歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。
皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪
写真と本文ともに無断転用禁止!転載したい場合は当方へ確認願います。


4年前の今日、コロナ自粛で閉店したCowboy家族でハンバーグを食べていたらしい。
KIMG7045
KIMG7046
KIMG7048
KIMG7049KIMG7057
2月29日で検索かけてハードディスクから写真探したら、たまたまコロナ禍(武漢肺炎)初期の写真出て来た。
KIMG7052
KIMG7053
KIMG7054
KIMG7056
KIMG7059
KIMG7061
今にして思うと、自民党はダイヤモンドプリンセス号の武漢肺炎感染者の対応失敗して初期の強毒性コロナ対応誤り保土ヶ谷区の病院やらに感染者移してジワジワと横浜市と羽田空港の直結する京急沿線の京浜工業地帯をコロナ患者増やしていったのを放置した挙句、中国人観光客を直ぐに入国禁止にせず日本が防疫体制確立出来ずグダグダにコロナ禍に直面する事に成った。
多くの店が潰れホテルも旅館も廃業した。
中国からの帰国者の検疫で活躍した千葉の勝浦と鴨川のホテル三日月もオーナー変わったんだよな、結局、武漢肺炎のコロナ禍で。
あのホテルの従業員は国士だと思うわ、今でも。
だから勝浦に遊びに行ったしな、俺も
KIMG6562
KIMG6571
KIMG6555
旅行業と飲食業は借金抱えて自殺した人も全国にいた。
俺の行きつけの店も何軒か潰れた。
野毛の飲食店街が自粛させらて樹木希林サンの実家の割烹料理屋も潰れた。
その最中に野毛が地盤のクソな松本純は、自粛期間中なのに自分の懇意にしてる女の店に行く不届きな政治家の自覚が欠片も無い暴挙を行った。

そして今、日本国民に対して自民党様は大増税を行いながら自分達はパー券売りさばいた売上金をポッケナイナイして、日本国民には1円も漏れなく納税せぇ~と国民の面を引っぱたいてる。
意味が解らん。

増税クソ眼鏡がやってる大増税と保険料値上げのステルス増税を、今では多くの日本人が知ってる。

利益の再分配どうした?
減税嘘眼鏡。
なんで売国集団の統一教会系組織票に依存してた議員を首切らない。
空前絶後の株高でもアベノミクスの失策で利益は全てアメリカ人投資家に還流されて日本人の給与にはならない。
既に経済的植民地化されてるじゃねぇ~か!
日米地位協定って、名前変えてるだけで麻生太郎の身内の吉田茂が日本をアメリカに売って「保護国」つまり半主権国家に落として事実上の植民地にされてるって事だろ。

まぁ、中国様よりもアメリカ様のがまだマシだけどよ。
アメリカ様は日本の同盟国だったハワイ王国を潰した時と同じプロセスを経済と農地の違いは有れど今の日本に仕掛けてるよな?


俺は保守派だけどオマエ等許さない自民党、次の選挙は自民党候補者以外の一番美人かイケメンの外見だけで投票する。
別に腐った老害自民党より、若い議員てだけで脳味噌健康だろ。

もう一度社会的に死んで来い、自民党議員。
自殺に追い込まれて本当に死んだ人や、能登半島地震で被災地復興よりも下らない万博に金回されて怒ってる一般的な日本国民から干されろ。
売国集団。
維新も同じ穴のムジナだよ。
右派左派問わず他の政党の候補者も国民見ずに調子こいてる奴は地獄に落ちる、次の選挙で。


次の選挙は自民党候補者以外の一番美人かイケメンの外見だけで投票する。
別に腐った老害自民党より、若い議員てだけで脳味噌健康だろ。

おい眼鏡、生き残りたかったらこの侭の演説しろや。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

小松ヶ池~三浦海岸駅の河津桜 と江奈湾食事処松輪のアジフライ 4年前の02月12日
小松ヶ池の河津桜
KIMG6834KIMG6832

KIMG6835KIMG6831
KIMG6835
KIMG6833
KIMG6839
KIMG6838
KIMG6837

三浦半島江奈湾の景色
KIMG6825
KIMG6827
KIMG6828
KIMG6830
江奈湾の食事処松輪のアジフライ KIMG6823
KIMG6822
KIMG6821
KIMG6820 4年前に考古学が仕事の年上の友達と、共通の友人でもある職場の先輩と3人で河津桜見に行って食事した時の写真です。
小生は専攻は歴史ではなく門外漢で、歴史好きとしての行動も文献だけなく歴史民俗とフィールドワーク重視の持論を話すのですが、その考古学が仕事の友達は小生が歴史学者の固定観念に捕らわれず通説の史料や論文だけではなく別視点で歴史民俗的な複数の状況証拠と物証とマイナーな関連古文書を並べて話すと、楽しみながら話を聞いてくれて色々とヒントに成りそうな既有知識を提供して下さったりします。 そう言った感じの友達や歴史の師匠がブログを書き始めて10年で凄く多く増えたのは小生の人生で幸せな事でした。 退任した方々や、地域のアドバイザーに成っておられる方々や、今も学芸員や教職員として大学や歴史資料館や図書館で働いている、そういった「師匠」達に恵まれたのは小生の人生の財産です。 感謝しかない。
小生は歴史専攻では無かったけれどブログの投稿過程の取材で知り合った、自分で実際に歩いて見てまわり検証するタイプの歴史学者や学芸員の方々、仏教各宗派の青年部や人事部や宗門の歴史や自分の寺院の歴史に詳しい御住職様達や神道の宮司様や禰宜様達、そして歴史偉人や御家臣の御子孫の檀家サンや氏子サン達から直接色々と御教示頂いた経験は将来、色んな人達との出会いの中で活用出来ると思っています。 今はブログをちゃんと資料みたり画像編集して更新してる暇も無くて、書きたいんだけど。
インスタにちょっと過去写真投稿して添え書きしたのを、こっちに転載する位しかできない。 本気の投稿は月1が限度ですね。
車懸との旅行シリーズの休日雑記は月末か来月初頭まで御待ち下さい。 皆さん、病気怪我をしないよう御自愛ください。 怪我や病気しても早期快気します様に。 では、この記事⤵の続きは月末か来月頭に書きます。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

(記事が年跨いだwww、前回2年前)
3年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした3日目の1回目の記事。
先ず昨年2023年の車懸とのゴールデンウィーク歴史散策のシリーズ一覧



この⤴前回の続き・・・


車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。

・・・今回から車懸との歴史観光3日目。
——今回はココから⤵——
01【秦野市】
  マクドナルドで朝食(多分、秦野西大竹店)
02【山北町】
  河村城址駐車場(東側駐車場ではない)
03【小山町】
  道の駅富士小山
——ココ⤴まで——
04【御殿場市】
  深沢城
05【箱根町】
  大涌谷~黒玉子
06 箱根神社
07 箱根関所
08【三島市】
  山中城
09【箱根町】
  大観山
10【横浜市】
  G麺7

朝、何時に起きたろうか?
この日は城跡や関所を4つ+α、ベタに箱根の観光地巡りを出来る限りする予定だった。
当然ながら河村城址等に関する予習は事前に日本城郭大系で行っていた。
PXL_20230430_234319589.MP
訪問件数多めなのに遠距離移動なのでゴールデンウイークと言う事も有り、少し時間的に早く出発する必要が有った。
かなり早い時間に起きて、客間で寝てる車懸に声をかけると、流石真面目な彼は既に身支度を終えて出発OKな状態だった。
出発は朝の6時ちょい位だったと思う。

当然ながら朝食は途中のコンビニかファストフード店で済ませる予定だったので、東名の渋滞回避で下道を走りながら秦野市内でマクドナルドに入った。
恐らく地図を見る限り、秦野西大竹店だったと思う。
PXL_20230430_223235243.MP
チキンタツタが朝マックに有ったので迷いなく注文。
PXL_20230430_223659708.MP
美味かった~。何でレギュラメニューにしてくれないんだ?
マクドナルド、見栄え悪くて余り好きではないけれど、チキンタツタは美味しい。
車懸が何食べてたかは覚えてないwww。
そこから30分程度で河村城の駐車場に到着した。
小生達が到着したのは北側の駐車場だった。
そちらの方が古い尾根道等のハイキングコースに出れるのだけど、どうも本来は古街道の矢倉沢往還側に河村城を築城した河村氏の居館が有ったらしいので、皆さんが訪問される際は河村城東側駐車場を利用前提として、最初に河村館跡を見物してから来た方が良いと思う。

この河村城、想像より大きくて度肝を抜かれた!
当初の予習では南北朝時代、後醍醐天皇の南朝方の新田義興公・脇屋義治公&城主の河村秀国・河村秀経等vs畠山国清公が部将(軍団長)として率いる足利尊氏公の軍勢が戦った場所で、鎌倉時代末期~室町時代初期の城規模を想定していた。

先ず駐車場に着(つ)いてトイレを済ます(笑)。
CIMG1106
河村城址駐車場(北側駐車場)
上の写真の右側にちゃんとトイレが有る。
河村城は広いので、訪問される方は必ずトイレを済ませた方が良いと思う。
CIMG1107
ちゃんと予備知識が無い人も分かる様に説明の看板が数パターン親切に用意されている。
山北町、グッジョブ!
CIMG1108
ついでにハイキングコースの案内看板も有った。
CIMG1109
でも、この日は滞在時間1時間~2時間の想定だったの河村城だけで他はパス!
北側から上ると緑豊かで本当に気持ちが良い。
CIMG1110
CIMG1111
小生も車懸も南朝方の武将の子孫なのだが、この城は初登城、二人の御先祖もここには来てない(笑)。
この山々はちゃんと管理されているんだね。
CIMG1112
水源の森林づくり と 城址の保存ハイキングコースとしての観光活用がちゃんと両立されている。
山を頂上付近まで登ると、富士山で言う所の7合目位から城跡が見えて来た。
CIMG1113
お判りだろうか?
恐らくこの遊歩道は現代つけられたもので、左手の傾斜が遊歩道を挟んで右に続いてるのが裾切され整地されていたであろう地形の始まり。
CIMG1115
そして城初心者でも一目瞭然の曲輪の切岸(人口崖地)が姿を現(あらわ)す。
もう一度、日本城郭大系の掲載図を見てみると、この辺りは茶臼曲輪辺りらしい。
PXL_20230430_234319589.MP
これだと城規模が良く分からないので、小生のブログ恒例、GoogleEarthに張り付けて立体視すると理解しやすい。
河村城縄張り図
※クリックして拡大して見て下さい。
無茶苦茶広いでしょ?しかも恐らく、日本城郭大系で未調査の山の東側、大庭郭(おおばくるわ)よりも更に東にも恐らく要害構造は拡張されていたと個人的には推測している。
車懸と登ってきたJR山北駅側の北側から見ると更に良くわかる。
河村城址駐車場側 河村城縄張り図
もうね~、室町時代初期の城としては超デカい!
もっとも戦国時代に対 豊臣秀吉 の防衛拠点として小田原北条家によって改修されているので恐らく初期には立派な空堀は余りなくて、腰郭と平場を沢山設けて堀切が有った程度だと思う。
腰郭(こしくるわ)とか、堀切(ほりきり)とか言われても良く分からない人は下の参考webページを見て見れば関東の城や中世の山城の構造が理解出来ると思う。


先ず最初に魅了されるのが人工地形のソレと解る圧巻の御姫井戸付近の曲輪(くるわ)群。
PXL_20230501_000018565.MP
凄いよね~。空堀を蟻(あり)地獄にする障子(しょうじ)掘りと言う防衛構造。
PXL_20230501_000044702.MP
・・・和室の障子みたいだから障子掘り。
防衛構造と言うか、当時は各穴が深さ2mくらい有り、角度も60°以上有ったので刀や槍や鎧を着たフル装備の武士は30kgくらい余分な重しを背負ってるので、攻めて来た敵は曲輪に登ろうとしても登れずに障子掘りの穴に落ちたら、右側の穴のように雨水が貯まっていてドロドロに成って脱出不可能だった。
守る側はソコに敵を突き落としたら、あとは工場の生産ラインの様に流れ作業で一人づつ射殺したり長さ3mの槍で集団でブシャブシャと突き刺して❝処理❞して行くだけだった(怖っ)。
しかも、富士山周辺~南関東は関西の腐葉土や岩盤の山と違って関東ローム層と言う赤土の地盤なので、水で濡れると本当にドロドロに成って石垣より強力な防衛設備=人間ホイホイ殺人施設として機能した訳だ。
因みに関東ローム層ってのは小生のブログの古参読者は良く御存知だと思うけれどコンナの。
横浜市都筑区小机城⤵の関東ローム層の切岸。
2015-04-11-17-09-08
これが60°あって水で濡れてて、自分が30gの重り背負って登れる?
当時の男性は155~160cmくらい、蛋白質の多い食事もしてなかったから筋量も少なかったろうし、今の陸上競技のスポーツしてる女性みたいな体型だったと思う。
話を河村城に戻す。
PXL_20230430_234319589.MP
車懸と小生は、一先ず茶臼曲輪を見に行く事にした。
PXL_20230501_000322161.MP
PXL_20230501_000433629.MP
う~ん、杉が植林されて林に成ってる。
でも微妙に右と左で段差が残ってるのが解るだろうか?
恐らくこれが茶臼曲輪の境目。
PXL_20230501_000612219.MP
上の写真、右手が平場で左手が斜面なのは見て取れるだろうか?
ここから先は断崖なので、元来た道を戻り、お姫井戸付近に逆戻りして本城郭に出る。
PXL_20230501_000905454.MP
戻る途中はやっぱ藪化しつつあるので、よう解らんかったwww!
ギリ、藪蚊の未だ少ない4~5月だから良いけど皆さん、ハイキング以外の目的で林道から外れる城跡散策は夏にはしないでね!
蚊が凄いし、ハブやスズメバチにも遭遇しますからね。
だから山城の城攻めのは晩秋~冬~春までが限界。
PXL_20230501_001213552.MP
ここが、お姫井戸と本城郭mの間の障子掘り。分かり易い。
PXL_20230501_001254807.MP
右手の茶臼曲輪の間の三角形の曲輪の切岸空堀から堀底まで10mくらい有るのが解るでしょ?
右田の上が、先に紹介したコレ⤵
PXL_20230501_001419893.MP
本郭に向けて進む。
PXL_20230501_001513034.MP
何か途中に昔はミカンか何かを生産してたらしく、輸送用の私用トロッコのレールが有った。
PXL_20230501_001521562.MP
今の日本は農産物の生産をオザナリにして農家減ったから、円安に成ると直ぐに国民生活に被害直撃するよね。
戦時中に20代くらいで苦労した今は100歳以上の世代が、戦後頑張って農業も工業も生産力を世界有数に上げてくれたのに、その下の世代が全て海外に生産力依存する形に日本の産業売り払ってしまったり機能移転して、更にその下の世代が日野自動車も三菱もダイハツもエアバックの高田もビッグモーターもジャニーズ事務所も政治家も自分個人が上司に正論言わず可愛がられて立場だけ守る為だの利己的な価値観でもってデータ改竄不正や性犯罪や日本の次世代の未来を切り捨てる所業を見て見ないふりしたりしたせいで、戦中世代の先輩方が再興した日本は瀕死のボロボロですよ。
PXL_20230501_001908406.MP
PXL_20230501_001718205.MP
お姫井戸は全然お姫様みたいに美しくなく気持ち悪いオタマジャクシだらけだったwww
PXL_20230501_001547276.MP
本郭に上がって来る途中、城の施設の高低差が分かり易い写真を撮影していた。
PXL_20230501_002001459.MP
車懸と比較すると城の曲輪の高さが良く解る!
どうです?河村城は城規模だけでなく人工地形の巨大さが良く分かりますよね?
PXL_20230501_002019103.MP
堀切。
多分、本郭と蔵郭の間辺りかな?
本郭に行くと、山北町町役場で勤務していた当時の教育委員会だろうか?先輩達が残して下さった金属製の説明版が今も残っている。
PXL_20230501_002258492.MP
PXL_20230501_002304204.MPPXL_20230501_002320598.MP
PXL_20230501_002311810.MP
PXL_20230501_002325813.MP
PXL_20230501_002331217.MP
この本郭には他にも分かり易い縄張りの説明の仕組みが色々と有るので、是非じっくり見て欲しい。
PXL_20230501_002350897.MP
PXL_20230501_002420756.MP
床に略図と方位が示されて居たり、先程の解説銘板が有る。
PXL_20230501_002513505.MP
あと鎮守の神社。御祭神は不明。
PXL_20230501_002524418.MP
先程の本郭の石畳の縄張り図。
ここから小生達は先ず、馬出し郭に移動。
PXL_20230501_002804035.MP
PXL_20230501_002830390.MP
う~ん・・・
藪化しとった。
PXL_20230501_002843552.MP
でも平場構造が有る。
PXL_20230501_002947638.MP
あと、昔は山仕事に使ってたらしい家屋が残っていた。
上に排煙構造が有るので、煮炊きしてココで寝泊まりもしていたのだと思う。
住居ではないと思う。
PXL_20230430_234319589.MP
去年の事なので(笑)、記憶が曖昧だけど多分、馬出し郭の西郭辺りかな~?
こう言うの好き。
そこから北郭を目指して、馬洗場と言う谷を巻くように付けられた林道を歩いた。
PXL_20230501_003720477.MP
北郭を更に北に行ってくるわwww
PXL_20230501_003305094.MP
PXL_20230501_003308704.MP
これが先端の細い尾根道かな~。
PXL_20230501_003835048.MP
PXL_20230501_003850741.MP
何か森の間から景色が開けた場所に出た。
PXL_20230501_004130317.MP
神奈川県の職員の方かな~?
山林整備の際にチェーンソーで伐木した切り株に、彫刻作って置いてあった。
こう言う余裕の有る大人好き。
小生も今人に教える側に成ってる際には、いつも自作資料にフザケた挿絵を唐突に入れたりして意地でも笑わせようとしてるwwww
何かコレ以上進んだら城山を下りて山北町の町まで下りる感じだったので元来た道を又、本郭側に戻る。
PXL_20230501_004555363.MP
本当、山城は毎回行ったり来たり登山だよ。
本郭~大庭郭を目指す。
ソチラ側は明らかに平場の巨大さが安土桃山時代に拡張されたであろう、前身の山城とは異なるであろう、北条家の氏政時代の城の特徴の平場の広さだった。
PXL_20230501_004853283.MP
PXL_20230501_005024581.MP
しかも説明看板が親切。
PXL_20230501_005035759.MP
ね~、まっ平で広いでしょ~。
山をコンナ削り取るとか、当時の土木作業としては、とんでも無い工事量だったと思うよ。
PXL_20230501_005121758.MP
これ蔵郭らしい。
最初の方で通ったのはココの左手下。
PXL_20230501_005218252.MP
PXL_20230501_005129453.MP
河村城は案内図も豊富で現在地確認容易で本当に初心者にも良いと思う。
PXL_20230501_005240696.MP
この先が大庭郭。
PXL_20230501_005310717.MP
埋もれてるけど障子掘りの構造が見て取れる。
PXL_20230501_005342699.MP
埋もれてても結構深いのが解るでしょ?
PXL_20230501_005513211.MP
大庭郭・・・
だだっ広~いの!
恐らく北条家の豊臣家迎撃プランでは、豊臣軍が東海道か中山道から甲府経由して真っ直ぐ小田原城の方に一方向から攻めてくると思っていたのだと思う。
だから、河村城は万余の兵で防衛する規模に拡張されていたのだと思う。
ところが北条家(恐らく北条氏政)の目論見が甘くて、当初の予定では箱根の山中城と河村城で迎撃する予定が豊臣軍全軍20万が分散して各隊3万前後の大軍で、北陸や甲信越から北関東、ありとあらゆる方角から攻め込まれ、しかも本体の箱根攻め登ってきた豊臣秀吉の本隊は8万5千とトンデモナイ大軍で北条側は兵力分散する余裕が無かったので河村城はロクな戦闘も無く破棄されて小田原城に最初から撤退したのだと思う。
気概を示したのは、ただ北条氏規公と江川英親公の守備兵3000が守る韮山城・・・
KIMG5559
韮山城
(当時は天ヶ岳砦跡を含む規模に拡張)
成田甲斐姫と成田長親が兵500+農民町民の兵3000で守備した、映画「のぼうの城」でも有名な忍城・・・



そして、我らが横浜が誇る笹下城主間宮康俊公と、山中城主の松田康長公の二人が守備兵300vs豊臣軍本体85000で守った箱根最後の防衛ライン、山中城・・・
PXL_20230501_084220000.MP
山中城
特に山中城の戦いは凄惨を極め、元は玉縄城主の北条氏勝公が総大将だったのに、この人は守備兵3000を率いながら豊臣軍がトンデモない大軍と知るや、間宮康俊公の嫡孫の間宮直元公等を一緒に連れて(人質ね)、職場放棄して配下の堀内氏等とともに自分の居城の鎌倉市の玉縄城に逃走してしまった。
結果的に間宮家の手勢と松田康長公の守備兵合計300のみで戦うハメに成った。
そこに当時は僧兵が沢山いた伊勢原市大山寺と大山阿夫利神社の修験者達が武装して援軍に来て、最初から命捨てて玉砕戦を展開した物だから豊臣軍は85000の大軍にも関わらず配下大名の一柳直末公が討死したり、守備兵300に対して攻城側豊臣軍の戦死者は3000を超える悲惨な戦いに成った。
この北条氏規公、江川英吉公、成田長親公、成田甲斐姫、間宮康俊公、松田康長公等の率いた部隊の将兵だけが気勢を吐き実際に防衛戦を戦い抜き、そして戦後もその勇敢な戦いから子孫が豊臣秀吉や徳川家康公から登用されて、江川家は伊豆代官、間宮家は本牧奉行(横浜市長)・佐渡金山奉行・但馬代官(生野銀山奉行)、北条氏規公は大阪府の狭山藩主として存続した。
更に江川家の養女だった於万(おまん)サンと、間宮康俊公の息女だった於久(おひさ)サンはそれぞれが徳川家康公の側室となり子を産んでいる。
於万(おまん)サンが生んだ子が徳川頼房公、つまり水戸黄門こと徳川光圀サンのパパ。
於久(おひさ)サンは姫を生んだけど、その御姫様は早くに亡くなり駿府城下の徳川家所縁の御寺である華陽院に母子ともども今も供養されている。
家康公の御祖母ちゃんの御墓⤵
DSC_1127
於久サン⤵
DSC_1125
家康公と於久さんの御姫様の市姫の御墓⤵
DSC_1130
ちなみに、自分で取材もロクにしない文献コピペが仕事のガクシャ様は、於久サンや於万サンを「侍女」扱いして書籍出版して赤っ恥書いてます。
さてさて、話を河村城に戻すと・・・
PXL_20230501_005513211.MP

PXL_20230501_005557912.MP
PXL_20230501_005716700.MP
PXL_20230501_005758847.MP
本当に景色も保存状態も良いし、城規模のデカさにビックリするよ~!
ちなみに、この城の城主は裏切者一家の松田憲秀でした。
河村城の大庭郭には展望台休憩所が有って、御城印の情報等も掲示されています。
PXL_20230501_005821979.MP
PXL_20230501_005827481.MP
双眼鏡は最早、民度の低くなった日本人に性善説通じず盗まれてた😮‍💨🖕
PXL_20230501_005901165.MP
PXL_20230501_005909451.MP
PXL_20230501_005923369.MP
PXL_20230501_005931967.MP
PXL_20230501_010754932.MP
この日は藤の花も綺麗でした。
PXL_20230501_010758741.MP
PXL_20230501_010933220.MP
色々と周辺の解説も充実してる。
PXL_20230501_010937511.MP
PXL_20230501_010959471.MP
PXL_20230501_011003559.MP
PXL_20230501_011239776.MP
で、この先が東側駐車場、皆さんはコッチから来た方が便利だと思う。
でも御城印が購入できるのは山北町駅側の・・・
ここ⤵


御城印、購入したんですが、どこにしまったか忘れて御見せ出来ないwww
御城印収集の趣味無いのに御朱印のノリで買っちゃったから、多分、どっかに適当にファイリングしたんだと思う。
ともしびショップさくらの前にはSLも展示されていたり、❝日帰り温泉❞も有るので、是非、城で一汗かいた人は御城印の購入と合わせて立ち寄っては如何だろう?
そこから山中城へ向かって出発し、途中、昼食に❝道の駅ふじおやま❞に立ち寄った。
PXL_20230501_021039414.MP
道の駅ふじおやま
地勢柄、小田原~箱根~御殿場~伊豆と神奈川県西部と静岡県東部の特産品が色々と売ってて良かったので皆さんにもオススメ。
ここで買った何かよく覚えて無いけどwwwシラス煎餅とかパンとか車懸と車中でパクつきながら運転して、御殿場市の深沢城へ移動した。
PXL_20230501_031226767.PORTRAIT.ORIGINAL
・・・次回へ続く。

後書き
投稿予定時間、1時間過ぎてすみません(笑)。
小生は明日も資格の学校です。
皆さん、良き週末をお過ごしください。





























このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

今日はInstagramに投稿した記事と近況報告です。
ギックリ腰になりました。

実は先々週末に左足首を捻挫して、庇いながら歩いたり仕事して腰のバランスがおかしく成ってたらしく、先々週末に朝から夕方17時過ぎまで休憩昼の30分だけで授業複数科目1日中座ったままでいたら見事に腰痛になりました。
で先週、こんどは腰痛を庇いながら仕事してたら、腰ピキッと仕事中にやりました。
そんでも月曜、火曜と我慢して仕事したら一昨日火曜に帰宅後、今は母が入院中でして家の中もシーンとしてるのですが、父と食事の準備して、風呂入って、自室のフローリングの床に座って卓袱(ちゃぶ)台でPC開いて教科書開いて夜中まで勉強してたら坐骨神経痛に成ってしまい、翌朝(昨日)も治らなかったので仕事を休ませてもらいました。
ちょうど、母が入院中の病院が整形外科もある一般外来も受付してる所だったので、父が母に面会に行く際に車に同乗させてもらい病院に行く事が出来ました。
今日は昨日よりだいぶマシで歩く事は何とか出来る程度に治ったのですが、やはりちゃんと回復させないと又悪くなるので今日も仕事を休ませてもらい、昼過ぎまで布団からも出ずに股関節と腰椎の筋肉を柔らかくするストレッチをした以外は寝て過ごしました。
夕方過ぎ、痛みは若干ありましたが漸(ようや)く椅子にも座れ歩行も普通の速度で出来る程度に回復したので、風呂洗って二人分と食事作って、父がちょうど病院から帰って来て、自分が先に風呂に入らせてもらい、食事してから床では無くて椅子に座って机で課題をやってました。

その休憩中にインスタにささっと書いた事に少し手を加えた内容が以下の通りです。
Instagramはリア友しかいない鍵垢にしてしまったので、非公開なのでコピペし少しブログ用に手を加えます。

2017年 材木座旧飯島村の海~御霊神社
1~2枚目 
地元の高校生が後ろ姿のモデルに成ってくれた写真。
image
CIMG2397

3~4枚目
現在の逗子マリーナの横、昔は飯島村と呼ばれた材木座と小坪海岸の間の地域の海。
CIMG2395
CIMG2389

5~7枚目
鎌倉市坂下地区の御霊神社。
CIMG2379
CIMG2378
CIMG2375

この写真を撮影した頃はInstagramもやってなくて、フォロワーの風景写真のプロやセミプロの写真家の知り合いもいなくて、マジックアワーの概念さえ知らなかった。
1~2枚目は一番好きな富士山遠景の写真、風景は人がいると物語が出来て素敵に成る場合も有ると思った切っ掛け。
撮影してる場所の、直ぐ横が源実朝が当時は南宋だった中国に渡航しようと船を造船させていた材木座海岸で、そこには和賀江島の跡の崩落した積石の浅瀬が広がっている。

ここは何回も小生がビュースポットとして記事にしている場所。


最後の写真3枚の坂下地区の御霊神社は今では御祭神は鎌倉景正公だけど、本来の御祭神は鎌倉景正公の御先祖の平良文公や平高望王、葛原親王や桓武天皇の歴代坂東平氏の御先祖を祀っていた神社。

司馬遼太郎さんが執筆した「街道を行く」 シリーズの「三浦半島記」を書く時にこの辺りを歩いて観光してる様子が登場する。
この辺りも当時頻繁に歴史散策をしていたので数回記事に書いている。


この年は、前年まで平良文公以来、坂東平氏嫡流の村岡家最後の御当主の小林宮司(旧姓村岡)が旦那様との間に子供が生まれず御高齢になり旦那様の介護のために千数百年間続いた村岡家から宮司家が現在の熱海出身の一般人家系出身の宮司様に変わった最初の年だった。
小林宮司には坂東平氏と源氏の関係性を「主従」とする学者の認識が間違っている事を坂東平氏の武家の方々の立場から主従ではなく「協力者(坂東平氏)とリーダー(源氏嫡流)」だよ、と言う事など色々と教えて頂いた趣味の歴史の恩師の一人に当たる方。
尊敬する歴史偉人の御名と御朱印を色紙に拝受し今も尊敬する歴史偉人の御分霊代わりに毎朝拝む習慣が出来るきっかけに成った人だった。
御朱印7御霊神社久良岐のよし
平成二十六年(2014年)八月三十一日に拝受してる。
ちょうどブログ書き始めた頃かな?
どうやら同日に小生が好きな戦国時代開始の切っ掛けを作った武将の一人で最後の鎌倉公方の足利持氏公と御子息の足利成氏公の忠臣だった宅間上杉家の開いた横浜随一の学問の神様である永谷天満宮でも御朱印を拝受してるので、先に永谷天満宮を参詣して郷土の知恵の神様の御朱印を拝受してから、やはり横浜市栄区出身の長尾家(上杉謙信の祖先)の、更にその御祖先の鎌倉景正公の御朱印を真っ先に拝受に行っていた様だ。
PXL_20240125_123158172
この御朱印帳は、神奈川県で初購入した思い出の御朱印帳で今でも継ぎ足し「延喜式内社以外の神社用」として使っているものだが、小林宮司が兼務されていた佐助稲荷神社で購入した物だった。


ここで購入した御朱印帳・・・
PXL_20240125_123220863
ページ継ぎ足し使ってたら現在は厚さは三冊分+α(自作ページ)、片面約80ページ。
御朱印帳については御朱印帳の外装を変える工作方法等も記事を書いているので興味の有る人は読んで欲しい。


話を元に戻すと・・・
image
冒頭の海の写真は新しい宮司様に御挨拶兼ねて御霊神社に御朱印拝受に行った帰り、材木座に立ち寄った。
PXL_20240125_123147463
その時に拝受した御朱印。
平成二十九年(2017年)の今日。
そこで偶然、青春っぽい地元女子高生二人を見かけて、「二人の仲良しの姿と富士山と夕焼がとっても絵に成るから写真撮らせて!」と交渉したら快諾してくれて、御礼に二人のスマホにも写真を撮影してあげた。
この頃は転職した頃だった。
その前は自動車部品の技術営業職だったけど、リーマン破綻で2人分の営業の仕事と解雇されたアシスタントオフィスワーク引き継がされて毎日17時半にタイムカードを無言の圧力で切らされて朝の6時頃まで働いて、社員寮でシャワーだけ浴びて2時間寝れたら良い生活が3ヶ月続いて過労で医師から3ヶ月休めって診断書かかれて仕事辞めて、そんで始めた電動バイクの輸入販売が上手く行かず、廃業して
転職して、平日休みの日も有り資格の勉強もしてなかったし時間も有った頃だった。
まぁ、2019年からなんか色々と資格とり続ける人生に変貌したのだけど。
だからこの頃はブログ素材の取材にあちこちの「歴史史跡」巡りを凄まじい件数してた頃だった。

この頃はライブドアブログの旅行全般カテゴリーで毎日5位以内に入ってた。
年末年始は1位常連だったし
今は全然、資格の学校通いだしてブログ更新しなくなったら20位前後彷徨ってる。

んで、今日はギックリ腰で休んでたら色々とこの10年振り返る時間が有って、2014年頃の事とか当時の彼女さんの事とか思い出してた(笑)。

正月も残り6日で終わり如月(2月)に成ると、本来の旧正月の春の節句が来ますね。
梅の綺麗な季節が来ます。
CIMG8480
CIMG8481
CIMG8509
皆さんにとって実りある残り1週間、そして充実した2024年に成ります様に!
そして戦争が早く終わり、平和で経済と精神的な豊かさの発展と日本の同盟国と同盟有無問わず親日家の皆さんと、日本文化と日本の歴史を大切にする人々と、宗教国籍人種問わず善良で実直な方々にとって幸福の多い1年になりますように。

能登半島の人々が早く普通の生活に戻れます様に。
熊本地震、東日本大震災の被災者で生き残った方々も新たな平和で楽しい時間がたくさんあります様に。

ロシアとウクライナ、ユダヤ人とパレスティナ人の中の善良な一般市民の皆さんも、早く戦争が終結しこれから10~20年かかっても、早く普段の生活を取り戻し、一日も早く御互いの憎しみが発展を享受する協力関係に変わります様に。
それらの国が日本と協力し苦境を乗り越えて仕事仲間に戻れる日が来ます様に。

戦中の対立関係や戦後の東西冷戦の価値感にも縛られず、下らない共産主義や資本主義等の価値感よりも共存共栄を個々の個性を認め合いつつ目指せる全く新しい世界的な価値観が出来たら良いな~。

20年後、日本でロシア人とウクライナ人が日本企業のパートナーとして共に発展を享受し、ユダヤ人とパレスティナ人と日本人が一致協力して生活を立て直し豊かになり、他の貧困にあえぐ国を救済する側に御金と人を注力出来る社会が出来上がっていたら嬉しいなと思います。
そしてアメリカは仁君として王道に軌道修正しアメリカ国内の貧困格差や薬物の乱用者増加や人種差別問題も解消し、同盟国を対等に扱い地位協定は対等な物になり、世界のリーダーとしての道を切り開き説得力のあるリーダーシップを発揮して世界を豊かにそして日本人はじめアメリカに憧れる映画のバックトゥザフューチャーやETやグーニーズを作っていた頃の様な明るいアメリカに戻っていたら嬉しいなと思う。


当然、その時にはアメリカの重工業軽工業が80年代の様に復興する必要が有るので、日本人もアメリカ人も当時の様に日本と台湾と韓国とアメリカで消費する物は、その商圏内で生産提供し合う商業工業農業の構造、当時の経済活動と生産活動の商圏に戻す必要があると思う。
そうすると必然的に農業もアメリカ日本は自国に生産力を回帰するから、農業畜産業も復興すると思う。
ロシアとウクライナは、EUの中で下らないアメリカに対抗して仲裁のリーダーの主導権争いの為にロシアにもウクライナにも良い顔して戦前の状態維持を阻止し両国民を故意に疲弊させたドイツとフランスに責任取って貰う必要が有ると思う。
彼等の経済活動とロシア・ウクライナの得意分野は競合するので親米商圏からドイツ・フランスには御退場頂き、交代してロシア・ウクライナに仲間に成って貰えば良いと思う。
そして1~2年後、ウクライナ復興とロシアの経済復興が始まり、10年~20年かけて両国友好関係の再構築と全ての経済活動に日本企業と日本政府が寄与する時、その時に自分が今学習してる資格で、少しでも社会貢献出来たら嬉しい。
トランプさんは大統領に成ったらドイツとフランス嫌いだし、嫌がらせマクロンにされたし、おのずとそうなる可能性も有るし。

ロシアとウクライナに関しては、双方に賠償金を放棄して貰い、それ以外の全世界で双方の国の復興と発展に協力するべきだと思う。
その過程でロシアとアメリカには世界のリーダーとして、全く新しい価値観の世界構築で協力し、御互いの過去を捨て去り、日本とも同盟国に成って欲しい。
当然、その時に役に立たない国連は破棄して、環太平洋と北極海の同盟圏で平和な社会を確立して領土的野心持つ覇権主義を進もうとする国と、その国に追随する利己主義の国に対しては参加拒否して貰いたい。

近代や近世の歴史文化としては大切にしても良いけど、当時の軍事的な対立や価値感や冷戦時代の世界観を現代にひっぱるのはおかしい。

世界が平和で豊かに、富む者が立ち直ろうとする弱者を手助けして仲間に出来る社会になりますように。

ついでに個人的にも普通の家庭的な夫や父、叔父、そして知識共有する側として高い評価を得られる人材になれていたら嬉しい。

今週末、土曜日にこの記事⤵の続きを書きます。


先ずは河村城を紹介するつもりです。
書けたら深沢城も書きたいかな。

では、皆さん、健康に気を付けて充実した時間を過ごされてください!
応援してますよ!小生も頑張ります。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

味の素のガリバタチキン
PXL_20240122_095201038
味の素のガリバタチキンの素 130円
鶏むね肉300g 
玉ねぎ1つ+ジャガイモ1つ+しめじ
簡単だし結構美味しかった。
定食屋に有って欲しい味!

調理⤵工程
先に玉葱とジャガイモを1cm角に切り油通しして玉葱油を作り野菜にも火を通す。

その間に鶏肉を水洗いし皮を剥がし下処理。

肉は水気切り、皮だけグリルに投入し塩コショウ強火10分

肉はビニール袋に入れたら片栗粉大さじ1+小麦粉大さじ1入れてシャカシャカ振り回す

油通しした野菜を油切りし、出来た香味油に鶏肉投入し揚げ焼き。

肉の表面が良い感じに成って来たら、しめじと先に油通ししてた野菜を投入し、カリカリにグリルで焼けた鶏皮も投入。

しめじと肉に完全に火が通ったか毒見、火が通ってたら1度フライパンから上げて油切り

有る程度油切れたらフライパンに戻して、弱火にして味の素のガリバタチキンの素を投入し大さじ1の追いバター投入。

混ぜ混ぜして完成!


今、母不在なので父には栄養考えて高いけれど宅配の冷凍のお惣菜を注文してたのですが、冷凍総菜に飽きてしまったらしくコンビニ弁当とか吉野家の持ち帰りとかを買って食べ始めてしまった。
ずっとソンナ食事を父の体に良くないので、夕食時少しだけ調理時間伸びるけど、ちゃんとしたオカズ的な物を作ろうとして父の分も作ったら3人分出来てしまった。

ただサラダ等と合わせると結局、コンビニ弁当より少し安いくらい1人分のコストが500円位かかってしまった。

1人なら毎晩プチっと鍋の素+野菜炒め用ミックス+厚揚げorウィンナー+玉子で毎日一人鍋でも栄養とれるし1食300円位で安いし風呂入ってる間に勝手に出来て良いんだけど。

でも最近、全く料理をしなかった父が自主的に野菜を買ってきて味噌汁とか豚汁とかたまに作り始めたのは偉いと思う。

今風呂入りながらスマホでこれ書いてます、とりあえず20時から勉強して90分経ったら休憩時間にPCからUPしようかな・・・。
上がったら15分仮眠して24時まで4時間しか勉強出来ないな・・・
仕事しながら学生+自炊は、もう大学生じゃないからナカナカ慌ただしい。

まぁ、妹夫婦も弟夫婦も自分で会社してるから寝る時間削ってもう長い事頑張ってるから。
兼業学生2年間だけの小生はまだ妹弟より楽してるかな。

がんばろ。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


みなさん改めまして明けましておめでとうございます。

年末年始の買い出しと、年末の神社仏閣への御礼参りと年始の各神社仏閣への初詣以外は、仕事と親の入院してる病院と、もう直ぐ始まる週末の学校以外に外出の無いオタクの久良岐のよしです。
今も部屋で勉強の合間に少しインスタ見て、思った事を書いてるだけですが・・・

小生は非公開アカウントでInstagramをやっています。
※リアの絡みも無くフォローして来た人は容赦なくブロック➡削除しまくり(笑)。
インスタのフォロワーさん達を見てて感心するんです。
小生のフォロワーさんは基本的に富士山撮影や天体写真や鉄道写真が趣味の玄人の方達ばかりなのですが・・・
その人達が皆、小生が行った/行きたいと思ってチェックした場所何か既に写真UP済みの方ばっかりな上に、写真拝見するたびに・・・
「この人達の地形読む力、城オタ超えてるなぁ~」
・・・と感心する事が多いんですよ。
小生の行きたい場所/行った場所⤵の一部。

高ボッチ高原
鉢伏山
御坂城
櫛形山
観音山
永明寺山
ここ等辺り、もう小生のフォロワーサンは皆さん普通に撮影されてUPされてて、神奈川県住みなのに下諏訪~山梨静岡は頻繁に写真UPされてて1日の推定移動距離も300kmくらい車で走ってるんじゃないのか~?と思うんですよ。
しかも山登りや夜間ハイクを冬にもしてらっしゃるんですよね。
・・・日帰りで。
小生の取り巻きは「城好き」「戦場好き」「神社仏閣好き」「古墳好き」「廃墟好き」「富士山好き」と「食いしん坊」の人達です。
「のんべえ」は大っ嫌いです。
自分が酒は大量に飲酒しても全く酔わない体質なので楽しくないので「金の無駄」としか感じません。
PXL_20230501_080311443.MP
しかも上記の趣味は派生的に景勝地や趣味外の史跡や文化財に触れる機会も多いので人生が豊かに成ります。
要するに、旅行ばっかりする事に成るから。
例えば小生の御朱印も普通の御朱印帳なら18冊分に相当するだけ拝受する機会が有りましたし、これ以外にも個人的に拝受した物で神様や寺院の御本尊の御札の代わりに壁に掲げて毎日拝んでる皆さんに対しては非公開非売品のものも50枚超ありますから、参拝しただけの寺院含めると大小合わせて相当数。
まぁ~、そこ等辺は以前、オリジナル御朱印帳作りの工作の仕方をブログに書いて紹介した時に具体的に御朱印帳その物を並べてる写真を掲載しているので興味が有れば見て見て下さい。
これ⤵


歴史散策すると目的地周辺の道沿いの石仏や小さな御社も奉献してる人の名前と時代の年号とかも観察して地域の古くからの住人の苗字も記憶したりしています。
何故、小さな石仏やら供養塔を観察する事が如何に大切かを皆さんに共有しようと思う。
例えば梶原御霊神社と詰め城と思しき裏山全山含めた周囲一帯のの石仏・石塔と鎌倉時代の構造の矢倉群について。
CIMG9261
CIMG9263

梶原御霊神社は元々は現在少し離れた場所に明治政府によって移転させられた等覚寺が現在の深沢小学校の場所に存在した近世までは、御霊神社も等覚寺の敷地の一部だった。
そして等覚寺は開山は秀恵僧都で応永年間(1394年以降)の成立と言っているが間違いな事も分かる。
元々は深沢小学校の敷地に等覚寺は存在して、尚且つ梶原御霊神社の別当寺だったのだから普通に考えてれば全ての痕跡は梶原御霊神社~その背後の城山と思しき裏山に残っている何てバカでも分かる。
そして論破出来る物証が有る。
これ等の矢倉群は鎌倉時代の物の構造。
CIMG9205
CIMG9206
CIMG9209
CIMG9210
後の時代にこれらの古い矢倉が近現代に私有地化されてしまい現代の地主によって移転されらた場所が現在の深沢小学校の敷地の梶原景時公御一族の墓所。
CIMG9211
CIMG9212
こんなん、石塔は本物でも全く意味を為していない状態に成ってる。
鎌倉字時代の墓は、1つの五輪塔や墓石が1つの矢倉または矢倉の一部屋づつに有るのがスタンダードで尚且つ、五輪塔が壁の納骨スペースの穴を塞ぐように配置されている。
CIMG9211
だからコンナ風に4基ギュウギュウ詰めなんて有り得ないし先人に対し不敬。
真四角に掘り抜くだけの単純な構造は身分の低い人を除いて初期の矢倉には無い。
更に裏山は様々な石仏や古い墓石、矢倉も有るが、肝心な物は御霊神社に残ってる。
CIMG9229
梵字の刻まれた法輪塔、建武の元号が読める。
あれ?
等覚寺の歴史解説は開山は秀恵僧都で応永年間(1394年以降)でしたよね。
建武年間は1334~1336年ですよ。
これね、簡単な話し。再興開基(かいき:御寺を開く事)が応永年間(1394年以降)で、再興開山が秀恵僧都って事でしょ?
そして真言宗は鎌倉市内では少ないのだけど、源頼朝公の時代には真言宗寺院だらけでした。
それを幕府を簒奪した義時没後の北条家が宮将軍を奉戴してから臨済宗と浄土宗に宗旨替え後援しまくり、鎌倉市内では本来は天台宗や真言宗寺院だった前身寺院が有った場所が、宗旨替えした時を開基として伝えてしまったせいで大混乱を起こしている。
逆に梶原御霊神社と等覚寺は梶原氏の本貫地(元々の領地で一族の発祥地)なのだから恐らくは、北条家統治下の鎌倉幕府時代に表立って梶原景時公を幕府の御膝元で供養出来なかったから廃寺同然で、再興されたのが漸く応永年間(1394年以降)、寺院と神社として等覚寺と梶原御霊神社が表立った活動再開自体は既に建武年間に始まってたから五輪塔が有る訳よね?鎌倉幕府滅亡直後から地元の人が堂々と梶原家を供養し始めた状況証拠として残ってるんですね。
そして北条家の目を忍んで供養していたから禅宗と浄土宗にも宗旨替えしてないまま再興されていると考えるのが極々自然でしょう。
CIMG9263
鎌倉市もコレを少し匂わせる文章を書いてるけど、応永年間(1394年以降)に開かれたと誤りを観光案内看板に書いてるよね。
物証が有るのにちゃんと境内の五輪塔や私有地化した場所の矢倉を見に行ってない。
CIMG9229
建武年間(1334~1336年)の五輪塔が御霊神社に残り、典型的な鎌倉時代の高貴な身分の人の構造の矢倉が御霊神社の山を取り巻くように現存してる・・・私有地に。
これ等の石塔は、勝手に住み着いたり現代に私有地化された矢倉を含む土地の所有者の近現代の人間がどうせ明治以降に気味悪がって敷地の矢倉から無理やり御霊神社に押し付けて置いた物だと言う事も理解出来る。
このパターンや鎌倉市内の旧:夜光寺の現代の境内より更に広かった旧境内敷地である私有地化した相馬家と千葉家の矢倉群が倉庫に転用されて法輪塔は移されてしまったパターンと全く同じだと思う。
KIMG8895
KIMG8897
KIMG8899
KIMG8903
KIMG8914
KIMG8916
ちなみに鎌倉市は私有地だからやはり無視してる千葉常胤公の鎌倉市における墓所も、恐らく最初は光明寺塔頭蓮乗院に有った五輪塔も、旧夜光寺の敷地だった背後の山にちゃんと存在している。KIMG8932
三浦義澄公の物と同じ規模だから恐らく間違いないだろう。
IMG_5526
三浦義澄公の墓所は破壊されて中身盗掘されてるけどね・・・
上に宝篋印塔乗せられて合体させられてる意味不明な状態。
これ⤵は伝:三浦義村公の墓所で明治時代に文化財指定されて現代はおざなりにされている。
KIMG9189
納骨スペースが無い五輪塔なので供養墓であるか、元は矢倉の納骨スペースを塞いでいたパターンな事が解る。
しかし関東大震災で転げ落ちて海に落下してるらしいので矢倉に納まってはいない供養墓だと思う。
恐らく義村公の御遺骸は当時の世相的に近殿神社の御本殿の地下に埋葬されたいるなら土葬、もし火葬なら圓通寺の矢倉で供養されていたはず。
圓通寺と言うのは三浦本家の菩提寺で、江戸時代が終わるまで存続していた。
明治時代に政府のプロテスタントに改宗した輩が行った日本の宗教改革で、プロテスタントの嫌う偶像崇拝の仏教弾圧による土地接収と自然信仰の神社統廃合の際に圓通寺は‟無住職だから”と言う阿保な理由で三浦本家の菩提寺にも関わらず廃寺に成って圓通寺跡の矢倉群に骨壺に入れられて五輪塔で蓋をして供養されていた場所は矢倉を残し消滅、或いは重要な物は三浦一族分家の菩提寺の清雲寺に移された。
圓通寺跡
この圓通寺跡地は接収後は海軍弾薬庫に成り長い間民間人立ち入り禁止だった。しかし文化財保護の意識の高い海上自衛隊が矢倉群を破壊せず状態良く残して下さったので現存している。
その後の展開で財務省から問題なく横須賀市に返還されていれば、下らない再開発で矢倉群が破壊される事も無いと思う。
IMG_4374
三浦本家の祖先の三浦為通公、為継公、義継公の五輪塔は圓通寺が廃寺に成った際に分家で戦国時代迄存続した佐原三浦家の菩提寺の清雲寺に移されているが、これは四角い部分に骨壺が内蔵されているとは思えない一枚岩なので、やはり本来の御遺骨は圓通寺跡矢倉群に有ったんだと思う。
三浦義澄公の墓所だけ菩提寺が薬王寺廃寺で独立していたので現存するが悲しいかな先述の通り破壊され中には骨壺は残っておらず意味不明な宝篋印塔が合体させられてる状態。
まぁ、千葉常胤公の五輪塔も三浦義澄公と同じく盗掘されたるんだろうね。
これ⤵
KIMG8932
平安時代~鎌倉時代当時の骨壺は中国から輸入された陶器だから、当時の人と言うよりは後の室町時代の盗掘者と現代人が売買の為に盗掘する罰当たりがいて、数年前に京都でも確かニュースで取り上げられて問題に成った事が有ったと思う。
まぁ、御霊神社背後の山の山腹の立派な矢倉群や千葉常胤公の墓所は私有地だからチキンな連中が文化財保護よりも自己保身優先で日和ってスルーしてるのが良く分かる。
だから歴史はメジャーな本読んで満足したり権威が有ろうが無かろうが人の書いた物なんて鵜呑みにしたらいけなくて、散策中は大小合わせて神社や御寺や祠や石仏や法輪塔も元号と名前まで読み込まないといけない。
特に明治時代~昭和初期の生れの連中が書いた物なんか全く信用に値しない。
ついでに等覚寺の山号の休場山は、休場(やすんば)と地元の人が言ってるけど、これ仏教の規範と音読みでの同義語と城オタの地形と寺の位置関係のセオリー的に本来は休場山(きゅうじょうさん)であって、梶原家の本貫地で十二所に屋敷を移転する以前の旧邸宅地であり等覚寺の元の配置的にも背後の御霊神社の山が「詰城」だったから・・・
「休場山」= きゅうじょうさん=旧城山でしょ。
それに休憩所だった云々は、旧邸はそのまま梶原景時公御存命中に別宅として維持されていて寒川の梶原城との往来で、鎌倉市街に戻って来る時に大佛坂の峠道を登るのが危ない夕刻に成れば普通に旧邸宅に滞在して休むでしょ。
つまり郊外の陣屋、江戸時代で言えば上屋敷に対する下屋敷として機能していたって事でしょ。
そんな事、普通に山歩きする人間なら小生でない歴史に興味ない人でも分かる事でしょ?
それを休場(やすんば)って読みだしたのは、鎌倉時代に武士団だった人達が室町時代位には去ってしまって更に近世この辺りの教養無い農民に成った人等が無理やり山号を後天的に元々梶原景時公が休む陣屋だったって話と混ぜて伝承させちゃったから休む場所=休場にしちゃっただけじゃないの?
伝言ゲームの順序の間違いが更に読み方の間違いとこじ付けに余計な事をしてくれたパターンでしょ。
物証だらけなんですから。
そんな訳で小生や歴史仲間は一緒に歴史散策すると1日で少なくても10件、多いと20箇所近く1日で廻るので、それに付随して境内社や塔頭、境内の施設や一体に成ってる地形周辺を多数見てる訳で、更に石仏石塔や社頭掲示やら入れたら更にそれを上回って数十軒1日で見て廻ってる。
結果的に2014年のブログ投稿開始から丸々10年間やってたから・・・
6432e472~3

写真の枚数も毎年15GB(ギガバイト)位に成ってて、一番活発に史跡巡りしてた2016年~2017年は普通に20GB前後の写真の要領に成ってる。
写真1枚当たりが2~4MB(メガバイト)なので1GB=1000MBとすると、2014年から平均的には15000MBの写真を毎年撮影してる計算ですね。
15000MB/毎年 ÷ 3MB(写真1枚当たり) で計算すると = 5000枚、毎年写真撮影していた計算です。
訪問先1ヵ所で平均10枚位の写真を撮影する筈なので・・・
5000枚 ÷ 10 = 500箇所/年 の訪問件数が昨年まで有った計算ですが、実際全盛期は歴史仲間の車懸や学芸員の友人等との歴史散策では1日に15~20件は史跡巡りしてたので、年間の訪問箇所は500じゃきかなかったと思います。
そんな感じで・・・
KIMG7633
歴史オタクも文献しか読まない内向的オタクじゃなくて、実際に現場に行くタイプのオタクだと地形読むだけでなくて「呼ばれる」事が有ります。
小生達、城オタ、古社と古刹巡りヲタ、古戦場オタとかは経験測から無意識に気に成るんでしょうね。
運転中に本来の訪問予定にない、予備知識ない状態で気に成った道とか山とかに進路変えると、古墳とか由緒あるけど現代では寂れてしまった神社や御寺とか、古戦場で供養墳墓が有る場所に行きつく事が多くなる。
それは無意識に当時の人の「視点」で・・・
戦場にするならここで戦う。
墓ならここに作る。
古代の人が聖地化する地形や湧水が記憶にインプットされてるから、当時の人の価値観で聖地化しそうな場所を特定出来る。
そんな感じでしょうかね~。
特別な事じゃなくて知識と経験に裏打ちされた視覚のフィルタリングです。
富士山撮影が趣味の人達は、経験測で歴史オタクの史跡センサーと同じ様な感覚が富士山の景勝地センサーとして身に付いているんじゃあなかろうか?と思います。
DSC_1284
DSC_1305
まぁ、だから葛飾北斎も城オタ、富士山オタと同じ画角を偶然絵にする機会が多かったのだと思う。
経験って、ピンポイントの知識ではカバーできない事を予測するには役に立ちますよね。
それがスキーマなんですが、スキーマを役立てるには経験した事の種類と件数が多かったり、引き出しになる類似の知識を大量に持ってる必要が有るんです。
これ、普通に営業職や生産管理経験者、または心理学かじった人なら常識ですよね。
スポーツも最初から自分のやりたい練習しかしない人は、結局経験することがYouTubeのAIの様に自分の好む傾向の事しかしないから成長しないんですよ。
学生時代はセンスだけで何とか成っても、必ず怪我しやすく成ったり技術が伸びないで終わる。

文献バカが総合的な判断が不得意だったり「地形が読めない」人が多いのも正にソレだと思います。
それどころか「城跡」を見ても「城」と認識できない連中が中世の歴史専門家として史跡破壊に加担する側にいる事が多くあります。
・・・まぁ、彼等は開発利権(所属の地方自治体の偉い人)に勝手に阿(おもね)って目の前でレイプされてる女性がいても助けず素通りする様に、城跡を無かった事にしたり重要な部分を故意か無意識かは知りませんが発掘対象地域から外したり、不自然な解釈を調査結果報告書に記載してる人もいます。
そんなの、城オタが見たら一発で看破出来るんだわ。
1つの事しかしないのは本当に害悪でしかないんですよ、製造業でもね。
だからトヨタ自動車は、マルチに技術習得させたりするんですよね。
1つの事しかやらせないと腐敗や馴れ合いも生まれますからね。
因(ちな)みに2024年現在は横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会には城郭考古学専攻の人は一人も雇用されてなかったりもしていますが、雇ったら「城です」って言っちゃうじゃん(笑)?
言われたら困んだよね?
CIMG1909
CIMG1904
KIMG4157
CIMG1954
CIMG1952CIMG1949
CIMG1950
これ⤴を報告しても「発掘出来ません」と言ったのが林文子前市長時代の横浜市教育委員会ですwww
でも、そのタワケ者共、小生が板碑めっけて通報した時は直ぐに調査に行ってんのwww!
これ⤵
CIMG2886 (2)
だって板碑なら建設利権関係ないから政治家に圧力かけられ無いし、自分の出世にも調べても影響ないもんね~www。
文献を捏ね繰り回しても結局、昔の人が自己顕示や隠蔽する為に書いた物との知恵比べすら負けてる奴やコピペ出展ニキに成り下がって終わりの連中かなりいるんですけど。
他方で文献が専門でも例外の人もいますよ。
予想外の質問を素人からされまくる教育的な役割を担う人はバランス良く成長する傾向が強かったり、作業的な発掘者や研究者とは異なり素人に伝える役割のウェイトが高い人もバランス良く見れる方が多いのは小生が知ってる人達を性格と物言いから整理して分類した結果でしょうか。
その人達は自分でも「現場に行って見る」人が多いんですよ。

現場に行ったり商品を自分で使ってみたりしない奴、プレゼンのレジュメが全くプレゼン中のパワポ(現場)と違うとかさ、民間企業の管理職だろうが考古学者だろうがダメでしょう。

そこ行くと、色んな場所から富士山の写真撮影する人等のスキーマによる地形読みは本当に凄い。
・・・って事~www。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

家の事が忙しく結局、車懸と昨年に河村城~深沢城~山中城~箱根権現~大涌谷~箱根関所を廻った記事を書く時間を確保できませんでした。
これ⤵の続きは随時書く事にします。


明日から仕事な上に今日も未だ勉強しないといけなくて余り時間が無いのでサクッと年末年始に何してたかを書きます。
——年末の行動——
実は年末に親が入院して手術して、実家で家事やったりしてました。
それで南部市場の買い出しは例年だと両親の分や弟家族の分とか、妹への差し入れも買っていたのですが今年は親が片方入院中なので2人分だけ購入してました。


だから購入した毛蟹2杯だけだったんです(笑)。
昨年は除夜の鐘は小生が尊敬する北条綱成公の付家老だった間宮康俊公ゆかりの弘明寺で突いたのですが、今年は向かう途中で雨が降ってしまい、止む無く家に帰りました。
北条綱成公や間宮康俊公を御存知ない方は、下の記事を読んでみて下さい。



弘明寺に行く途中、南区の最戸で土砂降りに遭ってしまい、円海山方面に帰る途中にマックに退避して雨宿りして少ししたら上がりました。
でもウェザーニュース見たら大晦日23時~元日01時まで弘明寺はピンポイントで1mmの雨だったので、この日は車じゃなく原付で行動してましたし諦めて帰宅しました。
いつもは自転車なんですが、夜で濡れてクッソ寒いしフルフェイスのシールドが雨露でなんも見えなくて危ないので、その様に判断しました。
帰宅したら昔からよく知る地元の御寺サンの檀家さんに声をかけて頂いて鐘突かせて頂けました。
何とか除夜の鐘タスク達成出来て良かったです。

——元日の行動——
朝起きて、とりあえず御節モドキと御雑煮モドキを作りました。
小生は料理は効率重視で余り見た目は普段気にしないので、綺麗な料理は彼女がいる時に彼女が家に遊びに来た時か同棲してる時にしか作りません。
PXL_20231231_234232821
買っておいた蟹を・・・
PXL_20231231_234055382
鍋で蒸しながら・・・

PXL_20231231_234507500
時短御雑煮の為に本来ウチは京都風の白味噌だけど面倒なので液状マルコメ味噌+イオンの下茹で野菜(ポトフ/カレー等用www)+油揚げ+切り餅。
自転車で爆走すれば近くにスーパーとか沢山有るし歴史の有る地域にもアクセス良いので生活には便利かも。
PXL_20231231_234838644
熱を加える方は出来上がり。
御節も南部市場で購入した単身者用のセット×2を並べただけ(笑)。
PXL_20240101_000426940.PORTRAIT
しいて言えば好きな小田原の籠清の蒲鉾だけは今年も購入した。PXL_20240101_000016318
蟹と御雑煮もどき⤵
PXL_20240101_000527537PXL_20240101_001504972
鶏肉買うの忘れて鍋用の鶏団子で代用してしまったwww。
ちなみに上の「寿」は姪達の御年玉袋にくっつけて転用したwww。
御節もどき30分で調理?終了www。
まぁ、自分の彼女や奥さんと二人だったらもっとちゃんと作ります。

昼からは除夜の鐘の時間に弘明寺で2年参り出来なかったので、もう一度行って見たら何か市営地下鉄の駅の辺りから500mくらい参拝客がズラっと並んでたので又もや弘明寺の初詣は諦めて退散。
そこから親の入院してる病院に見舞いに行き、小生、一応今は兼業で学生なので横浜市一の学問の神社である永谷天満宮に参拝しようと思ったら、こっちも旧別当寺の曹洞宗の貞昌院さんの駐車場のずっと向こうまで参拝客が並んでたから警備員サンに聞いたら1時間以上待つよって言われたから「明日で良いや~」って思って退散。
永谷天満宮に関してはブログ開始初期の頃に記事を書いているので興味が有る人は読んでみて下さい。
これ⤵


日本100名城の1つ、八王子城の設計をした間宮綱信サン(間宮康俊公の実弟で今の磯子区の氷取沢領主)の奥さんが、この永谷天満宮にを開いた宅間上杉家の宅間上杉規富公の御姫様だったので、小生はこの永谷天満宮もとても好きなんです。
結局、永谷天満宮にも御参りせず家に真っ直ぐ帰るのは嫌なので、そこから近い(と言っても自転車で10分位、バイクで5分)の日限山地蔵尊に御参りに行きました。
久しぶりの参拝、多分2年ぶりかな?
PXL_20240101_055834047
ここは昭和10年(1935年)に横浜貿易新報社(現:神奈川新聞)が県民から投票で選定した県下名勝史蹟四十五佳選の1つに選ばれた場所でもある。
素晴らしい場所ばかりなのに廃れてしまっている場所や、戦後のGHQによる宗教法人の土地の没収等で宅地化されてしまい何の風情も無くなってしまった所が多かったりするのだが、日限山地蔵尊も周辺の宅地化と昔は富士山が見えた西側の林が手入れされず伸びきって大木に成ってしまい景観も失われてしまった場所だったりする。


何か小生が昔GoogleMapに口コミ書いてたから興味が有る人は読んで下さい。
PXL_20240101_060230407
今では参拝客は普段は多くないけれど、正月は多くの人で賑わってて何だか少し嬉しかった。
PXL_20240101_060248203
拝受できる御朱印も可愛いね。
PXL_20240101_074325408
で、そこから又、円海山に戻って少し遠回りして富士山を見て途中で京都知恩院の四十六世住持(浄土宗で一番偉い人)の了鑑大僧正の出身地で有る阿弥陀寺と昔は阿弥陀寺持ちだった峰白山神社にも御参りしたけど写真撮り忘れたwww
以前書いた阿弥陀寺の記事⤵

そこから帰宅して入院中の親に連絡して洗濯して乾燥機かけて風呂あらってお湯張って夕食作って食べて風呂入って元日は終了。

——2日の行動——
午前中は家の事やって昼過ぎに入院中の親の病院にまた会いに行って、そのまま大晦日と1日に御参りしなかったから先ず車で弘明寺に移動。
PXL_20240102_042843011
割とスンナリ御参りで来た。
御御籤で末吉で内容悪かったから引き直したら凶が出たからもう一回引いて大吉。
今年は大吉にする為に頑張るのです。
昔書いた弘明寺の解説⤵

運は努力しないとついてこないので、内容が良いのが出るまで引くんです!
ちなみに、他の神社仏閣でも引いてるから全部まぁ、内容の良し悪し両方書いてある事は誰が読んでも教訓に成る事が書いて有る(笑)訳で、ちゃんと神頼み的な意味ではなく心得として参考にします。

そっからスッ飛んで伊勢原市にワープwww
PXL_20240102_073817561
例年御参りしてる延喜式内社にカテゴライズされる神社。
まぁ、古参の読者の方は記事よんだ事有ると思う。
これ⤵

相模国設立時に初代の国司の布施色布智公に崇敬され、後の時代にも征夷大将軍の源頼朝公と北条政子様御夫妻が子宝祈願&安産祈願デートに来た神社で、その更に後の戦国時代は関東管領も務めた扇谷上杉家や近くの岡崎城を本拠地にした扇谷上杉家から三浦家に養子入りした名将の三浦道寸公等の崇敬を集めた場所でもある。
ちょっと伊豆の国主で相模国西半分を支配した小田原城主の伊勢宗瑞公と北条氏綱公の親子と三浦家が対立した時に御世話に成ってた三浦家に味方したら神社の旧境内の現在の奥宮の場所の社殿が放火されちゃったり大変な事も有ったけど、北条家にちゃんと現在地で復興されたりしてる。
PXL_20240102_074130783.NIGHT
御参りすると巫女ちゃんに御祓い無料でして貰って御守り貰えるので少し御得感も有る神社。
神社の背後の奥宮の山に向かって農道を進むと、途中聖地化した所以である古墳や出土した縄文時代のストーンサークル等が展示してあったり、旧境内地の廃校に成った某女子短大の敷地にも埒面(らちめん)古墳と言う古墳の跡が展示されてたりする。
PXL_20240102_075608701
旧本社跡の奥宮、祠が祀られている。
この祠と現在の本殿の真っ直ぐ先に大山の頂上が有る。
奥宮の丘から見下ろす伊勢原市と平塚市の街灯り。
PXL_20240102_080054844.NIGHT
眺めが良いよ。
あの平地は遠い縄文時代には海で、その影響で平塚市や伊勢原市の岡崎辺りは戦国時代も土腐(どぶ)や湖の多く有る湖沼地帯と砂丘なんかだった。
そこら辺りは現代、旧相模川橋脚と誤認されている鎌倉時代の小出川の橋脚の話しや高部屋神社の神事の事で解説した事が有るので興味が有る人は読んでみて下さい。


比々多神社での初詣が終わってから伊勢原の叔父の家に正月の挨拶に移動。
叔母と従姉も元気そうだった。叔母達に上がって夕食食べてけって言われたけど、この後で前鳥神社の18時に閉まる前に何としても間に合わなければならず、この時点で17:15とギリギリだったので・・・
「前鳥神社毎年御参りしてるけど、今年は親の見舞いで出発2時間おくれてギリギリだから」
・・・と事情を話したら従姉(ねぇ)ちゃんに「え~上がらないの!作っちゃったよ!」と顰蹙(ひんしゅく)買ってしまったが3人とも笑顔で送り出してくれたので良かった。
・・・そもそも「今年は玄関先で挨拶だけしに行くからね」と伝えておいたんだけどな(笑)。
でも、ありがとう。
で前鳥神社。
PXL_20240102_085736297.NIGHT
日没が16時40分なんだきゃらソリャ真っ暗だよね、18時まで社殿の雨戸閉めないでくれてるだけ有難い。
PXL_20240102_085959464.NIGHT
相変わらず雰囲気良くて好き。
この前鳥神社も延喜式内社で、比々多神社は相模国三之宮、ここは四之宮、だから前鳥神社の有る地域の住所は今でも四之宮と呼ばれている。
仁徳天皇の実弟である菟道稚郎子が主祭神の神社。
菟道稚郎子は仁徳天皇に対して反乱を企てた母違いの別の兄弟を討伐し内乱を治めた名将であり、日本初の中国の学問つまり天文学の暦や漢詩や兵法を学んだ人物として知られ、菅原道真公登場以前の学問の神様として信仰されてきた。境内社には仁徳天皇と菟道稚郎子の学問の師である阿智使主(あちのおみ)も祀られている。
前鳥神社に関しては、以前に記事を書いているので詳しい事を知りたい人は下のリンクの記事を読んでみて下さい。


 御本殿なんか中国チックな変な正月の絵が飾られてた。
PXL_20240102_090452663.NIGHT
でも辰年の絵だしおめでたいね。
主祭神の菟道稚郎子の学問の師である阿智使主(あちのおみ)は、中国の三国志の物語の始まりの頃の漢王朝の皇帝だった霊帝の子孫で、つまり漢王朝劉氏の子孫に当たる人物と伝わる。
でも小生が思うに、恐らく直系的には霊帝ではなく、霊帝の時代に帯方郡と楽浪郡の太守として赴任し劉氏なのだと思っている。
この帯方郡と楽浪郡は卑弥呼が魏に使いを送った時代の太守で、祖先は漢王朝の皇族で楚王の劉紆(りゅうはん)王の御子孫と考えた方が自然だろうと思う。
霊帝の時代に遼東半島に赴任した話が伝言ゲームで間違って伝わってるんじゃないかな?と思う。
ちなみに卑弥呼は神道的で倭姫と呼ばれる人物に当たると考えている。
倭姫の甥っ子が倭建(ヤマトタケル)だったりするが、倭建と言うのは倭国の長(おさ)=軍事長官と言う古代の官職の漢字の当字称号で複数人の皇族大将軍が一人の神格と誤解されて纏められてしまった為に意味が解らなく数百年に及ぶ事業が一人の偉業にされていると思っている。
卑弥呼にしても、恐らく近畿以東の勢力に大和朝廷が九州北部まで押し込められて魏に当時最新鋭の屯田兵制度等を技術供与して貰い、関西まで取り返した人物なんだろうな~と個人的には推測してる。
卑弥呼の頃の伊勢神宮は実は現在の三重県には無かった。
今の伊勢神宮は古墳時代の雄略天皇=大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)=中国史料記載:倭王武=考古学名:獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)の時代頃に遷宮させられて現在地移っている。
この伊勢神宮の天照大神の神話では神様が色んな場所を転々として最後に「私ここが良いわ!(意訳)」と言ったので、現在地に成ったと、少し濁して遷宮の歴史も伝わっている。
この神話の様に当時の女王は後の時代に祭祀を司るだけに成った斎王の前身で、卑弥呼の時代には丹波国か丹後国に在ったので、そのどっちかの元伊勢にいたのが時代に的には倭姫なので倭姫=卑弥呼になる。
すると東征神話=甥の倭建、卑弥呼が死んで男王に成ったら再び国内大混乱に陥ったので再び女王が就任したって三国志の魏志に書いて有ったりするのだが、それが女王 臺与(とよ) なのだが神道で神功皇后と呼ばれてる人物と倭姫と倭建と成務天皇辺りの男系天皇の短命で殺し合いしてる様子等が垣間見えたりして、卑弥呼=倭姫・臺与=神功皇后ってのがシックリぴったり当て嵌まったりするんだな。

そこ等辺りの解説は以前コレ⤴で日本の現在の太陽暦と昔の太陰暦の誤差と天皇家の上古天皇の不可解な年齢カウントの理由の解説で書いてるので興味が有ったら読んで下され。
で、前鳥神社に御札を返し参拝も終わり、寒川神社へ移動。
PXL_20240102_095019138
毎年寒川神社の参道は沢山の屋台が並んで楽しいのだが、今年は寒川神社手前に毎年出店するラーメン屋台に入ってみる事にした。
PXL_20240102_093340974
この屋台、毎年の御正月に車で寒川神社に行って参拝する人は見た事有ると思う。
店内に入ったら結構ちゃんとした席と豊富なメニューで居酒屋と比べても遜色ないレベルだった。
PXL_20240102_093430192
小生は「もう毎年お好み焼きとタコ焼きはいいや」と思ってラーメンを目当てに入店。
PXL_20240102_094304672
普通に拉麺として素朴で美味しい醬油ラーメンだったし、マスターや周りの御客さんが皆明るくて直ぐに話の輪に入れてくれて楽しかった。
何か御客さんはたまたま料理人の人達の毎年くる常連客だそうで、御客さんもマスターも小生が良く行く横浜南部市場で仕入れをしているらしく、その話で直ぐに意気投合してしまった(笑)。
接客するマスターの御嬢さんも美人で、5年前に好きだった〇見さんと言う女性にソックリで「美味しかったです、また来年も来ますね」とか言ってしまって「なんだかな~」と思いながら寒川神社の表参道に回った。
PXL_20240102_094904556.NIGHT
相変わらず立派、延喜式内社で相模国一之宮の寒川神社、旧律令制の大社格の神社。
芸能人なんかも沢山来る。夫婦の神様で縁結びと夫婦円満と八方厄除けの神様でもある。
つまり色んな災難(家庭内のいざこざ)を纏めたい時は、それを心がける為にここ御参りしたら良い(笑)。
PXL_20240102_094944994
ここの参道は本来の入口の一之鳥居がもっともっと南側に有って、そこから本殿まではまともに歩いたら1.2kmも有る。むろん、小生が先程お見せした写真は現在の入口なので数百mしかないがそれでも神秘的。
でも一本裏に入ると正月は・・・
PXL_20240102_095043347
PXL_20240102_095814142
粉物と串焼きと甘い物の屋台が都合100軒は出ているだろうか。
すんごく楽しい!
ラーメン食べたのに・・・
PXL_20240102_095254597
買っちゃったwww。
この寿串も南部市場で仕入れた奴だろうか?売ってた御節のセットと同じ飾り。
PXL_20240102_100908397
食べ終わって表参道にも戻って・・・
PXL_20240102_100551518
門をくぐって・・・
PXL_20240102_101626617.NIGHT
御本殿で御参りして・・・
PXL_20240102_121411207
追儺神事を見学して破魔矢と弓を頂いて帰宅。
追儺神事なんぞ?と言う人これ⤵
PXL_20240104_123117804
もっと詳しく知りたい人は昔、書いた記事読んで下さい。
これ⤵

その後、体冷えてクッソ寒いから駐車場スルーして夢庵に入ってホットドリンクバーで温まってから帰ろうと思ったのに・・・
PXL_20240102_122709334
何故かスイーツのセット注文してたwww。
美味しかった。結局ドリンクバー注文せず暖かい緑茶飲んでたし!
で、駐車場に戻り車に乗って帰宅して2日目終了。

——3日目——
家の事と親の見舞い。
あと、姪っ子達に未だ御年玉をあげて無かったので少しガッカリ➡喜ばせる悪戯(いたずら)の御年玉袋を作成。
PXL_20240103_053839012~2
小生には弟と妹がいるんだけど、姪達に先ず茶封筒に御節の飾りつけくっ付けて(笑)、「超雑な御年玉じゃん」と思わせる第一段階。
次に開けてみたら駄菓子のコインチョコのお年玉袋www
PXL_20240103_053849473
これ、姪達ひっかかって・・・
「なんか分厚い!硬い」
と騒いで開けたらチョコの駄菓子の袋で小学生の姪達は「あぁ~」と成ってた。
作戦通り。
でも、オジちゃん、時間かけて裏のシールめっちゃ綺麗に剥がして中にちゃんと現金5000円づついれてたので見つけた瞬間に・・・
「あ~貰えないかと思った」
・・・とデカい方の姪が言っててオジちゃんはシタリ顔に成ってしまった。
実は、弟妹が親が入院してから4日まで一度も親の見舞いに行ってなかったくせに元日に姪達連れて実家に御年玉だけせびりに来たので、内心キレてた小生は弟妹だけでなく子等も無視して「おじさん洗濯物乾かしにコインランドリー行かないといけないから」と言って放置して出てってそのままにしてたのだ。
それで弟妹はヤバいと思ったらしく、弟は3日に子を連れて親の見舞いに漸く行き、妹も家族と4日に行ったので小生も気が変わり御年玉上げる事にしたのだ。
帰りに家から比較的近い場所にあるモスバーガーで限定の黒毛和牛バーガーなるものを食べてみた。
PXL_20240103_072033977
まぁまぁ美味しかったと言うか、モスバーガーはマックより良いけどパティがそんなに美味しくないと個人的に思ってて、まぁジャンクフードのチェーンだし、横須賀のドブ板通りのネイビーバーガーみたいに価格帯的にも材料に金がかかってないから勝てる訳ないしと思ってたけど、これはソコソコ美味しかった。
PXL_20240103_072914464
PXL_20240103_072936496
オニポテは安定の美味しさ。
PXL_20240103_072919319
で、本日4日目。

——4日目——
PXL_20240104_064038190
やっと横浜の学問の神様、永谷天満宮の参拝客が三賀日過ぎて減って参拝で来た(笑)。
今日は快晴だったので、永谷天満宮の境内地の裏山の富士山の化身である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀る浅間権現様の祠の真後ろに富士山と横浜市営地下鉄ブルーラインが綺麗に見えました。
PXL_20240104_070028188
PXL_20240104_070054211
PXL_20240104_070048089
永谷天満宮で御参りしてから親の病院に行き、明日から仕事開始で明日は来れない事を伝えました。
親の容体は回復が早いどうで御医者さんも良い評価をしているうよです。
親も後期高齢者なので、治療は大変だと思うけど頑張ってるので厳しい事は言いつつも励まし支えたいと思います。

そんな年末年始でした。
御城訪問の休日雑記ブログの続き、ちゃんと調べて書く時間取れなくて更新出来ませんでしたが、また少しづつ仕事と勉強の合間に書いていきます。

では読者の皆さん、今年1年間御互いに実りある進歩の歳にしましょう~♪
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目の6回目の記事。


この⤴前回の続き・・・
01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
07味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココから⤵——
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日は前回の続きで横須賀観光の一部分を書きたいと思います。
先ず今回のシリーズ一覧から・・・  
・・・まぁ上記の5回に分けて書いた通り、車懸来浜2日目は金沢区の史跡~横須賀の走水周辺と歴史散策して廻り、その後で浦賀港に回り今回書く千代ケ崎砲台を訪れた。
PXL_20230430_063457089.MP
千代ヶ崎砲台
上の写真はメインストリートの様な場所なので、色々と順を追って説明していきたいと思う。
先ず、車懸と小生は神社仏閣城塞が好きな歴史オタクなので、普通だったら車懸が千代ヶ崎砲台の様な場所に来ない訳が無いのだが、彼奴(キャツ)の転勤前には海自の施設として機能してたのが横須賀市の所有に移管されたばかりで未だ一般公開されていなかった。
そこから運よく今現在が上地市長と言う歴史文化財の保護に熱心な市長だったので、前回の記事で紹介された走水低砲台とココ千代ヶ崎砲台が史跡として一般公開する為の再整備が上地市長と横須賀市議の皆さんの御尽力と横須賀市教育委員会の努力によって週末限定だが公開に漕ぎつけた。
ただ、ここはアクセスが悪かった!
千代ヶ崎砲台位置関係
※クリックして拡大して下さい。
現在、元は私営の駐車場だった千代ヶ崎砲台駐車場が直ぐ近くに存在するが、千代ヶ崎砲台の公開開始当初はその駐車場は存在せず、御覧の通り最寄りは徒歩13分かかる燈明堂海岸の駐車場だった。

浦賀駅からバスだと最寄りバス停からも20分以上歩かなければならず、中々、本当の歴史好きでも無いと行く気に成らない立地に所在する。
でも私営の駐車場が開いた後で横須賀市がソコを借り上げてくれたので今では無料で車を直ぐ近くに止める事が出来る様になり自動車での訪問ならアクセスが格段に向上した。
更に開業当初から来客が少ないので(笑)、無料のボランティアガイドさんがマンツーマン状態で詳しい解説や見所を抑えて案内してくれるので非常に有難い。
例え男女2人のデートで行っても、絶対にガイドを付けた方が有意義な時間を過ごせるし思い出に成るので下心は一端押させて(笑)ガイドさんに案内してもらった方が絶対に良い!
PXL_20230430_055558911.MP
駐車場から坂を上って来ると、この様に土塁(どるい)を切通(きりとおし)した正門が有る。
PXL_20230430_055755446.MP
其処を入ると城郭で言う所の‟食い違い虎口”の構造に成っており敵兵が直進出来ない構造に成っている。
砲台とは言え、縄張り(なわばり:城の設計)的にも一応陸戦を想定した防衛機能を十分に持たせて作られている。
以前、小生はハツ訪問時にガイドさんに対して、これ等の構造体を見て小生は「戦国時代からの城塞を転用してませんか?」と質問していたのだが、わざわざ防衛省に問い合わせて調べて下さっていたそうで、当時は帝国陸軍に「築城部」と言う部署が有り、明治時代の陸軍は戦国時代の城塞跡を熱心に測量して廻っていた。なので一見すると千代ヶ崎砲台は西欧かぶれの西洋式近代要塞の様でも戦国時代の城の構造がふんだんに流用されており敵軍による砲台占拠に備え籠城戦も想定して戦国時代の城の殺人防衛機構が活用されているらしい。
但し、小生はここも浦賀城と対を為す要塞が平安末期~鎌倉時代~戦国時代を通じて存在していない訳が無いと地形的にも考えているので前身の無名要塞がだったと言う自説を曲げるつもりは毛頭も無いwww。
その証拠にここは幕末にペリー提督が横浜港に来た際に、幕府によって当地防衛担当の藩によって千代ヶ崎台場が築かれている。
CIMG0055
ちなみに正門の正面の虎口の土塁の下に見える井戸は雨水の貯水槽で、ここの建設時に最初に作られた飲用水確保の為の物だったとか。
この幕末の台場建設地はだいたいが平安時代や南北朝時代の戦乱期に要害化されていた場所が多い。
なので、千代ヶ崎台場建設以前に、鎌倉~室町時代にも三浦一族で浦賀城主だった横須賀氏や北条氏康公奏者で西浦賀の領主だった間宮宗甫公辺りによって前身の要塞は築かれていただろうな~と推測している。
その先にボランティアさん待機してる展示室が有って、色々と展示物も無料で見学出来る。
CIMG0056CIMG0057
CIMG0058
CIMG0059
ここからボランティアのガイドスタッフさんの案内が開始される。
PXL_20230430_055853117.MP
いや~構造的にも緑に覆われてる部分は本当に戦国時代の城にしか見えないんだわwww。
でも、この直ぐ先から景色が一変する。
PXL_20230430_055941338.MP
石積みが始まった途端に、もうこれはフランス積みで日本の築城技術ではない。
これは確かに俯瞰した時の縄張りは日本の城に似ているけれど、中に入ると立派な西洋式の要塞でしかも近代の軍事遺跡として保存状態が関東圏で随一の良い状態を保持している事が一目瞭然だ。
車懸もボランティアさんの解説を熱心に聞き入っていたので、京都からわざわざ来てくれて満足して貰えている様で一安心した。
PXL_20230430_060536936.MP
以前、猿島要塞を休日雑記のカテゴリーでブログに書いて紹介した事が有るのだが、猿島はジブリの天空の城ラピュタでロケハンされた場所とされているのだが、猿島より正直言って千代ケ崎砲台の方がラピュタ感が半端ない!
以前の記事⤵


それも海上自衛隊が近代の要塞を平成期に成っても丁寧に維持しながら利用していてくれていたからに他ならない。
海上自衛隊の皆さんに感謝!
で、どれくらいラピュタ感が有るかと言うと写真見て貰った方が早い(笑)。
下のは雨水を煉瓦の積み方によって集める貯水槽。
PXL_20230430_061004720.MP
ちなみにこの煉瓦の積み方はイギリス積み。
フランス積みは煉瓦の長辺と短編を一つづつ入れ替えて積み上げる。
対してイギリス積みは一つの段を全て長辺、次の段を短編と言った具合に並べて積み上げる。
どちらが強度的に強いかの議論も有るが、単純に元は徳川幕府に協力していたのがフランス人技師達だった事と、薩長土肥の倒幕派新政府の元勲達が幹部である明治政府は英国と親密だったので、この要塞を作る際に動員された日本人技師達が当時、英仏どちらの技術を学んだ人だったかで「場所により担当した人が異(こと)なるので建築方法も異なっただけ」と言うのが通説だそうだwww。
ところで貯水槽には今でもちゃんと雨水が集まり、澄んだ水を湛(たた)えている。
PXL_20230430_061034118.MP
結構深いので落ちたら溺れると思う。
PXL_20230430_061342339.MP
このトンネル状の両脇に兵舎や弾薬庫の機能を持つ部屋が設置されていた。
PXL_20230430_061827192
こんな⤴感じ。
壁が白いのは湿気対策の漆喰が塗られていたから、ペンキじゃないよ。
PXL_20230430_061718628
ちょっと特別感もあるでしょ?西洋の御城の中見たい。
PXL_20230430_062022638
この正面の明かりの灯(とも)った凹みは昔は分厚いガラスがはめ込まれており、手前の広い空間は弾薬庫だった。
PXL_20230430_061947702.MP
明かり窓は弾薬に引火してはいけないので、わざわざ反対側に通路が作られガラスで遮断された上で裏側から照らす構造に成っていたそうだ。
よく考えられており、横浜に傾くマンション建てるような平成や令和の杜撰な土建屋の仕事より想像力をフル稼働した丁寧さだと思う。
PXL_20230430_062119860
天井の穴には走水低砲台でも見た様なホイストの滑車が付いていて、ここから弾薬を上部砲台に荷上げしていた。
通路を進み歓談を登ると砲台部分に出る。
PXL_20230430_062356030.MP
う~ん、良い廃墟感。
PXL_20230430_062820632.MP
砲台部分の基礎の石がレリーフの様に模様に成っていて綺麗でしょ?
この様な立派な砲台遺構が千代ケ崎砲台には複数個所、良好な状態で現存されている。
PXL_20230430_063448544.MP
そしてこのラピュタ感。
巨神兵は頭ぶつかって歩けない高さだと思うけどwww。
PXL_20230430_063452337.MP
普通に近代西洋建築の遺構としても美しく見応えも有る。
PXL_20230430_063457089.MP
PXL_20230430_063528874.MP
これも滑車のついていた跡かな?
PXL_20230430_063801419.MP
この煉瓦の色の違いは、強化煉瓦と普通の煉瓦の差で、積み上げた境目が色の違いでクッキリ見えているそうだ。
こんな情報も当時の築城部が経費削減も考えて外に面した部分だけを予算の高い強化煉瓦にしたんだろうとボランティアガイドさんの説明が有り、車懸や小生達には関心を引かれるところでもあった。
PXL_20230430_064012344.MP
同一丘陵に3門の砲台が有ったので似た様な構造が連続する。
只(ただ)、上部から見ると又少し雰囲気が異なる。
PXL_20230430_064357681.MP
PXL_20230430_064412888.MP
何か古代神殿の跡みたいで不思議な空間。
PXL_20230430_064640403.MP
でも私有地化している旧入口の方を見ると明らかに戦国時代の堀底道を兼ねた三日月堀と丸馬出し構造に成っている。
馬出しとか堀切とか土塁とか言われても東日本の戦国時代の御城を知らない人には何の事だかチンプンカンプンだと思うので、御興味有る方は下の解説図付きの用語集を見て見て下さい。


PXL_20230430_064829332.MP
上の写真の煙突構造物は通気口の跡。
流石に東京湾防衛の拠点だったので眺望も良く房総半島まで見渡せる。
PXL_20230430_064804140.MP
更に私有地側に通じていた隧道の入口がさ、もう完全に千と千尋の神隠しとかに出てきそうな入ったら変な世界に連れてかれそうな雰囲気で・・・

思わず音楽付けてインスタにUPしてしまった(笑)
一頻(ひとしき)り見終わりボランティアガイドさん達に御礼を述べて車に戻り、日没前に今度は塚山公園に移動した。
PXL_20230430_080146906.MP
三浦按針お雪夫妻の御廟所
三浦按針公は戦国時代末期、安土桃山時代~江戸時代初期のイギリス人で本名はウィリアム・アダムスと言い、オランダの商船の航海士だったのが乗船していた船が遭難して日本に漂着した際に徳川家康公に信頼されて外交顧問として登用されて日本に帰化した人物だった。
因みに当時の台湾はオランダ植民地だった。
現在の横須賀市逸見に当たる当時の三浦郡逸見村を領地として与えられたので帰化した際に苗字を三浦にし、アダムスを漢字の当て字で按針にした。
按針は御本人の職業である航海士や貿易船に必需品の方位磁石(コンパス)の意味も込められている。
妻女の日本人のお雪さんを非常に愛してくれて、二人の間には子供も生まれたが徳川家康公程には能力の無かった徳川秀忠公の代に成ると外交的に外国人との交流に対する制限が強い政策が打ち出されて、三浦家(アダムス家)も家系が絶えてしまった。
もし明治時代まで混血のアダムス家が存続していたらきっと新政府の官僚として活躍したでしょうね。
この三浦按針公は英国人で乗艦もオランダ商船なのでキリスト教の英国国教かプロテスタントの信徒でしょうが、日本での宗派は浄土真宗でした。
だから彼は横須賀市逸見に在(あ)る浄土真宗の浄土寺を支援していました。
CIMG2144
涛江山 浄土寺
因(ちな)みに、浄土寺は元々は平安末期~鎌倉時代初期の名将で源頼朝公の忠臣だった畠山重忠公により当初は天台宗の寺院として開かれた歴史が有る寺院です。
CIMG2145
後の室町時代に蓮如上人により浄土真宗に改宗していますが、畠山重忠公の時代からの歴史も大切にしている名古刹なので御朱印も拝受させて頂けます。
未だ浄土寺は詳しく個別解説記事にしてない場所なので、ここもその内に独立記事にしたいと思っていますが、今までの神社仏閣城跡や建築文化財の訪問箇所総計が千単位+写真数万枚+古文書のコピーやら集めたものが大量に有るからいつの事になるやら(汗)。
さて、もし皆さんが浄土寺を訪れるならば、当然ながら塚山公園とセットでの訪問をオススメしますし、春の梅の季節に田浦梅林と合わせて訪問すると尚、良いと思います。
CIMG2155
田浦梅林も景色が良いですしね。

田浦梅林に関しては本当に簡易的な紹介⤴を以前も書いているので御興味有る方は上のリンクから御覧下さい。
話を塚山公園に戻します。
PXL_20230430_081020647.MP
三浦按針お雪さん御夫妻の御廟所である安針塚の在る塚山公園からは眺望が良く、横須賀の汐入の軍港が良く見えてます。
実はここから見た景色が三浦按針サンの英国の故郷に非常に似ている事を以前小生は気が付いて記事に書いているので興味が有る方は読んでみて下さい。
これ⤵

この三浦按針公は、九州の日本人がキリスト教のカトリック教徒達に奴隷として売買している事を知ると我が事の様に憤慨して日本人を守って下った人物でもあり、更に自身が乗船していた商船から下したキャノン砲を関ヶ原の戦いで小早川秀秋の陣営に向けてブッ放す事を徳川家康公に進言して関ヶ原の勝利を導いた可能性も考えられている人物でもあります。
三浦按針公に関してより史学的にちゃんと知りたい人は以下のリンクから日文研の先生の考察を読んでみると面白いと思います。
ウィリアム・アダムス(三浦按針)は何を成し遂げたのか
日欧交渉史における役割の再検討

 国際日本文化研究センター教授
フレデリック・クレインス
https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/wp-content/uploads/50597e70ac9f48e3342eca4516dcd274.pdf
そんな人物なので日本人の歴史家のみならず愛国者からも尊敬されており、三浦按針公の御廟所の入口には立派な顕彰碑も建てられている。
PXL_20230430_080352219.MP
小生も尊敬しており、浄土寺で色紙に拝受した御朱印を他の歴史偉人が御祭神の神社や菩提寺の御朱印と一緒に壁に仏壇や神棚代わりに張り付けており毎日拝んでいたりする。
金八先生が坂本龍馬を拝んでいた様な感覚ですかね(笑)。
で、安針塚のある塚山公園は軍港が見えるので軍艦マニアの方々が海自の護衛艦や米海軍の空母を見に良く来る場所でもあったりします。

以前、米海軍のカールビンソンが寄港した時も、ここから写真撮影してる先輩方が沢山いました。
小生はカメラの性能が良くないのでアッサリ断念して普通に観音崎に移動して撮影しましたが(笑)。
IMG_2729
春の桜の名所としても神奈川の景勝50選の1つにも選ばれています。
IMG_2728
オススメの場所なので、是非皆さんも春に浄土寺~安針塚~塚山公園の展望所~田浦梅林とハイキングを楽しんでみては如何でしょうか?
実はここも車懸は初訪問だったので、来られて良かったと言っていた。
なかなか神奈川に遊びに簡単に来れる距離ではなくなってしまったし、小生も来年の秋まで資格の履修科目と国家試験の受験で忙しいので色々と時間も作れず、車懸だけでなく色んな友達に会う事も出来ず、今年は昔、天然理心流の稽古に参加させて頂いた際に同行したO型の経営していたカフェに今月学校が終わってから漸く日曜日に行けたのと、車懸がゴールデンウイークに来たのと、その後1回だけ出張で横浜に来た際に港南台のレストランで2時間だけ一緒に食べた以外、昼間仕事+夜オンライン学校+週末対面授業&毎回のテストで誰とも一切遊ぶ時間が無かった。
だから今月の中頃に発狂しそうになって(笑)、今月のテスト3件あった内1日分のテスト日程を来年に先延ばしして貰い、称名寺に突然散歩しにいったりしてた訳だ。

正直睡眠時間も今月今年の学校の授業が終わるまでは毎日4時間寝れるかどうかの生活をしてたので本当にキツかった。
で、ブログの更新も今年は皆さんに御容赦頂いて1ヶ月1回ペースに減らしていた訳です。
PXL_20230430_081020647.MP
塚山公園での歴史散策も終えて車懸も満足してくれたので、自宅への帰路の途上、吉村屋で修業した弟子の家系ラーメンの店の中でも指折りの名店の1つである王道之印で夕食をとる事にした。
PXL_20230430_091449870.MP
王道之印(王道横浜)
ここは家系創始者で家系総本山吉村家の吉村社長の下で長年重要な店舗を任せられていた鶴巻さんの御店で、吉村家発祥地杉田の地盤を引き継いだ津村さんの杉田家と吉村家は別格として横浜市内では双璧を為す家系の名店だったりする。
PXL_20230430_085835190.MP
小生は海苔増し+味玉+まぶし飯を注文、車懸は何か良く分からんがセットを注文してた(笑)。
PXL_20230430_085827992.MP
PXL_20230430_085821302.MP
本当に杉田家と王道は美味しいので、もし八景島や金沢自然動物公園や横浜ベイサイドマリーナに用事が有って市外や市内でも遠方からくる方は召し上がって欲しい。
車懸は京都人のクセに(笑)豚骨醤油の濃い味も好きなので、ここは以前も一緒に来た事が有る。
食事が終わると、この日はせっかく横浜に来たんだから家風呂じゃツマランだろ!
・・・と言う事で、一度入浴用品を取りに家に戻ってから小生イチオシの名銭湯、南区の仲乃湯に向かった。
PXL_20230430_111206847
仲乃湯
ここは以前、ちゃんと取材許可を貰って詳しい記事に書いているので、詳細はソチラを読んで貰った方が良いと思う。


この記事⤴は組合公式より写真と解説でより詳しく紹介出来てると思います。
PXL_20230430_114752431.MP
まぁ、とにかく凄い日本建築なので車懸も連れて行ってみた。
そんな感じで歴史観光2日目は終了し、帰宅して翌日は早朝から山北町河村城~御殿場市深沢城~三島市山中城~箱根神社~大涌谷と箱根の関所~大観山と・・・
・・・山城と神奈川のベタ観光スポット箱根をしたのだが、それは又次の記事で!
次回、車懸攻城用の後ろ姿だけ登場(笑)!
次回記事で紹介する訪問地⤵の写真一部
PXL_20230430_234554179.MP
PXL_20230501_002001459.MPPXL_20230501_031226767.PORTRAIT.ORIGINAL
PXL_20230501_025640231.MP
PXL_20230501_050045861.MP
PXL_20230501_054350465.MP
PXL_20230501_062638096.MP
PXL_20230501_081120291.MP
PXL_20230501_082957168.MP
PXL_20230501_094149854.MP
では皆さん、次の記事でお会いしましょう~♪

――追記――
2023年中は余り記事を更新する時間も無く、古参の読者の方には申し訳なく思うばかりです。
来年2024年も夏過ぎ迄このペースでの更新を続けさせて頂く事に成るかと思いますが、2023年程仕事と学業の兼業のスケジュールがタイトには成らない可能性も有るので、出来るだけ色んな場所を紹介したいな~と思っています。

しかも今回でゴールデンウイークの記事は書き上げてしまうつもりだったのですが、ちょっと実家の用事で色々と忙しく結局1部しか記事を更新できませんでした。
御正月休み中に、最後の3日目山城巡りの記事を書きあげられたら良いなと思っていますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

では皆さん、現在令和五年(2023年)太陽暦の12月31日22時、太陰暦(農暦)令和五年 癸卯 霜月 十九日(2023年11月19日)、旧暦の農暦では正月は台湾や韓国と同じ春の節句=春節ですのでまだまだ先ですが、西欧化した日本では明日から真冬なのに正月です。
風邪を引かず、インフルとコロナに負けず、良い正月を迎えて皆さんにとって良い1年間に成りますよう、祈願致します。

では、本年もありがとうございました~!
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

突然ですが・・・
小生29日から1月第一週まで仕事が冬休みに成りました~🎉
学校も休み♪
で、正月の買い出しに南部市場に行ったら場内市場の水産棟の御店で毛蟹1杯1200円で買えました。
証拠写真⤵
PXL_20231229_005900332
超ラッキー(笑)。
よくこの中⤵から見つけたと思う。
PXL_20231229_005426246
ちなみに小生が買った時点で3杯しか無かったので30日にはもう無いと思いますが、他にもズワイガニ等が他店より安かったですよ。
PXL_20231229_005604709
お店は水産棟の中の渡辺水産です。
明日30日もやってるそうなので、蟹を買いたい人にはお勧めです!
PXL_20231229_010520459
他にも御正月の食材を売ってる山本水産さんとか横浜水産とかも30日迄営業してるそうです。
PXL_20231229_005215524
PXL_20231229_005308751
それと鮪を目の前で解体して販売してくれる金鱗水産さんも有りますよ。
仮に御正月の買い出しに間に合わなくても、第2土曜、第4土曜には水産棟で早朝に買い物出来ます。

鮪巨大ですよね・・・
PXL_20231229_010407944
そりゃパレット積みでフォークリフトじゃないと運べませんわ・・・
見た感じ100kgは無くても人間の小学生〜中学1年生くらいの重さ(笑)はありそう。
筋肉の塊だからもっと重いのかな?
さて南部市場の水産棟は明日30日含め、水産棟は仲卸し業者で普段は御店向けの鮮魚販売なので通常営業日も朝の7時開店~10時で閉まります買いたい人は8時には行った方が良いでしょうね。
店によっては31日まで営業してる場所も有りますから諦めずに行く価値はあると思います。

小生の本日の戦利品⤵
PXL_20231229_164239981
左から・・・
毛蟹:1200円×2杯、
単身者~2人用のおせち詰め合わせ:1200円
小田原の蒲鉾の名店‟籠清”の板わさで食べる蒲鉾:1000円
激安っ!
でも明日30日~31日は水産棟に来なくても場外市場でも売れ残りの物が更に値引き成ると思いますよwww。

さて、水産棟の行き方が分からない人の為に地図で場外市場駐車場から歩いて行く方法を教示して差し上げます。
※クリックして⤵拡大して見て下さい。
南部市場
南部市場自体の入口は2カ所有り、いずれも首都高湾岸線の下を通る国道357号線の下り車線から入るのが便利ですが、年末は市場とベイサイドマリーナアウトレットへ向かう車で渋滞します。
少し早めに出発する事をオススメします。
場外市場の前は込みやすいですが、ブランチ棟の屋上駐車場は30日~31日位だと入りやすいかも知れません。
正月の買い出しに限らず、水産棟は月2回、第2、第4土曜に一般人も買い物出来ますから是非、訪れて見て下さい。ただし、先述の通り7時~10時しかやってませんから注意してください。
場外市場の方は普通にスーパーマーケットと同じ様に営業してますし、ブランチ棟でも小田原の干物の名店の‟山安”や、新鮮な魚を扱う神水産等が出店してます。

では皆さん、良いお年を過ごして下されや~。

PS
明日30日の夜か31日中に歴史仲間とのゴールデンウイークの近代要塞と山城巡りの旅行の記事。
これ⤵の続き

を書いてUPしますね!

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目の5回目の記事。


この⤴前回の続き・・・
01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
07味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココから⤵——
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
——ココまで⤴——
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日は前回の続きで横須賀観光の一部分を書きたいと思います。
先ず今回のシリーズの説明から・・・  

ゴールデンウイークの車懸の拙宅滞在2日目の横須賀散策の後半部分・・・
PXL_20230430_034208644.MP
味美食堂
・・・走水神社参詣と味美食堂での食事を終えて、先ず向かったのが神話の舞台の走水低砲台。
PXL_20230430_042845812.MP
走水低砲台
実は倭建と弟橘姫神話の舞台の御所ヶ崎
ここは小生、過去の穴場の海水浴場記事や富士山の景勝地の記事で紹介していた場所でもある。

なので、車懸との散策も以前の内容と重複する部分も有るし、この日の写真より以前の写真の方が綺麗だったりするが古参の読者の方には既知の内容に成る事を御容赦願いたい。
PXL_20230430_042845812.MP
明治時代に陸軍が御所ヶ崎の走水低砲台建設で神話の舞台をぶっ壊すまで神社だったので参道みたいな名残が残っていて、そこが砲台の入口にも成っている。
PXL_20230430_042615754.MP
PXL_20230430_042900445.MP
登るといきなり近代の遺構。
PXL_20230430_043014102.MP
ではなく、神社時代の階段の名残的な物が残ってる。
でもこの石段は古い物では無く、石材の感じからせいぜい江戸時代の物。
PXL_20230430_043143422.MP
上の作平地は恐らく神社が有ったと思うけれど、背後の壁面に近代砲台の弾薬庫が「非常に素晴らしい保存状態」で現存している。
以前は非公開で海上自衛隊の管理地だった事と、今の横須賀市の上地市長が非常に文化財活用と保護の両立に熱心な方で理想的な公開方法と保存が実現されている。
PXL_20230430_043146187.MP
PXL_20230430_043222743.MP
中を見る事も出来るし、部分的には入れる所も有る。
PXL_20230430_043257048
正面の上部に空いてる穴は軍艦と同じで伝声管の跡。
上部に27cm砲弾をブっ放すキャノン砲が有って、そこにいる砲手と連絡を取る為の物だった。
これらの話しは、以前ブログにも書いた学生時代の京都の友人のA・Iが遊びに来た時に猿島のボランティアガイドの方に教えて頂いた事だったりする。
弾薬庫なので・・・
PXL_20230430_043720937
・・・当然、弾薬を上部砲台に釣り上げる人力滑車のホイスト(クレーン)が付いていた弾薬輸送の竪坑(たてこう)も現存していて上から下に今も穴が貫通している。
弾薬庫の上部⤵
PXL_20230430_043549555.MP
大きなキャノン砲だった事が良く分かる。
その横に弾薬輸送のホイスト竪穴が有る。
PXL_20230430_043645982.MP
で、滑車の跡も残っている。
興味が有る人には意味を解って見ると本当に面白いと思う。
なので小生は走水海岸かねよ食堂~破崎展望台からの富士山眺望~御所ヶ崎の走水低砲台~観音崎砲台と観音崎海水浴場や美術館と観音崎要塞を纏めて1日のデートコースや家族のレクリエーションとして推薦しているのだけど、なかなか若い学生世代のカップルにも小さな子のいる現役世代にも知名度は上がらず、しつこく推薦し続けている。
車懸は横浜勤務時代も横須賀観光も何回か来た事が有るが、京都転勤の2020年3月頃はまだココは非公開だったので初訪問だった。
PXL_20230430_043959876
砲台の裏側には読売テレビ系列の鉄腕Dashと言う番組でも頻繁に紹介される150年間海軍用地だった事で人が立ち入っていない自然環境が保全された海が有る。
この日の写真は天気のせいで今一なので過去写真を・・・
CIMG2996
磯焼けが問題化している三浦半島にあって、こんなに透明度と豊かな海藻の森が広がる海が現存している。
CIMG2998
砲台もコンナ感じで保存状態が極めて良い。
因(ちな)みに、この御所ヶ崎の直ぐ近くに破崎展望台と言う富士山景勝地が有る。CIMG0542
【破崎緑地展望デッキ】
なんと三浦半島以東で唯一の海岸に対して左富士が見える場所なのだが、恐らく神話の時代(ヤマトタケルの叔母は倭姫で倭姫は卑弥呼に比定出来るので古墳時代初期)に倭建と弟橘姫がここを仮の滞在場所にした理由は景色故(ゆえ)だったと思う。
まぁ、そんな風光明媚な場所が古事記に登場する「走水」だったりするのだが・・・
PXL_20230430_044006460
生憎(あいにく)車懸と言った時は早朝は雨天で御前は曇天だったのでそんな綺麗に見えなかった(笑)。
PXL_20230430_044041501
でも頂上には当時の東京湾防衛網の砲台の個所が記された簡易地図が有り、こう言うのを読みながら散策すると楽しい。
ついでにGoogleEarthや農研機構サンがリリースしてる明治時代の帝国陸軍が測量した迅速測図を見比べて当時の地形を見てから行くともっと理解が深まって楽しかったりする。
走水周辺の近代要塞
まぁ、こんな感じで走水低砲台は小規模ながら見応えが有り、周辺に観光スポットも多いので合わせて行く価値が有るので車懸を連れて来た。
この後に更に大きな浦賀の千代ケ崎砲台を見学に行く予定も有ったのだが、ここは走水での食事と神社参詣だけでスルーするのは勿体無いので一応、案内した。
一頻(ひとしき)り見終わると車に戻り、次は鴨居八幡神社に移動した。
PXL_20230430_053047292.NIGHT
鴨居八幡神社
ここは三浦一族で源義朝公に忠誠を尽くした、多々良家の開いた八幡宮として横須賀市では知られている。
治承四年(1181年)に多々良義春公によって源氏の影響下で開かれたと伝わる由緒有る八幡宮だったりする。
多々良家と言うのは余り歴史好きでも知らない人が多いかと思うけれども、三浦一族の武家。
三浦義明と言う高齢で戦死した源氏の忠臣がいまして、その孫に当たるのが多々良義春公なのだが・・・
普通の人は名前を聞いた事すら無いと思う(笑)。
・・・でも多々良義春公は海賊退治で活躍した伝承が有ったり、勇将として地元民に現代でも愛される人物だったりする。
この三浦家関連の事は石橋山の合戦は「鎌倉殿の13人」の解説記事を書いた時に三浦半島との関係を含めて書いているので興味の有る方は下のリンクから記事を御覧頂くと参考に成るかと思う。

三浦家の惣領だった三浦義明公は源頼朝公が伊豆で蜂起した際に、三浦家は祖先の三浦義継公が源頼朝公の御先祖の源八幡太郎義家公や、頼朝公の父上の源義朝公等に与力していた縁を重視して石橋山の合戦発生時に源氏に付いて平家に対して反乱する事を決めた武将でした。
鎌倉殿大庭景親鎌倉殿梶原景時鎌倉殿伊東祐親鎌倉殿河津祐泰鎌倉殿伊東祐清鎌倉殿山内首藤経俊鎌倉殿畠山重忠鎌倉殿稲毛重成
           VS
鎌倉殿源頼朝5鎌倉殿北条時政2鎌倉殿北条義時2
三浦義明公⤵

2014-11-16-16-47-06

鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿三浦岡崎義実鎌倉殿三浦義村鎌倉殿和田義盛鎌倉殿土肥実平鎌倉殿安達盛長

源頼朝公達は石橋山で敗戦してしまい、伊東祐親や大庭景親等が源氏狩りの追悼戦を開始した頃に武蔵国の平家軍の総大将である畠山重忠公がタイミング悪く南下して鎌倉に至り、今の材木座を挟み極楽寺側と三浦家が陣取る住吉城側とで対峙する事に成ります。
鎌倉城塞網 国立歴史民俗博物館を参考 久良岐のよし
この戦いは和田義盛公の父上の杉本義宗公が鎌倉の杉本城(杉本寺の有る丘の全山が城塞化されていた)城主だった兼ね合いか、和田義盛公が裏切者の畠山重忠公に父の代から守っていた鎌倉市街地を蹂躙されたくなかったのか、20000の大軍に膨れ上がった畠山重忠軍に対して挑発行為を行い戦端が開かれます。
この合戦の詳細については、住吉城の近くに在(あ)る富士山の景勝地として有名な披露山公園の紹介記事を書いた際に郷土史として紹介している。
これ⤵

三浦家の軍勢は総兵力3000で住吉城から三浦半島の中心にあった衣笠城まで撤退戦を行い兵を集結させます。
その後、三浦家は義明公の嫡孫である和田義盛公の持ち城だった怒田城に三浦家の将兵を移動させます。
現代人は知らない人の方が多いのですが、戦前まで入江だった横須賀市の久里浜の怒田(ぬまた)城の船倉から水軍で三浦軍は房総半島まで更に撤退して伊豆半島の頼朝公を海上で接収し三浦家の軍兵を温存する事を決めます。
その際に三浦義明公と子の一人でもある多々良重春公等が衣笠城に僅かな手勢を率いて籠城し畠山重忠軍を釘付けにして、畠山軍が頼朝公達の追撃戦に加わる事と三浦家一族の将兵が房総半島に逃げる時間稼ぎを同時に成功させて、三浦家の兵力温存戦略を成功に導き御自分達は玉砕し討死にしました。
そんな名将が三浦義明公と多々良重春公だった。
因みに三浦義明公を討ち果たした畠山重忠公は三浦義明公の外孫だったりする。

三浦義明公には三浦市三崎町の現在の海南神社に当たる筌龍弁財天の元に成っている稲荷社で源氏に付くか吉凶占いをして、源氏に付くように神託を得る演出を一族に対して行って納得させたなんて逸話も有ったりする。
まぁ、そんな頼朝公の戦略的な命の恩人であり随一の忠臣でもある三浦義明公と行動を共にした多々良重春公も屈指の頼朝公の忠臣と言えるだろう。
それ故(ゆえ)に頼朝公のは三浦義明公の居所跡と考えられている場所の2箇所にそれぞれ寺院を開いていて・・・
1つは衣笠城近くの横須賀市大矢部の満昌寺、こちらは以前紹介しているので記事を御覧頂きたい。

もう一つは、三浦義明公時代の三浦家の鎌倉市街地における居所だったと思われる材木座の来迎寺。
CIMG8718
随我山 来迎寺
ここには三浦義明公と多々良重春公の立派な供養塔の他に、三浦家戦没者の墓石群が今も保存されています。
CIMG8722
※小生、以前は偉人の墓所を掲載しない主義だったのですが、この数年間の気候変動で神奈川県内各所の歴史偉人の墓所に黴(カビ)が繁殖して墓石に彫られた字が剥落し風化する速度が異常に早く成っているのを確認しており、映像として保存を兼ねて以後は偉人の墓所の写真を皆さんに共有します。
平安時代末期~昭和前期の戦前には背後の丘に奥院の観音堂が有って、そこを登る道が古代の街道の脇道の1つだった様で、観音堂へ続く丘の斜面に林道が昭和までは現存した。
その丘を越えると三浦半島の尾根道伝いに三浦郡の郡衙が有った曹源寺周辺にも行けるし古東海道に合流して走水に抜けて房総半島に渡る事も出来る。
この古街道は戦時中、砲台設営の為に観音堂は撤去されてしまい更に上部に公営墓地の建設で道の名残りも無くなっている。
まぁ、今回は多々良重春公の説明なので来迎寺さんは改めて別記事にして、その内に紹介したいと思っている所ではあります。
さて、鴨居八幡神社に話を戻します。
PXL_20230430_052520221
この八幡宮を御存知の方は横須賀市民以外には余り多くないと思いますが、先程解説した多々良重春公の御子息の多々良義春公によって頼朝公の影響で開かれた八幡宮の1つな訳です。
この神社は色んな横須賀市内の神社を兼務していて、例えば浦賀にある頼朝公の叔父で猛将として名高い源為朝公所縁の鎮西八郎為朝神社や、頼朝公と真言密教の高僧である文覚上人が開いた東叶神社等を兼務されています。
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源頼朝鎌倉殿文覚2
偶然ですが源氏と三浦家所縁(ゆかり)の御利益の強そうな場所ばかりですね。
東叶神社は意外にも未だ個別の紹介記事を書いていませんでした。

何回も登場してるんだけど・・・
まぁ、そんな東叶神社とか凄い神社を数社兼務しているのが鴨居八幡神社の宮司家だったりします。
非常に歴史文化に対する保護に貢献されている社家の1つかも知れませんね。
で、鴨居八幡神社そのものに話を戻すと、この神社は景色がとても綺麗なので小生の好きな場所の1つだったりします。
PXL_20230430_052733436
眼前がね、海なんです。
PXL_20230430_052847770.NIGHT
この海岸は漁港でもあるのですが余り知名度が高くなく、海水浴に適している場所でもあります。

でも現代では海の家とか出店しない場所ですし、小生も気に成ってる美味しそうな海鮮料理屋サンも有りますが昭和の昔と違って飲食店も凄く少なくなってしまったので知名度が低いんですね。
PXL_20230430_053102881
良い場所なんですけどね~、防波堤も有るから海も穏やかだし。
テントを持参して子供遊ばせるには適してますが、駐車場も有りませんしね。
もし駐車場が営業されたら海水浴場として経済的に地域活性化の影響を及ぼせる場所だとは思います。
まぁ、そんな感じで走水低砲台から浦賀の千代ケ崎砲台に向かう途上で鴨居八幡神社を初参詣の車懸と再訪してみました。
鴨居八幡神社は御朱印が有り、鴨居八幡神社でも東叶神社でも鴨居八幡神社の御朱印を拝受出来ます。
PXL_20231219_142428916
叶神社も車なら近いので是非参詣されると良いかと思います。
PXL_20231219_142329585
東叶神社⇔西叶神社は渡し舟で渡船して縁結びの御利益が有るのでカップル向けの八幡様でもありますしね~。
ちなみに走水海岸~破崎~走水低砲台~走水神社(旧名:走水権現社)~観音崎海岸~観音崎砲台~多々良浜~鴨居八幡神社位置関係はコンナ感じ。
2日目訪問箇所位置関係
2日目訪問箇所位置関係迅速測図
やっぱり江戸末期の地形とほとんど変わらない明治時代と、令和の地形では沿岸部が埋め立てられて少し違いますよね~。
でも鴨居八幡神社は素敵な場所で車懸も無事に御朱印を拝受し終えて、千代ケ崎砲台に向かいました・・・
PXL_20230430_063457089.MP
——次回に続く⤵——

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ