歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。
皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪
…と、思って書いています。

写真・本文・構成・無断転用禁止!
関係先と小生の個人的な信頼関係で了解をとって記事にしているので、転載したい場合は当方へ確認願います。

恋は雨上がりのように紹介した記事⤵️
http://yoshi-kanagawa.blog.jp/archives/76224302.html
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 桜木町駅 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 能見台 久良岐のよし
今日は公開日です。
ロケ地は小生の地元の円海山周辺・・・
残念ながら栄区は有りませんでしたが旧鎌倉郡の栄区的には鎌倉市由比ガ浜もある意味地元(笑)。
ロケ地、判るだけでも以下の場所が有りました~。
鎌倉市由比ガ浜
横浜市金沢区能見台
横浜市金沢区冨岡
横浜市磯子区氷取沢
横浜市港南区港南台円海山
横浜市中区桜木町駅

この他に埼玉県とか千葉県我孫子市でもロケされてます~。
全部、横浜の殿様、間宮康俊公に縁がある土地の近く。


さて、旅行ブログか歴史解説ブログ、今夜書いて明後日位には更新します~。

因みに今日は休日の小生の1日行動報告・・・
午前中~
爆睡&某外国語学校

昼過ぎ~
目黒区の妹の夫の歯科医院で定期受診
昼食に目黒駅近くの宮崎県産直の農産品が食べれる宮崎県日南市じとっこ組合
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鳥の叩き
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馬刺
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目黒駅界隈散歩&生誕八幡宮と高福院参詣DSC_0781
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此方は享保の改革を行った水野忠邦公等の関わった神社、今では小さいけど歴史偉人と所縁有る凄い場所。
水野忠邦公、松平定信公の様に己の正義を貫く強さと、間宮林蔵公や杉田玄白公や河井継乃助公や高田屋嘉兵衛サンや近藤サン土方サン高杉サン西郷サン桂サンみたいに新しい事と古い事を共に活かし社会の為に立功する人間でありたいと願うので御詣り出来て嬉かった。
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隣には元は八幡宮の別当寺だった高福院さんが在った。ここは何と真言宗の聖地高野山の重要な塔頭だった寺院が江戸時代に移転されて来た大切な御寺で、明治以前は関東における高野山の窓口として機能したそうだ。



夕方~
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恋は雨上がりのように パンフレット購入し鑑賞!
夜~
今から帰宅して少しユックリしたらブログ書くよ!

さて、今日も残り時間僅かに成りましたが世界中の日本文化と自然を大切に思う皆さんにとっても小生にとっても善良な部類の法治主義者にとっても神様仏様歴史偉人皆様にとっても、今日も良い日で1日が☀️終わり明日も健やかな良き日でありますよに~🎵

では!又明日か明後日の記事で!

今年ももう直ぐ円海山で蛍が見れる季節に成ります。
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2017年の6月の写真です。
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円海山 瀬上沢ホタル群生地←Googlemap地図にリンク!
円海山蛍の生息地 久良岐のよし
場所は円海山の瀬上池~旧上郷高校=現在の栄高校~思金神社への遊歩道を流れる瀬上沢の渓流沿いです。
観察マナーについては、色んな考えも有れば何も考えていない人、自分達のローカルルールをさも当たり前の様に押し付ける人もいて千差万別、これも文末で解説したいと思います。
蛍、小生の小さいころ、ん十年も昔はもっとわさわさ見れたのですが、横浜市教育委員会の怠慢と林文子市長による円海山の開発容認で横浜市最大規模の自然公園ごと絶滅の危機に瀕しています。
瀬上沢蛍の観察可能な場所 久良岐のよし
個体数の激減の原因は過去に開発されてしまった庄戸地区とみどりが丘の宅地化による環境の悪化、それに加えて過去の横浜市による誤った公園整備によって天然のフナが居た瀬上沢が重機で荒らされてしまったり蛍だけでなく生態系も破壊してしまった訳ですが・・・
現在、僅かに生き残った蛍に止めを刺そうとしている組織がいます。
それが東急グループの土地買収による宅地化構想と、歴代市長が守って来た円海山の自然環境保全を事実上放棄して東急に対して土地放棄や買収等の対価を払う等の対案を示さず、それどころか円海山の林道整備すら放棄して丸で段階的に宅地化を容認する構えの様な言動しか現状していない林文子市長と円海山の史跡と自然環境の保護を怠っている横浜市教育委員会です。
過去の記事の転載も交えて説明したいと思います。

先ず、円海山その物を知らない人が多いと思います・・・
円海山は横浜市栄区港南区金沢区磯子区にまたがり鎌倉に続く自然公園です。 
鎌倉横浜に古代文化の基礎を醸成した地域でもあります。
この円海山、実は横浜市で一番標高の高い山で、天気が良いとこの様に頂上近くからは富士山も綺麗に見えます。

実はこの山、歩いて鎌倉まで行ける遊歩道があり、それらは「鎌倉早駆けの道」と言う史跡でもあります。
更に‼︎
蛍(ほたる)の横浜市内での貴重な生息地なんです!
その場所は瀬上池と、その池に注ぐ自然の沢を集めた池から再び流れる貴重な水源地帯の瀬上沢です。
この小川が瀬上沢ですが、こんな不必要な護岸工事が横浜市の建設利権の為か環境整備局の不見識か行われてしまったせいで天然のフナは姿を消しました。
当時、環境整備局の前身組織の負の遺産ですね。挙句の果てに保持が怠られているのが現状です。
歴代市長から保護され多くの市民の憩いの場として解放されてますが、小生も子供の頃よく、ザリガニを採(と)りに来たり野山を駆け巡りに友達と遊びに来ていました。釣りはやりませんでしたが友人達はよくフナを釣りに瀬上池や瀬上沢にも来ていました。
子供が自由に川遊び出来る横浜南部の最後の水源地帯がこの円海山の沢で、特にこの瀬上沢と大岡川源流笹下川上流の金沢区の大谷戸(おおやと)側の沢が状態が良いんです。
写真は円海山大谷戸広場側です。
昔ながらの貴重な里山保存区域です。綺麗な昔ながらの鎌倉近隣の原風景でしょ?
本当、貴重な自然と里山なんです。

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金沢市民の森側、大谷戸広場付近は護岸工事されずに一部上流だけ源流が昔のままの沢の姿を保っています。

写真撮影した季節は冬で川で遊ぶ子供も流石にいませんが…
此処(ここ)瀬上沢には貴重な淡水の貝の化石群の地層が露出した場所があり、更に奈良時代の古代のタタラ製鉄の史跡も出土した場所でもあり…
 
灌漑水田史跡でもあり、重ねて言いますが平安〜室町時代の鎌倉早駆けの道と合わせて非常に貴重な史跡群でもあります。
 
昔の市長達の遺志を踏みにじる東急と林さん。
東急の土地買収で茅が生えて「神社に売るんか(笑)!」ってのが現状です。
以前の市長達により、瀬上池周辺は遊歩道や釣り用の桟橋が設けられていて新春にもなると釣りをする子供や、お弁当作ってピクニックに来た家族連れなんかで、ほのぼのとした空気が感じられる場所です。しかし多くの林道は林市長に成ってから保全されず、通行止めの箇所が異常増加中・・・
今の横浜市長の林文子さんは、どうも保護に熱心ではなく寧ろ開発準備してる側のようですが、昔からの地域のボランティアが自主的に子供の遊び場を守って下さってます。
だから幼稚園小学生くらいのお子さんがいる御家族には暖かく成れば、オススメの自然の中の水遊び場ですよ!
この池が瀬上池。
小生が子供の頃、友人達は釣りが自由に出来るここに来てはフナや鯉なんかを釣っていました。
…小生は、もっぱらザリガニ専門でしたが(笑)。

しかし、最近は今の林横浜市長の施政下で、倒木の処理などが放置され林道が通行止めにされてしまっている所が多くあります。
この下の写真の「尾根道から護念寺への道」も、さも通行出来るような案内板ですが、実際は鉄柵で封鎖され市民が通行出来なくされています。
別に道が崩落している訳ではありません。
横浜市が業者に開発させる前振り?

しかも、此(こ)の道の先は古典落語「強情灸」の舞台になり江戸時代から昭和初期まで、お灸治療の本場峰の灸として観光客と治療客で栄えた竹林の美しい円海山護念寺に通じているので、早く再開通させるべき所なんです。
※円海山護念寺の風景と歴史については「ココ」←クリック!
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ついでに言えば、昔は護念寺の本院だった阿弥陀寺は浄土宗の総本山である知恩院の住職を務められた了鑑大僧正を輩出した名刹だったりもします。最古参の旦那は苅部(かるべ)氏で、元は戦国時代に鎌倉公方代理を務めた蒔田吉良家の吉良頼康公の重臣の子孫に当たります。
蒔田吉良家は戦国時代初期には世田谷を本拠地にした足利家の中で一番格の高い足利家の一族でした。
北条家に従属しながらも吉良様や蒔田御所と敬意を特に払われた高貴な殿様の重臣だったのが苅部家です。
蒔田吉良家は戦国時代末期には横浜市南区の蒔田城を本拠地にして、鎌倉公方代理を務めたので蒔田御所と呼ばれていました。
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上の写真は世田谷豪徳寺の三重塔です。豪徳寺の所在地が蒔田吉良家の初期と終焉の頃の居城の世田谷城址です。
この苅部一族の菩提寺の在る円海山一帯を江戸時代に抑えていたのが氷取沢領主として徳川家康公直属の旗本と成った北条旧臣の間宮綱信公や間宮家本家の笹下間宮の間宮直元公です。
生野代官所位置関係 久良岐のよし
上の画像は朝来市教育委員会様に提供頂いた資料をGoogle earthに張り付けた生野代官所の縄張り図です。
間宮直元公は但馬銀山や金山を含めた但馬国内の江戸幕府直営の施設や領地を治める但馬奉行として生野代官所に居り、同時に現在の横浜市中部沿岸部を治める本牧奉行を務め、徳川家康公からも信任が厚かった人物です。
大久保長安が経営失敗して業績不振だった佐渡金山の業績を好転させるべく、徳川家康公の命令で但馬銀山経営のノウハウを持って佐渡に支援に行き、瞬く間に業績を好転させた事から大久保長安の失脚後は佐渡奉行も兼任した名経営者の御奉行様でした。
更に大坂城の真田丸や総構えの埋め立て作戦を立案し、直接徳川家康公に献策したのも間宮直元公でした。
その菩提寺が円海山山麓、笹下川を挟んで反対に位置する場所に在る妙蓮寺です。
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ここには昭和期まで御神廟に間宮直元公の彫像が祀られていましたが、残念ながら火災で焼失してしましました。
新編武蔵風土記稿 間宮直元公木造 久良岐のよし
新編武蔵風土記稿に掲載されているのが上の写生図。
下は間宮一族の間宮さんが焼失前に撮影した実物の画像です。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
円海山から釜利谷に抜け鎌倉に至る六浦道=金澤道、つまり現代の笹下釜利谷道路と円海山の間道を抑えたのが間宮綱信公です。
間宮綱信公は北条家の外交官として織田信長公にも謁見した人物で、八王子城主で北条家No,2の北条氏照公の付家老(つけがろう=組織上の補佐役だが家臣では無く、主家の家臣のまま出向した家老)を務めた人物です。
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上の写真は八王子城址。現代では日本100名城の一つにも選定されていますが、この城の縄張り、つまり設計を担当したのが間宮綱信公と八王子の現地では伝わっています。
残念ながら八王子城は要害部の完成前に農民と姫様や僅かの守備軍しかいない状況で、豊臣秀吉の配下と成った上杉景勝公、真田昌幸公、前田利家と裏切者の大道寺政繁の大軍勢によって攻め落とされてしまいました。
元は吉良家の北条家臣化後の北条家臣として間宮家の同僚に当たる苅部家、そして北見(喜多見)家、そして北条氏照公与力の重臣として間宮綱信公の格下同僚だった金子家、間宮本家の仕えた玉縄北条家で間宮家の格下同僚だった岡本家等、現在も円海山周辺には多くの旧北条家臣団の苗字が残るのは、江戸時代に間宮家が幕府の奉行職を歴任し、大変栄えたので北条家解体後に元同僚の伝手(つて)で間宮家に与力として仕えた為でしょう。

円海山からは、そんな戦国時代の偉人達の足跡も辿る事が出来ます。
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そして現在では余り知る人も少なくなりましたが古代の神々の参謀を務めた思金神を祀る思金神社も瀬上沢の先に在ります。
この思金神社に合祀された廃社の旧白山社も瀬上沢と山を挟んで反対側、市の教育委員会が自然保護を怠った庄戸地区に在り、その参道の前を流れる鼬川に掛かる橋は昇龍橋と言います。
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横浜市教育委員会では無く神奈川県土木部道路整備課によって神奈川の橋100選に選定されました。
この鼬川周辺も昔は蛍を見る事が出来ましたが、先述の通り自然環境の悪化で今では・・・
思金神社の丁度反対側の辺り、瀬上川の河畔には昔の水田への灌漑施設の隧道が残っています。
 
ここは円海山で貴重な淡水の貝の化石群地層が露出している場所です。
昔の人が、灌漑水田に水を引き入れる為に作った手掘りの隧道(すいどう=トンネル)のある壁面と地続きの山が全て化石群の地層です。
以前は子供も自由に出入りして遊べました。
周辺を東急が宅地開発しようとしはじめた頃に横浜市大が保護を試みましたが、最近は東急が自然環境保全地である事や市民の憩いの場である事を無視し、周辺から市民を締め出し開発準備を始めてしまっています。
昔からの文化醸成地や市民の憩いの場を蹂躙する東急建設と、それを容認する環境整備局そして陳情を見殺しにする現横浜市長の林文子市長の暴挙ですね。
林文子市長は事前の保護も開発阻止も自然環境保護の先手も打たず陳情に対して・・・
「地権者が開発したいんだから邪魔出来ねぇ~し知らね」
・・・と言う事を言っています。
彼等がもし、無碍にこの瀬上沢一帯を開発したら、この自然環境は2度とは戻りません。

庶民に阻止は出来るか微妙ですが、もし開発すれば近隣に留まらず、貴重な自然公園に連なる遊歩道や沢の自然環境を破壊した歴史を事実としてどの政党が支持した、どの市長の時代に、どの土建屋が瀬上沢と遊歩道の自然環境を破壊したか歴史偉人達の遺産を踏みにじったか我々で語り継いで行きますよと。
林市長、東急さん、きっと瀬上沢の重要性再認識してくれると…

皆んなで淡々と事実拡散するしか蛍の住める環境を含めた自然環境を守るには出来ません。
近隣の歴史を語り継いできた寺院や神社の鎮守の森でもありますから。
執政者と開発業者の責任者の名前と経営者の名前を負の歴史として記録して永久に地域で残します。
それが民主主義で出来る事。
陳情に色良いレスポンスないんだから、やったら責任は歴史に刻んで後世に判断して貰いましょう。
この他にも円海山だけでなく横浜市内には腐る程、間宮家関連、蒔田吉良家関連の神社仏閣が有り、円海山の開発が進めが情報も檀家氏子で共有し更に間宮会から世間にも拡散されて行く事に成るでしょう。
この手の自然保護活動と破壊に関心の高い新聞社も間宮家の研究に熱心な某所に出入りしていますし。
東京の蒔田吉良家臣団の御子孫とも連携出来ますしね~。

まぁ、今なら東急さんも林市長も横浜の自然環境を守った偉大な英雄に成れるかも知れないけど。

さて、皆さん、円海山と瀬上沢の自然環境と風景と歴史が非常に貴重で、尚且つ子供が安心して遊べる自然公園である事は御理解頂けましたでしょうか?

瀬上池手前に使われていない畑があります。
あそこを自転車用の駐輪場にし、山頂のスポーツ広場を休日に駐車場として解放し尾根道に歩道を繋げ、昔みたいに家族連れも行きやすい環境を整えて欲しいな〜とか改善案はあるんですがね〜。

円海山は横浜市民や鎌倉市民にとって大切な場所なんですね。

この綺麗な風景と自然と歴史…
我々が先人から受け継いだ様に、何とか次代の更に先の子孫達まで残してあげたいですね。
円海山は文化なんです。

さて蛍が見える場所は横浜市栄区の旧上郷高校、今の栄高校のすぐ下の谷に流れる瀬上沢です。 
瀬上池の位置
今月の写真を交えつつ、観察or鑑賞マナーについて書いてみます。
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先ず、小生の様にフラッシュを焚いた蛍その物の写真を撮影したい方は以下の点に留意するべきです。
●他の鑑賞者のいる時間帯にフラッシュを焚いて撮影しない・・・他の人が蛍の光を見えなく成ります。
※小生は毎回深夜の1時~4時頃、誰もいない中、必要が有れば川に入って撮影しています。
※蛍はフラッシュ焚いて撮影しても、連写しないで数十秒間を置けば光る事を止めません。
●暗がり対策で持参した懐中電灯で照らし続けるのは止めましょう。
※フラッシュより観察や位置確認の為でも懐中電灯で照らし続ける方が蛍が光るのを止めてしまします。
●深夜遅くて暗くて怖かろうが1人で行ってヒッソリと撮影&観察した方が良いでしょう。
※複数人で言って話し声や大勢の気配がすると逃げてしまいますし、何より深夜に御近所に民家も1軒有るので迷惑に成ります。
※先述の通り、小生は必要が有れば川に足つかったりしながら、蛍の見える位置に回り込んで撮影します。蛍を動かしたり捕まえて撮影しない為の行動です。
●深夜に大勢で鑑賞会なんて絶対にするなよ。近所迷惑だから。
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以下当たり前の事。
●円海山は火気厳禁です。タバコはポイ捨て以前に吸うな馬鹿野郎。当然花火も焚火もするな。
●大勢で押しかけるな。家族や少数の友人と行き静かに鑑賞しないと近所住人に迷惑。
●他の鑑賞者がいる状況でフラッシュ撮影するな。先述の通り。
※どうしてもやりたければ、小生の様に深夜に懐中電灯も持たずに一人で行って、時間間隔空けながら撮影しましょう。そうすれば迷惑にも成らないし蛍も光るのを止めません。
●18歳以下の学生は夜間外出を控えましょう、根本的に22時以降に蛍を鑑賞していたら警察に補導されますよ。当該地域周辺は警察官が巡回しています。
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この写真はフラッシュ焚いた数十秒後に再撮影した写真。
あと、蛍が尻の光を点滅すると思ってる人いますけど、蛍って点灯しっぱなしの子もいるんですよ~。
この子は点灯しっぱなしの子でした。

さて、こんなマナーみたいなものを言わなきゃいけない程に蛍が珍奇な存在に成ってしまったのが小生が小さい頃の田舎的な風景や蛍の多さからは想像もつきません。
昔は、多分他府県の人も同じ経験をしていると思いますが・・・
「蛍見に行こう~!」(多人数でわいわい)
「あら危ない懐中電灯もって行きなさい(おばちゃん)」(蛍照らしまくりの観察しまくり)
「蛍綺麗だね~!」(横で花火)
・・・小生の場合、育った年代的にも円海山や上郷の宅地化は進んでいませんでしたし、祖母の住む田舎が有ったり、幼馴染が引っ越した千葉県も自然が豊かだったりで、普通に宅地の傍の農道や自宅の近くの湧水の農業用の池の周りに昔は蛍がいたんです。円海山の瀬上沢も近所だから遊びに良く行きましたしね~。千葉の印旛沼辺りじゃ田圃に農薬撒いた翌日もスンゴイ蛍沢山見れたしね。

円海山に蛍をわざわざ保護しないといけない環境にしたのは横浜市ですが、その蛍の生息できる環境に止めを刺す開発を行いたいのが東急不動産で、それを容認する発言を回答したのが林文子市長です。
ただ多分、横浜市よりも現状では東急建設に理性が有って踏みとどまってくれて様子を見ているんだと思います。横浜市役所は内部の連携が目茶目茶で林市長が統治出来てるのかも謎。
あと十年余りで樹齢100年に成る桜並木の街路樹を伐採させたり、調査もせずに城址の空堀を掘削したり盛土して宅地化する案を容認する横浜市歌も歌えない奴が務める横浜市建設指導部と違い、本来は伊勢神宮から天照大神の御分霊を勧進し東横神社を開基し自然や文化の保護に意識が高かった❝昔の東急東横線の五島慶太社長❞始め過去の歴代社長は今の東急建設を見たらどう思いますかね?きっと苦虫を噛み潰したような表情で現在の瀬上沢開発に関わる東急グループ社員と林文子市長と黒岩知事には天罰落としたいと思っている事でしょう。なんせ東横神社は伊勢神宮から勧進した天照大神と合祀された渋沢栄一公が御祭神、自然守護の象徴たるお伊勢様と経済世民と愛国を両立した渋沢栄一サンを東急グループは守護神としている訳だが・・・
この事を恐らく東急建設の現経営陣は知らんだろうな。
これを機に、林市長と横浜市と東急建設に瀬上沢の横浜市による土地買上げと当該地域への広域自然保護区認定を改めて行って貰える様に、皆さんで陳情して頂けると幸いです。
●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299
●林文子市長支援者の黒岩神奈川県知事の窓口
〒231₋0007 横浜市中区弁天通1₋15₋1
黒岩祐治事務所 TEL:045₋227₋5119
●林文子市長を推薦した自民党の横浜市選出の菅義偉官房長官
〒232₋0017 横浜市南区宿町2₋49
横浜市部事務所
TEL:045₋743₋5550 FAX:045₋743₋5296
✉:suga.yoshihide@gmai.com

・・・個人的に小生は思想的には保守寄りで自民党の日本文化を大切にする姿や経済政策の支持でも有りますが、こと東急不動産と林市長の円海山一帯開発利権の為の文化史跡自然破壊に関しては看過出来ません。小生と意見を同じくする人は既に十万人超の署名が集まり、日に日に増えているそうです。
これもセーブザ瀬上の皆さんの活動の御陰です。
横浜市の自然と古来の文化醸成地を守った英雄に成って頂く道を選択して頂き担当者さんや林市長に歴史に良い意味で名を残して頂きたい。
そう、高秀秀信市長の先例に倣って。
東急さん?鎌倉市歴史文化交流館を御存知ですか?あそこは某出版社の経営者の方が取得した広大な土地を鎌倉市に寄贈して出来た施設なんですよ?
黒岩知事、あなたの統治下で神奈川県教育委員会が神奈川県立金沢文庫の保有する国宝の経典がカビさせたのは❝エアコンの整備予算❞を出さなかったからですよね?それと同じ失敗を繰り返すのですか?
アナタの支援者には創価学会が付いています、日蓮聖人は密教にも精通し日本各地の聖地霊場と自然と史跡を巡り修行をされた方です、鎌倉市七里ヶ浜で雨乞い神事を行われた場所も史跡に成っておりますし、横須賀市猿島の岩屋も有名です。正に横浜市における円海山の様な場所は日蓮聖人が現代におられたら大切にされる場所でしょうね。実際、磯子区妙法寺と金沢区上行寺は日蓮聖人の聖跡ですが、その上行寺の船中問答の船着き場や六浦湾や上行寺東遺跡を破壊したのも埋立地と開発利権の商奴の如き輩でしたね。
高秀市長の時は大塚歳勝土遺跡と茅ヶ崎城址を保護し素晴らしい都市計画をされ、小机城址も保護されましたよね?御蔭で小机城址は❝続日本100名城❞にも選定されましたが、いつに成れば県指定史跡にするのでしょう?
・・・ましてや円海山の自然をこれ以上破壊するとは、自然保護区として遊歩道を整備して来た歴代市長や知事の意思に反し、横浜市の宗教者達も黙ってはいないでしょうね。
林文子市長、アナタはダイエーの再建に失敗し、待機児童0達成直後だけ良い顔してその後の悪化に関しては大々的に報じない丸で宣伝の様な利用の仕方、素晴らしい政策も良し悪し両方同じ様にアピールしないと誠実とは言えませんよ?給食に代わる弁当予約システムも、学生一人当たり単価がとんでも無い金額に成っているのに、何でWikipediaにはアナタに不利な情報が掲載されるとたちどころに削除されるのでしょうね?そしてアナタの最大支援者はヤクザの山口組を賛美されておりますが、それでカジノを作りたいですか?
市長に成ってからは円海山開発容認発言、間宮林蔵と杉田玄白と間宮士信の祖先で徳川家外戚の間宮家の笹下城址の地形破壊を容認し、笹下城址外郭の松本城址樹齢100年に迫る桜並木を伐採容認し、そして瀬上沢と横浜市最後の蛍の群生地破壊反対票と十万人単位の反対署名無視・・・
まぁカジノは日本人が利用出来ない様にして下されば良いでしょう、しかし円海山と瀬上沢と小机城は一切手出ししないように。そして早く横浜市指定自然保護区域の拡大保護、史跡指定を行う事を切に願います。

まぁ、庶民に合法的に出来る事は語り伝えあなた方の事績の記録を残す事と檀家氏子で共有し、陳情とマスコミと連携して全ての事実をブチ撒けるだけ・・・。

日本屈指の史跡、上行寺東遺跡を破壊させた横浜市役所、同じ事をするなら許さない。

推進派の役人1人々々が個人単位で対 横浜市民数十万単位の御近所様と戦う覚悟でいろ。末代までな。
おまエラが建設利権を貪るよりも、高秀市長の様に歴史知識も文化自然にも見識有る政治家主導の開発地取捨選択と発覚した貴重な場所の保護を両立させた都市計画が大切なんだわ。
今の緑地は既に過去から❝保護すべき場所❞として残された場所なんだわ。
瀬上沢は横浜市の聖地円海山、室町時代まで栄区~神奈川区~磯子区~港南区に跨って使われた幻の地名❝峯❞の由来であり、神道のみならず修験道や真言宗や臨済宗や曹洞宗や浄土宗や浄土真宗や日蓮宗にとっても鎌倉文化にとっても大切な場所なんだわ。
他府県から❝就職❞の為に市役所に入り勤めて、何も考えず何も知らず何も調べず何も横浜市民として郷土愛も持たずに横浜市の古来の日本文化史跡と自然を破壊する一部役人と開発利権無文化土建屋を、保守派と日本の為に世界と戦い横浜復興に力を尽くされた原財閥や浅野財閥の皆さんと同じく生粋のハマっ子日本人は許さない。
横浜市役所に勤めながら横浜に愛着を持てず、横浜の最大最後の自然と文化破壊を何とも思わない奴は日本人を止めろ。いつまでも横浜を地元と思えないなら❝おまエラの地元❞に帰れ!

先月04月21日に一人で訪問した青梅市塩船観音の躑躅がとても綺麗だったので・・・
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「こんな所に行って来たヨ~」
・・・と実家のテーブルにパンフレットを置いておいた所、母と母の友人に・・・
「私達も行きたい、連れてって!」
・・・と言われた。
なので、たまには親と一緒に行動するのも良いかと思い立ち、塩船観音だけでなく旧庄屋の福島家住宅や清酒千代鶴の中村酒造見学などを含めて計画を練って、早朝6時半に自宅を出発して奥多摩観光に行って来た。
無論、小生の組む予定に相手の年齢や性別や体力等は僅(わず)かな考慮しか無く(笑)、容赦なくギッチギチにスケジュールを組んで置いた。
当初の予定では塩船観音と3個所+母達のニーズに現地で応える臨機応変候補地だけの訪問だったので、GoogleMapに行きたい場所リストを登録して置いた上で更に現地の観光案内看板で臨機応変に行動した所、訪問先は9箇所に増えた。
先に訪問先を列挙すると以下の通り・・・
・AM:06:30円海山の麓の自宅を出発
・AM:07:00能見台の母の友人宅へ迎えに行く
・圏央道厚木PAで朝食
・青梅市 塩船観音寺
・澤乃井櫛かんざし美術館
・福島家住宅(古民家)
・澤乃井酒造と多摩川の渓流と寒山寺
・海禅寺(天皇家勅願寺)
・奥多摩かまめし←小生は昼寝タイム
・へそ饅頭総本舗とへそ観音
・武蔵阿蘇神社
・千代鶴 中村酒造
・PM19:30位に能見台に到着
さて、当日の行動と訪問先を写真で紹介すると・・・
この日の前日と言うか当日の午前のまだ夜明け前、小生は深夜に仕事から帰宅。
そしてAM:05:00に成っても結局目が冴えて寝れず。
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レッドブルを2本飲んで脳味噌を強制起動、結果的には小生だけ昼食を取らず車で仮眠したので睡魔にも襲われず良い旅行と成った。
最初に休憩したのは厚木PA、残念ながらここでは今回は写真は撮影しなかったがウチのBBA共が未だ奥多摩の観光地にも着いてないのに神奈川県内のしょっぱなの休憩所で阿呆(アホウ)の様に御土産(みやげ)を買い漁ろうとしたので「説教するハメ」に成った・・・
「これから沢山、神奈川県では買えない物を売っている場所に行くのにいきなり神奈川県内の土産を買って、先の事を考えて計画的に買い物する場所連れてくから今飲食する物だけ買ってね!」
・・・と。BBA共は無計画、特にウチの実家では母は最近は冷蔵庫の在庫管理も出来ない人なので小生が消費期限の切れた食品は容赦なくポリ袋に入れて捨てないといけない。その度に母には「毎日食品買物したいのならば在庫を手帳にメモって仕事に行きなさい」と説教をしないといけない。
それと同じ行動パターンだな。
オバさんも軽く凹ませたが小生は「この先もっと良い物を売っている場所に行き小生の説教に納得する」と確信していたので意にも介さず、取り合えず二人に朝食を買い与えてお腹を満たさせ機嫌を回復させて再出発。
最初に二人を連れてったのは青梅市勝沼城址近くの塩船観音寺だ。
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小生が前回訪問したのは04月21日、そしてその時が見頃だったので二人には予(あらかじ)め警告しておいた「ゴールデンウイークの頃にはもしかしたら見頃が過ぎてるかも知れないよ~」と。
その懸念は現実の物と成ってしまい、母とオバさんとの訪問前日の05月03日の台風の様な天候で咲いていた躑躅は大半の花弁が散ってしまったそうだ(笑)。
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いくらか咲いていたが略(ほぼ)全滅。
でも塩船観音寺はとても雰囲気の良い山寺。
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そもそも日本初代の大僧正と成り東大寺大仏建立の立役者である行基大僧正が開いた御寺と伝わる。
行基大僧正が開いたと言うのは有る意味本当だろう。❝有る意味❞ね。
当時、行基大僧正は日本神話の聖地保護や寺院建立の為に❝行基集団❞的な現在で言う所のNPO法人の財団の様な巨大な組織を擁(よう)していた。なので行基集団のボスの行基大僧正は保護すべき聖地霊場の報告を取捨選択した上で保護する目的で修験道的な仏教寺院を大分多く造営している。
神奈川県だと修験道や神道や仏教の聖地だった八菅七所権現(現:八菅神社)や石山権現大山寺と阿夫利神社等が神奈川県では最たるものだろうか?
鎌倉市長谷地区近くの坂ノ下地区にも虚空蔵菩薩堂を造営したりしている。
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大悲山 観音寺(塩船観音寺)


そんな行基大僧正の関わられた塩船観音寺を人魚姫の不老不死伝説の有る八百比丘尼様が再興したそうだ。この御寺の雰囲気は、本当に往古の山寺の雰囲気と、観光地化されたエリアの棲み分けと保護がバランスよく素晴らしい。
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だから躑躅の花は散っても雰囲気を楽しめる。
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いぬケツ(笑)、可愛い(笑)。
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しかし母達は躑躅が咲いていない様子を見るや真っ先に売店に走り、又、衝動買いを始めた。
・・・流石に、ここの物はここでしか買えないので、ここから先は止めないで置こうと思い放置した。
まぁ、買い物が楽しかった様で機嫌を悪くする事もイジケル事も無く、二人共それなりに満足した様で駐車場に戻っても機嫌は良かった。二人して巨大な筍(たけのこ)とか刺身蒟蒻とか買っていた。
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小生も梅漬けの沢庵と自分様に刺身蒟蒻を購入、これ、どちらもスンゴイ!美味しかった。
青梅市観光の際はおススメ!
さて次の目的地は吉川英治記念館だ。
目的地に向かい青梅街道に車を進ませると、青梅市が力を入れている❝昭和の街並み❞と❝映画のロケ地&映画の街❞のコンセプトの実現されている素敵な商店街を通り抜けた。
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母の友人は大興奮、まぁ又、来年に二人を塩船観音の躑躅を見に連れて来てあげたいと思うので、その時にはユックリとこの街を散歩しても楽しいかも知れない。
今回はスルーし、車を先に進ませた。
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吉川英治記念館に到着。
吉川英治記念館
小生は横浜の戦国時代の殿様の間宮康俊公の顕彰活動で横浜市鶴見区の間宮家菩提寺の寶泉寺の初代住職が青梅市二俣尾の福禅寺(現:海禅寺)から御招きした歴史を知って昨年に海禅寺の御住職様に会いに来た際に、ここの存在を知って来てみたいと思っていた。
吉川英治先生事は小生達昭和生まれ世代の男子ならば、漫画の横山光輝サンの著作の三国志の原作者として知らない人間はいないだろう。小生は政治外交軍事を民間交流に持ち込み反日感情を利用する中国の現政権が嫌いで良く批判を展開するが、基本的に三国志の英雄達や南宋の岳飛将軍や明の鄭成功将軍が好きで中国料理屋中国文化はリスペクトしている。端的に言えば日本の共産主義はクソだと思っている。
その日本共産党なんかを日本経済破壊的政策の指示を煽る煽動に利用する今の中国政府も嫌いなだけ。
元寇を撃退出来たのも蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚等、南宋からの亡命者達が情報を齎していたから鎌倉武士達の作戦と精神修練が成功したのを鎌倉市に良く足を運ぶ神奈川県民として当然ながら知っているから。鎌倉文化は南宋と仏教文化との繋がりと反元朝無しには、あの形に落ち着かなかっただろうから。今の悪い面と過去の良い文化はソレはソレコレはコレと分けて考えているし、中国人に対しても反日中国人と親日中国人と中立中国人で関わるスタンスをコチラも相応にやり方を変えている。
目には目をひん剥いてやる歴史事実を突きつけ、歯には歯を叩き居る鉄球を叩きつけオーバーキルしてやり、友情と恩義には友誼と恩返しで報いる訳だな。
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さて、この吉川英治記念館は実際に戦時中に吉川英治先生が東京から疎開する為に買い取った絹糸生産者の豪邸なので非常に見応えの有る日本家屋と庭園として保存公開されている。
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入口から既に御金持ちの象徴の❝長屋門❞だ。
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本当に立派な古民家なのが、この時点でお解り頂けるだろう。
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幕末~明治初期の昔、日本は世界有数の良質な生糸の輸出国だった。だから八王子の旧家には蔵屋敷も有る。吉川英治記念館も例に漏れず。
特に八王子~群馬県にかけての奥多摩や上州では生糸生産が特産に成っていた。
実はこれ、戦国時代に善政を布いて産業振興や荒川の治水や税率軽減や農地開拓や領民に優しい法制度の公平性等で実績を残した偉大な北条家の殿様達の遺産なのだ。
特に八王子を治めた北条氏照公と埼玉県北西部を治めた北条氏邦公は生糸の殖産振興を政策として実施して農民達は潤った。そして、それが近世~近代にまで経済基盤の屋台骨となり世界にまで進出する特産品と成った訳だな。
本当に小田原北条家の政治は素晴らしく、後の江戸幕府は北条家と比較して劣っている面が非常に多かったりする(笑)・・・のだが関西や濃尾三遠方面の人はソレを知らない。
余談だが、横浜三渓園を自宅としていた原財閥の原三渓サンが上州に開いたのが世界遺産と成った富岡製糸場で、アレは原財閥の持ち物だったのだがソレを群馬県の人は余り知らない。
横浜銀行も原財閥の持ち物だったんだな。
何故、原財閥が群馬に生糸の製糸工場を作ったかと言えば、それはシルクは全て横浜港から出荷されヨコハマシルクとして世界に有名なブランド化に成功していたからだ。
間宮家の居城、笹下城下の笹下川~蒔田吉良家の蒔田城下の大岡川~蒔田湾(現:横浜中華街~吉野町は海だった)の河川では戦国時代より染物が産業として有り、昭和初期までシルク等を染色する捺染工場が多く残っていたが、20年程前に全滅したそうだ。
こんな生糸の歴史を通じても青梅市と横浜市は北条家の殿様達の御恩と御縁で繋がっていたりする。
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母屋は昔は現在とは違って草葺きだった様だ。
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御庭は本当に手入れが行き届き美しい。
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母とオバちゃんは大喜びで・・・
「素敵な場所ねぇ~」
「連れて来てくれてありがとう~」
・・・と言ってくれていたのだが、小生も正直、ここまで見応えが在るとは思わなかった!
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玄関の土間までは入る事が出来るが建物の内部は拝観不可。
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でも各部屋の当時の生活の様子の写真と解説が展示されており、これはこれで良かった。
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本当に立派な建物なんだなぁ~。
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御庭は新緑で美しかった。後で知るが、この庭の大きな木の下で吉川英治さん達家族は良く一家団欒を楽しんでいた様だ。
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執筆活動をする書斎は洋風の増築だった。
ここが又素晴らしい。
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床のモダンなタイルと・・・
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母屋との渡り廊下の細かい格子戸。
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庭からの入口には立派な漆喰彫刻。
本当に素晴らしい!
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書斎の中はコンナ感じだった。
地図を見ながら執筆するスタイルだったんだろうか?小生達旅行や歴史ブログ書く人と同じスタイルだねぇ~♪
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母屋から展示館の方へ抜ける道。
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中国から輸入したと思われる石像。
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ここから多摩川の方を望む景色も良い。
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展示館は内部が撮影禁止なのだが、見学して初めて知った・・・
吉川英治先生って横浜市中区の出身、しかも超低学歴なのに独学で会社経営して一定の成果を上げた特異な経歴を持ち、しかも作家として一流の成功を収めていらっしゃると言う。
・・・凄まじい才能の塊、小生、吉川英治先生に肖りたい。一番現代に近い人物で尊敬する歴史偉人がここへの訪問で吉川英治先生に成った。
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一頻(ひとしき)り見終わり母達も大満足で一先ず、塩船観音の次は幸先(さいさき)良い再スタートを切る事が出来た。
そこから昼食を❝奥多摩かまめし❞に行こうかと思ったが、吉川英治記念館に来る途中で渡った鉄橋に有った❝澤乃井櫛かんざし美術館❞と言う看板に母とオバさんが「行きたい!」と食いついていたのと、吉川英治記念館到着直後に澤乃井櫛かんざし美術館が近い事も地図で確認していたので次の訪問地と定めた。
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澤乃井櫛かんざし美術館吉川英治記念館から本当に近い、渋滞したが車で10分かかっただろうか?
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残念ながら展示物の写真撮影は不可との事、先に結論を言うと「ここの櫛と簪(かんんざし)の展示物は美しさも展示数も櫛と簪に特化すれば東京国立博物館を凌ぐ素晴らしさ!」だった。
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ここの紹介の跡で紹介するが、実はここ入口で日本酒を打っているので店員さんに「何で日本酒売ってるんですか?」と質問した所、澤乃井酒造の経営者の開いたコレクション展示館だそうだ。しかも存じ上げなかったが、直ぐ近くの吊り橋を渡った先が澤乃井酒造の酒蔵だそうで、そちらも見学したり試飲したり出来ると聞いた。
恐らく、吉川英治記念館や天皇家勅願寺の海禅寺と合わせて躑躅や桜の時期に訪問すると、ゆっくりするなら半日は余裕で楽しく過ごせるだろう。
展示物の写真は撮影出来ないが、館内から見る青梅市沢井地区の多摩川の渓流は一端の景勝として成立しておりとても美しかった。
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川面(かわも)は碧(あお)く、透き通り、そして優しい。
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つり橋の傍に何か御堂の様な建物が見えたので店員サンに質問した所、そちらも澤乃井酒造さんの建立された御寺で❝寒山寺❞と言う寺名だそうだ。・・・寒山寺は昭和の歌手の渡辺はま子サンと平成の歌手の平原綾香サンが歌った蘇州夜曲にも登場する春秋戦国時代の呉王国の首都だった中国蘇州市の名古刹寺院と同じ名で、蘇州と御縁の有る小生は「奇遇だなぁ~」と思った。
下の階に降りると切り絵の様な物の製作展示販売を行っていた。
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この方、高井先生とおっしゃる東京都調布市で代々続く着物の柄の染色型紙の作家の先生だった。
色々と横にいた綺麗な秘書の様な方に御話をお伺いして居た所、実はその女性は娘さん、そして高井先生御本人から「弟子募集中」との事、小生が趣味で指輪作ったり小さい時から美術造形を勉強していたので趣味として好きな事を話したら「是非、習いに来ませんか?」とリクルートされた(笑)。
弟子と言っても後継者がいないので教室を開くそう。横浜でもやろうかと思っているそうなので、もし横浜で開くなら参加して見たい。
ジムで身体づくりを完遂したら日野市の天然理心流の道場にも通いたいので、日野市の隣の調布市ならついでに車で通えると思う。工作好きだしねぇ~♪
高井先生の作品については写真撮影しても良いとの御許可を得たので、その緻密で精密な江戸時代から受け継がれている幾何学模様の型紙を沢山写真撮影した。
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驚く事に、この神は新聞紙だそうだ!
それを柿渋に付けて乾燥させると極薄で凄い強度の紙に変化するそうだ。
良い事を聞いたが、横浜では柿渋は手に入らないだろう。やはり先生の弟子に成るか別の代用紙を探す必要が有る。
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これ、もし作る事が出来たら銀粘土で指輪に模様を転写したらとても美しいデザインに成ると思う。
こんど写真を紙にプリントしてトレッシングペーパーに写しとって見ようと思う。
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う~ん綺麗だ。
外国人が御土産として喜んで買っていきそう。羽田空港とかに取り扱って貰えないのかな?
さて、一頻り見学が終わり澤乃井酒造へ移動しようと思い地図を見たら、実は当初の訪問地として定めていた福島家住宅の古民家の目の前が澤乃井酒造の酒蔵だと気が付いた。
なので先に澤乃井酒造の駐車場を目指し、車を降りてから福島家住宅を見学した。
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福島家住宅
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ここは東京都青梅市の奥多摩、昔の多摩郡三田領二俣尾村の庄屋だった福島家の古宅だ。
小生はこの福島家と玉縄城主北条綱成公の生家は何某か関係が有ると感じているのだが、まだ福島家の御子孫と面会に至らず御話を聞けずにいる。ちゃんと家系図も有るそうなのだが、東京都ロケーションなんちゃらが間に入って来て一個人での面会を勝手に拒否るのでまだ会えない。
こんど海禅寺の御住職経由で御話を通して貰おうと思う。
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う~ん…酒林が吊るされており尚且つ澤乃井酒造さんの隣って事は、福島家は澤乃井酒造と関係が深いのだろうか?確認出来ないので何とも言えない。
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澤乃井園(澤乃井酒造)澤乃井酒造は本~当~ぉに!立派だった。
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この昔ながらの酒造の蔵や漆喰の蔵や茅葺の母屋等と道を挟んで反対には食事処や試飲出来るスペースや売店なんかが有り、それが一つのテーマパークの様に完成されていている。
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家族連れと恋人達で山奥なのに大変な賑わい!ゴールデンウイークだしね。
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ここで御猪口を買うと試飲出来る。
無論小生は運転手だし御酒は梅酒以外は好きでは無いので飲まないが、母は試飲したがり何種類か有料だが試飲を楽しんだ。
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食事も出来る。
又、こことは別棟でちゃんと和食レストランと軽食の売店も有る。
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櫛かんざし美術館から見た寒山寺の水墨画。
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やはり蘇州市とも御縁が有る様だ!奇遇だなぁ~。
両方とも風景の美しい場所として有名。
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この軽食をとれる❝ままごと屋❞の横が日本酒の売店に成っている。
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小生は梅酒を見つけたので購入しようと決めたが、母もオバさんも自分も小腹が空いてきたので酒饅頭を購入した。
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ここの直ぐ下の渓流にも降りる事が出来る。
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う~ん!良い眺め!
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家族とカップルが水遊びをする様子は微笑ましい♪
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吊り橋の先には青梅市の寒山寺が見える。
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ここの多摩川の水は本当に綺麗!
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もし彼女が出来たら是非、泊りがけで青梅市~羽村市~あきる野市観光に来て飲酒もしたいと思う。
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この橋の後ろに澤乃井櫛かんざし美術館は在る、歩いて10分位なので美術館に車を停めて来ても良いかも知れない。
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皆ゆっくりと良い時間を過ごしているね。
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小生も母もオバさんも大満足で、食事の為に車に戻った。
食事場所に決めていた❝奥多摩釜めし❞に行く途中に間宮家の殿様が戦国時代に御世話に成った天皇家勅願寺だった福禅寺(海禅寺)が在るので、二人にも付き合って貰い御参りに立ち寄った。
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瑞龍山 海禅寺(天皇家勅願寺:旧寺名:福禅寺)御住職には御挨拶はしなかったが御参りに上がった所、予想外にオバさんが大変喜んでくれたので良かった。躑躅も少し残っていたが、綺麗な花が咲いているのが嬉しかった様で嬉々として写真を撮っていた。
御本堂で御本尊の釈迦牟尼仏様と三田綱秀公と間宮家歴代の殿様達に御参りし、いつもの御礼とこの日1日の旅の無事と海禅寺と海禅寺関係者と二俣尾地域の皆さんの無事を祈願した。
母達には付き合って貰ったのだが喜んでくれて良かった。
車に乗り昼食目的地に移動・・・
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奥多摩釜めし❝奥多摩釜めし❞に到着。
実はここで小生は食事をしなかった。
徹夜が限界に来て睡魔を感じ始めた・・・
「これ以上無睡眠は危なぇ~なぁ~」
・・・と思い、海禅寺で三田と間宮の殿様と御釈迦様に旅の無事を祈願したばかりだし、母達には好きに食事して貰う事にして自分は車中で仮眠する事にした。
1時間位は寝れただろうか?御釈迦様と殿様達の御利益か、1時間寝てスッキリ!眠気も覚めた♪
母達も「それなりに美味しかったよ(笑)」とそこそこ田舎の釜飯屋サンとして美味しかったそうで笑顔で店を出て来た。
小生、ここで食事をしなかったのは、直ぐ近くに❝へそまんじゅう総本舗❞が存在しているのを前回の訪問で知っていたので、そこで小腹を満たせば良いし母達にも良いデザートに成ると考えての事だった。
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へそまんじゅう総本舗ここは隣に旅の安全を見守る観音様が鎮座するので、御土産物屋として饅頭屋が名物に成った様だ。
歴史的には100年続くとか凄い古い訳では無い。
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ちゃんと御参りしました。
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「観音様、無事へそ饅頭本舗まで辿り着かせて下さりありがとうございました、二人を家に送り届けるまで御加護御願い致します。そして観音様が多くの人にずっと大切にされます様に」
・・・とお祈りして、御饅頭を購入!
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ここは蒸(ふ)かしている暖かい物を出してくれる。
母達も喜んで食べていた。素朴だけれど美味しくて、奥多摩観光に来る人達で賑わっている店なんだな。
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三田綱秀公の紹介が店頭に有った。
この殿様は責任感が強くて誠実な人だったんだな。以前書いた唐垣山城の記事が有るので、ブログのタグで唐垣山城と検索してくれれば以前の記事を読めると思います。御興味の有る方はどうぞ。
再び出発・・・
最後の目的地はあきる野インターチェンジ手前の清酒千代鶴の中村酒造、その途中に先の熊本大地震で熊本県民を僅かな犠牲者で抑え神様が自らを犠牲にして熊本県民を守る様に社殿崩壊した阿蘇神社の関東唯一の分社、武蔵阿蘇神社が在るのでそこに寄る事にした。
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武蔵阿蘇神社ここは関東人にとっては、とっても由緒正しい聖地だ。
神社前の多摩川に在った淵は古代からの龍神信仰の舞台であり、何と平将門公が肥後国阿蘇大社から建磐龍神(たけいわたつのかみ)の御分霊を勧進された由緒ある神社だ。
そして羽根用水と言う❝と~っても古い!❞現役の灌漑用水史跡が現存する場所でもある。
平将門公は腐れ藤原貴族には自分達の既得権益を脅かした悪人だが、実は桓武天皇の末裔で親王赴任国の上総国下総国を治める権限も有していた。そして関東人にとっては善政を布いた名統治者でもあったので東京都のみならず埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、福島県でも今現在に至っても慕われ、東京の神田明神では経済の神様としても民衆の信奉厚い。
武蔵阿蘇神社は目の前の多摩川対岸がパワースポットで古代からの聖地だったのだが、平安時代の渡河地点に平将門公が神社を築いたのだろう。そして平将門公が戦死された後は、将門公を討ち取った将軍の藤原秀郷も阿蘇神社を大切にし将門公の意思を継いで関東の民を安んじた。だから羽村市の阿蘇神社には藤原秀郷手植えの古木も現存する。
ここを御参り出来て母の友人も母も、羽根用水と多摩川の風景の綺麗さも有り喜んでくれた。
阿蘇神社を出発し最後の目的地の中村酒造に到着・・・
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清酒千代鶴 中村酒造(千代鶴酒造り資料館)DSC_0668
ここは売店に酒造の道具の展示が有るし❝試飲も無料❞なので運転手以外には見学する価値が絶対に有る場所だ。小生は無論飲まないが、文化的な物が好きなので3年前に始めて立ち寄って御土産に清酒と梅酒を購入して以来、羽村市チューリップ祭りを見物に来る度に立ち寄る様に成った。
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展示物色々。
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色んな賞で金賞も受賞している酒蔵だ。
母と母の友人は色んな清酒を試飲して、数本づつ御土産に購入していた。
「ね?最初に余計な物を買わなくて良かったでしょ?」
・・・と言う所だね。
母と母の友人も結果的に今回の小旅行全体をとても喜んでくれたので良かった。

この後、神奈川県の藤沢市域に入ってからが凄まじい渋滞に巻き込まれ夕方17時位に出発したのだが、母の友人の住む横浜市金沢区能見台に到着した時は既に20時近くだった。

そう言えば能見台の地名が出たので今回の旅とは全く関係無いけれど別記事にもしますが少し映画の紹介を・・・
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
恋は雨上がりのように
公式ホームページURL→http://koiame-movie.com/#/boards/koiame
2018年05月25日(金)、もう直ぐ公開のこの映画では能見台を中心に周辺地域がロケ地として頻繁に登場します。能見台駅や桜木町駅を皮切りに・・・
恋は雨上がりのように 能見台駅 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 桜木町駅 久良岐のよし
富岡~能見台~氷取沢に抜ける住宅道路をヒロインの❝橘あきら❞を演じる小松菜奈さんが疾走しまくす・・・
恋は雨上がりのように 能見台 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
恋は雨上がりのように ヒロイン 久良岐のよし
全然関係無いけど、この小松菜奈サン、小生の学生時代の彼女にソックリ(笑)。
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
そしてもう直ぐ蛍の見れる季節に成る磯子区~栄区~港南区にまたがる円海山もロケ地に成っていますね。
蛍のいる瀬上沢から、このロケ地は徒歩8分くらいと直ぐ近く、更にはこのヒロインが走ってる道の左手の山の上は横浜市で最高所なので絶景の夜景スポットとして栄区上郷町と港南区港南台の地元民には知られています。
ついでなので以前、蛍を見られる❝瀬上沢❞と瀬上沢の綺麗風景や蛍の様子を紹介した記事のリンクと蛍の見られる場所も紹介して置きます。
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円海山の展望台とベンチ~横浜の大森林を守ろう
(洋光台地域ホームページから)

東急が開発破壊しようとしており林文子市長がそれを容認する様な発言をして横浜市民から大ヒンシュクなのも紹介しています。
こんな映画のロケ地に成ったり、横浜市最後の蛍大生息地が見られたり、横浜市一の夜景が見られる場所を横浜市役所に破壊されない様に、彼女さんや彼氏さんや奥さんや御子さんと❝恋は雨上がりのように❞の映画を見て聖地巡礼に円海山に来て、ついでに蛍と夜景を見て、その素晴らしさを感じて見ませんか?
横浜市にも奥多摩の様な最後の大自然が残っています、ここを破壊しようとする政治家と土建屋に止める様に、林文子市長には❝歴代市長が守て来た❞貴重な自然を子供達に開発の魔の手から守って下さる様に陳情して頂ければ幸いです。

●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 
〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
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恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
恋は雨上がりのように
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主題歌「フロントメモリー」MPV→YouTube公開動画


2018年05月25日(金)、もう直ぐ公開のこの映画では能見台を中心に周辺地域がロケ地として頻繁に登場します。能見台駅や桜木町駅を皮切りに・・・
恋は雨上がりのように 能見台駅 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 桜木町駅 久良岐のよし
富岡~能見台~氷取沢に抜ける住宅道路をヒロインの❝橘あきら❞を演じる小松菜奈さんが疾走しまくす・・・
恋は雨上がりのように 能見台 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
恋は雨上がりのように ヒロイン 久良岐のよし
全然関係無いけど、この小松菜奈サン、小生の学生時代の彼女にソックリ(笑)。
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
そしてもう直ぐ蛍の見れる季節に成る磯子区~栄区~港南区にまたがる円海山もロケ地に成っていますね。
蛍のいる瀬上沢から、このロケ地は徒歩8分くらいと直ぐ近く、更にはこのヒロインが走ってる道の左手の山の上は横浜市で最高所なので絶景の夜景スポットとして栄区上郷町と港南区港南台の地元民には知られています。
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富士山の赤富士とダイヤモンド富士の景勝を見られるポイントとしても夕日の撮影が趣味の人達には広く知られています。
恐らく知らないのは❝築地育ち❞の林文子市長くらい。
ついでなので以前、蛍を見られる❝瀬上沢❞と瀬上沢の綺麗風景や蛍の様子を紹介した記事のリンクと蛍の見られる場所も紹介して置きます。
円海山蛍の生息地 久良岐のよし
Google map→リンク
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円海山の展望台とベンチ~横浜の大森林を守ろう
(洋光台地域ホームページから)

東急が開発破壊しようとしており林文子市長がそれを容認する様な発言をして横浜市民から大ヒンシュクなのも紹介しています。
こんな映画のロケ地に成ったり、横浜市最後の蛍大生息地が見られたり、横浜市一の夜景が見られる場所を横浜市役所に破壊されない様に、彼女さんや彼氏さんや奥さんや御子さんと❝恋は雨上がりのように❞の映画を見て聖地巡礼に円海山に来て、ついでに蛍と夜景を見て、その素晴らしさを感じて見ませんか?
横浜市にも奥多摩の様な最後の大自然が残っています、ここを破壊しようとする政治家と土建屋に止める様に、林文子市長には❝歴代市長が守って来た❞貴重な自然を子供達の為、日本文化と自然保護の為に開発の魔の手から守って下さる様に陳情して頂ければ幸いです。

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これ⤴にコメントして下さった方がいたので、その方の疑問にそもそもブログに書こうとしていた内容で説明を夜の26時位から返信してたら朝に成りました(笑)。
結局、奥多摩観光の記事も、親友のITが京都から出張して来て鎌倉の❝秘密の場所❞を散策観光した事とか記事にかけませんでした(笑)。

でも今晩、必ず❝奥多摩観光❞か、❝鎌倉の秘密の場所観光❞か、❝多米家の解説❞の記事を書くので待っていてね!

ちな今日の予定・・・
●今・・・AM:05:30から4時間寝る。
●朝・・・AM:10:00に起きてジム行く。
●昼・・・PM:14:00女子大学院生達とウハウハ御料理教室(笑)。
●夕・・・PM:16:00東急ハンズとホームセンターで革紐とリューター買う。
●夜・・・PM:18:00又々ジムに行く。
●晩・・・PM:21:00ブログ書き始めて~明日のAM:01:00頃に投稿したいけど→寝落ちしたらゴメンちゃい(笑)。

んじゃ皆、又夜ねぇ~

去年1月~今日の体型変化の証明
1年間の歴代ジーパン君の視覚的比較
DSC_0681~2
40inch→37inch→35inch→32inch

本当は今のウェストサイズ30inchだけど太股筋肉のせいで30inchは太股パツパツで歩けません。
やむを得ず32inch。
比較対照がジーパンはEDWINなのに今の1枚がエディー・バウアーなのは、今EDWIN洗濯中だから。

今晩ちゃんとブログ記事書くつもり~

Shape up&Pump upの経過報告です~!
ブログ閲覧者様用「久良岐のよし公開処刑ダイエット進捗」監視用画像
※画像クリックすると拡大してデータを見れます。
昨年2017年1月末から始めた減量も1年と3ヵ月ちょっと2018年05月05日時点で合計22kgの脂肪減量と、66.7kgの筋力量と骨格筋肉量40.1kgの維持に成功しています。
ジムトレーナーの示す小生の理想体型まで残すは脂肪量1.8kgの減量としながら筋力維持を成功させる事と成りました。
今月以内に❝アスリート体型に戻る為に指示を受けた目標❞は達成出来るでしょう。

小生の体形の変遷ですが・・・
普通→ぽっちゃり→普通→ぽっちゃり→ガッチリ→クソデブ→シュッとしたスタイル→クソデブ→現在
・・・てな変化を続けています。この体型の変化は学生時代の成長期に食べまくっただけでなく、社会人に成ってからは誤ったダイエットの手段のせいで起きたリバウンドが関係しています。
そして失敗の経験から色々と減量方法と食事を勉強しなおし、3年前からの基礎造り~昨年の減量本格化~今年のペースアップと繋がっています。

現在の22kg痩せながら筋量は落とさない正しい減量で、ここまで小生がどんな事をやっていたかを踏まえて改めて紹介します。
【理想の体重減量の目安】
小生は2018年度より毎週1kg程度のハイペースな減量を目標にしていますが、これは普段から運動を習慣にしていない人には御薦めしません。このペースは食事制限だけでは筋肉が落ちてしまい不適切な減量手段な上にマラソン等の有酸素運動だけでは筋力維持が困難に成り陸上長距離ランナー選手の様なガリヒョロのみっともない体型に成ってしまうからです。だから食事制限だけで急激に痩せると男性として女性を抱きかかえたり普通にする程度の筋力も無くなるでしょうし、女性は基礎代謝が落ちて冷え性が酷く成ったりホルモンバランスが崩れるでしょう。
食事制限(バランスよく食べながら炭水化物とcal過剰摂取分を減らす)
普通に食事制限だけなら、ちゃんと炭水化物も食べながら余計な食事量と御菓子や酒を断って少しづつ1ヵ月で1kg程度の減量を維持してデブなら1年で12kg程度痩せる事が目安だと思います。
・肥満の人(普通の体型の人は基準にしてはいけません)
減量スタート時の小生の様な肥満体系の人の場合のみ筋トレと有酸素運動を並行して行える環境ならば筋力を維持しつつ1ヵ月間で4kg程度の体脂肪だけを消滅させる減量は無理には成らないと思います。
・標準体型の人(肥満の人やガリの人は基準にしてはいけません)
アナタが痩せにくいのは脂肪が多いからでは無く、基礎代謝量が低いからです。筋トレ持続して行い筋肉量を増やし放って置いても❝痩せる体組成❞に先(ま)ず成って下さい。女性の場合は筋肉量を増やしながら脂肪を減らせば必ず冷え性も解消されます。
・ガリヒョロの人(努力しても太り難い人)
先ず遺伝子的に太り難い人は❝頑張って食べて筋トレをする❞事を常習化して下さい。この人達は食べても本当に太り難いので食べる量を増やさなければ成らずデブが痩せるのに食事制限をするのと同じ様に少し苦行の様に頑張って食事増量しながら筋トレで筋肉に変換し基礎代謝を増やし肉体改造をする事が大切だと思います。
ガリヒョロ達の中には「太り難いんですぅ~」と言いながら本当は❝食べる量の少ない偽物ガリヒョロ❞もいますよね?コイツ等はガリガリ読者モデルやヒョロヒョロ美男タレントが美人美男とか勘違いしてるバカです。先ず意識改革からして下さい。彼・彼女達は生物の人間として不健康な体型です。男性としての健康な筋力も無く過剰な脂肪敬遠で女性としての健全な体型とホルモンバランスは崩れています。一見して運動神経が良い様に見えますが、ちょっと本気で専門的に部活動をやっている人間には運動能力では遠く及ばず何をやっても中途半端な程度の運動能力しか有りません。ましてやプロや社会人セミプロの中に彼等をつっこむと惨めな程に歯が立ちません。中途半端な体型に成るより細くてもマッチョな体型に成った方が基礎代謝が上がり有酸素運動で持久力が上がる経過で血管と心肺能力の若返りも出来る事も近年医学的に証明されている事を小生は今回のダイエットに差し当たって聞かされました。当然ながらガリガリの人も筋肉が増えれば冷え性も解消されます。

【炭水化物制限】
・食事から炭水化物は減らす。
・ただし1食は米1膳かパン1枚程度は炭水化物も食べる。※小生は食べないけどね。
※エネルギーが無くなり過ぎると筋力を鍛えても身体が筋肉を分解してエネルギーを消費してしまい筋力維持や増強が困難に成る為、朝食か昼食に1回は少量の炭水化物も摂取する。日本人だしね。
【筋力トレと蛋白質摂取は必ず合わせて行う】
※筋トレだけしても筋肉量を増加する為に必要な蛋白質に変換される❝肉❞や❝豆❞を食べていなければ逆に筋肉は減ります。ですから必ず蛋白質を必要な最低限の分量摂取する事が必要です。
・早く筋肉を増やしたり小生の様に食事制限中にプロテインを飲みながら維持をするのも良いです。
・出来れば赤身の牛肉や赤身の魚肉を食べながら貧血対策として魚の血合部分、豚レバーや鳥レバー等も食べると効率が良いかも知れません。小生は毎日レバー炒めやレバー焼き鳥も食べ続けています。
必ずカルシウムも食事で取り込む!筋肉は蛋白質とカルシウムから生成されるのでカルシウムを摂取しないと骨が溶かされ骨粗鬆症に成る可能性が有ります。

【飲み物はノンカロリーだけ】
当然ながら酒の嫌いな小生はデブの素の酒類はたまにしか飲みません、でも梅酒は好きなので観光に行った先々で土地の酒蔵を訪問して梅酒を購入してたまに飲みます。それも飲んでも御猪口1杯位を少しづつ1~2ヵ月位かけて飲みます。
普段は水だけ飲んでれば良いのですが、小生がそうであるのと同じく❝味の無い飲料が嫌い❞な人も多いと思います。
KIRIN午後の紅茶おいしい無糖
KIRIN:午後の紅茶おいしい無糖

カラダCALPIS
アサヒ:カラダCALPIS

ポッカレモンを水に入れてレモン水を作って良く飲んでいます。レモン水はイタ飯も好きな小生、あのイタ飯屋に行くと必ず出て来るレモン水が好きなのと、普段から日本料理も中華料理も❝酢❞や❝黒酢❞を多めに入れた物が好きだったりします。
これ、最近知ったのですが酢を多く摂取すると肥満の人は痩せやすく成ると言う説が有るみたいですね?そして夜は日本の緑茶、主に横浜南部市場で買える掛川茶や、地元神奈川の足柄茶や九州の八女茶と矢部茶も好きで飲みます、それと中華街でも買える中国茶の安溪鉄観音と碧螺春と台湾の高山鉄観音と金萱茶が好きで愛飲しています。
普洱(プーアル)茶は減肥作用が有名ですが、アレは本当に高価な物しか美味しくないので良い物を中国旅行で茶葉市場に行って自分で買わないと飲みません。横浜中華街の中国茶店じゃ試飲させてくれないからね、普洱茶は不味い物は本当に不味い!
さて小生は昔から仕事の関係で中国人の知り合いがいるのですが、十数年前迄の中国は今みたいに肥満が多くなく女性はスタイルの良い人が多かった様に記憶しています。今にして思うと当時の中国人は米を食事の〆に食べるのが習慣だったので野菜と肉で満腹に成り余り炭水化物を食べない人が多かったかも知れません。そして普段からジュースは余り飲まずに御茶を飲む人が多かったので当然ながら脂分の多い中華料理を食べていても油分の排出にも効果的で、現在の知識で言う所の❝ケトン体質❞の人が自然に多かったのかも知れませんね。

プロテインと蛋白質の過剰摂取に注意
小生、調子に乗ってプロテインを飲み過ぎた時期にレッドブル飲み過ぎてた時期と同じく腸が腫れて排便が困難に成りました。しかもプロテインを長期間過剰摂取すると腎臓を傷める可能性が高いそうです。蛋白質の過剰摂取も同じく腎臓に負担が大きいそうです。せっかく鍛えても腎不全に成っては意味が無いので気を付けて下さい。小生の経験上、放屁回数が多く成ったら要注意!

【野菜は大量に食べよう】
※野菜は大量に食べても絶対に太りません!但(ただ)し弊害として放屁すると臭く成ります(笑)。
・出来る限り調理工程の少ない野菜の摂取をする。サラダや御浸(ひた)しが良いでしょう。余分な油や塩分の摂取を防ぐ目的も有ります。小生は生の野菜を洗っただけでガジガジ齧っていますが、画像データの通り見る見る内に内臓脂肪量が改善し今では標準をブチ破(やぶ)って反対に体重84.5kg有っても超健康レベルに成っています。内臓脂肪LVの基準LV8、現在小生は内臓脂肪LV6に改善しました。運動中の心拍数も改善し、有酸素運動と合わせた効果で恐らく血管年齢も改善していると推測出来ます。

【運動せずに痩せようとか思うなよ】
簡単に痩せた方法は小生が最初のダイエットでリバンドした失敗と同じ事に成るか、新陳代謝が下がりホルモンバランスも崩れ結局は不健康にしか成りません。
時間が無くても5kmのランニングやウォーキングでも精々30~50分前後の時間しかかかりませんよ。小生達の様にジムに行く手間も御金も嫌な人は空気の綺麗な場所を選んで早歩き散歩やランニングを1時間位、楽しんでみて下さい。筋トレもしないと基礎代謝も下がり結局は不健康に成ります。

さて、小生は❝ダイエット❞と言う言葉が大っ嫌いです。
何故(なぜ)かと言うと過去の自分が減量体験と女性の間違った減量方法の❝絶食ダイエット❞や❝食材限定ダイエット❞が正しい体重減量手段であると言う誤認を惹起(じゃっき)させると懸念しているからです。
絶食や食べる物を限定する事は完全な誤りです。
だからより体型に言及する❝Shape up(脂肪減量)❞と❝Pump up(筋力増量)❞と言う直接的な二つの単語で具体的に表現します。
例えば歌手タレントの❝デブ❞森公美子サンが一時期❝バナナダイエット❞なる自己成功体験を出版物にして流布し世間の女性達を煽動した事が有りますが、あの減量方法は完全な誤りです。
果糖の塊のバナナを食べて森公美子サンの体重が減ったのは彼女がデフォルトで❝デブ❞だったからです。彼女は普段から脂肪と炭水化物の多い食事をしている事はダイエット経験者なら容易に推測出来ますよね?
・・・しかもあの体型を維持するには普通の人と比較して、かなり多いcal(カロリー)摂取を毎食している上に間食も行い、更には彼女自身の遺伝子も太り易いはず・・・
そんな人が当然ながらバナナ食べてれば、普段からもっと高カロリーな食事をしているのだから体重も減るでしょうし❝全く蛋白質を補給していないなのだから脂肪より質量の重い筋肉量が減衰してしまい簡単に体重は落ちる❞でしょうね。そして基礎代謝量が下がりまくり新陳代謝も減衰、その代償として普通の食事に戻した途端にリバウンドしまくりぃ~の太り易く成りまくる訳です。

小生が彼女の減量を酷評するのは小生も同じ失敗をした事が有るし、彼女は自分の誤った減量手段を流布した事に対して世間に何も責任有る発言をしていないからです。

さて、小生の減量体験に話を戻します。
小生は幼稚園入園前から中学まで水泳と美術絵画と造形を習い、小学生時代は並行して水泳と習字と学習塾、中学からは水泳とサッカーは辞めて格闘競技を始めました。
学生時代の身体能力全盛期には体重75㎏で垂直飛び80cm飛んでいました。これはかなりの身体能力だと自画自賛しても恥ずかしくないと思います。
ちなみにサッカーは下手くそ、習字は人並み、「数学死ね」とか思ってる学生で学力は教科により偏りが有り、水泳は並の生徒より達者で一流選手からは程遠いと言ったレベル、格闘技に関しては並の道場生より少し強い程度で選手程では無い趣味に毛が生えた程度でした。

問題は社会人に成ってからです。
格闘技を止めてからみるみると太り、最大時は115kgオーバーで計測するのが怖くて図っていませんでした。
最初の減量は115kg当時から始めました。その時は❝朝食抜き❞❝昼食だけ食べる❞❝夜食は味噌汁のみ❞と言う間違った食事制限と仕事で、あっと言う間い半年で46kgの減量に成功し体重69kg、体脂肪率9%にまで絞りました・・・
が、これは誤った減量手段でした。
・・・今だから解りますが脂肪だけでは無くて蛋白質不足で筋肉まで肉体から消失させていたんですね。
そりゃ軽く成ります。ジムによっては筋肉と脂肪の同じ重さでどれ位の体積が有るか標本を置いて有る場所も少なくないと思います。ライザップやコナミやルネサンス等の大手ではパーソナルトレーナーと最初にオリエンテーションをすると脂肪と筋肉の重さの話をされる事も多いと思います。

さて、69kgに痩せた当時の小生、御客や会社の女性同僚(何故か主に適齢期の既婚女性)や近所の酒屋の店番してる社長の娘さんに「坂口憲二サンに似てる!」と言われたり「格好良い!」と言われたり逆告白されたりして浮かれていました・・・
しかぁ~し!
そこからが再びデブ街道まっしぐらと成りました。
・・・それと一つの教訓も得ました。自分自身の中身と人格は変わっていないのに「体型によって何と女性の見る目の違う事か」「体型しか見ない奴って❝バカ❞だな」「自分が女性を選ぶ時は❝趣味❞と❝価値観❞」を重視しようと。
69kgまで痩せた小生は筋肉量も今の知識で計算すると現在より6kg以上少なくなっていた筈です。
恐らく全盛期の75kg当時の筋肉量は、現在の84kgの体重で66kgの筋肉量と同程度は有ったはずです。75kg当時は今より更に脂肪が無い上に見た目から筋肉はボディービルダーの様に不自然な量では無くバキバキに腹筋も割れていましたからね。
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当時は丁度、この仁王門の金剛力様の体型でした。
さて69kgの小生は食事制限を止めてから数年間で瞬く間に115kgを超えました。多分120kg位有ったんじゃないかと思います。
今現在の小生は金剛陸士様や格闘技プロレスのUインターやパンクラス全盛期の高田延彦サンや船木誠勝サン体型に戻るのを目標に一昨年1年間筋肉を維持しながら脂肪だけ減らすのに大変苦労し、しかしながら昨年時点で既に骨格筋肉量も40kg前後に戻り、それを維持できる様に成っていました。
昨年からのジム通いで持久力も戻り今年に成り❝速攻減量の運動に耐える体力の素地❞が出来た所に丁度2月に酒乱から「オッパイ垂れてんじゃん(笑)」とコケにされました。酒嫌いで飲まずシラフの小生は足代わりに車で呼び出された居酒屋で酒乱に体型と趣味を罵倒され、酒に飲まれ酩酊しているもう一人も面白がって止めず、その屈辱を「は?コイツ等何様だ?痩せるペース上げてバキバキに成って体型に差つけて❝コイツ等の不健康コケにしたろ❞」と思ったのが体重96kg前後の時。

そこから先月04月10日まで2ヶ月間で11kg減量し、そこからは体重を変化させず体脂肪率を更に減らし筋力増強を図(はか)り体脂肪もアスリート体型迄残す所❝1.8㎏の脂肪をブッ殺す❞所まで来た次第です。
そして今では努力を色んな人が誉めてくれます。
残りの邪魔な脂肪1.8kgを今月中に筋肉量を維持した上で体内から消し去り、その上で更にshape-up&Pump upを趣味の一つとして継続してユックリと本年中に達成するつもりです。

最近数年間は「独身でいよう」と決め食べたい物を食べ寝ずに行動し命を削りあっちこっち駆けずり回り恋愛せずにいたので結婚する予定も無く相手と成る伴侶にも巡り会わずに生きてました。
しかし心境の変化も有り、もし将来に奥さんや子供がいる人生を送っても良いかも知れないて。その時は来るかは解りませんが友人や彼女奥さん子供に実力や性格的に頼られる上で外見的にも頼りたく成られる男前に成りたいと思います。
その目標と成るが小生の場合は素戔嗚尊や豊国主命や日本武尊や莵道稚郎子命や有鹿比古命や寒川比古命や天満大自在天神菅原道真公や建勲神織田信長公や東照大権現徳川家康公等の神格化された神様達や、金剛力士様や不動明王様の様な仏教の仏様や、平良文公や源義家公や鎌倉景正公や三浦義継公や源頼朝公や太田道灌公や吉良成高公や伊勢盛時公や北条氏綱公や北条氏康公や北条綱成公や多目元忠公や笠原信為公や間宮康俊公なんだな。
これを踏まえて小生は目標や闇雲な減量や数値目標だけでも無理だと思います。
切っ掛けと成る出来事や不順でも良いから動機、あとは体格や人生の目標とする身近な人物や神仏や歴史偉人の存在も大切だと思います。

脂肪減量を目指す励みには以下の精神的な事も効果的だと思います。
【体型を馬鹿にされた屈辱を日々思い出す】
臥薪嘗胆と言う故事成語、中国江蘇省蘇州市は古代の呉王国の首都だった姑蘇城ですが、その呉国王の夫差が越王勾践に敗戦した後に屈辱感の苦々しさを忘れない為に寝所の布団の下を薪(まき)で作り料理も苦い臓物を食べる事で失敗を忘れず日々の富国強兵政策実現を目指し努力しました事に由来する言葉です。小生が一般人よりよっぽど運動神経と豊富な筋肉量を誇りながら「オッパイ垂れてる」と馬鹿にされた事を毎回❝故意に思い出し❞てからトレーニングするのは非常に効果が有ります。弊害としては、日々その人へのけ嫌度が募っていき日を重ねる程に憎悪が増します(笑)。

【自分の健康で理想と思う体型の人を見つけてトレーニング手段を聞く】
具体的な体型の目標と成る人を身近な場所で探す。
ジムで理想の体型の人を見つけて
面識が無くても直接トレーニング手段を聞くと、色々と親切に教えてくれる人ばかりです。ジム以外の会社やサークル活動で美人や美男に聞いても本能的にライバルを減らしたい人や自己顕示欲で「何にもしてない」「でもこのスタイルなの」と嘘を吐く人間が多いでしょう。又、一見してスタイルの良い人も本当に下っ腹に脂肪が有ったり内臓脂肪率が高い人も多いかも知れませんね。

【成功した後の良い対価と、継続を怠った際に無駄になる努力した時間と御金を常に比較する】
ある程度まで筋肉が増えると放って置いても普通の食事量では太り難く成ります。最近、小生は夜にMacDonaldでハンバーガー夜マックパティー増しのピクルス増しを食べる事が多いですが体重は自分の想定を超えて増える事は無くなりました。それに対して観光地で団子や饅頭を食べると凄い勢いで体重が増えたまま落ちづらくビックリする事が有りますが、甘い物も全く食べるなとは言いませんが小生は一応、「あ~コレ食べたらコレ位の運動をしないといけないな」と計算する事にしています。そうするとカードで買い物する時と同じで一定の抑制に成るので馬鹿みたいに食べなく成ります。仮に量を食べてしまったら小生の場合は運動を物凄い増やしますけどね。

さてゴールデンウイーク、太った人も多いと思います。
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実は小生も先月21日、青梅市の塩船観音寺に躑躅を見に行って来た時に持って帰って来たパンフレットを実家のテーブルに置いておいたら母親と母の友人に「私等も連れてけ!」と言われてゴールデンウイーク05月第1週末早朝から親と親の友人を連れて奥多摩観光再訪し、塩船観音の売店の団子やへそ饅頭や澤乃井酒造の売店の饅頭をたらふく食べたせいで液体と合わせて3kg太り、それを落とすのに夜にジムで有酸素運動と筋トレ各種目100回×2setやってきました。その結果の本日の体組成が冒頭画像データの一覧表で一番下の一列本日のデータです。もし観光してなければもっと体重軽かったでしょうねぇ~。
でもね!趣味と旅と食事の無い人生なんてつまんないんです。無趣味な人はパチンコや賭博で無駄な金を使い、何にも生産性の無いソーシャルネットワークゲームに課金したり、酩酊し意識混濁する為に酒を飲み、大して有意義な身に成る経験や進歩を共有する話題も出来ないツマラナイ人生で会社の同僚の悪口や大した仕事でもない仕事の話題をアルコールで無理矢理に愉快に感じる為に深酒して酒の本来の味も楽しまずに酒に依存し酒に呑まれて自分の中身が空虚な事を誤魔化して生きる人生に成るでしょうね。
酔う為に飲む奴には山口達也みたいなアルコール依存の性犯罪者みたいな奴も少なくないでしょう。
それ故に人としての成長を目指す仏教の寺院では「不許葷酒入山門」と酒を飲む事を禁忌とし、日本人の成功と失敗の歴史を神格化された古代人の経験を通じて伝える為に神道でも「八岐大蛇」や「熊襲建」や「酒呑童子」が神話の英雄神や偉人に酒に酔わされ討伐された事を伝える訳です。

旅行で美味しい物を沢山食べてしまったら、それを取り返して有り余る運動をすれば良いんです。借金や酩酊する程毎回酒を飲むアルコール依存症やギャンブル依存症と違って、旅行での経験は人を豊かにし美味しい食事で付いた脂肪は運動で減らす事が出来ます。食べた分のcalを消費する程に運動をする体力も気力も無いのなら最初から遠出もせず別の趣味に御金を使えば良いんです。

・・・さて、次は今回の青梅市~あきる野市旅行の休日雑記か、北条家の軍師だった多米元忠公の記事の続きを書こうと思います。
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今回親を連れて訪問した澤乃井酒造さんの所在地は、御店もテーマパークの様にフードコートや売店も充実している上に風景も綺麗で・・・
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・・・更に澤乃井酒造さんが運営する澤乃井櫛かんざし美術館は、櫛と簪(かんざし)に特化した展示物の量では東京国立博物館に匹敵すると思われる領と展示物の美しさが有りとても感動しました。
この紹介は次回の休日雑記で書きたいと思います。

前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説②】・・・多目元忠公が活躍した河越夜戦と敵対勢力の解説。
コレの続き⤴

今回は河越夜戦で全軍の総指揮を執り北条11000vs上杉80000で北条家に奇跡の勝利を齎(もたら)した多目元忠公の隠居地であり菩提寺でもある神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺(ぶげんじ)を紹介します。
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法照山 豊顕寺・・・三つ沢壇林旧蹟
(だんりん=江戸時代の仏僧の大規模学問所)
北条五色備え 黒備え隊大将 多米元忠公と多米家の菩提寺
恐らく、この豊顕寺の寺名の読み方すら御存知無い方も幾らかいらっしゃると思います。
そして豊顕寺さんが多目元忠公の隠居地とは知らない人も多いでしょう。訪問さえすれば秀吉の小田原攻めで小田原城に籠城した❝多米長宗❞公が多米元忠公では無い事や、そもそも歴史学者が江戸時代の誤植した❝多目(ため)❞姓を現代では正式認定していますがコレが誤っており、正式には小田原所領役帳や新編武蔵風土記稿の記載の通り❝多米(ため)❞である事が直ぐ解ります。
又、小田原北条家の滅亡後は多米家は消息不明的なアホな事をテンプレ書き込みしている馬鹿学者もいますが大きな誤りであり、ソイツ等は先人を尊敬して文書にする際に菩提寺や氏神の神社を参拝して仁義を通したり取材して事実確認をしていない三文学者な事が歴史オタクには一目瞭然だったりもします。
今回、戦国時代の北条家研究をされる方にとって、多米家の事でとても大事な報告も有るので是非読んで頂きたいと思います。

27日の深夜にブログ更新する心算でしたが豊顕寺サンへ未取材のまま結局記事に書きたくなくて28日土曜日に御住職様に御朱印の拝領と合わせてアポをとり取材をして参りました。
色々と御話を聞けたし、実際に江戸時代までは江戸上野の寛永寺に匹敵する超大規模な壇林の三ッ沢壇林だった名残りが❝横浜市教育委員会が保護もせず放置したまま部分的に現存している❞事も確認して参りました。
そして、多米家嫡流の御子孫が戦国時代から現在まで筆頭の檀家として豊顕寺サンを歴代菩提寺にして来て御寺の歴代御住職も多米の殿様の御子孫の来訪時には丁重にもてなし続けている事も教えて頂く事が出来ました。そして今現在、❝多米家の直系最期の御子孫❞がいらっしゃり・・・

う~ん、多米の❝お姫様❞の話は先ずは置いておいて、御寺の歴史紹介から多米家のルーツを解き明かし、北条家臣化の通説とは違うプロセスの方が現実的と指摘したいと思います。
豊顕寺周辺 久良岐のよし
豊顕寺は正式名称を法照山 豊顕寺と言います。
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2018年04月28日(土)の躑躅が綺麗な日に訪問、横浜市営地下鉄ブルーラインの三ッ沢上町駅の目の前で、豊かな緑に囲まれた素敵な市民の憩いの場にも成っており、本日の参拝の折も横浜国大の生徒と思しきカップルが境内で仲良くデートしていました。
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なにやらスマホをいじくっていたのでポケモンGOでもやってたのかな?
この豊顕寺サン、元は三河国八名郡多米村(現:愛知県豊橋市多米町)に多米家の祖先の多米元興公が永正十二年(1515年)に多米家菩提寺として建てた❝本顕寺❞が存在しました。この永正年間に活躍した元興公の御父上の多米元益公には❝伊勢七騎❞と言う異名が有り、既に伊勢盛時宗瑞公の時代の元益公の代には北条家と“関わりの有る家”として活躍し重臣だった事が確認出来る訳です。しかし家臣かは別の話し。
多米家は伊勢国で伊勢姓時代の北条早雲の名で知られる本名:伊勢新九郎盛時公と出会ったと何だか書いているガクシャ先生もいますが、これは恐らく江戸時代に作られた俗説のデマを事実考証もせずにテンプレした結果の誤りでしょう。
そもそも永正十二年(1515年)頃に三河国に菩提寺を作っている多米家が永正年間頃に伊勢国で伊勢新九郎公と出会う訳が無いんです。
実は小生が間宮林蔵の祖先であり多米家と同じ横浜の戦国武将で笹下城主の間宮家の顕彰活動をする過程で、多米家が伊勢(北条)家の臣下に成る理由を発見していました。
永正年間の伊勢家は今川家臣ながら伊豆国と相模国西部の小田原城を手中に収めて今川家の従属大名として活躍していました。そして当時の伊勢家は北条早雲公の代には北条姓を名乗っておらず早雲公も正式な名前は伊勢盛時 入道号:早雲庵宗瑞が当時の御名前でした。
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この頃の伊勢家は永正三年(1506年)~永正四年(1507年)か永正五年(1508年)迄の足掛け3年間に渡って伊豆と相模の与力武将と今川家からの与力武将を従えて❝徳川家の祖先❞松平家と長期合戦の真っ最中でした。松平家初期の本拠地だった三河国碧海(へきかい)郡=現:愛知県三河安城市の安祥(あんじょう)城を攻め落とすべく今川家総大将として出陣しているんですね。
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現在、安祥城の本丸跡には大乗寺と言う浄土真宗の御寺が在ります。
この頃の今川家は東三河一帯を勢力下に置いていたので当然ながら多米元忠公の御父上と思しき多米元益公や多米元忠公御本人の別名と思われる多米元興公は、この時期に今川家臣と成ったと考えた方が自然でしょう。そして後に東三河は徳川家康公の祖父で戦上手で少々乱暴な人としても有名な松平清康公によって征服されて今川家が三河の領地を失陥(しっかん=戦に負けて城や領地を失う事)していますが、その前に松平家と当初は敵対していた戸田家によって先に豊橋市一帯は征服されているので、多米家は今川の勢力を離れた後で一時的に戸田家に従属し、更に今川家時代からの仇敵の松平家が一帯を征服したタイミングで出奔したタイミングもこの頃かと推測出来ます。
その時期は享禄二年(1529年)の松平氏による現在の豊橋市周辺併呑の頃でしょう。
当然ながら以前に松平家と敵対した今川家の総大将の伊勢盛時公に与力した多米家も松平家から領地を奪われて浪人したでしょう。
小生の推測では、この時に優秀だった多米元益公と多米元忠こと多米元興公は伊勢家を頼って伊豆の韮山城の北条早雲公こと伊勢盛時公か小田原城主で伊勢家二代目の北条氏綱公を頼ったのでしょう。小生思うに、親子は実力を買われたのと伊勢家が敗戦と浪人の責任から多米家を召し抱え重臣として取り立てたと考えれば伊勢家家臣化が極々自然に繋がると思います。
さて、小生が何故この事を気が付いたかと言えば全然関係ない久良岐郡の間宮家居城の笹下城の事を調べていて、中世武士の文化や北条家研究家として間宮家や中田家の事や久良岐郡研究で多大な成果を収められておられる盛本昌廣先生の論文と新編武蔵風土記稿の久良岐郡の笹下城下の事を読んでいたからでした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
この古文書の写しが新編武蔵風土記稿に紹介されています。
この内田対馬守は間宮家臣として笹下城下では代々続いた家でして、分家も多く本家は古門内田対馬守家として近年で知られた地主サンでした。
小生はこの古文書の写しを読んで間宮家臣古門内田家の御子孫を探しに港南区笹下町を訪れ朝から夕方まで内田姓の家を訪ね歩き回りピンポンしまくる怪しいセールスマン状態(笑)で御自宅を見つけ出し訪問していた事が有ったので多米家のルーツと繋がる❝今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻め❞に行き着いた訳です。まぁ、世界屈指のメーカーさん相手に企業営業の経験を積んだ小生に掛かればコンナ事は朝飯前(笑)!何にも恥ずかしくないし飛び込み営業と取材は何にも変わらん(笑)!
これが歴史オタクに活かせるスキルだとは思いもよらなかったし、研究職しか経験の無い学者サンが肩書が無いと仕事が捗(はかど)らないと思い込んでるのとの違いだなと今にしては思う。
この感状の古文書、年号が有りませんが寅三月ニ十八日と書いて有りますよね?
実はこれ、三河国碧海郡の安祥城攻めが終了した翌年の発行なんです。そしてこの寅三月の寅年がいつだったかは内田対馬守サンの死没年から特定できるんです。
三河安祥城攻めが終了したのは永正四年(1507年)とも永正五年(1508年)とも言われていますが、内田対馬守が死没したのは新編武蔵風土記稿に永正五年(1508)三月二日と記されています。つまり1508年を含むそれ迄の寅年、かつ永正年間で感状(かんじょう=感謝状と御褒美)を与えられる様な合戦が有った年と考えると推測が着きます。
この感状は死亡前の活躍に対して数ヵ月のタイムラグが有り、亡くなって初七日も終え暫くしてから今川家から送られている事も判ります。戦傷が元で亡くなったんでしょうかねぇ~?
内田対馬さんが感状には御大途(大殿様)と言う表現が有りますね?これは伊勢(北条)家が今川家の家臣だった頃に今川家から伊勢家与力の間宮家に発行されている事が解ります。当時の北条家臣団は北条早雲公に対して大殿様と言う表現を用いていなかったそうなので、間宮家の殿様の伊勢家の更に殿様の今川氏親公から下賜された官位に付随した書状である事が解ります・・・
「では質問!内田対馬さんが無く亡くなり今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻めが遅くとも終結した永正五年(1508年)の干支は何でしょうか!?」
・・・答えはね❝丙寅(ひのえとら)年❞、つまり寅年なんですよ!
だから今川家の殿様から内田対馬守の死没以前の活躍に対して感状が発行される寅年か前年の合戦は今川&伊勢連合軍の三河安祥城攻めしか無い事が解る訳です。
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※写真は駿府城、今川家の拠点が駿府城の前身とも言われるが定かでは無いと駿府城の学芸員サンがおっしゃってました。
この時期、今川家臣だった伊勢家は今川家の名代と言う名目と幕府の公認を受けていた古河公方家の支援と山内上杉家と扇谷上杉家の内紛鎮圧を大義名分に相模国東部~武蔵国久良岐郡に侵入し橘樹郡~都築郡と、武蔵国南部も浸食し始めていました。そして❝永正の錯乱❞と呼ばれる室町幕府管領細川家の内紛が起きて応仁の乱の西軍側の足利義稙公によって当時の室町将軍の足利義澄(よしずみ)公が征夷大将軍の職位を奪われ京都を追われる事件が発生します。
実は北条家が伊豆国を支配で来たのは、足利義澄公の母上の仇(かたき)であった異母兄の堀越公方足利茶々丸を討ち果たし仇を取ると言う❝大義名分❞が有ったからでした。その足利義澄公が将軍職を追放されてしまったので、伊勢家としては堀越公方やそれを支援する山内上杉家と戦い伊豆国と相模国の支配権を保持する正当性が無くなってしまいました。そして伊勢家の主君だった今川家は幕臣として室町幕府に仕えていましたが、足利義稙公と今川家との主従関係が確立されると山内上杉家は西軍との関係が良好であったので伊勢家と今川家の関係も問題に成って来てしまう訳です。
そして永正六年(1509年)頃から伊勢家は今川家臣としての活動を一切行わなくなり、この頃に断交している事も判ります。

さて、ここから多米家と北条家の歴史が繋がります・・・
この頃の永正五年(1508年)に徳川家康公の祖父の松平清康公が生まれ、大永三年(1523年)に清康公は父の松平信忠公の隠居を受けて15歳で松平家当主に就任すると享禄二年(1529年)頃に多米家の領地の有った三河国八名郡や宝飯郡を含む今の豊橋市界隈で一番有名な御城の吉田城の城主:牧野家も今川家臣でしたが松平家と縁戚の戸田家との合戦に敗れて降伏しています。そして八名郡や宝飯郡一帯は松平家の盟友の戸田家の領土と成ります。当然ながら今川家臣で旧伊勢家与力の多米家もこの時期に三河国の所領を失った筈です。
・・・そして永正十六年(1519年)に伊勢盛時入道宗瑞公も死没しているので、多米家は北条家二代目頭領で❝小田原城主の北条氏綱公を頼って北条家臣と成った❞と考えた方が通説よりも自然でしょう。
そこで大切なのが横浜市神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺サンが三河国八名郡多米村から移転して来た時期です。
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恐らく多米元忠公の初名と思われる多米元興サンは天文年間(1532~1555年)に青木城主を隠居して、三河国の多米家菩提寺の本顕寺を現在の神奈川区三ッ沢上町駅前に移転させて、自分の隠居所としている事が寺伝や新編武蔵風土記稿の記載から解っています。

【新編武蔵風土記稿 橘樹郡之十三 小机領 豊顕寺の項】
豊顕寺
~冒頭省略~
もとは三河國八名郡多米村にありて、本顕寺と云(言い)てかの地の士多米権兵衛(元益サン?)が世々の菩提寺成り(豊顕寺伝承では1515年造営)、
~以下中略~
長氏(北条早雲公の本名:伊勢盛時の別名)後に相武等を併呑せしかば、権兵衛かの家人となりて一方の大将を承(賜わ)れり、(※この時点で北条家の相武併呑後(北条氏綱公の代の事業)に北条家臣化している事が書かれているが、早雲公が今川家臣だったの頃からの与力としての付き合いである事が先に紹介されているので現代の解釈の混乱に繋がっている模様)天文年間中よりこの地(青木城一帯)の領主となりしゆへ、かの本國(三河国八名郡多米村)にありし本顕寺を當(当)所へ引うつして名を豊顕寺と改めしとぞ、
~以下省略~
ここまで読めば今川時代に伊勢七騎と呼ばれた多米元益の世代から多米家と伊勢家の付き合いは有って、でも北条家の家臣化したのは北条家が武蔵国まで勢力拡大した頃の話である事が解ります。
更に多米❝権兵衛❞の様に当時の武家の各家系が名乗る屋号や官職名は代々引き継がれる物だったので、世代的に多米家で北条家臣と成ったのは天文十四年(1546年)に活躍した多米元興(元忠)公の時代の話である事も推定できます。そして青木城主に成ったのは天文年中での事で、その頃に隠居所の草庵の所に三河国の多米家菩提寺の本顕寺を三ッ沢に移転している事が解ります。
もしかしたら多米元忠公が御隠居されたのは河越夜戦で指揮をとった記録が有るので、天文十四年か翌年の天文十五年(1545年)かな?と考えれば自然ですよね。

つまり、豊顕寺サンとしての横浜市神奈川区三ッ沢西町でのスタートは、多米元忠公の引退時期の天文十四年~2年間の間の話だと推定できます。

そうそう、小生が参考にしている新編武蔵風土記稿ですが、そもそも新編武蔵風土記稿の近代の役人と出版社が編集した❝活版印刷版❞では❝本顕寺(ほんげんじ)❞の寺名すら誤植しています。❝本顕寺❞の草書体を本❝願❞寺と誤読した挙句に出版してしまっているんですね。更にソレを知らずにテンプレする歴史学者やら多米じゃなくて多目と書いてしまう学者やら・・・
コイツ等のせいで小生も豊顕寺の御住職に事実確認するまで「❝多目❞が正しいのかな?」と柄にも無く少数派で「❝多米❞だコノ馬鹿が!」とガクシャ先生を罵倒する事が出来なかった事を恥ずかしく思います。
よって今回の記事以降から多米家は全て多米姓で統一したいと思いますが、過去の記事の絡みも有り検索タグは❝多目元忠❞のままにして置きたいと思います。
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さて、多米家のルーツと豊顕寺の移転開基年代がだいたい推測出来た所で、もう一度御寺の参道の紹介から御寺その物の風景と施設を紹介しなおしたいと思います。
豊顕寺は市営地下鉄三ッ沢上町役を降りて国道一号線側から入ってくると外の大門代わりの石柱が有り、そこを入ると正面では無く右手に御寺が在(あ)ります。
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昔は大門を入ってくると真直ぐに丘の上に4万5千坪もの壇林(だんりん=学問所僧院の集合体)が存在していたのですが、明治のキリスト教徒政治家や戦後の宗教改革でアホの横浜市に接収され文化も史跡としての価値の高い大寺院群は上野の寛永寺同様に一部を残して徹底的に弾圧破壊されてしまいました。
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だから今も昔の壇林へと続く参道は豊顕寺市民の森の中に石畳と赤門だけが真直ぐ続き現存しています。
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先ずは御寺の風景を見てみましょう。
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緑豊かな豊顕寺の森に落ち着いた雰囲気の山門、昔は間宮家の杉田妙法寺や間宮家臣荒井家が鎌倉時代に中興した金沢区上行寺と同じく千葉県の中山法華経寺を開いた富木(とき)家出身の御住職が開いた前身寺院が存在しました。恐らく多米元忠公が御隠居された場所と言うのは、その前身寺院の事でしょう。
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山門をくぐると東を向いた御堂は初夏の午後16時頃の西日を背負って御寺に相応しい表現化は微妙ですが何だか神社の様に緑豊かな豊顕寺本堂は神々しい雰囲気に包まれていました。
山門から入って左手の竹の柵に囲まれた井戸が有りますが・・・
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この井戸はまだ現役で活用されています。
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手動ポンプで水も勢いよく出ました。
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・・・実はこの井戸の背後に歴代住職様と多米家嫡流で豊顕寺檀家の歴代御廟所が存在します。
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浄財寄進者名にはちゃんと多米家❝最後の御当主❞の御名前も刻まれていますが、予想外に❝間宮姓❞も多くいるので「何でだろな?」と思ったら、そう言えば神奈川区斎藤分町は間宮家の御分家の間宮宗甫サンの所領だったんです。これも御住職に取材をして解ったのですが、昭和初期まで神奈川区の間宮一族の中には大邸宅に住み使用人を住み込まれている家も有ったとの事なので地主と言う事を考えれば豊顕寺檀家の間宮さん達は笹下城主間宮康俊公の親戚の間宮宗甫公の御子孫達と考えられるでしょう。
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御本堂は戦災で焼けたのか鉄筋コンクリート造りの外観でしたが、屋根瓦に刻まれた地紋は北条家の三鱗紋でした。
丸に三ツ鱗紋
そして多米家の御廟所を参拝してから御住職にも確認しましたが、多米家の家紋は❝丸に北条三ツ鱗紋❞だそうです。
実は多米家の家紋を御存知無いガクシャ先生達が多いのですが、まぁ小生も昨日まで知らずにいたのですが、こうやって現地に行けば取材も出来るし、先人や歴史偉人や神仏を尊敬して神社や御寺を開いた殿様や歴代御住職様や宮司様に御参りするれば直ぐに家紋は判明するんですけどね。
ちゃんとした学者さんや博物館の学芸員サンは論文書く時に御墓参りしたり宮司様や御住職様に連絡したり御参りに行くから、素人の只の歴史オタクの小生と同じ程度の事は御存知なんですよ。
信仰心も先人への尊敬も無く、ただ飯のタネにしてる他地域からの移住して来たのに横浜を郷土として馴染み認識出来ない人ばっかの横浜市教育委員会の人達は知らないんですがね。
山門入って右手、多米家御廟所と反対側に庫裡(くり=居住空間)が在ります。
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庫裡の前にも真っ白な可愛い御花が咲いていました。
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とっても綺麗。
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その御花の前のベンチで和やかに時間を過ごす仲良さそうな大学生位のカップル。
羨ましいぞ!
誰か日本文化と歴史と散歩と旅行先の郷土料理食べるのと綺麗な風景好きな水商売経験や酒乱癖や違法薬物使用経験の無い真面目な女性、小生を婿にもろうてくれ(笑)。
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御寺の本堂の扁額には山号の法照山(ほうしょうざん)と書かれています・・・
読み様によっちゃ悩める人々の味方の「法テラス」とも読める(笑)。
・・・まぁ、弁護士サン達とは違う意味で人を精神的に助けれるのが宗教の良い所、ある意味で法テラスと同じ人助けの組織だね。
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御本堂の左手には日蓮上人像。あ、紹介し忘れていたけれど豊顕寺サンは法華宗です。
・・・豊顕寺サンの御本堂と庫裡の有る山門内はこんな感じ。
山門を出て旧三ッ沢壇林への参道の赤門前に戻ります。
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この赤門は江戸時代から第二次世界大戦の戦火も免れ存続し、老朽化で一度部材を解体して修理すべき箇所を手入れして組みなおした修復後の姿です。赤門と言うのは幕府の許可が無いと作れない寺格の高い御寺や医学書や大名屋敷にだけ許された特別な門でした。東京大学の赤門も加賀前田家の邸宅の門だったから朱塗りが許された門だったんですね。
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さて、豊顕寺から続く三ッ沢壇林の参道、横浜市は緑地として一部だけ残しましたがその山林の中には貴重な三ッ沢壇林の史跡が有るのを小生は確認してきましたが❝横浜市教育委員会は全く史跡として保護をしていません❞でした。アホなのかな?
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赤門をくぐると江戸時代からの壇林の参道を利用した遊歩道が在ります。
これを真っすぐ進まずに、最初の右手の削平地へ進んでみて下さい。
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左手に人工的に切岸にしてある段地を見ながら進むと・・・
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初夏には真っ赤な躑躅が咲く場所が在り、更に人気の少ないその奥には何やら削平地が有ります。
更にその奥に進んで下さい。
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・・・するとおそらく旧塔頭へと続く石段だったと思われる階段が登場します。
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近くで見ると石材を人力で加工した跡が有り、小生は江戸時代の石段だと思います。
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登り切ると不自然に階段は途切れ、少しずれて何かの私設の裏口が有ります。
これ、Google mapで見ると国土交通省関東地方整備局の施設らしいです。
三ッ沢壇林旧蹟衛星画像 久良岐のよし
この画像では北側が下に成っています。
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同じ角度で見た江戸時代の絵図だと、現在の豊顕寺サンの位置は手前右側の小さな御堂の集合体みたいな辺りで昔とは位置が違う様です。そして現代の立派な石段跡に続く国土交通省関東地方整備局の建物辺りに何か立派な御堂が有る事が解ります。
しかしこれ、何の御堂か新編武蔵風土記稿の豊顕寺の項目を読んでも良く解らないのですが、如何にざっと記述を載せて見ます。

三十番神堂 ・・・門を入りて左にあり
多米氏墓  ・・・門を入りて左にあり
多米彌七郎墓・・・同並の内にあり
蓮秀墓   ・・・前に言へる二基の間
運信齎日領墓・・・同並にて北のはしにあり
三澤壇林  ・・・境内の南の山上にあり
(赤)門    ・・・柱間一丈腕木つくり山上にあり
講堂 本院寮・・・講堂の表通りにあり今は廢せり
玄講寮   ・・・講堂の北下表通りの西側にあり
集講堂   ・・・同所の北の側にあり
條講堂   ・・・講堂の北下裏通北側にあり
自寮    ・・・十四棟
長屋    ・・・七軒

これを見る限り国土交通省関東地方整備局の辺りには講堂が在った様です。
その左手には何やら基壇が有りました。
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恐らくこれ玄講寮とか言う奴の基壇だと思うんですが、何んの説明も無いので不明です。
何故横浜市はこんな立派な基壇を保護も発掘もせずに風化させ放置するのだろう?
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周辺に削平地はまだまだ有るので、講堂周辺の御堂のいずれかの跡でしょう。
そして赤門をくぐり真っすぐ上まで行くと三ッ沢壇林の中心の御堂の石段と基礎が残っていました。
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これも保存する気無しの教育委員会、馬鹿なの?
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八幡広場と書いて有るので、往古は三ッ沢壇林の中心は多米元忠公の北条家が大切にした八幡大菩薩応神天皇が祀られた御神廟だったのかも知れませんね。日蓮上人と鶴岡八幡宮の結び付きも強いですし、法華宗の豊顕寺としても大切な場所だったのでしょう。
この様に、史跡としても学僧の聖地としても横浜市に破壊された三ッ沢壇林ですが、現在も放置された名残りは有るし深緑のとても気持ちの良い散歩道としても楽しめます。
そして豊顕寺を御参りすれば北条家の軍師だった多米元忠公に知恵の御利益を授けて頂く御釈迦様や八幡大菩薩応神天皇との橋渡しをして下さるかも知れませんね!

最後に戦国時代の北条家研究をしている歴史学者さんが見て下るかも知れないので一つ報告をします・・・
三ッ沢の豊顕寺で多米元忠公以来檀家として存続した多米家嫡流はもう直ぐ途絶えます。
御先代の男性当主がつい7年前に亡くなりました。そして現在の御当主は女性で残念ながら御子様に恵まれませんでした。
文字しか読まないタイプの学者には歴史上、江戸期の動向が良く解らないから断絶したとか言う人もいたりなんかする多米家ですが、ちゃんと多米家菩提寺豊顕寺では歴代の御当主を戦国時代からずっと事有る毎に来訪される旅にお迎えして来ました。
多米家を研究されたい学者さん、いますか?
もしアナタが本当に歴史が好きで先人を尊敬しているのならば、歴史偉人を呼び捨てにせずに敬称を付けて名を御呼びする様に態度を改め、豊顕寺を参拝し現在の御住職様に多米家最後の御姫様の女性当主様に連絡を付けて頂き家系図を見せて頂いたりする最後のチャンスですよ。
今やらないでいつやるの?
素人の小生が出来る事をアナタ達は何で出来ないの?
先人をリスペクトせず、神奈川県の史跡が開発の邪魔だから触れず?
歴史は飯の種で歴史人物も飯のタネだから敬称付けず人扱いせず呼び捨て?
それってさ、御子孫も菩提寺の御住職様も氏神様の宮司様も檀家サンも氏子サンも怒るよね?

歴史偉人も生きていた事を思い出し、そして子供の頃に憧れた戦国武将達への尊敬と日本の歴史を刻んで現在に繋げて下さった御恩を思い出して、敬称付けて名前を御呼びして自分で御墓に御参りする所から取材始めてみませんか?
多米家の事を調べるのは今しか無い最後のチャンスですよ。失礼な呼び捨てをするなら御寺とも御子孫ともコンタクト取るなよ。

・・・さて豊顕寺と多米家の歴史解説と推測の記事はここまで。
次回は多米元忠公の御子息達の重臣にしては所得が低めな理由を考察したいと思います。

→その④へ続く。



ブログ更新するって言ってたのに・・・
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レディ プレイヤー1のレイトショー見に行ってたせいで更新してません!
・・・更新記事今から朝までかけて書きます(笑)。
先程横浜の都会から鎌倉近くの横浜の田舎の自宅に帰宅した次第です(笑)。
最近2ヶ月間で12kg痩せたせいで正午頃は服を買い直しにベイサイドマリーナのアウトレット行って・・・
夕方は図書館に歴史の調べ物をしに文献の写しを読みに行き、そして外国語教室やら・・・
学習タイムが終わった瞬間、横浜の都会都会に在る某外国語教室の近くにはシネコン有るので歴史と綺麗な風景と美味しい物と銀細工の他にガンダムも少し好きな小生いてもたってもいらなくなり暴走して映画見に行って来た次第です。
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レディ・プレイヤー1、昭和後期~平成初期生まれで日本アニメやハリウッド映画好きだった世代は見たら絶対に楽しいですよ!
あとね、ネトゲ中毒やネトゲ廃人やSNS廃課金者やパチ中毒やギャンブル中毒者も観た方が良いよ。
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メカゴジラとか・・・
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・・・ガンダムが登場します!
原作ではマクロスやウルトラマンも出るのですがウルトラマンは中国とタイの偽ウルトラマンが商標登録されたせいで訴訟に成るのを避けて映画版には登場しませんでした。
脇役が敵を倒す為に3分間限定で正義の味方に変身するシーンが有るのですが、登場させれなかったウルトラマンへのオマージュでしょうね。

さて以下は近況。

【以下ダイエット経過報告】
今年~本日の変化

Gパン 40inch→33inch
シャツ XL→M~S

現在の体組成
体重84~85kg
筋肉量67kg
脂肪量15kg
体脂肪率18%

今年に入り12kg減量、脂肪だけ。
筋肉で体重重いし胴にまだジムで指摘された理想体型まで不要な脂肪量が3kg、自分の目標まで8kg有りますが今日とうとうSサイズのシャツも着られる様に成りました。
今月に入り体重はほぼ変り無いのですがジムの先輩達にリサーチしてトレーニング方法で体の部位別に筋肉量を調整出来る様に成りましたよ~。だから体型変化出来ました。
ただSサイズのシャツを着ると大胸筋と広背筋で胸だけ良い具合にキツ目です。良いピチピチ感。外見も、ほぼ目標の仁王様には成っていますが・・・
Gパンのサイズ、29inchになんですが大腿筋が付き過ぎて太腿が入らないんです(。´Д⊂)
32inchでもパツンパツンで女性のレギンスみたいに成っちゃってます。
・・・しかしながら下腹も仁王様のままで悪戦苦闘中ですが、ここからの8kg の脂肪削りは持久戦で普段からジム通いを続けて運動量で半年かけてこうと・・・

先ず最初に御寺の解説よりも先に関東屈指の躑躅(つつじ)の景勝地の青梅市塩船観音こと大悲山観音寺で2018年04月26日現在、見頃で各種の躑躅がいっぺんに見られる最盛期を迎えている事を報告します。
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大悲山 観音寺
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今回、少しだけ御寺の紹介文を書いて、解説記事は金曜日に改めてこの記事をリニューアルする形で書く加えたいと思います。

さて、この観音寺、日本で初代の大僧正である行基大僧正が開いた凄い御寺で御寺の地形が船形の様に窪地なので地域一帯が塩船と呼ばれる様に成ったそうです。
青梅の山奥の御寺なのですが関わった人物は行基大僧正だけでも凄いのですが、実は人魚伝説のモデルでもある八百比丘尼(やおびくに)が住職を務めた時代も在ったと伝わる御寺です。
人魚と言えば昭和生まれは高橋留美子さんの❝人魚の森❞シリーズとか・・・
人魚の森 高橋留美子
・・・平成世代ならルパン三世の❝血の刻印 永遠のマーメイド❞とかで見た事も有る人もいるかな?
一応、近畿地方では若狭国(福井県の西部)が人魚姫と八百比丘尼伝説の舞台ですが、関東にも八百比丘尼が来ていた伝承が有るのが、この塩船観音こと大悲山観音寺なんです。一応、1000年の寿命の内200年を他人に譲って800生きて亡くなった八百比丘尼さんの供養塔か御廟所かは判りませんが塩船観音寺には墓所も存在しています、一般非公開だけどね。
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とっても広い御寺で、修験道の影響も受けた御寺なので神社も在り、更には近代化で破壊されずに奈良時代から続く山寺の雰囲気がすっごく素敵な御寺です。
戦国時代に北条家の家臣として白備え隊小机衆の与力に加えられ新横浜駅裏の篠原城代を任された金子十郎と言う殿様がいるのですが、その御先祖様の方の金子十郎公が平安時代末期~鎌倉時代に支援し、戦国時代には領主は代り勝沼城主の三田(さんだ)氏の庇護を受けた御寺でした。

・・・と、解説を書いていると寝る時間が無くなるし週末の皆さんのレクリエーションの参考に成る様にUPが間に合わなく成るので今回は御寺の雰囲気と開花状況だけ優先的に紹介する為に先ずは御寺と境内の多くの躑躅に囲まれた御堂のとても綺麗な2018年04月21日に撮影した写真を掲載します。

すご~い本当に躑躅が綺麗な御寺なのでゴールデンウイークの小旅行の参考にして下さい!
近くの二俣尾には天皇家の勅願所だった海禅寺さんや、羽村市は縁結びの武蔵阿蘇神社や、あきる野市には延喜式内社で武蔵国二ノ宮だった小川大明神こと二宮神社、秋川渓谷や高月城址の下の秋川ではバーベキューも出来たり圏央道あきる野インターチェンジ近くには東京都で珍しい千代鶴の酒蔵の中村酒造も存在し試飲も出来ますよ。
風景も空気も水も綺麗な奥多摩地方、是非塩船観音寺の躑躅見物と合わせて遊覧されては如何でしょうか?

こっからは写真だけ!最初に躑躅の写真を、後から御寺の参道から本堂までの写真を掲載します!
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・・・では金曜日にこの記事の文章をもっと関わった人物の事とか書き足します。
それと出来たら多目元忠公の記事も第③部を書きたいと思います。














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