歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。
皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪
…と、思って書いています。

写真・本文・構成・無断転用禁止!
関係先と小生の個人的な信頼関係で了解をとって記事にしているので、転載したい場合は当方へ確認願います。

前回の歴史解説記事⤵
瀬戸神社と手子神社・・・①金沢区の手子神社は瀬戸神社分社で東京の浅草寺の僧正が開いた神社。
コレ⤴の続き・・・

横浜市は実は鎌倉幕府の将軍や執権、室町幕府の将軍や鎌倉公方や関東管領上杉家、江戸幕府の徳川家康公を始め歴代将軍達が愛した景勝地や神社仏閣や関わった城址が沢山❝在(あ)った❞のですが、残念ながら2018年現在の横浜市長もそうである様に他所からの移民が政治家や市役所役人として就職する事が多く、その中の横浜への郷土愛も日本史や日本文化や文化財への理解も無い人によって大切な神社も境内地を大きく削られ歴史偉人の愛した景観が損なわれた場所も少なく有りません・・・
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実は金沢八景駅の直ぐ目の前に、そんな横浜市による文化軽視の悪い例でもあり、鎌倉幕府征夷大将軍の源頼朝公や執権の北条貞時公、室町幕府鎌倉公方の足利持氏公、徳川幕府初代征夷大将軍の徳川家康公が風景を愛し保護した神社の❝瀬戸神社❞が存在します。
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
地図上の白い場所が金沢八景の地名由来に成った当時の日本に名を轟(とどろ)かせた景勝地時代に海だった範囲です。
瀬戸神社の山は元は半島の突端で金沢八景の海の入江と入江を繋ぐ半島と半島が近接し、そこに橋を架けられた❝ランドマーク❞と成る場所だったんですね。
今では面影も無く他都市からの移住者役人だらけの横浜市により瀬戸神社旧境内地の山は切り取られ見るも無残に僅かに社殿裏側の一部を残すだけに成ってしまいました。昔は金沢八景駅周辺までずっと続いていたんです。
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瀬戸神社(各時代の幕府の歴代将軍が大切にした神社)
さて、この神社は目の前の海に突き出した琵琶島弁才天と一体型の神社で、既にその事から昔は周辺をとりまく海の安全を守り且(か)つ周辺の海も山も含めて神社だった事が解かります。言葉を変えると自然信仰である神道の概念を無視し横浜市教育委員会が景観保護を怠り❝神社の一部を破壊した❞とも言えますね。
この瀬戸神社、最初は源頼朝公が伊豆の三島大社から大山祇大神(おおやまづみおおかみ/おおやまつみのかみ)の御神霊を分祀して頂き開いた神社です。
つまり・・・
源頼朝公が相武地方に三島大社から御分霊を勧進した10ヶ所の神社の一つである事が解かります。
足柄上郡開成町古田島の吉田神社や・・・
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吉田神社
三浦半島葉山マリーナ近く森戸海岸の森戸神社・・・
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森戸大明神(森戸神社)
・・・これらの源頼朝公が三島大社の御分霊を勧進して開いた神社と同時に源頼朝公によって開かれた事が由緒から解りますが、特に鎌倉市街の外港玄関としての機能が在った金沢の瀬戸神社三島大明神と琵琶島弁才天は別格に将軍家から大切にされた様ですね。
今でこそ❝瀬戸神社❞と呼ばれていますが、三島大社の御分霊なので江戸時代までは❝三島大明神❞とも呼ばれ、当時の扁額(へんがく)にも三島大明神の名前が彫られ文化財に成っています。
三島大社や瀬戸神社の主祭神である大山祇大神は、神奈川県最古級の神社である延喜式内社としても有名な大山阿夫利神社と大山山体の神様でもあり、相模湾と相模平野のランドマークとして❝関東総鎮守❞の異名を持つ❝海の守り神❞でもあります。
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そして眼前の琵琶島弁才天も源頼朝公と北条政子御夫妻が今の滋賀県、近江国の琵琶湖に浮かぶ竹生島弁才天様から御分霊を頂き開いた、水神様で軍神で音楽神で美の女神でもあります。
そんなとんでもない由緒が有る凄い神社が瀬戸神社と琵琶島弁才天なんですが・・・
そんな事を知らない役人が横浜市には多い様です。
そんな凄い神社だけに残る文化財の数も現代の境内の規模から想像もつかない程沢山残っています。
数えればキリが無い位なので、もし興味が有る人は❝神奈川県立金沢文庫博物館❞で2013年に行われた特別展❝瀬戸神社~海の守護神~❞の時の図録が金沢文庫博物館の図書室で閲覧出来るはずなので探して見ると良いと思います。
一応、神社の説明の看板に幾つか文化財の説明が有りますので写真を添付します。
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この神社の凄い所は、江戸時代迄日本の神道の親玉で今の京都市左京区の吉田山~京都大学一帯が全て境内地だった吉田神社との関係が深く、明治時代に成ると国家神道から目の敵にされ弾圧された吉田神道と言われる神仏習合の神道の長であり、明治まで歴代天皇と将軍家から神祇官を束ねる役割を仰せつけられていた吉田(卜部)家からも大切にされていた事が古文書から解っています。
実際に享保三年(1718年)に神祇管領長上だった卜部兼敬(うらべかねたか)公は❝三嶌(みしま)大明神❞の揮毫(きごう=記念に書く事)をし扁額の字を書いています。そして彼はわざわざ京都から瀬戸神社に参詣に来て初穂料(はつほりょう=御賽銭)に白銀1枚、当時の宮司家の千葉胤治(ちばたねはる)公に金と藤原定家や寂連法師や西行法師(和歌三夕と呼ばれた和歌の名人達)の和歌が書かれた色紙を与えています。
今の横浜市は瀬戸神社の文化歴史を理解できておらず景観も破壊しますが、昔は神社世界のトップが直々に来る程に大切な場所だった訳です。
そして横浜市や房総半島や日蓮宗の歴史に詳しい人は「ん?」と思ったかも知れませんが、大名としての地位は戦国時代に終了した平安時代以来の武家の名門の千葉家は、実は金沢区六浦や瀬戸神社ととても関係が深く、日蓮宗の聖地の一つであり日蓮上人の船中問答の舞台である六浦山上行寺は千葉家臣団が房総から鎌倉に出勤する際の船着き場で、そこを管理した富木(とき)家の屋敷が前身に成っている御寺です。
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六浦山 上行寺
千葉家が没落し富木家の後に鎌倉時代上行寺を支援したのは金沢北条家臣と思われる荒井家で、後に戦国時代の北条家臣間宮家の家老の一家と成る家ですが、この荒井家も瀬戸神社に関わりが深く瀬戸神社と琵琶島の弁天様の在る島を結ぶ二重橋だった琵琶島弁才天の参道の橋を単独で寄進したのも荒井家でした。上行寺の御住職様に取材した時にこの話を伺(うかが)ってたまたま小生はこの歴史事実を知っていますが、恐らく知らない歴史学者の方が多いかも知れません。
この荒井家は横浜市磯子区杉田の牛頭山妙法寺も開いており、今も檀家として荒井家の御子孫が妙法寺には残っておりますし、江戸時代に笹下城主間宮家から分家した杉田間宮家の菩提寺として妙法寺は今も立派な間宮家御廟所が存在しています。
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牛頭山妙法寺
妙法寺はヤマトタケル神話の舞台の一つでもある元は弘法大師様が牛頭天王の御堂を立てた事に聖地としての歴史が始まる御寺ですが、こちらも以前に解説記事を書いたので御興味御有りの方は合わせて御覧下さい。
妙法寺の記事はコレ⤵
妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。
多分、瀬戸神社の琵琶島に架かっていた太鼓橋を荒井家が単独で架橋奉納した歴史を御存知なのは上行寺の御住職と檀家役員さん達位でしょう。それと北条家臣団と間宮家研究の第一人者である盛本昌広先生なら御存知かも知れません。
鎌倉幕府将軍家や執権北条家が直接関与する程の格の「瀬戸神社」に単独で橋を寄進する事を許される家格と経済力が荒尾城主荒井家に有った事、そして千葉家が鎌倉時代~江戸時代末期までずっと金沢に宗教面で影響力を持ち続けて家も存続していた驚愕の歴史事実が、これらを繋ぎ合わせるとハッキリと解るんです。
因みに荒井家の荒尾城は幻の城ですが、小生は上行寺~横浜市大の裏山である御伊勢山~権現山一帯全てが荒尾城と推測し、実際に現地を歩いて城址としての削平地や竪堀や堀切の跡地形を見つけています。
それも以前、記事に書いて有るので興味の有る人は御覧下さい。
これ記事⤵
【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。
室町時代には最後の鎌倉公方(関東を治める鎌倉将軍)と成った足利持氏公も直接参拝に来ていてこんな古文書が残っています。
塙不二丸所蔵文書
これは塙不二丸氏所蔵文書の一通として残る古文書の写しを小生がタイピングした物ですが、文中に登場する❝上様(将軍様)❞はつまり足利持氏公です。
因(ちな)みに何で小生がこの文書を知ったかと言うと、盛本先生が書いた❝瀬戸神社に来た足利持氏❞と言う文章を読んだからで、盛本先生の受け売りですね(笑)。
そしてこの文書のあて先は鹿島神宮の大禰宜(大宮司)中臣家宛てと盛本先生は推測されています。
ね?
神社仏閣好き、御朱印好きなら、もうここまでの小生の説明で瀬戸神社がとんでもなく格の高い神社だった事が御理解頂けるかと思います。
そして横浜市教育委員会が景観保護しなかったせいで土建屋が景観ぶっ壊しまくった悪事が判るでしょう?
そんな瀬戸神社と日本屈指の景勝地だった金沢の八ヵ所の景勝地、略して金沢八景を徳川家康公も遊覧に来ていて、洲崎町屋地区の龍華寺に徳川家康公が滞在し、瀬戸神社にも社領100石と破格の待遇で瀬戸神社を保護をしています。
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知足山 龍華寺
龍華寺の歴史は以前紹介記事を書いているので、御興味の有る方はソチラも合わせて御覧下さい。
龍華寺の記事はコレ⤵
龍華寺…源頼朝公が開いた横浜市金沢区の古刹。
瀬戸神社の社領(神社の収入)は徳川家康公から100石分与えられていますが、普通の神社や御寺の収入は歴史が有る場所も普通は5~10~15石程度が標準的なので、瀬戸神社がとんでもない大切な場所だったのがその社領の多さからも判ります。余談ですが出雲大社は2000石で最早ちょっとした勢力でした。

さて、瀬戸神社の歴史解説どうでしたか?
とぉ~っても!日本レベルで大切な神社さんなのが御解り頂けたでしょうか?
次回は三島大明神と呼ばれた瀬戸神社~琵琶島弁才天の社殿や風景を写真と共に解説します!
今日帰ってきたら書けるかな~?
もし書けなかったら又、来週末にUPしますね!


では!皆さん、又、瀬戸神社の記事の続きで御会いしましょう~♪






いつも小生のブログに登場するのは妹のとこの甥と姪ですが、今朝、弟のとこの姪(長女)が英会話教室に行く前に遊びに来たので暇潰しに天然石ストラップの作り方教えたげながら自作させてみた。
小生の中国で大量に買い込んだアクセサリー作り用の天然石と金属のビーズから好きな物を先ず姪っ子に選んで貰う・・・
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次に紐を選んで貰い・・・
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ナイロン製の紐を裁断してから端を火で炙り細くし選んだビーズに通して貰いました。
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最初は苦戦、まだ小学低学年だからね~。
でも直ぐに慣れた姪、スルスルと上手く通す。
基本の結び方を手本見せて口で説明しながらやらせて見たけど中々最初なので上手く行かない。
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なので手解きしながら実際に手取り足取りやらせてみたら4、5回結ばせた位からスッカリ覚え器用に結びあげれる様に成った。
うん、途中で何回か左右反対に結んでしまったけどほどいてあげれば良いだけだからね~。
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姪の作品ストラップ第一号。
なかなか筋が良い♪
作る前にノリノリだった姪、なので完成後に聞いてみた・・・
小生「また作りたい?」
姪 「う~ん・・・伯父(オジ)ちゃん作ってくれた方が綺麗だから伯父ちゃん作って(´・ω・`)」
小生「なにぃ~(´Д`|||)!」
・・・どうやら小学校低学年には単純作業は楽しくなく、手っ取り早く石だけ選んで完成品だけのオーダーメイドが良いそうです。
確かに皆が皆、工作好きな訳じゃないからね。

前回姪達に作ってあげたストラップはコレ
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ブログ⤵️

天然石やガラスのビーズと手芸糸で組紐編んでストラップ作り


実は最近、上司に対する不信感で感情的に「どうでも良いや~」て成ってた時に声をかけられた他社からちゃんとした待遇での転職の引抜き勧誘をヤケクソなまま「別にもういいや」的にスルーしたりとか、色々嫌な事も自滅も有り死にたい位に鬱ぽく成っていた小生、今朝は姪の来訪で一緒に遊んでる少しの間だけモヤモヤを忘れる事が出来ました。

ありがとね~弟とこの姪(長女)!
・・・姪は姪で学校で男の子にイジメられてツマラナイそうだ。
「その男の子、○○(姪)の事好きなんじゃない(笑)?」
・・・って言ったらメッチャ真顔で・・・
「ゼンゼンっ(怒)💢」
・・・て姪に怒られた(´;ω;`)。
ごめんよ~伯父ちゃん自分の経験で話してしまって(´Д`|||)。
伯父ちゃん、小学生の時に好きな子にイタズラして仕返しされたの。でも仲良く成ってバレンタインのチョコ貰ったりクリスマスパーティーに呼ばれたのにブランコで後ろに飛び降りたら骨折して行けなかった事とか思い出とか有ったからさ~。小学生の男の子が女の子にイタズラとか嫌がらせする時って好きな時が良く有るんだよ~。

神様仏様御先祖様、どうか姪っ子を優しい男の子が守ってくれます様に。

では、今晩、瀬戸神社の記事を書きます。


普通に日本で生きてたら中国のコントなんか見る機会が無いんだけれど、出張とかする人は見た事有るかな?
 
この人のコント中国の志村けん師匠みたいな感じかな~。
いや、ウッチャンに近いかな~?
 
クッソ面白いし字幕も有るから台湾や中国に興味が有る人は笑いながら中国語の勉強できるから良いよ~。
ささ、小生はコピーさせて貰った古文書の整理を今からします。又、今夜のブログで!

瀬戸神社の記事を書く前に・・・
突然だが小生は火鍋も好きだし中華街も良くご飯食べに行くし関帝廟も媽祖廟も御参りするし中国の古代史と中華料理は大好きだ。
そして、日本文化が好きでちゃんとビザを取得して日本に留学に来て苦学している台湾や中国の子等も応援したいと思う。
ニートで働かない日本人より❝親日で日本文化大好きな働き者の外国人❞に❝飛鳥~奈良時代の大和朝廷で活躍した外国人❞の様に働いて一緒に日本の御祭りを楽しんで貰ったりして、ゆくゆくは日本人に成って貰った方がよっぽど国益に適うとも思っている。
無論、日本文化に興味が無くいつまでたっても日本に馴染まず拝金主義の外国人が金を稼ぎ来て日本を切り売りする為に来るなら「どうぞお帰り下さい」と強硬に言う訳だが。
習近平サンが中国の❝領導(ボス)❞に成ってから中国政府による日本国と在中国日本企業に対する嫌がらせが頻発しているのが心底ムカつくんだな。
漢詩や中国文化が好きな上に季布や関羽や呂蒙や顧雍や丁奉や徐盛、岳飛や鄭成功や孫文先生や周恩来先生を尊敬している小生としては苦々しく怒りを感じるので嫌味を書いておきたくて日本神話と三国志の関連の話をして反日派の中国人に彼等の浅学振りをチクリと言っておきたいと思う。

突然だけど小生は卑弥呼の名は発音の漢字音読み表記で意図的に漢帝国~魏の皇帝に憚(はばか)り下賎な字を当てられて中国史書には記録されているのだろうと思っている。
そして卑弥呼は一人の名ではなく古代大和朝廷の元となる日本の一地方の原始国家時代から引き継がれた祭祀を司る巫女(みこ)であり女性の皇子(みこ)、つまり斎王の原形である原始信仰の女性法王的な役職名か現人神(あらひとがみ)としての❝生前の神号❞がヒミコだろうと推測している。
卑弥呼は多分、日本語で日巫女か日御子と言う当字するべき意味の発音なんだろう。
そして縄文時代~弥生時代に移る頃から大凡(おおよそ)それに当たる役割が女系か男系かは置いておいても古代神道の原形の原始自然信仰で選出された未婚の女児が役割を担って来たのだろう。

日本に文字普及する以前の記録に残らない数百年間の斎王がヒミコ=日御子/日巫女/日皇子(女性)で最後のヒミコに習合された人物だったのかも知れない。
或(ある)いは大王(おおきみ)つまり天皇の御先祖の息女だったかも知れないし邪馬台国連合国の盟邦の1ヵ国の中の王女から選出されたのかも知れない。
一人では無く、数世代いたはずだ。
同様に倭建(やまとたける)も古代の大将軍の役職名で数人が一柱に習合されていると思う。で、ヤマトタケルの日本武尊(やまとたけるのみこと)の方は仏教文化の影響で後に当て字された書き方だろう。

そして、その国家宗教の信仰上の役職としての❝ヒミコ❞の役割は恐らく太陽信仰の象徴で天照大神の化身としての現人神(あらひとがみ)だろう。
つまり、そんな歴史が有ったなら天照大神は紛れもなく肉体を持ち天皇家の祖先神を産む事が出来た女性の現人神か天照大神の依代(よりしろ)たる大いなる巫女だったはずだ。ただし、卑弥呼は未婚の巫女や斎王だったろう。
天照大神信仰の形式で日本で普及した太陽神信仰が始まったのは恐らく稲作文化が大陸から輸入され始めた縄文時代~弥生時代の転換点の頃の筈で考古学的な昨今の発見による稲作開始時期と大凡合致する。
稲作が普及して米が生産された事で“腐らない大量の食物”として備蓄確保出来る様に成り、更にその米は“大量輸送”可能で“軍事食料=兵糧”として“軍隊を遠征可能にさせ”原始国家を誕生させたのだと思う。
それ故(ゆえ)に稲作に大切な日照や旱魃(かんばつ)に関係する太陽信仰が、神々の父母たる縄文時代からの神様の伊邪那岐(いざなぎ)命や伊邪那美(いざなみ)命よりも重視される様に成って行ったんだろう。
ヒミコの跡継ぎのトヨが歴代の巫女の親玉と同じくヒミコを名乗れなかったのは恐らく信仰上の巫女資格の無い既婚者だったからだろう。

それ等を踏まえて“最後の卑弥呼”や跡継ぎの臺与(とよ)が正体の一端であろう神格化された神様の日本神話と台湾と中国の友好の歴史を絡め、反日中国大陸人の話をしたいと思う。

西暦238年6月夏
西暦239年
西暦248年9月5日

これらは何の日でしょう?

238年…
卑弥呼が三国時代の魏帝国に使者を派遣した年。

239年…
卑弥呼が魏皇帝曹叡から中華に従属する国王で最高職の親魏倭王の称号と金印紫綬を託された年。

248年…
日本の女王卑弥呼が死んだ日が9月5日。
この日は日蝕が観測されているので判明している。
天照大神の天岩戸の神話に酷似している。

251年…
日本の女王卑弥呼を支援した魏の丞相司馬懿が死んだ年。

これらの記載がある三国志正史の魏志にある記述や歴史背景に合致し、女王卑弥呼に批定される皇族が日本書紀にいる。
すなわち伊勢神宮を開いた倭姫か妊娠中に朝鮮半島征伐に渡海し成果を挙げた神功皇后の何れかだ。
またそれとは別に卑弥呼は天照大神のモデルと主張をする学者もいる。
仮に天照大神の化身が卑弥呼なら、チベットのダライ・ラマみたいに数世代血縁無く継承された宗教指導者と考えると納得行く。

238年6月、魏帝国に卑弥呼が従属同盟の使者に難升米(ナシメ)を送り魏皇帝曹叡つまり曹操の嫡孫から支持され支援を受ける。
最高従属同盟者の証である「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」に加えて銅鏡100枚と5尺の宝剣を2振りを贈った。
この宝剣が草薙剣と天叢雲剣の正体かも知れない。この草薙剣と天叢雲剣が同一と思い込む人もいるが違う、歴史的に倭姫が倭建に貸与した草薙剣は熱田神宮に祀られて以後は朝鮮の新羅人盗賊に盗み出された一度を除いて動かされた事は無く、三種神器の天叢雲剣は皇居に安置されている。つまり別の剣な訳だ。
曹操は青紅の剣、倚天の剣の様に2振りの宝剣をセットで所持したので、同様に王と代行者の大将軍用の2振りを持つのが魏の文化だったりしたかも知れない。
余談だが神社の幣殿に備えて有る鉾と楯と旗、あれは古代史好きなら直ぐに解るが漢代の中国の軍装だな。神社の文化も御神鑑を祀るのは、古代に神格化された豪族に卑弥呼が配布した魏から供与された100枚の鏡が太陽信仰の象徴として祭器に成ったのかも知れない。
そもそも縄文時代以来の古代の日本の信仰は、病気に成らない清涼な飲料水を確保出来る湧水池や山岳の奇岩や河川の合流地点や半島の突端と入江の付け根の漁に出る船を係留できる地形で美しく神秘的な古代人の生活にとっても大切な❝場所❞が神格化されて石座(いわくら)や水神として祀られる様に成って行ったのが考古学的に解る。
だから神社の社殿にある文化は弥生時代~古墳時代の変革期に中国大陸の影響を受けた文化を垣間(かいま)見る事が出来る訳だ。

金印紫綬、卑弥呼に送られた金印は通常、皇族出身の王や高位の太守にしか与えられない物なので前代未聞の事だろう。

難升米(ナシメ)と言う人物の出身を少し推測する。
前漢の時代に漢帝国に朝貢し漢委奴国王(漢のイト国王/漢の委任する奴国王)の金印を得た人物で倭王帥升と言う人物の記録が中国の歴史書「史記」に書かれている。
恐らく古代邪馬台国の王の先祖か王族の1人だったのだろう。
伊都(いと)国と呼ばれた地方は昔の筑前国那珂郡辺りで現代の福岡県福岡市那珂川流域と博多近海の糸島(いとしま)等の小島を含めた辺り一帯であった。
その一帯は大和朝廷初期には、儺津(なのつ)と言う港の有る儺縣(ナンのアガタ)と言われた行政区域だった。奴国(なこく)はもしかしたら発音的には儺津に関係するかも知れない。
そして儺縣(ナンのアガタ)に居所を定めて住んでいたので難升米(ナシメ)は名字を「難=儺」と称したのだろうと思う。
これを考えると難升米は倭王の血を引く伊都国王か奴国王の帥升の子孫だったから先祖の名の升の字を代々継承し「升米」と称したのではないだろうか?名の米の字はもしかしたら稲作を普及させた人物なのかも知れない。帥升の帥は元帥の帥なので、王とか国を束ねる者とか言う役職を指したのかも知れない。

難升米(ナシメ)は、そんな重要な血筋で先祖が中華との外交を行った人物だったからこそ、邪馬台国女王代理として三国時代古代中華の魏帝国への同盟の使者の大役を担ったのかも知れない、まぁ状況証拠だけで何も確証は無い。
彼は魏帝国皇帝から率善中郎将の官位を得ているが、これは漢帝国や魏帝国に於いてもかなり高位の武官職であある。
率善中郎将は後漢の時代には設置された役職で、後漢に柵封された従属同盟国の王の直轄将校であり時として将軍の任務を代行し派遣される様な重役だった。
邪馬台国の使者の難升米(ナシメ)は更に魏皇帝曹叡から気に入られ黄幢(魏帝国の御旗)と詔書を直接下賜されているので、余程の才知か武勇に富んだ武将だったのだろう。
また当事の魏帝国は邪馬台国と連合して、反逆した朝鮮半島を共同で攻撃する必要もあり、太陽信仰の巫女の親玉で女王とされた卑弥呼と武将難升米を重用したのだろう。

この時期、三国志の英雄で魏の2代皇帝曹叡と配下で丞相の司馬懿の魏帝国は、遼東半島や北朝鮮一帯で叛乱した燕王公孫淵と公孫淵と同盟し魏の領土に侵攻した鮮卑(蛮族の意)と対立していた。
帯方郡の長官である太守劉夏が鮮卑に殺害される大事件が発生。
現在の中国の遼東半島には漢帝国時代から魏帝国当時は楽浪郡が置かれ、その更に南に帯方郡が置かれていた…
今のソウル辺りだ。
ソウルは、つい十数年前まで漢字で漢城と書いた。
古代には中国人が沢山いたからだそうだ。
今では歴史捏造大好きでプライド高い韓国人によって、「中国の従属国だったなんか認めたくないと言う屁理屈」から「首迩(ショウアル)」なんて訳の解らない当て字を用いて改名されている。

ところで楽浪郡と帯方郡の叛乱は中華の魏帝国にとっては一大事だった。
まだ南の呉帝国と西の漢帝国と争っていたので、東の蛮族である鮮卑に大きな兵力を割く余裕は無かったのだ。
その状況を知ってか知らずか卑弥呼は魏に従属同盟の使者を送った訳だ。
恐らく同時期に邪馬台国朝鮮半島領の混乱を鎮圧する為に朝鮮の鮮卑を魏に挟撃して欲しい旨を踏まえて、更にはソレ等の状況が魏帝国にとっても好ましい状況である事を全てを知った上での使者派遣だっただろう。

当事の日本は朝鮮半島南部の釜山一帯も漢帝国時代から中華に認められて支配していた。
今の韓国人や北朝鮮人に当たる朝鮮人や中国東北部旧満州を席巻した満州人の鮮卑が帯方郡太守劉夏を殺害したのだ。
この時代に朝鮮族と言う民族はまだ存在せずつまり韓国人も朝鮮人も存在せず辰韓・馬韓・弁韓(三韓)は倭国(邪馬台国)王の領土だった訳で、これらの在る朝鮮半島の叛乱は中国史観から見ても倭国大乱の時期と正に重なる。
卑弥呼の先代の王の統治が弱体化し、中国の公孫一族と結託し叛乱したのだろう。

それを裏付ける様に、238年(景初2年)8月23日には、鮮卑と結びついて叛乱を起こした公孫淵が魏帝国丞相の司馬懿に討伐され、死亡している。
また此の時に公孫淵に同調した朝鮮半島の三韓と呼ばれた地域は古代日本領土だったので、邪馬台国に攻めさせ公孫淵への朝鮮の新羅地方や百済地方からの援軍を断つ為に古代日本領の三韓から北伐し釘付けにするのは当然の戦略と言える。
神功皇后の神話はこの一連の戦略の中の一部分だろう。
もしかしたら神功皇后は卑弥呼ではなく次代の臺与かも知れないし、卑弥呼=倭姫、臺与=神功皇后の方が神話と整合性が有りそうだ。

この卑弥呼なり神功皇后の正体かも知れない臺与なりの功績を評価してかどうかは解らない。しかし後日、魏帝国は邪馬台国を上位従属同盟国とし厚遇し、卑弥呼が体調を崩し始めた出あろう246年に魏の官僚を派遣し技術投資をし邪馬台国を強化し南部朝鮮を支配させた。
それがつまり、この後に記す246年の出来事と247年の出来事だと推察出来る。
  
246年、卑弥呼の死去する2年前に三国志の魏王国帯方郡の武官で塞曹掾史(さいそうえんし)張政が邪馬台国に派遣される。
ちなみに難升米は官職で張政の上官に当たる。
派遣された魏の武官の官職で下士官に当たるので、これは邪馬台国への完全な救援行動だったのだろう。

247年には日本は再び混乱していたらしいので、恐らく246年時点で女王卑弥呼の健康状態に問題があり後継者問題が起きたか、敵対する狗奴国など地方自治王朝によって邪馬台国が不利に成っていた事で反攻戦略として再度、魏への銅剣と銅製甲冑等の先進技術の大量供与要請か生産技術移転要請や援軍そのものの要請を行ったのかも知れない。
その為に張政は日本に派遣され20年間駐在し邪馬台国建て直しに協力した後に中国へ帰国したのだろう。

西暦247年当事は、古代中国魏帝国も前述の通り蜀漢と呉の3ヶ国に分裂しており、東北や西北には後のモンゴル族やトルコ人の先祖当たる勇猛な騎馬民族の匈奴や胡族…
南は今のベトナムやタイにあたる蛮越…
北朝鮮東部には鮮卑王朝の高句麗があり…
魏帝国は蛮越を除いた全ての異国と対立していた。
しかし、その御蔭で魏帝国には日本と言う輩(ともがら)が必要不可欠になり、当時の日本人は曹操の残した仕事方法や司馬懿の政治や軍略や農業や第二次産業である青銅器製造を学び弥生時代から古墳時代に文化発展する機会を得たのだろう。
これは日本人にとって非常に幸運な事だったと言える。
いきなり製銅製鉄技術や開墾に加え屯田兵制度、高度な木造建築や表現力豊かな漢字が導入できたのだから日本文化発展の礎(いしずえ)に成ったと思われる。

日本人の現代に置ける緻密な仕事の性質は、かつて中国が西夏・金・元・清など歴代異民族王朝に蹂躙されるまで本来の中国大陸の中原地域の人々が保有していたであろう曹操や司馬懿等の治めた事実を追求し問題を改善し法秩序に基づく魏の習俗が、日本人に日本独自の文化と共に継承されているのかも知れない。

中華民族王朝が異民族王朝や共産主義に侵略される度に中国国民の民度や文化は都度リセットされてしまったが、成金ではない元々歴代当主が知識階層だった家系の中国人の文化程度は高い。
それはやはり日本人同様に先祖から文化と礼儀の重要性を教わってきたからだろう。
劉少奇・周恩来・鄧小平・胡錦涛は歴史的に見ても比較的優秀な人材であったと思う。
しかし毛沢東や江沢民は…
己の失政が元で失脚するのを恐れたり出世に利用して積極的に中国の知識階層国民を虐殺した負の実績がある。
ちなみに江沢民が日本人を敵視すれば、即ち彼等の敵は曹操と司馬懿の仕事方法や戦略と歴代日本武士の精神を受け継いだ人間が彼等の前に立塞がる訳だが・・・

いくら江沢民や毛沢東が政治家として腐敗し無能だろうが、彼等がいなければ中国人にとって今の中国は存在しなかった。まぁ、日本人にとって毛沢東は名将として評価出来るが江沢民は評価の対象にする価値も無い。しかし毛沢東が文革を起さなければ中国国民の文化度は恐らく、明朝に敬意をはらった清朝から中華文化をそのまま継承し発展させられたはずだし…
江沢民によって天安門虐殺事件が引き起こされていなければ、今頃中国は民主政治で法治主義の浸透した先進国家で、尚且つ中国共産党も世界から白い目で見られなかっただろう。

越の杭州や呉の蘇州のように春秋時代からの文化醸成地だった所は昔から科挙の合格者を大量に輩出し、文化度の高かった人も多いが…
現代の中国では毛沢東と江沢民の失政のせいで、その絶対数は12億の国民数をもってしても民度の高い人材数は台湾1国に及ばないだろう。ただ、教育に御金を投資できる家庭が増えたので大陸も徐々に民度が上がって来ていて上海市では10年以上前に見た様な大きな交差点で我が物顔で赤信号無視して歩く歩行者も、デパートのトイレの洗面所で孫に糞尿させるクソジジイも見かけなくなった。
新幹線に乗っても昔の中国の鉄道みたいに床に食いカスが散らかっている事も無い。
もっとも大陸の中国の民度はまだまだ台湾には遠く及ばない。中華文化も日本文化も否定しなかった中華民国台湾省人の素養は非常に高く礼儀正しく、自国の文化に表面的な態度や自慢ではなく心から誇りを持ってる人が多いし日本文化に対する理解も有る。

散々に大陸の中国人の民度を批判したが、日本でも中国大陸同様に文化度の低い人間もいる。
多くの財産を得ても自国文化を破壊し、現代では貴重な自然を開発利権で消し去ろうとしたり原初の神道の理念なぞ微塵も心に無い腐った日本人が多く、利己的に産業形態を金の澱みが出来る形状に作り変え日本の産業構造を弱体化させ、日本国民の利益を阻害しても自分だけの集金能力を向上させる事に執着させる鬼畜は多い。

日本の明治時代の大商人は横濱の原三渓や淡路島の高田屋嘉兵衛の様に、災害発生時に自分の私財を投げ打って事業縮小しても民草や公共の為に社会貢献する気概が有ったのに…。
彼等の行動は魏の武官張政や鑑真和尚、明の鄭成功に通じる滅私報恩の心意気が有った。 

だから小生は、まかり間違って自分が財を成す事が有れば先人を見習い曹操の仕事、司馬懿の智謀、明治の日本の豪商原三渓と淡路の豪商高田屋嘉兵衛を模範とし行動したいと決めている。
ま…その前に自分を助けないとね(笑)。
 
さて・・・
実は日華の関係を悪くさせる事で自国に利益誘導を図る奴等がいて、ソイツ等は私的組織や個人では無くて実は某朝鮮半島の国の公的組織だったりする。
・・・そいつ等の名前をVANKと言う。
ここからは小生の拙い普通話(プートンホァ)で失礼する。

出生在大陸中国朋友們!請大家不要相心在日本活動的假装日本右翼的朝鮮族和利用日本国籍的原朝鮮族為了破壊日華的関係煽動的情報。 
請注意韓国VANK和朝鮮為了破壊日華関係活動的内容。
如果真的是日本保守派的人的話他們肯定不会看不起古代中華文化、中華料理和中国古代的歴史。連以前的原来武士的日本帝国軍人也過去跟貴国打仗時也没有看不起中華文化。只是第二次世界大戦当時的日本政府被帝国陸軍一夕会占領政治和軍事的人事大権、他們比明治政府的政治家非常利己的思考、只考慮自己的発展、利用天皇統帥権和日本国家。結果陸軍一夕会干部和理性的海軍干部的関係也変得不好,陸海双方的干部之間常常発生了問題,連天皇面前也有両個陸海双方的干部打架過的。這些事情是在日本特別有名的。
原來扶桑武士学習的文学都是漢学、日本的軍記和文学。
明治時代以前的日本人跟大陸人学過的文化可多。
 
愛国不是只有批評外国,会批評祖国的腐敗分子的人才有愛国心。
第2次世界大戦以后許多日本年軽人放棄了好戦的個性,放棄后已経過了好多年中共還不承認日本人的良心,可是日本年軽人之内会批評腐敗分子的人材増加了。
也可以説是有真正的愛国心的日本年軽人還是比中国多了。
在日本1個人都没有焼掉台湾和中国的国旗的日本年軽人。
在日本1個人也没有破壊台湾和中国的産品的日本年軽人。
在日本1個人也没有拒絶台湾和中国的旅客的日本年軽人。
在日本几呼没有討厭三国志演義等古代中国歴史上的英雄的日本年軽人。
在日本一般人1個人也没有去横浜中華街或者神戸南京町破壊中華料理店的、這種的壊蛋。
我們還保持跟中華文化圏国民的祖先学過的文化、所以不会看不起中国文化和親日派中国人。

請大家自己調査古代日本歴史和神話。日本的神社的❝神様❞之内還有従大陸過来的眷属。要是你們敵視日本文化的話,那些思考也可以説是根本不理解古代中国歴史和你們的祖先和日本人的友好之歴史。

我説、先開始侵略的不是日本人而是古代中国人唐朝時代侵略了古代朝鮮半島日本領的安東都護府(三韓)和日本盟邦百済国。然后元寇的時候也是貴国的元朝跟朝鮮一来襲到日本的了。再説倭寇也不是日本人。倭寇的領頭都是中国人和朝鮮人,所以明国皇帝対日本国室町幕府第三代征夷大将軍足利義満要求統帥日本武士軍団攻打在朝鮮半島南部的倭寇基地的事情。根拠古代日本領土,清朝以前你們中国人所説的倭人除了日本本地人以外還表示住在朝鮮半島南部的人,抗日派中国人怎麼連這様的簡単的古代中国歴史也不知道呢?因為全部都是江沢民開始的抗日教育跟在大陸国内統制情報的結果吧?
所以説抗日派太没有見識,也没有文化。

謝謝台湾人一直以来対我們日本人的熱情!
謝謝西安・洛陽・江南地区本地人的祖先過去給我們祖先的援助。

皆さんは金沢区釜利谷南一帯が埋め立てられた元は海だった場所と言う歴史を御存知でしょうか?
小泉夜雨 葛飾北斎 
昔は小泉と呼ばれた地域なんです。その風景の美しさから旧北条家臣であり北条与力大名だった蒔田吉良家の家臣の子孫の画壇の弟子であろう歌川広重こと安藤広重が日本屈指の風景の美しい場所だった旧金沢地区の八ヵ所の景勝地を描いた❝金沢八景(かねさわはっけい)❞の風景で江戸時代に特に有名に成りました。
現代の横浜市役所は2018年時点の市長も築地育ちだったり役人も就職する為に市外からの移民してきた様な連中だらけのせいで金沢八景(かなざわはっけい)と❝誤った❞読み方が定着し、横浜の歴史や景観や文化を理解していない連中の政治のせいで、歌川広重よりも更に古くは源頼朝公や兼好法師や鎌倉公方足利持氏公や太田道灌公や北条早雲公や徳川家康公が宿泊して遊覧する程に愛した金沢八景の八ヵ所の海も埋立られて消えてしまいました。
しかし、歴史書を読むと現在も無文化政治で消された平安~明治時代の景勝地だった頃の名残りを辿れるタイムマシーンの様な場所が現存している事を知る事が出来ます。
今回と次回、2回に分けて紹介する金沢区釜利谷南の❝手子神社❞と金沢区瀬戸の瀬戸神社&琵琶島弁才天は正にそんな歴史偉人達が愛した神社であり眼前まで金沢の海の入江だった歴史を辿れる場所なんです。
さて、今回は先ずは規模が小さく地元民以外には知名度も低くなってしまった手子神社から紹介したいと思います。
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手子神社は現在の釜利谷南に存在し、湾曲する川の前に在ります。
実は現代では横浜市役所の人間ですら知る人も少ないのですが、この湾曲した川が昔の入江の海岸線の名残であり、小泉と呼ばれた陸地の場所なんです。
そして小泉(こいずみ)の地名の由来は手子神社に在る境内社の名❝小泉弁才天❞が関係してると推測出来ます。
先ずは昔の海岸線に金沢区の主だった神社仏閣を表示させて位置関係を見て見ましょう。
金沢八景位置関係
白い部分が昔の海岸線で、この様に多くの島と半島に囲まれた入江が複雑に入り組む京都の❝天橋立❞や静岡県浜名湖の❝今切❞の様な素敵な風景が広がる日本屈指の観光地だった事が旧地形からも窺い知る事が出来ます。この海の一番奥の部分、金澤の海で鎌倉からの間道を抜けて来て最初の港が小泉弁才天こと今の手子神社の在った辺りなんですね。
さて、では何で手子神社の境内社の小泉弁才天の御祭神が弁天様である事で地名の由来が推測出来るか解説しましょう。
弁天様は明治以降は厳島神社と名を変え御祭神も市杵島姫命に習合された場所が多くありますが、これは明治時代にキリスト教プロテスタント信者の政治家達が主導した神仏の宗教改革でヒンドゥー教系の神様である弁才天=サラスバティ―を否定する動きが有ったので水の女神様である市杵島姫命を歴史を知らない宗教家達が習合してしまったからなんですね。
弁天様を市杵島姫命に習合したのは明治時代に国家神道を作り上げたプロテスタントキリスト教徒政治家達の大きな誤りで、実際は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)に弁天様が習合された歴史が有るのだから、神仏分離を励行するのならば弁天社の御祭神を宇迦之御魂神に再度お戻しした上で弁天様としても祀れば良かったんですが、歴史を知らない明治のキリスト教徒と過激な水戸学に洗脳された連中はそんな事を理解も出来なかったみたいですね。
因みに水戸学を創始した水戸光圀は狂人でした。彼は藩政に末代まで残る借金を作り領民に重い重い課税を課した悪の政治家で、領内の八幡宮を全て破壊し、挙句の果てに犬を大量屠殺して生皮を剥いで将軍徳川綱吉に送り付ける残虐な人間でした。若い頃はヤンキーで、女とヤッたヤラないと言う下世話な会話を士分にも関わらず普段からヤンキー仲間として廻り、石合戦と呼ばれる暴走族同士の抗争の様な事をやっていたのが有名な話なのですが、明治の宗教改革をやった連中が水戸学信者だらけなので彼のイメージが全く実情と異なるイメージに造り変えられたんですね。

さて、水戸光圀が嫌ったヒンドゥー教由来の八幡信仰や弁天信仰ですが、弁天信仰を日本に浸透させた主だった人物の一人は実は源頼朝公です。他にも三浦半島の平氏の三浦家等もおります。
元々は財神と言うか生活に密着にした❝富=豊かさ❞の神様として日本では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が水源や湧水地の洞窟に祀られていました。
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鎌倉市には宇賀福神社や・・・
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・・・扇谷山海蔵寺と言う御寺が在り、今も鎌倉文化を良く守り伝えていますが、その境内には両方とも水が湧く洞窟が在ります。
海蔵寺の洞窟には蛇に身体に美女の顔の蛇神様が祀られています。
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一方、後に源頼朝公が弁天様を習合した宇賀福神社はどうでしょうか?
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御神体の蛇の神様は撤去されていますが、やはり銭洗い弁天と呼ばれる泉がありこんこんと湧く水で満たされていますね。
天皇家の勅願所だった歴史の有る江ノ島の岩屋、つまり江島神社の発祥地にもやはり泉が存在し欽明天皇や源頼朝公が聖地として大切に守りました。
その聖地では宇賀福神社と同じく現在も蛇美女の女神様の石像が散見されます。
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そして海に浮かぶ島なのに淡水の水の豊かな泉が現在も存在しています。

さて、小泉弁才天=手子神社に戻り境内を見て見ましょう、そうする事で小泉の地名と弁天信仰が関係する事が解かります・・・
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手子神社(別名:小泉弁才天)
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先ず最初に昔の海岸線の端っこの丘だった場所にあるので石段を登りますCIMG6702
前の橋が昔の海の名残。
石段の右手には社務所が在りますが普段は無人です。
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昔は宮司さんが住んでたのかも知れませんね。
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石段の横には立派な樹も生えています。
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社殿は現在では小規模、町の中の神社としては普通より少し小さい位ですが立派な彫刻の梁です。
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簡素な扁額には手子神社と書かれてあります。
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でも新編武蔵風土記稿等では手子明神(みょうじん)と書かれており、本殿の御祭神の大山祇命(おおやまづみのみこと)も明神様として祀られた修験道系の神社だった事が解かります。
それもそのはず、この神社を開いたのは戦国時代に金沢領主だった北条家臣伊丹家の子孫で、江戸時代初期に浅草の天台宗系の大寺院として有名な浅草寺の住職、僧正だった智樂院忠蓮僧正が父の伊丹昌家公の代まで伊丹家の所領だった釜利谷の総鎮守として金沢八景駅前の瀬戸神社から御分霊を勧進したのが始まりですからね。天台宗は真言宗と同じく修験道を重視する宗派でもあります。
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石段の左右には躍動感溢(あふ)れる狛犬さんが参拝者を威嚇しています。
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悪い者が来ない様に魔除けの聖獣として神社を守ってらっしゃるんですね。
本殿の左手に小泉地名由来の❝小泉弁才天の正体❞がいらっしゃいます。
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竹生島の弁才天様の御分霊ですね。
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そして手子神社の御神像はやはり海蔵寺や江ノ島と同じ蛇の女神様。
これが元々、先に紹介した小泉で有名だった❝瀟湘の松❞の下に水神様として祀られていた弁天様を享保八年(1722年)に❝宇迦之御魂神=弁天様❞を鎌倉文化形式で洞窟を穿って御祭りしたのに由来します。
つまり、最初の祀られた瀟湘の松の辺りにすでに入江を守る水神様として存在していた事が解かりますが・・・
鎌倉時代に弁天様として信仰された宇迦之御魂神は水神様でも泉の神様であり豊穣の神様=富の神様なので経済軍事音楽と美と水の女神の弁天様が習合された歴史が有ります。つまり小泉の地名の由来は海辺なのにも関わらず小さな泉が湧き出ていた場所に元々は存在したであろう歴史が推測出来る訳です。
その弁天様は昭和十五年に現在地に移転させられて来たので訳が解からなく成ってしまった訳ですね。
そして、この竹生島弁才天は恐らくは本殿の神様が瀬戸神社から勧進された様に、セットで瀬戸神社の琵琶島弁才天様から勧進された竹生島弁才天の御分霊の御分霊であろう事も推測出来ます。

さて、伊丹家にが同地の領主だった歴史は以前に禅林寺の歴史を紹介した時にも解説しているので御興味有る方は御覧に成って下さい。
これ記事リンク⤵
竹嵓山 禅林寺は最後の鎌倉公方足利持氏公と成氏公親子が開いた御寺、鎌倉公方の終わりの歴史解説と・・・金沢区釜利谷東
小生の推測では恐らくは浅草寺の伊丹入道智樂院忠蓮僧正と同じく、昨年悲惨な宮司の姐と弟で殺人事件が起きてしまった東京深川の富岡八幡宮の宮司家も伊丹家の御子孫でしょう。名前に伊丹家の通名の一字が御二人共に含まれていましたし、東京深川の富岡八幡宮は源頼朝公が開いた横浜市金沢区富岡の富岡八幡宮の御分霊でやはり伊丹家と関わりが深い場所ですからね。

そんな平安時代末期~江戸時代の歴史が辿れるのが、この手子神社なんです。

きっと皆さんの御近所にも小さくなっても凄い歴史偉人が崇拝した神社や御寺、そして御城の跡の山や公園が在ると思います。
・・・ですから皆さん、ちょこっと気分転換に緑の綺麗な神社や御寺や城跡を散歩して見ませんか?そうすれば皆さんと歴史偉人を時間を超えて結んでくれる、地域の誇りを見つける事が出来るかも知れません。悩んだ時に歴史偉人の御霊に話を聞いて貰うだけでも、悩みが楽に成るかもしれないし…

では!次は瀬戸神社の解説で御会いしましょう~♪







本日2018年09月02日、横浜ベイサイドマリーナが今日で2年後のリニューアルに備えた閉店前の最終日でした。
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小生、昨年から筋肉65kg、骨格筋肉40kgを全く減らさず脂肪だけ減らすダイエットで28kgの減量に成功し体脂肪率12~15%の間で推移し体重はほぼ80kg±2kgで安定しており、格闘技やってた頃より引き締まってガタイが良く成ったのですが、体型が変わる度に洋服を買いなおさなければいけなく、又、着飾る事が苦手で無地の服ばかり好んで着るので、どんな服を買って良いのやら悩んでいたのですが・・・
そんな時に色々と親切に相談に乗ってくれたのがベイサイドマリーナアウトレットのエディーバウアーの店員さん達でした。
だから最終日の今日、御店の皆に御礼の手紙とケーキの差し入れをしに行きました。
ついでに秋物の服もSサイズと日本Mサイズのを買って来ました。
身体引き締めたせいで秋・冬物の服も全部大きく成っちゃって着れないから…

営業終了ギリギリまで色々と試着して原価から単品ごとの値引き20~50%位、更に4着以上購入で50%値引きだった。
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8着買って、通常のアウトレット価格で¥45,500の物が僅か¥14,800で購入できた。
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店員サン達は去年から顔も覚えてくれて、細かい体型の変化も何も言わなくても気が付いてくれて、服装に頓着しない小生にも小生の好みを踏まえて色味とかアドバイスしてくれて本当に助かった。
まぁ、毎回買った服をそのまま「着て帰る!」と言う客もいないので、店員さん達に直ぐに顔を覚えて貰えたんだね(笑)。
本当に皆、ありがとう。まぁ、目的が有ってダイエット頑張ったけど、自分でムキに成ってやらないといけない理由が有っただけじゃなくて、エディーバウアーの皆が細かく褒めてくれたり、他にも親友とかが成果を報告すると「やったな!」と一緒に喜んでくれたりしたので頑張れた。
だからエディバウアーの皆には本当に感謝している。
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暫くの間、ベイサイドマリーナのヨットハーバーも散歩に来れないのかな~?
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2年後、又、皆が戻って来たらベイサイドマリーナのエディバウアーでしか服買わない。
それまで他の店に行かず浮気しないで待ってるよ(笑)。
小生の習性だね~(笑)、気に入った物や好きに成った人、恩義を受けた人に愛着を感じたり裏切りたくないって思うから通い続けるんだ。洋服買うのも食事するのも彼女がいると彼女以外の女性を意識的に女性として見なく成ったり。
つまり、それだけエディバウアーの店員サン達の接客が良かったって事だね~。

閉店時間に成って一応、店を出る時に成って仲の良かった店員さん達が小生の為にアーチ(笑)を作って待っていてくれた(笑)。
それをくぐり抜けたら「記念写真一緒に撮ろう!」と言う事に成って店長サンが撮影してくれた(笑)。

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特にIさん、Oさん、Tさんと3名には本当に色々と御世話に成りました。あと数少ない男性のKさん。
ありがとう、又、皆の転勤する店にも遊びに行きますね~♪それまで更に身体を筋肉だけにして置きます。皆も健康に気を付けて!
で、小生の目標は仕事も変化が有って落ち着いて、彼女がその時にいて彼女と一緒に皆の所に服を買いにいけたら嬉しいなぁ~と言うのが目標。
2年は長い様で過ぎるのはとても早くて、でも人生を大きく変化させるには十分な時間です。
皆にとっても小生にとっても人生が良い方向に動く2年間に成ります様に~。
丁度、このベイサイドマリーナアウトレットが在る白帆地区の目の前は富岡八幡宮や牛頭山妙法寺や泉蔵院熊野神社は皆が海や水の神様でもあり其々が商売の神様、勝負の神様、縁結びの御利益も有る神様達の神社仏閣が見守る地域。
小生にも皆にも人生の勝負に良い事が有り良い御縁にも結ばれて2年後皆で又、会えます様に~♪

杉田商店街のメインストリートが昭和初期まで重要な街道だった事を皆さんは御存知でしょうか?
そんな重要な街道を繋ぐ交差点に可愛い雑貨屋さんが有るのを皆さんご存知でしょうか?
杉田商店街のメインストリートが明治時代に開かれる以前の古道が少し住宅街に入った場所に今も残っているのを横浜市民のどれだけの人が御存知でしょうか?
そんな重要な街道と古道の交差点に在るのがlumiereMと言う御店です。
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lumiereM(ハンドメイドアクセサリーや雑貨と輸入食品の御店) CIMG6826
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この御店、とにかく普通のデパートでも余り見かけないドライフルーツのバリエーションが有ったりアロマ的な効果の説明も丁寧にして下さったり、輸入食品も有ったり。
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工場大量生産していない作家さん達の手作りアクセサリーや雑貨を取り扱ってて絶対に他の人と被(かぶ)らない自分だけのアクセサリーを探せたり。
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鑑賞用のハ―バリウムとかも作家さんの手作りの物が置いて有ります。
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東急ハンズとかにも無い工場製産とは異なる温かみ有る一点物を買う事が出来ます。
可愛い御店なんです。正直、御店の規模は広くはありませんが、地域に根差してワークショップなんかも開いており小さな子含め女性達にアクセサリーや鑑賞用雑貨の作り方を作家さんから教わる機会を設けたり、趣味の創出と言う意味でも人々の癒しの場に成っているみたいですね。
・・・小生も工作大好きなので参加したいのだけれど、ゴッツイ男が混ざると御店のイメージ崩れそうで自粛中(笑)。

さて、小生のブログは歴史旅行ブログです、歴史に関係の無いlumiereMさんを何で紹介するの?と思う人がいるかも知れませんが、実は歴史的に重要な場所に立地しているんです。
源頼朝公が開いた重要な修験道系の神社の聖地を繋ぐ場所に存在しているのですがlumiereMサンの近所、徒歩3分の杉田の中原地区に今も存在しています。その神社は明治に成る迄(まで)修験道系の聖地として大切にされ大靈山泉蔵院桐谷寺と呼ばれていました。明治時代の神仏分離令で只の熊野神社と名前を変えてしまいましたが、実は江戸時代に成る迄は❝泉蔵院❞の院号や❝山崎泉蔵坊❞の御坊としての名で多くの古文書に記録されています。
そして遠く杉田商店街から離れた同じ修験道系の聖地であり神道でも仏教でも大切にされて来た縄文時代からの神聖な場所、伊勢原市大山国定公園の全域が聖地の大山阿夫利神社と大山寺と言う神社仏閣が存在しますが・・・
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実は神奈川県内の修験道の聖地として大切な大山阿夫利神社と大山寺の在る大山と杉田商店街は一本の道で繋がっているんです。
歴史を知らない人が他所から来て市役所の役人に成る事の多い横浜市は、杉田商店街の発展には無頓着だし❝杉田梅❞と言う日本で最高のブランド梅の梅林が広がった杉田梅林の伐採許可を出して旧来の文化と歴史の名残は今では余り感じられませんが、実は杉田商店街を歩くとそんな歴史を少しだけ今でも垣間(かいま)見る事が出来るんです。
・・・実はね、杉田商店街のメインストリートは以前、杉田間宮陣屋の解説記事でも説明しましたが聖天掘(せいてんぼり)と言う川に蓋(ふた)をした暗渠(あんきょ)の上に敷かれた道なんです。この大工事の末に整備され今では横浜市がおざなりにしている道が源頼朝公が大切にされた横浜の修験道の聖地の泉蔵院~伊勢原市の大山阿夫利神社を繋ぐ近代の新道で名を❝横浜・伊勢原線❞と言う地方主要道路だったんです。
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大山阿夫利社(延喜式内社)大山阿夫利神社に関しては以前紹介記事を書いているので御興味有る方は御覧下さい。
これクリックで記事読めます⤵
大山阿夫利神社と灯籠祭りの夜景と参道温泉街…伊勢原市。
この横浜伊勢原線と呼ばれ、磯子区部分を杉田街道と呼ばれた道の起点が杉田商店街の国道16号線側からの入口です。
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ここが起点と成り、伊勢原市の大山阿夫利神社へと続く最後の宿場町の高部屋神社前、伊勢原市上北ノ根まで続いていますが、この事を横浜市役所の人間でも知る人は少ないでしょう。
横浜伊勢原線終点 伊勢原市上北ノ根 久良岐のよし
大山詣りをする人は古代から多く、大山山頂からは縄文時代からの神事の遺跡が出土し、神社の中でも延喜式内社と呼ばれる最古級の格を確認出来る大山阿夫利神社と別当寺だった大山寺が在り、奈良時代にも行基大僧正が上粕谷神社等の修験道系の❝大山道❞の中継地点と成る場所に宗教施設を設置し、一帯には国府レベルの史跡と祭祀遺跡と古墳がゴロゴロ出土しています。
そして最盛期は室町時代~明治時代の600年間位の期間で、正に地方主要道路❝横浜・伊勢原線❞は重要な宗教的な聖地を結ぶ観光や商業の道路として開かれた事が解かります。
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杉田商店街から久良岐(くらき)郡の名残を地名に残す❝栗木❞方面に歩いて行くと、明治時代の大工事の名残に出会う事が出来ます。
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よく観光地にある雷神堂と言う御煎餅屋さんを通り抜け、インドカレーの御店や飲屋さんや郵便局より更に先に行きます・・・
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すると上の写真の通り浜中学校の下の道が大きな切通地形に成っているんです。
実はここは明治時代に造られた❝隧道(すいどう=トンネル)❞が存在した名残で❝杉田街道❞と昔は呼ばれ知らない人がいなかった道の一部なんです。
ここは明治時代初期までは道は無く崖地で、当時の重要な道はこの道より北側の山の上を超える❝桐ヶ谷(きりがやつ)道❞と浜中学校側の山を登る道しか有りませでした。近代に成ると物流や人の移動に❝馬車❞が運用される様に成ります。そして明治天皇の全国行幸(みゆき)が開始される準備として多くの明治の新道が建設されました。国道16号線根岸~磯子~金沢地区の埋め立てが完了し泥亀のバイパスが整備され完成するのは昭和40年代初頭の話しですからね。
❝トンネル❞だったのですが関東大震災の際に崩落してしまったので、山を改めて削り取り❝切通し❞に生まれ変わりました。この歴史からも判りますが、現在も崩落危険個所指定を受けている崖地が杉田~笹下~屛風ヶ浦~磯子には多く有り、それは地盤が砂岩と泥岩の脆い地層で出来ているからなんです。
逆に言うと戦国時代には御城を造るには加工し易い地形で丘の平坦部分は地盤も強固で地震に強いし標高も高いので津波の心配も無い訳ですね。
そんな丘だらけの地形の不便さを解消するべく作られた杉田街道のトンネルは明治天皇の為に造られた物ではないでしょうが、当時の久良岐郡の役所は現在では区が解かれてしまった港南区笹下の❝関❞と言う場所に郡役所が存在し、皇族の方々は杉田梅林を見学する為に笹下の石川楼と言う料亭に宿泊され杉田梅林迄来られたので、トンネルは皇族の為に造られたのかも知れません。
戦国時代~江戸時代中期迄杉田郷を治めた間宮林蔵の祖先の間宮家とその一族が杉田梅林を植林したのですが、分家の杉田間宮家の菩提寺である杉田の牛頭山妙法寺には明治に皇族の方々が梅林へ度々観梅にいらっしゃっていた記念碑が今も有ります。
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さて、そんな杉田街道の起点も昔は川で、江戸時代までは源頼朝公が歩いた住宅街の中の❝古道❞と成っている❝桐ヶ谷道❞が残っていますが、少し判り難い位置に在ります。
目印に成る御店が先ず紹介したlumiereMさんで、印を付けた場所に在ります。
では古地図を見て見ましょう・・・
明治時代初期のlumiereM周辺地図 迅速測図 久良岐のよし
これは迅速測図と言う明治新政府が全国の地形測量をさせた地図ですが、この地図が制作された頃はまで江戸時代の地形のままの場所が多く、修験道の神仏混交の道場だけが❝神社化された名前❞で表記されています。
御覧の通り、杉田商店街はまだ❝聖天掘=聖天川❞で一本南にズレた道がメインストリートだった事が判ります。丁度、セブンイレブン杉田3丁目店の前の道ですね。そして黄色い★印が聖天堀を暗渠にして繋げた杉田街道と修験道の聖地だった泉蔵院=熊野神社の古来の参道と繋がる桐ヶ谷道の交差点でした。
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今も昔の道路の名前が解かる道路標識が立っています。でもここの行き方解り難いですよね?
もう一度古地図を見て見ましょう。
明治時代初期のlumiereM周辺地図 迅速測図 久良岐のよし
印の在る杉田街道と泉蔵院時代の参道と桐ヶ谷道の交差点に成る所に今現在は可愛い手作り雑貨やアクセサリーや輸入食品を取り扱う御店❝lumiereM❞が存在しています。
つまり御店の有る場所が平安時代~戦国時代~明治時代~現代を繋ぐ時代の交差点でもあるんですね。
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御店の紹介は先にしたので、話しを桐ヶ谷道に戻して道を探しましょう。
この御店の右隣に細い住宅街の生活道路が在ります。それを真っ直ぐ進みます。
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すると上の写真の中途半端な「石碑かな?」と思う何も書いていない変な石が角に在る交差点に行き当たります。lumiereM側から来ると左手に曲がると少し上り坂に入っていく交差点ですね。
その上り坂が昔の杉田街道の前身と成った桐ヶ谷道の続きで、ここから山を越えて笹下釜利谷道路=金澤道(かねさわみち)=六浦道(むつらみち)へと続いて鎌倉に行く主要街道と、笹下釜利谷道路を田中方面~笹下~関の下~吉原~舞岡~戸塚と抜ける旧鎌倉街道に連結するとても大切な道の❝追分(おいわけ)❞がこの変な石の場所だったんですね。
この道は杉田街道が整備されて重要性が無くなるまでは笹下釜利谷街道へ行く為に徒歩で通行する人が多かった事でしょう。ここを桐ヶ谷道を西に進まず、更にlumiereM側から直進して北に行くと源頼朝公が開いた聖地の熊野神社、旧名:大靈山泉蔵院桐谷寺が存在します。
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熊野神社(旧名:大靈山泉蔵院桐谷寺)元々は鎌倉市大船駅前の丘の山崎地区に存在した修験道大道場の御坊様が源頼朝公の命令で久良岐郡杉田郷中原村に、この杉田中原地区の熊野神社を開きました。後に新田義貞の鎌倉焼討ち等の戦火で山崎の泉蔵坊が荒廃したので本社機能を現在の中原の熊野神社に移転し、靈山泉蔵院桐谷寺と名を改めました。その後も各時代の統治者に大切にされ、江戸時代に代々徳川幕府の鷹匠頭を務め杉田を治めた杉田間宮家の殿様や本家で久良岐郡北部や佐渡金山や生野銀山を治めた笹下間宮家の殿様から大切にされていたいので古文書にも度々登場します。
間宮敦信公泉蔵院宛て書状。久良岐のよし
熊野先達泉勝檀那注文(米良文書)神3下ー六七一八
これは古文書を小生が書き起こした画像ですが、まぁ、こんなものが沢山残っています。
この文書からも判りますが、間宮家が大切にしただけでなく、熊野神社の大親分である那智大社やなんかの熊野三山と呼ばれた修験道の聖地の神社ととっても関係の深い格式の有る神社だったんですね。
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そして泉蔵院の熊野社は少し高い場所に在るので江戸時代に杉田梅林を見物する観光地としても有名だったそうで、現在でも社殿の東側の崖地からは杉田の街並みが一望出来ます。
泉蔵院についても以前、紹介記事を書いているので御興味の有る方は御覧下さい。
これクリックで記事読めます⤵
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。

写真で正面に見える丘が妙法寺の境内地の裏山で、恐らく戦国時代には杉田間宮家が籠城する要害だったはずです。
まぁ、古文書にも登場し源頼朝公や間宮家が大切に守った修験道の聖地の一つ❝泉蔵院の旧参道❞と❝桐ヶ谷道❞そして日本レベルで大切な❝大山阿夫利神社❞を繋ぐその明治の❝杉田街道❞との❝聖なる交差点(笑)❞に立地するのがlumiereMな訳です。
さて、小生、このブログ書く為に改めて浜中学校下の切通の写真撮りに行ったり、丁度腕が神経痛みたいに成ってたのでlimiereMさんのインスタグラムで珍しい入浴剤の広告を見たのでソレを買いに行ったのです。
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これが自分への御土産~♪。入浴剤いれる風呂場に置く瓶も買って来た。
そして、この日は弟方の姪っ子がウチに来る日だったので御土産に杉田商店街の雷神堂で御煎餅を買って帰りました。
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雷神堂 杉田店
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小生の妹や弟妻君の義妹はどうも食べさせるものに煩(うるさ)くて、スナック菓子とか食べさせると良い顔しない。だけど御煎餅とかなら嫌な顔しないので、杉田の御土産にはいつも菓子一の❝うめさやか❞か雷神堂の御煎餅を買っている。
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菓子一
菓子一に行けば杉田間宮家の間宮信繁公が残して下さった梅林文化を今でも垣間見る事が出来るからね。
浜中学下の切通しの写真撮影をしたこの日、実は杉田商店街でずっと行きたくて訪問時間がいつも合わずに行けなかった場所に行って来た!
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その場所はlumiereM~泉蔵院熊野神社に行く旧参道を途中を少し曲がった場所に在る。
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杉田湯昭和30年代創業の昔ながらの銭湯、杉田湯さん。ずっとずっと、東漸寺さんや妙法寺さんや泉蔵院の御参りやlumiereMや菓子一に買物に来る度に地図で見て「行きたいな~」と思いながら、営業時間が午後15:30~21:00となかなか時間が合わずに入りに来る事が出来なかったんだな。
今回、杉田湯に初入浴!
入口はこんな感じ。
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う~ん良いね良いね~♪
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居酒屋の下駄箱みたいな下駄箱。昔は良く見たよね。
小生の実家の近くにも昔は銭湯が有ったのだけれど、今では全滅してしまった。スーパー銭湯も好きだけれど、昭和の風呂屋の情緒はやはり銭湯に行かないと味わえないよね。
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そして玄関入っていきなり女湯男湯に分かれる・・・
左を覗いてみたいとは思わないよ、うん、決して思わない。
覗くくらいならちゃんと彼女つくって存分に一緒に混浴して貰うから。見るだけで触れないで捕まるとか阿呆な痴漢の行動原理が理解不能。
・・・そして❝男湯❞の扉を開いて中に入って先ず最初にした事はトイレにいって💩うんちした(笑)。
この日はずっと港南台のホームセンターと杉田を小用で往復していてトイレ行ってなかった(笑)。
風呂場の写真も撮りたいけれど、流石に無理なので皆さんには御覧頂く事は出来ません(笑)。
一応、御風呂の情報としては昔ながらの銭湯なので❝石鹸❞とかアメニティーは一切合切持参するか、番台のオバちゃんから購入する必要が有ります。小生はハンドタオルとバスタオル持参してましたが石鹸とシャンプーが無いとは思わず準備不足でした。入浴料金は480円で木曜日定休だったかな?
浴場は昔ながらの木造の高い屋根に壁には富士山の絵、そしてスーパー銭湯と異なり地元の御客サンばかりなので騒がしくなくとてもノンビリとくつろげました。
番台のオバちゃんと話して杉田湯の歴史とか色々教えて貰って「又来るね~!」と小生が言うと、少し笑顔で「又宜しくね!」と言ってくれました。
妙法寺にもしょっちゅう殿様の御墓に御参りに来てるし泉蔵院にも御参りに来るし、lumiereMとか菓子一にも買物来るから必ず入りに行こうと思う。
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湯上りの至福の時、苺オレ。瓶のはもう無いんだね~。小生はフルーツ牛乳より苺オレ派。
そして帰宅して・・・
忘れてたんだけど、この日の夜に語学教室行かないと行けなくて、風呂でくつろぎ過ぎて横浜の学校についた時には30分遅刻してしまった。
・・・帰宅して又風呂(笑)♪。
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lumiereMで買った入浴剤を速攻で使って又、風呂入った(笑)。
lumiereMの御店主、またインスタグラムチェックして買いに行きますね~♪
杉田湯の番台のオバちゃん、又、御風呂入りに行ったら話し相手に成ってね~♪
・・・今ね、妹の所の甥っ子と姪っ子が小学校受験で遊んでくれない、と言うか、妹から10月の受験終了まで❝出禁❞食らったの(´;ω;`)!叔父ちゃんとしての小生が癒されず充電は御風呂でしか出来ないんだよ~!
彼女いないしね。
でも、人の役に立てたら嬉しいかも。たまに押し付けがましい事して逆に迷惑かけちゃうかも知れないから、それは気を付けないと。昨日も先走って少し失敗して、その分「何とかしなきゃ」って色々とバタバタしたり。
でもね~自分が大切に思う人達に喜んで貰いたいんだよね~。
人の役に立ったり、親友達や自分の大切に思う人や家族に喜んで貰えたら嬉しいよね。

そんな事を考えてて丁度今年、lumiereMを知って家族や親友や恩師に変わったドライフルーツとかデーツシロップとか教えて貰って、皆に送って喜んでもらえたんだよね。だから御店主にはそう言った意味でも感謝してるし、色々と頑張る原動力に成ってるかな?

さて、皆さん、まさか商店街の中の可愛い雑貨屋さんが歴史の交差点だったなんて思わなかったでしょう?
きっと皆さんの家の近くにも思いがけず歴史偉人と繋がりのあるタイムマシーンみたいな神社や御寺や御城の跡の公園があるはずです。
・・・だから少しお出掛けして散歩してみませんか?

では!又、次の解説記事で御会いしましょう♪














だいぶ報告遅くなったけど・・・
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甥と姪を連れて川崎駅前のお洒落な町、映画館チネチッタに行って来ました~。
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チケットは伯父ちゃん事前に予約して置いた!
徹夜のまま横浜の端っこから目黒の妹夫婦の家に二人を迎えに行ってね。
妹も義弟の歯科医院の経理事務とかで忙殺されている上に夏休みで幼児二人を見るのは大変だろうなと、少し久しぶりにお兄ちゃんとして妹に楽する時間を作ってあげたかったのも有るし、余り甥姪に子供らしい娯楽をさせない妹夫婦の代わりに子供らしい夏休みの思い出も作ってあげたかったから。
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チネチッタはお洒落な町だけど子連れよりは彼女とのデート向けなレストランばかりで二人にご飯食べさせてあげられなかった。
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でもポップコーン喜んで食べてくれて安心したよ。妹夫婦、こう言うの食べさせてないから。ハッピーターンとか渋い(笑)お菓子ばかり食べさせてるイメージ。
伯父ちゃん、二人に子供らしい物も食べさせてあげたかったから。
姪っ子生れたて暫くした頃に甥っ子は妹に母親取られた事に対するヤキモチで伯父ちゃん買ってあげたSLの金属製鉄道模型で妹殴りつけて流血沙汰に成ったりしたけど、スッカリ優しいお兄ちゃんに成って落ち着いたもんだ。
でも姪が途中で「足が痛い~」てグズリ始めて泣き出しちゃったから少し焦った。
甥っ子は映画とポップコーン(笑)に集中していたので「少し○○←姪連れて外に出るから映画見ててね?」と言うと聞き分けよく「うん!」と言ってくれたので、姪を抱っこして廊下に出た。
姪の靴脱がせて擦って沢山ブンブン飛行機みたいに振り回して遊んであげてから「もう大丈夫?」って聞いたら「うん・・・」と姪は頷(うなず)いた。
どうやら映画に飽きちゃってたみたい。
甘えて少し落ち着いた様子。
「泣かない?」
って聞くと
「うん・・・」
って約束してくれて
「足いたくなるから伯父ちゃんの足に座る?」
と聞くと又
「・・・うん。」
と言うので席に戻った。
席に戻ると甥っ子が熱心に良い子で映画を観ていてくれたので、良い子にしてくれてたフォローの気持ちも込めて頭撫でてあげた。
んで
「どうなった?」
と聞くとちゃんと5分間位の内容を小声で説明してくれた。
周囲に御客さん少なくて良かった。
姪は小生の太股に座ると、今度はエンドレスに伯父ちゃんの小生にポップコーン餌付けを開始・・・
食べないと泣かれそうなので姪の手からポップコーン食べ続け口がカラカラに。
映画を観終わり席を立つ瞬間に甥がポップコーン床にブチ撒けてしまった😵💧
「大丈夫だよ~🎵伯父ちゃん片付けるから待っててね?」
と言って床のポップコーン拾い集めてる間、甥は申し訳無さそうに立ち尽くしていたので
「失敗の思い出にさせたくないな」
と思い頭を撫でて「映画楽しかった?」と甥に聞いてみたりした。
甥は
「うん。」
と言ったが少し顔が申し訳無さそうなまま。
客席から廊下に戻りポップコーンを係員に渡してから甥と姪を片腕づつに抱っこして出口に戻る短い間、甥に映画の話題を振ると笑顔に戻り内容を語り始めたので伯父ちゃんとして安心した。どうやら甥にとって失敗の思い出に成らずに済んだ様だ。
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ロビーに戻ると甥姪が係員のオネエさん達に嬉々として
「ポケモン映画観たよ!」
と報告して回り、チネチッタのアルバイトらしい若い係員のオネエサン達も子供の話しに良く付き合って下さった。
後ろにいた係員のオネエサンが
「可愛いぃ~❤️」
と独り言を言ってくれているのが聞こえたので何だか伯父の小生が甥姪のお蔭で誇らしく思えた。思わず二人に
「“綺麗な(笑)”御姉さんにありがとうしなさい。」
と言うと二人は聞き分けよく
「ありがとう~」
と。すると御姉さん達も
「又来てね🎵 」
と二人に言って下さった。チネチッタのスタッフのお蔭で完全に二人にとって良い思い出だけ最後に印象ついたかな?
ありがとうございました。
帰路、野外コンサートを見物したら歌手の御姉さんが甥姪に向けて歌を歌って下さった。
ありがとうね、歌手の御姉さん~🎵
駐車場に行く途中甥がボヤいた
「伯父さん、お母さんより優しい・・・」
それを聞いて妹が二人を厳しく教育してるのと、先程のポップコーンブチ撒けたの小生が拾ってあげた事の話しかな?と思い、妹も年子で二人を産んで病院の経理も有り大変な中で子育てしているので二人に妹のフォローをしておいた・・・
「お母さんはねぇ~○○←甥と○○←姪を守る為(ため)に強くしてるんだよ~。」
「だから二人もお母さんの味方でいてあげてね?」
「伯父ちゃんにとってお母さんは可愛い妹なんだよ~。」
「だからお母さん虐めたら伯父ちゃん怒るよ!」
と言って聞かせた。
まぁ世の中で小生の一番の理解者は両親ではなく妹だから。妹は何歳に成っても妹だし。
因(ちな)みに伯父ちゃん、職場では三回説明しても理解しない後輩とか仲間フォローしない奴を怒鳴り散らす悪い癖の有る恐い伯父ちゃんなんだよね。
子育ては怒鳴り散らしても意味無いでしょ。
成功体験と失敗を活かす体験させてあげないと・・・昔の武士の子育てみたいに。
二人とも良い子にして車に乗った。
幼児向けのレストランが無かったので妹夫婦の自宅前のスーパーマーケットで二人の食べたい物を昼食に買い与え妹宅に戻ると、小生の緊張の糸が切れて一気に睡魔に襲われたが二人がジャレついて眠らせてくれなかった。
帰路、保土ヶ谷PAで仮眠してから帰宅した。

う~ん・・・
多分、良い伯父ちゃんに成れた1日だったのかな?



夏も海水浴シーズンを過ぎて、鎌倉の由比ヶ浜からは若者の姿も減って来ました・・・
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もう直ぐ秋ですね~。
海水浴やナンパ待ちナンパする側の若者達と微笑ましい家族達の姿もそろそろ減る由比ヶ浜ですが、その目の前の長谷地区寄りの道路を跨(また)いだ場所に御洒落(おしゃれ)なCaféが在(あ)るのを皆さんは御存知でしょうか?
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Daisy's Cafe
Daisy's Cafeと言う御店です。
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鎌倉の長谷駅から徒歩で10分位?目の前は由比ヶ浜の良い景色、海まで徒歩1分と観光客にも御薦めなのですが・・・
ここは小さな御店で、我々地元の人間が楽しむ御店なんです、どちらかと言うと(笑)。
もう本当に御店の前の道を渡れば由比ヶ浜で、沢山の漁船の間を抜けると砂浜に辿(たど)り着きます。
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小生は人の多い、普段は泳ぎもしないのにナンパやシーズンだからと言って来る御客さん達に混じるのが❝苦手❞でして、どうしてもユックリ出来る季節に独(ひと)りで、或いは彼女がいる時期は彼女と一緒に海に行きたくなるんです。小生にとっては海は癒しの場で、静かに散歩して風景を見て潮風に当たり潮(しお)さいを聞いて過(す)ごしたい場所なんですね。
だから食事した後に直ぐに海を散歩出来るDaisy's Cafeが好きなんです。
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店内はアメリカンでクラシックなイメージの内装です。小生アメリカに行った事が無いから(爆)!
でも、小生は日本庭園も好きだし古民家も落ち着くから好きなのですが、横浜の大桟橋のJack cafeとかCJ Caféとか、横須賀のドブ板通りのサーフタコとかアメリカっぽい御店も心が何だか落ち着くので良く友人とも独りでも食事に行きます。
Caféに行っても御酒嫌いだから飲まない(笑)。
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Daisy's Cafe、良い感じの御店でしょ?
歴史小説家の神様みたいな司馬遼太郎先生も生前この辺りが好きで散歩して❝街道を行く❞ってシリーズの❝三浦半島記❞で直ぐ近くの極楽寺坂の切通しを通過してんだよ。
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御霊神社参道入口の❝力持家❞とか・・・
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・・・江ノ電が参道の鳥居の目の前を通過する御霊神社とかの事を書いてたりする。
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この鳥居の目の前を本当に電車が通過するんだよ。

御霊神社は以前、紹介記事を書いているので興味が有ったら読んで見てね!
コレ記事リンク⤵
鎌倉の御霊神社の神様鎌倉景政公は上杉謙信の祖先。
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そんな長谷の由比ヶ浜に面したDaisy's Cafeの窓際の席に座ると眼前に海、とても和む。
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小生はこの御店を長谷に住んでるサーファーの知人から「行って見て!御薦めだから!」「デイジーズライスが美味しいから食べて見て!」って言われて食べに来たのが初めての来訪の切っ掛けで、要するに口コミですよね。
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そしてコレがデイジーズライス。・・・混ぜた後でスイマセン(笑)。猫まんまみたいな写真だな。
名前はオーナーさんの名前からデイジーズと成っていますが、実際は所謂(いわゆる)❝ガパオライス❞みたいな物を想像して頂くと良いかと思います。
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小さいけれど海も近くて良い御店でしょう?皆さん、由比ヶ浜や長谷観音や御霊神社に御散歩に行って、もし食事する所に迷ったらDaisy's Cafeでドリンク飲みながらゆっくりするのも良いですよ~♪

さて・・・
小生のブログは腐っても❝歴史旅行❞のブログ、ここで少し由比ヶ浜の歴史を通じて❝自称❞霊能者って連中の大半が嘘吐きって事を暴露してみたいと思います。
皆さんは由比ヶ浜や材木座海岸のイメージってどんな印象ですか?
きっとこんな感じかな?
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弓なりに続く波の穏やかな砂浜・・・
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稲村ヶ崎と富士山の影を横にして水平線に沈む夕日・・・
凄く綺麗なイメージだったり、夫婦ならまだ彼女や彼氏だった頃に一緒に海水浴に来た思い出とか、付き合い始めのカップルも最初の夏の思い出♡(笑)とか明るいイメージが有りますよね?
実はね、そんな鎌倉の由比ヶ浜、夏は海水浴に来る若者で賑わう海として知られますが奈良~平安時代には❝公共墓地❞だったって知ってますか(笑)?
よく偽霊能者が霊能力有ると標榜(ひょうぼう=勝手に嘘ついたり)して不敬にも日本の発展に寄与して多くが神社に祀られて御祭神と成っている鎌倉幕府の先人達の御廟所を心霊スポットとして紹介したりしていますがハッキリ言ってデマなんですよね、彼等の能力。
もし彼等が本当に何か見えるなら最大の心霊スポットは江戸の大火で3万人、関東大震災では10万人以上、大戦中の大空襲でも10万人が死んでる東京都23区全域(笑)が最強の心霊スポットな筈なんです(笑)。
だからね・・・
「心霊何て誰にも見えてない」
・・・ってのが霊夢を見たり轢き逃げに何回か遭っても死んでない小生の歴史事実も根拠にした持論なんです。まぁ、偽霊能者の中にはカウンセラーとして優秀な人もいるのかも知れないけど❝嘘❞で金もうけをしている時点で小生は敵視します。カルト宗教と変わらない、人を騙して金を巻き上げている悪。
仮にさ・・・
本当に心霊ってのがいたとするわな?そもそも人間は2人の原種が交尾して繁殖して増えたのに、何で魂がソンナに大量に増殖するのかね?だから生まれ変わりも小生は信じていないと言うか、もし生まれ変わりが有るならば今迄の人生で大恩有る親友や恩師や恩人や支えてくれた昔の彼女(笑)とか恩人達が皆亡くなる迄は守護霊として此の世に留まって❝悪い者❞を打(ぶ)ん殴り守ってあげたいのね。
勿論、今、彼女がいたら生きたまま彼女の守護生霊(笑)なんて物に成るかも知れない(爆)!
・・・つまりさ、もし小生が皆の守護霊に成っちゃうと、皆が彼女や彼氏や旦那さんや奥さんと❝子作り❞してる所とか見ちゃうわけじゃない(笑)?
そんなん守護霊化した小生からしたら「オェ~(ToT)」って成るわ(笑)!
て事はだよ?その自称霊能者達はHしてる時に大勢の空襲で死んだ人とか自分の御爺ちゃんとか御婆ちゃんとかに囲まれながら❝〇ン〇ン堅く成ってる❞のかね(笑)?
「無いわ~(笑)!絶対イヤ!」
・・・ってのが戦争や天災や墓地の歴史を知っている小生の意見だったりするんだよね。
出来たら神様にも仏様にも守護霊様にも小生はコレから先、又彼女が出来て結婚して子作りする時に見ていて欲しくない(笑)。でも守ってもらってるから我慢しないといけないのか(笑)?

だからね~、皆も古代の公共墓地だった由比ヶ浜とか、和田合戦で激戦地だった材木座海岸とか散歩しても❝癒される❞でしょ?
それが正しい感覚なの。
詐欺師に先入観を与えられる前の。
だってね、例えば以前紹介した❝女性を守る縁切寺の北鎌倉の東慶寺❞を舞台にした大泉洋さんと戸田恵梨香さん主演の❝駆け込み女と駆け出し男❞って映画が有るんだけれど・・・
駆け込み女と駆け出し男
この映画の序盤で戸田恵梨香サンがDV夫の武田真治サンから東慶寺に逃げて離婚するか、家に帰るか占いをする❝六地蔵❞って場所が有るんだけれど・・・
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これね、昔はもっと由比ヶ浜寄りに在って、それが墓地の入口だったんだよ。
東慶寺については以前、映画と一緒に紹介する記事を書いているので興味の有る人は読んで見て下さい。
コレ記事リンク⤵
女性救済の寺院、北鎌倉の東慶寺と映画「駆け込み女と駆け出し男」
・・・あとね、小生ね、金縛りに遭って茶運び人形や般若の面が自分の部屋を歩いたり浮遊してるのを見た事が有るのだけど、アレも自分で解明したんだよね。
アレね、身体と脳は寝てるのに意識だけ起きてて夢と現実が重なり合ってる状態なんだよね。そして疲れてる時に良く成る。
最初に茶運び人形を見た時に前身金縛りに遭って、身体動かなくて、その時に「次が有ったら絶対に捕まえれるか確かめてやる( ̄~ ̄)/」とか決めて本当に次が有ったんだよね・・・
それが般若の面だった。
般若の面の時もやっぱり金縛りに遭ってね、でも前回の経験から「指先から少しづつ動かして動ける様に成ったら一気に掴(つか)んでやる!」って決めてて、指先から慣らして行ったら本当に手が直ぐに全部動く様に成って「ブン!」って一気に目の前の般若のを掴もうとしたけど、不思議な事に手が届かないんだよね。
・・・それで確信したのさ、「あ~、これって今、意識だけ起きて目に見える風景と脳内の無意識の夢が一緒に見えちゃってんだな~」って。
どうも疲れ過ぎてるとそうなり易いみたいだね。あとね、両方とも蛍光塗料の緑色みたいな色に見えたんだよね、それも科学的に調べたら目の網膜とかなんかや、当時の家のガラスに透過した外の光とか科学的に説明が着(つ)くのかも知れないけれど、生憎(あいにく)と小生は科学的な知識も脳科学的な知識も皆無なので解らない。
でもね!
小生達の様な歴史オタクや司馬遼太郎先生の様な歴史小説家や歴史博物館の学芸員サンや鎌倉の神社仏閣の和尚様や宮司様達は皆、由比ヶ浜が墓地だったり戦場だった歴史を知っているから我々歴史の証人達からすると❝自称霊能者(笑)❞達の言ってる事が「妄言だと断言出来る」訳です。
だって司馬遼太郎先生も書いてるし、小生達の様に鎌倉が好きで子供の頃から良く行ってる人や地元民は知ってるけれど、昔は鎌倉市内の小学校や中学校の校庭の砂には良く人骨が砕けてキラキラ光るのが混じってたんだよね(笑)。
だからさ、本当に自称霊能者が何か見えるなら「由比ヶ浜に行くな!」って言うでしょ?しかも彼等はだいたいが勝手に僧侶や神職の装いをしていますが、根本的にちゃんと仏教大学や國學院大學で勉強もした事も無ければちゃんとした宗派の道場で修行すらした事の無い「詐欺師」同然の輩だし、まして日本最高の謂(い)わば古来は大王から天皇に成った実際は❝教皇❞の様な霊力に優れた天皇家の皇族にも出来ない神通力を、只の金髪豚男やガリガリ細目ババアが天皇家を凌駕する霊能力なんて持ってる訳が無いでしょう(笑)?
古来、宮司や天台宗の座主や真言宗の高僧や日蓮宗の僧侶等は密教的な学問も良く学ぶ宗派だったので、所謂(いわゆる)退魔や地鎮の法力や神様の力をお借りする神通力と言うのは目に見えなくても有るのかも知れませんが、まぁ、小生は「真っ当に生きる事」を教えてくれる場所や「精神的な支柱」に成る場所が神仏を祀る人々の守る神社仏閣で御奉仕される神官僧侶の役割なんだろうと思っています。
だから大学の先生に会いに行く様に和尚様や宮司様を尊敬するんですがね~♪

まぁ、そんな訳で偽霊能者が公共墓地だった歴史を知らなかったり、海の家を出店する❝ヤクザが怖いから(笑)❞由比ヶ浜を❝心霊スポット❞って言わないってのは歴史好きなら誰でも知ってるんですよ(笑)。
しかも神道や仏教の日本古来の考え方では、自分の信念に基づいて戦って亡くなった武士の魂は❝英霊❞であって、その人達を尊敬していれば❝守護❞して下さる側に成ってくれる心強い存在なんだよね。
だからね、小生は偽霊能者とカルト宗教が心から許せないの、偉大な先人達を愚弄する連中だからね。

小生は色んな人が眠る静かな季節の美しい由比ヶ浜の長い湾曲した砂浜がとっても好きです。
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これから秋に成ったら海の家も無く成って、又、静かに散歩出来る美しい由比ヶ浜~材木座海岸に戻ります。若いカップルや若夫婦の皆さん、デートで静かな浜辺を散歩してから司馬遼太郎先生が愛した長谷地区の、サーファーや地元民の憩いの場のDaisy's Cafeで一服お茶して行きませんか?

では、又、次の解説記事で!

横浜市旭区には横浜市内の住宅街の中に在りながら、とても立派な規模を維持している鶴峯山 即相院 三佛寺と言う御寺が存在します。丁度、保土ヶ谷バイパスの本村インターチェンジの在る所ですね。

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鶴峯山 即相院 三佛寺
山門にもとっても立派な大樹有り参拝者を出迎えてくれます。
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浄土宗の寺院ながら、三つ葉葵の徳川家家紋を寺紋に用いない御寺でして、それは徳川家よりも室町時代に家格の高かった❝名家❞の殿様によって開かれた御寺からなのかも知れません。
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浄土宗は一般的に阿弥陀如来信仰を大切にする宗派ですが、ここは観音様の霊場としても❝殿様❞が関与する前から有名でした。
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住宅街の御寺とは思えない、とても立派な石段の参道が御堂の在る削平地まで続きます。
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そして御寺の入口に聳(そび)える大樹は横浜市の名木指定を受けた銀杏の木なんですね。
階段を登りきると内門が存在した場所に代りの石柱が有ります。
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その横には御地蔵様達が参拝者を出迎える様に並んでいらっしゃいます。
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もう、この時点で御寺が好きな人はお気付きかと思いますが、観音信仰音霊場であり入口に御地蔵様達が並ぶ寺院の特徴は、多くの場合は改宗前の前身寺院が❝真言宗❞だった場所が多く有ります。
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実は三佛寺の由緒に関しては小生、この御寺を開いた❝殿様❞の事以外には予備知識無いままの初訪問でしたが、これ直ぐに解ったんで後で御寺の庫裡で御住職の奥様と雑談した際に質問した所、やはり前身は真言宗だった御寺の歴史が有るとの事でした。
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門をくぐると御寺の佇(たたず)まいはとても落ち着いていて、禅宗寺院の庭園ではないものの何だか心が静かに成る様な空気感でした。
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浄土宗なので法然上人の御幼少の頃の座像が有ったりしますね。
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その横には御寺の昔の立派な化粧瓦が展示されていますが・・・
これを見れば歴史好きは「お?何だこの家紋!」と思いながらも家格が高い殿様の家紋で有る事が一目瞭然、その正体も何となく解ります。
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解りますか?
竹に雀紋
上杉謙信が養子縁組して乗っ取った山内上杉家の家紋に似ていますよね?
上杉家の家紋、竹に雀の変形です。実は事実確認をしない、実際に御子孫に取材もしない、誰かが書いた物を適当にテンプレートするだけの無責任なタイプの歴史ガクシャ先生は知り様も無い事実なのですが、この家紋は❝宅間上杉家❞と言う足利尊氏公の母方従兄弟の家系の殿様の家に代々伝わった家紋です。❝歴史ガクシャ先生❞達は調べもせずに宅間上杉家の家紋を山内上杉家と同じ普通の竹に雀の家紋を用いて紹介する人も多くいますが、それは❝事実無根❞の❝適当な仕事の結果❞の❝デマ❞ですので信じないで下さいね。
まぁ、取材しててもカルトに騙されてカルトの教本を歴史資料に採用して本書いちゃう様なNHK歴史解説員を吹聴する某ガクシャさんもいたり(笑)、結局は古文書も偽書があるので昔の人や悪い人との知恵比べもする歴史以外の❝知能❞が無い人の本にも気を付けないといけないんですが。
さて、実は宅間上杉家と言うのは室町時代の足利政権に於(お)いては、関東を統治する政治機関の室町幕府❝鎌倉府❞の将軍である歴代鎌倉公方の家に仕えた武家で、先述の通り足利尊氏公の従兄弟の家系でした。
宅間上杉家の鎌倉府勤務時代の居所は本拠地の他に鎌倉市浄妙寺地区の宅間谷(たくまがやつ)でした。
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功臣山 報国寺
なので宅間谷には宅間上杉重兼公と、足利尊氏公の祖父の足利家時公が一緒に開いた御寺が今も存在しています。
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現在ではミシェランガイドで3星を獲得した御寺の竹林と抹茶を頂ける御寺としての方が歴史に興味の無い人に有名でしょうか?
報国寺に関しては紹介記事を以前に書いていますので、興味の有る方は御覧下さい。
これクリックで記事にリンクします。⤵
報国寺…ミシェランガイド三ツ星の安らぎの竹林寺。…鎌倉市。
宅間上杉家の初代は報国寺を開いた宅間上杉重兼公で、その後は足利尊氏公の御子息で鎌倉公方と成った足利基氏公の御子孫に歴代お仕えした家柄でした。とても鎌倉公方に対する忠義の厚い家で、それは安土桃山時代まで続くのですが、室町時代の最期の鎌倉公方と成った足利持氏公の時代に籤引(くじびき)で室町幕府征夷大将軍となった残虐将軍として有名な足利義教の恣意的な自己顕示の為に鎌倉公方家は政治混乱を誘発され、室町幕府vs鎌倉公方家の長い長い凄惨な戦いへと発展して行きました。
その発端と成ったのが❝永享の乱❞です。
永享の乱の際の宅間上杉家の当主だった上杉憲直公は足利持氏公に忠義を尽くして敵対する勢力と戦います。その際に籠城したのが横浜市緑区三保町に在った榎下城でした。
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実はこの榎下城の主要部分は原型が有る程度解かる状態のまま寺院化して現在も❝舊城寺(きゅうじょうじ)❞として存在しています。近世城郭で言うならば本丸と二ノ丸に相当する部分が存在し、御寺の山門の前には外郭と二ノ丸を分断する様に囲む空堀も5年前の訪問時にはまだ存在していました。
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神奈川県教育委員会は❝建築利権への配慮❞の為かは判りかねますが御城の範囲を主要部分しか紹介していません。しかし小生達城郭ファンから見ると明らかに周辺の公園や住宅街も城郭の外郭として機能し有事の際には数千~万単位での籠城が可能だった城だろうと推測出来ます。
榎下城址の舊城寺に関しても以前に紹介記事を書いているので御興味有る方は御覧下さい。
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旧城寺=榎下城址…横浜市緑区三保は上杉家の拠点
さて、この永享の乱のゴタゴタで足利持氏公は敗北し、宅間上杉憲直公は横浜市金沢区に存在する❝東の正倉院❞の異名を持つ文化財の宝庫として有名な金沢文庫を昔は管理していたとても桜と庭の綺麗な御寺の❝金澤山 彌勒院 稱名寺❞、今の金沢文庫称名寺に蟄居(ちっきょ:謹慎)して室町幕府に恭順の意を示します。
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金澤山 彌勒院 稱名寺(称名寺)
結局幕府の残虐将軍足利義教は最初から鎌倉公方一派を減衰させるのが目的だったので許されず宅間上杉憲直公と御子息の憲家公は称名寺で切腹しました。しかし後に足利義教が死亡すると足利持氏公の御子息の足利成氏(しげうじ)公が密かに育てられていた信州から復帰し鎌倉公方に就任し、宅間上杉家は再登用され規模は縮小したままでも存続して行く事に成りました。
称名寺に関しても以前に紹介記事を書いているので興味の有る人は読んで見て下さい。
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称名寺と金沢文庫 …日本最初の図書館。京浜急行金沢文庫駅近く
永享の乱の在った時代には宅間上杉家は鎌倉~武蔵国南部にかけて勢力を誇った領地を失い大幅に勢力は減退しました。
その頃には現在の横浜市港南区の永谷一帯を本拠地にして、今の永野緑地~芹が谷~永野小学校辺りの丘に永谷城を築いて在城していた様です。永谷城址には宅間上杉家の祖先の官職名である伊予を冠した❝伊予殿根❞の地名が近年まで残っていました。
永谷には城址は横浜市が保護も発掘もせずに消えてしまいましたが、宅間上杉家の足跡を辿れる場所が現在も存在しています。
下永谷の曹洞宗の般若寺は元々宅間上杉家が開いた御寺ですし、神明社の別当寺がその般若寺でした。
そして同じ曹洞宗の貞昌院も宅間上杉家が開いた御寺で、この御寺は永谷天満宮を守る為の別当寺として開かれた御寺でした。
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永谷天満宮
この永谷天満宮は由緒が凄まじく、御祭神の菅原道真公の御子息の菅原敦茂公が一時、御住いだった邸宅跡と伝承が有ります。まぁ、菅原敦茂公が御住いだったかは正直文献が無くて不明なのですが実際の菅原敦茂公の兄君の菅原景行公は藤原氏による菅原氏弾圧から関東に逃げて来ており、大生郷天満宮を開いたりしている事や関東の鎌倉郡には菅原景行公と同じ❝景❞の名を持つ坂東平氏の武将が多く平安時代末期に居た事からも平氏に関与し鎌倉郡に移住した菅原氏の人物が永谷に住した伝承は信憑性が有るんですね。
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永谷天満宮は初夏に紫陽花が鎮守の山に沢山咲く場所として近年知られていますがが、この永谷天満宮の御神体が菅原道真公が自ら手彫りした自分の彫像の3つの内の一つと伝わっています。この由緒に関しては宅間上杉家が所有していたと伝わりますが、宅間上杉家の御先祖の勸修寺家や上杉家は菅原家と同じく宇多天皇や醍醐天皇に仕えた一族でした。
そこ等辺の永谷天満宮と菅原家の歴史に関しても以前に解説記事を書いたので御興味有れば御覧下さい。
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永谷天満宮(横浜市)は日本三躰の天神様。
宅間上杉家は戦国時代に旧鎌倉郡域の永谷郷と武蔵国久良岐郡花木つまり現在の横浜市南区花之木辺りを一族が所領にしている事から横浜市南部の大岡川沿い西岸部にわずかに領地を持つ程度の勢力に縮小してしまった様です。戦国時代の混乱迄はもしかしたら磯子城の平子家や太田道灌公が制圧した西区~神奈川区辺りまで勢力を維持していたかも知れませんが、それも古河公方と成った足利成氏公に忠義を尽くした宅間上杉家なので領地を太田道灌公や蒔田吉良家の殿様達に横領されてしまったのかも知れませんね。
なんせ太田道灌公の御主君の家である扇谷上杉家は足利成氏公と対立した勢力ですから。一時は父上の足利持氏公の跡を継いで鎌倉公方に成った足利成氏公も、太田家とその主君の扇谷上杉家や長尾家とその主君の山内上杉家に鎌倉公方の座を落とされ、支持する関東の古豪大名の多い北関東に逃げて古河城主となって古河公方を名乗らざるを得ない事態に陥(おちい)りましたから。
さて、そんな足利成氏公も武将としては優秀で太田家や長尾家の大軍を江ノ島に籠城して撃退した歴史が有ります。その際に足利成氏公に与力して活躍したのが戦国時代に宅間上杉家と親戚に成る間宮林蔵の祖先の間宮(佐々木)家や、関東大名の千葉家や那須家や小山家の鎌倉時代以来の古豪でした。
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今では観光客で賑わう❝神社❞の島として有名な観光地江ノ島も、明治以前は真言宗系の修験道の聖地であり平安時代以前からの天皇家勅願所の聖地である岩屋を管理する❝岩本坊❞後の岩本院と呼ばれた御坊が有り、神道仏教宗派問わず多くの高貴な僧侶神官が修行に来る場所でした。
この江ノ島は海に突き出した島なのに豊富な飲用水を確保出来る場所で、城塞化するとトンでも無く強力な防衛施設に成る場所だったんですね。
そしてその江ノ島を明治時代迄守ったのが岩本坊、現在は明治時代に修験道道場から江ノ島の老舗旅館に業種替えした❝岩本楼❞の岩本家でした。
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岩本楼
この岩本家は本来の苗字は❝間宮❞で氏姓は宇多源氏佐々木氏でした。つまり間宮家で、本家との区別で岩本を名乗っており、戦国時代の北条所領役帳でも岩本家は鵠沼を領地として認められており武士化していた事が解かりますが、間宮家の本家である笹下城主間宮家も又、鶴岡八幡宮再建事業や真言宗の古刹である弘明寺や宝生寺と言う重要な神社仏閣の復興支援で活躍している事が古文書で判ったりします。
実はこの間宮家の子孫であり宅間上杉家と同じく戦国時代に古河公方を支持して❝今管領❞と呼ばれた北条家臣化していた笹下城主間宮信元公の御子息の一人、間宮綱信公の奥方が宅間上杉家の姫君でした。
宅間上杉富朝(とみとも)公の姫で、宅間上杉富朝公は北条vs里見家・太田家連合の国府台合戦で討死してしまいます。
そこ等辺の間宮家との関わりも以前に間宮家の顕彰記事の中で書いているので御興味有る方は御覧下さい。
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間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績
戦国時代末期に成ると宅間上杉家は上杉規富公の代に三崎城主北条氏規(うじのり)公の付家老と成り三崎衆に編入され、現在の三浦半島三崎漁港に存在した三崎城に勤務していた様です。
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三崎漁港に在る北条橋の前の港は❝北条湾❞と呼ばれ、その右手の旧三崎中学校の丘全てが三崎城址です。城好きなら解りますが虎口や一部土塁等が現存しており、三浦市教育委員会様に尋ねると城の推定縄張り図の掲載された書籍等も紹介して下さったりします。
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三崎城址そして北条家が豊臣秀吉に改易されると、宅間上杉規富公は400石の小禄ながら徳川家康公に登用されて二俣川村を領有し、江戸時代も旗本として存続したのですが現在嫡流の御子孫は近年に成って途絶えてしまったそうです。その菩提寺が宅間上杉規富公が旭区本村に開いた三佛寺な訳ですね。
では、現在の三佛寺に話を戻しましょう。
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山門の階段を登り切り振り返ると環状二号線が通る旧二俣川村を見渡す事が出来ます。

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境内左手には馬頭観音様を始めとした色々な石佛様が祀られています。
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境内右手には宅間上杉家の家紋の入った手水鉢。
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正面に御本堂。
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立派な扁額です。
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本堂右手には無量寿と書かれた庫裡の玄関とは別の信徒さん用の入口かな?
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更に右手に庫裡。
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境内には石碑や石仏、看板も幾つか有りました。
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境内を入った左手の真ん中に階段が在ります・・・
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ここを登ると宅間上杉家の歴代殿様の御廟所が在ります。
小生、存じ上げなかったのですが宅間上杉家は太田家と縁戚にあった様で、一番立派な供養塔と対の供養塔には太田家の家紋が入っていました。実は宅間上杉富朝公が国府台合戦で討死していますが、その合戦の発端と成ったのが旧江戸城主の家系に当たる江戸城代の一人の太田康資(やすすけ)公の謀反でした。これに気が付かなかった太田康資公と親交深かった遠山家や富永家は責任を感じた為か無理を承知で国府台城を正面から攻めて宅間上杉富朝公同様に討死しています。
この状況から推察すると、上杉富朝公か御子息の規富公の奥方様は太田康資公の妹君か姫君で、遠山家と富永家同様に婚姻関係から責任を感じて無理に国府台城を攻めて討死したであろう事も推測出来たりします。
小生、特別に御寺が存続の危機に瀕しており重要性を説く時以外には殿様達の眠る御廟の写真を掲載しないので、もし確かめて見たい人はちゃんと歴代宅間上杉家の殿様と御一族に敬意を払って御線香を持参して御参りして下さいね。
小生も少し値段の高い(笑)御線香を上げさえて頂き、5年かけてやっと宅間上杉家歴代の殿様と御家族の御廟で御参りで来た事を伝え、そして毎年の永谷天満宮への御参りで大願成就に導いて下さる御加護御守護下さる事を御礼申し上げて来ました。
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境内には他に立派な井戸。
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立派な庭石。
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色んな人から色んな寄進が有り宅間上杉家の殿様の御遺徳によって今も御寺が反映している様です。
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どうぞこれからも多くの人に三佛寺様が大切にされて存続し、地域の人の心の拠り所に成ります様に御祈り申し上げます。

さて、今回は御住職御不在で御朱印を拝領出来なかったので、次回、改めて参拝した際にこの記事に御朱印の画像を追加掲載したいと思います。

皆さん、旭区の三佛寺に関わった宅間上杉家の殿様が主君に忠義を尽くしたとても誠実な性格の方々だった事や高い家柄だった事御理解頂けたでしょうか?
足利尊氏公の従兄弟から始まった高い家格なのに御寺が庶民との距離が近いのは、きっと宅間上杉家の殿様に、そういう御人柄の優しい人が多かったからかも知れませんね?

きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人が関わった神社仏閣や御城の跡の山や古代の人々から継承した文化や聖地の残る自然が有ると思います。
ですから・・・皆さん、ちょっと御近所の山に行って見たり、神様仏様拝みに行って境内の看板を読んで見ませんか?それだけでも昔の人と今の皆さんを繋ぐ大切な場所が沢山残っている事を再認識して、地域の誇りに成り郷土愛が深まるかも知れません。

では!又、と義の解説記事で御会いしましょう♪

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