歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。 皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪ …と、思って書いています。 写真・本文・構成・無断転用禁止! 関係先と小生の個人的な信頼関係で了解をとって記事にしているので、転載したい場合は当方へ確認願います。

風邪ひいて38℃以上が火曜の夜~水曜~木曜午前中と続き、その間、眉間がアイスクリーム食べた時の痛さと似た感じで痛かった。体も関節が痛く寒かった。喉は咳で完全に潰れ、扁桃腺~咽頭~副鼻腔辺りが爛(ただ)れているのが素人でも自分で判る位に痛く水も飲めなかった。
昨日金曜日、体温も37℃に下がったので出勤したら出勤後、直ぐに喉が悪化、即早退。帰宅したら熱がブリ返していた。その時から気が付いていたけれど、嗅覚が無くなっている。
匂いが解らないから何を食べても「味がしない」。これ以前に鼻炎解消の為に鼻骨削る手術した時と同じ症状だ。
人間って匂いで料理の味を感じてるんだよ。鼻の神経を封鎖されると全く味が判断つかなくなる。
苦味、甘みだけ感じるけれど、料理の美味さ=味ってのは殆ど匂いで感じているんだよ。

この嗅覚、治るんだろうか?
明日も日曜日で耳鼻咽喉科はやってない。既に金曜日で風邪の抗生物質と喉の殺菌のトローチも無く成っている。月曜日まで放置して嗅覚は復活するのだろうか?

久しぶりの休日雑記。
繁忙期が過ぎて漸く余裕が出て来た小生なのだが、本日09月19日は風邪でダウン。
午前中は病院に行き、その後さっきまでダウンしてずっと寝ていた。寝疲れ起きたものの今も喉の炎症と咳が酷く痰に血と膿が混ざってしまっている。しかも体も痛い。頭もぼーっとする。
夜に成ると熱も上がり咽頭部が酷く痛むので、読者の皆さんも風邪には気を付けて下さい。
小生は今日、結局仕事を休む羽目に成りました・・・。

さて16日土曜日は京都から友人であり歴史仲間でもあるFSA君が横浜に再び出張に来たので、彼が余り行った事が無いであろう東京の下町に車運転して一緒に行って見た。
6月に別の京都の女友達が子を出産していたのだが御祝いをしていなかった事も有り、丁度良い機会なのでFSA君に付き合って貰って出産祝いの品も購入すると言う目的も有った。
当初、FSA君に行きたい場所をリサーチした際は神奈川県中央部を希望されたのだが、結論から言うと「ガン無視」して自分から「深川に行こう!」と提案をし直した小生・・・
FSA君、付き合ってくれてありがとう。
・・・さて、午前11時頃、横浜市内のとある駅でFSA君をピックアップすると首都高速横羽線で首都高環状線へ向かい、そこから小松川方面へ抜けて最初に腹ごしらえをした。
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何事も腹が減っては活動する気力が起きないからね。
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向かった先は深川釜匠、江戸時代に江戸っ子の腹を満たした深川界隈の名物料理“深川めし”を提供している店だ。
この店の存在を知ったのは昨年の事、小生が顕彰活動をしている横浜の殿様の間宮一族であり江戸幕府の御庭番(公安みたいな?)と地理学者と測量士を兼務した間宮林蔵宋倫公菩提寺の本立院へ参拝した際に、「どうせなら深川らしい物を食べて帰りたい」と地元民にリサーチしてこの店を知り食事をしたのが最初だった。
この店は周囲の店程、店としての内装が完成していない(笑)分、民家を改良して営業しているので料理の価格やボリュームが客にとって御得に成っている。
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今回通されたんは2Fの元は仏間(笑)と思しき部屋だった。
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これはこれで外国人観光客にはウケるだろう。
この日、小生は“深川めし”と“こんにゃく味噌田楽”とデザートに味噌汁と御しんこが付いたセットメニューを注文した。
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このボリュームで1500円は安いでしょう?友人のFSA君は深川セットと言う、深川丼と深川めしの両方を楽しめるセットを選んだ。
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この写真は前回、自分が深川セットを注文した時の写真。これが又、美味しいのだ!
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深川めし=浅蜊(あさり)の釜飯も深川丼=浅利汁の丼飯も、もの凄い大量に浅蜊が入っていて旨味が凄い!
そしてお漬物はセット以外にも柴漬けやラッキョウなんかが食べ放題なんだな。
この店、深川方面、清澄公園や深川江戸資料館に行く予定の有る人には御薦めです。まぁ、他の店でも良いので是非、江戸市民のファーストフード深川丼と深川めしは食べて見て下さい!
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食事を終えると直ぐ隣の深川江戸資料館にFSA君を案内した。
ここは変わった博物館で、江戸時代の庶民の生活を再現したセットが内部に組まれ町を再現しているのだが、そのセットの中に上がり込んで縁側に座ったり写真を撮影して良い博物館なのだ。
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日替わりで色んな演目や文化人の講演も無料で見学出来る。前回は落語を無料で見学出来た。
今回は江戸の物売り大道芸だった。
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江戸三大大相撲が興行されていた相撲の聖地、富岡八幡宮が区内に在るだけ有って昭和の名横綱大鵬さんの展示も有ったりする。
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実物大パネル。
う~ん・・・小生の方が筋肉だけは有りそうな気がするんだよな~。
身長も小生の方が高い。まぁ、格闘技はセンスと技術の鍛錬なので戦闘力は大鵬関が100なら小生は20位だろう(笑)。一般人は5前後かな(笑)?
小生が5人いて初めて現役時代の大鵬関と対等、6人いてリンチ出来る程度だろう(笑)。
んな事ぁ~どうでも良い。
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大鵬関の数々の優勝杯に加え、引退の際の断髪式で裁断された髷(まげ)も展示されている。
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小生が人の遺髪を見たのは世界三大記念艦の戦艦三笠に祀られている東郷平八郎元帥の遺髪と大鵬関の物だけだな。
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深川江戸資料館は余り大きい施設ではないのだけれども江戸時代の生活を追体験出来る貴重な場所で、まぁ見せ方も上手い博物館の一つだと思う。
良く有る公立の博物館は建物デカイだけで古くてショボい展示の仕方な上に、複製品の写真すら撮影させないケチ臭く子供達の歴史に対する興味を殺す意味不明な状態に成っている。
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しかし!ここは違うんだな。めっちゃリアルな展示物。
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店の軒先の再現度の高さ。
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照明で朝昼晩を再現していたり。
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こんな鐘楼も有ったり・・・
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民家に入って台所も見学出来るし。
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本物の骨董家具には本物の神社や御寺の神様が祀られていたり。
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友人も興味を持って見学してくれた様だ。
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この様な軒先と裏庭が民家の裏手にちゃんと有って、お月見の風習が再現されていたり、座ってゆっくり過ごす事も出来る。
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天ぷらの屋台や立ち食い蕎麦の屋台も再現されている。
まぁ、余り大きい博物館では無いので滞在時間は長くて1時間~1時間半が目安に成るだろう。
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江戸時代の飴売りや金魚売りの売り子の実演を見学し、解説展示物の方も見学してから深川江戸資料館を後にした。
ここから近くに間宮林蔵公の御廟所が在り、大正時代の東京府に史跡指定されているので友人を伴って其方(そちら)に移動した。
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茨城県にも墓所は有るのだが、本来の被葬地はここなので茨城の出生地は御分骨を埋葬されているか、墓標なのだろう。
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江戸における菩提寺は本立院と言う日蓮宗の御寺で、間宮家は元来は佐々木一族で有り神社の宮司家出身の一族で真言宗と修験道とも関係が深かったので、状況証拠を見る限り初期は源頼朝公と同じく真言朱を宗旨にしていた様だ。その後、室町幕府鎌倉府の鎌倉公方に仕えると禅宗臨済派(今の臨済宗)と真言宗の両方を大切にしていた。なので、鎌倉公方に仕えていた時代の一族武将には臨済宗の入道号である“道〇”と道の字が付く武将がいる。
そして時代が戦国時代に成ると、鎌倉公方は滅亡し子孫の古河公方足利家は小田原北条家の影響下に置かれたので、間宮家も北条家に仕えた。すると北条家は禅宗の臨済派ではなくて禅宗の曹洞派を大切にした家だったので、間宮家も教養を身に付ける際に曹洞宗寺院で学ぶ事と成り多くの廃寺と成っていた真言宗寺院を曹洞宗寺院として復興開基している。
そして更に小田原の北条家が滅び、間宮家は徳川家康公の直臣となり於久(おひさ)様が家康公の側室と成った縁で事実上の外戚と成ると、当時は安土桃山時代だったので旧主北条家の北条氏規(うじのり)公が豊臣政権下で日蓮宗の影響を受けると間宮家の多くも日蓮宗寺院とも関わる様に成った。しかし、この間ずっと真言宗・修験道・臨済宗・曹洞宗の全ての宗派の寺院を大切に保護している事が新編武蔵風土記稿の神社仏閣の解説や寛政重修諸家譜に掲載された入道号から読み取れる。
菩提への参詣を終えるとFSA君が「本立院の御朱印が欲しい」と言い出したので、御廟所から少し離れた御寺へ移動した。
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元々は隅田川沿いに在ったのだが江戸幕府の都市再開発で現在地に移転された。周辺には多くの日蓮宗寺院や浄土宗寺院、昔は法華宗とカテゴライズされた宗派の御寺さんが同じく移転されて来ている。
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今年は丁度、日蓮上人の出生800周年らしい。
境内にはユーモラスな石像も有る。CIMG5271
そして一応、間宮林蔵公の菩提寺としての石碑も立っている。
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う~ん・・・
揮毫したのが鳩山一郎さん。なんで国を大切にした鳩山一郎さんの身内から鳩山由紀夫みたいな無能な売国奴が誕生したのか理解不能。とか昔は思っていたけれど、只単に鳩山由紀夫は非正妻だった母が反日国籍の半島の出身で妻も本籍は反日半島の人だって後から知って納得した。
だから彼は売国的な行動を好んでするらしい。
もっと対等に仲良くする交流の仕方を模索出来る筈なのに、日米関係を悪化させ、日中関係も悪化させ、日韓関係だけ異常に韓国優位にした行動原理は出生に有るってのは今では多くの人が知っている。
まぁ、不法移民と不法就労者を見逃し続けたら彼みたいな人物が増えるだろう。
しかし、韓国人や北朝鮮人にも日本が大好きで日本の政治と法律と社会の方がマトモと思ってくれいる人も多くいるので、国籍だけで排斥するのは良くない。トランプさんみたいにあくまで不法移民と不法就労者を法律に乗っ取って国外に退去して頂けば、本当に日本人と仲良くしたい在日就労者の人が残って両国間の敵対感情も薄れると思うんだな。
そんな事も、間宮林蔵さんの生涯を辿(たど)る事で終焉の地、深川で学ぶ事も出来たりする。
本立院と御廟所で間宮林蔵公と日蓮上人様にいつも御加護御守護頂いている事の御礼の御参りを済ませると、FSA君と次は昨年開館したばかりの美術館に移動した・・・
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その名も“墨田北斎美術館”だ。
名前の通り、墨田区を代表する文化人で“画工”の葛飾北斎さんの美術品現物とそのリトグラフが多く展示されている美術館で、外国人の観光客も多く来る。
建物も斬新で美しい。
こう言った奇抜な現代建築を批判する人も多いが、これが25年、50年と経(た)つと味の有る建物に見えるから小生は嫌いでは無い。
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例えば最近、ヒ蟻の巣が発見されて大騒ぎに成った横浜市中区の横浜シンボルタワー。この建物も当時は批判されただろうが、今では昭和の高度経済成長期の遺産的なウルトラマンに登場しそうな奇抜なデザインが面白さを醸し出している。
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こちらは他地域の人が余り知らない施設だが、墨田北斎美術館は外国人に対しても日本の窓口的な役割を担っているので小生としては日本現代建築のデザイン美と建築技術を見て貰うにも良い施設だと思っている。
しかもアホの横浜市と違って遺跡破壊して造ってる箱物でもないしね(笑)。
因(ちな)みに下は横浜シンボルタワーを以前紹介した記事。
※コレ→
さて墨田北斎美術館に話を戻すと、この美術館は公園の一角に建っていて、そこからはスカイツリーも見る事が出来る。
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で、スカイツリーの見える方と反対側に美術館が在って、さながらアルファベットのNの字の様な建物の切れ間から中に入る事が出来る。
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これは日本に来た外国人の旅客にも強い印象を与えるのでは無いかと思う。
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中は白を基調にした落ち着いた造りだが、やはりデザイン性に富んでいる。
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建物自体がとても綺麗だね。
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この美術館は志高い高文化な多くの民間企業と個人の支援で成り立っているそうだ。
素晴らしい!
そして、ここの素晴らしい所は深川江戸資料館と同じく、常設展示の美術品の多くは写真撮影して良いと言う事だ。
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どうやら撮影フリーの営業をしている場所は“見せ方の上手い美術館や博物館”に多い様だ。
最近、鎌倉市にオープンした鎌倉歴史文化交流館も展示物全てが撮影OKな上に見せ方が上手い!
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 ※鎌倉歴史文化交流館

紹介記事→
さて、すみだ北斎美術館に話を戻す。
葛飾北斎と言えば、小生達神奈川県民にとっても大切な文化人だったりする。
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彼の代表作の“富嶽三十六景 神奈川沖浪浦”は世界的に有名で世界中の美術家に大きな影響を与えた事が知られており、中でもセザンヌ、ゴッホ、ビクトワール、ドガなんかが有名でゴッホに至っては北斎画の模写も現存していたりするんだな。
小生は幼少期4歳から美術の専門教室に通っていたので油絵は嫌いだけれど、この話は知っていたりする。
因みに、この景色は今のJR神奈川駅~横浜駅辺りが海だった時代、その沖合から見た富士山の風景なので今の大黒ふ頭付近か本牧半島の先端を回る辺りからの風景だろう。
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他にも多くの作品が展示されており自由に写真撮影出来る。
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これは賀奈川(神奈川)沖本杢(本牧)之圖(図)と書いて有る。初期の風景がで、神奈川沖浪浦と同じ辺りからの写生の筈だが浪も迫力が無い。
こう言った事も知る事が出来るので面白い。
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この絵は確か、駿河の海の上から見た富士山だったと思う。間宮家が蒲原代官として奉行を務めた蒲原宿沖合辺りからの眺望だろうか?
葛飾北斎が、こうした迫力の有る絵を描けたのは実は西洋伝来の“望遠鏡”を駆使してUP画像の様な構図を頭に描く事が出来たからと言われている。
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だから、こう言った円弧を意識した構図が発展期~晩年に多く成ったのだろうか?
すみだ北斎美術館には彼の生活の様子を再現したセットも有る・・・
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・・・これが生々しくリアルで気色悪い。しかも体温を感じず魂が入って無いので何だか死体を見ている様な気分に成るんだな(笑)。でも当時の彼の生活の様子を知る事が出来る貴重な展示物だ。
ここには美術品以外にも面白い展示が有った。
葛飾北斎の出生や血縁一族に関する解説なのだが、実は彼は忠臣蔵で有名な吉良上野介の家老、小林家の末裔らしい。
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そして更に面白いのが彼には不詳の孫がいて大層苦労したなんて事も解説されている(笑)。
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どら者(笑)。
今で言ったらニートだな。う~ん、いつの時代もニート問題は有るんだな(笑)。
しかもニートはニートでも、家の金を使い込むタチの悪いタイプだった様だ。
どら息子ってlazy sonって翻訳サイトで出るんだが、prodigalってのは“浪費家”って意味らしい。
つまり北斎爺ちゃんの金を使いまくっていたカスって事か。一族の恥なので系図上の名前も残して貰えなかったんだろう。
まぁ、そんな少し面白い葛飾北斎の歴史も見学し、最後に京都市の友人への出産祝いに江戸切子のグラスを買う為すみだ北斎美術館を後にして、FSA君に“すみだ江戸切子館”へ付き合って貰い移動した。
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残念ながら店内は撮影不許可と言う事なので、外観の写真だけ。
ここは面白い試みもしていて、一般人向けに江戸切子製作体験も出来るそうだ。
しかし、今回は贈答品なのでプロの商品を購入した。
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梱包前に記念撮影。
親子3人分、これで将来、生まれた子が成人式の時とか御酒飲んでくれたら嬉しいな~。
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とっても綺麗だったので、次回は自宅用に購入したいと思う。
買い物も終わり帰り道、首都高で位置を間違えて外環道を走る羽目に成った(笑)。
そして遠回りしてFSA君をJR関内駅近くまで送り届け、解散。
帰宅すると早速、梱包して貰った桐箱を更に段ボール箱に入れて緩衝剤を入れ、段ボールに千代紙を張り付けて注意書きをして郵便局員にも我物在中である事を目立つ様にした。
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後からネットで知ったのだが小生の知る限り神話時代の日本や室町時代以後の武士社会では盃や茶器を贈る事は非常に好まれていたのだが、誰が決めたのか庶民の間でガラスが普及するのは明治~大正時代に成ってからの話なのだが、現代ではいつの間にか「贈答品ガラスNG」としている出典不明のガセネタが流布されている様だ。しかも御笑いなのが、その日本文化にそぐわないルールを紹介しているサイトでは「ワイングラスを贈るのは最高の祝いの意味がある」等と恥ずかしげも無く矛盾した情報を掲載しているので御里が知れる(笑)。
恐らく、こんな下らない新ルールを作りたがる馬鹿は非日本人だろう。

結果的に本日、友人夫妻から御礼のメールと可愛い子供の写真が送られて来た。
〇〇ちゃん!御母さんと御父さんの良い所を受け継いで、賢く理知的で根性も有り日本文化にも精通した大人に成ってね♪

・・・今日のブログ記事はここまで。では、又、次の記事で!













想像力の無い教育委員会と、扇動されやすい大衆迎合主義バカ共の偽城郭ファンと俄ハイカーのせいで貴重な景観が失われた。

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竹田城址の有名な一本松が地面を踏み固められた事で枯れてしまった。
こうなる事は観光客が異常増加したのに立ち入り可能区域規制をしなかったので、多くの城郭ファン達は想像していたはず。

竹田城はアホな土木事務所が遊歩道建設の為に城郭の一部を損壊させたり、アホな観光客が事故起こしまくったり貴重な遺構を踏み荒らし前々から城郭オタクは警鐘を鳴らしていたんだが・・・

同地は安土桃山~江戸時代初期に横浜の殿様で徳川家康公の軍師だった間宮直元公が但馬奉行として治めた土地なのでハマっ子歴史好事家(マニア)としては非常に腹立たしい。

土木事務所と観光振興課の人、反省してね。
朝来市役所と県の各部署と城郭専門家を集めて色々想像していた議論すれば、朝来市の
観光業と共存しながら未来に竹田城は保存状態良いまま残せるはずですよ!

昨晩、綺麗な夜景を求めていつもと違う磯子界隈を走っていたら綺麗な夜景を見つけたので写真載せるだけの中身の無い記事ですが・・・
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JR磯子駅から徒歩だと少し無理な距離、東京ガス前バス停。そこから見たJXTG根岸製油所プラントの夜景。
夜景探してドライブしてたのにデジカメ不携帯のアホの小生、スマホ撮影。因って画質悪し。
この夜景の綺麗な場所は、東日本大震災発生当時に東北の人々を凍死の危機から救ったJR貨物と日本エネオス根岸製油所(当時)の人達の勤務場所なんだな。つまり現代の無名の英雄達の働く場所。
コレは明治時代の伊藤博文公や、東日本大震災時の根岸で働く無名英雄達の行動を紹介した記事。
  ↓

新磯子周辺 東京ガス前バス停位置 久良岐のよし
位置的にはこんな感じ、地図中央が東京ガス前バス停。
横浜市民にも知っている人は少ないけれど、実は、この先には良い海釣り公園が有ったり、東京ガスのISOGOエネルギープラザってのが有って、日曜日以外に施設が開かれていて火力発電の仕組みやなんかの模型の常設展示が見学出来たり出来るので小学生か中学生位の子供のいる家のパパさんママさんが家族で来ると良い場所だったりする。
そちらは手元に写真が無いので改めて写真撮影に行こうと思う。
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しかし綺麗だ。
昭和後期生まれには伝わると思うけれど“魔晄炉”みたいじゃない(笑)?
では!又、次のブログ記事で!

元号が書かれていないな・・・
© 毎日新聞 明智光秀の書状=美濃加茂市民ミュージアム提供 転載
これはむしろ、三重大学の藤田先生、見たい様に読み過ぎて間違っている様な・・・
まぁ、小生の様な素人には“高尚な研究”は良く解らんが(笑)。
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/明智光秀密書の原本発見-本能寺の変直後、反信長派へ/ar-AArIeH7
歴史オタクの勘だと・・・
信長公が義昭を将軍候補に奉じ美濃~近江を切り従えて入京した時の光秀の文章じゃないのか?
そもそも、雑賀党や紀州の豪族は真言宗信徒な訳だ。仮に藤田って学者の"願望"通りの打倒信長公の文章に成るなら真言宗信徒としての雑賀党より浄土真宗の顕如上人やその坊官達が宛先に成るはずなんだが?
まして、義昭が信長公排斥に転じる以前の室町幕府は"一向衆(浄土真宗)"としての宗教活動を弾圧禁止していた事実が有るんだな。それを踏まえると紀州の豪族と織田政権内の明智家が窓口に成りダイレクトにやり取りするのは、文書中の「足利義昭の許可の下で近江~美濃を切り従えたって文の主旨」からも信長公上洛時に足利義昭=織田家連合の上洛に協力し三好三人衆を紀州の豪族達が牽制してくれた事への礼とか諸々、紀州勢ー足利=織田政権の窓口としての明智とのやりとりと考えた方が自然では?
小生の推測が正しければ、明智光秀公は自称子孫の坂本龍馬ばりに浪人から各大名の間を取り持つ偉業を成し遂げていた証拠に成り、寧(むし)ろ藤田説より偉大な事をした大人物であり恐ろしい程の外交手腕が新たな評価に加わる訳だが?
・・・藤田さん、見たい様に見過ぎて読み違えてませんか?

・・・因(ちな)みに当該文書の所有者である美濃加茂市民ミュージアムも「期日に元号不記載」で「藤田さん独自研究の内容」って言ってるんだzo( ゚Д゚)ノシ!

ガラ携に熊本大地震被災前の熊本城の写真が残っていたいのでBluetoothでスマホに写真写しました。
なので、熊本城の以前の写真を貼るだけですが、皆にも見て貰いたいと思います。

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この長石垣も崩落したんだっけか?
確か、神風連の乱で反乱を起こした旧武士階級の多くがここで亡くなったはず。
小生が尊敬し、旧北条家臣の忠臣間宮家が統治した江島神社と江ノ島をこよなく愛した児玉源太郎閣下が反乱発生の翌日から指揮を執ると瞬く間に200人からの反乱武士は鎮圧された。
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枡形。ここに侵入した敵勢は前左右から鉄砲で狙撃され射殺される。鉄砲だけで無く弓矢を雨あられと射かけられ体中串刺しに成り、熱湯と沸騰した糞尿を掛けられ身体に高温の下痢糞がへばりついて深刻な火傷を負ってしまうんだな。
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多分、宇土櫓(うとやぐら)だったと思う。伝承では売国奸賊の小西行長の居城、宇土城から移築された旧宇土城本丸だとか説明が有った様に記憶しているが、年代的に整合性が無いと言う趣旨の説明をどっかで読んだような気もする。
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曲輪側から見た宇土櫓かな?この石垣は崩落したんだっけ?
崩落した箇所の耐震性不足の原因は昭和の無学な土木事務所が公園整備の際に地面掘り返して石垣裏の栗石(くりいし)を全て抜いたしまったせいで耐震性が弱くなっていたって専門家が解説していた。
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どこか解らないな~。本丸御殿では無いと思うので宇土櫓の内部だろうか?
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大天主、小天主の外観。
出来れば今回の被災を契機に鉄筋コンクリート製のこのビルも木造復興した方が良いとも思うが、先ずは石垣の復興が最優先。
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熊本県民の皆さんにとっては心の支えであり、日本人にとっては城郭の完成系であり宝とも言える熊本城、早く復興して多くの人が笑顔に成ります様に・・・

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現世で尊敬する人→週刊文春の取材スタッフ。
これが小生の尊敬する偉人リストに無名の偉人達として加わった。
ベッキー、今井議員、山尾議員・・・
あの取材力、過去の行政や利権政治家の悪事を歴史から暴くのが正義と感じる小生こと歴史好事家(オタク)として模範にしたい。

歴史は過去を教訓にする為に掘り返すジャーナリズムだから。

前の記事・・・
コレ→【前半:能見堂編】世界屈指の景勝地だった能見堂と鎌倉幕府重鎮金澤北条家の居城青ヶ台城址・・・金沢区
・・・の続きの後編。

前の記事では能見堂と言う、金沢八景の八ヵ所の景勝地を見渡せる場所として室町時代~江戸時代まで先人達に大切にされた場所を紹介しました。
その中で少し触れましたが、能見堂は実は日本城郭大系に記載されている青ヶ台城の一部として鎌倉時代末期に機能していたと推測出来る事と、日本城郭大系の青ヶ台城推定地は間違いではないけれど完全でも無いと指摘して余り詳しくは解説せずに能見堂の解説を行い前編として終了しました。
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その際にも掲載した写真なのですが能見堂は城郭マニアから見ると、どっからどうみても重要な曲輪の遺構の土塁が今も現存しており・・・
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更に、その能見堂入口は元々は木戸で塞がれていた城門の一つ土塁残存部か、能見堂の曲輪に入らないと先に進めない枡形虎口の土塁だった構造が現存している事も紹介しました。

さて・・・
この能見堂は日本城郭大系には青ヶ台城の一部としては紹介されておらず「東青ヶ台の地名は現在では残らない」と言う事実を述べた後で、その地区の城址に関する考察はしないまま「西青ヶ台と呼ばれた地域の阿王ヶ台団地にだけ地名が残っている」という事実と西側の城跡部分の紹介だけをして終わってしまっています。
推定の破壊され消滅した城跡は阿王ヶ台団地の“有る側の”菱形台地である旨が紹介されていたりします。下の写真が阿王ヶ台団地。
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この日本城郭大系を丸のみにして書かれていない部分まで触れない人達は「東側の台地も東青ヶ台と書かれているヒント」を読み解いていませんので、東横レジデンシャル辺りが城址だと書いている人も良く見かけます。
さて先生方が当時、何らかの事情で東側の開発を行った業者に配慮する必要が有ったかは謎ですが、東側の解説について話題を積極的に触れないのは少々不自然な印象を小生は受けました。先生方は当然、この能見堂にも足を運んでいる筈なので、“敢えて書きたくない事情”が有ったのかも知れませんね。


さて、ここからが小生の解説ですが、その前に日本城郭大系を編纂した先生方には御存命中の方もいらっしゃるので先に敢えて秘したであろう東側に触れる事を懺悔をしておきます・・・
「日本城郭大系を編纂した先生方、申し訳ございません。部分的に否定的な事を今回は書きますが、先生方の事業は偉大で、横浜市内の城の存在を知らなかった頃~現在に至るまで教本として拝読させて頂いております。当然、この偉大な事業を行った先生方は学者嫌いの小生ですが尊敬しており侮辱の意図は毛頭無く、それを踏まえて今回は恐らく未調査の能見堂の事と、何故先生達が阿王ヶ台団地の台地だけを城跡として紹介したかの原因の推論と小生の推定城域を解説させて頂きます。」
・・・では!解説に!
新編武蔵風土記稿には以下の様に城跡が紹介されています。

※暫(しばら)く文字だらけに成りますが我慢して読んで下さい(笑)!

※以下( )内の字は旧字体を現代の新字体した字と読み方。
舊蹟(旧跡)城山
高札場より北の方なる山を云(言う)、此(この)山相對(あいたい)して二つあり①、都(すべ)て青野臺(台)②と唱(とな)へ、又東青野西青野と分(わけ)てよべり③、古(いにしえ)金澤右馬助(うまのすけ※官位名)④が居城の地なりと云、山上平かにしていかにも城壘(塁)なとかまえし所と見えたり、右馬助がこと其(その)傳(つた)へ定かならざれど-以下省略-

・・・さて、先ず、この文中で登場した金澤右馬助と言う人物の正体ですが実はとても偉い人物です。この人物の省略名は金沢(かねさわ)北条貞顕(さだあき)公の事を指していて、この方は鎌倉幕府滅亡直前の最後から2番目の執権(しっけん)、つまり鎌倉幕府の総理大臣を務めた人物でした。

そして青ヶ台城の解説として着目すべき地形の特徴と当時の地名も文中に書かれています。
御城の在(あ)った場所は高札場の北側の山で青野台と呼ばれていました。
青野台は向かい合って2つの山から構成されていました。
東西で向かい合う様(よう)な形の青野台は、その位置から東青野、西青野と分けて呼ばれていました。

さて、この①~④だけ読むと何だか現在、阿王ヶ台と呼ばれている台地だけがそれらしく感じてしまい、現在の阿王ヶ台地区の中で東西に山並みが向き合っているのかな?と現地を訪問しないと勘違いしてしまいます。
まぁ、そもそもの地名が青野台(あおのだい)なので、恐らく江戸時代には阿王台(あおうのだい)と文字が転訛して書かれていたのを移民だらけの横浜市役所の役人が地名の読み方を誤って他都市の地名風に阿王台(あおうがだい)と呼んでしまい、更に御丁寧に誤った発音のルビを足(た)して「阿王」+「ヶ」+「台」と地名改変してしまったんでしょう。
これは御役人に横浜市域の事情を知る地元民が少ないならではの事情ですね。

さて、これだけを見ても現代では大まかな位置関係しか解らず“高札場の北側の山の上一帯”と言う事しか分かりません。
そこで調べなければいけないのが“高札場の位置”なのですが、現代では役所も教育委員会も旧地名を把握していませんし、そのせいで恐らく日本城郭大系を編纂した先生達は高札場の位置が詳しく解らなかった可能性も有ります。
城址の位置を紐解くには実は先に紹介した新編武蔵風土記稿の“舊蹟城山”の項目だけ見ても解りません。
先ずは周辺の地理を見て見ましょう。
金澤領赤井村小名大橋の位置 久良岐のよし
※拡大して見て下さい。
高札場は村の旧住所で小名:大橋に在ったとされますが、この「大橋は村の中程に在る」と言う主旨が書いて有ります。この場合の中程と言うのは東西の位置関係を示します。
その村の小名の位置関係を以下に紹介します。
【小名】
赤坂     村の中程を云(言う)
赤井     東の端なり
御中井    中程なり、爰(ここ)に御中井と呼る井戸あり、名義詳(つまびらか)ならず、
宮谷(みやがや) 西の方を云
和田      (宮谷と)同じ方にあり
大橋     中程を云、爰に大橋と呼(よぶ)橋ある故(ゆえ)此(この)名あり、
瀧(たき)    艮(うしとら:北東)の方を云、此所(ここ)に不動山と稱(称)する山あり山上に-以下省略-

【川】
西南の方坂本村より村内に入、川幅二間(にけん:約3.6m)許(ばかり)、手子明神の前にては宮川と呼り

・・・さて、旧北条家臣の御子孫で新編武蔵風土記稿を編纂した学者で東大の前身昌平坂学問所の頭取だった間宮士信さんは以上のヒントを後世でも解る様に残して下さっています。これから大凡(おおよそ)の位置を把握できます。それに加えて以下の取材結果の情報も紹介します。
【正法院御住職談】
「大橋と言う地名が何処かは今では解らないけれど、御仲井(風土記では御中井と書く)の辺りには屋号が"お橋"の家が昔居たんだよ」
この「お橋」は恐らく大橋を指します。
実は!小生を含め久良岐郡の浜っ子は地名の“大(おお)”の字の発音を省略して「大(お)」と呼ぶ事が有ります。その例が電車の到着音に「ゆず」の「夏色」がかかる「上大岡(かみおおか)駅」です。駅のアナウンスや他地域から引っ越してきた人は「上大岡(かみおおおか)」と御丁寧に面倒臭い「お」の発音を3つ全部読んでしまいますが、浜っ子はそうは読みません。正しくは上大岡(かみおおか)と呼ぶのですが、それも移民だらけに成って知らない人の方が増えているのかも知れませんね。

この様な地名の呼び方や発音の変化は横浜市周辺の極狭い地域でも有って、例えば鎌倉の由比ヶ浜(ゆいがはま)の発音も我々神奈川県湘南地域に近い地元民は「由比ヶ浜(ゆ↓いがはま)」と「い」の発音を低くしますが、それを知らない東京や他地域からの観光客は「由比ヶ浜(ゆ↑いがはま)」と「い」の発音を強調して発音してしまいます。これは本来の「由比」と言う地名を知っているかどうか認識の差に起因しています。
他にも読み方自体が変化する例も有ります。
例えば・・・
●鎌倉市の「扇ヶ谷(おおぎがやつ)」
●横浜市の「幸ヶ谷(こうがや)」
・・・この様に隣同士の久良岐郡域と鎌倉郡域で〇ヶ谷の読み方でも訛(なま)りが異なる事実も有ります。
まぁ、そんな訳で久良岐郡域である上大岡同様に、金澤領の赤井村の小名:大橋は大橋(おはし)と発音した事が正法院の御住職の御話から推測出来ます。
そして御仲居と昔呼ばれた地区は現代では宮川左支川と言う宮川支流が暗渠化しており、“大橋”は現代では消滅してしまっている事も解ります。

では、これらの情報を元に暗渠化された宮川支川の位置から大橋(おはし)の位置を推測し、他の地域の小名と一緒に位置関係を表示してみましょう。
旧赤井村小名位置関係 久良岐のよし
※写真は国土地理院の色別標高図をGoogle earthに重ねて登録した各地域の位置を合成したもの。
これを見ると解りますが、「村の中程」と表記された坂本村、御中居、大橋は若干左右にブレており東青野~西青野の両地域のど真ん中ながら両方の台地に跨って新編武蔵風土記稿は「村の中程」と表現している事が解ります。
そして現在の能見堂緑地~阿王ヶ台にかけてを「高札場より北の方なる山を云」と広範囲指して表現している事も解ります。更に、実際の地形は東青野も西青野も赤坂村からしか容易に侵入できない断崖絶壁が続いている事から、赤坂村が青ヶ台城の大手口だったと推測出来て、日本城郭大系で指摘されている“西青野の菱形の台地”も城址の一部である事が解ります。
CIMG4727
上の写真は赤坂公園付近から見た旧東青野台。
下の写真は略(ほぼ)同一から見た旧西青野台。
CIMG4728
とても険阻な地形で、ここからしか大軍で侵入出来ないので防衛に適した東西の台地から敵を鶴翼の配置で挟撃殲滅する事が出来ます。
青ヶ台城地形 久良岐のよし
そして小生は鎌倉時代に海に突き出した能見堂~不動山の半島も金沢湾を守る城の最東端であり城域だったと推測し本丸跡は丁度、西青野台と東青野台の繋ぎ目の能見台南小学校東側の青野台の最高所辺りで、状況的に赤坂~西青野台の東端は城の大手口、東青野台よりに城砦群の多くが存在したと地形的に推測しています。その根拠と成るのが籠城に必須の“水の確保”で、小生が本丸と推測する辺りの東側には大きな湧水と沢を集めた不動池が存在して事、それに加えて能見堂の土塁群と東側の尾根地形は平安~鎌倉時代達に好んで築城された地形であり西青野台(現在の阿王ヶ台)地域より高所に位置するからです。
赤井村 久良岐のよし
推測ですが、正法院裏山~能見堂にかけて、それと金子鶏卵東側の断崖の先端辺りには人口地形が残っている筈です。
恐らく昭和に東側が着目されなかった付近の地名を"能見台"に改竄されたり東青野台の地名を消されたからでしょう。
土着民以外が解らない“政治的工作”が行われたのかな?
開発した人間は“遺跡が出るとマズイ”人で、それを忖度(笑)した連中が市や県にいたのかも知れない。そして上行寺東遺跡の様に日本レベルで重要な武家金沢北条家の居城跡を潰してしまったのかも知れませんね。
秋の終わり頃に成りスズメバチや蛇の心配が無くなった頃に現地を探索して改めて皆さんに報告したいと思います。
CIMG4721
絶対に東側まで城が広がっていた状況証拠と地形と水場が有るからね。
調べない手は無い。

本来ならば神奈川県教育委員会や横浜市教育委員会がやるべき所なのだけれど、上行寺裏の稲荷山も“荒尾城址臭い”所も含めて調べられる“城郭専門家が横浜や県教委”には何故か不可解にいないんですよ~。鎌倉の隣であり北条家の主力が温存されていたのが横浜市なので当然、重要な城跡だらけなのにね。
調べられたら困る“市長”が歴代に多かったんでしょう。
マトモなのは建設族ながら教養と文化度の高かった細郷市長と高秀市長くらいか・・・
逆に御二人は建設族だったからこそ、建設利権に費やすべき予算を使って保護すべきものを保護する術を知っていたのかも知れない・・・
今の市長と前代市長とは大違いだな。まぁ、前の中田さんは横浜の日本最古級だった骨董品水道管を耐久性強い物に交換始め大震災に備えただけ良い市長さんだ。

では皆さん、又次の解説記事で御会いしましょう!






ブログネタ
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品川の次の駅の東海道新幹線の乗車駅は新横浜駅ですが…
その新横浜駅に「篠原口」と言う出入り口があります。

実はこの新横浜駅、すぐ裏が「篠原城」と言う御城の跡なんです。
皆さんご存知でしたか?
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…とは言っても、他の城の例に漏れず、神奈川県教育委員会はちゃんと発掘調査もしない内に宅地開発を容認し存在すらスルーしやがったせいで、この城も他の県内の城同様に消えかけています。
神奈川県は特に"戦史として或いは所有した大名達の家格からして"超重要な城跡が比較的多く有りましたが、それらの城址は今、篠原城と同じ様に神奈川県教育委員会が重要性の認識が足らず保護を怠ったせいで大部分が破壊されたか、或いは完全に消滅、又は最後の残存部が消滅しかかっています。

以下に列挙する城址は神奈川県下でも特に重要だった場所です。

衣笠城址…平安時代~鎌倉時代の鎌倉幕府有力御家人三浦家の本拠城址。
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小机城址…鎌倉~戦国時代の城址。畠山重忠公子孫豊島家築城風魔忍者管理人北条幻庵公の本拠地。
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青木(権現山)城址…足利尊氏公が築城し、北条家臣間宮家が籠城し、北条家五色備え隊の黒ぞ備え隊の軍団長で名軍師の多目元忠公が改修し城主と成った城。…関連記事リンク→「ココ 

蒔田城址…足利家の一門の高家、蒔田吉良家の本拠地だった横浜市南区の城。
…関連記事リンク→「ココ

永谷城址…関東管領上杉家筆頭四家の一家、宅間上杉家の本拠地だった横浜市港南区に有った城。
…関連記事リンク→「ココ

笹下城址…北条家武蔵国水軍を統括した間宮家の横浜市港南区~磯子区にまたがる巨大な城。
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玉縄城址…城主は名将北条綱成公で鎌倉市大船駅近くの武田信玄や上杉謙信を撃退した名城。
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小田原城址…戦国時代の北条氏の本拠地で、現在の小田原城は江戸時代に戦国時代の城址一部分だけを残し規模縮小された言わば徳川家に破壊された城址。元の城域は現在を遥かに凌駕する規模だった。
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石垣山一夜城址…豊臣秀吉による小田原北条氏攻めの本拠。木造建築物は消失しているが、石垣の保存状態は極めて良好。
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七沢城址と糟屋館…関東管領扇谷上杉家の初期の本拠地で相模国の政治の拠点だった伊勢原市に有った重要な城。
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岡崎城址…鎌倉期岡崎義実公が築城し、戦国時代三浦家の本拠だった平塚市~伊勢原市にまたがる城。…関連記事リンク→「ココ 」 


新井城址…戦国時代、四年間にも及ぶ籠城戦の舞台に成った三浦半島にあった三浦家最後の居城。
…関連記事リンク→「ココ 」 

…これらの城址の内、"保護されたのはわずかに江戸期小田原城・衣笠城址・小机城址のみ"で、それ以外は城址の体を成さない程に破壊されつくされてしまいました。
保護されなかった城址の内、破壊前にちゃんと調査された城は"岡崎城址・七沢城と、小田原古城"だけですが、小田原古城以外は全容が解明されず部分的な調査の後、宅地開発容認され破壊されています。

今回の記事で取り上げる篠原城は、"教育委員会の働き掛けではなく地元の有志の自主的な保護活動の結果残存しました!"ので、真、有志の皆様には頭が下がるばかりです。
この篠原城と同様に、地元の地権者の方々が土建屋の開発を阻止し続けて城址として今日に残った城が先述の「小机城址」と、その内にブログで紹介するつもりの横浜市都筑区のセンター南駅前にある「茅ヶ崎城址」、「大和市の深見城址」です。 


この篠原城址も放っておいたら教育委員会が調査もせずに完全消滅していた訳です。

さて、この篠原城址ですが、やはり既に大半は破壊されてしまっています。
しかし残存部以外にも周辺に城塞の人工的な地形の名残は見て取れました。

例えば城址に至るセブンイレブンの後ろの旧道… 2014-01-26-11-25-48
…とクロスする登城口であっただろう細い坂道の横に駐車場が有るのですが、丘の斜面を人工的に削り込んだと思(おぼ)しき地形が有りました。
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この壁面は笹下城の本丸の切岸や小机城の横堀、榎下城の大堀切に酷似しています。
斜度は60°以上あるかな?
恐らく駐車場に整地する際に、空堀の反対側の土塁壁は土建屋に取り払われてしまったのでしょう。
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   ↑
この上の写真を見た後で…
下の笹下城本丸跡と小机城の横堀と見比べて下さい。
   ↓

(小机城の横堀) 
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(笹下城本丸直下切岸と空堀址で堀の切岸片側半分が団地建設時に消失している。)
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(笹下城本丸跡、通称"ハゲ山")
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※2017年時点で三井不動産レジデンシャルの宅地開発により切岸一部破壊と本丸空堀は消滅。
笹下城空堀の様子 久良岐のよし撮影
※因みに笹下城は完全な空堀遺構が2014年まで成就院側に有りましたが、教育委員会が不可解に史跡認定せず破壊容認し宅地化されました。
現在残る本丸の切岸も保護されておらず、土建屋の開発に目下さらされております。

篠原城址現存部に至る最初の登り口の写真、この小机城と笹下城の写真と角度や高さもソックリでしょう?
どうやら室町時代に造(つく)られた関東流の城は、似た傾向がある様です。
山を削り込み兵を展開できる中国や西洋の城壁の様な構造にする築城法は、既に平安時代の衣笠城ににもありましたが、この横堀構造は室町時代くらいから始まるみたいですね。

室町時代後半の北条流に成ると、これに更に障子掘りなのどの超個性的な防御施設が加わります。
この篠原城は、恐らく江戸城を築城し、扇谷上杉家の執事(しつじ=当主の代理人)と相模国守護代(しゅごだい=県知事の代理)を務めた大田道灌公が小机城を攻めた頃に築城されたのだと思います。
つまり、戦国時代の初め頃ですね。
だとすると、小机城や笹下城と同時代の築城なので似ていて当然と言う事に成ります。

篠原城址の残存部分=本丸?に至る道すがら本丸直下と思われる場所の駐車場には、他の関東の城址と同じく元々この地域に昔から住んでた住民の方々が城址を鎮護する為に勧進したと思われる"稲荷神社"がありました。
関東人、こと鎌倉武士の時代から地元の殿様をリスペクトする習慣があった移民では無い神奈川県民は、よく自分が仕えた殿様の家と城址を想いこの様に御稲荷さんを祀って、自分達のルーツを忘れない様にしたんですね。
ですから長尾城址にも小机城址にも、同じ様に人の入らなくなった様な斜面にも稲荷神社が在(あ)ったりします。
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この坂道を上り右手に切れるた住宅地の中の林が、篠原城址の残存部分です。
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   ↑
うっそうとしてますが、これ、土塁と土塁の間の堀底道です。
手前の盛り上がりは曲輪(くるわ=兵を置く防御スペース)と曲輪を繋ぐ空堀にかかる土橋の跡ですね。
これは土橋を下から撮影。
   ↓
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篠原城は有力武将の居城ではないので規模は大きくありませんんが、恐らく隣の大豆戸城と同じ丘陵上で余り離れていないので"二城一体"で八王子滝山城と高月城址の様(よう)な構造だったのだと思います。

この御城の空堀は、恐らく往時の深さは2~3m程度、土塁の高さも2~3m程度合計4~5m程度の深さだったと思います。

篠原城単体ではセンター南の茅ヶ崎城と同程度の規模か、それ以下の規模だったと思います。
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すでに城址の大部分が破壊されて、もうほとんど全容が解らないんですが、有志の方が推定図を書いていますのでネットで探してみると良いと思います。

付近の航空写真はこんな感じです。
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写真左下の新幹線の走る線路の直ぐ上、駐車場の有る建物がセブンイレブンです。
そのセブンイレブンの有る十字路を左右に突っ切っている道が旧道です。
その旧道をつっきり写真上にいくと先に載せた「切岸と思われる斜面」に行きつきます。

新横浜駅のすぐ裏に城跡が有ると言うのは、歴史を全く知らない移民の方には結構衝撃的だと思うのですが…
さて、ここから文字だらけに成ります。

この城を守っていたのは

戦国時代に北条家がこの城を接収して以降、“篠原代官”として金子出雲守が配置され、その子孫は現在に至るまで篠原城址付近に住んでいます。


江戸時代の新編武蔵風土記稿を編纂した昌平坂学問所(東京大学の前身)の頭取、間宮士信(ことのぶ)公の祖先も小田原北条家臣で相模国十四騎筆頭の間宮家だったが、その同じ北条旧臣が編纂した「新編武蔵風土記稿巻之六十六橘樹郡之九神奈川領の中の篠原村」の項目に“小田原所領役帳”に金子出雲守の記載が有る事が紹介されている。

そこには篠原城の遺跡についても言及されており以下の様に紹介されている。


〇篠原村

-以下中略-

小名(こな:昭和の郵政法成立による住所改定まで使われれ番地に相当)

城山 北方の村境にあり、金子十郎の城跡なることは後に出せり

-中略-

古城跡

村の北の方にあり、金子十郎家忠の城跡なりと云、家忠居住の地は多摩郡金子村(現:調布市)の外にも所々にあり、恐らくは金子氏の子孫が砦のあとか、または当所の代官金子出雲が壘址(るいし:砦の跡)などと言わばさもあるべきか、今見るところ僅(わず)かに四五段許(もと)の芝地域は断崖の所ありてから堀の形も残れり(恐らくコレがセブンイレブン近くの駐車場や山頂の堀切等の事)。

-以下省略-


以上の様に、この記載を以(もっ)て篠原城址として当地が比定される確固たる証拠と成る訳です。


実際に小田原所領役帳の"本光院殿衆"の欄には以下の記載が有あります。

“小机 三郎殿。八百八十八貫九百五十六文”

-中略-

百十弐貫四百八十文

猿山。代官遠藤兵部衆

八朔。同小野與兵衛。

本江。同陰山又六。

篠原。同金子出雲。(←篠原城代)

さて、この本光院殿衆と言うのは、北条綱成(つなしげ)公以前の玉縄城主で北条氏康公の実弟、北条為昌(ためまさ)公に付けられていた与力衆の軍団です。これが後の小机衆の原型に成った北条家五色備えの内の“白備え隊”でした。
その軍団長は初期に置いては小机城代の笠原信為公でしたが、状況的に北条為昌公が旗頭だったようですね。しかし北条為昌公は若くして亡くなってしまいましたので、その後は玉縄城主の座を妹婿で義弟の北条綱成が継ぎ、小机周辺の軍団の大半は名軍師で為昌公の叔父に当たる北条幻庵公に引き継がれました。これが小机衆編成の切っ掛けです。
余談ですが、当時の北条家当主は北条氏康公ですが、先代の第2代北条氏綱公の時代には「家臣団から見て為昌公の兄君の北条氏康公が少し変な人だったのでマトモな玉縄城主北条綱成公を跡継ぎにしようとする動きも有った」なんて伝承が有りますが、これは北条綱成公でなくて北条為昌公の誤りでしょう。
北条為昌公の名前は重臣の笠原信“為”(のぶため)公と大道寺盛“昌”(もりまさ)公が後見人と成っていたので御二人の名前を一文字づつ頂いています。つまり重臣を従え長男差し置いてクーデターを計画出来るのは為昌公しかいない訳です。しかし、為昌公は早死にしています。
・・・小生はこれを兄の北条氏康公か叔父の北条幻庵公による誅殺だと推測しています。事実、2代当主の北条氏綱公の代まで厚遇されていた笠原家は、これ以降は給与も抑えられ出世コースから外れて行く事に成りました。
因みに現代では金子出雲守の大将だった北条為昌公の墓所は解っていませんが、小生は金沢区町屋の伝心寺が墓所だと推測しています。
IMG_7064

ここは為昌公の次の次の代の玉縄城主2代北条氏繁公が大永元年(1521年)に開いたと伝わり、その墓所とされる石塔も現存します。が・・・
これは記録が誤っていて北条氏繁公は天文五年(1536年)の生まれですので伝心寺を開くのは不可能です。実は歌手“ゆず”の地元の磯子区岡村町に“龍珠院”と言う御寺が在るのですが、其方(そちら)は伝心寺の末寺でした。
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元々は北条綱成公が支援し、その綱成公の子である氏繁公が本格的に御寺として開いた事が確認されています。ですので現在の伝心寺の伝承は、末寺の記録を読み違えて伝えてしまっている事が解ります。
では金子出雲守の上司、北条為昌公が伝心寺を開いたのかと言うと、それも違って伝心寺が開基された大永元年(1521年)に対して為昌公の成年が永正十七年(1520年)なので1歳で権力を行使する事は有り得ません。つまり、伝心寺を開いたのは為昌公の御父上の北条氏綱公と解ります。そして恐らく北条氏繁公の墓と伝わるのが行方知れずの北条為昌公の御墓なのでしょう。
つまり、御墓の伝承と末寺の伝承を過去の和尚様がシッカリ伝えていなかったのでゴチャゴチャに成った挙句、度重なる戦火で記録が無かったので混乱したまま現在に伝わっている事も解る訳です。
下の画像は金沢区が作成した金沢歴史地図上に当時から有る神社仏閣を表示した画像です。
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
当時の金沢区は白い部分全てが海で、鎌倉の玉縄城の相模湾側の港として機能し、そして平安時代末期には風景の美しさから観光地としても有名でした。
為昌公が“政治的に処罰された”と考えれば、玉縄城下の御寺に御廟所を設けるのも憚(はばか)られるので北条為昌公の旧支配地で玉縄からは離れた景色の美しい金沢に父上氏綱公が建てた御寺に為昌公が葬られるのはごくごく自然な事だと思います。
さて・・・
金子出雲守の上司の解説はここまでにして、篠原城の話に話題を戻します。

・・・篠原城は肝腎の城址としては大部分が宅地化で消滅しましたが、ここ数年前、奇跡的に残存部が破壊を免れ発掘調査されたので、現在も間宮士信公が私達に残して下さった記録の空堀の跡等を見る事が出来ますね。

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個人的な意見ですが、太田道灌公が小机城攻めの際に詰めた"亀甲山城"はこの篠原城の事だと思う。

城郭に専門家は余り知る人もいないが、古代の新横浜一帯は海に突き出した半島と“亀甲峠”と言われた場所で、浦島太郎伝説の有る神奈川区浦島町や日本武尊神話の残る六角橋から続く峠道であり、鶴見区東寺尾中台~神奈川区三枚町には亀甲山の地名が現在も残り、その三枚町は江戸時代まで三枚橋と呼ばれ古代に“店屋”と呼ばれていた事が判明している。この店屋と言うのは古代の駅伝制の中継基地の事である。
下の画像は緑色の部分が古代の陸地で白い部分は神話時代の海だった低標高地域。
亀甲山推定範囲と城址の位置 久良岐のよし
※画像クリックすると拡大します。
画像の中央部が太田道灌公が攻めた小机城、その直ぐ右手東側が篠原城。

確かに、こうしてみると鶴見~神奈川区にかけての半島の形は亀の背中の様に見えなくもない。
つまり、この「鶴見区東寺尾中台~古代の半島一帯の広大な範囲が嘗ての亀甲山」と呼ばれていた事が解り、その峠越えの中継基地の古代の港が三枚町と六角橋に有った事が解る。
その証拠に、この旧亀甲半島の尾根には師岡熊野神社~六角橋の宝秀寺~神大寺~と延喜式外社や古刹寺院と旧跡、そして交通の要所である旧街道の入口を抑える丘の端に多くの城址群が存在しています。

古代の街道を太田道灌公は江戸から攻め上って来て、現代と異なり亀甲山と言われた地域の中でも店屋地区に近い場所にある北条政権下では篠原城と呼ばれた「亀甲山の城」を小机城攻めの付城にしたのでしょう。

尚、日本城郭大系では古代の茅ヶ崎城側の鶴見川対岸を古代に亀甲岬と呼ばれたので亀甲山城と名前の類似性から推定しているが、開発前に遺構が微塵も記録されていないので、これは誤って場所を推測してしまったと思われる。何せ亀甲山は神奈川区側なのだから。

それに対岸側に本陣の陣城を置くのは非常に問題が有る。
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※小机城残存部の推定縄張り復元図
当時の鶴見川は河川工事前の激流な上に流路が小机城の真下を流れていたので、太田道灌隊が小机城を攻めようとすると毎回危険を犯して鶴見川を渡り、退却の度に川を渡る時に追撃されてしまう訳だ。

流通遮断なら大曾根城と篠原城と茅ヶ崎城と佐江戸城と榎下城で十分だし、敵の補給と退路を断ち城を捨てさせて炙り出すには篠原城か大豆戸城に居た方が海へ出る事を阻害し鶴見川下流の港を押さえるのに都合が良い訳だ。
小机城包囲と城址の位置 久良岐のよし
更にこれより西南の西区、中区、南区は当時は完全に太田道灌公と同盟者の蒔田吉良家の勢力圏だったので小机城に籠城した豊島勢の残党は南や西には逃げられない。
道灌隊が行軍した際に在陣した道灌森も神奈川区側に有る。道灌森と言うのは、陣城にしていた現在の神大寺旧跡の場所の事なのだが、道灌公は江戸から進軍して来る際に、鶴見区海側から神奈川区域に入り亀甲山の尾根伝いに神大寺に入り陣地を構築し、篠原城や大豆戸城を攻略して港北区域に侵入した事が解る訳だ。更に御丁寧に佐江戸に陣城を築城させて小机城を完全に取り囲んでしまった訳なんだな・・・


まぁ、そんな事を考えながら文献読んだり現地訪問すると発見もあり楽しい訳だ。


・・・皆さんの御近所にも、必ず!こう言う文献から昔の英雄達の行動に推測を巡らす事の出来る御城の跡は沢山有るはずです。
なんせ神奈川県や東京都や千葉県や埼玉県の方々なら、鎌倉武士の本拠地の鎌倉がすぐ近所で、それぞれの町に鎌倉御家人が住んで居た訳ですしね。
まして!
この関東沿岸部一帯は古代から素戔嗚尊(スサノオウノミコト)が国を開拓したり、神武天皇が城を造りたいと言ったり、日本武尊が遠征に来たり、平安時代に醍醐天皇の命令で平良文公が鎮守府将軍として赴任して来ていた訳ですから。

今まであんまり歴史に興味の無かった皆さんが、もし!この記事を読んで下さったなら…
是非、これを機に、ご近所の御城を散歩してみませんか?

次の青ヶ台城解説記事UPは30日を予定しています。
地形図加工するの面倒なんで少し時間かかります。

最近忙しくて1週間1度ペースの更新がやっとですが、ちゃんと玉縄北条家や間宮家や宅間上杉家や蒔田吉良家の顕彰活動と関係先取材は休日に仕事空け徹夜で続けていたりします。
只単に、仕事が繁忙期で深夜に残業終わって朝方に帰宅し、そのまま徹夜で取材に出かけると夜20時頃に帰宅して自分の部屋でPCの前に座ると“落ちて”そのまま寝てしまう事ばかりで更新する体力が年齢も有り無いだけなんです。
まぁ、本業と歴史オタク趣味の歴史取材と副業の3つを1日で回せる体力がいよいよ無くなる年齢に成って来たみたいです。もうオッサンに成るのかな?
まぁ、友人は子供いる奴も多いしね。
小生は若い頃、最長56時間睡眠しないで行動したりアホな事が出来ました。でも今は1日+半日が限界の様です…
それもリポDとか2本位飲んで。
まぁ、昔の人は人生50年と言いまして、尊敬する武人で僧侶の一人でもある熊谷直実公が討取った敦盛サンを題材にした能でも、そんな内容に成っていますね。
…小生は躊躇なく睡眠時間を削って命の有る内は行動出来るのですが、不本意ながら最近は1日半起きてると自動的に脳みそがログオフして帰宅後に寝落ちしたり、たまに起きようと思っている時間に起きられない事も有る様に成って来ました。
ザブングルじゃないですが「くやしいです!」と本当に思う。
1日が24時間じゃ足りない。
駄目ですね~。もっと精気を残りの歯磨き粉のチューブから絞り出す様に出し尽くさないと(笑)。

さて、そんな行動時間が段々短くなりつつある結婚適齢期過ぎた小生、ここ2ヶ月間の最近の訪問先はざっと以下の様な感じです。この他にも書いてない藤沢文書館とか鶴岡文庫とか鎌倉中央図書館とか、調べ物行く場所とかね、有るよね…
●07月第1週・・・
京都の友人来訪につき中華街ディナーと関内の“日本初”史跡案内と大桟橋の夜景観光。
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●07月第2週・・・
油壷にて新井城落城日に三浦道寸公と義意公父子と三浦家北条家将士供養の墓参献花、荒井浜散歩。
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佐島マリーナホテル宿泊
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三浦市下宮田の農園で西瓜購入してから横須賀PAで横須賀海軍カレーパン買い食い
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●07月第3週
天然記念物諸磯隆起海岸で隆起断層の写真撮影
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三崎町の海南神社参詣、例大祭見学
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三崎漁港の紀の代で食事
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三浦市下宮田の行きつけの石井農園直売所ザ作兵衛で西瓜購入

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●7月第4週
能見堂の写真撮影に能見堂緑地再訪
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青ヶ台城址
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京都時代に良く食べた京都ラーメンの魁力屋、家から近い六浦店で夕食
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●08月第1週
尊敬する和田義盛公を祀る三浦市初瀬和田の神社を訪問。
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和田城城址一帯を散策し城遺構の残存地形を発見、写真撮影
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和田名浜を散歩し初対面の地元の人と色々話し込んで名浜の事を教えて貰う
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長井城址訪問
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神奈川の景勝50選荒崎海岸で夕月と荒波を見て過ごす
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●8月第2週
金沢区の稱名寺で豚さんと散歩、猫様モフモフ
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ベイサイドマリーナで服買って帰る。
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三浦市和田と荒崎の海が気に入り再訪
昼の和田名浜
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夕方の荒崎海岸
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三浦海岸花火大会を海辺じゃない秘密の場所でエアコン効かせてポテチ食べながら花火鑑賞
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金沢区の元料亭、文化財の旅館の喜多屋にランチに行く
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事前交渉の上で喜多屋さんの御厚意で旅館施設を特別に拝観させて頂いた。
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●8月第3週
パシフィコ横浜で開催中のヨコハマ恐竜展に妹と甥っ子と姪っ子と母を連れて行ったが展示が下手
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初めて入った中華街の某食べ放題店が激マズで中国経験者の小生と妹は「二度と来ない」と酷評
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瀬戸神社と琵琶島弁才天参詣し瀬戸神社の資料購入
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琵琶島弁才天で源頼朝公と北条政子様御夫妻、鎌倉公方足利持氏公の御霊へ御挨拶
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上行寺へ御参りに行き荒井吉光公の御霊へ御挨拶
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●8月第4週
磯子区洋光台の豚カツの名店かつ亭で昼食、ヒレカツ美味っ!
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三浦半島東部をドライブ&散歩
浦賀ドッグ、最近まで現役だった明治時代の造船所史跡。
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小田原北条家奏者、間宮宗甫公の所領だった西浦賀(旧紺屋町)から見た浦賀港対岸の浦賀城址の山
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浦賀の渡し船、平安時代からの庶民の足
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紺屋町町内の旧迴船問屋
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叶神社、東浦賀と西浦賀、浦賀郷の東西に在る両方御参りすると縁結びの御利益が有る神社
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東福禅寺・・・浦賀奉行所の同心、臼居家や岡本家等旧北条家玉縄衆子孫と思われる人々の菩提寺
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浦賀奉行所址、旧造船所職員団地は取り壊し中
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旧奉行所の堀が団地を取り囲んでいた水路の石垣に江戸末期らしき腐食具合の石材が現存してた。
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為朝神社、源“鎮西八郎”為朝公を祀る神社。
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そこから観音崎へ移動し多々良浜で綺麗な浜辺を散歩
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走水神社を参詣し、日本武尊と弟橘姫様の御夫婦神様に日々御守護下さる御礼の挨拶
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走水海岸の“かねよ食堂”で夕食をとり、馬堀海岸で八景島花火大会を見て帰宅。
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・・・これがここ2ヶ月間の行動。
いずれ休日雑記か解説記事で個別に新規紹介したい場所もちらほら。

では次の記事は能見堂&青ヶ台城編の後編青ヶ台城の解説の記事を30日夜中にUPします。
皆さん、最近は蒸し暑かったり嫌な天気ですが、体調崩さない様に気を付けて下さいね~!
では!






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