歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。

神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。
皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪
写真と本文ともに無断転用禁止!
関係先と小生の個人的な信頼関係で了解をとって記事にしているので、転載したい場合は当方へ確認願います。

前回この記事を書きました⤵

実はこの記事で富士山の景勝地として紹介した逗子市小坪の丘の中腹に有る小さな神社の名前が小坪の団塊世代~バブル世代の方々に話を聞いて回っても名前が解らなかったんですね。

この⤴神社です。
文献や古地図に記載が無い場合は今でも残っている伝承を自分の足と目と口と耳で拾い集めパズルのピースを完成させるしかなく、面識の無い色んな人に直に突撃取材する必要が有るんですよね。
秋葉神社と確認とるのに多くの人に協力して頂きました。
それで自分の古老や地主サンや郷土史詳しい人に力を貸して頂くのに・・・
「小坪の小さな神社について知りたいのですが」
「この地図の階段のくの字に曲がってる森に在る神社です」
「教えて下さい!」
・・・と全然知らない人の家をピンポンしたり昔から有りそうな商店とか御寺神社や方々の学芸員サンに頼んで質問する訳です。
こういう事は地元の団塊より更に御高齢の方々に聞く必要が有るのですが、小生がこのブログを書き始めて8年間で既に地元横浜の戦国時代の武将の事を聞いて回った先輩方も生きていても90歳以上で、ほぼ全員亡くなってしまいました。
当然ながら小坪漁港で超高齢者を探して聞いて回る訳にもいかず、逗子市の学芸員サンにも情報を貰ってもやはり文献に記載は無い事しか解りませんでした。
今回取り上げた小さな神社は、小生が調べ始めた当初は逗子市や地元に一番詳しい小坪漁港の職員の方にも協力して頂き調べてみましたが明確な事は解りませんでした。
小生も江戸時代の新編相模風土記稿や明治時代の地図を見る等の基本的な事は調べてみましたが現代小坪地域に残存している神社の名前以外に登場せず良く解らなかったんですね。
神奈川県神社庁にも属してない場所な上に小生が位置登録するまで名前が良く解らない神社として現代の小坪地区では無名に扱われていました。
しかし後日、相談した逗子市の学芸員サンから地元の歴史クラブが昔に発行した冊子の様な物が有る話を聞いて、どうやら新編相模風土記稿に掲載が無い❝秋葉神社❞が昔は有ったらしい話を教えて頂けました。
そして更に以前、参拝し御朱印を拝受した佛乗院の奥様に話を聞く機会が有りました。
佛乗院の檀家さん達の子供時代の話、つまり1920~40年代の話しで火伏の神様として小坪の小さな神社は信仰されていて昭和初期まで❝火の用心❞の防火巡回を子供や青年会が行う際に神社で御参りしていたと言うの聞いた事が有ると佛乗院の奥様が大正~昭和初期生まれ位の檀家サン達の思い出語りを覚えていらっしゃったんですね。
御寺の超高齢の檀家さんや亡くなった檀家さんの話と逗子市の学芸員サンが教えてくれた秋葉社名前から火伏(ひぶせ:防火)の御利益が整合性が有り全ての話に辻褄が合い総合すると、この小さな神社が秋葉神社だと解りました。


昔は小坪漁港にも子供や青年が沢山いて、この動画の様な光景が毎夜見る事が出来たんですね~!
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今では参拝者も見かけない秋葉神社ですが小さな御社(おやしろ)の前から見下ろす小坪漁港と富士山の景色は綺麗ですので是非、目的は防火では無くなっても昔の様に多くの学生や若い世代に富士山と夕陽を見て貰って良い思い出と一緒に秋葉権現様の事も記憶に残してくれたら神様も喜ぶだろうな~と思います。

上の新編相模風土記稿の中の・・・
三浦郡巻之二 衣笠庄 小坪村 
秋葉神社の正体を調べる参考としては何の役にも立ちませんでしたが(笑)、新編相模風土記稿のこの項目には現在も小坪に残る神社が全て掲載されていました。
新編相模風土記稿三浦郡小坪村
・・・小坪村の歴史を大まかに遡(さかのぼ)る事が出来たので皆さんにも共有したいと思います。
下の記載は新編相模風土記稿に登場する小坪村の神社と管理してたと寺の話しで❝〇〇寺持ち❞と記載が有る場所は江戸時代までは神仏習合で神社で仏様を祀ったり御寺が神様を祀ったりしていたから所有者が❝〇〇持ち❞と説明で記載されていたんですね。
では先ず皆さんと一緒に風土記に登場する社寺の位置関係を見て行きましょう~!
小坪の社寺位置関係
上の画像は現在の衛星写真で見る地形と農研機構サンがGoogleEarthで提供してる明治政府の帝国陸軍が測量した明治初期の地形で迅速測図を見れるサービスを使い、登録した神社仏閣を表示して現代と明治初期を比較した物です。
埋め立てで全々地形が違うし、昔は天王濱と呼ばれた小坪海岸は岬の先端まで砂浜が広がっていた事が解りますね、現代では歩いて行けなくなった八大竜王様も昔は干潮時に歩いて御参りに行けたようです。
——各社寺の紹介と考察です——
海潮山 佛乘院 阿弥陀寺
本尊阿弥陀(如来)、諏訪社

佛乘院の御本尊は真言宗にも関わらず阿弥陀如来なのでもしかしたら記録は失せていますが地域性と信仰対象と宗派から源頼朝公か文覚上人が関与した可能性が有ると個人的に推測しています。
この阿弥陀如来像は逗子市の文化財指定を受けています。
佛乘院の諏訪社は大崎公園の手前に諏訪神社として現存していますから、どうやら大崎公園の山や披露山庭園住宅は元々は佛乘院の境内地だった様です。

神明宮

小坪村の鎮守 佛乘院持ち


西町、現在の小坪5丁目の神明宮は現在は神奈川県神社庁に属していない地域の共同管理である事が現地の方への取材で解りました。
現在、小坪地域の鎮守は天照大神社とされています。
天照大神社は今の兼務社の神職様の御話で昔から存在したとの事でした。
ただ宮司様の話を時系列無しに鵜呑みにすると、神明宮と天照大神社が2社同時に鎮守として存在した事に成ってしまい、鎮守として記載されいる天王社=須賀神社と神明宮2社が小坪村の鎮守である事と整合性が無くなるので実際の状況を時系列で問題が無いか整理したいと思います。
新編相模風土記稿三浦郡小坪村
新編相模風土記稿は天保十二年(1841年)の成立ですから、それ以前には天照大神社は存在せず幕末に御分霊が勧進されたと考えるのが自然でしょう。
天照大神社は記載が有りませんが、子ノ神社がしっかり掲載されており第六天社は記載が無い事から、第六天社と天照大神宮は幕末の動乱に伊勢神道が過熱したころか明治の初期に開かれたのではないでしょうか。
小坪5丁目(西町)の神明宮は先に存在した事が解ります。そして天王社=須賀神社も佛乘院持ちだった事が「下同じ」の記載から解ります。
取材した所、天照大神宮や神明宮ではなく子之神社の氏子さんから「元々は今は海岸沿いの子之神社は丘の上の天照大神宮と2つ並んで小さなな御宮が有った」と話を聞く事が出来ました。
つまり天保十二年(1841年)には存在しなかった天照大神宮は、その後に天照大神宮として存在したのは間違いないようです。
仮に1841年当時に既に子ノ神社の境内社として1841年には存在していたならば神社としては取り上げられない祠程度の物だったかも知れませんね。
対して現在では西町の神明宮は参詣すると明らかに鎌倉時代~室町時代の石祠や宝輪塔が無数に有り更に参道の路盤は昔の桟道状の切通し道から伸びていました。
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明らかに整備されている時代は古く当時の村の神社としては立派なものだった事が解りました。
記載の神明宮はこちらだと思います。
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明治時代に天皇家を頂点として近代化する際に英国の国家運営をもしたので神道もプロテスタントを模して国家神道が成立します。その段階で村の鎮守が神明宮から外され(神明宮は元来天照大神を祀るので鎮守の格を外すのは不適当)て天照大神宮が再整備され、天照大神宮と並んでいた子ノ神社も山を下され海岸に移動されたようです。
この段階で神明宮は西町の集落で地域の神社として小坪の住民の皆さんが自主的に運営する事に成ったので令和の現代に双方の分断が続いており双方の歴史が伝わらなく成ってしまった状況が有るのでしょう。
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西町の神明宮は明らかに鎌倉期~室町期の石祠や宝輪塔が無数にある状態からも近世位まで参拝者が多かった事が推測出来るのですが、何で西町の神明宮が昔は村の鎮守で参拝者が多かったかも現地を参拝すると直ぐ解りました。
小坪旧街道
上の画像を見ても解りますが、小坪の天王浜の埋立前の旧道は小坪村の鎌倉寄りの正覚寺前~海前寺前~神明宮参道前~小坪寺の前を経由する住吉城址の山腹に穿たれた桟道状の切通しで一段高い高潮の影響を受けない位置に存在しており、歴史的には古東海道と考えられています。
小坪旧道廃道
※クリックして拡大して見て下さい。
赤い線が現在は廃道に成っていますが昭和まで生活歩道として鎌倉に抜ける為に使われていた道で、これを見れば一目瞭然で神明宮の下を古街道が通っていた事が解りますね。
余談ですがこの桟道切通しで戦国時代に三浦家と北条家の大激戦が行われました。
住吉城の地形 久良岐のよし
ちょうど左手の豪邸の有る位置が迅速測図でも城のマークが入ってる住吉城の山です。
この城からの撤退戦が行われた事がワザワザ古文書を読まなくても新編相模風土記稿にも書かれています。
内容は原文を口語訳にするとコンナ感じ・・・
坂三
一ハ村北ニアリ名越坂或ハ名越切通ト云ウ
鎌倉郡大町村名越町ニ達ス故ニ此名ナリ登二町
一ハ廣尾坂村ノ中程ニアリ登六町
一ハ飯島ニアリ小坂ニテ切通ナリ元禄國圖ニ住吉切通ト載スル是ナリ永正九年三浦介義同北條早雲ノ爲ニ敗走シ三浦ヘ退去ノ時此切通ニテ支エ合戦セシトノ傳アリ尚下ノ城跡ノ條ニ併セ見ヘシ
此餘山間孔道四アリ是土民捷經ノ爲ニ穿ツ所ナリ高七八尺長七八間ヨリ十五間ニ至ル
土俗通矢倉ト呼フ
坂が3つあってさ
1つは小坪村の北に在(あ)る名越切通(なごえのきりとおし)って言うヤツな、鎌倉郡大町村~名越町に行けるから、この名前(名越切通)っつうのな、200m位登りだよ~。
1つは広尾坂村(披露山)の真ん中くらいにあって600m位登りだよ~。
1つは飯島にあるよ、小さな坂の切通しで元禄国図ってのには住吉切通って書かれてるのがコレな。
永正九年(1512年)三浦義同(よしあつ=三浦道寸公)が北条早雲公に負けて逃げる時にこの切通で戦って時間稼ぎしたって伝承が有るから、詳しい事は下のページの城跡ん所も一緒に見ろよな~。
この城山の間にトンネルが4つ有んだけど地元民が近道のために掘ったんだって。高さ2m~2.5mで長さは13m~14.5m~長いのは27mは有るよ。地元民は通矢倉(とおしやぐら)って呼んでる。
・・・この通り、神明宮側の参道前で十字交差してる道が海崖の側面に掘られた切通道だった事が書かれています。
では当時の切通の路盤は現在も旧道と一部は住宅道路として残っているので、明治初期に測量されてまだ幕末の地形が略残る迅速測図と比較してみましょう。
※下の衛星写真の黄線が住吉切通の路盤です。
住吉切通 久良岐のよし
道の形がそのまま残っているのが良く解りますね~。
この他にも新編相模風土記稿の小坪村のページには、この道が古東海道だった事も書かれています。

小生はこの古道の内容からも昔は栄えたのは現在の小坪の鎮守の天照大神宮ではなく神明宮の方だった事が地理からも一目瞭然だと思っています。
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神明宮の社殿の周囲には矢倉の痕跡が有ったので崩落が有り参道に石祠等が移動されていると思うのですが参道の石材の中の一つの宝篋印塔は鎌倉時代の武将の御墓と同時代の造りで部材が欠損している物なので、今では誰の御墓かも解らないし組み方も間違えられていますが、もしかしたら小坂光頼公の御墓が含まれているかもしれませんね。
もう一度小坪村の社寺の位置関係の地図で古道を見て見ましょう。
小坪の社寺位置関係
※クリックして拡大して下さい。
明治の道は切り通しを抜けると一之宮神社の前を通過し小坪小学校の西側から披露山住宅へ登って行き又逗子海岸の方へ道が下りて行きます。
この道ともう一筋の古道が迅速測図に黒く細い1本線で描かれており小坂天王社の前を通過~崖の山裾を経由~諏訪社へと登って行って行き披露山神社の方へ抜けて行きます。
この何れの道も現在の天照大神社の前を通過せず参道も記載されていないので鎮守ではなく子ノ神社がメインの神社だった事が地図から読めるかと思います。
子ノ神社は大黒天=出雲神と習合されたインド神話のシヴァ神なので伊勢信仰と天皇家を貴ぶ観点から境内に天照大神を祀る祠か小さな御社は有ったとしても不思議ではありませんね。
現代では神明宮は参拝者も少なく、天照大神社も崖の上で逗子マリーナに来た観光客も参拝に上がる人は少ないとは思いますが・・・
出来れば現在令和四年2,022年、未だ立派な社殿と雰囲気有る境内を維持している西町の神明宮が年末年始には昔の様に多くの参拝者で溢れる様に願います。
昔の様に小坪の由緒正しい鎮守の神社として神明宮を御祭りして大切にしないと町内の氏子サンがいくら大切にしても少子化で集落の今の世代がいなくなると小坪の歴史が途絶える事に成ると思います。
そして今の鎮守の天照大神社にも観光する皆さんが参拝に訪れる様に成れば良いなとも思います。

天王社(現:須賀神社?) 
疱瘡神社(現在所在不明:須賀神社or第六天神社?)

天王社は神明宮と同じく小坪村の鎮守と記載されています。
疱瘡神社は平維盛の子の六代御前を弔う為に旧暦六月二十六日に毎年小豆粥を炊いて御供えしたと記録が有ります。
天王社と疱瘡神社は御祭神が同じなので今の須賀神社に習合されているかも知れませんが、大六天神は神仏混交の日本独自の神様なので若(も)しかしたら、こちらが疱瘡神社かも知れません。
須賀神社の御祭神は一般的に素戔嗚(すさのおう)尊と子の五十猛(いそたける)神が御祭神ですが天王社と明治以前に言われた場所は牛頭天王が御祭神で明治以後に御祭神の名を変えられています。
よく天王町とか町に名前が残っていたり天王祭と呼ばれる多くの漁師船に大漁旗を掲げて出航したり御神輿を担いで海に入ったり、夜に船に篝火を掲げて海を照らす御祭りを行う地方が有りますが、それは明治政府の神仏習合に対する弾圧迄は牛頭天王社や祇園社や疱瘡神社と呼ばれた御社や御堂が有った場所ばかりです。
それ等の場所は明治以降は須賀神社、八坂神社、八雲神社、橘樹神社等に名を改めている場所が多く有ります。
小坪に関しては須賀神社が天王祭を引き継いでいるそうですが、疱瘡神社がここに合祀されているのかは不明です。
現代に疱瘡神社の名前が残ってない上に第六天神社も何時から存在するのか確認出来ず、第六天社=疱瘡神社の可能性も確認はできませんでした。

小坂天王社

江戸時代以前は社殿が有った。平安末~鎌倉時代には鎌倉御家人として有名な長江四朗義景公と当地の領主だった小坂太郎光頼公が崇敬した由緒正しい天王社だった事が記載されています。
長江義景公は軍神として中世の武士に崇拝された鎌倉景正公御子孫で、逗子に隣接する葉山町には邸址と矢倉(墓所)が有りました。しかし昭和の農地解放で義景大明神は廃社に追い込まれた話も別にいつか記事に書いて紹介したいと思います。

一ノ宮権現社(現:一ノ宮神社)

浅草の浅草寺から御分霊を頂いて開かれています。浅草寺は平安時代から存在するので小坪村の一之宮権現が開かれたのが何時(いつ)の時代かは解りません。

山神社(現在所在不明:披露山神社?)

披露山神社は披露山公園の入り口近くに存在しますが披露山庭園住宅建設で本来の住宅側の参道が破壊されてしまい参拝しにくい状況に成っています。
元は名主の高橋家の敷地内に初祀され稲荷神社だった云々・・・と社頭掲示に在りますが、この社頭掲示よりそれらしいものが新編相模風土記稿にシッカリ記載されてます。
稲荷社 康安ノ文書ニ小坪稲荷神田一段ト見ユ
山神社
普通に隣に併記されてるので、これが名主高橋家の敷地に在ったと社頭掲示されている物でしょう。
つまり名主高橋家の敷地に在ったのではなく、神社の在った場所に高橋家が屋敷を構えて頂けの可能性が有りますね。
実は社頭掲示では合祀されている様な説明ですが、元は地元の方が守っていたと言う稲荷社が佛乘院の飛び地にも存在しますので稲荷社の話は佛乘院に引き継がれている稲荷社だと思います。
仮に披露山神社の前身が稲荷社の宇賀神が主祭神ならば披露山稲荷となる筈です。
この稲荷社は普通に神田つまり神社用の田圃を与えられているので山の上に在る事は考えにくく、水の染み出る崖地の下か谷間や或いは井戸の有る場所の近くに神田が有った筈です。
披露山周辺
※クリックして拡大して下さい。
小坪村の中では上の現在の披露山神社の周辺には民家は明治14年時点で存在しません。
水田はやはり谷に在りますが、佛乘院の存在する西側の海岸沿いには井戸は有るものの砂地で水田は有りませんがで表示されている民家は無数に有ります。
北側の水田の辺りには集落が有ります。
高橋家は明治十四年(1881年)時点では披露山住宅の辺りに住んではいなかったようです。
翌年明治十五年(1882年)に小坪村の高橋家と久木村の松岡家の発願で21ヵ村、64人の代表出資者を募って現在の小坪(名越)トンネルが開かれていますので、小坪にこの時点でも住んでいたのは間違いない様です。
小坪隧道 名越側
横須賀方面から鎌倉市街に入るのに非常に便利の良い道は旧小坪村と旧久木村の名主の高橋家と松岡家の御蔭で開かれたんですね。
それまでは小坪村の北側内陸部の人は鎌倉の久木や大町方面に行く際はトンネルの上の名越切通しの尾根道を通って行くか遠回りの天王浜(鷺ヶ浦)側の住吉隧道の古道を通る必要が有りました。
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こんな⤴場所を鎌倉に売りに行く商材や旅の荷物持って通行するの下駄や草履の時代ですから雨の翌日とか最悪ですよね?輸送量自体が限定されて輸送コストもトンデモない事に成ります。
そりゃそうですよね、鎌倉を守る為に作られた敵の侵入を限定する為の防御施設ですから。
鎌倉城防衛網
なので当時の地形を再現するとこんな風に山の稜線に添って尾根が削平され、山腹を半トンネルにした切通しから尾根に出て又山を切通を通って下る道しか無い鎌倉時代の街道を徒歩で行くか船が主な交通手段でしたから、高橋さんも逗子と鎌倉との往来を簡単にして経済活性化を図る必要が有ったんでしょうね~。
こんなトンネルを掘れる名主ですから広大な敷地を持っているのが当然です。
敷地には山や畑も含まれたし他の分家や小作民の民家の敷地も高橋家の持物だった訳ですが地図からは披露山神社の前身の山神社と稲荷社がどこかは確認出来ません。
そこで先ずは神社がどの様に開かれるかを考える必要が有ります。
各地域に神社が祀られる理由は近代の国家神道の成立によって神社の祭祀様式が変わる以前は主に3つです。
①地形に関して災害避けや古代からの湧水地や奇岩等の聖地信仰が神社文化の成立過程で社殿が作らて、災害や地形に関する御祭神が祀られる。
[港湾と山稜]
白山権現=白山比咩神=伊弉弥神、大山祇大神=三嶋大明神=石山権現、牛頭天王=武塔天神=素戔嗚尊、倭建と弟橘姫の夫婦神、八王子権現(牛頭天王の八人の子)=素戔嗚尊の子の五十猛(疱瘡治癒の神)、八幡大菩薩=応神天皇等、熊野権現。
[水上航行安全]
牛頭天王=武塔天神=素戔嗚尊、八王子権現(牛頭天王の八人の子)=素戔嗚尊の子の五十猛(疱瘡治癒の神)、大山祇大神=三嶋大明神=石山権現、倭建と弟橘姫の夫婦神、住吉神=住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)、八幡大菩薩=応神天皇、金毘羅権現=ガンジス川の鰐(ワニ)=宮比羅大将=崇神天皇等。
[湧水地と治水]
牛頭天王=武塔天神=素戔嗚尊、八幡大菩薩=応神天皇/弁財天)、宇賀神=御稲荷様=弁財天=インド神話のパールバティ(シヴァ神大黒天の妻神の水神で財神で芸能と勝利の女神)=市杵嶋姫(明治以後)、八大竜王=難陀竜王=インド神話のナーガ神(龍族の王=蛇水神)、熊野権現等。
②地域を治めた古代大和朝廷時代以前からの著名な豪族王~武士の戦没地や被葬地や屋敷跡や滞在地に、それらの著名な武将が神格化されて御祭神として祀られたり聖地化する。
神奈川県域
延喜式内社寒田神社 足柄上郡松田町
倭建が滞在し酒匂川の河川名由来に成った神事を行った場所。江戸時代の富士山の宝永噴火の際の火山灰堆積により酒匂川の土石流が発生し境内地の大部分が現在の酒匂川に削り取られ河川化してしまった。
八菅神社(八菅山七所権現) 愛甲郡愛川町
倭建の伝説が残る場所で明治以前は修験道の日本有数の大根拠地だった。ここから日向薬師大山寺大山阿夫利神社を参って最後には京都の石清水八幡宮を詣でるのが関東の修験道の修行の巡礼地に成っていた。
延喜式内社石楯尾神社 相模原市緑区
倭建が滞在し草薙剣と対に成る防具の天石楯(あまのいわだて)を埋めた場所。又、古代の豪族武将の坂上石楯が居館を構え滞在したと伝承する場所。
延喜式内社前鳥神社 平塚市四之宮
相模国四之宮で倭建が滞在したと伝承する場所、後に仁徳天皇の莵道稚郎子が居館を構えた場所、近くに巨大古墳が存在し発掘調査結果王族しか持ちえない道鏡や金属製鏃等が多数出土したが近年宅地開発で古墳は消滅し古墳の主の祟りを恐れて現代人によって古墳跡地の一角に神明神社が開かれた。
五社神社 綾瀬市早川
倭建が滞在したと言われ腰掛岩が有り、尾ノ井と呼ばれる明治時代まで神事を行った水源が残っている。行軍中の給水地点と思われる場所が聖地化。平安末期には近所の早川城を拠点にした渋谷重国公が五社神社を土地神として崇敬した。伊勢平氏の平清盛に弾圧されて相模国に逃げていた鎌倉御家人佐々木氏を擁護した人物が渋谷重国公で彼の飛び地の領地が東京の渋谷だったのでアチラにも渋谷の地名が残った。
腰掛神社 茅ヶ崎市芹沢
倭建が東征の際に立ち寄り休息した場所の一つ。この神社を含む神奈川県立茅ヶ崎里山公園の柳谷一帯は富士山の景勝地で現代でも関東の富士見百景の一つに選ばれている程。古代には街道筋は低地でなく山の尾根道や山腹の道だったので綾瀬市の五社神社延喜式内社宇都母知(うつもち)神社延喜式内社大庭神社旧蹟(熊野社)~逗子市小坪の住吉神社一帯の住吉城址披露山公園の一帯の披露山庭園住宅走水神社は古代東海道(上横山遺跡矢倉沢往還~三浦半島~房総半島)の経由地と考えられる。
御霊神社 坂東平氏と宇多源氏の氏族所領各地、
神奈川県域では坂東平氏系の神社が多く平良文公/葛原親王/平高望王/鎌倉景正公等が主に御祭神として祀られる。他にも宇多源氏系の祖先の敦実親王/間宮康俊公等を祀る場所も有る。
白旗神社 鎌倉御家人の所領各地
源頼朝公を御祭神とする神社で鎌倉市西御門地区の頼朝公の墓所に当たる法華堂跡の前に存在する白旗神社等が神奈川県内各所に在る。頼朝公の御家人だった武将達が自分の本拠地に勧進し崇敬した。
白幡神社 鎌倉御家人の所領各地
源頼朝公の御家人を御祭神にする所と、頼朝公を祀る場所が有る。
三浦半島~鎌倉市域で代表的な場所としては和田義盛公の本拠地だった初声和田の白旗神社等が有る。
③江戸時代に各武家の所領や江戸での屋敷地内に、各家の御祖先が住んでいた土地で祀っていた土地神様や自家の祖先神の氏神様を引越し先の自邸内に分霊して貰い祀る。
壺井八幡宮
鶴岡八幡宮の原型。源頼朝公の御先祖の源頼義公と義家公親子が河内国の壺井に住んでいた時代に義家公が元服式を行った石清水八幡宮から御分霊を戴いて壺井八幡宮を屋敷地に祀って以来の八幡信仰が河内源氏に伝統に成りました。以後、源頼義公は与力の大庭家の所領の茅ヶ崎市懐島に石清水八幡宮から御分霊を勧進して鶴嶺八幡宮(本元宮八幡)を開き⇒更にそこから鎌倉市材木座の由比若宮(元鶴岡八幡宮)を開き⇒源頼朝公が現在地の小林郷北山に由比若宮を遷宮し寺と社殿を併設した神仏習合の神宮寺として鶴岡八幡宮寺を開き⇒明治時代の神仏分離令で神宮寺部分を破却し撤去してしまい鶴岡八幡宮に有った立派な三重塔や門は姿を消して、名も鶴岡八幡宮寺から鶴岡八幡宮に改められ神社として再スタートしました。
源氏の御家人の居所や戦国時代には北条氏綱公の鶴岡八幡宮再建に関わった武将の根拠地にも本来の意味を離れて多く分祀されました。
佐々木神社
源頼朝公の御家人の宇多源氏の本拠地の近江国佐々木(安土町)の延喜式内社沙沙貴神社の御分霊。佐々木定綱公、経高公、高綱公、盛綱公の高名な4兄弟が鎌倉幕府設立の功臣として与えられた土地に一族を入植させていく段階で沙沙貴神社の御分霊を勧進して佐佐木神社御霊社を開いた場所が多く有る。
稲毛神社
 川崎市川崎区
川崎市川崎駅一帯を平安末期~鎌倉時代に領有した佐々木高綱公が源頼朝公の命で復興した神社。
堀之内の名が残る地域で元は佐々木家の城館が存在し戦国時代にも佐々木一族の間宮家が在城した地域の土地神様として信仰されたのだが、今では武士の城館後は城では無く夜の城に変わってしまいました。稲毛神社の社名の由来は秩父平氏で多摩郡稲毛庄の領主の川崎市多摩区の枡形城主稲毛氏が開いた山王権現の神社だったのですが廃仏毀釈の修験道と仏教弾圧の際に神仏分離令に山王権現の名が宜しくないとの事で神社を開いた平姓稲毛氏の治めた稲毛庄時代の地名から稲毛神社の名に改められた。
さて①~③の事例を見て頂きましたが・・・
この様な実例を踏まえて山神社と披露山神社の前身と佛乘院の関係を考える必要が有る。
新編相模風土記稿の山神社は地域的な事と総合すると社名が山神社なので大山祇大神(大山津見神/おおやまづみのかみ)か白山権現か熊野神社の御分霊の可能性が有ります、稲荷社は考えにくい。
小坪は古くからの港湾都市であり披露山は海上交通のランドマークの地形の山なので地域性から三嶋大社や大山阿夫利神社信仰の大山祇大神=山神社でしょう。
大山祇大神ならば別表記の大山津見神からも知られる通り「津=港」の守り神で葉山の森戸神社や伊勢原市の大山阿夫利神社の石山権現や伊豆の三島大社と同じ山の神であり海上交通の神様ですね。
また、この小坪から披露山庭園住宅に上がる道は東海道の前の旧東海道の更に前の古墳時代の古東海道が通っていた事で有名なので古代の尾根道の街道の登山口や分岐点に祀られる熊野社だった可能性もあります。熊野権現は逗子市域に山ノ根の名で祀られる場所も有ります。
純粋に山の神なら白山権現もよく山神社の名で祀られています。
どうやら披露山の御稲荷様としての説明はと佛乘院に引き継がれている稲荷様の事が社頭掲示に書かれているのではないでしょうか?
高橋家は名主=庄屋なので恐らく戦国時代の北条家臣で鎌倉公方代理吉良家の付家老だった高橋家の分家かも知れません。ただし戦国時代初期には江戸時代に名主に成り得る小坪の領主は北条傘下の三浦水軍の武将の石上弥次郎と言う事が北条所領役帳から解ります。
石上弥次郎
七捨八貫六百廿六文 小坪
弐捨弐貫文 御蔵出 此内五貫文引銭
以上
この記載が記載が有りますが、北条所領役帳は1520年~1555年と1559の間の小田原北条家臣団の給与地の記載なので、戦国時代も佳境に入り安土桃山時代に突入する頃の北条家臣団の配置を知る素材には成りません。しかも北条所領役帳は原本が残らず江戸時代の写しのみで更に所領の郡名もどうやら江戸時代の追記らしく写本毎に異なり統一性が無いので原本は「小坪」だけの様なピンポイント表記しか無かっただろうと小生は推測しています。
領地替えの話に関しては例えば所領役帳の中にも例えば歌手“ゆず”の地元の横浜市磯子区岡村は「関兵部丞」と言う人物の領地でしたが「岡郷買得」と記載が有る様に武士間でも領地の売買が行われていたり実は北条家は税率40%の善政だったので破産する家も有りました。具体例では鎌倉の玉縄城主だった北条綱成公の領地の1つに横浜市中区の本牧が有ったのですが、「五捨貫文 本牧之内橋本跡」と登場します。橋本サンは武士を辞めてしまった人らしく、当時は現代よりも広い領地単位の不動産取引が頻繁に行われたり主家の北条家の命令による領地替えも行われていた訳です。
なので名主高橋家は北条家が豊臣秀吉に降伏する頃に小坪村の領主だったので江戸時代に士分を捨てて名主に成る良く有るパターンだったのだと推察出来ます。
この小坪辺りには苗字が高橋の御分家の檀家が付近の御寺にも残っています。
まぁ石上家以前の源頼朝公の御家人で小坪領主だった小坂光頼公も既に室町時代には居なかった訳ですし、領地の所有者は頻繁に変わる訳ですね。
神社の社名や御祭神の変更についても近代に良く有る事でした。
実は神社の混乱は明治~昭和に良く有った事で例えば白旗神社の御祭神を事例をあげますと、神奈川県には江戸時代の記録にシッカリ「御祭神源頼朝」と記載が有るのに、討幕以降近代の反源氏ブームで義経が主人公に成り人気が出ると幕末~昭和初期に主祭神を「源義経」に変える場所も有ったりしました。逗子の近郷の有名な神社でも神仏分離令の煽りで例えば鎌倉市の十二所神社は元々は江戸時代まで名前は熊野神社で仏教時宗の一遍上人が改修して再興した光蝕寺の境内社でした。当然ながら神仏分離の際に神社の境内登記を寺院から分離させるか移転する必要が有って現在地に移転し、名前も十二所神社に改めらえていたりします。
大江広元公の屋敷の裏山(明石橋ミニストップの裏山)にあった大江家守護の大江稲荷神社ですら、廃仏毀釈で移転(おそらく一帯が元々光蝕寺の土地だった為)に御神体の御神像が光蝕寺に移され、大江稲荷も現在の辺鄙な場所に移されています。更には御神体は光蝕寺⇒真言宗の明王院へと現代に移されて所有権も移り大江稲荷の氏子サン達は明王院に御参りすると言う極々狭い地域内での遷移の実例もあります。
整理するとこう・・・
披露山神社の社頭掲示の説明
⇒佛乘院持ち稲荷社と混同?社頭掲示の稲荷社は佛乘院の持ちの話し?
新編相模風土記稿記載山神社
⇒披露山神社?山神社の消息不明なので披露山神社が社名からも比定されるべき。
恐らく披露山神社の社頭掲示は本来は佛乘院に管理が移っている稲荷社の話で、山神社が披露山神社ではないかと思います。
全て推測の範疇を出ませんが旧名主高橋家の所有する敷地内に両方の神社を祀っていた事が社頭掲示の話に成っているので、そもそもの山神社が高橋家の敷地に存在した話と幕末に伏見稲荷を勧進して開いた稲荷社の話で混乱を生んでるのではないでしょうか?
※高橋家の場所については引き続き要調査。
今回の記事で要調査の部分は引き続き折を見て地元の方に取材して行きたいと思います。

子ノ神社(ねのじんじゃ)

今も逗子マリーナの入口に健在です。
康安年間1361~1362年には小坪❝根神社❞として神田を所有していた記録が残るので南北朝時代以前の鎌倉時代には既に存在していた可能性が有ります。
現地で氏子サンに話しを聞いたところ御祭神は神様では無く「大黒天」らしい、との事ですがハッキリしないみたいです。新編相模風土記稿にも御祭神の記載は有りませんでした。
神奈川県には子之神社が数ヶ所有りますが全て出雲神族の大国主関連です。
足柄下郡湯河原・・・大己貴神(=大国主神)、子守大神。
足柄上郡山北 ・・・大己貴神(=大国主神)
横須賀市汐入 ・・・大己貴神(=大国主神)
横浜市戸塚区 ・・・不明
横浜市南区  ・・・大国主神
横浜市青葉区 ・・・大国主神
川崎市多摩区 ・・・大国主神
明治政府によって国家神道が成立する以前、大黒天様は大国主と習合されて信仰していました。
状況的には厳島神社が元々は弁財天と呼ばれていた様に江戸時代までの御祭神は大黒天の名で呼ばれた場所の方が多かったかも知れません。
小坪は逗子海岸の近くに徳川家の別邸が出来たり著名人が住んだ事で逆に景観破壊や旧来の文化破壊がされず国家神道の弾圧の影響を受けなかったので旧来の大黒天様と御祭神が伝わっている様です。
小坪寺の御住職に伺った所、子之神社は元々は山の上の天照大神宮と2つ並んで小さな御社が有ったそうです。それが明治以後に天照大神宮と分離して子之神社だけ山の下に下ろされたそうです。
これは推測するに天皇家の祖先神として明治政府の伊勢神道の発想で天照大神宮の神社として拡張整備する際に子之神社の敷地が確保出来なかったのではないでしょうか?
先程列挙した県内各地の子之神社の立地は全て切り立った崖の上なので、本来祀られるべき地形は海岸沿いの現在地では無く元の天照大神社の場所である事が解ります。

白髭社(現:白髭神社)

白髭明神と呼ばれる猿田彦の神を祀る神社です。
今は存在すら知る人も少なく石祠だけが逗子マリーナ横の小坪飯島公園と由比ヶ浜材木座海岸の和賀江島の間に存在しています。

昔からの神様を今も大切に守る漁村とリビエラ逗子マリーナのリゾート的な町と超お金持ち(笑)の住む披露山庭園住宅が丘の段差の敷居1枚隔てて存在する逗子市、実は由緒正しく源氏の殿様のお気に入りの土地でした。

それについては⤴この記事の秋葉神社と大崎公園の解説の【歴史】の部分で征夷大将軍の源実朝公と小坪と逗子市の史話を紹介していますので御興味の有る方は上のリンクから記事を御覧下さい!
逗子マリーナの景色⤵の紹介も合わせてどうぞ~♪

さて、今回は綺麗な景色の紹介を書く段階でこれらの事を知る事が出来たのと、また古い文化や郷里の歴史を伝えて下さっている方と面識を持ててうれしかったです。
皆さんも、是非、綺麗なリビエラ逗子マリーナ散歩と、小坪漁港の漁村の名残の秋葉神社辺りのオシャレな日本家屋のカフェに御茶しに行って、秋葉神社から富士山と相模湾の夕焼の景色を見て見ませんか~?

そして、きっと皆さんの家の御近所にも実は凄い歴史偉人と関わりの有った神社仏閣や城址の森や山や公園が有るかも知れません、ちょっと御近所の神社や御寺を散歩して看板の説明を読んでみませんか?

では又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
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大崎公園と小坪の神社からの眺望
逗子マリーナと小坪漁港越しの富士山の佳景。
【大崎公園】【秋葉神社】CIMG7811
——葉山港と鐙摺城~森戸神社の遠景——
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―以下は詳細な解説( ゚∀゚) ダョ♪⤵―
【交通】
不便なのは本当に大正~昭和の漁村の家並みが丘一帯に広がっているからで、細い細い坂道の路地が寧ろ良い味を出しています。
黄昏時~宵の頃のマジックアワーに成ると、富士山のシルエットに目の前のリビエラ逗子マリーナと小坪漁港の街灯(まちあか)りが非常に生えて美しい。
付近一帯は丘に上がればオシャレな富士山の景色を見る事が出来る日本家屋のカフェも有るし、リビエラ逗子マリーナ一帯には海鮮料理を提供する飲食店も複数有ります。

もしデートで彼氏彼女と逗子マリーナに休日の昼下がり食事に来たなら大崎公園や地図に名も乗らない郷土史の学芸員にすら名の知れなくなってしまった漁村の丘の中腹の小さな神社から富士山と夕焼けを見て帰るのも良いかも知れないですね。

以前紹介したリビエラ逗子マリーナ⤴や小坪漁港からの富士山の景色も美しいけれどバリバリの観光地で人がいなく成る事は無いので若い御二人でムフフな甘い時間を過ごすにはあんまり向かないかも知れませんが思いで作りとしては間違いないので、大崎公園から直ぐ近くですし両方合わせて訪問しても良いかもしれません。
大崎公園は披露山公園やリビエラ逗子マリーナからの景色と比べても中々だと思いますしチュー( ˘ ³˘)(´꒳` *)してても人とすれ違う確率は低く(笑)良い面も有りますが、如何(いかん)せん人が少なくどちらの雰囲気が良いかはエスコートするアナタ次第・・・だぁ~🫵(笑)!
下の地図に表示されている所では季節で水揚げが有れば御土産用のシラスを購入する事が出来ます。

【歴史】
——小さな神社について——
この神社はブログに記事を書くに際して自分でも調べてみた結果、逗子市小坪の漁協や御寺や逗子市教育委員会の助力で文献に記載の無いこの神社は❝秋葉神社❞である事が判明しました。
この解説は書くと長く成ってしまい景色や郷土の簡単な紹介の範疇を超えてしまいますので別の記事に書いて以下にリンクを貼ります。

これ⤴御興味の有る方は御覧ください。
ちょっと調べたら平安末期の名将、鎌倉景正公の御子孫で源頼朝公に仕えた長江義景公の名前や小坪の領主だった小坂光頼公の名前も登場しました。
さて、今では参拝社も見かけない秋葉神社ですが小さな御社(おやしろ)の前から見下ろす小坪漁港と富士山の景色は綺麗です。
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是非、現役学生カップルや結婚前の様に結婚してからデートする仲良し御夫婦の方にも秋葉神社から富士山と夕陽を見て貰って良い思い出の一端に秋葉権現様の記憶も残して貰えたら神様も喜んで下さると思います。
さて、今回の小坪の郷土史紹介は小坪に関わったメジャーな方々を紹介したいと思います。
今では昔からの神様を今も大切に守る漁村とリビエラ逗子マリーナのリゾート的な町と超お金持ち(笑)の住む披露山庭園住宅が丘の段差の敷居1枚隔てて存在する逗子市、実は由緒正しく源氏の殿様のお気に入りの土地でした。
実はこれから鎌倉殿の13人にも登場する事に成る鎌倉幕府第三代将軍の源実朝公は非常に武士としての素養が高く、この小坪漁港の元々砂浜だった海岸で流鏑馬大会を開いたり武門の頭領らしい事も沢山してらっしゃったんですね~。

今では鶴岡八幡宮や三浦半島油壷の荒井浜や小田原市の曽我梅林で行われる流鏑馬ですが、当時の鶴岡八幡宮は境内に回廊が巡らされていたので、やったとしても現代程の大規模な流鏑馬は出来なかったでしょう。ですから、ちょこっと鎌倉市街から離れた当時の避暑地地感覚だったかも知れない小坪海岸で流鏑馬大会を挙行されたのかも知れませんね。
実朝公は小倉百人一首や勅撰和歌集にも名を連ねる貴族的な教養も高い人物としての印象が先行してしまった様で、余り歴史に関心の無い人には何故か石川啄木の様な文弱(ぶんじゃく=ナヨナヨして男らしくない文学オタク)な印象が有るみたいです。
石川啄木⤵
石川啄木
「ちょっ!き君ぃ~、風評被害だよ!」
・・・と啄木さんが言いたい以上に実は源実朝公が風評被害と言いたかったと思います。
実は母の実家の北条家が横暴を極めた時も北条家が無実の罪で処罰しようとした渋川サンを助けたり、畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が事実かどうかも解らない謀反の容疑がどっからか湧いてきて、有力御家人の小山朝政公の実弟の長沼宗政と言う武将によって殺害されたた事についても可也ハッキリとこんな事言ってるんですね。
「テメー等過去に無実の畠山重忠ブッ殺して冤罪生んでんじゃねーか😠🖕!」
「俺が畠山重慶は生かして裁判にかけろっつったら俺の言う事聞けっ😬👎!」
鎌倉殿畠山重忠
この人⤴実朝公の言ってる冤罪で殺されちゃった人。更に有罪か無罪かの聴取もしないで御子息の重慶公も長沼宗政に殺害されてしまった。
でも実朝公は畠山重忠公の時と同じパターンだった事から有力御家人だろうと容赦せず毅然とした態度で長沼を懲戒処分にして謹慎処分にしてるんですね。
実朝公の言う⤵過去の冤罪で畠山サンぶっ殺した共犯達。
鎌倉殿北条時政小鎌倉殿北条義時小鎌倉殿北条政子2鎌倉殿安達盛長鎌倉殿三浦義村小鎌倉殿和田義盛
源実朝公が激怒した、畠山重忠公の御子息の重慶公を殺害した長沼は明らかに北条家の命令で動いていて、本来は北条家の対立勢力の小山家の更に傍流(分家)でしかないのに北条側にずっと味方し続けて見返りに大変破格な厚遇を受け続けた事実が現在に伝わっています。
鎌倉殿北条時政小鎌倉殿北条義時小鎌倉殿北条政子2
まぁ要するに、実朝公は兄の源頼家公や父の頼朝公は母方の親類や北条親派の御家人に殺されたと思っていただろうし、それでも上手くやってたし実母や叔父や祖父に対してガンとして意見する人物だったし、高い教養と活発な行動力を兼ね備えていた様です。
もうアホな家臣達が動物園の猿山の様に成ってワチャワチャ自分の事しか考えず権力闘争してるのに愛想尽かして遠洋航海船作り始めて「権力いらねぇ~し」「俺、中国に勉強に行く」とか言い出す人でしたしね。
この実朝公、実は旧鎌倉郡の中でも特に現在の逗子市域が好きだったみたいです。
逗子市には岩殿寺と神武寺と言う2つの由緒正しい名古刹が存在するのですが、これ等の御寺は昔は山道を歩く巡礼道で繋がっており、そこを源実朝公は鎌倉から山道を歩いて御参りに来ました。
もう数年前に御参りしているのに未だブログに書いていないので、その内紹介するとして場所だけ今回は掲載して置きます。
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海雲山 護國院 岩殿寺岩殿寺は文字通り当時は山の山腹~山頂にかけて建てられた御寺で鎌倉からずっと尾根の古道伝いに歩く修験道の巡礼道でもありました。
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昔は修験者が歩いたこの道を伝って今でもハイキングする人を見かける事が出来ますが、江戸幕府による修験道の天台宗か真言宗への服属強制と明治政府の廃仏毀釈神仏分離令の2回の弾圧によって修験道が衰退したのでトレッキング中に白装束を来た山伏とすれ違う事は有りません。

以前も紹介した鷹鳥山や横須賀の田浦方面にも抜けれたし山伝いに三浦半島を縦断出来た古道が昔は繋がっていたんですね。
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当時はこんな敷石の無かった赤土と砂岩と腐葉土の山道を歩いて実朝公は鎌倉の大蔵幕府~岩殿寺~神武寺を参詣されたんですね。
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醫王山 来迎院 神武寺この神武寺の参道を南側に下りきった谷が武道谷(ぶどうがやつ)と呼ばれた場所で源義朝公の沼濱亭が有った様で、神武寺~降りて来る武道谷と反対の法勝寺を含めた山稜一帯が沼濱城と呼ばれ所々削平される等して詰城として機能していた様です。
これについたては又、別の記事で紹介しています。

源実朝公の御父上の源頼朝公は意外に山岳信仰の修験道を大切にしてアルピニストだったので、それに似て実朝公もハイキングが好きだったんですね。
鎌倉の大蔵幕府から岩殿寺と神武寺と御参りしたのは御爺ちゃんの義朝公の沼濱亭の跡地を訪ねてみたかったのかも知れませんね。
いずれにせよ結構ハイキングコースを歩いて参詣したり、元来は活発な方だった様です。
鎌倉殿源義朝
実朝公グランパ⤴の義朝公。
こっちはパパ⤵頼朝公。
源頼朝公
因(ちな)みにパパの頼朝公は凄くて当時の山岳登山装備が何にも無かった時代に神奈川県伊勢原市の大山頂上の石山権現まで登って行って御参りしたり、後の富士山信仰でも行われた富士山の頂上まで登って火口を1周する荒行も達成されていたりします。
鎌倉殿源頼朝
大泉洋⤴のせいで色ボケ軟弱なサイコ経営者的な描写に鎌倉殿の13人では成っていますが、実際は教養が有っただけじゃなく、頼朝公~実朝公親子は健康的で活発だった様ですね。
こんな風に逗子市は源義朝公~源頼朝公~源実朝公の三代に愛された土地だった訳ですが、中でも頼朝公と実朝公は披露山で宴会を開いたり大崎公園の下の小坪漁港で流鏑馬をしたりと、この土地の景観を非常に愛していた様です。





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前回の記事⤵

コレ⤴の続き・・・

前回の瀬戸神社の歴史解説と、前々回の瀬戸神社の御分祀された手子神社と小泉弁才天の歴史解説の記事で瀬戸神社や金沢の地が、源頼朝公と北条政子御夫妻はじめ鎌倉幕府執権北条家、鎌倉幕府を打倒して樹立された室町幕府の鎌倉公方足利持氏公、戦国時代の太田道灌公や北条早雲公や北条氏綱公、安土桃山時代から江戸時代の転換期に徳川家康公が関わり各時代の歴史偉人達から大切にされて来た事は御理解頂けたかと思います・・・
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・・・今回は歴史解説は少なめにして、いよいよ横浜市による金沢六浦の海の埋立や鎮守の杜の山の掘削された景観破壊後の現代の瀬戸神社と琵琶島弁才天の風景を御紹介したいと思います。
さて、現代では周囲の海が埋め立てられてしまった瀬戸神社の周りはとても美しい2つの湾の入口に在る半島と半島を橋で結んだランドマークであり歴史偉人も遊覧した観光地でした。
昔の海を再現した模型と地図でしか現代人の我々は当時の様子を知る事が出来ませんが・・・
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
金沢地形図 久良岐のよし
・・・実は、この島と半島が入り組み東京湾~六浦湾~瀬戸の3つの湾の金沢の海の大半が埋め立てられたのは極々最近の話しで、他都市からの移住者が役人として就職していて横浜=赤レンガと中華街程度の認識しかない無文化で日本の歴史文化に興味が無い横浜市役所役人達によって開発許可が出され昭和期に消し去られてしまいました。
正直、現代では過疎化の進む横浜市栄区や緑区等で貴重な自然とは無縁の真っ平らな開発し易い田園地域を宅地開発させれば良かったのに、現代でも横浜市は栄区の中でも横浜市最大最後の蛍の生息地の瀬上沢でさえ林文子市長が東急不ループの自然破壊宅地化容認の発言が飛び出していたりします。
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以前、瀬上沢を紹介した記事リンク⤵
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
だから景観破壊される前に日本屈指の観光地だった金沢の八景が瀬戸神社の周辺一帯だったので、近代にも千代本楼や金沢園と言う料亭が直ぐ御近所に存在し、現在も名前を変えたり規模を縮小しながらも存続し昔の景勝地だった頃の名残を残しています。
下の写真が琵琶島弁才天から見た料亭、千代本楼。江戸時代の観光案内図にも載っている老舗。
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千代本楼
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カフェ金澤園この金沢園については一度閉店後にリニューアルして喜多屋と言う名前でオープンした際に取材をさせて頂きました。

コロナで喜多屋閉店後に金沢園として再復活していますが、日本建築の館内の紹介に成るかと思います。
金沢園の名に戻りカフェとして営業してるので料亭時代よりリーズナブルで御茶しに行きやすくなりましたし、海の公園や八景島界隈は埋立地で大人が落ち着ける店が余り有りませんが金沢園に来れば良い時間を過ごせるかと思います。
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さて、元は湾の入口の半島の山に囲まれた瀬戸神社は眼前の弁才天様を祀る琵琶島まで境内地にしていたのですが、日本古来の神社文化や自然信仰を軽視する役人によって瀬戸神社本殿参道と真直ぐ繋がっていた琵琶島弁才天の間には国道16号線開通の為に境内が接収され分断されてしまいました。
・・・本当に罰当たりですね。
昔の地形と現代の国道16号を見比べると良く解りますが・・・
瀬戸神社周辺の元の地形 久良岐のよし
瀬戸神社周辺の現代の地形 久良岐のよし
瀬戸神社の鎮守の山と洲崎の半島の近接する景勝地、その山を掘削しなくても国道16号線は別名❝横須賀街道❞ですので、どうせ横須賀方面に抜ける道ならば平潟~乙舳(おっとも)方面を経由させ室ノ木へ抜ける道を国道16号線を引けば良かったのは一目瞭然です。
もしかすると神仏習合の弁天様を日本の神様である大山祇大神(おおやまづみおおかみ)=三島大明神を祀る瀬戸神社と分断する意図が最初から有ったのかも知れないと、近代の宗教改革の歴史を考慮すると勘繰ってしまいますね。
そんな訳で、国道16号の開通も横浜市の海の埋め立てと同じ程に日本の宗教文化を愚弄し自然景観を破壊する失政だった訳です。もし国道16号が小生の案と同じ様に引かれていたら、瀬戸神社は源頼朝公北条政子様御夫妻や江戸時代までの日本の神社界の最高指導者だった卜部朝臣(うらべのあそん)吉田家の吉田兼敬公が愛した当時のままの美しい風景を平成に成っても見られた筈なんですね。

では、先ずは分断されてしまった琵琶島神社こと琵琶島弁才天の方から風景を見て見ましょう。
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琵琶島弁才天様の参道は現代では埋め立てられていますが、昔、ここが二つの島で荒尾城主の荒井家によって二重橋が掛けられていた歴史は前回の記事で解説しました。
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説明の看板にも当時の様子を知る事が出来る絵図が有りますが、図の真ん中左端に瀬戸神社と琵琶島弁才天が描かれていますね。江戸時代の絵図では既に二重橋では無くて一つの太鼓橋に参道を改造した様です。
良く見ると千代本楼も描かれていますね。
琵琶島弁才天様の入口手前、右側には福石が存在します。
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本来はこの福石は❝服石❞と書きました。
源頼朝公が弁天様に御参りする際に、福石に❝服を脱いでひっかけ❞当時は海だった福石の右側で禊(みそぎ=身体を洗い清める事)をしてから参詣した事に由来しています。
そして、この服石と元は書いた❝金沢十石❞の一つにも数えられた頼朝公由来の奇岩の傍で拾い物をすると必ず幸福な事が起こった御利益から❝服石→福石❞と書き方が変化したそうです。
そんな頼朝公が服を掛けた福石の右に存在した海は御覧の写真の通りに歴史も神道文化も軽視した役人によって埋立許可が出されてしまい無残に禊を行う聖なる海が消え去りビルに成ってしまいました。
弁天様の居らっしゃる琵琶島に向かい参道へ歩みを進めてみましょう・・・
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・・・松の木のみが景勝地だったらしい名残を感じさせます。
もう少し先に簡素化されてしまった橋が在ります。
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少しだけ昔の雰囲気を感じられるかな~?
先に在る弁天様この橋に対してソッポを向いた様に社殿が設置されていますよね?歴史や観光や御朱印集めが好きで神社仏閣を多く参拝する人は予備知識が無くても誰でも何となく知っているん事ですが、神社の御社や御寺の仏閣は大体が南向きか東向きの御日様の方向を向いて建てられているもんなんです。
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だから京都の有名な八坂神社=祇園社も祇園四条通りから延びる参道の先、西楼門=随神門(ずいしんもん)は西を向いて建てられていますが境内に入ると本殿は南を向いて建っているので、この琵琶島弁才天と同じく参道に対してソッポ向いた配置に成っています。
八坂神社周辺 久良岐のよし
ね?衛星写真を見ると解り易い。ちなみに明治の神仏分離令で素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る八坂神社に名前を改めされましたが、元は素戔嗚尊と同一視されたヒンドゥー教由来の牛頭天王を祀る神仏混交の仏教施設だったので江戸時代の終わりの昔迄は祇園社と呼ばれていました。
そんな訳で琵琶島弁才天を御参りすると日本の宗教施設が南や東を向いている事にも気が付ける訳です。
・・・あれ?結局歴史解説結構やってしまってる(笑)。
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社殿はとても小規模ですが、まぁ、頼朝公の時代もそんなに大きな社殿では無かったと思います。
頼朝公が復興した鎌倉の立身出世の御利益で有名な佐助稲荷神社や・・・
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佐助稲荷神社
現在の横浜市役所新庁舎にも頼朝公が建てた弁天様が有りましたが、やはり水神社同様に接収され現在は横浜市中区関内の羽衣町厳島神社と元町厳島神社に分祀され消滅しました。

神社の宮司様達の中には余り文化歴史に造詣が深く無い人もいて自分の神社が昔っから立派な社殿が在ったと誤認している人もいますが、そもそも日本古来の宗教は自然信仰で、そこに中国文化の影響を受けて御神像や御神鏡を祀る偶像崇拝が合わさり石祠(いしほこら)や社殿も建てられる様に成った訳ですから、金澤(かねさわ)の琵琶島弁才天様や横浜の元町厳島神社や羽衣町厳島神社の様に滋賀県琵琶湖の竹生島弁才天様の御分霊を頼朝公の時代に勧進した場所は概(おおむ)ね小規模な場所だったでしょうね。
昔の人は社殿の立派さよりも、自然信仰時代の影響も色濃く残し、特に修験道を大切にして神道仏教にアプローチした源頼朝公は神社の建物よりも神様その物を大切にされた訳です。
小生のブログを読んで下さってる方は記事で話題にしているので既知だとは思いますが、頼朝公は自然信仰で神仏共に大切にした希有な修験者でもあったので伊勢原市の大山阿夫利神社石山権現(大山山頂の神の依り代たる奇岩)を参拝に登山したり、富士山すらろくな登山装備の無い当時に踏破し富士山火口を一周回る荒行を成功させたアルピニストだったりするんですね。
瀬戸神社の神様は三島大社の大山祇大神です。
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三島大社
大山祇大神は神奈川県の延喜式内社で関東総鎮護とされた伊勢原市大山の神様でもあり、海を守る神様としても有名なので築地市場関係者も団体で昔から参拝に来る事で知られています。自然信仰で海の神様である大山祇大神と弁才天様、修験道にも仏教にも神事にも造詣が深く自然信仰を大切にされた源頼朝公。
・・・そんな頼朝公だったから海難事故防止や海の神様として有名な大山祇大神=三島大明神と竹生島の弁天様を六浦湾と金沢湾の2つの入江の接続点に勧進され、漁師や海運を生業とする人達の生活を守護して頂こうと考えた事が良く解りますね。
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今では狭くなり釜利谷側の泥亀新田や昭和の六浦埋め立てで大部分が消滅した金沢湾ですが、琵琶島弁才天に御参りすれば頼朝公と政子様が愛した湾の景色の一部が眼前に残っているので少しだけ往時に思いを馳せる事が出来ます。
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さて、琵琶島弁才天様から国道16号で分断された反対側の瀬戸神社に移動しましょう。
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社殿は遠目にも綺麗ですね!まぁ、裏山の鎮守の杜も一部だけ残っているので昔の風景を想像する事も出来ます。
鳥居の両脇にはとても立派な石灯籠が存在します。CIMG5077
大きいだけじゃなくて彫刻も良く出来ています。
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そこを通り過ぎると正面に社殿。右側に手水社(ちょうずしゃ)が在ります。
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更にその右側には市の名木古木指定を受けている楠(くすのき)が在ります。
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立派ですね~。他にも沢山、立派な大樹が有りました。
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犬槇(イヌマキ)と言う木だそうです。これも立派。
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社殿の拝殿へは入る事は出来ません。普通に社殿の前までは参拝出来ます。
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現在では瀬戸神社と書かれた扁額が掲(かか)げられています。揮毫(きごう=代筆)したのは内閣総理大臣在職中の小泉純一郎元総理ですね。小泉家の発祥は正に金沢で後に横須賀に移る訳ですが、小泉純一郎元総理は祖父の小泉又次郎氏が六浦大道の出身でした。そして小泉元首相のお母さんが祖父又次郎さんの娘で、そこに父親の純也氏が婿養子入りしたんですね。その頃には横須賀市に既に移住していました。
・・・多分、現在の瀬戸神社の扁額を揮毫したのは小泉家と金沢家にそんな地縁が有ったからかも知れません。まぁ、書くなら古来の風習に則(のっと)って❝三島大明神❞と書いて欲しかったなぁ~。
本殿の裏には沢山の社殿が在ります。
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これは祖霊社、氏子サン達の御先祖様を神様として祀っています。
そして背後の山を御覧頂けると解るのですが・・・
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・・・山の斜面を人工的に❝法切(のりき)り❞された垂直の❝切岸(きりぎし)❞に成っているのが判るでしょうか?
この様に山を削った直角な谷間に鎌倉文化では神社仏閣を建設します。これを❝谷戸構(やとがま)え❞と呼び、城壁の様に垂直に加工した山で施設を取り巻く事で防犯と火災類焼防止の効果が発揮される訳ですね。
そしてもう一つの鎌倉文化に良く見られる特徴が瀬戸神社にも有ります。
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矢倉(やぐら=人工横穴)です。
元は横穴式石室に仏教文化がが合わさった鎌倉武士独特の墓所でしたが、仏様を埋葬するのと同じく矢倉に神様の祠を治めて崇拝する習慣が鎌倉文化には有ったりします。
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ここは御狐様がいらっしゃるので御稲荷様ですね。御稲荷様は良く全国各地の城址にも祀られ、歴史好きを見守ってくれる神様だったりもします。
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これは瀬戸神社の主祭神の大山祇大神の御息女=姫神様の石長姫(いわながひめ)様と此花咲耶姫(このはなさくやひめ)様の姉妹神様を祀る御社(おやしろ)でした。
石長姫は不老長寿、ある意味美の女神なのにブスな可哀相な役割の女神様。きっとクソ美人以外の普通に可愛い位の女性には美容と長寿の女神として御利益の御加護を下さるかも知れませんね。
妹の此花咲耶姫命様は天皇家の御先祖様の邇邇芸命(ニニギノミコト)の奥さんに成って天皇家を発展させた祖先神ですので縁結びと家内安全の御利益を与えて下さるかも知れません。
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更に塞がれた矢倉も有りました。きっと何か神様が祀られていたのに戦後の法律で封鎖させられたんでしょう。こんな物防空壕では無いと否定して撤去してしまえば良い。
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服装の様子からして菅原道真公=天満大自在天神=天神様かな?
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あと小さな祠が3ヶ所並んでいました。
その背後・・・
CIMG5101
どうも此処(ここ)は背後の鎮守の山への登り口だったみたいですが、山を国道建設で掘削されてからは登る人もいなくなってしまった様で草ぼうぼうでした。
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階段地形が今も残っています。もしかしたら征夷大将軍源頼朝公や室町幕府鎌倉公方足利持氏公はここを登って金沢八景の景勝を遊覧したかも知れませんね。

さて、これで金澤瀬戸の三嶌大明神=瀬戸神社と琵琶島弁才天=琵琶島神社の施設の解説の記事は尾張です。
皆さん、如何でしたか?実はつい最近まで鎌倉時代のままの風景が残っていた事、今もその足跡が辿れて歴史偉人の歩いた場所を皆さんも歩ける事が伝わったでしょうか?
瀬戸神社は金沢八景駅の目の前に在ります。野島公園の伊藤博文公金沢別邸に抹茶を飲みに行ったり、神奈川県立金沢文庫(博物館)に見学に行ったり八景島シーパラダイスに遊びに行くのと合わせて参拝に行かれて見ては如何(いかが)でしょうか?
江戸時代までの日本の神道のボスや、各時代の将軍様達と同じ空間で御参りすれば、昔の人達が大切にした意味を身体で感じられるかも知れません、瀬戸神社がタイムマシーンの様な役割に成って。

きっと皆さんの御近所の城址の山や神社仏閣も、凄い歴史偉人と関係が有る場所が今もあるはずです。
・・・家を飛び出して少し気分転換に御散歩してみませんか?

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪・・・次は何を書こうかな~?
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横浜市中区の日本大通りに、1931年に建築され英国領事館として1972年まで使われ続けた素敵な近代西洋建築遺産が在ります…
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現在は横浜開港資料館と言う名前の博物館 兼 近代資料の図書館に成っています。
横浜市の開港の歴史に関する資料を保存していて市民に公開している場所です。
…公文書館と博物館の中間で近代に特化した感じ?

※ここで注意!※

名前が似ていますが以前紹介した「横浜市開港記念会館」とは違いますよ!
これ↓開港記念会館。
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…開港記念館と開港資料館の区別をつけて貰った所で話を「横浜開港資料館」に戻します。
この横浜開港資料館は近代に建てられ近年までイギリス領事館として機能していたので、余り目立たない場所に在りますが建物は素敵です。
開港資料館と道を挟んで反対には神奈川県旧県庁舎が有ります。

これ、以前紹介した記事⤴
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県庁舎はこんな⤴感じ。
県庁舎側から見た開港資料館の入口⤵。
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ね?何か緑に隠れて目立たないでしょう(笑)?
でも、この緑豊かな生垣に囲まれた中に入ると、建物は素敵なんですよ。
英国領事館だったから、外から余り中が見えないようにしたのか…
…中から道路の喧騒が見えないように生垣で囲ったのでしょうかねぇ~?
では、入ってみましょう…
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県庁側の入口は、こんな感じですが、実はこちら側は正門ではない様です。
ここは昔は海に面した場所だったので、北東側の海側が正門だったようです。
位置関係はこんな感じ…
横浜開港資料館位置関係
横浜開港資料館の右、北側の「キング」が県庁旧本庁舎。そちら側から見る開港資料館の構造より、明らかに海側から見た開港資料館の方が設計的に「正面」ですよね?
因(ちな)みに、開港資料館の海側の入口はこんな↓感じです。
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海側には資料館として別棟で増築された建物があり、中の素敵な英国領事館時代の眺望を台無し(笑)にしています。
この正面に見える樹木有りますよね?これ「たまくすの木」なんですが…
実はペリー提督が横浜の市名の元に成った、この地に有った「横浜」と言う名の半島に上陸した時から存在している樹です。
ペリー艦隊の上陸
ね?右側に生えてるでしょう?
この絵を見ると今は遷座された水神社様、この旧英国領事館のタマクスの木の前に在ったんですね~!
現在は横浜市南区の水天宮に成っている水神社が横浜半島の上に在ったのは知っていましたが、まさか英国領事館に成っていた場所がそうだったとは知りませんでした。
旧英国領事館のタマクスの木、正確には、一度燃えたのですが残った幹から又、枝葉が芽吹き、この様に大樹として元気に往時の姿を取り戻してくれました。
…健気ですね。そして横浜の歴史の生き証人として残ってくれてありがとう!
さてさて、旧英国領事館=開港資料館の建物そのものに話題を戻します。
県庁側から入ると正門じゃないので、すごく素っ気ない廊下が冷たい感じで出迎えてくれます(笑)。
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消火器とかね、全然っ!風情(ふぜい)無いけれど、防火設備は大切よね(笑)。
そんでも、まぁ~中に入って天井とかみると「おっ!」と思う漆喰の彫刻っぽい天井と、何やら権威を感じる様な冷たい光沢のタイルさんで作られた壁で装飾されています。
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この廊下の左手には金属製の銘板がはめ込まれています。
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鶴見区の生麦村で起きた生麦事件から勃発した薩英戦争(薩摩藩島津家vs大英王国)の際に戦死した英国士官だけ弔う為に作られたモニュメントですね…
…これ、日本人だったら英国人日本人の区別なく弔うよね、普通。流石、白人様って感じですかね。
しかも、この生麦事件ね、どう考えても英国側が悪いんですよね。
少し脱線して生麦事件の経緯を辿ってみましょう…
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実は生麦事件の後で起きた鎌倉事件と言う英国人殺害事件に横浜の間宮家一族も関わっているんです。
間宮と言う家は間宮康俊と言う戦国時代の北条家臣の武将の一族で、杉田玄白や間宮林蔵の祖先に当たります。
その同族の間宮一と言う人物が鎌倉事件に関わってるんです、なんと被告側で
先ず最初に言っておきたいのは、生麦事件は当時の白人至上主義の当時の英国人が、土人と馬鹿にしていた日本人の社会ルールを無視し、事も有ろうに英国なら貴族に相当する大名の島津家の大行列に平民英国人が騎馬のまま乱入しました。
島津の殿様を守る為に薩摩藩士達は最初はジェスチャーと日本語で英国人を静止したのですが英国人達は無視して乗馬したまま殿様の行列に乱入したので止むを得ず当時の薩摩藩士だった松方正義さん達が殿様を守る為に狼藉を働く英国人を切り殺した事が国際事件化したのが生麦事件の概要です。
それに対し日本人を下に見ていた白人様の英国政府が見くびり幕府に対して賠償金を請求して、それを島津家の責任と突っぱねた徳川幕府の代わりに島津家の本拠地鹿児島を英国軍が海軍で攻撃したと言うのが薩英戦争の概要です。
この生麦事件は薩摩側は明らかに正当防衛ですね。
それらの事件から日本では攘夷派と呼ばれる外国人排斥運動が流行し過激派が増えました。
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そして鶴岡八幡宮の参道の若宮大路の入口、石の大鳥居を過ぎて今の鎌倉駅付近にある下馬の交差点辺りで鎌倉事件と呼ばれる武士による英国人殺害事件が起きました。

鶴岡八幡宮の入口をこの赤い大鳥居と勘違いしている人も多いですが、実際は若宮大路の入口にある石の鳥居が入口で、今の若宮大路が参道でした。
下馬と言うのは、そこから神域なので馬を下りなければいけない場所なので、英国人が襲撃された理由も大凡(おおよそ)想像できますよね?
多分、乗馬したまま鶴岡八幡宮の境内に入ろうとして下馬しなかったんでしょう、そして攘夷派の人物が激高し斬り付けた。
実はこの鎌倉事件の犯人は元は笹下城跡の本丸跡に建つ由緒ある御寺の成就院の身内で、還俗(げんぞく=僧籍から一般人に戻る事)して間宮家に養子に入った人物です。
因みに成就院↓の山門は、江戸時代の笹下間宮家の屋敷から移築したものです。
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事件の際、当然、この横浜市(旧久良岐郡と橘樹郡)の間宮一族は鎌倉が近いだけでなく鶴岡八幡宮は当時は神宮寺で神仏混淆の寺院でしたし、現在の江ノ島の江ノ島神社の別当職を務めた岩本院(現:旅館の岩本楼)の岩本家も間宮一族だったり宗教に深く関わりの有る武士でした。
…で、時間が経過するにつれて鎌倉で英国人を殺害した犯人が清水清次と言う人間だと解り逮捕され、更に共犯者がいて間宮一が真犯人じゃないかと、段々、解ってきてしまう訳です。
間宮一は逮捕されました。
そして幕府役人は英国の介入が有る前に間宮一を打ち首にして事の解決を計りました。
実はこの鎌倉事件の前年に現在の鶴見区生麦で起きたのが生麦事件でした。
当時の大英帝国は白人至上主義で中国に阿片(あへん=麻薬)を大量に流通させて社会混乱を起こし中国王朝転覆を計っていたような国だったので、生麦事件では日本の徳川政府の迅速な「打開策」にも難癖付けて払う必要の無い賠償金を請求して来た訳です。
そして徳川幕府が賠償金を払わないと解るや、英国内の世論を納得させる為に八つ当たり的に起こしたのが薩英戦争だった訳です。
結果どうなったでしょうかね~?
英国に薩摩藩はべったり、この後は今の横浜市中区本牧に在る妙香寺の敷地に駐屯していた英国軍に入りびたり、様々な技術を導入するように成りました・・・つまり、事実上の従属同盟ですよ。
これに多くの日本人が憤慨し武士は攘夷派に成った様です。
まぁ、しかし…
この時の薩摩人達の学習能力の高さや、幕府や間宮家の対応が他のアジアより素早く意識の高いものだったので英国人の日本人に対する評価はこの事件後一変し、一貫して日本新政府には「"超"が付く位に協力的」に成ります。
そして対馬海戦での東郷元帥率いる連合艦隊がロシア帝国バルチック艦隊と対決するに当たり、英国政府は世界に日本軍に協力する様にロビー活動をし、ロシア海軍がアフリカ喜望峰を回って日本の対馬海峡に辿りつくまで、バルチック艦隊にろくな補給を出来ない様に政治工作をして多数の港湾を封鎖し東郷元帥と秋山中佐の丁字戦法成功の切っ掛けを演出して下さったのも友好的な歴史事実でもあります。
ちなみに間宮一族には杉田玄白や間宮林蔵なんて国際人がいるので、どちらかと言えば開明的な要素が強い家系だったってのも真相です。
戦国時代に間宮家の属した玉縄城主北条綱成公の部隊は既に鉄砲隊が存在していたのも、「三増峠の戦い」でも記録されていますからね~。
…間宮家は、どちらかと言えば主君に対する忠誠心は強いけれど、新技術導入には積極的な家風と言うのが実態ですかね。
おっと!
脱線が過ぎましたかね。
開港資料館に話を戻します…
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廊下を過ぎると、簡単な説明の有る部屋に行き当たります。
そこには関東大震災で犠牲に成った英国人を追悼する銘板が有ります。
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あと、当時の横浜の様子を再現したレリーフ状の模型。
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その部屋を出ると、直ぐに中庭への出口が有ります。
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その中庭に通じる出入口、この日、玄関には特別展示の内容の看板が有りました。 
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本来の英国領事館時代の玄関からの風景なんですが… 
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玄関の正面に樹が見えますよね? 
これが、ペリー提督の来航時代から有った、さっき紹介したタマクスの木です。
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一度燃えたけれど、今では当時と同じ大きさに…
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横浜の開港~国際港湾都市への文明開化~関東大震災~原財閥による横浜復興支援~太平洋戦争の横浜大空襲~昭和の復興~高度経済成長期~バブル崩壊~現在…ずっと横浜の歴史を見守って来てくれた、横浜市民の仲間でもある樹木です。
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玄関横の石柱。…道路に面してないから今じゃ意味なし(笑)。
さて、このタマクスの生えている中庭には、横浜の開港の歴史が解り易いモニュメントが設置されています。
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これを見ると、横浜開港の歴史の基礎の基礎の部分がザックリ理解出来ますよ~。
中庭には、昭和初期から残る共用水道も有ります。
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当時の水道は共用だったらしいのですが、デザインが格好良いですね!
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この中庭が昔の玄関口だったので、こちら側から見た英国領事館の建物の装飾の方が、県庁側より綺麗です。
ここにはベンチも有り自由に出入り出来るので、お弁当持ってきてココで食べるのも良いです。
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ここなら日陰もありますからね~。
この日も観光客や読書に来たハマっ子がベンチに数人居ましたが…結構穴場で人は多くはいません。
おちついて御弁当箱を広げれますよ~(笑)。
でも、せっかく港に来たんだから向かいの象の鼻パークや国際客船ターミナルの芝生で食べるのも良いですね♪
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この開港資料館の目の前、海側にはCJ Cafeと言う、アメリカンなカフェレストランが有ります。
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…オムライスとかもアメリカンサイズで女性だと食べ残しちゃうくらいの量ですが、太平洋戦争後の米軍占領時代っぽい雰囲気を味わえると思います。
小生はこの近くのJack cafeにも良く行きます。 2015-08-01-14-31-52
ここはハンバーガーが絶品!
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ランチに御勧めですが、料理が美味しいだけでなく御酒も飲めるので夜来るのもお薦めです!大桟橋の夜景も綺麗ですしね。夜景散歩に来てからここで食事するのも良いですよ。
また、Jack cafeの記事は別個に書きますね!
あと、古き良きアメリカ的な雰囲気を味わいたい時はだいたい、中華街の中のWind Jammerと言うJazz Barに行きます。
※Wind jamerは以前、記事にしていると思うので興味ある方はカテゴリー「Hotel Restaurant/Restaurant-Bar/Jazz-Bar/Bar 」←ここクリック!
…又、開港資料館からすんごい脱線しましたが、話を戻します。
本来の玄関、彫刻が凄いでしょう!
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これ見に来る価値有りますよ。
この凄い彫刻の玄関の前のタマクスの中庭で、ベンチのある日陰を探して、そこで読書して時間を過ごすだけでも良い休日に成りますね。

最後に、この開港資料館が英国領事館だった頃の、この前に広がる横浜港の様子を明治時代と現代で比較した画像を載せます。
横浜港周辺 久良岐のよし
今は象の鼻パークに成ってる“イギリス波止場”~神奈川県庁の辺りに在った「神奈川運上所」の目の前が開港資料館です。
開港資料館の展示を観覧して、横浜の発展の歴史の基礎知識を付けてから中華街や山下公園や山手地区の一帯を散歩すると、感慨深い物が有ると思いますよ~♪
皆さん、近くを通りかかって時間が有ったら、是非!開港資料館、立ち寄ってみて下さい!

では!又、次の記事で!
来月10月1日~5日は彦根、安土、京都に行ってるので第1週は更新できないかも知れないです。
今月、時間が有ればまとめて書き溜めしておいて、予約投稿出来る様にしておきますね~!
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鎌倉殿の13人に名前と館跡の話だけ登場した源義朝公と彼の館の場所について記事を2回に分けて皆さんと観光地としての案内をしながら内容を検証して行きたいと思います~、どうぞ最後まで御付き合い下され~♪

先ず結論から話します。
①鎌倉殿の13人のドラマ本編後のNHKアナウンサーによる所縁(ゆかり)の土地の解説では頼朝公の御父上の源義朝公の館跡が鎌倉の寿福寺とだけ紹介されていましたが、これは情報不足で視聴者に誤解を与える紹介の仕方で、実際は逗子市沼間にも館があり旧鎌倉郡だけでも少なくとも2軒の邸宅を持っていました。
当然ですが京都にも御屋敷は有り、その場所は京都市下京区左女牛井と伝わっています。

②吾妻鏡に登場する沼濱亭を、自分で現地に足を運ばず取材もせず発掘調査結果も読まず文献コピペする学者が多くいて誤りを流布しています。沼間の法勝寺が屋敷跡と比定されていますが、これは誤りです。
鎌倉時代から今も続く旧家が現地沼間には住んでおり、その一帯の平場が田越川を外堀として利用した武士団の館を構築しており、法勝寺と武道谷の山一帯が詰城として機能していました。
つまり沼濱亭と沼濱城は別個の存在であるにも関わらず沼濱城跡を沼濱の館と書いている学者が多くいて、根本的に平安時代~鎌倉時代の武士の生活様式と城のセオリーすら理解して無い訳です。
平安時代の坂東武者は河川を掘りとして利用した谷戸の平場に邸宅を築いて住み、その近くに詰城を築いていました。

③平安時代の城郭として未発達の詰城を安土桃山時代の中部~西日本の石垣城しか❝城として認識できない程度の城郭知識❞の文献考古学者が「ただの砦」と軽視したせいで神奈川県が過去に有していた大城郭は多く消えています。
中世初期の関東の城は立派な土塁(どるい)と呼ばれる土を盛って作った城壁すら設けていない場所も多く有りますが、そもそも当時の詰城には城館は無く室町時代末期や安土桃山時代の城の様に常時城内で暮らしを営む生活空間は特に備えていませんでした。
この平安時代の街道は現代人の感覚では街道とは呼べない細い道で、城は山の尾根に毛細血管の様に幾筋も通っていたので道が合流する要所要所の山の峰を裾切(すそきり)して細くし切通道や堀切を作って敵の侵攻を阻害し峰に削平地を設ける範囲を広く点在させ、当時の街道の山道を防衛側が少数兵力でも守り易い構造にする事が優先されていました。
つまり後の時代と比較して城の立地や役割の遷移過程で建築物を城内に持ってる持ってないの差が有る訳ですから、「ただの砦」と言う文献考古の人がいるならば、その人が城郭の様式の変化や関東ローム層地盤の特性を活かした土城の殺傷力を知らないだけと言う事です。
源義朝公や源頼朝公の生きていた当時は山麓の屋敷と裏山の詰城がセットに成っていた訳です。

今回の記事はでは、この①の事を観光地案内を兼ねて皆さんと一緒に見て行きたいと思います~。
次回の記事で②と③を解説します。

さて、皆さんは鎌倉殿の13人第8話で源頼朝公達が鎌倉に入府した頃の話を覚えてるでしょうか?

その回ではドラマに登場しない人の話が、登場人物たちのセリフとして名前だけ出てきました。
義朝パッパ⤵頼朝公のパパです。       
鎌倉殿源義朝
※以下略称パッパとします。
頼朝公と鎌倉武士団が鎌倉に入府した際に、この頼朝公のパッパの御屋敷に関する会話が有りました。
源義朝パッパは平治の乱で平清盛公に負けて関東に逃げる時、尾張国の武将で自分の部下の長田忠致(ただまさ)に裏切られてお風呂場で殺された方です。
これ以降、源氏の殿様は風呂場で無防備なフル〇ンの時に殺されるのが伝統芸に成ってしまいました。
ところで鎌倉殿の13人には登場しない後日談として、長田忠致は相応の報いを受けています。
伝承では長田は頼朝公の父上や忠臣の鎌田政清公を殺害した際に平清盛公に対して「美濃(みの)国、尾張(おわり)国をくれ」と身の程知らずな要求を行い却下され不満を漏らしました。
更に頼朝公が大勢力に成り上がると厚かましくも頼朝公に面会に訪れ頼朝公の家来に成る事を願い出ます。
その際に長田はこう言われました・・・
鎌倉殿源頼朝小
「頑張って働いてくれたらパッパ殺しても欲しがってたって言う「みの・おわり」をあげるよ・・・」
当然ながら長田は血の気の引いた様な思いで必死に戦いますよね。
頼朝公は長田と戦に成らない為に許す姿勢を見せて置いて長田家臣団と直接コネクション作りながら長田を使いつつ時を待っていたんですね。
余り知られていませんが頼朝公の幼名は❝鬼武者❞です。

頼朝公は全然ゲームの鬼武者⤴の金城武サン演じる明智秀満公みたいに強くない武将で、武人ではなく経営者タイプの武士です。思考的に組織全体を守る為に運営上、血縁でも勲功の序列を重視する現実主義の一面も有り良い意味で鬼に成れる人ではありました。
鎌倉殿源義経鎌倉殿畠山重忠
実弟の源義経に血縁が有っても彼が家臣である事を解らせる為に、畠山重忠公と一緒に馬を曳(ひ)かせたエピソードは有名です。
この頼朝公が長田にちゃんと義朝パッパの敵討ちをしない訳が有りませんね。論功行賞(給与支払い)の時に成って頼朝公は長田にこう言い渡しました。
「長田サン、約束通り❝身の・終わり❞をあげます」
うぅ~ん・・・
「ひぃいぃ~!」
・・・っとなるエピソードですよねコレ、落後並みに落ちは綺麗についてるのですが(笑)。
でも頼朝公は実際は自分の子供に限らず子供好きで面倒見が良かったエピソードが幾つか伝わっています。

マグロの水揚げ漁港として有名な三浦市三崎町のユネスコ無形文化遺産に登録されているチャッキラコの話1つをとっても、この世界遺産に成った神事は子供に優しかった上に庶民にも気さくに声をかけていた頼朝公の実際の性格に端を発している事が解りますし、甥っ子の北条泰時公も溺愛していた話が伝わっています。
鎌倉殿北条義時2鎌倉殿伊東八重
北条泰時公と言うのはドラマの義時公と八重サンの長男です。
この泰時公は元の名前が北条頼時と、源頼朝公から名前を一字頂いた事も伝わっています。
ドラマのネタバレに成るかは不明ですが八重サンは史実では義時公にポイって離婚されてしまいます。
義時公は美人と再婚してしまうので(ガッキー超える美女いる?)、八重ガッキーの息子の泰時公は嫡男(ちゃくなん:後継者)ではなく庶長子(しょちょうし:非後継者の長男)と言う分家を立てる立場の人間と伝わります。
ただ実際は八重さん離婚されたからって廃嫡されたのかどうかは良く解らないので、頼朝公と関係が深かった事から当初は後継者だったけど義時公が亡く成る頃は継母と異母兄弟の存在が政治的に強かったのかも知れませんね。
頼朝公が亡くなった後の政治体制は暫く北条家と三浦家の共同運営的な様相を呈する事に成ります。
鎌倉殿三浦義村←スケベ設定の善政家
八重ガッキーと小栗義時の子供が生まれた時に三浦義村公がポイってガッキーに預けた子がいましたよね?
あの子が今後、北条家のバディに成り和田義盛公を殺す三浦泰村公です。
北条家と三浦家の同学年コンビ北条泰時公と三浦泰村公が初期の鎌倉幕府を引っ張って行く事になるのですが、頼朝公が亡くなってから北条泰時公は元の名前の源頼朝公由来の北条頼時の“頼”の字を捨ててしまい、泰時と改名し義兄弟分の泰村公の世代で過去どの武将も使って無かった“泰”の字を名に使用し始めます。この事は何かを示唆してそうですね。
源頼朝公、源頼家公、源範頼公等、源氏との決別でしょうか?
三浦泰村公は更に北条家とも対立して宝治合戦で滅亡しますが泰村公よりも半世紀前、この三浦家は源義朝公に大そう信頼されていたようです。
特にこの二人の信頼関係。
鎌倉殿源義朝「義澄っ👍!」
鎌倉殿三浦義澄「あざっす!」
この信頼関係で三浦家は頼朝公を支えているのでドラマの様に三浦義澄公が頼朝公に恐れ戦(おのの)く演出とは実際は違って頼朝公と一々謀議して命令を遂行していたのが三浦家と北条家と梶原家だったと思います。
でも義朝パッパが一番信頼していたのは頼朝公と違って実はこの人でした・・・
鎌倉殿上総広常「ぶぇぃぶぇぃ💨」
・・・頼朝さんや幕府の中核にいる梶原景時公に殺されちゃいましたけどね。
この人から没収した領地は和田家と千葉家と北条家が分与されているので実際は梶原サン単独犯な訳はなく、頼朝さんの独断でもなく北条家を筆頭に御家人の総意と言うか御家人の要求だった可能性すら有ります。
ですから北条家は上総広常公の暗殺事件の1年間の記録を破棄して残しておらず全てを死んだ梶原さんに責任転嫁していたのでしょうね。北条さんは首謀者の一人でしょう。
そんな訳でドラマの演出では上総サン誅殺を頼朝公主導で演出され何ともやりきれない内容でしたが凄まじい迫力が有りましたね。
鎌倉殿北条宗時鎌倉殿北条義時
開始早々の鎌倉殿の13人は無邪気な愛之助宗時お兄ちゃんが癒しに成り、小四郎君は非モテキャラでイジラレ倒し三谷演出で史実を端折った部分も有りましたがユーモラスな演出も多々有りホームドラマ的要素が見られて、余り史跡巡りとかしない方でも楽しめたんじゃないでしょうか?
とくに「ぶえい!」の下りとかですね。
吾妻鏡では武衛(ぶえい)将軍て頻繁に書かれてるせいで鎌倉殿の13人でネタにされた訳です。
鎌倉殿上総広常鎌倉殿源頼朝
「今日から皆ぶえいだよなぁ、ぶえい!」
・・・この回くらいまでギャグドラマ化してたのが段々とキナ臭くブラッシュUPされて来てドラマの迫力が増してきました。
それが前回のブログでも検証した上総広常公暗殺の話です。

個人的な感想としては史実や地域の伝承に沿ってる部分とそうでもない部分は有ったとしても上総サン辺りから三谷脚本が過去作に無い凄みを増して、比較するのは良くないかもしれませんが既に時代劇として藤沢周作・池波正太郎越え始めてると感じています。
この殺されちゃった上総サンをパッパが凄く頼りにしていたので、パッパは坂東武者達から“上総御曹司(かずさおんぞうし)”と呼ばれていました。実はパッパは実弟で木曽義仲公パッパの源義賢公より格下扱いをされていた風な状況だったのですが上総サンの御蔭でメキメキと頭角を現して行く事に成ったんですね。
その後、鎌倉郡に移住した様です。

——話をパッパの屋敷跡に戻します——

今回の冒頭①で話した通り、NHKの解説では源義朝公の屋敷を大庭家一族のいた高座郡寄りの亀谷(かめがやつ)邸跡の寿福寺だけを紹介していました。
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亀谷山 寿福金剛禅寺
鎌倉五山第三位 通称:寿福寺

この寿福寺は東日本の臨済宗寺院を束ねる鎌倉五山で第三位の寺格が有ります。
鎌倉五山の各自の概略はコンナ感じ・・・

第一位 巨福山 建長護国禅寺
けんちん汁発祥地、太田道灌公もここで学問学んだよ!紅葉メッチャ綺麗。文化財だらけ!
座禅会で本物のけんちん汁食べさせて貰えるよ!
好天なら半蔵坊権現から富士山見える絶景。
半蔵坊権現は天園ハイキングコース入口で横浜市まで山の尾根道の古道歩いて行けるよ~。

建長寺の紅葉⇨https://www.instagram.com/

第二位 瑞鹿山 円覚興聖禅寺
モンゴル軍と戦う事を決めて日本人守った北条時宗公の菩提寺だよ。紅葉メッチャ綺麗。



第三位 亀谷山 寿福金剛禅寺
今回紹介してる元は義朝パッパの御屋敷跡だよ!義朝パッパの正式な菩提寺だった勝長寿院に在った源実朝公の御墓が勝長寿院の荒廃→横須賀市芦名に移転後に寿福寺に移されて来てるよ!
政子サンのお墓も有るよ!
隣の英勝寺は太田道灌公の屋敷跡で東照宮も有るよ!。


第四位 金峰山 浄智寺

室町幕府時代に歴代の関東将軍である鎌倉公方が就任前に必ず滞在した寺院だよ。
緑の景色がとても綺麗な御寺だよ!この御寺の先から鎌倉城砦網遺構の残る登山道に入れるよ!



第五位 稲荷山 浄妙広利禅寺
元は足利家の鎌倉時代の邸宅跡だよ!真言宗の仏教草庵を北条政子サンが臨済宗に改宗して仏様祀ったよ。足利尊氏公の実弟の足利忠義公の墓所も有るよ!茶室で庭園見ながら和菓子食べれるよ!


さて、これ等の鎌倉五山には建長寺や円覚寺と言う臨済宗の大本山も含むのですが、それと京都の南禅寺が別格本山として設置されて臨済宗の寺院組織を管理していました。又この鎌倉五山の住職の任命権は征夷大将軍のみ執行出来た事からも寺格の高さが解るかと思います。
この任命権を鎌倉公方の足利持氏公がクジ引きで将軍に成った凶人将軍足利義教をスッ飛ばして鎌倉府で独自に任命したら鎌倉府と京都の幕府とで足利家の同族間戦争に成っちゃった程でした。
それはに関しては以前、禅林寺の紹介ブログで少し解説してます。
これ⤵

そんな征夷大将軍や鎌倉公坊が関わっていた由緒正しい寿福寺が建立される前に同地には義朝公の亀谷の館が存在しました。
義朝公は鎌倉郡の中でも三浦家の本拠地三浦郡に近い現在の逗子市沼間にも沼濱亭を持っていたので、恐らくどちらが本宅と言うよりは時期によって滞在する頻度が異なり晩年は亀谷に滞在する頻度が多かったと言うのが実情かと思います。
・・・この理由は義朝公の初期に領地の鎌倉郡と大庭家の領地の高座郡大庭御厨(おおばのみくりや)の今の藤沢市と鎌倉市の区界争いの諍(いさか)いが発生していたので、頼朝公は三浦義明公や岡崎義実公の本拠に近い三浦郡寄りの沼濱亭を当初は多用していたものの、大庭家が屈服しドラマに登場しない大庭景親公の実兄で自身の忠臣と成る大庭景義公が大庭家の当主に成ると鎌倉郡の中で高座郡に近い亀谷に住む頻度が高く成ったのかも知れません。
笹竜胆
笹竜胆紋:源氏
三つ引き両紋
三引両紋:三浦氏
三大文字紋
三大文字紋:大庭氏
位置関係を見て見ましょう。
義朝公邸址と城の配置
※クリックして画像拡大して下さい。
沼濱亭は一目瞭然で三浦氏の勢力圏内に所在する事が解りますね。
対して源頼朝公の時代には高座郡と鎌倉郡北部を治めていた大庭氏は、鎌倉ではなく高座郡の大庭城を本拠地に平清盛公政権下では長尾家や梶原家や俣野家等の周辺の一族を傘下に収めていました。
鎌倉郡の現在の鎌倉市街に三浦一族が食い込んできたのは正に、源義朝公の時代の義朝公と三浦氏による大庭家領地紛争によって割譲されているのかも知れませんね。
いずれにせよ大庭家の当主が大庭景義公に成り長尾家や俣野家が従えば亀谷の館に普通に住んでも危険が無く成るので、滞在の頻度が逗子の沼濱亭より鎌倉の亀谷邸の方にシフトして行ったと言う事も有ったかも知れませんね。
CIMG9055
上の写真は米軍池子基地内の池子遺跡群資料館の展示物ですが、逗子市は今でこそ池子が米軍基地が有ったり海水浴の別荘地や観光地的な場所と誤解している人もいますが、実は古墳時代から桜山古墳群と呼ばれる巨大古墳が有ったり、鉄器も生産されており比較的武士の根拠地として適した場所だった歴史も有ります。
織田信長公が政治的な要因で岐阜城と京都を行ったり来たりしてた為に時期によって滞在頻度が異なったのと当然同じ状況が有ったはずです。
・・・因(ちな)みに後述しますが、源頼朝公と義朝公の更に御先祖の源頼義公の館が大蔵幕府の位置に有りました。
下の地図は江戸時代の地形が未だ残る明治初期に帝国陸軍によって測量された“迅速測図”と言うもので農研機構さんがリリースしてるGoogleEarthに表示する事が出来るサービスです。
御家人の配置 久良岐のよし
※画像をクリックして拡大して見て下さい。
上の図は源義朝公の頃の御家人の配置図ですが、大蔵幕府の位置が昔の源頼義公の屋敷跡です。
千葉家は何箇所も屋敷が有りますが、これが時代の変遷を表しています。
現在では浄土宗の光明寺塔頭の蓮乗院は元は蓮乗寺と言う真言宗で千葉常胤公の菩提寺だった事が伝わり常胤公の持仏を祀っています。
蓮乗院が光明寺より先に当地に存在し後に浄土宗大本山が出来る過程で宗旨替えをして以後は光明寺塔頭寺院として機能していました。
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天照山 蓮乗院 

この蓮乗院や光明寺の直ぐ横の弁谷と呼ばれる谷戸に初期の千葉家の邸宅が有りました。
戦国時代には千葉家分家子孫の下総国印旛郡臼井城主の臼居家が外祖父に城の経営権を乗っ取られると鎌倉に逃げて来て、蓮乗院の前の道から伸びる小町大路の大町に移住し子孫は小田原北条家臣と成り、更に主家の北条家が豊臣秀吉に改易されてしまった際は士分を捨て名主に成り旧鎌倉郡野庭郷の野庭城一帯を北鎌倉の女性守護の縁切り寺として有名な東慶寺に寄進する形で開発権を得て今も野庭一帯と大町に其々の御子孫が健在でらっしゃいます。

もう一つ、扇谷にも千葉家の屋敷地が有ります。
扇谷の薬王寺は近くに千葉家の屋敷が有ったと伝承し、元は夜光寺と言う寺院で、その向かい側の谷戸には沢山の矢倉が存在しますが、この範囲が広大な旧境内と考えられ現在は私有地に成っている崖沿いに立派な矢倉が群在します。
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大乗山 薬王寺 
薬王寺も千葉家の宗旨と同じ様に元々の夜光寺の時代は真言宗でしたが、千葉家が日蓮宗に改宗した様にこちらも鎌倉時代中頃から日蓮宗に改宗しています。
江戸時代には駿河大納言徳川忠長公(織田信長公の妹の孫)の相模国における菩提寺として忠長公の奥方の織田昌子(織田信長公の孫)様によって大寺院として再興されました。更に伊予松山城主の蒲生忠知公の奥方の松壽院殿と御息女の梅嶺院殿の供養塔も存在し、徳川家と蒲生家の菩提寺の一つとして現在も存続しています。
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相馬次郎師常矢倉
この薬王寺の更に直ぐ東隣の谷戸もが千葉家の鎌倉幕府時代の屋敷跡と伝わり千葉常胤公の御子息の相馬師常公の矢倉が有ります。
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その背後の私有地山上には材木座の蓮乗院から移されたと思われる千葉常胤公の宝輪塔を祀る矢倉も現存しています。
材木座だけでなく扇谷に千葉家が屋敷を持ったのは正に源義朝公が扇谷に亀谷邸を設けたタイミングか、頼朝公が大蔵幕府を開いたタイミングと地域性から推測出来ますね。
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相馬天王(現:八坂神社) 
相馬家は千葉家の分家なので鎌倉時代には独自の屋敷を構えたらしく、それが小町大路の源義朝公亀谷邸址の寿福寺の隣に在る相馬邸址の相馬天王社と呼ばれた現在の八坂神社です。
材木座に話しを戻すと来迎寺は今は時宗ですが、元々山の上に観音堂が有り三浦義明公と多々良重春公と言う三浦家の頭領と一門武将の供養の為に源頼朝公が真言宗の能蔵寺として開きました。
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随我山 能蔵院 来迎寺 
三浦氏の本拠地の衣笠城近く大矢部の三浦義明邸址にも源頼朝公が義明公の菩提寺として満昌寺を開いている事からも状況的に三浦義明公の世代の鎌倉での三浦邸は他の御家人同様に先に発展していた小町大路(大町~材木座)側に存在し、その場所が来迎寺=能蔵寺の所在地だと比定出来るでしょう。
境内には三浦家臣団の宝輪塔が無数に現存し供養されています。
佐竹邸についても元々佐竹家の祖先の源義光公御本人の館だった事が伝わり材木座から少し北に行った大町の中でも昔は名越と呼ばた地域に所在しました。
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随我山 能蔵院 来迎寺 
鎌倉時代にもここは源義光公の直系子孫の佐竹氏が屋敷地として受け継ぎますが、佐竹義盛公に養子に入った関東管領上杉家の佐竹義憲公と佐竹家直系分家の入山佐竹家との間で争いが起きて佐竹家の殿様達が鎌倉に常時詰めなく成ると隠居した佐竹義盛公によって佐竹邸址には多福寺と言う寺院が開かれ、一度廃絶後に日蓮宗の多福山一乗院大宝寺として再興され今に至ります。
この様に千葉家一つとっても各武家の屋敷地も時代によって場所が変遷したり、三浦家や佐竹家の様に居館跡は寺院に変わったりしている訳ですが、これは源義朝公邸址の寿福寺や法勝寺の話しともそのまんま同じ当時の文化ですね。
もう一度鎌倉市街の迅速測図に戻りましょう。
御家人の配置 久良岐のよし
地図に現在の“鶴岡八幡宮の一ノ鳥居”、“元鶴岡八幡宮”、“荒居閻魔堂跡”が表示されていますよね?
義朝パッパと源頼朝公の御先祖の源頼義公の時代、実はこの一ノ鳥居~元鶴岡八幡宮~荒居閻魔堂の間には入江が存在しました。それ故(ゆえ)に元鶴岡八幡宮の別称が由比若宮で由比ヶ浜から海が繋がっていた名残が社名に残っている訳ですね。
後にこの地域は入江(頼義公時代)⇒湿地と砂丘(義朝公時代)⇒陸(鎌倉時代)と変化して材木座と呼ばれる様に成りました。恐らく完全に陸地化するには源頼朝公等が幕府を開いてから干拓や埋立で湿地と砂丘の地盤改良を行ったのかも知れませんね。
明治時代と鎌倉時代は全く地形が異なりますが、鎌倉時代と平安時代も大分と地形が違ったんですね。
迅速測図を見てみたいけれどGoogleEarthが良く解らない方は下のリンクからWeb版を御覧下さい。


まぁ、そんな義朝パッパの御屋敷に関しては2ヵ所存在したのですがドラマの中では大体の内容を端折(はしょ)って文字に起こすとコンナ感じの会話が有りました・・・
鎌倉殿三浦岡崎義実鎌倉殿北条義時
「頼朝公の御父君の義朝公の亀谷(かめがやつ)の館に御堂建てて義朝公の菩提を弔ってます」
「義朝公の住んでた亀谷に幕府を設置する様に取り次いで下さい」
鎌倉殿北条義時鎌倉殿三浦岡崎義実
「承(うけたまわ)りました~、伝えときます~♨」
鎌倉殿北条義時鎌倉殿源頼朝
「岡崎さんが御父上に倣(なら)って亀谷に幕府開きませんって言ってんですけど」
「どうしますアニキ(義兄)♂?」
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿北条義時
「家人(けにん)の言う事なんか聞いて一々決めてらんねぇ~よ(# ゚Д゚)ノシ!」
 (・・・配下に政治のイニシアティブ取らせる訳無ぇ~だろ!・・・)

——このやりとり史実では反対の展開です——

訂正すると史実でははコンナ感じ・・・
鎌倉殿源頼朝
「あのさぁ~皆聞いて!」
「僕はパッパを尊敬してるんだ・・・」
「パッパのお家が有った亀谷に僕も家(自宅兼幕府の役所)を作るよ!」
鎌倉殿上総広常鎌倉殿千葉常胤鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿和田義盛
「はぁ?ぶえい坊ちゃん何言ってんのかな?」
「アンナ狭い場所に皆の屋敷確保出来ないよねぇ~却下!」
「ぶえいのパッパの御先祖の一番エライ人の屋敷在った場所の方が広いでちゅよ~?」
「京都育ちの、ぶえい坊ちゃん何も知らないんでちゅね~。」
鎌倉殿北条義時鎌倉殿源頼朝小
「義兄さん、諦めも肝心じゃん?」
  (主導権もへったくれも鼻から無いねぇ~なオイ)  
  (俺等は家臣じゃ無ぇ~よ出資者で賛同者なの!)
  (アンタは只の神輿だよ黙って担がれてろっての・・・)
鎌倉殿源頼朝小
「・・・皆、流石に知恵が利くね、頼もしい!」
「解ったよ、義実がパッパの為に亀谷に作ってくれた御寺を修理して大切にしよう!」
「幕府は御先祖の住んでた大蔵が広いからそこに作ろう!」
  (コイツ等、組織理解して無いから絶対に解らせが必要だな)
  (ちょっとガクブルさせて上下関係ちゃんとしとかないと幕府簡単にブッ壊れんぞコレ。)
まぁ~こんな感じの流れが史実で、源義朝公の邸宅跡の亀谷寺(今の金剛寿福禅寺、通称寿福寺の前身)の在る亀谷に政府を置きたいと言い出したのは頼朝さんで岡崎義実公が父親の供養をしてくれていた事には感謝していたんですね。
この出来事が吾妻鏡の治承四年十月七日の出来事としてザックリ書いて有ります。
コンナ感じ⤵

【吾妻鏡(吉川本)】
七日、丙戌、先奉遥拝鶴岡八幡宮給、次覧臨故左典厩之亀谷御𦾔跡給、即點當所、可被建御亭之由、雖有其沙汰、地形非廣、又岡崎平四郎義實、爲奉訪彼歿後、建一梵宇、仍被停其儀云々・・・

——口語訳で意訳するとこんな感じ——
鎌倉殿源頼朝小
陰暦1180年9月07日に頼朝公は❝元❞鶴岡八幡宮を遠くから拝んだよ~
そん次に今は亡き義朝パッパの亀谷にある旧御屋敷を見に行かれたんだけどさ~
その建ってた所に御自分の邸宅を作るって・・・そうするって事だったんだけど~
そこ土地が広くねぇ~のよ!
鎌倉殿三浦岡崎義実鎌倉殿源義朝
「成仏して下され」「沼濱に魂いるよ」
そんでもって三浦氏の岡崎の爺ちゃんがソコに御寺作って義朝パッパの供養をしてくれてたりした。
鎌倉殿源頼朝小
んだからソレ見て頼朝公が「そんなら御寺壊すなしぃ~オマエ等ぁ~」って言いだして・・・etc

——単語を解説すると更に面白い事も解ります——

丙戌
[ひのえいぬ=長月(ながつき)=陰暦9月=太陽暦9月下旬~11月初旬]
(たてまつる=される/なさる)
遥拝(ようはい=遠くから拝む)
鶴岡八幡宮
この話は長月07日。鶴岡八幡宮の前身の由比若宮つまり元鶴岡八幡宮から現在の境内地の小林郷北山に御心霊を遷座したのは12日の事。
当時は未だ現在地の小林郷の鶴岡八幡宮は存在して無いので名称も異なる。
建久ニ年(1191年)に火災による社殿焼失を機に改めて大規模な社殿が造営されている。
由比若宮/元鶴岡八幡宮は大庭景義公の所領の懐島、現在の茅ヶ崎市の鶴嶺八幡宮の御分霊を頼朝公の御先祖の源頼義公が勧進して開かれている。この鶴嶺八幡宮の御神霊は源頼義公が京都の石清水八幡宮護国寺から御分霊を勧進し開いていて、元鶴岡八幡宮の元宮なので本元宮と呼ばれていた。
この事実を知らない鶴岡八幡宮職員も今では多い。
頼朝公が元鶴岡八幡宮から北山に遷宮した社殿と御神体が焼失した為に改めて京都の石清水八幡宮護国寺から御分霊を勧進しており、頼朝公が長月7日に遥拝したのは材木座の元鶴岡八幡宮を指し小林郷北山の今の位置の八幡宮では無いから鶴岡八幡宮ではない。
よって吾妻鏡の筆者は本来、由比若宮/元鶴岡八幡宮とすべきだったので完全に誤記。
ついでに言うと石清水八幡宮護国寺と同じく鶴岡八幡宮は明治時代まで大規模な寺院施設が併設されており正式名称は鶴岡八幡宮寺であり、扁額も明治時代の廃仏毀釈まで鶴岡八幡宮寺と書いて有った。
(たまわる)
(らんじる=見る)
(いどむ)
臨覧(りんらん=視察)
※吉川本活版印刷では“覧臨”と掲載しているがこれは恐らく誤字、臨覧で単語として成立する。
左典厩[(さてんきゅう=左馬頭)=(左馬頭=源義朝公)]
亀谷(かめがやつ=鎌倉駅の西北一帯、扇谷の一部)
御𦾔跡(ごきゅうせき=御旧跡)=(御𦾔跡=旧邸宅)
(すなわち)
(たてる)
當所(とうしょ=当所)
(べき/べく/べし/よし)
(~らるる/られる)
可+被(~らるる+べく/べき/べし)
御亭(ごてい=御邸=邸宅=御館)
※御亭が転化して館主が御主人/御亭主と成り男尊女卑年功序列思想の儒教導入後の価値観で既婚男性の人称代名詞の御亭主/御主人が生まれた。和製漢字単語。
之由(~のよし)
(その/それ)
沙汰(さた=命令)
非廣(非広=ひろくあらず/ひろからず)
(~のため/~なす/なる/する/つくる)
歿(ぼつ/しぬ)
梵宇(ぼんう=仏堂)
(なお/しきり/よる/よって)
被停(とめらるる/とめられる) 
其儀(そのぎ=そのことを)
云々(うんぬん=etc)

・・・どうでしょうか?
書いてある鶴岡八幡宮と言う名前の記載が、全く当時のリアルタイムでは無く大分と後世の北条家の人物が書いているせいで整合性がなく、源頼朝公が元鶴岡八幡宮の話である事を理解していない事も解りますね~。
権威の有る人の著書だろうがなんだろうが、時代問わず出版物鵜呑みにしたら痛い目見るのは自分なのが解りますね。
吾妻鏡にしても、この通り原本や写本じゃない明治~昭和に出版された吾妻鏡活版印刷版ですら間違いが有る訳です。
前例主義と思い込みと先入観を捨てて危険個所と改善点を探すって大切ですよね。
小生のブログの読者は小生が口酸っぱく「コピペいかんよ~」と言ってる意味が、この吾妻鏡のほんの僅かな一文切り抜きだけでも落とし穴だらけで、出版社か吾妻鏡筆者の誤記だらけなのがお解かり頂けたでしょうか?
小生は校閲せずに先にブログ記事リリースして、後で自分で読みながら誤字脱字を修正して行くタイプなのですが、書籍の場合は修正できず垂れ流しですから責任重大ですよね。
まぁ~、そんな他人のミスは放っておいて肝心の文章の意味を読むと内容的には、どうやら亀谷の邸址に岡崎さんが亡くなった源頼朝公のお父さんの義朝さん供養の為に既に御寺を建てた御寺が有って、その場所がそもそも義朝さんの御屋敷だったと言うのが解りましたね~。
そこが今では寿福寺に成っている事は先に解説しましたよね?
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寿福寺の参道は長く、雰囲気が有ります。
残念な事に観光寺としては機能が年末年始に限定されているので、御本堂を直に拝む事は出来ず門の前から参拝するだけです。
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御寺と神社を参拝して廻って御朱印300件近く拝受してる中級御朱印マニアでもある歴史ヲタの小生の個人的意見としては、建物や施設を劣化させない一番の手段は人が活用し続ける事だと経験則で思っており参拝させないのは逆に境内の景観の保存手段としては逆効果だと思います。
しかし寿福寺には理由が有って数年前までご高齢の御住職が体調が優れず御朱印すら拝受するのは困難でした。
御朱印に関しては現在は御嬢さんが書置きの御朱印で対応して下さり拝受できます。
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余談ですが小生は鎌倉五山の寺院を1位~5位まで順番に拝受してみたり工夫してみました。
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御朱印の話から亀谷邸の話に戻すと、岡崎義実公が源頼朝公の父君のパッパの御屋敷の後に義朝パッパ供養の為に建てた亀谷寺と言ったらしい御寺の有った場所に、正治二年(1200年)北条政子様が寺院の宗旨を臨済宗に改宗させ大規模な寺院建築を造営しました。
岡崎義実公の若かった時代には未だ臨済宗は鎌倉では流行おらず、修験道や真言宗の密教を崇拝してた源氏の影響で真言宗全盛でしたから元は亀谷寺も真言宗だったかも知れませんね。

NHKは鎌倉の寿福寺だけを源義朝邸として解説していましたが、あくまでソレは大蔵幕府設立の回の話だったので、幕府の候補地として解説され同地が源義朝公邸址であると紹介したのでしょう。
実際には旧鎌倉郡域の逗子市沼間にもう1ヵ所、吾妻鏡に登場する沼濱亭が存在したので、そちらも合せて解説してあげていたらより親切だったかも知れませんね~?

さて、今回は吾妻鏡の記載の話をして、源義朝パッパの邸址は2ヵ所あるよ~とNHKの解説を捕捉して見ましたが、もし未だ吾妻鏡を読んだことが無い方は、誤字も多そうですが活版印刷で楷書の文字で起こされた吾妻鏡が国立国会図書館のデジタルコレクションで読む事が出来ます。
PCなら無料でPDF版ダウンロード出来ますし、ダウンロードしなくてもそのまま国立国会図書館のプラットホームでWeb版を読めるので興味有る人は下のリンクから読んで見て下さい。





源平盛衰記も有るのですが、こちらはWeb版からプリントアウトは出来るのですがPDFデータをダウンロードする事は出来ません。



このダウンロード出来るモノと出来ない物の匙加減がちょっと意味わからないですけどね(笑)。

皆さん、機会が有れば余り有名では無いけれど歴史偉人が関わったパワースポット巡りをしてみては如何でしょうか?
次回は冒頭の指摘②③で挙げた逗子市側の沼濱亭の地形と伝承を皆さんと観察してみたいと思います。
では皆さん、又、次の記事で御会いしましょう~♪
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鎌倉殿の13人、04月17日の上総公暗殺の回、御家人の反応はどこかのO塚家具とかO戸屋とかイニシャルがOの現代の会社でも創業家追い出しでたまにニュースに成ってたのと同じロジックでしたね。
今回先ずは史実の話はしないとして、当初は上総広常公が頼朝公陣営からの埋伏の毒として御家人に送り込まれている筈でした。
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿源阿野全成鎌倉殿源範頼鎌倉殿源義高

鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条実衣2鎌倉殿北条義時2鎌倉殿比企能員

鎌倉殿安達盛長鎌倉殿大江広元鎌倉殿梶原景時鎌倉殿上総広常
        VS
鎌倉殿千葉常胤鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿三浦義村鎌倉殿三浦岡崎義実

鎌倉殿和田義盛鎌倉殿畠山重忠鎌倉殿土肥実平
最近だとO戸屋創業家vsCロワイドとかO塚家具の創業家vsKみこサン所みたいな感じですね~。
いつの時代も人間て進歩して無いんですね~。


この❝ひろゆき❞サンが言ってる人材処遇の話は歴史オタクなら結構知っていて私もちょくちょく人の種別で話すのですが、O塚家具の話のKみこサンの話でまさか出て来ると思いませんでした。
皆で仲良くする事なんか出来ないのかね?
人間のドロドロめんどくさっ!って思ってるので宝くじ当たったら三浦の休耕地買って家建てて毎日釣りと畑仕事して隠棲生活するか、学生に戻って奈良大学に入学して千田先生の弟子に成りたい久良岐のよし・・・
鎌倉殿源頼朝小鎌倉殿北条時政小
   ⇧将来邪魔に成る関係性 ⇧
鎌倉殿北条義時小鎌倉殿三浦義村小
創業者が最初は利用していたはずの幹部社員にいつのまにか依存し過ぎて業務を丸投げしてる内に、部下達が担ぐ神輿別にコレじゃなくても良いよね?と気が付いてしまう。
しかも上の状態から更にドラマでは上総広常公と梶原景時公が御家人側に埋伏の毒として送り込まれてグチャグチャしたダメな中小企業の主導権争いみたいなゲスい状態に成ってました。
鎌倉殿源頼朝
「んじゃ、任せたよ!」
     ⇩
「解りましたぁ~♪」
鎌倉殿梶原景時鎌倉殿上総広常
関東平野と言う限られた土地のピザ🍕の再分配が必要だったんですかねぇ~。
結果の良し悪しは別にして、ドラマではこの時に上総広常公は既に殺される運命だった事に成っています。

余談ですが、この上総広常公の居城は千葉県の一之宮町、高藤山城と伝わります。
城の周りには神話の舞台の鵜羽神社と玉前神社が存在し、そちらは以前解説記事を書いた事が有りますので御興味が有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。

いつの時代、どこの国でも同じ人間の成長しない限界。
能力が衰えると人は防衛本能が強く成り猜疑心が強く成ってしまったり攻撃的になってしまうそうです。
それは、この二人も御互いにそうだったかも知れません。
織田信長明智光秀公
前線に出なくなった大将は部下とのパワーゲームに成ってしまい部下粛清か頭領が隠居して代替わりしてリフレッシュするか部下の下剋上や外部の乗っ取りが待っている。
上司や部下の感情や悩みが共感出来なく成っちゃったり、傍にいないと信頼関係も薄れてきちゃうのよね、人間様は。
まぁ~織田家の本能寺の変に関しては個人的には明智光秀個人の野心とか感情も有った上で当時の近衛前久も足利義昭も細川幽斎も本願寺も堺町衆も全てが関わってたと思いますが。
個人の器にもよるのだけど目標(ビジョン)が低く小さい人程、仲間を仲間と意識できなくなるのが早く自己保身や他人を陥れる事を始めるみたいですね。
ピザ🍕の分配にすると自分の食べる分を多くするには大きく分けて2つの方法が有ります。
①美味しいピザの生産性を皆で協力して向上させて少しでも増やすか1つのピザを大きくして皆で分ける量自体を増やす。
②今あるピザ🍕を少しでも多く食べたいから他人の取り分を横取りするか、自分以外の人間を消す。
決められた利益のピザ🍕を少しでも多く獲りたいと思う②の目標が小さく利己的な人がいると、ピザ🍕全体の出来栄えを考えて作る前に作った後で独占する為に人を陥れたり排除しようとするんですね。
この人⤵みたいにね。
鎌倉殿源義経
「義円、戦ガンバ!」 
(邪魔だから死ね・・・) 
    ⇕
「兄上の為に頑張る!」
(義経あんがとっ!)
鎌倉殿源義円
義経に⤴騙されて死んだ人。
世間では協調性と言う簡単な言葉で片付けるけれど、完成するピザを100点にしたいと思ってるリーダーや優秀な部下がいて、60点の能力しかない人間が多いと60点のピザで終わらせない人間に対して自分達が出来ない事をやるのは「協調性が無いよオマエ」と負の作用をする事もあるので難しいですね。
小生現実社会でこんな事が有りました。
自分が営業職なのに生産管理支援をやっていた時に生産効率を改善して1時間の生産数を例えば100個作れるようにしたんですね、すると生産管理の管理職からこう言われたんです・・・
「報告する生産数、1時間当たり80個で書いておいてね」
「皆でそういう事にしてるから」
これね~、会社の経営者が実力主義で査定したいと思ってても、皆が同じ様にお給料を貰えれば良いと言う負の協調性が働いてる会社なんですよね~、昔の会社の話だから言いますけど「クソ」ですよね。
こう言う事も有って人間は分かり合えないんだと思います。
鎌倉殿源頼朝
「上総56してね~」
    ⇩
「えぇっ・・・ラジャっ!」    
鎌倉殿梶原景時
「双六やりませんか?」
(皆(自分)の為に4ね)
    ⇩
「おっ強いね梶原君」
鎌倉殿上総広常
双六好きで⤴殺されちゃう。
ドラマを見ても見なくても、結果は皆さん御存知の通り。
今回の上総サンの暗殺動機に関してはリーダーが2人いるみたいな状態に成っちゃったからとか諸説有るので話すだけ無駄として、三谷幸喜本人がTV業界で政治ゲームを生きてるだけあり説得力ある話に成っていて良かったと思います。
ただ個人的には鎌倉の伝承を聞いて回ったり自分で古道を歩いて回ってる小生としては地理的に納得いかないのは殺害場所です。

鎌倉殿の13人の脚本では京都人が伝聞で書いた愚管抄の大蔵幕府が暗殺場所として記載が採用されていました。
大蔵幕府は鶴岡八幡宮の東側の清泉小学校の辺りに~横浜国大付属中の手前くらいの辺りに存在しました。
CIMG5846
大蔵幕府𦾔跡
しかも現代の道で3kmも先の上総邸で刀洗って帰って来るとか余り現実的では無く意味不明ですよねぇ~?
当時の京都人が伝言ゲームで書いた愚管抄を無視すると鎌倉の伝承では十二所、明王院裏の谷戸の梶原景時邸に招いて双六をして暗殺した説と上総広常邸で双六をした殺害した説の二つが有ります。
これ恐らく2つの伝承が1つでセットに成っていて正解だと思います。
上総広常公の暗殺場所・・・梶原邸
上総家臣団の粛清場所・・・上総邸
相手の家に行って暗殺をすると言うのは余り現実的では有りませんねぇ~?
梶原景時公が単身で上総邸に乗り込んだら殺す事は出来ても先ず生きて帰れないでしょうし、これから逃げるのに上総邸の前の川で悠長(ゆうちょう)に太刀を洗ってる余裕は無いでしょう。
位置関係を見て見ましょう。
※クリック⤵して拡大して見て下さい。
大蔵幕府~上総邸
現実的な事を考えると大蔵幕府で殺害してわざわざ相手の家まで3km歩いて行って太刀を洗う事は無いので愚管抄は伝聞の間違いでしょう。
相手の家に乗り込んでも御覧の通り上総邸は山深く谷の1本道、梶原景時公が単身上総邸に乗り込んで暗殺を行ったとしても、上総家の家人が血眼(ちまなこ)に成って刀や弓を手にして追いかけて来るので自分の生存率自体が下がってしまいますね。
なので小生は現実的に梶原邸に呼び出して接待して飲みながら双六を行って殺害⇨その後に十二所の上総邸(後に朝比奈峠切通の入口に成る地域)へ武装した兵士を引き連れて襲撃し上総家の人間に対する掃討戦が行われたと考えるのが自然だと考えています。
そうすれば当然ながら上総邸の横の滑川の三郎の滝で梶原景時公と彼が率いた兵卒は血濡れた太刀や衣類と体の汚れを行水して落としたでしょう。十二所と呼ばれる地域の明王院と言う格の高い真言宗寺院に正対して左手に梶原景時公の邸宅が有ったと伝わり、梶原井戸と言う井戸が現存しています。

仮に梶原単独犯で大蔵幕府で暗殺を行ったとなると問題は雪ノ下地区~上総邸の在る十二所まで上総家の郎党を掃討しに行く訳ですから、数十人の武装兵を連れて行くので行軍する途上には畠山邸~足利邸~梶原邸~大江邸~上総邸と御家人の邸宅が並び守衛が立っている訳です。
物々しい数十人の武装兵の集団が大蔵幕府から3kmも上総邸まで歩けば直ぐに騒ぎに成る訳です。
2万の兵を束ねる上総邸の奉公人の人数に対して、武装しても梶原家の単独犯で兵士を引きて襲撃したとしても簡単では無いでしょう。しかし御家人やその家臣達が行軍を目撃した記録が残っていない。と、言うか北条家が編纂した吾妻鏡では上総広常公暗殺の年の記録が丸っと抜け落ちています。
でも上総家では生存者は逮捕されている事は解っているんですよ?逮捕者がいるなら普通に掃討戦が行われている訳です。
この行軍ルートにかんしては当時は真っ直ぐ3km便利に直進とは行きませんでした。
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歌之橋
当時は未だ渋川家によって源実朝公の時代に架橋された歌之橋は存在していませんし、朝比奈切通も開削されていませんでした。
太刀洗の方に行く道は十二所~朝比奈に抜ける熊野神社の古道抜けて鎌倉の外港として機能した六浦(昭和の埋め立てで消滅した湾)を目指すルートでした。上総家は房総半島が本拠地なので海に行き易い一番熊野神社に行き易く尚且つ比較的平坦な道で大蔵幕府に出仕出来る当時のセレブ住宅街の一番奥に居館を構えていた事が解ります。
大蔵幕府~上総邸2
下手すると当初は鎌倉の港は由比ヶ浜だけで良いと考えられていた所を上総家が六浦~熊野神社~大刀洗~浄妙寺地区のルートを開拓して六浦港の使用権を上総家が独占していたのだとしたら、その六浦の利用権共有を求める鎌倉御家人達や幕府との軋轢を生んだ一端何て説も有りかも知れませんねぇ~。
なんせ源実朝公が造成した築地(埋め立て地)港の和賀江島の使用を巡っても出入り口一つで裁判が起こされていた程なので港の利用権と言うのは大きな権益な訳です。

和賀江島は今では港の機能は失われ景勝地として地元民や観光客に広く愛される場所ですが、何の因果か鎌倉幕府にとって重要だった六浦も昭和に埋め立てられ消滅し港としての歴史を閉じました。
六浦港を上総家が支配していたとすれば後に千葉家が六浦に勢力を持っていた事にも説明が着きます。
港に通じる朝比奈切通と切通開削以前の熊野神社の古道を押える位置に上総家の邸宅が陣取っていますが、この道は室町時代にも重要だったので鎌倉市街地側で朝比奈切通の本来の道筋だった場所に存在する時宗の岩蔵山光触寺は、この古街道を往来する製塩業の商人達に信仰され御地蔵様に塩を備える風習が残っている他、室町時代の関東を支配する将軍だった鎌倉公方足利持氏公によって御本尊の御厨子が寄進されていたりします。
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岩蔵山 光触寺(こうそくじ)
時宗の開祖の一遍上人と御弟子サン達は交通の要所の出入口にある御堂や荒廃した寺院を復興して布教拠点化していた事が各寺院の場所と地理から解るので、この光触寺は往来する人々に休憩場所として提供されつつ布教の拠点にも成っていたのでしょう。
六浦の港は戦国時代の北条所領役帳に北条家に亡命し家臣化した上総国の大名真里谷武田家の所領として登場します。

武田殿
百廿七貫文 六浦木曽分
 自前々役無之 但御人数者可有其改

自前々役無之但御人数者可有其改の部分は現代口語訳にするとこんな感じです・・・
「前々から兵役は免除してたんだけど~人揃えて貰う事にルール変えっからヨロ~♪(亡命して来た盟友扱い止めるから君は家臣てことぉ~!)」
・・・みたいな感じです。この地名が木曽分と言うのは恐らく上総家が六浦を占有していたならが取り上げられた後、千葉家や木曽義高公へ再分配された名残りが地名の「木曽分」として残っているのでしょう。
鎌倉殿源義高鎌倉殿千葉常胤
木曽源氏の御曹司だった源義高公は誅殺されてしまい領地を引継ぐ人はいなかった訳ですが、一方で千葉家は六浦の権益を鎌倉時代にも維持しており、これが日蓮聖人の船中問答の舞台の一つである六浦山上行寺を千葉家臣富木胤継入道常忍公が日蓮さんと船に同乗して房総半島から任地の六浦に戻る際に教化されて真言宗から日蓮サンの法華経信仰に改宗し、入道号を日常と改めて市川市に在る日蓮宗大本山の中山法華経寺の前身と成った奥院の法華寺を自宅に開いた事が知られています。
木曽分の他にも鎌倉時代の御家人の所領の名残と思われる場所は鎌倉幕府設立から約400年も経過している1560年頃に検地をした北条所領役帳他に散見出来ます。

宗甫
八貫五百文 神奈川斉藤分

この宗甫は間宮宗甫と言う人物で北条氏康公の奏者(秘書)を務めた人物です。他に横須賀市の西浦賀にも所領を持っていて子孫は江戸時代に三ツ沢壇林と呼ばれ学問所化していた法華宗の豊顕寺の檀家に多く残っています。
豊顕寺について興味の有る方は以下のリンクの記事を御覧下さい。

戦国時代の間宮宗甫の所領の一つとして登場する神奈川区斎藤分町ですが、斉藤と言えば元は木曽の源義仲公の父の源義賢公の忠臣だった家系ですが他にも箱根駅伝で有名な戸塚区不動坂には鎌倉幕府滅亡前後に斉藤家の所領に成っていた様でして大塔宮護良親王が殺害された際に妻女ひなつる姫と侍女が斉藤家に助けを求めて逃げて来た伝承が有ります。

保土ヶ谷区に今井兼平の領地だったとされる今井城址も寺院化と宅地化されて曲輪一つしか現存しませんが今井の地名も残っています。
巴御前も降伏して和田義盛公に継室として嫁ぎ三浦半島の三浦市初声和田に存在した和田城で余生を過ごしたと神奈川県では伝承します。

実は通説と異なり木曽源氏の家臣団は木曽義仲公の滅亡後に巴御前を含めて悉(ことごと)く降伏し幕府に帰順して源頼朝公の家臣に成っていた様です。
鎌倉殿和田義盛鎌倉殿巴御前
和田義盛公も和田合戦で滅亡したとされていますが実際は鎌倉時代には北条家の所領だった駿河国に室町時代に今川家重臣には三浦、由比、朝比奈と和田家や三浦一族所縁の苗字が多く登場します。
更に横浜市港北区の大倉山~太尾見晴の丘の大曾根城の麓にある長光寺は木曽源氏所縁の御寺として知れています。
鎌倉殿木曽義仲
この様に木曽源氏旧臣達は実際には義仲公の討死後には源頼朝公に取り立てられ港や陸路の要衝を押える場所に所領を得ていた状況証拠が地名や社寺の伝承に残っていたりします。
これらの場所は若(も)しかしたら、一部は源義高公の祖父に当たる木曽源氏の家祖の源義賢公や上総家の治めたと思われる六浦の様な場所を、源頼朝公によって木曽源氏滅亡後に木曽源氏旧臣や千葉家に再分配されているのかも知れませんね。
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話しを鎌倉時代の上総家に戻すと、上総広常公の御屋敷は六浦と鎌倉の往来に便利だった十二所の中の太刀洗いと呼ばれる地域に所在し、鎌倉市街地側から行くと三郎の滝の手前辺りと伝わります。
大蔵幕府~太刀洗に至るには、当時は二階堂川を避けて二階堂地区永福寺方面を経由して山を越えて梶原邸の方に出るか、滑川の南岸を通過し大江邸を通過し少し奥の光触寺の前を通って川沿いに十二所太刀洗の上総邸に行くルートしかありません。
山越えで梶原邸に戻るルートなら暗殺し汚れた太刀や服は自宅で洗濯するでしょう(笑)?
滑川南岸を行くなら梶原邸に戻るまでに遠回りになり源氏の菩提寺だった勝長寿院の僧侶達や北条家や大江家の家人や御家人本人に目撃されるか騒ぎに成るでしょう?でも何にも記録が無いんです。
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大江広元邸址
オカシイですよねぇ~?
わざわざ自宅をスルーして単独で上総邸に乗り込む筈も無ければ殺した相手の家の前で刀洗って帰って来る事も無い訳です。
なので梶原単独犯は成立しません。
普通に考えて彼の単独犯だとして畠山、足利、北条、大江が梶原家の軍勢を黙って通過させるでしょうか?
いずれにしても大江さんと言う幕臣の重鎮の家が最終的に有るのですが梶原公による単独犯なら上総公暗殺の事後の上総家の家人による山狩り状態で大騒ぎに成っている描写も無い。
逆に最初から軍勢で攻めても双六やる伝承は残らないし、そもそも騒ぎを大江家の人間だけなく途中の武将の家人も見聞きしていないのはオカシイ。
大江邸での記録が無く素通り出来たならそれはもう幕府公認の活動でしょう。
もう一つクッソ遠回りのルートで大町方面小町大路から名越に向かい北条家の名越邸の下の釈迦堂切通や逗子ハイライドに有った巡礼道(三浦道)を通過する経路が有ります。
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釈迦堂切通
公認ならば梶原単独にやらせる訳が無い、と言うか大軍勢を領国に抱える上総家家臣団を絶対に討ち漏らす事は許されないので、源頼朝公や北条家が加担してない訳が無いでしょう。
そこ等辺りが吾妻鏡の抜け落ちた1年の記録で、あくまで梶原家に罪を着せた後世の偽書の要素が吾妻鏡には幾つか有ると言う事でしょうし、愚管抄は詳しく知らない御家人の糟屋有季公の更に子供からの伝聞を書いたに過ぎない伝言ゲームの結果と言う事なのかも知れませんね。
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飯盛山 明王院 寛喜寺梶原景時公が通説通り暗殺を明王院の付近に有った梶原邸で行い、独自に私兵を率いて上総邸襲撃も出来た可能性が高いので梶原家の単独犯なら普通に伝承が一番整合性が高いでしょう。
相手の多さに相当苦労すると思いますが奇襲で相手は普段着、自分達は甲冑着込んでる訳ですから勝機は十分ですよね。
より確実なのは暗殺と掃討を分業して北条家と大江家が手っ取り早く幕府の兵を率いて上総邸を襲撃する方法です。
鎌倉殿梶原景時
 暗殺の実行犯⤴
 掃討戦実行犯⤵
鎌倉殿北条義時2鎌倉殿大江広元
この構図が一番現実的だと思います。
暗殺と掃討を確実にするには有力御家人に共犯がいるなら役割を分業したら良いのです。
梶原サンが暗殺している内に、幕府の中枢の人間であり尚且つ上総邸を襲撃しても他の御家人に目撃されない場所に住んでる二人が手勢を率いて上総邸に駐在している上総家親族と家臣団を襲撃して抵抗する者は虐殺し、降伏した者の中で重要では無い者は追放するのが一番効率的で失敗も少ないでしょう。
吾妻鏡では上総サン暗殺の年の記録を削除しているので、大河ドラマとは正反対で北条家が共犯か主導していたと考えるのが自然ではないでしょうか。
何時の時代も官僚や政治家にありそうな証拠隠蔽ですよね。
鎌倉時代に限らず江戸時代に成っても幕府が寺社に発給した領地保証の朱印状ですら寺名の誤記も有るし寛政重修諸家譜でも人名の誤記も有ります。
いずれにせよ、梶原単独犯の凶行で大蔵幕府で殺害し自邸に戻らず、上総邸の目の前の滑川上流まで太刀を洗いに行く訳がないですし、梶原家が単独で攻め込むと言うのは多くの御家人が黙殺する必要が有るので地理的に非現実的ですね。
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蝉も鳴かない空気の澄んだ2月、切り合いと怒号と阿鼻叫喚の悲鳴は鎌倉の谷間では遠くまで良く響きますよぉ~(笑)。
横浜~鎌倉の細長ぁ~い谷で繋がる谷戸地形はね、夜になり往時の様に静かな時間帯に成ると5km先の電車の走る音も谷間に反響して良く聞こえてくるんですよ~www。
最後に上総広常公の跡地に跡に開削された朝比奈切通と、切通開削以前の古道だった熊野神社の参道の写真を見て今日のブログを終えたいと思います~。
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最近は春に成ったのに関東では天気の悪い日が続きますが天気が良く成ったら天園ハイキングコースの古道や朝比奈峠~鎌倉駅までの散策を楽しんでみては如何でしょうか~?
コロナに感染しない様に対策をシッカリしつつ歴史散策や鎌倉観光楽しんで下さいねぇ~♪

では皆さん、又、次の記事でお会いしましょう~。
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2週間ブログ更新してないんだけど・・・
今回は近況報告です。
別の記事で鎌倉殿の13人の番組終りのNHKアナウンサーの解説で触れられていた源義朝公の屋敷の事で文献しか読まない人が大間違いしてるのでソレを解説する内容をUPしたいと思ってます。

なんせ4月の更新ペースも遅かったのですが、何も歴史関連の事してなかった訳じゃなくて色々と❝文献に記載の無い事❞の調査に行ったり、富士山の写真撮影するのに苦戦してムキぃ~!って成りながら尊敬する人の敵討ちで人を殺しまくってました、意味不明かなwww?。
富士山の撮影は4月は逗子市の披露山に通ってました。
過去撮影した物より、より良い富士山の写真を撮影したくて何度もチャレンジしてるんですが桜の季節に入ると関東人にとっては嬉しくない現象が起きるんですよね・・・
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富士山が見え難(にく)い春霞(はるがすみ)の季節に突入するんですね。
納得行く写真が全然取れないんですよ。
富士山のシルエットしか見えない上に、それすら見えない日が増えて来ます。更に静岡県と山梨県側の天候で神奈川が晴れていても向うが曇ってると根本的に富士山は隠れて見えないんですよねぇ~。
小生のインスタのフォロワーさん達は写真家の人達ばっかりで皆さん超絶写真が凄くて、ソレと比較すると自分の写真が惨めに見えるくらい下手なんですよね。
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ダイヤモンド富士を撮影に行っても全然っ富士山見えねぇ~よ(怒~悲)!
夕陽でコレですからね、もうガックシです。
前日が荒天で海が撹拌されて相模湾の水蒸気が少ない日、早朝4時半頃から家を出て5時前後の日ノ出に合わせて朝のマジックアワーのピンク富士を桜と一緒に撮影したくて4月初頭は早起きして何回も撮影しました。
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もう、1日で日照の有る時間で1番気温低く空気が澄んでるAM:05:00~05:15の時間帯でこの見え方の不鮮明さよ・・・
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上の写真は披露山公園から葉山マリーナを見ている写真です。

——話しを近況報告に戻します——

最近やっていた事は披露山での富士山写真撮影だけでなく、所謂(いわゆる)文献には乗らない明治以降の鎌倉市のとある2つの神社と御神体の移転の話を現地散策しながら昔から住んでそうな知らない人の家のインターホン「ピンポーン♪」したりして(笑)突然、隣の晩御飯みたいに歴史の取材をしたり・・・
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文献には「城」としては出てこない文献コピペ学者が吾妻鏡盲信でミスってる源義朝公の館に付属する詰城の名残の削平地や尾根道を藪漕(やぶこ)ぎして探したり、館の場所の正確な場所を地域の旧家の方を探し出して又「ピンポーン」して情報集めて散策したり。
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古墳時代の武具の展示を見に行ったり。
コレね⤵
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一番左の鏃(やじり)、古墳時代に既に雁股の鏃を使ってるとか凄くないですか?
これ完全に対人兵器で、深く刺さるだけの通常の鏃と違って例えば敵の首とか腕とか足の筋肉を切断して傷口塞がっても永久に障害が残る様にする日本独自の弓矢の発展形式なんですよ。
これから鎌倉殿の13人で登場する機会は既に無くなりましたが弓の名手として有名な那須与一宗高公は、この相手を殺す事よりも如何に後遺症を残し再起不能にするかを考えて凶悪な雁股の矢を愛用していた事が知られています。
スポーツマン的な描写で描かれる武将ですが全然っ!爽やかじゃないですねwww。
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あと尊敬する戦国時代の武将の北条綱成(つなしげ)公の部下だった朝倉政景公の御妻女の御墓参り行って来たりしてました。

ところで冒頭に「敵討ちで殺しまくった」話をしましたがゲームの話です(笑)。
信長の野望覇王伝ですwww。
実はこのゲームを学生時代以来ぶりプレイステーションをひっぱり出して来て最近やってました。

小生は徳川家康公や織田信長公等有名な歴史偉人と同様に歴史に興味が無い人は余り聞いた事がないであろう足利持氏と言う鎌倉市~横浜市域の神社仏閣を大切にした殿様を尊敬しています。
以前、横浜市金沢区の小泉元総理の家の菩提寺の宝樹院と源頼朝公の開いた瀬戸神社の記事でも少し解説した事が有るかと思います。


この方は源頼朝公が開いた神社仏閣を多く保護して参拝したりしていた方でした。
なので横浜市民が現代に例えば源頼朝公と北条政子様御夫妻の開いた瀬戸神社等に御参りできるのも足利持氏公の御蔭だったりする訳です。
関東の将軍である鎌倉公方足利持氏公は籤(くじ)引き将軍で有名な足利義教に因縁つけられて鎌倉の武士団に対する挑発にムキに成ってしまい幕府軍によって攻め殺されてしまいます。
これを永享の乱と現代人は勝手に名付けています。
この足利義教は元は天台座主つまり比叡山延暦寺のTOPだったのですが、足利家の後継者問題で跡継ぎが決まらないまま将軍が死んでしまったので、京都の足利家臣団が籤引きして将軍に選ばれ天台座主の座を捨てて還俗して征夷大将軍に就任した人物でした。
この足利義教は家臣や親族を暗殺しまくった凶人としても有名です。
しかし籤引き将軍に殺害された足利持氏公の御子息の足利成氏公は成人すると親の仇の上杉憲忠を殺害して親の仇を討って、更に幕府軍とも戦い今の江ノ島を扇谷上杉家と山内上杉家の大軍に攻められた際も撃退した当時の関東では最強の戦強さの武将でした。
この足利成氏公も横浜市域の神社仏閣を保護したり新たに寺院を開いた人物で、以前ブログでも紹介した事が有ります。

で、覇王伝引っ張り出して来て持氏公と成氏公の敵討ちをする遊びを最近していましたwww。
足利持氏公の来孫(孫の孫の子)の足利晴氏でプレイして、足利持氏公を殺害した逆徒の上杉家の子孫と京都の将軍足利義輝をブッ殺して征夷大将軍に就任するのが目標(笑)なのですが、そもそも信長の野望覇王伝で足利晴氏公は在野武将として登場して大名ですらないんですね。
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しかも戦闘33とかクッソ弱いwww。
なので足利持氏公の永享の乱の敵討ちを託すべく先ずは古河公方足利晴氏公の大名化を目指すところからゲームスタートしました。

足利家の家紋の「二引両紋(ふたつびきりょうもん)」と同じ家紋の里見家で開始。

二つ両引き


このゲームは昔のゲームなのでシステム上の弱点が有って、最初は兵100で毎月隣国に侵攻しゲーム特性活かした兵糧攻めをします。こちらが兵力100でもコンピュータはAIがガバガバなので最大兵力で出陣して来るので、ゲーム開始直後は相手の兵糧が尽きるまで只管(ひたすら)逃げ回り戦争を終える事を何回か繰り返すと勝手に相手が兵糧切れで負けてくれて領地と家来を奪い取る事が出来るんですね。
まぁ、笑えない話でプレイヤーとして選択した大名家の里見家は実は東京や神奈川に史実でもしょっちゅう海賊化して略奪放火に来ていた連中(笑)なので、ゲームのなかでも実際の里見家の歴史と同じ事をしている訳ですが・・・

以前ブログで紹介した横浜市磯子区杉田に在る熊野神社は明治時代以前は泉蔵院と言う源頼朝公が開いた熊野社を管理する修験道の大寺院でしたが、この杉田地域は戦国時代に里見家に略奪されて大変な目に遭(あ)っていたんですね。
・・・まぁ、史実通り海賊野党軍団と化す里見軍団(笑)プレイして足利晴氏公が在野武将として関東のどっかで登場するのをひたすら待ちました。

最初の標的は北条領、手始めに江戸城から始め~河越城~滝山城と恨みの全く無い(笑)北条氏康公に兵100攻め繰り返し兵糧攻めで開始07ヶ月でブチ殺すwww。
でも、これゲームだから簡単に言ってるんですが当時は江戸城を占領下に置く事すら房総半島から侵略するには大変だったんです。
南関東
上側が房総半島、真ん中が東京湾、下側が三浦半島です。
この地図は明治時代の迅速測図と言う海が埋め立てられる前の地図をGoogleEarthに表示させて更に訪問した事の有る城を表示しているのですが、画面上の真ん中の久留里城が小生がプレイヤーとして選択した里見家(後で足利晴氏に継がせる)の本拠地です。
江戸城は画面やや左下に在るのが解るでしょうか?東京湾の最深部に攻め込む際には周囲の城から当然ながら援軍が来る訳です。
史実では房総半島の里見家が鎌倉の鶴岡八幡宮を焼き払って玉縄城に攻め込んだ際は画面真ん中の笹下城の辺りから上陸して瞬く間に鎌倉まで攻め込んでいます。この事件が有ってから北条家臣間宮家によって笹下城が築城されて、以来、横浜市域~横須賀市域へ里見家の海賊が来る事は安土桃山時代の北条家滅亡直前まで無く成っていました。
実際には日本に存在した城の数は大小合わせて3万に迫る数だったと言われるので、里見家が房総半島を統一する事も出来なかったし、北条家初代の北条早雲公~五代氏直公の約100年でも関東を完全に領国にする事は出来なかった訳です。
源頼朝公
織田信長
源頼朝公や織田信長公が如何に凄かったか城を表示した地図を見ると良く解りますね~。

取り敢えずゲームなのでサクっと北条家を滅ぼして(笑)、結城→武田を滅亡させ人材を奪い取ってイク♂訳ですが・・・

ここで激弱武将の古河公方の足利晴氏公登場!
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でも、この能力評価はシリーズを通して高い方なんですよwww。
この人は史実では8万の軍勢を率いて北条氏康公の支配する河越城を攻めて、当時河越城を兵3000で守備した北条綱成公を半年間も包囲しながら破る事が出来ず、挙句の果てに小田原城から河越城の援軍に来た北条氏康公の8000の軍勢に夜襲を仕掛けられて自分の軍団壊滅させられてんですヨwww。

なので信長の野望覇王伝では足利晴氏公の能力ちょっと過剰評価なんですね。
因みに河越城に援軍で入り指揮を執った北条綱成公については居城の鎌倉市の玉縄城を以前紹介しているので御興味の有る人はリンクをクリックして下さい。

玉縄城散策の栞(しおり)代わりに成るかと思います。
小生が足利晴氏公を査定したらこんな成績だと思います。
信長の野望覇王伝での評価
足利晴氏
覇王伝⇒小生査定
政治62→80  
戦闘33→10
采配58→40
智謀54→10
野望70→99
義理08→01
比較対象として北条氏康公の評価も載せておきます。
北条氏康
政治96→96
戦闘80→80
采配97→92
智謀82→87
野望75→90
義理10→60
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足利晴氏公8万の兵力を掻(か)き集める派閥形成的な政治力は素晴らしいとして・・・
半年間河越城を落とせないとか無能すぎるでしょう。
戦闘では陣地で酒宴開いて統制を乱すとか邪魔(史実)。
采配は指揮官として軍勢をまとめ上げれていなかったから現場に出て来ないで欲しい。
智謀も頭悪いから油断して攻めるべき時に攻めずに敵援軍が来るまで半年間もダラダラして負ける。
野望は自身が古河公方就任の道筋を作ってくれた支援者で恩人の北条氏康公をアッサリ裏切った挙句、実力は無いのに独立心だけ強くて何を勘違いしてるのか自分の権威に皆従うと思ってる社長。
・・・あのねぇ~、こう言う人は現代の政治家にも企業にもいますよね~、誰とは言いませんが与党にも野党にも威張り腐ってるだけで派閥形成の陰謀は得意だけどトラブル発生したらどう対処して良いか解らなくてアワアワして「頑張ってるんです!」って逆ギレする人ね。
つまりヤル気に満ちた馬鹿。
軍隊の人材評価基準で鉄則が有るんですが・・・

①ヤル気の無い馬鹿
前線に送り込め、頭数には成るから死んでも良いし。

②ヤル気の無い頭良い奴
企画担当や作戦参謀にしなさい労力や損害を最小限に抑えて相手に勝つ手段を考えるのが得意だから。

③ヤル気の有る頭良い奴
将軍に任命しなさい、作戦実行するために頭を使うから。

④ヤル気の有る馬鹿
努力とかヤル気とか非合理的かつ精神主義で味方に敗因作り損害与えるから早く殺せ。
現代の会社で言うと部下に対してブラック残業強いて部下を過労死させたるタイプ。又はヤル気を買って仕事を与えると会社に大損害与えるミスする奴ですねwww。
旧軍で言うと陸軍だと牟田口廉也と海軍だと黒島亀人が正にこの④の典型例。

これ前回の鎌倉殿の13人の解説でも冒頭O塚家具の話でヒロユキさんも解説してた動画を紹介しましたよね。
まぁ~、そんな足利晴氏公は史実では北条家に捕虜にされて小田原城に抑留されて、仇敵であるはずの北条氏康公の姫と仲良く♂♀シテ跡継ぎの足利義氏公が誕生している謎の思考回路の持ち主でもありました・・・
人に乗せられやすいスケベで見境ないあの人みたいな感じなのかも知れません。

・・・誰とは言いませんが(笑)、酒池肉林で懐柔されるバカ殿でもあった訳ですね?

とりあえず今回の小生の目的は里見の姫を晴氏公に嫁がせ里見義尭に隠居させ大名足利晴氏爆誕💥
憎き足利義教の来孫の征夷大将軍足利義輝が三好長慶と抗争してる間に幕府の承認得ずに古河公坊家勝手に復興(本当は鎌倉/古河公坊就任には幕府の叙任が必要)♪

本来、鎌倉公方に就任するには先ず鎌倉中心街に入る前日、巨福呂坂切通しの外にある北鎌倉の浄智寺に滞在するのが室町幕府統制下での鎌倉府の伝統でした。

その事は以前、浄智寺の紹介で少し触れているので興味の有る人は読んで見て下さい。
現在は北鎌倉は綺麗な観光地ですが、当時は臨済宗の宗門でも特別な寺院が建長寺、円覚寺、浄智寺、東慶寺と集中して4ヵ寺も集まる特別な場所でした。

鎌倉の防衛上も最終防衛ラインの巨福呂坂(こぶくろざか)切通しが存在した事で特別な地域だった訳ですね。
下の写真は本来の鎌倉時代の巨福呂坂切通しです。
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この道は一度山の上に登り、そこから下る切通しが山腹に穿ってあり円応寺の山門の前を通過して建長寺の総門の前に出る構造でしたが、神奈川県道の開削の際に近代に国の史跡扱いだったにも関わらず鎌倉市教育委員会が保護を怠り切通を分断して国に国史跡範囲申請して円応寺側が私有地化されてしまった為に個人宅の駐車場開削で路盤が削り取られ消滅し通り抜ける事が出来なく成ってしまいました。
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挙句の果てに市街地側からの巨福坂切通古道も市道として登録されて保護されているにも関わらず地元住民によって現状国指定史跡が荷物置き場にされてしまっています。
この荷物置き場から急に左上に上がるの旧道でした。
まぁ、浄智寺に滞在してから鎌倉府の役所に入るのが鎌倉公方就任の慣例だったので、現代では国指定史跡なのに資材を投棄されているこの道を足利持氏公も足利成氏公も通り鶴岡八幡宮を参拝し役所に入り鎌倉公方に就任した訳ですね、こんな事を放置してるからユネスコに世界遺産登録落選させられるんですよ鎌倉市は。
このゴミだらけの国指定史跡、鎌倉市役所に指導して欲しいですね私道じゃなくて市道なだけにwwww。
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で、ゲームに話しを戻すと取り敢えず玉縄城(鎌倉市)には最初拠点置いたけど、幕府はやっぱ江戸ッしょ!ってノリで鎌倉はアッサリ他の武将を配置して委任。
歴史を変える為にも晴氏公には足利家の江戸幕府を開いて頂く事にした。
つまり江戸公方爆誕●~*www!
実際に鎌倉ってクッソ狭くて、あんな場所に安土桃山時代の人口増加で耐えられる訳がない。
鎌倉時代の日本の総人口は800万人で鎌倉市街地の人口は3万人。
安土桃山時代の総人口は1200万人に膨れ上がっていました。
鎌倉城防衛網
つまり普通に鎌倉のコンナ⤴切通しの内側の狭い範囲に3万人×1.25倍=4万人近くも住人が住み更に戦国時代なので兵士も数千単位で駐留させるスペースなんか有る訳無いんですね。
なので足利“Evolution”晴氏公(笑)の判断としては将来は天皇陛下を御迎えして御所を造営し遷都して頂き首都にするには鎌倉何てクッソ狭い場所は論外じゃんね?と南関東弁できっと言ったはず。
そもそも裏切り者の上杉の連中の苗字の山内(やまのうち)とか扇谷(おおぎがやつ)とか犬懸(いぬかけ)とか地名が有る様な場所には御住まいに成りたくない筈。
ここは首都にするなら京都に入府するか海運と河川運搬の便利な品川を持ってる江戸1択っしょ!と言う判断で江戸城を本拠地にしてみる。
そしてココから敵討ちでブッ殺すマン発動。

室町幕府の手先で高祖父チャンの足利持氏公の仇敵の関東管領山内上杉憲実の曾孫の上杉憲政をブチ殺すべく兵を上野国に送り込む。

山内上杉家👎ブっ殺す軍
総大将 北条綱成公
覇王伝では顔グラ一般武将だよ北条綱成公。里見の残りの姫嫁がせ♀️て義弟に成ってた。
戦争始まったばっかなのに「勝ったぞ~!」と言って敵軍に攻撃を仕掛けて相手混乱させる詐欺師。
でもクッソ強くて敵の武田信玄から褒められたり、北条綱成公に苦戦させられた上杉謙信公が綱成公が武田信玄に城を取られて(北条氏政の本隊の到着が遅れたせいで)負けた際に「あいつが負けたの(俺苦戦したのに)?」と悔しがられたエピソードが有る人。

副将  里見義堯公
史実で東京湾沿岸で寺社や農村に略奪放火しまくり恩人親戚殺し捲りヒトデナシで4歳年下義父の里見義尭公。史実で関東管領(関東の官房長官)って自称してた痛い人。
でも地元では善政、国力弱いプーチンみたいな人。
ん?プーチンはコロナワクチン接種率すら皆無に等しい不満噴出で戦争して批判反らしの内政ヘッタ糞だな。

軍師  太田資正公
亡命先の恩人騙して城奪い取る名人、恩知らず究極最悪な間男の鬼畜太田資正公。
人の城盗む切っ掛けは長男に自分の城を盗まれたからwww。
でも自分は長男に城を追い出されても、人の城は何個も奪い取る戦略の頭の良さは流石太田道灌公の御子孫だね。
家族の信頼関係に難が有るのは、この人は実家じゃなくて自分の奥さんに成る人の家で育てられたから歪(いびつ)な家族関係しか構築できなかったのかもね。

このロクデナシ(綱成公を除く)軍団で見事に上杉憲政自害させ曾祖父足利成氏公の山内上杉潰し悲願と高祖父の敵討ち達成ぃ~🙏
↓ 
上杉家配下武将を2人リクルート。
群馬が生んだ知勇兼備の名将長野業正公と剣聖上泉信綱公。
2人を配下にして隣の信州侵略を目指す。
信州北部には足利尊氏公の時代に幕府に楯突いていた南朝の村上源氏の子孫の村上義清公がいる。
コレをブっ殺す事を画策。
リクルートした2人の名将を信濃国善光寺平~佐久平を潰しに攻め込ませる。

南朝潰す軍
大将 長野業正公
在原業平の子孫。在原業平って歌人としても有名な武将で関東だとスカイツリーの下の業平橋の地名由来の人だね。
武田信玄の上野国侵攻を何回も阻止した知勇兼備の名将として有名。
突っ込み所無し。
しいて言えばバカ殿上杉憲政と頭スッカラカン色ボケ公坊足利晴氏と言う無能上司をサポート出来なかった点で良い家臣ではない。

副将 上泉信綱公
長野配下で剣聖と名高い柳生新陰流の柳生宗厳さんの師匠で新陰流の開祖。
主家の長野家が滅亡した後は武将辞めちゃって剣術化に専念して京都に行って将軍に剣術教えたりしてた偏屈な剣士。
今回は京都の将軍の所に行かせず関東の鎌倉もとい江戸公坊の為に頑張ってもらう事に成りましたwww。

この二人に合計4万の大軍持たせて村上義清公を討伐。
討伐された義清公は小生の歴史仲間の御先祖様の同族で小生の祖先の同僚の子孫にも当たるwww。
この合戦で事も有ろうか、曾祖父の足利成氏公に謀反した山内上杉憲実の家来で足利成氏公を江ノ島で攻め殺そうとした逆徒の長尾氏の一族の癖に軍神とか言われて邪魔な上杉謙信公が援軍送って来たが壊滅させ撃退。
下の絵は上杉謙信公の肖像画と信長の野望の新しいシリーズの上杉謙信公のアイコン。
上杉謙信
上杉謙信KOEI
肖像画にゲームの絵少し似せて書いてるんですね。
小生と小生の親友の祖先関連の武将の村上義清公誅殺(ちゅうさつ)し尊氏公の宿敵の南朝潰しに見事成功♪
この合戦で援軍に来た上杉謙信公の春日山城の兵士を全滅させる事にも成功。

援軍が全滅し兵力0の越後国春日山城にそのまま攻め込み越後国奪取🙌
晴氏公の御先祖の足利成氏公に楯突いた越後上杉家の家来だった旧名長尾景虎こと上杉謙信公をも殺害wwww。
越後も併合~♪

そしてついに、足利持氏公が死ぬ直接的な原因を作った今川範忠公の子孫の今川義元公も滅ぼして徳川家臣団も配下に入れた。

今ここ!
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必ずややり遂げる高祖父を殺した足利義教の子孫の足利義輝公排除。
打倒室町幕府👎の敵討ちで足利晴氏公の御先祖の敵の子孫殺しまくりwwwに邁進中~♪
これで冒頭の話回収ですね(笑)。

目指せ足利江戸幕府開府www!

さて、今回フザケたブログ書きましたが、次回は源頼朝公の源義朝公の館跡について鎌倉殿の13人のドラマ後の登場人物所縁(ゆかり)の場所解説みたいなNHKアナウンサーのナレーションで「それちょっと違うな~」と言う部分が有ったので、逗子市の観光地紹介がてら源義朝公の沼濱亭と吾妻鏡の問題点を解説してみたいと思います。

では次の記事で御会いしましょう~♪
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有名鉄道系Youtuberのスーツ君は横浜国大生だったのですが、昨年末に卒業しこの程、横浜国大の卒業式後に参加されたそうです。
その後で“卒業旅行”と称してコスパの良い無料で見学出来る観光スポットを多く巡る横浜観光を提案する動画を製作し紹介して下さってました。

小生は動画⤴にコメントを残す形で再生時間ごとに各所の解説を共有したのですが、その場所の解説は出来ても住所や公式ホームページリンクや写真付解説の情報共有までは出来ないので、こちらのブログでその辺りの情報を捕捉して解説してみたいと思います。
スーツ旅行チャンネルは鉄道系Youtuberなのに何故か電車に乗らずチャリンコで東海道や中山道の旧宿場町を全て辿るとか意味不明に且つ緻密に計画を立てて身体を貼って郷土史と旧道の景色を紹介したりしています。

実はスーツ君、以前シーサイドラインの全駅の車窓動画をUPしてくれていたので、各駅の解説を捕捉したブログ記事を書いた事が有ります。
彼の行動理念は常に公益に資する事と自分の娯楽を両立させる素晴らしい物が有り、昔の人の言う所の積徳積善や明治天皇の仰った公益世務や孫文先生の仰った天下為明の様な気概を個人的には感じます。
今回は学生向けの低コスト観光スポットを紹介してくれています。
ハマっ子としては素晴らしい動画を補強し、より市内外の観光客に役立てて頂きたく以下に小生が彼の動画に残したコメントをコピペし、そこにGoogleMapリンクと解説の参考写真等を補記していきたいと思います。

※この記事は直接動画にリンクしていないので、上の動画をPCで見る方は2画面開いて片方は彼の動画と私のコメント欄を開き再生、もう一つの画面でこの記事の解説捕捉を読んで頂くとより観光の参考として役に立つと思います。


——では、以下情報補足です~——

今回スーツ君が歩いたコースを地図に起こすとこんな感じです。
歩行距離は6.1km、丁度良い御散歩の距離ですね~。
では動画の再生時間毎に解説して行きます、スーツ君の今回の動画と合わせて皆さんの休日の参考にして頂ければ幸いです。
00:00 冒頭は中華街大通り
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中華街大通りスーツ君歩いてるのは中華街大通り。
食事してるのは華正楼新館、実はモデルの“はな”チャンの実家。

華正楼、聘珍楼、萬珍楼、同発、順海閣、大珍楼、重慶飯店、北京飯店が老舗として有名で、中でも華正楼、聘珍楼、萬珍楼は客単価が比較的高めで会社接待や宴会、結婚式披露宴などで日本の景気が良かった頃は常時予約でいっぱいな程賑わった。
華正楼はお土産の肉饅と月餅が中華街手土産として有名。
個人的にお土産は奶油栗子と言う栗入り月餅がオススメ!
ちなみに聘珍楼は創業100年超、現オーナーは創業家と既に異なるが中華街の顔的な林サン、萬珍楼のオーナーは兄弟。
同発は漫画“美味しんぼ”の北京ダック回の舞台、中華街でも北京ダックの鴨を釜でローストして焼く店は今では余り多くない。
リーズナブルな所では順海閣等比較的高級な店も3000円前後で7品前後出すコスパ良いコースの店も有る。
獅門酒楼や隆昌園等の中規模店のランチは美味しだけでなくデザートまででて1000円切る店も多い。それと山東の水餃子は中国で食べる美味しい餃子LV。
他にも食べ放題以外なら美味しい店は多いので300店近い中からスーツ君の様に開拓するのは通への登竜門で楽しい。
※コメントには残してませんがランチタイムの中華街はワンコインでランチセットを提供する店も有れば良い店も1000円前後で主蔡1品+スープ+ライス+点心(副菜)+デザートを提供するコスパの良い店が沢山有ります。
高級中華料理店も7品位だすコースを2000円~3000円でランチタイムに提供する店も有るので、是非ご自分達で御散歩しながら御店を選んで見て下さい。
※学生がデートで肉饅や小龍包立ち食いで1000円使ってしまうのは実は凄くコスパ悪いんですよ~。

00:33~ 代官坂
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代官坂 旧石川代官所長屋門
港の見える丘に通じ、庄屋の石川家の長屋門が残ってる。
近くに日本最初のパン屋さんのウチキパンが今も営業しているよ~。
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ウチキパン 日本初のパン屋
この石川家は祖先が平子氏、平子有長公は曽我兄弟による源頼朝公暗殺を阻止した人物として有名だよ~。平子氏の更に祖先が平安時代末に旧久良岐郡を統治した久良木三郎で源氏の与力の三浦氏の分家だよ~。
江戸時代の庄屋さんてのは豊臣秀吉や徳川家康公に敗戦し帰農した元武士と言う歴史を辿れる場所でもあるよ~。

※コメントには残してませんが、代官坂を真っ直ぐ行くのではなくスーツ君は代官所の長屋門の少し手前を左折して元町公園の方へ行き、そこから外人墓地の参道に入っていると思われます。
このスーツ君の進路より元町公園へ入ってから右回りに元町公園を登る額坂と言う細い階段を上り山手地区の台地に上がると、エリスマン邸、ベーリックホール、山手234番館をはじめ多くの洋館があり何処(どこ)も入館料無料で見学出来ます。

又、洋館で営業している“えの木てい”と言う可愛いカフェが有り、女性客に人気で横浜市民のデートコースの名所にも成っていたりします。
なので当然ながら色んなドラマや映画でロケ地になっており、小生が以前紹介記事も書いているので御興味有る方は是非、以下のリンクから御覧下さい。

これらの全てが元町公園の額坂を上がって来た場所~外人墓地~港の見える丘公園の500mたらずの道上に有るので是非、元町~代官坂~元町公園入口~額坂を経由して山手地区散歩に訪れる事をオススメします。

00:43 外人墓地
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横浜外国人墓地
ペリーさんの配下兵士を埋葬したのが始まりだよ~。
元は増徳院と言う大寺院の境内だったよ~。
外人墓地に麒麟麦酒の前身の創業者もコープランドさんも土葬で眠ってるよ~。
今ブランド化してる麒麟麦酒のスプリングバレーブルワリーの前名ジャパンブルワリーをコープランドさんが作った。
一般非公開に成ったのは団塊~バブルが昔、夜の外人墓地で青カンする不届き者が絶えなかったのと治安維持と聞いた事が有る。
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※コープランドサンについては以前、記事で紹介しているので御興味有る方は以下のリンクから紹介記事を御覧下さい。

この外国人墓地から麒麟麦酒発祥地のキリン公園の麒麟麦酒開源記念碑までは徒歩6分で行く事が出来ます。
もし麒麟麦酒愛飲家(笑)の方でしたら隣の北方小学校ののグラウンドの地下にはスプリングバレーブルワリー⇒ジャパンブルワリー⇒麒麟麦酒時代の水源が保存されてるのですが一般非公開で、キリン公園自体は記念碑が有るだけですが行く価値は有ると思います(笑)。


02:32 港の見える丘公園

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港の見える丘公園~
旧フランス領事公邸遺構

今回はスーツ君はスルーしたけど、港の見える丘辺りの洋館街も神戸と違い横浜は無料で入館出来るから機会あれば行くと良い観光に成るよ~。
※コメントには残しませんでしたが、港の見える丘公園と山下公園のバラ園、そして平沼駅近くの横浜イングリッシュガーデンは薔薇の季節とにかく素晴らしいので是非訪れてついでに横浜観光をしてみては如何でしょうか?
御興味有る方は是非以下のリンクの記事が参考に成るかと思います。

先程紹介した近くの“えの木てい”も可愛いカフェで散歩後のティータイム休憩に適していますが、この港の見える丘公園の横のKKRポートヒル横浜のレストランはベイブリッジを正面に見ながら御茶出来るロケーション最高の場所です。

“えの木てい”かKKRポートヒル横浜で御茶するか、はたまた付近のレストランやカフェを自分で開拓するか選ぶのも元町~山手散歩の醍醐味かも知れませんね~♪

05:32 中村川(山下橋)

※スーツ君が中村川を見ていたのは山下橋。その横のメガドンキは平成初期まで“海岸(バンド)ホテル”と言う老舗ホテルで石原裕次郎サン等、昭和の映画スターが良く御酒を飲みに来ていた場所だったが埋立による景観悪化で廃業し、ドンキホーテが入居した。
中村川は昔、アザラシのタマちゃん騒ぎが有った川の一つだよ。
スーツ君が歩いた中華街の辺りは昔、川は無く元町と地続きの洲乾浜と呼ばれた砂丘の半島があり、半島の先端には神秘的な淡水の湧水源の泉が有って源頼朝公がそこを弁天社を開いたよ。幕末の廃仏毀釈で神仏習合の弁天信仰は弾圧され軍に接収され今は横浜市新庁舎がソコに建てられたよ~。
潰された弁天社は厳島神社に改称され御祭神も壱杵島姫に変えられ伊勢佐木長者町と元町に分祀されたよ~。

※この元町厳島神社については以前、休日雑記と言う自分の散歩日記カテゴリーの記事で紹介しているので興味が有る人は上の記事を御覧下さい。
ペリー艦隊の上陸
※後で捕捉を書きますがペリーさんが上陸したのが洲乾浜の名残りの埋立地の海岸。
絵の木の場所が開港資料館の庭に残る玉楠木。現在の玉楠木は三代目。
この洲乾浜の岬を起点にして内陸に市営地下鉄吉野町駅辺りまで有った入江を埋め立てたのが吉田新田で、吉田新田の治水の排水路として洲乾浜を開削し中村川が海に繋げられたよ~。
この洲乾浜が横長の半島だった事から横浜と呼ばれ半島上の人口300人位の横浜村が横浜市の地名由来だよ~。
横浜の字が確認出来る最古の文書は間宮林蔵や杉田玄白の本家の間宮家の祖先で安土桃山~江戸時代の横浜市長に当たる本牧奉行と佐渡(金山)奉行第二代、但馬(生野銀山)奉行を務めた間宮直元公の書いた南区の宝生寺の古文書だよ~。
間宮直元公は徳川家康公の大坂城攻めで豊臣軍が防衛の為に木津川堤防決壊させて自ら水浸しにした市街地の水抜と鉄壁の大坂総堀埋め立てを献策した軍師だよ~。※スーツ君の動画にはコメントしませんでしたが、明治時代の横浜の地形の話は瑞穂鉄橋と田浦引込線の紹介記事で触れているので御参考に以下の記事を御覧下さい。

※宝生寺と間宮直元公の解説も、以前に神奈川県立金沢文庫の企画展で撮りあがられた際に紹ブログで介しているので御興味有る方は下のリンクから記事を御覧下さい。


06:03 山下公園~氷川丸
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山下公園~氷川丸
山下公園に係留されている氷川丸でチャップリンも日本に渡航して来たよ。
スーツ君の解説通り関東大震災で倒壊したり類焼した瓦礫で埋め立て、災害時の避難場所として公園が設けられた。
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2022年現在、AIとかじゃない時代遅れのPCR制御だけど動くガンダム立像も有るよ、ただしガンダムは入館料必要。
※この写真は港の見える丘公園から撮影。

12:08山下臨港線プロムナード
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山下公園~赤レンガ倉庫の遊歩道は昭和末まで横浜開港記念日にSL走らせてたよ。
※入口は山下公園、大桟橋前の象の鼻パーク、赤レンガ倉庫前の合計3箇所。


12:40 象の鼻パーク~
~国際客船ターミナルの眺望。

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国際客船ターミナル(大桟橋)~
~象の鼻パーク
地下には幕末の神奈川運上場跡の荷物運搬に使った手押し貨車のレールが埋蔵されており一部ガラス張りの床で地下に保存されてる様子が見れるよ。
下の写真が象の鼻。
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※コメントには残しませんでしたが、この象の鼻パークや大桟橋は夜景もとても美しいので、昼は元町を散策して夕方~夜にかけて来るのも良いかも知れません。
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大桟橋の屋上は芝生と木製のデッキになっていてインターコンチネンタルホテル~クイーンズスクエア~コスモクロック~横浜ランドマークタワー~赤煉瓦倉庫を一望できます。
運が良ければ飛鳥Ⅱが停泊している所の写真も撮影出来ます。
大桟橋の駐車場は最大料金が周辺の駐車場では比較的安く収容台数も多く先ず満車に成らないので自動車での訪問の方には中華街~山手洋館街~山下公園~赤煉瓦倉庫観光が目的の方にはオススメです。

周辺には元々は海沿いに有った老舗のJackCafeやThe Hof Brau等のハマっ子に愛されるオシャレな昔からのレストランやカフェが周辺に多数有る他、新しい店のも海岸通りに多数出展してますので山手地区同様に好みの場所を御自分で探すのも良い地域です。

16:41 神奈川県庁本庁舎
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神奈川県庁(横浜3塔のキング)県庁は建物も立派な近代西洋建築で毎週水曜日に無料公開されてて屋上にも登れるよ~。キングこと神奈川県庁については過去に記事で紹介しているので、以下にリンクを貼っておきます。



20:29 開港記念会館(ジャック)
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横浜開港記念会館(横浜3塔のジャック)
ジャックは内装もとても綺麗で時間に余裕が有るなら立ち寄るのも一見の価値は有るよ~。
横浜税関(クイーン)は税関博物館に成っていて、麻薬の密輸摘発例の解説や金塊の過去のコンテナを偽装した密輸手段の展示なんかを見学出来るよ~。横浜3塔については過去に紹介記事を書いているので、以下にリンクを貼っておきます。




21:46 赤レンガ倉庫
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横浜赤レンガ倉庫(旧新港埠頭税関倉庫)雨上がりの夜に訪れると赤レンガ倉庫の前の石畳と線路が街明かりに綺麗に浮かび上がり昔にタイムスリップしたような景色を見れるよ~。
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スーツ君が行かなかった裏側には列車のプラットホームや関東大震災で倒壊した税関施設も保存されているから鉄オタや歴史オタは嬉しいと思うよ~。

27:12 ナビオス横浜(ホテル)と汽車道
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ナビオス横浜(ホテル)~汽車道ナビオス横浜一帯は昔の新港埠頭の貨物線路が遊歩道に成っていてランドマークタワー(桜木町駅:みなと未来駅辺り)まで歩いて景色を楽しめるよ~。DSC_2712
途中昔の鉄橋も歩くので非日常感が有り色んなドラマや映画のロケ地にいる実感が感じられるよ~。
昔の運河の埋め残された海の入江の岸壁には綺麗な結婚式場や商業施設がライトアップされていて歴史興味無い人も一見の価値有り!

29:48 ドックヤードガーデンと日本丸
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ドックヤードガーデンと日本丸ランドマークタワー下にはドックヤードガーデンが有り運が良ければコンサート等も無料で見れるかも。
何気に明治二十九年(1896年)に建造の日本現存最古の商船用石造りドックで正式名は“旧横浜船渠第2号ドック”だよ~。
日本丸はスーツ君のが詳しい。

31:30 東横線跡地遊歩道
駅前も遊歩道化されているけど、京急神奈川駅近くの旧神奈川宿の台町にある東横フラワー緑道(高島山トンネル)も一見の価値有るよ~。

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東横フラワー緑道(高島山トンネル)
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こう言う昔は線路だった場所を、小さな御子さんがいるパパさんなんか電車を青木橋の上から見てから一緒に散歩に来ると御子さん喜んでくれるかもしれませんね~。
余談ですが、この初代横浜駅~神奈川駅一帯を戦国時代に治めていた青木城の城主が北条家臣の多米元忠(ためもとただ)公で歴史オタクには有名な河越野戦で活躍した戦国時代の北条家を代表する名軍師でも有ります。
多米元忠公に関しては過去に紹介記事を書いているので興味の有る人は以下のリンクから御覧下さい。

今回のスーツ君の動画の最後の機関車は、スーツ君の解説が正しければ西郷さんが新橋~初代横浜駅まで開通時に試乗したのと同型なのかな?
この明治の機関車は初見でした、スーツ君紹介ありがとう。
以上、スーツ君の動画の解説補強でした~。
実は小生も外国や関西から友人が遊びに来ると案内するコースがドンピシャで今回のスーツ君の歩いたコースでした。
もし横浜に観光に行かれる方は、今回スーツ君が歩いたコースは本当に理想的な横浜観光コースだと思いますので小生からも推薦させて頂きます。

ついでに今回のスーツ君の動画と小生の記事では鉄道史跡の汽車道や山下臨港プロムナードを紹介しましたが、小生から今現在、消滅の危機に瀕している日本現存最古の十字交差線路と日本最古のアーク溶接建造鉄橋が神奈川県内に存在するので、その存在を取り上げ保護と都市の景観に組み込んだ再活用を訴えた解説記事のリンクを以下に貼らせて頂き、今回の記事の〆にしたいと思います。

では、次の動画で又お会いしましょう~♪

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森戸神社名島と真名瀬の海
神奈川の景勝50選、森戸夕照と富士。
【森戸神社の海岸の眺望】
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川崎市川崎区の川崎大師、住所から書くと3回も川崎を連呼する川崎大師に行ってきました。
子供の頃、七五三や車の交通安全祈願で意味も解らず連れて来られてツマラナかった場所(笑)でしたが大人に成って桜の季節に来てみると景色が綺麗ですね~。
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金剛山 金乗院 平間寺
真言宗 智山派 大本山
通称:川崎大師

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