出の菅義偉官房長官
横浜市部事務所
〒232₋0017 横浜市南区宿町2₋49
TEL:045₋743₋5550 FAX:045₋743₋5296
suga.yoshihide@gmai.com

ここに名の掲載の有る方々にも立場があるので保護を表立って表明できないものの水面下では協力して下さっている方もいらっしゃるので“迷惑に成る嫌がらせ行為は行わないで”下さい。
自民党や公明党に関係する議員の方が多くいますが、当然ながら自民党にも瀬上沢と猿田遺跡深田遺跡の保護に熱心な方もいらっしゃいますが横浜市役所と東急建設のシガラミで表立って批判を出来ずにいらっしゃる方もいますし、自民党と対立軸の共産党にも多く保護を表明して下さってる方もいますが逆に言うだけ番長で何も実行して下さらない方もいらっしゃいます。

なので純粋に関係先へは集団見学の要請や横浜市内では無く日本の蹈鞴製鉄や考古学の権威による再調査や保護の陳情を行って頂きます様に御願いします。

この保護活動には既に12万人の署名が集まっています。
菅官房長官の秘書官へも陳情を行ったのですが、菅官房長官の耳目にこの件が届いた形跡もないそうです。実は国の政策が変り、盛土による地形埋立土地開発が不可に決定したのですが、当該の瀬上沢と深田遺跡猿田遺跡の谷は横浜市の都市建設局のシガラミで東急建設さんは不採算事業にも関わらず撤退も出来ず、国の盛土建設否定政策が明示されても国の方針に逆らって盛土を推進するしか無く代替え地も用意して貰えないそうです。

党派を問わず自民党と共産党の政治家も保護に助力を表明して下さってる方もいます。自民党には反対に瀬上沢の貴重な自然と日本の遺産とも言うべき大規模蹈鞴遺跡の破壊を推進する法案を建議し通してしまった議員もいます。無論、自民党以外の議員にも賛成した議員はいます。
自民党の中区辺り選出の某国会議員の兄弟の市会議員が兄を通じて神奈川県庁が保護を指示していた瀬上沢区域を横浜市主導で開発が行える様に法案を通したせいで当該地域は昨年横浜市の林文子市長によって市街(緑)化調整区域から商業区域に登記を変えられてしまいました。

松本議員(あ言っちゃったwww)は横浜市南部の自然環境にも歴史文化や日本規模の遺跡にも全く興味が無い様で東急と林文子市長による最後の蛍大生息地の自然破壊と日本規模の蹈鞴製鉄籍の破壊に無頓着なのか意図的に法案を他の自民党議員に瀬上沢と日本有数規模の蹈鞴遺跡破壊を伝えずに通させてしまったのか分かりませんが、結果的に破壊容認を進めてしまいました。
対して高卒から一度就職してから夜間大学を卒業して政治家に成った苦労人の菅官房長官の地元の腹心的な瀬野間議員や田野井議員は保護に前向きだそうですし、党派を超えて共産党の皆さんも積極的に保護を訴えて下さってます。以前は民主党の議員も協力して下さっていたのに現在は民主党系議員は全く無関心に成っているそうです。
因みに瀬野間議員は室町時代初期の関東管領宅間上杉家の神社の氏子サンで、田野井議員の御先祖様は北条家臣の名将間宮康俊公の家臣の田野井家の御子孫です。

何で神奈川県選出、特に横浜市出身の政治家の皆さんは旧鎌倉郡に属す栄区と港南区に跨る横浜市に日本規模で貴重な大規模蹈鞴製鉄遺跡と、横浜市最大最後の自然と蛍の生息地を保護すれば12万人の票田が更に宣伝に成り、瀬上沢と猿田遺跡深田遺跡の保護支援者12万人に留まらず円海山の保護活動を行う横浜市栄区民12万人・港南区民22万人・磯子区民16万人・金沢区民20万人の票田に波及し更に大きな支持を得る材料だと何故に気が付かないのでしょうか?
当該地域約70万人市民の内、瀬上沢の保護署名だけでも12万人です。
この活動は若い世代が加わりますので今年もの凄い速さで加速して波及して行きます。
左派の議員さんも口先の保護では無く実効性の有る協力をしないと信頼を失うし、仮に全国の左派系大学で考古学、特に渡来人と古代日本人が協力して文化を育んだ歴史の研究に熱心な学者さんに助力を仰ぐ等具体的な行動をして頂けて結果的に東急建設の瀬上沢と深田遺跡猿田遺跡破壊を止められれば、保護団体も日和ってる部類の自民党議員から票田を渡すとは何故に考えないのでしょうか?

・・・政治家の皆さん、そんなに横浜市民の為に自然環境と史跡を守るより港湾労働者のドンが怖いんですか(笑)?横浜市の第三セクターのFMヨコハマ、横浜スタジアム、TVKの経営トップが何で全部1人の林文子市長支援者の港湾労働者のドンなんでしょうか?
国会議員、県会議員、市会議員としておかしいとは思いませんか?
誰が市民の開発反対する瀬上沢開発の推進者か横浜市民は既に気が付き始めてますよ?
菅官房長官の秘書さん?何で菅さんに瀬上沢の問題が市民の反対票が凄まじい署名活動の数に成っている事実が耳に入らないんでしょうかね~?
さっさと菅官房長官に横浜市が部局越えて港南焼却場の跡地なり、埋め立て地何りに東急さんが瀬上沢の赤字事業を無理してやらなくて済む代替地用意できる様に横浜市に協力を要請して貰わないと東急さんも可哀相でしょ?

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横浜市最大最後の蛍群生地
瀬上沢
タタラ製鉄遺跡
国内最大級関東最大規模
以上の東急建設及び東急グループによる破壊消滅計画が進行中です。
円海山蛍の生息地 久良岐のよし
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概要説明

横浜市の有識者による開発可否決議で過半数が反対し、当該地の区民22万の内半数以上12万人の開発計画反対署名を横浜市“林文子”市長へ提出済みです。
しかし林文子市長に凄まじい数の反対署名が提出され東急建設も批判を受けながら民意を黙殺しました。
林文子市長と東急建設は開発をしたいが為か蛍群生地と遺跡の存在と重要性を内外に拡散周知せず、寧ろ林文子市長が市民の反対と歴代市長市民が守って来た遺跡と自然の蛍群生地の破壊容認する発言を行ったせいで、東急建設担当者による日本規模で貴重な巨大タタラ製鉄遺跡群と蛍群生地破壊計画が進行中です。     

1、平成3 1 年度

上郷開発に関する動き

平成 30 年

1月15日 

市都市計画審議会、多数決で都市計画方針の変更決定

3月15日 

横浜市都市計画方針の変更決定の告示

開発区域を市街化区域に編入、商業地区住宅地区等の指定


平成 31 年

 1 月中旬~ 

東急建設、開発申請に先立ち、製鉄遺跡試掘の為伐採開始

2 月~   

製鉄遺跡道路西側にもが存在するか試掘開始

神奈川県唯一、日本最大級のタタラ製鉄遺跡の存在は 30 年前の調査で判明している。


3 月 16 日 

試掘現場見学会実施、かなりの遺跡の存在が確認された。


2今後の予定

  

 4 月以降  

試掘結果により、本格的な発掘調査を行うか検討中

保存の重要性が区民以外にも知られる事が開発に不都合で消極的

発掘調査を行う場合は、 6 ヵ月から 1 年くらい要する


 5 月以降  

発掘調査を行わない場合、東急建設が開発工事申請

※東急建設及び東急グループの姿勢を見るに林文子市長と市教育委員会に邪魔をさせず規定路線にするつもりか?

        

横浜市建築局にて、開発工事申請書審査

市教育委員会が保護を上申しない。

横浜市は過去にも東大はじめ全国の学者が保護を要請した日本最大級の矢倉群と源頼朝公開基の浄願寺(上行寺東)遺跡も破壊容認し消滅させた前科有り。

審査項目:土木建築法適合審査、周辺住民の賛同、軟弱地盤の安全対策、

地盤問題

偏土圧

風害等


来年 3 月頃 横浜市、開発可否決定

  

来年 4 月頃 埋立て工事開始予定。

発掘調査実施の場合は約 1 年遅れる。

開発ありきで林文子市長と東急建設により計画遂行中

3 今後の問題

東急建設による埋立て工事申請後、工事説明会が行われる予定です。

上郷開発は、周辺住民の賛同を得なければ開発できないことになっています。

人口減少時代に突入し、新たな宅地開発は必要ありません。

一方温暖化対策には緑地の増加が必要とされています。

上郷開発が実行されれば、里山環境は失われ、ヒートアイランド化による温暖化、乾燥化、風害、生態系悪化など、周辺地域への直接的影響が現実のものとなります。また、市街地拡大は将来世代の税負担増となります。

周辺住民の賛同、軟弱地盤の安全対策、 30 年前の産業廃棄物を含む埋め立て地盤問題、偏土圧、風害問題、地主還元地で農業希望もあり市のまちづくりと不整合。

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横浜市中区の伊勢佐木長者町の商店街の鎌倉街道側に本場中国と遜色ない四川料理の味付けの料理を提供する小さな中華料理屋さんが有ります。
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華隆餐館
(ホァロンツァングァン:かりゅうさんかん)
※住所クリックすると地図で位置確認出来ます。

華隆餐館と言う御店で御店主もママさんも中国から来た方です。
料理は麺類が1000円以下の800~900円台のラインナップが多くあります。
おかずの料理は単品で1200円前後ですが、シェアする量なので二人で行ったら一人600円と考えると比較的安く本場の味が楽しめるので御得感が有ります。
中国から来た方の御店だからと言って美味しいとは限らないのが❝横浜(笑)❞なのですが、この御店は本当に中国で食べる四川料理と遜色有りません。何故なら味を変えず中国と同じまま出してらっしゃるから本当に四川省の味のまま麻辣(まーらー:痺れ辛い)味付けで本物を知らない客に媚びて味を変えたり妥協してないからです。
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なのでこの御店、外観も綺麗ですが中は中国の食堂と同じ風景。普通は余り本場の中華を知らない一部日本人なら尻込みそうで中国人の御客サンばかり来そうな御店なのですが、意外な程に日本人の辛い料理好きの客に大人気でアイドルタイムは必ずと言って良い程に満席に成っています。
近所が伊勢佐木町の商店街や横浜スタジアムなので、買物ついでに立ち寄る人が多いんでしょうか?
さて、この御店には小生の御薦めの中華料理の前菜も有ります。
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ハチの巣(牛の胃袋)の冷菜。この御店は麻辣が強くてハチの巣食べるだけでも汗が吹き出しますが、歯切れの良い触感に痺れ辛い味付けが絶妙で御酒を嗜(たしな)む人なら良いツマミにも成りますし、他にも前菜メニューが充実しているので、刀削麺がメインながら友人同士やカップルのデートでも使える御店に成っています。なので実際、店内はカップルや近隣のビジネスマンが男女で食べに来るパターンが多い様です。
この日、小生は高菜と牛肉の刀削麺を注文しました。
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う~ん、ビジュアルから完全に中国のソレ(笑)。
これね、とっても美味しいんです。牛で出汁をとってますから。醤油ベースの中華風テールスープみたいな感じでしょうか。高菜が入っていて少し博多ラーメンにも似てるかも。
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面は削りだすので❝きし麺❞みたいな見た目ですが、もっとモチモチしてるのに柔らかさも有ります。コシの良い饂飩(うどん)を平打ちにした様な感じ?
この高菜面はハッキリ言うと関東人には博多ラーメンと同じで味の好き嫌いが分かれると思います。これよりスタンダードな牛肉麺とか御勧めですし、麻婆豆腐の餡が乗っかった麺も有ったりしますので、色々と味は楽しむ事が出来ます。

簡単な紹介ではありますが、横浜中華街以外にも行って見たい人がいれば此処(ここ)は本格的な四川料理の味付けが楽しめるので是非、足を運んでみては如何でしょうか?




ヴェルニー公園で丁度、南極観測船の“しらせ”が入港してくる所を見れた。
動画撮影する事が出来た!ラッキー~♪
教えてくれたお弓姉さんに感謝!
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ビックリしたのは大戦中の戦艦大和と同じくらいデカイ空母型護衛艦に縦にも横にも高さでも匹敵して観測船のがデカく見えるのね!
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ふむ、運が良い1日に成りました。
おゆみ姉さんにも感謝!

そうそう、米軍人の知り合いがいる人のツテで本物と米国海軍第8艦隊の帽子入手出来た!
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ミサイル巡洋艦チャンセラーズビル
とかの帽子♥️
コピー商品じゃなくて正真正銘本物。中国に工場写す前の十数年前の物の中古。古着的な(笑)?
夏に成ったらかぶろ~♪

あと夜は東急ハンズに行って革細工の道具と銀細工の材料を買ってきました~♪
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皮の端切れ、皮用の縫い針、鳩目、ボタン、鳩目用の受け、ボタン用の受け、銀。
久しぶりに指輪作りたいのと、御守りが増えすぎたので御守り収納するキーケースみたいのを作る材料ね。
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前に海辺と河原で拾って自分で研磨した石クン達を嵌める指輪かペンダントトップを作る予定。
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あと手芸屋サンでも可愛いボタンと、蜻蛉玉を留めると綺麗そうな紐を見付けたので購入した。
このボタンはピアスやペンダントやブレスレット等の材料として万能に使えそうなデザインだった。
日本製凄いねやっぱ。中国でビーズとか買い付けすると必ずB品みたいに何かしら歪(いびつ)に歪(ゆが)みや欠けみいなの有るけど、日本の手芸屋サンで買うと全て良品でしかも細かい工芸品みたいに綺麗!

ふむ、可愛いブレスレットの材料が増えたぞ!
手が空いた日の楽しみが増えた。

しらせ、まだ暫く横須賀港に停泊するだろからヴェルニー公園に見に行ってみてはいかがでしょー?
デカクてビックリするよ!

では又~♪



前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説①
・・・城址(慶應日吉キャンパス)の地勢解説編。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
前回の記事では・・・
1,北条家臣の中田加賀守が居城としていた矢上城の跡が現在の慶応大学日吉キャンパスや日吉駅一帯の台地である事。
2,その日吉の台地が城として防衛に適したとても険阻(けんそ)な地形である事。
3,矢上川や鶴見川と東京湾を利用した水運と交通の要所として経済活動でも重要な最良の❝地勢❞に当たる場所を押さえている事。
・・・この3点の内容を簡単に解説して見ました。
今回の記事は続きですが、引き続き国土地理院色別立体図に加え、実際の現地の写真を交えて御寺の歴史を紹介して行きたいと思います。

先ずは中田加賀守が城の大空堀部分に開いた保禅寺サンの現在の様子の写真と位置を見てみましょう。
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谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
保福禅寺サンは直線距離ですと日吉駅から非常に近い位置に存在しますが、旧境内地の丘や谷は大部分が慶応大学日吉キャンパスに成っていて駅から直接来る事は出来ず遠回りする必要が有ります。この慶応大学日吉キャンパス~日吉駅を挟んで反対側の丘の端っこまで城跡と推測出来る地形が今も現存しています。御寺の山号が❝谷上山(こくじょうさん)❞とされている事から、どうやら江戸時代には❝矢上❞と表記される様に成った矢上~日吉一帯の本来の地名は❝谷(たに)❞に❝上(うえ)❞と書いて❝谷上(やがみ)❞と呼ばれていた事が解かり、現在では矢上城と伝わる城名も本来は地形通りに❝谷上城(やがみじょう)❞だったと推測出来ます。
御城には殿様が祖先を弔ったり禅の道場として修行する御寺がよく作られました。保福寺サンも城の大規模な空堀だった谷底に存在しています。敵の侵入口とも成る空堀の先の坂道の手前で敵を迎撃する必要も有り、砦としても機能しながら人を住ませて常時警戒する役割も担う位置に保福寺サンが築かれた事が良く解ります。
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写真は保福寺サンの境内地で、現在は慶応大学に貸し与えてる野球場の城址側や少林寺拳法部の道場の空堀側に続く大空堀南側の岸壁です。
つまり戦国時代~安土桃山時代の廃城まで、この谷間の壁面の端っこから端っこまで塞ぐ形で保福寺の土塀が設置されていて、関東流の築城術である❝谷戸構え(やとがまえ)❞を形成していた事が解かります。ついでに言えば、ここは谷間の平地で入口を塞いでしまえば警備上も安全な上に当時は井戸を掘る技術が未熟で飲み水の確保が困難な台地上より居住し易い低地な上に矢上川を使えば船で鶴見川にでて更に間宮家の領地の鶴見川下流末吉や川崎館辺りで海の船に乗り換えれば主家の北条家の小田原城や、重要な江戸城にも直ぐに急行出来た交通の便の良さも判ります。
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御城の跡の慶応大学の野球場側からは保福寺の墓地が見えます。
余り御城や歴史に興味が無い人は・・・
「御城の中に御寺が在るのって変じゃない?」
・・・と思うかも知れませんが、実は鎌倉時代~安土桃山時代には良くあった事なんですよ!逆に室町時代なんかは御寺の立地が御城に適しているので御寺を移転させて御城を造る事も良くありました。代表的な例は戦国時代最高クラスの謀略家で梟雄(きょゆう=不正義な人)だった松永久秀公の居城の多聞山城が有名です。鎌倉時代から良くある事だったのですが、武家の学問所として臨済宗や精神訓練の場としての曹洞宗の禅宗が道場として機能し、それとは別に各武家に宗旨(しゅうし=祖先からの宗派)も両方とも大切にしていました。ですから面白い事に昔の殿様達の戒名には武士としての禅宗の法名と家系としての菩提寺の宗派の法名の両方が死後に戒名に併用されるケースも多々有りました。
例えば中田加賀守と一緒に黒駒合戦で戦った横浜市南部を治めた間宮家の末裔で、戦国時代から平和に成って色んな現代の文化の基礎が花開いた江戸時代の頃の人を戒名を例に挙げて見ましょう・・・

源朝臣 佐々木氏 間宮 孫太郎 俊信 入道 宗智
これは生前の名前です。この殿様の没後に和尚さんから贈られた戒名は以下の通りです。
正禮院殿 宗智 日惠 居士
〇〇院殿と言うのは家柄や高い役職ついて社会貢献した人物に送られる❝院殿号(いんでんごう)❞と呼ばれる名です。
❝宗智❞は禅宗の法名で一般的に曹洞宗で多く用いられる法名です。法名ですから、生前に精神修養の道場や学問所としての御寺で修行する際に貰う禅宗の弟子としての名前です。間宮家は鎌倉公方の家来を経て戦国時代には小田原北条家に仕えた武家なので、古河(鎌倉)公方家や小田原北条家の宗旨で学問所として機能してた曹洞宗と江戸時代に成っても深い関わりが有りました。
次に❝日惠❞は日蓮宗の法名です。日蓮宗の和尚さんに弟子入りして出家すると法名として❝日〇❞の様に❝日❞の名の付く法名を与えられる事が非常移多く有ります。家の菩提寺が日蓮宗だと没後に戒名として諡(おくり名)として付け加えられる事も多く有ります。この間宮俊信サンは杉田間宮家の一族なのですが杉田間宮家は室町時代に間宮本家から分家して以来ずっと日蓮宗の宗徒でした。
この様に武士の戒名からも現代と違って江戸時代迄は宗派間の争いも少なく平和で仏教同士だけでなく神社と御寺と修験道の道場は御互いに交流が有り、当時の人々も色んな宗派に勉強に行き来していた事実が戒名にも残っていたりします。
中田家も間宮家と同じく北条家臣だったので、ここ横浜市港北区矢上城址の曹洞宗保福寺サンや保土ヶ谷区の正觀寺サン随流院サンの他に日蓮宗の妙福寺サンとも関係が有ったりします。
間宮家の場合は本家の笹下城主間宮家が江戸時代に本牧奉行や摂津奉行等の地域単位を統括する知事を務めた時期も有るので、北条家臣化以前から関係の深かった天台宗系修験道、真言宗系修験道、真言宗、真言律宗の他に、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の寺院とも関わりが有ったりしました。
まぁ、そんな訳で当時の御寺と言うのは御城の防備や殿様の学問所を兼ねる事があり、中田家の殿様の御子息や一族郎党の学問所としても城下の大空堀の谷にも保福禅寺が建立されたんでしょうね。
ここで御城の遺構残存部の話を始めたい所ですが、先ずは御寺を見て行きます。
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先に解説しましたが、この保福寺サン、山号を❝谷上山(こくじょうさん)❞と呼びます。谷上(矢上)城の御寺だから谷上城から山号を頂き谷上山なんですね。
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だから谷上山だけど谷間に在る(笑)。
さて山門に戻ります。
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この山門をくぐると右手に御堂が一つ有ります。
因みに小生の推測ですが、中田家は江戸時代の藤左衛門サン以前は歴代当主が❝加賀守❞を名乗ったはずなので、この御寺の開基は正直な所いつの時代かは判りません。
中田家の話しに関しては、以前書いたもう一つの正觀寺サンの解説記事を御覧頂けると解かるかと思います。

クリックで記事にリンク⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺・・・保土ヶ谷区東川島町

但(ただ)し、新編武蔵風土記稿にはヒントに成りそうな記載が有ります・・・

新編武蔵風土記稿巻之八 矢上村の項
保福寺
村の中ほとにあり谷上山と號す曹洞宗小机村雲松院末寺なり開基は中田加賀守某なり八王子心源院第六世の僧春悦開闢なればもとより心源院の末に属せり然るに春悦後に當寺をもて小机雲松院の住僧楞室へゆつり與へしが今楞室をもて開山とし雲松院の末寺とはなれり楞室は寛永十五年七月二十九日寂せり、客殿七間半に六間半、本尊阿彌陀を安置す

これ、新編武蔵風土記稿は曹洞宗あるあるに嵌って時代をゴッチャにして誤った解説をしてしまってます。文章で赤字の部分寺を開いた人が中田加賀守曹洞宗雲松院末寺と解説していますが、この時点で既に間違っています。曹洞宗寺院として再興開基したのが中田加賀守です。何故そう言い切れるかと言いますと、緑字の部分小机雲松院の末寺として開かれたと書いていますが小机雲松院は歴史500年弱の比較的新しい御寺です。雲松院は中田加賀守の上司だった小机城城代家老で白備え隊副将の笠原家の菩提寺であり、元々は北条家宿老の笠原信為公の更に御父上が無く成った時に菩提を弔う為に開かれた寺院です。安土桃山時代を生きた中田加賀守と時代的に交流が有りそうなのは笠原信為公の跡を継いだ笠原康勝公ですが、笠原康勝公が開いた龍松院と言う同じ港北区内に在る御寺も笠原家の菩提寺の雲松院も更に又隣町の神奈川区神大寺地区に戦国時代初期まで存在した神大寺の末寺として開かれています。しかし青字部分で登場する八王子心源院と言う御寺は平安時代末期の西暦900年代初頭の延喜年間の開基です。その古い御寺の第六世住職が西暦1500年代末~1600年代初頭では歴史的経過年数に整合性が無い訳です。
しかし八王子の深澤山 心源院の歴史では最初は真言律宗の寺院として延喜年間(西暦901~923年)に智定律師が創建した一寺を醍醐天皇が官寺にして心源鎮静護国院と改めたと伝わるそうです。
更に後に扇谷上杉家の家臣武蔵国守護代の遠江守 大石定久公が(再興)開基となり遠州の高尾山石雲院より開山として李雲永岳禅師を請して曹洞宗に改宗した歴史が有ります。
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※写真は❝あきる野市❞の秋川。左手には高月城、更に日本100名城の一つ滝山城が在る。
高月城址と圓通寺 久良岐のよし
この大石定久公は後に扇谷上杉家が滅亡する過程で小田原城主の北条家に従属して、北条氏康公の子息の北条氏照公を娘の比佐(ひさ)姫の婿養子に迎えて家督を譲って隠居しています。
つまり中田家が横浜市港北区の保福寺を曹洞宗寺院として再興出来るのは、早くとも大石家が北条家に降伏して家臣化して以後のタイミングしか有り得ないので、永禄二年(1559年)11月に北条氏照公が17歳で多摩郡の大石家に婿養子入りして以降の話しなのが解かる訳です。
その大石家が心源院と同じく支援した御寺が戦国時代初期に大石家の居城だった高月城の真下に存在する天台宗の惠日山 觀音院 圓通寺です。
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惠日山 觀音院 圓通寺
この御寺の写真の背後の秋川に突き出した舌状丘陵が高月城跡です。
この八王子市界隈の大石家の歴史から解りますが、心源院は凄まじく古い御寺なので第六代目の住職の春悦開闢和尚は曹洞宗の寺院として再興されてから第六代目の住職だったと言うのが解かる訳です。1500年代初頭に曹洞宗に成っていたとすれば、当時の寺院は世襲制では無いので安土桃山時代頃に港北区の保福寺が曹洞宗として改宗の上で復興される際に心源院が曹洞宗と成って第六世の春悦開闢和尚が関わったとすれば時代的にも整合性が高くなり、極々自然な時間経過と成る訳です。
ですから、新編武蔵風土記稿の保福寺の解説に関しては時代を整理しないまま文章に書き起こしてしまって間違えているのが解かりますが・・・
結論から言うと、矢上城址の保福寺はどっちにしても凄く由緒正し御寺の末寺として開かれたと言う事が解かる訳です。
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そして安土桃山時代に曹洞宗として保福寺が再興されたのと前後して雲松院が開かれた後に、地域的に八王子の心源院より雲松院の方が保福寺から近い事や、北条家宿老で小机城代の笠原康勝公と北条家直臣で小机衆として勤務した中田加賀守公の関係性からも保福寺は中田家によって雲松院の末寺として改められた可能性が推測出来ます。
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御本堂は比較的新しい再建ですが、今も稲毛六阿弥陀の第一番霊場、都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目としても由緒正しい歴史が有る事を伝えています。
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山門をくぐって直ぐ右手の御堂が
都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目の御地蔵様が鎮座していらっしゃる場所です。
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昨年末の初参拝時にガラス越しですが拝む事が出来ました。
曹洞宗の御寺は余り御朱印目的の巡礼を感心されない和尚様が現代では多くいらっしゃいますが、この保福禅寺は昔からの真言律宗時代からの歴史が有るので御朱印を頂戴に来る参拝客も事前に電話で問い合わせして御住職様と予定を調整すれば快(こころよ)く受け入れて下さいます。
墓地側に廻ると、人工的な手の入っている長い谷地形を確認できます。
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この先は明らかに日吉キャンパス側と慶応大学の日吉キャンパス野球場の台地の通路を狭くする人工的に谷を拡張した上で裾切りして崖地=切岸にした地形が続いて来ます。
もうここら辺から城の解説に成ってしまうので、御城としての地形の観察は次回の記事で書きたいと思います。
最後に、保福寺の南東側の野球場には中田家の大切な場所が有ります・・・
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中田家の供養塔で、元々中田加賀守の墓所が在ったとされる当たりなのです。
この場所に上がる階段は保福寺の山門から見える場所に在ります。
旧境内地に当たりますが現在は慶応大学に安全上の理由で立ち入り禁止にされています。
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実はこの上にはアーチェリー部の練習場が有るので下手くそな学生の流れ矢が頭に突き刺さってしまう可能性が有る訳です(笑)。しかし保福寺から慶応大学が借りている土地なので、慶応大学の事務所に御願いをするか、保福寺の御住職様から話を通して貰えば大学側の都合の良い日に見学をさせて貰う事が出来ます。

さて、一つの御寺にも色んな時代に色んな宗派だった歴史が有るので、明治時代に成る前の江戸時代までの人達は色んな神道も仏教各宗派も修験道も御互いを尊重して共存していた訳ですが、中田家の菩提寺もそんな日本の宗教の変遷を辿る事が出来る由緒ある御寺なのが何となく皆さんに伝わったでしょうか?
次の記事では御城の遺構と思われる地形の解説をしていきたいと思います。

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪

横浜市港北区の慶応大学日吉キャンパスは戦国時代~太平洋戦争にかけて重要な❝城砦❞だった事を知っている人は横浜市民でも今では余り多くは有りません。
日吉キャンパスの地下には❝地下迷宮❞とも言えるトンネルを張り巡らせた地底基地が存在し、第二次世界大戦中に横須賀鎮守府から逃げて来た帝国海軍本部が置かれ海軍の幹部達が終戦直前まで作戦を立てていた大規模な司令所として機能していました。ですから石原裕次郎サンが若い頃に主演した映画では日吉キャンパスがロケ地に成っているのですが、海軍司令所の換気口の煙突が大学のグラウンドに残っている風景が見切れていたり(笑)するんですよ。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
※国土地理院色別立体図&Googleearth合成
上の画像は色別立体図と言われる地形を見やすく色分けした地図で、国土地理院が制作した物ですがネットで誰でも自由に閲覧する事が出来ます。
この画像を見て頂けると一目瞭然ですが、日吉~矢上の丘は鶴見川支流の一つの比較的な大きな河川である❝矢上川❞に東側と北側を囲まれ、南側は急峻な崖地で実に守りの堅い地形に成っています。
この地形に大戦中の海軍が目を付ける以前、実は既に戦国時代の名将がこの地に❝矢上城❞と言う城を築城して居城としていました。
その武将が小生のブログでも何回か紹介している小田原北条家の官僚型武将の中田加賀守で、記録の残らない戦国時代末期には3万石相当の代官を務めていたと地元や関係する寺院に伝承する北条家の大物武将の一人でした。正確には状況的に室町時代末期には北条家の大軍団の一つで軍旗を白い旗で統一した白備え隊小机衆と呼ばれる横浜市港北区小机の小机城を拠点にした軍団で重臣として勤務した後、安土桃山時代に成ると北条家滅亡直前には世田谷衆とも言うべき北条家従属大名の蒔田吉良家の与力家老として転属していた様です。
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写真は横浜市港北区の小机城址で毎年桜の季節に行われる小机城址祭り。港北区長が小机城代の笠原信為公に扮して行われる祭りです。
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小机城は横浜市教育委員会が保護を怠り半分が高速道路と鉄道建設で消失しましたが、今でも残存部分の保存状態が良く❝続日本の100名城❞の一つに選ばれたりしています。
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その小机衆として活躍した中田加賀守が3万石の勢力を誇ったのは何とな~く解る程度しか文献の記録は残っていません。なんたって北条家の記録は豊臣秀吉に負けたせいで余り残らなかった上に、後に関東を統治した徳川家が政治力無くて江戸時代中期に成っても関東の領民が旧北条家臣団と北条家の善政を慕っていたせいでヤキモチ(笑)やいていたってのは幕末の勝海舟サンも認識していた事実ですからね~。
徳川家臣団が入ってくると北条家の史料は更に無くなってしまった様です。
今回はそんな中田加賀守の居城だった慶応大学日吉キャンパス=矢上城跡と、そのキャンパスの下に今も現存する中田加賀守の菩提寺の一つの谷上山保福禅寺と言う曹洞宗の御寺を紹介したいと思います。

以前、中田加賀守については紹介した別の記事も有るので、興味が有る方は下のリンクから過去記事を御覧下さい!
※記事タイトルをクリックすると過去記事にリンクします⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺
・・・保土ヶ谷区東川島町

川崎市の井田城は小田原北条家の吏僚中田加賀守の城?
・・・川崎市高津区蟹ヶ谷~中原区井田。

❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。・・・横浜市港北区小机
今回は中田加賀守が戦国時代に開いたと伝わる保福寺を先ず紹介して、その後で御城の説明をしたいと思いますが・・・
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谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
・・・中田加賀守の戦国時代に矢上城跡の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパス周辺がどんな感じだったのか先ずは少し現代の国土地理院色別立体図の地形上に周辺の御城の位置を表示して確認して戦国時代の流通の御話しからしてみましょう~♪
神奈川県東部の城 久良岐のよし
この画像は国土地理院色別立体図に神奈川県東部の主要な御城を表示して有ります。
矢上城は画面右上辺りに表示されています。
北条家はだいたい3キロ毎に一つの御城を建設して防衛に当たりました。まぁ、だいたい半径1.5km毎に地域を統治する役所としても機能していたんでしょうね~。そしてこの直線距離3㎞と言う距離は烽火台(のろしだい)として煙を確認出来る距離でもあるので、敵軍が攻めて来た時に早急に北条五色備えと呼ばれた初期の五軍団や、後の八王子衆・津久井衆・小机衆・玉縄衆・江戸衆と言った各軍団に情報伝達し迎撃態勢や攻撃態勢を整える役割も果たしていました。
そして地形を見ると一目瞭然ですが、全ては房総半島や鶴見川や多摩川上流の敵勢力、扇谷上杉家や山内上杉家(上杉謙信が継いだ家)や里見家と言った敵勢力の経済活動を阻害する様に配置されています。
何でこの御城の位置関係が敵勢力経済活動の妨げに成っていたか?って余り歴史に興味が無い人は思いますよね~?
実は大正時代ぐらい迄は物流の❝水運❞が占める割合はとても高く、特に明治時代以前は主たる流通網は海も内地も全て船や筏(いかだ)による運搬だったんですよ。
しかも北条家の城は大河川の渡河地点近くに設置されていますから、敵が攻めて来れる川の渡し場の先に城を築城して迎撃態勢を万全にしてあった訳です。
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大師の渡し川崎の多摩川なんかは今は橋を渡れますが、江戸~明治時代は川崎大師の前に大師の渡しと言う船着き場が有って船でしか渡河出来ませんでした。明治に成ると現在の羽田空港敷地に在(あ)った穴守稲荷神社への直行便が大師の渡しから出ていたりしましたが、実はこの大師の渡し場は戦国時代には主要な渡し場ではなくて現在の川崎駅近くに北条家臣間宮家の川崎館跡地の堀之内地区があり、その周辺まで海が入り込んで来ていて渡し場もその付近だった様です。
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瑞龍山 宗三寺
その城館の有った辺りが宗三寺で、この御寺の寺号も間宮信盛入道宗三公の法名に由来しています。周辺の地域が❝堀之内❞なのは北条家臣間宮家の城館を取り囲む水堀の内側の地域で城跡だった事に由来しているんですね。
直ぐ近くには京浜急行とJR線の川崎駅が在り、江戸時代にも東海道の川崎宿となり砂子商店街が今も残りますが戦国時代から流通の拠点だったので流通網を抑える地域に城が設けられた訳です。もっとも、この場所は元々は鎌倉時代の名将で間宮一族の名目上の祖先として仰がれた佐々木高綱公の城館跡で、後に佐々木高綱公の甥の系統の佐々木泰綱公が領主に成っている事が鎌倉時代の古文書や宗三寺の梵鐘の文字から判明しています。つまり鎌倉時代から交通の要所だったみたいですね。
そして矢上城ですが・・・
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
御覧の通り、鶴見川の上流を抑える位置に在ります。ここを抑える事で上流の川崎市麻生区を拠点にしていた扇谷上杉朝興公の海運の通商を阻害出来たんですね。そして川崎市麻生区~稲城市の❝よみうりランド❞に在った小沢城を居城にした扇谷上杉家当主の上杉朝興公は討死して神奈川県域から扇谷上杉家の勢力は駆逐される事に成りました。つまり物流と地形的な観点から経済的にも軍事的にも重要な場所が矢上城だった事が解かります。
そんな場所なので戦国時代末期には3万石相当の代官を務める北条家重臣に成っていた中田加賀守公は矢上城を居城にしたようです。
Googlemap矢上城址付近 久良岐のよし
とっても険阻な台地が矢上川に守られる地形なのがGooglemapでも良く解りますね~。
さて、ここから先は又、次の記事で撮影した写真で御寺と御城遺構の話しそのものをしたいと思います~。




本当は昨日、北条家臣中田加賀守の記事を書く筈だったのですが忙しくて今日も書けていません(笑)。
でも週末に行った横浜市金沢区の称名寺、金沢文庫駅の名前の由来の御寺サンの参道と境内の桜が丁度、9分咲きで見頃だったので、歴史解説記事代りにその写真を掲載します。

きっと今週中に見に行けば、まだまだ見頃だと思いますよ♪

御近所は喜多屋と言う明治時代の料亭を旅館&Caféに業種替えしたオシャレな店や、小柴の柴漁港天丼小屋、もう少し歩けば海の公園や八景島シーパラダイスが在り、レジャーやランチのついでに桜散策には持って来いの場所ですよ!
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金澤山 彌勒院 稱名寺・・・真言律宗別格本山
(きんたくさん みろくいん しょうみょうじ)
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とっても春は雰囲気の良い御寺なので、是非足を延ばして見ては如何でしょうか~?
この御寺は鎌倉時代の名将、北条実時公の邸宅跡を寺院化した場所で、真言律宗別格本山の格式を持つ御寺です。北条実時公の金沢北条氏は鎌倉幕府の重鎮で六波羅探題と言って今の関西地方を治める役職を担った家柄でした。
恐らく全時代の武士を通じて屈指の、戦国時代の細川藤孝公以上の文化人だったので北条実時公が収集した経典や花器仏具等は膨大な量に及び、更に後に鎌倉公方とも密接な関係に成った寺院だったので多くの古文書も残る事から歴史学者には「東の正倉院」の異名で呼ばれた場所でした。
御寺の境内の隣の谷に北条実時公が収集した文化財を保管するする称名寺の文庫が有ったので、そこが文庫谷(ぶんこがやつ)と呼ばれる様になり、それが地名と京浜急行金沢文庫駅の駅名由来に成ったんです。

実は今年に入ってから先月迄、国家資格をいっぺんに3つ取得したり、今月から仕事で使えそうな別の資格の勉強も始めるので今週末までちょっと忙しくて、中田加賀守の矢上城の記事を書けるか分かりませんが出来るだけ週末にはUPする様にしますね!余り濃い内容には成らないとは思いますが、久しぶりに地形の解説なんかも入れたいと思っています。

ささ!今年は桜がベストコンディション!
皆さんにも小生にも今年の桜同様に元気いっぱい明るい良い年に成ります様に~♪







この⤴️KIRIN午後の紅茶の広告動画の風景は熊本県阿蘇地方。
長閑(のどか)な田舎、阿蘇都彦と阿蘇都姫の縁結びの夫婦神、阿蘇神話の聖地。
熊本大地震の被災地、このCMでロケハンされた南阿蘇鉄道は未(いま)だ全線復旧なされておらず震災の爪痕が残る中の完結編撮影と成った。
KIRINは横浜市中区北方発祥の麒麟麦酒(キリンビール)の事だが、奇(く)しくも南阿蘇ロケでの午後の紅茶CMで主演した上白石萌歌サンは・・・
L♡DK
・・・今公開中の映画LDKは主演女優の上白石萌音サンの実妹だったりする。映画LDKのロケ地は横浜市中区。午後の紅茶の麒麟麦酒(現:キリンビバレッジ株式会社)の創業地も中区。
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キリン公園
※小生のブログは紹介する所の住所をクリックするとGoogleMapで場所を確認出来ます。
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麒麟麦酒の前身と成ったスプリングバレー・ブルワリーを創業し日本のビール醸造技術確立に貢献し世界的飲料ブランドの礎(いしずえ)を築いたコープランドさんは日本人の奥さんと伴(とも)に、今は元町~中華街~ミナト未来21地区を見下ろす山手の外人墓地から横浜市民を見守って下さっている。
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外国人墓地
このコープランドさんの眠る外人墓地の周りがLDKのロケの中心地に成っている。
L♡DKの物語はヒロインの西森葵と彼氏の久我山柊聖(しゅうせい)と従兄弟の久我山玲苑(れおん)の三角関係で進行する。高校生カップルが清い同棲(笑)?をしている所に
柊聖の従兄弟の玲苑が無理矢理同居を始めて三角関係に成って行くのだが・・・
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えの木てい
映画で柊聖が同棲の家計の為にアルバイトしてる店。童話に出て来そうな可愛い建物だけど、この建物自体が西洋古民家で横浜市の文化財指定を受けている。実際に店内も可愛くてケーキも美味しい♪
そのアルバイト先から背景で見切れている建物が・・・
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山手234番館
ここも前横浜市長の高秀サンが文化財指定して保護し、今は観光客に無料公開されている建物。ここもとても可愛らしい建物で中を無料で見学出来るので聖地巡りついでに行くと良い。
この先の港見える丘公園の中に葵と柊聖達の通学路としてロケハンされた場所が在(あ)る。
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神奈川の橋100選の一つ12番目の名橋で、大仏次郎記念館の横に在(あ)る。
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港の見える丘公園
だから大仏次郎記念館も映画中の通学シーンで見切れている。
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大佛次郎記念館
この大佛次郎記念館や霧笛橋の在る港の見える丘公園は景色も良くてベイブリッジを見渡す事が出来る。
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でもこの風景は映画には登場していない。映画で主人公達がイチャつく場所は・・・
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大さん橋(国際客船ターミナル)
この大桟橋の入口、通称:象の鼻は近代に建設された西洋式波止場で、その周りがロケ地に成っている。
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その象の鼻の目の前の象の鼻パークと呼ばれる綺麗な公園で、ここを含めた一帯は江戸幕府が幕末に設けた税関“神奈川運上所”の跡地でもある。
ペリー神奈川上陸
ペリー提督上陸図、この風景の海を大正時代に関東大震災で火災発生時に多くの人が亡くなった経験を活かして、関東大震災で倒壊した建物の瓦礫で埋立てて大災害発生時の避難場所として作られたのが絵図右側辺りに建設された“山下公園”で、絵の左半分辺りに神奈川運上所が建設された。
右の神社は鎌倉時代に源頼朝公が勧請(かんじょう:神仏の御分霊を祀る事)した弁天社で、幕末の外国人居留地建設で伊勢佐木長者町と元町に分祀され二つの厳島神社として今も存続している。木は玉楠(たまくす)の樹で、今も同じ場所に存在している。
その場所は現在の開港資料館・・・
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横浜開港資料館(旧:英国領事館)
旧英国公使館の横浜開港資料館庭に在る大樹はペリー提督が見た玉楠の樹の二代目だが同じ場所に立ち横浜の歴史を見守ってくれている。
ペリー提督
ペリーさん、嘉永六年(1854年)つまり165年前に横浜に来た時に、まさか自分が上陸した横浜半島(横浜市の地名由来の関内に在った半島)や滞在した元町一帯が高校生カップルがイチャつく映画のロケ地に成るとは思いもしなかっただろうなぁ~(笑)。
この玉楠の目の前に存在した神奈川運上所跡は今では神奈川県庁舎と象の鼻パークに姿を変えた。
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KING(神奈川県庁)
昨年まで神奈川県庁は公開されていたが黒岩知事が非公開にしてしまった。この神奈川県庁は横浜三塔と呼ばれるキング・クイーン・ジャックの中のキングと呼ばれる文化財指定を受けている建物で、昔は船乗り達から港で船の上から三塔を一度に見えたら幸運が訪れると言われた場所だった。
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以前は公開日に自由に立ち入り出来た神奈川県庁の屋上は横浜市民も余り知らない隠れた横浜港ビュースポットで、イギリス波止場が元に成っている大桟橋と❝像の鼻❞の異名の謂(いわ)れと成ったメリケン波止場と赤レンガ倉庫とベイブリッジが一望出来た。
県庁舎~海までが昔の神奈川運上所跡で、海側は現在の像の鼻パークに成っている。
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昼と夜とでは景色が違って見える。
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象の鼻パーク
LDK映画版の作中、その象の鼻パークの夜景を見渡せる場所に置かれたベンチで主演の二人は寄り添うのだが、そのベンチは上の写真の陸橋遊歩道の橋脚の横に置かれてロケされていた。
実はこのロケ地の陸橋は我が国初代の総理大臣である伊藤博文公の明治新政府の都市計画で整備された貨物列車輸送網の車輛基地へと続く線路跡で、元々はSL=蒸気機関車の貨物用軌道(きどう:線路)として30年位前まで現役で活躍し横浜市の開港記念日にはSLや記念列車が走っていた。
そんな訳で横浜の像の鼻パークは近代の史跡でもある。
伊藤博文公
この一帯は幕末の日本鎖国政策終焉の舞台の一つである横浜の中でもピンポイントで外国人居留地や外国の商会が立ち並んでいた場所なので、映画版LDKでヒロインの西森葵と主人公の久我山柊聖(しゅうせい)と従兄弟の久我山玲苑(れおん)の生活圏や通学路としてロケハンされている辺りも当然ながら幕末~近代に明治の歴史偉人が多く関わっていた所が多く成る。
例えばヒロイン西森葵と、葵の彼氏の柊聖の従兄弟の玲苑が一緒に服を選ぶシーンは元町のRUKAと言う店で撮影されたが・・・
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RUKA
このRUKAの在る元町商店街は幕末当時は外国人居留地だったので新選組の土方歳三サンと佐藤彦五郎サンが近代兵器の買付けに来た場所でも有る。
そして少し離れて幕末に坂本龍馬サンの師匠の勝海舟サンや明治時代に伊藤博文公等の元勲や海軍軍人が関わった神奈川台場跡と神奈川宿場が隣町の神奈川駅近くに在る。
勝海舟
実は神奈川台場は勝海舟さんの設計で建設された海上要塞だった。
関内~元町~山手~根岸が外国人居留地に成る以前、外国大使館が置かれていたのが現在の京急神奈川駅~横浜駅前の東海道神奈川宿の宿場だった丘の周辺だった。しかし神奈川宿を外国人に占拠されると江戸城の防衛にも支障が出る上に外国人の安全確保と密売抑止を十分に出来ないので、防衛上の都合と外国人の出入管理の都合も有って水堀に囲まれ関所の設けられていた関内地区に外国人居留地が移された。その際に外国人居留地の港である横浜港(山下公園)に停泊する外国籍軍艦をいつでも攻撃出来る威嚇の意味と東海道の要所である神奈川宿を守る為(ため)に現在の横浜中央卸売市場辺りに勝海舟さんの設計で神奈川台場が建設された。
その神奈川台場の近所には・・・
坂本龍馬先生
勝海舟さんの関係からか、弟子の坂本龍馬サンが暗殺され未亡人と成っていた“お龍さん”が近所生活していた時期も有った。
坂本龍子(お龍)さん
お龍サンは未亡人に成ってから神奈川台場の近所、現在の神奈川区台町に今も営業している田中家と言う料亭で住み込みで働いていたそうだ。
その、お龍サンも住んでいた横浜の旧中心街の山裾一帯がLDKのロケ地で、午後の紅茶のKIRINの創業地でもあり、KIRINを大企業に育てた三菱財閥初代総帥の岩崎弥太郎サンとフリーメイソンのグラバーさんは坂本龍馬サンの盟友であり支援者だった。
岩崎弥太郎グラバー
坂本龍馬サンは今の日本の民主主義と近代化の立役者で、アジアの歴史から見て孫文先生に等しい偉業を成し遂げた歴史偉人だ。
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その坂本龍馬サンをリスペクトして岩崎弥太郎サンとグラバーさんが麒麟麦酒のロゴにしたのが聖獣である“麒麟=龍馬”だった。
そんなKIRINが熊本大地震の復興に一役買おうとCMのロケ地に再び選んだのが、午後の紅茶のCMでロケハンされた南阿蘇鉄道の未復旧区間な訳だ。
何とも武蔵国気質の企業らしい粋(いき)な計(はか)らいじゃないか!
そして横浜所縁(ゆかり)のKIRINの熊本復興CMでテーマソングを歌い主演した上白石萌歌サンの実姉が、LDKで主演の上白石萌音サンで作中に登場するのがKIRINやお龍サンに所縁の深い山手~元町~山下公園~大さん橋一帯の近代横浜中心の旧市街な訳だ。
LDKロケ地辺りは幕末から外国人居留地だったのでキリンビール発祥地以外にも“日本初の場所”も周りには多い。
アイスクリン・石鹸・ガス灯・・・
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港三号橋梁
新橋駅~初代横浜駅の日本鉄道創業地の跡に在る桜木町駅~ランドマークタワー一帯から更に先に延びる貨物列車の線路跡・・・
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赤レンガ倉庫 旧横浜港駅前の鉄道軌道
・・・明治時代の貨物列車終着駅である赤レンガ倉庫と新港埠頭跡の軌道。
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かおり
日本初の西洋式ホテルのヨコハマホテル創業地、French Restaurantかおり。
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❝かおり❞は今はレストランとしては営業していないが喫茶店としては存続していて、昔はレーズンサンドと言えば北海道の某店では無く横浜かおりのレーズンサンドが生粋のハマっ子や東京人には有名だった・・・
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横浜ユーラシア文化館(旧:横浜市外電話局)
電話交換システム創業地に立つ旧横浜市外電話局のビル外観だけ保存された横浜ユーラシア文化館。
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横浜公園
日本初の西洋式公園の横浜公園と公園内に立つ横浜スタジアム。
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消防救急発祥之地(地下貯水槽遺構)日本初の近代西洋式防火施設の遺構も発掘し道端で公開されている。
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かおりの直ぐ近く。
元町~山手のLDKロケ地周辺に移動しても❝キリン公園❞の他にもデートにも歴史散策にも適した❝日本初❞が幾つも有るので、散歩していて飽きない。
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ウチキパン
日本初のパン屋さん、明治21年開業のウチキパン。既に営業130年超!よくカップルがクッキーとかをデートの記念に買って帰ってる。芸能人もよくパンを買いに来るそうだが、小生の知る限り不倫暴露された斉藤由貴サンが隣町の南区南陵高校(旧:清水ヶ丘高校)出身で今でも良く買いに来ているらしい。
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元町公園
元町公園は西洋塗装技術の発祥地。ウチキパンやRUKAを廻(まわ)ってから元町公園右手の階段を登って上まで行くとロケ地の❝えの木てい❞や❝港の見える丘公園❞に行ける。その途中にはエリスマン邸やベーリックホール等の近代建築の洋館が無料で公開されている。と~っても雰囲気の良い道でカップルが良くデートコースに選んでいる落ち着いた気持ちの良い場所。
中には自然湧水のプールもあるけれどプール発祥地は長野県の蓼科温泉郷だったりするので横浜じゃない。この水源の水を幕末~近代には船に販売補給していた。
・・・で丘の上に行くと❝えの木てい❞の直ぐ近くには凄く雰囲気の良い❝日本最古創設のプロテスタント教会❞である横浜山手聖公会も在る。
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横浜山手聖公会
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運が良ければ週末に中を見学させて貰える。幕末に山手の本牧山妙香寺に駐留した英国軍兵士達の精神安定とモラル維持の為に建設されたのが始まり。
元町と山の反対側に行くとキリン公園が在り、その近くにも❝日本初❞がいくつか在る。
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本牧山 妙香寺
本牧山妙香寺は日本の吹奏楽発祥地。この御寺の旧境内地に当たる山手公園に幕末にイギリス軍が駐屯していて、そこに薩摩藩の武士達が吹奏楽を習いに通っていた。そしてここで英国のフェントン軍楽団長の提案と作曲によって日本国家として❝君が代❞が作られ、詩は薩摩藩士だった大山巌サンが選定した。更に後にドイツ帝国と日本帝国陸軍が親密に成るとドイツのエッケルト先生によって現在の曲調に編曲された。
生粋の横浜市民であるハマっ子は、この歴史を知っているので君が代が日本と友邦の平和を日本人と欧米諸外国の人々によって生み出された事を知っている。
フェントン軍楽団長を始めとした英国人と、エッケルト先生やメッケルさん等のドイツ人や、ヴェルニー技師を始めとしたフランス人等の協力で日本が工業も文化も軍事も近代化を成功出来た歴史史跡が観光地として横浜や神奈川県内には沢山残っている。
特に英国が造船技術を技術移転して下さった事は現在、日本がロシアの植民地に成っていない歴史に一番大きな恩を残してくれた訳だ。
少し横浜から離れるが横須賀にも近代の英国と関係が有る場所が在る。
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三笠公園
横須賀の三笠公園に展示されている世界三大旗艦の一つ戦艦三笠は東郷平八郎元帥がロシア帝国を打ち破り日本と周辺諸国のロシア植民地化阻止に活躍した対馬海戦の旗艦だが、この三笠も英国で建造されて日本に船の整備技術が供与されたし、東郷元帥も英国に留学して近代海軍の戦術を学ばせて貰っているし、英国がロシアの補給を妨害してくれた御陰で日本は有利に成った。つまり日本人だけで勝ったんじゃなくて世界の応援が有って日本は存続出来た訳だ。ついでに言えばアメリカ海軍のペリー提督が横浜にいた時に日本人を高評価して本国に報告して下さった事も欧米が日本の近代化に投資して下さった一因。これはペリーさんの日誌を翻訳した物を横浜の有隣堂が販売しており小生は学生時代に既に知っていた。
話しをLDKと午後の紅茶のキリンビバレッジに関係の深い山手に戻す。
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山手公園
吹奏楽の発祥地の妙香寺の一部だった山手公園は幕末から英国軍が居たり、周辺が外国人居留地に定められたのでテニスの発祥地にも成った。
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テニス発祥記念館では各時代のテニスの様子を無料で見学する事が出来る。
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この英国式の東屋(あずまや)は復元された物だが、ここで日本で最初に吹奏楽が演奏された。
ついでに言えばフリーメイソンの日本初のロッジも、この山手公園に在った。
因(ちな)みに君が代が最初に演奏されたのは東京都江東区の越中島。
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ここに越中守 榊原照清公の屋敷が江戸時代初期にあり、横浜市を治めた本牧奉行間宮家の分家の杉田間宮家の間宮信繁公の御姫様が照清公の母君だった。間宮信繁公は江戸幕府の初代鷹匠頭で、榊原照清公の父上の榊原照久公は久能山東照宮の初代大宮司だった。
その屋敷跡が幕末に江戸幕府がフランス式の軍隊を編成した際に砲撃訓練場に成っていたので、明治に入りそこで明治天皇の御前で軍楽隊が君が代を国家として最初に演奏したらしい。

まぁ~他にも日本初を挙げらたキリが無いしLDKや午後の紅茶CMや❝横浜発~日本最初❞と関係する場所も多く成るが、他にも現代日本人が食べている西洋種の野菜の大半は幕末の神奈川奉行所が外国人から西洋の野菜の種子を分けて貰って日本の気候に適した品種を実験的に栽培してから日本全土に拡散して行ったので本来は❝ヨコハマ野菜❞と言われていた。
そんな場所で外国人も多かったので国際郵便の発祥地も横浜で今の港郵便局がその場所だったりする。
そんな歴史とオシャレな洋館や可愛い西洋菓子屋さんを沢山回れるのがLDKロケ地、そして奇しくも横浜と上白石姉妹の主演と歌と岩崎弥太郎サンとグラバーさんと坂本龍馬サンとフリーメイソンで共通点が重なっているのが❝映画L💛DK❞と❝KIRIN午後の紅茶CM❞で、その御縁で午後の紅茶のCMで熊本復興の願いも込めてロケ地に選ばれた熊本県南阿蘇地方と熊本大地震の復興の話題にも触れて見た。
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熊本城が完全に修復されるのは20年後位だそうだ。その頃はこの記事を読んだ人は皆どんな人生を歩んで年を経(へ)ているんだろう?
今年も熊本大地震復興祈願に東京都羽村市の阿蘇神社に祈祷をして貰いに参拝しようと思う。
羽村市も、もう直ぐチューリップ祭りの季節だしね!
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熊本や東北の人達が、亡くなった人達の分まで震災前より幸せに成れます様に今年も御参りに行こう。

映画LDKも横浜観光も、デートでも楽しめるし歴史散策としても楽しいので是非、映画館にも横浜元町~山下公園界隈にもお出掛け下さい~🎵
最後に南阿蘇でロケされたKIRIN午後の紅茶CM全部張り付けて置きます~♪




横浜ベイブリッジに一般道が有るのを横浜市民でも知らない人が多い。
下道で帰る時にそう言えば友人も知らなかったのでドライブレコーダーがわりにしてるスマホの画像をユーチューブにアップロードしてみた。

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