歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。
皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪
…と、思って書いています。

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関係先と小生の個人的な信頼関係で了解をとって記事にしているので、転載したい場合は当方へ確認願います。

前回【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その②震生湖~福寿弁才天社~八坂神社~出雲大社相模分祀編・・・秦野市北西部の震災の生んだ紅葉名所と神社編。←コレの続き。
22日訪問その③
出雲大社本社の分社であり関東における出雲大社の拠点である出雲大社相模分祠での参拝を終えると車に乗り込んで最初に向かったのが源実朝(みなもとのさねとも)公の首塚だ。
実は源実朝公が鶴岡八幡宮の階段の大銀杏横で暗殺され首を切断された際に、その御首は紛失して行方不明に成ったとする学者がいたりするが、ちゃんと鎌倉と一見関連の無さそうな地域でも歴史を紐解くと実朝公の首塚が記載されていたりするもんなんだな。
現在では、その首塚は秦野市の田原ふるさと公園と成った広場の片隅に御廟所と石塔が有り地域の人に鎌倉時代からずっと守られている。
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普段なら初見の人は解りづらい農道と住宅街の道なのだが・・・
小生の訪問した11月22日は初見でも訪問し易い状況だった。
市指定史跡源実朝公首塚(田原ふるさと公園)CIMG5612
翌日の23日が鎌倉幕府第三代征夷大将軍の源実朝公の命日なので地域の人が総出で八百回忌の供養と毎年行われる実朝公顕彰の御祭りである“実朝まつり”の準備をしている最中で天幕やら実朝まつりと書かれた看板が用意されていたのだ。
この日は土曜日、小生は翌日の日曜日は仕事だったので1日早い実朝公の追善供養の参拝と成った。
実は偶然の命日直前の訪問。こう言った尊敬する先人の命日には何故か御縁が有る小生・・・
オカルト的なものじゃなくて、普段の尊敬から来る行動と興味でエンカウントする確率が自然に高くなるんだろうと思う。
小生は毎日、祖先神と母方の祖先が崇拝していた神様、そして両系統の御先祖様、自分が崇拝する土地神様、それぞれの時代の神様と仏様、妙法蓮華経、般若心経、無量寿経の題目、それに加え尊敬する歴史偉人、幼少期に御世話に成った義祖母と、学生時代の恩師の名を念じ、或いは心の中で唱え毎日の御挨拶と前日1日無事に過せて新たに1日を迎えられた御礼をする。
・・・その歴史偉人の中に横浜に深く関わった河内源氏の殿様達も含まれていて、特に源頼義公・源義家公・源義朝公・源頼朝公・源頼家公・源実朝公にも名を唱え感謝を伝える様にしている。
無論、時間が無い時は「源頼義公、義家公、頼朝公始め河内源氏の殿様方」と簡略化させて頂く場合も多いが。
だいたいスポーツジムでウォームアップに30分走る間に丁度、全部言い終わる位だ。勿論、ジムでブツブツと独り言を言っていたら危ない人なので(笑)そんな事はしない。周囲に人がいるなら心の中で唱える。
そんな訳で、源実朝公の命日の前日に御参りで来たのが偶然でも良かった、普段から守って頂いていると勝手に思っている感謝を伝えられたから。
因(ちな)みに「念」と言う言葉について一つ解説をしておきたい・・・
余談だが頭の中で言葉を読む事を“念じる”事だと勘違いして“念”の動詞を使う日本人が多いが、これは誤用で漢字の意味を間違っている。念(ねん)は中国語の念(Nian=ニエン)を古代日本人が朝鮮訛りで読んだ結果、先ず発音が念(ニエン)○ではなく念(ねん)×で伝わってしまった。そして次に意味も間違って用いられる事が現代では多い。
中国語で学習を促す時に「念書(Nian Shu)」と現代でも言う事が有るが、これは丸暗記する為に音読して精読する事を指す。
本来の“念”と言うのは声に出して唱える事を意味する動詞なのだ。
だから「念じろ!」と言われたら言葉に出して唱えないといけないのだ。決して「頭の中で念じる」と言う事は成立しない。あくまで“声に出して言う”事を“念”と言う。
もし教養が無く嘘ばかり言ってる偽霊能者が「頭の中で念じる」とか言ったら「コイツ馬鹿な詐欺師だな」と思って置けば良い。
そんな“念”の一文字が動詞として浸透したのが、丁度、鎌倉時代、源実朝公が生きた頃の話で浄土宗の開祖の法然上人と直弟子の親鸞上人、そして日蓮上人と踊念仏の一遍上人達が布教した念を精神修養に取り入れた“法華宗”にカテゴライズされた仏教の影響だな。
現代では完全版が伝わらない法華経の教えを元にした宗派で、源頼朝公や源実朝公そして北条義時公も大切にしていた経典だったりする。源頼朝公や河内源氏の歴代殿様は、法華宗の他に真言宗と修験道と神道も非常に大切に信仰していたりする。
源実朝公は法華経を“転読”しているので、つまり“題目を念じた”らしい事も現代に伝わっていたりする。
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上の写真は鎌倉市浄明寺地区衣張山の釈迦堂切通し。
北条義時公の子で鎌倉幕府第三代執権と成った北条泰時公が、北条義時公の没後に供養の為に付近に釈迦堂を建立した事に名前が由来する。
話を源実朝公に戻す。
甥っ子で出家していた公暁(くぎょう)に暗殺された際に首は持ち去られたとされている。ここまでしか調べない或いはメジャーな文献しか読まない連中は「首は行方不明」で終わっている。
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上の写真は鎌倉市の寿福寺の参道、今の季節は多くは無いが紅葉も美しい。
現在の源実朝公の菩提寺は鎌倉の亀谷山金剛寿福禅寺とされているが実は全く関係無い。まぁ、鎌倉市の扇谷地区に存在する“臨済宗南禅寺別格 鎌倉五山の第三位”の格式を歴代将軍から与えられていた御寺で由緒正しい事と母親の北条政子様の菩提寺なので合祀されているのだろう。寿福寺の所在地は元は源氏の邸宅跡でもある。
しかし本来の御廟所は鎌倉市浄明寺地区大御堂谷(おおみどうがやつ)に存在した廃寺:阿弥陀山勝長壽院(しょうちょうじゅいん)に亡骸が葬られたと記録されている。しかし御首は見つから無いまま亡骸が葬られたので勝長壽院には“胴塚”が存在したのだろう・・・
まぁ、源実朝公暗殺には伯父の北条義時公が不可解に鶴岡八幡宮参拝の式を途中で早退したとか中門で待機していたとか各文献の記載が矛盾していたり、肝心の実朝公の“首が見つかっていない”とされていた事からミステリー満載で実は首謀者とされる義時公が暗殺を察知し実朝公を逃がした生存ルートも小生は推測していたり・・・
北条義時公と三浦義村公が結託して源氏の血を根絶やしにした従来の有力説も有り得るとも思っている。
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写真は横須賀市衣笠城址の衣笠山大善寺。
大善寺は三浦一族郎党の学問所として機能した元は真言宗で現代は曹洞宗の寺院。
小生が実朝公の生存シナリオも有り得ると思うのは、実は暗殺の前に源実朝公は朝廷から高い官位をバンバン与えられているが・・・
実はこれは日本の歴史を見ると解るのだが、天皇子孫の平氏源氏等の元皇族や古代豪族有力者を藤原家が暗殺する際の悪い兆候なのだ。官位を上げておいて朝廷に参内させたり、官位受領する相手へ使者を送っておき使者によって相手の側近を内応させる。そして毒殺させたり謀反を起こさせたり陰謀に嵌(は)めるのが汚い藤原家の常套手段な訳だ。小生と多くの歴史家が指摘するが藤原家は蘇我嶋大臣馬子=蘇我馬子を暗殺し蘇我の財産と地位を乗っ取った“百済王族”と言うのが現代では説の1つに成っているが、彼等藤原家は古代から天皇家と血縁の有る豪族を陰謀で暗殺したり、天皇家から臣籍降下して源氏や平氏として豪族に成った関東の武士を平安時代から度々陰謀に陥れている一族だったいたりする。
源頼朝公
実朝公の父上の源頼朝公も落命前日と当日の症状はヒ素中毒が推測出来て、暗殺の容疑者は北条時政の婿の稲毛重成だろう。首謀者は北条時政。そして北条時政は色ボケと勘違い権力欲から源実朝公も暗殺しようとした悪人で子の北条義時公や孫の北条泰時公からも嫌われてロクに供養もされていない。
この老害の北条時政は京都に滞在していた期間が有り、藤原貴族に欲を突かれて煽動される動機が有るし性格的にも自己中心的で利己的な面が強いのでやりかねない。
暗殺事件発生の数年前、源実朝公が急速に官位が上がると側近の大江広元公と北条義時公は“不吉=暗殺”を憂慮していたので諫めている。この憂慮が後に実際の事件に成ってしまう・・・
建保七年(1219年)に鶴岡八幡宮に参拝した際に暗殺される。この参内に先んじて源実朝公に対して側近の大江広元公は「腹巻(歩兵用の体にフィットした胴鎧)を衣服の下に来て下さい」と用心する様に進言していたりする。更に北条義時公も中門に待機しているが中には入れない。
・・・結果的に甥の公暁に暗殺された(事に成っている)。
つまり実は大江広元公も北条義時公もアンテナを張っていたので何か察知していたのだろう。源実朝公は血縁的に北条家と縁が深く、兄で先代将軍の源頼家公は北条時政に暗殺されたのだが頼家公の方は比企家との縁が深かった。つまり鎌倉御家人達の間では“兄弟のどちらを傀儡(かいらい=飾り)将軍にするか”で自分達の出世が関わり権力闘争に図らずも巻き込まれていたのだ。
①従来の説通り北条と三浦に煽動された公暁に殺された。
②藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が守ろうとしていたが失敗。
③藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が実朝公の影武者を用いて南宋に逃がした。
④暗殺を察知していた源実朝公は波多野家と共謀し影武者を立て自力で南宋に逃げた。もしくは別人と成って生き延びた。
上記のどれかだろう。
暗殺の数年前から実朝公は南宋に渡航つまり亡命しようと試みた節が有るのも暗殺の兆候が有ったからだろう。
一般的に源実朝公は文化傾倒し武人らしからぬ暗愚の“迷”君と認識されがちだが鎌倉の町を歩くとそうでは無い事が非常に良く解る。
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鎌倉市の二階堂川に有名な逸話を残す石碑が有る。
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澁河兼守(しぶかわかねもり)と言う武将が幕府重臣の合議で謀反人の嫌疑をかけられた。
この事件の発端は先代将軍の源頼家公に忠義を感じる御家人や、源実朝公ー北条義時公ラインによる権力占有を懸念した“反北条派閥”による謀反が発覚した際に、渋川兼守公は無実の罪を着せられた訳だ。しかし貴族カブレの振りをしながら藤原家による幕府御家人内部分裂誘発の陰謀を察知していたのか、源実朝公は御家人達の団結を促したり権力で冤罪を晴らしてやったりして度々、父の代からの御家人の命を救おうとしている。
この澁川兼守公も真実が伝わる様に和歌好きな実朝公の目に入る様に和歌を10首程詠んで暗号を入れたかして当時は鎌倉から東に向かう時に参道の前を通る荏柄天神社に和歌を描いた紙を掲げておいた。
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すると実朝公の耳目に触れ真実が伝わった様で、澁川兼守公は“実朝公の独断と権威による命令で命を助けられ”御礼に当時は通行不可能だった二階堂川に“歌の橋”を掛けて新たにショートカットの街道を開いて謝礼を表したりしている。
他にも畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が謀反の容疑をかけられると、捕縛に向かう長沼宗政に「活かして捕縛する様」わざわざ指示を出したのに長沼は“将軍実朝公の命令を無視して畠山重慶公を殺害”してしまった。この際も実朝公は「何で殺したか!無実かも知れないだろう!」とかなり怒っているので、鼻から無実だと確証が有ったのだろう。
因みに長沼家は“藤原一族”であり反実朝公の人物だったんだな。
源実朝公は武士達の貴族の陰謀に乗っかった権力闘争に飽き飽きして南宋に亡命しようと画策した痕跡も有ったりする。
まぁ、そんな歴史が有って複雑なのだが、小生は実は実朝公暗殺は朝廷を私物化した藤原一族による御家人を巻き込んだ陰謀で、防げないと思っていた北条義時公により替え玉が準備されて“実は南宋に逃げた”ので“人物特定される首が行方不明”に成ったんじゃないか何て可能性も少しは有ると思っている。
仮に北条義時公が源実朝公暗殺の首謀者ならば、首を紛失させる意味が解らない。寧ろ、助ける側なら身代わりの人間の首を隠すのは意味が解る。
そして・・・
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そうだとしたら、替え玉と成って殺されたのは11月22日に訪問した、この実朝公首塚に眠っている人物のはず。
・・・実は首塚の有る“田原ふるさと公園”は鎌倉御家人で北条義時公に味方した波多野家の邸宅跡なのだ。
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ここの事を知らないメジャー文献しか読まない歴史学者も多いだろう。
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そして波多野家の詰め城も近い。
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仮に首塚に御首(みしるし)を葬られた人物が実朝公の替え玉なら、主君を藤原家の陰謀から救う為に北条義時公と隠密裏に実朝公を逃がす為に一族から犠牲を出した証拠に成り忠臣と成るだろう。
そして本当に源実朝公が暗殺された張本人ならば、御首を取り返し北条家に粗末に扱われない様に隠密裏に自家の邸内に埋葬した忠臣と成るだろう。
どちらの仮説を用いたとしても、実は当時の波多野家には源氏に対してそれだけ忠義を尽くす動機が十分に有る事を歴史オタクでもないと知らない。
波多野家は波多野義通公の姫が源頼朝公の御父上の源義朝公の側室と成って、頼朝公の兄の源朝長公を生んでいる。残念ながら源朝長公は保元の乱に参戦した際に傷を負い、それが元で発病し自害しています。そんな訳で源氏と縁が深い上に実朝公暗殺事件発生当時の当主の波多野義重公は妻が北条義時公の姪っ子だった。つまり北条義時公とも血縁が有った北条派=実朝派の先鋭だった訳だ。
・・・だから十分に一族から実朝公の替え玉を出すなり、首供養する成りの動機が有る。
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今では御廟所は綺麗にされて石碑も有る。
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立派な御神木も目印に成っている。実朝公は白幡神社の御祭神の内の一柱の神様なのでここは霊廟であり日本古来の価値観では白幡神社の代りの場所でも有る訳だ。
そんな首塚の近くには金剛寺と言う御寺が在る。
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正式名称は大聖山金剛寺・・・波多野家が建てた御寺であり、源氏所縁の笹竜胆を寺紋にする御寺だ。
大聖山金剛寺本来、笹竜胆紋は勝手に使って良い物ではない。だからコレも小生が「実朝公生き延びた説」と言う可能性の一つを示す証拠だと思う。つまり、実朝公御自身が自らの身代わりに成った波多野家の武者の供養の為に御寺の建立を事件直後に指示して源氏の笹竜胆紋の使用を許した可能性が有るなんて事も有るんじゃないかと少し思っていたりする。
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まぁ、今と成っては解らないから歴史は面白い。
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金剛寺は臨済宗の御寺なのだが、山門をくぐると右手に・・・

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御地蔵様がいらっしゃる。この様に御地蔵様が沢山入口にいらっしゃる場所は、元々は真言宗寺院か天台宗寺院だった場所が多い。河内源氏の殿様は真言宗と御縁が深く、古くから源氏の御家人だった武士の家は鎌倉時代初期までは真言宗を宗旨にしている武将達も多かったので秦野市東田原に在るこの金剛寺もスタートは真言宗だったのかも知れない。
なんと鎌倉の臨済宗の高僧の退耕行勇和尚様が中興開山と成って大きな寺院に成っているそうだ。
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鎌倉市大船に在る北条泰時公の菩提寺の粟船山常楽寺とも御縁の深い高僧だな。
つまり、この一、御家人の波多野家が開いた秦野の金剛寺には常楽寺と同等にする“それだけの格と意味が有る”と言う事だ。
実朝公を救ったか・・・実朝公を葬ったか・・・どっちにしても忠義に溢れた波多野家らしい御寺だな。

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現代の境内は整備されておりとても綺麗だった。
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可愛らしい小僧様。

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本堂も立派。

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本堂に向かって左手に寺務所。ここで御朱印を頂ける。
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生憎、当日は実朝公没800年の追善供養の前日で準備に慌ただしく、予め用意された紙の御朱印しか頂けなかった。
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又、桜の季節に弘法山を訪れて今度は御朱印帳に頂きたいと思う。
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金剛寺の御庭にもユーモラスな石仏?が有る・・・何だか千と千尋の神隠しに出て来る“坊”みたいだ(笑)。

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御庭はとても綺麗だった。
本堂の右手に庫裡(くり=厨=厨房=現代では居住部分の意)が在るのだが、その庫裡の裏にとても重要な神社の御社が在った。

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余り目立たないし、鐘も突けない様に成っているが実は臨済宗にとってとても大切な神社なのだ。
もしかしたら現在の御住職の御家族は知らないのかも知れない。
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半蔵坊権現と言い、臨済宗鎌倉五山第一位の格を有する鎌倉の建長寺こと巨福山建長興国禅寺の守護神が奥院の半蔵坊権現なのだ。
下の写真は鎌倉建長寺の奥院、半蔵坊権現の参道の写真。
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山岳信仰の神様で、天狗信仰とも結びついている。だからもっと檀家さんにも御参りして貰いたいと個人的に感じた。
日本神話も大切にして来た臨済宗の寺院らしく、境内には稲荷社も在った。
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ちゃんと御参りして毎回行く先々で旅の安全を御守護下さる御礼を、この日も宇迦之御魂神に御伝えした。
その稲荷社の在る場所はどうやら“田原学校跡”と言う場所でもあるらしい。
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調べても判らなかったが、恐らく江戸時代末期か明治時代位に設立された学校の跡なんだろう。
寺子屋が昔は児童学問所の役割を果たしていたので、明治時代に小学校が設立される様に成ると多くの神社や寺院の境内が小学校建設に提供された歴史も有る。
まぁ、詳しい事は今もって何も解らない、今度、秦野市の教育委員会にでも聞いてみようと思う。
この金剛寺は当初の訪問予定には無かった場所だが車の中で地図を見ていて気が付き実朝公の首塚近くの御寺なので「もしや」と思い予定を変えて参拝したが、忠臣波多野家と実朝公の御縁を辿れてとても有意義な時間を過ごせた。
そう言えば波多野家の後日談だが・・・
波多野家は鎌倉幕府の中央ではなく、後に京都に赴任して六波羅探題(ろくはらたんだい=西日本監視の組織)に評定衆(ひょうじょうしゅう=役員)として活躍する事に成る。
室町幕府でも評定衆に成り、後に丹波国で大名化する。この大名化した波多野家と戦ったのが織田家臣だった明智光秀公な訳だ。明智光秀公は母親を波多野家に人質に出して、波多野家と停戦して織田家臣に成る様に独断で講和するが信長公は波多野家を許さずに決裂したことで明智光秀の母親も殺されてしまう。これが一説には本能寺の変の遠因に成っているとする場合も有るが、まぁ可能性の一つでもあるだろう。小生としては波多野家は足利家に忠節を示して足利義昭の煽動で反織田の姿勢を貫いたのだと言う可能性も有ると思うが、まぁ詳しい事は解らない(笑)。

こんな風に色々と歴史に思いを巡らす事が出来たり、実朝公に御挨拶出来て満足し、次の目的地の弘法山から見る紅葉と富士山の撮影、そして鶴巻温泉に日帰り入浴しに行く為に再び車に乗り込んだ・・・
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→次回その④へ続く。

前回の休日雑記→2017年12月01日

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コレの続き。

南足柄市の大雄山最乗寺、足柄上郡の寒田神社を巡拝し、秦野市渋沢の“なんつっ亭”で昼食を終えてから再び車で移動する事15分くらいだったろうか?
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震生湖の駐車場に到着すると、そこからは神奈川県で最古級の神社であり山体その物が御神体でもある大山が良く見えた。恐らく天気が良ければ西の方には富士山も見えたのだろう。
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東の方に目をやると遠く桜の名所の弘法山も見えた。天気が良ければ、その先に海の輝きも見えるのだろう。
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震生湖の入口は丸でキャンプ場の様な雰囲気。
自然災害で生まれた湖なのだが団塊世代達には紅葉の名所として知られデートコースだった様だ。
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なのでバブル期にも自然散策の客がいたので食事が出来るテーブルも備え付けられていたりする。
震生湖は大正十二年(1923年)09月01日に発生した関東大震災で生まれた自然の池である。
地震で起きた山体崩壊による土砂崩れで山の水源と沢が堰(せ)き止められて出来た小さな湖だ。
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まぁ、この湖の透明度は余り良くはないのだが、ここが凄いのはそもそも水源だった湧水地と沢が土砂崩れで生まれた堰き止め湖なのだが水源なので水の流入も無い代りに外に水が流れ出る川も無い。水は地下水脈で外に繋がってると解説されている。
だから水が澱んでんだな。
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この日、11月22日はまだ紅葉には少し早かったがそれでも少しは震生湖の樹々も赤く色づき始めていた。
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きっとこのブログを書いている12月第2週には見頃に成っているだろう。
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完全に釣り堀として営業している東側の方もそれなりに紅葉が有る。
きっと小さな子供がいる家族が釣りをしながら紅葉見物したりすれば良い思い出に成るだろう。
どうも小生は自分が結婚していないのに「子供を連れてきたら喜ぶだろう」とかいつも評価基準の一つにして見る癖がある。可愛い甥っ子と姪っ子がいるのだが、二人とも幼少ながら総合格闘技道場に通っていて忙しく中々“遊んでもらえない(泣)”。
先日は東京の目黒区に住む妹夫婦の所まで甥姪を迎えに行き、横浜市磯子区の科学博物館に二人を連れて行ったりした。
まぁ神奈川県民の小生から見れば、甥も姪も小さな時から格闘技をやっているとは言え東京のモヤシっ子(笑)。
自然の楽しさと綺麗さを教えてあげたいのでいつか震生湖や丹沢に釣りに連れて行きたいと思う・・・
まぁ、小生に釣りのセンスが無いのが一番の問題だな。
実は震生湖、湧水地なので自然信仰の対象にも成っている。
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福寿弁財天だ。
1974年の造営と非常に歴史の浅い神社なのに古来の湧水地に弁天様を祀る習慣を踏襲している正しい日本文化を継承した神社だな。
そもそも弁才天様はインド神話の神様で財神だが、本来は川の象徴だったり軍神や音楽神でもあり、更には男神にモテモテだった女神で女子力アップの御利益が期待出来たりする多くの御利益に預かれる神様なのだが特に財神としての性格が注目される事が多い。
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の原形と成った縄文時代の湧水地信仰は清涼な飲用に堪える洞穴の水源や泉が聖地化され神様が祀られたが、これが初期の湧水地に龍神が多く祀られる初期の日本の信仰に成り宇迦之御魂の原形神と成る。以後、室町時代まで宇迦之御魂神は女性の上半身又は顔面に龍又は蛇の身体を持つ御神像で表現され祀られていた。弥生時代位から稲作が普及し富の象徴が水から“稲”に変わると宇迦之御魂神は御稲荷様として祀られる様に成った。あくまで狐は神様の使いで神様ではない。
更に奈良時代に貨幣が中国から輸入され、平安時代末期に貨幣経済が浸透し富の象徴が稲から“貨幣”に変わった事で鎌倉時代に源頼朝公達武士や貴族によってインド神話の財神である弁天様も稲荷神社や宇賀神社に習合され、日本では弁天様は水源であり富の象徴である神社に祀られる様に成った訳だ。
福寿弁財天社の鎮座する場所は自然の堰止湖の傍らの森の中でとても神秘的な雰囲気だったりする。
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傍らには水子供養の御地蔵様もいらっしゃった。
御地蔵様はヒンドゥー教文化由来の閻魔(えんま=ヤマ)大王様の本地仏なので、中国渡来の解釈では冥界の裁判官であり、本来のインド神話ではヤマーとして死者の国の王であり、仏教的な解釈では全ての世界の人々を救う仏様だったりする。だから幼くして亡くなった子がちゃんと彼の世に行って次に幸せな運命に成る様に御地蔵様に御願いする訳だな。
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肝腎の弁天様だが、奈良県の天河大弁財天社から勧進したそうだ。
神奈川だから江島神社か、その元の滋賀県の竹生島の弁天様かと思いきや奈良から御分霊を頂いてるとはレアケースだな。
宮司様不在の神社だが良縁繁栄の御利益が有るそうだ。
震生湖の紅葉を見物し福寿弁財天様に御祈りすると車に戻り、近くに気に成る神社が前々から有ったので行って見る事にした。
出雲大社相模分祠(いずもたいしゃさがみぶんし)だ。
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この神社は一昨年の11月に大雄山の紅葉を見に来た際と、昨年10月初頭に愛知県旅行からの帰りに東名高速の片側車線規制渋滞に巻き込まれ、渋滞を避けて大井松田で下道に降りて伊勢原市の叔父の家に立ち寄り御土産を持って行く際に偶然前を通り看板を見かけていて非常に気に成っていた神社だった。
無性に気に成ったのだが、前の2回は当日の予定が逼迫していた事もあり前を通過してしまった。
この日は改めて訪れる計画は無かったのだが震生湖の入口へさしかかる時に再度看板を見て・・・
「そう言えば!」
・・・と思い出したので震生湖の紅葉見物の次に訪問する事に急遽決めた次第だ。
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しかしいざ駐車場に車を停めてから一度、神社の参道と思しき道へ戻り鳥居に正対して正面を歩いて見ると説明の看板が違う神社の名前に成っている。
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御嶽神社と八坂神社だ・・・
「おんやぁ~?」
・・・と思いつつも境内へ入ると立派な御神木が出迎えてくれた。
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どうも神奈川県下の古社はどこも楡(ニレ)の大樹が大切にされている。もしかしたら昔の習慣で何か神事と関係が有ったのだろうか?招霊(おがたま)樹等は古代の神事と関係が有ったのは存じているが、ニレについては余り解らない。今度、博学の師と仰ぐ宮司様に聞いてみようと思おう。
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御嶽神社は屋根が銅(あかがね)葺(ふ)きだが社殿その物は恐らく再建されたのものだろう。
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彫刻が立派だった。木材の状態を見るにこの欄間は比較的古いので江戸時代末位の部材を再利用しているのだと思う。
一方で拝殿と言うか覆い殿?は明らかに新しいので現代の再建か増築だろうと思う。
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扁額も真新しい
しかし現在も繁栄している神社なのが良く伝わる。
その隣には八坂神社が在った。
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小生の崇拝する神様の内の一柱、素戔嗚尊(すさのおのみこと)牛頭天王、武塔天神と各時代で色々な神号で呼ばれた武神であり疫病治癒の神であり荒神であり、御妻君の浅間権現と呼ばれる此花咲耶姫様と夫婦の縁結びの神様でもあったりする。
又、御妻君と成られた此花咲耶姫命を助けた神様なので女性を守護する神様とも言える。
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まぁ、小生は独身で守るべき妻もいない。
いつか素戔嗚尊様と此花咲耶姫命様、あるいは同じく崇拝する日本武尊様と弟橘姫様、又は崇敬する建勲神織田信長公と生駒御塁様御夫妻の様(よう)に、大切な家族を守る力と度量が備わり御縁の有る女性と神様を見習って伴侶ともども幸せを享受する運命を授かれたら良いなぁ~と思ってたりする。
・・・まだ自分の実力不足から時が来ないらしい(笑)。
御嶽神社と八坂神社を参拝し、拝殿の中を外から見学すると何やら画が飾って有った。
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見た感じ江戸時代末期位に書かれたものだと思う。京都の八坂神社こと元の祇園社の神楽殿か何かにも同じ様な風化具合の絵が有った。
こちらの八坂神社の絵には“笹竜胆紋”が刻まれている。(?)源頼朝公や頼家公、或いは実朝公と関係が有るのだろうか?まぁ、頼朝公は近隣の開成町の吉田島地区の吉田神社を伊豆の三島大社から御分霊を勧進し開いたりしているし、この出雲大社相模分祀の直ぐ北側には古来主要街道だった矢倉沢往還(古代東海道)が存在する。その矢倉沢往還と中原街道(古墳時代以後の主要街道)を接続するのが眼前の参道の先を通る街道なので、この御嶽神社その物は歴史が有るのかも知れない。
まぁ、定かでは無い。
一頻り参拝を終えて、駐車場の方に戻ろうと奥に進むとわき道から出雲大社の境内に繋がっていた(笑)。
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普通は出雲大社と言うと正真正銘の出雲国の出雲大社の事なので、何で出雲社を名乗ってないのだろう?と思ったが、美人さんの巫女の女の子に由来を聞いてパンフレットを頂戴し名前の由来を見た所、この出雲大社相模分祠(さがみぶんし)の出雲大社部分その物は歴史が浅いらしい。
明治ニ十一年(1888年)に出雲大社から勧進され開かれたそうだ。しかし由緒は凄まじかった。
出雲大社は代々、素戔嗚尊の御神孫である千家(せんけ)が宮司を務めているのだが、この家は国造(くにつくりのみやつこ)と言う古代の知事の役職を代々継いだ家であり神職でもある。
まぁ・・・小生の御先祖様も某国造なのだが、出雲大社は格が違うのね(笑)。
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その島根県の出雲大社の御本社の第八十代国造千家尊福さんの要請で出雲大社から直接分祀された場所だそうだ。仏教的な表現には成るが関東に於(お)ける出雲神族信仰の本山格として親分直々の命令で開かれ拡大された聖地と言う訳だな。
つまり出雲大社相模分祠は名前の通り、相模国に置ける出雲大社分社と言う高い格式を持つ神社と言う事実がそのまま社名に成っているそうだ。
そりゃ立派な社殿も境内も有る訳だよ。
そして歴史が浅いから風土記読んでる小生でもノーマークな訳だわ。
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ここは今話題の“暴行犯罪者”日馬富士も来たらしい。
後輩の頭を“同国籍”の癖に“態度が気に食わないから”と理不尽で犯罪的思考に基づき、武人にも関わらず感情の抑制も出来ず“殺傷能力の有る鈍器で殴打し”頭を割り血塗れに“暴行したのを「教育」と言い張った”挙句に、一般の会社なら解雇される暴行事件なのに引退(退職)願いを受理され退職金2億円せしめる大悪人だな。
こんな奴が塩を撒き退魔の弓を使う神事を行う相撲取りである事が小生は個人的に文化的側面から心情的に許せない。
そして法治国家の日本国民としても暴力肯定する日馬富士と白鳳、同席し傍観し警察への通報も救急車を呼ぶ責任も果たさず“保護責任遺棄”の犯罪を犯した鶴竜等同席者にも相撲とりたる資格は無いと個人的に思っている。
だから出来れば、出雲大社相模分祠からはコンナ非法治主義者で非武人倫理観の大悪人の写真は撤去して欲しいし相撲界からも懲戒解雇して欲しい。
朝青龍一般人暴行事件や時津風部屋門弟リンチ殺人事件後に改革も失敗したばかりか暴行犯日馬富士を擁護する相撲協会役員を全員解雇すべきだし、文部科学省から正式に非難して欲しいとも思っていたりする。なんなら相撲協会も一度公益法人格を剥奪し文部科学省の統括下に置いて、反社会的で暴力を肯定する様なヤクザや日本赤軍やオウム真理教と何ら変わらない価値観の親方連中を全員解雇して再建しても良いんじゃないかと個人的に思う。
出雲大社相模分祠に話を戻す。
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社紋は亀甲に剣花菱があしらわれた紋様だった。
出雲系の神々や大伴一族や吉備一族の関わる古社と弁天様には亀甲紋を用いる場所が少なくない。
小生は浦島太郎伝説にも関係が有ると推測しているが、それは川崎市と横浜市と横須賀市の神話に纏わる事なので今回は解説しないでおく。
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御霊社が本殿の横に鎮座していた。
ここは他にも小生の祖先神と共通性の有る龍神の神格を持つ水神様が祀られていた。
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龍蛇神の社だな。
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少し変わった現代芸術的な鳥居?の先に湧水地があり、そこが霊場に成っているらしい。
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先に進むと御社と水汲み場が有った。
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どうも江戸時代に掘られた井戸水で、清酒醸造にも用いられ“環境庁名水百選”にも選ばれているらしい。
歴史の浅い神社だが、縄文時代に始まる湧水地信仰から聖地化した古代神道のルーツの一つである文化をちゃんと守り伝えている様だ。流石、出雲大社様だけある。
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他にも平安時代に神様に成られた天満大自在天神こと菅原道真公や、筑紫社には宗像三女神様、そして祓社には祓い清めつまり退魔の御神威をもつ瀬織津姫等が祀られていた。
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様々な時代の神様が一同に会し大切にされている。
本当に素晴らしい神社を偶然でも御参り出来て良かった。
又来年に開成町の紫陽花祭りが開催される際には、出雲大社相模分祠に御参りに来ようと心に決めた。
新しいのに清々しい聖地だった。
出雲大社相模分祠御朱印 久良岐のよし
社務所で参拝の証、そして個人的には御分霊を勧進する心算で御朱印を受領し、社務所で売っていた美味しそうなお饅頭が有ったので一つ購入した。
出雲大社相模分祠の参拝を終え、次は秦野市東田原に在る源実朝公の首塚を目指し車に乗ると再出発した・・・
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訪問先その③に続く














※記事前半南部市場年末大売り出しの参考情報を、後半にはブログの年末の御挨拶を書いて有ります。

今年も年末が来ました( ´艸`)♪
年末に横浜市南部市場で大売り出しやりますよ!
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横浜市南部市場横浜南部市場2017年度カレンダー(水産部・青果部・鶏卵部)
上のカレンダーを参考にして貰うと良いと思います。
小生の御薦めの買い物穴場日程は今年は平日の12月27日水曜日!
何故かというと一般的に水曜日は法令で市場は休場日なのですが、この年末だけは営業しています。ですから良く市場に買い物に来る客も27日水曜日やってないと誤解する可能性が高いので比較的落ち着いて買物出来る可能性が高い訳です。しかも年末商戦で多くの店が安売りを始めている最終週です。
そして恐らくそれ以外の日は駐車場がいっぱいで車を停めるのも一苦労するでしょう。
下は今までの市場の様子を撮影した写真と、市場内の御薦めの食堂の写真と過去の記事のリンクです。
南部市場鮪 久良岐のよし2015-12-30-09-07-52
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がってん食堂
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クリックすると過去の紹介記事読めます。
横浜屋本舗食堂
横浜屋本舗食堂店構え 久良岐のよし
横浜屋本舗食堂店内 久良岐のよし
横浜屋本舗食堂鯛茶漬け 久良岐のよし
御薦めは鯛茶漬けのセット♡(笑)。安くて上品でとても美味しい♪

そうそう、皆さん年末年始だけですが毎年、謎のブログランキング1桁入賞させて頂きありがとうございます(笑)。
ブログランキング一桁 2017年度 久良岐のよし
こんな小生の記事を読んで頂けてとても嬉しいです。
小生は世間の皆様に横浜市や横浜市と関係した歴史偉人の事績や、忘れ去られた史跡と貴重な自然環境の存在そして町中の神社仏閣にはとんでもない歴史偉人との関わりが有った事を広く再度知って頂きたくてブログを描いたり、紹介冊子を配布したりしています。
小生の行動原理はとても単純です・・・
公益世務 
和魂漢才 
温故知新 
継往開来 
見義勇為 
質実剛健 
大義滅親 
天下為公 
坂東武者の気概
・・・これだけです。
自分の家は某延喜式内社の神社の宮司家の末孫で有る事、そして尊敬する歴史偉人に守られていると感じる事が有った事、敵味方問わず現代日本人に多くの文化と国を残して下さり今日の生活を享受させて下さった神格化された古代天皇家の祖先の大王家や武士や貴族の祖先の豪族の皆様、我家の祖先神様、日本の発展に寄与された商人の皆さん、そして文化と教養を発展させ守って下さった古代から現代までの各神社仏閣霊場を守る歴代の宮司様や和尚様や修験者や御師や先導師の皆様方に親切にして頂いている事を感謝し「あ~何か生かされてるし死の局面も乗り切ってるなぁ~」と日々感じています。
だから虚栄心と組織のシガラミを超え某学者達みたいな自己顕示欲を完全に吐き捨てて(笑)活動できています。
そこには微塵も利益に結び付ける気も無く、歴史でドクターXの大門美知子(笑)みたいに社会の役に立てたら良いなと思い行動しています( ´艸`)。
この小生の行動原理、自己利益の為に歴史を歪曲したり取材や事実確認も自分で行わないイイ加減な一部の歴史学者や行政担当者には大いに恐怖の対象に成っている様です(笑)。
他方、地方の旅館や寂れつつある規模の小さな神社仏閣の復興や自然環境と史跡の保護にも役に立てたり・・・
実は小生の主戦場はブログではありません。まぁ、知ってる人は知ってるので言う必要もないでしょう。自分の“自慢をプロフィールに書き並べ”たり“人間は外見が9割とか書いているド阿呆”もいたりしますが(←小生の同窓の学者とかアホのカルト扇動者とか自称霊能者とwww)そう言うの大っ嫌いなんですよ(笑)。
人の役に立とうと思うなら自分を際立たせる必要は無いと思っています。
そして利益に結び付けず人の支持を得られ、かつシガラミの無い方が壁無く動きやすいんです。
様は人の役に立てば良いって自己満足( ´艸`)と、実際どうやって困窮している場所や破壊される可能性が有る場所を残したり復興するか実現に結びつける方が大切なんですよ。
恐らく小生の行動は、いい加減な事をやってる人間からしたら“アサシン”と“ステルス爆撃機”に追いかけ回されている様な気分に勝手に成るんじゃないでしょうか?
逆にちゃんと自分で現地に赴き取材したり考証をしたりする学者さんには書物に乗らない未公開の神社仏閣の社宝寺宝伝承なんか小生は自分の情報や具体的に見つけた“出土品”を共有するし、発見した物を“自分の手柄に成らない形”で学者さんに引き渡したりして協力したりするんです。
まぁ自我の塊では有ると思いますが滅私無欲(食欲と外出欲と知識欲とゲーム欲しかないwww)だから多くの神社仏閣の宮司様や和尚様に優しく親切にして頂けるのだと思っていますし、自分の発掘した“板碑”を自分の手柄にせず実名も伝えぬまま市の博物館に通知しておいたり・・・

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例えばコンナのとかね(笑)。
別に自分の名前何て残らなくても良いし、「ありがとう」と言われる方が嬉しいんですよ。
有る意味、承認欲求は強いのかも知れない。

去年までは年末から正月にかけて旅行全般部門でランキングが鰻登りなのか判りませんでした(笑)。
でも「神社仏閣の事を解説してるからかなぁ~?」とブログ書き始めてもうすぐ4年目?で少し気が付き始めたかな?

もっと社会の役に立てます様、そして出来ましたら未だ独身の小生もいつか自分の事が一段落し落ち着いたら人として家族を形成し家族を幸せに出来る才覚と実力が堂々大和漢子として持てたら良いなと思います。
そして御先祖様、幼少期に可愛がって下さった義祖母はじめ恩人の皆さん、いつも御加護御守護下さる崇敬する歴史上の先人各位と崇拝する神様達仏様達に報いる事が出来て、それが現実社会で商店街振興や神社仏閣文化の再興や史跡と自然保護に成り、ひいては後世の人の役に立つ事が残せたら良いなと思う今日この頃・・・

さて皆さんにとっても良い年末に成ります様に~♪
※年末で忙しいのですがブログは最低でも毎週1回更新出来る様にします。

表題の通り、横浜市内と鎌倉市内は2017年12月第1週、今が紅葉の見ごろです!
昨日12月02日に撮影して来た写真を添付羅列しますので、旅の御参考にして頂ければ幸いです!

横浜三渓園
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山下公園~横浜三塔KING(神奈川県庁旧庁舎)前銀杏並木DSC_3852
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鎌倉市浄明寺地区宅間谷(たくまがやつ)界隈(報国寺~旧皇族華頂宮邸~犬懸谷)
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旧皇族華頂宮邸
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犬懸谷(いぬかけがやつ)~衣張山~田楽辻子の道周辺CIMG5827
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関取(戦国期北条氏康公関所跡)~ニュージャーマン~鶴丘八幡宮
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鶴丘八幡宮~白幡神社(鶴岡八幡宮境内社)~鎌倉国宝館
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もう有名な場所ばかりなので解説は不要だと思い、先ずは皆さんの必要な現在の画像情報を掲載しました。
もし、「余り詳しくないよ~」と言う人はブログの記事の下の方のタグから検索したいキーワードを;クリックしてみて下さい!
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近い内に22日の神奈川県西部の紅葉見物の休日雑記の続きを書きますので、その記事も御興味有る方は御覧下さい。

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これは前回の記事です。

皆さん、晩秋の景勝、楽しんで下さいね~♪
では、又、次の記事で!




















2017年の神奈川県は、この記事を書いている11月29日現在が紅葉の最盛期と成った。
しかし小生はワラワラと集団移動する多数迎合主義が嫌いなので、一足早く紅葉の名所とマイナーな紅葉の景勝地を廻るついでに史跡も見学する計画を立てた。
当初の訪問予定はこんな感じだった・・・
2017年11月22日訪問予定地
しかし、実際は若干失敗が有った。
失敗と言うのは訪問地の訪問達成件数では無く、睡眠の事。
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前日は仕事は24時には終わり帰宅、そこから準備をして風呂に入り3時に出発した。
当初の計画通り最初の訪問地である大雄山最乗寺手前の東名高速の中井PAで車中泊(仮眠)を朝07:00位までとってから行動開始する予定だったのだが“全く眠れず(笑)”結局、少し早く6時過ぎに中井PAを出発して07:30くらいに最乗寺の駐車場に到着し、駐車場で漸(ようや)く意識が朦朧として来たので2時間程仮眠した。
結果から言うと変更が入り訪問地は予定より多く成った。
2017年11月22日実際の訪問地
実際には上記の訪問先の他に、大雄山の土産物屋、寿福稲荷神社、御嶽神社と八坂神社が加わる。
・・・さて最初の訪問地の大雄山最乗寺。
大雄山は2回目の紅葉見物の参拝、御寺の駐車場に至る途中、山の参道には立派な仁王門が在る。
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素晴らしい場所なのだが、地図を暗記せずカーナビで最乗寺に行く人や観光バスで紅葉見物に来る人はここを見過ごしてしまう事に成るのだが・・・
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もし今週末2017年12月02日に大雄山に紅葉見物で参拝する人は、是非、この仁王門界隈の雰囲気も味わって欲しいと個人的に思う。
この仁王門からずっと石畳の参道が約500年前から最乗寺まで続いているが、今では徒歩で参詣する人は略いない。小生も車での訪拝だ。
時間軸で言うと小生は最乗寺に着いて先(ま)ず車中で2時間寝た。
睡眠から目覚めると靴を運転用のシューズから、いつも史跡と城跡を見学する際のトレッキングシューズに履き替え、顔を洗う代わりに聖地大雄山の朝の清々しい冷気で深呼吸し精気を取り込んだ。
仁王門から石畳をづっと登って来ると下の素敵な三(山)門が参拝者を出迎えてくれる。
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無論小生は車での訪問、駐車場からも近いので先ずは本来の山門をちゃんと歩く事にした。
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紅葉はまだ少し早かったがそれでも綺麗だったので、12月初旬には見頃に成っているだろう。
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三門の近くには上の写真の相生橋が在り、その渡った先には大雄山最乗寺始まりの聖地でありパワースポットが在るのだが多くの“観光客”や“偽霊能者”は知らない。
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最乗寺開山、了庵慧明禅師が座禅を組み修行した岩が柵に囲まれた場所で聖地の1つなんだが、本当に霊能力や神通力が有ると“自称する人”が何でここに行きつかないかと言えば、彼等にはそういったモノと本当は“縁が無い”人間だからだろう。
神社仏閣を守って来た歴代宮司様や住職様、支援した歴史偉人達を崇拝して本当に大切に思う人間ってのは“導かれる”とかオカルトなもんじゃなくて色々と目に入って来る情報から当時の人の見た物を時代を超えて吸収しようとするから気が付くんだよ、こう言った場所に。
わざわざ御寺さんが石碑をたててもスルーする自称霊能力の高い人間が多いのは皮肉だな。
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三門へ戻り本来の参道を歩くと厳(おごそ)かな雰囲気・・・
マイナスイオンかな(笑)?を体中に浴びながら、この季節の美しい大雄山の紅葉の景色がいよいよ参拝客を出迎えてくれる。
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もし参拝する機会の有る人は、是非、駐車場からいきなり僧坊へと行かず、ここを歩いて自然美と山岳信仰を取り入れた修験道とも融合した曹洞宗大雄山最乗寺の宗教文化の美しさを目と肌と鼻で体感してほしい。
石畳の階段の先にいよいよ僧坊が立ち並ぶエリアへの入口、よく写真やテレビで紹介される紅葉の風景が改めて出迎えてくれる。
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ここは本当に美しい。
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階段を登りきると伽藍を結ぶ回廊と繋がった門が在る。

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瑠璃門だな。
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・・・この門をくぐった瞬間に別世界の様な風景を目にする事に成る。
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朝靄(あさもや)と落ち葉焚(た)きの煙の霞で丸で中国の水墨画の仙人の住まう霊場の様な佇まい。
まぁ、実際この最乗寺は禅道場として精神修養と学問の場として運営されていたのだが天狗信仰の舞台でも有る。
この最乗寺を支援した室町時代初期の古河公方足利家の家臣であり扇谷上杉家の与力だった大森家や、小田原北条家の支援を受けて繁栄して来た寺院であり山の中の御寺であり山岳信仰の場なので、自ずと神秘的な風景に成ったんだろう。
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この写真で見ている方向と真逆の後ろ側に寺務所が有るので、御守りや御朱印はそちらで授与して頂ける。
寺務所辺りの庭の紅葉越しに見る紅葉も美しい。
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この辺りまでは車椅子の人も入って来られる様に成っていたと思う。一般駐車場とは違う場所から入って来られる道が有ったと思うので、もし足の不自由な方が訪問される場合は事前に大雄山最乗寺に電話で問い合わせしてみると良いかも知れない。
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金剛壽院の前を通り過ぎると小生が一番お気に入りの紅葉の綺麗な階段が在る。
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右手奥に見えるのは鐘楼。左の建物は豊富な水量を誇り飲用に適した湧水を湛える井戸。
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本当に綺麗なのだけれど、これでも小生が訪れた先月22日はまだ紅葉見物には少し早かったので12月初旬の今はきっと見頃だろう。
階段を上がると又、紅葉の綺麗な場所が一つ在る。
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多宝塔だな。2年前の記憶でおぼろげだが歴代御住職の御廟所も兼ねていたと思う。
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同じ禅宗でも臨済宗寺院は夢窓疎水石禅師の影響で枯山水庭園が多いが、曹洞宗の場合は永平寺もそうだが神仏習合の文化を明治までは色濃く残し中でも修験道との関係が有る山岳信仰の対象だった白山権現を永平寺が守護神としていた事も有ってか、山伏文化を色濃く伝える寺院が大きい場所程多く山中に鎮座している場所も少なくない。後醍醐天皇をはじめ歴代の天皇は修験道や真言宗や曹洞宗と同じく神仏習合の文化を大切にされてこられた歴史も有る。
だから現代に成っても天皇家は古代から続く神社を大切にするし同じ様に仏教も大切にしていて例えば法然上人は鎌倉時代~現代の今上天皇に至るまで歴代の天皇から法諡(ほうし=法名)を追贈されていたりするし、言うまでも無く弘法大師様や伝教大師様の宗派の真言宗や天台宗寺院や臨済宗や曹洞宗の寺院も法相宗や華厳宗の寺院も日本文化の醸成の源として大切にされて来られた歴史が有る。
そもそも大雄山と最乗寺自体が山伏信仰の文化を持っているから、こんな風に山深い場所に神秘的な堂塔を構えているんだろう。
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先に進むと瀧の上には不動堂が有り、正に修験道や真言宗に通じる文化を引き継いでいる。
不動明王は火災除けの仏様として祀られる事が多いが、横浜の森浅間神社はじめ源頼朝公も湧水地こと滝の在る場所に不動明王を祀らせている。
不動堂の奥に進むと奥院に続く門前の開けた場所に出る。
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この日は霧に木漏れ日が差し込みとても神秘的な光の演出も見られ、少し早かった黄色い紅葉もとても美しく見えた。
この先に進むと大雄山が“縁結びの御利益”で有名な場所である天狗の下駄が沢山有る御堂やら凄まじい段数の奥院へと続いている。
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天狗信仰の舞台でもあるので門の左右には天狗様が坐す。
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う~ん・・・何で明の軍人の甲冑なんだろう?
日本の甲冑で良かろうに。天狗信仰の文化は中国には無いんだけどね。きっとこの銅像を作った人は仏師なんだろう。だから毘沙門天やなんかと同じ中国風の甲冑で天狗様を造形したんだろうな。
まぁ、これはこれで勇ましく格好良いと思う。岳飛とかこんな感じの鎧を着ていたんだろう。
実は曹洞宗が繁栄する切っ掛けに成ったのは神奈川県出身の鎌倉武士が非常に関係している。
大雄山の在る南足柄市の隣の秦野市を平安時代~鎌倉時代に領有していた波多野家だな。
この波多野家の領国が越前国にも有ったので北陸を本拠地としていた曹洞宗の永平寺や大乗寺を波多野家が支援した様だ。
一頻(しき)り紅葉を見物しながら御堂を礼拝して回り、次の目的地に向け出発する前に最乗寺の山門の少し下の方に在る土産物屋まで車で移動した。
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十八丁目売店と村上売店だな。小生は午前中早めの訪問だったので写真でもそれ程観光客はいないが、普段は元気なジジイとババア(笑)で賑わっている。
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因みに十八丁目売店と村上売店は隣同士で売っている物までほぼ同じせいで仲が悪い(笑)。
でも両方の店とも御客には親切で試食を薦めてくれて御茶を振舞ってくれる。
小生は両方の店で種類の違う御煎餅を買い、両方の店で御茶を頂き「ありがとう」と御礼を言って来た。
十八丁目売店の女将さんに「ウチの方が美味しいでしょ?」と聞かれたので「両方とも少しづつ味が違うし両方とも美味しいよ!親切にしてくれてありがとう♪」と御礼を伝えて来た。
大雄山を降りて足柄上郡松田惣領の寒田神社に移動した。
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寒田神社は日本武尊が東征の折に立ち寄った場所だ。神話を証明する様に平安時代の富士山の噴火以前の東海道は寒田神社の前を通る矢倉沢往還=大山街道が東海地方から現在の神奈川県域に至る陸の街道だった。
南足柄市~小田原市街を突っ切って相模湾に注ぐ酒匂川の川名由来はこの神社に伝わる神器に纏(まつ)わる日本武尊伝説で、この寒田神社の場所に在った集落で休息した際に木椀で酒を使った神事を眼前の川で行い、そのまま出撃し合戦が終わって戻るとまだ木椀に酒の香りが残っていたので、これが酒匂川の由来に成ったそうだ。因みに神奈川県域に十四座しか無い延喜式内社の内の一社だったりする。
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まぁ、寒田神社自体は3回目の参詣なのだが、宮司様の御家人はいつもいらっしゃるのだが御朱印は宮司様しか書けないらしく、何としても御朱印を頂きたいと思いの再訪だったが、生憎と翌日が新嘗祭だったり七五三で忙しく、又、品の良い宮司様の奥さんに丁寧に優しく「すいません」と謝られてしまい(笑)御朱印を頂く事を3回目にしても断念し、小生も特に「又来ますから~♪」と答え「来年も紫陽花の頃に開成町に来た時に参拝しますし、次回はちゃんと電話して御願いしますね~!」と5ヵ月先の行動を申告し変な意味では無く小生の顔と声を覚えて貰うべく「釘を刺し」て奥様に印象付けて置いた。
こうやって「横浜から来ました~」って何回も行って顔と声を覚えて貰えば、御縁もそのうちに出来るだろうと思う。
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ちゃんと日本武尊と弟橘姫様に御参りしてから寒田神社を後にした。
ここから次の目標地を秦野市の震生湖に定めていたのだが、途中で渋沢方面を経由する矢倉沢往還の順路を選択していたので「あぁ~そう言えば近くに拉麺の名店“なんつっっ亭本店”が有ったなぁ~」と一昨年立ち寄った事を思い出し、昼食を“なんつっ亭”でとる事にした。
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うまいぜベイビー!
これがなんつっ亭のキャッチコピーで看板に成っている。
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きっとこの名物社長さんの顔をTV番組で見た事有る人も多いかと思う。
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元々やんちゃしていた社長さんなんだが、師匠がとても実直な御人だったらしく感化され、それから仕事に妥協を許さない一途な拉麺職人と成った。その実直で誠実な性格が好感を持たれTV番組でも経営不振のサービスエリアの飲食店再建等を請け負い、今話題の暴行犯“日馬富士”みたいな暴力は使わず、いかつい外見とは裏腹に“優しい言葉遣い”と“味”と“仕事に対する姿勢を学んだ自分の体験談”を経営再建中の店の従業員達に諭し意識改革にも店の再建にも成功したりしている。
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メニューは数種類のスープが有りトッピングもサイドメニューも豊富でカレーライス等も子連れにも適している。ソフトクリームも有るしね~。
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人柄と優しさが滲み出てる御店。
拉麺ファンって味もさることながら大将の人格にも惚れ込んで店に通ったりするもんなんだよな。
だから小生も杉田屋の津村さんが好きで磯子区の杉田屋に通うし、大勝軒の山岸さんや支那そば屋の佐野さんが大好きだった。
この日は黒いマー湯の効いたスープの豚骨醤油拉麺を九条ネギ増しで頼んだ。
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とても美味しく頂きました。
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隣の席に座ってらっしゃった地元のビジネスマン二人組が「美味しい」と連呼し本当に幸せそうだった。
豚骨醤油は獣臭さで苦手な人も多いと思うが、このマー油は焦がしニンニクを手間暇かけてペーストにしているので獣の臭さを消し旨味だけを引き出し、かつローストして有る事でニンニク臭さ自体も無くさながら中華料理で良く使う芝麻酱(じーまーじゃん=胡麻ペースト)と似たような効果を発揮している。
2回目の来訪だったが、今回も美味しかった。御馳走様でした!
なんつっ亭を後にして震生湖に移動した。
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震生湖の駐車場からは神奈川県の守護神である石山権現大山祇神(おおやまづみのかみ)の化身とされる大山が良く見えた。
次回→その②へ続く

















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弁護士とレイプ魔に対して地獄に堕ちろと思う。

非親告罪なのに不起訴とか検察官も気狂いか?
弁護士も不起訴にする為に強姦犯の弁護じゃなくて被害者を精神攻撃し示談に追い詰める悪だ。
願わくば強姦犯6人とその弁護人にとてつもない現世での不幸と、宗教的にも此の世と離れた地獄に堕ち擂鉢で意識有るまま鬼に擂り潰される様な苦しみと傷みが彼の世からの神仏の罰として与えられ不成仏で生まれ変わる事も出来ませんように。
正義を守らない検察官も閻魔様に裁かれ地獄に落ちます様に。

事件化され実刑判決されていようが示談成立していようがいまいが、事件化されて無かろうが未発覚だろうが、世の中のレイプ加害者が総て不幸のドン底に堕ち病を患い大怪我をし社会的に暴露され続けて生き地獄の中での生活を強いられます様、神仏の罰が与えられます様に祈願致します。


昔の宗教は地獄や黄泉の存在を説き悪事を断罪し悪人は破門にし救いすら剥奪したもんだ、宗派問わず。
浄土宗や浄土真宗や時宗の念仏だって阿弥陀如来に帰依し反省し日々善行を積み上げ業を上回る徳を積む「更正」を促す教えが根本だ。
悪事を肯定や罪の矮小化する意見は悪だ。

個人的に赦せない!
ヤクザもレイプ魔も詐欺しも成仏出来ずに苦しめば良い。

梅花山南無佛院成就坊と言う横浜市港南区に存在する御寺を御存知でしょうか?
きっと地図を見ても、ネット検索してもヒットする事はないはずです。
この御寺、現在は院号と寺号が簡略化され梅花山成就院とされているからです。
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実はここ、戦国時代には北条家臣として武勇と築城と鷹の飼育で名を馳せた間宮家の居城だった笹下城の本丸だった地形の真下に存在する御寺なんです。
そして現在では成就院とされていますが、本来の梅花山南無佛院成就“坊”の方が浄土真宗の宗主であり戦国時代には軍閥化していた一向宗門徒の総帥に当たる本願寺家当主から直々に名乗りを与えられた由緒正しい名前なんです。
さて、御寺なのに“成就坊”って何?・・・って思う人が歴史に興味の無い人には多いですよね?
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写真は笹下城の本丸跡。成就院の直ぐ裏手の地形ですが、本丸の右側切岸と大空堀地形は三井不動産レジデンシャルによって宅地造成され2017年に完全消滅しています。
さて、本来は江戸時代までは成就院は成就坊と呼ばれた浄土真宗高田派の御坊だった御寺です。
御坊とは浄土真宗の寺院や道場を指した総称の事です。
現代でも僧侶を“お坊様”と呼ぶのは、この御坊や、昔は浄土真宗以外でも大寺院の回りには支院の塔頭寺院が“○○院”や“○○坊”と呼ばれた場所が多く在ったので、今でも僧侶の俗称として“御坊さん”を用いますよね?
そんな浄土真宗の御坊の一つだった成就院は間宮林蔵や杉田玄白の祖先の一門、江戸時代の間宮家の惣領の笹下間宮家と関係が深い寺院なんです。
では何で、成就院は御城の一部に取り込まれる険阻な防御力の高い地形に存在していたのでしょうか?
実は浄土真宗は戦国時代には軍閥化して守護職の大名や地方領主を攻撃し国を乗っ取り完全に坊官(ぼうかん)と呼ばれる僧籍の軍人が治める形であちこちで飛び地を持つ大名化していました。
その為に室町幕府は浄土真宗を禁教にしていた時代も有り、特に越前国・加賀国・越後国の北国街道方面と三河国・伊勢国の東海道方面での一向宗の軍事クーデターは苛烈を極めて長享二年(1488年)には守護大名の富樫政親公を敗死させ国を乗っ取る程の勢力と成りました。
・・・まぁ、こんな事やってれば当然、室町幕府に弾圧されるわな。
同じ様に三河では徳川家康公が一揆勢に苦戦し、重臣の中にも多くの一向宗門徒がいたので家臣の離反も相次ぎ参謀の本多正信公まで一揆に加担して敵対する様な事態を招いてしまいました。
この本多正信公、恐らく後に港南区笹下城址の成就院に関わりが有った筈なのですが、その話はまた後で。
さて、そんな風に軍閥化した仏教勢力の一つが浄土真宗な訳ですが、実は浄土真宗に属し江戸時代以前に成立している寺院には特に城砦化の傾向が多く見られます。
そもそも城址や要塞址に建てられているんです。
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写真は三河安城市の安祥山了雲院大乗寺と言う浄土真宗の御寺です。
・・・もう見た目からして御城ですよね(笑)?実はこの御寺、徳川家最初の本拠地だった安祥城の城址を乗っ取る形で寺院化しているんです。
まぁ大乗寺は平和に成った江戸時代の寛政四年(1792年)に開かれた御寺ですので、一向一揆とは全く関係していない御寺なのですが、浄土真宗が好んで城砦址に御寺を建てたがる具体的な例として写真を保有しているので挙げて置きます。
三河国の浄土真宗の寺院は一向一揆を盛んに煽動して軍閥化していたので、小領主達が坊官に城を差し出し要塞化した寺院として布教と交戦の場として特殊な発達の仕方をしていく事に成りました。
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・・・もうね、大乗寺に関しては完全に本丸乗っ取ってるんですね。
因(ちな)みにここは間宮家とも関係が有ります。
安祥城は同時期の関東の城郭と比較すると規模は矮小ながら周囲を水田と沼地に囲まれた堅城でした。
眼前が耕作地であり街道にも面しているので当然ながら豪族達の勢力争いの舞台と成る訳で、織田家vs松平家&今川家&北条家が壮絶な戦闘を繰り返し行った城としても有名です。
ここは小田原城主の北条家がまだ今川家臣で苗字も“伊勢”を名乗っていた頃に、北条家の伊勢盛時(北条早雲)公が今川家の総大将として永正三年(1506年)~永正五年(1508年)にかけて伊豆と小田原の伊勢家与力衆の軍勢を率いて攻めています。
実は笹下城址に建つ成就院の大旦那(おおだんな=スポンサー)だったと伝わる間宮家も北条家がまだ姓を伊勢と名乗っていて今川家臣だった時代に伊勢家の与力として参戦している事を伺わせる感状(かんじょう=表彰状)が新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の項に以下の記載が有ります・・・

舊(旧)家者百姓利兵衛
氏を内田と云(言う)、居住の地を土人(どじん=地元民)古門(ふるかど)と呼べり
~以下中略~
先祖内田對馬守(つしまのかみ)某(なにがし=名称不明)は永正五年(1508年)三月二日卒(そつ=死)す、法名淨元居士
~以下中略(※下の添付画像が感状の文面)~
内田対馬守家感状 久良岐のよし

・・・まぁ内容を砕いて現代口語に翻訳するとコンナ感じです。
  ↓
「今回はスゲぇ~活躍してくれたみたいだね。
 御大殿(今川氏親)様がメッチャ褒めてくれて俺のメンツも内外に対して立ったよ。
 (なので内田さん)親子に(御褒美として)官職をあげちゃうZぇえ~♪
 まっ、そんな感じだよ~ん。
 寅(丙寅年=永正三年=1506年)三月二十八日 ♡(←間宮信親公の花押の代り)
                             内田對馬守殿へ
         同源左衛門殿へ」
この内田対馬守家は現在も笹下城城砦群の城域の一角に住んでらっしゃいますが江戸時代までの居所とは場所が若干違うそうです。本来の古門内田対馬守家は入口が切通し状に成っていたそうで、別の間宮家旧臣の市村家の御子孫から聞いた話では笹下城と北見掃部屋敷と出城松本城と旧鎌倉街道の間道を守る位置に在り、市村家と内田家で洋光台方面からの敵の進撃を阻止し内田家と市村家の配置は虎口状に成っており侵入した敵を挟撃する位置に屋敷地が置かれているそうです。
源左衛門家も“ゲンザムさん”の屋号で近年まで存続していたそうですが、借金で逃散し競売にかけられ断絶したそうです。
実はこの古門内田家に対して発給された感状に登場する“御大途(おおおとの)”と言う表現が当時の北条家では使われていないので、この文章は偽書だと推定する学者さんがいますが、その方々は肝腎な事を忘れてらっしゃって、この時期に伊豆と相模国に勢力を持っていた元は古河公方の家臣だった間宮家は当時は今川家臣です。
そして北条家もまだ伊勢を名乗り、1506年当時は今川家臣でした。
・・・ですからこの感状の示す御大途は、当時の間宮家の寄親だった伊勢盛時(北条早雲)公を指す言葉では無く更に上の今川氏親公を指す言葉と考えた方が自然でしょう。
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そして永正七年(1510年)に現在の京急神奈川駅に在った権現山城で起きた“権現山の戦い”迄の間宮家の棟梁は間宮彦四郎信冬公か間宮彦次郎信盛公と世代的にも文書からの生存確認でも推測出来ます。
では内田對馬家に対して永正三年(1506年)に“間宮信親”の名、この現代の間宮家系図では名前が掲載されておらず誰の旧名か伝わらない名乗りを使った殿様は信冬公と信盛公のどちらか?と謎が湧いてきますが・・・
これは小生の推測では恐らく、間宮信冬公の旧名でしょう。
実は笹下城の築城された笹下村は室町時代まで“杦(杉)田郷”の一部でした。そして間宮家が川崎駅前の堀之内の城砦から今の京急杉田駅前で昔は寺家町と呼ばれた地域に本拠を移したのは永正七年(1510年)の権現山合戦で扇谷上杉家に敗北して杦田郷に逃げて来て以降の話です。
そして杦田郷を本拠にした初代は間宮信盛公で、権現山合戦以後に間宮信冬公の名前は歴史に登場しなくなるので大活躍の記録が残るものの討死した様です。
つまり、間宮信冬公が信盛公以前の間宮家の当主だった可能性が高い訳です。
そして間宮信盛公の別名も伝わっていて、間宮信頼=間宮信盛公とされています。
更に間宮信盛公と直接的に血縁上の親子では無いものの系図上で父とされるのが間宮信冬公なのですが、間宮信冬公と北条家以前の小田原城主だった大森藤頼公は義兄弟だった事も判っています。
つまり、間宮信冬公は元々は古河公方足利家の家臣で格上の同僚の大森藤頼公と仲が良かったので義理の息子か後に末期養子(まつごようし=死後に跡を継いだ人物)と成る程に目をかけていた近親の信盛公が元服する際に大森藤頼公から一字を貰い初名を間宮信“頼”と名乗らせていたと考えると自然でしょう。
そうなれば伊勢盛時(北条早雲)公の存命中の間宮家当主の間宮信親公は当然、今川氏親公の存命中の人物でも有りますし、今川家と協力関係に有った扇谷上杉家とその与力の小大名の大森家とも関係が深いのも自然な話に成る訳ですね。
つまり、間宮信親公は当時の間宮家棟梁だった間宮信冬公の初名でしょう。
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大乗寺の場所に在った安祥城を北条早雲公が今川家臣として攻めた初年度(永正三年:1506年)に、今川家臣として伊勢家に与力して従軍した間宮信親公の部下だった古門内田家の内田對馬守サンは息子の源左衛門さんと大活躍して褒められて朝廷の官職を貰った訳ですね。
まぁ、この安祥城争奪戦は永正五年(1508年)まで続き、結果的に今川家が諦めて敗北している合戦で領地も増えていなので、今川家の殿様も官位しかあげられるモノが無かったんでしょう。
さて、こうやって見て見ると、“御大途(おおおとの)”様が北条早雲公ではなく今川氏親公で間宮信親が間宮信冬公と推定出来ると小生が個人的に思っている事も何となぁ~く皆さんに伝わったでしょうか?
こんな感じで三河安城市安祥城址の大乗寺はじめ、横浜市笹下城址の成就院だけでなく多くの浄土真宗の御寺は城砦の跡に存在しています。
こんな文献に登場する事を辿れる場所が現在も笹下城の跡を訪れに港南区笹下に行くと残っています。
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内田対馬守家の御廟所と、その入口に建つ庚申塔馬頭観音様です。
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御墓は私有地なので勝手に入る事は出来ませんが、馬頭観音様の足元には江戸時代の内田家の御子孫達の御名前が彫られていますね。
そんな内田さんの家は間宮家臣で成就院は一向宗と言われた浄土真宗の御寺な訳ですが、軍閥化した仏教宗派は浄土真宗だけでは無いんですよ。
それに浄土真宗の中にも当然ながら高田派や西本願寺派の様に学僧として又は僧侶として修行と学問と布教に励むタイプの御坊さん達も多かった訳で、軍閥化したのは特定派閥の問題でした。
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※写真は西本願寺内に在る重要文化財の飛雲閣。飛雲閣は一般非公開で不定期に公開される。
だから豊臣秀吉も西本願寺を支援して自分の居城だった聚楽第の飛雲閣を寄贈したりしてる訳です。
浄土真宗の中でも例えば今回の解説で取り上げる成就院の属す高田派や、後の本願寺十一世宗主の本願寺准如上人に始まる西本願寺派等は穏健派として知られ細川政権~織田政権時の室町幕府や後の豊臣政権とも友好関係を維持し布教活動で宗教としての信頼と勢力を拡大する事に成功しています。
そして当然ながら東本願寺も(主に本多正信公の影響で)徳川家の支援を受けて江戸時代には平和でとても立派な修行を重んじる宗派に成って行った訳です。
まぁ、各時代の人の価値観を現代人の価値観で見ても何にも共感できない部分が有って当たり前なんですよ。
日馬富士の暴行を「格上だからやってよい」と肯定するモンゴル国民が多いのを、法治主義国家の日本国民が理解不能なのと同じです。

まぁ、浄土真宗だけが軍隊を持って暴れまわってた訳では有りません。
天台宗の総本山だった比叡山延暦寺も平安時代末期には軍閥化した上に度々、僧兵が京都市街で横暴を働いて困っていた様子が平安時代末期の白川天皇のこんな言葉として伝わっています・・・
賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
・・・この山法師と言うのが比叡山延暦寺の僧兵で、彼らは延暦寺の守護神だった日枝権現の御神体を神輿に載せて担ぎだしては不敬にも天皇家に対して無理難題を強訴(ごうそ=武力で脅迫し採決させる事)していました。
比叡山は鎌倉時代には近江国守護の佐々木家と合戦をしたり・・・
鎌倉時代末期には天台座主として延暦寺に君臨した大塔宮(だいとうのみや)護良(もりなが)親王は軍事修練を好んだ人物で、自ら軍勢を率いて鎌倉幕府倒幕の戦争を起こしたり南朝の将軍として鎌倉に赴任すると北朝の光厳天皇派の足利尊氏公とも合戦をしています。
室町時代には天台座主だった足利義教がクジ引きで将軍に成ると、彼は無用な殺戮を繰り返し残虐さを露呈したり・・・
戦国時代にも延暦寺は佐々木家の子孫の大名の六角家と合戦を行ったり・・・
六角家が織田家によって近江から駆逐されると今度は織田家の対立勢力である朝倉家の軍勢を比叡山に招き入れ織田家に対して戦争を嗾(けしか)けたりしています。
・・・まぁ、結論から言うと天皇家の忠臣だった織田信長公によって御存知の通り誅され全山焼き討ちされ、その後に明智光秀公の女婿の明智秀滿が正体と言う説も有る天海大僧正と徳川家によって大復興されるまで、天台宗は完全に軍閥化していました。
因みに現代でも延暦寺はヤクザの山口組と関係が深かったりします。

他にも領土的な野心は無くても真言宗も紀州(和歌山県)の根来寺を本拠地にした根来衆と呼ばれた僧兵と傭兵集団は鉄砲で武装した強力な軍隊として存在していました。
この根来衆も後に徳川家臣の成瀬正成公の配下に組み込まれ活躍した“軍人”でした。成瀬家は後に犬山城主と成り尾張藩主徳川家の付家老を務めた徳川家の譜代大名ですね。

そんな訳で、戦国時代当時の仏教の宗派の中には武装して軍隊を持っている宗派もおり、中でも浄土真宗は城や要塞に寺院機能を置いて政庁や防衛拠点としていた訳です。
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さて、笹下城址の成就院に話を戻すと、隣には笹下城の大空堀の跡が近年まで有りました。
笹下城空堀の様子 久良岐のよし撮影
ここは港南歴史協議会が編纂した“こうなん道ばたの風土記”に挿絵があり、昔は畑地で良く空堀の形状が残っていたので、IHIが土地を買い駐車場にしても地形を見る事が出来ました。
この写真の風景も近年宅地化で盛土され消滅しました。
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写真の空堀跡の横のアスファルトの歩道は昔はもっと狭かったそうで、これが武者走りだったそうです。そしてこの空堀が畑地だった頃にはまだ梅の木も有ったのですが、実はこの梅の木が成就院の山号の由来と関係が有ります。
山号の由来は“杉田梅”です。
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写真は小田原市の曽我梅林に移植され今も残る“杉田梅”です。
室町時代~江戸時代初期の成就院(当時の名は“成就坊”)の大壇那だったとされる間宮家は主家が北条家の時代に北条家臣団に広まっていた梅の植林を実施していたので、成就院のみならず旧杦田郷の間宮領は全て広大な梅林が有り「杉田梅林」として有名でした。
間宮家と同時代の殿様で北条家臣化した蒔田吉良家の拠点にもやはり梅林が造営され今も梅林に関する地名や梅林そのモノが残っています。
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写真は世田谷の豪徳寺です。今の季節は紅葉の名所としても有名で、江戸時代は大名の井伊家の菩提寺だったので現在放映中の歴史大河ドラマ“おんな城主直虎”の影響で歴史に興味の有る観光客で賑わっています。
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招き猫発祥の御寺としても多くの参拝客で賑わいます。
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まぁ、本来の豪徳寺が発祥の招き猫は”厄除け”と“立身出世”の御利益で財運ではないんですがね(笑)。
豪徳寺は世田谷城だった訳ですが、そこを治めた蒔田吉良家は横浜市南区に存在した蒔田城を戦国時代まで本拠に後に、世田谷区の世田谷城(豪徳寺境内を含む一帯)を本拠にした小大名で足利家一族として高い家格を有した家でした。
そんな蒔田吉良家の居城跡の豪徳寺の周辺一帯の住所が今も“梅丘”で、蒔田城の近くの岡村天満宮には岡村梅林も残っています。
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成就院の梅林が杉田梅林と呼ばれたのは、先述の通り戦国時代には笹下村は杉田郷の一部だったからです。笹下村が笹下郷として分離するのは江戸時代に成って分家の杉田間宮家、氷取沢間宮家が成立してからの話で、それまでの北条家臣時代の古文書には杦田郷と笹下の地名の両方が登場します。
笹下と同じく間宮家旧領に当たる現在の港南台地域南西部にも近年まで梅林がいくつも存在していました。調べると港南台地区では小原サンと言う旧家が治めた一帯に特に梅林が多かったそうです。
これが小生の栄区に成ると、途端に梅林は無くなりますので間宮家が梅の生産に力を入れていた影響は近現代まで残っていた様ですね。
江戸時代には“杉田梅林”は日本規模で有名に成り笹下城址の梅花山成就坊や杉田の牛頭山妙法寺の杉田梅林は江戸からの観光客で大変に賑わい、第十三世本願寺家当主であり宗主の“本願寺良如上人は当時は日本屈指の景勝地だった金沢八景を遊覧した後に、杉田梅林に観梅に来られ成就坊に滞在された”歴史が有ります。
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特に杉田間宮家の菩提寺である杉田駅近くの牛頭山妙法寺はズバリ、杉田梅の名所として特に人気の有った観光地でした。しかしコチラも横浜市教育委員会が梅林を保護しなかったせいで戦後の宗教政策で御寺の土地を接収されて後に梅林は伐採され杉田の杉田梅林も消えてしましました。
現在の妙法寺の御住職様が境内地の山上に杉田梅林を僅かでも復興しようと努力されています。
この妙法寺は日蓮宗の御寺です。
杦田郷笹下村の梅林を見に来て成就院に滞在された良如上人は成就院の梅林の見事さに感動したそうで、以後、寺の山号を「梅花山」とし寺号を梅花山南無佛院成就坊と名乗らせました。
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※写真は曽我梅林、昔は笹下や杉田や港南台にもこんな広大な杉田梅林がそこかしこに広がっていて、明治には皇族も度々観梅に来た程でした。
しかし、その梅林を含む成就院の境内地は戦後の宗教政策で接収され、横浜市教育委員会が昭和中期に保護を怠りIHIに宅地開発されてしまった為に、悉く伐採され消滅してしまった訳です。

そんな間宮家が保護した成就院ですが、良如上人の逸話と浄土真宗が城跡を好んで御寺を建てる事を紹介したので成就院の宗旨の歴史についても調べてみましょう。
昔の宗旨と寺域についてですが、現在でこそ、明治政府の宗教政策と戦後の宗教政策で境内地を多く接収されてしまった為に境内の広さは普通の規模の寺院です。
しかし御寺の歴史は中世に浄土真宗に改宗するまで法相宗だった歴史が有る事から平安末期には存在した可能性が有あります。
法相宗だった当時の寺号は曲田山帶行寺と判明しています。
この曲田山の山号は地名由来です。新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の解説に以下の記載が有ります・・・
雑色村
高札場二ヶ所
 一は村の中程、
 一は北にあり、
小名(こな=住所の丁番地に相当) 曲田 村の東を云
・・・つまりですね、笹下郷の中の雑色村の中の東側だったそうです。そして、その更に東の先に立野(たての=館野)と呼ばれる地名が有ったのですが、これが現在のファミレスのバーミヤン等が在る辺りの様です。この曲田と立野の境目が笹下川だった様ですね。

成就院が“梅花山南無佛院成就坊”と呼ばれたのより更に昔の曲田山帶行寺と呼ばれた時代の宗旨だった法相宗は歴史の古い宗派です。奈良時代~平安時代初期が全盛期だった宗派で、その後は中国留学から帰って来た伝教大師最澄様が伝えた天台宗や、弘法大師空海様が伝えた真言宗が流行しました。
空海 公式ホームぺージより拝借 久良岐のよし
空海和尚と言えば来年公開される日中合作の映画の主人公に成っていたりします。
公式ホームページ→http://ku-kai-movie.jp/
まぁ、浄土真宗は空海和尚=弘法大師様の系統ではなく最澄和尚=伝教大師様の系統から分派した宗派です。成就院は鎌倉時代に親鸞上人の来訪時に法相宗から浄土真宗に改宗しています。
江戸時代の風土記稿の記録を見ると、最大時は本堂の他に、鐘楼、広大な境内地に塔頭寺院を境内に3寺持つ大寺院だった様です。
具体的に・・・
本堂 ・・・間口七間=12.7m、奥行き六間半=11.8、護摩壇が存在した。
     ※源頼朝公が一百座の護摩修行を行った日に壇上に守護仏の観音像を一体奉納。
鐘楼 ・・・享保五年鋳造の梵鐘
薬師堂・・・行基作の薬師如来を祀る。元は香林寺と称して境内の外の東側に在った塔頭。
     ※地震で倒壊し江戸時代も未再建。
     ※数度の賊難に遭っている
    (鎌倉時代に新田義貞が鎌倉幕府打倒で鎌倉に来襲した際に周辺に略奪放火を行ている)
    (戦国時代に房総半島の里見家の海賊が杦田郷で略奪放火繰り返す)
     ※承應年間に境内地に写し薬師堂と成った。
山門 ・・・四つ足の門、旧間宮家の笹下陣屋の邸門を、間宮家の下総転封時に移築した。
林貞寺・・・塔頭寺院。元和元年開基。
      境内の巽(たつみ=南東)の方向に在ったが江戸末期には建物は消滅。
乘船寺・・・塔頭寺院。艮(うしとら=北東)の方に在った。江戸末期には消滅。
      開基の乘船と言う人物は天文二年(1533年)八月二日に亡くなった人。
     ※実は乘船が実は墓所の解らない間宮信元公と同一人物の可能性有り。 

この様に全盛期には比較的大きな規模を有していた事が解る御寺なのですが、先代の檀家総代様に取材をした際に「無住職だった時代が有る」と教えて頂く事が出来ました。
実際、歴史的に間宮家主君の北条家は当初、室町幕府織田政権と同盟関係に有り浄土真宗と敵対関係に在ったので浄土真宗は禁教だった為に滞り無住職だった時期も有ったんですね。
織田政権以前も浄土真宗は越前国で朝倉氏と大規模な軍事衝突を起こしたり加賀国で富樫氏を滅ぼす等、軍閥化しており幕府から危険視されていましたから。
又、元は西本願寺派とされているのは良如上人の滞在で西本願寺だったと誤伝されたと考えた方が自然でしょう。
そもそも西本願寺派の成立は文禄元年(1592年)の本願寺光佐:顕如上人の入滅後に、教如上人が反織田~豊臣政権の姿勢を固持し穏健派坊官を悉(ことご)く排除した事に由来し本願寺光昭:准如上人が豊臣政権の支持で現在の西本願寺を建立して以降の歴史なので、それ以前の成立は有り得ない事を考えると当初から高田派として法脈は続いてんでしょうね・・・
高田派は織田政権や北条家に協力的な派閥で弾圧の対象にはされていませんから。
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その西本願寺派の初代と数えられる准如上人が、大阪佃村から移住した江戸の佃島の漁師達の協力で海を埋め立てて開いたのが現在の築地本願寺だったりします。まぁ、今の建物は近代建築ですが。
築地の名前の由来だったりもしますね。
・・・なので穏健派の高田派だったので、北条家に憚り大々的な間宮家の支援が無かった時代が有っても浄土真宗から改宗させられる事も無かったのでしょう。
しかし戦国時代を通じて破却も改宗もさせられずに存続した寺院なので当初から高田派に属し笹下城内の本丸や館地からも近い事から間宮家の持仏堂の様な役割で細々と存続していた訳です。
それが解るのが塔頭寺院として戦国時代に存在していた乘船寺の記載で、乘船寺を開いた乘船(間宮信元公か?)が天文二年(1533年)八月二日に亡くなったと書かれている事から北条家臣間宮家の時代に塔頭寺院を開く様な支援が有り成就坊が機能していた事が解る訳です。
信元公の御子息の間宮康俊公が天文五年(1536年)から間宮家を代表して鶴岡八幡宮の再建に参加しています。ですから間宮家が支援した成就院で塔頭乘船寺を開き1533年に亡くなったのは間宮信元公かも知れないと個人的に推測しています。
尚、間宮家旧主の足利成氏公が逆徒の上杉家により鎌倉から逐(お)われ移住した古河周辺は浄土真宗寺院が多い事から鎌倉(古河)公方の家臣時代の間宮家も浄土真宗を支援していたと考えると自然でしょうね。
後に支援者の間宮家が徳川家臣と成ると、徳川家重臣で熱心な浄土真宗門徒の本多正信公が玉縄城主成った事により、堂々と宗教活動を間宮家も支援出来る様に成ったと推測出来ます。
以後は江戸時代までは西本願寺派で、江戸時代初期には御門跡の本願寺良如上人や九条関白も成就院に滞在したとされ新編武蔵風土記稿にも“元は西本願寺派その後は高田派と成った”とされる解説が有る。
これについては先述の通り高田派だが同じ穏健派の西本願寺派からも重視された御坊だったと考えると、コレも自然。

ここからは成就院に関係した人物と関係者一族で歴史記録に残る人を見て見ましょう・・・
主たる支援者は室町時代からは間宮家と家臣団だった事は解っています。
間宮家は室町時代の初期には鎌倉公方の家臣、戦国時代に北条家臣だった。
北条氏康公の奏者を務めた間宮宗甫公。
玉縄城主北条綱成公の付家老間宮康俊公。
滝山城主後に八王子城主の北条氏照公の付家老として活躍した氷取沢間宮綱信公。
徳川家康公の参謀で江戸幕府初代の鷹匠頭と成った杉田間宮信繁公。
間宮家の一族は伊豆や神奈川県の二宮~大磯、海老名市国分寺、江ノ島界隈、横浜市磯子区~港南区~神奈川区~鶴見区、川崎市川崎区等に間宮一族の領土が有りました。
そして重要な江ノ島神社の別当も間宮一族が勤めていた。
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江島神社と聖地の岩屋の別当寺だった岩本坊は代々間宮家が宮司を勤め祭祀を勤める際は本姓佐々木を使い、明治に成ると間宮と岩本姓に分かれた。
岩本坊は廃仏棄釈で寺院機能を棄て宿望機能を活かし現代も名旅館岩本楼として存続している。
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室町時代に養子を送り込み縁戚と成っている相模国の二之宮の格を持つ川勾神社宮司家一族二宮家もいる。
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江戸時代には久能山東照宮宮司の榊原照久公の奥方に成ったのは杉田間宮信繁公の姫様だった。
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その東照宮宮司家初代の榊原照久公の菩提寺は浄土宗の宝台院別院。
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同じ浄土宗で駿府城近くの華陽院は徳川家康公の祖母の於満様の菩提寺であり、徳川家康公の愛妾となり姫を生んだ間宮康俊公の姫の於久様の菩提寺でもある。
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関東最古の大社の埼玉県久喜市の鷲宮神社宮司の大内泰秀公には間宮康俊公の御子息の間宮康次公の姫が嫁いでいます。
大内泰秀公は徳川家光公が利根川で溺れた際に救助して宮司ながら大名格を与えられた人物です。
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家臣の内田対馬守家の御子孫も旧蒔田吉良家重臣の森家に養子を出せる程の家格が有りました。

北条家が豊臣秀吉によって改易されると、北条家の後釜として関東を与えられた徳川家康公に直臣として取り立てられ一門からは家康公側室の於久の方や佐渡奉行-但馬奉行-本牧奉行を兼務した間宮直元公、江戸幕府初代鷹匠頭の杉田間宮信繁公等の名将を多数輩出しています。
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江戸時代に本家の笹下間宮家が奉行職を辞して、下総国に転封される際に笹下間宮陣屋の邸門を成就院に移築し、それが現在の山門である事は“新編武蔵風土記稿”に記載が有るのみで無く、戦後に成就院檀家と間宮分家と間宮家臣の子孫が資料提供や編纂に関わった“こうなん道ばたの風土記”にも記載が有ります。
しかるに第二次世界大戦の空爆による戦火で“山門は焼失した”とされますが、仏教用語で“山門不幸”等は御寺その物や御寺の家人に不幸が有った事を指す仏教用語です・・・
・・・戦災で焼けたのは本堂で、それは近年再建されています。
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しかし山門は戦後も存在していたのが“こうなん道ばたの風土記”に掲載されている事なんですけどね。
礎石を見ると修繕は間違いなくされています。
個人的な意見ですが、現代の山門は復興された門ではないかと感じる木材の腐食具合いと礎石の新しさなので、“こうなん道ばたの風土記”の記載は情報がアップデートされていないのだと思います。

さて、そんな浄土真宗高田派の成就院を支援した間宮家の宗旨についてですが・・・
実は浄土真宗以外の神道・仏教・修験道にも深く関わています。
・浄土真宗
先述の通り、徳川家臣化後は大々的に浄土真宗の寺院も派閥問わず支援して堂塔を復興して廻っている事も解る。
間宮家、本願寺良如上人、九条関白家と関わりの有った成就院の他に磯子区氷取沢の分家の菩提寺として江戸時代初期には宝勝寺が再興されているが、宝勝寺は伊藤博文公も度々参拝している。
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同じ笹下城砦群の中に位置する東福寺も間宮家との縁起を称する寺院で、間宮家分家で改姓した一族の菩提寺でも有り、旧間宮家臣も一部檀家に居る。内田家も御廟所は私有地だが東福寺檀家と新編武蔵風土記稿に書かれている。
・神道と修験道と真言宗
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間宮家は室町時代~江戸時代の終りまで天皇勅願所の江ノ島の岩屋を管理する奥津宮の別当職を間宮家の一族が代々継承した家系で、修験道や真言宗や神道とも関係が深い。

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祖先は近江源氏の氏神である敦実親王。その敦実親王の邸宅址で敦実親王を御祭神とする延喜式内社の沙沙貴神社宮司を出自とする武家でもある。沙沙貴神社は近江源氏一族の氏神であり佐々木家、六角家、京極家、間宮家、黒田家、乃木家等の氏神でもある。
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更に室町時代には相模国一~五之宮の内、二之宮川匂神社宮司家一族の北条家臣二宮家にも戦国時代に養子を出している。
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真言宗でも室町時代に横浜最古の寺院である瑞應山蓮華院弘明寺は間宮家が深く関わっていた寺で“宗閑”の名の初出展となる寺院だ。
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安土桃山時代には横浜最大の檀林で横浜の地名初出展の古文書や間宮直元公の古文書を所有する南区堀之内の寳生寺。
御本尊は間宮直元公が極彩色の檀那に成っている。
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江戸時代に蒲原代官を務めた間宮忠次公が南区井土ヶ谷の乗蓮寺を支援している。
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本来の名前を大靈山泉蔵院桐谷寺と言った磯子区中原の熊野神社。
ここは元々は鎌倉の山崎地区に在った修験道の大道場で源頼朝公の命令で当地に熊野権現が勧進され以来、泉蔵院の大道場として栄えた。鎌倉の本社である山崎泉蔵院が戦火で焼けると本社機能がここに移され、以後、大靈山泉蔵院桐谷寺と名乗った。ここも間宮家がずっと支援していた修験道の大道場で神谷信久公の古文書の記録も残っている。
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磯子区屛風ヶ浦の森浅間神社ここも又、戦国時代に間宮家が支援した修験道場の跡だが、鎌倉亀ヶ谷権現堂福禅寺の道場として源頼朝公によって開かれ霊場の滝に不動明王が祀られ、後に頼朝公の命令で富士山の化身である此花咲耶姫命の御分霊を勧進し浅間権現が開かれた。福禅寺はどうも鎌倉幕府最期の将軍守邦親王が森浅間神社に逃げて来ている事や弟君の長円親王が福禅寺の住職を務めている事や権僧都と比較的高い身分である事から“門跡寺院”だった事が推測出来る場所。
・曹洞宗
間宮家の旧主北条家の宗旨は曹洞宗で、家臣団は学問や精神修練の為に曹洞宗で禅問答等を行っていた様だ。
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間宮家も間宮信冬公が鶴見の寳泉寺を開き、曾孫の間宮康俊公が参禅したり堂宇を復興している記録が有る。そして旧家臣団によって毎年間宮康俊公の追善供養が行われた間宮康俊公の菩提寺でもある。
この宝泉寺を開く際に開山として招かれたのが青梅市の“福禅寺”の住職。
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福禅寺は今では瑞龍山海禅寺と称するが、これは江戸時代のアホで仕事の出来ない役人が朱印発給の際に寺号を誤記したせいで以後、この寺名を名乗らなければいけなかったから。
以前の寺号や戦国時代に突如天皇家の勅願所に成っている事から、室町時代にこの地で復興される以前の前身が鎌倉の権現堂福禅寺だった事が推測出来て、永享の乱の際に扇谷上杉家によって三田家を通じて当地に福禅寺の字名を復興した事が推測出来る。
つまり横浜の森浅間神社とは別れこそすれ同根から生じた由緒ある寺院と言う事だ。それを裏付けるのが宝泉寺開基の際に福禅寺の住職がわざわざ招かれていると言う事だと推測出来る。
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又、川崎駅前の堀之内は間宮家旧領で駅前の宗三寺を開いている。ここは鶴見区下末吉の宝泉寺の末寺として最初は開かれ、宝泉寺が火災に遭った後は氷取沢間宮家がこの宗三寺で間宮信盛公の追善供養を行っている。尚、宗三寺の寺名は間宮信盛公の戒名に由来し信盛公の菩提寺でもある。
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子孫の高津間宮家も千葉県八千代市高津に高津山観音寺を菩提寺として支援している。
高津間宮家は氷取沢間宮家の子孫に当たり、江戸幕府の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信を輩出した家だ。
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そして真田幸村隊と戦い討死した間宮正秀公は間宮士信公の祖先に当たり観音寺境内社の高秀霊神社に御祭神として祀られ墓所も兼ねている。
・日蓮宗
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安土桃山時代には旧主北条家が大阪の狭山市で小大名に返り咲くと、豊臣政権の影響からか日蓮宗寺院も支援して分家杉田間宮家が杉田の牛頭山妙法寺を菩提寺にしている。
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江戸時代初代当主間宮直元公の菩提寺として妙蓮寺も支援し境内に神道形式で直元公の彫像を祀っていた。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
他の旧北条家臣団の菩提寺で日蓮宗も多い。
幕末に活躍した間宮林蔵倫宋公の菩提寺の東京都江東区の本立院も日蓮宗。
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本立院の飛地境内には間宮林蔵公の被葬地の御廟所が有り東京府時代に史跡文化財していを受けている。
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間宮一族から帰農し江戸時代には豪農と成って東京の大森界隈を開拓し農民を旧北条家臣団の仲間五人と協力して守ろうとした間宮是信サンは悪人領主木原家に殺された後、一族にひっそりと大森の法光山善慶寺に埋葬された。
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明治に成り封建政治の終了とともにタブーが解禁されるや、義話伝承の通りに直訴状や遺骨が発掘され東京都指定文化財に成っている。
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この様に成就院を大切にした間宮家は他の宗旨の寺院や神社でも日本精神文化保護の事跡を残している。

なんにせよ、成就院は檀家にも間宮家臣の子孫が今もおり、更には幕末に当寺から還俗した僧侶が間宮家に養子入りしている事からも、間宮家が笹下を去って後も間宮本家と関りを深く持っていた事が御理解頂けたかと思います。
この成就院から還俗したのが間宮一さんで、鎌倉事件の犯人とされますが小生の予想では当時の神奈川奉行が依田盛克さんで、この依田家は武田家旧臣ながら氷取沢間宮家から江戸時代初期に養子が入っている家なので、江戸幕府と日本を守る為に間宮本家と所縁が深い成就院の身内が犯人として名乗り出て、英国政府との外交の為に人柱に成ったのかも知れないと小生は考えています。
まぁ、こんな風に成就院には間宮家に関する歴史資料が散逸してしまっている部分を埋めるかも知れないヒントが多く有る訳です。

面白い御寺ですよね?
きっと皆さんの御宅の周辺にも実は凄い歴史偉人と繋がりのある神社仏閣や城址が在ると思います。
是非、お散歩して見て下さい。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう♪

紅葉の季節に成ったので、神奈川を中心に京浜地区のメジャーな紅葉の名所の情報を纏めた記事をリニューアルしてみました。
これクリックすると記事を読めます。
 ↓

簡単な歴史と名物も合わせて紹介しています。
まだ、紅葉を見に行く場所が決まってない方の参考に成れば幸いです。

中華圏の迷信と事実考証を交えない思い込みの強さと自国文化への理解の低さを露呈する人が結構な割合で中国人にいる・・・

“月子”は正しい産後の民間療法

“冷水”飲んだら腹壊す”

“刺身”を食ったら腹下す

・・・と思い込んでる阿呆。コイツ等は漢族を自称する資格すら無い。

月子は女性が出産直後は一ヶ月間入浴しない方が健康でいられると言う“迷信”だ。
冷水飲んだら腹壊すと思ってる馬鹿も多い。
古来、中国人は日本人同様に魚を生食した上に、来客の際に新鮮な魚介の刺身を振舞う事は最上の接待だったのだ。

“月子”と“冷水”と“魚介類の生食”に関する中国人の思い込みは極めて簡単な言葉で論破できる、迷信だ
これを信じている奴は洗脳され易いか、我彼を比較して戦力分析する人間かどうか、思い込みが強く客観性の無い人間かどうかが中国人・台湾人限定で良く解る。

中国大陸では昔から自然環境を大切にせず森林を切り開き南方では水田を北方では畑と牧草地を無軌道に拡大したせいで緑地水源が無くなり砂州も無く成り浄化作用の無く成った河川と土壌の地下水は汚染されている。

水が汚染され不潔だから煮沸していない生水を飲めないのであって、それが冷水が駄目とすり替わっている。その水質問題は現代でも同じ、寧ろ中国政府のせいで悪化している。
冷たい水が駄目なのに、冷たいアルコールは飲める事の理由を先ず客観的に見ていない。
身体が冷たい飲料や食物を受け入れないから冷たい水が駄目なんじゃない、中国の生水が不潔なんだよ。
そんな生水、つまり当然ながら出産で裂傷の有る“産道”に中国の井戸水や水道水を触れさせれば感染症を起こす訳だな。
だから傷が塞がる間つまり最低1ヵ月間は頭も洗えない、当然入浴もダメ。
皮膚の脂垢と頭垢(ふけ)塗(まみ)れのままでいた方が感染症を起こすリスクより、よっぽど危険度が低かった訳だ(笑)。
これを理由も考えずに正しい民間医療として妄信している奴が未だにいる。 月子なんて日本では関係無い、大丈夫、日本の水道水のシャワー使って平気だよ。他の欧米でも衛生的に安全な国は大丈夫。まぁ、傷に沁みる内は痛いから止めた方が良いかも知れないけれどね。

中国の水が不潔なのは悠久の時間をかけて無軌道伐採で森林を消し清涼な湧水源を消し田畑に変え、川の砂州を無くし自然による水の浄化能力を失わせた歴史に責任が有る訳だし。

「刺身や寿司を食ったら腹を壊す」
「遺伝子的に中国人の体は生食を受け付けない」
こんな事を言う中国人は“根本的に愛国心も足りない”し“中国古来の文化を学んだ事が無い人間”だと断言出来る。

日本で食う刺身は“汚染された中国の河川の淡水魚と違い安全”な事を客観的に理解出来ないで、生食が原因だと考えている訳だ。

だから刺身や冷たい物を食べたら御腹を壊すと発言する中国人の知り合いがいた際に日本人の小生が中国人に教えた漢文が有る。
この漢文の作者は日本人との友情も伝わっている・・・
仙人橋
霜落荊門江樹空

布帆無恙挂秋風

此行不為鱸魚鱠

自愛名山入剡中

※小生個人の解釈で意訳するなら以下の通りだ。

荊門(の土地:湖北省の真ん中辺りの荊門市)に霜が降(お)り、江(川辺)の樹も(葉が落ち)空(むな)しい(様子だ)。

(船の)帆布は恙(つつが)無く秋風にかかげられている

此(これ=今回)は鱸魚(ろぎょ=スズキ)の鱠(なます=刺身)の為に行く訳じゃなくて

名山(廬山の綺麗な風景)が好きだから(ここから)剡中(浙江省紹興市)に向かうんだがな。

・・・この漢詩の題名は“秋下荊門(秋に荊門へ下る)”日本人でも尊敬する人の多い唐の時代の大詩人、李白が詠(うた)った漢詩だな。
だな。
生食が腹下すってのが中国の迷信と言う解説の前に、この漢詩自体と李白の事績の分析をしたいと思う。
荊門山
荊門と言うのは古代の揚子江(長江)と言う中国の大河川の流域の荊州管轄区域の端に在る荊門山と言う河岸に連なる宜昌市の山の事を指していると解釈が一般的だそうだ。
だがこれは間違いかも知れない。
そもそも荊門山は古くから宜都と呼ばれた土地に在る。隋時代には夷陵郡夷道県と呼ばれ唐の時代には夷陵郡が峡州に地名を改められている。いずれにせよ古代の荊州の中には有ったが、唐代の荊州の入口では無いので漢代~唐代まで荊門山の名は無かっただろう。比較的に後から付けられている筈(はず)だ。
※漢代の州区分は“はじめての三国志”さんの解説記事が中国古代史を良く知らない人でも見ると解り易いです。クリックで→初めての三国志ホームページにリンク。
はじめての三国志 公式様より拝借 三国時代の州
荊州と言うと歴史知識の乏しい中国人や台湾人は現在の荊州市の事しか思い浮かばないだろうが、漢代で言う“荊州”は都市名では無く広大な行政区分、文字通りアメリカのケベック州やニューヨーク州の様な州を指した。
後漢当時の州は14州の行政区分を指し、南方や西方に広域の行政区分が多いのは漢帝国(中国)から見た未開の地で漢帝国“自称:漢の征服地だし”で仮設置されている州区分。当然、朝貢しているだけの部族も多くいる。
南蛮扱いされてる古代ベトナムの王:孟獲サンや、胡王(非漢族の未開地の王=ウィグル族)沙摩柯サンなんかがこの部類だな。
漢代に設けられた荊州の行政区分は現代の範囲で言うと河南省南陽市~湖北省~湖南省を全て合わせた地域だ。
荊州7郡
※“もっと知りたい三国志”さんからの拝借地図です~。
ちゃんと史実に基づいて可視化した地図書いてくれている人がいるから助かる(笑)。ネットの情報はゲームの間違った地図転載している人も多いですからね。
そして漢代当時に荊州市は存在せす江陵県と呼ばれた地域の一部であり南郡に属していました。
この後、三国時代には更に南郡の地名は臨江郡に改められ、その2年後に更に宜都郡に改められています。宜都は現在では宜昌市の下部市町村として宜都市が存在し、そこが後漢時代の夷陵県であり、そもそも現代の荊門山の有る場所です。
南郡=臨江郡=宜都郡の下部には“県”単位の行政区が置かれていました。 それは・・・ 中廬県、襄陽県、当陽県、臨沮県、夷陵県、夷道県、江陵県、枝江県、華容県、宜城県、郢県、邔県、編県、秭帰県、州陵県、鄀県、巫県、高成県
・・・漢代の荊門山は宜都郡夷陵県に在り、現在でも宜都市の地名の残る場所に存在しています。漢代の価値観で言えば広い意味で益州(蜀=四川省)との州境ですが、荊門山は荊州の入口と言うにはだいぶ下流の州内部域に位置に在る上に、漢より後の唐の時代ではもはや行政区分的に荊州の入口でもなんでも無い位置に在ります。
はじめての三国志様より拝借 三国時代の勢力
※又々はじめての三国志さんの画像拝借。
三国志で言うと
益州領主の劉備サン(首府は蜀郡成都城=成都市)の義兄弟の関羽サンが治めていた荊州を、揚州領主の孫権サン(首府は呉郡姑蘇城=蘇州市、後に建業城=南京市)が参謀で大都督の呂蒙サンと陸遜サンに攻めさせて関羽サンが殺され、義弟関羽の死に発狂した劉備サンが怒り狂って荊州を取り戻す為に夷陵の戦いを起こした辺りが現在の宜昌市界隈ですね。
はじめての三国志 公式様より拝借 三国時代の州
余談ですが、ちょっと紹介した沙摩柯さんが胡王と記述されているのですが、胡王の“胡”が指す胡族や突厥(とっけつ)と言うのはウィグル族の騎馬民族の事です。
ウィグル族の中で漢や唐や元の圧迫で西に逃げた
現代のトルコ人達と同じ祖先を持つのが胡族です。
なので沙摩柯サンはウィグル人だと思いがちだが、彼は武陵から攻め込んでいるのでチワン()族の系統の王族と考えた方が良いと思う。漢代に壮族と言う部族の区分が存在していなかったのかも知れない。
当時の劉備サンの敵対勢力である魏の曹操(首都:洛陽、首府:許昌)は雍州を抑え西藏(チベット)も同盟勢力だったので、沙摩柯サンが胡族だとしたら雍州経由でもチベット経由でも武陵に辿(たど)り着(つ)く事は不可能なんだな。

荊州7郡
まぁ、そんな訳で我々現代の読む側は、李白さんの秋下荊門含めて漢詩や和歌が詠(よ)まれた各時代の細かい行政区分の変遷や詩に書かれた季節と各地域の名産品考慮して時代背景や歴史的な内乱の発端と成る異民族や反乱勢力の位置関係も踏まえて、詩の内容を読んで行かないといけないんだな。
・・・しかし中国に関して言えば、これ等の位置関係が現代に成ると中国共産党のせいで更に解りづらくなります。
現在の荊州市は江陵城と呼ばれた城で、荊州市から長江を50km程下った地域のに昔の江陵県の地名がそのまま江陵県として残っていますが、江陵県の中心だった江陵城が荊州市として近年に分離されてしまい歴史を混乱させる要因にも成っています。
まぁ、そんな訳で漢代の荊州と言うのは荊州市(江陵城)の事では無くて古代の漢代の巨大な行政区分の事だった訳ですが小生の住まう横浜にも少し関係が有る人が三国時代に水軍を率いて治めていた場所なんだな。
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三国時代に一騎打ちで無敗の名将軍だった関羽雲長さんの最期の根拠地。
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※北京旅行の時に60元で購入した銅像(笑)。部屋で走水神社の御守りの横に陪神として祀ってる(笑)。
関公は曹操によって神格化され協天大帝関聖天君の名で商売の神様として祀れているが、商売の神様に成った理由は生前に塩の行商の商隊をやっていた事、そして一騎打ちに負けない勝負強さから民間信仰の対象に成った訳だ。

そして
実は、この関羽さんの治めた本来の荊州の広大な行政区分は春秋時代の“楚”の領土が元に成っている訳だ。
楚の都を郢(えい)と言ううのですが、漢代の県を含め荊州市荊州区等も古代の楚王国の首都だった場所で、複数個所、遷都する場所に郢の地名が残されました。

さんざん漢代の荊州の話と宜都市の荊門山の話をした上で話題を“秋下荊門”に登場する“荊門”の地名由来に話題に戻すと、荊門の地名は李白の生きた唐代に初登場する地名なんだな。
唐朝の統治下で荊門県と呼ばれた地域だ。
これが❝荊門❞の名の初出だな。それが現在は荊門市と呼ばれる行政区分に成った。
洛陽~荊門~四川省の位置関係 久良岐のよし
李白は実は塔克拉瑪干沙漠(たくまらかん砂漠)の入口に当たる甘粛(かんしゅく)省出身、その後に巴蜀の地、つまり現
在の四川省に移住した。だから四川省から船で
剡中(浙江省紹興市剡県=嵊州市)に向かうなら長江に違いないと思い込んだ歴史音痴中国人や観光振興が横行した結果だろう。
悪いが歴史事実を突きつけると、李白が剡中(紹興市剡県)方面、つまり江南地方に行く用事が有るのは洛陽に住んでいた時代以後の話なんだな。
江西省の廬山に隠棲する時に江南地方へと下って行ってる。
後は罪人と成って貴州から解放された時だが、その頃には安徽省を拠点にしている。
だから少なくとも、
秋下荊門の詩は時期敵に秋に荊門を川下りしているのだから秋下荊門を読んだ時は洛陽を離れ南陽方面から漢水を下っている筈なので宜昌の荊門山ではなく荊門郡(荊門市)の土地を指すと言うのが小生の推測だ。
荊門門市行政区域 久良岐のよし
荊門市は南面に西から流れ込む長江と、北から市域に流れ込み南へと突っ切る漢水の二つの大河が有る。
当時李白の居た唐の都の西安や洛陽から江南地方
剡県(浙江省嵊州市)に向かうには、漢水を利用する。
上流には襄陽市(じょうようし:漢代に荊州で最も栄えた襄陽城)が存在している。
しかし荊門山(湖北省宜昌市)を船からを見るには、わざわざ巴蜀(四川省)方面から長江を下って来なければ成らない。
これは余りに非現実的。しかも李白の生きた唐代の価値観からすれば洛陽から荊門はそのまま荊門県を指し現在の荊門市の事そのものだろう。
それに現在の荊州市の行政区分と都市名は、つい最近の数十年前に中国共産党によって決められたものだ。
荊門山の有る宜昌市が漢代の荊州と言う大きな枠組み以外で荊の名を冠するのは、唐の滅亡後の五代十国時代に荊南に編入されてからだ。唐代に宜昌に荊門山の地名が有ったか誰か確認したのか?
時代的なズレが有る。最初に訳した人間のテンプレートが広まって無いか?
李白は没する直前の晩年に安徽省の宣城市や当塗県辺りを拠点にしているので、やはりこの時期に川下りで荊門を通り
剡県に向かうとは考え難い
若い時に蜀を出てから暫く長江流域を旅したりしているし、罪人に成って貴州に抑留された時期も有るので宜昌市界隈に来た事も有るし山河の風景を詠んだ事も有るだろうが、小生は秋下荊門の漢詩の中の荊門は荊門郡の事だと思う。状況的に。
彼は洛陽に住んでいた頃、日本人の国費留学生で唐の玄宗皇帝に重用されていた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や同じ大詩人と成る杜甫(とほ)と友人に成り飲んだくれていたりした。

風流だが豪快で情が厚い人で、結構、言いたい事を言ってしまう人だったらしい(笑)。
こんな逸話が有る。
親友だった阿倍仲麻呂が日本へ帰国する船が難破して生死不明に成った際に「阿倍仲麻呂の帰国船が海難事故に遭って死んだ」と誤報を聞くや(実は漂流してベトナムに到着している)泣いて詠ったとされる詩が残っているのだが・・・

題名:哭晁卿衡(ku chao qing heng=阿倍仲麻呂卿に泣く)
※阿倍仲麻呂公の唐での姓名は姓:晁(chao:ちょう)名:衡(heng:こう)。
※卿(きょう)は官位、帰国前に秘書監、衛尉卿の二つの役職を拝命している。
これは凄まじい事で現代の日本の政権に例えるなら秘書監(内閣官房長官)と
衛尉卿(防衛大臣)を兼務している事に成る。優秀さから如何に玄宗皇帝に重用されていたか解る逸話。
※日本の貴族武士と同じく名を名乗る際は織田上総介信長の様に姓と名の間に官位を置く。

日本晁卿辭帝都

征帆一片遶蓬壺

明月不歸沈碧海

白雲愁色滿蒼梧


※小生の意訳
日本晁卿辭帝都
日本人(親友)で衛尉卿の晁衡が辞職して帝都(洛陽)を離れた

征帆一片遶蓬壺
帆(船)は(親友の晁衡を乗せ、海に浮かぶ)
小さな蓬莱の壺を遶(めぐ=廻)って征(ゆ=行)く
※蓬莱島は不死の妙薬が有るとされた島で、日本や台湾を指す。この場合は日本を指すが、一般的に日本を指す言葉は扶桑(fu sang)を使う。釜山(fu shan)と扶桑(fu sang)の中国語の発音が似ているが、漢帝国に認められて以来~日本が百済を救援して唐朝と対立し白村江の戦が勃発するまで、古代倭人の王権の支配地は本州~四国~九州~朝鮮半島南部に及んでいたので釜山も倭人の国土だった。つまり日本を当てる言葉としては本来は蓬莱島より扶桑の方が適切。
※壺を日本に例えている。

明月不歸沈碧海
明るい月(の様に唐の腐敗の闇を正そうとした阿倍仲麻呂は)碧(あお)い海に沈んでしまい歸(かえ=帰)らない

白雲愁色滿蒼梧
解釈1:白雲は愁(うれ)いの色に染まり蒼(あお)い梧(あおぎり)で満ちている。
解釈2:白雲は愁いの色で満ちる、ベトナムに。
※蒼梧は色と地名二つの意味が有る。
一つは青々とした熱帯植物、若(も)しくはその色。
もう一つは唐代の行政区での蒼梧郡(広西省チワン族自治区~ベトナム)の行政府を示している。
※この詩の蒼梧を色や木として解釈しない場合は、李白が事前に阿倍仲麻呂が日本に帰国せずに当時は唐の領土だったベトナムに赴任する事を知っていた事に成る無事を伝える暗号化された詩に成る。
広西省チワン族自治区
まぁ、こんな風に李白さんは日本人とも仲が良くて友達の死を悲しんだか、対立者による暗殺を恐れて帰国を装って船に乗りベトナムに計画渡航した無事を玄宗皇帝に風流な漢詩で表現したのかも知れない。
まぁ、李白さんは歴史も熟知し詩歌にも通じた大文化人だった訳です。
そして
哭晁卿衡の漢詩はこんな背景がもしかしたら有るかも知れません・・・
当時、玄宗皇帝は傾国の美女として有名な楊貴妃によって政治的に堕落した生活をしていました。
この頃、李白さん始め玄宗皇帝と話す機会の有る人はアノ手コノ手で諫(いさ)めていましたが助言に耳を貸さずに腐敗して行きました。
その楊貴妃の楊一族は、唐朝で外国人部隊を率いる将軍の安禄山の安一族と対立して権力争いをしていましたから、当然ながら玄宗皇帝の側近である阿倍仲麻呂卿も暗殺される可能性が有り都を離れた上で玄宗皇帝の配下で居続ける必要が有ったのでしょう。
阿倍仲麻呂卿は天平勝宝四年(752年)に日本への帰国船に乗船します。
だから予め玄宗皇帝達と画策し都の洛陽から退避し日本帰国船で遭難(を装って?)、唐の支配地のベトナムへ漂着(計画渡航)。ベトナムなら安禄山一族の手は及びませんから。
「船が遭難した」と言う暗号で彼の計画の無事を確認した李白は悲しんだフリしながら安堵した気持ちを玄宗皇帝に伝えたのかも知れませんね。
阿倍仲麻呂卿は唐の朝廷で死んだ事にされていたのかも知れません。
李白によって哭晁卿衡の漢詩が詠まれたのは天平勝宝六年(754年)です、この時期に成っても阿倍仲麻呂卿は死んだ事に成ってる(笑)訳です。当時の中国は駅伝制が確立されており、馬で皇帝の下へ直ぐに情報が伝達される仕組みが有るにも関わらずです。
唐時代の版図 
そして天平勝宝七年(755年)まで洛陽へも長安へも戻りません。
のらりくらい、安全が確保されるのをまっていたのでしょうか?
この間に玄宗皇帝は蜀(四川省)に遷都(都を移す=逃げた)し、モンゴルやウィグルの騎馬民族に援軍要請をし、騎馬民族の軍事介入で安禄山の大軍を撃破しています。阿倍仲麻呂卿は760年まで浪人し無役でいます。
もしかしたら長安にとどまって幕末の桂小五郎さんみたいにスパイをし玄宗皇帝に情報を伝えていたのかも知れませんね。

そして実際に757年に成ると安禄山は自分の息子の安慶緒に暗殺され、更に安慶緒は父安禄山の部下の史思明と対立し759年には更に安氏と史氏の抗争に発展し安氏は滅亡、反乱勢力は一気に自壊して行く事に成りました。
そして天平宝字四年(760年)に阿倍仲麻呂公はタイミング良く復職すると“あの哭晁卿衡”の小生が意訳した解釈2の内容を漢詩を再現するかの様に・・
白雲愁色滿蒼梧
解釈2:白雲は愁いの色で満ちる、ベトナムに。
・・・唐の朝廷に復職しベトナムに赴任、鎮南都護、安南節度使に任命されて三位の官位まで得ています。
鎮南都護は南方方面軍長官
安南節度使は南方統括政府の長官兼財務長官
鎮南都護安南節度使として管轄したベトナムや広州は大切な交易ルートです。
そして、この頃にはメコン川流域は既に大穀倉地帯に成り兵糧補給地としての存在価値も有ったでしょう。
阿倍仲麻呂卿はベトナム赴任の後、最終的には潞州大都督(ろしゅうだいととく)に任命されています。
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唐代の潞州には三国志好きなら聞いた事の有る“壺関(こかん)”と言う洛陽防衛の最終ラインが有り、そこを任され更に大都督(大元帥とか参謀総長に当たる)に任命されている訳です。
これだけの出世をすると成ると、安禄山の乱の鎮定にかなりの功績を残していないと不可能な訳ですね。

さて、李白さんから阿倍仲麻呂さんの話に逸(そ)れてしまいましたが、そんな凄い人とも直接友達だった李白さんですが・・・
洛陽で知り合った阿倍仲麻呂さん達と別れ、一路江南地方に移住する為に南下します。
つまり、この時に漢水を船で下り荊門郡(荊門市)の辺りを通過している訳です。
霜落荊門江樹空
布帆無恙挂秋風
此行不為鱸魚鱠
自愛名山入剡中
だから小生は言う訳です、この詩でも荊門って言ってんだから荊門山じゃなくて荊門郡でしょ?
状況的にも一番自然な解釈でしょってね。

さて、彼の詩で現代中国人で「刺身食うと腹壊す」と言う奴は迷信を信じ客観的に情報を判断しない煽動され易いか自己判断能力の無いか情弱な人間と、最初に小生指摘した根拠と成るのが、この
秋下荊門です。
DSC_3602
秋下荊門の意訳でネタバレしてますが、李白達の時代の中国人も生魚を食べていました。
しかも高級な料理として。
此行不為鱸魚鱠
此(これ)は鱸魚(ろぎょ=スズキ)の鱠(刺身)の為に行く訳じゃない
ばりばり唐代の人等食ってるし(笑)!
つまり、寿司食って腹を下すと言う中国人は自国の本来の文化を全く知らないし、自国の川や海の水が魚が汚染される程に汚い事を理解していないし、水道水や地下水や泥臭いのが異常な事だと認識も出来ていないし、川魚は寄生虫がいるから生食は余り適さないけど海鮮は下処理気をつければ鮮度次第と言う事を知らない訳です。
李白移動箇所 久良岐のよし
さて、そんな訳ですが李白さんが言っていた
剡中(紹興市界隈)の唐代の名物は鱸魚(ろぎょ)=鱸(すずき)ですね。
つまり海の魚です。だから鱠(なます)で食べれるのでしょう。
釣りをやる人は知っているんですが冬季に成るとスズキは寒い外海から湾内や川の汽水域へ移動し越冬します。
唐の時代の海岸線は当然、現代よりも内陸だったろうし、揚子江は内陸まで水深が深いので紹興市界隈のだいぶ内陸辺りまで汽水域が有ったんでしょうか?
因みに日中戦争の時、日本軍は荊州市辺りまで余裕で海から軍艦で川を遡(さかのぼ)って来て、長江沿岸の都市に艦砲射撃を加えている事からも長江の水深の深さが伺えるんじゃないでしょうか。
まぁ・・・孫文先生の樹立した中華民国が袁世凱に乗っ取られたとは言え、その後の蒋介石さんは知日派だったんだから戦争するんじゃなくて英国と一緒に支援するべきだったと小生は個人的には考えています。
まぁ、尼港事件も有りましたから、当時の日本人の感情として袁世凱がいなくなっても中華民国を許せないと言う風潮が有ったのかも知れませんが。
日中戦争のエピソードも水深が深い事を例える素材には成りますね。

もう一つ、李白さんが船の中から見て
霜落荊門江樹空 布帆無恙挂秋風と詠んでいる事も思い出して下さい。
季節は霜が降りる晩秋で鱸魚(スズキ)が湾内や川の汽水域に移動して来る季節位に紹興市方面に向かっている
様子も解りますね。
いずれにせよ、当時の紹興市辺りの名物は鱸の刺身だったし、当時の人々も生魚の刺身を好んで食べていた訳です。そして漢詩の内容の洛陽から南陽郡を通過し襄陽から船で漢水を南下して荊門を通過し江南地方を訪れるタイミングの漢詩と解る訳です。
司馬遼太郎さんも“街道を行く”シリーズの江南地方への旅の中で、この詩を確か紹介していたと思います。こんな解析はしてないですけどね。
案外、日本人の方が普通の中国人より中国文化を大切に思っているかも知れない。

さて、小生は現代の中国人には迷信に振り回されている人間が多いだけでなく、“愛国心を謳いながら自国の文化も歴史も大切にしない奴が多い”と指摘しました・・・
小生が中国蘇州の網師園と言う、とても綺麗な中国古民家を訪れた際こんな事が有りました。
・・・中国には中共以前の中華民国時代から受け継がれている“文物保護単位”と言う文化財があるのですが網師園もその一つで、当然ながら火気厳禁で禁煙な訳で。
しかし静かに見学している小生達日本人の後から中国人の団体客(中国なんだから当たり前かww)が大挙して建物に入って来て、その内の一人が煙草を吸い、その吸殻を中庭の石畳にポイ捨てしました。
それを見た小生は憤慨しその中国人の前に立ってこう言いました・・・
「喂!你是中国人吧?」
(オイ!オマエ中国人だろう?)

「你因该知道这里是保护单位。」
(ここが文化財指定だって知ってんだろうが。)

「你这么做不觉得害羞吗?」
(オマエ、こんな事やって恥ずかしくないの?)

「到底你们在哪里有爱国心?」
(オメ~等愛国心なんて無いだろ?)

・・・結構低い声でユックリだが、まくしたてましたかね。
こう言うと、コチラを相手の低文化な人間も睨んできたが、生憎と小生はガタイが良いので相手は押し黙って動かなく成りました。これが中国人同士か一般的な日本人男性の身長と体格なら殴り合いに成っていただろうなと思います。

相手は外人に片言の中国語で話しかけられた経験も無いだろうし、しかもガタイの良い外国人に片言の怒気を孕んだ中国語で正論を言われて怖かったかも知れないし当惑したでしょうね、なんせ歴史文化礼儀軽視でポイ捨て当たり前の民度の人が多い国ですから(当時、約20年前)。
でもメンツを大切にする中国人だから謝る文化も無いし、人に言われて自分の捨てた吸殻を拾うなんてプライドが許さない訳だ。
小生はソイツにガン飛ばしながら吸殻を拾うとソイツのツアーガイド(中国人女性)に吸殻を渡し、注意し指導する様に言いました。

小生「你为什么让他在这里抽烟呢?你也应该批评他,对不对?」
(アンタなんでアイツにここで煙草吸わせてんの?アンタもアイツを糾弾するべきじゃ無ぇ~のか?)

すると、そのガイド(导游)から怯えた様子で開口一番、先進国では考えられない一言が帰って来た・・・
导游「我不会・・・」((;゚Д゚)できません・・・)

小生「啊?为什么?」(は?何で?)

导游「对不起・・・」(;Д;)

小生「チッ・・・(舌打ちからの無言でガイドの姉ちゃんを侮蔑する)」(-_- ×)ノ

・・・こんなやりとりをした事が有り、中国人の中国伝統文化や文化財や自然に対する保護意識の軽薄さは身に染みている。
このガイドの発言は客を注意する事が批判したと会社に騒がれたらクビに成るとでも思っての事だろう。自己保身だな。
そして中国は簡単に従業員を気分で解雇出来るし、上司が部下を選ぶ事も出来るから日本以上に愛人関連の問題も有る。法律は有るけれど末端と上層部が酷く法治国家として機能はしていない訳だ。
中間層は真面目なのにね。

無論、小生の友人達の様に昔から素養が高く協調性も有り柔和で文化を大切にする人も多い。
反面、自分だけ良ければ良く自国の文化に対して平気で破壊を行う奴も多い。
モラルに置いて全員がそこそこズルくてソコソコ理性を持て振舞う日本人と違って、中国人は良い人は凄く良いが悪い人は何事においても凄く悪い。人の民度の差が激しい。
そして中国の自称愛国者は何故か自国の歴史を知らず文化を愛さ無い人間が多い。
とにかく善悪の差が激しい。

こんな事も有った・・・
大型スーパーの客が「御釣りが1毛(日本人の感覚で1円みたいな)足りない」と騒ぎだし店員のネエチャン殴る。

更にコンナ事も・・・
食堂で客が「他の客より米が少ない」と騒ぎだし店員も店員で喧嘩腰に「んなわきゃ無ぇ」と言い返し、客が配膳台から米を分捕り、怒った店員がその客を突き飛ばし、逆上した客が空の御椀を持って店員を殴りつける。
店員はオデコがパックリ割れて流血。
周りの中国人は誰も止めず俺が暴れてる中国人を後ろからフルネルソンでクラッチして羽交い絞めにしてホールドし周囲で傍観してる薄情な連中にこう叫んだ・・・
「不要打了!」
(止めろ!)
「喂,你们快报警吧!」
(オイ、オメー等(他の客と店員)さっさと通報しろ!)
・・・と言うまで誰も動かない始末。

こんな事も有った。
中国では人力三輪車がタクシー替わりに使われている観光地も多いのだが、仲良く成った現地の女の子と二人で市場に夕食の食材を買い出しに行く途中で三輪車が窪地に嵌(はま)って出れなく成っていた。
それを小生が普通に後ろから持ち上げて穴から出した。
まぁ、日本人ならその三輪車を持ち上げられる力が有るか複数人いれば普通に小生と同じ事をするだろう。
ところが、一緒にいた女の子にコンナ事を言われた・・・
「何で助けたの?」
・・・これは小生は衝撃的だった。当たり前の事をしたのに怪訝そうに眉をひそめて聞かれたのだ。
当然、この女の子みたいなのばかりじゃなくて、小生と同じ事をする中国人もいる。でも、“そうじゃない奴もいる”国民性が有る土地なんだな。

あと中国に出張に行くと気を付けている事が有った。
中国のTAXIは日本より遥かに事故る頻度が高い。
もし事故に巻き込まれたら、さっさと料金を払い車降りないと口論に巻き込まれ警察が来れば更に面倒に成り立ち去れなく成る事が有る。
小生も一度、中国滞在中に乗っていたTAXIが事故に巻き込まれた。上海の環球金融中心と言う日本の森ビルが建設した高層ビルに行く用事が有ったのだが、そのTAXI発着場所の入口近くの交差点で一般車両と右折直進衝突された。
さっさと金払って降りた。

中国人も自国の文化を大切にする人、古典を読み本当に史料を読む程に歴史が好きだったり伝統芸能の評弾を聞きに行く様な若者は寧(むし)ろ日本人に対して偏見の無い人や客観的に物事を判断する人も多い。

逆に中国人なのに自国の文化に左程興味が無い奴程、自国の事も知らないし対外的に無差別に攻撃的だったりする。
そして迷信を信じる奴も、この部類に多い。

まぁ~あれだ。
日本人もそうだが、右翼って無文化な奴が多いし、左翼って文化破壊者が多いし、そのどちらも笑える事に民族主義者と民族逆差別主義者が多い。
万国共通だな。

歴史に興味の無い奴、文化に興味の無い奴、金と利益が絡まない事に対して無関心な奴、どこにもいるけど、中国の場合は特に差が極端。
文化的で良い奴と友達に成れば良いだけだし、日本や先進国での生活の長い中国人に対し素養を見分ける素材が“月子”“冷水”“刺身”の迷信を習慣として海外にいても是とするか非とするかで客観性が有るか順応性が有るか判断も出来るって体験談だな。

中国人はもっと本来の中国である明や唐や宋や漢の文化を大切に、そして政府や人からの情報では無くて自分で活版印刷されて読み易く成っている古文書を読んで、己の文化と現代中国の闇を知るべきだと思う。
これを日本人が好み中国人が忘れた中国の諺で温故知新、継往開来と言う。

中国人の皆さん、もっと自国の本当の文化を自然を大切にして下さい。
私達日本人は和服を来て正月に神社仏閣を参詣したり、書道で書初めをしたりします。
小生は書初めはしませんが、ちゃんと写経もして御寺に奉納しますし神社も氏神様と土地神様と厄除けの神様と知恵の神様と御参りもします。
さて、中国で日常生活の中で唐装いを着て歩く女性がいるでしょうか?
普段から御先祖様が大切にした御神廟や御寺を御参りする若者がどれだけいるでしょうか?
そう言う所から、本当の愛国心に通じる自国文化を大切にする心は育まれるのだと思います。
そう言う所です。
明孝陵に行って中国人の自称愛国者は朱元璋洪武帝に礼拝するでしょうか?
洪武帝はモンゴル元朝を倒して中華を取り戻した大功労者ですよ?
きっと反日=愛国心と思っている人間には洪武帝の明孝陵の存在も知らない阿呆も多い事でしょう。
そして何で“月子”を中国人は行わないといけなくて、何で“生水”を飲んではいけないか理由すら考えた事も無いでしょう。

もっと自国の歴史から古来の文化も学んで下さい。
そして出来れば人民解放軍が行っているプロパガンダと異なり、実際に日本軍と勇敢に戦ったのが中華民国軍とアメリカ義勇軍だった事実も知って下さい。
中国からどれだけ貴重な歴史偉人の陵墓が文化大革命のドサクサに紛れ盗掘破壊され消えたか調べて下さい。

でね、折角日本に来たら御刺身も御寿司も美味しいから試しに食べて見て下さい。
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海鮮を生食しても腐って無ければ腹壊しません。
小生は中国人の同僚が帰国する際も来訪する際も、台湾の友人が遊びに来た時も、三崎で鮪を食べさせてあげました。
誰も御腹壊してませんよ。
アノサキス等がいるイカは刺身にする時にちゃんと化粧包丁いれて寄生虫駆除したり湯引きします。
先ずは体験してみて下さい。
中国出張中に買ったペットボトルの水が偽物で腹下したり、屋台の料理で腹下したり、別に小生は中国の不衛生な店も怯まずチャレンジしてますよ~(笑)。

まぁ、自国の物は大丈夫だって思いたいですよね。でも日本にも原産地偽装食品も有りますし、御互い、気を付けないといけないのは変わらないけど、迷信かも知れない通説も信じる前に自分で理由を考えて調べてみたらどうでしょうか?

では、又!




留学初期にほぼ毎日食事通学旅行で皆でつるんでたいたのだが、その留学仲間の一人である大阪のITが都内に出張で来てるので先週末に観光案内して来た。
出張先が渋谷の近くだそうで田園都市線でアクセス便利だし新大阪から新幹線で一本と言う事で、宿を新横浜駅近くのホテルを予約したらしい。
一ヶ月前から小生が作成中の神奈川観光の刷子原稿を送り行きたい場所はリサーチ済み。
そのITの仕事はニッチな産業のデザイナーだが廃墟マニアと言う趣向が有ると今回、訪問に当たって事前に行きたい場所の趣向を聞いた際に発覚し、とても意外だった。
かれこれ人生の半分近くの年数関わり、歴代の彼氏がどんな人物かも知っているのだが廃墟が好きなんて趣向は全く知らなかった。

そんな訳で近代の廃墟廻りを今回の観光案内の目的地にした。待ち合せもホテルに朝9時に迎えに行くと申し合わせて有り万全だった。
後は天候次第で臨機応変に訪問地を雨天仕様に組み替えるだけ。
んな訳で時系列で当日の行動を紹介するとこうなる。

04:00前後
早朝、睡眠少しで起きてしまい、小机城の紹介記事のリニューアルの為に加筆していた。

08:00
自宅を出発。新横浜駅へ向かう途中のコンビニATMで現金引き出しノンカロリーのレッドブル飲んで無理矢理に脳内シャキッとさせる。
09:00
迎えに新横浜駅前に到着。
大阪の親友ITはちゃんと寝れた様でシャキッとしてた。因みに留学で知り合った親友だが、たまたま小生とは祖先が同族。でも外見は似ても似つかない。
しかし好きな物は割りと似ていて気は合うし漫画も好き、廃墟好きと歴史好きも似ている。
奴は家具や革製品を、小生は銀の指環や組紐のブレスレットを造るのが趣味と言う工作好きなのも似てる。
関西に土着した奴の祖先は弥生系と古墳時代の渡来系との混血が進んでおり小生の如き胴長短足の縄文遺伝子は最早体形にも頭蓋骨にも名残が無い(笑)。多分、はた目に見て美人の部類だろう。
同氏族だからでも外見でもなくリスペクト出来るし信頼もしている。
まぁ、気が合う訳だ。
小生の親友は皆、そんな奴が多い。
09:45
野島に到着。
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季節柄、野島の海には昭和まで江戸前と呼ばれた東京都大田区~神奈川県川崎市~横浜市~横須賀市~三浦半島の東京湾沿岸部で盛んだった“海苔ひび”を見る事が出来た。
海苔“ひび”の“ひび”は現在では国語辞書にも元の漢字が掲載されていないが、小生は竹で海を囲った様子から轞(ひび)が語源では無いかと思う。この轞と言う漢字は三国志好きなら知っている古代中国の囚人や罪人を護送する際に用いた轞(jian=和音読み:ケン/カン)の事だと推測している。
盧植
三国志演義で後の蜀の皇帝と成る劉備と同郷であり学問の師匠に当たる“盧植(ろしょく)”先生が朝廷を私物化した奸臣の董卓の事を大将軍の何進に諫言(かんげん=上司への忠告)をした事で後に逆に逮捕されてしまったのだが、その際に乗せられていた護送車のアレが“轞(jian)”だな。
轞は文字通り、檻(おり)+車の構造物だ。
罪人を護送しながら晒し者にする為に檻(おり)の下に車輪を付けた構造、解り易く言うと馬車の幌(ほろ)が監獄(かんごく)に成った物だ。
この轞(jian)を日本語では訓読みで“轞(ひび)き”と呼んだ様(よう)だが、日本語辞書の解釈では護送車を引く音の形容詞と説明している物も有るがハッキリ言って辞書の筆者が知らないだけで轞は護送車その物の事だ・・・
まぁ轞は日本語にするなら護送車しか今が無いのだが敢えて言うなら“見せしめ晒(さら)し囚人輸送車”とでも言う物だろうか。
・・・もしかしたら轞の漢字は“車”+“監”で轞だが、現代では失われた発音として海苔が東京湾の大森海岸で開始された当時には"監(カン)”の発音の訓読み自体が"監(ひび)”だったのかも知れない。
そう言えば格子(こうし)状に割れる事を“ヒビが入る”とも言う。
そうなると現代では漢字の伝わらない"海苔ひび”の"ひび”は檻(おり)に似ている事から檻(おり)と書いて檻(ひび)と読む訓読みがもう一つ有ったのかも知れないと思う。
まぁ、檻(おり/ひび)は監獄(かんごく)を指すし、監獄(かんごく)って書いて檻(おり)を指す時点で小生の推測は100%間違い無いだろう。
恐らく海苔ひびの漢字は“海苔ひび=海苔檻”か“海苔轞”だった筈だ。
因(ちな)みに、今現在、江東区と大田区で帰属を巡ってモメている埋立地の人工島一帯が昔は大田区の海域で江戸前海苔の生産で有名だった地域だ。
歴史好事家(オタク)として個人的な意見だが、江東区はどの面下げてアソコを江東区の区域と主張するのか理解出来ない、ハッキリ言って片腹痛い(笑)。
折衷案を出した裁判官は歴史的な素養が乏し過ぎる(笑)。
あの一帯は昔から大田区だったのだから、江東区は引き下がるべきだと同じ海苔の名産地だったのに自民党に漁業権を捨てさせられた横浜市民の漁民の心痛と大田区の漁民の立場を重ねて思う所が有る。

もっとも、この風景を見て一緒に来たITはソンナ事は微塵も考えていなかったかも知れない(笑)。
まぁ、今回大阪から出張に前乗りして神奈川に遊びに来た親友は女性ながら"廃墟マニア”と変わった趣味の持ち主なので、今回は先(ま)ず野島掩体壕(旧海軍零式艦上戦闘機の格納庫)に連れて来た訳だ。
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この掩体壕=格納庫は実際には零戦の格納庫としては使用されなかった。
隣の日産自動車追浜工場とテスト用走行コースの敷地が横須賀鎮守府海軍飛行場だったので、当時は滑走路から先に在る野島に格納庫を作り米軍のB21爆撃機から戦闘機を守る計画が進行していた訳だ。
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説明の看板でも解る通り、戦時中の物資不足でコンクリート擁壁は入口と出口の先に掘削された部分だけに止まり、中心部はまだ完全な幅に広げられてもいなかった。
幸い、この基地が利用される前に戦争は終結したので戦争史跡として現存している。
明治時代の軍人と違って太平洋戦争末期当時の無責任に成っていた海軍の上級将校達は内陸の現在の慶応大学日吉キャンパスの地下に基地を掘って隠れてしまっていた。
そうこうする内に末端の将校は頑張っていたが、無駄に本土に戦火を及ばせた戦争末期には物資が不足し、この野島掩体壕ばかりか日吉の海軍参謀本部でさへ物資不足で入口のみ煉瓦とモルタル造りで奥は素掘りのままと悲惨な状況だった訳だ。
こんな状況で勝てる訳が無い。
そもそも陸軍の暴走で英国との条約を無視して万里の長城を超えて中国侵攻をしてしまったので英国による日本の満州宗主国としての地位保証も破棄される事に成ってしまった上、素人の小生すら理解している“兵站”の確保を陸軍は楽観的に無視、結果、日中戦争は完全に無益な物で更に収拾不可能に成り海軍の足を引っ張り、真珠湾攻撃にしても有利な状況で和睦を成立させて満州利権を連合国に承認させると言う目的が有ったのだが、開戦前に「3年かかったら負けますよ」と言う主旨の発言をしていた山本五十六サンも既に戦死して連合国と不利な現実を直視し和睦を提言する人もいなかった。
その間にも今日左翼を煽る様に当時は“朝日新聞が軍部と民衆を煽り捲って戦争へと向かわせた”のだが、そんな痴れ者の朝日新聞がプロパガンダで支持した当時の陸軍政府(一夕会)は当時の外務省の外交敗北と責任をすり替えようとしたが、ハッキリ言って越権行為の外交交渉を陸軍が勝手にやった挙句に条約を無視して全てを水泡に帰したのが日本斜陽の始まりだったと言う歴史も知っておかないといけないと思う。
だからと言って“鼻から日本文化破壊と日本の共産主義国化を目指して中国共産党やソビエト(ロシア)を誘引しようとする日本共産党や極左テロリストの支援を受けている政党政治家の主張はそもそも“外患を招く内憂”であり獅子身中の虫でしかない。
実はそう言った近代の歴史を知れるのが、この野島掩体壕と伊藤博文邸だったりする。
野島掩体壕から南側に回り、時計回りに反対の西側の出口に行く途中に野島稲荷神社が在る。
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ここは旧紀州徳川家金沢野島屋敷の鎮守の神社だな。親友のITは横浜市に紀州徳川家と所縁の場所が在(あ)るとは知らず意外だった様だ。
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この野島稲荷は鎌倉文化の影響を色濃く残しており、境内社は壁面に掘った横穴の中に御社が其々(ぞれぞれ)祀られている。
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この横穴は“矢倉(やぐら)”と呼び、平安時代からの関東武士団の墳墓や宗教施設に見られる様式で壁面に人工的に掘られた横穴の事を指す。
鎌倉武士には矢倉に祠(ほこら)や石仏や供養塔を祀る事が多かった。関西や中部地方からは想像がつかないかも知れないが、鎌倉武士の葬送は火葬も多く五輪の塔の真ん中に骨壺を納骨する四角いスペースが存在しており、地下に埋める形式と五輪の塔の中に収納するケースが両方存在した。
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武士の墓の構造は横須賀市衣笠に在る薬王寺廃寺の三浦義澄公の御廟の墓石を見ると解り易い。
納骨スペースが大きな四角の箱状の造りに成っている。残念ながら不届き物が骨壺を盗掘する際に箱状の構造物を破壊されているが、そのせいで納骨スペースの存在が目視で理解出来る状態に成っている。
恐らく、身分の高い武士の御廟所が一人に一つの菩提寺(ぼだいじ=供養する為の御寺)が築かれる様に成って来た鎌倉時代初期に成ると寺院に御廟所を設(もう)ける際は矢倉の掘れない地形の場合、五輪塔に納骨し其処を築地塀(つきじべい=数層に土と瓦を重ねて作る土塀)や石柱で取り囲んだのだろう。
まぁ野島稲荷神社の場合は・・・
礼拝所である神社なので矢倉には神様が祀られている訳だ。

野島稲荷神社から野島掩体壕の西側入口へ回る途中、野島掩体壕を含めた“野島砲台=野島要塞”の名残の塹壕が数ヵ所剥き出しで現存している。
DSC_3550
戦後に防空壕の入口はコンクリートで塞ぐ命令が施行されたので、中に入る事は現在では出来ない。
それでも戦時中に野島が要塞化されていた事を見る事が出来る訳だ。
そこから掩体壕西側の入口を見て、伊藤博文金沢別邸に移動した。
DSC_3552
余り日本国民のみならず、横浜市民でさえ知る人は少ないが金沢区の瀬戸神社の辺りと野島と夏島は昔は別荘地で、そこの宿を転々と変え宿泊しながら伊藤博文公等が明治憲法の草庵を起草した場所の一つが野島だったりする。
昔は金沢八景と呼ばれ源頼朝公以来、有力者と文化人に昭和初期のアホの横浜市の建設利権に因(よ)って海が埋め立てられるまで、その別荘地として景勝地としての文化は続いた。
伊藤博文公も野島の風景を紀州藩主徳川頼宣(よりのぶ)公と同じく愛されたので、終いにはここに金沢別邸つまり別宅を構えてしまった訳だ。
そして・・・
ここは日本と韓国が友好国で無二の友邦に成れたかも知れない韓国皇室のキーマンが愛した場所でも有ったのだが、それも知る人は少ないだろう。
・・・まぁ、“金沢八景”と“伊藤博文公金沢別邸”については以前に解説記事を書いているので御興味の有る方は以下の記事タイトルをクリックして過去記事を御覧頂くと良いと思う。





2015-08-19-16-46-38
さて、野島の伊藤博文公の別宅は実は明治天皇も利用した建築文化財であり“御所”だったと言う事実は伊藤博文金沢別邸の存在その物より更に知らない人が多い。
実は、この建物は明治天皇の旧赤坂仮御所の“御会食所”を解体移築した物である。
説明すると、明治天皇は赤坂の仮御所に御住いだったのだが、明治時代に欧米列強に倣(なら)って西洋式の御所と公館と接待所を新設するまでの御住いであり、接待所だった。
伊藤博文公御自身は神道形式の御廟所に埋葬されていらっしゃるが、実は仏教文化も大好きで金沢別邸からそう遠くない氷取沢の宝勝寺にも良く参拝してらっしゃって武士時代の遺物を奉納してらっしゃったりする。古来の神仏習合の文化が御好きだったようだ。だから明治時代の近代建築よりも和風の木造住宅が本当は好きだったみたいだ。
まぁ、こんな他府県民にとって意外な歴史が凝縮した場所が野島なのだ。
一頻り散歩して腹も減った(ITには朝食食べずに空腹にして置く様に要請してあった)ので昼食には少し早い11時少し前、ブランチに小柴の柴漁港へ移動し古来の横浜名物の穴子と地魚の天丼を食べに移動した。
11:00
鉄腕DASHで良く登場する芝漁港に到着。
DSC_3553
ここはTVでロケも来るが小生が好きで良く見るYouTubeのキャンプ動画投稿者“ソータロー”が漁協の許可を得た上で一般人が釣りが不可能な漁港内で夜釣りをした事でやっかみの対象と成り“密猟者”扱いされ“炎上した場所(笑)”だったりもする。

※一般釣りマニアのやっかみで炎上した動画は削除されてた(笑)。
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小柴のどんぶり屋で当日水揚げされた横浜名物の穴子を食べる事が出来る。
いつもは開店前に人が並びあっと言う間に品薄に成るのだが、ITの日頃の行いが良いのか運良く客は小生達を含めて未(ま)だ3組しか来店してなかった。
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穴子の三色天丼と地魚天丼を注文。
そして、この日はカワハギの煮付け定食が有ったので、カワハギの煮付けだけ食べたかったので米無しで注文をした。
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結果的に“かき揚げ”がもう一つ付いて来てしまい二人で朝から天麩羅三昧、胃袋もキャパオーバーに成った。腹も満たされ、次の廃墟、猿島へと向け移動。
11:20
横須賀海岸通りの駐車場に到着。
SAIKAYAパーキングと言う美少女アニメオタクが好きそうな(笑)アイコンが目印の駐車場はフェリーの乗船券が駐車料金割引券代わりに成るのを、去年の猿島散策で知っていたので今回も利用・・・
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何と300円も安く成るんだな。
・・・ITに小生の趣向と誤解されない様に(笑)ちゃんと割引券の説明した。小生はロリコンでは無いし、適齢期以上の女性にしか女性としての認識も持てない上に、どちらかと言うと同世代の女性が恋愛対象なのだが、そんな事を一々説明すると親友でもIT「何なんコイツ必死に弁解してホンマはロリコンとちゃうん⁉」と思われそうなので、2次元のSAIKAYAキャラ説明で深追いしないで置いた(笑)。
徒歩で三笠公園に移動。
ここから5分程度の距離と近く非常に便が良い。
11:30
三笠桟橋に到着。
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三笠桟橋は文字通り“世界三大記念艦の三笠”の横に有る桟橋で、桟橋の前で乗船券を購入出来る。
乗船券は純粋な船賃1200円(往復)+入島税300円と安い。
丁度タイミング良くチケット売り場に到着した頃に乗船時間と成り、ギリギリ待つ事無く猿島行きの遊覧船に乗船出来た。
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三笠桟橋~猿島は10分の航路と非常に近い。
この日は三連休最終日と言う事も有って大変な賑わいだった。
もう5分遅れたら定員オーバーで次便まで乗船出来なかっただろう。まぁ、そんな場合も想定して、その場合は三笠公園の売店で横須賀土産の物色と戦艦三笠に乗艦して時間を潰す計画だった。
バッチリ、小生の旅行は毎回ヌカリは無い(自画自賛)。
11:45
猿島桟橋に到着。
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今回初めて知ったのだが、何と猿島の休憩所兼売店の3F事務所でガイドツアー(200円)に入れる。
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小生は一度来ているし大体の解説を出来る知識を有している心算(つもり)だったので・・・
「ツアーに入る必要も無いかな。」
・・・と内心思いながら、ここはゲストであるITの意思を尊重すべきと思い確認。
小生「ツアーに入って専門的にガイド聞いて見たいか?それとも自分達で自由に回る?」
IT「ツアーに入ってみよう」
・・・このITの判断は正しかった。
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島内の明治時代の要塞跡を見学ツアーに入ると、一般では見学できない場所も入る事が出来たり小さな疑問も質問するとガイドさんが詳細な解説で回答を下さった。
例えば直接歴史とは関係無いが・・・

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・・・ツワブキの花。小生はこれが食べられる野草のツワブキと知らなかった。綺麗だなと思い写真を撮っていたら団体の先頭を歩くガイドさんが「黄色い花はツワブキです」と解説をして下さった。
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この構造物は通風孔かと思っていたら、中の穴は兵舎として利用されていたそうで明り取りの穴だったそうだ。
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この壁面の穴も質問する前に解説が有った。これは送電線を固定する金具を埋め込むモルタルのブロックが嵌(は)められて有った跡そうだ。
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この写真の様な金具が嵌っていたそうだ。
自然の砂岩の場所には煉瓦の様に直接金具を埋め込めないので方形のブロックに金具を取り付けてから砂岩に嵌め込んだ訳だ。
ここに島の浜辺近くの発電所から電気の送電線が伸びて、各砲台や兵舎へと電力が供給されていた訳だ。
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これはガイドさんがツアー客に質問する前に小生は正体を当てていた施設だ。
実はトイレの跡。
写真撮影するの忘れたが、実は下部に配水構造が有り便器が嵌っていた様な跡が有る左側のモルタルと、右側は壁状のモルタルの下が配水構造に成っていたので直ぐに解った。
三笠の小便のトイレに右側のモルタルの設計が似た構造だったのだ。
先に進むと今度はレンガの積み方に関して講義が始まった。
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この様に長辺と短辺を交互に並べ重ねて行くのを“フランス積み”と言うのだが、小生はこれを知らなかった。
これに対して横一列毎に長辺だけを並べ更に上に短辺だけを並べる積み方を“イギリス積み”と言う。
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このイギリス積みに関しては小生はたまたま本で見て知っていた。この写真の場所は変わっていてフランス積みとイギリス積みを両方一箇所で見られる日本でも珍しい近代史跡だそうだ。
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煉瓦の積み方の講義の次に、一般観光客は見学不可な弾薬庫内部の案内が始まり正直予想外の幸運。
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内部は漆喰で固められており、当時は白く綺麗な洋館の内部の様だ感じだっただろう事を推測出来る。
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天井には穴がポコポコ開いており、小生はコレをITに「空気孔かな?」と見当違いな予想を問いかけたらガイドさんによると“伝声管”の配管がココに通されていたそうだ。
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この弾薬庫は外部からは判り難いが2階建て構造に成っているらしい。
その2Fには砲台への弾薬補給の指示を出す人が居り、その伝令を配管を通じて糸電話の要領で行っていた訳だ。
だから当然ながら弾薬を2Fに送る人力のエレベーターも存在しており、今もその穴を見る事が出来る。
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こんな素晴らしい史跡なのだが、残念な馬鹿はいつの時代もいる様で、今の団塊~バブル世代が戦後に無断上陸して猿島要塞史跡に落書きをして回ったそうだ。
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おい石井智樹見てるか?
オマエのアンチモラルで低文化な落書きは、施錠の向こうで末代まで消される事無く晒し者にされ続けるぞ(笑)。反日文化テロリストと同類の己の傍若無人な振舞い、子々孫々まで恥として晒されれば良い。
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2Fと砲台の有る上部へは写真の様に階段を登って移動していたそうで、弾薬庫や兵舎の中から登れた訳では無いそうだ。
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今でも立派な煉瓦組みのトンネルも残っている。
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このトンネルの横にも多数の外へと通じる階段が設置されており、更に階段の途中にも先程の弾薬庫の様に横に伸びる穴状の構造物が有るそうだ。
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トンネルはともて趣が有り、ヨーロッパの城内を散策している様な感覚だな。
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最期に猿島の北端の砲台跡の開けた場所を抜け海辺に出て解散と成ったのだが、ここでも猿島要塞と同じ役割をした東京湾に浮かぶ明治時代の人工島要塞の東京湾第1海堡と第2海堡の解説が有った。
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実は東京湾には陸軍大将だった山縣有朋公によって建設された人工島の要塞が3つ在った。その内、第1海堡と第2海堡が現存していて第3海堡は前東京都知事の石原慎太郎に因って撤去された際にライオンズクラブによって解体され追浜の日産自動車の工場近くに移築され展示されていたりする。
そこ等辺の事も過去の記事で解説しているので、興味の有る人は以下の記事タイトルをクリックして解説を読んで見てくれると良いと思う。

望遠鏡やカメラのファインダー越しでないと目視し難いのだが、猿島からも第1海堡と第2海堡がガイドさんの言う通りに見る事が出来た。
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灯台が有る方が東京湾第一海堡。
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奥に見えるのが富津岬の直ぐ傍に在る第一海堡。
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繰り返しに成るが第三海堡は日産追浜工場近くの夏島地区の岸壁に移築されている。
ガイドさんの薦めもあり、島の海辺に在る通称“日蓮洞”と呼ばれる日蓮宗信者にとって聖地である縄文時代からの貝塚が発見されている洞窟も見学した。
島の北端の西側に当たる。
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この洞窟は江ノ島に繋がっていると昔から伝承しているが、ガイドさん曰(いわ)く・・・
「江ノ島の方では江ノ島の洞穴は富士山に繋がってると解説しています(笑)。」
・・・との事(笑)。江ノ島のガイドと真偽確かめ様と画策中らしい。
そこから日蓮洞と反対側の島の北東に移動。
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途中、又、要塞の中も通る。しかしココを抜けると入口に戻ってしまうのでトンネルは抜けないで山側に行った。
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・・・このショボい見張り台と言うか展望台、実は“仮面ライダーのロケ地”“ショッカーの秘密基地の入口”の設定の場所らしい(笑)。
ガイドさんによると、なのでコスプレイヤーの聖地に成っていて猿島全体含めてコスプレした女の子達が良く自分の写真集を作る際に撮影の為に来るらしい。実際、この日もコスプレした女性達が数人来ておりカメラマンが撮影していた。
まぁ、人畜無害な趣味なので、御寺や神社で撮影して場の雰囲気を乱すよりは猿島で撮影してくれた方が良いかと思う。
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こちら側から山の尾根伝いに島の桟橋方面に戻ると、砲台上部構造も見学出来る。
この穴を使い1F弾薬庫から弾薬を補給し、方形の小さい穴に弾薬を仮置きしたのだろう。
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関西には中々こう言った場所が残っていないらしく、和歌山県の方まで行かないと戦争史跡の廃墟は無いそうだ。
一頻(しき)り見学を終えて時間に合わせて桟橋に戻る。
14:45
ギリギリ乗船定員20人前位で乗船する事が出来た、ラッキー♪
14:55
三笠桟橋に到着。
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三笠公園に着いたら先ず、戦艦三笠の写真撮影タイム。そして三笠公園売店で御土産を物色。
余り興味を引く物は無かったようで、ITの要望で三笠公園前の古着屋に移動。
ここも気に入る衣服は見つからなかったそうで、駐車場に戻った。
15:30
駐車場から三浦半島三崎町へ出発。
16:10
城ヶ島第2駐車場に到着。
実は最初は城ヶ島公園の第1駐車場に行ったのだが、第1駐車場は17時で閉門施錠される為に管理人のオジちゃんのアドバイスで17時以降も出庫可能な第2駐車場に移動したと言う次第だ。
第2駐車場から城ヶ島公園はそれ程遠くない。
16:15
第2駐車場から徒歩で神奈川県立城ヶ島公園に到着。
すると綺麗な黒猫様が御出迎えして下さり、寛大な事におおいに“モフらせて”頂けた。


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凄く綺麗な毛並みと顔立ちの猫様。
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可愛かったな~。
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顔を洗っていたので「明日は雨だな」と言ったら、どうやら関東ローカルの迷信らしい。
それもとITが知らないだけなのだろうか。
取り合えず、翌日の天気は雨ではなかった(笑)。
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城ヶ島の海岸の夕景と富士山を見物予定が海がガスって秋季には珍しく富士山見えず。しかし夕陽と海と岸壁の風景は相変わらず綺麗だ。
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城ヶ島は展望台の近くに海岸に降りる階段が在る。
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そこを降りるとこんな風景が見れる。
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本当は今の季節、もっと水蒸気が少なく富士山も見えるのだが、生憎(あいにく)と低い所に雲が掛かっており富士山も今回は見られず日没も途中までしか見られなかった。
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釣り船は見えた。これはこれで風情が有る。
3月に台湾の友人夫妻を連れて来た時は雹(ヒョウ)が降った不運に比べれば綺麗な風景も見れて良かったのだろう。ITも満足してくれた様だ。
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日没後の夕闇迫る時間帯だが、小生達の他にも散策する観光客が数組居た。
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展望台に戻る階段は季節柄、薄木(ススキ)が茂って秋らしく綺麗な風景を見せてくれた。
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そして黒猫様と他の茶虎猫様達が再び見送って下さった(笑)。
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でもコイツ等、愛想悪かった(笑)。黒猫の神対応に感謝♪
写真を撮影するのを忘れたが実は城ヶ島も猿島や野島と同じく戦争史跡の廃墟が有り、明治~大正時代の砲台跡が花壇として保存されている他、岸壁には猿島要塞の弾薬庫と同じ構造物が残っているが弾薬庫の方は一般見学は不可能だ。
腹も空いたので夕食に三崎漁港に鮪を食べに移動する事にした。
17:10
駐車場に戻り城ヶ島を出発。
17:25
三崎漁港に到着。
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三崎漁港の鮪を夕食にしたのは、ITに折角なので神奈川名物を食べさせてあげたいと思い事前に・・・「葉山牛と、三崎漁港の鮪料理と、鎌倉野菜と海鮮のイタリアンとどれが良い?」
・・・とリサーチして「肉より魚、鮪食べたい」と回答が有ったからだった。
しばし三崎漁港の商店街を散策し鮪漁で栄えた頃の倉屋敷の外観を見物して廻り店の選定に入る。
17:45

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有名な鮪料理専門居酒屋の“黒羽亭”か・・・
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・・・鮪稀少部位を食べれる行き付けの寿司屋“紀の代”から好きな方をITに選ばせ“紀の代”に入店。
3月に台湾の友人もこの店に連れて来てあげたかったのだが生憎と当日は店が開いてなかった。ITはラッキーだったな。
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まぐろ寿司(インド鮪赤身漬け、中トロ、大トロ、備長鮪のトロの握り)、鮪サラダ、ワタ(鮪の胃袋湯引き)、皮ポン(鮪の皮のポン酢和え)、鮪のカマの焼き、鮪のツミレのお吸い物を食べる。
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鮪丼(大トロ、鮪ユッケ、漬け鮪、ネギトロ)、ネギトロ巻きを追加(笑)。
※因みに、この日、小生は先月ダイエット8㎏成功したのが1日で2㎏リバウンドした(笑)。
ITも美味しい美味しいと満足してくれた様で何より。
臺灣の友人が来た時も中国人の同僚が帰国する際もここに連れて来たが、一緒に来た人が自分の美味しいと思う店に連れて行って喜んでくれると嬉しいもんだな。
そして気兼ねなく安心して御腹いっぱに食べてくれる様子を見るのも嬉しい。
自分が大切に思う人達が幸せそうにしている様子を見るのは嬉しいもんだ。自分の御腹も幸せに成るしねぇ~(笑)♪
18:50
三崎町を出発。
19:20
横須賀PA(上り)に到着。
横須賀土産を物色。
海苔と葉山牛の佃煮と海苔と鎌倉の蛸の佃煮を購入し神奈川土産に渡す。
写真は撮り忘れた。
19:50
小生の地元、横浜最高峰の栄区の円海山(海抜たった300m)に到着。
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横浜の中心部の夜景を見物。去年の出張でITを案内した中華街~大桟橋界隈を指さし、みなと未来地区とベイブリッジの位置を解説。
一頻り夜景を見て新横浜のホテルへ送り届ける為に出発。
運転中に春に出張来るらしいので遊ぶ計画を相談。此方(コチラ)も間宮直元公の顕彰活動と城マニアの趣味で但馬地方に行く予定が有るので一応、ザックリと訪問予定地を伝え予定の擦り合わせを相談をしておいた。
20:20
新横浜駅近くのホテルに到着。
うむ、留学最初の半年の仲間達とは毎日皆で食事をし皆であちらこちら旅行して廻ったので、IT等初期の仲間と遊ぶと何だか留学中を思いだし面白い。
そして、未だに色んな事を相談する関係であり、ベタベタせず数ヵ月に一度のやり取りでも信頼関係が絶えない位信頼出来る奴。
それでなくても古馴染が訪ねて来てくれるのは嬉しいね。

子曰学而時習之不亦説乎
有朋自遠方来不亦楽乎
人不知而不慍不亦君子乎。

儒教は年長者の失態の責任追求を許さない組織の自浄能力を昨日不全させるばかりか実力主義も認めない年功序列の腐敗の温床で大嫌いだけど、論語のこの一文は気持ち解るかな~。
ITの御陰で有意義な時間を過ごす事が出来た1日だった。
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因みにITの土産は何故か鹿児島の醤油と煎餅だったが、この醤油がイカ刺しに付けて食べたら凄く美味かったので個人的に大瓶で取り寄せようと思う。
ありがとうIT!次は関西か又、神奈川か。又な!

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