歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。 皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪ …と、思って書いています。 写真・本文・構成・無断転用禁止! 関係先と小生の個人的な信頼関係で了解をとって記事にしているので、転載したい場合は当方へ確認願います。

平安時代末期~戦国時代まで続いた相模国の小大名、三浦家の聖地と江戸時代に庶民の信仰を集めた神社仏閣や弁財天を祀る洞穴が、ねつ造された嘘の歴史を流布するカルト信仰によって乗っ取られる危機に瀕しています!

以下の事を行って、史跡乗っ取りを阻止して頂きたく、歴史好きの皆さんに拡散致します!

Google mapで以下の●の地名の場所を検索して見て下さい。
( )内が正式名称
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
以上の場所が明治時代設立のカルトを踏襲した新興カルトに乗っ取られ、Google map上で●表記の施設名称に書き換えれたり、小生や仲間達で正しい歴史を警告するとレビューから削除されます。

実は最後の三浦家の頭領の三浦義意公と房総半島の真里谷武田家出身の側室をモデルにして明治時代に書かれた架空歴史小説「桜の御所」に登場する架空ヒロイン小桜姫をカルトを用いて実在したかの様に広めカルト組織がそれぞれの史跡や別の神仏の崇拝場所を乗っ取ろうとしています。
実在せず、時代設定もハチャメチャな話をさも実話の様に信者や歴史に無知な女性に「縁結びの神」と悪質な情報で勧誘しては自分達の宗教施設の様に事実上乗っ取りにかかっています。
独身女性の結婚願望に付けこみ信者を増やそうとしている訳です。
ソイツ等は❝神奈川県神社庁や菩提寺、菩提寺宗派の曹洞宗とは全く無関係❞の新興宗教系統のカルトです。にもかからず、さも自分達の宗教施設の様に佐原三浦家関係の宗教施設へ、縁結び願望の有る女性達を連れまわしては歴史事実と異なる解説をして信じ込ませています。
このせいで、佐原三浦家最後の武将、三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の三浦氏三崎町小網代に在る海蔵寺は一般参詣不許可の対応をせざるを得ない状況に追い込まれています。

そこで以下のお願いです。
①下記3ヶ所をGoogle mapで検索して、小生達の歴史解説レビューに「」を押して頂けませんか?
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
②出来れば「情報の修正を提案」から小生が( )に示した正しい名前に戻すように名前を提案して下さい。
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
③可能ならばレビューに三浦家の歴史書に小桜姫の名前は登場しない事、三浦義意公の妻は真里谷武田家の姫である事、桜の御所の時代設定で架空人物の小桜姫の実家とされる金沢北条家は戦国時代の三浦義意公の佐原三浦家滅亡より200年も前に滅亡した事実、この三点をレビューに書いて頂ければ幸いです。

目的としては、縁結び目的の独身女性達がカルトに入信するのを防ぎ且つ正しい神社の名前と仏教施設としての名前をGoogle mapで取り戻し、史実を周知して頂いた上で女性の皆さんには縁結び祈願に安心して自分で来て頂ける様にする為の対抗策です。
ひいては三浦半島の観光が小説桜の御所の舞台として、そして源頼朝公や三浦家所縁の観光地として正しい形で活性化するのが最終的な目的でもあります。

無論、皆さんのお手を煩わせたく無いので出来る範囲の協力、又は拡散で結構です。

すみませんが、拡散協力願います。

三浦家について詳しい歴史は以下に纏め解説してあります。
http://yoshi-kanagawa.blog.jp/archives/64025466.html
上記URLの解説を参考にして頂ければ幸いです。

仮にカルトを利用してでも観光振興の為にやっているのならば、カルトを巻き込むのは三浦ブランドを落とすマイナス効果しか生まず、周辺自治体にも迷惑をかける行為に成ります。
三浦半島には元々源氏と平家の三浦家所縁の豊富な史跡群に加え、近代の要塞や、アメリカ文化の観光地、そして問題の三崎周辺は風光明媚な夏の観光地や冬のミカン狩りや鮪や松輪鯖や三浦大根のブランドが元々有名な場所です。もっと真っ当な宣伝をして城ヶ島や三崎をアピールして欲しいと願うばかりです。
三浦家滅亡の新井城址は日本最長の4年間に及ぶ籠城戦が展開された名城として歴史好きには有名な場所です。カルトが小桜姫の祠と名を変えて宗教活動に利用している場所も江戸時代に遭難した漁民を助けた強い御利益の在る弁財天様として庶民から崇敬された場所です。
諸磯神明社も天照大神を祀る大切な神社ですし、三浦義意公の奥方が北条勢に捉えられたと伝承する諸磯神明社摂社の若宮社も、鶴岡八幡宮の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇=八幡大菩薩)の御分霊以外に何者でもありません。神道の信者にとってとても大切な神様達の御社です。
そこをカルトで汚さないで下さい。

三浦には沢山の景勝地と近代公園や自然公園、そして史跡とヤマトタケル神話や三浦家歴史の舞台の神社やと寺も有ります・・・
三浦海岸(海水浴場)
三浦市下浦町~三崎町周辺(西瓜と三浦大根の名産地、冬季はミカン狩り、初春は苺狩り)
江奈漁港(高級ブランド鯖の松輪鯖の漁港)
剣崎灯台周辺(神奈川の景勝50選)
盗人狩り(神奈川の景勝50選)
城ヶ島大橋と城ヶ島の景勝(神奈川の景勝50選)
城ヶ島のホテルや旅館(海に面したホテル、旅館、ペンション多数)
城ヶ島公園(景勝地、自然公園)
城ヶ島灯台(景勝地)
城ヶ島長津呂崎(景勝地)
城ヶ島北原白秋記念館(北原白秋三崎在住時代の解説展示館)
三崎漁港(鮪の水揚げ漁港、昔からの名産地)
三崎銀座商店街(鮪料理専門店が並ぶ商店街)
三浦映画社(三浦半島に映画ロケとドラマを誘致するNPO、過去ロケの作品の紹介場所)
三崎城址(北条氏規公居城)
本瑞寺(源頼朝公別荘跡、後に入舩地区に三浦義意公が開基し江戸時代に現在地に移転た寺院)
油壷湾(神奈川の景勝50選:昭和の映画スターのヨット遊び場)
油壷マリンパーク(皇太子殿下と雅子妃殿下始め皇族の方々のデート場所)
新井城址(佐原三浦家終焉の城)
荒井浜(流鏑馬神事が行われる)
海蔵寺(三浦道寸公開基の寺院、三浦道寸と三浦義意公の菩提寺)
小網代の森(原生林の遊歩道)
荒崎海岸(神奈川の景勝50選)
諸磯隆起海岸(フィリピン海プレートと太平洋プレートの衝突による隆起地形観察公園)
葉山マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、商業施設)
大楠山(神奈川の景勝50選)
森戸神社(源頼朝公勧進の三島大社御分霊)
名島(源頼朝公別荘跡の水没した島)
森戸の夕照(神奈川の景勝50選:森戸神社から名島を見た夕景)
鐙摺城址(三浦義澄公拠点)
鐙摺城址出丸旗立山(伊東祐親公御廟所)
秋谷の立石(神奈川の景勝50選)
秋谷海岸(景勝地)
長者ヶ崎(神奈川の景勝50選)
佐島マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、リゾートホテルとレストラン)
天神島臨海自然教育園(自然観察公園、佐島マリーナ横)
関口牧場(酪農家、アイスクリーム製造直売)
ソレイユの丘(BBQ等の複合レジャー施設)
披露山公園(神奈川の景勝50選)
住吉城址(平安時代末期三浦義澄公が籠城し、戦国時代に北条早雲公が籠城した城址)
逗子海岸(昔は明治の侯爵達の遊び場、昭和期は太陽族、今はチャラ男にチャラ女の聖地)
逗子マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場)
逗子市郷土資料館(徳川家別荘)
衣笠城址(平安~鎌倉時代の三浦本家の居城)
大善寺(衣笠城址に在る、鎌倉時代の三浦本家の学問所だった寺院)
満昌寺(源頼朝公が鎌倉幕府設立の立役者の三浦義明公供養に開基した寺院)
清雲寺(佐原三浦家の鎌倉時代~室町時代初期の菩提寺)
怒田城址(和田義盛公の平安時代の居城)
佐原城址(源義経の鵯越の逆落としの作戦を立案した佐原義連公の居城)
田浦梅林(今上天皇生誕記念に植林された4000本超の梅林の公園)
塚山公園(神奈川の景勝50選)
塚山公園按針塚(徳川家康公外交顧問のウィリアムスアダムス=三浦按針公と奥方御廟所)
どぶ板商店街(アメリカ第7艦隊の将兵が遊ぶアメリカ文化の商店街)
戦艦三笠(世界三大旗艦の一つ、東郷平八郎元帥の乗艦)
三笠公園(戦艦三笠が展示された公園、猿島へ渡る船の桟橋)
猿島要塞(明治時代の要塞、日蓮聖人の史跡、縄文時代の遺跡)
信楽寺(坂本龍馬室お龍さん菩提寺、土肥実平公持仏を祀る寺)
走水海岸(日本武尊と弟橘姫の神話の舞台)
走水神社(日本武尊の冠を社殿地下石室に埋蔵した神話の神社)
御所ヶ崎砲台史跡(日本武尊と弟橘姫の仮御所が在った、明治期に神社を壊し砲台設置)
観音崎(神奈川の景勝50選、昭和の映画スター達のリゾート地)
観音崎要塞(明治時代の要塞史跡)
観音崎灯台周辺(今上天皇と皇后様も訪問)
多々良浜(景勝地:貝殻で出来た真っ白な砂浜)
・・・等々、挙げればキリが無く・・・
どこも昭和のリゾート地として映画スター達に人気だった場所や現在の天皇陛下や明治の東郷元帥や三浦家と源頼朝公の大切にされた御寺や御城や別荘の跡、ばかりです。
もしも三浦市非公認のままの観光振興の心算なら、歴史歪曲は三浦ブランドを貶め神仏と歴史偉人を愚弄する行為です。
仮に嘘の歴史を教えられて小桜姫は実在しなかった小説の架空の人物である事を知らず、モデルが真里谷武田家の姫だと知らずに信仰してしまったなら、これからは真里谷武田家の姫様として、小説桜の御所のロケ地として三浦義意公と奥方の真里谷武田家の姫に縁結びを御願いしてみて下さい。

さて、平素小生のしょうもない言葉遣いの悪い駄文で書かれた歴史解説を読みに来て下さる皆様、本当に感謝しております。
梅雨に成りましたが皆さん体調を崩されていませんか?
もう鎌倉の長谷の長谷寺の紫陽花も、北鎌倉の明月院の紫陽花も見頃を迎えましたね。
小生は仕事が繁忙期に突入したのと、私用が忙しく余りPC開く余裕が有りません。
ブログネタの神社仏閣城址はこの3年間で撮り貯めた写真も膨大に成り、皆さんに解説記事を書いて情報提供したい場所が腐る程有るのですが、中々時間の使い方が思う様に行かず凹むばかりです。
現実の仕事や、趣味の歴史散歩やブログと別に通っているジムも中々行く暇が無いんです。
そして間宮家と宅間上杉家と蒔田吉良家、横浜沿岸部で活躍した戦国時代の殿様の事もブログと別に制作する冊子の記事を書き上げ無いといけないのですが、調べた事と訪問した場所が膨大で、しかもコピペタイプの歴史学者が知らない事も沢山盛り込む予定なので処理しきれず悶々とイライラと過ごしております。
休日に藤沢文書館や鎌倉中央図書館に資料読みに行ったついでに美味しい店に行ってウサ晴らししてますが、思う様に事が進まなく暴発寸前な訳です(笑)。
「もう嫌!」と叫びたい気分ですが、生憎と小生は“男の娘(おとこのこ)”でも無いので・・・
「クソが」とか「チィっ!」
・・・とか品の無い独り言が思わず出てしまったりしています。梅雨にも成って脳みそにカビ生えそう。
ストレス溜まり過ぎて思わず来月、三浦半島のずっと泊まりたかった宿を予約してしまいました(笑)。
さて、そんな状況でクサクサの余裕の無い状況で中途半端な内容薄い解説記事や休日雑記を書いて皆さんの目を汚すよりも、思い切って今月中はお休み頂く事にしました!
来月の2日から復活します!
多分、来月に成れば少しは落ち着いて個人的にも甥っ子と遊んだり大好きな三浦海岸琴音浜や三浦半島の城ヶ島や三崎や佐島や油壷や秋谷や長者ヶ崎や葉山や逗子を回って頭もスッキリしていると思います。
あと、横浜市金沢区の喜多屋と南区の中里旅館にも宿泊したい・・・両方車で直ぐだから泊まる必要ないんだけど(笑)。
皆さんは来月旅行行く予定有りますか?
季節の変わり目で体調も崩し易いですし、サービス業の方や物流の方や販売業の方は書き入れ時に成り大変に成るでしょう。

突発的に何か書く事も有るかも知れませんが先ず無いと思います。
でも過去の紫陽花関連の記事も、夏のレジャー向けの猿島や観音崎や城ヶ島なんかの記事も有るので良かったら昔の記事も読んでいただければ幸いです。

では、お互いに来月再びブログでお会いするまで元気でいましょう!

皆さん、鎌倉行ったら「しらす丼」とか「あんみつ」とか御昼時に成ると頭をよぎりませんか?
「だって湘南だし~?」とか思います?
まぁ歴史的な話をすると、そもそも鎌倉市や藤沢市の江ノ島界隈は旧鎌倉郡で湘南にはカテゴライズされない地域です。鎌倉の人に対して・・・
「鎌倉は湘南」
 とか
「名物は"しらす"」
 とか
由比ヶ浜の発音を「ゆ↑いがはま」って発音で言ったら
・・・鎌倉の人から「あ~コイツお上りのカッペだわ。」って腹の中で思われて終了(笑)。
鎌倉の方が湘南よりブランド力有りますからね。昔からの武士と文化人の町ですから。
それに湘南は海鮮?いやいや!肉派の人にも葉山牛が食べれる美味しい店が有りますよ!
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今回はステーキの美味しい店を紹介しますが、湘南に触れたので少し先に解説します。
【湘南】
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※写真は大磯町の六所神社、相模国総社で近くの神揃山は聖地。一ノ宮寒川神社~五ノ宮格の鶴峰山(平塚)八幡宮の神様が勢揃いする神話の場所。
本来の湘南と言うのは地域的には現在の大磯町や二宮町の辺り、相模川から向こうの西側です。
その地域が明治時代に元大名家の華族や豪商の三井財閥の別荘が建ち並び日本初の海水浴地として人気に成ったのが始まりで、風景が中国湖南省の湘南地方に似ていたから文化人達から近代に成って渾名(あだな)された地域名です。実際に湘南と言う地域は存在しなかったのですが、昨今では湘南台などと言う地名も登場していますが藤沢市の湘南台は本来の湘南地域ではありません。
本来、湘南には藤沢や鎌倉は含まれませんし、逗子に至っては徳川家達公別邸が在ったりアチラ側とは又違う別荘地として早くから栄えたり旧三浦郡に属し日本武尊(ヤマトタケル)神話と所縁の地域なので、湘南と呼ばれるのは片腹痛い逗子の方がブランド力が有ると言う所な訳です。
【湘南名物】
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相模湾のシラス(鰯の幼魚)の水揚げ漁港は昔は江ノ島周辺で、後は大磯町や小田原市周辺でした。現在では相模湾で獲れるシラスのブランド化に成功した特産地は旧三浦郡の逗子市であり鎌倉名物とは呼べません。まぁ、湘南地区としてカテゴライズ誤認されて鎌倉辺りの名物とぼんやり思われています。
更に言えば、現代では湘南と誤認される江ノ島界隈での昔からの名物は❝サザエ❞です。
今でも昔の名残で❝江ノ島丼❞を提供する飲食店と民宿は多く有りますが、サザエの卵とじがのった丼を指します。
逗子市も湘南に誤認されていますが、逗子市の隣の三浦郡葉山町の葉山牛が相模湾東側の特産品として現代では有名に成っています。
【本来の鎌倉名物】
鎌倉で昔から有名だったのは❝夫婦饅頭❞です。名前の由来は解りません。御霊神社近くの力餅屋が今でも販売していて、司馬遼太郎先生も❝街道を行く❞の❝三浦半島記❞で紹介しています。

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ですから鎌倉の名物は昔は饅頭でした。
後は鯵(あじ)の名産地でもあったので、今でも鎌倉市の鎌倉駅や大船駅に販売店舗に在る❝大船軒❞の❝鯵の押し寿司❞です。
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写真撮影技術がクソで申し訳ない。
この大船軒、松竹大船撮影所が有った時代には多くの映画スター達が好んで食べた名物駅弁でした。
現代の鎌倉市の御土産物屋さんも色々と頑張って更に新しい名物を生み出していますので、シラス等の海鮮も昔からの鯵の押し寿司や夫婦饅頭と一緒に新規開拓して皆さんで世の中に紹介して上げて下さい!
そういえば、鳩サブレや豆やの豆菓子も現代では名物に成っていますね!
【由比ヶ浜の発音】
由比ヶ浜(ゆいがはま)の発音は・・・
由比ヶ浜(ゆ↑いがはま)の様な❝い❞の発音が上がる読み方ではありません。
由比ヶ浜(ゆ↓い❝が❞はま)と❝い❞の発音は下がり❝が❞を強調します。
この発音の原因は、本来は由比(ゆい)と言う地名が有り、そこの浜辺だからです。由比ヶ浜と言う地名では無い訳です。これと同様に宅間谷(たくまがやつ)扇谷(おおぎがやつ)等の鎌倉市内の地名も❝が❞を強く発音し❝が❞の前の音は強調しません。これは有る意味方言の様な物で生粋の地元民や歴史に詳しい人で無いと知らない事でもあります。

さてそんな訳で鎌倉と周辺の湘南のプチ歴史解説はここまでにして、本日お勧めするステーキハウスの話題に移ります。
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鎌倉駅を降りて直ぐ・・・
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上の写真の御成町とは反対側、小町通りにその店は在ります。
因(ちな)みに江ノ電には600円の一日乗り放題乗車券が有るので、鎌倉江ノ島観光をされる方にはおススメです。
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長谷駅で降りて大仏様の高徳院と紫陽花の長谷寺見物してから❝関東の駅100選❞に選ばれた鎌倉高校前駅の七里ヶ浜で綺麗な風景を見て、更に江ノ島に行ったり色々と遊べますね。
今、鎌倉は紫陽花の季節なので今は人でごった返しています。
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小生は昨日17日土曜日、いつもは車で鎌倉に行くのですが江ノ電に久しぶりに乗りたくて大船から横須賀線に乗って鎌倉に行きました。
目的は某文庫で古文書の写しのコピーを頂くついでに長谷寺に紫陽花を見物に行く心算(つもり)でしたが観光客が多すぎて江ノ電鎌倉駅で入場規制が掛かり乗車40分待ち、これでは長谷寺も入場規制が掛かっているのは予想出来たので平日の休みに改めて行く事にして、先に食事をする為に❝MOTHER`S of KAMAKURA❞に向かいました。
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この店。これは前回、入店を断念した際の写真ですが店構え。
今回は観光シーズンと言う事も有るのかランチメニューが普通に15時少し前でもやっていました。
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値段は2500円からと良心的、小生は葉山牛コース食べたかったのですが古文書のコピーと余計な買い物して又もや5000円のランチは断念(泣)。でもステーキコース予算3300円は小遣いで捻出出来るのでテンダーロインのステーキコースを食べる事にしました。
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御店の内装は鉄板焼き屋スタイル、それぞれのテーブルにシェフが付き、お肉や野菜やシーフードを焼いて提供して下さいます。
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小生の写真撮影技術がクソ過ぎて伝わらないかも知れませんが、とても落ち着いたオシャレな店ですが多くのお客様で賑わっています。
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シェフの手捌きがカッコいい!
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お皿も可愛いんですよ(笑)。
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全てのメニューにサラダと食後のコーヒーが付きます。
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あと撮影し忘れましたがお味噌汁も付いてます。
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目の前でプロの手で焼き上げられる❝肉❞、見ていて実は魚派(笑)の小生もウキウキ。
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見た目だけでなく、とても美味しい!肉は柔らかく、味もシッカリしています。
ただ惜しくらむは小生だけステーキコース、周りの御客様は全員葉山牛コース。まぁそうなるな(笑)。
次回は誰か他地域の友達か海外の友達が来たら連れて行ってあげて葉山牛食べようと思います。
さて、こんな素敵な御店のMOTHER`S of KAMAKURA、以下にアクセス等まとめて置きます!
【葉山牛ステーキ MOTHER`S of KAMAKURA】
葉山牛ステーキマザースオブ鎌倉 場所 久良岐のよし
以上がMOTHER`S of KAMAKURAの紹介です。
この他にも肉料理では以前紹介したトルコ料理の店の❝ARKADAS(アルカダッシュ)❞が小町通の入口にも在ります。
【ARKADAS(アルカダッシュ)】
ARKADASの場所 久良岐の良し

日本の義兄弟国トルコ。ARKADASはトルコ(土耳其)料理の店in鎌倉小町通り
上記が以前書いた紹介記事です。
さて、昨日は食事を終えてから鶴岡文庫で小田原所領役帳と言う戦国時代の関東の事を書くのには絶対に必要な文書の一部をコピーさせて頂き帰宅しました。
鶴岡文庫の司書さんは気立ての良い日本美人さんでらっしゃるので鶴岡文庫へ向かう小生の足はいつも軽い(笑)。あと簡単な文献は大体が鎌倉市中央図書館や藤沢文書館に行くと閲覧出来ますよ!
横浜市には余り無いんですよ。金沢文庫博物館にはまだ少し歴史関連の専門書籍が揃っていますが、藤沢文書館か鎌倉幕府関連や室町幕府鎌倉府の事なら鶴岡文庫、鎌倉市中央図書館に行けば郷土史資料も充実しています。
帰宅してからは先週、御朱印帳のページ追加作成用に小町通りに在る和紙専門店の社頭で購入した千代紙と和紙で御朱印帳を改造しました。
こんな感じで裏側の表紙ひっぺがして・・・
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ページ追加して・・・
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ついでに最初のページに千代紙に飾り付けして、参拝した神社の名前を旧国別で書こうと思っています。
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相模国の一部分書いて面倒くさくなりました(笑)。
最終頁に小生の母方祖先の伊予水軍の棟梁達が崇敬していた大山祇大神を祀る、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社の大山山頂上社と下社の御朱印を貼りました。

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空欄には大宮の氷川神社と熊本の阿蘇神社、そして他の空欄には既に参拝済みだけど、まだ御朱印を拝領していない神奈川県や東京都の延喜式内社と平安時代の坂東武者から崇敬された式外社の御朱印を改めて参拝し頂く心算です。足りなく成ったら又つぎ足す。
ページの追加の工作の仕方は、少し工夫が必要なので改めて工作カテゴリーで記事にしてみます。
さて、鎌倉の御店には葉山の特産の葉山牛のステーキを食べられる場所が有る事も伝わったかな?
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これは一昨年の写真ですが長谷寺の紫陽花も・・・
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・・・そして北鎌倉明月院も紫陽花が見頃を迎えています。
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是非!鎌倉へ紫陽花見物へお出かけ下さい!そして相模湾名物のシラス丼や葉山牛を食べて舌も目も満足な一日を過ごして下さい!
以下紫陽花名所の過去記事リンクです。

  ↑
上の項目をクリックすると記事が読めます。
では!又、次の解説記事でお会いしましょう!

追伸、今月一杯、間宮家と宅間上杉家と蒔田吉良家関連の執筆活動で更新が遅くなると思います。
ジムも行かないといけないんだけど、今週行けてない・・・。

小生の活動に賛同して下さる御寺と又、一つ五御縁を結べた。
鎌倉時代から続く横浜市金沢区六浦の名古刹、上行寺さんだ。
10日土曜日、午前中から動く筈だったが深夜に帰宅後、朝まで色々とやる事が有り結局寝たのは午前5時、起きたら10時位だった。
当初の計画では午前中から鎌倉に紫陽花を見に行き、2年ぶりに江ノ島に散歩に行こうと思っていた。
しかし不思議な事に車に乗り込むとなんだか「そわそわ」して思考が鎌倉に向かない・・・
まぁ、事前に鎌倉の長谷寺サンに問い合わせて現在の紫陽花の開花状況が5分咲きに届くかどうかと言う事を聞かされていたと言う事も少しは有るが、メインは鎌倉に車を停めて江ノ電で観光して回る事だったので、紫陽花は二の次だった。それに家から鎌倉はとても近いので又来週も見れるしね。
・・・で、途中から金沢区の建築文化財の料亭❝金沢園❞を旅館業に業種替えリニューアルした❝喜多屋❞と言う旅館に先日取材の下調べと挨拶に行った事も有り「今日、ランチ食べに行って見ようかな?」と思いついて栄区から鎌倉に続く朝比奈峠には行かず真っすぐ通り過ぎ金沢区八景方面に行く事にした。
これが昨日10日の運命の分岐点だった。
朝比奈峠の辺りから金沢八景に行こうとすると金沢区の六浦を通る。
この六浦と言う場所は江戸時代までは海が入り込んだ入江で商業港として機能していた場所だ。
鎌倉が武士の本拠地として機能した平安時代末期~鎌倉時代~室町時代初期まで大いに栄えた。
そして金沢八景の名で知られる景勝地として有名で、源頼朝公に始まり鎌倉公方足利家歴代、北条早雲こと伊勢盛時公、果ては徳川家康公まで金沢に滞在した歴史が有る。
歌川広重 金沢八景:称名晩鐘
その風景の美しさから金沢の八か所の景勝地を歌川広重等が浮世絵にしている。
現在、昭和のアホの横浜市教育委員会が風致保護せず更に市と土建屋が埋め立ててしまい金沢八景の景勝は全て失われた。
そんな事を思い出しながら車を走らせ、京都出町柳に住んでいた頃にたまに拉麺を食べに行ってた北白川魁力家の六浦店の前である事が強烈に頭をよぎった。
「そうだ、上行寺が近くに在るな。」
「デジカメ買ってからまだ写真撮影に行ってないし、御住職に荒井さんの事を確認したいな…」
「よし!上行寺に行こう」
・・・と、これは何と言うか完全に思い付きだね。と言うか、こう言う事は天啓の様な物で、思い付きに従った方が良いと小生は経験で思っている。
で、上行寺を御参りした。
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ここは茅葺屋根の山門が今も現存する貴重な御寺で、明治政府のせいで縮小してしまった旧境内地のスシロー辺りまで鎌倉~室町時代の矢倉(やぐら=坂東武者文化の横穴式の墳墓)群が大量に周辺一帯に現存している。
因みに、由緒正しい平安末期~鎌倉期前後から存在する御寺は鎌倉文化圏の旧鎌倉群~久良岐郡~三浦郡では茅葺屋根の山門が多い。まぁ、瓦葺に吹き替えても屋根の形状で時代は解る。
更に高級なのが真言宗の別格本山だった金沢区の稱名寺で、檜皮葺の塔頭の山門が在ったりした筈だ。
因みに以前、栄区鍛冶ヶ谷の旧小岩井家住宅を紹介した記事でも書いたが、❝藁葺(わらぶき)屋根❞では無くて茅葺(かやぶき)屋根の場合、一棟の御屋敷の母屋(おもや)の屋根を葺き替えるだけで4千万円程度するそうだ。

  ↑
これがその記事。
だから江戸時代に瓦葺に吹き替えた場所は、手が掛かっていないんだな、寧ろ。
因みに今月の三十日(みそか)は全国の神社で❝夏越しの大祓❞の神事で茅の輪くぐりが行われる。
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今では茅は貴重な植物に成ってしまったので、昔でも高価だったのだが更に貴重な植物に成ってしまった訳だ。この植物は素戔嗚(すさのおう)尊が厄除けの道具として古代人に教えた事に始まる魔除けの植物でもある訳だ。
さて、突然訪問した上行寺、実は数回御参りに上がっているし間宮家と無関係では無いのに御住職様とユックリ御話する機会が今まで無かった。
なので、これも良い機会だと思い訪問を決めた瞬間から身が軽かった。
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山門をくぐると最初のこの供養塔が在る。❝船繋ぎの松❞が有った場所だが、真言宗時代の富木胤継公と後に御寺を復興した荒井平次郎光吉公の供養塔が在り、横に何世代目かの船繋ぎの松が在る。
何で❝船繋ぎ❞か、ちゃんと記事を熟読して下さっている人は解ったと思うが、昔は六浦は港だったと先に触れたが、この御寺は目の前が鎌倉時代の港で千葉家の武将達が鎌倉と房総半島の海を往来する際に船を停泊させた港でもあった訳だ。
金沢区の昔の海岸線 久良岐のよし
上の画像で白い部分が昔の海岸線。半島と沢山の島が入り組む湾は多くの文化人や大名から愛され、もし現存すれば京都の天橋立よりも美しい観光地として多くの外国人旅行客で栄えた事だろう。
そんな訳で上行寺は直ぐ目の前まで海だった。
折角なので、少し御寺のその時代の歴史に触れてみよう・・・
御寺は元は金勝寺と称した真言律宗の古刹で開基の当時は源平合戦の真っ最中の頃、その頃からの大旦那は房総半島千葉家臣だった富木(とき)家だったそうだ。
この富木、取材しない学者は富木(とみき)と読みかねない。
富木と書いて恐らくは土岐家の一族だろう。更に祖先は土気城の辺りを根拠地にしていたのだろうか?
千葉家の被官に成る以前はもしかしたら上総家の被官だったのかも知れない。
後に上総国で里見家の重臣と成った土岐家の祖先に当たる人物かも知れないが、この時点での姓は富木と書いて富木(とき)だった。その家の播磨守(はりまのかみ)富木胤継(たねつぐ)公が房総半島から船で鎌倉に向かう際に日蓮聖人様と同船されたそうだ。
そして仏法について御二方は熱く語り合い、船着き場兼御寺だった金勝寺へ到着後も話は盛り上がって夜に成り、富木公は自分が支援した金勝寺の当時の御住職の普識法印様に相談して御寺ごと日蓮宗に改宗し、寺名も現在の上行寺に改名、法華経布教の道場と成って真言宗風の御寺の立地条件の日蓮宗寺院としての歴史が始まり現在に至る。
明治以前の本山格は日蓮宗大本山の中山法華寺で、この中山法華寺の境内地が富木家の邸址だそうだ。
これは知らなかった。
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間宮家所縁の妙蓮寺や・・・
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・・・杉田の妙法寺も中山法華寺が本山に成っている。
明治時代に成るまで、日蓮宗も浄土宗も時宗も同じ法華宗と呼ばれ御寺の門閥として系統が解れていると認識されていた。禅宗も同様で臨済派・曹洞派・黄檗派等と呼ばれ記録に残っている。
因みに織田信長公と徳川家康公が特に信心していたのが、この法華宗で中でも浄土宗と日蓮宗の御寺を御二人とも良く支援してらっしゃった。
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上の写真は織田信長公の遺骸が葬られた朝廷公認の織田信長公と信忠公と家臣団の御本廟、京都市の蓮臺山阿弥陀寺。浄土宗。
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上は下鴨神社、下はその別当寺だった浄土宗大本山の知恩寺。阿弥陀寺と同じく京都市。
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知恩寺は後醍醐天皇の勅願所で、徳川家康公家臣で忠臣名高い鳥居元忠公の菩提寺でもある。
織田信長公と徳川家康公の御二人は法華宗だけでなく、天台宗や禅宗や真言宗の寺院も多く復興されている。
因みに知恩寺が菩提寺に成っている鳥居元忠公は間宮家で屈指の武勇を誇った間宮康信公を黒駒合戦で討取った名将でもある。
間宮、真田、鳥居の戦勝実績はジャンケンみたいな関係で特徴が有る。 真田家>間宮>鳥居>真田こんな勝敗の関係に成っている。
その間宮康信公は北条綱成公の家老ながら間宮家が単独で伊豆・駿河方面で武田勢を散々にボコボコに追撃したり三増峠で山県昌景公や馬場信房公の武田奇襲部隊を押し返して北条氏照公の窮地を救った当時の間宮家の若様だな。 この頃から真田丸と大坂城攻防の間宮と真田による北条武田の因縁の代理戦争は繋がっているんだな。
間宮家も織田信長公や徳川家康公と同じく多くの神社仏閣を守っていた。
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上は杉田間宮の間宮信繁公の姫が嫁いだ初代久能山東照宮大宮司の榊原照久公の菩提寺、照久寺。 こちらも浄土宗。
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そして横浜市磯子区の上中里神社は間宮家が廃寺に成っていた御寺を法華宗日蓮派寺院として復興した間宮寺の跡。
無論、鶴岡八幡宮を始め若宮神社を勧進したり神道は言うに及ばず、真言宗の本山格だった横浜市南区の寶生寺やその末寺だった笹下城下の東樹院等の真言宗や、横浜市磯子区の修験道の大本山格だった泉蔵院や福禅寺権現堂の森浅間社。更に北条家臣だった歴史から曹洞宗寺院は多くなり他にも例を挙げればキリがない。 そんな間宮家は水軍を管理した家系でもあったのだが、恐らくその水軍で主力を成したのが妙法寺や上行寺を開いて六浦港や杉田港に勢力を誇っていた荒井家だ。
詳しい事は伝わっていないが大まかには荒尾城主だった事、源頼朝公が三島大社の御分霊を勧進し瀬戸神社を開き大姫の誕生の際に琵琶湖の竹生島から勧進した弁天様を祀る琵琶嶋神社を開いた際に、枇杷嶋へ架かる橋を荒井家が単独で寄進した程、鎌倉時代には財力も有り家格もそれなりに有った訳だ。
豪商と江戸時代の記録に伝わるそうだが実際はれっきしとした❝武家❞だった筈だ。それも水軍を率いた。なので荒尾城と現代では場所の解らない城の城主だったのだが、この城跡と思しき場所も同日、小生は見つける事が出来たのだが・・・
御住職と色々と荒井さんの事の情報を共有し、話し込む内に小生の話を楽しいと評して下さった。
とても嬉しかった。
そして間宮家の顕彰文に間宮重臣荒井家の事を書かせて頂く御許可を頂き、そして活動を褒めて頂けてとても光栄と言うか恐縮と言うか・・・
素直に嬉しかった。
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帰りに境内の霊木の榧の大樹の実から精製した油や新茶や御寺の縁起の冊子等、沢山のお土産を頂いた。
霊木の榧は開山日荷上人の御手植えで、榧の油は檀家さんだけで共有している物だそうだ。
何だか色々と御世話に成ったのに却って多くのプレゼントを頂いて大変恐縮した。
でも、檀家さんだけで共有している霊木由来の油を頂き、檀家同様に扱って頂く様な大変有難い気持ちの込められたプレゼントで嬉しい。何だか勿体なくて使えない(笑)! 小生は本当に自分は短気だし馬鹿だし小者なのに、多くの神社の宮司様や色んな宗派の和尚様達に可愛がって頂ける運にだけは恵まれている。これは本当に何と言うか知識と文化と先人の大切さを教えて頂ける多くの師を学校を卒業しても尚、得ているのと同じ事。
「生まれて来て良かったと」
・・・そう思える事の一つでも有る。でもこれは自分自身でどうこうと言う運命では無くて、殿様達に会に神社や御寺に行くと自然に道が開けて来た、例えるなら「御導き」みたいな感じなのかも知れない。
小生本人は行き当たりバッタリ的な行動。今回の上行寺の再訪問もそうだ。
運転中モヤモヤして鎌倉へ向かう分岐点の朝比奈峠の入口で目的地の鎌倉と違う方向の六浦にハンドル切ったら「そうだ!上行寺に行こう!」と成った訳だから。
思えば歴史偉人の顕彰活動を始めたのも今生きているのも、北条綱成公のおかげ。綱成公の御廟所へ御墓参りをしたのが歴史が本当に好きに成り神社仏閣巡りを始める切っ掛けだった。そして横浜に北条綱成公の家老で大活躍し壮絶な最期を遂げた間宮康俊公が居た事を知り、その康俊公と間宮家の関連した神社仏閣を巡り宮司様や和尚様達に話を聞いて回る内にアレよアレよと今では師と思う宮司様や和尚様達に宗派をとわず沢山巡り会う事が出来、次第に可愛がって頂ける様に成った。宗派を問わず。
気が付いたら某大学で教鞭をとる名誉教授の宮司様や現役教授の法華宗系の某宗派の和尚様や新任神職研修の指導教官だった大きな神社の宮司様や某禅宗の人事部長さんや青年部長さんやら、某高野山でお勤めに成っていた偉い和尚様とか。
今回の上行寺の和尚様も本当に始終笑顔で色々と教えて下さり、そして笑顔や時に目を見開きながら小生の話を真面目に聞いて下さって、それだけでも感謝が今、文章をタイピングしながらも湧き上がってくる。
御住職様、ありがとうございます。きっと荒井の殿様の歴史、世に再び知って貰える様に書きます!
玉縄北条家や間宮家の顕彰文にも、そして、いつか三浦家の顕彰文も書く際にも。
荒井家の御子孫とも面識有るしやらないといかん。
さて、小生の主観的な事はここまで、上行寺の写真を紹介したい。
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古い御寺、それも真言宗の大寺院だったので戦後に縮小された現代の境内地でさえ、鎌倉の大寺院がそうである様に沢山の矢倉が残っている。
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鎌倉武士達の墓所の跡だな。
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御寺を日蓮宗に改宗させた富木胤継公の富木(とき)家は千葉家臣だった時代の歴史しか現代に伝わらないが、先述の通り多分、後に里見家の家臣と成った土岐家の祖先なのだと思う。
この矢倉群の主が誰か、今度、改めて御住職に教えを請いに行こうと思う。
資料が散佚して解らなければ、許可を頂いて墓石の文字を撮影させて貰い読んでみようと思う。
そして先に紹介した船繋の松の旧跡。
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この直ぐ前まで海だった訳だな。
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太平洋戦争で戦死した将校の供養碑。立派だ。
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山門からずっと綺麗な石畳が続いており、御本堂へ向かう手前の分岐点に鐘楼が在る。
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鐘楼の屋根の上には千葉家の家紋。富木家が千葉家の家臣だった事が良く解る。
上行寺と言う御寺は鎌倉にも在って、実際、鎌倉の大町の辺りには千葉家と関連の在る場所も少なくないし、戦国時代に成っても昔は下総国臼井城主だった千葉一族の臼居家の御本家が住んでいて今も光明寺の塔頭となった元は弘法大師所縁の真言宗寺院だった蓮乗院が在ったりするが、そこは臼居家の菩提寺で千葉常胤公の所縁の御寺だったと伝承する。
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御本堂の右手に庫裡、庫裡の屋根の作りからして少し前までは茅葺屋根だったんだろう。
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対して御本堂は破風が付いており、江戸期~現代の造りに成っているので比較的新しい様だ。
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本化殿・・・浅学の小生には意味が解らない仏教用語だったのだが、調べたら法華経の事を意味するらしい。言い換えると法華堂と言う所だろうか?
そういえば源頼朝公は熱心な真言宗と修験道の信徒だったが、法華堂を大倉御所の近くに建てていたりもしたので法華の教えも好きだった様だ。
政子様は真言宗が御好きだった様だが、阿弥陀仏を信奉していた形跡が浄妙寺の歴史からも紐解けるが思想的には不明。御息子の三代将軍実朝公は臨済宗で釈迦如来を本尊とした様だ。この実朝公と北条一族によって鎌倉の至る所の御寺は臨済宗に改宗されて行った。そして禅宗を取り入れた武家文化が確立され、元寇を撃退する知識の泉と精神力の根源と成り反抗戦の原動力と成り奇跡の勝利を生み出した訳だ。だから神仏を崇拝する全ての宗派が日本の歴史を構成していて、そして全てが有ったから今が有る。だから、宗派の優劣も無いし、その代わりに確かに得意不得意な分野は有るかも知れないが、その個性が個々の得意分野を更に昇華させて日本文化を成熟させて行ったんだな。
だから不要な物なんて何も無い。
上行寺は現代は日蓮宗だ。日蓮聖人は「南無妙法蓮華経と言ってさえいれば良い」と言った様な事を書くアホ学者や小説家も多いが、当時の法然上人や親鸞聖人もそうだが実際は密教や現代では宗派でカテゴライズされてしまい学ばなくなった多宗派の様々な知識も身に付けていて、だから親鸞聖人は鎌倉の仏僧の試験官として招聘されたり、日蓮上人が書いた密教的なものが根来に保管されていたりする。
更に法然上人が「念仏だけ唱えれば極楽に行ける」と言った様な事が言われているが、法然上人に帰依した熊谷直実公や土肥實平公等の名将の動向を見るに「やった事を反省し本当に悔いた上で更生し念仏を唱える事が大事」と言う意味だろうと小生は解釈している。
まぁ、法華関連の偉人を悪く言うこれらの言葉尻を捉えた様な話は、対立した宗派のプロパガンダだったんだろう。
では、鎌倉の禅宗はどうだっただろう?禅を「禅だけ練って質素な暮らしして精神修養だけしてりゃ~良い」とトンでも無い事を思う奴がいたら阿呆だ。
蘭渓道隆和尚も兀庵普寧和尚も退耕行勇和尚も座禅だけ組んでいた訳でなく、博識で武士達に現実社会で役に立つ思想学問や兵法や文化を叩き込んだ。そして元軍を打ち破るノウハウを鎌倉武士団は獲得した訳だ。禅宗は普段の生活も修行とし真面目に生きる事を教える宗派だ。それは臨済宗だけでなく曹洞宗も同じで、だからこそ曹洞宗を支援した戦国大名の北条家の政治も善政として有名だった。
天台宗も多くの学僧を抱え知識の泉として機能したし、真言宗は仏教の原型を出来るだけ保全して伝える言うなれば仏教界の考古学みたいな素晴らしさと日本の神様や文化も特に守って来た歴史を大切にする側面を備えている。
昔の仏教も神道も多宗派に非常に寛容だった事を、現代の宮司様や和尚様には知らない方もいるのかも知れないが、歴代天皇家は正に神様も仏様も色んな仏教門閥も其々の良さを見て大切にしていらっしゃった事は様々な歴史博物館や宗教施設の遺物を見て回ると理解出来る。
そんな訳で、昔の和尚さんや宮司さん達は大らかだった訳だが、上行寺も法華宗日蓮派に改宗した後も金沢山稱名寺とずっと交流が絶えなかった様だ。
だから、御寺を富木家の後に復興支援した荒井家出身の日荷上人が稱名寺とも交流が有ったのだろう。
しかも稱名寺には戦国時代に間宮信高公に姫が嫁いだ真里谷武田家の殿様が逃げて来て北条家次いで武田家に亡命した歴史が有る。何だか間宮家の歴史は荒井家ととても因縁めいている様だ。
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上行寺の前の道、六浦道と呼び、現代の笹下釜利谷道路の延長線上の終着点。
しかしここは昔は海だった訳だ。ここに千葉家の殿様達が船で往来していた当時と同じ様子の風景を見て見たかったが今では想像もつかない。
因みに富木家の子孫と小生が推測する土岐家、仕えた里見家と争った真里谷武田家の一門衆(しんぞく)には勝家がいる。恐らく幕末の安房守勝海舟先生の祖先だろう。もしそうなら間宮康俊公の御子息で間宮造酒之丞家の始祖と成った間宮信高公の奥方の真里谷家の姫君と勝海舟さんは遠い遠い親戚と言う事に成る。つまり間宮家と勝海舟先生も親戚って事だな。
所で土岐家は美濃の土岐家の戦国時代の分流と伝わるが、ハッキリした歴史は学者にも諸説有り解っていない。
だから小生は言う、富木は恐らく鎌倉時代に関東に残った土岐家の支流で美濃の土岐とはかなり早くに、それも鎌倉時代には分かれていた家だろう。
そして土岐では無くて富木の字を用いていたので歴史学者は気が付かないんじゃないかと。
まだ学者も知らない事が多い。北条綱成公の祖先の福島家が存在しないと実地見聞しない学者共はのたまうが、実際に福島家の子孫は多摩に存在する。子孫は庄屋に成って江戸時代も存続した。
❝文字に残っている事が全てでは無い!❞しかし学者は自己保身をしながら自説を論文に書かなければいけない不自由な職業の様なので、左翼弁護士の如く状況証拠で白黒判定する事を他の学者が許さない訳だ。つまり、歴史学なのにエジプト考古学や城郭考古学とは考え方が全く異なり嘘でも文書に成っていたら証拠として論文に書けるし文字に成ってる証拠しか拾えないと「変な空気に支配されている」チキンが多い訳だ。だから死んでも文字オタク歴史学者になんか小生は成りたくない。だから考古学者の先生達や無名でも博物館の学芸員を小生は尊敬する。
まぁ、小さい時から土器や石器拾って遊んでたしね。
と、言うか日本の歴史学者が左翼染みて居るのは、東大や京大を始め国立大学の教職員が左翼に学生闘争に参加し染まっていた連中が多く幅を利かせてそういう雰囲気を作ったんだと思う。
歴史は状況証拠の方が大切だと思うんだけどね、文字は後世の人間も騙そうとして意図的に制作されたり改竄複製されたりプロパガンダも沢山有る訳だから、客観的な状況証拠から実際に史跡を発掘する方が大切だろうと個人的には思っている。実際、凄まじい数の文献を見ている学者でも小生の様な学者で無い人間が知ってる武士達の名前の発音を知らずに読み仮名を想像で誤植して人名辞典に掲載している事も有るしね。実際に御子孫に会いに行くのが一番早いのにね。
少々、ここまで宗教的な解釈の話が多すぎたかも知れない。
上行寺を後にしてからの話に移ろう。
寺の背後の山中に伝承の荒尾城の遺構と思われる帯曲輪らしき多くの削平地や竪堀らしき地形も発見した。
それは又も偶然で横浜市教育委員会が破壊容認した上行寺東遺跡に行く時に道を間違えての事だった。
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ここが上行寺東遺跡の登り口。
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分岐する階段の上が遺跡のコピー、実際の遺跡はライオンズヒルのマンション建設で主要部分が破壊され消滅した。遺跡の前に小生が荒御城跡かな?と思った地形に至る道を紹介する。
右手の階段の上に遺跡のコピーが在るが小生は、ここで道を間違えて直進した。
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眺望が良く、上行寺の裏から昔海だった平地が見渡せる。
なんとなぁ~く海だった時代の風景が想像出来る。
少し行くと又もや階段が有る。
そこを登ると何かの神様が祀られている小さな御社が在った。
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思うに浄願寺や上行寺の関連なら御寺の守護神だった神様だろう。でも御社の名前も不明なので何の神様がいらっしゃるのか判断がつなかった。でもちゃんと御参りして来た。
頼朝公や千葉家の関係なので弁財天様だろうか?
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御参りが終わって階段を下り、誤った道(笑)を更に進むと完全に上行寺の裏手に回る。
ここら辺から道の様子が怪しく成ってくる。
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余り人の往来が有る形跡が無くなり始める。雑草が生え始める。
更に進むと・・・
ドンドン獣道に成って行く。

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てか、都会育ちの人はコレ見て❝道❞とは認識しないだろう(笑)。小生が円海山の近くで育って山の中を駆けずり回って遊んでたから道に見えるだけ。実際は多分、遊歩道だったんだと思うが現在の林市長に成ってから円海山も遊歩道の整備が滞って通行止めの場所が増えたりしているので、ここも放置されてしまったんだろうか?
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昔の市長が整備した跡だろう。樹脂製のフェイクの木柵が有る。多分円海山と同じで中田市長かその前の高秀市長の頃の物だろう。
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暫く行くと昔の岩盤が露出したり、昔のままの道に行き着く。
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その辺りから、山腹のここかしこに小さな平場が散在する様に成るし、尾根道の両端が人工的に裾切りされた切岸に成っている事に気が付き始める。
これ等の平場は、どこからどう見ても❝帯曲輪❞だろう。こんなん、遊歩道でも無いし、こんな崖地に畑を作る訳も無い。
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稱名寺を囲む金沢城に似ているんだな。
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ここは上行寺の西側裏手辺り、写真では判り難いが明らかに竪堀だ。
尾根も細くクビレて敵の侵入を限定しやすい。
山頂に行くまでも竪堀らしき場所が数ヵ所有った。
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そして途中で気が付いたのだが、開削された遊歩道に成っている平場の片側、岩盤を削り残した側は全て当時の六浦湊(みなと)側で、港側への防衛を意識した土塁と言うか岩盤の防壁の様に見てとれた。
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写真では判り難いが土塁の名残りの様な地形も続いていた。
これ、文献には出て来ず上行寺の伝承に残る荒尾城何じゃないかと思う。
実は直ぐ近くの上行寺東遺跡は源頼朝公と文覚上人が開いた浄願寺の遺跡だった。
頼朝公は森浅間神社の様に陣屋を置いた要塞の傍に神様や御寺を勧進する❝習慣❞が有った様だ。
それは港北区の三会寺もそうだし、南区の若宮神社も傍に後の蒔田城が有る。
多分、ここは六浦湊を守る場所としてスタートした要塞が起源の城で、六浦湊に鎌倉時代まで勢力を持って栄えていた荒井氏の拠点だったんじゃないだろうか?ここに烽火台を置けば東京湾沿岸部とも連絡が取りやすいし。
荒尾城址か? 久良岐のよし発見の城砦と思しき地形。
改めてGoogle earthで見てみると、有るわ有るわ森に埋もれた城址に良く見られる空堀跡が森を横切り直線の凹みに成っている地形。今度、駒澤大学の某教授や御世話に成っている城郭縄張り図制作者の方に報告して置こうと思う。
さて、流石に城跡らしき地形は嬉しかったが「これ、絶対に浄願寺の遺跡には続いてない(笑)」と途中で気が付いていた。
なので丁字の分岐点まで登り、そこから引き返して改めて遺跡の入口に戻って来た。
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浄願寺廃寺は遺構も良好に最近まで現存した。
源頼朝公と文覚上人により造営された格式高い御寺で、誰でも国語の授業で習う❝徒然草❞の著者の兼好法師こと吉田兼好がここを気に入って滞在していた。吉田兼好は仁和寺の僧侶で浄願寺と同じ真言宗の和尚さんでもあった訳だ。何で吉田兼好が横浜市に滞在していたの?と思う人が少なくないと思うが、鎌倉時代当時金沢八景と呼ばれた、この地域一帯を治めていたのが金沢北条顕時(あきとき)公で、その邸宅が現在の稱名寺の場所だった。
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稱名寺は最初は金沢北条家の私邸で持仏を安置し拝む御堂としてスタートした訳だ。
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それが金沢北条家が熱心な学者でもあり、隣の谷に文庫を創設して日本のみならず世界中の文献を収集しまくったので、武家初の私設図書館と成り、現代では東の正倉院と呼ばれる程、鎌倉~室町~戦国~安土桃山~江戸の各時代を通じて仏僧と武士の一大学問所と成った。
その金沢北条家の北条顕時公の執事を務めたのが兼好法師の実兄の吉田兼雄公だったそうだ。
まぁ、そんな訳で六浦と金沢八景と金沢文庫と野島は平安~近代まで文化醸成地で景勝地だったのだが、その景勝は横浜市によって埋め立てられ先述の通り消滅した。
一方、浄願寺自体も新田義貞の兵乱で戦火に巻き込まれ略奪され多くの御寺と神社が消えたのと同じく、一度廃寺に成った。しかし戦国時代、菅原道真公の御子孫で太田道灌公に与力していた菅野家と太田道灌公によって金沢区洲崎に龍華寺として復興され寺脈は受け継がれた。
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その龍華寺には太田道灌公、北条早雲公、徳川家康公も滞在宿泊し支援した歴史が有る。
そんな歴史の浄願寺跡の上行寺東遺跡だが、ライオンズヒル建設準備中に横浜市が開発許可を出した事が明るみに成り、大きな問題と成った。
鎌倉市や横浜市の郷土史家や学者や文化人と市民が激怒し、大問題に発展させ新聞にも取り上げられたが開発利権が当時の市長に有ったのか無かったかは不明だが、破壊を強行され消滅した。
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遺跡と看板に書いてあるが事実は違う。
チキン横浜市教育委員会が己の悪行に自覚が有ったのか意味の無い張りぼてで消えた遺跡の一部を複製し神仏の天罰と市民の批判から己等の罪を粉飾するかの様に造ったのが上行寺東遺跡な訳だ。
だから上行寺東遺跡の主要部は意味の無い張りぼて。
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造形保存とか言ってるが、開発許可を踏みとどめられなかった教育委員会の体面保つ方便。
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この遺跡の入口には神社も有る。
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鳥居は神明造り。
でも何の御祭神化は解らない。海を守る場所、そして皇祖神系の神様を祀る神社に用いられる事の多い神明鳥居なので八幡社だろうか?恐らく御祭神は八幡大菩薩こと応神天皇、本来の御名前を大伴別命(おおともわけのみこと)と言い、別名の誉田別尊(ほんだわけのみこと)も有名な神様だろう。
源頼朝公の幕府設立に協力した千葉家や荒井家の祖先と思しき三浦家は皆、鶴岡八幡宮の八幡大菩薩を勧進して神社を造営したので恐らく、港を守るこの丘にも八幡様が迎えられたんじゃないだろうか?
看板が何も無いので神様も由来も解らない。
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残念。この御神紋も何の神様に用いる物なのか良く知らない。
八幡社なら波切紋の筈なんだけれどな・・・。
その左隣には小生をいつも守って下さる御稲荷様がいらっしゃった。
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ちゃんといつも守って頂いてる御礼と、次の訪問先で又無事に御会いする事が出来る様に御願いを申し上げた。
その御稲荷様の反対に上行寺東遺跡が在る。
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これ全部張りぼて。
こんな大規模なコピーする位なら市有地を土建屋に代替して開発諦めさせれば良かった物を・・・
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本当に勿体ない、完璧な鎌倉時代の御寺の文化だ。残っていればどれだけ貴重な史跡に成ったか。
鎌倉市の無量壽院址に匹敵する規模と保存状態だった筈だ、横浜市が容認するまでは。
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この矢倉は本物。
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映さなかったけど隣の矢倉は色々置かれてごみごみしてた。
一頻(ひとしき)り写真撮影をしてから、上行寺を再訪して荒尾城址と思しき地形の事を御住職に報告した。
六浦訪問の目的を全て終え、少し汗ばみ夕涼みしたく成ったので野島に移動した。
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野島の伊藤博文公の金沢邸の縁側で海を見ながらの夕涼みと、来月、甥っ子と姪っ子を連れてキャンプに来るので、ついでに案内所に手続きの事等を確認する目的も有った。

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ここは無料で見学出来るし縁側に座って夕涼みしてユックリ時間を過ごせる。
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まぁ、解説も充実してるし。
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建物の由来や、各時期の出来事とリンクした内容の解説は読んでいて面白い。
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ここで松越しの海と八景島を見ながら600円で抹茶と和菓子を頂いてボ~っとしに小生はたまに来る。
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金沢八景の解説や、伊藤博文公の生活やここで大日本帝国憲法の草案を起草した解説が有る。
ここに来ると伊藤博文公が朝鮮の王族と非常に友好な関係を築いていて、朝鮮王族が度々、伊藤博文公の金沢別邸に遊びに来て宿泊していた事実も知る事が出来たりする。
韓国人が知っても絶対に認めたくないだろう歴史事実だな。
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伊藤公の御蔭でゆっくり出来た。
建物を出て、キャンプ場の下見に移動。
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夏島が見える。あそこにも昔は旅館が在って、そこでも憲法の草案を考えていたそうだ。
風景綺麗だったんだろうね、本当に。
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その夏島の前に有るのが日産自動車追浜工場、昔の本社工場。そして戦前戦中を通じて横須賀鎮守府の海軍飛行場だった場所。
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だから戦時中に作られた零戦の格納庫が野島に現存していたりする。
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まぁ、今では存在を余り知る人はいない。
ここまでの徒歩5分程度の間に沢山の紫陽花を見る事が出来た。
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来週位には鎌倉の紫陽花も満開に成るだろう。
零戦の格納庫の前一帯がキャンプ場に成っており、予約すると誰でも利用する事が出来る。
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その奥には野島青少年研修センターと言う場所が有り、20人以上の団体から宿泊する事も出来る。
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大学生のサークルやボーイスカウトが良く利用するそうだ。
素泊まりなので食事は付かず、自炊。
施設内に炊事場も有るが、キャンプ場を予約しておけばBBQ施設を使う事も出来る。
詳しい事は職員に聞くかネットを見ると良いと思う。
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キャンプ場について職員さんに色々と質問をして無事確認終了。
後は当日の天気が良い事を祈るのみ。
てな訳で野島の野島稲荷神社に移動した。
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以前も個別の紹介記事で書いたが、ここは紀州徳川家の崇敬を集めた御稲荷様だった。
何故なら現在のキャンプ場の辺りには紀州徳川家の別荘が在ったのだが、それを知る人は今の横浜市民には少ない。
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大きくも小さくも無い神社だが、森に囲まれ雰囲気は良い。
御狐様が出て来そう(笑)。
小生が子供の頃はこの社殿の裏側の崖に掘られた階段を上って頂上まで行く事が出来たのだが、今は危険個所扱いされ進入禁止にされてしまっている。
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神様に御祈りを終えて野島を後にした。
帰りしな家系亜種の六角家の直弟子が営む金八家で家系拉麺を食べた。
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ここの店主が修行した六角家は、元々は家系拉麺の創始者の吉村家の吉村実社長の直弟子で信頼され本牧家を任せられていたのだが、有る時に従業員全員を引き抜き退職、吉村社長の恩を仇で返す様に六角家を開いた神藤と言う人間の店だが昔は吉村社長の弟子達の家系の中でも有名な店だった。
まぁ因果応報と言うか、現代では吉村社長の直営店や別の吉村社長の直弟子の店等に取り囲まれ閑古鳥が鳴いている。
しかし六角家は新横浜ラーメン博物館のオープン当初に入店したり、昔は人気だった。だが吉村家等が更に味に研鑽を積み発展した中で六角家は勢力を縮小して現在に至る。
吉村社長と全く関係ない工場でスープを作る❝偽家系❞のチェーン店が最近は多くなっているが、金八家の店主は言い換えれば❝本物の吉村社長の孫弟子❞で本当の家系❝亜種❞の拉麺を食べられる店な訳だ。
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内装はとてもオシャレ。
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これなら女性にも入り易いだろう。
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店のキャラクターも可愛いな。
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味玉増しで注文、本流の吉村家や杉田家と比べるとアッサリ目、醤油タレの強さは控えめで確かに女性向けなのかも知れない。
家系総本山吉村家とは少し違うが、これはこれでちゃんと血統を受け継いでいる分家の流派の味として家系のセオリーを守っていて美味しい。
店員の皆さんも明るく、雰囲気も良かった!
まぁ、師匠は不義を働いたかも知れんが、更に厚顔無恥な工場生産スープの偽家系に対抗する勢力として家系を守って欲しい!
改めて言う、とても美味しかったですよ!

この後スポーツジムに行き
運動して風呂入ってサッパリしてから帰宅した。
良い休日を過ごせたし、又、素晴らしい和尚様と御縁が結べた事が嬉しかった。
次の休日はどんな人に出会えるんだろう?

今年も円海山で蛍が見れる季節に成りました。
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今月の写真です。
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観察マナーについても色んな考えも有れば何も考えていない人、自分達のローカルルールをさも当たり前の様に押し付ける人もいて千差万別、これも文末で解説したいと思います。
蛍、小生の小さいころ、ん十年も昔はもっとわさわさ見れたのですが、横浜市教育委員会の怠慢と林文子市長による円海山の開発容認で横浜市最大規模の自然公園ごと絶滅の危機に瀕しています。
瀬上沢蛍の観察可能な場所 久良岐のよし
個体数の激減の原因は過去に開発されてしまった庄戸地区とみどりが丘の宅地化による環境の悪化、それに加えて過去の横浜市による誤った公園整備によって天然のフナが居た瀬上沢が重機で荒らされてしまったり蛍だけでなく生態系も破壊してしまった訳ですが・・・
現在、僅かに生き残った蛍に止めを刺そうとしている組織がいます。
それが東急グループの土地買収による宅地化構想と、歴代市長が守って来た円海山の自然環境保全を事実上放棄して東急に対して土地放棄や買収等の対価を払う等の対案を示さず、それどころか円海山の林道整備すら放棄して丸で段階的に宅地化を容認する構えの様な言動しか現状していない林文子市長と円海山の史跡と自然環境の保護を怠っている横浜市教育委員会です。
過去の記事の転載も交えて説明したいと思います。

先ず、円海山その物を知らない人が多いと思います・・・
円海山は横浜市栄区港南区金沢区磯子区にまたがり鎌倉に続く自然公園です。 
鎌倉横浜に古代文化の基礎を醸成した地域でもあります。
この円海山、実は横浜市で一番標高の高い山で、天気が良いとこの様に頂上近くからは富士山も綺麗に見えます。

実はこの山、歩いて鎌倉まで行ける遊歩道があり、それらは「鎌倉早駆けの道」と言う史跡でもあります。
更に‼︎
蛍(ほたる)の横浜市内での貴重な生息地なんです!
その場所は瀬上池と、その池に注ぐ自然の沢を集めた池から再び流れる貴重な水源地帯の瀬上沢です。
この小川が瀬上沢ですが、こんな不必要な護岸工事が横浜市の建設利権の為か環境整備局の不見識か行われてしまったせいで天然のフナは姿を消しました。
当時、環境整備局の前身組織の負の遺産ですね。挙句の果てに保持が怠られているのが現状です。
歴代市長から保護され多くの市民の憩いの場として解放されてますが、小生も子供の頃よく、ザリガニを採(と)りに来たり野山を駆け巡りに友達と遊びに来ていました。釣りはやりませんでしたが友人達はよくフナを釣りに瀬上池や瀬上沢にも来ていました。
子供が自由に川遊び出来る横浜南部の最後の水源地帯がこの円海山の沢で、特にこの瀬上沢と大岡川源流笹下川上流の金沢区の大谷戸(おおやと)側の沢が状態が良いんです。
写真は円海山大谷戸広場側です。
昔ながらの貴重な里山保存区域です。綺麗な昔ながらの鎌倉近隣の原風景でしょ?
本当、貴重な自然と里山なんです。

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金沢市民の森側、大谷戸広場付近は護岸工事されずに一部上流だけ源流が昔のままの沢の姿を保っています。

写真撮影した季節は冬で川で遊ぶ子供も流石にいませんが…
此処(ここ)瀬上沢には貴重な淡水の貝の化石群の地層が露出した場所があり、更に奈良時代の古代のタタラ製鉄の史跡も出土した場所でもあり…
 
灌漑水田史跡でもあり、重ねて言いますが平安〜室町時代の鎌倉早駆けの道と合わせて非常に貴重な史跡群でもあります。
 
昔の市長達の遺志を踏みにじる東急と林さん。
東急の土地買収で茅が生えて「神社に売るんか(笑)!」ってのが現状です。
以前の市長達により、瀬上池周辺は遊歩道や釣り用の桟橋が設けられていて新春にもなると釣りをする子供や、お弁当作ってピクニックに来た家族連れなんかで、ほのぼのとした空気が感じられる場所です。しかし多くの林道は林市長に成ってから保全されず、通行止めの箇所が異常増加中・・・
今の横浜市長の林文子さんは、どうも保護に熱心ではなく寧ろ開発準備してる側のようですが、昔からの地域のボランティアが自主的に子供の遊び場を守って下さってます。
だから幼稚園小学生くらいのお子さんがいる御家族には暖かく成れば、オススメの自然の中の水遊び場ですよ!
この池が瀬上池。
小生が子供の頃、友人達は釣りが自由に出来るここに来てはフナや鯉なんかを釣っていました。
…小生は、もっぱらザリガニ専門でしたが(笑)。

しかし、最近は今の林横浜市長の施政下で、倒木の処理などが放置され林道が通行止めにされてしまっている所が多くあります。
この下の写真の「尾根道から護念寺への道」も、さも通行出来るような案内板ですが、実際は鉄柵で封鎖され市民が通行出来なくされています。
別に道が崩落している訳ではありません。
横浜市が業者に開発させる前振り?

しかも、此(こ)の道の先は古典落語「強情灸」の舞台になり江戸時代から昭和初期まで、お灸治療の本場峰の灸として観光客と治療客で栄えた竹林の美しい円海山護念寺に通じているので、早く再開通させるべき所なんです。
※円海山護念寺の風景と歴史については「ココ」←クリック!
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ついでに言えば、昔は護念寺の本院だった阿弥陀寺は浄土宗の総本山である知恩院の住職を務められた了鑑大僧正を輩出した名刹だったりもします。最古参の旦那は苅部(かるべ)氏で、元は戦国時代に鎌倉公方代理を務めた蒔田吉良家の吉良頼康公の重臣の子孫に当たります。
蒔田吉良家は戦国時代初期には世田谷を本拠地にした足利家の中で一番格の高い足利家の一族でした。
北条家に従属しながらも吉良様や蒔田御所と敬意を特に払われた高貴な殿様の重臣だったのが苅部家です。
蒔田吉良家は戦国時代末期には横浜市南区の蒔田城を本拠地にして、鎌倉公方代理を務めたので蒔田御所と呼ばれていました。
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上の写真は世田谷豪徳寺の三重塔です。豪徳寺の所在地が蒔田吉良家の初期と終焉の頃の居城の世田谷城址です。
この苅部一族の菩提寺の在る円海山一帯を江戸時代に抑えていたのが氷取沢領主として徳川家康公直属の旗本と成った北条旧臣の間宮綱信公や間宮家本家の笹下間宮の間宮直元公です。
生野代官所位置関係 久良岐のよし
上の画像は朝来市教育委員会様に提供頂いた資料をGoogle earthに張り付けた生野代官所の縄張り図です。
間宮直元公は但馬銀山や金山を含めた但馬国内の江戸幕府直営の施設や領地を治める但馬奉行として生野代官所に居り、同時に現在の横浜市中部沿岸部を治める本牧奉行を務め、徳川家康公からも信任が厚かった人物です。
大久保長安が経営失敗して業績不振だった佐渡金山の業績を好転させるべく、徳川家康公の命令で但馬銀山経営のノウハウを持って佐渡に支援に行き、瞬く間に業績を好転させた事から大久保長安の失脚後は佐渡奉行も兼任した名経営者の御奉行様でした。
更に大坂城の真田丸や総構えの埋め立て作戦を立案し、直接徳川家康公に献策したのも間宮直元公でした。
その菩提寺が円海山山麓、笹下川を挟んで反対に位置する場所に在る妙蓮寺です。
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ここには昭和期まで御神廟に間宮直元公の彫像が祀られていましたが、残念ながら火災で焼失してしましました。
新編武蔵風土記稿 間宮直元公木造 久良岐のよし
新編武蔵風土記稿に掲載されているのが上の写生図。
下は間宮一族の間宮さんが焼失前に撮影した実物の画像です。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
円海山から釜利谷に抜け鎌倉に至る六浦道=金澤道、つまり現代の笹下釜利谷道路と円海山の間道を抑えたのが間宮綱信公です。
間宮綱信公は北条家の外交官として織田信長公にも謁見した人物で、八王子城主で北条家No,2の北条氏照公の付家老(つけがろう=組織上の補佐役だが家臣では無く、主家の家臣のまま出向した家老)を務めた人物です。
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上の写真は八王子城址。現代では日本100名城の一つにも選定されていますが、この城の縄張り、つまり設計を担当したのが間宮綱信公と八王子の現地では伝わっています。
残念ながら八王子城は要害部の完成前に農民と姫様や僅かの守備軍しかいない状況で、豊臣秀吉の配下と成った上杉景勝公、真田昌幸公、前田利家と裏切者の大道寺政繁の大軍勢によって攻め落とされてしまいました。
元は吉良家の北条家臣化後の北条家臣として間宮家の同僚に当たる苅部家、そして北見(喜多見)家、そして北条氏照公与力の重臣として間宮綱信公の格下同僚だった金子家、間宮本家の仕えた玉縄北条家で間宮家の格下同僚だった岡本家等、現在も円海山周辺には多くの旧北条家臣団の苗字が残るのは、江戸時代に間宮家が幕府の奉行職を歴任し、大変栄えたので北条家解体後に元同僚の伝手(つて)で間宮家に与力として仕えた為でしょう。

円海山からは、そんな戦国時代の偉人達の足跡も辿る事が出来ます。
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そして現在では余り知る人も少なくなりましたが古代の神々の参謀を務めた思金神を祀る思金神社も瀬上沢の先に在ります。
この思金神社に合祀された廃社の旧白山社も瀬上沢と山を挟んで反対側、市の教育委員会が自然保護を怠った庄戸地区に在り、その参道の前を流れる鼬川に掛かる橋は昇龍橋と言います。
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横浜市教育委員会では無く神奈川県土木部道路整備課によって神奈川の橋100選に選定されました。
この鼬川周辺も昔は蛍を見る事が出来ましたが、先述の通り自然環境の悪化で今では・・・
思金神社の丁度反対側の辺り、瀬上川の河畔には昔の水田への灌漑施設の隧道が残っています。
 
ここは円海山で貴重な淡水の貝の化石群地層が露出している場所です。
昔の人が、灌漑水田に水を引き入れる為に作った手掘りの隧道(すいどう=トンネル)のある壁面と地続きの山が全て化石群の地層です。
以前は子供も自由に出入りして遊べました。
周辺を東急が宅地開発しようとしはじめた頃に横浜市大が保護を試みましたが、最近は東急が自然環境保全地である事や市民の憩いの場である事を無視し、周辺から市民を締め出し開発準備を始めてしまっています。
昔からの文化醸成地や市民の憩いの場を蹂躙する東急建設と、それを容認する環境整備局そして陳情を見殺しにする現横浜市長の林文子市長の暴挙ですね。
林文子市長は事前の保護も開発阻止も自然環境保護の先手も打たず陳情に対して・・・
「地権者が開発したいんだから邪魔出来ねぇ~し知らね」
・・・と言う事を言っています。
彼等がもし、無碍にこの瀬上沢一帯を開発したら、この自然環境は2度とは戻りません。

庶民に阻止は出来るか微妙ですが、もし開発すれば近隣に留まらず、貴重な自然公園に連なる遊歩道や沢の自然環境を破壊した歴史を事実としてどの政党が支持した、どの市長の時代に、どの土建屋が瀬上沢と遊歩道の自然環境を破壊したか歴史偉人達の遺産を踏みにじったか我々で語り継いで行きますよと。
林市長、東急さん、きっと瀬上沢の重要性再認識してくれると…

皆んなで淡々と事実拡散するしか蛍の住める環境を含めた自然環境を守るには出来ません。
近隣の歴史を語り継いできた寺院や神社の鎮守の森でもありますから。
執政者と開発業者の責任者の名前と経営者の名前を負の歴史として記録して永久に地域で残します。
それが民主主義で出来る事。
陳情に色良いレスポンスないんだから、やったら責任は歴史に刻んで後世に判断して貰いましょう。
この他にも円海山だけでなく横浜市内には腐る程、間宮家関連、蒔田吉良家関連の神社仏閣が有り、円海山の開発が進めが情報も檀家氏子で共有し更に間宮会から世間にも拡散されて行く事に成るでしょう。
この手の自然保護活動と破壊に関心の高い新聞社も間宮家の研究に熱心な某所に出入りしていますし。
東京の蒔田吉良家臣団の御子孫とも連携出来ますしね~。

まぁ、今なら東急さんも林市長も横浜の自然環境を守った偉大な英雄に成れるかも知れないけど。

さて、皆さん、円海山と瀬上沢の自然環境と風景と歴史が非常に貴重で、尚且つ子供が安心して遊べる自然公園である事は御理解頂けましたでしょうか?

瀬上池手前に使われていない畑があります。
あそこを自転車用の駐輪場にし、山頂のスポーツ広場を休日に駐車場として解放し尾根道に歩道を繋げ、昔みたいに家族連れも行きやすい環境を整えて欲しいな〜とか改善案はあるんですがね〜。

円海山は横浜市民や鎌倉市民にとって大切な場所なんですね。

この綺麗な風景と自然と歴史…
我々が先人から受け継いだ様に、何とか次代の更に先の子孫達まで残してあげたいですね。
円海山は文化なんです。

さて蛍が見える場所は横浜市栄区の旧上郷高校、今の栄高校のすぐ下の谷に流れる瀬上沢です。 
瀬上池の位置
今月の写真を交えつつ、観察or鑑賞マナーについて書いてみます。
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先ず、小生の様にフラッシュを焚いた蛍その物の写真を撮影したい方は以下の点に留意するべきです。
●他の鑑賞者のいる時間帯にフラッシュを焚いて撮影しない・・・他の人が蛍の光を見えなく成ります。
※小生は毎回深夜の1時~4時頃、誰もいない中、必要が有れば川に入って撮影しています。
※蛍はフラッシュ焚いて撮影しても、連写しないで数十秒間を置けば光る事を止めません。
●暗がり対策で持参した懐中電灯で照らし続けるのは止めましょう。
※フラッシュより観察や位置確認の為でも懐中電灯で照らし続ける方が蛍が光るのを止めてしまします。
●深夜遅くて暗くて怖かろうが1人で行ってヒッソリと撮影&観察した方が良いでしょう。
※複数人で言って話し声や大勢の気配がすると逃げてしまいますし、何より深夜に御近所に民家も1軒有るので迷惑に成ります。
※先述の通り、小生は必要が有れば川に足つかったりしながら、蛍の見える位置に回り込んで撮影します。蛍を動かしたり捕まえて撮影しない為の行動です。
●深夜に大勢で鑑賞会なんて絶対にするなよ。近所迷惑だから。
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以下当たり前の事。
●円海山は火気厳禁です。タバコはポイ捨て以前に吸うな馬鹿野郎。当然花火も焚火もするな。
●大勢で押しかけるな。家族や少数の友人と行き静かに鑑賞しないと近所住人に迷惑。
●他の鑑賞者がいる状況でフラッシュ撮影するな。先述の通り。
※どうしてもやりたければ、小生の様に深夜に懐中電灯も持たずに一人で行って、時間間隔空けながら撮影しましょう。そうすれば迷惑にも成らないし蛍も光るのを止めません。
●18歳以下の学生は夜間外出を控えましょう、根本的に22時以降に蛍を鑑賞していたら警察に補導されますよ。当該地域周辺は警察官が巡回しています。
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この写真はフラッシュ焚いた数十秒後に再撮影した写真。
あと、蛍が尻の光を点滅すると思ってる人いますけど、蛍って点灯しっぱなしの子もいるんですよ~。
この子は点灯しっぱなしの子でした。

さて、こんなマナーみたいなものを言わなきゃいけない程に蛍が珍奇な存在に成ってしまったのが小生が小さい頃の田舎的な風景や蛍の多さからは想像もつきません。
昔は、多分他府県の人も同じ経験をしていると思いますが・・・
「蛍見に行こう~!」(多人数でわいわい)
「あら危ない懐中電灯もって行きなさい(おばちゃん)」(蛍照らしまくりの観察しまくり)
「蛍綺麗だね~!」(横で花火)
・・・小生の場合、育った年代的にも円海山や上郷の宅地化は進んでいませんでしたし、祖母の住む田舎が有ったり、幼馴染が引っ越した千葉県も自然が豊かだったりで、普通に宅地の傍の農道や自宅の近くの湧水の農業用の池の周りに昔は蛍がいたんです。円海山の瀬上沢も近所だから遊びに良く行きましたしね~。千葉の印旛沼辺りじゃ田圃に農薬撒いた翌日もスンゴイ蛍沢山見れたしね。
きっと学生時代にファミコンで遊んでキン肉マンとかドラゴンボール見てた世代までの人なら同じ経験をして育っている人は多いと思います。

円海山に蛍をわざわざ保護しないといけない環境にしたのは横浜市ですが、その蛍の生息できる環境に止めを刺す開発を行いたいのが東急不動産で、それを容認する発言を回答したのが林文子市長です。
ただ多分、横浜市よりも現状では東急建設に理性が有って踏みとどまってくれて様子を見ているんだと思います。横浜市役所は内部の連携が目茶目茶で林市長が統治出来てるのかも謎。
あと14年で樹齢100年に成る桜並木の街路樹を伐採させたり、調査もせずに城址の空堀を掘削したり盛土して宅地化する案を容認する横浜市歌も歌えない奴が務める横浜市建設指導部と違い、本来は伊勢神宮から天照大神の御分霊を勧進し東横神社を開基し自然や文化の保護に意識が高かった❝昔の東急東横線の五島慶太社長❞始め過去の歴代社長は今の東急建設を見たらどう思いますかね?きっと苦虫を噛み潰したような表情で天罰落としたいと思っている事でしょう。なんせ東横神社は伊勢神宮から勧進した天照大神と合祀された渋沢栄一公が御祭神、自然守護の象徴たるお伊勢様と経済世民と愛国を両立した渋沢栄一サンを東急グループは守護神としている訳だが・・・
この事を恐らく東急建設の現経営陣は知らんだろうな。
これを機に、林市長と横浜市と東急建設に瀬上沢の横浜市による土地買上げと当該地域への広域自然保護区認定を改めて行って貰える様に、皆さんで陳情して頂けると幸いです。
●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299
・・・個人的には東急不動産と林市長には横浜市の自然と古来の文化醸成地を守った英雄に成って頂く道を選択して頂き担当者さんや林市長に歴史に良い意味で名を残して頂きたい。
まぁ、庶民に合法的に出来る事は語り伝え記録を残す事と陳情と、次の選挙での投票だけ・・・。

2017年05月、鎌倉市に新しい歴史博物館がオープンした。
その名も鎌倉市歴史文化交流館。
どちらかと言うと地元民向けなのだが、歴史が好きなら観光客にもお勧めしたい場所が増えた。
実は、その歴史文化交流館の招待入場券を頂いていたので、昨日土曜日に訪問して来た次第だ。

来月に妹の方の甥っ子姪っ子を連れてキャンプ場に行く予定が有り、午前中は予約をしてから少しウダウダしていた。余り寝てないから二度寝した。
昼の12時頃、お腹も減ったので鎌倉の小町通りに以前から気に成っている葉山牛を出すステーキハウスが有り、ついでに、そこにも行こうかと思い出発の準備を始めた。
結局出発したのが1時過ぎだったので栄区方面から朝比奈峠へ入り鎌倉へ車を走らせた所、シッカリ週末の鎌倉の渋滞に嵌(はま)ってしまい結局近所なのに、駐車場の有る❝御成り町❞着いたのは2時近くだった。
ゴジラ御成町周辺 公式借り物 久良岐のよし
今日車を停めた駐車場が最近、丁度ゴジラに踏み潰された辺りだな(笑)。
御成り町の辺りは鎌倉時代は大名達の屋敷が立ち並び、問注所と呼ばれる裁判所が最初に設置された辺りだったりもした。
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近代に成ると多くの文豪が住み、これらの人を昔の❝鎌倉武士❞今の❝鎌倉文士❞と土地の人は言ったものだ。
まぁ、そんな訳で文化的な町で関西に例えるなら京都の哲学の道の様な雰囲気の有る地域だろうか?
銀閣寺周辺に似ている雰囲気かも知れないが、近現代の文化人が多く住んだので大正や昭和初期の近代西洋建築の私邸が多く残り、簡単に言ってしまうと❝上品な文化人と御金持ちの町❞と言った所だろうか?
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町を歩けば立派な邸宅が文化財指定されている看板をちょくちょく目にする。
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まぁ、一般の方の御宅も多いので公開されていない場合が多いが・・・
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古我邸の様に立派なフレンチレストランとして転用されている様に、飲食店として活用されている場所も少なくない。ここら辺は横浜の山手地区にも似た雰囲気なのだが、横浜の場合はガチの外国人居留地で鎌倉は元大名や財閥や文化人の大邸宅なので横浜の方とは違って何だかドイツの貴族の屋敷の様な雰囲気の規模と場所が多い。
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敷居が高い様に見えてランチは3800円と庶民の小生でも少し高いランチとして気張れば入れる。
本当はここで昼食でも良かったのだが・・・
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・・・生憎(あいにく)門前に「ウェディングパーティーで本日貸し切り」と看板が出ている。
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鎌倉で仙❝道❞だったら七里ヶ浜の鎌倉高校が湘北高校のモデルなのでスラムダンクっぽいが、この日の新郎は仙❝頭❞さんで一文字違い(笑)。
仙頭さん、宇山さん、オメデトウ♪
古我邸でランチするのは又の楽しみにして、当初の予定通り博物館見学後に小町通で葉山牛を食べる事にした。
古我邸を過ぎると緑も多くなって来た。
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直ぐに鎌倉市歴史文化交流館に着(つ)いた。素敵な石畳が続く。
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この素晴らしい自然に囲まれたデッカイ建物、実は最近まで某出版社社長の個人宅だったと言うから驚きだ。
この場所は古くは無量寿院もしくは無量寺と呼ばれた鎌倉時代の大寺院の跡だった。詳しい事は解っていないが、近くには鎌倉幕府の重鎮だった安達家の邸宅も在ったので安達家と関係の深い御寺だったのかも知れない。
その後、廃寺と成り、近代に三菱財閥の岩崎家が別邸を建てた。その為に敷地内の寺院としての遺構も良く残っていたので後で紹介しようと思う。
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中世の昔、御寺だった地形らしく谷戸(やと)に成っている。
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この博物館、案内状を頂いた際にパンフレットを読んでとても期待をする一言が書かれていた・・・
❝館内の展示物は全てフラッシュをたかなければ写真撮影自由❞
・・・この文言は普通の博物館では中々目にしない。
東京上野の国立博物館でも撮影は部分許可、ケチ臭い無文化な神奈川県と横浜市教育委員会の関わる横浜市歴史博物館や神奈川県立歴史博物館は撮影不許可。
流石、鎌倉の方々は子供を歴史を好きにさせる❝仕掛け❞を心得てらっしゃると思う。
中に入ると受付の女性は皆さんとても❝言葉遣い❞❝立ち振る舞い❞❝基礎知識❞等の接客を叩き込まれておりとても立派だった。そして愛嬌も有る美人さんで英語対応も可能だった。
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エントランスには鎌倉を代表する工芸品の鎌倉彫が展示されていた。
鎌倉彫りの彫刻って習える教室が沢山有るので彫ってみたいのだけど時間が無くて通えない。
こんな立派な入物、購入したらいくらするんだろう?きっと万単位の金額なんだろうな。
展示品だから数十万~数百万円はするのかも知れない。

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ホールの雰囲気はとても武士文化の鎌倉らしいレイアウト。
京都の下級貴族の侍(さむらい)の格好とは違う、関東武士の装いの流鏑馬の写真。
余り知る人は多くは無いが鎌倉市の扇谷地区には流鏑馬の武田流弓馬道場が有ったりする。
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ま、今回の訪問地は源氏山を挟んで反対側なので、そちらの説明はしないでおく。
歴史文化交流館は展示スペースの入口にも、非常に興味深い物が有った。
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日本を代表する名刀、正宗。その現代の工房、正宗工芸の社長が鍛えた刀と説明が有った。
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そしてもう一つ・・・
こちらはレプリカなのだが日本の歴史に登場する鎌倉にも関係の有る名将が着用した甲冑の完全なコピー。
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畠山重忠公着用の鎧の完全なレプリカ。
重忠公は源頼朝公から信任厚く、2代目の将軍と成った源頼家公の事を託された名将だ。
頼朝公の挙兵時に京都に居た為(ため)に止む無く平清盛の軍の指揮官として討伐軍に参加させられ、身内の三浦家と対立、三浦家の本拠地で有った現在の横須賀市衣笠の衣笠城を攻めて身内の三浦義明公を攻め殺す悲哀に見舞われた武将だ。この悲劇が頼朝公へ帰参後も後を引いて北条⇔三浦連合の陰謀により頼朝公亡き後に逆賊扱いされ横浜市の二俣川で数十人の手勢で数万の敵軍に囲まれ討死した。
その後は源頼家公は北条家に暗殺され、北条家と血縁の深い源実朝公が三代将軍に擁立された。
様は、野心は無かったのに権力争いに巻き込まれた悲運の武将と言う訳だな。
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この鎧の本物は現在も武蔵御岳神社に保管されており、現代に伝わる。
よく源義経が着ている鎧のイメージは、この重忠公の鎧のイメージだろう。
ついでに言えば源義経は猫背で明石家さんまみたいな顔だったと推測されているブ男だ。まぁ、義経は内面も私利私欲の塊だったんだがな。
他人の手柄を自分の手柄の様に報告する最低な今で言ったらモンスターパワハラ上司だったのは歴史が本当に好きな人には有名な話。
実際に俗説に❝鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし❞と呼ばれた迂回奇襲戦を立案したのは名軍師で三浦半島の佐原出身の三浦一族の佐原義連(よしつら)公だったし、その作戦を実行実現したのは摂津源氏で関東では横浜市都筑区センター南の茅ヶ崎城に住んでいた多田行綱だった。ましてや木曽義仲討伐戦で活躍したのも近江源氏の佐々木高綱公と我が郷里鎌倉郡の梶原景季(かげすえ)公だった訳だ。
まぁ、そんな事を畠山重忠公の鎧の色を見て思い出した。
最初の展示室に入ると鎌倉の歴史が解る年表が有る。
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小生が体得した歴史観と同じく、やはり鎌倉も弥生時代に海面下だった現在の平地部分が隆起している事が書かれている。
だから言う。日本武尊の東征は地殻変動に由って隆起した海底が湿地と成り、耕作地に向いたために現在の神奈川県中央部の新たな開拓利権で係争が起きて、そして佐賀牟国と磯長国の再統合と分離によって相模国と武蔵国の再編が行う為の大和朝廷に由る軍事介入だったと言う事を。
そして、それが証拠に現在恐らく❝武蔵国造の乱❞との名だけで伝わるこの係争を纏めたのが日本武尊で、実際は学者が言うよりも数百年前の話だろう。実際、武蔵国造の乱で朝廷に接収された久良岐郡や橘樹郡や多摩郡は非武装地帯の様に配置され、更には軍馬の生産地としても有名だった場所と港の有る土地だ。
まぁ、考古学を危険視する宮司もいれば、神道をコケにする左派歴史学者もいるが、小生に言わせれば考古学と日本神話は必ずリンクしているんだな。
つまり日本の神様ってのは、自然の聖地が神格化されて大切にされたパターンの他に、弥生時代~古墳時代の天皇家や豪族王後の貴族の弥生時代の祖先の事ってのが良く解る訳だ。
宮司さんの中には弥生時代を原始人の時代位の認識のトンデモ人間もいるが、日本の弥生時代末期は結構農耕も栄えた上に金属鋳造技術も獲得していたし、例えればギリシャのポリスみたいな連合体がいくつも有って原子国家が既に成立していたんだな。
まぁ、そんな事も年表見ながら考えていた。
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壁面には、こういった解説パネルに合わせて下に実物も展示されていた。
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こんな感じ。
中でも小生の興味を引いたのは、下の文書(もんじょ)。
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小生が毎日御参りする足利持氏公の文書。
戦国時代の幕開けとなる永享の乱を戦った鎌倉の将軍、くじ引きで室町幕府の征夷大将軍に成った比叡山の僧侶出身の残忍王とも言える足利義教と対立して滅ぼされた関東の将軍様だな。
この御子孫が、横浜の殿様の間宮家や吉良家が御仕えしていた足利成氏公な訳だ。
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まぁ、日本の歴史の中で国家の宰相に成ってまで同氏族同士で殺し合ったのは、後にも先にも、この足利家と藤原一族くらいだ。まぁ、足利尊氏公以後の足利家はハッキリ言って血縁的には半分以上の遺伝子が藤原遺伝子なんだけどね。
藤原が治めると日本は治まらないんです。
桓武天皇の御子孫の平氏か、宇多天皇や清和天皇の御子孫の源氏が統治しないと日本駄目なんだな史実として。
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まぁ、戦国時代に伊勢平氏の子孫の北条家が統治した土地はやはり善政が敷かれていたし。
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小生が顕彰活動をする玉縄北条家の北条綱成公の居城、鎌倉市大船駅近くの玉縄上司の縄張り図も玉縄城址まちづくり会議の荒井会長達が作成した物が展示されていた。
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あと建築利権と結びついた横浜市長と市の役人とは違い、鎌倉市は歴史風致を乱した過去の開発業者も曝し上げている(笑)。
本来、文化保護の為に教育委員会は斯(か)く在るべきだ。この施設の館長は良く解っている。
ここに来ると林文子横浜市長や横浜市役所の役人による城址破壊の許可と不保護、神社仏閣の関連する風致地区の破壊と商業開発が如何に文化的にレベルが低いかが良く解る。
だから横浜市は全国でもワーストの文化財保護法の設置の遅さだったんだろうな。
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ここは合戦で武士が着用していたと思われる武具の展示も有る。
恐らくコレを着用していた人物は死んだんだろうな。
これが和田合戦か宝治合戦か鎌倉幕府滅亡の時かは解らない。或いは安達家の滅亡の時かも知れないし。
まぁ、こう言った発掘されたまま修復せずクリーニングを施した展示物は生々しく血の匂いが伝わって来そうで現在の平和の有難みも解って良いと思う。本当に見せ方が上手い。
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この鎧は着用していない脱がれた状態で埋蔵された様だ。
形式から見て鎌倉時代の物だろう。
他にも色々あったので写真を張り付けて見る。
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まぁ、他にも沢山有り、適度な量を解り易い説明で展示されていて、とても頭に入り易い。
よく考えられた構成に成っていると思う。
中でも特に面白かったのがコレ・・・
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立体地形図にプロジェクションマッピングを利用して、各時代の様々な情報を地形図上に再現する。
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これは基礎知識も無い人でも本当に解り易いと思う。
ただ、言葉は大人向けなので対象年齢は中学生以上と言った所、馬鹿は大学生なら何言ってるか解らないだろう(笑)。
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他にも、多分、武士か商人のヘソクリみたいな4万枚の宋銭なんてのも有った(笑)。
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まぁ、本当に良い展示の仕方だよ。感心するばかり。レイアウトも綺麗。
これは若い女性の学芸員さんだったり、職員さん達が鎌倉の洗練された感覚を持ってるだからだろうね。センスが良い。
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近代まで全時代を網羅した博物館なので近代文学の事も紹介されている。
小生は横浜の有島武郎と、妹が大学時代を過ごした松山市を舞台にした坊ちゃんの夏目漱石の小説は高校生の頃にいくつか購入して読んだ。担任の先生に「オマエ、そんな趣味あるのか?」と驚かれたが嵌ったのは一時だけだった(笑)。
その後は孫氏の兵法や史記や心理学の本を何故か読み漁り、後は現代で言う所のラノベと言うジャンルの小説を読んでいたかな。
部活では格闘技をやっていたが、何をやっていたかは敢えて言わない(笑)。
さて、ここは博物館の建物自体も現代建築として価値の有る場所な訳だが・・・
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建物の中から御寺時代の名残も見える。気持ちいの良い谷戸と草原の風景。
そして面白いのが神社風の建物も有った。
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茶室か何かに使ったのかな?パっと見は神社建築の幣殿部分みたいな感じ。
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別館が有り、エントランスから庭に出て移動する必要が有る。
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少し散歩してみた。池が有る。
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鎌倉の寺院に良く見られるのだが、鎌倉市街は平地で井戸を掘ると昔海だった影響で塩分濃度が高く引用に適さなかったそうだ。そこで埋葬用の矢倉とは別に岩窟を掘る、すると鎌倉石は水を良く通すので岩窟に水が溜まる。その水を一か所に集めて生活用水にしたり、池を満たして庭園を整備した様だ。
まぁ、下の写真みたいに低所に有るのは石塔が建てられ石塔内に納骨された埋葬地だったのだろう。
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鎌倉時代の骨壺は、戦国時代や江戸時代に茶器として転用する目的で多く盗掘されてしまった。
横須賀市衣笠の三浦義澄公の御廟も石塔の納骨部が叩きわ割れてしまって中身が無くなっていた。
罰当たりな盗掘者はきっと不幸な死に方をした事だろう。
それと同じだよ、横浜市と神奈川県の役人と政治家で古代からの聖地や先人の歴史史跡を調査も保護もせずに開発利権の為に破壊する奴は。
まぁ、その話は置いておいて・・・
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別館も展示物が並んでいる。
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こちらは流通や経済や人々の暮らしが解る展示解説が多かった。
そして、綺麗で国際派美人の受付の御嬢さんに色々と親切に対応して頂き、とっても物腰柔らかく美人で皇族の眞子様の様な学芸員さんと色々と話し情報を交換したり、周辺の郷土史をレクチャーして頂いたり出来た。
本当に丁寧な接客をする施設だな。感心する。
そして個人的に女性は才色兼備で内面も出来た人が多いと思う。
そして人意外にも素晴らしいものがココには有った。
博物館の敷地には、昔の御寺時代の奥院だったんだろうか?稲荷神社の跡地が展望台に成っていた。
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ここに在った御稲荷様は、博物館の建設の際に宗教的な見地から同じ源氏山の山麓に在る葛原岡神社に遷宮したそうだ。
まぁ、そのまま稲荷様として鎮座して頂いて良かったとも思うけれど、神社として多くの人に拝まれる方が神様的には幸せかもしれない。
ただ、御稲荷様ってのは御祭神が宇迦之御魂(うかのみたま)神で、本来は水の湧く洞穴何かに祀られた湧水地の神様なんだな。そしてこの歴史文化館の稲荷社の跡の崖地からは水が湧いているので、宗教的な本来の意味から言えば、ここにいらっしゃらないと意味が無いんだとも個人的に思うのだが・・・
古代人とって飲用水の確保ってのは命を繋ぐ財産の確保だった訳だ。だから神様を奉って大切にした。それが宇迦之御魂神だった、それが弥生時代に稲作が普及すると、水の役割が農業用水としての重要性に代わって来た。
そして漢字の導入が始まると宇迦之御魂神の字に倉稲魂命が当てはめられる訳だ。財産が水から米に変わったからだな。
更に平安時代末期に成ると、貨幣経済の普及によって財産の象徴が米から貨幣に代わり、財神としての性格を持つ弁財天様が宇迦之御魂神様と同一視されて祀られる様に成った。
この経緯が良く解るのが❝銭洗い弁天❞こと宇賀福神社や・・・
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江ノ島の弁財天様だな。
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もっとも、弁財天様には軍神としての性格も強いので昔は弁才天と書いた訳だ。
頼朝公が弁財天様を信仰したのは、その為だな。まぁ、頼朝公は熊野信仰や富士山信仰、大山信仰等の山岳信仰マニアで横浜市金沢区六浦にも浄願寺って大寺院を山の上に建てたりしたんだが、そこもやはり横浜市教育委員会が多くの学者と地元民の反対を無視してマンション建設許可を出してしまったんだな。戦後に横浜市から消された歴史史跡と宗教史跡は数が多すぎる。
本当、横浜市の横浜市歌すら歌えないカッペ職員は罰当たりな奴が多かったんだよ、昔は。
今は市長がクソだけどな。
そこを行くと、左翼横浜市と違って昔から文化人の多い鎌倉市の教育委員会は鶴岡八幡宮や御寺さんと関係が密接な有り、文化保護や調査に対する意識が高い。
だから、この歴史文化交流館みたいな素晴らしい施設を創生する事が出来るんだろう。
さて、歴史交流館の稲荷社跡地には宝物が有る。
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それは鎌倉市街~材木座~由比ヶ浜~小坪~住吉城址を見渡す眺望だ。
この写真は小生の撮影技術の未熟さで余り良くないが、本当に素晴らしい景色だった。
ここは鎌倉の中央図書館からも近いので、又、文献読みに来る時に是非、立ち寄りたい。
さて、鎌倉市歴史文化交流館を後にして、腹もすいたので小町通に葉山牛を食べに向かった。
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途中、踏切を渡る直前に正宗工芸の前を通ったので刀の製造過程の展示の写真を改めて撮影して来た。
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ショーウィンドーに常設されているので誰でも見る事が出来る。夏季は刀を打たないので、冬季に成り予約をすれば製造している所を少し見せて貰えるかも知れない。
小生は幸運な事に高校生の頃に自分で電話番号を調べて刀が好きな事を伝えて見学させて頂きたいと伝えた所、粋な計らいで学生と言う事も有り機械のハンマーで鍛える行程と使用する道具、昔の道具を見せて貰う事が出来た。
本当は高校卒業したら刀鍛冶か宮大工に成りたかったのだが親の反対で断念した経緯が有る。
もし高校生の頃に戻れるなら親の言う事を無視して、正宗工芸に弟子入りしたいなぁ・・・。
この日は外国人のお客さんが牛刀を買って、社長と中で写真撮影をしていた。
ふむ・・・無文化日本人より親日家西欧人の方が日本文化に理解が有り、今では余り知る人もいなくなった名刀正宗の工房を訪ねて来る訳だ。
正宗工芸を過ぎて踏切に差し掛かると小町通が見えて来る。
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相変わらず週末は賑わっている。歩くのも少し気を付けないと人にぶつかりそう。
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目的のステーキ屋に着いた。そして絶望・・・
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・・・以前見た時はランチで3800円位のコースが有ったと記憶しているのだが、朝5時~7時とかとんでも時間に御試しコースが設定されていた。
そして通常のランチは一番安くても5000円前後だった。小遣い予算オーバーに成るので断念。
小生の味方、小町で小腹を満たす場所と成ったここ・・・

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この路地を入った場所に有るシラスたこ焼きの店。
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たこ焼きの中にシラスが入っているのだが、正直シラスの風味は余り感じない(笑)。
でも京都に住んでいた事の有る小生からしても、ここのシラスたこ焼きは普通にタコ焼きとしてとても美味しい!
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先ずはこれを食べて、そして帰りにコロッケを別の店で食べると安く上がる(笑)。
食事を終えて、小町通にある芸林堂と言う行きつけの古書店に立ち寄ったのだが、生憎写真を撮影し忘れた。
しかも欲しい本が高くて手持ちの小遣いで買えず(笑)、何故かトンボ玉を買ってしまった。
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芸林堂を出ると、次は社塔と言う和紙専門店に移動。
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ここには1年間に2回位来る。
色んな要望に応えて下さるので助かる。
以前、御朱印の収納するアルバムを作成した時に千代紙をシールに加工して下さったり、特殊な御朱印を頂く為専用の色紙等を用意して下さったり、本当にお世話に成っている。この店は小生の土地神様の神社の宮司様から教えて頂いた場所だ。
今回は延喜式内社用の御朱印帳がいっぱいに成ってしまったので、分解してページを継ぎ足し外装も新調しようと思い改造用に和紙を購入した。
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綺麗でしょ?
和紙もちゃんと持ち運びに耐えれるように梱包して下さる。
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本当に親切なお店だし、品揃えが豊富で鎌倉で好きな御店の一つだな。
帰りにマメヤによって、青梅味の豆菓子を買い、帰宅前に寄る弟の所の姪っ子達の御土産にした。
無論、自分の家用も買って。
そして鎌倉を離れ横浜市域に戻り、弟の娘達に先日製作して上げたストラップと豆菓子を渡して来た。
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ふむ・・・
良い博物館が出来て嬉しい。
そして綺麗な風景も見れたし、綺麗な御嬢さんと沢山話せたし(笑)。
行動範囲は狭かったが良い休日に成った。

※ストラップの編み方は後半部分に写真付きで解説します!

今日は休みを利用して姪っ子達に頼まれてたストラップ作ってました。
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本当は昼間に同じアクセサリー造りでも別の事をしようとしていた。
実は小生の歴史の次の趣味の指輪作りで新たなジャンル「鍛造」を開拓しようとしていた。
結果から言うと失敗に終わった。

正午過ぎ、小用が有り栄区方面から円海山の反対側の港南区の日野方面に移動、ついでに用事を済ませてからホームセンター真鍮線と銅線とアルミ線とガスバーナーを買って来た。
その原因は昔、中国留学中に買ったチベット(中国に侵略され自治区化)の御土産の木目金の指輪と同じ物を、yutube動画で自分で製作して投稿している
作業員Aと言うyoutuberがいるのを見つけたからだった。
YouTube 作業員Aさんの動画 久良岐のよし
その動画→木目金で指輪作ってみた
小生が今まで作っていたのは銀の指輪。
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こんなリラッ〇マとコリラッ〇マの指輪とか。

   ↑
昔書いた記事。
必要なスキルは彫刻スキルのみ。後は焼成や鋳造だけ。

だから作業員Aさんの動画を見て鍛造もやって見たく成った訳だ。
で、買って来た資材。
    ↓
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板状の物が欲しかったのだが、所詮、一般人向けのホームセンターにソンナ物は無かったので銅線や真鍮線代用した・・・
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「グルグルに最初から力任せに捩(ね)じってから、溶ける温度まで焼いて黒焦げにして冷める前に金槌で叩いて延せば木目金作れるんじゃね?」
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・・・とか甘い考えでやった訳だが先述の通り失敗。
ガスバーナーで1500°に熱してから金槌で叩いて木目調金属の指輪を作ろうとしたけれど上手く行かず、分子結合もしないし叩けば叩く程に折角苦労して捩じった金属線が真直ぐに成ってしまう予想外の展開(笑)。
次は棒に巻き付けてもっと密着度を上げてみた。
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目茶目茶焼いたよ!
焼きまくったよ!赤く光るまで焼いてハンマーで叩いた結果・・・
アッサリと銅線が破断。完全失敗。
成る程ね。
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昔、高校生の時に鎌倉の正宗工芸を自分で電話予約して訪問して目の前で刀の作り方を見学させて頂いた事が有るのだが、何で鍛造する時に棒状の金属を叩くのでは無くて板金を重ね合わせるか、失敗して意味が分かった。
細いとくっつく前に破断してしまうんだな。そりゃそうだ、叩けば極端に薄っい線に成るんだから。
銀以外の金属の扱いにはやはりちゃんとした炉や何かを作らないと無駄だなと悟り小さな挫折と金属適正経験値僅かに体得。

根本的に鍛造するなら銅線や真鍮線じゃなくて銅板や真鍮板じゃないと分子結合しにくい様だ。
熱して力業で叩き延せばOK?とか甘い考えだった。
化学を知らない阿呆丸出し(笑)。
でも楽しかったから、いつか資材と機材を揃えてやって見たい。
とは言え失敗は失敗。夜、何かジムに行く気にもTV見る気にも成らなかったし、昼の指輪製作の挫折でモヤモヤ・・・
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姪っ子にもストラップ作ってくれとせがまれ頼まれてたし、叔父ちゃんとして昼の工作のリベンジも兼ねて幼稚園生の姪っ子姉妹にストラップ作ってあげた。
リクエストは幼児らしく「ピンク」との事だった。よう解らん。
オジちゃんが、そんな真っピンクのセンス悪い色の物なんか作る訳無いだろう。
当然、配色はピンクが際立つ様には配慮しながら別の七宝やらなんやら、中国留学中と毎回の中国と台湾旅行で買い付けて貯めて有る天然石と、小生の工作の味方❝ユザワヤ❞で購入したナイロン製の紐やら服飾品のアクセサリー用の金属部品を使って❝リクエストと微妙に違う物(笑)❞を作って見た訳だ。
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・・・
1つは亜細亜的な設計。
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もう1つは西洋メルヘン的なデザイン。
今回は弟の方の姪っ子姉妹なのだが、どうも昔の彼女と御揃いでペアに作った中国風のブレスレット、彼女と別れた後で母に強奪された(笑)のを見て、姪っ子は小生が組紐を作れるのを知ったらしい。
そして中国風の物を見て長女の方が小生にリクエストをして来たので、一応1つは中国チックな石と金属パーツと七宝と赤いナイロン糸でストラップを作った。
どうもアナ雪が好きな様子なので、もう一つは西洋の御姫様っぽいストラップを作って見た。
まぁ、持って行って、姉妹にどっちが良いか選ばせよう。
土曜日に鎌倉の宇賀福神社と中央図書館行った帰りに小町通ので御土産の揚げ饅頭を買ってストラップと一緒に渡してあげよう。

因みに下は小生の天然石とビーズ
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他にもピアスの材料も持ってるけど、今はもう作ってあげる人がいない(笑)!
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これは小生の天然石とビーズ入れ。中国っぽいでしょ?
中国政府は大っ嫌いに成ったけど、中国の文化的に成熟している家系の友人達や中国の歴史と文化自体は今でも好きなんだよね(笑)。
今でも小生の守り神の天満大自在天(菅原道真公)様と弘明寺の観音様と辯才天様の厄除の御分霊の札、そして走水神社の日本武尊と弟橘姫様の御所跡の走水御所ヶ崎の砂の横に、協天大聖(関羽雲長)公と媽祖(まそ:日本の弟橘姫と同一視される台湾の神)様の小さな銅像を神様の御札の横に飾って有ったりするし。
・・・御分霊をお迎えする御札は、どれも祈祷して頂いて小生の名前が入ってるから掲載できない(笑)。

さて、ついでだから以下に作り方、編み方を掲載して見ようと思う。
誰でも出来るのでやった事が無い人は是非!チャレンジして見て下さい♪
もし幼稚園~小学生位の女の子がいる家庭なら、お母さんやお父さんが作ってあげた物を特に意味が無くてもプレゼントしてあげたら喜ぶかも知れないし、一緒に作り方を覚えても良いコミュニケーションツールに成るかと思いますよ~。

【必要な物】
●ビーズ
●ナイロン製の手芸糸(ライターで溶かして溶着させれるからナイロン製が良い)
●ハサミ
●ライター
●金属鑢(ヤスリ)の丸状の物。
以上。

【手順】
当然だけど先(ま)ずは石を並べて好きなデザインをザックリ形にして、糸も選び配色を確かめて見る。
※石を並べる際は下の写真の様にゴツゴツした鍋敷きやランチョンマットの上だと石が転がらず良い。
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こうやって並べてみると、イメージより配色のが地味だったりする事が確認出来る。
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上の写真の石には結局、後で淡い色のローズクォーツを目立たせるコントラストの為に
写真と違う茶色い紐に変更した
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先ず小生は先端、ブラブラぶら下がる方に糸を通して端っこを作ってから編んで行きます。
こうすると、折角糸に通した石がボロボロと落ちずに済むからね。
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出来上がりを神社の御守りの太く丸い組紐みたいにしたい場合は上の写真の編み方をして下さい。
以下の説明を三次元で考えて見て下さい。
上下に芯に成る糸を垂らします。その芯と直角方向に日本の糸を十字に挟み込んで、そこから卍(まんじ)状に編んで行きます。
それを同一方向で繰り返して行くと、戦国武将の甲冑に使われていたのと同じ丈夫な太い丸紐が編み上がります。
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当然ながら芯の紐には石も通し組紐に挟み込むので、余分な意図は都度(つど)裁断してしまいます。
この切った部分を少しだけ残してライターで焼くとナイロン製の紐なので溶け出します。
それを火がついてる内に熱いの我慢して指で溶けている部分を編んでる本体に撫(な)で付けると溶着出来て、どんなに負荷がかかっても解(ほど)ける事は有りません。
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で、編まない部分にはガツガツ石を並べて行きましょう。
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石や金属の穴に紐が引っかかる際は、丸い金属のヤスリで穴を研磨し広げてあげると糸が通り安く成ります。
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  ↑
こんな奴ね。
又、芯の紐の先端も最初にライターで溶かしてナイロンの溶けた部分を素早く指で挟んで引っ張ると細く伸びて糸が通し易く成ります。
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ナイロンをライターで溶かして引っ張ると写真みたいに溶けて伸びるので、ハサミで切れば糸が通し易く成るって訳です。
写真に大量の胃薬と漬物が写っている事は気にしないで下さい(笑)。
さて、編み方を写真で順を追って見て見ましょう。
1、先ずさっきの説明の通りに上下に垂らした芯の紐に対して直角の角度で水平に2本の紐をクロスさせる。
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2、卍型をイメージして、糸を右隣の糸の上に掛ける。
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2、下に成った糸を更に右隣の糸の上に掛ける。
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同じ事を繰り返す!
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繰り返す・・・
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・・・一周したら最初はユックリと、そして結び目が近く成ったらキツク縛る!
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これを何回も繰り返してると太い組紐に成ります。
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こんな感じに成ります。
超丈夫!
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この際、自分の思っている長さまで編み上がる少し前・・・
芯の紐の終わりの部分をU字に織り芯の紐を二重に成る様にして、一緒に中に編み込んでしまいます。
・・・そして余った芯の紐の余分な部分も切り落とし、ストラップの輪っかを作ってしまいましょう!
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で、適度に自分の思う長さに出来上がったら、又、余った編み込み側の紐を切断して溶着させます。
この時に間違って残す方の輪っか部分の芯の紐を切っちゃったら台無しなので気を付けてね~。
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で、編み上がるとコンナ感じに成ります。
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因みに、卍型に2本の糸を編まず1本でやると平べったい真田紐みたいに編む事が出来ます。
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こんな感じ・・・見えずらいかな?
この洋風の心算(つもり)の方のストラップに付いている十字架は、輪っかを作る際にU字型にして織り込んだ芯の紐余った部分に付けて有ります。
輪っかにした芯の紐や編み込む側の紐の余剰部分を残す事によって、こんな感じの事も出来ますのえ参考にしてみて下さい。
ストラップの輪っか部分の編み込んだ部分の根本は、一重に結んで置くと組紐部分が伸びたりズレるのを防ぐ事も出来ます。

さて、今回は歴史全く関係ない・・・
あ、途中で正宗工芸さん紹介したかな?

    ↑
これは昔書いた記事。
・・・歴史要素の少ない休日雑記には成りましたが、御孫さんがいる御婆ちゃん御爺ちゃん、小さい女の子のいる御夫婦、是非!組紐でブレスレットやネックレス、又はストラップ作りにチャレンジして遊んで見ては如何でしょうか?

では!
又、次の記事で御会いしましょう♪
次は蛍の季節なので、久しぶりに円海山の蛍の事紹介しようかな。



三浦半島の横須賀市長坂には乳牛を飼育してアイスクリーム等の乳製品を直売している関口牧場と言う場所が有ります。
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小さい乳業会社なのですが口コミでアイスクリームが美味しい事が広まって、最近では休日とも成るといつも行列が出来ています。
入口が少し判り難い上に駐車場が少ないのも厄介なのですが、それでも大人気の店なんです。
関口牧場・無量寺・佐島マリーナ・海辺の位置 久良岐のよし
場所は上の地図を参考にして頂けると良いのですが、車で佐島マリーナから10分、衣笠ICから20分程度の距離に位置します。比較的交通は不便な場所ですが、これから夏に向けて佐島や長者ヶ崎や三崎に行く用事が有る人にはおススメのスポットです。
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    ↑
道の入口はこんな感じ。
店は少人数で切り盛りしててコンナ感じ。
    ↓
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お姉さんが1~2人で頑張ってるので、ちゃんと整列して煽らず(笑)出来るだけ運営に協力して上げて下さい。
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この日、小生はココア味とバニラ味のダブルを注文しました。
これ、上下にトッピングされてますがツイストにもして貰えて、子供に選ばせれば喜ぶかも知れませんね!
飯田牧場同様、自然の甘みを重視しており、人工的に脂分の添加をしておらず不自然なクリーミーさは当然有りません。甘いのにサッパリしていて量は多いのですが美味しく平らげる事が出来ます♪
小生は最近、可愛がっている甥っ子(4歳)が総合格闘技の道場でレスリングを習い始めて中々、オジサン(小生)と遊んであげる暇が無くなってしまい(笑)まだ連れて来てあげれておりません。
牧場なのですが、前回紹介した藤沢の飯田牧場と同じで広大な放牧地が有る訳では無さそうです。

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でも牛舎が隣接していて、外から様子を見学できます。
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小さい子を連れてくれば、こうやって❝牛臭い(笑)❞場所で牛乳が生産されてる事を理解させる良い機会に成るかも知れません。
牛さんに感謝する心を教育する場としては良いと思います。
エサやり禁止なので厳守して下さいね~!
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もしかしたら牛舎の背後は放牧スペースかも知れませんが、店員のお姉さんが忙しそうだったので確認していません。
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牛の他にもヤギや鶏もいました。
三浦半島の南側の油壷マリンパークや三崎や城ヶ島、西側の葉山や長者ヶ崎や秋谷の海岸に行く機会が有れば、是非立ち寄って見て下さい!
【関口牧場】
業種:乳業、アイスクリーム製造と直売。
あと、車で10分と直ぐの佐島マリーナの入口に在る❝海辺❞と言う和食海鮮レストランも御薦めです!
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魚も美味しいのですがロケーションが綺麗なので、以下に各周辺観光地の過去記事と合わせてリンク紹介して置きます。
【海辺】
業種:和食海鮮レストラン(海に張り出したロケーションの眺望と新鮮な魚料理が特徴)
タグ:佐島マリーナの記事→一覧はココクリック!
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タグ:三崎漁港の記事→一覧はココクリック!
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タグ:油壷マリンパークの記事→一覧はココクリック!
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タグ:秋谷海岸の記事→一覧はココクリック!
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タグ:長者ヶ崎と葉山の記事に→一覧はココクリック!
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さて、小生のブログは少しは郷土史要素も入れて置きたい・・・

話を関口牧場に戻すと、ここを知った理由は戦国時代の横浜を治めた間宮家の一族の分家で間宮造酒丞(みきのじょう)家の菩提寺であり、鎌倉時代の名将の和田義盛公が開いた御寺だからだ。
信高公の御父君は間宮康俊公、有名な関東最強の武将の北条綱成公の付家老で自身も鶴岡八幡宮再建や山中城で活躍した間宮康俊公の家系図上の御子息だ。信高公は武田家に転仕して武田信玄の水軍大将務めた。武田家滅亡後には徳川水軍の大将格で活躍した人物で所領が関口牧場の所在地の横須賀市長坂、昔の三浦郡長坂村だった訳だ。
だから、その信高公の菩提寺と関口牧場は徒歩数分の御近所さん。
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浄土宗の金剛山無量寺と言う御寺が間宮信高公の菩提寺。
元々は鎌倉幕府で初代の侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が開いた御寺だった。
だから和田義盛公の守り仏が御寺に祀られている。
山号と三浦家初期の宗旨から察するに多分、最初は真言宗の御寺だったはず。
浄土宗に成ったのは間宮信高公が徳川幕臣であり、織田信長公と徳川家康公が熱心な浄土宗信徒だったので徳川家臣に成った時点で自分の所領の無量寺を改宗させた上で土地を寄進して復興させたんじゃないかと思う。
間宮信高公は御妻君が房総半島の小大名だった真里谷武田家の姫君だ。実は戦国時代初期、三浦半島がまだ三浦家と北条家の係争地だった際に三浦家の大将だった三浦義意公の御妻君も真里谷武田家の姫様だった。真里谷武田家は内紛を起こして真里谷武田信隆公が房総半島から逃げて北条家に一時的に亡命している。
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その場所が上の写真の横浜市金沢区に在る稱名寺一帯な訳だ。
なので、その御縁で金沢区の隣接地域の杉田や笹下の現在の港南区~磯子区の殿様だった間宮康俊公の御子息と真里谷武田家の姫君が婚姻を結んだんだろう。
最初に御住職様に御会いしたのは、和田義盛公の顕彰活動で訪問した際だった。
その時は未だ無量寺が間宮信高公の菩提寺とは知らなかった偶然の訪問だった。
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まぁ、御住職と少し御話して和田義盛公の事を聞いたり、特別に御本堂に上げて頂いて色々と見学させて頂いた際に、何を思ったのか突然御住職が「実は間宮家~云々」と小生の顔をマジマジと見ながら話し始めた際は正直、大変に「ドキっ!」としたのを覚えている。
御住職様も何で小生が一言も「間宮」とも発していないのに、その話を始めたか解らないが、今と成っては信高公の御導きだったんだと思う。
この偶然が有ってから、間宮信高公の事を寛政重修諸家譜等から読み調べ始め、そして死地が愛知県海部郡蟹江町に在った蟹江城址と知って現地の教育委員会様に様々な情報提供を頂き、昨年、間宮家の顕彰文に信高公の事を掲載すべく蟹江城址へ写真撮影に行って来た。
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今も運河沿いに酒蔵や米問屋が残り城下町の風情の残る良い処だった。
実は蟹江城は天正年間、つまり間宮信高公が討死にした合戦直後に大地震で崩壊し消滅したのだが本丸の井戸だけが現存しているのだ。
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この井戸の写真撮影に蟹江町を訪問して来た。ついでに甘強酒造と言う昔ながらの武士が高級酒として飲んでいた味醂を製造している酒蔵も訪問して味醂を購入して来た。
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これらの御縁は全て関口牧場と同じ長坂に在る無量寺の御住職と和田義盛公と間宮信高公が導いて下さった地縁だった。御蔭で良い旅行が出来た訳だ。
因(ちな)みに、ウチの母にも土産で甘強酒造の本味醂と津島市の鶴見酒造が作る味醂、神鶴を購入して渡したのだが、両方とも普段使ってる味醂とは全く別物の美味さに驚いて母は自分の友人達にも紹介していた。小生はリキュールとして炭酸割り等にして飲んだが焼酎で作られていて風味良く美味しかった。
織田信長公や徳川家康公も飲んだであろう旧海部郡の味醂を現代に飲めて幸せだった。
まぁ、そんな訳で関口牧場の在る三浦半島の横須賀市長坂地区は昔から水軍を率いた武士の根拠地だった訳だ。そして昔は牛では無くて馬を生産していた牧場も有ったかも知れない。
佐島と長坂の間には❝蘆名(あしな)❞と言う地域が有る。ここは和田義盛公の御子息が治めた土地で蘆名城と言う城が有った。その蘆名家の子孫は東北に移住して奥州探題等を務めた大名と成り名将の蘆名盛氏公を輩出した。蘆名盛氏公と言えば伊達政宗公のライバルだった人物だな。

皆さん、関口牧場や佐島を訪れる機会が有ったなら、是非!和田義盛公や間宮信高と言う名将が昔、長坂に居た事を思い出して見て下さい!

横浜イングリッシュガーデンのバラ園が見頃です!

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綺麗な薔薇のアーチですが、2017年05月20日現在の写真です。
これでも五分咲き。まだまだ花弁の開いていない株も多いので更に綺麗に成るでしょう!
園芸員さんに確認もしてきましたが来月中旬位まで見られるそう、今月一杯は多くのバラが咲き誇り来月に成ると紫陽花と遅咲きの品種のバラとのコラボが見られるそうです!CIMG3826
場所は住宅展示場のTVKハウジングプラザ横浜に併設されていてとても解り易く、車で行っても駐車場が多数有り便利です!
電車で行く場合も相鉄線平沼橋駅から徒歩10分前後と比較的便利な位置に在ります。
園内にはビュッフェスタイルのレストラン、喫茶店、土産物屋、生花の販売ブースも有り、夫婦や女性同士の御友達、恋人同士での散策にもうってつけです。

以下にアクセスと連絡先、参考の写真を纏めて掲載します。

横浜イングリッシュガーデン
横浜イングリッシュガーデン 位置 久良岐のよし
では以下に本日2017年05月20日現在の園内の様子の写真を掲載します。
小生は写真撮影が下手くそなので、きっと皆さんならもっと上手に撮影出来ると思いますよ♪
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以上、久良岐のよし推薦の散歩場所、イングリッシュガーデンの本日の様子でした。
皆さんの参考に成れば幸いです♪

北朝鮮問題の軍事的解決は「想像絶する悲劇」もたらす-米国防長官
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この人の事は本当に尊敬しています。
日本の物も含めアジアの六韜三略や曹操が編集した孫子等の戦略教本、平家物語や太平記なんかの戦史も凄まじい数を所持熟読してらっしゃるとか。

更には敬虔なプロテスタントで、明治以前の臨済宗や曹洞宗や黄檗宗の僧侶の様な質素で清廉な生活をされ、浄土真宗以外の昔の仏教の様に不犯を守ってらっしゃるとか。
現代アメリカ人版の上杉謙信て所でしょうか?
上杉謙信

もっとも上杉謙信の場合は統治者としての所業は悪人でしたがね・・・
上杉謙信の場合は越後で飢饉が起きる度に掠奪目的で関東に来て、村々を焼き"女子供を拐(さら)って奴隷売買の公設市場を開いて年を越す"なんてトンデモ悪人の側面が有る。
彼が"義の人"と言われる由縁は政治的に権力が弱かった"剣豪将軍"足利義輝公に古今未曾有の忠義を尽くしたからで忠"義"の義なんだな実は。
・・・彼には正義は無かった訳だ。
頼って来た者が武田に侵略された領地に、"奪い返す"大義名分で攻め込んで支配下に組み込んでも実際には保護した者へ領地を返還せずに、代官として利用しただけだし。
そこへ行くと織田信長公は素晴らしい。
織田信長公

織田家が徳川家に度々援軍を送り更に遠江国の支配権を承認し恩賞に駿河を与えた事の寛大さが窺い知れるわな。
徳川家康公

裏切らず、兄貴分の織田信長公を信じて援軍を待ち続け、時には信長公の合戦に参戦した与党として誠実を貫いた本能寺の変以前の徳川家康公こそ正に「義」の人の称号は相応しい。
そこへ行くと徳川家康公の誠実さが良く解る不誠実で利己的な人物の代表は❝お艶の方❞だろう。
遠山家へ嫁いだ織田家の艶姫は酷い。女城主お艶の方として有名な人物だな。
おつやの方

遠山家臣団は織田家との関係を深める為に、艶姫を迎えて織田家と婚姻関係に成る訳だ。
城主は子が無く病弱(親武田派に毒を盛られていた可能性有り?)だったので、織田から見捨てられない為に❝織田信長公の実子の御坊丸を遠山家の養子に迎えた❞のだが・・・
織田包囲網が形成されて武田氏が織田領に侵攻して来るや、遠山景任公は戦傷が元で死ぬ。
果たして本当に戦傷が元なのだろうか?
この時期、織田家は岩村城救援の戦略で、明智光秀公や池田恒興公が東美濃で合戦に及んでいる。
しかし遠山家は情報過疎だったか武田領の信濃国木曽地方に隣接する所領を持つ親族衆達が鼻から武田派だったのか、当主倒れて後、秋山勢に屈し❝お艶の方と敵方の秋山信友の婚姻和議❞を画策して成立させてしまう訳だ。完全に保身の風見鶏。
織田が強ければ織田に靡き、織田が不利で武田が優勢なら武田に靡く。丸で某半島の国。
・・・決定的に酷いのは、お艶と秋山の縁談が纏まった際に❝信長公の実子の御坊丸を武田家に織田の人質として提供してしまう❞極悪非道な裏切り行為に出た訳である。
これで怒りに火が付いた織田信長公は、織田包囲網を打破する過程で裏切り者達の本拠地の岩村城を標的にする訳だ。そして殲滅戦を行い、風見鶏の様に信念も誠実さも無い遠山家の親族重鎮達を全て処刑し彼等に利用された艶を磔(はりつけ)にして獄門に処して裏切りの対価を払わせた訳だ。
岩村城に援軍を直接送らずとも戦略的に東美濃を奪還しようと奮闘した信長公と織田家臣団を利己的に裏切ったんだから当たり前だな。
この岩村城における織田信長公の戦略と事例と同じ事はマティス司令官もイラクで現地の酋長達に通達している。まぁ、現代人のマティス司令官の場合は軍事法廷に裏切者を引き出して裁判で処刑にするんだが。戦争中の基本的な事だな・・・
現代の軍隊なら世界各国どこも敵前逃亡と裏切りは軍事法廷で死刑は基本だ。
・・・但し裏切らず誠実に、そして勇敢に敵から領民を守った者は徳川家康公の様に評価され恩賞も貰えて信頼される訳だ。
この作戦を日本で早くから行った事で有名なのは坂上田村麻呂公だな。
坂上田村麻呂

蝦夷(えみし=アイヌ=縄文文化を続ける日本の民族)討伐でマティス司令官や織田信長公の戦略を先に行った人物。裏切ったり歯向かう敵は殲滅し、逆に縄文文化のアイヌ族でも友好的で協力的な豪族は朝廷に迎えて優遇し統治者として登用して行った訳だ。
因みに、この坂上田村麻呂公と同族と思われる古代の名将軍が神奈川県にも所領を持ち移住していた。
坂上石楯(さかのうえのいわだて)公だ。
藤原仲麻呂の乱で活躍して今の相模原市辺りを所領として賜り移住し、延喜式内社で相模原市の名倉に所在する石楯尾神社の近くに城館を構え、石楯尾(いわだておの)神社を支援した人物だ。
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上の写真は石楯尾神社は、そもそも日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰路、自らが装備していた草薙の剣と対に成る防具の天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の印として現在の石楯尾神社の辺りに埋蔵し、それが神格化された事に信仰が始まる。その化身として烏帽子岩も信仰対象に成っていたが近代、交通網整備の際に破壊されてしまった。

まぁ、そんな訳でマティス長官は日本の名将達と類似の戦略なんぞ頭の中に常識として入っている訳で、御本人も誠実で潔癖な様、そして実際に名将としても人格者としてもイラク現地で酋長達からも民百姓からも慕われた訳だ。
マティス司令官は法治主義者であらせられるので上杉謙信と違いモラルも高い紳士で、中東でも与力のイスラム文化の酋長達からも一目置かれた訳だな。これは凄い事だ。
或いは北朝鮮の軍人すら交流すれば彼を尊敬するかも知れない。
上杉謙信を引き合いにだしたので北陸の武将に例えるなら・・・
どちらかと言えば生活態度は上杉謙信、内面は直江景続、武勇は柿崎景家公、統治実績は柴田勝家公並の善政てとこか。
・・・ただ、色欲が無いので英雄では無く名軍師の範疇に留まる様だ。
欲の有る者のみが1番上に成りたがる。
まぁ、だから生涯陪臣を貫き通した小早川隆景公や黒田孝高公や直江兼続等は妻帯しても愛妻家で側室を持たなかったんだろうな。
「吾も斯く在りたい」とは思いつつ・・・
まぁ、小生は完全に名軍師じゃなくて短慮浅学でアホな猪武者人格なんだ。
だから、せめて社会の役に立つ事を1つで良いから行って死にたい、そしてそれは「小生がやった」と世に知られる必要も無い。
結果的に知っている人だけが知っていてくれて「あ~アイツだったのか」とか「アイツらしい」と死んだ時に友人達や歴代の彼女(笑)と恩師達や関わった宮司様達や和尚様達に心の中で褒めて貰えると嬉しい。
それで十分。

マティス司令官の様に生きてみたいなぁ~。
でも食欲の権化だし自分に甘から、憧れの域を出ないな~。
だから自分なりに小さくても社会の役に立つ事をしてから死のう。

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