歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。 皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪ …と、思って書いています。 写真・本文・構成・無断転用禁止! 関係先と小生の個人的な信頼関係で了解をとって記事にしているので、転載したい場合は当方へ確認願います。

北鎌倉駅の裏には円覚寺と言う御寺が在ります。
image
と言うか、円覚寺の境内にJR横須賀線の北鎌倉駅が開業しちゃったんですね。
image
ですから参道には踏切も在ります。
円覚寺は正式には瑞鹿山圓覚興聖禅寺と言う名前で、東日本の臨済宗の寺院に置いて2番目に高い格式を鎌倉時代に皇族将軍家に認知され、執権である歴代北条家からも、その後の室町幕府の京都の歴代将軍家からも支援されて来た由緒有る御寺です。
それもその筈、この御寺は鎌倉幕府第八代執権の北条時宗公が開いた御寺なんだから立派で当たり前なんです。
image
時宗公は、モンゴル元朝の威を借りた朝鮮半島の朝鮮人の脅迫に屈せず、中国江南地方の水軍と朝鮮の略奪と侵略目的の軍勢を相手に交戦する事を決め、日本を守った名宰相です。
しかしながら身分的には皇族将軍の陪臣と言う立場だったので、官職は左馬権守(さまのごんのかみ)、相模守(さがみのかみ)、官位も正五位下に抑えられていました。
五位以上の官位でギリギリ内裏(天皇の御所の朝廷会議が行われる場所)に参内(さんだい=入る事)が出来る程度なので、日本への貢献度を考えると異常に低い官位でしょうね。
実際にやっている事は右大臣や太政大臣こそ相応な業績を残している訳ですから。
そんな訳で、没後に天皇家から征夷大将軍達と同じ従一位の官位を追贈されています。
image
さて、そんな時宗公、何でこの御寺を建てたのかと言う理由が又、坂東武者らしい価値観に基づいており素晴らしい。
元寇の乱で亡くなった敵味方の戦士の慰霊の為でした。
本来の天皇家の血を引く「武士」と呼べる人々の考え方は神道的な考え方と仏教的な倫理観が融合していて、この北条時宗公も又、桓武天皇の御子孫に当たる人物なので、敵味方の区別なく勇敢に戦った武将や末端の兵士を分け隔てなく供養なさったのでしょう。
小生が時宗公を尊敬する所以(ゆえん=本来の中国語では「だから」の意味)でもあります。
小生は基本的に源氏の歴代殿様を暗殺して来た執権北条家は大嫌いです。
源頼朝公がいたから、今日の発展は有った訳です。しかも法治主義国家の基礎を築いたのも頼朝公ですからね。
北条時政や北条義時や北条政子と言うのは不義理で低文化な人間だと思っていますが、しかし彼らが合議制による民主主義の基本の様な価値観を武士に根付かせた事で、今日の日本人の思想は有るとも思っています。
小生は北条家の中でも、北条泰時公、北条実時公、北条時宗公は特に尊敬する人物でもあります。
ですから、小生は北条泰時公と北条実時公の名を菩提寺の御住職様に書いて頂いた色紙を大切にしています。
さて、円覚寺を開いた開基様=大旦那=オーナーが北条時宗公である事は説明しましたが、開山様=初代住職の話もしておきたいと思います。
image
写真は円覚寺の山門。
この円覚寺の初代の御住職様は日本人ではありません。中国から来た無学祖元和尚が北条時宗公の要請で就任しました。
この無学祖元和尚は、モンゴル軍が日本の友邦であった南宋を攻めた際に、現在の温州にいましたが元の臣民に成るのを好(よし)とせず、日本に亡命してらっしゃいました。
これは鎌倉五山第一位、建長寺の蘭渓道隆和尚とも同じ経緯ですね。
蘭渓道隆和尚については以前、北条泰時公の菩提寺の大船に在る粟船山常楽寺の紹介を書いた時に少し紹介して有るので、興味の有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。
←ここクリック!
さて、上の写真の通り円覚寺の山門は大変に立派な物ですが、伏見上皇の勅願(天皇の要請により祈祷や物事を成す事)で再建された建築遺産です。
実は円覚寺は大火で一度灰燼に帰す憂き目に遭っています。
それでも尚、天明年間に当時の天皇陛下から再建の要請が有ったのは、この御寺を建てた北条時宗公の日本に対する勲功の大きさと御威徳によるものでしょう。
image
円覚寺は写真の様に、歴史を余り詳しくない観光客も読めば大切さが判る説明看板が親切に設置されています。
こう言うのをちゃんと読むと、新編武蔵風土記稿や新編相模風土記稿にも載っていない大切な伝承が書いて有ったりして歴史好きにとっても楽しかったりするんですよ~。
image
この訪問時、2月8日は鎌倉の梅も陽当りの良い場所は七分咲き位に開いておりとても綺麗でした。
image
山門を抜けると佛(仏)殿です。
image
image
ここは大正十三年(1923年)の関東大震災で倒壊し、現在は内側は鉄筋コンクリートで再建されています。
外観は見事に旧状を留めた再建と成っていて、円覚寺の職員の僧侶の方々の文化意識の高さと、再建に尽力され費用を拠出された檀家衆の皆様に時代を経て神奈川県民、日本国民としての後輩として頭が下がる思いです。
image
最近、浜松市の禅宗の某寺が左巻き歴史学者と一緒に、天皇家が守り神として神号を追贈した織田信長公をコケにする発言をしましたが、明治以前、本来は禅宗寺院も天皇家や神道的な価値観を非常に大切にする宗派だったので御覧の通り、円覚寺の仏殿の御本尊、寶(宝)冠釈迦如来様の前にも今上天皇聖寿万歳と書いて有ります。
左巻きバカ学者は織田家や天皇家を侮辱する事が大好きなんですね、何故なら某国にはいない民草を大切にした織田家は天皇家を復権させた立役者であり、神道的な古代の儀式を復興したり朝廷内の乱れ廃れていた文化儀礼をも復興した極めて「日本の良い所」を集めた人物だったからでしょう。
さて、再建された佛殿の天井には立派な龍の絵が描かれています。
image
image
御参りした際は是非、天井を見上げて下さい!
仏殿を左手側から出ると選仏場と言う名の茅葺屋根の御堂が在ります。image
座禅を行う場でしたが、その後、座禅を行う場所が正続院に機能移転したので、ここは御堂としてのみ現在は機能しています。
image
元々は座禅を行う場であり、経典を保管する蔵としても活用されていたそうです。
image
中にはとても美しい観音様と仏様が祀られてらっしゃいます。
image
ここも円覚寺で必ず立ち寄って仏様を拝んでおきたい場所でもあります。
image
この訪問時、鎌倉の梅は七分咲きと言った所でしたが、どうやら傾向としてどの梅林も紅梅は先に開花する様です。円覚寺の紅梅さんも可愛らしく咲いた姿を見せてくれました。
可愛いなぁ~!
本当、花に例えるなら梅みたいな御嫁さんと一緒にいられたら幸せだろうなぁ~。
実を結ぶ、御互いに成長する人間関係、季節の変わり目を楽しめる人。そんな女性を連想するのは多分、変態の小生だけですね(笑)。
image
さて、一頻り(ひとしきり=頻の本来の意味は区切りの意味。現在の中国語では頻道と書いてTVのchannelの意味で使われたりもする)平地の建物を回るといよいよ、奥院に当たる黄梅院と言う建物を目指す為に、谷戸に囲まれた登坂を登って行く事に成ります。
余談ですが、ちょくちょく小生の記事に登場しますが「坂」と言う字は古代では下り坂の意味しか有りませんでした。現在は平地の意味で使われる「ひら」と言う言葉こそが本来の登り坂と言う意味の古代語で、これは琉球語や古い縄文語に通じる言語に残っていたりします。
さて、そんな訳で谷合の平(ひら)を上がっていくと途中、左手に妙香池と言う溜池が有ります。
image
現在の姿は昔の絵図から旧状を発掘復元した姿だそうです。
image
綺麗な池ですよね。
放生池と言うのは、生き物の命を大切にする日本の放生祭と言う神事仏事を行う池の事で、本来、武士にとって高級な食材だった鯉等を殺さずに放流したりする池の事です。
源頼朝公も三島大社で放生祭を行っていますし、織田信長公の青春時代の御膝元で愛妻の生駒お塁さんの実家の有った愛知県江南市の久昌寺一帯で馬を放つ放生祭を行っています。江南市の放生祭神事は、明治以降の神仏分離で神社も御寺も衰退して行われなく成ってしまいました。
しかし円覚寺には妙香池が有る事で、この説明を見て疑問に感じた人がいれば調べて仏事神事に興味の無い人も歴史偉人達の教科書には載っていない性格の側面を知る事が出来たりします。
もっとも、小生の場合は直接偉人達の関係者を訪問して、昔、どんな事をやっていたか先に教えて頂くのですが。
image
妙香池を過ぎると、上の写真の説明石柱が有る丁字路に出ます。
左手に進むと舎利殿が有ります。
image
この奥…
image
国宝指定を受けている建造物。
image
ここは鎌倉幕府第三代将軍で頼朝公の御二男の源頼朝公が南宋より贈られた御釈迦様の歯を祀っている場所です。
舎利とは「捨てる」と言う意味ですが、仏舎利と言うのは御遺体の事を指します。
仏様に成ると言う事は生物的には死んでしまう訳ですね。
成仏と言う言葉の通りでしょう。
それと悟りを開くと言うのは又、別の意味の様で、だからこそ「生き仏」なんて言葉も有るのかも知れません。
image
一般人は入れないのですが、とても立派な茅葺屋根の建物と御堂が見えました。
見るに正面の建物の作りは江戸時代の建築様式ですね。
破風が付いてますから。
でも上部の屋根は旧来の構造を模している様に見えます。
さて、門の前から御釈迦様と源実朝公(菩提寺は寿福寺)に御参りしたら、元の丁字路に戻り坂を上ると直ぐに下の写真の場所に辿り着きます。
image
ここは佛日庵と言われる塔頭で、中に開基堂が在ります。
開基堂は、その名の通り日本を守った名宰相で円覚寺を造営した北条時宗公の御廟所です。
入口の門は現在では侵入不可ですが、脇に観光客用の通用門が設置されています。
image
ここも円覚寺に来たら絶対に立ち寄りたい、小生の御勧めの場所です。
image
この写真撮影日はまだまだでしたが、今頃は梅も綺麗な事でしょう。
ここでは美味しい抹茶を頂いきながら、時宗公の偉業を思ったり静かな時間を過ごす事が出来ます。
image
御干菓子も付いてますよ!
カップルで参詣にも適しているデートコースだと思います。
ゆっくり休まして頂き、その後、時宗公に日本を元朝の威を借りた朝鮮の蛮兵の略奪侵略から守って下さった御礼を申し上げると、時宗公も「うむ」と思って下さるか「お前もシッカリやれよ」と見守って下さるかも知れません(笑)。
小生はどうだったんでしょう?
「日本の前に御前、もっとシッカリせ~よ」
と言われた気がします(笑)。
頑張ろう・・・先ずはダイエットしてムキムキマンに復活するの。
image
中心の御堂に、時宗公達の御姿を写した彫像が祀られています。
image
その左手の建物、佛日庵も入らせて頂く事が出来ます。
その手前右手にはコケの庭園が在りますが…
image
これ、笑点の林家木久扇師匠の作庭です。
正直・・・幼少期にずっと美大受験生のオネイサン達に混じって絵と造形を学んでいた小生とは個人的にセンスが合いません(笑)。コンセプト不明( ´艸`)。
佛日庵を出ると、直ぐ近くに白鹿洞が在ります。
image
現在は崩落して人が入れるスペースも無い様ですね。
image
無学祖元和尚が説法をした際に、この白鹿洞から沢山の鹿が出て来て人々と共に説法を聞いたと伝承するそうですが、これが円覚寺の山号「瑞鹿山」の由来だそうです。
この洞穴、埋もれた場所に水流の跡が在る事、手前に埋没しているものの、水を堰き止める構造の跡が在る事から、恐らく鎌倉に良く見られる洞穴式の湧水を集める井戸と溜池の跡だと思います。この水を集めて、下の妙香池等に配水していたのだろうと、城マニアの小生は考えました。
小生の推測通りに湧水が有ったのなら、伝承の様に洞穴が崩落する前に洞穴内の池で鹿達が水を飲んでいて、説法が始まり大きな声に驚いて一斉に洞穴から出て来たとのかも知れませんね。
ここを過ぎると、いよいよ円覚寺の奥院、重要な黄梅院と言う塔頭寺院に着きます。
image
ここは東慶寺の初代尼住職で北条時宗公の奥方の覚山尼様が開いた塔頭寺院です。
image
それ故、円覚寺の守護神的な位置に当たる場所なのかも知れません。
建長寺の場合は半蔵坊の神社が黄梅院の役割を果たしていますね。
image
当初は時宗公の菩提を弔う場所だったのですが、円覚寺第十五代の住職にして枯山水様式の日本庭園作庭の大家(たいか)として有名な夢窓疎石(むそうそせき)和尚が塔頭寺院としての機能を備える御堂を建てたそうです。
この夢窓疎石和尚は近江国の大名、六角佐々木家の御一門でした。
image
室町時代に入り、第二代室町幕府征夷大将軍の足利義詮公の御分骨が埋葬され、それ以後は足利将軍家の室町時代の関東における菩提寺的な宗教的な意味を持つ場所に成ったと説明が有ります。
まぁ、足利家の鎌倉時代の鎌倉に於ける菩提寺は浄明寺、そして足利尊氏公の菩提寺は長寿寺なので、二代目以降の話だと思います。
image
この日、ここでもちゃんと御参りをして、から黄梅院を立ち去りました。
image
黄梅院の山門をくぐり山を下っていく途中、下りの右手には「續燈庵」と言う塔頭寺院が在ります。
燈火(ともしび)と言う字は、仏教では教えを受け継ぐ法脈を形容したりするので、ここも昔の何(いず)れかの円覚寺の御住職様と関係の深い場所だったのかも知れませんね。
残念ながら一般人は門の近くに行く事も出来ない場所なので、写真は遠くから写しました。
さて、山門の近くまで戻ってくると、自販機や売店や御朱印受付所が在り、参道入口方向に向かって右手には閻魔堂桂昌庵と言う塔頭が在ります。
image
中には閻魔様が祀られているのですが・・・
image
御堂に向かって左手に御住職様が開かれた弓道場が在るので、御堂の内部には弓矢がこれでもかと言う程置かれていました。奉納されたと言うよりは、閻魔様に保管して頂いているのでしょうかねぇ~?
image
さて、円覚寺の説明は大凡(おおよそ)こんな所です。
実は先日の訪問で、北鎌倉駅の直ぐ裏に素敵な御茶屋さんを見つけたので前回、別個に紹介記事を書いたんですが、香下庵と言う茶房です。
image
冬期~初春の間だけ、北鎌倉名物のけんちん汁が食べられますので、御勧めです。
image
春からは別メニューになるそうですが、あんみつや御団子も美味しそうでした。
image
梅越しに北鎌倉駅と横須賀線を見られる立地の御茶屋さん、こちらも合わせて訪問されると良いかと思います。

ではでは!又、次の解説記事で御逢いしましょう!
三月中旬は忙しくてブログ書けないかも知れません、ご容赦を!





今年も田浦梅林祭りが横須賀市田浦で開催されています。
お祭りと言っても、商店街が御土産物を販売する程度ですが、ちょっとしたハイキングも兼ねた良い散歩に成る場所なので小生はここ数年間、梅を見る為に登っています。
田浦梅林の解説については以前書いたブログ記事が有るので、以下にリンクを張っておきます。
←これ、興味ある人はクリックしてください。

さて、今年の写真です。
CIMG2461
遠くから見た感じでも判りますが、2月15日時点では5分咲以下と言う所でした。
CIMG2465
陽当りの悪い所はまだ蕾(つぼみ)だらけだったので、思うに、このブログを書いている今日あたりからボチボチ見頃に成って来てるのではないでしょうか?
CIMG2466
陽当りの良い個体は、まぁまぁ咲いていていました。
CIMG2469
でも陽当りの良い入口の第六天神社辺りでも全体的に蕾が多かったですね。
月末は綺麗に咲いていると思います。
CIMG2475
とは言え、田浦梅林は眺望が良いのでプチハイキングで綺麗な空気を吸ってとても清々しい気分に成ります。
CIMG2479
まだまだ、水仙も開いていませんでした。
CIMG2481
CIMG2480
紅梅は全体的に開花が早い様です。
他の場所もすでに紅梅だけ満開でした。
CIMG2483
ふむ。
梅さんはいつみても美人ですのじゃ・・・。
梅さんみたいな嫁が欲しい(笑)。
CIMG2485
この日はチビっ子も頑張って山を登ってました。
後姿が可愛くて思わず盗撮(笑)。
仲良し4人組だね!
CIMG2486
この通り、2017年は他の梅林の開花は既に満開や7分咲き位の見頃ですが、田浦梅林だけは標高も若干高いので2月半ばでまだまだ。
CIMG2491
CIMG2493
水仙も少しは咲いていましたが、これからが見頃です。
あ~そうそう、昨年は水仙をニラと間違って食べて亡くなった方もいたので絶対に食べないで下さいね!
まぁ、普通は食べないと思いますが。
CIMG2494
遊歩道を過ぎると山頂の広場…
CIMG2498
CIMG2500
山頂の陽当りの良い場所も15日時点では5分咲き。
CIMG2501
近所のオネイさんがワンコと仲良くかけっこしてました。
CIMG2502
北面は比較的開花が早い。
CIMG2503
うん、もう1回登りに行こう、今月中に。
CIMG2509
CIMG2510
展望台からの眺望も気持ちが良いしね、軽空母(護衛艦)も見えるし。
そうそう、田浦梅林行くなら、これ買ってください。
CIMG2512
ふじみや と言う田浦商店街の和菓子屋さんの名物。
CIMG2513
中に梅の甘露煮が入っていて、とても美味しいんですよ!
梅林で梅を見ながら、持参した御茶を飲み、梅どらを食べる・・・
至福です。
CIMG2458
この御店です。
電話番号で調べてみてください。
てか、GoogleMapに登録して有るので、検索すれば出ると思いますよ!
山に登る前にふじみやの前を通って行くとよいと思います。
CIMG2459
CIMG2460
他にも横須賀佐島名物のヘラヘラ団子って小豆餡の草餅も売っています。
良い御土産に成ります。

以上、2017年の田浦梅林の開花状況報告でした!

鎌倉市には稲村ケ崎と言う、風景の綺麗な歴史史跡が在ります。
昨日2017年02月15日、横浜の歴史人物の顕彰で使用する風景写真撮影も兼ねて、昼に横須賀市の田浦梅林を訪れた後で七里ヶ浜の夕陽と稲村ケ崎の写真撮影で行ってまいりました。
良い機会なので少し解説と、沢山、稲村ヶ崎から見た夕陽の写真を掲載しようと思います。
CIMG2566
この写真だと少し判り難いのですが、江ノ島の右手には富士山が見えています。
右手は七里ヶ浜と呼ばれる浜辺で、手前の岩礁は今回紹介する稲村ケ崎へと続く七里ヶ浜の一番東の端っこの部分に当たります。
CIMG2536
この七里ヶ浜はとにかく風景が綺麗なので、台湾やアジア諸国からの観光客、そして日本の若いカップルがデートに来る場所でもあります。
七里ヶ浜は江戸時代の浮世絵に書かれている富士山遥拝の名所である事も以前も紹介しましたね。
そんな七里ヶ浜を見渡す一番の場所が下の写真の稲村ケ崎(鎌倉海浜公園)です。
CIMG2520
この入口から入ると左手に小高い丘が有り、公園と道路で隔たれた切通(きりどおし)状の地形の先に鎌倉の極楽寺坂の山々が連なっているのですが、この現代の道路の切通地形は鎌倉時代には存在せず、背後の山とは一体に連なっていました。
稲村ヶ崎と極楽寺坂切通しの位置関係 久良岐のよし
こんな感じ。
当時は西側から鎌倉市街に突入するには、極楽寺坂か化粧坂の切通しを突破するしか無く、更に市街地を取巻く絶壁の山々の全山を要塞化していたので、外敵は苦戦したんですね。
そして稲村ヶ崎の地形が、どれ程に堅牢な防衛拠点だったかは下の写真を見て貰えばわかります。
CIMG2548
先は海に突き出しており、軍勢はここを突破する事は常識では不可能な地形となっています。
そして背後の山々に連なる部分は山裾を人工的に直角に近く“のり切り”されて鎌倉市街地を守る城塞の切岸(きりぎし)として機能していました。
この写真で壁面に四角い窓穴が開いているのが判りますか?
CIMG2547
実は、ここは太平洋戦争でも西側の七里ヶ浜に米軍が上陸する事を想定されていたので、稲村ヶ崎に築かれたトーチカ(要塞)の砲撃用の窓なんです。
こんな事、歴史に興味が無いと見向きもしないんでしょうが、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の着眼点は近代戦争にも通用する程に鋭い戦略だったと言う事の証明でもあります。
CIMG2550
大正時代に鎌倉の青年団が築いた史跡の石碑が公園内には在ります。
CIMG2553
そして現代では稲村ケ崎の岬の頂上へは登る事は出来ませんが、山腹の写真撮影に適した場所までは入る事が出来ます。
その遊歩道の傍(かたわ)らには水仙が植えられており、今の梅の季節の頃に咲いて良い香りを漂わせてくれています。
CIMG2554
うん、皆そろって美人さんだ!
CIMG2555
今日も良い香りをありがとうね~。
登りきると、又、石碑が在ります。
CIMG2556
北里大学の創始者、北里柴三郎先生の師匠、ローベルト・コッホ博士が来日した事を記念して北里先生と鎌倉市で建てたそうです。
CIMG2557
ちゃんと文語から現代語訳された説明も有ります。
この石碑が在る辺りで夕陽の撮影をする方も多くいます。
実は、この場所の崖側に、下の写真の穴が在ります。
CIMG2560
恐らく稲村ケ崎要塞の入口だった場所でしょうね。
現代では崩落も有り入口も狭く人が入るのは不可能な様です。
さて、話を鎌倉時代の終焉の頃に戻しましょう。
CIMG2538
新田義貞は鎌倉攻めを行いましたが・・・
巨福呂坂(こぶくろざか=鶴岡八幡宮裏手北側侵入経路)も・・・
化粧坂(けわいざか=扇谷地区侵入経路)も・・・
亀ヶ谷(かめがやつ=北西侵入経路)も・・・
極楽寺坂(ごくらくじさか=南西侵入経路)の全て突破出来ず、苦戦しました。それだけ源頼朝公が築いた鎌倉城の守りは難攻不落だった訳です。
CIMG2521
そこで、この稲村ケ崎で黄金の太刀を海に投げ入れて海の神へ、潮を引かせて鎌倉への侵入経路を開く様に祈願すると潮が引き海底が露出して大軍が稲村ケ崎の海側から鎌倉市街に侵攻する事に成功して鎌倉幕府執権北条家を滅亡させたと伝承が伝わります。
・・・まぁ、これは眉唾物の脚色でしょう。
しかし、この神事は実際に行ったと思います。
実は古代から平安時代は、鎌倉時代と違って海に囲まれた扇状地の様な湾の様な地形に侵入する経路は、海沿いの崖に切通しが作られた様です。
これは古代の東海道が残る、鎌倉市材木座~小坪の住吉城址と海前寺の切通しの事例を見ても明らかな歴史事実です。
恐らく新田義貞は、極楽寺坂や化粧坂の切通しを攻撃し北条家の注意を引く間に、工作兵を用いて稲村ケ崎の岸に兵士が通行可能な切通しを建設したのだと思います。
そして、そこを通行する際の安全祈願として神事を行ったのだと思います。
CIMG2549
近くに寄ると分かるのですが、特に上の写真の左手部分、人工的に少し平たく削平した名残りの様に傾斜が緩く成っているんですよね。
そして、近代要塞が築かれた辺りも崖の裾が今でこそ海波の浸食で崩落して歩く程幅は無いものの、その先には角度の緩い場所が復活しているんです。
今では渡れないこの比較的角度の緩い地形、実は新田義貞が突貫工事で削り出した道の跡なんじゃないかな~?
・・・と感じました。
まぁ、神様にお願いしたら海が引いて軍馬が通れる様に成った方が神秘的では有りますが、現実的では無いですよね。
さて、歴史解説は以上の通りですが、ここは小生の嫌いな勲章を粗末に扱った反日バンド“サザンオールスターズ”の歌「稲村ジェーン」のタイトルにも成っている景勝地。
他にも良い写真が撮れたので少し掲載したいと思います。
CIMG2542
波しぶきと江ノ島と夕陽。
CIMG2525
夕陽を見るカップルの後ろ姿と江ノ島。
CIMG2526
仲睦ましく、いつまでも御二人には幸せであって欲しいなぁ~と思いました。CIMG2573
富士山と七里ヶ浜と江ノ島と夕陽。
素敵な場所でしょ?
実は稲村ケ崎の目の前には素敵なレストランも在ります。
CIMG2572
MAINと言う御店です。
CIMG2593
CIMG2575
御覧の通り素敵な内装なのですが、窓辺の席からは富士山と江ノ島と七里ヶ浜を見ながら食事を出来ます。
CIMG2577
昨日は小生、平日の休みを利用して田浦梅林の山登りをしていたので単独行動もあり、稲村ヶ崎も当然一人でしたが、この御店は一人で来てもユックリ落ち着いて食事して有意義な時間を過ごせますし、恋人や夫婦で来ても雰囲気の良い御店ですのでくつろげると思います。
CIMG2583
因(ちな)みに昨日は200gのステーキとカシスティーを注文しました。
この後でスポーツジムに行く予定が有ったので当然、炭水化物抜き(笑)。
とは言いながら、田浦梅林の近くの和菓子の名店、ふじみ屋で買った“梅どら焼き”を食べていたので山登り前に当分は補給済みでした。
もう、昨年凄い太ったので贅沢して美味しい物を食べるときは炭水化物は外さないといけないんです(泣)!
CIMG2586
お肉美味しかったですよ!
ウェイトレスのお姉さん、良い接客をありがとう♪。

今回の記事はここまでですが、稲村ヶ崎、良い所でしょう?
是非、皆さんもお散歩して見て下さい!推薦の場所です。


では次回は鎌倉の円覚寺の解説か、建長寺の解説か、田浦梅林の現時点の梅林の開花状況報告を書きます。
又、次の記事でお会いしましょう♪



ブログを友人の勧めで始めて早、2年半。
小生の雑記を見に訪問して下さった人数が13万3千人キッカリに成ってきました。
image

最初は一日数人の閲覧者・・・
趣味なので不定期更新、利益を求めずアフィリエイトもしないので広告も無く・・・
他人に利用されるのは嫌なのでハンドルネームのまま実名出さず・・・
色々ネットと雑誌に寄稿要求されても無視し・・・
純粋に歴史偉人やドライブや郷土料理食べ歩きが好きな人だけに読んで貰えれば良いや・・・
・・・と、思いながら博物館で文献閲覧して、旅行して、食べて、山登って、海で夕日見て、綺麗な風景見て、地元で配布する郷土史紹介冊子を自分で書いてブログも書き書き・・・
今年の正月にはlivedoor blogの旅行全般カテゴリーで全体の2位に成って自分でも目ん玉ブッ飛ぶぐらいビックリし・・・
ライブドアブログの順位 2017年1月2日

郷土史冊子とは別に今年、横浜の間宮の殿様の顕彰文も完成し形に成ります。

全ては偉いのに偉ぶらず小生を相手にして下さった神道の宮司様、曹洞宗と日蓮宗と浄土宗と浄土真宗と臨済宗と真言宗と天台宗の和尚達の御恩と、殿様達に偶然呼んで頂けた御導きです。
そして、たまに優しく誤字と内容誤記を御指摘して下さった方々とのコミュニケーションは読んでくださる方がいる事を実感できとても嬉しかったです。
これからも宜しくお願いします!

昨年は神社仏閣だけでも大小祠も合わせて300箇所近く廻りましたが、今年に入り余り遠出活動しなく成っています。
だいたい鎌倉に週末いるくらい。
実は、昨年は神社仏閣城址史跡を訪問する度に方々(ほうぼう)で美味しい郷土の料理や特産品を食べていたら体重が15kgも増えてしまいました(笑)。
そこで、今年からスポーツジムに通い始めた為に、休日帰宅後は少し郷土史を整理すると疲れて寝てしまう事が多くブログを疎かにしています。
まぁ、1週間に一度の更新を最低でも出来たら良いなと思いますので、この先も宜しくお願い致します🎵

追伸
他にもブログを疎かにしていた原因が有りました。image

実はスマホのアプリで子供の頃にスーパーファミコンで遊んでいたファイヤーエンブレムがリリースされて寝る前にやってました・・・
2週間位嵌(は)まり、面白すぎるので「こりゃイカン!止めれん!」と思い本日アンインストール削除しました。
皆さんもゲームは程々に(笑)!

さぁ、夏までにムキムキ歴史オタクに戻ってやるぜい!

image
北鎌倉駅の真横に香下庵と言う、元々は茶室だった場所を茶店に改装した軽食甘味処が存在します。
先日、東慶寺と圓覚寺に観梅に行った際に・・・
「せっかく北鎌倉に来たのだから北鎌倉発祥の“けんちん汁”を食べて帰りたいなぁ~」
・・・等と思いながら歩いていた所、店頭に美味しそうなけんちん汁とデザートのリンゴのコンポートの1000円のセットの写真に魅(ひ)かれて入店して見ました。
image
この狭い歩道を挟んで直ぐ店舗。
茶室だった部分を改装して店舗にしてるのですが、目の前が北鎌倉駅で横須賀線の往来を庭の梅の木越しに見る事が出来て、凄く旅行に来た気分に成ります。
image
料理を待つ事暫く、期待通り、綺麗な盛り付けのリンゴさんと蕨の煮物の小鉢、そして焼餅の入った❝けんちん汁❞が来ました。
image
見た目も綺麗でしょ?
食べた小生の感想として、この香下庵サンのけんちん汁は過去最高レベルの美味しさでした!
味が良く沁(し)みてとても美味しい!
そしてリンゴのコンポートも優しくとても美味しゅうございました♪
昼食としては男性には少な目かも知れ前んが、他にもアンミツや御団子も有るので甘味類を追加注文すると御腹一杯に成るでしょうし、一般的に旅客は鎌倉駅に移動して小町通りで食べ歩きしたりもするでしょうから、本当に旅の軽食としては持って来い、しかも鎌倉名物の料理を食べれて嬉しい御店ですね!
※ただし注意!
この❝けんちん汁❞は冬季限定だそうで、初春の頃、もうすぐ期間終了だそうです!
ですから、召し上がりたい方は梅の咲いている内に北鎌倉を訪れて、事前に電話連絡で食べたい事を伝えて有無を確認した方が良いと思います。
image
ところで、食事の席から見た風景はこんな感じです。
梅の花の向こうに北鎌倉駅と東海道線の線路が見えます。
本当に旅をしに来た感じが味わえますよね~♪
image
まぁ・・・
小生は横浜と鎌倉の境目に住んで居る上に、月に4度は古書を閲覧しに鎌倉の神社仏閣や周辺の図書館や博物館を訪れているので、毎週が鎌倉旅行状態なのですが(笑)。

でも、こうやって何となく季節の変わり目を感じられて、鎌倉市から遠方の人も近くに住む人も分け隔てなく癒してくれる仏様や神様と自然の風景と人の作った日本庭園の美しさを享受できるんです。
・・・これだけでも幸せだと本当に思います。
こういった文化と史跡を残して下さった明治時代以前の先人の皆さん、ありがとうございます。
そして、神社仏閣と自然の保護に努めて下さった歴代宮司様、和尚様、氏子サン、檀家さん、ありがとうございます。
源頼義公、義家公、義朝公、頼朝公、頼家公、実朝公、そして足利家鎌倉公方歴代将軍様、戦国時代の北条家の殿様方と配下の武将の皆様、徳川秀忠公、本当にありがとうございます。
皆さんの御蔭で現代人も心を休める事が出来ます。

そして、香下庵の女将さん、美味しい御雑煮風のけんちん汁、ありがとう!
出来れば・・・季節限定じゃなくて一年中食べたいなぁ(笑)。

香下庵茶屋
住所:〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内492
電話:0467-25-0411
香下庵茶屋場所 久良岐のよし
北鎌倉駅裏手、徒歩1分。円覚寺参道踏切を渡って左手。

昨日、梅を見に東慶寺に行った。
image
道路に近い方は満開、谷戸地形に囲まれた奥の方は、まだまだ蕾(つぼみ)が多くて、今年は長い期間楽しめそうだ。
東慶寺の歴史については以前に書いた記事が有るので興味の有る人は以下のリンクをクリックして見て貰うと良い。

駆け込み女と駆け出し男
映画にも成っている御寺。
今回は梅の開花状況報告的な要素の記事なので、もう、黙って写真を列挙しようと思う。

山門の手前、昔総門が有った場所には石柱と説明の看板。
image
image
この日は往年の名車も何故か境内に停まっていた。
image
ダットサン。
image
梅は個体によって開花状況が違う様で、今年は気温が寒かった分、日当たりによる開花状況の差が大きい様だ。
でも鎌倉市内は概ね7分~9分咲き。
image
image
image
受付を済ませると、正面に真っすぐ、梅の並木が続く。
image
image
傍らには尼寺らしい弟橘姫様と思われる石像。
image
image
この御寺は映画にも成っているが、現在の境内には植物が多く植えられて心の癒しの寺に成っている。
特に梅が素晴らしい。
image
image
鐘楼も梅が栄える。
image
梅並木の途中、仏像が参拝客を御出迎え。
この辺りの梅は満開で見頃に近かった。
image
ふむ。
仏様も癒されている様です(笑)。
image
image
ピンクの梅、可愛いですね~。
image
覚山尼様や天秀尼様の御墓へ御参りに行く途中、右手に御地蔵様・・・
image
この森の右手に、北条時宗公の奥方で東慶寺を開いた覚山尼様と、豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様の御廟所が在ります。
image
癒される良い御寺でしょう?
今なら水月観音様も特別公開中です。
image
とても美人でした。
image
皆さん、是非、この時期に東慶寺を訪問されては如何でしょうか?

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/古文書本能寺の変、仏教界は喝采「信長は清盛の再来」/ar-AAmBsOG#page=2
image

結論から言えば、記事にある島田と言う教授と当該の寺の現住職は・・・ 
宗教的に当時の天皇家の価値観と明治天皇の判断を否定し天皇家をコケにし、神道と真言宗と法華宗に喧嘩を売りたい訳だな? 

この古文書を書いたのは相当馬鹿な住職だったんだろう。 
曹洞宗寺院なので吉良家や北条家や今川家と同じ室町幕府と縁の濃い武将が大旦那な訳で、旦那の言う事を鵜呑みにした情弱振りが垣間見える。 
書いたのが1619年・・・ 
近江国出身・・・ 
な~る!六角家\(^-^)/万歳ってな環境で幼少時代を過ごした和尚だった訳だ? 
実際の所は信長公は当時は法華宗にカテゴライズされた浄土宗と日蓮宗と神道を大切にした偉人で、朝廷内の腐れ藤原貴族がないがしろにしていた有職故実や神事を多く復興した上に、天皇をないがしろにする足利義昭に説教染みた諫言をした程の人物。 
そしてキリスト教宣教師が神社仏閣を破壊させるのを防ぐ為に、自らの権化とした石を御神体に見立てた御社を作らせ、キリスト教布教の権利付与者を御神体にする神仏信仰を敵視出来ない釘を刺した神仏習合時代の日本文化守護者でもある。 

なのに、この古文書を書いた馬鹿住職は、神社仏閣を破壊させた切支丹大名の大内義隆や大友宗麟の悪逆非道には一言の批判も無い訳だ。 
つまり、宗教的な思考から来る批判では無く、若い時の偏見か、この寺を保護し帰依していた武将が信長公の御存命中に徳川家臣でありながら織田家に面従腹背し、丁度その時期に足利義昭が一向一揆と同盟した事に由る政治思想的な文章を追憶で書いた住職の生臭具合がプンプン臭う訳だ。 

この生臭住職が此の手の批判をしたと言う事は、即ち信長公と全く同宗派で同じ神仏習合の価値観を有していた東照大権現徳川家康公をもコケにした事に成る。
では、この古文書を書いたアホ住職は果たして家康公を批判しただろうか? 
恐らくしていない。 
何故なら寺に献金や寺領をくれる権力者の意に沿う事だけを言う俗物だったろうからな。 
臨済宗や曹洞宗は足利家と北条家等の室町幕府の家来がずっと大旦那だった、鎌倉時代からずっと。 
この寺の壇越だった殿様が織田家に面従腹背しており、神道と法華宗の保護者の織田信長公を敵視し、且つ反織田勢力が不利な情況だから面白くない訳だ。 
そして禅宗の親分の南禅寺や大徳寺や相国寺なんかの最大支援者の足利家棟梁の足利義昭が、天台宗座主の名跡を手に入れた武田信玄と、武田信玄と妻同士が姉妹の一向一揆の親玉の本願寺光佐とも同盟した。 
曹洞宗の最大支援者の北条家も、この時に一向一揆と和睦し同盟している。 
つまり、文の内容そう言う事だろ。 
政治的な宗教の権力争い的な事。 
だから織田家は敵、と言うタリバン的な御都合主義で書いたんだろう。 

曹洞宗も臨済宗も素晴らしい宗派で帰依して在家出家いた武将には名将も多いし、太田道灌公や伊勢宗瑞公や太原雪斎公なんか、ずばり、その代表格だ。 
北条家の武将達の内政も素晴らしい。 
この古文書を書いた和尚が極めて政治的な意図を書いている事が問題。 
「神道と仏教と朝廷儀式を復興」し、足利家が軽んじた「天皇の権威をも復興」させた「織田家、徳川家を否定する事を書いている」訳だ。 

因みに、織田信長公は死没直後に朝廷から功績を賞され一品相国を戒名に追贈されている、つまり正一位太政大臣だ。 
明治天皇からは更に建織田神(建勲神)の神号を追贈され古代文化復興と日本に平和の礎をもたらした神として祀られている。 
日本神話を大切にする真言宗も、現代に至るまで安土城址と高野山で織田信長公の菩提を守っている。 

つまり、この古文書を書いた馬鹿僧侶は究極的には天皇批判も行い、全ての神道信者と全ての浄土宗信徒、全ての日蓮宗信徒と、全ての真言宗信徒を否定している訳だ。 
つまりは、天皇に敵対する朝敵に該当する人物であり神道と真言宗と浄土宗と日蓮宗を敵視する人物が、この古文書の製作者であり、その古文書を支持する現代人と言う事に成る訳だが・・・ 

戦国時代の久良岐郡森村(横浜市磯子区中原)には泉蔵院桐谷寺と言う御寺が在ったのですが…
その御寺は正確には仏教ではなく源頼朝公が鎌倉時代に開いた修験道の道場でした。
戦国時代に成ると北条家臣で川崎~神奈川を治めた相模十四騎筆頭の間宮家が、一時的に川崎~神奈川を失陥して、現在の磯子区杉田~峯~田中~洋光台~港南区笹下に跨る地域に移住して以降、間宮家の鎮守の御寺として泉蔵院は間宮家から支援されました。
そこは頼朝公が熊野三所権現の御分霊を那智大社等から勧進して開かれた霊場だったので、泉蔵院の御住職は代々、今の和歌山県の那智大社や熊野大社等と交流があり、支援者だった間宮家は泉蔵院のつてで熊野詣(もう)でも行っていた様で以下の内容の文書が現代に残っています。

熊野先達泉勝檀那注文(米良文書)神3下ー六七一八
この文章に登場する間宮与七郎さんが誰か、現代には元服(成人)後の正式な名前が伝わらず、与七郎と言うのは昔の風習で元服する前に名乗った字(あざな)と呼ばれる幼名と言うか立派な大人としての名前じゃない名前です。
ですから、この与七郎さんにもきっと立派な名前が本当は有ったのだと思いますが、これが間宮家の誰と同一人物なのか現代ではサッパリ解らなく成ってしまっています。
小生は、この与七郎さんは間宮隼人で、その子が間宮元重公で、間宮隼人与七郎さんは早くに亡くなり、遺児の元重公を間宮康俊公が引き取って実子の様に育てたのではないかと推測しています。
そして、この間宮与七郎さんは江戸時代の地理学者で御庭番だった間宮林蔵こと間宮倫宋公の御先祖様と推測しています。
さて、上の文章は古文書を小生がWordで再現した文章です。ですから写真ではありません。
上の文章で「武州久良気之郡❝杉田❞郷」と出て来ます。
実は、この時代の杉田の「杉」の字は現在と異なり特殊な字体だったのですが、それを知らない低教養な近現代の学者や出版社の編集者が活版印刷にする際に「❝杉❞を❝松❞と読み間違えて字を誤植したまま出版」してしまったせいで、現代の学者さんも「松田郷」と書かれていると思い込んでしまっています。
賢い学者さんは書道の教養が無くても「おかしいな?」と気が付く様で、論文で「泉蔵院が間違って書いてる」と少し的外れですが字が間違ってる事をちゃんと指摘したりしています。
アホな学者は全く気が付かず、そのまま丸写しにして恥ずかしげも無く本に転載しています。
さて、今、小生が丸写し学者をアホ扱いしましたが、それは彼らが二次資料や三次資料を恥ずかしげも無く丸写し転載した挙句、歴史バカのコミュ障で実際に殿様達の御子孫や関係者に取材をしないから一次資料の確認もしておらず、小生が指摘した「松田✖」→「杉田〇」の様な間違いに気が付けないからです。
ハッキリ言って、素人の歴史オタクの小生を下回る調査能力と知能、そして歴史センスの無さで学者をやってる人は大勢いるのが、小生はたったこの3年間で良く解りました。
きっと、彼等は民間企業に就職していたら使い物に成らない様な人材だと思います。
さてさて、そんな中でも書道の知識が無くとも「松田」と言う活版印刷の書籍に誤って写された字が「杉田」だと気が付いた先生もいて、その人はきっとIQも高いしコミュニケーション能力も高い人物なのだと思います。
正直その先生の論文は、小生が最初の頃に間宮家の顕彰活動で御手本として大分、役に立ちました。
でも、その先生は書道の知識が無かったのと、間宮家の御膝下の現地まで行って関係者への取材までは行っていなかった様で、何で近現代の❝バカな官僚❞や❝歴史ガクシャ❞か❝いい加減な出版社❞の誰かが「杉田」の字に「松田」の字を誤植したか、その理由までは解らなかった様です。
その杉田〇の字を➡松田✖と読み間違えた理由、小生はとある人物の御好意で見せて頂いた古文書で知っています。

現代では本で読む字は全て楷書(かいしょ)と言って一文字々々々が単独の字で表現されていますよね?
実は、戦国時代~江戸時代の文書は今と違って、殆どが草書体です。
そして草書体には様々な字体が有り、戦国時代~江戸時代の❝久良岐郡杉田郷❞の地名として杉を書く場合は少し特殊な❝祥南書体❞と呼ばれる草書の書き方を元にした字体で書かれていました。
下は某寺の和尚様から御厚意で見せて頂いた古文書です。
写真撮影も個人的な信頼関係で許して頂けて保存して有るので皆さんに御見せして解説したいと思います。
戦国~江戸時代の「杉田」の字体。 久良岐のよし
御覧の通りですが、杉の書き方が現代の共通語での漢字の書き方とは字体が異なります。
これ、書道の知識が無いと「松」に見えても仕方がないんです。
恐らく下の小生がタイピングした文章の原本の杉田の「杉」の字体も上の写真と同じだったと思います。
熊野先達泉勝檀那注文(米良文書)神3下ー六七一八
それを受験勉強しかしてなくて教養の無かった昭和中期の・・・
❝国土交通省地理局の官僚❞
     か
❝本の出版に協力した歴史学者❞
     か
❝出版社の編集者❞
・・・その中の誰かが「杉」と読めずに「松」の字を誤植してしまったんだと思います。
昭和の出版物のミスに気が付いたのは「盛本昌広」先生と言う武蔵国~相模国の戦国時代の郷土史研究の第一人者です。
小生は勉強も嫌いで❝アフォ❞で❝バカ❞ですが、たまたま先人に対するリスペクトが強い事、そしてアホな行動範囲で気軽に活動する事、実際に現場に行って確かめないと気が済まない事、昔の人と同じ様に和尚様や宮司様を師として尊敬している事、自分より人間的に賢い人と話すのが大好きな事、歴史オタクな事から「お勉強」としての歴史では無くて実体験として、この「松」の字の問題に気が付きました。
無論、盛本先生の感には感服しており、知識的にも精神的にも研究の御手本にしております。
沢山、学者に直接会いに行ったりしましたが、まだ会った事のない盛本先生が一番熱心に研究して、古文書を書き写す段階のミスにも気が付いている様です。
・・・もっとも、小生も盛本先生が気が付いて無い部分もいくつか気が付いていたりしますが、ハッキリ言って小生の知識は偏りが有りバランスが悪く、とてもじゃないけれど学者には成れない所詮は歴史オタクの範疇を脱しないド変人歴史オタクです。
まぁ、歴史偉人の顕彰活動での熱意は学者共に負ける心算は有りませんがね、感情に任せて行動していますから。

まぁ、このブログ記事を見て「何を一文字の間違いに気が付いて偉そうに」と思った学者がいたら、「オメェ~素人の俺以下だから学者辞めちまえ(笑)」って言うしか無いですね。
だってね、寛政重修諸家譜って幕府編纂の武家の家系の記録や、新編武蔵風土記稿って地理と歴史と文化を纏めた本は、活版印刷に置き換える際にアリとあらゆる場所に字の誤植が有るんですよ。
特に元号ね。
天文〇→誤植→天正✖とか・・・
壱〇  →誤植→堂✖とか・・・
特に、草書体を読めない書道の教養が無い歴史バカ学者や出版社編集担当が誤読誤植しまくってるから。
更にそれを丸写しにして誤りにも気が付けないガクシャ先生もいたりして、もはや現代の歴史関連出版物は間違いだらけ。
ガリ勉でない人が好きで知能が高い先生や、虚栄心が無く本当に先人をリスペクトしていて現地を訪問する先生だけが間違いに気が付くみたいです。
小生の様に偏った知識を上回る知識を全体的広範囲に深く持っている本当の歴史顕彰家も兼ねた学者さんは人間的にも尊敬出来ます。

とりあえず、本を出版する時に関係先の御寺や神社や御子孫に、挨拶もしない様なガクシャは大体が研究態度が不真面目で、その手の誤字に気が付けない、年号の誤りにも気が付けない位の注意力の低さだから親戚同士の武将が叔父と甥の年齢が同世代に成ってしまう誤りに注釈いれないまま本に書いたりして恥をさらしていたりします。

なんだかなぁ~。
小生は3年、御偉いセンセイ方は40年以上一体、何をやってらしたんでしょう・・・
とりあえずさ、一次資料も読んでいない学者は先ずは、自分の研究している武将の御墓参りから始めろやボケ!

・・・って愚痴と、出版物の誤りの指摘でした。

今年も梅が見頃の季節に成りましたので、神奈川県内で綺麗な梅の花の名所を小生の知る場所だけ、一覧として掲載します。
もし他にも県内に素晴らしい梅林を御存じの方は、紹介コメントを残して頂けると幸いです。
※小生が写真未撮影の梅林については公式ホームページの写真を転用し紹介します。
※公式ホームページが有る場所は名前にリンクも貼りますので参考にしてみて下さい。
※梅林の名称をクリックすると、リンク先の公式ホームページを閲覧出来ます。


湯河原梅林
住所:〒259-0313足柄下郡湯河原町鍛冶屋951-1付近
見頃:2月初旬~3月初旬
湯河原梅林様公式 画像拝借1 久良岐のよし  
湯河原梅林様公式 画像拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
●夜間ライトアップ
※期間については問い合わせ先に電話確認するか、公式ホームページを御覧下さい
湯河原梅林は約4000本の梅を誇る。箱根~小田原~熱海の温泉地や名勝旧跡からも車で1時間以内と近く、周辺には温泉宿も多く有る風光明媚な観光地で泊りがけの梅林鑑賞を楽しめる夜間ライトアップも行っている。
連絡先
湯河原町観光課 TEL 0465-63-2111
アクセス
幕山公園
駐車場…500円~300円(会場との距離で料金が異なる)
JR湯河原駅~バス乗車(約20分に1便間隔)~15分で到着 湯河原梅林 アクセス 久良岐のよし



【辻村植物公園】
住所
:〒250-0042小田原市久野荻久保4381
見頃:2月初旬~3月初旬
辻村植物公園2 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし 
辻村植物公園 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
特に無い。
連絡先
小田原市広報広聴課 TEL 0465-33-1261
アクセス
辻村植物公園
駐車場500円
JR小田原駅西口~バス乗車いこいの森(わんぱくらんど)行き~約10分、辻村植物園で降車
辻村植物公園 アクセス 久良岐のよし 

小田原城 城址公園内梅園
住所:小田原城址公園
見頃:1月末~2月末
小田原城 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式から拝借 
2015-02-28-16-54-45
※2015年02月28日撮影。
この頃が見頃。
イベント
梅まつり
梅林の規模は50本前後と小さいが、御城を見学出来る上に場内でレンタル甲冑で写真撮影等も出来る。
また、辻村植物公園の梅林や曽我梅林や小田原フラワーガーデンと合わせて鑑賞に来れる距離。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
TEL 0465-23-1373
アクセス
JR小田原駅から徒歩10分
公共駐車場無し。周辺に私営駐車場有り。 小田原城アクセス 久良岐のよし


小田原フラワーガーデン
住所
:〒250-0055 神奈川県小田原市久野3798-5
見頃:1月末~2月末
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借 久良岐のよし 
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
渓流の梅林 梅まつり 
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
TEL 0465-34-2814
アクセス
JR小田原駅乗り換え~伊豆箱根鉄道大雄山線飯田岡駅~徒歩10分
駐車場(140台)無料
小田原フラワーガーデンアクセス 久良岐のよし 


曽我梅林
住所
:〒250‐0205神奈川県小田原市曽我別所282付近一帯

見頃:1月末~2月末
曽我別所梅まつり観光協会様公式 拝借1 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
2015-02-28-17-40-49 
2015-02-28-17-38-43 
2015-02-28-17-33-47
※2015年02月28日に撮影
イベント
小田原梅まつり 
※曽我梅林は他の梅林とケタ違いの3万本以上の広大な梅林です。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
小田原別所観光協会 TEL 0465-42-1965
アクセス
電車…JR東海道本線国府津駅~御殿場線に乗り換え~下曽我駅~徒歩15分。
バス…小田原駅・国府津駅からバス有り。中里で降車~徒歩20分。
曽我別所梅まつりアクセス 久良岐のよし 


松岡山東慶寺 金峯山浄智寺
住所
東慶寺〒247‐0062鎌倉市山ノ内1367

浄智寺〒247-0062鎌倉市山ノ内1402
見頃:2月初旬~3月初旬
東慶寺様公式ki-chi様撮影 拝借1 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
2014-06-14-14-47-46 
※2015年06月14日に撮影
駆け込み女と駆け出し男
※東慶寺は2015年公開の映画❝駆込み女と駆出し男 ❞の舞台です。
イベント
特に無し。
東慶寺は約100本以上、浄智寺にも数十本の梅が咲く。
東慶寺と浄智寺は徒歩5分の距離。
浄智寺は鎌倉五山で京都の征夷大将軍が直接住職を任命する特別な寺だった。 現在は鎌倉江ノ島七福神巡りの一つ。
東慶寺は鎌倉幕府執権北条時宗の妻、覚山尼様の開基。その後は後醍醐天皇の皇女用堂尼様、戦国時代には豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様が住職を務めた。映画❝のぼうの城 ❞のヒロインで女傑として有名な成田甲斐姫も天秀尼様の養育係として仕え東慶寺に同行し住したと伝承する。
浄智寺は鎌倉五山の一つの各式を持つだけでなく、嘗(かつ)ては広大な敷地と無数の堂塔を有し、鎌倉公方の仮御所に定められる事も度々有り、足利持氏公や足利成氏公が滞在した場所でもある。
又、2015年に公開された映画❝駆込み女と駆出し男 ❞の舞台でもある。
連絡先
東慶寺 TEL 0467-33-5100
浄智寺 TEL 0467-22-3943
アクセス
東慶寺 JR北鎌倉駅~徒歩5分
浄智寺 JR北鎌倉駅~徒歩8分
東慶寺浄智寺アクセス 久良岐のよし 


錦屏山瑞泉寺異名:花の寺&荏柄天神社】
住所:
瑞泉寺 〒248-0002 鎌倉市二階堂710
荏柄天神社 〒248-0002 鎌倉市二階堂74
見頃:1月中旬3月初旬、黄梅は2月中旬~3月中旬 
瑞泉寺様公式mayumi-katsu様撮影 拝借1 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
image
荏柄天神社は日本三古天神社の一つに数えられる天満宮で、境内には数十本の梅が咲く。
イベント:
瑞泉寺
瑞泉寺様公式催事 拝借 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
季節ごとに、その季節に見頃の花を植樹してある。梅は数百本を数える。
鎌倉時代~江戸時代まで権力者達が心の安らぎを瑞泉寺の花々に求めて訪れ歌会等を催した。
裏山にかつて在った一覧亭と言う建築からの眺望が良く、水戸徳川光圀(黄門様)も訪れた。
近くの荏柄天神社にも数十本の梅が植樹されているので、荏柄天神社と瑞泉寺をセットで見学するのが御薦め。
徒歩に行ける範囲の浄妙寺や鎌倉宮と合わせて見学しても、より鎌倉市街の旧鎌倉幕府拠点地域の原風景を楽しめる。浄明寺では抹茶も飲める。鎌倉宮は桜の名所。
連絡先
瑞泉寺 TEL 0467-22-1191
荏柄天神社 TEL 0467-25-1772
アクセス:
荏柄天神社 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車10分~天神前で降車
瑞泉寺 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車15分~終点大塔宮で降車
瑞泉寺荏柄天神社アクセス 久良岐のよし 


神奈川県立フラワーセンター大船植物園
住所:
〒247-0072 神奈川県鎌倉市岡本1018
見頃:2月初旬~3月初旬
大船フラワーセンター様公式 拝借1 久良岐のよし 
大船フラワーセンター様公式 拝借3 久良岐のよし
※画像は大船フラワーセンター様公式から拝借
イベント:

玉縄桜を楽しもう
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
玉縄桜の❝玉縄❞とは古来より伝わるこの地域の地名で、戦国時代、今の清泉女学院中学校を本丸にした❝玉縄城❞と言う名城が在った。上杉謙信軍10万、武田信玄軍2万6千に攻められても落城しなかった堅城だった。
その歴代城主が小田原北条家親族の玉縄北条家で、玉縄桜はその殿様の居城の名を頂いた由緒正しい桜で、観梅の頃に咲く。近くの龍寶寺は関東最強の武将北条綱成公の菩提寺で歴代城主の御廟所も在る。境内には他に玉縄歴史資料館も有り、玉縄城の復元縄張り模型や出土品が展示されている。
連絡先:
神奈川県立フラワーセンター大船植物園 TEL 0467-46-2188
アクセス:
駐車場109台
電車&徒歩 
大船駅降車 大船駅西口(大船観音側)~徒歩16分
バス 
大船駅西口バスターミナル1番乗り場から❝渡内経由藤沢駅行き❞か❝公会堂経由城廻り中村行き❞に乗車~❝岡本(駅から3番目のバス停)❞で降車~徒歩3分。 
大船フラワーセンターアクセス 久良岐のよし制作 


田浦梅林の里
住所:
横須賀市田浦大作町
見頃:2月初旬~3月初旬
2015-03-07-15-46-062015-03-07-15-45-462015-03-07-16-08-27
※写真は2015年03月07日
イベント:
梅林まつり 
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
田浦梅林は今上(現在の)天皇陛下の御生誕記念に植樹されたのが始まりで、現在では梅の本数は2700本を超え、梅の根元には水仙75,000株が植えられている。
田浦の山全体に梅が植林されており、山頂からは梅林越しに懐かしい神奈川の里山の風景を眺める事が出来る。
連絡先:田浦観光協会 TEL 046-961-4181
アクセス:
バスと徒歩…田浦郵便局バス停で降車~山頂まで徒歩20分
電車(JR)と徒歩…JR田浦駅で降車~山頂まで徒歩25分
電車(京急)と徒歩…京急田浦駅で降車~山頂まで徒歩40分
田浦梅林


岡村梅林
住所:
〒235-0021横浜市磯子区岡村6-8-19
見頃:2月初旬~3月初旬
2015-03-07-13-19-54
2015-03-07-13-17-04
2015-03-07-13-17-46
※写真は2015年03月07日撮影
イベント
夜間ライトアップ
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
梅まつり
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
2015-03-07-13-20-22
岡村梅林は大きくは無いが、150本前後の梅が植林されている。
この岡村梅林は、元々周辺の横浜市立岡村公園(スポーツ公園)と合わせて、近隣の岡村天満宮の社地だった。岡村天満宮の開基は鎌倉御家人三浦家の一族の平子家と伝わり、その人物は平子有長公と推定出来る。有長公は鎌倉御家人で最初の源頼朝公暗殺未遂事件の実行犯を取り押さえた勇敢な武将でもあった。丘の裏手には戦国時代の名将北条氏繁公の開いた龍珠院も在る。
岡村天満宮の社領は第二次世界大戦後に米軍に接収された後、横浜市に返還されたが横浜市が岡村天満宮に返還しなかった為に一度、岡村梅林は消滅したが、岡村天満宮の氏子様の有志達が旧社地の一部を買戻し、現在の岡村梅林部分にも梅を植林し梅林を復興して下さった歴史が有る。
連絡先:岡村公園 TEL 045-751-4375
アクセス:
バス
京急弘明寺駅/市営地下鉄弘明寺駅/蒔田駅/JR磯子駅のいずれかの駅から乗車~天神前バス停か岡村交番前バス停で降車~徒歩5分
駐車場…岡村公園の有料駐車場~徒歩3分
岡村梅林アクセス


根岸森林公園
住所:
〒231-0853 横浜市中区根岸台1-2
見頃:2月初旬~3月初旬
DSC_0071
DSC_0075
※写真は2015年03月02日撮影
DSC_0088
※上写真は明治時代の旧競馬場一等観覧席(米軍横須賀ベース管理の史跡)DSC_0129ドルフィン外観DSC_0131眺望
イベント:特に無い。
広い芝生の広場と園内に広がる桜林は横浜市民の憩いの場としても有名だが、公園の中央には400本からの梅林も整備されている。
もともとは競馬場だった。
幕末、横浜港が開港され本牧半島が外国人居留地に成った事で、駐在する欧米の外交官や軍人の要望で明治時代に建設された日本最初の競馬場の跡地。
隣接してJRAのポニー広場や競馬関連の博物館も有り、御弁当を持参すれば小さい子供連れの家族でゆっくり時間を過ごせる場所。自然湧水の池では子供がザリガニ捕り等も楽しめるる公園。
又、徒歩すぐの場所にはユーミンが十代の頃、まだ芸名が荒井由実だった時代に❝海を見ていた午後❞と言う曲で歌詞に歌ったレストランの❝ドルフィン❞が有る。
歌の通り、ドルフィンソーダを頼むと、この曲をかけて貰えます。
連絡先:横浜市環境創造局 TEL 045-671-3648
アクセス:
JR根岸駅~徒歩15分
駐車場有り。
根岸森林公園アクセス 久良岐のよし


三渓園
住所:
231-0824横浜市中区本牧三之谷58‐1
見頃:2月初旬~3月初旬
DSC_0140
DSC_0159

IMG_20160305_120554
イベント:
季節ごとのイベント有り、梅の季節は原家以来の伝統で茶が振る舞われる。
桜の季節には観桜の夕べで桜の夜間ライトアップ有り。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
明治時代の原財閥の富豪、原三渓が当時、廃仏毀釈で荒廃した全国の仏閣や徳川家所縁の城跡の建築文化財を広大な私邸に移築し保護した。日本で全国に先駆けて私立公園として私邸の建築文化財と日本庭園を広く庶民に公開した。
中には聖武天皇の勅願所だった京都府の灯明寺の旧本堂や三重塔や鎌倉の尼寺東慶寺の仏殿、紀州徳川家の和歌山の別荘や、京都の伏見城等、数え切れない程の建築遺産が移築保護されている。
DSC_0163
DSC_0144
現在は原財閥から横浜市が管理を委ねられている。
原三渓の御蔭で破壊を免れた重要文化財や、季節ごとの花の綺麗な広大な日本庭園。
連絡先:045-621-0834
アクセス:
駐車場有り。
桜の季節は駐車場に入るのに1時間以上待つ場合が多々有ります。
電車&バス
JR根岸駅でバス乗車~本牧下車。
JR桜木町駅/横浜駅東口~バス乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
みなとみらい線元町中華街駅4番出口近く、山下町バス停乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
三渓園様公式拝借2 久良岐のよし
三渓園アクセス 久良岐のよし


大倉山公園梅林
住所
:〒222-0037 横浜市港北区大倉山2-36-8付近
見頃:2月初旬~3月初旬
大倉山観梅会様公式 拝借2 久良岐のよし
※写真は大倉山観梅会運営様公式から拝借
DSC_0278
※2016年02月27日撮影
DSC_0277
※2016年02月27日撮影
イベント
大倉山観梅会
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
大倉山観梅会様公式 拝借1 久良岐のよし
※画像は2016年の広告
大倉山の梅林の隣には、戦国時代の北条家重臣笠原康勝公が開いた竜松院と言う御寺が在る。
その御寺を含む大倉山公園~太尾見晴らしの丘公園にかけて続く鶴見川河畔の丘陵は、笠原家の居城❝大曾根城❞だった。
その城址に小規模な梅林が有り丘一体は大倉山地区の住民の憩いの場だったのを、東急不動産が開発破壊しようとした際に、義挙した住民が一丸と成り東急の城址と自然破壊に反対し、約30年前当時の細郷横浜市長の下で横浜市が買い上げ自然を残した公園として整備し梅林として有名に成った。
初春には周辺地域からも観梅客で賑わう。
連絡先:港北区地域振興課(観梅会実行委員会事務局) TEL 045-540-2235


本沢梅園(ほんざわばいえん)
住所:
相模原市緑区河尻4457‐1
見頃:2月初旬~3月初旬

DSC_0032
※撮影日は2016年02月24日
DSC_0026
※撮影日は2016年02月24日
DSC_0033
※撮影日は2016年02月24日
イベント:
開園期間
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
※本沢梅園は官営なので管理人が常駐しておらず、開園期間以外は梅園の遊歩道には入れない。
※梅園自体は山腹の斜面に広がっているので、道路沿いからでも十分観梅が楽しめる。
本沢梅園祭り
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
約1000本の梅が植林されている。
昔は谷だったが、近隣の津久井湖建設の残土で谷間を埋めて、そこに梅を植林した。
周辺に歴史史跡も多く、山頂の金刀比羅宮は古来、雨乞いの神事が行われた水の枯れない池が在る。
梅林から尾根伝いの山裾(やますそ)の寶泉寺を囲む山は平安時代末期に長井家によって築城された小松城址でもある。
近くの津久井湖や戦国時代の名城、津久井城址の山のピクニック等と合わせて見学に行くと、1日中自然を満喫出来る良いレクリエーションに成る。
※津久井城址は根古屋地区のパークセンターに無料駐車場有り、鎧や城址復元図等の展示も有る。
連絡先:
相模原市コールセンター TEL 042-770-7777
城山まちづくりセンター TEL 042-783-8115
アクセス:
駐車場…無料130台
バスと徒歩…JR/京王線の橋本駅~バス❝若葉台住宅行き❞に乗車~若葉台住宅で降車~徒歩30分。
本沢梅園アクセス

 

横浜市にはデニーズの第1号店が存在します。
image
港南区上大岡のイトーヨーカ堂内に存在する店舗がデニーズの日本1号店なのですが、この事を知っている人は横浜市民でも余りいないと思います。
実は小生は横浜の戦国武将の間宮康俊公と、その御一門の顕彰活動でこの上大岡近辺の鹿島神社や源為朝公の石碑の写真撮影等に来ていたのでこのイトーヨーカ堂上大岡店に車を停めさせて頂いて買物をして帰ったり食事をしたりする事も有りました。
image
流通業界もコンビニの台頭でシェアを奪われて、老舗のスーパーも大変な様です。
image
多分、上大岡駅周辺の発達とともに開店したであろう店舗なので、40年位の歴史の有る御店なんじゃないかと思います。
image
imageimage
結構広く、品揃えも良いだけに、この店舗が無くなると周辺の人は困るんじゃないかなぁ~と思います。
何よりも、デニーズの1号店が無くなってしまうのは横浜市民として悲しい。
丁度、最近ジムに通い始めた事も有って、室内用の運動靴を改めて購入しようと思い、デニーズで記念の食事も兼ねて、2017年01月28日は上大岡のイトーヨーカ堂を訪れて、閉店し消える店舗の写真も撮影して来ました。
流石に歴史史跡でも宗教施設でも無いので、存続希望活動をする訳にも行かないし、民間企業には健全に成って貰わないと日本の為にも成りませんしね。
image
さて、上大岡のデニーズは1号店な訳ですが、間宮家の顕彰活動で知り合った地元の人の話では昔から内装は余り変わらず、写真の様に明るい店舗だったそうです。
昨日、小生はビーフシチューとオニオングラタンスープを頂きました。
image
image
特にオニオングラタンスープが美味しかったです。
店長さん、綺麗な給仕担当のウェイトレスさん、可愛らしい会計担当のウェイトレスさん、本来は花形なのに裏方として店を支え続けた調理担当のスタッフさん、横浜市の誇りであった1号店の運営、今まで頑張って下さってありがとう御座いました。
出来れば、イトーヨーカ堂店舗の跡地に建つ次の建築物に、デニーズ一号店、建て替えと言う名目で再建して営業継続して欲しいなぁ~。
・・・と、思うのは小生だけでしょうか?

↑このページのトップヘ