歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。
皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪
…と、思って書いています。

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関係先と小生の個人的な信頼関係で了解をとって記事にしているので、転載したい場合は当方へ確認願います。

皆さんは横浜市旭区役所が歴史的に凄まじく重要な場所に建てられている事を御存知でしょうか?
旭区役所周辺畠山重忠公史跡 久良岐のよし
現代の地図を見ても何でここで畠山重忠公が討死する事に成ったかは、多分、旧相模国住吉郡と愛甲郡の住人の方は解るかも知れません。
小生は現地を訪れた時に地図を見ていて「アっ!」と直ぐに解りました。
畠山重忠公を射殺し討ち取った鎌倉時代の名将の領地と附近を通る街道の名前がリンクしたからです。
先ずは事変の遠因と二俣川合戦の発生経緯の推測を説明します・・・
鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝公には政権内に頼りにする武将と目の上のたん瘤(こぶ)の様な親族がいました。
菅谷館周辺 久良岐のよし
頼りにした武将の一人が畠山重忠公で、坂東一の武士(もののふ)と異名で呼ばれた程の統率力と武勇を誇り理知的な武将でした。本拠地は埼玉県比企郡の菅谷館です。
今でも八王子街道の先には菅谷館に続く八王子ー比企郡を結ぶ鉄道の八高線が運行していますが、彼が鎌倉に出勤する際は必ず八王子を通過する八王子街道を経由して町田市方面から鎌倉街道中道か、更に八王子街道を上り厚木街道~鎌倉街道下道に経由する区役所裏の二俣川の鎧の渡しを通過する事に成る訳です。
どちらかを通りますので厚木街道~鎌倉街道下道を目指して来て合戦に成ったんですね。


そして頼朝公に特に頼りにされた武将が他に3人いて、その内2人が三浦半島出身の鎌倉御家人でした。
1人が三浦義澄公で三浦半島を根拠地にする三浦党の大将で三浦本家の代々の根拠地だった衣笠城を相続した武将です。
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衣笠城址&三浦家学問所の大善寺
三浦党の大将は三浦義澄公ですが、実際に嫡流に当たるのは和田義盛公でした。
その和田義盛公が源頼朝公に頼りにされたもう1人の武将で、幕府で初代侍所別当と成り三浦初音和田の和田城址を根拠地にして三浦本家の衣笠城は相続せず旧鎌倉郡や久良岐郡や高座郡や房総半島に多くの領地を持って最初の領地の和田を苗字にし別家を打ち立てていました。
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和田城址空堀跡前石碑
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和田城址入口の和田義盛の碑と神社
更にもう1人は鎌倉郡梶原~村岡が根拠地だった梶原景時公です。
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村岡城址公園
祖先の平良文公や鎌倉景正公が本拠地とした村岡城址を相続していた武将ですが、現在、村岡城址は城址公園の名は残りながら藤沢市が保護を怠り城址としての遺構は地形以外に皆無に成ってしまいました。
さて、実はこの和田義盛公と三浦義澄公の三浦一族は畠山重忠公とも親族でありながら和田家・三浦家にとって旧惣領であり和田義盛公の祖父で三浦義澄公の父に当たる三浦義明公の籠城する衣笠城を攻め殺した敵(かたき)に当たるのが畠山重忠公でした。
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衣笠城址本丸跡の御霊神社前の記念碑
畠山重忠公は当時は平清盛の支配下で関東の平家軍の大将と成っていたのですが、源頼朝公が現在の神奈川県湯河原町で旗揚げし石橋山の合戦を起こすと、北関東の諸将を率いて源氏勢力を掃討する命令を受けて少なくても数千、多くて2万と言われている大軍を引きいて母方の祖父に当たる三浦義明公の籠城する衣笠城を攻めて落城させ、三浦義明公は息子の三浦義澄公や孫の和田義盛公を房総半島に逃がし自らは囮(おとり)と成って最後は自害しました。
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義明山 満昌寺
その三浦義明公は大恩人として源頼朝公によって三浦義明公の為に建てられた衣笠の満昌寺に首が埋葬され供養されました。
つまり、三浦一族にとって畠山重忠公は同僚でありながら憎らしい前当主三浦義明公を殺した仇(かたき)であり、そして源頼朝公亡き後の幕府内での政敵でした。
源頼朝公は生前、跡継ぎの源頼家公の事を信頼する畠山重忠公に託し、更に畠山重忠公と近い場所に領地を持つ比企能員(ひきよしかず)公の息女若狭局(わかさのつぼね)は源頼家公の妻と成っていました。
つまり源頼朝公の勢力が脆弱だった頃から支えた三浦家や頼朝公の親族である北条家からして見れば、後から源氏軍団に参加して来た秩父方面の武士達の政治力が高まる事は、私怨が在るだけでなく初期功臣達の政治権力を脅かす危険な存在に成っていた訳です。
因(ちな)みに比企能員公の娘は畠山重忠公を射殺する事に成る愛甲季隆公と並び鎌倉御家人の中で屈指の武勇を誇る糟屋有季公に嫁いでいました。
その糟屋有季公の本拠地は現在の神奈川県伊勢原市一帯で、延喜式内社高部屋神社の在る丘陵を城砦化した❝千鳥ヶ城❞現在の丸山城址でした。
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高部屋神社(旧社名:高部屋八幡宮)&丸山城址公園
高部屋神社は醍醐天皇が平安時代に制定した延喜式と言う政令で当時の人から見ても古い歴史の在る由緒正しい保護するべき神社のリスト❝延喜式神名帳❞に記された神社の一つで元宮は大山山系渋田山の山中に在りました。糟屋有季公が現在の高部屋神社の丘陵を城砦化した際に鎮護の神様として渋田山かから現在地に移転して今に至りますが、2016年、社殿が国定文化財となった神社です。
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近年、国道246号線の開削で道を隔ててしまいましたが、背後の丸山城址公園には糟屋有季公の時代~室町時代までの城址としての遺構が発掘保存されて誰でも見る事が出来ます。
そこから車で30分程の距離に愛甲季隆公所縁(ゆかり)の場所も現存しています。
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閑香大明神小野神社
それが小野神社で、愛甲季隆公の領地は今の厚木市の小田急線の愛甲石田駅一帯を中心とした愛甲郡一帯で、延喜式内社でもある愛甲郡の閑香大明神と呼ばれ修験道の聖地でもあった、今の厚木市の小野神社には愛甲季隆公や隣接する毛利荘(もうりのしょう)の領主だった大江広元公が信仰し支援していた歴史が現代に伝わっています。
小野神社~毛利台周辺 久良岐のよし 
余談ですが、この毛利荘を相続した大江広元公の四男の毛利季光公が、戦国大名の毛利元就公の御先祖様です。現在では毛利の地名が残る範囲は御覧の通り狭く成っていますが、昔は毛利荘と言いもっと広大な行政区域を指しました。
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今も毛利台と名を変え名残は地名に残されており、尚且つ小野神社宮司家は“毛利サン”だったりします。
さて・・・
北条義時公は幕臣である愛甲季隆公や糟屋有季公を含めた武士団に嘘の情報を流します・・・
「畠山重忠が謀反した!至急迎撃せよ!」
・・・と、しかしこれは全くの嘘で畠山重忠公は冤罪だったと後の三代将軍源実朝公も認識し明言しています。そして北条義時公は逆に畠山重忠公にはこう連絡します・・・
「幕府で事件が起きた、手勢を率いて急行せよ!」
・・・と。この連絡を受けた畠山重忠公は謀略と警戒していたかも知れませんが手勢の内133騎の配下武士を率いて鎌倉に向け先行して出発します。騎馬武者だけで急行したのでしょう。
・・・しかし、此の時既に事件は進行していました。
畠山重忠公の御子息、畠山重保(しげやす)公が由比ヶ浜に在(あ)った邸宅を北条家の手勢に襲撃され、畠山重保公は朝比奈峠山中~北に逃げると見せかけて横浜市金沢区側へ迂回し、間道の白山道を抜け金沢区釜利谷で自害します。
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畠山六郎重保公廟所
実はこの重保公の御廟所、新編武蔵風土記稿では疑義をかけられていますが、小生は事件の経緯からも地形からも、重保公の御廟所はこの場所で正しいだろうと思っています。
恐らく北条家と共謀したであろう三浦家等率いる幕府軍は当初は町田方面から真っすぐ八王子方面に続く一方の鎌倉街道で大軍で待ち構えていた筈です。
しかし、其方に手が回っている事を畠山重保公の配下で生き残った武将が命懸けで何とか畠山重忠公に伝えていたとすれば、やはりこの朝比奈~円海山越え~白山道~久良岐郡六浦~氷取沢~矢部野(洋光台)~鎌倉郡野庭~永谷~鎌倉街道下道~鶴ヶ峰~二俣川~鎧の渡し~八王子街道~武蔵国比企郡菅谷館へと至る逃げ道で情報を伝える以外に抜け道は無い訳です。更にこのルートは一度西に回り鎌倉街道中道に行くと見せかけ鎌倉街道下道に行けるので敵の追撃を混乱させる時間稼ぎに最適なルートに成っています。
しかも、この白山道旧道は狭隘な山道と谷間の道だったので、畠山重保公が北条の手勢を食い止め僅かな時間でも追っ手を足止めして急報を畠山重忠公に伝えるにはうってつけの場所だった訳です。
余談ですが白山道の名の由来は金沢区金沢文庫~円海山釜利谷経由~円海山栄区八軒谷戸側に抜け~朝比奈峠の切通しに至る間道で、その由来は明治時代の廃仏毀釈神仏分離令の影響で廃社に成った白山権現が山道を抜けた先に在った事が街道名の由来だと推測しています。
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白山権現旧蹟&神奈川の橋100選の一つ❝昇龍橋❞
廃社白山権現は今では神社の基壇が在るだけで社殿は無くなり神様は近くの思金神社に移りましたが・・・
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旧白山権現の目の前の参道にかかる昇龍橋は神奈川県内最古の石橋として“神奈川の橋100選”の一つに選定され、昔の名残を留めています。
さて、一方で幕府軍ですが、重保公の使者が菅谷館に急報を伝えたり重忠公が鎌倉に駆け付ける際は釜利谷の鎌倉街道下道経由~朝比奈峠の切通し以外もう一つの経路が有り、町田市方面から境川沿い旧鎌倉郡に当たる鎌倉街道中道~大和市~藤沢市~を通過し、そこから巨袋坂切通、化粧坂切通し、極楽寺坂切通しの何(いず)れかを通過する進路が有りました。幕府軍集合場所だったであろう鎌倉の西方に急行中の愛甲季隆公や糟屋有季公が、幕命で畠山重忠公の鎌倉の進路が鎌倉街道中道を通過しなかった場合は鎌倉街道下道通過を予測して迎撃する場所を想定し直すでしょう。鎌倉の北条₋三浦の率いる幕府軍本隊の大軍到着より早く畠山重忠を迎撃するのに最適で厚木街道一本で愛甲勢と糟屋勢は渡河地点の二俣川鎧の渡しに向かう事が出来る訳です。
八王子街道から南下して来て多摩方面から川崎街道~経由で東海道に来る、若しくは八王子街道から厚木街道の接続する旭区役所付近を通過する鎌倉街道下道を通ると予測でしょうから、当然ながら二俣川を挟んで鶴ヶ峰の対岸を通る八王子街道と鎌倉街道下道が合流して渡河地点と成る場所へ向かう訳です。
この時、畠山重忠公を討ち取る為に謀略を仕掛けた北条義時公は、畠山重忠公を目の仇にしている三浦義澄公の跡継ぎである三浦義村の娘と、北条義時公の跡継ぎである息子の北条泰時公が夫婦と成り縁戚で結ばれており❝反秩父勢力派❞を形成していました。
この北条義時公率いる幕府の大軍は畠山重忠公がどちらを通過するか哨戒させながら軍勢を向かわせる先を思案していたと思いますが、町田方面の鎌倉街道中道を通過せず畠山重忠公は迂回路である下道(奥州街道)経由で来る事を捕捉したのでしょう。そこから万単位の大軍を渡河地点で迎撃し易い旭区の二俣川~鶴ヶ峰に進軍させたのだと推測出来ます。
畠山重忠公古戦場周辺二俣川旧流推定 久良岐のよし
旭区役所の周辺、現在は河川改修され本川が左右に直線的に成っていますが旧流が蛇行した住宅道路と成って残っているのが衛星写真だと解り易いかと思います。
そして二俣川と下川の合流地点、ここが鎧の渡しと成る訳です。
この更に西方数百m、鶴ヶ峰本町公園周辺には❝矢畑❞の地名が残っていますが、ここは北条家の軍勢が放った弓矢が地面に突き刺さり矢の畑の様な凄まじい光景に成ったからと地名由来が有るそうです。
つまり、北条ー三浦連合の偽報の策略に嵌(はま)った畠山重忠公は配下を本拠の菅谷に向かわせ軍勢の手配を準備させながら、一方で町田より手前で畠山重保公からの急報で事実を知らされ鎌倉街道中道は敵勢が満ちている事を察知して迂回、しかしそれを更に察知した北条軍が鎌倉から中原街道や厚木街道で急行し易い場所に所領がある愛甲季隆公や糟屋有季公や住吉郡、愛甲郡、高座郡を領地とする武将達の軍勢を二俣川の鎧の渡しへ向かわせたと推測出来ます。
この中世を含めた日本の古道や街道について❝国土交通省 関東地方整備局❞サンは昔から積極的に子供にも判る歴史解説のホームページを開いているので、御子さんがいらっしゃるお父さんお母さんは子供と一緒に拝見すれば良く道の歴史が理解できて良い参考に成るかと思います。
国土交通省関東地方整備局 関東の道路ホームページ
リンク→国交省関東地方整備局制作❝関東の道路❞PDF資料。
恐らく、地名の通り八王子から来た畠山重忠公と幕府軍が川を挟んで会敵して弓合戦と成ったのは二俣川の矢畑だったのでしょう。そこから畠山重忠公含めた畠山勢134人の手勢は数を減らしながら敵が川を渡って来る場所に成る旭区役所裏の二俣川と下川の旧流合流地点に在った❝鎧の渡し❞を敵勢に橋頭堡として確保されない為に応戦しながら戦略的に東に移動して行ったのでしょう。
そして川を渡らせない様に強弓でも名の知られた重忠公は弓で敵を射殺しながら、持ち堪えていたものの、厚木街道を急行して来た愛甲郡・住吉郡の軍勢の中の愛甲勢や糟屋勢と弓合戦に成ったのでしょう。
三人にはこんなやりとりが有ったかも知れません・・・
重忠公
「やぁやぁ、其処(そこ)に見ゆるは強弓の御二人、愛甲殿と比企殿が婿殿の糟屋殿ではござらぬか!此(これ)は如何(いか)なる事哉!」
糟屋有季公
「逆賊重忠、申す事等無し、尋常に勝負!」
重忠公
「吾にニ心無し!鎌倉殿より頼家公の後事を託されているこの身、神仏の名にかけて潔白である!先ずは待たれよ!」
愛甲季隆公
「是非に及ばぁ~ず!勝負!」
・・・川を挟んでの戦い、決戦は太刀打ちによるものでは無く弓合戦に以外には有りません。
この状況、多勢相手に寡兵でも畠山勢が粘れたのは畠山勢が関東最強の軍勢だったからでしょう、しかし愛甲季隆公は那須与一宗高と並び源頼朝公の遺臣中で三本指に入る腕を誇った弓の名手です。もう、一騎打ちに成ってしまうと幾ら並みの武将と比べて弓の名手として名の知られた畠山重忠公でも、最高のスナイパー愛甲季隆公を相手にしては勝機は無い訳です。
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この三合橋の辺りが❝鎧の渡し❞、つまり当時の渡河地点。川の合流地点なので合理的に通行が出来る。
八王子街道から南に登って来て応戦する畠山重忠公が川を挟んで北側、厚木街道を東に下って来た愛甲季隆公や糟屋有季公が南側、恐らく当時の和弓の集団戦術での放った矢の到達距離は120m、動く敵を名手は60m以上の距離で射殺出来たそうなので御互いに川から30m程度離れた距離、つまり完全に相手の姿が見える程に近い距離で撃ち合いに成ったと推測出来ます。
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二俣川と下川の小生の推定旧流路を衛星写真に書き込んで見ました。
二間俣川鎧の渡し、推定旧流路 久良岐のよし
旭区役所の在る旧❝鎧の渡し❞は渡河地点でありながら川の合流地点で東西南を自然の水堀に囲まれている砦同様に一番防御に適した地形なのも判ります。ここで130人で敵勢を向かい打てば渡河しようとする敵勢を狙い撃ちに出来ますし、少数の軍勢で高い防御力を発揮出来る❝円陣❞の防御陣形に成っています。
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ですから重忠公の首塚が討死地だとすれば、重忠公が合理的な守備陣形を取っていた事が推測出来ます。そして集団戦術では無く、スナイパーとして動く標的を狙う場合、弓の有効射程距離は名手で60m~鎌倉幕府最高のスナイパーの那須与一宗高公でも80m前後と伝承しますが、二俣川旧流路の一番くびれた南側から畠山重忠公首塚が丁度60m弱の位置に在るんですよね。
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もしかしたら本当に小生の推測通り首塚は戦死場所で、本当は首塚じゃなくて胴塚だったのかも知れません。首は万騎原に居た本隊の大将北条義時公に届けられた筈ですからね~。
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近くの薬王寺には重忠公の最後に鎧の渡しまで生き残って戦った畠山勢の最期134人の武士が葬られた土饅頭が6つ在ります。
更に近くには重忠公の奥方が逃げきれず自害し駕籠ごと埋葬された籠塚が近年まで在りました。
浄水場の建設で供養碑を場所を移されてしまいちゃんと発掘されたかは不明です。
この奥方の息子、重保公が自分の母と父への危急を知らせる使者を逃がす為の戦いが金沢区釜利谷、そして重忠公が最後まで戦ったのが旭区役所裏手の首塚の場所、訃報を聞いて奥方が駆け付け自害したのが籠塚の場所と言う訳ですね。
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さて、歴史的な教養が無い無学な阿呆や古来の日本神道の価値観を知らない無文化な馬鹿は、鎌倉武士達が各々正義と信念と勇気の為に戦って亡くなった聖地にも等しい場所を、何の霊力を持つ様な高貴な神職の血筋でも無いのに「幽霊が見える」とか先人の英霊を侮辱するデマを流しますが・・・
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古来の日本神道の価値観や仏教の価値観では、鬼神の様な活躍をした武将や信念をとして戦った英雄は荒神や武神として昇華され、その墓所や御廟所や祀られる御社は❝スポーツや勝負の御利益を下さる神様仏様❞として大切にされてきたものなんです。
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だからね!こうやって実際に現場に行くと神々しい光の玉が優しく出迎える様に写真に写り込んだりしていて、何だか重忠公と季隆公が「良く来てくれたね~」「我々の事を忘れないでくれてありがとう~」って言ってくれてるみたいでしょ?

ですから皆さん、受験生や武道やスポーツに励む学生は、文武両道活躍された畠山重忠公の旭区役所一帯の首塚や古戦場で重忠公を御参り尊敬の念を伝えたり、県外の御廟所や重忠公を討ち取った愛甲季隆公や初代政所別当の大江広元公の信仰した厚木の小野神社で神様と二人の御霊に御挨拶したら文武両道の御利益が有るかも知れませんね~。

あそうそう、畠山重忠公と愛甲季隆公が戦った二俣川古戦場の旭区役所裏に美味しい御飯屋さんを見つけました!
❝旬菜旬魚ほまれ❞と言う居酒屋が昼は定食屋さんを営業してました。
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旬菜旬魚ほまれ

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丁度御腹が空いたので小生は鰺フライ定食と別注で❝ちょこっとカキフライ❞だったかなんか2つカキフライを食べました。
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どちらもスンゴイ熱々で美味しかったですよ!
そうだ。
畠山重忠公に興味がある人は是非、旭区役所の生涯学習課に行ってみて下さい。
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こんな子供にも解りやすい刷子を無料で貰えますよ!この冊子には簡単な畠山重忠公の伝記や関わった事件の位置関係、そして旭区役所周辺の戦場史跡のアクセス等が親切に掲載されていました。
あと鎌倉市の鎌倉歴史文化交流館に行けば畠山重忠公の鎧兜の精巧な復原品を見る事が出来ますよ!
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鎌倉歴史文化交流館
ここは鎌倉時代の遺物を展示解説しているのですが、館長の青木先生や学芸員の大沢先生や最近国立博物館に転職された高橋先生が「子供にも歴史を身近に感じて欲しい」とのコンセプトを御持ちでスタートしたので博物館には珍しく展示物の写真撮影可能な上に、一部展示は直接触る事が出来る瓦や焼物の出土品も有ります。

旭区に御住まいの幼稚園~小学校の小さな御子様がいるお母さんお父さん、是非、鎌倉の紅葉の綺麗な華頂宮邸や鶴岡八幡宮白幡神社とか紅葉散策ついでに鎌倉歴史文化交流館で武士の文化に触れて、それから旭区役所で刷子を貰いお子さんと地元を散歩すれば、きっと親子で地元に関わった名将に敬意が沸き郷土愛も深まるかも知れませんよ~。

さて、きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人の足跡を辿れる場所が有る筈です。
町中の御地蔵様にも石碑にも、すごい歴史が有り凄い偉人と現代を繋ぐタイムマシーンみたいな役割を果たしてくれるかも知れません。
ですから地元をちょこっとお散歩して見ませんか~?

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
・・・そう言えば、相模原の津久井城と内藤家の記事を書かないと(笑)。

神奈川県と言うと県外からの移住者や旅客は❝武士文化の根拠地❞と言う文化的なイメージや勇壮な鎌倉武士団や戦国時代関東最強だった北条武士団のイメージを持って下さる人は少なくて、横浜の港のほんの一部分の都会的なチャラついたイメージしか浮かばない人の方が多いんですが・・・
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実際はこんな写真みたいに長閑(のどか)でゆったりとした時間の流れる田舎も沢山のこっていまして、不自然に狭い横浜市に人口が密集する開発をする必要が無く、もっと郊外の周辺都市を開発した方が良いんじゃね?
・・・と言うのが神奈川県民として思う所だったりする訳です。
鎌倉時代は当然ながら神奈川県鎌倉市が日本の武家文化と国土防衛の中心地だっただけでなく、戦国時代の北条家も日本の大名の中で抜きんでた善政と統治を行い、防衛戦と攻城戦を得意とした戦国時代の先駆けとなる集団戦術や鉄砲を早くから導入した軍団として歴史好きには知られていたりします。
そんな小田原北条家は初期には❝五色備え❞と言われた仏教五色に準(なぞら)え軍旗が色分けされた主力軍団が5軍団在り、どうも1560年頃には五色備えの軍団編成は解除されていた様で各方面軍として再編成されていたらしい事が❝北条所領役帳❞と言う資料を見ると各家臣一族がバラバラに配置されている事からも推測出来たりします。
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相模原市津久井は、そんな北条家後期の安土桃山時代には成立していた❝津久井衆❞と呼ばれる軍団の根拠地である津久井城が存在し、現在は神奈川県立津久井湖城山公園として緑地保存されています。
津久井城については改めて内藤家の事と一緒に紹介したいと思います。
まぁ、余談ですが武田信玄の家臣団には北条家臣津久井城主❝内藤❞家と同姓を自称する偽❝内藤❞とか、美濃国源氏の分家❝山縣(やまがた)❞姓を自称する❝飯富(おぶ)❞とかニセモノが多くいるんですが、戦国時代当時は領土支配は侵略戦争を起こすには大義名分が必要でして、例えば北条家なら現在の神奈川県の旧武蔵国域沿岸部の支配の大義名分には鎌倉時代に源頼朝公の命によりその辺りを領土に持っていた渋谷氏や佐々木氏の血を引く佐々木氏支族間宮家を領主に置く事で北条家による支配の大義名分としたり、武蔵国西部北部への支配の大義名分として小机城代に神話の時代の武蔵国国造の族姓、笠原氏を配置する事で大義名分と出来た訳です。
ところが武田家臣団はカッペ集団で、ほとんどが茨城県と千葉県にしか血縁地縁がない家臣団しかいなくて教養も低く血統的な貴種もいなかった為、他地域への侵攻の大義名分を得るには例えば信濃に侵攻したいなら信濃守(しなののかみ)の官職を得るか幕府の信濃守護の役職を得る事でしか支配の大義名分を維持できず中央の政局次第では永続的な大義名分に成らないので無理矢理❝食品偽造❞❝ブランド偽造❞みたいな家臣の苗字偽造(笑)をして支配の大義名分にした訳ですね。
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まぁ、北条家臣内藤家は北条家臣化する以前の中世から小大名として津久井城主として居城し愛甲郡北部一帯を支配ていました。武田の偽内藤(笑)とは血筋が全く異なり由緒正しく、鎮守府将軍藤原秀郷公の御子孫に当たる家系な訳です。
元々小大名だったので当然、北条家の従属勢力化しても独自の家臣団を編成しており、その軍団が津久井衆と呼ばれた訳です。
津久井城に関しては今回の記事の2016年に根小屋諏訪神社参詣した際に城址も散策し写真を撮影して有りますので改めて記事に書きたいと思います。今回は根小屋諏訪神社だけですね。
その津久井衆の武士達が駐在する武家屋敷が立ち並んでいた名残の地名でもある根小屋(ねこや)と呼ばれる地域が周辺に有り、そこには根小屋諏訪神社と言う軍神建御名方神を祀る武家文化に相応しい神社が今も存在しています。
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根小屋諏訪神社
&神奈川の名木100選“根小屋諏訪神社のスギ”

根小屋や根古屋と言う地名は全国に在りますが、それは❝城山の根❞=裾野の部分に構えられた家臣団の家屋が構えられたので根小屋と成った事に由来する地名です。
実は津久井城、鎌倉時代には既に城の原型が存在していたと言われています。
そもそも津久井の地名が三浦半島の横須賀市津久井に由来しており、平安時代末期まで相模国三浦郡を本拠地にした坂東平氏の名家、三浦氏頭領三浦義澄公の子の1人、三浦義胤公が横須賀市津久井浜辺りを領地としていたので筑井義胤と名乗った事に由来し、その後現在の相模原市緑区辺りを領地にした事で津久井の地名と成ったと考えられます。
因(ちな)みに三浦の津久井浜今ではイチゴ狩り農園で有名な場所です。
まぁ、津久井の郷土史では筑井義胤と書かれ、三浦家の系譜では三浦胤義と書かれている物も有る様(よう)で正直な所、津久井の地名についても三浦が先か相模原が先かは卵が先か鶏が先かみたいな感じで小生は詳しくは調べておらず判別尽きません。ですが三浦家の通名として義の字は普通、三浦義明、岡崎義實、真田義忠、三浦義澄、和田義盛、佐原義連、朝比奈義秀みたいに義の字が名の頭文字に成るので津久井領主の名に関しては相模原市の郷土史に書かれる筑井義胤の方が正しそうです。
そして佐原家が所領とした千葉県の佐原市も先に存在した三浦の佐原城が有る事や、鎌倉市の朝比奈と関係する朝比奈義秀公の所領が千葉に有る事から、神奈川県の武士団の出身地である三浦郡や鎌倉郡由来の地名がその後の各武士の入植地に地名として移植されたと考えた方が自然でしょう。
つまり相模原市の津久井は三浦半島の津久井由来と考えられる訳です。
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根小屋諏訪神社の伝承では、その筑井義胤公が建久三年(1192年)に津久井城築城の際に鎮護の神様として諏訪大社から建御名方神の御分霊を勧請されたと伝承します。
恐らく本当でしょう、源頼朝公が日本国総追捕使、征夷大将軍に任命されて幕府を開き領地を自由に与えられる守護の設置が可能に成った頃の話しなので三浦半島の津久井浜から筑井義胤公が領地として預かり移住し、鎌倉時代当時に武神として崇敬されていた長野県の諏訪大社から建御名方神を勧請し霊的な領地の守りとして背後の険阻な山に津久井城を築城したと言うのは合点が行く訳です。
明治時代以前の別当寺は井木山壽性院と言う真言宗の御寺だったので、神道と修験道や真言宗や法華経の信者だった源頼朝公御存命の時代の宗教的な歴史背景とも整合性が有りますね。
残念ながら壽性院はダム湖の造成で大井村もろとも湖底に沈み、その檀家サンの菩提は津久井城近くの大蔵寺に合祀されました。
まぁ、正直現代では相模原市緑区一帯は人口減少が進み過疎化も酷いのですが、明治時代以前は甲斐国への街道も付近を通り徒歩の移動がメインだった時代には重要な拠点だった訳です。
ですから苗字詐欺師の武田信玄も津久井城を度々攻めていますし※失敗しまくりだけど(笑)、豊臣秀吉の北条征伐戦では籠城兵僅(わず)かの津久井城に対して徳川家臣随一の合戦上手として知られる本多忠勝公率いる20000超の大軍によって攻城が行われ、武田信玄も落とせなかった名城津久井城は小田原北条家本隊による援軍も無く陥落しました。
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そんな津久井城の歴史を三浦家支配の時代より見守って来たのが、この根小屋諏訪神社な訳です。
明治以前の源頼朝公の時代~鎌倉幕府北条家の時代~室町幕府鎌倉公方足利家の時代~北条家臣内藤家の時代~徳川幕府の時代には神仏混交だったので神社には神様と仏様が仲良く一緒に祀られていらっしゃったので、今では過疎の根小屋地区にヒッソリ佇(たたず)むこの神社にも神様と仏様が仲良く並んでいる姿を見る事が出来ます。
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本当に隣同士仲良し・・・明治維新以前の古き良き日本人の感性を垣間見えてホッコリする。
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御地蔵様もいらっしゃいます。
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街道を守って来た馬頭観音様も。
もしかしたらこれらの石仏群は津久井湖造成で水没した、かつての津久井城下の村落から諏訪神社境内に移されて来たのかも知れませんね~
社殿は参拝客も少なくなっても氏子さん達によって立派に守られてらっしゃいます。
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社殿の覆殿の中に小さな朱漆の本殿が見えます。
戦国時代の北条家も武神として諏訪神社を崇拝していたので、やはり三崎城址や山中城址等の重要な場所には必ず諏訪神社が在りました。
根小屋諏訪神社では御神輿も拝む事が出来ました。
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煌びやかで色の剥落も無く、現代でも集落の氏子さん達によってちゃんとメンテナンスされているのが判りますね~。こうやって氏子サン達の経済力と言う名の努力によって鎌倉時代の神社造営以来、長野県の諏訪湖の畔の諏訪大社からいらっしゃった神様の御分霊は守られて来たんですね~。
さて、今は目立たなくても昔は多くの鎌倉武士達や江戸時代に帰農し農家と成った旧北条家臣団の御子孫によって守られて来た神社だけあり、境内には立派な御神木も存在します。
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神奈川県の名木100選の一つ、❝根小屋神社のスギ❞です。
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推定樹齢500年・・・
つまり北条家臣団として活躍し、武田信玄を幾度も苦戦させた名将の津久井城主内藤綱秀公も幼少期に諏訪神社を参拝して、この杉が普通の背丈だった頃に木陰で御女中達と散歩して遊んでらっしゃったかも知れませんね~。
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本当に立派な大樹です。
今はひっそりした神社でも、源頼朝公御家人で三浦氏の筑井義胤公や、戦国時代の名将の内藤綱秀公と一緒に歴史を歩んで来た事を証明してくれる御神木。
神奈川県内にはまだまだ、こういった何気ない神社でも凄い歴史偉人と関係の有った場所が沢山有ります。
ですから皆さん、気分転換ついでに近所の神社や御寺や城跡の公園や山を御散歩してみませんか?
きっと神社や御寺を参拝して神様仏様に御挨拶すれば、我々にはもう見えない歴史偉人も神様仏様と一緒に笑顔で喜んで我々を歓迎してくれているかも知れませんよ~♪

人が一番怖いのは自分が死んだ後で自分の事を皆が忘れてしまったり、生きていた時に自分が大切に思う人の役に立ってあげれなかった事だと思います。
でも我々が近所の優しい御爺ちゃんや御婆ちゃんの家に遊びに行くみたいに神様仏様を拝みに行くついでに地域を今も見守って下さってるかもしれない歴史偉人に挨拶もすれば、きっと昔の武将や御姫様も喜んでくれると思います。

・・・では、次の記事で御会いしましょう~♪津久井城の事書こうかな~?

PS・・・昨日早朝、太腿に大火傷しまして仕事休んでいるので久しぶりに歴史解説記事ちゃんと書けました(笑)。
火傷のフザケた報告記事も読んでね⤵
熱いのぶちまけてやるぜ・・・ぐへへへへ





ぐへへへへ・・・
熱いの太股にブチマケてやるぜ!
・・・熱くてトロトロしたの!いくぞ!


あ~‼
熱っつぅ~いのぉ~!



今さっき火傷したナウ。
クソ痛ぇ~!
土曜から調子悪く日月出勤日だったけと仕事休んでて食欲出てきたから食事作ったら容器ごと内股にブチマケちまいました。
冷やしてるけど段々と水膨れ酷く成ってもた。
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デカイのと細かい水膨れ出来てキショイ!
ついでにズボンで削られた体毛もキモイな・・・
氷水入れたビニール袋入れて冷却ナウ。
時間もったいねーから勉強しとく。
てか、これ長ズボンはけるのか?
・・・❝今日も❞どころか暫(しばら)く仕事休まないとダメかなコレ?
悪化中なぅ
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皮膚死んで黒く成って剥がれて赤いの見えて気色悪るいナウ
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病院行ってきたナウ
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何か剥がれた皮膚の代わりに看護婦さんが抗生物質とかステロイド塗ったくったガーゼ付けてくれたよ。
今週仕事全滅確定Ʊ”-ʓ(;´༎ຶД༎ຶ`)Ʊ”-ʓ
17日火傷から1週間経過。
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酷く成ってる気がするぅ~(;´༎ຶ益༎ຶ`)

季節は寒くなり温かい物を食べたくなりますが、皆さん小生みたいに病み上りのお粥も、これから寒く成って食べたくなる鍋もカップ麺も熱々オデンも自分にも人にもかけちゃダメよ~(笑)!

中華料理店と言うと昭和の中華食堂と、本格的な中華料理店で全く違う料理が出て来る2種類が有るの、もう知ってる人も多いですよね。
昭和の頃の昔は本格的な中華料理屋と大衆中華風食堂の区別がされていなくて、本当に高級料理店でも酢豚みたいな家庭料理を平気で出す店も多く有りました。
エビチリやエビマヨって実は本場中国では見かけない(笑)料理でして、日本で発展した?料理だったりもして、だから高級店でも王将みたいな大衆食堂と同じで中国の厨師について修行した人が働いていない店でもエビチリとかは区別無く提供されていたりしますよね。
でもね、そんな昭和の食堂の中華もソレはソレで美味しいんですよ!
そして中区の野毛には本格的な中華料理から日本人よりに味を変化させた昭和らしい美味しい食堂が在ります。

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中華料理 満福

ここは近所の中央図書館に来た時に昼食をとるのに便利な立地でして、お昼時にはビジネスマンにも人気で沢山の御客さんで広くはない店内の座席は満席になっています。
値段は御手頃な価格です。値段も昭和のままの中華食堂と言った所でしょうか。
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料理の味は確かに日本人よりですが、ちゃんと中国の福建蒸し餃子とか蘭州拉麺の店みたいな町の食堂に近い味のメニューも有ります。
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店内、厨房はこんな感じ。
小規模な中国の町の中の食堂が、そのまま日本の食堂化しました~みたいな店です。
直ぐ近所には競馬の場外馬券場も有ったりするので、写真には馬券も写っていますね(笑)。
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近くには横浜にぎわい座と言う寄席の会場も有るので落語のスケジュール表何かも張り出されていて、図書館の在る側とは違う野毛の歓楽街の中らしい御店なのが良く伝わるでしょうか?
小生の好きなメニューは炒米粉(チャオ ミーフェン)=焼きビーフンです。
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これは中国で食べるのと同じ味がして中国に良く出張してた頃を思い出す味。
とても美味しいので御薦めです!
拉麺類より少しだけ高くて750円です。まぁ、750円なら安い方ですよね~。
あと汁物も欲しいので雲呑(ワンタン)を良く頼みます。この日も例に漏れず雲呑を注文しました。
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まぁ、これは完全に日本風でして、スープも日本の昔ながらの美味しい醤油ラーメンのスープです。
醤油拉麺の麺の代りに雲呑が多く入っている感じでしょうか?
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だから表面がピンク色の昔ながらの叉焼も入っています。
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雲呑は日本風の小振り、でもプルプルして昔ながらの美味しさ!
本当に人気の店で昼休み時だとビジネスマン多くて席が空いてないかも知れませんから、もし行かれるなら少しだけ時間をずらして行っても良いかも知れません。

では又、次の記事で御会いしましょう~♪
次は歴史の記事を書きたいなぁ~。


廣嚴山 成願院 東泉寺と言う御寺が神奈川区羽沢に存在していますが、恐らく現代では地元の人しか知らないかも知れません。

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こんな風に旧街道らしい曲がりくねった尾根道の交差点の角に在(あ)る、今では敷地面積が小さく成ってしまった御寺なのですが、実は結構な由緒が有る御寺なんです。
実は何でこんな場所に由緒有る御寺が存在したかと言うと、恐らくこの御寺の右手の右に曲がる上り坂は室町時代位に重視された旧街道の一つで八王子に接続する八王子街道や旧中原街道や直(す)ぐ先の小机城や佐江戸城へと続く現代で言う所のバイパスだったと推測出来るからです。
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廣嚴山 成願院 東泉寺
そんな場所に位置する道に沿って実は幾つか重要な御寺が存在しています。
先ずは周辺の寺院や城跡の位置関係を見て頂きたいと思います。
東泉寺周辺 久良岐のよし
この東泉寺の前を南東~北西に貫く道に沿って戦国時代の関東の覇者、小田原北条家の重臣達の開いた御寺が幾つも並んぶ様に存在しているんですね。
では、その御寺や場所を北から南に向けて紹介しますと・・・
小机城・・・北条家初期の主力軍団、北条五色備え白備え隊の大将を務めた笠原信為公が城代の城。
北条家の外交を担った名家の笠原家が代々城代を務めた名城で、現代でも❝続日本100名城❞の一つに選定されているが何故か横浜市が城址として史跡指定や文化財指定しない横浜市唯一の大城郭遺構。
ここは戦国時代初期の名勝で無敗の軍師として有名な江戸城主、扇谷上杉家家宰の太田道灌公が攻めた城としても有名。
以前書いた解説記事⤵
●❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。

泉谷寺・・・北条家二代当主、小田原城主北条氏綱公と重臣二宮家が開いた御寺。
泉谷寺を二宮家に開かせた北条氏綱公は、戦国大名北条家を飛躍的に拡大させる基礎を築いた名称で、歴代北条家当主の中でも一番の攻城戦の名手で落とした城も関東最大級の小田原城、岡崎城、大庭城、新井城等超巨大城郭だらけの凄い武将でした。二宮一族は相模国の名家で二宮一族の現代の子孫と思われるのが二之宮川勾神社宮司家で今も代々務める神職の名家です。恐らく二宮金次郎の祖先も泉谷寺を開いた二宮家一族の子孫でしょう。
以前書いた記事⤵
松亀山泉谷寺…戦国大名北条家が支援した大寺院も現代には諸々歴史は途絶え。横浜市港北区羽沢。

豊顕寺(ぶげんじ)・・・多米元忠公と間宮宗甫公の御子孫の菩提寺
多米元忠公は北条氏康公の軍師で、初期の北条家主力部隊の北条五色備えの内の黒備え隊の大将を務めた名将でした。豊顕寺は多米元忠公の隠居宅を寺院化した事が起源し、江戸時代には大伽藍(がらん=寺院建造物群)を擁し広大な桜林を抱える法華宗の大寺院と成り多くの学僧が学ぶ場所として、そして観光の名所としても江戸市民にも人気でした。間宮宗甫公は還俗前の名前を間宮政光と言い、北条氏康公の奏者だった事が北条所領役帳にも記載が有ります。二人共に重要な人物だった事が解かります。
現代でも多米家と間宮家の御一族が御檀家サンに多く存在しています。
神奈川区斎藤分町と横須賀市浦賀港の紺屋町が間宮宗甫公の領地でした。斎藤分町の捜真学院小・中等部の敷地は中丸と呼ばれている事から間宮宗甫公の城砦が存在したであろう事が地名からも推測出来ます。
更に道を海側に下ると神奈川駅を挟んで幸ヶ谷公園~本覚寺は明治時代以前は地続きの半島で、多米元忠公の守備した青木城が存在しました。青木城の前身が間宮家が守備した権現山城でした。
その辺りは以前解説記事を書いているので参考にして下さい。
●北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説③】・・・多❝米❞元忠公と❝多米❞家の菩提寺の豊顕寺は江戸時代の大寺院・・・横浜市神奈川区三ッ沢西町【歴史学者は必ず見る可し!】
●間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績


イオン東神奈川店・(地所:富家町)・・・間宮本家の所領と思われる。
実は戦国大名北条家の初期の家臣団で相模十四騎筆頭と言われた間宮家の本家の笹下城主間宮家で、戦国時代の鶴岡八幡宮再建事業や山中城籠城戦で活躍した安土桃山時代を生きた名将、笹下城主間宮康俊公の所領に❝富家❞と言う地名が記載有ります。現代では入西郡とか入東郡とか適当に江戸時代に注釈された郡名が写本によって異なる併記で書かれているので旧入間郡つまり埼玉県坂戸市戸宮だろうと推測しているガクシャが多くいるのですが、そもそも間宮家に所縁(ゆかり)深い旧神奈川領の神奈川区に❝富家❞の地名が存在している事を知らない人が多すぎるみたいですね。この地域、JR東神奈川駅一帯が昔から❝神奈川❞の地名で記載される事の方が多かったから文献しか読まず地図を見て現地を歩かない人は地所名を把握していない人が多いのですが、実はイオン東神奈川店の敷地だけには冨家町の旧名がそのまま現代になっても残り使われています。
文献しか読まなかったり江戸時代の適当な記載をテンプレするガクシャ(笑)よりも、❝図書館の優秀な司書の特に女性の人❞には詳しく調べる人もいて、記載の富家の検地が入間地方と一緒の時期に検地されていたから坂戸市の戸宮が有力だろうと根拠を示せる方もいます。しかし、そもそも間宮家の所領の富家の検地の順番がたまたま同時期に奏者によって北条氏康公に報告されただけの可能性の方が現に間宮一族の分散する神奈川区~鶴見区~川崎区沿岸部の東神奈川に富家の地名が現存してしまっている以上は強いのは事実です。

さて、こんな風に小田原北条家にとって重要な城や家臣団が関わった場所が繋がる道の上に東泉寺は存在するのですが、この御寺は元々は三会寺(さんねじ)と言う港北区鳥山地区の御寺の末寺でした。正確に言うと三会寺は鎌倉の鬼門に当たるこの地域を鎮護する目的で源頼朝公の命令によって平安末期~鎌倉時代の名将、佐々木高綱公が開いた御寺でした。
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佐々木高綱公と言えば源義仲公討伐戦の一つ宇治川の戦いで活躍した人物で、御子孫には乃木希典大将もいらっしゃったりします。
そんな高綱公が源頼朝公の命令で開いた三会寺は現代も小机城址祭りをバックアップしたりタイ王室と交流が有る等、とても文化的に重要な役割を果たしている御寺です。
三会寺や佐々木高綱公城館跡の鳥山八幡宮についてはブログ開始初期の記事で拙(つたな)い内容ですが記事にも書いています。
以前書いた記事⤵
横浜市港北区鳥山の八幡神社…鎌倉幕府の名将:佐々木高綱公の城跡
2015/04/02時点の横浜の桜名所状況

ですから現代では御寺の規模も小さくなってしまった様ですが、御本堂の屋根には室町時代に成っても関東を治めた鎌倉公方足利家から大切にされていた事が解かる証拠が残っています。
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足利家の家紋、二つ両引き紋の寺紋としての使用が許されている訳ですね。つまり、この御寺の住職には鎌倉公方から寺領(御寺の収入源の土地)が保証されていた事が推測出来ます。
では御寺の現代の様子を見て見ましょう。
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御寺の入口を入って直ぐに右側が庫裡(くり)つまり御住職御家族の居住スペースですね。
小生、たまたま小机方面から根岸方面へ抜けようとして東泉寺の前の道を走っていて御寺の存在に気が付き街道沿いなので・・・
「きっと歴史が有る筈!」
・・・と直感で初参詣して庫裡のインターホンをピンポンしてアポなしで御住職に色々と質問して御教授頂いたのが印象深く思い出されます。そして直感通り、以前は寺格の高い三会寺の歴代御住職の隠居寺だった事を教えて頂けました。同時に火災なんかで文献が残念ながら残っていない事も知りました。

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御本堂も敷地の規模よりも大き目で、中規模の寺院の御堂が維持されています。鎌倉時代以来の檀家サン達の資本と言う名の努力の賜物ですね~。
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彫刻も立派です!
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現代では鐘楼の無い御寺も在りますが、ここには今のちゃんと鐘が在ります。
きっともう直ぐ御正月に成りますが、年末の除夜の鐘を突きに来る御近所さんがいて、この御寺の存在によって小さな子供達にも日本文化が伝えられて行くのかな~と思うと何だかありがたい。

さて、御寺の施設の紹介は少なかったですが、町の中の何気ない御寺にも凄い歴史が有るっていう典型的な例を体現しているのが東泉寺さんって言うのが皆さんに伝われば良いな~と思います。

きっと皆さんの御自宅の何気ない神社さん御寺さんや城址の公園や山にも、凄い歴史人物と関わりが有る場所が必ず有る筈です。
御寺や神社や城跡の山は散歩するだけでもリラックスします。だから皆さん、少し御寺や神社や城跡にお出掛けして説明の看板を読んで見ませんか?そして歴史偉人と地元の繋がりを知ればきっと皆さんも地元に愛着が増すはずですyo~

では又ぁ~!
次のブログ記事で御会いしましょう~(•̥̑ .̮ •̥̑)ノシ

曽於太白峰前住

数到仙遊寺裏来

黒水澄時潭底出

白雲破処洞門開

林間煖酒焼紅葉

石上題詩掃緑苔

惆悵旧遊復無到

菊花時節羨君廻

白楽天
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例年の秋の三渓園は写真の様に綺麗ですが今年は台風の塩害で紅葉は見応え成さそうですね~。
他はどうでしょうね~?
築地の浜離宮恩賜公園とか・・・
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世田谷の豪徳寺とか・・・
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山下公園前の銀杏並木とか・・・
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鎌倉市鶴岡八幡宮の白幡神社の紅葉とか・・・
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鎌倉市浄妙寺の紅葉とか・・・
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鎌倉市華頂宮邸とか・・・
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伊勢原市大山寺~大山阿夫利神社の紅葉夜間ライトアップとか・・・
大山夜間ライトアップ 公式拝借 久良岐のよし
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秦野市の震生湖とか・・・
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秦野市弘法山とか・・・
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南足柄市の大雄山最乗寺とか・・・
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あと箱根とか・・・
2018年度、どこも神奈川県内は海が近いから例年より紅葉は台風の塩害で厳しいかもな~。
もし、余り影響受けずに見れたら嬉しいな~。

今月は休日も色々と遊びでは無くて人に会う用事が立て込み、週末なのにスーツや少しカジュアルだけどカチっとした格好で過ごし慌ただしかった。
そして今日(現時点では前日)10月27日の日曜日は久しぶりに休日らしい日を過ごす事が出来た・・・

今月中旬、はまレポの記者もやってるブロガーの❝知の冒険❞サンの中の人(笑)と初対面した時以来、やっと今月2回目の完全な休日だった。
知の冒険さんは近世~近代の色町の文化や、現代に影響を与えた民間事故の記録等を掘り下げるニッチなジャンルの歴史オタク記者で、小生の知らない事を多く知っていて記事も面白い。
知の冒険ホームページ⤵
https://chinobouken.com/

今日会ったのは知の冒険の中の人(笑)ではなくて、鎌倉市の文化的な仕事をしている歴史仲間と言いましょうか、何と言うか安心して色々と将来の事も話せる先輩と言うか、こんな大人に成りたいなと思う先輩。
日本と中国の歴史と文化が好きで小生より色々と詳しい人。
奥さんも美術品とか好きで御夫婦で文化的な事が好きらしい
共通する文化が好きな人同士で夫婦に成った先輩の話を聞いて正直に羨ましいなと思う。でも今日会ったのは旦那さんの方の先輩。
以前は仕事で御一緒する機会が良く有ったのだが最近は顔を合わす機会が無くて・・・
「どうされていらっしゃるだろうか~?」
「こちらも色々と人生の岐路に差し掛かり近況報告も有るし、お会いしたいなぁ~」
・・・と思い、久しぶりに今月中旬に連絡をとって約束をしていた。

朝方、午前11時に先輩が住む鎌倉市の浄明寺地区近くの某駐車場で待ち合わせをして先輩をピックアップした。当初の計画では何ヶ所か小生がランチの候補地を先輩に提案して、先輩は佐島マリーナの❝海辺❞と言う和食レストランをチョイスしたのだが朝方暴風雨で昼近くに成っても天気が安定しなかった事と、先輩はよりにもよって前日に飲み会で❝刺身❞をたらふく食べていて生物を立て続けに食べさせるのも悪いと思い予定変更を早朝にメールで提案しておいた・・・
「鎌倉から近い金沢区の❝柴漁港の天丼小屋❞か❝喜多屋❞にランチ変更しませんか?」
・・・と提案した所、喜多屋をチョイスされたので車で先輩をピックアップして朝比奈峠を越えて金沢区へと出発した。実はこの先輩が小生に博物館のチケットや鎌倉市の調査報告書等を下さる人なんだな。

先輩から15時迄に鎌倉に戻りたいと事前に申告されていたので、それに合わせて食事以外に何ヶ所か喜多屋付近の歴史観光地を車中で推薦した。
・野口英世博士がペストの日本上陸を食い止めた旧横浜検疫所の長浜野口記念公園
・金澤山彌勒院稱名寺
・野島の伊藤博文公金沢別邸
先輩は神奈川県立金沢文庫(博物館)は仕事で用事が有り珍しくも無いと思い、敢(あ)えて選択肢として提案しなかった。まぁ、仏像に詳しい御方だし。
で、浄明寺地区某所から車を走らせる事20分位だろうか?直ぐに長浜野口記念公園の長浜ホール(旧横浜検疫所)に到着した。
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長浜ホール(長浜野口記念公園内、旧横浜検疫所事務所棟)
ここに来るのは小生2回目で、今年初春にも紹介記事も書いている。
以前書いた記事⤵
旧長濱検疫所の細菌検査室  野口英世記念公園内に保存される明治時代の建築遺産にして医療文化史跡・・・横浜市金沢区長濱。
今年初頭に写真撮影に訪れた際は旧横浜検疫所事務所棟の❝長浜ホール❞はペンキ塗り直しで外観撮影が出来なかった。今日は外観も化粧直しされ、素敵な近代西洋建築としての価値を自負する様に立派な姿を見せてくれていた。
先ずは管理室の職員さんに確認して1Fの展示を見学した。
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綺麗な応接室の様な階段下のエントランス。
その横に簡単な説明が有り、詳しい内容は別棟の❝旧細菌検査室❞に展示されている。
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長浜ホールの方には福島県の野口英世先生の生家の模型とか・・・
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・・・明治時代当時の周辺のジオラマとかが展示されていて、埋立による地形変化前の様子が良く解る。現在は目の前に団地が広がる長浜野口記念公園だが、当時は埠頭に囲まれ横浜港に入港する前の船を停泊させて防疫検査を行っていたんだな。
言い換えれば明治時代の日本における感染病原菌防疫の最終防衛ラインが、この横浜市金沢区長浜地区だった訳だ。
長浜ホールをサクっと見学してから旧細菌検査室にも行き、野口先生の人生の解説展示をたっぷり見て、それから細菌検査室内にも先輩を案内した。
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簡単な野口先生の足跡。
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細菌検査室内の様子とかは以前の記事でも紹介したので端折るが当時の機材がそのまま展示されているのだが見学すれば皆例外なくこう思うはず・・・
「え~!当時こんなショボい機材でペストから日本を守ったの‼」
・・・ってね。本当に野口英世先生の偉大さが判るから、横浜市の小学校は付近の横浜市南部市場で働く人の見学と八景島シーパラ遠足と合わせて社会科見学遠足させるべきだと小生は思う。
見学を終えて先輩と車に戻り、そこから10分かかるかかからないかで喜多屋に着いた。
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喜多屋 & CaféDiningぼたん実はつい最近も知の冒険サンとオフ会で来たばかり!歴史好きな人はいくつか食事処を提案しても皆ここに来たがる。歴史好きだけでなく女性にも人気が有るので、着いた頃には若い女性の友達同士らしい二人組や近隣の夫婦らしい御客様で昼の12時前に既にほぼ満席の賑わいを見せていた。
先輩は昔からの横浜の名物の❝小柴の穴子❞の天ぷらを食べれるランチを、小生は秋刀魚を使ったランチを注文したのだが・・・
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御店の人の間違いで小生には横浜の新名物❝ハマポーク❞と柿のソテーが調理されて来た。一応、御店の人に注文と違う事を伝えた。
「僕が注文したのは秋刀魚の料理なのですが・・・」
「もし、まだ秋刀魚を調理して無ければコレでも結構です。でも一応、他の御客サンと間違えでは無いか確認して頂けませんか?」
・・・と申告した所、御店の調理担当の方の配慮で「秋刀魚の料理も後から出すのでハマポークのソテーもサービスさせて下さい。」と何ともラッキーな展開に成った。
「結構ですよ、御気遣い無く。」
・・・と再度言ったのだが店員さんが謝罪として料理を提供して下さったので、先輩と半分こして食べた。
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ハマポークも秋刀魚もとっても美味しかった!
でも・・・う~ん・・・男同士で料理シェアするって変な気分だった(笑)。早く奥さん見つけて奥さんと料理半分こ出来る様に成らんといけないなぁ(笑)。

この時に先輩にも披露した小話を皆さんにも紹介すると、心理テストで実は飲食店で間違えて提供された料理を店員に間違いを告(つ)げず食べる人は不誠実で異性に対しても恋人がいても別の異性から告白され浮気のチャンスが有れば拒まず肉体関係を安易に持ってしまう確率が高いそうだ。
そりゃそうだ、来る者拒まずって事だからね、そうなるだろう。更に食べてから店員に「自分が注文した物を出せ」と喚く奴は悪人で相手に間違いを告げず騙して食べてしまい食べてから言う訳だから妻子がいても相手に何も教えず不倫して、相手が本気に成ってから妻子がいる事を告げて異性を捨てるクソ野郎って事に成るな。
・・・先輩は笑いながら聞いていたが、本当に結婚前からの彼女とは結婚せずに別の女性と結婚し子供まで作りながら彼女と別れず不倫して、挙句の果てに「好きでも無い女と腐れ縁で結婚前から続いている」なんて言い腐る悪人も小生の知ってる男性にいる。

まぁ、そんな事を思い出したりした。
このランチは1500円でデザートも付く。小生と先輩は二人共、栗のクリームブリュレを頼んだ。
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これもとても美味しかった。
食事を終えてから文化財していされている喜多屋の館内を少し見学させて頂いたのだが、生憎(あいにく)と昨日は研修旅行客で満室になっており客室の見学は出来なかった。
しかし明治時代の建物で、大正時代には確実に存在して品川~横浜~現在地へと移築されて来た浴室だけは御厚意で見学させて頂けた。
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写真は以前の物だが、大正ガラスのステンドグラスがとても綺麗な御風呂。
喜多屋については以前、紹介記事を書いているので御興味有る方は其方も御覧頂ければ客室の写真が掲載して有ります。
これ記事⤵
金沢区の喜多屋は元料亭の日本建築文化財の旅館&cafe。
館内を少し見学させて貰ってから鎌倉の入口朝比奈峠へ向かう途中に在(あ)る横浜市がマンション建設容認して破壊させた上行寺東遺跡の模造復元地にも先輩を案内して来た。
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上行寺東遺跡模造再現地
ここを横浜市は遺跡として主張するが、正確には背後のマンション敷地が昔の遺跡跡地。破壊直前、高名な東大や有名大学の歴史学者や神奈川県の郷土史家や地元住民たちが多く保護を要求し破壊反対したのに横浜市は文化保護意識が低く、日本屈指の矢倉研究の貴重な遺跡だった上行寺東遺跡を消滅を容認させてしまった。その批判が殊(こと)の外(ほか)大きく成ると、今度は横浜市教育委員会は批判の矢面に立たされた事に恐怖して慌てて強化プラスチックで模(かたど)りして、この偽物遺跡を造った挙句に❝保護❞と嘘の主張を始めたのだが・・・

・・・残念ながらその嘘は記録フィルムで拡散され、ライオンズヒルズ金沢八景が言うなれば壮大な事故物件に等しい程に開発中に敷地から夥(おびただ)しい武士や僧侶の人骨が掘り返された事は歴史家や正義の横浜市民達の知る所に成っている。
まぁ事故物件どころの騒ぎでは無いな、源頼朝公と文覚上人と言う鎌倉時代の偉人が建立した寺院跡なので壮大な聖地&墓地を破壊した訳だ。
横浜市は現在も12万人弱も開発反対署名が集まり、横浜市の有識者で評議し議決で過半数も反対した❝円海山瀬上沢流域一帯の横浜市最大最後の蛍群生地❞すら、林市長以下役人と東急グループはその反対を無視して東急グループに開発させ様としており、現在多くの横浜市南部地域の市民から東急諸共批判にさらされていたりする。
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詳しくは蛍観察出来る場所の様子や歴史を合わせて以前、記事で紹介しているので御興味有る方はソチラも御覧頂ければ宜しいかと思う。
これ⤵
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
上行寺東遺跡のハリボテを文化財を大切にする鎌倉市に住む先輩はコンコン叩きながら笑っておられたが、横浜市の築地育ちでハマっ子ではない林横浜市長と同じく、現在の鎌倉市長も郷土文化歴史への知識が欠落した上に物事を自分一人で判断出来ない人で、釈迦堂切通しや釈迦堂口遺跡や名越邸址等の重要な歴史史跡&文化財の保護や住宅道路や散策路の再整備を行わず放置したまま❝とりあえず封鎖❞したまま放置していたり、先年から問題に成っている北鎌倉の隧道も市民と土建屋の板挟みのまま保護も補強もせずに放置して無能振りを晒して鎌倉市職員や教育委員会や文化意識の高い市民からも白い目で見られているそうだ(笑)。
一頻(しき)り上行寺東遺跡の❝ニセモノ(笑)❞を見物してから先輩を鎌倉に送る為に車に乗り込み、車中で先輩にずっと疑問に思っていた鎌倉市のとある遺跡について質問をした・・・
「そういえば今年の正月に鎌倉幕府初代政所別当の大江広元公の所領だった厚木の毛利台に行って来たのですが、大江広元公の御廟所の矢倉って法華堂では無くて十二所山中に有ると言うのは知っているのですが、場所御存知ですか?」
・・・と質問をした所、実際の所、伝承によって大江広元公の御廟所と伝わる矢倉が十二所山中に在るそうで先輩も調べに行ったのだが結局詳しい事は解らなかったとの事だった。でも十二所の朝比奈峠入口近くに「❝大江広元公邸址❞は在るよ、案内しようか?」と思いもよらない回答が出て来たので、近くのコンビニに車を停めて先輩の案内で石碑を見に行って来た。
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本当に熱心な大正時代の鎌倉町青年団、この先人の御陰で小生達現代の若い世代は史跡の場所を確認する事が出来る。先輩と鎌倉町青年団の先人達に感謝。
先輩を御自宅近くの某駐車場まで送り別れ、一度帰宅してから今度は夕刻に❝小机城址竹灯籠祭り❞を見物に行って来た。
2018年度小机城址竹灯籠祭りポスター
昨年は大雨で中止に成り見物出来なかったんだな、毎年行ってたのに。
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今年は5千本の伐採した竹で作ったキャンドルの展示の仕方を例年とは変え、順路の導線が混雑しない様に工夫されており非常に見易(やす)かった。
・・・あ~、来年の竹灯籠祭りは大切な女性を連れて来てあげられたら良いのになと思いながら一人で見物。
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今年は今までと少し違って時期的にハロウィンも意識しているのだろうか(笑)?
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綺麗綺麗!
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近所の小机小学校と城郷小学校の生徒達によるキャンドル作品も出展されていた。
うん!こう言う事を子供の頃にやっていると自分の地元に関わった歴史偉人が凄い人だったって大人になって改めて知る事が出来るんだな!
小机城代だったのは戦国時代の関東の覇者、北条家で家老と外交を務めた笠原家、特に有名なのは笠原信為公だな。KOEIは横浜の歴史ゲーム会社なのに歴史知識が浅い奴等ばっかで笠原信為公や間宮康俊公等、東海地方の武将を痛撃した名将達を登場させなかったり登場させて以後も実績に反して低評価のままにしていたりするのだが、こうやって子供の頃に歴史偉人の足跡を学ぶ機会を得ていると、人のデマや噂に騙されず自分で情報を確認する分析力も身に付く。
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何か可愛らしいキャンドルが多かったな。
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竹取物語の再現は少し不気味だった(笑)。
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でも今年は部分部分にキャンドルを集中さえた御陰で竹が幻想的に照らされとても見応えが有った!
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日本の竹ファンクラブの皆さん、今年もご苦労様でした。
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この活動は非営利団体❝日本の竹ファンクラブ❞がボランティア活動で行っている。
ホームページ→http://takefan.jp/
誰でも参加出来るので御興味有る方は是非、御連絡を!皆さん喜ぶと思います。
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今年は残念ながら昼まで天候不順で雨もパラパラしていたので屋台が無かった。
でも住宅街の駐車場で地元の人が焼き鳥の屋台を出していたので晩御飯代わりに6本購入して頂きました。
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とても美味しかったですよ♪
小机城に関しても以前に解説記事を書いているので、御興味有る方は記事を読んで見て下さい。
中には城の解説、各武将の関連解説記事へのリンクも貼ってあります。
コレ⤵
2017年度 小机城市民の森竹灯籠まつりは10月28日に開催!小机衆家臣団の紹介も!
城からの帰り道、月明かりと日産スタジアムが綺麗に見えた。
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もう涼しく成りスッカリ秋の夜空だなぁ~。
そうそう、先輩からこんな御土産を頂きました。
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鎌倉市の調査報告書。これ去年の奴なんでとても楽しみにしていた物。必要なくなった分を下さいました。内容も当然、小生の興味対象ばかり。
先輩、ありがとうございました♪

さて、次回は何か歴史解説記事を書きたいなぁ~。




野毛と言えば横浜市民に名の知れた飲み屋街ですが、実は明治時代には原財閥や浅野財閥の豪邸がひしめく高級住宅街だった事を知る横浜市民はもう多くないのかも知れません。
小生は横浜中央図書館に調べ物にたまに行くのですが、私事ですが実は野毛は小生の住む円海山の麓からだとバスと電車で行くより車で行ってしまう方が交通費が安上がりだったりします。
実は野毛の商店街の中には金額上限1000円程度の駐車場が沢山ありますからね、本郷台や港南台や六浦や能見台や杉田までバスで出てから電車で来ると結局1000円前後に成ってしまう上に時間かかるんです。
だから中央図書館に行く時はいつも車で行きます。
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普通に高校卒以上だったら古文で習った知識程度で読める文書。
小生、この日は上の写真の古書の一部分をコピーさせて貰いに中央図書館に行くので野毛の商店街に車を停めて、ついでにランチもしてきました。
ところで中央図書館の傍(そば)には文化財の石垣が存在するのを皆さんご存知でしょうか?
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旧平沼専蔵別邸石積擁壁及び煉瓦塀(野毛山住宅亀甲積擁壁)
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ここは元々は西武鉄道の前身、武蔵野鉄道の初代社長の平沼専蔵さんの御屋敷だった場所で、御城の石垣よりも立派な組石で擁壁が作られており、横浜市の歴史的建造物に指定されていたりします。
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
この坂を超えると初代横浜駅とほぼ同じ場所に建てられた桜木町駅に続く紅葉坂に続き、最近の映画の❝恋は雨上がりのように❞でロケ地に成った神奈川県立図書館が在ったりします。
丁度、来月11月にDVDとBlu-rayディスクが販売開始されますね。
映画に興味ある人は下に公式と過去記事のリンク貼って置くので御覧下さい。
『恋は雨上がりのように』公式サイト←クリックで公式ホームページリンク!

※以下は過去に書いた❝恋雨❞関連の記事リンクです、クリックすると記事を読めます。
2018年05月25日公開の映画 恋は雨上がりのように は横浜市金沢区~磯子区~港南区~中区がロケ地です!ついでに蛍が見れる場所も紹介!
【休日雑記】2018年06月01日・・・映画版❝恋は雨上がりのように❞ロケ地の数ヵ所詳細紹介。知ってる場所を訪問して写真撮って比較して見た。

さて野毛は学生時代に良く来ていたんです。小生はここら辺、予備校通うのに❝チャリンコ❞でちょくちょく来てたんですよ、今にして思うと円海山の麓から横浜まで親に貰った交通費ケチって小遣いにするとか凄まじい体力だったなと・・・
中学頃なんて初夏とか秋口に人の少なくなった鎌倉の由比ヶ浜にチャリンコで行ってイチャついてるカップルの横で皆でわざと大声で棒倒ししたり大晦日に禁止の焚火して焼き芋作ったりガキ染みた迷惑行為をして遊んでいた様な・・・
厚木市日向とか茅ヶ崎市のキャンプ場とか、小田原城まで城見にチャリンコで行った事が有るけれど今やったら確実に翌日仕事出来なくなりそうだな。
ついでに余計な話だけれど、学生時代に横浜駅近くの予備校に通ってた頃によく中央図書館に(チャリで)来てたんですが、小学校の時の5~6年時の同級生の初恋の気が強くて真面目そうな女の子が、中央図書館の外のベンチで彼氏らしい男とイチャイチャしてるのを見て「なんだかなぁ~」と思ったのを良く覚えています(笑)。
・・・さて、そんな訳でこの日は青春の変な思い出も有る中央図書館に古書を閲覧に行って必要な部分のコピーをさせて頂いた訳ですが、せっかく野毛に行ったので当然、野毛の激安ランチを食べて来た訳です。
野毛の場外馬券場の近くに永勝楼と言う御店が在ります・・・
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永勝楼
この御店、小生2回目だったのでそんなに通っている訳ではありませんが、普通に中華街で食べるのと遜色無い味な上に❝ランチが激安❞なんです。
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外の看板は税抜き価格表示、でもメニューは本当にこのまま!
点心とデザートまで付いていてこの値段(税抜)!
下は店内のメニューの写真。
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1人で色々食べたい時にこの値段と品数は大変助かります。
御店は少しこじんまりしてるかな?
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この日小生はエビチリ定食を頼んで見ました。
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凄くないですか?これで税込み900円!
炒飯
干焼蝦仁(えびちり)
小籠包
玉子コーンスープ
搾菜(ざーさい)
杏仁豆腐
6品で900円は中華街でも中々無いかな?

もし野毛山動物園や横浜市立中央図書館に行く用事が有る時に食事場所迷ったら、この永勝楼さん、おすすめですよ!
まぁ、野毛の商店街にも沢山安くて美味しそうな御店がありますから、ビジネスマンが多く入る御店参考にしても間違いないかもしれないです。

結局今週の週末も習い事と仕事の用事で西麻布に行ってて相模川のコスモスも江ノ島の花火大会も見に行く事が出来なかった・・・次は歴史解説記事書きたいな~。
では!又、次の記事で御会いしましょう♪

石川町駅から白虎門(延平門)をくぐって横浜中華街へ入り、メインストリートの善隣門へ向かって歩いてくると途中、左手の余り目立たない(笑)けれど結構立派な店舗ビルを構える中華料理店が在ります。

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実はここ、最近❝黄色い食べ放題のチェーン店❞が増えて面白くなく成りつつある横浜中華街の中では貴重に成りつつある老舗で何と大正時代創業の歴史を有しています。
位置的にはこんな感じ・・・
福養軒周辺 久良岐のよし
・・・多分、白虎門をくぐってからずっと左側の歩道に並ぶ御店を見ていれば直ぐに見つかると思います。
さて、この御店、老舗なので内装も立派で・・・
「あれ~?高そうだな~。」
「入り難いな~。」
・・・とか中華街に余り来ない人は尻込みするかも知れませんが、昔の彼女が中華街の某店オーナーの孫(笑)で中華街に通いまくって色んな御店で御飯食べていた小生からすると食べ放題の店はコスパも悪く、昔からある御店のランチの方が遥かに美味しく安いと言う認識なんですね。
2000円~3000円も出して食べ放題の店に行っても美味しい店は余り無くて当たり外れ激しいのですが老舗なら何処に行っても日本人の味覚に合わせてアレンジした家庭的な中華料理のランチを500円~1000円で提供する御店や、伝統的な中華会席料理を提供する高級中華料理店でも安価な1200円~3000円のコースで食べられる場所が少なくないんです。
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福養軒(大正時代創業の老舗)
さて、中華街の御店選びの基準は最後に改めて紹介するとして、老舗福養軒さんの680円激安ランチを今回は紹介します。
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この日、中華街で人に会う用事のついでにランチ食べに行った先々週の金曜のメニューは写真の通り。
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店の内装は昭和の高級な中規模中華料理店といった感じです。
この御店の女将さんは代々の華僑で、とても性格が明るく快活な印象ながら話し言葉は上品な方です。
でも猫が大好きで猫の話しを始めると止まらないので、時間が無い時は猫の話しはしない方が良いと思います(笑)。
小生はこの日、Bランチ・・・海老と玉子の旨味炒め・牛モツの香炒め・春巻き・スープ・ライスのセット680円を❝最初に❞注文しました。
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この御店の料理は1皿に盛り合わせて提供されます。これで680円・・・すきやとかマック食べるより体に良い上に栄養バランスも良く、更に白飯お代り出来るので男性には嬉しい。
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牛モツとは書いて有りますが、正確には❝ハチの巣❞と言う牛の胃袋で、小生はとてもこのハチの巣を使った料理が大好きです。歯触りが好き。この料理はカレー風味。
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玉子、海老、細切り肉の炒め。油っこくない広東料理な上に薄味で中高年の方も安心して食べられると思います。
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野菜がたっぷり詰まった春巻き1本を半分に飾り切りして提供されています。
とても値段に満足のランチなのですが、小生は敢えて御飯を御代りせず、もう1品食べたい料理が有ったのでソレを注文しました。
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雲呑(ワンタン)ですね~。
日本のなんちゃって中華料理店では餃子みたいな形のワンタンが出されますけど、雲呑の本場の広東料理や香港料理では丸い雲呑が出てきます。香港の場合は海老を磨(す)り潰した香ばしい雲呑や、広東料理では肉の雲呑が提供される事が多いです。
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見ての通り、伝統的な広東風の雲呑。確か500円くらいだったかな?
これだけ食べて白飯もお代りし出来て680円+500円前後で1300円弱、スンゴイ安いし、小生みたいに余計な物注文しなければ680円+消費税で満足出来る訳ですよ。
絶対に同じ金額で肉まんや焼き小籠包食べ歩きしたら勿体無い!

中華街のランチ、まだあんまり紹介していませんが何軒かは福養軒サン含め以前も紹介しているので中華街観光で御興味有る方は以前の記事を御参考にして頂ければ良いかと思います。
カテゴリー中華料理店の記事→『ここ』クリックで記事一覧にリンクします

では中華街の店選び基準ですが・・・
毎回小生ブログで中華街の御店を紹介する時に口酸っぱく言うのですが御店選ぶ時の基準はこんな感じで探すと良いですよ!

●肉饅や生煎包(焼き小籠包)の立ち食いはコスパ最悪!
300円~500円の肉まんとQQドリンク200円~300円を飲んでしまうとコスパ悪いからダメ!ちゃんとした中華街ランチが同じ金額の500~1000円で食られます!。
●食べ放題の店は味の当たり外れ激しい上に料理提供も遅く元取れない!
最近食べ放題の店が増えていますが、ハッキリ言って美味しくない店や前日に作り置きして油通して過熱して料理出してるだけの店も沢山有ります。
食べ放題の店で小生が特に美味しくサービスも良いと思うのは横浜大飯店サンと大珍楼サンくらい。
後は悪い意味でのチャイナクオリティーの店も多いので選ぶの大変ですね。不味い店はここに書けませんから自分で不味い店探して(笑)。
●老舗の小規模~中規模な店のランチ
ランチタイムの中華街はワンコイン500円~1000円でスープやデザート付きで食べられる店が多数でコスパ最強!
●老舗の高級中華料理店でのランチ
老舗高級店の伝統的な高級中華もランチコースで1200円~4000円で食べられる場所が沢山あります!
中華街最古参の名店、聘珍楼サンでも3000円で6品食べれるランチセットが有るし、順海閣サンでも2100円の飲茶コースや3150円のコースで8品食べられる。

・・・だから食べ放題で2000円も3000円も払うなら、確実に美味しくて元が取れるランチを食べた方が旅行やデートに最適だし、ワンコインランチや安いランチで品数足りなそうなら1品料理頼んでシェアした方が1人1000円前後で収まりコスパが良いし満足出来る店が多いんですよ。肉まんとデザート食べてワンコイン払うなら、同じワンコインでデザート付きランチセット食べた方が満足出来るし。しかも大体の小規模店舗なら御飯御代わり自由、店によってはザーサイ等の漬物やスープも御代わり出来る場所も少なくないんですよね。

さて、これから横浜も寒くなりますが・・・
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例年ならこんな銀杏並木が見られる中華街近くの山下公園~日本大通りの銀杏並木も・・・
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横浜三渓園の紅葉(もみじ)も楓(かえで)も・・・
今年はこの間の台風の塩害で紅葉する前に枯れてしまいツマラナイ秋に成りそうです。
でも横浜観光に来る皆さん!横浜観光は大桟橋や赤レンガ倉庫やミナトみらい21地区の夜景や・・・
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元町~山手地区の無料公開されている洋館が沢山有ります!
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ベーリックホールとか・・・
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・・・エリスマン邸とかね!
だから、もし横浜や鎌倉に観光に来る際は是非!中華街ランチメニューや老舗のCaféで昼食やディナーを楽しんで見ては如何でしょう?
野毛の洋食屋サンや飲屋街も楽しいでしょうし、横須賀のネイビーバーガーも捨てがたいし、三浦半島の鮪や海鮮料理やミカン狩りも捨てがたい!
伊勢原市大山阿夫利神社参道温泉街の豆腐料理や猪鍋も、小田原や湯河原温泉や箱根温泉や厚木七沢温泉や秦野鶴巻温泉の海の幸山の幸も益々美味しく成り、県内の温泉街の旅館宿泊も楽しい季節に成りますね~。
どうぞ県内外の皆さんにとって今年の神奈川旅行が楽しく充実した物に成ります様に~!
・・・川崎にも色々有るよ(笑)。

道行く人々を御守護下さる神奈川の守り神たる関東総鎮護大山の大山祇命様、鶴峯山平塚八幡宮と武家本地たる鎌倉鶴岡八幡宮の八幡大菩薩応神天皇大鞆別命様、応神天皇の皇子で前鳥神社の御祭神の莵道稚郎子様の命、神奈川県最古級の土地神様たる有鹿比売様と有鹿比古様の夫婦神様、寒川大社の寒川比売様と寒川比古様の夫婦神様、走水神社と橘樹神社の日本武尊と弟橘姫様の夫婦神様、道路横から見守って下さる馬頭観音様、道祖神様、地蔵菩薩様、中華街関帝廟の関羽雲長公と媽祖廟の媽祖様、諸諸の神仏、神奈川県内の旅客の皆さんを宜しく御加護御守護下さいます様に御願い致します~♨。

追伸・・・記事更新遅れてスイマセン。
今週は体調諸々仕事休む程で、以後暫くは個人的にも色々と人生の選択をせねばならなかったり忙しくてたまに記事更新遅れると思います。
だから歴史旅行記事じゃなくて御店の紹介とか簡単な記事も書く事多く成るかも知れません。

では!又、次の何かの(笑)紹介記事で御会いしましょ~♪


皆さんは都筑区の区名が旧都築郡に由来している事を御存知でしょうか?
地方出身の横浜市民は明治以前の❝ヨコハマ❞が、そのまま村民100人位の横浜村だったと間違った歴史認識を教えられている人もいるかも知れませんが、その横浜村と言うのは今でいう関内辺りに在った半島上の村だけを指す範囲で現在の横浜市全域を指す訳ではありません。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
横浜市の中でも都筑区は山坂が多く現代には開発が遅れた地域だった上に、古代から橘樹郡の郡衙だった橘樹神社と都築郡の郡衙だった西八朔の杉山神社や茅ヶ崎一帯を結ぶ矢倉沢往還や中原街道等の旧街道が通り特に多くの遺跡が残っている事から古代において重要な地域だった事が考古学的に解っています。
そんな早くから開けて主要街道が通る都築郡だったので、平安時代にも重要視されていた様(よう)でして東京の神田明神では商売の神様として有名で、多摩地方や神奈川県域では善政を行った名将として江戸時代に成っても庶民から親しみを込めて尊敬されていた平将門公もやはり都築郡に来た歴史が伝わっています。

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その場所が都筑区仲町台の長福寺が江戸時代迄別当寺として管理した熊野社です。
平将門公が熊野社に籠もり祈願した話しが新編武蔵風土記稿にも紹介されているのですが、小生は風土記を読むより先に長福寺を初参詣した際、御住職様に直接その伝承を教えて頂き後に風土記を読んで見ました。伝承では平将門公が寝ている時に霊夢を見て、ここに在った熊野社の社殿に7日間も参篭(さんろう=建物に泊まって御参りする事)したと紹介されています。
最初に長福寺を参詣したのは偶然で、当日は茅ヶ崎城址公園の写真再撮影に行こうとして車を走らせていた際に停止した信号の交差点の名前が❝長福寺南側❞だったのですが・・・
「何か気に成るな~」
・・・と思い立ち寄ったのが最初でした。

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久松山 長福寺&平将門公所縁(ゆかり)の熊野社
さて、長福寺さんは元々は熊野社を守る為に存在した御寺なのですが、実は小生が顕彰活動を行っている横浜の殿様の間宮康俊公の間宮家や、その上官の北条綱成公の実家福島家とも少し因縁が有りそうな歴史が有るんです。ですが先ずは御寺の紹介を先にしましょう♪
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御本堂は木造と鉄筋コンクリートを合わせた構造に成っていました。
新編武蔵風土記稿 巻之八十四 都筑郡之四の大熊村の項に江戸時代の頃の様子が❝熊野社❞と❝別當寺長福寺❞として紹介されています。
最初に熊野社の説明が登場するので一応、現代では長福寺境内にこじんまりと存在する熊野社も先に写真で様子を紹介します。
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幅は1mちょいって所で現代の熊野社は凄く小さな物に成っています。これでは平将門公が霊夢を得ても❝熊野社の御堂に籠もる❞事は出来そうに有りませんね。後世に熊野社を守る役割だった御寺の長福寺の方がメインに成り、熊野社は火災とか色んな変遷を経(へ)て復興する際に小規模化されたのかも知れません。
新編武蔵風土記稿を読むと江戸時代当時迄は平将門公が籠もった当時の規模が維持されていたかも知れない様子が記載され、当時の熊野社の御堂の幅は1辺が3.6m四方の御堂だと説明が有ります。そして御堂ではなくて社(やしろ)と書かれているので神社として存在していた事も判(わか)ります・・・

境内御朱印地の内、村の西にあり、社(やしろ)は二間(1間=約1.8m)四方(1辺3.6m四角の面積の広さ)東に向けり本地仏(ほんぢぶつ=神様の仏様としての姿)弥陀(阿弥陀様)木の立像長四寸許、縁記によるに當(当)社は承平年中、平将門宿願によりて、不思議の霊夢を蒙り、此の社に七日参籠せる・・・以下中略

別當寺長福寺 本社に向かいて右にあり、禪(禅)宗曹洞派、橘樹郡末吉村寶泉寺末久松山と稱(称)す本堂七間(12.7m)に五間(9m)南向きなり、本尊釈迦木の坐像長一尺二寸許、今自山應大と云(言う)僧を以(もって)開山とせり・・・以下省略

・・・江戸時代までは神仏習合の宗教観で本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想に基づいて阿弥陀如来が神社だった熊野社に御神像として祀られていた事が解かります。そして熊野神社は東に向いていると掲載が有りますので現代の配置を見て見ましょう。
長福寺本堂と現代の熊野社配置 久良岐のよし
現代に本堂として機能している建物は東向き熊野社は北向きと日本古来の神社の宗教観では有り得ない御社の向きに熊野社が配置されている事と、本堂は新編武蔵風土記稿で熊野社が向いていた筈の東向きに配置されている上にどうも元々神社の形式の建築を踏襲している様に本堂を幣殿としてその奥左手に本殿の様な構造の御堂が併設されている事が航空写真から解ります。
そして現代の庫裡(くり=寺務所や居住スペース)が新編武蔵風土記稿で熊野社右手に在ると書かれた長福寺の位置に現在在(あ)ります。
この状況から見ると、以下の変遷が推測出来ます。
●先ず本堂が幣殿でその左手奥の建物が熊野社だった。そして庫裡が長福寺だった。
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●明治時代の神仏分離令の際に神社機能を廃止して、元々から御神像が阿弥陀如来だった事から熊野社の社殿が長福寺本堂として利用された。そして熊野社北側右手の長福寺は僧侶の居住スペースとしてだけ活用される様に成った。
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●そんな経緯を知らない世代の御住職様や檀家さん達が現代になり「あれ?熊野神社無いじゃん?」と思ってわざわざ本堂に成っている熊野神社幣殿の南側に北向きで熊野社を再建してしまった。その際に記載の通りに3.6m四方の社殿である事や社殿を神道文化に準じて記載の東向きや太陽に向いた南向きにする事は特に気にしなかった。

・・・そんな感じで文献記載と航空写真を根拠に現代の熊野社の配置の経緯が推測出来ます。
さて、熊野社の向きはさて置いても現代でも平将門公がここを大切にした歴史は現在の御住職様や新編武蔵風土記稿によって語り継がれている訳ですが、江戸時代にこの御寺を中興したのは師岡(もろおか)越前守(えちぜんのかみ)と言う小田原北条家臣でした。その事も記載が有ります・・・

其後(そののち) 天文年中(1532~1555年)に至り、橘樹郡篠原村の城主師岡越前守伽藍を再興かど、戦国の折なれば次て修理を加ふる者なく、自ら破損せり

・・・つまり、この一文で熊野社は一回、戦国時代に師岡サンに立てなおされた後で支援者を失い風化して経年劣化の上で損壊し、後に再び立て直されているらしい事も判ります。そしてその師岡サンですが、新横浜駅北側に在る篠原城の城主だった師岡越前守と言う人物が1532年~1555年の間に熊野社を再建した事として記載が有りますが、その頃の篠原城主は小田原北条所領役帳(小田原北条家臣団の所得明細)の編纂された1555年迄の篠原村は金子出雲(十郎)が篠原代官として丗(三十)五貫で知行を当てがわれていたりします。金子一族は現代も港北区篠原に住んでいるので、つまり金子出雲の赴任以前の篠原城代が師岡越前守だった事が解かります。そして師岡越前守の師岡家は後に東京都青梅市の三田領を治める役割を担って転勤した一族でもあります。
戦国時代、青梅辺りは三田領と呼ばれ三田綱秀(つなひで)公と言う武将が治め青梅市勝沼城を居城にしていましたが、三田家が北条家を裏切ったので後に師岡家が赴任した事を、たまたま小生は城好きでもあるので青梅市勝沼城や間宮家関連の青梅市二俣尾の海禅寺を訪問した際に知る機会が有りました。
ちなみに金子出雲の金子一族もそもそも青梅に鎌倉時代から勢力を誇った一族で、三田家は青梅に後から室町時代に成って入って来た一族なのですが、面白い事に師岡家・金子家・三田家の全てが青梅市と深い関わりが有る上に、青梅市を含めた多摩地方では今でも平将門公が❝善政を行った❞歴史が語り伝えられており武蔵阿蘇神社も平将門公が熊本の肥後国一之宮阿蘇神社から神様を勧進し開いた神社として知られていたりします。

さて、そこで実は都筑区の長福寺さんも、どうやら青梅市としがらみが有る事が元々の御寺の本寺格だった寶泉寺の名前が新編武蔵風土記稿に書かれている事や、三田領勝沼城代と成った師岡家が関わっている事から解ります。
この長福寺さんは鶴見区下末吉の長谷山 寶泉寺の末寺でした。
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長谷山 寶泉寺この寶泉寺(ほうせんじ)は権現山城の戦いで活躍した間宮彦四郎と思われる間宮信冬公が開いた御寺で信冬公の系図上の曾孫に当たる間宮康俊公が中興しているのですが、中興開山の御住職が東京都青梅市二俣尾の海禅寺から招聘されています。そして旧二俣尾村の海禅寺は元は福禅寺と言う寺名で、戦国時代天正三年(1575年)には天皇家勅願所にも成った凄まじい由緒の有る御寺なんです。
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瑞龍山 福禅寺(現名:海禅寺)
その青梅市一帯を元々治めたのは三田氏でしたが、三田氏は三田綱秀公の代に小田原の北条家を裏切って上杉謙信に付いた為に討伐され福禅寺近くの辛垣山城に立て籠もりますが結局は降伏し、三田綱秀公は旧上司に当たる太田家の岩槻城に抑留された後に切腹する事に成りました。
更に二俣尾村の名主を江戸時代ずっと務めたのが❝福島家❞である事、小机の土地は元は北条幻庵公の所領でしたが、後に福島家から北条家の婿養子に入った北条綱成公の御子息の北条氏繁公が譲り受けている事、その北条氏繁公の祖父の代までの苗字だった福島家が海禅寺一帯の名主を江戸時代を通じて務め支配を行っていた事も風土記に記載が有ります。
福島家の辺りには澤乃井酒造さんと言う御洒落な酒蔵が有り、現代では八王子市界隈の人が奥多摩レジャーに訪れる際の観光地の一つとして有名だったりします。
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澤乃井園(澤乃井酒造)どうも記録に残らない三田綱秀公没後の青梅市界隈の三田領を分割支配した殿様の事を室町時代末期~安土桃山時代頃の様子を江戸時代の記録や現在の状況から推測すると、玉縄北条家の北条氏繁公や、その子の北条氏勝公の所領に青梅市奥部は成っていて横浜市小机辺りに青梅市辺りの武将達が逆に代官として赴任して来ていたかも知れない様子が何となぁ~く想像出来たりします。
因みに青梅市の躑躅(つつじ)の寺として有名な塩船観音さん・・・
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大悲山 観音寺
この御寺の鎌倉時代の支援者が金子家の金子十郎公でした。どうやら金子❝十郎❞は世襲された名前らしいですね。
篠原城代金子家の事は以前、解説記事に書いているので御興味有る方は御覧下さい。
これクリックで記事リンクします⤵
篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。

さて、そんな感じで横浜市鶴見区~港北区~都筑区辺りの武将や御寺が実は東京都奥多摩地方に深く関わっていた歴史が辿れるのが長福寺サンの歴史から紐解ける訳ですが、最後に長福寺さんや青梅市の人達が敬愛する平将門公が港北区~都筑区に来た証拠が地名として現存している事も紹介して置きます。
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長福寺から茅ヶ崎城址、つまり横浜市営地下鉄センター南駅方面に車を走らせると平台と言う地名が有ります。この地名は平らな台地だったからでは無くて、平将門が来て長福寺に成った熊野社に参篭した歴史から一帯の地名に成った様です。この事を長福寺の御住職から近くに平台と言う地名も有って云々~と教えて頂きました。
長福寺と平台 久良岐のよし
現代では平台と呼ばれる地域は台地の西の端の範囲しか指しませんが、長福寺辺りが❝仲(中)町台❞と地名が有る事から、長福寺背後の丘~現代の平台辺りの広範囲が本来の平台だった事も推測出来ますね。そしてそこには中原街道が通り、その北には矢倉沢往還が走る訳です。
特に矢倉沢往還は古代東海道と分岐して続く陸路だったので、その道は平将門公が生まれる遥かに昔から使われた街道で平安時代にも重要な地域だった事が解かります。

さて…
実は長福寺さん、3年くらい前の記事で紹介する予告してスッカリ放置し忘れてました(笑)!
今回改めて3年分拾い集めたピースを繋げ長福寺さんと熊野社の歴史、平将門公の伝承から意外な東京都まで話が繋がりましたが、きっと皆さんの御近所の神社や御寺サン、御城の跡の山や公園にも意外な歴史偉人との繋がりが有る場所が必ず有ります。そして悩んだ時や気分転換をしたい時、神社や御寺に御参りしたり城跡を散歩して緑を見るだけでも心が落ち着きます。

皆さん、御近所の神社や御寺や城跡を散歩して見ませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

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