歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。
皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪
…と、思って書いています。

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関係先と小生の個人的な信頼関係で了解をとって記事にしているので、転載したい場合は当方へ確認願います。

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、七人塚~上粕屋神社~関東屈指の大城郭糟屋館遺構)←これの続き・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
糟屋舘周辺の散策を終えて洞昌院に戻り御住職に非売品の御守りを授与されてから車に乗り出発、10分程度で次の参拝先の相模国三之宮の比々多神社へ到着した。
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延喜式内社 三之宮 比々多神社
この神社は有鹿神社や寒川神社や大山阿夫利神社等の古社に比肩する凄い場所で、旧境内地からは縄文時代からの祭祀遺跡や古墳時代の豪族の墳墓が多数出土している聖地に存在している。
そこら辺りは以前に紹介記事を書いたので読んで貰えると解り易いかと思う。
以前書いた記事→比々多神社…縄文時代~現代まで存続する神社…神奈川県伊勢原市。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
何でここが古代早くから開けていたかと言えば、目の前を街道が通っており、更に現在の平塚市域等の県央平野部は縄文時代まで海だった影響で湿地帯が広がっており弥生時代に成るまで人が住める場所が少なかったので、現在では大山山系麓の丘陵地帯に位置する比々多神社周辺が人の住める地域だったと言う地形的な理由にも起因している。
そして郡衙が近くに存在していた事も推測されている。郡衙と言っても相模国成立以前の豪族首長が住む小国の国府が起源に成っている訳で、それ故に金環鉄刀やら勾玉やら大量の出土品が出る聖なる土地な訳だ。この一帯は古代人が聖地として崇拝した大山の山頂へ続く参道でもあったので尚更栄えた訳だ。
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この様な場所が神奈川県には多数有り、それ故に仁徳天皇の弟皇子である莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)も古墳時代に現在の神奈川県域に移住して来た訳だ。横浜市本牧や武蔵国南部では軍馬生産が盛んな朝廷の牧場が存在していた事も判っているし、鉄器の製造も比較的早くから盛んな地域だった。
なので天智天皇が馬で山科方面に外出したまま行方不明に成り(暗殺だろう)、弟皇子の大海人皇子が兄帝の天智天皇の子で甥に当たる大友皇子に反逆し軍を率いて蜂起した際に与力したのが東海・関東の豪族達だった。特に現在の千葉県は強大な軍事力を持つ土地だったので、後に上総国下総国等は“親王赴任国”となり皇族しか国守に成れない制度が確立される程だった。
まぁ、天皇家の歴史に関しては各時代の天皇にとって先帝の血筋を武力や陰謀で絶やしたり不都合な事も有って諸説有り正直な所現代ではどの記録が本当の事かは解らない。
まぁ、天智天皇は相模国を重視していたので古代一之宮、今五之宮である有鹿神社で国家鎮護の祭祀を執り行わせ海老名を国府にしたり、古墳~奈良時代の天皇家は特に熱心に神奈川県中央部の延喜式内社や神仏習合の聖地霊場にも関与している事が書物や各神社の伝承から読み取れたりする。
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比々多神社始め神奈川県内の延喜式内社は天皇家が神仏供に大切にした歴史と同じく、神仏習合時代の文化も大切にしているので比々多神社には鐘楼も現存していて、昨年大晦日は除夜の鐘を突かなかったので訪問した正月2日にして心願を込めて比々多神社で鐘を突かせて頂いた。
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寒い1月、境内の焚火が参拝客の手を温めてくれる。
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現在の本殿は古代から戦国時代までの境内地の元宮の遥拝所に当たる位置に存在する。
この比々多神社では御正月に御参りすると横にテントが在り、そこで小さな御守りを無料で授与して下さる。
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御正月の間だけ、臨時の学生巫女さんと神職君が多数雇われており、本殿横のテントでは巫女さんが無料で簡易的な御祓いをして下さり、それが終わると神の護符を授与して下さるんだな。
小生は毎年、これを受領しに参拝している。
参拝を終えて巫女さんに御祓いと比々多神社の護符の授与をして頂き、近くに比々多神社元宮に移動した。
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元宮に行く途中に、古代比々多神社で聖地として大切に守られて来た“埒免(らちめん=囲われた土地=聖域)”の地名が残っていたのに神奈川県教育委員会が保護も事前調査もせずにキリスト教系の恵泉女子学園に破壊容認してぶっ壊した埒免古墳の旧蹟地が在る。
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このキリスト教系大学にも卒業生にも罪は無い。しかし教育委員会には罪が有る。教育委員会は日本文化に無知なキリスト教系大学による神道の聖地の破壊を誘引してしまった訳だ。
この罰当たりな行為のせいか恵泉女子学園は閉校してしまった。これを祟りと感じる人もいるだろう。
でも通った学生さんや働いた職員は例えクリスチャンでも歴史と事情を教育委員会から知らされていたら比々多神社にも敬意を払っただろうし、無碍な古墳破壊もしなかっただろう。
まぁ、こんな神奈川県の教育委員会の罪は比々多神社一箇所に止まらず死ぬ程有って、例えば現在進行形で他府県なら史跡指定受ける筈の続日本100名城の一つに選定されている小机城を開発利権絡みか未だに史跡認定せずに放置していたりする。横浜市最大の蛍の生息地で古代遺跡が大量に出土する地でもある円海山の瀬上沢周辺も東急不動産の開発利権の為に保護を怠り開発容認する発言を林文子市長が行っており、市民から大バッシングを受けている真っ最中だったりする。
更に戦国時代の小田原城の虎口跡の百姓曲輪と、戦国時代初期の関東最大級の規模を誇った扇谷上杉家の大城郭糟屋舘跡の開発許可も昨年、黒岩県知事が陣頭指揮をとって保護すべき所なのに逆に肝腎な城砦遺構残存部分は未調査なまま開発許可が出され現在進行形で破壊の真っ最中だったりする。
昨年は傾きマンションで有名な三井不動産レジデンシャルが、北条家相模十四騎筆頭、間宮家の居城の横浜市笹下城址の伝:本丸と大空堀地形を掘削したり盛土して破壊した宅地化が林文子横浜市長の統治の下で行われ消滅してしまった。
残念ながら神奈川県や横浜市でまともな歴史教養と古来の日本文化と宗教に対する敬意を持っているのは有吉忠一先生や細郷横浜市長や高秀横浜市長くらいだった。
後は博徒系ヤクザ組長の息子が支持者でカジノ作りたがったり海の埋め立て工事の開発利権で建設業界の支持基盤にする市長みたいな売国奴や奸族ばっかりだ。
コイツ等のせいで日本有数の景勝地だった金沢八景の眺望も消されたり、日本有数の霊場だった弘明寺は境内地を大幅に接収されて縮小したり、源頼朝公が開き皇族が宮司を務めた森浅間神社や修験道の大道場だった泉蔵院等も同様の被害を受けて来た。
森浅間神社からは比々多神社同様に古墳が出土している事から鎌倉時代以前から聖地霊場だった場所を頼朝公が修験道系神社として整備させた事も推測出来る。
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現在では埒免古墳のレプリカさえ一般人は近寄る事が出来ず、旧恵泉女学園大学のフェンスの外から写真を撮影する事しか出来ない。
でも元宮は社殿こそ戦国時代の三浦家と北条家の抗争に巻き込まれ焼失したまま復興されなかったが、旧境内地が明治昭和の宗教政策で一般人の土地と成っても徳の高い地元民に守られて旧境内地として存続した。
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近年では元宮の祠(ほこら)がパワースポットとして若者に知られる様に成り(小生の拡散も有り(笑))眺望の良さからも比々多神社参拝のデートコースに成り恋人同士の参拝者を見かける事が多く成った。
少しでも日本文化の役に立ち神格を得て拝み奉られる古代人や歴史偉人に今の日本が有る事と平和を享受出来る事へ恩返しが出来たら嬉しい・・・それが小生の願い。
そして多くの人が神社や御寺を御参りする事で不安感を抑えられたり、生きる活力に成ると嬉しいとも思う。
小生もカップルと親子連れの参拝者に続いて比々多神社元宮を御参りして駐車場に戻ると、次は伊勢原市中心部に在る伊勢原大神宮に向けて移動した。
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伊勢原大神宮伊勢原大神宮は江戸時代に開かれた神社なのでハッキリ言って歴史は薄い。
でも町中の普通の規模の神社としては大変に多くの参拝客で賑わう場所で、境内社の御稲荷様の鳥居も小さいながら立派な明神造りで扁額が掲げられ大切にされ御金もかかっている事が解ったりする。
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伊勢原大神宮は現代では縁結びの神様として有名だが、小生は別の用事が有って参拝した。
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実は伊勢原大神宮の宮司様が延喜式内社高部屋神社(旧社名:高部屋八幡宮)の宮司を兼務されておられる都合で、高部屋八幡宮の御朱印はこちらで授与して頂く事に成っているのだ。
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境内には市の私邸保存樹木の大銀杏が有る。
御正月なので先に参拝した比々多神社同様に巫女さんが沢山いらっしゃって、この日は御屠蘇を巫女さんが振舞って下さった。
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小生は車なので口を付けて終り。でも御口清めれて嬉しい。
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御朱印帳を社務所にお預けし待つ間、ここまで珈琲を飲んだのみで朝食も食べていなかったので屋台で売っていた磯部餅と甘酒を購入し朝食代わりに頂いた・・・この時11時半位だったろうか?
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家を出発したのが3時位だったので腹ペコだった。
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甘酒を飲んだのは久しぶりなのでともても美味しかった。
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境内ではダルマさんの製造元が直売も行っていた。荒井だるま屋さんだな。
気さくな社員さんが色々と詳しい説明をして下さった。創業150年の老舗だそうだ。略、横浜開港と同じ程の歴史が有る訳だな。
神様への御参りを終えて社務所に行くと御朱印も書きあがり受付に準備されていた。
高部屋神社御朱印 久良岐のよし
実は以前、糟屋有季公の顕彰活動で別に高部屋神社の御朱印は受領していたのだが、今回は延喜式内社と式外社専用の御朱印帳に改めて頂に上がった次第だ。
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この日は丁度、箱根駅伝の開催日だったので宮司様の取り計らいで神楽殿のプロジェクターを使って中継の様子が上映されていた。
小生はこの後の訪問予定がギッシリ埋まっていたので、箱根駅伝に後ろ髪を引かれながら伊勢原大神宮近くのコインパーキングに移動し車に乗ると、次の訪拝予定の高部屋神社へいどうした。
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高部屋神社
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高部屋神社は昨年、社殿が国指定有形文化財に認定された神社で、古代から存続する延喜式内社の一つだ。
社殿の周りを取り囲むのは聖なる木、1円玉のデザインにも成っている招霊樹(おがたまのき)だな。
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この神社は明治時代まで古代からの宮司が海まで海藻を採取しに行く塩汲み神事が行われていたが明治の宗教威嚇で一時断絶していたのを150年ぶりに復活さえた。
現代の伊勢原大神宮の宮司様が兼務されているのだが、古代からの神事を現代に復活させる試みは本当ん素晴らしく、神職として日本文化を守る気概に満ちていると思う。
東京新聞の記事→伊勢原の高部屋神社 大磯の海岸で執り行う
以前、小生もこの神事を記事に書いて紹介した甲斐が有ったと思うし、この神事が中絶しても語り継いで下さった氏子さん達には敬意を感じている。先一昨年だったろうか、この古代から続く神事の事を小生に伝えて下さった氏子さん、本当に良かったですね!
以前書いた高部屋神社の記事→
高部屋神社で氏子さん達と「文化財登録おめでとうございます」等と雑談を色々と10分程話し込み、次の目的地であり戦国時代の毛利家の発祥地愛甲郡毛利台へ移動した。

・・・・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤に続く。










 

神奈川県立金沢文庫(博物館)で東京国立博物館に続き鎌倉時代の大仏師“運慶”とその弟子達の作品である仏像御神像が企画展『運慶ー鎌倉幕府と霊験伝説ー』として展示開催中です!
金沢文庫公式 運慶
金沢文庫公式 運慶2
神奈川県立金沢文庫
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この企画展は面白く、個人的には皆さんに時刻方位を表した複数の干支を冠した守護神像に注目して頂きたい所です。
昔も今も見事な仕事をする職人もいれば、適当な仕事をそこそこしてヒューマンスキルだけで出世するカスもいるんだな~(笑)なんて❝昔の僧侶の粗探し❞を出来たりします(笑)。
実は方角と時刻を示す守護神(仏)像、頭に方角と時刻を表す干支が彫られており素晴らしい造作の彫刻で迫力も躍動感も有る製作した仏師の気概と仏様の魂を感じる様な木製彫像なのですが…
この仏像群に相当する方角干支を定めた解説書を描いた昔の僧侶が適当な人物で“仏像のポーズ”だけを適当に見て方角守護仏として確定してしまい、仏像の頭の冠に掘られた動物と方角がアベコベに混乱してしまっていたりします(笑)。
この僧侶に限らず、各時代に適当な役人や僧侶神官と言うのは昔から居た様で、特に教養の低かった徳川家臣団が江戸幕府運営をハチャメチャにしていた江戸初期等は寺領社領の保証の為に発行する朱印で寺社名を誤記したまま朱印状発給してしまったり・・・
江戸後半に編纂された“寛政譜”や“寛政重修諸家譜”等の幕府発行の公文書でも武士の家系図で採用している各時代の武将の名前が誤記だらけだったり、戒名と法名と雅号の区別すら出来てない担当筆者の低教養が現代に晒されていたりします。
まぁ、だから徳川幕府は肝腎な役割は旧北条家臣団や旧武田家臣団じゃないと運営できなかったんですけどね、徳川家ってのは幕府開くまで統治力がとにかく低く領内で内戦と離反ばかり起きていましたから。吉宗の頃までは目安箱すら無く譜代旗本の領地では不正課税が横行したり目茶目茶でした。その幕府も混乱した初期からの脱却は旧北条・武田家臣団に頼り美味い所を搾り取ってポイして、幕末に混乱すると再び旧北条家臣団の子孫達に頼る幕閣ってなんなんでしょうね(笑)。
ついでに言えば昔、❝東の正倉院❞と渾名されたのが、今回の企画展を行っている鎌倉時代から存続する❝金沢文庫❞なのですが、ここから多くの寺宝や古文書を横領した挙句の果てに管理不行き届きで此の世から消失させたのも徳川家でした。
・・・とは言っても戦乱を終わらせて庶民が文化を成熟させる時代を齎した功績は素晴らしく、物事は一つの側面から見える事が全てでは無いと言うのが解るのが徳川家と幕府の歴史と今回の企画展の十二神将なんですね。
今回の企画展『運慶ー鎌倉幕府と霊験伝説ー』は、そう言った風に方角守護仏の冠とイイ加減適当な仕事をした先人に誤確定された方角と仏像の冠の干支の不整合を見て・・・
「あぁ~先人の中にも三井不動産レジデンシャルの傾きマンションや消えた年金問題と同じでイイ加減適当なフザケた仕事する奴がいたんだなぁ~」
・・・と言う目で見学したり・・・
「あ~、昔の本当に魂を込めて仕事をしていた人達は何と素晴らしい事か」
・・・と、一つの物からを二つの視点で見る事が出来たりするとても面白い展示と言うのが個人的な感想です。
金沢山稱名寺
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隣は美しい二重橋のかかる、真言宗律宗別格本山の高い格式を持つ❝金沢山稱名寺❞も在り合わせて散歩すると良いですよ♪
小柴の丼屋
小柴の穴子天丼と小柴の蝦蛄刺身 久良岐のよし
近くには美味しい金沢(かねさわ)名物の穴子を食べれる❝小柴の丼屋❞や・・・
喜多屋
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・・・与謝野晶子達も歌会等を開いた料亭金沢園から旅館&カフェとしてリニューアルした❝喜多屋❞も在ります。
是非、この機に周辺散策と合わせて企画展『運慶ー鎌倉幕府と霊験伝説ー』を見学しては如何でしょうか?

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
洞昌院で御住職に新年の挨拶をし太田道灌公の御位牌を拝ませて頂く許可を頂き、御位牌で太田道灌公に御挨拶。その後に道灌公胴塚御廟にて、太田道灌公を供養した北条早雲公と万里集九禅師にも改めて道灌公と合わせて新年の御挨拶と、歴史オタクとして社会の役に立てる様に心願成就の御加護を御願いしたりした後の続き・・・。
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洞昌院の周辺は神話時代に当たる縄文~弥生時代からの祭祀遺跡やら古墳時代の墳墓が沢山発掘されていて、それ等の聖地を昔は境内地として守っていた神社やら、早くから人が住み着いた耕作地帯であり交通の要所でも有るので室町幕府鎌倉公方家の重鎮で関東管領も務めた扇谷上杉家の本拠地も一時、この直ぐ近くに置かれていた。それが糟屋館だな。
せっかく洞昌院に参拝したので、散歩がてら周辺の神社や史跡を散策する事にした。
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道灌用水と言われる。今、空堀と伝わる地形・・・
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
この用水路は空堀の在る洞昌院側の台地に存在するのだが、実は元々、この水源は外堀側に向かって流れていたそうだ。それを上流で空堀側に流し湿地化させて沼堀として機能させていたそうだ。
これは現地を歩かず民話を取材しないメジャー文献テンプレ学者は知らん事なのだが。扇谷上杉家臣の太田流の築城術の特徴は周りが沼地の台地を選んで城を作る、もしくは水を引き込み堰堤を作り水を堰(せ)き止めて強制的に沼地にするんだな。
これは扇谷上杉家の戦国時代以前の本拠地だった大庭城や、扇谷上杉家が乗っ取った佐原三浦家つまり三浦道寸公の本拠地だった伊勢原市~平塚市に跨る巨大城塞の岡崎城なんかがこの全てこの構造だった。太田道灌公の御父君の道真公が縄張りした川越城も、太田道灌公が江戸家から接収して改修した江戸城も同じ立地だな。
ついでに言えば旧扇谷上杉家家臣大森家の本拠地だった小田原城も小田原北条家によって総構えが建造される以前から湿地に囲まれる要害だった。
[小田原城]
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[江戸城]
江戸城
[川越城]
河越城縄張り図
[岡崎城]
岡崎城主要部分縄張り図
それに合わせて喰い違い状に屈曲させた大空堀で丘陵上に堀切と土塁を築くのが大庭城や長尾台城や高月城にも見られる構造で、この3城は地形も糟屋舘大城廓に似ている。
※以下日本城郭大系より拝借。
[大庭城]
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[長尾台城]
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[高月城]
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糟屋館跡は昭和の農地改良で見事なまでに台地上の遺構は削平破壊され土塁は削られ堀は埋められサッパリ解らなく成っている、が!この喰い違い構造の名残りと思しき物が上の画像で糟屋館の立原で不自然な直線がクランクしている農道が拡張されて道路だろう。
扇谷上杉家糟屋館地形 久良岐のよし
そして、この糟屋館の規模は神奈川県教育委員会は❝故意にか?❞言及しないが関東での戦国時代における城郭として、小田原城>岡崎城=江戸城=糟屋館=滝山城>河越城と推定城域が同程度の規模が有る名城なのだ。山内上杉家に糟屋館が狙われた際は、この城を守る為に扇谷上杉定正公は出張先から200騎だけの手勢だけで自ら危険を冒(おか)して急行し、1000余の山内上杉軍の先手を迎撃、撃破している・・・これが実蒔原合戦と呼ばれる扇谷上杉定正公が戦上手と呼ばれる所以の勝利なんだな。
まぁ・・・ここを守る間に弟の扇谷上杉朝昌公の守備する厚木丹沢方面の要所の七沢城は救援出来ずに失陥しているんだが。
この糟屋館と“館扱いされている”台地と周辺の寺院や外郭を含めた日本で最先端の❝平山城形式の大城郭❞は扇谷上杉家にとって重要な場所であり、佐原上杉家没落後に相模守護代と扇谷上杉家執事を兼務した太田道灌公が公務を行ったのが洞昌院であり主家は糟屋館にいた訳だ。
本来ならば規模からも歴史的意義からも伊勢原市役所に任せる様な場所では無くて“文化庁が介入すべき案件”であり“黒岩知事御自身が破壊容認する前に陣頭指揮を執って神奈川県庁が発掘と保護と公園化すべき場所”なんだが。
まぁ、そんな訳で洞昌院一帯を散策すると神奈川県と黒岩知事が認めず公表しない城跡と、古代からの神社が有るので散歩には事欠かないし伊勢原は大山の御膝下なので空気が綺麗で清々しい。
洞昌院から糟屋館の馬攻口へ向かって歩いて行くと、途中に七人塚が在る。
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七人塚CIMG6155
この七人塚は太田道灌公の忠臣達が一部のアホの歴史学者の不見識を暴露してくれる場所でもある(笑)。
大田道灌公は湯殿入(地名)側から馬攻口を降る道すがら、宿舎の洞昌院の塔頭寺院に向かう途中で主君の扇谷上杉定正公の手勢に襲撃された。風呂に入ってる最中に殺されたって通説は大間違い(笑)。
因(ちな)みに虎口ってのは小口が転訛した言葉でとどのつまり、敵勢を殺す機能を持った城門や通路の事だな。
一部のアホの歴史学者が「太田道灌公は湯殿入りで襲撃された」と言う記述を「入浴中に襲撃された(笑)」と頓珍漢な解釈をしているが、コイツ等は如何に現地取材をしていないかが良く解る(笑)。
❝湯殿入り❞ってのは郵政法制定以前に残っていた地名の字(あざ)の小名(こな)で台地上、空堀近くの地域の地名なんだな。
糟屋舘大城郭の虎口に当たる辺りの湯殿入り、つまり湯殿入りってのは糟屋舘の湯殿方面の虎口な訳だが、主君との面会を終えて宿舎の洞昌院の塔頭へ帰り際、その城門か食違い虎口の中で太田道灌公は恐らく弓矢で襲撃され一先ず堅固な洞昌院に瀕死の様態で逃げた訳だが、その時に自らも傷を負いながら主君の太田道灌公を逃がす為に追っ手を迎撃妨害した7人の忠臣達が眠るのがこの7人塚な訳だ。
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こうやって正しい事件の全貌を辿らせてくれる場所に眠る忠臣の名も伝わらない武士達に敬礼の意味を込めて参拝した。
七人塚の直ぐ近くには凄く立派な参道が残る上粕屋神社が在る。
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上粕屋神社CIMG6147
冬に来たから立派な木々の参道しか目に付かないが実はあの参道は桜の木々で春にはとても美しい景色に成る…
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・・・ほらね?だから皆さん、洞昌院一帯をお散歩するなら春が御薦めなんだな。
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この地域は“山王”と呼ばれる地区なのだが、現代では上粕屋神社と呼ばれるこの神社は本来は神仏習合の山王権現だった。
大同弘仁年間(大同806~810年、弘仁810~824年)に開かれた神社で、つまり延喜式式外社と成る古社な訳だ。延喜式神名帳に掲載されなかったのは山王❝権現❞として神仏習合のどちらかと言うと天台宗に近い修験道の道場だったのだろう。この小生の推測を補強するのが新編相模風土記稿に掲載されている方の異なる上粕屋神社の縁起で、そちらでは天平年間(729~749年)に良弁大僧都(だいそうず:超エライ和尚さんの役職)が開いたと伝わる。
恐らく上粕屋神社の始まりはこうだ・・・
良弁(ろうべん)和尚は東大寺を開いた歴史偉人だが、この伊勢原市を聖地として密接に関わり訪問している。伊勢原市の大山は現代では国定公園だが、古代からの聖地で大山山頂には神の化身の岩が祀られ縄文時代からの祭祀遺跡が出土する聖地なのだが、そこを守っていたのが大山寺石山権現大山阿夫利神社なんだな。
良弁の滝 Googlemap 久良岐のよし
そして大山には良弁大僧都が滝行を行った場所も今でもあるのだが、良弁大僧都は華厳宗の僧侶なのだが日本神話や聖地霊場を後の空海和尚様や蘭渓道隆和尚様や道元禅師同様に大切にされた人物の様だ。
だから大山にも来たし、上粕屋神社の前身の山王権現の更に前身と成った霊場を開いたのだろう。そして、その霊場と成った所縁の古墳や古代からの祭祀場が一帯には存在したのかも知れない。
もっとも、良弁大僧都がこちらにいらした理由は現実的な理由が大きかった筈だ。行基大僧正も近く八菅神社七所権現を天皇家勅願所に定めている・・・
古来、伊勢原市大山や愛甲郡愛川町八菅山は自然信仰と神話の聖地として古代豪族や天皇家から崇拝され祭祀が執り行われたので“寄進(きしん=浄罪=金銭宝物)”も集め易かった訳だ。良弁大僧都と行基大僧正には金が、こと銅銭がこの時期必要だった。
・・・即ち東大寺の造営と東大寺大仏の建立だな。つまり伊勢原市大山や愛川町八菅山は行基財団の重要な拠点として機能していたのだろう。多分ね~(笑)。
そして上粕屋神社の始まりは恐らくこうだ・・・
伊勢原市周辺聖地史跡MAP 久良岐のよし
・・・現実的には目の前を旧大山街道が通るので、大山参詣の宿泊所として良弁大僧都が草庵として天平年間に開いて神様を祀っていた場所に、後に大同年間に天台宗系僧侶が大山詣りの修験道場や宿坊として運用する様に成り、比叡山の山王権現日枝神社を勧進したと推測すれば風土記と伝承の矛盾が解消され極自然な成り立ちと成るだろうとも思う。
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境内には立派な楠木も在り、参拝客に歴史を感じさせてくれる。
この上粕屋神社が大山詣り参道の脇の宿舎だったと推測する理由はもう一つある・・・
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神社の裏は糟屋館の空堀なのだが、この神社一帯が糟屋館の裏口、馬攻口だからだ。
堀は戦国時代当時は堀底道として機能していただろう。
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今でも食違い状に道がクランクしている。
そして糟屋館の台地~上粕屋神社の山王地区の台地には引橋(ひきはし=戦時に収納できる橋)が架かっていたかもしれない。
恐らくこの道は戦国時代から存在する道なのかも知れない。今も糟屋館の台地から続く比較的太い道が有り、近年開削された道も直ぐ近くを通る。
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上粕屋神社裏から堀底に続く道。これが道より以前の本来の“古代の道”だろう。
アスファルトの道は恐らく引橋で連結されていたであろうと小生が推測する理由は、台地と台地の同じ高さで連結出来る高さに合わせ開削されているので橋を架ける前提の構造なのだ。だから城砦化されて以後の道だと思う。
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降りて来ると空堀に出る。空堀を進んできてから上粕屋神社側一度登り、引橋を渡って湯殿入り虎口に入る構造だったのだと小生は現地を歩いて推測している。
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今では道路が大空堀を断ち切る様に有るが、これは後の人によって盛土されている事が明治時代の地形図を見ると未だ存在していないので良く解る。
迅速測図 上粕屋神社周辺 久良岐のよし
まぁ、そんな訳で小生はここに引橋が在ったと推測する訳だな。
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正月2日目、畑地と成った大空堀には霜が降りていた。
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ここを過ぎると食い違う道、そして右手には削平地が永遠段々に続く。これは城マニアが見るとどっからどうみても食違い虎口を開削して広げた道だろう。そして削平地は帯曲輪群が畑に成った物だろう。
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扇谷上杉家糟屋館大城郭址現在、黒岩知事に由る糟屋館大城郭は県道バイパス建設中で金網で仕切られ入れない場所が多いが、“城跡が現存するのは台地上では無く側面の崖地”なのでグルッと廻れる所まで周って見る事にした。
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小生が子供の頃にも伊勢原の義叔父の家に遊びに来ると、こうして畑の農道を散歩し田圃の用水路でザリガニ釣りをしたもんだ。
金網の範囲外でも結構歩ける場所が有った。
まぁ、大人に成ってカメラ持ちながら歩くと有るわ有るわ城の遺構。
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武者走り。
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破壊真っ最中の外堀側にも土塁が残っている部分も結構ある。
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黒岩知事が破壊承認した外堀を見下ろす農道に成っている武者走り状の地形。
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その下にも帯曲輪群が沢山現存していた。
実は2016年に神奈川県は道路建設による破壊に伴って“名目的に発掘せねばならず”発掘調査を行ったのだが、これが笑い話にも成らない発掘チーム編成で、発掘したチームの中には“1人も城郭専門家が含まれていない”まま行われた。結果的には当然、彼等が地形を見ても城の構造を理解出来る訳も無く、肝心の側面の帯曲輪群と武者走り群、そして彼等が自然地形としか認識できなかった城マニアが笑う(笑)顕かに裾切りされている地形は一切報告されていない。
「あれ?学者じゃない小生が歩いても沢山有るんですけど?巨大な城だった遺構が(笑)?」
これは考古学のチーム編成で発掘調査させた“神奈川県教育委員会が故意に城の専門家を入れなかった”んじゃないかと小生は容疑をかけている。
小生の推測通りならば極めて悪質だと思うし、巨大な城の存在なんて知らなかったんなら教育委員会は不見識で大学生からやり直した方が良いし、道路建設に伴って掘削しコンクリ擁壁で破壊する心算で故意に触れていないなら黒岩知事と教育委員会の担当者と開発担当者と土建屋には扇谷上杉定正公と太田道灌公と実蒔原合戦戦没者の英霊御霊の祟りと山王権現と大山祇神の天罰が落ちるかもな・・・なんてな(笑)。
まぁ、本当に黒岩知事や配下の役人が故意に城郭専門家をいれなかったんなら祟りに遭うだろう。
太田道灌公は北条早雲公と万里集九公によって神格として勧進され、現代では神様に成っている人物だし、扇谷上杉定正公も武勇采配に長けた歴史偉人なのだから御霊は“神道的な考え方ならば”荒神様として御神威が在る訳だ。
まして、ここを開発してる連中は地鎮祭すら行ってないし、太田道灌公にも扇谷上杉定正公にも御参りしてない訳だ。
・・・まぁ、神仏に天誅受ければ良いさ。天誅ってのは自分の心の中から沸いて来てとんでもないミスや事故を引き起こしたり、注意力が散漫に成って隠していた不正が露見したりする事にも繋がるからな。
確か黒岩知事は創価学会だったはずだ。彼は日蓮聖人の聖跡を歩いた事があるのだろうか?
日蓮聖人は非常に日本神話を大切にされ先人を尊敬していた人物として、日蓮宗以外の僧侶や神職の人々にも知られている。千葉神社を信奉し妙見大菩薩=天皇家を守護神と崇め、八幡大菩薩の御神威を崇拝し命を長らえた人物なんだな。そして立正安国論ってのは神仏への理解と愛国心から鎌倉幕府北条政権に提出された物だった訳だ。
神に成った東京横浜に所縁深い歴史偉人太田道灌公が大切にした場所、主の扇谷上杉定正公の御霊が坐す城跡を無かった事にして、そのまま破壊すれば、更に日蓮聖人も御怒りに成るだろうな。
・・・まぁ~、開発の認可を出した政治家と役人と業者が不幸に成ろうが小生には知ったこっちゃないので別に良い。大城郭糟屋館の遺構が存在する事実と破壊時の為政者の悪名と企業担当者氏名を個人的に記事にし公開したり関係先の神社仏閣の檀家サンや氏子サンと共有し子子孫孫まで伝え、末代まで黒岩家や担当者の子孫達に祖先の悪名を晒すだけだな。
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糟屋舘の台地から洞昌院へ向かって戻る途中、江戸時代の関東の人々が伊勢神宮、富士山、江の島と並び死ぬまでに行って見たいと人気の観光地化した聖地だった大山が綺麗に見えた。う~ん、太田道灌公も崇拝していた大山祇神様がいつも神奈川県民守ってくれてるんだな。

蟠龍山洞昌院公所寺に戻ると、小生の姿を見かけた御住職が出て来られて「ちょっと待ってな!」と小生に声を掛けて下さった。
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そして非売品の洞昌院の御守りを授与して下さった。何だか御住職を介して太田道灌公に正月参詣の御褒美に護符を頂いた様でとても嬉しかった。
駐車場で車に乗り込むと、次の目的地で毎年参拝している聖地、比々多神社に向けて出発した。
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ここから又、神社巡りに復帰する。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先④に続く。









前回の休日雑記→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先①・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、永谷天満宮、円海山、有鹿神社編、八菅神社編)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
・・・日本武尊によって開かれた明治以前まで修験道が管理した日本神話の聖地の八菅山七所権現こと、現在の愛甲郡愛川町八菅山に在る八菅神社を参拝し正月2日目にして日の出を拝んで出発した所からの続き。

八菅神社から車で20~30分も走ると次の目的地に予定していた華厳山金剛寺に到着する。
市を跨いでいるけれども旧愛甲郡の郡内を移動している上に正月早朝の田舎道なので渋滞どころか余り車とスレ違う事も無く順調に到着した。
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冬に来てもパットしないが此処(ここ)は桜の名所として知る人ぞ知る場所で、近所にも温泉が有り桜の季節には背後の飯山観音と合わせて桜鑑賞を兼ねて散策に来る客が多い。
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華厳山金剛寺
春には同じ参道の景色も全く違って見える場所。
歴史は古く、弘法大師空海和尚様が修行の為に滞在した草庵が寺の起源に成っている。でも現代人は余りこの御寺が凄い事を知らないし、神奈川県民でも存在すら知らない人が多い。
早くから宗教的な集落として開かれたので、鎌倉時代には養蚕が盛んな土地に成っており有名だった。
そして、ここを鎌倉時代に支援した武士が有名な安達盛長公で、この武士は源頼朝公の秘書官兼ボディーガードの様な役割を担っていた人物だった。安達家は鎌倉市街で発生した宝治合戦では当時最強と言われた三浦武士団を圧倒する戦上手振りを発揮し北条家の執権体制を確固たる物にし、結果的に元寇で日本を守った北条時宗公を執権にせしめた日本人にとっても功臣と言える偉人一族だな。
無論、その鎌倉幕府樹立の一番の功労者である三浦家がいたので現在日本が有る事も忘れてはいけない。だから小生は源氏将軍家も執権北条家も三浦武士団も安達家も其々の偉人を尊敬している。
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現代では金剛寺は衰退し別寺院の御住職の兼務と成っており庫裡には管理人サンが御住いだが農村部で過疎化が進み山門の修復も行き届いていない。
厚木市の財産と言える御寺なんだけれどね。
この山門の横には御墓が在る。
普段は御墓や御廟所の写真は殿様を盗撮する様な行為だと思っており掲載しないのだけれど・・・
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・・・大変に重要な御寺の実情を知ってもらう為にも殿様に失礼して御力添え頂こうと思う。
安達盛長公の物と伝わり、3年前だったろうか檀家サンと御話しした際もやはり、その様に伝承している事を説明して下さった。
盛長公の戒名も現代に伝わっており“盛長院三空道無大居士”と記した御位牌も有るそうだ。
源頼朝公は神道と修験道と真言宗と法華宗を支援した方なので、安達盛長公も当初は真言宗寺院‟だった”ここを大切にしたのだろう。
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御寺の寺紋は足利家の❝二つ両引紋❞、鎌倉幕府滅亡後は恐らく室町幕府の鎌倉公方足利家によって支援されたのだろう、学問所としてそれだけの重要な寺院だったから、しかし・・・
もしかすると、安達盛長公の法名が❝道無❞と成っている事から、源頼朝公の亡き後は北条家と縁戚の安達家は臨済宗に改宗していたかも知れない。
❝道〇❞と言うのは鎌倉で興隆した臨済宗の信徒が用いる法名だからな、有名な大田道灌公や同時代の横浜の間宮家の間宮道圓公がその代表例だ。因みに二人とも戦国時代初期の関東の武将だな。
・・・実は戦国時代に突入する契機と成った上杉禅秀の乱で最後の鎌倉公方足利持氏公と犬懸上杉家上杉禅秀公が対立した合戦や、後に残忍な人物として有名に成る室町幕府クジ引き将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏公の対立した事から永享の乱が勃発すると、現在の神奈川県央部一帯から横浜市域まで広大な範囲が戦場に成ってしまった。
その後も扇谷上杉家と山内上杉家が直ぐ近くの七沢城や糟屋館で合戦を行って荒廃した時期が有った。
・・・そんな度重なる戦乱で荒れた後に戦国時代に北条早雲=伊勢盛時公と北条氏綱公の頃に愛甲郡一帯が小田原城主北条家の勢力下に組み込まれた際に北条家の支援を受けた様で、北条家の宗旨である曹洞宗寺院として再興開基された。もう、この頃には真言宗時代と同じ学問所としての機能は消失していただろう。
小生は伊勢原市の比々多神社にもここ数年間初詣を行っているので、八菅神社からの途中に在る金剛寺を素通り出来る筈も無く、弘法大師様と安達盛長公と釈迦牟尼仏様に御参りに来た訳だ。
山門の手前、参道左手には真言宗時代からの大切な御堂が神奈川県教育委員会が保護もせずに放置しておりボロボロに成っている。
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大師堂だ。
もう名前で解ると思うが、ここは弘法大師様が開いた草庵の場所で大同年間(806~809年)に現在の御堂が建てられ、弘法大師様が自らの容姿を写して木造を彫ったとか彫らせたとされる大師像が“散々な状況のまま”祀られている。
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今は御経をあげる仏僧も参拝者も来なくなったが、昔のままの御堂の中で弘法大師様が自ら手彫りされた御影彫像が周辺の人々を見守っている。
その左側には閻魔様=ヤマ(ヒンドゥー教の冥界の神様)と・・・
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右側には武将だか御公家さんだかの彫像。
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・・・前から思っていたのだが誰(笑)
この絶対に偉い人(笑)?家紋も見た事ない家紋で解らない。安達盛長公だったら御寺の由緒的にも自然なんだが眉毛が「麿(まろ)でおじゃる」とか言いそうな人なんだよな。でも公家にしては威厳が有る。

時代劇の“柳生一族の陰謀”に登場する烏丸少将みたいな人なら貴族でも納得なんだが(笑)。
日本に仏教文化の礎の一端を齎した歴史偉人であり日本神話を大切にする空海和尚と非常に関連深い御堂と大師像をこの様な環境に放置するのは正直、如何な物かと思う。これは曹洞宗云々と言うよりも県の教育委員会の保護意識が低く県の文化財指定を受けれない事や明治時代と第二次世界大戦敗戦後の宗教弾圧が関係していると思う。
昔の人は歴史を知っていたので神話の祭祀場後も自然信仰の聖地も神様も仏様も全部古代からずっと江戸時代が終わるまで大切にされたが、明治時代にプロテスタントと密接なキリスト教徒の政府高官達が教育改革と宗教改革を担当したせいでプロテスタントが自然崇拝と偶像崇拝を否定するのと同じように、明治に成り成立した国家神道では古来の神道の自然崇拝と仏教哲学は否定された上に神社の御神像は廃棄され、歴代多くの天皇が支援した自然崇拝の修験道は禁教にされ神社では御神鏡を御神体とする事が義務化された上に、仏教施設祀る神様も強制的に分離させられた。
この時に多くの文化財が日本から失われた。
そして社領寺領と言う収入減を取り上げられ衰退した場所が多い。
丸で戦国時代のバテレンの宣教師が豊後国で大友宗麟にやらせた寺社破壊を彷彿とさせる大惨事が明治時代に起こっていた訳だ。
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この金剛寺も同じく寺領を取り上げられた上に塔頭寺院は神社に鞍替えしたり、神社化したので御堂に安置出来なく成った寺宝の“仏像”を当時の宮司に成った人間が持ち去って自宅で私物化したり、もう悲惨な事に成った。
更に敗戦後の宗教政策で県がハチャメチャな地元民の勝手な土地登記を認めて御寺の境内地が勝手に切り取られ乗っ取られ縮小した。
これは日本全国の神社仏閣で起きた大惨事だったんだな。特に神社は社領が乗っ取られたり武士階級がいなくなった事で小さな神社は支援者を失った上に、一村一社と言う庶民の信仰を集めた町中の神社を破壊する政策が成立され、それまでの各村の中の各地域で姓を同じくする一族の固まっている場所の氏神様の祠なんかが破壊対象にされて名目的には“合祀”や“習合”と言う言葉で誤魔化されて丸でキリスト教会の様に村の比較的大きな神社に集約され庶民が集まる形の信仰に模様替えされてしまい、逆に日本人と神様の距離が遠くなってしまった。そして御寺も悲惨な事に成った訳だ。
金剛寺の境内は現代でも町中の並の普通の寺院よりは比較的広い規模だが、元の広大な関東有数の仏僧の学問所として機能した頃の金剛寺からは考えられない程狭い境内地に成ってしまった。
実に開発利権の政治家と土建屋に都合の良い状態だな。そう言う目的も有っただろう。
京都市内の神社仏閣も大分と、この宗教改革で被害に遭っている。
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例えば京都の御土産購入スポットとして有名な錦市場近くの西京極商店街にある錦天満宮だが…
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境内地を乗っ取られたり接収されたりして石鳥居がビルに食い込む惨状。
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・・・錦天満宮の直ぐ近所の華嶽山東北寺誠心院も和泉式部と多くの人がその名を知る平安時代の才女で女官の歴史偉人の菩提寺なのだが錦天満宮と同じ悲惨な有様。全く明治時代のキリスト教派政治家の罪は重い。
そして多くの神社が戦後に、この金剛寺や錦天満宮と同じく有象無象の輩に土地登記を勝手にされ社領を乗っ取られたり、市に接収されたりした。
神奈川県には江戸時代まで誇張抜きで日本有数の聖地だった場所が有る・・・
愛甲郡愛川町“八菅山”と、伊勢原市‟大山”だ。こちらも神仏習合だったので弾圧の対象となり歴代天皇や将軍たちから支援され数十の社殿や御堂で満ちた山は荒廃してしまった。
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・・・そんな歴史を辿れる場所が、この金剛寺の大師堂な訳だ。
真言宗だった当時の名残で御堂を取り巻く様に石仏群が鎮座しているが、やはり粗末な扱いを受けている。本当、神奈川県か厚木市は白山温泉の金剛寺大師堂と御堂の仏像を調査して文化財指定出来ないか検討して欲しい。
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弘法大師様と安達盛長公に丸2年ぶりの御参りをしてから、御本堂に向かった。
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足利家の家紋だな。
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まぁ、散々プロテスタントと英米批判したのでフォローしておくと、英国が戦艦三笠を売ってくれたり東郷平八郎元帥の留学を受け入れて下さったので日本は明治時代にロシア帝国の植民地にされずに済んでいる。
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英国は日中開戦前夜も日米開戦前夜も仲裁に奔走していてくれた事実も有る。
それにアメリカの軍人サンは、日本軍人を非常に高く評価していて下さった。だから戦艦三笠の存続もニミッツ元帥達が中心と成って保護活動が広まり欧米社会の支援を受ける事も出来たんだな。
当然ながら敗戦からの復興にODAを注入してくれたのも欧米だ。
生麦事件を契機に江戸幕府に難癖付けて脅迫し慰謝料を脅し取ろうとしたのも英国だが、日本の近代化を支援してくれたのも英国、日本人を結果的に一番評価してくれた白人国家も英国だったんだな。
そして宗教改革に失敗した明治政府だって、経済改革と近代化を見事成功させ、階級差別を撤廃し法治主義を浸透させ見事に日本をアジアを代表する押しも押されぬ先進国に変貌させた訳だ。
・・・物事には万事一長一短有ると言う事だな。
御本堂でも釈迦牟尼仏様に御参りしてから次に七沢城址を目指すべくカーナビで目的地設定し出発した、とここで問題発生・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
小生が実際に当日廻ったルートに七沢城は入ってない。実は小生の自動車企業純正カーナビが実にフザケタ無能な物で、iPod繋げればバグるわ~、首都高乗れば変な出口で降ろそうとするわ~で実に仕えない。そして又、やらかしてくれた。
・・・遠回りして目的地を行き過ぎる誘導しやがった(笑)!
金剛寺から丹沢方面経由で行けば直ぐに行けるのにカーナビの通りに走ったら、何故か遠回しされ伊勢原まで来てしまった。
七沢城周辺位置関係
小生は織田信長公や徳川家康公や北条早雲公等の歴史偉人を崇敬しており毎日神様仏様と等しく拝んでいる。その中には横浜や神奈川県と関係の深い無敗の名軍師で築城家で高い教養の持ち主として有名だった太田道灌公も含まれるのだが、本来向かおうと思っていた七沢城址は太田道灌公を殺害した主君の扇谷上杉家の持ち城で城主も当主の扇谷上杉定正公の実弟の上杉朝昌公だった。
そこで思った・・・
「あ~太田道灌公や神様仏様が“ソッチ行くな”と言ってるのかも知れない(笑)」と、道を逆戻りするのが面倒なので勝手な解釈をして(笑)、反対に予定に組み込まれている伊勢原市三之宮比々多神社と途中に在る太田道灌公の菩提寺の洞昌院に正月の参拝に行く事にした。
洞昌院の正式名称は蟠龍山(ばんりゅうさん)洞昌院(どうしょういん)公所寺(ぐぞじ)と言う。
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蟠龍山洞昌院公所寺
ここは正に太田道灌公が生前に相模守護代として主君に代わって政務を行っていた御寺なので公所寺と言うのだろう。
・・・そして大城塞の糟屋館で主君に面会してから帰路、城の虎口で襲撃され、深手を負ったまま逃げて来てがたまたま御寺の山門が閉まっていて力尽きて息絶えた現場。御寺の境内では無く小生が写真を撮影している場所が太田道灌公が絶命した、その場所なんだな。小生の尊敬する先人の1人が絶命した現場。
詳しい事は御住職から御教授頂いた寺伝や現地の地名を含めて以前書いた解説記事が有るので、其方(そちら)を読んで頂ければ解り易く、江戸時代に現地訪問も取材もせずに適当に書かれ通説の解釈が誤りで有る事もスパッと御理解頂けると思う。
コレ→【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
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さて、現在の山門代りの石柱の横には立派な枝垂桜が有り、近くの上粕屋神社の桜並木や糟屋館と合わせて春には良い歴史散策の散歩コースと成るが、現在、太田道灌公を暗殺した主君の扇谷上杉家の居城だった糟屋館の巨大な城砦の舌状台地は神奈川県の黒岩知事による破壊の真っただ中に晒されている。
新東名に接続するバイパス工事で壁面の帯曲輪群や土塁が城跡認定されないまま既に掘削開始されているんだな。
昨年、発掘調査結果が出たが発掘調査した学芸員サン達の中には意図的にか城郭の専門家はおらず、調査報告の内容も既に農地改良された削平地の“道の跡しか無い”と言う事に成ってしまった。
実際に城好きが歩けば一目瞭然、彼等素人が❝自然地形❞と勘違いした大空堀は明らかに裾切りされているし壁面は帯曲輪や武者走りが沢山残っていて更には一部土塁も有るのに、故意にか解らないが調査対象から外されていた。伊勢原市サンの方では県の事業なので横槍も出せない状況なんだな。
・・・だから、カーナビに任せて遠回りしてコチラに来させられたのは「正月の間に城址の残存地形探して写真撮っとけ!」って太田道灌公に言われた様なもんなのかな?とか思ったりした。
・・・まぁ、車の純正ナビがクソ性能なだけだけど(笑)。有る意味丁度良かったのかも知れない。
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太田道灌公をリスペクトしていたライバルの北条早雲公が伊勢原市や厚木市一帯を支配地域に組み込むと、太田道灌公の親友だった万里集九と言う禅僧文化人を招待して太田道灌公の菩提を弔った。
北条家は曹洞宗に帰依していたので当然、こちらも復興される際は厚木白山温泉の金剛寺と同じく曹洞宗寺院に成った様だ。御住職の御話しでは建長寺で学問を治めた太田道灌公の御存命時は太田家所縁の寺らしく臨済宗だったそうだ。そもそも“道灌”の“道”は臨済宗に多い入道号だからな。
御住職様と面識が出来て以来、太田道灌公の文書で解った事の報告に来たりローカルな情報を色々と御教示頂いたりしているんだな。だから御正月に太田道灌公の御霊と御住職に挨拶差し上げに来れたのは有る意味幸運だったのかも知れない・・・ぽんこつカーナビの御陰(笑)?
2015-11-25-15-13-16
御本堂には太田家の太田桔梗紋。
庫裡に行く前に本堂で金剛寺に続いて釈迦牟尼仏様に改めて御参りしていたら御住職様がヒョコっと横から出て来られたので、はからずも立ち話しをする事に成り、そのまま新年の御挨拶をしたのだが・・・「太田道灌公の論文を週刊プレイボーイが掲載し写真使用許可の挨拶に来て読んだけど面白かったよ」
・・・と、まさかのグラビアとゴシップ中心の雑誌(笑)で真面目な太田道灌公がらみの記事が掲載された事を知らされた。全く縁の無い方面の雑誌なので意外だったが、やはり実際に色んな人に有って話をして回らないと自分だけで取捨選択する情報と言うのは偏りがちになるので幅が広がらないな。
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暫く話し込んで、再度新年の挨拶をしてから道灌公の御位牌が安置されている霊廟(歴住の御廟も兼ねる)への参詣許可を御住職に頂いた上で御堂の扉を開いて先ずは御位牌に新年の挨拶をした。
中には❝洞昌院殿心圓道灌大居士不退位❞と書かれた位牌が安置されている・・・
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つまり太田道灌公の戒名であり、普通見慣れないであろう❝不退位❞号は菩薩様の入口段階の位階を表す。太田道灌公は幼少期より鎌倉の巨福山建長興国禅寺=建長寺で学問学び精神を修練された“禅僧”でもあったんだな。
アホのWikipediaでは伊勢原の大慈寺が道灌公の首塚と伝わる事から大慈寺殿心圓道灌大居士と戒名を書いてしまっているが、近年の研究で大慈寺の道灌さんは江戸時代の別人じゃないのと疑義がかかっている(笑)。江戸時代にいた下糟屋の高部屋神社界隈を開拓した道灌さんと混同している可能性が高いんだな。
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写真は鎌倉市の英勝寺、徳川家康公の愛妾で太田道灌公の御子孫に当たる於梶(おかじ)の方が尼住職を務めた御寺だったが、この境内は室町時代の太田家の屋敷跡だったりする。
・・・そして決定的な事実として、道灌公の首塚は鎌倉市の太田道灌公の屋敷地である英勝寺に守られていて、昔から道灌公の鎌倉邸の直ぐ裏の鎌倉山に御首(みしるし)は埋葬されていると、鎌倉市と英勝寺と徳川幕府は認識していた。まぁ、そこ等辺は置いておいても大慈寺の件は地元民の太田道灌公リスペクトが生んだ伝承なので悪意も無いし、間違えられている人も有る意味光栄だろう。
・・・歴史学者の中は宗教に対する信仰心も先人へのリスペクトも無い人が可成りの割合でいて、御子孫や御霊を守る社寺の宮司様や和尚様や氏子サン檀家サンに向かって其処(そこ)に関わる歴史人の名を呼び捨てにする不届き者が沢山いる。それが小生は気に食わないので昔、とある歴史学者と喧嘩した事も有る。自分だけでも偉人の俗名を呼ばせて頂く際は“公”を付け様と心がけているし、世間に先人の正しい戒名も伝えたいと思っている。戒名には色んな意味が含まれているし、徳川幕府役人の中には教養が無い奴も仕事が出来ない奴も当然いて社寺領安堵の御朱印で寺社の名前を間違って発給したり法名の抜粋すべき所が解らず見当違いな部分を戒名から抜き取っていたり、有ろう事か戒名=入道号だと思っている奴までいて誤った記録が幕府編纂の諸家系図にも記載されてしまっていたりするんだな。
太田道灌公と歴住の御位牌を拝んでから御廟を離れ、境内に有る太田道灌公胴塚に向う途中で境内社の吉祥弁才天様に参拝。
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弁天様に昨年一年御加護御守護頂いた御礼を申し上げ新年の祈願を御伝えした。
弁天様と言えば江ノ島の八臂弁財天様と天皇家勅願所の岩屋だが、これを管理した別当岩本坊は代々、横浜の殿様の間宮家の同族の岩本坊間宮家が別当職を務めたので、横浜市民の小生にとっては弁天様は何よりも代えがたい勝利と開運の女神様なんだな。
吉祥弁才天様の奥に太田道灌公の胴塚が存在している・・・
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太田道灌公とライバルであり道灌公をリスペクトしていた北条早雲公と、道灌公の親友だった万里集九禅師が御一緒に道灌公の御首の無い胴体を改葬され御廟所とされた場所。
ここは小生にとっては思金神や莵道稚郎子命や天満大自在天神菅原道真公に次ぐ知恵を授けて頂く仏様であり高い教養と無敗の軍師としての道灌公に文化と勝負の御利益を授かる為の場所でもあり、何より尊敬する道灌公に御挨拶と報告と御礼をする場所なんだな。
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御廟所の枯れた大木は北条早雲公と万里集九禅師が二人で道灌公の供養に植えた松の枯れ木だ。
500年の時を超えて今も幹が大切にされており、ここでは太田道灌公、北条早雲公、万里集九公と時間を超えて空気を共にする事が出来るんだな。
今年は正月から御参りで来た御礼と、再び新年の心願を伝えた。
扇谷上杉家糟屋館周辺地形 久良岐のよし
この公所寺から太田道灌公が主君の扇谷上杉定正公に襲撃された糟屋館の湯殿入りの虎口は近い。
付近には道灌公の7人の配下武将が敵勢を食い止めようとして落命した場所の七人塚や、延喜式には掲載無いが延喜年間以前から存在した式外社の山王権現、現在の上粕屋神社も在る。
せっかくカーナビの御蔭で(笑)七沢城に行かなかったので糟屋館城址周辺で規制のかかってない無い地域を歩いて廻る事にした・・・

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③に続く。





情報拡散が遅く成ってしまって申し訳ないのですが、今、横浜市歴史博物館で凄い企画展をやっています。
2018年01月08日までと、あと1~2日しか開催されないので緊急拡散します。
横浜市歴史博物館公式 群集する古墳 表 久良岐のよし拝借 
横浜市歴史博物館公式 群集する古墳裏 久良岐のよし拝借 
企画展:群集する古墳
学校では教えてくれませんが、神奈川県内は実は古代の佐賀牟(さがむ)国と磯長(しなが/いそなが/いそたける)国と言う二つの大きな豪族割拠時代の国の首府が有りました。それ故(ゆえ)に実は古代に邪馬台国や出雲王権や大和王権の首府だった九州北部・出雲地方・大阪・奈良・京都に次いで“重要な”古墳時代の出土品が多い地域なんですね。
今回の企画展は小生が年末に紹介した延喜式内社で古代からの聖地の比々多神社や源頼朝公が聖地として修験道の僧侶に再整備させた森浅間神社等の旧境内地古墳群からの出土した副葬品で神社の神器として大切にされている鉄剣や勾玉や甲冑が多数展示されています。
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横浜市歴史博物館※8日月曜日には学芸員サンによる企画展解説も有ります!詳しくは横浜市歴史博物館のホームページを確認するか、電話で解説の開始時間を問い合わせしてみて下さい!
今回は無料で立派な解説パンフレットも配付されています。
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今回の企画展で出土品が多く展示されているのですが昔、鎌倉に在った都筑区の名刹:西方寺を始め、“神奈川県内の凄い神社仏閣一覧”で紹介した神社の神器も沢山有りますので、興味の有る人はブログ記事も参考に御覧下さい。
コレ→
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さて、余り横浜市歴博の事を御存知無い人も多いと思いますので、この博物館の凄さを少し解説させて頂きたいと思います。
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先ず、この博物館の立地を御覧下さい。
センター南駅周辺 久良岐のよし
実は横浜市歴史博物館はセンター南とセンター北の宅地開発の際に、古代都築郡の文化に繋がる縄文~弥生~古墳時代の遺跡が多く発掘され、周辺には平安時代~戦国時代を通じて重要視された交通の要所が通る事から茅ヶ崎城や山田城、そして茅ヶ崎城を築城したとされる多田源氏源行綱公が開いた綱崎山長福寺(現:寿福寺)等が存在しています。
茅ヶ崎城の解説記事はコレ→
そして、この地域の開発当時の市長さんが建設族だけれども政治力に加えて高い文化教養と歴史知識を有していた高秀秀信横浜市長だったんですね。
この市長は凄い方で、建設利権と文化歴史保護を両立させた現代の歴史偉人なのですが(今の林文子と前の中田市長は自然と史跡の保護を怠り多くの場所の不保護→消滅を招いた)、横浜市中区の山手地区の洋館を買取り観光の目玉として保護する事に成功したり、センター南駅の目の前に緑地として茅ヶ崎城址公園を整備して保存と都市計画を両立させる事を成功させた政治家でした。
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中でも横浜市歴史博物館の設立の切っ掛けに成ったのが大塚歳勝土(おおつかさいかちど)遺跡の発見で、こちらも緑地として都市計画に組み込み、貴重な弥生時代の文化と城砦村落である環濠の様子や弥生時代の方形周溝墓と言う平たい方墳を発掘し無料で展示しており、芝生が張られ横浜市北部の市民の憩いの場にも成っています。
さて、そんな遺跡の出土物や茅ヶ崎城や横浜市内の貴重な文化財を常設展示したり、今回の企画展の様に周辺自治体の歴史ある神社仏閣や史跡の出土物を借り受けて展示したり、古代人や武士達と現代の我々を結び付けて下さるタイムカプセルとして❝移民だらけ❞で郷土愛も歴史への理解も足りない人が多い横浜市民に、実は凄い場所に住んでいる事を学習できる場所として高秀所長によって開かれたのが、この横浜市歴史博物館です。
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比較的新しい博物館なので当然、館内は綺麗です。
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この博物館の屋上には大塚歳勝土遺跡への連絡協が有ります。
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常設展の他に体験学習室が有り、古墳時代の甲冑や兜や銅鏡のレプリカも展示され、直接触らせて頂けるんですね。
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例えば普通の博物館なら、こうやって綺麗に飾られているだけですが、こちらでは触らせて頂けるので細かい観察をする事も可能に成っています…
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上から近づいて見ると頭頂部には細かい彫刻が有る事が解りますね。
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側面にも彫刻が彫られており、当時の豪(王)族や将軍が身に付けた甲冑が優美だった事を自らの目で見て学ぶ事が出来ます。
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三角縁神獣鏡のレプリカも職員さんに確認をとると触らせて貰えます。
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ちゃんと裏面が鏡に成っている事が解りますねぇ~♪
まぁ、学習室は色んな時代のモノが置いて有るので…
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観察の為に移動させて貰ったら昭和40年代の居間を再現した場所に古墳時代の兜が有る異様な風景になってしましました(笑)。
この他に、触れない常設展示の方も現物やレプリカと供に、映像資料や解説洞がのミニシアターがふんだんに用意されており、とても良い歴史入門に成る博物館です。
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昔の都筑区は緑区・青葉区・旭区の全域と、川崎市麻生区・横浜市保土ヶ谷区・港北区を合わせ都築郡と言う行政区域で、西八朔には平安時代の人がら見ても歴史が古く大切にされた延喜式内社の杉山神社が存在ています。
古代豪族の姫で日本武尊(やまとたけるのみこと)の御妃様だった弟橘姫(おとたちばなひめ)の古墳が有る橘樹神社(川崎市高津区)一帯に存在した橘樹郡衙や、久良岐郡衙が存在したと推定されている横浜市南区の弘明寺から古代の街道が経由している交通の要所だったので、非常に多くの出土物が発掘され展示されています。
色別標高図&Google map&久良岐のよし史跡位置図 センター南駅周辺
上の図は“国土地理院”の色別標高図と言う地形図をGoogle earthに重ね合わせ、小生がGoogle earth上に登録したセンター南駅周辺の史跡を表示させた位置関係図です。
これを見ると一目瞭然ですが、当然ながら都筑区を含むそんな旧都築郡は交通の要所の地域なので武士の時代にも茅ヶ崎城や山田城と言う城塞が築城されて拠点として活用されました。
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なので他にも戦国時代の横浜市の北条家臣団の解説や模型と解説パネルの展示やら・・・
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これは後北条所領役帳と言う1級資料の古文書の複写を元に地図上に北条家臣団の領地を表示した図ですね、しかしこれだと誤解するかも知れませんが、各殿様は別に在地で自分の領地にいた訳ではありません。
例えば玉縄衆や江戸衆や御馬廻り衆と言う1560年頃の後北条所領役帳を元に当時の軍団編成を色分けされてパネルに表示してありますが、その武将達は自らが所属する部隊の拠点となる城に詰めて仕事をしていました。
横浜で特に活躍したのは下記の4家です。
※家名をクリックすると関連記事にリンクします。
●蒔田吉良家
足利一族の蒔田吉良家、室町幕府鎌倉府の鎌倉公方(将軍)代理も務めた家です。高文化な一族で梅花無尽蔵と言う書物や多くの古文書に登場し奥州探題(東北地方長官)も務めた時期も有った名家でした。
里見家や正木家が横浜市沿岸部~三浦半島~鎌倉に乱入し放火略奪して廻った鶴岡八幡宮合戦で鎌倉市街地が鶴岡八幡宮諸共灰燼に帰すと、その再建に必要な材木の運搬を現在の横浜スタジアム~吉野町辺りまで海で入江だった当時の蒔田湾に南関東の材木を集積し、材木奉行北条綱成の家老間宮家の杉田港まで海運で輸送した高い経済力と海運力も有した一族。特に有名なのは奥州探題吉良定家公、戦上手で太田道灌公の親友だった吉良成高公、鶴岡八幡宮再建で活躍した吉良頼康公。
室町時代初期の本拠は東京都世田谷区世田谷城(豪徳寺)、小大名だった戦国時代初期は横浜市南区蒔田城、北条家親族と成り北条家臣化した安土桃山時代は世田谷城。
後北条所領役帳編纂時は未だ北条傘下の小大名として独立を保っていた。
●宅間上杉家
足利尊氏公の従弟(いとこ)の上杉重兼公が初代の一族で、倒幕の綸旨を足利尊氏公に伝えた武将であり鎌倉公方の代りに関東一円の執務を執(と)り仕切る“関東管領”も務めた家柄で、戦国時代突入の契機に成った上杉禅宗の乱や永享の乱では不利な状況でも主君の鎌倉公方足利持氏公に与力し忠義を尽くした名族で、北条家従属後も御家中衆として親族同様の高位の格式で別格の扱いを受けた。
室町時代初期の本拠地は鎌倉市浄明寺地区報国寺の在る宅間谷(たくまがやつ)、室町時代後半に入り横浜市緑区三保舊城寺の在る一帯の宅地全てが城址の榎下城、北条家臣化してからは港南区下永谷の永谷城(伊予殿根城砦)。
後に北条氏規公を筆頭に三崎城(三浦市三崎町)三崎衆が編成されると上杉規富公が付家老として三崎衆に属している。
●笠原家
古代武蔵国の武蔵国造(くにつくりのみやつこ)と言う大和朝廷に従属してた豪族の王の子孫の家系。
豪族笠原家の祖先は信濃国佐久郡出身で、笠原家の内紛で武蔵国造の乱が勃発すると大和朝廷の介入による仲裁後に相模国と武蔵国の国境に位置する久良岐郡・(未成立:都築郡)・橘樹郡・多摩郡・横見郡が朝廷直轄地として没収された。この後に成立する旧都築郡に現存する杉山神社は緑区西八朔(はっさく)に存在するが、古代は八朔とは書かず罰佐久(ばっさく)と書いた事が記録に残る。
笠原一族が戦国時代に北条家臣化して後に北条氏綱公が主君の時代に江戸城攻略の帰路、横浜市北部を中心とした一帯を統治する玉縄城代に任命される。鶴岡八幡宮再建の総奉行として北条家と対立する他大名からの協力も取り付けて5万人の労働者を動員した鎌倉市街と鶴岡八幡宮再建を成功させた笠原信為公や、織田家との外交使者を務めた笠原政尭公を輩出した家系。
本拠は港北区の大曾根城、小机衆拠点の小机城代。
北条幻庵公や氏尭公の付家老として小机衆白備え隊を統率し小机城で執務を執った。
●間宮家
間宮林蔵や杉田玄白の祖先の一族で特殊な学者肌の技能を有する一族でした。祖先が宇多源氏の氏神である滋賀県安土町の延喜式社沙沙貴神社宮司家で、神道・修験道・真言宗との関係が特に深く臨済宗・曹洞宗の禅宗や日蓮宗や浄土真宗との関係も深く神事に精通し、土木築城技術と水軍を率いた水運、更に鷹狩に使う鷹の繁殖に秀でた武勇と建築と神事と鷹に長けた一族でした。
玉縄城主北条綱成公の与力に成り歴代玉縄城主の付家老として活躍した間宮康俊公が特に有名で、鶴岡八幡宮再建の際に北条綱成公が材木奉行に成り材木の買付けや運搬を取り仕切ると、蒔田吉良家と協力して自領の杦田(杉田)港に材木を集積し管理、鎌倉に輸送した。北条一族と重臣しか出来ない鶴岡八幡宮の築地塀の奉納で名を連ねている。鎌倉時代の名将佐々木高綱公の子孫を名乗っていたが実際は近親であり沙沙貴神社宮司家佐々木一族の末裔。天皇家勅願所の江の島の岩屋や江島神社を管理していた岩本坊別当も間宮家だった。
本拠地は初期に川崎駅前の堀之内の要塞(同地は平安時代末の佐々木邸址)、後に横浜市港南区笹下城。

さて、実は横浜市には戦国時代の上記の家以外にも活躍した殿様達がおりまして、中でも有名なのは富岡~磯子区一帯を鎌倉時代に治めた名越北条氏や、歴史上で武家中1、2に上げれる教養を誇った金沢区の殿様で六波羅探題として京都周辺の支配を任されていた北条実時公、そして三浦一族の平子家と石川家です・・・
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・・・なので久良岐郡禅馬郷(横浜市磯子区岡村~南区堀之内辺り)を所領にしていた平安時代からの武士団で三浦家分流の平子家の解説も有ったりします。
この平子家の平安末期の当主だった平子有長公は“ゆず”の地元の岡村町に岡村天満宮を開いた人物なのですが、曽我兄弟による源頼朝公暗殺を防ぎ逮捕した武勇の士として知られています。
以前、岡村天満宮を紹介する記事も書いて有るので、興味の有る人は参考にして頂ければ幸いです。
コレ→又、平子家の分家の石川家は現在の中区石川町役周辺で江戸時代も庄屋として存続していますが…
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・・・実はペリーさんの来迎時に江戸幕府の命令で接待の一切を任され日米の懸け橋として活躍されました。
まぁ、鎌倉の隣であり古代からの交通の要所だったので重要な武士団が各時代に配置されるのは必然で、当然ながら合戦も度々起きているのが現在の横浜市域です。
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ですから横浜市博物館には横浜市内で勃発した主な合戦の年代と場所の可視化したパネル等も有り、古代の文化だけでなく武士文化が好きな人も興味を惹かれる場所だと思います。

売店も有り御土産や調査報告書も売っています。
小生は2018年正月06の訪問では黒曜石の原石を購入しました。
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歴史以外の趣味で銀細工で指輪作ったり、ブレスレット作るので、黒曜石を♥️型や○型に削り出したら綺麗かなと・・・
銀の指輪とかブレスレットに興味ある人はカテゴリー[造形/工作]の記事もどうぞ。
歴史好きな人って自分で物を作るのも好きな人が多いらしく、結構、小生と趣味が合う人も多いみたいですね。きっと横浜歴博の売店に行くと、完成品の黒曜石の石鏃(せきぞく)を御土産に欲しいと思うより、小生と同じく黒曜石の原石を買って自分で加工したく成る人も多いはず(笑)。

さて、横浜歴博は冒頭で説明した通り、高秀市長が大塚歳勝土遺跡の保護と出土物展示を兼ねて作られた施設です。せっかく見学に来たら屋上から大塚歳勝土遺跡へ移動してお散歩してみましょう。
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屋上の歩道橋から直接行ける目の前の緑地が遺跡です。
大塚・歳勝土遺跡
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ここは朝鮮文化流入以前の、更に古い漢代の中国と日本の関係を示す弥生文化の方形周溝墓が多く発掘され展示してあります。無論、豊富な解説パネルも有りますが、全部が無料で見学出来ます。
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例えば弥生時代に成り“収穫した米”と言う財産が出来ると、人間はソレを守る為に堀と土塁で村を城砦化しはじめた事が解る遺構も発掘復元展示されています。
ここの面白いのは武士の時代の城砦と違って空堀や土塁の設置が反対に成っている所でしょうか?
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[弥生人の環濠要塞集落]
外側←土塁←木柵←空堀→集落
[武士の城の防御構造体]
外側←空堀/水堀←土塁/石垣←木柵/土塀→館

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※箱根山中城
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※小田原城

この様に堀の位置が違う構造に成っていて、正直弥生時代の環濠集落は城マニアでもある小生からすると・・・
「弥生時代の人、順番違くね(笑)?」
・・・と感じたりしますがね(笑)。
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竪穴住居跡も発掘した様子と、復元した住居が両方多く展示されていて自由に中に入る事も出来ます。
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古代の釘を使わない設営の仕方。実は古代から存続する神社は、この弥生時代の建物と同じ技術を伝統として受け継いで作られている場所が結構残っていたりする。
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昨年、国の有形文化財指定を受けた伊勢原市の高部屋神社の社殿とか…
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※上の写真は高部屋神社。
・・・釘が使われていないんだな。
これと同じ茅葺(かやぶ)き屋根や檜皮葺(ひわだぶ)き屋根の古式に則った社殿を持つ神社の内部は、結構こんな古来の伝統が残っていたりする。
高部屋神社の記事→
他にも米を保存する為の高床式倉庫も公園内に復元されています。DSC_0203
この構造物は外観こそ板葺きでは無く草葺きですがデザイン自体は出雲大社の伝承の社殿や伊勢神宮の各境内社社殿の外観に通じる物が有ると思います。小生良く言うのですが、この高倉が神社の社殿の原型で、豪族の王の住居用に作られた高床式建築物が後にそのまま各豪族が氏神様を祀る場所と成り、神社の様式が確立されたと個人的に考えています。
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ですから、現在の相模原市東部、海老名市、寒川町や高座渋谷等、昔は高座郡(こうざぐん)と呼ばれた行政区分の高座(こうざ)を古代は高座(たかくら)と読んだ事実が有るのだと推測しています。
現在では神社を数える単位は“社”だったり神様は“柱”を単位として数えられますが、昔は1座、2座の様に“座(ざ)”を単位として数えられていたのも、高床式の座(くら)が神社の社殿の根本に成っていたからだろうと考えれば、自然で無理が無いですからね。
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さて、大塚歳勝土遺跡の森には沢山のシイの実やドングリが落ちています。
これ、古代人には貴重な栄養と油分を持つ食料だったんですね。

こんな歴史を辿れる大塚歳勝土遺跡と横浜市歴史博物館ですが、本当に今回の企画展示は物量も豊富で見応えが有ります。本日7日と8日の残り2日間と成りましたが、見る価値は非常に有ります。
そして源頼朝公が子宝に授かった御利益の有る比々多神社の埒免古墳等から出土した豪族の王の遺産等は見学し拝めば御利益も有るかも知れませんね!

皆さん、日曜日のレクリエーションが決まっていない人や8日月曜日空いている学生さん等、是非見学されては如何でしょうか?


さて、次回は1月2日の休日雑記の続きの記事を書きます。
では、皆さん、新年皆さんにとって良い1年間に成ります様に~♪

結論から言うと正月1日は横浜市栄区と港南区近辺をウロチョロしていた。
小生が横浜で1番の知恵の神様と崇拝する永谷天満宮に参拝客の少ない早朝に参拝してから、夜明けの時間に合わせて円海山に富士山を拝みに行った。
永谷天満宮では神職の方々が早朝の5時頃なのにも関わらず詰めておられた。
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永谷天満宮
大変だな…御正月とは。
御神籤を引きに社務所に行ったら禰宜サンがもの凄く眠そうだった(笑)。
「ご苦労様です、当直ですか?」と御声掛けした所・・・
「2日間泊まり込みなんです~」との事。
・・・こうやって神社の場合は神職の方々の御苦労と氏子サン達、御寺の場合は和尚サンや檀家サン達の努力がそれぞれ有るから一般参詣者は御祭りや神事や様々な行事に参加し日本文化を感じられるし、神仏に祈願する事で何だか安心する事も出来る訳だな。
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社務所の前では焚火の火も絶やす事なく燃えていて冷えた参拝者が手を温める事が出来た。
永谷天満宮の神職氏子の皆さん年末年始御疲れ様でした。小生が横浜に置ける知恵の神として崇敬する菅原道真公と菅原景行公と菅原淳茂公の御陰様で昨年1年間過し無事に新年を迎える事が出来ました。
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社殿に移動し天神様に参拝し、1年間の御礼と自分の祈願と諸外国の親日家の人々の平安祈願をした。
因(ちな)みに・・・
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御神籤は大吉だった(笑)!素直に喜んでおこうかな♪
栄区方面に戻り円海山で初日の出を見るのと土地神様の思金神社に御参りに行く為に車に乗り移動・・・
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円海山

う~ん、今年は少しガスってたけれど綺麗に雪化粧した富士山を拝む事が出来た。
富士山は只単に美しいと言うだけでなく明治時代までは自然信仰で神道修験道仏教の全てで此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の化身として崇拝の対象に成っていたんだな。そしてココは奈良時代の人達も製鉄を営みながら灌漑水田を開発し、鎌倉武士が使った間道が幾本も現存し、現代では横浜市最後の蛍の大生息地体でもある、貴重な自然と文明の史跡であり自然公園なんだな。
有る意味、横浜における聖地とも言える。そして此花咲耶姫命を拝む事の出来る場所なんだな。
だから涼しく気持ちの良い晴天の御正月に御化粧した綺麗な富士山を拝めて、とても晴々した気持ちで新年を迎える事が出来た。
・・・ちなみに日の出はポジション取り間違って見えなかった。円海山から日の出を見たかったら金沢区側の展望台じゃなきゃダメだな。

日は変わって正月2日目。
この日の早朝出発~深夜帰宅する約20時間で怒涛の19箇所の神社仏閣聖地と史跡を廻って来た。
この日は地元横浜の神社の思金神様や天満大自在天神菅原道真公や・・・
金沢北条実時公、蒔田御所吉良成高公、吉良頼康公、宅間上杉重兼公、上杉規富公、間宮康俊公、間宮於久様、間宮於継様、間宮綱信公、間宮常信公、間宮信繁公等の侍大将や姫様達。
渋沢栄一サン、原三渓サン、浅野総一郎サン等の横浜の発展と復興に力を尽くされた商人達。
・・・崇敬する横浜市に御縁深い歴史偉人のこれらのと同じく尊敬し毎日、心の中で拝んでいる神様仏様と県内他地域所縁(ゆかり)の歴史偉人に出来るだけ多く御参りしたいと思い訪拝先の予定を組んだら、当初の予定でも既に20個所ととんでも無い件数に成ってしまった(笑)。
多分、過去最多の1日での訪問件数、内容的にはコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
・・・我ながら良く廻ったもんだと思う(笑)、ちゃんと御参りして時間かけて廻ったし。
寝なければ時間は作れる(*´ω`*)!
実際には最終目的地の寒川神社までの順路は移動時間だけで4時間近く、家を出発したのは朝の3時少し過ぎた位、帰宅したのは23時位だったろうか?移動時間以外も略(ほぼ)現地を歩き回ってるので当然ながらつまり休憩した2時間を除いて18時間は運転するか、歩くか、買い食いしてるか、宮司サンか和尚サンと御話ししてた訳だな。
ジム行ってる御蔭で何とか成ったし(笑)。
経路をGoogle mapで可視化するとコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
神奈川県の中部と東部を略グルっと回ったらしい。
上の一覧表は実際に回った場所だが、予定は少し違って伊勢原市の糟屋館と上粕屋神社は廻らずに厚木市七沢の徳恩寺、拉麺の名店ZUNDO BAR、七沢城址を廻るつもりだった。
・・・これは後で書く事に成るが、神様に「そっちでは無いヨ」仏様に「こっちに来なさい」と言われる様に道を間違った(笑)ので流れと直感に任せて洞昌院優先~糟屋館周辺散策ルートに変更した訳だ。

さて、2018年01月02日03時ちょっとに自宅を出発すると、有鹿神社には4時ちょっと過ぎに着いた。
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参道が雪洞(ぼんぼり)代りの提灯に照らされてとても美しい・・・
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有鹿神社本宮
有鹿神社様への初参拝は3年前、愛川町に三増峠合戦の現場歩き取材に行った帰りに、聖地として名高い有鹿谷と勝板遺跡を訪問し奥宮を御参りし、その勢いのまま海老名の本宮を御参りに来て、御朱印頂に宮司様の別事務所を訪問したのが最初だった。
それ以来、小生は有鹿比賣(あるかひめ)様と有鹿比古(あるかひこ)様の御夫婦の神様も崇拝する様に成り、頂いた御朱印を大切にしている。
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本殿で有鹿の夫婦神様に御参りし、昨年1年間の御礼と今年の小生個人の心願と友人家族恩人恩師の平安祈願と親日諸外国民の平安祈願をした。
本殿も幻想的に提灯の明かりで浮かび上がって美しかった。
所で初めて正月に御参りに来たのだが…
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何か狛犬サンの御胸の辺りがウルトラ怪獣のゼットンみたい光ってて(笑)
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・・・コチラの禰宜さんの遊び心。
天智天皇が国家鎮護の勅願所にする前から庶民に寄り添い農耕を守護し家内安全と良縁結びの神様として存続して来た人懐っこい神様の神社らしい遊び心。
古社なのに偉ぶらず、尚且つ水引き神事の様に古代からの神事を大切にする、こんな柔軟な場所も有って良いと思う。石清水八幡宮の宮司様も神社本庁トップだけど歴代天皇の御意思を尊重され古来の神仏習合時代の文化も大切にされたり新しい催しにも協力されたり色んなアイディアを出されているので現代の柔軟な神社本庁トップの方針にも合っているんじゃないかと思う。
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有鹿神社の境内には有鹿天神社が在り、此方でも前日元旦に永谷天満宮で正月の御参りをした菅原道真公に改めて参拝し、新年の御挨拶と2日当日の旅の無事を祈願した。
車に乗り八菅山に移動。
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八菅山は明治時代に日本の宗教が森有礼(ありのり)等、キリスト教信者政府高官等によってプロテスタント国の英米の猿真似で自然崇拝の神様と平和の哲学の仏様が引き裂かれ宗教自体が作り替えられるまで日本神話の聖地で神職のみならず修験者や仏僧からも聖地として崇拝され多くの寄進が集り物質的にも興隆し、神仏ともに尊重する修験道が仕切る日本屈指の大道場だった。そして行基大僧正が来訪し天皇の勅願を祈願した神仏ともに大切にされた天皇家の勅願所としても機能した霊場でもあった。
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始まりは日本武尊の来訪に由る・・・
「山体の形状が蛇に似ている」
・・・と言う主旨の発言を日本武尊がして聖地として大切にされる様に成ったそうだ。しかし今では山での採石やゴルフ場の乱立で美しさが無いし宅地化で細かい地形は良く解らないが、確かに河岸段丘で細長い形はしている。八菅神社周辺地形 久良岐のよし
宅地化した部分も昔は山でもっと長い山体だったのかも知れない。
まぁ~小生は相模川の大きな支流が八本有って八岐大蛇(やまたのうきろち)の様に見えたんじゃないかな~とか伝承と違う山の名の由来を考えたりした。菅(すげ)は菅(すが)とも読むし菅は須賀神社の須賀に通じるからね~。
須賀神社の御祭神は素戔嗚命だし元は相模川を八岐大蛇に見立て河の氾濫を抑える祈願所で、だから日本武尊が東征の折りに立ち寄ったんじゃないの?多分、古代は渡河地点が付近に有ったんじゃなかろうか?
・・・とか考えてしまう。日本武尊は走水にも須賀社を開いて軍神海上交通の神様として素戔嗚命を祀ってるからね~。
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何にせよ修験道や神職や僧侶の聖地として栄えたので明治の破壊までは神廟や御堂合わせて50余りの大小神社仏閣が混在し大変多くの参拝者と修行者で賑わっていたそうで、この愛川町の八菅山と伊勢原市の大山、そして京都の男山に在る石清水八幡宮等と合わせて日本で5本の指に入る大聖地だったそうだ。
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そして、参道を奥に進み、そんな歴史を説明している看板の写真を撮ろうとした際に気が付いた・・・
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「夜明け前で何も見えねぇ~」
「階段超急だし!」
「クロックスで夜に来る所じゃねぇ~(笑)」
・・・う~ん、甘かった。
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本殿に着いたがハッキリ言って真っ暗で何も見えない(笑)!
でもちゃんと参拝して御賽銭を払って日本武尊と弟橘姫様と神様達に諸々の祈願をして、一度山を下りて車まで戻って1時間程待機してから日の出を待って再度、参拝して写真撮影する事にした。
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そして夜明け到来。
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八菅神社(八菅山七所権現:天皇家勅願所)
当たり前だが朝を迎えると自然豊かな参道が良く見える。
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夜は何がなんだか解らなかった鐘楼の文化財として解説も読める様に成り・・・
石段もちゃんと見える様に成った。
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本殿は木々に囲まれまだ薄暗かったが、造りが観察出来る様に成った。
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改めて社殿を見ると、どうも神社と言う感じでは無い。元々は修験道の御堂の一つだったんだろうか?
しかしながら規模は大きい方だ。
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御賽銭箱には八菅山七社権現=八菅神社の社紋・・・九曜紋だな。
これ、後日03日にPCに写真を取り込んでいて気が付いたのだが、八菅山の神様が参拝を歓迎してくれた様な写真が撮影出来ていたのと関係してる紋様なんだな。
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額の字の色は薄く成っていた。
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さて、ここは凄い人物が関わっている事が説明書きにも有る。
小生は以前、愛川町の観光課の職員さんと教育委員会の職員さんに愛川町ガイドブックを頂いたり解説をして頂いていたので少し知っている。
小生が尊敬する戦国時代の北条家とも関係が有る。
先ず、ここの凄い所は関わった人物達だ・・・
日本武尊に始まり、
行基大僧正(日本最初の大僧正)
源頼朝公(征夷大将軍)
足利尊氏公(征夷大将軍)
足利持氏公(鎌倉公方)
遠山綱景公(北条家重臣、江戸城代)
徳川家康公(征夷大将軍)
・・・等々、名だたる歴史偉人が崇敬し支援していた歴史が有るんだな。そりゃそうだ、日本有数の聖地だったのだから。
まぁ、そんな訳で八菅山の修験道と神話の聖地は明治以降、英国の猿真似をやった役人によって寂れてしまったけど神様達は今もここで愛川町の人々や参拝客を守って下さっている様だ。
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まぁ、そんな場所だが明るい朝陽に照らされている八菅山の神社の在る場所を改めて見ると、三角形をしていて丸で奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の様な佇(たたず)まいなのが理解出来た。
帰ろうとして駐車場に向かう前に鳥居の前で朝陽の方を振り返ると日の出が見えたので写真を撮影して置いた。
どうやらこれが八菅山七社権現の神様達から小生への御褒美だったんだな。
八菅神社の御神紋は九曜紋・・・
九曜紋
そして3日に成って気が付いたが、八菅神社の前で撮影した日の出の光が九曜紋に成っていた。
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神様、御褒美ありがとうございます~♪
まぁ偶然レンズに写り込んだ光だけど、御参りした八菅神社の御神紋と同じ九曜の朝陽の写真、縁起良いよね。
こんな幸運にその時は気が付かないまま駐車場に戻り車に乗ると、次の目的地の厚木市飯山温泉の華厳山金剛寺に向けて出発した。

【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)に続く。

年末の横浜南部市場に2日間に分けて蟹と鮪の柵を仕入れに行った。
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30日、場内市場の鮮魚棟。
年内営業最終日の店が多く、売れ残りを避けたい店が鮮魚を値引きしてくれるんだな。
今年は蟹が種類問わず不漁で値段が若干昨年より高め。
まぁ、毛蟹も店で値段はマチマチ・・・
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2500円・・・
冷凍の毛蟹だけどソコソコ。
次の店・・・
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1800円。
質が悪い訳じゃなくて元からのランクと在庫数の兼ね合い、それと本当に営業終了予定時間が差し迫ってる店から安く成っていく。
でも昨年、市営から外れ公設市場では無く成ったせいで逆に民間化して客足が増え(た笑)、それで今年は店も強気で値下げしてくれない(-_-;)。
そして・・・
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昨年も値下げしてくれた店で活毛蟹が1500円!まぁ、昨年より最終値200円高いがそれでも安いよね~。
即決で4杯購入。
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本日、31日大晦日。
早朝04時に自宅を出発し川崎市高津区の橘樹神社に向け出発・・・
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橘樹神社
この神社は御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)の奥さんの弟橘媛(おとたみばなひめ)。
実は神社は遥拝所。
今では住宅街に成ってしまった背後の丘が昔は巨大な円墳で弟橘媛の遺品が埋葬されていると伝承する。
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神社は真っ直ぐ背後に円墳の頂点を背負って存在する。
先ずは神社で弟橘媛様に1年間の御礼参り。
その事、弟橘媛御陵の登頂部に移動。
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本来なら橘樹神社の本宮に当たる古墳の残存部に登り、弟橘媛様に御詣りし感謝と心願と来年又、参拝に来ますと御伝えし南部市場に向けて出発。
途中で大倉山のセブンイレブンに寄道・・・
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・・・実は大倉山梅林の梅酒“梅の薫”が“いつもなら”売っているのだが、今年は眞子様の婚約で贈物として大倉山の梅の薫が選ばれたとTVで紹介されてしまったせいで売り切れだった。残念❕
そのまま下道の綱島街道沿いに横浜市磯子区を目指す。
延喜式内社と式外社と寺院と古代の海岸線 久良岐のよし
実は橘樹神社~綱島~神奈川区三枚橋交差点~六角橋の道は恐らく日本武尊と弟橘媛御夫妻も走水を目指して当時は港だったであろう宝秀寺の在る六角橋まで歩いた道のはずなんだな。
しかし今回は三枚橋交差点~六角橋には向かわずに片倉町経由で三ツ沢を通り横浜駅前を通過し保土ヶ谷区の洪福寺方面に行き、そこから南区堀之内に至り中村川沿いに磯子区に入った。
三枚橋交差点の在る三枚町は江戸時代までは三枚田村と呼ばれ一帯は“店屋(てんや)”と言う古代大和政権の駅伝制の中継集落で行政区域だった名残の“天屋”の地名が旧住所の小名に残っていた。
小生が今日通った三ツ沢方面の道を日本武尊が歩かなかったと断言出来るが、それは横浜駅が開かれて以降に主要街道として開かれた道だからだな。
何故なら江戸時代にもまだ横浜駅周辺は平沼や岡野の先、天王町の手前まで海で根本的に陸ではなかった。
当然ながら弥生時代~古墳時代の皇族である日本武尊の時代も横浜駅辺りは海の底。
東海道五十三次 神奈川宿 田中家
江戸時代の歌川広重が描いた神奈川宿の浮世絵。
今は台町と呼ばれる丘が江戸時代の東海道で旅籠が並んでいた。絵に描かれた海が今の横浜駅辺りだな。
因(ちな)みに坂本龍馬サンの没後に未亡人お龍サンが働いていたのも、ここの田中家だった。
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葛飾北斎が描いた富嶽三十六景:神奈川沖浪浦もこの辺りの海。本牧半島辺りの風景だろう。
江戸時代には東海道は陸の道に成っていたが、実は日本武尊と弟橘媛御夫妻の時代の東海道は今とは大分異なる。
古代の街道と延喜式内社&式外社&遺跡の分布 久良岐のよし
そもそも昔は富士山の北側~御殿場を抜け~寒田神社~比々多神社~有鹿神社本宮~神崎遺跡~宇都母知神社~大庭神社~鎌倉~逗子駅辺り~葉山町~上下の山口地区~を経て走水神社に至り海を越えて房総半島の富津に至る文字どおり海の道が東海道だった。
古代東海道ほぼこんな感じ・・・
矢倉沢往還
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高座郡を貫く県道406号
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鎌倉郡を貫く県道43号
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三浦半島内の国道16号線
・・・これが大凡(おおよそ)の古代の東海道なんだな。
日本武尊はモデルが数人いる筈で古代の大将軍に相当する官職名に由来する神号だと推測している。
そして小生は素戔嗚命の後に軍を司った卑弥呼が倭姫、卑弥呼の弟が景行天皇で九州で活躍した初代日本武尊、二代目が走水に来た日本武尊、三代目が菟道稚郎子命、四代目が恐らく武蔵国造の乱を調停したであろう雄略天皇だろうと何となく神話、各神社の社殿、考古学、地理と地形の情況から推測している。
この内、綱島街道沿いを歩いたり船で往来した可能性が有るのは恐らく大伴部と吉備氏を与力とし后が弟橘媛だった景行天皇の皇子で2代目かも知れない弥生時代末期の一般的に日本武尊の神話として知られる最初の東征を行った皇族の大将軍と、四代目で武蔵国造の乱を調停したかもしれない古墳時代の雄略天皇だろう。
まぁ現代では川崎市高津区や横浜市港北区からは横浜駅前を通り磯子に抜けるのが磯子区・横須賀への1番のショートカットだ。
途中で又、寄道し神社に参拝・・・
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八幡橋八幡神社だな。
八幡橋八幡神社・・・ここは古代には現代の陸地から見て上空に社殿が在ったであろう場所(笑)。
ラピュタ的な意味では無くて江戸時代に現在の関内辺り~吉野町の海だった吉田新田地域を埋め立てる際に八幡橋八幡神社の辺りの久良岐の丘を一部開削し、その土で海を埋めたんだな。
だから八幡橋八幡神社は現在では低い場所に在るが昔は本牧半島の付根に存在したはずだ。
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この神社は奈良時代には存在していたと伝わる。古代から存続する神社はだいたいが古代の半島の付根か先端、若(も)しくは湧水地や奇岩や古墳の傍に所在する。
だから神社の歴史を踏まえると、成立時は開削前の久良岐の丘の在ったので今の位置より“上空に在った(笑)”事に成る訳だな。
実は小生の血が繋がらない義祖母の実家は元は横浜のシルク商で、この八幡神社を崇敬していた。八幡宮の神様は海上交通と治水と産業と軍事の神様なんだな。
だから古い八幡宮は海に付き出した半島の付根や川や湖の港だった場所に多く分布している。
小さい時に義祖母と一緒に御詣りした神社で神様に1年の御礼を伝えて御参りを終えると横浜南部市場に移動した。
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行きつけの場外市場の鮮魚店に又、最終日の弱味にツケコミ(笑)買付に。
南部市場で職場の同僚と待合せし、鮮魚店を見て廻るが余り安くない。
今年は客足が伸びて値下がりするタイミングがまだ来ていない。イブリガッコ等を購入して同僚とは解散、時間を空けて又、後で小生が再訪問し同僚にはLINEで値段を伝えて買い付ける算段に予定変更。
そこで、値下がりするまでの時間稼ぎに後で訪問する予定だった三浦半島の横須賀市域に在る走水神社に向け出発・・・
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走水神社
朝から氏子サンがお掃除してらした。
年越しの御詣りに備えての準備かな。
一般参詣者が神社で初詣出来るのは、こんな祭事の準備や神社の維持の努力をして下さる各神社の氏子サンの御蔭様。感謝。
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本殿で日本武尊と弟橘媛様と大伴黒主様と天磐楯命に改めて1年の感謝を伝えてから来年の心願成就をお助け下さる様、そして国籍人種問わず日本の自然と文化と歴史史跡を大切にする“親日の人間”の平安を祈願した。
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ちゃんと東郷元帥や乃木大将が大切にした奥宮にも参詣した。
参拝後に暖かい珈琲が飲みたくて近くのコンビニに行くと人懐っこくて毛並みの綺麗な柴チャンがいた。
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尻尾振って寄って来てくれたのでモフらせて頂いた🎵
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そう言えば新年は戌年だっけ?
縁起が良いね、ありがとワンちゃん!
南部市場に戻る途中で横須賀名物のポテチパンを販売する中井パンに寄道・・・
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中井パン店
朝御飯食べてなかったからオナカ空いちゃったよ。
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大晦日だけど御客さん来てたね、大晦日も昼まで営業されるそう。
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朝食代わりにポテチパンを食す。
海苔塩味。
車中ポテチパンを頬張りながら運転し30分位?南部市場に到着したのが10時前後。
でも安くなるの待つのに持久戦、先に車の中でスマホでFF3やりながら時間を潰し11時位、早めの昼食に市場の食堂で鯵・シラス丼食べて時間稼ぎ・・・
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・・・攻城戦と同じで相手=市場の店は営業最終日の今日中に在庫を売り尽くすと言う勝利を得なければいけないのだが、戦う為の残り時間と言う名の兵糧が切れる時刻はあと数時間でやってくる。ソレを恐れ必ず買物客(敵)に和平の値下をしてくるはず(笑)。
対してコチラは相手が兵糧が僅(わず)かに成り“音(ね)を上げて値を下げる(笑)”のを悠々と食堂と言う名の付城で暖房に当たりながら食事と言う名の兵站(へいたん)を確保し対陣(笑)。
値下げしてくると踏んだ営業時間終了の1時間前位に行動開始、そして・・・
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・・・勝利の瞬間到来(*´∀`)」❗️
値下してくれた社長さん、ナイスガイのニイチャンあんがとな!
皆さん、この店の名は場外市場の浜光水産ですよ~♪
浜光水産
真実一路、新鮮な魚を取り扱い客に親切に心地光明の精神で対応して下さる最良の鮮魚店です。新年の買出し何卒贔屓にして上げて下さい♪
・・・何て御膳立てを魚屋さんにしてみる(笑)。
タラバ足を2つ買い、あと場内で作業してたこの浜光水産の社長さんから事前に御薦めとしてリサーチしていた特選の鮪の柵、それと刺身用の帆立貝柱を購入した。
因みに頼むと店頭に並ばない魚も用意出来るか調べてくれたりする本当に親切な店なので小生は家で魚食べたいと良く円海山の麓の家から買い出しに来るんだな。

・・・ふむ、横浜での土地神様の神社の宮司様と御世話に成ってる御寺の和尚様に先週挨拶も済ませたし、今日は小生が崇敬する夫婦神様と与力の神様にも挨拶を済ませれたし、カニも鮪も正月に備えて補充出来たし・・・
良い1年の締め括りに成った。

神様と仏様と御先祖様と恩人と恩師と家族と同僚に感謝!

追記
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蒸し上がったでござる。
生きたまま蒸した蟹サン、美味しく御命頂きます🍴🙏。
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蟹サンの分も善き人と日本文化と親日の人の為に自分の命を使わねば。

皆さんは神奈川県の三浦半島に富士山のビュースポットとして素晴らし場所がいくつも有る事を御存知(ごぞんじ)でしょうか?
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黒崎の鼻
〒238‐0111 神奈川県三浦市初声町下宮田付近

黒崎の鼻と言う岬に通じる直線の農道は約1.5kmに渡り富士山に向かって伸びています。
この農道、何故こんなに真直ぐかと言いますと、アメリカが関係有ったりします。
先ずは航空写真を使って説明しましょう・・・
黒崎の鼻と三崎口駅位置関係 久良岐のよし
黒崎の鼻に繋がる農道は2本有り、どちらも京浜急行電鉄三崎口駅を起点にする様に伸びています。
実はこの2本の農道、第2次世界大戦終結時に日本帝国海軍の横須賀鎮守府が米国の第7艦隊に接収された際に米軍の空港建設予定地に成り整地されました。そして、計画が頓挫してからも、そのまま真直ぐな農道として残った訳です。
もしかしたら京浜急行の三崎口駅がここに作られたのも、当初は空港建設を当て込んでの物だったのかも知れません。
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とっても綺麗な風景なので、この農道では多くの映画やドラマがロケされています。
しかし綺麗なのはこの真直ぐな農道と相模湾の先に見える富士山の風景だけではありません。
真直ぐな農道の内、北側の方を真っすぐ進むと下の写真の場所に出ます。
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・・・こんな場所、普通は通りたくないけど先に有る景色を知っているから入って行ける。
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何にも知らない他府県の人が来たら尻込みしそうな獣道にしか見えませんが、ここが絶景の富士山が見られる“海”に繋がっている道でちゃんとした公園の遊歩道なんですよ。
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少し歩けば海が見えるので諦めないで下さいね(笑)。
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この黒崎の鼻は自然の柴や笹に囲まれている日本離れした風景なのですが、それ故(ゆえ)に観光に来るには海水浴シーズンでは“蚊”が多くて大変に成ってしまう上に、それこそ海上の水蒸気で大気がガスって富士山を綺麗に見る事が出来なく成ってしまいます。CIMG5894
この写真を撮影に行った日は11月下旬で日没時間が16時半で有る事を予(あらかじ)め確認してから農道での昼の風景の写真撮影も考慮して夕日も撮影出来る様に16時に現地に到着する様に横浜市の円海山の麓の自宅を出発し、計画通りの運びに成りました。
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薄木(すすき)もとても綺麗な場所ですが…
「富士山見えないじゃん」
・・・って?イヤイヤこの風景は黒崎の鼻、つまり黒崎と呼ばれる岬の鼻っ柱に当たる先端部分なんですよ、位置的にはもっと先っぽに行くか海に降りると綺麗に富士山が見えます。
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こんな風にね!
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とっても綺麗でしょう?
ここで撮影された映画とドラマは主だったものでも以下の様な有名な物が有ります。
義経(歴史大河ドラマ)
龍馬伝(歴史大河ドラマ)
女帝
ライアーゲーム1、2
花より男子2
恋の時間
氷点
ATARU
BORDER
デカワンコ
仮面ライダーシリーズ多数
戦隊シリーズ多数
最近ではドクターX3でもロケハンされていました。
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小生が訪れた日も何かの撮影隊が着てオメカシした女性が丘の上と海辺で撮影していました。
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この芝生と海岸の風景、丸で英国スコットランド地方の海辺みたいですよね。
・・・行った事無いんだけど(笑)。
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とにかく夕日が綺麗な場所でもあり富士山も綺麗なんです。
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小生は他にも富士山の見える好きな場所が神奈川県内にいくつか有りますが、ここはトップクラスですね。
ここ黒崎に匹敵するのは例えば下の写真の鎌倉市材木座海岸とか…image
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下の写真の横浜市栄区の円海山山頂から見る日没直後の富士山とか…
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平塚市と伊勢原市に跨(またが)る富士見台から見る日没直後の大山(大山祇神)と富士山(此花咲耶姫命)の親子の山の見える風景とか…
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それとベタですが鎌倉市の稲村ヶ崎の七里ヶ浜~江ノ島と一緒に見える富士山は江戸時代に歌川広重も絵に描いている程でとても綺麗で好きですね…
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これらの場所は甲乙つけがたいのですが、中でも特に黒崎か稲村ヶ崎の富士山が綺麗だと思います。
他にも箱根の大涌谷から見る富士山とか、三浦半島の秋谷海岸立石公園から見る富士山も好きで、ブログを書き始める前の4年前までは時間が有ると良く散歩しにドライブに行っていました。
さて、今回は黒崎が舞台なので黒崎の写真に戻ります。
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三浦半島の西海岸は大陸プレートの衝突する場所で隆起する地盤なんです。だからこんな風に岩礁の磯が多く見られます。
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そんな岩礁の先に見える富士山と夕日も綺麗でしょう?
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もっと海が荒れる台風翌日なら迫力の有る波頭の飛沫(しぶき)も見えるかも知れませんね。
でも富士山が綺麗に見えるのは11月末~2月初頭までの寒い時期だけですから、荒れた海の景色を撮るなら近くの長井の荒崎海岸の方が良いかも知れません。
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夕日に合わせて訪問し成功して本当に良かった1日でした。
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同じく撮影に来ていた男性も、夕日を前にして撮影すると絵に成りますね~。
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小生は写真撮影は下手な部類だと思うので、誰でももっと上手に撮影出来るはずですよ!
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綺麗な赤富士だ・・・
そうそう、最初の方で紹介した下の写真ですが…
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実はこの黒崎の鼻の丘、戦争中に海軍の要塞が作られていました。この先の油壷湾には人間魚雷の回天の出撃用の壕なんかが存在したので、ここにも配備されていたのかも知れませんね。
幸い、三浦半島に米軍が上陸する事は無く戦争は終結したので怖い場所では無く現代では子連れの若夫婦や恋人達にも愛される散歩道です♪
帰り際に又、農道で富士山の写真を撮影しました。
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本当に良い場所なので、御正月の連休中や冬の間に是非、皆さんも撮影に訪れてみては如何でしょうか?
高速道路に接続する三浦縦貫道路に戻る途中にはスカナゴッソと言う道の駅が有ります。
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すかなごっそ
ここでは三浦名物の三浦大根や蜜柑等の農産品に加えて、名物の鮪や魚の干物が直売されています。
そして小腹が空いたら御寿司やネギトロ巻なんかも売っていますよ~♪
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この日の小生の車中での夕飯に成りました(笑)。
これから御正月に突入しますが、三浦の三崎漁港の❝紀の代❞と言う御寿司屋さんは例年1月3日からやっていて御節料理に飽きた時には御薦めです!
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鮪の皮や胃袋や白子、カマ焼き等、普通のお寿司屋さんでは食べれない鮪水揚げ漁港ならではの希少部位が食べられるお店です。
紀の代
以前お店を紹介した記事です→

御正月のレクリエーションの参考に成れば幸いです。
三崎漁港には海南神社と言う凄い神社も有ります。
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海南神社
元々は筌龍弁才天(せんろうべんざいてん)と言う名前だった神社で弁天様でした。筌龍(せんろう)と言うのは筌籠(せんろう)と言う漁具が転訛した当字で、元は源頼朝公の参謀で初代の侍所別当職(軍事長官)を務めた和田義盛公を助けて源頼朝公に仕官させた御利益に由来する社名です。
ここは平安時代までは三浦水軍の三浦家から三浦半島の総社として、そして戦勝祈願の神様として崇拝され、名将の三浦義明公やその御子息で和田義盛公の従弟に当たる三浦家当主の三浦義澄公が海南神社を大切にしていた時期の三浦家は源頼朝公の配下の中でも最強の軍団でした。
その証拠に実は源義経が立案したとされる神戸の福原攻めで行った“鵯越の逆落とし”の迂回急襲作戦は、三浦家一族で横須賀市の佐原城主“佐原義連(さはらよしつら)”公が立案した作戦と言うのが実際の所でした。そして作戦を実現したのが横浜市港北区の茅ヶ崎城主でもあった多田源氏の多田行綱公でした。
そんな名将が崇敬した御利益の強い神社が海南神社で、戦国時代にも北条家三崎水軍として活躍した武将達から崇敬を集めていました。
この海南神社で毎年1月15日に行われる❝チャッキラコ❞と言う神事は❝ユネスコ無形文化遺産❞に登録されているのですが、結構、日本人の方が知らないんですよね。
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こちらも以前書いた記事が有るので、是非参考に御覧下さい。

さて、海南神社を紹介したので、神奈川県内の凄い歴史と御利益の有る神社仏閣の纏め記事も紹介して、今回の〆にさせて頂きます。

この記事は赤字部分が未編集ですが、文字制限数の1万5千字を超えてしまったので記事を分割して再編集し索引も就ける作業をする最中ですが、一応、ほとんどが解説も掲載してありますので初詣の参考としてお役に立てたら幸いです。

皆さんにとっても良い年末年始に成ります様に~♪
では、又、次のブログ記事で♪


























※赤字標記部分は随時加筆中です!
※文字数がブログ制限1万5千字を超えてしまったので今後、記事を2つに分割して改めてリニューアルし、地域ごとの索引も追加する予定です。

初詣向けに、今年も神奈川県内の凄い歴史が有り、実際に関わった歴史偉人達に御利益が有った神社仏閣をまとめて紹介する記事を更新したいと思います!
もしかしたら、皆さんの御住まいの町の神社や御寺を紹介するかも知れません!


以下の事を踏まえて神奈川県内でも"御利益の強い"神社仏閣を以下に紹介します。
●神仏の神威や加護の種類と開基様開山様の歴史事実を踏まえて御利益を説明します。
●神社仏閣ともに開く事を表す用語を「開基」で統一します。
※「創建」は本来の中国由来の文字の意味では「社会や団体に用いる言葉」ですので後に日本で勉強(本来は無理をするという意味)と同じ様に誤用された言葉ですから開基とします。
●神様が直接住んでいた神社は開基を神様とします。
●紹介する順番は開かれた時期順もしくは直接関係する偉人の事績の古い順です。
●神社は平安時代の人から見ても古い歴史を持つ延喜式神名帳に掲載されている式内社と延喜式には掲載されていないけれど古代から聖地とされた式外社を先に紹介し、その後に新しい神社を紹介します。御寺も延喜年間以前の開基の古刹から優先的に掲載します。
●寺院は現在の宗旨での中興開基に拘らず、前身寺院からの歴史も踏まえて紹介します。
初詣の参考にして頂けると幸いです。

【歴史千年以上の聖地や延喜式内社と寺院に共通の特長】
[式内社/式外社/歴史千年以上の古刹の分布と古代の海岸線]
延喜式内社と式外社と寺院と古代の海岸線 久良岐のよし
※神奈川県域で白く表示されているのが神話時代に当たる縄文時代の海岸線です。
※海岸線地図は❝神奈川県立 生命の星・地球博物館❞様の制作された物です。
神話時代から存続する神社仏閣は、古墳時代以降の成立の前鳥神社と平塚八幡宮を除いて全て縄文時代の海岸線より内陸に存在しています。これは湘南地区の古代海底だった地域が縄文時代の終わり頃に気温低下による海退が進み、更に地震で隆起したり相模川等の土砂の堆積により陸地に成り湿地帯に成り、農耕開始による干拓と耕地化が進み弥生~古墳~奈良時代に人が住める様に成ったからです。
その為に弥生時代以前成立の神話が伝承する神社は全てが縄文時代の陸地部分の水源と河川合流地点、半島の先端部か付根に所在するか、所在地の旧境内地や近所には必ず聖地だった泉、山、奇岩が存在していています。そして古墳時代以後の成立の神社と寺院化した聖地は縄文時代は海底だった所に存在しています。
日本古来の聖地は仏教でも大切にされ寺院化した場所が多く有り延喜式内社と同じ様な地形に所在しています。これ等は古代から受け継がれたパワースポットであり実際近くに縄文~古墳時代の祭祀場や古墳や集落の遺跡が発掘されています。
当然ながら関わったのも凄い人物ばかりで、その活躍の事績から御利益も証明されています。

‐‐以下神社仏閣一覧‐‐

大山阿夫利神社下社と大山山頂奥ノ院(延喜式内社)・・・関東総鎮守
 &
雨降山大山寺・・・関東三不動
 &
参道の温泉街と大山国定公園 
御利益:天候/海上交通/縁結び/地鎮/ボケ防止/厄除け

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大山夜間ライトアップ 公式拝借 久良岐のよし
場所
:伊勢原市大山(旧大住郡) 
開基:高龗神(たかおかみ)、大雷神(おおいかずちのかみ)      
中興:征夷大将軍   源    頼朝   公
   征夷大将軍   徳川 家光   公     
歴史:大山山頂奥社に石山権現大山祇神(おおやまずみのかみ)を祀る古い神社で、神社としては社殿が西暦3世紀頃に成立した。出土物は更に歴史を遡(さかのぼ)る事が出来て山頂からは古代人の大山祇神の信仰を証明する様に縄文時代~奈良時代の祭祀場が発掘されており土器等の祭器が出土している。 
富士山の神様の木花咲耶姫のお父さんの神様として武士や庶民の信仰対象に成った。 
源頼朝公をはじめ、名軍師太田道灌公や徳川家康公等、多くの成功者が大山阿夫利神社を度々訪れ信仰した。江戸時代以降は江ノ島参りや富士山登山、御伊勢参りと並び、江戸市民の憧れの観光地として栄えた。
その参道には現代も温泉街を抱え先導師(御師)の経営する宿坊が立ち並ぶ。        
天候の神様でもあり、古来、相模湾からの位置を知るランドマークが大山だったので築地市場関係者等、漁業と商船や商社の関連業界から信仰が厚い。又、日本の歴代統治者が信仰を集めた歴史から、多くの講が組まれ現在も大山詣は企業単位でも盛ん。 
周辺には樹齢千年を超す大山桜があり、秋には紅葉でも有名な観光地。       
参道の温泉宿坊は、どこも大山名物の豆腐料理と猪鍋、神代から続く酒造り文化の清酒を提供していますので日帰り湯や豆腐料理を堪能して見て下さい。
※大山阿夫利神社は下社で、御神体は大山の山頂に存在します。

有鹿神社奥宮(延喜式内社)・・・古代一之宮

御利益:雨乞い/農業豊作/縁結び/夫婦円満
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場所:相模原市南区磯部、勝坂遺跡の有鹿谷(旧高座郡)。
開基:有鹿比女命(あるかひめのみこと)。縄文時代には既に湧水の聖地として存在した。
   ※海老名市の有鹿神社本宮は有鹿比古命(あるかひこのみこと)が主祭神。
中興:天智天皇
   孝謙天皇
   清和天皇
   相模国司歴代
   海老名郷領主 海老名家 歴代当主
歴史:縄文時代の遺跡のど真ん中に存在する古社で、古代からの自然湧水の聖地として存在した。主祭神の有鹿比女命(あるかひめのみこと)が湧水の聖地を神格化し御祭した神社で、神奈川県下最古級の歴史を持つ。
神社の上の丘には勝坂遺跡も有って、縄文時代の生活を学べる竪穴式住居等が再現されている。
その歴史の古さと有鹿谷の神秘性から歴代天皇から崇敬された歴史記録も残る。
現在では社殿こそ存在しないが、奥宮として石の祠(ほこら)が鎮座しており古代からの強い御神威によって御利益を授かれる。

有鹿神社本宮・中宮(延喜式内社)・・・正一位、飛鳥・奈良時代天皇勅願所
御利益:雨乞い/農業豊作/縁結び/夫婦円満
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場所:海老名市上郷(旧高座郡)。
   ※本宮は弥生時代の遺跡を内包し、奈良時代には国府鎮護として鎮座した。
   ※相模国国府跡や国分寺跡が徒歩30分程の場所に在る。
   ※相模原市の有鹿神社奥宮は有鹿比女命(あるかひめのみこと)が主祭神。
   ※奥宮は縄文時代にには存在。
開基:有鹿比古命(あるかひこのみこと)。
中興:天智天皇
   孝謙天皇
   清和天皇
   相模国司歴代
   海老名郷領主 海老名家 歴代当主
歴史:本来の有鹿神社の草創期の史跡は縄文時代の勝坂遺跡と共に相模原市緑区に現存するが、この本宮の場所も❝有鹿の社(もり=森)❞と言われた聖地であり弥生時代の遺跡が周辺から発掘されている。
ここが本宮と成った所以(ゆえん)は奈良時代に有鹿神社本宮一帯の海老名郷(昔は有鹿郷と言った)が相模国の国府と成った事に因る。有鹿神社は近所に現存する真言宗総持院は明治時代に成るまで有鹿神社と一帯に成り、その規模は塔頭僧房合計12坊や幾つもの摂社を巨大な境内地に抱える大規模な神宮寺だった。
更に、中宮、奥宮を抱え、天智天皇の時代の西暦664年に国家鎮護の祭礼が行われた。以後朝廷の崇敬を受けた。

深見神社・・・延喜式内社
御利益
:立身出世/雨乞い/農業豊作/土地開発/地鎮
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場所:大和市深見(旧高座郡)
開基:闇神(くらおかみ)
中興:雄略天皇
   征夷大将軍     源 頼朝 公
   渋谷庄領主     渋谷重国 公
   相模守護代     太田道灌 公
   相模守      北条氏康 公・・・以下歴代北条家当主
   大膳太夫     武田信玄
   徳川幕府寺社奉行 坂本重安 公
歴史:闇神(くらおかみ)と言う在地の神様がこの地を治めたのが聖地としての始まりと神社の縁起に伝わる。その後雄略天皇が社殿を造営して神社と成った。古くから存在して神社で闇神は雨乞いの神とされ、また境内社に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)も祀る事から古代からの農地開発と農業の豊穣に深い関わりが有って庶民~時代時代の権力者から崇敬を集めた。
神の龗は龍神を指し転じて水神の意味で有り、龍神は古来、雨乞いの神であり農業の神様でもある。
深見神社の縁起に記された社名由来の説明では古代、この地域に海の湾部が近在し❝深い海❞→❝ふかいうみ❞→❝ふかみ❞→深見と転化したのだろうと推測されているが、残念ながら深見神社周辺が海だった事実は無い。
深見神社の社名の由来のヒントに成る場所は玉川上水の取水堤の在る東京都羽村市に存在し、同市の田ノ上地区には古くから淵(ふち=川の深い場所=深水(ふかみ))に木製の龍を沈める雨乞い神事が行われていた事実が有る。もう一つのヒントは大山阿夫利神社の御祭神の一柱である高龗神(たかおかみ)が水神であり龗の字が龍神を指す事、この2つの事例を踏まえると深見神社の御祭神が闇(くら)い龍神である事、神社の社名が深見=ふかみ=深水に通じる事からも淵(ふち=底の見えない深水)にまつわる信仰と関係が有る事が解る。そして神社の背後には境川が存在する事からも社名の由来は龍神が住んだであろう境川の深水=深見と成るだろう。
この深見神社を信仰した武将達は皆、智勇兼備の名将で出世した人物ばかり。特に渋谷家は子孫親類が多く繁栄している。
境内には神奈川の銘木100選の一つ、春楡(はるにれ)の御神木が有る。

師岡熊野神社・・・式外社
御利益
:子孫繁栄/雨乞い/治水/勝負運/サッカー上達(?)
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場所:横浜市港北区師岡(旧橘樹郡)
開基:全寿仙人
中興:光孝天皇
   宇多天皇
   朱雀天皇
   村上天皇
   左京太夫  北条早雲 公
   征夷大将軍 徳川家康 公
   征夷大将軍 徳川家光 公
   征夷大将軍 徳川家綱 公
歴史:光孝天皇より「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を授けれれた朝廷公認の聖地。
縄文時代に海の真ん中に突き出した太尾半島の付け根だった部分に位置する神社で、「い」「の」「ち」3つの池を聖地として抱える天皇家の勅願所だった。海に突き出した半島だった地形なのに飲用に適した清涼な自然湧水が有る事から境内には縄文時代の遺跡も発掘されている。其の為、古代人にとっても霊場として大切な場所だった事が平安時代にも伝わっていて、源氏に繋がる歴代天皇からも信奉された。
朝廷から勅使が下向すると、「い」「の」「ち」の池で神事を行っていたが、神奈川県と横浜市の教育委員会が歴史的重要性を軽視した為に「ちの池」は埋め立てられて現在では大曾根第二公園に成ってしまった。
ここを支援した武将は不利な合戦でも奇跡的な逆転勝利を治め、子孫も大いに繁栄した歴史実績が有る。
近年はJリーグのアイコンが熊野社の御神紋の八咫烏である事から、サッカー選手を志す若者にも多く崇敬されている。

石楯尾神社・・・延喜式内社
御利益:災厄事故避け/敵人懲服/勝負運/学問上達/立身出世
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場所:相模原市緑区名倉(旧高座郡)
開基:日本武尊
中興:応神天皇
   文徳天皇
   出羽介   坂上石楯 公
   征夷大将軍 源 頼朝 公
歴史:石楯尾(いわたておの)大神が主祭神。
日本武尊が装備していた天磐楯(あまのいわたて)を埋蔵し御祀りしたのが石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)の始まり。中央線の開削工事で破壊された烏帽子岩が聖地として近年まで鎮座していた。
そこに応神天皇が東国へ行幸された際に行在所(あんざいしょ=仮御所)が建てられた場所に存在する神社。
奈良時代には逆臣藤原仲麻呂を討伐した名将の坂上石楯(さかのうえのいわたて)公が当地に居館を構えていた。
早くに朝廷から官位を賜り国家鎮護の神社として大切にされた古社だが、武田信玄が三増峠合戦前の小田原城攻撃で進軍した際の略奪で放火され古代からの神器等は消失した。この合戦については武田信玄の重臣高坂昌信が主君の行為を「何も得る物も無く身内もボロボロに成った」と酷評する程に武田軍は苦戦したが、その後の武田家の家運は御存知の通り一族ことごとく滅亡・・・。
日本武尊の災難を度々守った天磐楯を御神体として始まった神社だけ有り、八方除けの一之宮寒川神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。又、社殿を破壊した武田家を滅亡させ一族絶滅させた御神威、武田家による社殿破壊以前に石楯尾神社を保護した北条家が豊臣秀吉に改易されても北条家の一族と家臣団を生存させ多くの北条家家臣団を徳川幕府奉行職や学者として大成させた御利益は群を抜いている。

走水神社・・・式外社
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奥宮・・・須賀神社、神明神社、諏訪神社
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御所ヶ崎・・・日本武尊と弟橘姫の行在所址
御利益:縁結び(恋愛)/夫婦円満/勝負運/陸海交通安全/料理上達/漁業守護/立身出世
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場所
:走水神社:横須賀市走水(旧御浦郡)
   御所ヶ崎:走水神社近く、旗山崎公園内の丘。
開基:日本武尊(やまとたけるのみこと)
   ※軍神(勝負)/縁結び/陸海交通の神様
   弟橘媛(おとたちばなひめ)日本武尊の妻
   ※縁結び/夫婦和合/陸海交通の神様
   大伴黒主(おおとものくろぬし)久応
   ※神話上は料理と釣りの神様、歴史上は水軍の豪族。
中興:明治の元勲以下7名…
   東郷平八郎 公
   乃木希典 公
   伊東祐亨 公
   上村彦之丞 公
   高崎正風 公
   井上良馨 公
   藤井茂太 公
歴史:日本武尊と弟橘媛様の御一行が数日間滞在した場所に建てらた神社で神聖な場所。
日本武尊達が房総半島へ渡る際に、こちらの走水神社の前の海の左側にある御所ヶ崎に数日間滞在していました。その事から同地は御所ヶ崎と呼ばれている。
現代でも、この走水神社の前で神話の通り国道16号も東京湾をつっきって千葉県で国道16号が突然復活する。
大伴黒主(別名:久応)様は日本武尊達を歓待した地元の豪族で漁民で料理人。横浜市神奈川区六角橋の宝秀寺は大伴久応の邸址と伝わり、そこに日本武尊が滞在した伝承が有る。走水神社の伝承では大伴黒主は日本武尊を接待した後に請われて後に古代大和朝廷の料理長に成ったそうだが、日本神話では日本武尊は岐阜県と滋賀県の県境に在る伊吹山辺りの神(豪族)に帰路を阻まれ三重県の鈴鹿辺りで病没している。 史実としては大伴一族は水軍を率いて天皇家の御林軍も率いた一族なので、神話とも整合性が有る。
日本武尊と弟橘姫の仮御所だった走水海岸の御所ヶ崎周辺からの眺望は素晴らしく、海に突き出し昔は島だったであろう御所ヶ崎と地続きの丘の上から見る三浦半島の海岸線の先には富士山に夕日が沈む姿が見られ、正に乙姫伝説の海の中の竜宮城の形容に相応しい。
御所ヶ崎の社殿は砲台建設時に明治政府によって接収され破壊された。御分霊だけ明治の元勲の中の信仰心厚い面々によって奥宮に保護合祀されたが古代の仮御所の史跡は永遠に失われた。
日本武尊と、御妃様の弟橘姫様が仲睦まじい御夫婦の神様だった事と、更には走水神社の社伝で料理達者であったであろう大伴久応黒主様の家系は親衛隊や水軍の将を務めた歴史事実、東郷平八郎元帥達、対馬海戦でロシア帝国の大軍勢を撃破した名将達の崇敬した神社としての実績も有ったりする場所なので戦勝祈願の聖地として紹介しても過言では無い事、それら全ての御利益に預かれる場所である訳です。
※社殿を御参りするだけでなく、背後の鎮守の山に在る奥宮を御参りして下さい。そちらが日本武尊の時代の社殿跡と伝わり、日本武尊所縁の三柱の神様の祠(ほこら)が存在しています。
※御所ヶ崎は現在は御所ヶ崎砲台史跡と成っていて一般非公開。見学には横須賀市の公園管理課へ事前予約が必要です。
※近くには走水海岸や観音崎といった海水浴場、観音崎灯台もあり綺麗な風景を楽しめる観光地が多くあります。走水海岸には「やまに」と言う旅館や「かねよ食堂」といった地魚料理の有名な店もあり、観音崎にも料理が評判の京急観音崎ホテルが在ります。初詣に合わせて宿泊し、周辺の猿島や横須賀見物をするのも良いです。
※東郷元帥がバルチック艦隊を撃破した際の旗艦:戦艦三笠も走水神社から車で15分程の汐入地区に公開展示されています。
    
橘樹神社・・・式外社
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子母口富士見台古墳(弟橘姫御陵
)
御利益:縁結び/夫婦円満/陸海交通安全/漁業守護
        
2014-10-25-06-32-00
場所:川崎市高津区子母口(旧橘樹郡)
開基:弟橘媛(おとたちばなひめ)
   ※神社背後の住宅街は弟橘媛の古墳跡
   ※弟橘媛の古墳は最高部が一部現存
中興:徳川幕府浪士組取締役 山岡鉄舟 公
   (浪士組は新選組の前身団体名)
歴史:日本武尊の軍隊が走水神社の在(あ)る場所から東京湾の海を越えて千葉に渡る際に、海が荒れて航行不能な事態に陥り、その危機を治めるべく弟橘媛様は自ら東京湾に入水する事で人柱になり海を鎮(しず)めた。
その際に当時は海面が現代より高く、遺品の髪飾りが流れ着いたのが古代海に面していた高津区子母口で、橘樹神社で背後の円い丘の住宅街は弟橘媛様の大規模な円墳の跡。神奈川県教育委員会が保護も開発事前調査も怠った為に大部分が宅地開発されて破壊されてしまった。
因みに弟橘媛様の衣類が流れ着いたのが千葉県袖ヶ浦市や富津市(元は布津と書いた)で、日本武尊が弟橘媛様を思い出し嘆いた場所が君津市(君はもう帰らないんだねと悲しんだ港)。
背後の宅地に弟橘姫様の古墳の頭頂部の一部だけが公園として保存されて現存する。神社は、その古墳の最高部に向かって築かれている。恐らく、古代は背後の古墳そのものが御神体で、神社は遥拝所だったのだろう。
考古学的には境内地周辺一帯は橘樹郡の郡衙だったと推測されており 、弟橘姫の御陵を周辺に古代から港を抱え栄えた村が広がっていた。

寒田神社・・・延喜式内社
御利益
:海外渡航安全/海上交通安全/勝負運/縁結び/夫婦円満
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場所:神奈川県足柄上郡松田町惣領(旧足柄郡)
開基:日本武尊
中興:大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=仁徳天皇)
   征夷大将軍 源 頼朝 公
   征夷大将軍 徳川家光 公
歴史:神社としての最初の社殿造営年代が仁徳天皇の時、西暦315年と伝わる古社。
伝承では神社造営以前に日本武尊が東征の際、この地に在った集落に滞在し、木製の御椀に注いだ酒を寒田神社の前を流れる川に撒いて神事を行ったのが聖地としての由来。その後、日本武尊が戦後に戻るとまだ御椀に酒の香が残っていた事から現在神社の前を流れる川の名前が酒匂川に成ったとされる。この神話を証明する様に、社宝の欅白木で作られている大小一対(いっつい)の御椀が現存し考古学的に弥生時代の形状をしている。
その歴史と日本武尊の武運に肖(あやか)る為に多くの武士が崇敬したが、源頼朝公や徳川家光公から社領を寄進されている。しかし江戸時代初期の酒匂川の氾濫で境内地と社領が広範囲に被害を受けて縮小し現在に至るものの、今でも寒田神社の境内は普通の神社と比較してかなり広大な規模を維持している。
後に日本武尊の御妃、弟橘姫様の御分霊も勧進された事から夫婦神となり縁結びの御利益も授かれる神社でもある。アメリカ最初の宇宙飛行士と成ったジョン・グレン氏も宇宙飛行前に寒田神社を参詣し、日本武尊の海外渡航の御利益に預かって地球圏外の旅から無事に帰還した歴史が有る。

久應山 攝取院 寶秀寺
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塩舐め地蔵(神大寺廃寺参道址)
御利益:料理上達/立身出世/交通安全
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場所:横浜市神奈川区六角橋(旧橘樹郡)
開基:大伴久応(黒主)
   日本武尊
中興:秀蓮社清譽達道上人
歴史:六角橋地名由来に成った聖地が後に寺院化した場所。ここに居館を構えていた大伴久應(走水神社社伝では大伴黒主)が日本武尊を自邸に招き歓待したとされる。その際に日本武尊が使用した箸が六角形で以後、宝とされ伝わっていたので六角橋の地名由来と成ったとする説がある。
実は古代の神奈川区域は“店屋(てんや)”と呼ばれ橘樹郡衙(ぐんが=郡の政庁)と久良岐郡衙を繋ぐ中継拠点だったと推定されている。新編武蔵風土記稿にも江戸時代に現在の神奈川区三枚町(旧:三枚橋村)に天屋(てんや)=店屋の地名が残っており古代の駅伝制の名残と紹介されている。実際、橘樹郡衙だった橘樹神社~久良岐郡衙跡と推測されている横浜市南区の弘明寺の中間地点に当たるのが六角橋を中心とした地域で、六角橋商店街は旧綱島街道に当たり、その先には古代から聖地だった師岡熊野神社が存在する。
宝秀寺の入口には大伴久應の供養碑と土饅頭(小型円墳)が有るが後世の供養塔替わりの物だろう。
宝秀寺の近くに塩嘗地蔵があり、昔は疱瘡(ほうそう)=皮膚病治癒の御利益が有るとされ大切にされて来たが、疱瘡治癒の御利益が有る神様は五十猛や素戔嗚尊を御祭神とする場合が多く宝秀寺と関係が深い日本武尊は走水で海上交通の神である須賀神社を信奉して素戔嗚尊を祀っていた。実はこの塩舐め地蔵前の住宅街の小道が古代の街道であり神大寺と言う大寺院の参道址だった。神大寺は寺名からするに前身寺院が神道的な聖地だった事が推測され、微高地に存在するのでこちらは元々は日本武尊か大伴久應を祀った神宮寺だったろう事が推測出来る。
大伴家は古代に氏族を多く関東に入植させた豪族で水軍を率いた佐伯家の一族であり天皇の前身の大王を守る近衛軍団一族でも有った。その一族は大伴部と呼ばれ神話でも日本武尊に叔母で元伊勢神宮(丹波国)の斎王だった倭姫から与力として大伴軍団と草薙の劔を貸与されている記載が有り走水神社と宝秀寺の神話とも整合している。
何にせよ神話に残る人物が直接関わり、大将軍を神格化した様な日本武尊に料理を提供して接待した接待奉行で料理奉行で水軍の武将の大伴久應が神格化された聖地の歴史を祀る寺院なので料理上達や立身出世の強い御利益が期待できる上に、海上交通交通安全の御利益も期待出来る。皮肉な話だが、近くには免停食らった人間を改心させる為に集める神奈川県警の交通安全センターが在ったりする。

高部屋神社=高部屋八幡・・・延喜式内社
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丸山城址公園(千鳥ヵ城址)
御利益
:漁業豊漁/農業豊作/陸海交通安全/武芸(スポーツ)上達/雨乞い
2016-01-03-12-42-57
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場所
:伊勢原市下糟屋(旧大住郡)
※現在地に平安時代に末期に社殿を遷宮した。渋田川上流の大山の麓の聖域渋田山に本宮の祠(ほこら)が現存する。
開基:聖地渋田山周辺の古代人?
中興:糟屋庄領主 糟屋有季 公
   関東管領家 扇谷上杉定正 公
   相模守護代 太田道灌 公
   左京大夫  北条早雲 公 以下歴代当主
   北条家臣  渡辺岩見守
   征夷大将軍 德川家康公
歴史:本来の社殿は関東総鎮護の聖地、大山山系の一つ、渋田山に紀元前より存在したと伝承する。
御祭神は三筒男命(みつつおのみこと=住吉大神)、神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)、息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと=神功皇后=臺与?)、誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=仁徳天皇)、磐媛之命(いわひめのみこと)と、いずれも海上交通や土地開発や海外渡航と戦争に関係の有る天皇や神様な上に、本宮の在った渋田山が弥生時代前後まで周辺が海だった事からも、水神様と土地開発と先勝祈願の神様としての性格が有る。
古来渋田山は奥津城と呼ばれた霊域だったので、古代人の関与が深い土地でもあった。
明治時代まで「汐汲み神事」が行われており、海岸線が後退し内陸16kmに神社が取り残されても歴代の宮司が徒歩で海まで海水を採取しに行く神事が続いていた。明治時代に伊勢原皇大神宮の管理下に置かれ伝統神事は途絶えたが、現在も社殿の注連縄(しめなわ)に海藻の「神馬藻(ホンダワラ)」を飾る。
平安時代末期に成ると現在の社殿のある丘陵に要塞を築いて糟屋庄を領有した糟屋有季公が、所領の総鎮守として渋田山から現在の高部屋神社の所在地に社殿を移転させた。本来の渋田山の本宮跡には現在は社殿は無いものの御神霊を祭る祠(ほこら)が今も鎮座している。
糟屋有季公は武勇に秀で、源頼朝公による逆臣源義経討伐で活躍し、義経の重臣佐藤忠信を討取り堀景光を逮捕する事に成功している。
戦国時代に渡辺岩見守により社殿が再建し、江戸時代に成ると徳川家康公より社領安堵の御朱印を賜り江戸幕府より保護された。
この高部屋神社は式内社で有る事から古来より有名で、江戸時代に江戸の町人や武士に流行した「大山参り」のコースに組み込まれており、神社の鳥居前の道も旧大山街道だった事や下糟屋の宿場町だった事で、御利益に肖(あやか)りに来る非常に多くの参拝客で賑わった。
又、いずれも天皇も「天皇」の呼称が始まる前の古代の正式な名のまま祀られている事も、由緒有る古社である事を物語っている。江戸時代には高部屋八幡宮の名で親しまれ雨乞いの神様として有名だった。
※高部屋神社の丘一帯は軍事拠点としても重要な場所だったので、鎌倉時代~戦国時代の歴代の領主によって城塞として使用され、各時代ごとに改修された事が解る城址公園として、近年国道建設で分断された丘陵の一方は丸山城址公園が整備されて見学出来ます。
※海に関係する神社だけあり、屋根の唐破風部分には浦島太郎伝説にまつわる彫刻が有ります。
※2017年に国の登録有形文化財に指定。

寒川神社・・・一之宮、延喜式内社
御利益:八方除け(災厄避け/交通事故除け)/縁結び/夫婦円満/芸事上達/TV視聴率向上
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場所:高座郡寒川町(旧高座郡)
開基:寒川比古命・寒川比女命
中興:雄略天皇
   征夷大将軍 源 頼朝 公
   左京大夫  北条早雲 公・・・以下歴代北条家当主
   大膳太夫  武田信玄 
歴史:相模国十三座の内で早々朝廷から官位を与えられた3座の内の1座で、相模国の一之宮の格式を持つ。
追儺祭と言う神事が毎年1月2日に行われるが、現代の神道では仏教の様式の影響を受けた追儺祭を行う場所が多い中で、この寒川神社や京都の上賀茂神社等の生粋の古社は古代からの様式を継承しており境内に在る湧水池の水を夜中に神職が採取して神前に供える事で清前(きよさき=御神水)にした後に、境内の四方八方に清前を撒いて清める。
古代に一之宮にも定められた格式から朝廷や多くの武将に重視され雄略天皇を初め、源頼朝公や北条家歴代当主、武田信玄等から崇敬を集めた。
現代ではTV関係者の崇敬厚く、崇敬すると高視聴率が得られるとされ芸能人も多く信奉している。
又、長い参道は蛇行しており、古代の相模川河畔にそって参道が設置されていた名残と伝承している。
寒川神社が有る場所の目の前の相模川下流域は古代に海だったので、海岸線だった可能性も残る。
一之宮だった歴史と大和朝廷に重視された八方除けの御利益は、日本武尊を幾度も戦場で守った天石楯を御神体として始まった石楯尾神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。
※現在の社殿は平成に成って建て替えられた物だが、他の一般的な神社とは比較にならない規模を有している。

川勾神社・・・二之宮、延喜式内社
御利益:土地開発/紡績業繁栄/安産/厄除け
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場所:中郡二宮町(旧淘綾(ゆるぎ)郡)
開基:垂仁天皇=活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
   磯長国国宰 阿屋葉造(あやはのみやつこ)
   ※垂仁天皇の勅命で阿屋葉造が御社を造営。
中興:日本武尊
   磯長国造 大鷲臣命(おおわしのおみ/おおとりのおみのみこと)=和珥(丸邇)氏=丸子氏
   相模国造 穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)=鈴木氏
   依通姫
   鎮守府将軍 源 義家 公
   征夷大将軍 源 頼朝 公
   征夷大将軍 宗尊  親王
   相模守   北条氏政 公
   征夷大将軍 徳川家康 公 以下歴代徳川家当主
歴史:佐賀牟(さがむ=武蔵国と相模国東部)国が分割されて、磯長(伊豆と相模西部)国も伊豆と相模西部に分割され、相模国東西が合併する際に、新設される国の国府=一之宮の座を佐賀牟国側の寒川神社と磯長国側の川勾神社が争った伝承が残る。これが神奈川県で行われる国府祭と言う伝統行事に成っている神事で、一之宮寒川神社~五之宮平塚八幡宮までが神揃山に集まり論戦をする内容に成っている。
日本武尊を初め多くの古代からの支援者の名が伝わり、依通姫が安産祈願を川勾神社で行った伝承から、現在では広く安産の御利益で知られる神社と成っている。源頼朝公も妻君北条政子の出産の際に安産祈願を行い成就した事から社殿を造営寄進している。
上杉謙信と武田信玄の小田原侵攻時に放火され焼失、武田信玄との三増峠合戦が起きた1569年の翌年、北条氏政公によって社殿が再建された。徳川家康公も名護屋駐留前に祈祷を受けて、朝鮮出兵せずに済んでいる。
歴史事実から厄除け、安産祈願の神社として特に強い御利益が期待出来る。

比々多神社・・・三之宮、延喜式内社)   
御利益:酒造/防火/子宝/安産/農業/地鎮/縁結び/陸海交通安全

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場所:伊勢原市三ノ宮(旧大住郡) 
開基:神武天皇
中興:崇神天皇
        垂仁天皇
        持統天皇
        孝徳天皇
        聖武天皇
        淳和天皇
        相模国司  布施色布知公
        初代宮司  紀    益麿 公          
        相模国司  橘    峯嗣 公                      
        征夷大将軍 源 頼朝 公
        相模守護  三浦道寸 公
        征夷大将軍 徳川家康 公
歴史:比々多神社の縁起にある歴代天皇から信奉された逸話を証明するかの様に、神社の周辺のみならず旧本殿の在った場所や境内からも縄文〜奈良時代の遺跡や古墳が大量に発掘されている周辺地域を含めて文化的歴史的にも重要な神社。
古代より天皇家や将軍家から信奉され、背後に控える大山と大山阿夫利神社を信仰対象とした古代人の聖地を引き継いでいる神社。
また管轄する神社に関東で子宝安産の神様として有名な子易神社の本家本元を抱えている。
由緒有り歴史的価値に富む神社。
裏山のミカン畑の中の古代社殿跡の元宮でだが、そこに至るまでの広大な範囲が旧境内地。
元宮に至るまでの広大な土地は前政府の宗教政策と太平洋戦争の敗戦時の宗教政策で土地が接収された。
元宮に祀られる祠も自由に御参り出来る。元宮に行く途中の恵泉女子短大園芸生活科伊勢原校舎は古代の比々多神社境内地で埒免(らちめん:埒=防護壁、免=面=削平地・・・壁で囲まれた聖域)の名で呼ばれた聖域だったが、神奈川県教育委員会がその重要性を無視したまま発掘調査を怠ったばかりか恵泉女子短大伊勢原校舎建設時にも事前調査を行わず、結果的に発掘中に古墳が破壊され土木作業者によって多くの出土物が略奪された。しかし一部は義挙した比々多神社宮司家と氏子衆によって作業者から買い戻され、比々多神社内に併設された郷土資料館に保管展示される事となった。
※併設されている郷土資料館では、古墳群から出土した宝剣等を見学出来ます。

前鳥神社(四之宮/延喜式内社)
御利益
:学問上達/合格祈願/芸事上達/土地開発/勝負運
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場所:平塚市四之宮(旧大住郡)
開基:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)
中興:征夷大将軍 源 頼朝 公
   左京大夫  北条早雲 公
   征夷大将軍 徳川家康 公
歴史:応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)”様が移住した場所。
前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在している。古墳からは大和朝廷との濃い繋がりを示唆する三角縁神獣鏡が発掘されている事から、莵道稚郎子命と推測され伝承とも合致している。
莵道稚郎子命は日本で最初に漢学を学んだ人物で、更には摂社に菅原道真公も御祭する事から古くから学問の神様として有名で、現代では合格祈願に来る学生も多い。
源頼朝公が北条政子の安産祈願を行い成就した歴史があり安産の御利益も期待出来る。北条早雲公が前鳥神社の宮司家の支持を受けて岡崎城を落城させ三浦家に勝った歴史が有る事から勝負運=合格祈願の御利益も期待出来る。

鶴峯山八幡宮=平塚八幡宮・・・一国一社八幡宮、五之宮、式外社
御利益:海外渡航安全/海上交通安全/工業技術上達/勝負運/地鎮
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平塚八幡宮様公式拝借画像七夕祭り 久良岐のよし
場所:平塚市浅間町(旧大住郡)
開基:仁徳天皇
中興:推古天皇
   天武天皇
   文武天皇
   聖武天皇
   征夷大将軍     源 頼朝 公
   征夷大将軍     徳川家康 公
   徳川幕府関東代官頭 伊那忠次 公  
歴史:平塚八幡宮は明治時代まで鶴峯山八幡宮と言う名前だった。古墳時代に大地震が起きた際に仁徳天皇が国土安穏を祈り應神天皇の御神霊をお祀りされたのが始まりで、各国に一社づつ勧進された相模国八幡宮の本来の元締め。鶴岡八幡宮は平安時代末期の造営で、歴史的に一国一社八幡宮は鶴嶺八幡宮だった。
後に推古天皇の時代にも大地震があり、人々を案じられた推古天皇は「鎮地大神」の御宸筆を捧げて国家安泰を祈願して社殿を造営した。天武天皇はこの地租を寄進、文武天皇は宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を奉納、そして聖武天皇は相州一国一社の八幡宮(霊場)として法華経を奉納した。
寛治元年(西暦1087年)には平塚八幡宮の御分霊が岐阜県高山市山口に桜ヶ岡八幡神社として分祀された。
鎌倉時代以降も源頼朝公が夫人政子の安産を祈願して神馬(白馬)を献上した。
江戸時代に慶長年間も徳川家康公により社領が寄進と参拝を賜り、関東総奉行の伊奈忠次公社殿を再建を御命じに成られた。徳川幕府治世下では
東海道8番目の宿場として賑わい門前の大門通りは東海道、須賀港、厚木往還、大山道の重なる交通の要衝として発展した。
明和2年平塚宿の僧本誉還真が18年間集めた浄財で青銅製の二の鳥居を奉納。
大政奉還の後、明治政府の宗教政策により社名を「八幡宮」から「八幡神社」と改称させられた。
明治27年には明治天皇の王女常宮昌子内親王、周宮房子内親王の御参詣を賜り、社頭に松樹を御手植えされ、御神池に緋鯉を放生された。
大正12年、関東大震災の震災で社殿が倒壊、再建が昭和三年に完成した。
第二次世界大戦後の昭和53年8月に表記を「八幡宮」へ戻した上で、現在の平塚八幡宮に改称した。
7月7日には日本三大七夕祭りの一つ“平塚七夕祭り”が門前町で開催され大変賑わう。
8月15日の
例大祭、5月5日に斎行される千数百年来の歴史を持つ“国府祭(こうのまち)”の他の5社宮司家との問答神事が行われる。席次の譲り合いの神事は神揃山に移動して行われる。
9月中旬に行われる“
ぼんぼり祭”が行われる
※ロシア帝国が日本を含む東アジアの植民地化を狙いバルチック艦隊を東アジアに遠征させた際に、日本の東郷元帥率いる日本初の連合艦隊が対馬海戦でロシア帝国海軍を撃破した際の旗艦:戦艦三笠は、八幡宮の御祭神、大鞆和気命(誉田別尊)の神仏習合時代の尊称、‟八幡大菩薩の名の御分霊”を艦内に守護神として安置していました。太平洋戦争で戦艦大和や武蔵が撃沈された際は軍部は信仰心薄く戦艦内から各御神霊を撤去していたのは知る人ぞ知る史実だったりします。

柳田大神・・・六所神社、相模国総社/式外社
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聖地:神揃山

御利益:縁結び/一之宮~五之宮の神社全ての御利益。
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場所:六所神社:中郡大磯町(旧淘綾郡)
   神揃山:中郡大磯町国府本郷1408−2の丘の削平地 (旧淘綾郡)
開基:出雲神族の一族(関東最古の大社、鷲宮神社の伝承とも整合性有り。)
中興:相模国歴代国司
   征夷大将軍 源 頼朝 公
   相模守   北条氏綱 公 以下歴代北条家当主
   征夷大将軍 徳川家康 公
歴史:❝国府祭(こうのまち)❞神事に登場する由緒有る神社。
崇神天皇の頃に出雲神族の末裔が当地に移住して来た際に、奇稲田媛の御分霊を主祭神として祀ったのが起源で当初の社名は柳田大神だった。神話では紀元前50年頃となる。
この伝承は初代相模国司が建御名方神(伊勢都彦)=諏訪神系出雲神族の御神孫とする伝承とも整合性が有る。関東最古の大社格の神社である埼玉県久喜市の鷲宮神社の伝承とも整合性が有る。
この神社一帯を開拓したのが出雲神族なのは他の延喜式内社のとも相似性が有り縄文時代の終わり~弥生時代に関東に稲作を広めたのが素戔嗚尊の御神孫で有る事良く解り、素戔嗚尊が建国したとされる須賀国の国名の須賀の二文字を含む地名が三浦~房総半島~北関東~東北南部に多く残る事とも整合性が有り、この六所神社の縁起とリンクしている。言い方を変えれば縄文時代を終わらせ農耕を広めたのは素戔嗚尊の眷属と言う事に成り、米の生産によって財産としての食料の備蓄の習慣が生まれ大規模な集落が形成され小規模国家が生まれた経緯を辿る事も出来る。出雲神族が農耕を広めた故(ゆえ)に出雲大社に神々が参集する神有月の神事が行われる様に成った事も理解が出来るのが、弥生時代以降に造営された六所神社や鷲宮神社の伝承と神事でもある。但し、地形上は紀元前50年代当時の現在の六所神社の境内地は海の底か海波に洗われる磯辺だった筈なので、現在❝国府祭(こうのまち)❞神事が行われる六所神社近所の❝神揃山❞の存在と、六所神社の異名が❝相模国総社❞で有る事、御祭神に奇稲田媛の他に一~五之宮を祀る事実を考慮すると、柳田大神と言われた頃の古代の境内地自体は神揃山だったと推測出来る。尚、神揃山周辺の住所は国府本郷なので相模国府の海老名移転以前の所在地とも考えられている。
総社だけあり、ここに御参りすると一~五之宮の御参りをしたのと同じ事に成るので、とても有り難(がた)い古社である。

宇都母知神社・・・延喜式内社
御利益
:対人関係改善/家内安全/厄除け/農業豊作/子孫繁栄/学力向上
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場所:藤沢市打戻(旧高座郡)
開基:雄略天皇
中興:朱雀天皇
   鎌倉幕府執権 北条貞時 公
   徳川幕府旗本 高木正次 公
歴史:雄略天皇より幣帛を賜り神事が行われた記録、朱雀天皇によって大和国の泊瀬から若日下部命(わかくさかべのみこと)の御分霊が勧進され祀られた記録が残る。この若日下部命は名前からして草壁皇子の事だろう。
草壁皇子は天智天皇と天武天皇、対立した両系統の血を引く皇子である事から争い事を治める祈願を込めて若日下部命の御分霊を主祭神に加えて御祀りした事が推測出来る。丁度、朱雀天皇の時代には関東で平将門の乱が勃発したり、四国や山陰地方では藤原純友の乱が起きる等、戦乱状態に陥っていた事実が有る。この為、宇都母神社に朱雀天皇が期待したのは藤原家の専横されていた朝廷と、それに歯向かった坂東平氏の融和、若しくは争乱後の関東地方の平安を祈願した御心痛が垣間見える。
この宇都母知神社に祀られた若日下部命の御利益か、平将門の乱は収束し、本来は先代の醍醐天皇の忠臣だった平将門派で将門公の叔父に当たる平良文(よしふみ)公が将門公の遺領を引き継いだ上で朝廷に帰属し、嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)公と同盟を結んで関東における源平協力体制が確立された。
結果的に宇都母知神社は強い家内安全や争い事回避の厄除けの御利益が期待出来る神社でもある。
鎌倉時代には鎌倉幕府の第9代執権を務めた北条貞時公に信奉され社殿が改めて造営された。
江戸時代に成ると旗本の高木正次公に信奉され支援を受けた。
宇都母知神社は古代の半島の付根に位置する場所に立っており、他の相模国延喜式内社同様に古代の海岸線に近くに鎮座している。境内社には菅原道真公の御分霊も祀られており、学問での御利益も期待出来るが直ぐ横には慶応大学湘南藤沢キャンパスが在ったりする。
現代、15000㎡に及ぶ比較的広い境内地は風致地区指定を受け、神奈川県下の貴重な緑地と成っている。
他の延喜式内社同様に神仏習合時代の文化が残り、立派な鐘楼が現存している。

小野神社=閑香大明神・・・延喜式内社
御利益: 武芸(スポーツ)上達、学問上達、実務力向上、子孫繁栄
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場所:厚木市小野(旧愛甲郡)
開基:行基 大僧正
中興:鎌倉幕府御家人  愛甲季隆 公
   鎌倉幕府政所別当 大江広元 公
歴史: 奈良時代の元正天皇の頃の高僧、行基大僧正によって神仏習合の神宮寺として薬師如来像が奉戴され始まった神社。愛甲郡の総鎮守として崇敬を集めた。
小野神社を信奉した鎌倉時代の武将は何(いず)れも高名な名将。愛甲季隆公は、畠山重忠公と北条家が現在の旭区の二俣川で合戦に成った際に北条家与力として参戦し畠山重忠公を弓矢で射殺した弓術の名手だった。又、最後まで源氏に忠誠を尽くした忠義の武将でも有る。愛甲家の祖先は小野妹子で、聖徳太子の異名を追贈された蘇我家出身の摂政の下、遣隋使を務めた有名な大和朝廷の外交官だった。
二人目は大江広元公で鎌倉幕府の初代の政所別当を務めた人物で学者だった。鎌倉幕府の法治主義機構の成立は大江広元公の功績が大きい。大江広元公は戦国武将毛利元就公の祖先で、小野神社の近くには毛利台の地名が残るが一帯は鎌倉時代初期に大江広元公の所領で毛利家発祥地の毛利郷だった。
江戸時代にも崇敬を集め、閑香大明神の別名で親しまれたが、江戸時代の記録に注釈入りで延喜式内社小野神社と併記されている。

杉山神社・・・武蔵国六之宮、延喜式内社
御利益
: 腫瘍治癒、皮膚病治癒、勝負運、海外渡航安全。
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場所:横浜市緑区西八朔(旧都筑郡)
開基:五十猛命(いそたけるのみこと=磯長命?)
中興:忌部勝麻呂(いんべのかつまろ)
歴史:出雲神族の五十猛が当地に移住し開拓された。五十猛は疫神としての側面を持つが海上交通の守護者であり、古くから皮膚病や腫瘍治癒の神様としても御利益が有名だった。五十猛命は牛頭天王や武塔天神として御父神の素戔嗚尊と一緒に祀られるか、或いは単体で祇園社や牛頭社の御祭神として祀られる事が多かった。この西八朔の杉山神社は、東京都府中市の六所宮の異名を持つ大國魂神社の神事にも関係している。大國魂神社は武蔵国国府だった東京都府中市に所在し、そこで行われる武蔵国の国府祭“暗闇祭り”に唯一登場する神奈川県内武蔵国域唯一の延喜式内社が西八朔の杉山神社で、平安時代に朝廷から幣帛を賜った事も記録に残っている。この杉山神社も又、他の延喜式内社同様に縄文時代の海岸線近くに在り、古代の小机湾の中の半島の付根に位置する場所に所在する。素戔嗚尊や五十猛等の出雲神族と日本武尊を祀る場所が神奈川県内の延喜式内社には多いが、この杉山神社も古代の湾に面した場所に所在し出雲神族を御祭神としている。
又、古代に武蔵国を治めた笠原家の内紛❝武蔵国造の乱❞が発生した際に大和朝廷の軍事介入を受けており、その時に接収された久良岐郡・橘樹郡・都築郡(未成立で久良岐郡と橘樹郡域内)・多摩郡・横見郡が朝廷直轄領として接収され相模国と武蔵国の非武装地帯に成っているが、古代に杉山神社の所在する❝八朔(はっさく)❞の土地は❝罰佐久❞と書いていた記録が残る。実は笠原家は信濃国佐久郡出身の諏訪神系統出雲神族なので地名と古代統治者由来にも縁起が伝わる。
中興の伝承が残る忌部勝麻呂の忌部家は古代からの祭祀を司る一族で、同族の子孫には織田信長公もいる。織田信長公の祖先は福井県の劔神社宮司家織田家の子孫だが、この織田家が忌部家の一族とされていて、劔神社もやはり牛頭天王が御祭神として祀られている。
戦国時代には笠原家は小田原の北条家の家老として活躍し、小机城代の笠原信為公は鶴岡八幡宮再建総奉行を務め笠原政尭公は織田信長公への外交の使者を務めている。同じく江島神社別当職を一族が務めた笹下城主間宮家も鶴岡八幡宮再建の材木運搬と織田信長公への使者を笠原家と供に務めている。
 
大庭神社舊跡・・・元宮/延喜式内社
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大庭神社・・・延喜式内社
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臺谷戸稲荷神社
御利益
: 敵人懲服/子孫繁栄/雨乞い/治水/武芸(スポーツ)上達
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※大庭神社舊跡(元宮)
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※大庭神社
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※臺谷戸稲荷神社
場所:大庭神社舊跡と臺谷戸稲荷神社:藤沢市大庭(旧高座郡)
   大庭神社:藤沢市稲荷(旧高座郡)
開基:中世の戦火で社殿記録共に焼失、更に社殿遷宮後の記録も消失。
※延喜式神名帳には記載有り、少なくとも平安初期以前からの存在。
中興:桃園天皇
   鎌倉御家人 大庭景義 公?
         大庭景親 公?
   左京大夫  山名時氏 公
   (足利尊氏公の母方の従弟)
   相模守護代 太田道真 公?
   神祇伯   資顯王
   郷士    諏訪部定太郎 公
   郷士    山崎包高 公
歴史: 延喜式神名帳に記載が有るものの、大庭神社一帯が鎌倉景正公によって開拓され伊勢神宮の荘園と成って以降、同地は度々戦乱に捲き込まれ近世以前の詳細な記録が残っていない。直ぐ近くには鎌倉景正公の御子孫、大庭家の居城だった大庭城が在る。この大庭神社舊跡(元宮)付近一帯は古来自然湧水地で、堤防を作って湧水を貯めて大庭城の外堀とした記録が有り“船地蔵”と呼ばれた地域だった。又、湧水地だった事からか江戸時代には大庭神社舊跡(元宮)は水源の神様らしく熊野社とされていた。現在は一帯は湧水は無いが、大庭城の西側は古来湧水池だった。直ぐ近くには臺谷戸稲荷神社も在るが古来、稲荷社も湧水地と関係の深い神様で、大庭神社舊跡や臺谷戸稲荷神社や大庭城址の在る大庭地区からは縄文時代~弥生時代の遺跡が出土している。
鎌倉景正公によって開拓された後に御子孫の大庭家は伊勢神宮の荘園として開発を進めるが、河内源氏の頭領の源義朝公に服属しなかった為に源義朝公や同族の三浦義明公等の乱入を招き大庭庄は最初の戦火に捲き込まれる。 後に源義朝公は平治の乱で敗北した挙句に家臣、長田忠致に裏切られ暗殺された。
新田義貞の鎌倉乱入では高座渋谷方面から進軍した新田軍の通過点と成った。新田義貞はあらゆる神社仏閣で放火略奪を繰り返しているが後に神仏の罰を受け滅亡している。南北朝の動乱期に鎌倉一帯を足利尊氏公が制圧する前後に足利尊氏公の母方従弟に当たる山名時氏公が別当寺の稲荷山成就院を再興している事から山名家による支援を大庭神社が受けている事が解る。
その後の室町時代末期にも戦国時代幕開けの原因と成った永享の乱が起きて、最後の鎌倉公方の足利持氏公に忠義を尽くした当時の大庭城主扇谷上杉氏定公が犬懸上杉氏憲入道禅秀公に攻められ大庭城で自決しているが、上杉禅秀公は暫く後に鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義持公の軍代今川範政公率いる幕府連合軍の大軍勢に報復され滅亡している。この扇谷上杉氏定公の家宰の太田家の太田道真公と太田道灌公親子が深く関与したと推測される宗賢院が近在し、この宗賢院も戦国時代以前の伝承は伝わらないが寺宝に大庭景親公の陣釜が有り、更には太田家の太田桔梗紋を寺紋としている事から、宗賢院は前身寺院が大庭神社舊跡(元宮)に関与し大庭城主大庭家とも関係が有り、かつ太田家の支援を受け、大庭神社も大庭家、山名家、扇谷上杉家、太田家の関与が有った事が推測出来る。そして大庭神社が鎮護した大庭庄で乱暴を働いた人物は悉く滅亡している。
北条家が大庭城を落城させた際は御丁寧に舟地蔵地区の堤を切り沼堀を水抜して防御を無力化した上で落城させ、更に周辺の神社仏閣を保護した事が宗賢院の曹洞宗寺院としての中興開基時期から判る。

江ノ島弁財天(江ノ島神社 /式外社) ・・・三大弁財天の一つ   
御利益:勝負運/財運向上/立身出世 /縁結び/敵陣懲服

場所:藤沢市江の島(旧鎌倉郡) 
開基:欽明天皇 
中興:征夷大将軍   源   頼朝   公
   徳川幕府  歴代将軍 
歴史:欽明天皇が西暦552年に江ノ島東側の岩屋(いわや=洞窟)に勅願所を開いたのが始まり。 
そこに源頼朝公が弁財天を勧進し戦勝祈願をするや連戦連勝で鎌倉幕府が成立したので、歴代執権や御家人達から信仰され鎌倉幕府から保護された。
参道に在(あ)る旅館岩本楼は創業400年近い老舗旅館(宿坊)ですが、元々は明治時代まで江ノ島神社の別当職を務めた別当寺だった。
頼朝公が御参りした当時は社殿は有りませんでした。当時は江の島神社裏手に現存する洞窟に辯財天様が御祭りされていて、頼朝公も、そちらに籠って戦勝祈願をされました。後に社殿が建設寄進されました。
戦国時代、日本三大奇襲戦の一つに挙げられる「河越合戦」では、ここで戦勝祈願をした北条氏康公はたった8千の手勢で敵勢8万の大軍相手に勝利を治めた。
明治時代には、この江の島に逗留され軍事作戦を練られた児玉源太郎陸軍大将がロシア帝国のアジア植民地化の野望を撃退し日本を守る戦功を挙げられた事も有名。後に児玉大将が台湾総督を務められた際の善政から、児玉大将を祀る児玉神社を台湾人の皆さんが江ノ島神社の境内に開基された逸話も残る。
江戸時代に成ると大山参りと並び江戸市民の憧れの観光地として栄え、参拝客で賑わった。
現在は縁結びの神様としても有名で、若い恋人達が、江の島の展望台と併せて観光に来るデートスポットとしても栄えている。 弁天様はカップルに嫉妬する伝承が多い中、この江ノ島ではカップルを見守る優しい神様としても崇拝されていますが、東京の石神井公園の弁天様がカップルに嫉妬するのは、石神井公園が昔、石神井城と言う御城で戦争に巻き込まれた歴史が有るからかもしれませんね。
本来、弁天様はインド神話の神様でサラスヴァディーと呼ばれ、シヴァ神(伊舎那天/他化自在天)の後妻であり夫婦神なので、縁結びの御利益が期待出来るのは当然の事。
※江の島神社を御参りした後に、裏から海岸に降りて源頼朝公が先勝祈願をした洞窟の中でも御参りすると更に御利益が有るかも知れません。
※参道の旅館“岩本楼”は明治時代以前まで岩本坊と称し江ノ島神社の別当寺で北条氏康公も滞在しています。当主の岩本家は本姓佐々木氏で戦国時代には公式の場以外では間宮を称していました。
間宮家については「ココ」を御覧下さい。
※頼朝公が崇拝した辨天様像も見学する事が出来ます。
※江の島に行ったら名物のシラスとサザエと蛸せんべいも味わってみては如何でしょうか?

八幡橋八幡神社・・・式外社
御利益
:海外渡航安全/勝負運/工業技術上達/土地開発/地鎮/治水/立身出世
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場所:横浜市磯子区原町(旧久良岐郡)
開基:伝承では欽明天皇の時代以前に既に存在。
中興:徳川幕府旗本 小浜志摩守
歴史:欽明天皇の治世551年以前には存在したと伝承する八幡社だが、恐らく古くは霊場若しくは仏教色のより強い八幡社だった為か延喜式神名帳には記載は無い。
江戸時代、明和三年(1766年)に三島明神と氷川明神が勧進されが両方とも海上交通に纏わる大山祇神と素戔嗚尊が御祭神の神社で、更に安永五年(1776年)に東照大権現徳川家康公の御神霊が勧進されて軍事的性格も強い八幡宮が更に武門の神社として機能する事と成った。
古代の神社はどこも半島の付根や先端、又は湧水池や滝や奇岩や山の頂上が聖地として造営されている事は神奈川県下の延喜式内社と式外社を縄文時代の海岸線の地図に反映させると一目瞭然で、そう言った実例と社伝が所在地と整合性が有り北方は江戸時代の蒔田湾の入江の頂点部分に当たる為、八幡橋八幡神社付近が久良岐の丘の先端の岬部分の本牧半島付根に位置している事が解る。御祭神が八幡神なのも蒔田湾や本牧半島沖を行き交う船の海上航行の安全を願って八幡神社が造営されている事が容易に推測出来る。
この本牧半島と蒔田湾は戦国時代においても小田原北条家の水運の拠点だった事、古代の縄文人は既に船で本土と伊豆大島で交易していた歴史事実が有る事からも、この地の鎮守の神様は海を治める八幡神でなければいけなかったのだろう。
近くには三殿台遺跡や根岸の丘からも多数の縄文時代〜弥生時代の遺跡も出土しており、本牧妙香寺も弘法大師空海和尚が前身寺院を開基した事実が有る事、本牧半島が古代大和朝廷の軍馬生産拠点だった歴史事実を踏まえると、古代の久良岐郡において、この延喜式外社の八幡橋八幡神社は平塚八幡宮の様に重要な機能を有していた可能性も否めない。尚、この本牧半島の湧水は長期間放置しても腐らない為に幕末~大正時代に遠洋航海する船舶に飲料水として補給された。現在もワシン坂の霊水、打越の霊水等は一般に汲み取り出来る。
周辺は現代も貨物船の拠点、石油プラント、米軍の軍事拠点が有り、古代~現代に至るまで海上交通の要所、物流拠点、軍事拠点としての機能を有し発展して来た土地で、その繁栄を鎮護して来た八幡橋八幡神社の御神威はとても強い。

瑞應山 蓮華院 弘明寺・・・厄除け大師
御利益
:立身出世/災厄除け/敵人懲服/勝負運
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場所:横浜市南区弘明寺(旧久良岐郡)
開基:善無畏三蔵法師(インド人僧侶)
中興:聖武天皇
   行基大僧正
   弘法大師空海和尚
   光慧上人
   征夷大将軍  源 頼朝 公 以下歴代将軍
   征夷大将軍室 北条政子
   左京大夫   北条早雲 公
   左衛門尉   間宮信元入道宗閑(別名:盛頼) 公
   左衛門尉   間宮信俊入道宗覚(別名:康俊) 公
  ※徳川幕府による間宮家の戒名取り違え解説は別途記事有り
  →【間宮信元公と間宮康俊公の戒名誤り】。
   征夷大将軍 徳川家康 公 以下歴代将軍
歴史:インド人の僧侶、善無畏三蔵法師が養老5年(721年)、元正天皇の頃に聖地として当地に結界石を置いて聖域を定めた事が弘明寺の起源。その後、天平9年(737年)に行基大僧正が聖武天皇の勅命で現在の弘明寺の境内地に草庵を建てて現在の御本尊の十一面観音菩薩像を作製し祀った事で寺院機能が備わった。
更に弘仁五年(814年)に弘法大師空海和尚が滞在し民百姓の除災招福を祈願し護摩行を行った事で真言宗寺院としての機能が備わった。弘法大師空海和尚は日本神話と八百万の神々に崇敬深く日本武尊神話の土地と各地の湧水聖地を廻った記録が有り、神奈川県でも走水に赴いたり愛知県の一之宮真清田神社でも雨乞い神事を執り行ったりしている。偶然か必然か、弘明寺には昔から温泉も有る。弘法大師の逸話から厄除け大師の異名で親しまれる。
又、善無畏三蔵法師が結界を張った理由として、蒔田湾(古大岡湾)の入江が当時は付近まで存在し同地には大和朝廷の久良岐郡郡衙(ぐんが=市庁舎の様な機能)が存在した為と推測され、考古学的にも弘明寺の旧境内域からは国府瓦が出土している。
平安時代末期~鎌倉時代初期には源頼朝公と北条政子御夫妻に戦勝祈願で深く信奉された為、北条政子木像や軍神の辯才天像が祀られている。
戦国時代に成ると北条早雲公に支援され、北条家重臣で相模十四騎筆頭と言われた間宮家の崇敬を受けた事から、間宮家と関係深い臨済宗建長寺の高僧の玉隠英璵禅師が揮毫し間宮家臣団が奉納した扁額も明治時代の廃仏毀釈の被害を受けるまで存在した。
関わった偉人全員が困難な合戦で相手に大打撃を与え戦勝していたり逆境を覆して出世している。
元々は鎌倉街道に面した市営地下鉄弘明寺駅前の商店街全てが境内地で広大な面積を有していたが、明治政府による廃仏毀釈の宗教政策失敗で実に旧境内地の8割を失った上、宅地化に際して教育委員会による旧境内地の発掘は一部分しか行われていない。同地が古代の郡衙だった可能性は昔から公然と知られている。

本牧山 妙香寺・・・吹奏楽・テニス・君が代の発祥地 
御利益
:芸能上達/スポーツ上達/学問上達/工業技術上達
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2015-07-29-12-47-44
2015-07-29-12-43-53
場所:横浜市中区本牧(旧久良岐郡)
開基:弘法大師 空海 和尚(開山)
中興:立正大師 日蓮上人
   在地領主 佐藤家
   島津家代31代当主 島津忠秀 公
歴史:元は弘法大師空海和尚により本牧山東海寺として開かれた真言宗の寺院だったが、西暦1264年に日蓮上人が当寺に御立寄りになられた際に、当時の本牧の領主で御寺の大旦那(おおだんな=オーナー)だった佐藤家と当時の住職が日蓮上人に感銘を受け、以後改宗し現在まで日蓮上人の法脈を受け継ぐ寺院。
鎌倉時代~昭和時代の後期まで「檀林(だんりん=仏教僧の学問所)」として栄えた寺院で多くの学僧が、この妙香寺に寄宿しながら学問を習得した。
この地は古代大和朝廷の軍馬の生産地で牧場が存在したので、古来より文明の醸成地だった。
最初に、この地に御堂を開いた空海和尚様は牛頭天王と日本武尊を崇拝していたようで、関東の日本武尊神話の残る聖跡を巡りながら日本武尊が信奉していた素戔嗚尊を祀る牛頭天王社を各地に勧進している。
妙香寺と御縁の深い日蓮上人も又、日本神話を大切にされた方で千葉神社を崇拝し御祭神の妙見大菩薩(妙見神=北斗星=天皇家崇拝)を守り神にされたり、鶴岡八幡宮の御祭神の八幡大菩薩(応神天皇)に請願を言上した事で生命の危機を乗り越えた事は有名。すなわち、この御寺は日本神話と仏教文化醸成地として、神仏習合の日本文化の象徴と言える場所に建つ。
近代、幕末に妙香寺境内を駐屯地とした英国大使と英国軍より薩摩藩に吹奏楽が教授され、教官のフェントン軍楽団長により「君が代」が作曲された後、ドイツ軍人エッケルト教師が現在の曲調の君が代に改めた。これが日本吹奏楽の始まりで国家の発祥と成った。更に、今は山手町公園と成っている旧境内には英国人によりテニスコートが建設され、これも又、日本テニスの発祥地と成った。山手町公園の吹奏楽の発祥地には当時の欧風東屋が再現されており、テニス発祥記念館も在る。
更に、近代この御寺を信奉した渡辺忠右衛門(ちゅうえもん)翁は現在のIHIの元に成った石川島造船所の創業者であり日本近代造船の父とも呼ばれる事績を残された方。このIHIは大和朝廷の軍馬生産以来の国家防衛の旧久良岐郡の役割を継承して磯子区で自衛隊艦船の造船や米軍艦船の整備を担っている。
蘇州夜曲を歌った昭和の著名な歌手の渡辺はま子女史は、第二次世界大戦終結時に在フィリピン日本人捕虜の解放に功績を残されましたが、現在この御寺に眠ってらっしゃいます。
※職員の和尚さん達にお願いすると渡辺忠右衛門サンや渡辺はま子サンの御話しも御教授頂けます。
※すぐ近所に旧境内に当たる山手公園があり、そちらがテニス発祥地でフリーメイソン日本最初のロッジの跡地であると同時に日本最初の吹奏楽コンサートの史跡でもあります。テニス発祥記念館では拝観料無料で幕末からのテニス競技の服装や道具の変化や歴史が解る展示物を見学出来ます。

華厳山金剛寺
御利益
:災厄除け/武芸(スポーツ)上達/勝負運
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場所:厚木市飯山(旧愛甲郡)
開基:弘法大師空海和尚
中興:征夷大将軍 源頼朝公
   鎌倉御家人 足立(安達)藤九朗盛長公
歴史:弘法大師空海和尚が当地に滞在して修業をしたのが金剛寺の始まりで、後に源頼朝公の崇敬を受け頼朝公の側近だった安達盛長公によって大規模な寺院が造営された。安達盛長公は元々、頼朝公が伊豆の修善寺に抑留されて浪人していた時代にも先代源義朝公の御恩を大切にして御曹司の頼朝公の秘書兼ボディーガードを務めた家臣として知られ、静岡県三島市の三嶋大社には頼朝公の三嶋大社参詣の際に盛長公が警護した伝承の場所の松の木も現存している忠義の人物。当初は姓を足立と書いて「あだち」と名乗っていたが後に字を改めた。安達家は宝治合戦の際に武家の古豪三浦家を上回る戦上手ぶりを発揮した一族です。
現在の金剛寺本堂とは別に白山温泉郷の看板の掛かる赤橋の右手直ぐの参道左側には空海和尚による前身寺院が開かれた時代から現存する御堂が在るが、神奈川県教育委員会は文献に記載が無いと言うだけで調査もせず保護も怠っている。近くに在る龍蔵神社は元々金剛寺の塔頭寺院で龍蔵坊と言う寺名だったが、明治時代の廃仏毀釈の折、龍蔵坊の住職が神社に模様替えした場所。
龍蔵坊一帯は旧地名を“大門”と呼び、本来の金剛寺の大門が存在した場所でもある。
戦国時代に北条家の支配地に同地が組み込まれると、北条家の宗旨の曹洞宗に改宗した。
湧水地を大切にする古代の神道の伝統を大切にした弘法大師様所縁の御寺らしく、周辺は温泉地としても有名で、白山温泉郷は現在は温泉宿は減ったが春には桜の名所として賑わっている。
頼朝公の参謀兼任護衛官を務めた名将と弘法大師様の御利益に授かれる御寺。

牛頭山 妙法寺
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境内の牛頭天王社        

御利益
:陸海交通安全/勝負運/健康運/縁結び(恋愛)
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場所
:横浜市磯子区杉田(旧久良岐郡)
開基:弘法大師 空海 和尚(弘法大師が牛頭天王社を勧進した事に始まる)
中興:在地領主 荒井家(日荷上人)
   徳川幕府鷹匠頭 間宮 信繁 公
歴史:走水神社や橘神社と同じく日本武尊の聖蹟でもある。日本武尊がこの地を訪れた伝承に従い、弘法大師空海和尚が日本武尊が信仰したとされる牛頭天王を祀る御社を勧進したのが始まり。
六浦の上行寺も開いた荒井家出身の日荷和尚が、後に本格的な寺院として開基したので、真言宗の空海和尚と日蓮宗の日荷和尚の歴史を有する。 
後に小田原北条家の重臣間宮家の分家杉田間宮家が妙法寺を菩提寺と定めたので、現在も境内に間宮家歴代の御廟所があり史跡でもある。間宮家では間宮康俊公が豊臣秀吉の小田原攻めの際に、秀吉と甥の秀次率いる8万の敵軍を伊豆山中城で迎撃し歴史に名を轟かせました。敗戦を悟り間宮康俊隊は寄親(よりおや=上官)北条氏勝公を撤退させた後わずか兵200弱を率いて、秀吉旗本の中村隊・堀尾隊・一柳隊等を相手に大損害を与え玉砕しましが、その功績から間宮家は徳川家康公の旗本に取り立てられました。
徳川家康公の鷹匠頭として活躍した間宮信繁公の植林した杉田梅林は有名な観光地でした。
※現在、御住職が梅林を境内の裏手丘の上に復活させようと計画中ですが、その丘からの東京湾を望む眺望は見事です。

【平安末期以降開基で歴史と御利益の有る神社仏閣】

永谷天満宮・・・日本三躰天満宮の一つ
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天神山 貞昌院
御利益:学問上達/文化芸事上達/実務力向上/受験合格
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場所
:横浜市港南区上永谷(旧鎌倉郡)        
開基:右中弁 菅原淳茂 公
中興:修理亮 宅間上杉  乗国  公
   征夷大将軍 徳川家歴代 
※御祭神の天神様=菅原道真公の五男菅原淳茂公が元々、この場所にお住いだったので、開基は菅原淳茂公とします。永谷天満宮の社殿を最初に造営したのは上杉乗国公。
歴史:日本三躰天満宮の一つ。
御神体は菅原道真公が自ら彫られた彫像。
天皇の御親政を復古しようとする宇多天皇と醍醐天皇に重用され右大臣(総理大臣に相当)まで務めた菅原道真公が、天皇の親政復古に抵抗する藤原一族の謀略で左遷された後、五男菅原淳茂公は醍醐天皇に重用された。 しかし敦茂公など菅原道真公の御一門(いちもん=親族)は悉(ことごと)く藤原氏の謀略で左遷された。
後に藤原一族からの迫害を避ける為か、三男菅原景行公を始め菅原淳茂公も関東移住し平将門公や平良文公の坂東平氏と連携し定住した。その菅原淳茂公が住んだ場所が現在の永谷天満宮と伝承する。
永谷天満宮自体の開基の宅間上杉家は上杉家の筆頭4家の一つで、犬懸・山内・扇谷の各上杉家で関東管領を務めた家で、室町幕府征夷大将軍足利尊氏公の従兄弟の家系で勧修寺家の出身。
足利尊氏公の鎌倉幕府倒幕の切っ掛けに成った後醍醐天皇の綸旨を全国に伝えたのが、宅間上杉家初代の宅間上杉重兼公。
江戸時代には徳川将軍家からも信仰深く、御神体は数回、神輿に乗せられて江戸城の将軍の元に運ばれ将軍から参拝された程に御利益が有名だった。
永谷天満宮から見える永野小学校一帯が居城の近代に永谷城と呼ばれた伊予殿根城塞の跡で川原沿いには、それらしき切岸上の地形、丘にも堀切が存在したが神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会が城址としての調査を怠ったまま宅地開発が進み遺構は消滅した。
永谷天満宮の背後の鎮守の山、菅秀塚の周りは初夏に紫陽花(あじさい)が咲き誇る名所です。        

公時神社(きんときじんじゃ)     
御利益:健康向上/勝負運/敵人懲服/厄除け(鬼退治?)/縁結び(人脈)2015-11-18-13-40-17
場所:足柄下郡箱根町仙石原(旧足柄下郡)
開基:坂田公時=坂田金時(さかたのきんとき=金太郎)
歴史:幼少時代を歌った唱歌「金太郎」で有名な、坂田公時公所縁の神社。この金時神社の背後は金太郎の童話の舞台に成った金時山で、神社はその登山口に位置する。境内には童話を彷彿とさせる石で作られた斧のモニュメントも飾られている。
坂田金時公は下毛野金時と言う実名の記録が残っており、下野国の豪族である下毛野氏出身の武将。成人後に坂田金時となり、この箱根峠で成人後に源頼光(みなもとのよりみつ)公と出会い与力と成って活躍したとされる。大江山の鬼退治の伝承は余りにも有名。
この箱根峠で出会った伝承も、当時は富士山が噴火して本来は御殿場を抜ける古代の東海道(矢倉沢往還=大山街道西部)が使用不能に成った時期でもあるので、関東の豪族下毛野氏である金太郎の一族が、源頼光公の御父君の鎮守府将軍源満仲公の命で現在の東海道の基礎に成る箱根ルートの開拓を担当していた可能性は少なからず有り、金太郎と坂田金時の伝承に整合性も有る。よって、余り取り上げられる事は無いが、この金太郎神社の御祭神坂田金時公は武勇や健康のみならず、上司に恵まれる御縁や交通安全の神様としても強力な御利益を期待出来る。
※近くにはガラスの森美術館が在り、冬季は夜間イルミネーションが見られます。当然温泉旅館も沢山近くに在るので宿泊と合わせての参拝も魅力的。

鎌倉御霊神社(権五郎神社) 
御利益:勝負運/縁結び(恋愛)/眼病治癒/治傷/子孫繁栄
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場所
:鎌倉市坂の下(旧鎌倉郡) 
開基:平朝臣  権五郎  鎌倉  景政  公 
歴史:鎮守府将軍平良文公の御子孫の鎌倉景政公が御祭神。 
鎌倉景政公は従兄弟の三浦為継公と供に、前九年後三年の役に源八幡太郎義家公に与力し参戦して大活躍されました。
敵将に片目を射抜かれて尚、敵に弓を射返し討ち取った逸話は有名です。
関東では盟主の源義家公と共に軍神として武士達から信仰を集めています。
また目の治療の際に御自分の眼球の供養をした場所から草木が茂った事から、治傷健康の神様としても信仰されています。 又、この周辺には平安時代から恋愛にまつわる和歌が詠まれた場所が多く、その所縁で縁結びの神様としても有名なので御霊神社オリジナルの縁結びの御守りが販売されています。
参道の鳥居の目の前を江ノ電が通る珍しいロケーションの神社で周辺がドラマのロケ地にも成っていて、スタッフが良く食べた名物和菓子屋「力餅家」が在り、司馬遼太郎先生も御霊神社周辺を散歩されて力餅屋で昔からの鎌倉名物の夫婦饅頭を食べた事を“街道を行く”シリーズの“三浦半島記”で紹介しています。
※由比ガ浜まで歩いて行けるので、参拝後に散歩しても良い小旅行に成る場所。
※鎌倉江の島七福神の一つ。こちらで七福神専用の御朱印色紙も購入できます。

鶴岡八幡宮本宮・・・日本三大八幡宮の一つ(異説有り)
 &
旗上弁財天・・・鎌倉江の島七福神の一つ
 と
元鶴岡八幡宮=由比若宮

御利益:勝負運/立身出世/工業技術上達/財運向上/海外渡航安全

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場所:鶴岡八幡宮:鎌倉市雪ノ下(旧鎌倉郡)・元鶴岡八幡宮(由比若宮):材木座1‐7
開基:鎮守府将軍   源    頼義   公
中興:征夷大将軍   源    頼朝   公
   相模守          北条 氏綱   公  
   征夷大将軍   徳川 家光   公
歴史:最初の場所は材木座の元鶴岡八幡宮、後から源頼朝公が現在地に遷宮し、元鶴岡八幡宮と上社下社として共に現存。
相模国の鎮守として源頼義公が嫡子源八幡太郎義家公と現在の由比に八幡宮を造営したのが始まり。
源頼義公は鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に補任(ほにん=任命される事)され前九年の役で大活躍し、以後、頼義公の家系の河内源氏は坂東(ばんどう=関東)の武家の盟主として繁栄する。
源頼朝公は源頼義公の5代子孫に当たる。頼朝公の代に鎌倉幕府の象徴として現在の鶴岡八幡宮の境内地に遷宮されて初めて大規模な神宮寺と一体に成った大規模な様式に成った。
以後、鎌倉文化と武士団の象徴でもある。
戦国時代の大永六年(1526)年に房総の小弓公方足利義明と里見義豊の軍勢によって放火されて延焼し八幡宮としても神宮寺としても機能を焼失した。この合戦後、小田原城主北条氏綱公の主導の下、関東の諸大名に再建協力の指示が示され結果的に北条家の下で鎌倉幕府以来の武家の信仰の対象である鶴岡八幡宮は大規模に再建されて、関東における北条家の立場を確固たるものにする事に成った。
神奈川県の武将も再建で活躍しており主だった人物でも神保輝廣公(北条氏綱公舎弟)、北条幻庵公(北条早雲公三男)、笠原信為公、吉良頼康公、間宮康俊公の名が見える。この再建は5万人を動員した大規模な事業だった。
江戸時代にも徳川家光公による社殿の奉納建築が行われていて、徳川将軍家の崇敬も集めた。
明治の廃仏毀釈で神宮寺は廃寺にされ破壊され、現在の境内社若宮八幡宮傍に在った立派な多宝塔も撤去された。平成に成って源頼朝公の時代から存在した御神木の大銀杏が折れてしまった。
現在でも観光地としても有名で、毎年初詣の頃には約30万人の参拝客で賑わい多くの屋台が並ぶ。
※普段からいくつかの出店が常駐しているが、正月は非常に多くの屋台が出るので子供も楽しめる。
※鶴岡八幡宮の御朱印所の神職の方は非常に字が美しいので是非、頂いてみて下さい。
※鎌倉江の島七福神の一つ。こちらで七福神専用の御朱印色紙も購入できます。
※※ロシア帝国が日本を含む東アジアの植民地化を狙いバルチック艦隊を東アジアに遠征させた際に、日本の東郷元帥率いる日本初の連合艦隊が対馬海戦でロシア帝国海軍を撃破した際の旗艦:戦艦三笠は、八幡宮の御祭神、大鞆和気命(誉田別尊)の神仏習合時代の尊称、‟八幡大菩薩の名の御分霊”を艦内に守護神として安置していました。太平洋戦争で戦艦大和や武蔵が撃沈された際は軍部は信仰心薄く戦艦内から各御神霊を撤去していたのは知る人ぞ知る史実だったりします。

●宇賀福神社=銭洗い弁財天・・・
源頼朝公が開いた宇迦之御魂神を祀る洞窟に泉が湧く聖地

●佐助稲荷神社・・・源頼朝公に立身出世をさせた神様の神社


荏柄天神社・・・日本三古天神社
御利益
:立身出世/学問上達/芸術上達
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場所:鎌倉市二階堂(旧鎌倉郡)
開基:天神様の神霊?一帯の村民
中興:征夷大将軍 源 頼朝 公
歴史:日本三古天神社とも呼ばれる、天満宮の中で格式の高い天神社。
伝承に由れば菅原道真公の肖像画が空から降ってきたので、地域の村民が肖像画を御神体として有り難くお祀りしたのが荏柄天神社の始まり。
この旧鎌倉郡には、現在の横浜市港南区に在る永谷天満宮の在所に菅原道真公の五男の菅原敦茂公が御住まいだったと言う伝承や、下総国に大生天満宮(元は別の場所に在ったが後に現在地に移転)を三男の菅原景行公が建てられた歴史が有り、関東が菅原氏との関係が深かった事を今に垣間見える古社。
源頼朝公により鎌倉幕府が開かれると、鎌倉市街地の鬼門の東北の方向に当たる荏柄天満宮が鎮護の神様として頼朝公より崇敬される事になり、頼朝公により新たに社殿が建造された歴史を持つ。
その後も二代将軍の源頼家公から崇敬を集める等、鎌倉武士団からの信仰が厚い天神様だった。
現在でも多くの文化人から愛され、特に漫画家との縁が深く清水昆氏や横山隆一氏から信仰され、その絵筆が奉納された筆塚が境内に在る。
※この荏柄天満宮の付近には桜の名所の鎌倉宮もある。
※太平記の歴史偉人達と所縁の深い土地でもある。
※近くには鎌倉漆器の漆アクセサリーの工房「月ノ聖」もある。        

富岡八幡宮
御利益:勝負運/立身出世/工業技術向上/商売繁盛/地震津波除け/海上交通安全/漁業
場所:横浜市金沢区富岡(旧久良岐郡)
開基:征夷大将軍   源   頼朝   公 
歴史:有名な東京の富岡八幡宮はコチラから分霊された神社で本家本元はコチラ。
征夷大将軍源頼朝公が、今の兵庫県の西宮神社から勧進(かんじん)した後に軍神八幡神を合祀(ごうし)したのが始まり。
室町時代に大津波が発生した際、海を治める神威の有る蛭子神を祀る富岡八幡宮は、その鎮守の森と山で津波を跳ね返し富岡の村々を救ったそうです。
その逸話から江戸市民の信仰を集め東京に分霊されました。
※境内には所蔵の文物や無形文化財と成っている御祭りの説明看板が多数有り、郷土の民俗を知る事が出来ます。
※ 横浜金沢七福神の一つ。専用の御朱印色紙も購入出来ます。

知足山 龍華寺(旧廃寺六浦山浄願寺&光徳寺) 
御利益:立身出世/勝負運/学問上達
場所:横浜市金沢区洲崎(旧久良岐郡)
開基:征夷大将軍     源   頼朝 公
   文覚上人 
   ※浄願寺の開基
   ※光徳寺が先にこの場所に在った。後に合祀されて龍華寺と成る。 
中興:扇谷上杉家宰 太田道灌 公
        左京大夫        北条早雲 公
        征夷大将軍     徳川家康 公
歴史:源 頼朝 公が文覚上人と共に奇岩が有り海に面した霊所の六浦山中に浄願寺として開基した。
浄願寺時代の場所は上行寺東遺跡と呼ばれ今より更に大きい大寺院だった事で有名だったが、多くの学者や郷土史家や地元民からの保護要請を横浜市教育委員会が無視した為に近年その遺跡はマンション建設で破壊されてしまい存在しない。鎌倉時代には兼好法師こと吉田兼好も浄願寺に滞在したと伝わっている。
浄願寺時代に新田義貞による鎌倉攻めの戦火に巻き込まれ一時火災や略奪に遭い衰退する。その後、融弁が中興開山と成り菅原資方公の中興開基により現在地に在った光徳寺と合併の上で移転再興される。
扇谷上杉家宰の太田道灌公の信奉を受け不動明王が奉納されたり、小田原北条家当主より土地を寄進されるなど、有力大名から保護と信仰を受けた名古刹。
徳川家康公も滞在した歴史が有る。
再興開基以来、真言宗の一大学問所としても機能していた檀林としての歴史が有る。
明治時代まで隣の洲崎神社の別当寺だった。この龍華寺一帯の町屋町~洲崎は金沢八景の一つに数えられた風光明媚な観光地でもあった。その関連で多くの名武将が此方に滞在し、御縁が結ばれた。
横浜市内に置いて京都の御寺の様な佇(たたず)まいの山門に続く参道を持つ外観も綺麗な御寺。
※現在の御住職が文化保護に熱心で、多くの花を植林したり句会を開いたりと文化活動地としても機能しています。
※お隣の洲崎神社と明治時代までは龍華寺の管理する神社だったので、そちらも一緒に御参りされると神様も喜んで下さり、より御利益が有るかも知れませんよ。

森浅間神社=亀谷山福禅寺権現堂(廃寺)浅間社・・・修験系門跡寺院直轄霊場
御利益
:災厄除け/縁結び(恋愛)/夫婦円満/海外渡航安全/海上交通安全 
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場所:横浜市磯子区森/屛風ヶ浦(旧久良岐郡)
開基:征夷大将軍 源 頼朝 公
中興:後北条家臣 間宮家
歴史:元々は河内源氏の当主で坂東武者の頭領だった源頼朝公の祖先の源頼義公の代より関東に於(お)ける関東での本拠邸宅の在った鎌倉市扇ヵ谷(おおぎがやつ)地区の一部で亀谷(かめがやつ)に在った修験道の修験亀谷山(きこくさん)福禅寺と言う大寺院直轄の聖地の一つで源頼朝公の祈願所の権現堂の管理下に在った神社。
源頼朝公には江島弁財天、瑞應山蓮華院弘明寺、曲田山帶行寺(現:梅花山南無佛院成就坊)、鎌倉郡山崎紀州山泉蔵院桐谷寺(現:熊野神社:磯子区中原)と合わせ、亀谷山福禅寺と福禅寺権現堂(廃寺:港南区港南)も源頼朝公の祈願所の一つだった。そ源頼朝公の請願により権現堂の僧侶の幸蔵坊が当地を修験道霊場として此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の御分霊を富士山(富士山は此花咲耶姫命の権化として山岳信仰の対象だった)より勧進したのが神社として起源。 
又、鎌倉幕府で征夷大将軍職を皇族が継承する様に成ると嘉暦三年(1328年)に福禅寺権現堂の第六代住職を長円親王が務め森浅間神社を祈願所としている事から、福禅寺が門跡寺院だった事が解る。
鎌倉幕府滅亡時に最後の将軍の守邦親王(もりくにしんのう)が新田義貞による鎌倉攻めの戦火から難を逃れて、この地に無事退避されたと伝承する事から災難除けの強い御利益も期待出来る。
この鎌倉幕府最後の征夷大将軍守邦親王は森浅間神社を統括した長円親王の兄皇子に当たる。
災難除けの御利益の他にも下社の素戔嗚尊は軍神であり水神様でもあるので海上交通安全や海外渡航の安全の御利益、そして上社の御祭神の浅間権現此花咲耶姫命様と夫妻神でも有るので縁結びでも強い御利益が期待出来る。 
この森浅間神社の在る場所付近には、古代からの街道が通っていた。その場所が近くの清水坂~森~上大岡方面に抜ける古道で、更に森浅間神社の眼下には鎌倉の東京湾方面の湊(みなと)の一つとして機能していた屛風ヶ浦が在り、軍事的にも重要な土地だった為に、この神社の付近には鎌倉幕府の陣所が築かれていたと伝承する。
街道を抑える場所に鎮護の神社や仏閣を立て陣所を設けるのが頼朝公の領地運営政策の一環だったので、森浅間神社が頼朝公開基、更に鎌倉幕府陣所が一帯に在ったと言う伝承の整合性とも高い。
※屛風ヶ浦側からの参道は急で長い石段ですが、その途中には下社が在り、そちらに素戔嗚尊が祀られているので是非、階段を上る方の参道から御参りしてみて下さい。

●熊野神社泉蔵院=大霊山泉蔵院桐谷寺(鎌倉山崎紀州山泉蔵院→久良岐郡=横浜市移転→神社化、元は修験道で源頼朝公の祈願所)

瀬戸神社=瀬戸明神社&琵琶島弁天社(三島大社御分霊と竹生島弁才天を源頼朝公と北条政子様御夫妻が勧進し開いた神社)

●吉田神社(源頼朝公が伊豆の三島大社から御分霊を勧進し開いた十三座の神社の一社)

●森戸神社
(源頼朝公が伊豆の三島大社から御分霊を勧進し開いた十三座の神社の一社)

●箋龍辯財天=海南神社&本宮神社(三浦郡総鎮守、三浦家の祈願所で出世の神社)


●西向山乘蓮寺(北条政子様の避難場所で承久の乱戦勝と厄除けの祈願所)


●梅花山南無佛院成就坊=梅花山成就院(源頼朝公の祈願所、後北条家臣間宮家居城の寺院)

瑞雲山 本覚院 三会寺 
御利益:勝負運/学問上達/縁結び(人脈) /合格祈願
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場所:横浜市港北区鳥山(旧橘樹郡)
開基:征夷大将軍 源  頼朝 公
   鎌倉御家人 佐々木 高綱 公 
中興:征夷大将軍 徳川 家康 公
   徳川家宿老 本多 正信 公
歴史:鎌倉の鬼門に当たる街道を抑える地域である鳥山地区に、源頼朝公の命で平安末期~鎌倉時代初期の名将、佐々木高綱公が開いた寺院。その後、真言宗の一大学問所として明治時代を迎えるまで機能した。頼朝公との関係から寺紋に源氏の家紋である笹竜胆紋の使用を許された武家にとって由緒有る寺院。
安土桃山時代には徳川家康公によって保護され、重臣で玉縄城主と成った本多正信公から信仰された関係で所縁の有る文物も残る。
現代ではタイ国王とタイ王室とも関係の深い寺院で、タイ王室から送られた巨大な御釈迦様像が御本堂に祀られている。戦国時代の小机城から近く、現在の御住職が文化と歴史の保護に熱心な方なので毎年春に行われる小机城址祭りでは開会の場にも成っていて、勇壮な戦国時代の武者行列を模したパレードを見る事が出来る寺院。
※こちらで、御近所に在る佐々木高綱公の愛馬生唼を祀る馬頭観音堂の御朱印も頂けます。
※ご近所には佐々木高綱公の居館跡に建つ鳥山八幡神社も在り、一緒に御参りすると更に御利益が有るかも知れません。

鳥山八幡神社&馬頭観音 
御利益:勝負運/工業技術向上/縁結び(人脈)/子孫繁栄
場所:横浜市港北区烏山(旧橘樹郡)
開基:鎌倉幕府御家人  佐々木  高綱  公 
歴史:征夷大将軍源頼朝公の鎌倉幕府の設立に貢献した佐々木高綱公の居館跡に建つ八幡神社で、徒歩5分の近所には高綱公が頼朝公より拝領(はいりょう=貰う)した名馬生接(いけづき)を祀る馬頭観音も在ります。
高綱公は源頼朝公に与力し、源義経公を大将とした木曽義仲討伐における瀬田の合戦で一番乗りの功名を建てるなど優れた武将でした。 
また大名としても分析力や経営力に優れていたようで、平安時代当時の一般的な城址は山城なのに対し、神奈川県内の佐々木家の城址はどこも重要な街道に面した場所が多いようです。 
神社背後の烏山地区の丘は、高綱公の神奈川での居城跡です。
佐々木氏の御一門は後に全国で大名になります。 
戦国時代の六角家・京極家・尼子家・黒田家・間宮家は全て佐々木家の後裔です。 
※徒歩5分程度の付近には、佐々木高綱公の愛馬「生唼(いけづき)」が葬られた場所に建つ馬頭観音堂や、頼朝公の命令で高綱公が鎌倉の鬼門鎮護として開基した真言宗の大道場として機能した「三会寺」も在ります。 一緒に御参りすると尚、御利益が有るかもしれないですね。

義明山 満昌寺
御利益:縁結び(人脈)/子孫繁栄/学問上達/健康運向上/武芸(スポーツ)上達
場所:横須賀市大矢部(旧御浦郡)
開基:征夷大将軍   源   頼朝   公 
歴史:鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝公が最大の盟友三浦義明公の忠孝恩義に報い菩提を祀る為に開基した御寺です。
頼朝公の旗揚げで石橋山合戦に援軍として三浦義明公は孫(長男の子)の和田義盛公に軍を率いて参戦させようとしますが、頼朝公が敗戦します。 
その際に89歳の三浦義明公は居城衣笠城に一人手勢を引き連れ籠城し敵軍を引きつけ、頼朝公と三浦一族の退路を確保しました。
その義明公の判断力と功績により頼朝公は後に鎌倉幕府が成立する事が出来ました。
源家の興隆を支え功績を遺した三浦一族の代表格の武将が、この三浦義明公です。 
※前もって連絡すれば、義明公に関する資料館を見学出来ます。 
※境内には頼朝公御手植えの樹木も在り、頭を突っ込むと(痛いけど)御利益が有ると言われています。

大富山 清雲寺
御利益:縁結び(人脈)/子孫繁栄/海上交通安全/武芸(スポーツ)上達
場所:横須賀市大矢部地区(旧御浦郡)
開基:円通寺  三浦介  平   太夫  為通  公
   清雲寺  平朝臣  佐原三浦  義連  公
歴史:円通寺は三浦家菩提寺だったが明治の廃仏棄釈の影響で廃寺に成り、子孫の佐原三浦氏の菩提寺清雲寺に合祀された。
円通寺を開基した三浦為通公と二代三浦為継公は、前九年後三年の役で鎮守府将軍源頼義公と八幡太郎義家公に与力し大活躍しました。
清雲寺開基の佐原義連公は源頼朝公に従い源平合戦で源義経の参謀として活躍し、今の神戸市に在った平家拠点福原攻めで有名な「鵯越の逆落とし奇襲」等を立案しました。
三浦本家が宝治合戦で勢力を失うと、三浦家の子孫の佐原家が相模国の三浦宗家を継ぎました。
※本殿の圓通閣の名の由来は、近くに在った平安~鎌倉時代初期の三浦総領家の菩提寺の圓通寺に由来しており、御本尊はその圓通寺から遷座された観音様です。 

青龍山 寶金剛院 寶生寺(ほうしょうじ)
御利益
:学問上達/立身出世/実務力向上/合格祈願     
2015-06-27-16-39-33 
場所:横浜市南区堀之内(旧久良岐郡)
開基:覚清上人(開山) 
中興:鎌倉幕府執権   北条 貞時 公 
   相模国守護代   太田 道灌(どうかん) 公 
   相模守      北条 氏康 公 
   徳川幕府本牧奉行 間宮 直元 公 
   (但馬奉行、佐渡奉行兼務。大坂城総掘り埋立て作戦立案者)
   征夷大将軍    徳川 家康 公 
歴史:平安時代末期、高倉天皇の頃、関東武士では源義朝公が活躍されていた時代の和尚様、覚清法印によって開かれた。その際に熊野権現社も勧進された。その草々の由来より歴代の御住職は、朝廷から法印号を拝命した格式の高い御寺であると同時に、真言宗の学問所としても非常に栄え、明治時代まで52寺に及ぶ末寺を束ねる本山格の大寺院だった。 
鎌倉時代には関東の鎌倉文化を発展させた金沢北条実時や鎌倉幕府第9代執権の北条貞時公から保護された。戦国時代には戦で無敗の関東一の名軍師、太田道灌公や、後に関東の覇者と成った民政家として有名な小田原城主の北条氏康公から保護された。 
江戸時代に成ると、但馬奉行や佐渡奉行を務めて大幅に業績を改善した事で有名な間宮直元公が本牧奉行として横浜市南部の沿岸部を治めた事も有り、その支援を受けた。更には間宮直元公の叔母が側室として仕えていた徳川家康公からも寺領保護の御朱印状も賜った歴史が有る名古刹。 
その歴史の古さと豊富な所蔵文書から横浜市の地名由来の「横浜」半島の記載の有る文書も寶生寺が有する。 
明治時代に成るまで、本堂の他に、長屋門、総門、客殿、熊野社、弁天堂、鐘楼、経蔵、頂堂を有する巨大寺院を形成していた。 
この御寺に関わった人物は何(いず)れも名将の誉れ高いだけでなく高い教養を備え、更に内政力を発揮した事績を有する人物ばかりで、檀林として学僧達を育てて来た歴史と合わせて御利益の強さが歴史として残る。
※江戸時代初期まで、この付近は海でした。その事を示す古文書も寶生寺には多く現存し、横浜の戦国時代の歴史語る際には必ずこの御寺の名前が出てくる名古刹です。近くには神奈川考古学財団も存在し、様々な展示がされています。 

●巨福山建長興国禅寺=建長寺(鎌倉五山第一位、国家鎮護寺院)&半蔵坊(火除けの守護神)

●瑞鹿山圓覚興聖禅寺=円覚寺(
鎌倉五山第二位、鎌倉幕府執権北条時宗公&室町幕府将軍足利義詮公菩提寺、外敵懲服戦勝祈願学問上達の寺院)

●亀谷山寿福金剛禅寺=寿福寺(
鎌倉五山第三位、北条政子様・陸奥宗光公菩提寺)

●金峰山浄智寺(鎌倉五山第四位、鎌倉江の島七福神の一つ布袋尊、歴代鎌倉公方就任時の滞在所)

稲荷山 浄妙廣利禅寺(鎌倉五山第五位、足利家時公・足利直義公菩提寺)
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境内の喜泉庵
御利益:婦人病治癒/子孫繁栄/縁結び(人脈)/立身出世
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場所
:鎌倉市浄明寺(旧鎌倉郡)
開基:足利 義兼 公
中興:足利 貞氏 公(足利尊氏公の御父君)
歴史:鎌倉幕府時代足利家の菩提寺。最初、源頼朝公の忠臣足利義兼公により真言宗の寺院極楽寺として開かれ荒神・不動を祀っていたのを源頼朝公と足利義兼公の没後、三代将軍の源実朝公の代に境内に別に御堂を造り其方に荒神・不動様を移し御祀りし、御本尊に北条政子の白檀製の弥陀像と御釈迦様を御祀りした。その後、臨済宗建長寺の蘭渓道隆和尚の弟子の月峯了然和尚の代に臨済宗に改宗した。その後も足利家からの信仰厚く、室町幕府初代将軍の足利尊氏公の御父君の足利貞氏公により中興開基されると異母兄足利高義公や同母弟の足利直義公も境内に塔頭寺院を建設し、三代将軍足利義満公の頃には実に23もの塔頭寺院を抱える大寺院と成った。その後、永享の乱で三浦軍による放火で類焼し衰退したが、現在も広大な境内は紅葉の名所として有名。婦人病治癒の神様の淡島明神像も御祀りしている事から婦人病治癒祈願の寺社としても有名。
現代では紅葉の名所、そして境内にある日本庭園を抱える茶房「喜泉庵」では御抹茶と和菓子を頂けるので多くのカップルのデートコースにも成っている。
※境内裏山に在る「石窯ガーデン」は石窯で焼いたパンや湘南の野菜や地魚の料理を頂けます。

粟舟山 常楽寺 
御利益:立身出世/縁結び(人脈)/実務力向上/海外渡航安全
  
場所:鎌倉市大船(旧鎌倉郡)
開基:鎌倉幕府執権  北条 泰時 公 
開山:蘭渓道隆 和尚/退耕勇行 和尚 
歴史:征夷大将軍源頼朝公の外甥で鎌倉幕府執権の北条泰時公が開基しました。 
その際、中国から来た高僧蘭渓道隆和尚が初代住職を務めました。また宗派の便宜上、退耕勇行和尚を初代の住職とカウントしています。
北条泰時公は鎌倉幕府を法治主義化に成功した実務能力と学問に優れたばりでなく、承久の乱の際に軍を率いて武将としても大活躍しました。実務力に優れ、鎌倉幕府の基盤を固められた名宰相。高い内政力を発揮して鎌倉幕府の法治主義体制を固める事に成功した。
蘭渓道隆和尚は今の中国が南宋時代、チンギスハンの侵略から逃れ鎌倉幕府に亡命して来られ、関東で学問の普及に勤められました。
※現代では瓦葺や銅葺きの屋根に吹き替える神社仏閣が多く、少なくなった貴重な茅葺き屋根の御堂と山門が見られます。

●松岡山東慶寺(門跡寺院、女性守護の寺院、悪縁切り良縁結びの寺)

●宝亀山長寿禅寺=長寿寺(足利尊氏公関東菩提寺)


●天照山光明寺(浄土宗関東十八壇林一位、徳川十六神将の内藤家菩提寺)


金沢山 稱名寺・・・東の正倉院
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県立金沢文庫      
御利益:学問上達/縁結び(人脈)/実務力向上/合格祈願
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場所
:横浜市金沢区金沢町(旧久良岐郡)
開基:鎌倉幕府引付頭人 金澤北条 実時 公
中興:関東管領家    宅間上杉家
        関東管領家    山内上杉 憲実 公
歴史:金澤北条家初代当主の実時公が邸宅を構え、阿弥陀堂を建てたのが始まり。 
隣接する金沢文庫博物館は鎌倉時代当時から有る金澤北条家が開いた日本最初の図書館金沢文庫が前身で、地名の由来。鎌倉幕府滅亡により支援者の金澤北条家も滅亡し金沢文庫を含む称名寺は一時期荒廃したが、鎌倉時代〜江戸時代を通じ大伽藍を持つ大寺院だった。
かつては今より膨大な文化財や蔵書を有したが、豊臣家や加賀前田家による強奪で多く散逸した。その為に石川県金沢市を含め全国に「金沢文庫」の朱印が押された文化財が有る。しかし未だ幾つかの重要文化財を保持しており神奈川はおろか関東地方にとっての文化醸成地の一つである寺院。
永享の乱の終戦後に宅間上杉家が身を寄せた歴史が有り戦国時代の幕開けの舞台の一つでもある。
江戸時代を通じて、称名寺、三会寺、寶生寺、龍華寺は関東一円から学僧の集まる檀林として有名だったが特に称名寺は別格本山の格式を持つ寺院で日本有数の壇林だった。
現在は存在しないが明治時代の廃仏毀釈まで神様を祀る御社も存在した真言宗らしい神仏習合の寺院だった名残が新宮址に残る。 
春には大門の赤門から境内域にかけて桜が咲き誇る名所としても知られる。 
※素晴らしい庭園の名残を示す池にかかる二重橋と、その周辺を覆う桜が咲く春は特に綺麗です。
※隣接して金沢文庫が現代では博物館として営業しています。
※参道では小柴漁港名物のアナゴ料理や蕎麦を出す茶房が数軒在ります。
※背後の鎮守の山の稲荷山から見る金沢の海の眺望は絶景です。
        
功臣山 報国寺
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境内のミシェラン三つ星評価の竹林庭園と茶屋
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旧皇族 華頂宮邸             
御利益:立身出世/文化技能上達/縁結び(恋愛&人脈)
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場所
:鎌倉市浄明寺地区(旧鎌倉郡)
開基:足利家時公&宅間上杉重兼公 
   ※足利家時公は征夷大将軍足利尊氏公の祖父。上杉重兼公は足利尊氏公の母方従弟。
歴史:鎌倉幕府が倒幕された翌年、足利尊氏公の祖父家時公と上杉重兼公が一緒に開基した後に歴代鎌倉公方と関東管領の菩提寺に成りました。 
この一帯には鎌倉時代には北条時政や青砥藤綱公が住み、室町時代には宅間上杉家だけでなく関東管領の犬懸上杉家の居館も在りました。
近代にも多くの報国寺を愛した文化人芸術家や皇族華頂宮家が移住して来て、報国寺周辺は室町時代~近代を通じて一大文化醸成地の体を成していました。 報国寺から徒歩2~3分の華頂宮邸宅は現在、無料で拝観できます。           
明治に成ると多くの芸術家が報国寺周辺に住み文化芸術の醸成拠点と成りましたが、近年では美しい竹林の庭園と参道からミシェランガイドで三ツ星評価を受けています。
竹林の中の東屋で御抹茶と御茶菓子を頂けます。秋は周辺の紅葉も美しい。
※毎週日曜に座禅会を実施しており、早朝7時までに集合すれば参加費500円で誰でも飛び入り参加出来ます。

大雄山最乗寺(道了尊)
御利益
:縁結び(恋愛)・夫婦円満・学問上達・健康向上
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大雄山最乗寺の紅葉 久良岐のよし
場所:南足柄市大雄町(旧足柄上郡)
開基:了庵慧明禅師(開山)
中興:扇谷上杉家臣 大森家歴代当主
   相模守    北条 氏康   公
歴史:相模国大隅郡糟谷庄(現在の伊勢原市上粕屋一帯)の地頭だった了庵慧明禅師が戦乱が続く世間を憂いて出家、鎌倉で修行後に能登の曹洞宗の大本山総持寺で更に修行を積み総持寺の住職を務めた後に故郷の相模国に帰国し、この地に禅と修験の道場となる大寺院の最乗寺を開基開山した。
更に道了尊の寺院の異名の由来に成った相模房道了尊者は京都聖護院の門跡(天皇の一族が住職を務める特別な仏閣の住職の役職名)の覚増坊親王の元で修行をした後、金峰山や熊野三山で修験を積み、この大雄山を開いた了庵禅師の元で寺院建設と修行に励んだ。道了尊者は75歳で「大雄山の山中に入り以後は大雄山を守り人々を救済する」旨を宣言すると再び修験に出られ、現在では天狗の御姿で守護される道了大薩埵に成られたとして室町時代より鎌倉府与力の大名小田原城主大森家歴代当主や、後の小田原城主で関東の覇者と成った北条氏康公より深い崇敬を受け塔堂を寄進(建設)された歴史を持つ。
※紅葉の名所としても非常に有名。
※境内に有る巨大な天狗様の高下駄は、縁結びの御利益が有るとして有名。

龍祥山 勝國寺
御利益
:商売繁盛/立身出世/実務力向上
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場所:横浜市南区蒔田(旧久良岐郡)
開基:左京太夫 吉良政忠 公
中興:蒔田御所 吉良成高 公
   左兵衛佐 吉良頼康 公
歴史:東京の世田谷城と、現在の勝國寺の背後の丘に在った蒔田城を居城とした蒔田吉良家と御縁の深い御寺。元々、霊応寺と言う寺院だったが吉良家の菩提寺として再興開基されてより勝國寺と寺名を改めた。
この蒔田と世田谷を居城とした吉良成高公は関東一の名軍師太田道灌公の盟友として活躍された名将で、当時、道灌の居城だった江戸城が道灌公の留守中に敵勢に攻撃された際に援軍として駆けつけ城兵の指揮を執り敵勢を撃退する事に成功した事が梅花無尽蔵と言う書物に記載されている。梅花無尽蔵の著者の万里集九は文化人禅僧として有名だが彼も又、太田道灌公と吉良成高公の共通の友人だった。
勝國寺を菩提寺とした蒔田吉良家は室町幕府足利将軍家の分家に当たり格式が高かった。その為、戦国時代には小田原城主北条家の関東制覇に際し当時の蒔田吉良家の当主吉良頼康公は鎌倉公方の代行者として一時、‟蒔田御所”の異名で呼ばれその政務を一時期代行した。
又、鶴岡八幡宮が房総の里見家によって戦火に巻き込まれ焼失した際は、河川の水運や海運を担う商人達と関係が密接で現在の東京沿岸部を支配した吉良頼康公とその家臣団が材木の海上輸送を担当した。
この鶴岡八幡宮は総勢5万人の人員を動員した大事業だったので、蒔田吉良家の豊富な経済力と主従の内政的な実務力の高さを示した事績とも言え、吉良家歴代殿様の武勇と実務力と商売の能力の御利益に預かれる御寺でもある。
※近くには縄文時代からの遺跡を公園化し展示している三殿台遺跡があり、この地が古代より重要だった事が解る展示がされています。小学生くらいの御子さんのいる御家族は勝國寺と併せて見学されると、御子さんに良い体験もさせてあげられると思います。

●蟠龍山道洞昌院公所寺(関東管領扇谷上杉家執務所、不敗の名軍師太田道灌公の菩提寺で胴塚を守る寺院)
●長谷山寶泉寺(北条家家臣相模十四騎筆頭の間宮信冬公、間宮康俊公菩提寺)  

戒宝山 宝国院 二傳寺(坂東平氏始祖の平良文公、玉縄城主北条氏時公、) 
御利益:勝負運/縁結び(人脈)/立身出世/子孫繁栄
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場所
:藤沢市渡内(旧鎌倉郡)         
開基:後北条家  玉縄城主  北条  氏時  公 
歴史:開基自体は戦国時代だが、平安末期の名将、鎮守府将軍平良文公の御廟所が二傳寺の境内裏山に有る名刹(めいさつ)。
平良文公は全国の平氏系武将の祖先で、子孫には鎌倉景政公・三浦義明公・和田義盛公・梶原景時公・千葉常胤公・畠山重忠公・相馬盛胤公・正木時茂公・蘆名盛氏公・朝比奈泰朝公・長尾景虎(上杉謙信)等がいる。
藤沢市内の標高最高所に位置し、第二次世界大戦中は近代化された陸軍も砲兵部隊を配置した要害の地。
二傳寺自体は小田原北条家の北条氏時公により寺院建築物が築かれた。戦国時代に玉縄城が築かれると、武田信玄や上杉謙信も攻め落とせ無かった玉縄城の外郭二傳寺砦として機能した武家と関わりの深い御寺。
玉縄城主は地黄八幡と呼ばれ畏怖された関東最強の戦国武将北条綱成公。
※裏山の平良文公以外にも、三浦家に繋がる御子孫の御廟所もあります。
    
陽谷山 龍寶寺(りゅうほうじ)
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玉縄歴史民俗資料館
御利益
:勝負運/縁結び(人脈)/夫婦円満/土木技術向上
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場所
:鎌倉市植木(旧鎌倉郡)
開基:上総介 北条 綱成 公(地黄八幡 黄備隊大将 玉縄城主) 
中興:儒学者 新井 白石
歴史:開基様の北条綱成公は後北条家の家臣で、第三代当主北条氏康公の妹を妻にしており義兄弟同士で関東最強の主従として周辺諸国に武名を轟かせた。
特に西暦1547年に河越合戦で河越城代として兵3千を指揮し、関東管領上杉家と古河公方連合軍8万を迎撃し半年間も防衛に成功した上、主君で義兄の氏康公の援軍8千と協力し夜襲で関東管領連合軍を壊滅させ大逆転勝利をおさめた。
更に龍寶寺の寺域を含めた一帯にあった居城玉縄城で上杉謙信と武田信玄を迎撃し撤退させた。
北条家と武田家の同盟成立後は武田信玄vs上杉謙信の川中島合戦でも武田家の上田城に援軍として派遣され上杉謙信を撤退させた。
北条家武田家の同盟破綻後、北条家と上杉家が同盟するや武田家が北条領伊豆深沢城を攻めた。
その際、綱成公が深沢城代を務めていたが、寡兵(かへい=劣勢)でよく守り善戦した。敗戦濃色となり撤退した情報が上杉謙信に伝わると過去綱成公に何回も苦戦させられた彼は「地黄八幡が信玄に城を明け渡した」と大変悔しがった程でした。
勝った武田信玄も深沢城に残された「地黄八幡」の旗を部下の真田信伊(のぶただ=真田幸村の叔父)に与えて「北条綱成にあやかれ」と言わしめる程の名将でした。
江戸時代、龍寶寺は海外の外交使節の応接施設としても使われました。
綱成公の御子孫筋に当たる方に、名奉行大岡越前や江戸時代初期の名将松平信綱がいます。
副将は伊豆山中城合戦で活躍した笹下城主間宮康俊公です。 
境内、山門の直ぐ横には玉縄郷土資料館が在り、戦国時代の玉縄城の様子を伺える資料が展示されています。
※付近一帯は玉縄城址で、近所には一般非公開だが城址の蹴鞠場や花畑や空堀等の史跡も僅かに残る。鎌倉市に問い合わせれば見学も可能。 

●東光山英勝寺(徳川家康公側室お梶方菩提寺、太田道灌公菩提寺の一つ※伊勢原市より道灌公御首を源氏山に改装、水戸徳川家姫が歴住、学問上達戦勝祈願女性の良縁結びの寺)

●出雲大社相模分祠(島根県の出雲大社本社の関東に於ける分社で江戸時代の布教拠点)   


思金神社&白山神社旧跡
御利益
:立身出世/商売繁盛/学問上達/工業技術向上/実務力向上2016-01-01-11-36-10
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場所:思金神社:横浜市栄区上郷町(旧鎌倉郡) 
   白山神社旧跡:栄区長倉町
開基:不明。近代、幾つかの御社が統合された。元は白山神社。 
歴史:白山神社が前身の神社で旧境内地は栄区長倉町に在り、旧境内地に架かる昇龍橋は神奈川の橋100選の一つにも選ばれている。又、旧境内地には矢倉も有る事から鎌倉時代には既に存在した事が解る。一帯は奈良時代の集落でもある。
白山神社旧跡と思金神社の裏の鎮守の森は円海山瀬上市民の森と呼ばれる自然公園で、この神社のすぐ近くからは奈良時代の蹈鞴製鉄場の遺跡が出土している。古代鎌倉郡域の中でも特に早くに開かれた地域である。その為、山の裾野の丘陵には沢山の古墳群がかつて存在し現在も一部が現存する。 
山中の林道は鎌倉武士達が利用した古道の史跡でもあり、円海山全体が文化醸成地の体を成している。 
その山の多くの沢の水を集めた瀬上池から流れる瀬上沢は、古代人達から受け継いだ稲作文化を現在に伝える水田に配水する為の灌漑水田の史跡でもある。 
その灌漑用水として機能していた円海山の瀬上沢流域は「横浜市内では絶滅寸前の貴重な天然のホタルが自生している場所」で、6月にも成ると、夜間、瀬上沢のせせらぎの樹木の枝で光る天然の蛍を見る事が出来る。 
更には、この神社の建つ丘陵一帯は、貴重な淡水生の大型の貝の化石が出土する保護すべき地層でもある。 
太古の生物の化石が出土する保護すべき重要な土地であり、蹈鞴製鉄を行った古代人の文明と自然信仰の文化、鎌倉武士団の踏みしめた幾筋の古道を受け継ぐ文化醸成地の象徴的な存在が、この思金神社に成っている。 
御祭神も今では余り見かけなく成った神様の「思金神」だが、古代神話時代の首相格を務めた神様で、実務的な事や神様の担当業務等を割り振る役割を担った神様だった。菅原道真公を御祀りする天神様の登場まで、知恵や仕事の御加護の有る神様と言えばこの思金神だった。 
思金神を御祀りする神社は今では日本中に余り無いので、ここ栄区上郷町の思金神社と円海山の自然は横浜市内有数のパワースポットでありながら古代人の崇拝した古い神様の御利益に預かれる数少ない貴重な神社とも言える。 
※所在地が古代人が山岳信仰の御社を建てた神社だけあり、境内の展望台からは美しい富士山が見られます。
※思金神社から徒歩5分くらい、近くを流れる瀬上川の少し上流、円海山瀬上池近くでは初夏にホタルが見られます。 

横浜中華街関帝廟
御利益
:商売繁盛・財運向上・勝負運向上・縁結び(人脈)
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※色んな人が写り込んでいるので、顔が見える人だけ画像差し替えてます(ふざけてません(笑))。
場所:横浜市中区山下町(旧久良岐郡)
開基:幕末の華僑の皆さん
歴史:ペリー提督の来航により横浜が開港されると、1859年、蒔田湾(大岡湾)を埋め立てて作られた吉田新田の一角、横浜の地名の由来の半島と山手地区に接する埋め立て部分に中国清朝時代の領事館が設置され、次第に華僑商人達が貿易の為に集まる様に成り今の横浜中華街の礎が形成された。その頃既に、関帝廟も建立されていたが現代の様に立派な建築では無く比較的簡素なものだった。
現在の関帝廟に成ったのは、戦後の事。関帝廟からほど近い公園は、元々は幕末の中国清朝の領事館の所在地だった。
明治時代初期には台湾の国父で明治政府の盟友、孫文先生が横浜中華街に亡命し、その後、中国大陸の民主化と中華民国の建国に成功している。
御祭神の関聖天君は生前の名を関羽雲長と言い三国志に登場する有名な名将。三国志演義では指揮官としてよりも武芸に優れた武将として描かれているが実際の関聖天君は指揮官として優れ「万人之敵(万の軍を打ち破る名指揮官)」として記録上は評価されている。
後に農村の村民から皇帝に出世する劉備と出会い、武将としての才能を開花させていく。
武将としての人生を歩む前は塩の行商を行っていた商人だったので財神(ざいしん=金運と商売の神様)として崇敬を集めた。又、当時の商隊は武装した私設軍隊でもあった。
関聖天君の活躍した三国時代は日本の卑弥呼の時代に相当するが、当時の中国で塩の行商は個人レベルで行う事業では無く商隊を組んで行う大規模な事業だった事や、塩自体が貨幣の代替品としても利用された事から、商売繁盛の神格も有している。その為、世界各国の華僑の崇敬を集めている。
※入口で御線香を購入し御参りすると、日本で言う所の御朱印みたいな柄がプリントされた御守りを頂けます。
※中華街はランチタイムに行くとお得で、500円~1500円位でメインとライス・スープ・デザート付きのランチ定食やランチコースを楽しめる店が沢山有ります!肉まん食べて御腹いっぱにするのは「損」ですよ~。

ここでは、特に開基様が有名で偉大な業績を残さした神社仏閣を紹介しました。
他にも素晴らしい神社仏閣もあります。
もし御興味有る方は、以下カテゴリーから御覧下さい。
●神社→「ココ」←クリック!
●御寺→「ココ」→クリック!
●城址→「ココ」←クリック!
●無形文化財/伝承→「ココ」←クリック!

では!
皆さん、本年中は御愛読頂きまして誠にありがとうございました!

ブログで関わった皆さんと日本国民と日本の友好国民の新年が良い年に成ります様に!


前回
 ↓
【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その③源実朝公首塚~金剛寺・・・源氏将軍暗殺ミステリーの史跡と御寺と解説編。
 ↑
コレの続きの記事・・・
22日訪問その③
前回の記事で紹介した金剛寺を出発してから弘法山に向けて暫く車を走らせるとカーナビの「まもなく右折です」のガイドが自分の思ってる道と違って何だか無視したくなり(笑)、そのまま暫く直進してから弘法山方面に行く別の道を進むと偶然とても気に成る店構えの建物と看板が目に入って来た・・・
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強烈に目立つ「ゆばとうふ」&「とうふ」「とうふ」「とうふ」「とうふ」「とうふ」の看板と幟(のぼり)のラッシュ(笑)・・・
これを見た瞬間に妙に印象に残り「そう言えば秋なのに今年は大山阿夫利神社に紅葉見に行ってないし、丹沢山系大山名物の大山豆腐食べてないなぁ」
・・・と今回の小旅行で何にも特産品を食べていない事を思い出し、無性に丹沢山系の美味しい水で作られた名物豆腐を夕食に買って帰りたくなったので店を過ぎてからUターンして(笑)戻って来た。
幸い店の前に駐車場が在った。
店の名前を五右衛門と言うらしい。
(株)五右衛門 本店店の中に入ると意外な光景が小生を待っていた。
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何と只の小売店では無く客の目の前で豆腐や湯葉を生産しているのだ。これは外国人の来客が有った際に弘法山の桜や紅葉見物と合わせて連れてきたら喜びそうだ。
無論、小生も帰宅してから夕飯(減量中)と家族の御土産にする為に❝石臼なまゆば❞・❝石臼とうふ❞・❝生揚げ❞・❝なめらか絹揚げ❞の4品を購入してみた。
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帰宅してから小生は湯葉と豆腐を食べたら当然ながらメチャクチャ美味しかった♪
質問に色々と親切に答えて下さった店員のお姉さん、ありがとう。
遠回りで思わぬ美味しい発見。
五右衛門本店サンから車で僅か10分の距離に弘法山は在る・・・
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弘法山に夕方に差し掛かる15:30頃に到着。当日は天気予報が晴れ後→雨だったので心配していたが、やはり雨が降り始めた。
この弘法山は春が特に綺麗な富士山の景勝地として有名で、天気が良ければハイキングを楽しむ人と多くすれ違う。
因(ちな)みに春の風景はコンナ感じ・・・
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弘法山展望台そう言えば一昨年に弘法山で桜と富士山を見た時も天候が芳(かんば)しく無かったんだ(笑)。
まぁ、あと4ヶ月も過ぎると桜が咲くので、ここは新たに見つけた五右衛門本店サン、そしてこの後で訪問する“鶴巻温泉”と合わせて行くと良い休日に成るだろうと推薦できる場所だな。大山も近いので車での移動の人なら合わせて訪問しても良いかも知れない。
さて、22日に話を戻す。
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天気も悪く日暮れも近いので車を駐車場に停めて展望台まで10分位急いで登ると慌ただしく紅葉の写真を撮り始めた。
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一応、ハイキングコースとして有名で紅葉も楽しめる。
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ここはやはり展望台に登のが御薦めで・・・
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丹沢山系~箱根山系~(晴れてれば富士山)~伊豆半島の山並みの絶景が一望できるんだな。
そして春には手前に桜が、秋には紅が差した山の木々が景色を化粧してくれる。
この日は生憎天気が悪かったが、それでも爽やかな空気と箱根の絶景を楽しめて大満足だった。
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曇りのせいで余計に光を感じれたし、山々に雲が掛かり、これはこれで楽しめた。
まぁ、正直この日の最大の目的は最初の大雄山最乗寺の紅葉(笑)と、弘法山の後に訪問する予定の鶴巻温泉の秦野市市営銭湯“弘法の里湯”だったので、多少天気が悪いのも風情の内と楽しめる余裕が有ったんだな(笑)。
これが一人だから自己責任で良い訳で、外国の友人やらと一緒に来ていたらエスコートする責任から正直、悪天候を楽しめなかったかも知れないな。
弘法山の駐車場に戻り、車に乗るとナビでは弘法の里湯まで15分と出た。
しかし実は小生、以前来た時は弘法の里湯への道が解らず、時間的にも余裕が無かったので小田急鶴巻温泉駅周辺まで来てもスルーしてしまった事が有る。
今回はカーナビ先生に事前に位置登録しておいたのだがこれが実際に車で走ると路地の細い変な道に入られるわ~、温泉街じゃなくて住宅街化していて全然解らん!
仕方ないのでスマホのGoogleMap先生に登場して貰った。
鶴巻温泉周辺 久良岐のよし
あっさり到着(笑)。
小生の車の某自動車メーカー純正カーナビはクソだ(笑)。iPhoneとの接続不良も度々起こすし変な道走らされたり高速の出口を変な場所で降ろされたりするので、基本的に旅に出る前には小生は道順をだいたい地図見て丸暗記する様にしている。でも、こういった住宅街の路地はどうにも成らん!
そこの当たり、スマホの登場でGoogle mapが使える時代に成り非常に重宝する。
行きたい場所を事前にやたらめったら登録して置くと、距離感が解り易くて道路状況に合わせて柔軟に計画の変更も出来るし。
Google先生にガイドを頼んだらアッサリ到着(笑)。
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弘法の里湯何だか思っていたのと違う、銭湯と言うよりスーパー銭湯だな。
でも駅前なのだが駐車場もそれなりに有り交通の利便性は良い。
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綺麗だし。
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秦野市の御土産も売っていた。小生は秦野市と言うと特産品は“煙草の葉”と“美味しい水”のイメージなんだが店員さんに聞いたら落花生も有名だそうだ。
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まぁ当然混浴では無い(笑)。
中は箱根の中堅ホテルの内風呂位の大きさの大浴場と、小さな露天風呂が一つ。
料金は2時間と1日の2種類、曜日によって違う。
平日は2時間800円、1日1000円(秦野市民は800円)。
土日は2時間1000円。
フロントに最初に申し出れば駐車場料金のサービスも受けれる。
弘法の里湯の温泉は横浜・川崎市民や東京都民に馴染み深い黒湯炭酸泉と全く異なり、無色で若干硫黄ぽい匂いがする気がする物だった。何でも世界有数のカルシウム含有量が有る温泉で、擦過傷や打ち身とリウマチの治癒に効果が有るそうだ。昔は湯治場でも有ったので飲湯すると薬代わりとしても持てはやされたそうで胃腸病の回復にも効果が見込めるそうだ。
・・・朝から山を2つ登り、史跡と御寺を廻って書いた汗をゴシゴシ洗い落とし、鶴巻温泉のサッパリした湯で疲れを癒すとリフレッシュし、睡眠不足の帰路の運転に堪えるだけの鋭気を養う事が出来た。
メンバーカードみたいのも頂いたので、又来年の紫陽花の季節に開成町の紫陽花祭りと寒田神社参拝の帰りに寄らせて頂こう。

この日、最終的には真土大塚古墳を訪問して写真を撮影する予定だった。
2017年11月22日訪問予定地
真土大塚古墳は日本に文字を齎(もたら)した神であり大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)=仁徳天皇の弟皇子の莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)の御陵(みささぎ)=古墳の跡で、アホの神奈川県教育委員会が一昔前に保護を怠り事も有ろうに農地改良と称して破壊してしまった歴史がある。
挙句の果てに教育委員会が伝承をナメてたら本当に古代王族と繋がりを示唆する三角縁神獣鏡が出てきてしまったから、さぁ~大変!
はからずも前鳥神社の由緒を証明する事に成り、神奈川県教育委員会は己らの不見識で天皇祖先御一族の皇子の被葬されたまま保存されていた古墳を破壊した訳だからな。
昭和中期から時代が経ち現代、市民が増えて認知度が上がる程に責められる訳だ。だから現代の古墳を復興した。
復興した古墳だが、それでも昔そこに莵道稚郎子命が眠っていた事には変わらない。
学問の神様として崇拝する莵道稚郎子命の復元御陵を改めて参拝し写真撮影したかったのだが、残念ながら弘法山の時点で既に日没を迎えタイムアップだった。
22日訪問その③
それでも帰りの順路に組み込んで横は通って見たが、やっぱり真っ暗で何にも見えなかった(笑)。
正月3賀日のどこかで伊勢原市の比々多神社と平塚八幡宮と前鳥神社も参拝する予定なので、その時に改めて訪問しよう。

さて、今回の旅、やはりハイライトは最初の大雄山だった(笑)。
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まぁでも“なんつっ亭”で久しぶりに美味しい九州風拉麺も食べれたし、出雲大社相模分祠も御参り出来たし、源実朝公にも命日の前日に御挨拶に伺え参拝で来たし、全体的には満足な旅と成った・・・

この後、日にちは前後したが訪問したのが下の記事で紹介した“三渓園”・“山下公園前銀杏並木”・“報国寺”・“鶴岡八幡宮白幡神社”での紅葉見物だったんだな。
コレがその時の記事
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更にその後日、小生が顕彰活動を行っている宅間上杉家の殿様所縁の神社である下永谷の神明社・・・
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そして三浦半島の富士山の絶景スポットにも行って来た。
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又、改めて解説記事で紹介したいと思います。

さて、これから年末年始に向けて、又、神奈川県内の凄い御利益の有る神社仏閣紹介記事をボチボチ更新して行きます。
コレね。
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何とかクリスマス25日の夜には更新完了できる様にしたいと思いますので、興味が有る人は年末年始の神社仏閣参拝の参考に紅白歌合戦でも見ながら片手間で見てやってください。

では!又、その記事で御会いしましょう♪良いお年を!










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