歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。
皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪
写真と本文ともに無断転用禁止!転載したい場合は当方へ確認願います。

愛知静岡旅3日目・・・

朝は犬山温泉の旅館、臨江館から始まった。
朝食を頂いて、朝風呂に入り、身支度をして犬山城に向けて出発。
従業員は女将さんはじめ、皆さんとても親切で良い思い出に成った。

犬山城は臨江館から徒歩でも10分程度と近い。
小生は車での移動なので、犬山城までは5分もかからずに着いた。
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犬山城の入口には針綱神社と言う延喜式内社が在り、それが城址入口の目印でもある。
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犬山城の鎮護だが、築城後に同地に移転させられたのではなく、寧ろ築城以前からこのこの地に鎮座していた神社さんらしい。
神奈川県と東京都と埼玉県の延喜式内社は少し知っているけれど、愛知県の延喜式内社の事は今回少し調べた程度だったので、訪問に際して予備知識が無かったで意外な場所で古社に御参りが出来て嬉しかった。
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その横には三光稲荷神社も有る。愛知県は寺の軒数が日本一なのだが、神社も可成り多い。
この神社も御城の登城口。
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神社の前には切通し状の道路が通っているが、これが犬山城の主要部分と外を隔(へだ)てる堀切の堀底道だったりする。
まぁ、証拠は後程掲載する縄張り復元模型の写真で確認して欲しい。
犬山城の詳しい解説は又にするとして、何より見所は国宝の天守閣、確か小生の子供の頃は1560年位の建築とされていた様に思う。現代では諸説有るらしいが遅くても江戸時代初期から存続する事は間違いない。
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天主閣=御城と思い込んでる歴史音痴も多いが、これは戦時の指揮所で平時の倉庫、あくまで居住空間では無い。後にも先にも天主閣に居住したのは織田信長公だけと言うのが一般的な説らしい。
ま、絶対に他にも天主閣や櫓で寝起きした殿様もいたと思うけどね。
それはさておき…
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戦時の指揮所だけあって当然居住性は悪く、階段も敵兵が登り難(にく)い様に急な訳だ。CIMG0533
現代人男性の平均身長170cm前後でも登り難い、当時の日本人男性の平均身長は150cm前後なので、この階段は当時の人にとっては最早、梯子(はしご)の様な物だっただろう。
現代の犬山城天主閣は博物館の様な機能も備えていて、甲冑や縄張り図も展示されていた。
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まぁ、指揮所兼展望台みたいな場所なので、天守閣の事はもう眺望を見て貰った方が早い。
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すんごい!高いの!
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欄干が腰より下なの!
小生は高所恐怖症なの!
もう絶対に登りたくない!
けどスンゴイ風景綺麗でしょ~‼皆、犬山温泉に泊まって、犬山城見たり旧尾張地方の観光は推薦出来るよ~!
…と絶叫したくなる場所でした。
犬山城址公園から降りて来て、最初にしたのが尾張名物の田楽を食べる事。
城の前には御土産物屋さんや飲食店が数件立ち並んでいて…
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目の前に在るこの店で田楽を食べた。
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美味しかったですよ。ついでに近所の御土産物屋さんで同僚への御土産も購入。
そして、この田楽屋さんから徒歩で1分の❝城とまちミュージアム❞ へ移動。
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歩く道は旧武家屋敷街だったメインストリート。
城と町ミュージアムは犬山城に関する様々な時代の縄張り図や城址と城下全体の復元模型が有り、犬山城を見るなら絶対に見て置きたい場所。小生は城に行ってから此方(こちら)に来たが、先に此方に来てから城を訪れた方が良いと思う。
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本当に見事な復元模型。川越市立歴史博物館の河越城と城下の復元模型が今まで最高傑作だと思っていたが、これは其れを遥かに上回る出来だ。
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本当に良く城下の様子や縄張りが解る。恐らく戦国時代の犬山城は本当に山の部分だけだっただろう。
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これだけ大規模な総構えに成るのは、城主成瀬氏が徳川家の一将として小田原城攻めに参加し近世城郭の基礎を学んで来たからだろう。
ともあれ、これだけの大城郭が他の地域でも多く建設されたのは徳川家康公が天下の騒乱を治めて平安を世にもたらしたから。重税の豊臣政権じゃ、いずれにせよ天下は治まらなかっただろう。
家康公が関東入部の際、前領主の北条家が税率40%と現代に比較しても善政と呼べる政治を行っていたせいで税率を変更できず北条家の官僚統治を模倣しなければならず苦労したのは有名な話で、徳川の治世が上手く行ったのは北条早雲公・氏綱公・氏康公の御蔭とも言える。
しかし、この博物館も犬山城天守閣も素晴らしい。運営されている職員の方々に感謝。
ここを10年ぶりに見終わって、また一つ10年ぶりの小牧山城址公園に移動…
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昔来た時は、小牧山城の上に存在しなかった歴史事実では存在しない筈の鉄筋コンクリートの天守閣が有って非常に憤慨した思い出と、当時は雑木林化しながらも荒らされていない空堀を散歩した思い出が有る。
約10振りの訪問だが、この時間を経て小牧市も反省したらしく城址公園としての整備を本格的に❝やっと❞始めたらしい。
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今回の見せ方考える整備は素晴らしいと思う。これも恐らく現在の小牧市教育委員会の委員長と市長が素晴らしい人物なんだろう。公園に変な展示館みたいな箱物を作る位なら、ちゃんと発掘してこっやって芝生で覆った方が昔の様子が解るし子供も段ボールで滑って遊んだり出来るだろう。
神奈川県綾瀬市の早川城址公園みたいに曲輪や堀底に植物園や遊具を設置しても良いだろうし、何にせよ、今の小牧市の取り組みは素晴らしい見せ方だ。
昔は嫌いだった天守閣にも一応登って来た。
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この建物は歴史音痴でド阿呆な成金が、城址に寄付の名目で全く関係ない鉄筋コンクリートの建物を建ててしまい史跡を破壊した負の遺産なのだが、今回訪問したら、負の遺産を何とか良い遺産にしようと今の小牧市の市長さんや教育委員会の方が努力されて中は立派な展示館に成っていた。
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本丸の模型とか…
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小牧山城の縄張り模型とかも展示されている。
今回、ここに登った一番の目的は、ここから生駒家の居城、江南市の小折城址に在る久昌寺が見えるか確かめる事だった。
小牧山城からの展望
一応、事前のシミュレーションでは方角は解っていたのだけど…

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やはり、大きい工場が乱立し、綺麗には見えなかったけど、戦国時代の当時は本丸から小折城が良く見えたと思う。
何でこんな事を確かめに来たかと言うと、武功夜話と言う古文書に現代語にするとこんな内容の記載が有る…
信長公の実質本妻で体裁上の側室だった生駒類(おるい/別名:吉乃)様と言う方がいて、信長公との間に年子で2人の男子(信忠公・信雄公)と姫(五徳姫)を産んだせいで体力を落とし、亡くなってしまった。お類様が亡くなる直前、信長公はこの小牧山城の本丸に御台所(みだいどころ=奥方の館)をわざわざ築いて、お類様を生駒家の小折城から引き取り、信長公は暇さえ有れば自ら看護したそうだ。
そして、看護の介無く塁様は亡くなってしまい、小折城の類様の館、つまり信長公が若かりし頃に二人で過ごした場所の西側で亡骸が荼毘(だび)に臥された。つまり火葬された。現在の田代墓地と言う場所だ。
この田代も本来は田城と書いて生駒家の小折城所縁(ゆかり)の地名だろう。
信長公はそれ以降、いつもお塁様が荼毘に臥された方を見ては泣いていたそうで、これは信長公の性格の実像を記録した貴重な証言な訳だ。これを書いたのは前野長安の子孫の吉田さん家の御先祖で、前野長安は蜂須賀小六正勝公の義兄弟、つまり信長公とも生駒家とも秀吉とも親しい人物だった訳だ。
同様の話は生駒家にも伝わっているそうだ。
とりあえず当時は見えたであろう小折城の方面が見渡せるのは確認出来て満足し、大急ぎで走って山を下りて車に乗り、布袋駅に向かった。
大急ぎの理由は布袋駅で一宮市在住の歴史仲間と12時30分に待ち合わせ、更に13時に江南市の久昌寺で信長公の母方の親類の御子孫の土田(どた)さんと待ち合わせをしていたから。
何とか時間の少し前に久昌寺に到着した。
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ここは生駒氏累代の殿様と於類様の菩提寺。だから織田信長公・信雄公・お類様と歴代殿様の御位牌が祀られている。
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本堂の様子は江戸時代のまま。
10年前に御会いした土田さんとは違う、今の檀家総代の土田さんに面会し衝撃の事実を聞かされた。
久昌寺は生駒さんと檀家さん僅か18家の努力で戦国時代から存続させて来たが、明治政府と戦後の宗教改革で土地を接収され、今年2016年になりいよいよ維持が困難と成り廃寺が検討されているそうだ。
この記事を見た人は、出来れば江南市長や江南市教育委員会、大村愛知県知事や愛知県振興部観光局や愛知県教育委員会に❝御寺全体の史跡認定による保護と観光地としての活用❞を陳情して欲しい。
●大村愛知県知事の陳情先…事務所リンク
●沢田江南市長の陳情先…ホームページリンク
もし、この久昌寺が廃寺に成り更地に成ってしまうなら織田信長公のファンのみならず愛知県にとって取り返しのつかない大損失に成るだろう。土田さんの話では相当に切羽詰まっていて今年か来年かと言う話らしい。
もう2つ・・・
●江南市観光協会の陳情先…ホームページリンク
●織田木瓜紋会(織田家子孫の作る織田家所縁の史跡保護の活動会)…ホームページリンク

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今回、土田さんの許しを得て御位牌を撮影させて頂いたので掲載しますが、小生のブログの閲覧者には御位牌を拝んで、この御寺の存在をちゃんと考えて欲しい…
本当は写真に写したくない。10年前に先代の檀家総代土田さんと御縁が出来て御位牌を拝ませて頂いて以来だが、御位牌と言うのは神道で言えば御神体の様な物だし、仏教的には仏舎利に等しい存在だから。
信長公・お類様、御許し下さい、御二人を皆に見て貰い、色々考えて貰います…
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久庵桂昌大禅定尼 織田信長公之室・・・お類様。
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総見寺殿相国一品泰巌大居士・・・織田信長公が没後に朝廷から追贈された官位と中国式の官職。
相国とは日本の太政大臣や右大臣に征夷大将軍を合わせた様な称号。今風で言うと大統領とか総理大臣。
皆、こんな大切な御寺無く成っちゃって良いの?
小生は一先ず、御寺への寄付を集める手段を考えながら、県知事や市町への陳情文書を作成します。
直接関係ないけど名古屋の観光復興に熱心な河村名古屋市長にも、織田家所縁の津島神社のある津島市や織田家初期の居城の稲沢市と愛西市の市長にも連携できないか手段を探してみます。
捲き込めれば愛知県の大企業も大旦那(スポンサー)に巻き込みたい。信長公と吉乃様の歴史が残る場所を残せるならボランティアでなんでもやろう。
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本堂の裏には御廟所が有ります。
先に御位牌を見て頂いたので吉乃様の墓の位置は解るはず。
四代生駒家長公は於類様の御実兄で、信長公の経済を支えた人物だ。萱津の戦いで敵軍に馬の群れを突撃して混乱させたり奇策に富んだ軍師でもあった訳だ
織田家が没落すると、尾張徳川家の家老として活躍した。3000石の大身だったそうだ。織田の天下が定まっていたらいずれ大名になられた人物。
まぁ、歴史にifは無いが、この久昌寺が日本規模で大切な御寺なのは御理解頂けたと思う。
残念ながら交通手段が今の所不便で観光素材に活用されておらず、愛知県は文字通り日本の宝を持ち腐れさせて廃寺の危機に追いやっているのだ。しかし、大村知事や河村市長の知る所と成れば、事態は必ず好転するだろうと思う。

久昌寺の近所には龍神社が在る。
ここは生駒家の御子孫や土田さん達の伝承で、お塁様の邸址に当たる地域とされている場所だ。
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神社には八大龍王が祀られていたが、神仏分離令で龍神社と名を改めた。
その前にも史跡が在る。
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元々は龍神社ともども久昌寺の境内地。
ここは雨乞いの場所だったらしい。
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お類様と信長公の事を考えると、縁結びの御利益も有りそうだ。
もっと参拝客がいて然るべき神社だと思う。
そこから名鉄の線路を挟んで向こう側、田代墓地に移動した。
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関係者じゃないけど、御線香上げに来たから車を停車させて頂いた。
ここは、お類様が荼毘に臥された場所。
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10年位前に来た時には無かった看板が有る。江南市も観光資源として生駒家を重視するなら、やはり久昌寺の窮地は境内全体の史跡化を図り税金投入して救うべきだと思う。そして周辺自治体と連携して観光地のアピールをするべきだとも思う。単独では無理が有る。
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お類様が火葬された場所には桜が植えられている。通称:吉乃桜。
以前来た時には、通称の吉乃で役を演じた高木美保さんがここを御参りされた時の写真が有った。でも朽ちて処分された様だ。高木美保さん、久昌寺の復興に力を貸してくれないかな…。
拝み終わったら、元々訪問予定だった江南市歴史民俗資料館に小折城址の縄張り図を見せて頂きに上がる事にした…
が!途中寄り道。
堀尾跡公園。 秀吉配下堀尾氏の邸址だ。
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この立派な門の先が公園で、元々、名古屋市熱田神宮の前に在った裁断橋が移築されている。
裁断橋の歴史は戦国時代初期には熱田に存在したそうだが、現在の橋は堀尾一族の堀尾金助が小田原攻囲中に陣没し、その供養の為に母によって架けられたそうだ。悲しい歴史が有るね。
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でも、堀尾一族は堀尾吉晴公が松江城主と成り大出世した。きっと金助も無駄では無かったんだと思いたい。
こんな悲しい話も歴史が好きだとしばしば直面する。だから、戦争に成らない防衛力の大切さと、戦争は最終手段であり、外交力と情報収集力が如何に大切かも解ったりするんだな。
治には桜が綺麗な場所。以前来た時は五条川沿いに桜が咲いて、とても良かった。
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橋の先には館跡に立派な八剣神社が建っている。堀尾家の名と共に末代まで周辺の人に大切にして欲しい。
この写真撮影の間、友人は近所で来た事が有るのにずっと待っていてくれた。感謝。
やっと江南歴史民俗資料館に移動。
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職員の方が居たので、とりあえず久昌寺の状況が廃寺検討段階に有る事を伝えたが、新しい館長さんは史跡としての反応より建物の物質的な話とかに成ってしまって少し問題から話題が逸れてしまった。
でも、この方も親切な方で、貴重な生駒家の資料のコピーをたまたま見せて頂けた。
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小さくはない、中くらいでもない小の大くらいの広さの博物館だが、こんな古文書や絵図の複製の展示も有って江南市の事と生駒家と蜂須賀家と前野家の基本的な情報は学習できる場所。
昔来た時に、色々親切に対応して頂いて教えて頂けた事を思い出しながら見学した。
こう言った素晴らしい場所を設けて下さっている江南市役所の皆様、市長様、ありがとうぞざいます。
出来れば久昌寺の重要性も再度検証して史跡認定して頂ければ全国の信長公や歴史のファンは安心すると思います。
ここから、宮後八幡宮に移動。
江南市の宮後地区は蜂須賀のあま市とは別のもう一つの拠点だった場所。
そして、蜂須賀家の城塞の近所に蜂須賀家政功によって造営された宮後八幡社が現存する。
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 小さい神社だが周囲の石組はどうも江戸時代のままだそうだ。
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確かに、木曽川から持ってきた石らしき物を野面積みにしてある。
現代の石組じゃないよね。
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拝殿も社殿も小さいけれど…
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地元の人の誇り。
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そして、あま市と江南市と徳島県を殿様の御縁で繋ぐタイムマシーン。
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小さい御社だけど、蜂須賀家正公奉納の檜皮葺の格式高い屋根。
さすが!津島大社の近くの蜂須賀城主の御子孫、境内地が小さいなりに、古来の御社を建造される辺り故実への御理解が深くてらっしゃる。
多分、現代では氏子サン少ないんだと思う。
もっとここは大切にされ信仰されるべき場所、なんてたって水運と経済と実務で日本屈指の実績を残された蜂須賀家の御利益に肖(あやか)れる出世神社であらせられる訳で。
もし、神社仏閣史跡の保護活動が形に成れば、覆殿を作れたら良いな~と思う。
氏子サン達も増えて、町の人によって大切にされ、観光客も増えて宮司様常駐できる程参拝客で溢れる日が来ないかな…。小生に何が出来るだろう?
ここから北西に徒歩2分の距離に宮後城址、蜂須賀家の要塞跡が在る。
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在ると言っても、周辺の道路が当時の水掘りの形状を残すのみ。
まぁ、城と言うよりは要塞化した居館兼、水運拠点と言う場所だろう。
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イタズラして捲(めく)れた場所をはがすクズがいるようだ。イタズラした奴が反省する神仏の軽い罰が落ちます様に。この前通った時に転んで膝少し擦り傷剥けるくらい。
ここから最終目的地だった縄文文化の男根崇拝が残る延喜式内社田県神社に向けて出発した。
途中で前野天満宮と言う神社を見かけ、友人と…
「そう言えば、この辺りに前野さんの御屋敷有るよね?」
…と言う話題に成り、運転しながら立派な漆喰の御宅を発見!
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コンビニに車を停めて歩いて戻ると、友人の感の通り前野家の御子孫の吉田さん家の御屋敷だった。
前野家ってのは、蜂須賀小六正勝公の義兄弟の前野長安公ね。
一時は大名にも成ったけど、上官の豊臣秀次公が耄碌(もうろく)した秀吉に有らぬ謀反の疑いをかけられて切腹させられた際に一緒に責任とらされて切腹、御一族は吉田と名を改めて、元々の出発点の江南市に帰農して残った。

その吉田さん家の前で、美人な奥さんと少年が門前の花壇をお手入れされていたので御声がけしたら吉田さんの奥さんだった(笑)。
本当に凄い美人!そして坊やはとっても礼儀正しい!久しぶりに愛知に来て気が付いたのだが、江南市辺りは子供の礼儀がシッカリしている。この吉田さん家の坊やに限らず多くの少年少女が観光客に挨拶をしてくれるのだ。親達がちゃんと歴史を伝えて強い責任感と道徳心が受け継がれているんだと思う。
多分、これは防犯にも役立つ良い習慣だ。不審者はビクっとするんじゃなかろうか?
ん?小生見た目が不審者なのだろうか?
いやいやデジカメを首から下げてるからだと思いたい(笑)。
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門前にはモニュメントと説明文。
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本当に立派な御屋敷。これを維持されている吉田家の皆さんに頭が下がる。
ちゃんと奥さんの許可貰って撮ってるよ!
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奥さん見切れとる(笑)。
あ~アンナ奥さん小生も欲しい~子供も欲しい~…
でもその前に、寂れ荒れ廃寺廃社の危機に在る神社仏閣と史跡を復興させる活動を創生し成功させ未来に文化伝承歴史を残したい。
和尚さんや宮司さんや殿様の御子孫に、強い援護射撃を撃てる様に成りたい。
…とか吉田さん母子が草むしり頑張ってるの見ながら思った。
美人の奥さんと少年の草むしりを見て色々考えながら“男根崇拝の神社”田県神社へ移動(笑)。
田県神社は小牧市に所在するが、江南市と市境が複雑に入り組んでるから余り、市をまたいだ実感は無い。
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田県神社は古代の文化を受け継いでるだけ有り延喜式内社だ。
境内も敷地が広い方。
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社殿も立派だ。社務所には巫女さんがいっぱい…
う~ん、何か複雑な気分に成るのは小生が馬鹿で煩悩の塊だからだろう。
皆さん古来の文化を守って下さってる事に先ず感謝するべきだな。
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奥院。
の参道に…
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なんかいる。
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なんかいる。
でもこれ、現代の奉納だそうだ。
本殿に行くと、御神体が祀られていた…
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「(;´・ω・)おおっぅふ」
・・・と、変な声をあげてしまいそうな御神体そのモノ。でも、縄文時代とか稲作が浸透する以前の弥生時代は日本人の平均寿命が30歳位と推定されているから、子孫を残す事はとても大切で、神様にお願いしたく成る位切実だったんだろうね。だから男根や女陰に似た奇岩が信仰対象に成っていたんだと思う。
横浜市の遺跡からも環状列石や石柱が出土してるしね。
多くの延喜式内社は縄文時代の遺跡が近くに在って、神代に当たる縄文後期の文化と思しき伝統が残っていたりする。
神奈川の寒田神社なんか弥生時代の木製御椀が残っているけど、日本武尊が用いたと言う伝承と時代が整合性が合ったり、高部屋神社なんかは古代からの名残で注連縄に吊るす莫告藻(なのりそ=ホンダワラ)を明治まで宮司が10km歩いて海まで採集に行っていたが、これは弥生時代まで高部屋神社周辺が海だった地学とも整合性が有る伝統だ。
だから、この田県神社も古代人が男根崇拝に子孫繁栄と存続を願った場所がスタートだったんだろう。
そうやって我々の前には縄文文化以来数え切れない祖先達が命を繋いでくれて、現代の社会と文化が有る訳だ。
御先祖様、申し訳ない。
田県神社で社務所が閉まる直前に御朱印を頂き、この時点で17時位。
車に乗ると江南市へ逆戻りした。
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目的は撮影し忘れた小折城址の石碑を撮影する為。
本当、歴史仲間を引き回して申し訳ない。
生駒氏の邸址と石碑が布袋東保育園の横に在る。
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ここは親切に略歴と、小折城縄張り図、そして現在の地図に照らし合わせた城域推定範囲が書き込まれている。
これを紹介して置けば、現地を歩きたい人はココに来れば小折城の事を下調べしないでも良く解ると思う。
そう思って写真撮影に来た。
撮影中、地元の方が観光客が来ている事を珍しがって、小生らと御話しして下さった。
ここが大切な城址で有る事や、久昌寺や龍神社が信長公と類様夫妻がラブラブに過ごした場所だと言う事を御存知無かった様で説明したらビックリしていた。
そして、久昌寺を生駒さん達が廃寺にしようか悩む段階にある事を伝えると「町でなんとかできないのか!」と本気で怒って下さった。
少し嬉しかった。地元の人が大切さを認識して、危機意識を持って支援の手を差し伸べ始める事が一番力強い支えに成るから。
市民が動けば市長や観光協会の方々も予算を付けて堂々と保護に廻れる様に成るだろう。
これだけ友人に付き合ってもらい、本当に申し訳無かったので夕御飯を御馳走する事にした。
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ひつまぶし備長本店 丹羽郡大口町
実は最初からここに来る予定だった。
先日、東京スカイツリー店で食べて美味しかったので、この本店に大分前から来たいと思っていたのだ。
そして、ここで食べて正解だった。
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スカイツリーより安い、そして気持ち更に美味しいと思った。
友人も一宮市民なのにここを知らず、食べて「美味しい!」と喜んでくれた。
良かった良かった。
食事が終り、友人を一宮市の自宅へ送って別れた。
次は何ヵ月後?何年後に会うのだろう?とても大切な友人だ。御互いに織田信長公を崇拝し、そしてあらゆる宗教を差別せず、ちゃんと礼をもって拝む。自分の信仰は信仰。そして皆に大切な場所は自分にも大切な場所。
それが解る友人。

自分は翌日に真清田神社に御参りしてから静岡に移動する予定だったので、駅前のアパホテルに宿泊した。
ここでも犬山市や江南市や小牧市同様、どこに行っても名古屋と違って親切だった。
そして、10年前に比べて凄く都会に成っていてビックリした。
友人に感謝、愛知県の人々に感謝の3日間だった。

次は愛知静岡旅行4日目、静岡の旅の休日雑記を書きます。 

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横浜市栄区長倉に江戸時代には経堂橋と呼ばれ、大正時代の補修以後は昇龍橋と呼ばれた橋が在ります。
この橋は上郷6号緑地沿いの遊歩道にかかっているのですが、旧鎌倉郡の原風景を見る事が出来る重要な場所で、上流の瀬上沢には自然の蛍も生息している貴重な自然公園に成っています。
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素敵な石橋でしょう?もう少し秋深く成った方が綺麗かも知れませんね。
石橋の左側の赤い筋は自然湧水の小さな滝です。
ここ等辺りの地盤は関東ローム層で鉄分が多く含まれているので鉄分のせいで酸化した赤い成分が沈着するんですね。ですから鎌倉は武士の首府だった時代に水質の良い井戸が少なくて、逆に水質の良い井戸には鎌倉十井と呼ばれた場所が出来たりしました。
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現地に行くと、栄区役所の熱心な御担当者がちゃんと調べた説明も有ります。素晴らしい。
この橋は横は風情があるだけでなく市内では最古の現存する石橋で、絶対に破壊させてはいけない文化財なんですね。
実はこの橋は白山社の旧参道で、その傍らには武士達が駆けた旧鎌倉街道の間道の1筋も残っていたりします。
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橋を渡った先に、白山社古址の石段が有ります。
何故、白山社“古址”と言う言い方をしたかと言いますと、もう廃社にされ近隣の庄戸地区に移転してしまったんです。
昔は、地域の殿様や庄屋さん達が神社に収入に成る土地を寄進して、その土地の田圃の年貢が神社運営費に成ったりしたのですが、明治政府の唯一の失政である宗教改革で、神社仏閣の土地は没収され多くの神社仏閣は運営困難に成り荒廃し、廃社や廃寺に成って行きました。
日本文化を大切にしようとした明治政府でしたが、この失敗で寧ろ日本文化と日本人の乖離(かいり)を招いてしまったんですね。そして多くの神社仏閣に止めを刺したのが敗戦後のGHQの統治とGHQ撤退後に行政に食い込んだ反宗教のマルクス主義者や左翼です。GHQは僅かに残った神社の土地の多くを更に奪いました。GHQの撤退後に市に返還されるのですが、この際、多くの市職員や政治家に戦時中の反動で左翼閥が多く成っており、GHQから返還された神社仏閣の土地を元に戻す事は無く、市の財産として売却してしまった場所がほとんどでした。
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この白山社も荒廃してしまったのですが、石段の様子を見るに古い時代からここに在った石材に見えます。
小生の経験だと摩耗の仕方から遅くても安土桃山時代か江戸時代初期ぐらいの石段じゃないでしょうか。
恐らく、鎌倉武士達も往来する際に、この白山社で御参りした事でしょう。
今では何も建物も石碑も、当然書物も無いですが、なんだか神秘的な雰囲気は漂っています。
何で小生が、ここを鎌倉武士達も拝んだと推測しているかと疑問に思う人もいるでしょうか?
ここには、鎌倉武士達が関与した証拠が残っています…
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最初の石段を登って境内に入ると左手には切り抜かれた箱状の穴が有るんですが、これは奈良時代~鎌倉時代末期までの武士の習慣で、矢倉と呼ばれる死者の供養塔を置くスペースだったんですね。
昔の鎌倉武士の御墓は御骨を骨壺に入れた後、地下に埋葬するのではなくて石塔(墓石とは形状が違う)の中の納骨スペースに骨壺を入れる事が多かったんです。
土地の狭い鎌倉に住んだ武士達らしい習慣ですね。
小生は偉人の御廟所の写真を普段は掲載しないのですが、一つ具体例として三浦義澄公の供養塔を皆さんに見て頂きたいと思います。
ちゃんと史跡保護しないと骨壺を海外への転売しようとする盗掘者や外国人犯罪者に破壊されるよと言う戒(いまし)めの意味も込めて…
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これは鎌倉武士の代表格、三浦家の棟梁、三浦義澄公の菩提寺だった薬王寺跡:横須賀市衣笠の写真です。
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御寺は明治政府の宗教政策の失敗で廃寺に成り、御墓は破壊され骨壺が盗まれてしまいました。
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納骨スペースが無残に叩き割られ石塔上部が直接おかれて中身が盗掘されています。
鎌倉武士達の御墓は西日本の文化と違って元来はこのような四角い石柱の中に空洞が彫られ、そこが納骨スペースに成っていて骨壺が納められていたんですね。
そして、供養の石塔が立てられる場所は先程の写真の様な壁面に掘られた矢倉と呼ばれる人工の半洞穴の中でした。
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だから、この矢倉が有る事で、この白山社が武士にとって大切な場所であった事が解るでしょうか?
この昇龍橋の少し下流には権現橋と言う橋が有ります。白山社はつい150年前に明治政府の宗教政策で神社と御寺が強制分離させられるまで多くが白山権現と呼ばれ神仏習合つまり神社と御寺の両方で祀られる神様でした。
そして、ここの昇龍橋も明治時代まで経堂橋と呼ばれた事から、この付近には御寺が在って白山社古址は白山権現を祀る御寺の経堂だった事が用意に推定出来ます。
白山社の矢倉は最初の矢倉を登った左手に在ります。正面を向くと、当たり前ですが神社?経堂?の跡の石段も現存しています。
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本当に残念ながら社殿は維持できずに取り壊されてしまい、今では武士達が歩いたであろう石段しか有りません。それでも、この境内に踏み入ると何だか陽が当たらずとも清々しい空気に満ちています。
さて、白山社古址と昇龍橋の説明からは少し離れて、周辺の遊歩道の風景を見てみましょう。
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白山社古址を正面に昇竜橋から左手を見た先が、遊歩道を瀬上池や瀬上沢に進む順路です。
それと反対方向の朝比奈峠側に歩いて行くと、下の風景が見られます。
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この一帯は小川の両岸が散策路に成っていますが、両岸に昔から道が有りました。
どっちかが崩壊してもどっちかが通れる様にする工夫でしょうかね?
暫く進むと権現橋が有ります。
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橋の先は今は民間に払い下げられてしまった様です。
橋の手前に辛うじて歩ける幅の遊歩道がギリギリ残っているだけ。
ふざけんな横浜市。
ところで、権現橋の奥には広い谷戸の削平地が広がっています。
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もしかしたら、ここに本来の白山社の仏教的な御堂や御本尊や御神体を祀っていた御寺が在ったのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿を読む時に調べてみようと思いますが、果たして掲載されているかどうか…
さて、遊歩道として何となく歩いても良い場所ですが神社の建物は無くても雰囲気は残る事が伝わったでしょうか?
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川辺に降りる事も出来ますので、もし近くを通りがかったら散歩して見て昔の人の生活を連想してみて下さい。
この川辺で馬に水を飲ませる武士もいた事でしょうね…
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こんな恰好した鎌倉武士達が、ここを通って鎌倉と地元を往来したんですね。

さて、この昇龍橋が参道だった白山社は廃社に成ってしまった訳ですが・・・

神社や御寺と言うのは只の宗教施設では無くて、境内の石碑や建物、或いは所蔵されている文書に造営した武将達や地域の人々の生活が刻まれているタイムカプセルなんです。
そして、時に昔の人が未来の人、つまり私達へ当時の災害を伝えようとした警告の場所だったりする訳ですが…
残念ながら、現代人の信仰心が弱く成った事や、日本帰化民が多く働く土建屋にとっては邪魔な物が神社仏閣や城址で建設会社は史跡が出土しても教育委員会に届けずに破壊し宅地造成したり、史跡と解っていても届けずに破壊し宅地造成しようとします。

・・・悲しい事ですが、そうやって貴重な建築遺産や史跡が段々とこの世から消えていき、結果的に現代人にその代償が帰ってきます。

それが東日本大震災でした。

東日本大震災では昔の人々が経験した大津波の記録を石碑にして神社や道の傍らに建ててくれていたのに、多くの人間が神社仏閣に足を運ばなくなり、太平洋戦争の敗戦後GHQの制作で日本語の漢字の繁体字の使用が禁じられた為に石碑を読める人自体も少なく成っていたので、津波の到達地点の石碑より海抜の低い位置に多くの家が建てられており、1万3千人近くの人々が亡くなってしまいました。

小生は歴史偉人を尊敬し、神様と成られた前時代の日本人の偉人も崇拝しています。
それは現代人の生活が我々が突然手に入れた物では無くて、先人達の多くの悲しみと努力と別れの結果の少しの成功と喜びの上に成り立ってるからです。
今、小生が生きているのは神奈川県や日本を開拓して下さった神様に成った先人や武将達がいるからだと思っています。
ですから小生は歴史人物を尊敬しない人間以外、全て敬称を付けて呼びます。
歴史家は歴史偉人を物の様に呼び捨てにし、多くの観光協会は歴史偉人を商売で利用しても偉人の関わった神社仏閣は滅んでも良いと思っている連中ばかりです。特に先日喧嘩した社団法人〇〇県観光協会の管理職。
歴史オタクの小生と連中の違いは、歴史人物を生きていた人として尊敬して感謝しているかどうか、現実にいた人で御子孫達が居る事も考えて歴史に触れているかどうかだと思います。 
そして繰り返しには成りますが、先人が残して下さった物には東日本大震災で活用されなかった我々への警告も多く残っています。
だから大切にしたり、日頃から身近に感じる距離で散歩したりする事が 大切だったりすると思っています。

そんな思いで昇竜橋と白山社古址を紹介してみました。

では、次は愛知静岡旅行の休日雑記の続きを書きます。それでは又、次の記事で! 
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愛知静岡旅の訪問先 2日目

津島駅で午前09時に愛知の歴史仲間と待合せ。
最初の訪問は津島神社(旧津島大社) 。
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 織田家は信長公の祖父織田信定公の代に津島大社の門前町の商人を武力統治し、その経済力を吸収した事で農業生産力に頼らず大名化に成功した。
織田信長公が子供の頃に庶民に混ざり同社の天王祭で家老の平手政秀公と一緒に踊りを踊ったのは有名。彼の実像はここに伝わる。今では天王祭は無形文化遺産。CIMG0323
この楼門は秀吉の奉納建立。
信長公と蜂須賀小六や秀吉のホームタウンは名古屋ではなく、実はこっちの津島周辺だった事を知る人は現代では少ない。彼らは木曽川沿いに勢力を張っていた。
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立派な社殿に、織田家と同じ木瓜紋がひるがえるのは、津島大社の御祭神が牛頭天皇=素戔嗚尊だから。
織田家の出自は自称平氏だが実際は忌部氏後裔で、祖先は福井県の劔神社の宮司家だった。
この劔神社の御祭神も牛頭天皇だった事から織田家の家紋が木瓜紋に成った訳だ。
では何で牛頭天皇と木瓜が関係有るかと言うと、これは京都の神話が深く関係している。
※下の写真は京都祇園の八坂神社。明治時代までは祇園社と呼ばれ地名の由来に成った。
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この祇園社の隣、浄土宗総本山の知恩院の参道辺りに、平安時代に牛頭天皇が降臨した伝承が有る。
そんな訳で現在の八坂神社の前身に成った祇園社が造営されたのだが、この牛頭天皇後輪の際に地面から木瓜の花が湧くように咲いたと神話が伝わっている訳だ。
木瓜は外来植物で丁度、平安時代に日本に伝わったとされているそうだ。
牛頭信仰が流行したのが平安時代、長岡京を造成した桓武天皇の時代なので整合性は有るだろう。
長岡京からは牛頭天王と書いた木簡も出土している。
牛頭天王は素戔嗚尊と同一視され、素戔嗚尊の社の八坂神社や八剣神社、劔神社と一緒に日本全国に天王社や祇園社が広まって行った訳だ。
※下は津島神社の社殿。
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信長公や秀吉が青春時代から深く関った神社だけあって、社殿は壮麗な安土桃山建築。
ふむ、信長公の足跡を辿る為にも御参りして良かった。
その後愛西市佐織町に移動。
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佐織町公民館に歴史民俗資料室が在って、そこでは信長公の生誕地で織田家初期の拠点の勝幡城の縄張図等の資料展示が若干有る。
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 簡単な説明文書等も申し出れば貰える。勝幡城を見学するなら、こちらも事前に見ると良い。
現代では河川改修で勝幡城址の中心に川が貫通してしまい城址は消滅した。
ここでは城域を知る事が出来て、愛西市や津島周辺の文化に触れる事も出来る。
見学が終わり、勝幡城に移動する前に立ち寄って見たい場所が有った。

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勝幡城址の直ぐ近く、稲沢市の賣夫(ひめふ)神社だ。
この賣夫神社は延喜式内社、つまり最低1200年以上の歴史が有る古社。
今では社殿は小さいが境内はそれなりに広く歴史は古い。
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ただ、地域の人がその重要性を理解しているかは疑問で参拝客もいなかった。
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氏子サン達は頑張っている様で、社殿は新しかった。
社殿が歴史の有る建物だったなら建て替えよりは修復に力を注いだ方が良いが、老朽化して建て替えたくても建て替えれる程の経済力を持っている神社も少ないので、この神社の氏子サン達は信仰心が厚いのだろう。
ずっと存続して欲しい。
この賣夫神社を神社近くの日光川に沿って南下すると、織田信長公の生誕地の勝幡城の在った地域に到着する。
途中、勝幡城跡石碑が熱心な信長公信奉者の方々によって建てられている。
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会の名前は❝信長公生誕を育む会❞と言う。
愛知訪問前に、この方々にコンタクトを取っていたので佐織町公民館の郷土資料館の事を聞く事が出来た訳だ。感謝。
勝幡城の城域跡地の稲沢市側に立つ記念碑は我々、織田信長公信者にとって聖地である。
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会の方々が作成した説明なんかも有った。
残念ながら勝幡城址は現代の日光川と三宅川の河川改修で、河川の流路が城址本丸突っ切って完全に遺構は失われて何も残っていない。
当時の様子を知るには佐織町公民館と、ここの石碑と、もう一カ所、勝幡駅前の縄張り復元模型図を見に行くしか無い…
そんな訳で愛西市側の勝幡駅に移動。
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小さいけれど現代的なデザインで綺麗な駅舎だった。駅前ターミナルも綺麗。
この駅舎の目の前に、生まれたばかりの信長公を抱く土田(どた)御前と信秀公御夫妻の銅像が在る。
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現地取材もせず文献も読まないアホの小説家達が良く土田御前と信長公が不仲な設定にしたがるが、実際、この母子は離れて暮らしながらもすこぶる親子関係は良かった。
だから現代でも信長公の実質本妻の俗称で生駒吉乃(きつの)様と呼ばれる姫様の菩提寺、江南市の久昌寺の檀家総代が2代続けて土田一族の方で有る事をメジャー文献の文字しか読まない馬鹿学者やアホ小説家は知らない。
更に言えば、土田(どた)の❝土❞は右に❝、❞が付くPCで表示不可能な字で有る事すら大半のバカ学者が知らない。歴史学者は偉人を物の様に扱ったり、対人関係が下手くそで御寺や神社の氏子さんや檀家さんとコミュニケーション取れないコミュ障が多いからだろう。そもそも学者は先人をリスペクトしてないカスが多い。
そこが歴史オタクの小生と、自称学者の郷土史家達との違い。
小生は和尚様や宮司様や檀家さんや氏子さんとのコミュニケーションも凄く大切だと思っているからね。
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勝幡駅前ターミナルには、周辺の観光案内版が綺麗な写真で説明されていて、これは良い試みだと思う。
信長公生誕時の織田信秀公と土田御前夫妻と嬰児の信長公親子の銅像の裏側には勝幡城推定復元模型が常設されていている。
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勿論(もちろん)見学自由。
凄く有り難い展示だ。
勝幡城は城と言うより、鎌倉時代の武家の館に水掘りを三重に拡張した感じと言った構造だ。
京都の公家で権大納言だった山科言継(やましなときつぐ)が、信長公の御父君織田信秀公に勝幡城に招かれて蹴鞠や連歌を織田家臣団に教授した際に、この勝幡城の建物の立派さに驚いたそうなので、寝殿造(しんでんづくり=貴族様式の邸宅)の規模の大きな屋敷だったんだと思う。
復元模型図でも武家屋敷っぽくない外観に成っていた。
ここを見て、一先ず、幼少期の信長公一家の足跡は辿れた。
しかし、この周辺にはまだまだ、織田家の秘密というか現地に行けば解る織田家臣団がどう構成されていたかが判る場所がふんだんに有る。
勝幡駅から僅(わず)か2kmの土地に蓮華寺と言う真言宗のかなり大きな寺院が在る。
行政区域的には、あま市に属する。地名は何と❝蜂須賀❞と言う。
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蓮華寺の横の公民館はその名も蜂須賀公民館。そう、ここは蜂須賀小六正勝公の出生地で一族の城館が在った土地だ。
織田家は津島大社門前町の商人達を支配下に組み込む一方で、彼等の商売の安全を軍事力で保証し、彼等の商売敵の勢力から守った訳だが、蜂須賀家も水運物流を営む社長だった。水運を担うので武装もしているが、彼ら水運業者の商売を更に織田家が守り、その収益が織田家の懐にも入った。だから織田家は豊かだった。
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蓮花寺は参道の左手辺りに蜂須賀家の城館が在ったらしい。
これも訪問に際し、事前にあま市の教育委員会様に御教授頂いていた情報で、この御寺に関して電話で質問して絶対に来ようと決めていた。
蜂須賀家と言うと小牧山城築城以降の江南市の宮後城の方が有名だが、実は発祥と言うか商売の本拠地はあま市蜂須賀だったようだ。つまり、秀吉の親友と言うより、蜂須賀家はそもそも織田家の協力者だった訳だ。
そして義父と折り合いの悪かった秀吉も、母の妹、つまり叔母を頼ってあま市に来ていた様だ。それは又、後に話す。
蓮華寺は蜂須賀家歴代の支援が有ったので現代でも広い境内を有する。CIMG0388
立派な仁王門も現存していた。
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山門をくぐると稲荷社等も有り、神仏習合文化を堅持し、仏教ながら日本神話を大切にする真言宗らしい御寺だった。
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本堂屋根の彫り物も精巧で立派だった。
この本堂の右横に奥院へと続く林道が有る…
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鬱蒼としていて知らないと見落としがち。
…この先に奥院の秋葉権現と蜂須賀小六正勝公の御廟所が在る。
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今回も御廟所の写真は先人に無礼なので掲載しない。
凄く雰囲気の有る場所だったが…
季節がら死ぬ程蚊にさされた(泣)!
もう、止まった瞬間に4~5匹片腕片足にまとわりつき、数十匹に包囲される始末。
御蔭で記事を書いてる本日7日、旅から既に約1週間経つがまだ手足に赤い斑点が残っている。
まぁ、とにかく、立派な御寺で参拝出来て良かった!
この旧海部郡一帯が信長公の経済基盤だった事は何となく御理解頂けたと思う。
ここは織田家だけでなく、秀吉にとっても大切な場所だった。
後に親友となる蜂須賀家の領地があるだけでなく、この蜂須賀の地から僅かに2.5km先に秀吉の叔母の家が在った。
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その叔母宅には現代、福島正則生誕地の石碑が建っている。
そう、秀吉の叔母と言うのは実母の妹で福島正則公の生母なのだ。
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同所には簡単な福島正則公の年表も有る。
秀吉が子飼いの家臣団の中で特に福島正則を溺愛したのは、かなり近い血縁者の上に義父と折り合いが悪くて家を飛び出して出入りしていた福島家に世話に成っていた恩が有るからと言うのが現地に来ると良く解る。
この正則公生誕地の近くには、正則公の菩提寺も有る。
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曹洞宗の瑞祥山菊泉院だ。浄土宗の多い織田家臣団に在って、福島家は曹洞宗の信者だったようだ。
その理由が御住職様と面会して御話しを聞いていて驚愕の福島家の事実とともに小生の郷里、神奈川県の名将との関係も判明した。
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この菊泉院は24万石清洲城主の時代に正則公に保護された寺院。
正則公49万石広島城主の時代に失脚し、川中島5万石に減封、更に後継者指名の不行届に因り2万5千石を返上し、逝去。没後、家臣の大野平内により、菊泉院へ位牌や遺品が奉納された。江戸時代中期に恩人赤林家の御子孫から肖像画が奉納され、更に2003年に川中島の廟所より分祀され墓所が菊泉院境内にも建立された。
そんな寺院な訳だが、正則公の人生も詳細に親族や家臣の証言や文書の内容が伝わっている。
12歳の時に有名な大寺院、甚目寺で正則公は土木事業をしていた左官職人と口論に成り、左官を切り殺してしまったそうだ。当時でも殺人は士分でも大罪。
後に家臣と成る僧籍で地元の名士の赤林家の手引きで駿河の福島伊豆守某の元に寄宿したそうだ。恐らく、この福島伊豆守某は誤記で、正しくは福島伊賀守某だっただろう。
小生が織田信長公や源義家公に次ぎ、神に等しく崇敬する鎌倉玉縄城主の北条綱成(つなしげ)公の御実弟、福島伊賀守勝広=北条綱房公の可能性が有る。福島勝広の名の読みは現代に伝わらないが恐らく家系的に福島(くしま)勝広(まさひろ)と読み、別表記で櫛間(福島)正広とも書いたはずだ。福島家の名の通し字は"正"の様なのでそう推測する。この時代、北条綱成公は深沢城や戸倉城の辺りで活躍している。つまり駿河国だ。当然、実弟の北条綱房公も深沢城等で活躍した伝承も有る事から、福島正則公が頼ったのはこの福島正広=櫛間正広=福島勝広=北条綱房公だった可能性は残る。
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但し、小生の推測は伝承と少し異なり追加の推測がある。
北条家臣の福島と言う家は、福島と書いて福島(くしま)と読み別表記で北条家臣櫛間と記録が残る訳だが、そもそもは今川家臣だったと俗説に伝わる。
あま市福島の土地は名古屋から近い。名古屋は昔は那古野と書いた。那古野城主は義元公とは別の今川家だった。
この那古野城主今川家は信長公の御父君の信秀公の計略で城を奪い取られ、放逐された。
もし、あま市の福島家が昔から士分の流れだとすれば、この那古野城主今川家の家臣にも福島家がいて、その子孫だったのではないだろうか?そして元は駿河今川家の家臣だった北条綱成公や福島勝広公の実父と伝承する福島正成公(小生はこの福島正成の名は北条綱成公本人の元の名と推測)と、福島正則公の祖先は同族の家柄だったんじゃないかと推測する。福島正則公の家は那古野今川家が没落した際に帰農したと考えれば不自然では無いし、同族の福島勝広公に身を寄せるのも頷ける。実際、秀吉の生まれた場所は名古屋市中村区の区名由来に成った那古野城下の中村出身、しかも秀吉の実父は農民では無くて庄屋だった事が現代では判明している。庄屋はつまり地頭だ。兵士を動員する小領主だ。秀吉の父は戦死している事からも只の村長では無かった事が解っている。そもそも秀吉の実父も元は那古野今川家の家臣だったんじゃないかとも思う。だから秀吉は若い時に駿河今川家臣の松下家に身を寄せていたんじゃないだろうか?秀吉の家柄が、そんな家なら元・那古野今川家臣と推測する福島家と縁戚でもおかしくは無いだろう。小生の推論する通り福島正則公が那古野今川家臣福島氏ならば、問題を起こして北条家臣福島氏を頼るのは極々自然な事だ。
そして秀吉と血縁の士分の出身だったからこそ、重用されたのだろう。
…と、いうのが小生の推測だ。
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御住職様に御好意で本堂に招かれ、何と福島正則公の御位牌を拝ませて頂ける名誉を賜った。
…あま市に来て良かったと心底思った。そして面白い話を聞いた。
正則公は隠れキリシタンだった可能性が有るそうだ。
だから広島で幕府に不可解な詰問を受け改易されたのかも知れない。
御住職に御教授頂いたのだが、福島家は元々家紋に沢潟(おもだか)紋を使っていた。
立ち沢瀉
しかし、改易されて信州川中島に5万石の小大名として復帰されると、沢潟紋の使用を止めて丸に十文字に似た家紋を使用しだす。
…これがキリシタンの可能性を現代にも伝えているのだが、実際に正則公は存命中にキリシタン大名の黒田如水公と可成り懇意だったそうだ。これは家臣の子孫や菊泉院にずっと伝承している事らしい。
菊泉院の訪問は、一般的な歴史本に掲載されない秘密が色々と隠されていて非常に面白かった。
そして御住職様の御好意に感謝。
この後の訪問先は、戦国時代の武士達が高級酒として愛飲した❝本醸造の味醂❞を購入する事と、間宮家の水軍大将として有名な間宮信高公が軍船で攻めた蟹江城址を見学する事だった。
味醂については事前に味醂の特産地として有名な津島市や蟹江町の観光協会に問い合わせたりネットでリサーチして行く蔵元を決めていた。
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津島市の鶴見酒造。
ここは戦国時代に武士が高級酒として飲んでいた本来の味醂を製造する酒蔵。
津島市や蟹江町を含めた海部郡は昔から海と河川の水運基地として酒造りに必要な米穀集積基地として酒味醂が特産物だった。
今回は織田信長公達の時代に昔ながらの本物の味醂を飲み比べる為、味醂購入に蟹江町の甘強酒造さんと合わせて訪問予定だった。
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鶴見酒造さんへは1ヵ月程前にに電話で連絡はしたものの、当日は時間予告なく突然の訪問にも関わらず事務所の女性スタッフ二人はとても親切に応対して下さった。
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社長さんは若く小生と同世代に見えた。
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新しい商品開発に熱心だそうで、寿司に合う日本酒やイチジクのワイン等、新しい技術開発にもチャレンジしているそうだ。
小生は不勉強で知らなかったのだが、愛知県はイチジクの特産地だそうだ。こうした地元の農産物を活かした商品開発をされる若社長には尊敬の念を抱く。
本味醂❝神鶴❞を購入し、次の目的地の蟹江町の甘強酒造さんへ移動。
後日談だが、鶴見酒造の神鶴を飲んでみた。
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飲んでみたら…
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すげぇ~濃い!しかもアルコール度数14度とか結構高い!ロックで飲んだらほぼ焼酎で甘さがデザートワインみたい!
普段飲酒の習慣の無い小生的には炭酸で割ると美味しいかも。
でも料理用の味醂が如何に❝偽物❞で別物かと言うのが良く解った。
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本物の武士が飲んでいた味醂は琥珀色で美しい、そして香りが良い。甘い、濃い。
リキュール代わりにしてカクテル作っても美味しいと思う。
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海部郡蟹江町に移動。
甘強酒造さんに行く前に蟹江城址の石碑を探す事にした。
車を神社の駐車場に停めて、歴史仲間と城下町の風情残る川沿いと住宅街を散策。
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蟹江城址は天正の大地震で崩壊、入江から続く河川の港湾都市に築かれた城だったが、唯一、本丸の井戸を残して全てが消えた。
Google Map片手に「あっちでもない」「ここでもない」と彷徨う事10分程度、住宅街の中に現れた公園に何やら看板らしい物が見えたので「あそこだ!」と駆け寄ってみると、やはり蟹江城址公園だった。
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この城を徳川家臣として攻めた間宮信高公は、最初、間宮家の恩人である滝川一益公を説得し無血開城する。
しかし、一益公は羽柴秀吉に味方する事に成り、間宮信高公は徳川方として止むを得ず軍船5隻で城を攻めた。その際に滝川勢の狙撃によって落命した歴史が有る。
この話を間宮家の顕彰文に掲載したくて、蟹江城址の写真を撮影に来た訳だ。
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看板には地名由来と…
…蟹江城の戦いが簡単に説明されていた。
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この看板から西側に30m位歩いた場所に本丸の井戸が現存している。
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この井戸水で茶道好きの滝川一益公は御茶を立てたんだろうな~とか思う。
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この時既に16時くらい。場所を移動して、先ず蟹江町歴史民俗資料館に移動。
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…のはずが間違えて蟹江町役場に来てしまって再度移動。
資料館は後回しにして、約束の時間が迫ったので甘強酒造さんに移動。
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 甘強酒造さんは鶴見酒造さんと同じく戦国時代に武士が高級酒として飲んでいた本来の味醂を製造する酒蔵。
津島市や蟹江町を含めた海部郡は昔から海と河川の水運基地として酒造りに必要な米穀集積基地として酒味醂が特産物だった。
今回は織田信長公達の時代に昔ながらの本物の味醂を飲み比べる為、味醂購入に津島市の鶴見酒造さんと合わせて訪問。
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甘強酒造さんは日本建築と昭和初期の近代建築の社屋が実に3棟も文化財指定を受けている。蟹江城址から徒歩で来れる距離。
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本当に建物が立派。流石に文化財指定受けているだけ有る。
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因みに甘強酒造さんで購入した味醂は一升瓶と小瓶を買って、小瓶は同行した歴史仲間に1本プレゼント、もう1本は義叔父にプレゼントした。
甘強酒造さんで本味醂を購入した時点で16時半くらい、歴史民俗資料館に行くにはギリギリ。
でも車移動10分かからない距離なので余裕だった。
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蟹江町歴史民俗資料館は蟹江町の習俗文化に関する展示物が有る。
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文化的な資料や…
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蟹江の主産業の一つだった機織りの展示等、商業や農業に関する展示も有る。
申し出れば蟹江合戦の事や町内史跡を簡単に紹介した資料が貰える。
その後、17:30位に蟹江駅に友人を送って別行動。
自分は旅館に移動。
途中、木曽川の遊歩道沿いから犬山城の夜景が綺麗に見えた。
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この日、宿泊したのは臨江館と言う犬山市の犬山温泉郷の日本旅館。
当初は小牧のビジネスホテルに宿泊予定だったが、元々10年位前に初めて犬山城を訪れた際に駅から歩いて来て気に成っていた旅館。思い出して急遽予約した。
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本当に日本の温泉ホテルと言う感じの建物。CIMG0498
凄く広い訳でも無いが、部屋も施設も清潔で綺麗だった。
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何より女将さん始め、従業員の皆さんがとても親切に接客して下さって名〇屋のホテルや飲食店とは丸っきり違う。
本当、愛知県が旅行したくない県ワースト1に成ってしまったのは100%名〇屋市の中心街の治安の悪さと接客の程度の低さのせいだろう。
安城・緑区・熱田区・中区・津島・愛西・あま・蟹江・犬山と回って来て、一部の繁華街を除いて接客業の皆さんだけなく街中や神社仏閣や城址や博物館で出会った人々は暖かくフレンドリーで皆笑顔で、横浜から来たと言うと誰もが凄く親切にして下さった。今回の愛知の旅を通して、名古屋の中心街以外の周辺都市の観光資源と接客業のポテンシャルの高さを再発見し、愛知県に対する印象がすこぶる良くなった。
無論、臨江館の皆さんの御蔭でも有る。
旅館に着いて直ぐ、食事の時間に成った。
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前菜はローストビーフと岐阜名物の柿のしんじょ、御造り。
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メインは海鮮の鍋…
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…と鮎の塩焼き。木曽川に来たらコレ食べないとね!
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デザートは白玉餡蜜だった。
一人旅で、1人での宿泊にも関わらずわざわざ食事を川の目の前の客室に用意して下さったので綺麗な風景を見ながら食事を楽しめた。
女将さんから旅館前の川岸の遊歩道から、今の季節は屋形船と鵜飼いの伝統文化行事が無料で見学出来ると教えられて19時20分に川岸に移動。
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すっごく貴重な体験だった!
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鵜飼いの催物は11月初頭位までらしい。川岸からでも綺麗に見えるし解説の放送も聞こえる。
鵜匠の皆さんは昔からの伝統を観光産業として伝えてらっしゃる。有る意味、宮司様や和尚様と同じ伝統と歴史を後世に伝える偉い人だね。
川岸遊歩道から鵜飼いの焚火越しに見る犬山城天守閣の夜間ライトアップは絶景だった。
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旅館の料理も美味しく、温泉も良い。
従業員がとても親切。

満足満足
犬山の人達は、蟹江や稲沢や愛西市やあま市や津島市や安城市の人々に並んで凄く親切。
宿泊するなら名古屋のホテルより、名古屋から特急で直ぐの犬山温泉がオススメ♪ 

そんなこんなで、出会った人々の親切心と人懐っこさと庶民的な交流で、とても心がホッコリした1日と成った。
同行してくれた一宮の歴史仲間にも感謝!
皆良い人達ばっかりだ。
10月01日の休日雑記に続く… 

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原田知世さん綺麗だなぁ~。
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自分がどうやら結婚しない運命に生まれたから、同年代±10歳位の年代の綺麗な女性を見ると憧れを感じるし、結婚してる同世代を見ると素直に羨ましく思ったりする。
せっかく皆結婚したんだから、幸せに添い遂げて欲しいなぁ~。
小生と同世代で結婚してる人は浮気とかしないで、夫婦で仲良く手を繋いで神社仏閣を散歩したり、映画見に行ったりしながら二人でお爺ちゃんお婆ちゃんに成って、いつまでも仲良くして欲しいな。
奥さんも旦那さんも伴侶を大切にしてね?
小生には無い幸せを皆は持っているのだから!
http://www.nhk.or.jp/drama10/unmei/
運命に似た恋
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NHKで放送中。面白いよ!

小生は子供を残せず大切にする奥さんも持たなかった代わりに、廃れ行く神社仏閣を少しでも多く後世に残す手助けに成るよう生きて死ぬから。
皆の子供達に先人の事積と心を伝えたい。
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間宮家の顕彰活動と信奉する信長公所縁の土地巡りへ3泊4日の旅へ行って来た。
最近、ブログを更新出来なかったのは遠征の段取りと会う人達へのアポ取りをしていたから。
今回の休日雑記は28日の訪問先。重要な報告も有るので、それも別途記事にする。

東名高速が集中工事中だからね。交通量の少ない深夜に出て朝からの予定に合わせる計画でこうなった…
28日の深夜25時半に出発、途中、浜松SAで休憩。
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朝食に静岡オデン食べ、車にガソリンも補給。
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まぁ、普通だった。
六時半頃に豊田に到着。少し寄る場所が有り、豊田で用事を終えてから安城市へ移動。
予定通り朝9時に目的地の安城市歴史博物館へ到着。
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実はこの博物館は徳川家が松平姓時代の初期の本拠地だった安祥城址だったりする。
学芸員さんに予めアポをとっていたので、可成り親切に熱心に安祥松平家の簡単な歴史を解説して頂けた。
そして城址の切岸の説明や現在は埋め戻されている水掘りの幅等も案内しながら教えて頂けた。
何故、小生がここに来たかと言うと間宮家が❝伊勢家❞の❝与力❞で今川家臣だったと思われる時代に、伊勢家=北条家が主家今川家に援軍を送り安祥城を攻めた時に間宮家も参戦していた事が推測出来る家臣に発給した感状が有る。それを間宮家顕彰文に掲載する為に城址写真撮影と調べ物に来たのだ。
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まぁ、間宮家の為だけでなく、そもそも三河の徳川家の偉大さも理解しているし家康公や初代東照宮大宮司様自体が間宮家と血縁を結んだ方々だが、小生は建勲神=織田信長公や東照大権現=家康公も崇拝し尊敬しているし、北条家の殿様方と並び毎朝起きたら拝んでいるので、三河尾張巡りをするのは当たり前、いつかしなければいけない事だった。
個人的に三河尾張は御縁も有り、以前も史跡巡りをした際に御縁が出来た偉人の血縁者の御子孫にも御会いしたかった。
この歴史博物館は松平家初期の本拠地なので博物館の中には家康公の祖父で松平家の勢力拡大に成功した松平清康公の銅像が有ったりする。
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ここ安祥城址の本丸は現在の大乗寺。
当時、周辺は深田だった。現在も水田だが、水田の周辺に干拓されていない湖沼が広がっていたのだろう。
でも正直、松平家の本拠地とは認めたくない程小さな規模。しかし立地的に関東の忍城や伊勢原市の岡崎城の様に沼城で守りも堅固だったのだろう。沼掘りの場合、攻城側が塹壕掘って城に近づく事が出来ない。
松平清康公の時代には既に岡崎城に転居したそうだ。
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写真は大乗寺。山門が丁度、城の櫓みたいに見えてしまう(笑)。
今回の訪問で持った感想だが、三河地方で戦国期には存在していた浄土真宗の寺院は構造がハッキリ言って城のソレだった。浄土真宗では昔、過激な軍事組織として活動していた同門の寺院の事を御坊と言って軍事拠点にしていた時代が有ったので、その名残だろう。最初から戦う為の寺だったんだろう。
学芸員さんに個人的に御勧めの安城市周辺の城を聞いた際も、「御城ではないけれど~」と渡されたのも浄土真宗の寺院の見取り図だったが、どっからどう見ても城の縄張り図だった。
安祥城の出丸の方は八幡社に成っている。
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これが又、相当に立派な八幡社で、東京横浜では余りこの規模の八幡社が町中に有る事は無い。
富岡八幡宮の様に相当な御由緒でも有れば別だが、三河人の信仰心と言うか伝統を大切にする心意気が強いのだろうと思う。
宗派を問わず、その信仰心の強さから、一度所属する宗派が軍閥化すると三河一向一揆の様に強烈な戦火を引き起こす集団にも成るのだろう。
三河気質は親切で柔らかいが情熱的に熱い。隣の某都市とはだいぶ異なり地域の人々の温かさから観光客も楽しめる。
宿泊するならトヨタ自動車の御蔭で外部からの客を受け入れる事に成れている三河地方、安城周辺や豊田周辺、もしくは古くからの観光地である犬山市の温泉街が親切で良い。
そんな「愛知県もあそこ除けば親切で観光資源も沢山有るのになぁ~」なんて事を感じながら次の目的地に移動。
刈屋城址に行った。
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現代では刈谷市は刈❝谷❞の字で表記されるが昔は刈屋だったんだな。
刈屋城の元に成った水野家の城館から、雁(かり)が飛ぶ姿が良く見られたのだろうか?
地名由来は調べていないので解らない。
刈屋城址は大半が破壊されたものの、恐らく戦国時代には存在した二ノ丸と本丸を隔てる水掘りは今も立派に原型を留めている。
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現代の刈谷市民の皆さんは意識が高い様で、城址を当時のまま復元できる場所だけを現代に蘇らせようとしているようだ。
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良い試みだと思う。
詳細の解らない部分や図面の無い部分をコンクリートで想像して固めるのは❝破壊行為❞な訳だ。
名古屋城天主や大坂城天主や小田原城天主みたいな外観だけ真似したハチャメチャな鉄筋コンクリートビルでは無く、解らない物や当時のまま同じ材料や同じ設計で復元できない場所は遺構をそのまま展示する方が史跡保護に成る。
愛知県で言えば名古屋城天守閣は汚点でしかない。もっと酷いのは全く史実と関係の無い小牧山城天守だろう。
でも刈谷市の試みや、安城市の安祥城の保護の仕方は本当に素晴らしい。擁護すると小牧市の現在の城址発掘保護の方法も素晴らしい。小牧山に邪魔なビルが建っているのは昔の無学な成金が自己満足で関係無いものを悪意無く作って破壊した結果なので、あの小牧山城天守は早く撤去して、あそこに信長公や吉乃様(仮称)が夫婦で暮らした御台所や御殿を発掘しガラス張りで浸食されないようにして公開し、麓に立派な博物館でも作った方が良いだろう。
発掘調査に基づいて公開していこうと言う小牧市の現在の取り組みや、刈谷市の計画は素晴らしい。
刈屋城址の中の❝十朋亭❞の中には、訪れて是非見て欲しい物が有る…
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江戸時代の刈屋城の縄張り復元模型だ。
そんなに大きい物ではないが、元々の城だった本丸周辺に、後から三河流の平地に水掘りを引き込んで細長い帯曲輪を巡らせる独特の築城術を見る事が出来る。
この構造は後の江戸期の河越城に追加された田曲輪や外曲輪等の築城術に繋がって行く。
徳川家と縁の深い水野家の城らしい構造が、この模型を見て貰えば理解出来る。
安祥城と同じく、戦国時代に突入して間もない頃の尾張三河の城は小城ばかりだったのだろう。これは大名の家臣達が自前で城を築城していた統治の問題だろう。
城を家=国単位で築城する財源捻出方法にした信長公の手腕はやはり素晴らしい。
清州城改修や小牧山城築城が出来てやっと関東の先に戦国時代に突入した大名達の築城規模に近づいている。

この日は翌日の行動地域を前提に名古屋市中区で宿泊を決めていたので、今川義元公が桶狭間合戦時に辿(たど)った進路に沿って(自分の推定)で熱田神宮を最終目標地点に名古屋へ行く事にして事前にアポどりをし準備をしてあった。
そんな訳で安城市や刈谷市を後しして義元公の足取りを辿り、ついでに信長公と家康公の関わった場所を巡って行った。
最初に来たのが沓掛城址。
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沓掛城址を目指すには慈光寺と言う御寺を目標にすると良い。
ここは桶狭間合戦後に沓掛城址と成った梁田政綱公の家臣が城址の一角に築いた浄土宗の寺院。
御朱印も頂ける。
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境内の広さは現代では町中の御寺より少し広い位。
御寺の家人もとても柔らかく三河地方の方らしく親切に御参りに来ただけなのに「城址は裏手に有りますよ~」「とか今川義元が桶狭間前日に宿泊したんですよ~」とか説明して下さった。…知ってる情報だけど親切心が嬉しい。
御寺が城域で曲輪だった事は裏手の城址公園に行くと良く解る。
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屈曲した人工的な空堀地形が御寺と城址公園の間に在るからね、御寺も曲輪の一部だった事が一目瞭然。
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簡単な説明文も有るので、訪れた際に読んで見ると歴史に興味無くてもここの意味が解る。
時代が大きく変わる切っ掛けの前日、ここに今川義元公が宿泊していたのだ。
ここに宿泊し、翌日に織田領の残る内陸の大高緑地では無く海沿いの今川領大高城を目指した結果が翌日の歴史転換地点に繋がった訳だ。
つまり、歴史が変わる契機に成った場所がここな訳だ。
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城址公園としては小さいが、上の写真の本丸と思しき一段高所の前にも内堀が残っていたりする。
今川義元公存命中の尾張三河の城は大半が、この規模だったんだろう。
堀の幅は広くても5m 位だろうか。堀底から土塁まで比高7m位有ったか無かったか。
まぁ、現在の城址公園を一回り広くしたくらいの範囲が当時の城域なんだと思う。
正直、同時代の関東の城に比べて工夫も少ない。
やはり築城術を飛躍的に進歩させた信長公は偉大だと思う。

今川義元公はここ、沓掛を出発し、現代では決戦地は狭間古戦場と言われる場所は幾つか有り、桶狭間病院と高徳院の辺りにて合戦が発生したとする学者もいる様だ…
もっとも小生の意見は現地を廻っているので文字しか読まないガクシャ先生とは少々異なり、更に地域の方々の伝承に近い。つまり、主戦場と呼ばれる場所は無く、移動しながら戦っていたはずだと思う。
石碑の名前は桶狭間古戦場。高徳院や桶狭間病院の目の前。
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伝承では今川義元は休憩中に襲われたと言う事に成っている。
その場所が高徳院だとする説を唱える学者がいるが、小生は周辺の戦場と名の付かない宗教史跡も回るタイプなので高徳院前が主戦場説は違うと言う感想を持った場所に行けた。
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ここ高徳院前も戦場だったと思う。
ただし戦場は戦場でも、今川義元公は別の休息地で襲撃され、更に近習が身を盾にして討ち取られつつ御本人は後退し、現在の桶狭間古戦場公園当たりで討ち取られ、今川本隊の後続は細い街道と谷間で前線に出れないまま後退し続け、この高徳院辺りまで追撃戦で追い上げられて戻って来たんじゃないかと推測している。
では今川義元公が最初に織田信長公本隊2000に強襲された場所はどこか、そして在所を捕捉されたのは何処かと言うと古戦場以外に神社も回るとヒントがまんま隠されている。
桶狭間公園と言う緑地辺りには桶狭間神明社と言う神社が在る。ここの背後の山に行くと、桶狭間合戦当時の雰囲気がどんなもんだったか良く解るのだが…
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当時はこの参道みたいな山林に囲まれた、敵側に行軍を捕捉され難(にく)い間道が大高緑地に沢山有ったんだろう。
そこを織田軍は進んだと思う。メジャーな街道を通ってはいないだろう。そして現在その道は廃道に成って残っていないのだろう。
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今川軍はこの桶狭間神明社を高徳院の次の休息地に定めていた筈(はず)だ。
沓掛城→高徳院→桶狭間神明社→大高城と入る予定だったんだろう。
その証拠がコレ…
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この桶狭間合戦時に、ここで武運長久を祈願した瀬名氏俊公は今川一族なのだが、この合戦当日先発隊だったのは今川義元の休息場所を設営する任務に当たっていたからだそうだ。
恐らく、この神社に来たのも、ここを義元公の小休止の場所に定め休憩の用意を整えたからだろう。
そして、自身は次の義元公休息地で当日の目標地点で有る大高城に移動したんではないだろうか。
高徳院も沓掛城から3km程の距離に在り休息地だった筈だ。昔の城はだいたい3~5km毎に1つ築かれているので、丁度高徳院の位置は沓掛城から次に立ち寄りに相応しい距離だ。
しかし、この桶狭間神明社は高徳院から1.5kmしか離れていない。しかし、ここは正に大高城に向かう途中に在る神社なので武運長久祈願を兼ねて立ち寄った可能性は有る。
丁度、義元公が立ち寄るタイミングに成る頃、織田家は千秋季忠公と佐々政次公が今川家を陽動する様に無茶な出撃をしたのも、義元公の休憩を長引かせる為だったのかも知れない。
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この瀬名氏俊公の行動を織田軍はずっと捕捉していたのだと思う。
そして、ここに今川家本隊の前衛や義元公がぞくぞくと先着し、義元公は神明社で祈願をはじめたか休息中に周辺住民からの進物を近習に報告されていた最中、善照寺砦から出撃した信長公が街道では無く山伝いに突如林道から襲来し、桶狭間神明社で参拝中の義元公は戦闘態勢も整えられず引くしかなかったんじゃないか…
と、個人的に推測している。
…そうすれば高徳院・桶狭間古戦場公園・桶狭間公園の三ヵ所で戦闘が起きたと伝承が残る事にも整合性が有る。
さて…
先に述べた通り義元公は大高城に入ろうとしたのだが、ここで休憩なり参拝なりして待機しなければいけない事情が有った。
善照寺に信長公が到着するのと前後して、熱田神宮大宮司で信長公に与力する千秋季忠公と佐々政次公の軍勢が大高城を攻撃したからだ。
この千秋・佐々隊の作戦を小生は❝陽動❞と❝足止め❞だったはずだ。
揺動の相手は今川軍の本隊以外の諸隊。目的は注意を引く或いは、千秋・佐々隊が大高城を攻撃する事で今川諸隊に大高城を救援させ織田信長公の本隊2,000が今川本隊を急襲する行軍が目に届かない場所に陽動する事。
かくして岡部元信の陽動に成功した筈だ。
千秋・佐々隊の陽動に引っかかった岡部は鳴海城を打って出て、大高城の救援に行く。
信長公は指揮官不在と成った鳴海城の真ん前を迅速に通過し林道を伝って桶狭間神明社を急襲したはず…。
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写真は丸根砦。本当に丸い尾根に築かれた小さな砦。
徳川家康公は当時、名を松平元康と名乗り今川家臣だった。この桶狭間合戦の前哨戦で松平元康公は丸根砦の前を通過し、大高城へ兵糧の搬入に成功している。その際、丸根砦に放火、囮部隊で攻めかかり、その隙に兵糧を見事運び込んだそうだ。
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※鷲津砦。
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鷲津砦は若干の堀切等も現存している。
実は、大高城に行くには今川家は織田方の丸根砦と鷲津砦の目の前、大高道を通らなければいけなかった。
今川方の大高城~織田方の鷲津砦は直線距離で600m、大高城~丸根砦も800mしか離れていない。
ここを落とさないと当然、今川義元公本隊は大高城に入れない。無視すれば背後から攻撃されるから。
そんな訳で、義元公が沓掛城に宿泊したり高徳院で休憩したのは、この2つの砦を陥落させながら安全が確保されたのを確認しながら進んだからだろう。
丸根砦は大高城を救援した松平元康公によって攻落され、鷲津砦は今川家随一の名将朝比奈泰朝公によって落城させられ、沓掛城を出立した当日の今川本隊の行軍の安全は事前に確保されていた。
桶狭間神明社が休憩場所に成っていたならば、千秋・佐々隊の陽動にかかった大高城の松平隊と鳴海城の岡部隊が千秋・佐々隊を掃討するのを待って今川家本隊は待機、戦勝祈願していたからだろう。
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大高城址公園
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土塁は撤去されていて、正直、城址公園としては物足りない。
規模も織田家の勢力拡大期の城で、正直、縄張り構造も未発達で規模もそれほど大きくは無い。沓掛城よりは大きい。
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曲輪跡の削平地は、そこかしこに残る。
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城址公園の遊歩道は、恐らく最近作られた道。
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凄く広い削平地が有ったので、恐らくここが本丸だろう。
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その奥に神社が在る。
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小生の郷里神奈川県の鶴岡八幡宮から勧進した御分霊を祀っているそうだ。つまり八幡社だ。
この神社の辺りには、城址らしい施設が残っていた。
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この細い道の左右の雑木林は空堀。つまり、この道は曲輪と曲輪を繋ぐ土橋。
秋の終わり位、雑木林が枯れた頃に来れば見応えが有りそうだ。
大高城の見学を終えて、鷲津砦の説明看板が腐食により解読不能だったので資料を貰いに名古屋市緑区役所の生涯学習課を訪れた。
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資料としては簡単な説明程度の物しか無かったが、緑区内の史跡観光案内のパンフレットを頂けたので収穫に成った。
ここを発つ時、既に16時に成っていた。この後、熱田神宮へ向かう予定だったので少々時間的に余裕が無く正直焦ったがナビでは30分とかからないはずだったので落ち着いて運転は出来た。
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熱田神宮東側大鳥居。
10年近く前にも来たのだが、その時は余り神社仏閣城址に関心は深くなく勉強もしていなかったので「大きい神社だなぁ~」程度の感想しか無かったが、今回改めて訪問して見ると第二次世界大戦での焼失後に明治神宮を意識した再建計画をしているのが良く解る。
木地のままの鳥居、広大な森林。自然崇拝を意識した境内。
しかしながら戦国時代当時の熱田神宮は、現在の様式の境内ではなく、恐らく三嶋大社や津島神社や石清水八幡宮の様に絢爛豪華な社殿が立ち並ぶ神社だった筈だ。
明らかに明治時代に成立した国家神道の影響が見える。
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とは言え、この境内の森林は神聖な雰囲気を醸し出し良い。だから熱田神宮と同じ造営設計の明治神宮が小生は好きなんだな。
ここに来たら皆にも是非食べて貰いたい料理が有る。
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熱田神宮の中には❝きし麺❞の専門店が有るのだが、1杯600円前後と安い上に名古屋駅の高い店で食べるよりよっぽど美味しい。
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遅い昼食に❝宮きし麺❞を注文して食べた。10年位前に来た時もこれを食べたので、今回は来る前から食べると決めていた。
先程、緑区役所で出発時に焦っていた理由は、実はこの店が16時30分閉店で間に合うか微妙だったからだ。
運よく、丁度16時29分位に店に到着し注文する事が出来た。
急いで食べて、参拝再開。
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参道には以前は無かった熱田神宮の各時代の説明看板が出来ていて、これが簡素ながら解り易くとても良かった。
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この参道を過ぎて社殿の在る領域に入る手前に上の壁が有る。
これが織田信長公が桶狭間合戦の戦勝祈願を、熱田の神に成就させて頂いた御礼に奉納した築地塀だ。
この塀が社殿の有る領域を取り囲んでいる。
信長公は神仏に対する信心がとても強かった方で、古典礼儀にも精通した人物だった事を知らない人も多い。
酷いと小説家や学者ですら信長公が信仰心が強かった事を良く知らないまま無宗教とかアホな事を言っている事が有る。バカだな。
信長公程、天皇家に対する忠義深く、天皇の住まう御所や伊勢神宮の復興に大金を投入して力を尽くしてる事は他大名に例を見ない。神社だけでなく寺院も多く再建している。
大坂の本願寺や伊勢長島願証寺や比叡山が信長公に攻落されたのは、彼等僧侶自身が武装化し町を襲ったり守護を襲うテロ組織化していたからで滅ぼされて当たり前の事をしていただけだ。その証拠に信長公以前に六角定頼公や北畠晴具公もそれぞれ武装した宗教集団を攻撃した歴史が有る。
ついでに言えば熱田神宮の大宮司千秋家も武装した武士?豪族?だったので織田家を支持して今川家と戦った訳だ。
当時の宗教観は現代とは全く違い、武士との違いは支配権を明示する大義名分が宗教集団には無かった事くらいだろうか。
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社殿も改めて見るとやはり、明治神宮にソックリ。色的には地味。でもこれが本来の神社。
朱塗りで派手に成るのは仏教建築の影響を受けた飛鳥時代以降の事。
更に造形が細かく色彩鮮やかに成るのは信長公が安土城を築いた頃のから。俗に言う安土桃山文化建築だな。
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小生は神社の社殿が有るなら赤くて綺麗な方が好き。でも境内の雰囲気は熱田さんや明治神宮の様な感じが好き。
でも社殿も何も無い縄文文化を受け継いだ有賀神社奥宮みたいな本来の自然崇拝も好き。
熱田神宮は信長公や源頼朝公と深い御縁が有るので参拝出来て良かった。
参拝を終えて名古屋城近くの錦と言う地区の有名なビジネスホテルに移動した。東〇インね。
19時頃にホテルついたら40時間位寝てなかったんで1時間くらい意識が飛んだ。
夜23時位…ホテル近くの焼鳥屋で一人夕食。
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名古屋飯旨いわ~。

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八丁味噌ベースの串カツ最高!
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八丁味噌ベースの土手煮も美味かった。
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焼き鳥も焼きそばも美味しかった。
翌日は友人と合流し津島大社や蟹江辺りの味醂造蔵本見学予定。


まぁ~、小生の率直な初日の感想を言えば…
「愛知県が観光したくない県ワーストワン」に選ばれてしまったのは100%新幹線の停車駅のある名古屋市街地のありとあらゆるサービス業の接客の悪さと、名古屋から周辺都市の観光地への交通の不便さのせいだ。
名古屋の中心街には熱田神宮と名古屋城位しか観光でメイン張れる物が無い。それ以外はどの大都市に行っても有るものばかり。
周辺の自治体の観光資源を殺す鉄道網の弱さ。東西を結ぶ線の欠如からくる連携の弱さと、バスの異常な少なさが問題だろう。例えば桶狭間合戦の史跡巡りを周遊するバスでもあって緑区周辺の豊明市~刈谷市なんかを一日乗り放題で順繰り観光出来たら、名古屋だけでなく豊明市側の沓掛城址や刈谷市側も廻れて協力地域で潤うだろうし観光客も増えるだろう。戦国ファンとしては名古屋市中心部よりそっちの方が楽しい。
そして車が無いと観光出来ない状態であること自体がダメ。
翌日、翌々日と回った犬山市・江南市・小牧市・蟹江町・あま市・愛西市・稲沢市・津島市・一宮市には名古屋以上に見て楽しい場所が多いし、町の人も接客する店員もどこに行っても笑顔で親切だ。
…名古屋の中心街だけはどこにいっても仏頂面のホテル店員と料理店の店員とコンビニ店員だらけ。ダメこれ。
それに反比例して翌日宿泊した木曽川沿いの旅館なんて、嘗てない程親切でビックリした。 
津島市の人も暖かかったし、とてもフレンドリーだった。

あれだな、名古屋の感じって東京都23区に住んでる江戸っ子じゃない他地域から移住して来た人達のソレに似てる気がする。名古屋で働いてる人も名古屋人じゃなくて警戒心ばっかりで生きてるんだろうか?
それと、今回名古屋に車で行って人生で初めてカーナビで「車両荒らし多発地域です」とか「盗難多発地域です」ってナビを連発された。完全に山口組のせいだろ。 
そりゃ、そんなに治安悪いなら印象も悪くなるほど警戒して生きていくしかないよね。これは名古屋のヤクザのせいだろう。名古屋市長、暫くフィリピンのドルテ大統領 に成って貰ってヤクザ組織を何とかして貰ったら良くなるんじゃないだろうか(笑)。
名古屋の中心街に行くまで凄く印象が良かった愛知旅の初日でした。

あ、名古屋市緑区の人達は親切だったよ。きっと地元で生まれ育って、豊かな自然環境で生活してるから心にも余裕が有るんだろうね。多分、本来の名古屋人てのは緑区の人達みたいので、小生が「おい」と思った接客業の連中は名古屋市街に他地域から移住して来て警戒心満載で生活して客にまで警戒心丸出しなんだろうね。凄くツンケンした感じ。

ま~、名古屋中心街の接客以外は、初日の愛知県東部旅は大変満足、旅行で行きたくない県No1どころか小生の中では愛知良い所って印象の初日でした。
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野庭神社(のばじんじゃ)/旧名:野庭蔵王権現御嶽社
主祭神:蔵王権現(神仏習合の山岳信仰の神。明治期に日本武尊と習合)
御利益:勝負運?地鎮?交通安全?
開基:1570年、地主の臼居杢右衛門が金峰山寺より蔵王権現の御分霊を勧進。
場所:横浜市港南区野庭町1838
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最近(2016年現在)、旧神奈川県立野庭高校吹奏楽部の実話をモデルにしたドラマの❝仰げば尊し❞でロケ地にも成った野庭高校です。
その旧野庭高校や近くの野庭団地一帯が戦国時代の野庭関城だと言う話を以前、ロケ地解説記事で書いた事が有ります。
その記事リンク⤴です。

ドラマ❝仰げば尊し❞は現在Paraviで配信中なのでご興味ある方は是非ご覧ください。
歴史ファンと言うよりは伝説の野庭高校吹奏楽部がモデルなので高校生の吹奏楽部の生徒やマーチングバンド愛好家達に人気のドラマです。
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その野庭関城の外郭、馬洗い川を利用した外堀の谷間、切岸の役割をした河岸段丘上に建つ野庭神社と言う神社が在ります。
田舎の鎮守の御社と言った雰囲気を醸し出す素敵な神社ですが、この丘の背後には宅地開発され消滅した野庭城が控えていました。つまり、こんな懐かしい雰囲気を漂わせていますが、背後は団地なんです。
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団地の中心の公園が本丸跡です。
神社前の谷間が沼掘りの役割を果たしていた。
この一帯は緑地として保護されているので横浜市の旧鎌倉郡域の風景を現代に留めています。
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出来ればこれ以上、開発されませんように。延喜式内社が沢山有る伊勢原や厚木の田舎に来た様な鎌倉の原風景が小生は好きです。
神社の鳥居の横には、熱心な町内会の方々が昭和後期に建てた解説看板が有ります。
昭和55年の事だそうで野庭地域が開発され城址が消滅したり宅地に成ったりして行った時期ですね。
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この説明には知識不足から来る誤りが多数あるので後で補足と訂正を小生の方でして置きます。
さて、そんなこんなで、ここは戦国時代から存続する神社な訳ですが江戸時代の寛政年間に現在地に移転された様ですが、何んで移転されたんでしょうね?
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石段を見ると、江戸時代の石材加工技術で作られています。風化具合から見て江戸時代~明治時代の物に見えます。
となると、戦国時代の御社は遷宮時には転用されず、新たに石材から集められて建てられたのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿で記載を探してみますが掲載されているか解らないので、最悪、氏子さんか地元の古老に取材してみます。
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社殿は小さいながら立派ですね。瓦葺なのでもしかしたら建物も江戸時代の物が現存しているのかも知れない。
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扁額は立派です。でも社殿が江戸時代だとすると江戸時代には既に野庭神社と呼ばれていたのだろうか?
解らない。
この地域は都会化から保護された緑地帯で氏子サンも少なく成っているかも知れませんが、この立派な扁額を奉納された氏子サン達に敬意を抱きます。
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社殿が雑木林に囲まれています。
左側の雑木林は造営当初は無かったはずなので、伐採して神社の日当たりを良くするだけでも、通りがかる人々の目を引くと思います。
ともあれ、すっごく雰囲気の良い神社な上に戦国時代に繋がる場所、何かドラマのロケ地とかに成ってもおかしくない場所だなぁ~とか感じました。
銅葺(あかがねぶ)き屋根の緑の屋根の神社も素敵ですけど、江戸時代の大らかな庶民文化の御社も良いですね~。
周囲の風景も農道が残っていて良いし、とても横浜とは思えない元鎌倉郡の神社でした。

きっと、この神社を野庭関城の城将だった戦国時代の名奉行として有名な北条家臣の安藤良整公や、北条氏康公の馬回り衆(直属部隊)の侍大将だった石巻康保(いしのまきやすもり)公や、外交官として有名な板部岡江雪斎公も御参りした事でしょう。

町の中の小さな神社も歴史背景を辿ると、思いがけず歴史偉人との繋がりが有るかも知れない典型的な神社さんですね。
この田舎っぽい雰囲気の良い神社、地域の人には子々孫々まで大切に伝えて欲しいです。

以下は上野庭町内会文化部さんの作った野庭神社の歴史解説の誤り指摘と小生による訂正です。
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●開基された時期の説明訂正
1570年の室町幕府の将軍は足利義秋(改名:義昭)です。足利義明は小弓公方(おゆみくぼう)と呼ばれた房総半島の生実城(おゆみじょう)を本拠地にした鎌倉公方の一族で、同音ですが室町幕府将軍とは別人物です。
野庭神社を造営した臼居家は当時、小田原北条家の統治下に在ります。小弓公方は北条家と対立関係に有り尚且(なおか)つ足利義明は北条氏康公によって討ち取られているので、小弓公方を基準にして歴史を語る事は無いでしょうし1570年の話ならば足利義秋を基準にした話でしょう。
※よって、この説明は造営年代は1570年で足利義昭の時代と訂正するべき。足利義明ではない。
●御神体勧進の経緯についての訂正
この神社の神様は、吉野山の❝蔵王権現(ざおうごんげん)社から勧進した❞ものではありません。そもそも、吉野山で蔵王権現と呼ばれるのは、金峰山寺と言う名前の歴代天皇家が崇拝した神仏習合の現在では修験道の御寺に分類される大寺院です。和尚サンでもあり神主様でもある山伏(やまぶし)サン達の宗派ですね。
そこの御本尊が蔵王権現と言う日本独自の神仏習合の神様で、金峰山寺には蔵王堂が現在も在ります。この金峰山寺を特に崇敬したのが後醍醐天皇で、武士では源八幡太郎義家公を筆頭にした河内源氏の殿様方です。この事実を踏まえると、野庭の土地には平安時代~鎌倉時代には野庭関城を源氏の与力の和田義盛公が築城した歴史が有る事、この土地が執権北条家の所領だった事から蔵王権現社自体は源頼朝公の時代には前身の祠か何か存在した可能性も有りますね。
※よって、この説明は吉野山の金峰神社から勧進と言うのは誤りで、後醍醐天皇の守護神だった修験道の本山、吉野の金峰山寺から蔵王権現を勧進したと改めるべき。
●御祭神についての訂正
説明では御祭神は日本武尊とありますが誤りです。蔵王権現は蔵王権現と言う神様です。神仏習合の時代の神格でも蔵王権現は安閑天皇と同格とされ山岳信仰の神様です。つまり日本武尊は少しも関係が有りません。
実は蔵王権現は神仏習合の神様なので明治時代に弾圧対象にされました、歴代の天皇家が崇拝して来たのに明治時代に水戸学なんてカルトに基づいて宗教改革をした弊害ですね。その際に神仏分離令と廃仏毀釈の弾圧から逃れる工夫として全国の蔵王権現社は蔵王権現を日本武尊を祀(まつ)ったり社名を同じ山岳信仰の御嶽社(みたけしゃ/おんたけしゃ)と改める事で弾圧を免(まぬが)れました。
つまり、この野庭神社が野庭の蔵王権現社から野庭神社に名前を改めたのも御祭神を日本武尊に改めたのも、その歴史が端折られ、そのまま誤って記載されています。
※御祭神について金峰山寺から勧進された蔵王権現と改めるべき。
●社名について
古来、蔵王権現社として勧進されたのだから野庭神社から野庭蔵王権現社として説明するべき。

余談ですが臼居家の事も掘り下げてみたいと思います。
この神社を建てた臼居家の家紋は❝蔦(つた)の葉紋❞です。
蔦の葉紋
以前、港南区の間宮家関連の神社を訪れた際に区役所で郷土史研究家の方が発刊された❝先駆者と遺宝❞と言う港南区の歴史人物をまとめた本を購入しており改めて読みましたが、その本では千葉家の子孫で遠祖は平良久と書いてますが誤りです。
千葉家の祖先は平良文(たいらのよしふみ)公です。この野庭辺りの旧武蔵国久良岐郡~旧相模鎌倉郡を含めた神奈川県沿岸部域を開拓したのも平良文公の御子孫達です。
内陸に関しては早くから小野氏や出雲神族の御神孫が開拓しました。
そして神奈川県域の発展に寄与された平良文公の御子孫の内、❝蔦の葉紋❞は千葉家の家紋ではありません。また千葉家の家臣の臼井家は臼❝井❞であって臼居ではありません。
そして千葉家の家紋は❝九曜に半月紋❞です。
九曜に半月紋
これが千葉家の家紋。
千葉家臣臼井家の家紋は九曜紋。
九曜紋
なので、家紋からは野庭の臼居家は千葉家子孫とは考え難いですね。しかし鎌倉の浄土宗大本山光明寺に千葉家からの家系を辿れる資料が有るらしいので、可能性としては房総半島の臼居城を退去し野庭に移住し北条家に臣従した時代に上司や目上の外戚から蔦の葉紋を譲り受けた事が推測出来ます。
蔦の葉紋
では蔦の葉紋は千葉一族の祖先で鎌倉御霊神社の御祭神でもある平良文(たいらのよしふみ)流の坂東平氏の家紋ではないかと言えば、そうでもなく良文公の子孫の中で有名な蔦の葉紋を使う武士はいます。
しかも、その家系も千葉家と同格に由緒正しい血筋で、現在の高座渋谷や綾瀬市辺りを領地にした渋谷重国公の家系です。
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※写真は綾瀬市の早川城址公園。空堀土塁等が現存。
野庭の臼居は苗字が同族の千葉家の臼井に似てる事に肖(あやか)って臼居家が家系を誤って伝えたんでしょうか?何で千葉氏流臼井家が野庭の臼居家の祖先なら、九曜紋じゃないのか説明が出来ません。
小生が思うに、北条家臣時代に成ってから姓を臼井城に残った一族と区別する為(ため)に"臼居"と字を改め、更に家紋も先述の様に野庭関城の有力者で蔦の葉紋を使う武将と懇意に成り家紋を譲り受けたか、外戚の武将から譲り受けた事が推測出来ます。まぁ、あくまで小生の想像です。
戦国時代、臼居胤知公は❝仮に臼井の惣領と成り❞鎌倉の玉縄城主だった北条綱成と共に武田信玄と戦ったと系譜上に記載しています。
これが正しければ深沢城の籠城戦か三増峠合戦でしょうが時期的に三増峠合戦のようです。
手勢の武士30騎動員兵力300と記載が有ります。玉縄北条家の家臣として数字を見ると計算上おかしい部分が有ります。
武士30人を配下に抱えていたなら、動員兵力は武士1人につき3人前後の足軽がつくので、実際の手勢300の半数の兵150以下が手勢と言う所でしょうか。実はそれでも立派な侍大将です。
北条綱成公の付家老の間宮家でさえ笹下間宮家で動員兵力200弱ですから。
玉縄北条家の石高が1万石~2万石、単体での動員兵力は300~600、そこに与力の間宮家や福島家や岡本家や堀内家やら数家の玉縄北条直臣や間宮家の様に本家小田原北条家直臣から付家老として玉縄衆が形成され玉縄衆全体で兵3000前後、規模10万石な訳です。つまり手勢300と言うと実は軍団長の北条綱成公と同じ兵力に成ってしまう訳です。
しかし実はこの事、三増峠合戦を見ると記載に間違いが無さそうな事が解ります。
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この写真は三増峠合戦古戦場の布陣図です。拡大して御覧下さい。
北条家陣左翼に❝ヲユミ=生実❞と記載が有りますよね?恐らくこれが臼井衆ですが北条家では外戚として臼居家を乗っ取っていた❝原家❞が生実城主だった事から、三増峠合戦を収録した❝甲陽武鑑❞と言う江戸時代に流行した武田家万歳な内容に歴史捏造(笑)した本で臼井衆ではなく武田軍側から見た記録として生実衆と言う実在しない軍団で記載されている様です。
更に三増峠合戦では「元々は北条家と敵対した方々が何故武田に仇為すか!」と武田家からの言葉合戦でなじられたと伝わるので、この合戦で北条与力の千葉勢は鼻から北条親派の軍団なので、これが臼居家に対するものだった事が推測できます。
だから野庭の臼居家のみで兵300と言うのは少し考えにくい話なのですが、恐らくは手勢90~150に配下の臼井衆の与力武将の兵力を合わせた総数が300、更に原家に家臣化したり再編されヲユミ衆と記載された臼井衆は玉縄衆と同様に軍団だった事が解ります。
これらの推測を成立させるのが❝仮に臼井の惣領と成り❞の一文で、つまり原家では臼井衆を軍事的に統率させるのは家を乗っ取た経緯から無理が有ったので、どうやら形だけは臼居久胤公が当主として据えられていて、この時期には原家と折り合いの悪くはない胤知公が❝陣代❞を任せられていた様です。
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写真は安土桃山時代に玉縄北条家が徳川家臣と成り1万石で転封された千葉県佐倉市弥富の岩富城址から見た風景。この岩富城が戦国時代には原家の城の1つでした。
特に系図で信憑性が有る部分は中田加賀守の次女を妻にしていたのが野庭神社を開いた臼居杢右衛門と言う事でしょう。
中田加賀守は安土桃山時代には保土ヶ谷区上星川一帯で庄屋と成っていた元北条家臣の殿様なので地域的にも近く縁戚に成るのも自然な話です。

中田家の事について御興味ある方は上の記事を御覧下さい。
安土桃山時代に、この中田家が士分を捨てて庄屋に成ったのと同様に臼居家も❝東慶寺に300石を治める地頭に成った❞と言う主旨の記載が有ります。
まぁ地頭と言うか庄屋です。
ただ数字的には鵜呑みして良いのか少し考察する必要が有ります。
この野庭辺りの旧住所で小名:政所(まんどころ)と言う場所は本当に東慶寺由来の土地なので地域的には整合性は有るのですが、そもそも野庭郷自体の石高が106貫307文と判明しており石高に換算すると1貫=2石なので約212.6石と言う計算に成ります・・・
実は野庭郷は現代の戸塚区舞岡も含むので恐らくは舞岡も含む数字だと思います。
野庭全体を東慶寺に寄進しても300石には成らない。この東慶寺に300石と言うのは、地頭=名主として治めた領地300石の内、東慶寺へ小名:政所領分の年貢を納めていた地頭と解釈した方が正しいと思います。
実際、東慶寺領には舞岡と野庭一帯が宛がわれていた様で、舞岡の長福寺には北条政子様の持仏が安置されている事や、野庭の旧住所の字の小名に❝政所(まんどころ)❞と言う地名が残る事から、この一帯は古くは北条政子様の化粧領か何かで、更に源氏の直系が滅亡して後はこの政所領としての野庭郷舞岡郷が覚山尼様達、歴代の執権の正妻に引き継がれていたのかも知れませんね。
そう考えると東慶寺の300石は北条政子から歴代執権正妻が引き継いだ土地だと考えれば歴史的な状況と臼居家の文書に整合性が有る訳です。
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※写真は初春の梅と晩秋の紅葉の東慶寺。
開いた人物が鎌倉幕府の北条時宗公の御妻女の覚山尼様で最初の尼住職。以後、後醍醐天皇の皇女の用堂尼や豊臣秀頼公の御息女の天秀尼が歴代住職を務めた女性や子供を保護する縁切り寺として機能して鎌倉幕府以来、江戸幕府迄ずっと幕府の権威で守られてきた御寺でした。

東慶寺解説したブログ記事⤴御参考までに。
まぁ、こんな事を考えられるのも、野庭神社を氏子サン達が守って源氏以来の武士達の蔵王権現信仰を伝えて下さったからですね。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!
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朝7時半に自宅を出発し千葉県八千代市高津の高津山観音寺に間宮家顕彰活動の御参りと自分の活動への賛同を頂く事と現地での間宮家の情報収集で大住職様を訊ねて来た。

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ここは江戸時代の学者で昌平坂学問所の頭取だった間宮士信(ことのぶ)の菩提寺。

間宮の姓の通り、笹下城主間宮信元公の御子孫。家系的には、氷取沢間宮家の更に分家の高津間宮家に当たる。

笹下城主の間宮信元公の御子息で滝山城主北条氏照公の家老だった間宮綱信(つなのぶ)公の子孫に当たる。

なので綱信公が初代と成った氷取沢間宮家の子孫な訳だ。

ここに小生の尊敬する間宮士信公が葬られた理由は、士信公御自身が尊敬していた祖先の間宮正秀公(綱信公の孫)が、この御寺の境内の神社に葬られ祀られていたからだった。なので士信公はわざわざ遺言して御自身の遺体を塩漬けにさせて、江戸から遥かに離れた領地の下総国印旛郡高津村(八千代市高津)の観音寺まで運ばせた。

なので、ここには明治の神仏分離令で無理やり管理を分けられて荒廃してはいるが、間宮正秀公を祀った高秀靈神社の旧跡と、墓所も有る。
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正秀公は大坂で真田幸村隊と交戦し討死した。その際に源左衛門と言う武将が遺骸をこの高津の遺族の元に届けたそうだ。

この源左衛門は恐らく間宮本家の家臣、内田家の内田源左衛門だ。近年まで笹下城下である雑色地区に屋号で❝げんざむサン❞と呼ばれた内田さんがいたらしいのだが、その家の祖先だろう。内田家の本家の対馬守家は今も笹下に残ってらっしゃる。間宮家は寄親の玉縄北条家の官途が左衛門大夫だったので、左衛門大夫の部下に当たる官途の左衛門尉配領して以来、屋号に〇左衛門とつく内田家の子孫がいる。

対馬守家は一番古い家なので、玉縄北条家の与力に成る以前に拝領した官途対馬守を名乗り、屋号は古門だった。そんな訳で、間宮家分家の高津間宮の間宮正秀公の御遺骸か首を大坂から戦後届けたのは間宮本家の重臣だった内田ゲンザムさんの家の当時の御当主だと思う。
この神社と観音寺はいずれ解説記事で詳しく書こうと思う。

大住職様から聞く高津間宮家の歴史は既知の事ばかりだったが、士信公の御遺骸を運ぶ様子や正秀公の御遺骸がまだちゃんと地下に保存されている事を聞けたのは現地に訪れないと解らない事だった…

これだから現地訪問&当事者の御子孫や後代への取材は必要なのだ。

…それと東京大学資料編纂室と御縁が出来そうだ。

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あと、観音寺背後の高津比賣神社を御詣りし宮司様から様々な事を御教授頂けた。

古代大和朝廷時代には、八千代市高津一帯が軍馬生産地だったそうだ。

間宮家が江戸時代に本牧奉行を務めて治めた久良岐の丘=本牧半島も古代大和朝廷の軍馬生産地だったのは、間宮家繋がりの偶然だが御縁だろうか。

更に御教授頂けた面白い歴史が有る。

この高津比賣神社の御祭神、多岐津比賣(たきつひめ)は藤原時平の娘だと言うのだ。

この藤原時平と言うのは、醍醐天皇を蔑ろにし朝廷を牛耳ろうとした人物で、その為に醍醐天皇の御父帝君宇多天皇と醍醐天皇の忠臣で参謀だった菅原道真公を謀略でハメて大宰府に左遷した大悪人だ。

菅原道真公を無実の罪で追い落とした後、この時平の一族は災難が20余年も続いたそうだ。恐らく災難と言うのは天皇家の怒りに触れたと言う事だろう。

結果的に、多岐津比賣も中央を追われて、この高津の地へ落ち延びて来てヒッソリ暮らしたそうだ。これが平安時代の話。

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高津間宮家がこの地に来るのは江戸時代初期の話。

しかしながら、よりにもよって間宮家はその宇多天皇の御子孫であり、更に高津間宮家の祖先の間宮綱信公は菅原道真公の御三男の菅原淳茂(あつしげ)公の居所跡に永谷天満宮を造営した宅間上杉家の姫を妻にしている。

そこら辺は以前、永谷天満宮の解説記事を書いているので興味の有る人は読んで貰うと詳しく解ると思う。

宅間上杉家も祖先は勧修寺家と言う藤原氏の傍流だが、少し本流藤原氏と異なり北野天満宮の宮司を務めた家の御子孫に当たる。つまり、菅原道真公を崇拝していた家系な訳だ。

この宅間上杉家の上杉富朝公の姫君と間宮綱信公が御結婚された生まれた御子孫の高津間宮家が藤原時平の娘の終焉の地を領地としたのは何とも因縁めいた歴史だと思う。


こんな有意義なやりとりを宮司様と終えた後、丁度昼食の時間と成ったので、直ぐ近くの八千代市ローカルのステーキハウス カウベルで昼食をとった。

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八千代市周辺にしか無い店なので知らなかったが、この店は食材を地元で生産しているらしく…

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美味いんだコレが!神奈川にも出店して貰いたい。

このハンバーグとカットステーキのランチで1600円位だったかな?

食べ終えると次の目的地の佐倉城址と国立歴史民俗博物館に向かって出発した。

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行く前、てっきり郷土資料館なのかと思っていたら国立なので日本の民俗文化を紹介する場所だった。

展示品は写真撮影可能で、現在は甲冑の特別展示が行われている。

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それと日本の歴史解説の常設展示。

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平安時代末期の武家の配置図とか、これは良かった。

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江戸時代の銀座日本橋辺りの復元模型とか。

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公家の御姫様の奈良時代の平城京の時代の格好とか。

ただ、テーマが広すぎて、佐倉市ローカルな佐倉城の縄張り図や千葉氏関連の展示を期待していたので思惑が外れてしまった。
余り関西地方に行く機会の無い人は、ここは良い平安時代の勉強の場に成ると思う。

小生は京都は友人も居るし、昔住んで居た事も有るので源氏物語ミュージアム等で同様の展示物を数回見る機会も有ったので良い復習に成りました。

この博物館を出ると、すぐ横が大規模な佐倉城の❝角馬出し❞の跡。

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角馬出しと言うのは城門の前に築かれた守備兵を安全に出撃させる為の防塁と空堀であり、敵が攻め寄せた際に城門に大兵力を集結出来なくする為の防御施設なのだが…

これを丸くしたのを❝丸馬出し❞と呼び、真田幸村が大坂城南側の城門前に築いた要塞が、この上の写真の馬出しを何倍も巨大な規模にした丸形状の丸馬出しだった。

角馬出しは北条流築城術で多用され、丸馬出しは武田流築城術で多用される。

この城は千葉氏が初期造成したので、この角馬出しは北条家に従属化していた時代の千葉氏によって造られた施設を、後に佐倉城主と成った徳川家臣土井家が改修した物だろう。

展示方法に問題が有る。

何の心算か知らないが、空堀全周に生垣を植えてしまっているので子供が中の様子を見れない。

大人も見難い。これは公園化されてから整備を担当している部署の責任者が城の知識が皆無な不見識な人間で有る証拠だろう。

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土塁に見立てているのならば、外側に生垣を作るのはおかしい。

まぁ、ここら辺は知識の有る人が責任者に成ればすぐに改善される程度なので問題ない。

この佐倉城を含め、徳川家や織田家や豊臣家の築城術は関東や甲信地方に比べて未熟だったが安土桃山~江戸時代初期に武田家臣や北条家臣を配下に組み込んだ頃から、関東流の武田と北条の築城術を両方とも取り込んだ大坂城や徳川紀河越城に見る築城術が確立されて行く。

もっとも、北条流も武田流も一級品の築城術と言われるが、北条流で豊臣家との攻防を耐え抜いた小田原城をはじめとした城はどれもこれも太田道灌の太田家が確立した扇谷上杉流で初期に築城された城ばかりだった。

扇谷上杉流の築城が近世の豊臣家の攻城戦術に耐えたのは、攻城側が塹壕を掘れない土地を選んで太田道灌公や御父君の道真公が城を築城したからだ。太田家が関与した扇谷上杉家の城は、どれもこれも深い湖沼に浮かんだ丘に築かれた城なので埋め立てる事も容易では無い訳だ。

他の施設も見て回ったが、城址の規模と歴史に反して保存状態はすこぶる悪い!

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空堀は博物館の横以外は手入れが行き届いておらず、中途半端。

竹林にするなら横浜市港北区の小机城址の様に徹底して美しい竹林にすれば良い。

これは只、雑木林に成るのを定期的にルーチンワークで伐採しているだけで見せるコンセプトでは無い。

明治期に陸軍の施設に成って城址の丘陵上の土塁部分は大半が破壊されたとは言え、立派な空堀群は多く残っているのだから、それを角馬出し部分同様に芝生にするだけでも見やすいだろうし、そこに失われた土塁を復興したり柵列を築くだけでもかなりの迫力で城ファンが全国から多くの見物に来る様に成るだろう。

この城は宇都宮城同様に室町期~江戸期を通じて石垣化せず関東の堅い土を活かした築城のまま使い続けられた珍しい土の城なのだから。
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江戸期の縄張り図も残っているので、ヤル気になればいつでも出来るだろう。

佐倉城が残念だったのは国立民俗博物館含めて郷土色が薄く、千葉氏の時代や歴代の殿様の歴史や城址を開設する展示物が非常に少なかった事に尽きる。

しかし、徳川家康公の隠し子と言われる幕府大老の土井利勝公の城だけあり、空堀の幅と深さは小田原城に近い物が有った。将来の再整備次第で関東で10本指に届くか届かないかの城址公園に成るだろう。
佐倉城は改めて解説記事をいつか書こうと思う。

佐倉城を見終わり、本当は四街道市の大隆寺に行くつもりだった。そこは笹下城主間宮康俊公に従って山中城で共に討ち死にした御子息の間宮信好公の菩提寺なのだが、16時近く成り日が傾き始めたので、止むを得ず最終目的地の佐倉市弥富の岩富城址へ向かう事にした。

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小生は神様仏様の様に崇拝する殿様が数人いらっしゃって、その内の御一人の鎌倉郡玉縄城主だった北条綱成公、その嫡孫に当たる北条氏勝公が北条家滅亡後に徳川家臣として赴任したのが、この岩富城だった。

岩富城は元は地名と同じく弥富城と言い、平安時代以来の房総半島の大名、千葉家の重臣の原家の支城だった。この地に北条氏勝公が1万石で転封されて入城された訳だが…

事実上の左遷だろう。

玉縄北条家は動員兵力が3000程度、つまり10万石相当、ただし北条家は他大名家と異なり重臣の配下は全て小田原北条家の宗家の直臣であり、あくまで玉縄北条家の動員できる士卒は全て与力武将でしかなかった。

そう考えると玉縄北条家自体の石高もよくて1~2万石程度だろうか?となれば1万石は妥当な線と言える。

この推測を裏付けるのが間宮家の存在で、間宮家は徳川家康公直臣に取り立てられたので岩富城には同行していない。その間宮家の本家、笹下間宮家の動員兵力は200前後。一族郎等は高津間宮家の様に、それぞれ別に所領を貰っているので一族全てを合計すると1万石の大名程度は一族で持っていたかも知れない。但し、北条家は家臣の官僚化を進めていたので家臣の一族全てが行動を共にする事は無く、それぞれが北条一門を軍団長にした集団の与力として別々に諸役に従事していた。その典型的例が北条綱成に家老として与力した間宮康俊公と北条氏照公に家老として与力した間宮綱信公兄弟と、ハトコの間宮信繁公が北条氏康公の直臣だった事実だろう。

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弥富城址残存部の入口は浅間神社の鳥居が立っていて説明看板も有るが、中は荒れ放題。

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何故か山羊が居てビビった(笑)。

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しかしながら、一部だが幾つかの空堀も残存していて城の遺構は確認出来る。

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残念なのは岩(弥)富城の説明看板の縄張り図が薄くて見難い事と、整備されていない事だろうか。

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城址の様子を見ると、もう何年も殿様を偲んで浅間神社に御参りに来る人もいないんじゃないかと思わせるような雰囲気だった…

氏勝公は、徳川家家臣の保科正直公の子の北条氏重公を跡継ぎにしようとし策動した奸臣(かんしん=悪い家臣)堀内により保科家からの氏重公養子縁組を強いられ、挙句の果てに元々養子縁組していた御実弟の北条繁広公は、北条氏勝公の死亡直後に不可解な急死をしてしまう。

この保科氏重改め北条氏重公の兄弟には保科正光公がおり、その保科正光公が徳川秀忠公の諸子を養子としていた事から、一連の事件は北条氏勝公の養子と成っていた繁広公と仲の悪い家老の堀内家が政治を掌握する為に保科家から養子を迎え将軍家と縁戚に成る事で繁広公の排除と己の立身出世と保身を図ったと思われる。
これは玉縄北条家改易後にいけしゃぁしゃぁと旧地の鎌倉郡藤沢に帰農し、挙句の果てに現代に至り忠臣の子孫面をして自己宣伝している。
恐らく、山中城から北条氏勝公が撤退せざるを得なかったのも黒駒合戦で失態を招いたのも、この奸臣堀内が幅を利かせていたせいだろう。

こんな堀内とたもとを分かって、山中城に籠城し最後まで戦って玉砕した間宮家は真に尊敬に値する。

それ故に、徳川家康公も間宮直元公を直臣として但馬奉行・佐渡奉行・本牧奉行を任せたのだろう。

この堀内家の子孫は、現代、間宮家の功績もさも自家の功績であったかのように史実を知らない人に言いふらしている。
さて、重臣が奸臣であった為に寺町と社家町多く栄える鎌倉から近い玉縄城から農地しかない岩富城に左遷された北条氏勝公は、せめてもの救いが養子にしていた御実弟の繁広公が暗殺されたのを知らずに済んだ事位だろうか?

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岩富城市から見る風景は、少し玉縄の地形に似ている…

でも気のせいだろうか?懐かしい風景と言うより、歴史を知ってしまっていると寂しい風景に見えて仕方がない。

後日談だが、堀内は大河内松平家氏重を主君に変えて、一時は掛川城主の家老にまで成るのだが主家が無嗣断絶、因果応報、没落し藤沢に戻る。正義は勝てなくても滅びないが、悪は栄えても必ず滅びるんだな。


今回の小旅行は玉縄北条家の衰退の歴史を辿る悲しい旅にも成ったが、色んな方々が横浜の土地を開拓して守って下さり、間宮士信公が現代人に平安~戦国時代の神社仏閣や地誌を纏めて伝えて下さった、先人への御恩を噛みしめる機会にも成った…。

肉、美味しかったな。



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間宮家の顕彰活動で、暫くの間、休日に関東と東海地方を飛び回るのでブログ記事更新が遅れます。
間宮家の事も調べながら、蒔田吉良家、宅間上杉家、源義家公と八幡宮の関連も調査してるのでキャパオーバー気味に成り、ブログおろそかになりますが、解説記事までは書けなくてもTwitter的な簡易報告は行います。
早く溜まってる神社仏閣と景勝地と美味しい店の記事書きたい…
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横浜市中区の日本大通りに、1931年に建築され英国領事館として1972年まで使われ続けた素敵な近代西洋建築遺産が在ります…
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現在は横浜開港資料館と言う名前の博物館 兼 近代資料の図書館に成っています。
横浜市の開港の歴史に関する資料を保存していて市民に公開している場所です。
…公文書館と博物館の中間で近代に特化した感じ?

※ここで注意!※

名前が似ていますが以前紹介した「横浜市開港記念会館」とは違いますよ!
これ↓開港記念会館。
2015-08-05-14-53-34
…開港記念館と開港資料館の区別をつけて貰った所で話を「横浜開港資料館」に戻します。
この横浜開港資料館は近代に建てられ近年までイギリス領事館として機能していたので、余り目立たない場所に在りますが建物は素敵です。
開港資料館と道を挟んで反対には神奈川県旧県庁舎が有ります。

これ、以前紹介した記事⤴
2015-08-05-14-13-31
県庁舎はこんな⤴感じ。
県庁舎側から見た開港資料館の入口⤵。
2015-08-01-13-55-15
ね?何か緑に隠れて目立たないでしょう(笑)?
でも、この緑豊かな生垣に囲まれた中に入ると、建物は素敵なんですよ。
英国領事館だったから、外から余り中が見えないようにしたのか…
…中から道路の喧騒が見えないように生垣で囲ったのでしょうかねぇ~?
では、入ってみましょう…
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県庁側の入口は、こんな感じですが、実はこちら側は正門ではない様です。
ここは昔は海に面した場所だったので、北東側の海側が正門だったようです。
位置関係はこんな感じ…
横浜開港資料館位置関係
横浜開港資料館の右、北側の「キング」が県庁旧本庁舎。そちら側から見る開港資料館の構造より、明らかに海側から見た開港資料館の方が設計的に「正面」ですよね?
因(ちな)みに、開港資料館の海側の入口はこんな↓感じです。
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海側には資料館として別棟で増築された建物があり、中の素敵な英国領事館時代の眺望を台無し(笑)にしています。
この正面に見える樹木有りますよね?これ「たまくすの木」なんですが…
実はペリー提督が横浜の市名の元に成った、この地に有った「横浜」と言う名の半島に上陸した時から存在している樹です。
ペリー艦隊の上陸
ね?右側に生えてるでしょう?
この絵を見ると今は遷座された水神社様、この旧英国領事館のタマクスの木の前に在ったんですね~!
現在は横浜市南区の水天宮に成っている水神社が横浜半島の上に在ったのは知っていましたが、まさか英国領事館に成っていた場所がそうだったとは知りませんでした。
旧英国領事館のタマクスの木、正確には、一度燃えたのですが残った幹から又、枝葉が芽吹き、この様に大樹として元気に往時の姿を取り戻してくれました。
…健気ですね。そして横浜の歴史の生き証人として残ってくれてありがとう!
さてさて、旧英国領事館=開港資料館の建物そのものに話題を戻します。
県庁側から入ると正門じゃないので、すごく素っ気ない廊下が冷たい感じで出迎えてくれます(笑)。
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消火器とかね、全然っ!風情(ふぜい)無いけれど、防火設備は大切よね(笑)。
そんでも、まぁ~中に入って天井とかみると「おっ!」と思う漆喰の彫刻っぽい天井と、何やら権威を感じる様な冷たい光沢のタイルさんで作られた壁で装飾されています。
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この廊下の左手には金属製の銘板がはめ込まれています。
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鶴見区の生麦村で起きた生麦事件から勃発した薩英戦争(薩摩藩島津家vs大英王国)の際に戦死した英国士官だけ弔う為に作られたモニュメントですね…
…これ、日本人だったら英国人日本人の区別なく弔うよね、普通。流石、白人様って感じですかね。
しかも、この生麦事件ね、どう考えても英国側が悪いんですよね。
少し脱線して生麦事件の経緯を辿ってみましょう…
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実は生麦事件の後で起きた鎌倉事件と言う英国人殺害事件に横浜の間宮家一族も関わっているんです。
間宮と言う家は間宮康俊と言う戦国時代の北条家臣の武将の一族で、杉田玄白や間宮林蔵の祖先に当たります。
その同族の間宮一と言う人物が鎌倉事件に関わってるんです、なんと被告側で
先ず最初に言っておきたいのは、生麦事件は当時の白人至上主義の当時の英国人が、土人と馬鹿にしていた日本人の社会ルールを無視し、事も有ろうに英国なら貴族に相当する大名の島津家の大行列に平民英国人が騎馬のまま乱入しました。
島津の殿様を守る為に薩摩藩士達は最初はジェスチャーと日本語で英国人を静止したのですが英国人達は無視して乗馬したまま殿様の行列に乱入したので止むを得ず当時の薩摩藩士だった松方正義さん達が殿様を守る為に狼藉を働く英国人を切り殺した事が国際事件化したのが生麦事件の概要です。
それに対し日本人を下に見ていた白人様の英国政府が見くびり幕府に対して賠償金を請求して、それを島津家の責任と突っぱねた徳川幕府の代わりに島津家の本拠地鹿児島を英国軍が海軍で攻撃したと言うのが薩英戦争の概要です。
この生麦事件は薩摩側は明らかに正当防衛ですね。
それらの事件から日本では攘夷派と呼ばれる外国人排斥運動が流行し過激派が増えました。
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そして鶴岡八幡宮の参道の若宮大路の入口、石の大鳥居を過ぎて今の鎌倉駅付近にある下馬の交差点辺りで鎌倉事件と呼ばれる武士による英国人殺害事件が起きました。

鶴岡八幡宮の入口をこの赤い大鳥居と勘違いしている人も多いですが、実際は若宮大路の入口にある石の鳥居が入口で、今の若宮大路が参道でした。
下馬と言うのは、そこから神域なので馬を下りなければいけない場所なので、英国人が襲撃された理由も大凡(おおよそ)想像できますよね?
多分、乗馬したまま鶴岡八幡宮の境内に入ろうとして下馬しなかったんでしょう、そして攘夷派の人物が激高し斬り付けた。
実はこの鎌倉事件の犯人は元は笹下城跡の本丸跡に建つ由緒ある御寺の成就院の身内で、還俗(げんぞく=僧籍から一般人に戻る事)して間宮家に養子に入った人物です。
因みに成就院↓の山門は、江戸時代の笹下間宮家の屋敷から移築したものです。
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事件の際、当然、この横浜市(旧久良岐郡と橘樹郡)の間宮一族は鎌倉が近いだけでなく鶴岡八幡宮は当時は神宮寺で神仏混淆の寺院でしたし、現在の江ノ島の江ノ島神社の別当職を務めた岩本院(現:旅館の岩本楼)の岩本家も間宮一族だったり宗教に深く関わりの有る武士でした。
…で、時間が経過するにつれて鎌倉で英国人を殺害した犯人が清水清次と言う人間だと解り逮捕され、更に共犯者がいて間宮一が真犯人じゃないかと、段々、解ってきてしまう訳です。
間宮一は逮捕されました。
そして幕府役人は英国の介入が有る前に間宮一を打ち首にして事の解決を計りました。
実はこの鎌倉事件の前年に現在の鶴見区生麦で起きたのが生麦事件でした。
当時の大英帝国は白人至上主義で中国に阿片(あへん=麻薬)を大量に流通させて社会混乱を起こし中国王朝転覆を計っていたような国だったので、生麦事件では日本の徳川政府の迅速な「打開策」にも難癖付けて払う必要の無い賠償金を請求して来た訳です。
そして徳川幕府が賠償金を払わないと解るや、英国内の世論を納得させる為に八つ当たり的に起こしたのが薩英戦争だった訳です。
結果どうなったでしょうかね~?
英国に薩摩藩はべったり、この後は今の横浜市中区本牧に在る妙香寺の敷地に駐屯していた英国軍に入りびたり、様々な技術を導入するように成りました・・・つまり、事実上の従属同盟ですよ。
これに多くの日本人が憤慨し武士は攘夷派に成った様です。
まぁ、しかし…
この時の薩摩人達の学習能力の高さや、幕府や間宮家の対応が他のアジアより素早く意識の高いものだったので英国人の日本人に対する評価はこの事件後一変し、一貫して日本新政府には「"超"が付く位に協力的」に成ります。
そして対馬海戦での東郷元帥率いる連合艦隊がロシア帝国バルチック艦隊と対決するに当たり、英国政府は世界に日本軍に協力する様にロビー活動をし、ロシア海軍がアフリカ喜望峰を回って日本の対馬海峡に辿りつくまで、バルチック艦隊にろくな補給を出来ない様に政治工作をして多数の港湾を封鎖し東郷元帥と秋山中佐の丁字戦法成功の切っ掛けを演出して下さったのも友好的な歴史事実でもあります。
ちなみに間宮一族には杉田玄白や間宮林蔵なんて国際人がいるので、どちらかと言えば開明的な要素が強い家系だったってのも真相です。
戦国時代に間宮家の属した玉縄城主北条綱成公の部隊は既に鉄砲隊が存在していたのも、「三増峠の戦い」でも記録されていますからね~。
…間宮家は、どちらかと言えば主君に対する忠誠心は強いけれど、新技術導入には積極的な家風と言うのが実態ですかね。
おっと!
脱線が過ぎましたかね。
開港資料館に話を戻します…
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廊下を過ぎると、簡単な説明の有る部屋に行き当たります。
そこには関東大震災で犠牲に成った英国人を追悼する銘板が有ります。
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あと、当時の横浜の様子を再現したレリーフ状の模型。
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その部屋を出ると、直ぐに中庭への出口が有ります。
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その中庭に通じる出入口、この日、玄関には特別展示の内容の看板が有りました。 
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本来の英国領事館時代の玄関からの風景なんですが… 
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玄関の正面に樹が見えますよね? 
これが、ペリー提督の来航時代から有った、さっき紹介したタマクスの木です。
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一度燃えたけれど、今では当時と同じ大きさに…
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横浜の開港~国際港湾都市への文明開化~関東大震災~原財閥による横浜復興支援~太平洋戦争の横浜大空襲~昭和の復興~高度経済成長期~バブル崩壊~現在…ずっと横浜の歴史を見守って来てくれた、横浜市民の仲間でもある樹木です。
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玄関横の石柱。…道路に面してないから今じゃ意味なし(笑)。
さて、このタマクスの生えている中庭には、横浜の開港の歴史が解り易いモニュメントが設置されています。
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これを見ると、横浜開港の歴史の基礎の基礎の部分がザックリ理解出来ますよ~。
中庭には、昭和初期から残る共用水道も有ります。
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当時の水道は共用だったらしいのですが、デザインが格好良いですね!
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この中庭が昔の玄関口だったので、こちら側から見た英国領事館の建物の装飾の方が、県庁側より綺麗です。
ここにはベンチも有り自由に出入り出来るので、お弁当持ってきてココで食べるのも良いです。
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ここなら日陰もありますからね~。
この日も観光客や読書に来たハマっ子がベンチに数人居ましたが…結構穴場で人は多くはいません。
おちついて御弁当箱を広げれますよ~(笑)。
でも、せっかく港に来たんだから向かいの象の鼻パークや国際客船ターミナルの芝生で食べるのも良いですね♪
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この開港資料館の目の前、海側にはCJ Cafeと言う、アメリカンなカフェレストランが有ります。
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…オムライスとかもアメリカンサイズで女性だと食べ残しちゃうくらいの量ですが、太平洋戦争後の米軍占領時代っぽい雰囲気を味わえると思います。
小生はこの近くのJack cafeにも良く行きます。 2015-08-01-14-31-52
ここはハンバーガーが絶品!
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ランチに御勧めですが、料理が美味しいだけでなく御酒も飲めるので夜来るのもお薦めです!大桟橋の夜景も綺麗ですしね。夜景散歩に来てからここで食事するのも良いですよ。
また、Jack cafeの記事は別個に書きますね!
あと、古き良きアメリカ的な雰囲気を味わいたい時はだいたい、中華街の中のWind Jammerと言うJazz Barに行きます。
※Wind jamerは以前、記事にしていると思うので興味ある方はカテゴリー「Hotel Restaurant/Restaurant-Bar/Jazz-Bar/Bar 」←ここクリック!
…又、開港資料館からすんごい脱線しましたが、話を戻します。
本来の玄関、彫刻が凄いでしょう!
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これ見に来る価値有りますよ。
この凄い彫刻の玄関の前のタマクスの中庭で、ベンチのある日陰を探して、そこで読書して時間を過ごすだけでも良い休日に成りますね。

最後に、この開港資料館が英国領事館だった頃の、この前に広がる横浜港の様子を明治時代と現代で比較した画像を載せます。
横浜港周辺 久良岐のよし
今は象の鼻パークに成ってる“イギリス波止場”~神奈川県庁の辺りに在った「神奈川運上所」の目の前が開港資料館です。
開港資料館の展示を観覧して、横浜の発展の歴史の基礎知識を付けてから中華街や山下公園や山手地区の一帯を散歩すると、感慨深い物が有ると思いますよ~♪
皆さん、近くを通りかかって時間が有ったら、是非!開港資料館、立ち寄ってみて下さい!

では!又、次の記事で!
来月10月1日~5日は彦根、安土、京都に行ってるので第1週は更新できないかも知れないです。
今月、時間が有ればまとめて書き溜めしておいて、予約投稿出来る様にしておきますね~!
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有鹿神社(あるかじんじゃ)本宮・中宮…延喜式内社
主祭神:有鹿比古命(あるかひこのみこと)。 ※相模原市の有鹿神社奥宮は有鹿比女命(あるかひめのみこと)が主祭神。
御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・家内安全・家運発展
開基:奥宮は縄文時代にには存在。本宮は弥生時代の遺跡を内包し、奈良時代には国府鎮護として鎮座した。
中興:天智天皇・孝謙天皇・清和天皇・相模国司歴代・海老名家
場所:海老名市上郷。相模国国府跡や国分寺跡が徒歩30分程の場所に在る。DSC_0138
平安時代に関東総鎮守と朝廷に認定された神社の一つ有鹿神社(あるかじんじゃ)が海老名市に鎮座している事を皆さん御存知でしょうか?
前回の記事で紹介しましたが、この有賀神社は元々相模原市緑区に縄文時代の遺跡と共に存在する聖地❝有鹿谷❞に鎮座する奥宮から海老名郷の鎮守として遷座させられ、更には貞観年間に関東総鎮護、正五位の格式に成り、更に鎌倉時代に成ると正一位の各式に定められました。
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上の写真は相模原市南区勝坂に存在する聖地❝有賀谷❞の有賀神社奥宮。縄文時代の遺跡を旧境内地に内包し、その場所には縄文時代からの湧水地の聖地がある原始神道の文化を良く留める。

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さて、何で現在の場所に本宮が有るかと言うと、本来の有鹿神社の草創期の史跡は縄文時代の勝坂遺跡と共に相模原市緑区に現存するのですが、この本宮の場所も❝有鹿の社(もり=森)❞と言われた聖地であり弥生時代の遺跡が周辺から発掘されていたりします。
…神奈川県教育委員会は土建屋と結託しているので、ここでも旧境内史跡を保護せず神社は衰退していくのですが、昔の人がどれだけ、この神社を大切にしていたかと言うと凄まじい歴史が有りまして…
ここが本宮と成った所以(ゆえん)は奈良時代に海老名郷(昔は有鹿郷と言った)が相模国の国府と成った事が一番大きいと小生は推測しています。
有鹿神社は近所に現存する真言宗総持院は明治時代に成るまで有賀神社と一帯に成り神宮寺として機能していましたが、その規模は塔頭僧房合計12坊や幾つもの摂社を巨大な境内地に抱える大規模なものでした。
更に、中宮、奥宮を抱え、天智天皇の時代の西暦664年に国家鎮護の祭礼が行われた記録も有ります。
現在の本宮周辺の位置関係を見るとこんな感じ…
有賀神社と相模国府の位置 久良岐のよし
丁度、聖地❝有鹿谷❞から流れ出す鳩川(有鹿川)と相模川の合流する流域であり、相模川が蛇行しながら河岸段丘にぶつかり、他の支流とも合流する増水すると氾濫(はんらん)する辺りに本宮が鎮座し、更にその本宮の東側には旧相模国国府や国分寺の跡が在ります。
つまり、国府の政庁を守る治水の神様の役割も期待されていた事が位置的に推測出来ます。
まぁ、そもそも、本宮の御祭神は有賀比古(あるかひこ)様ですが、奥宮の神様は水神様でもある奥さんの有賀比女(ありかひめ)様ですから、これは当然とも言える配置ですね。
因みに有賀比古の神様は太陽神です。ですから、治水と太陽に関連深く農業とも関連の有る神社とも言えます。
余談ですが、この地域が奈良時代の相模国の中心だった事を示す国分寺の史跡は発掘され公開されています。
相模国国分寺跡 久良岐のよし
この国分寺は歴史に疎(うと)い人は知りませんが、古代、全ての国府に置かれた寺院でした。
ですから、ここが相模国の中心として機能していた時代が有った証明に成る訳です。
この辺りまで古代は海だったので、現在ではだいぶ内陸の海老名市が現在の感覚で言う神奈川県の県庁所在地に成っていたんでしょうね。
延喜式内社・式外社と縄文時代の海岸線 久良岐のよし
小生のブログを読んでくれている人にはもう御馴染(おなじみ)の画像ですが、Googleearthの画像に古代から存続する延喜式内社と式外社を表示させ、そこに縄文時代の海岸線の画像を貼ると、大凡(おおよそ)延喜式内社と式外社の位置は縄文時代の海岸線と符号します。
そんな訳で、古代から存続し霊験鮮(あらた)かな有賀神社ですが、現在は近所に遷座した中宮も古代は聖地有賀谷から流れる鳩川沿い座間市入谷の左岸の諏訪明神辺りに在ったそうで、西暦500年代に伊勢鈴鹿から移って来た右岸の鈴鹿神社の神様と争って敗戦し、現在の本宮へ本拠を移したと伝承が有るそうです。
鈴鹿の神様は船で遭難し入江の東岸に流れ着いたとされており、それが現在の場所だとされています。
上の画像で説明すると、当時の海岸線は白く表示した部分と推定されていて恐らく西暦500年代位はまだ、この地域は浅い入江だったと思われます。歴史とも神話は整合性が一部有ります。
有賀神社中宮推定値の諏訪明神と鈴鹿明神の位置関係 久良岐のよし
この画像は有鹿神社中宮の在った場所と推測されている諏訪明神辺りと、鳩川を挟んで右岸が有鹿神社の神様と争った鈴鹿明神です。
縄文時代より弥生時代の方が温暖だった可能性が有り、上の上の画像で示した西暦紀元前6000年頃より弥生~古墳時代の入江は更に内陸に広がっていた可能性が有ります。
その証拠に伊勢原市比々多神社周辺や足柄上郡寒田神社周辺には、縄文時代の海岸線より更に内陸ですが❝島❞と名の付く地名が多数現存しています。
因みに、初代の佐賀牟国司は建御名方(たけみなかた)神の御神孫と伝わっています。
建御名方神は、長野県諏訪大社の御祭神で軍神あり治水神です。
この座間市の鈴鹿明神の伝承では、鈴鹿明神の神様の財産を有賀神社の相模原市勝坂の有賀神社の神様が横領しようとして争った際に諏訪明神や弁天様が鈴鹿の神に与力し有賀神社の神様は敗戦し、現在の本宮に来たとされています。
もう一度位置関係を見てみましょう。
有賀神社の奥宮中宮本宮の位置関係 久良岐のよし
実は西暦500年代に大地震が有って神奈川県内陸まで広がっていた海の入江の海底が隆起し土地が出来たはずなので、中央から開拓目的の人間が鈴鹿の移民し入植して来てもおかしくない訳です。
この土地隆起による耕作地の出現が佐賀牟国の武蔵国・相模国分裂の切っ掛けに成り、更に旧相模国の国府祭(こうのまち)と言う神事の元に成った神様同士の争いや、武蔵国造の乱の切っ掛けに成ったと小生は推測しています。
しかも建御名方神の別名は❝伊勢都彦❞だった事が解っていて、現在の伊勢の鈴鹿辺りもこの諏訪神の一族がいた筈(はず)なので、諏訪神=建御名方神=建御名方神の御神孫=佐賀牟国司が鈴鹿からの入植者をかばい在来の有鹿神社の豪族と争った可能性は非常に高いと思います。
もっとも、有鹿神社や先住民からすれば、国司の一族と推測出来る鈴鹿明神の入植者達は侵入者な訳ですがね…。
更に言えば建御名方神は本来、建南方神と書いたそうなので、卑弥呼に敵対した南方の狗奴国と言うのは弥生時代末期~古墳時代の諏訪神族を指し当時の諏訪神族は伊勢辺りまで勢力を誇っていた、もしくは伊勢辺りが根拠地で後に諏訪にまで押し込まれたと神話と歴史を融合させると推測出来ます。
この辺りが、後に天智天皇等、皇統系に有賀神社が国府鎮護や関東鎮護とされ朝廷の後援を受けた理由でもありそうです。建御名方神は朝廷方の祖先神達と争った神様ですからね。
昔の神社は政庁であり豪族の宮殿でしたからね、神(かみ)=上(かみ)=守(かみ)=支配者を示す訳です。
そんな感じで、恐らく有鹿神社の聖なる川の鳩川沿いに隆起した土地に入植してきた建御名方神の御神孫の国司一族と、在地豪族だった有鹿神社の神様の御神孫の争いが、この有鹿神社中宮と鈴鹿明神の争いだったと推測出来ます。

さて、有鹿神社本宮の解説に戻ります。
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有鹿神社は、奈良時代~室町時代中期が最盛期でした。
当時は先述の通り凄まじい広さの境内地を抱えていましたが、平安時代から当地の在郷領主だった海老名家が室町時代中期に滅亡すると、後援者を失い社領を乱入者に横領され衰退して行きました。
しかし天正3年(1575年)、北条氏の治世下で神事❝水引祭り❞の復興が成され相模国五の宮、海老名郷総鎮守にまで復権し、天正19年(西暦1591年)には徳川家康公によって10石の社領を保証する朱印が発行され、江戸時代初期の元和8年(西暦1622年)には領主高木家の奥方によって社殿が寄進されました。
古代程の規模は継続していないものの、この神社の各式の高さと歴史の深さと古代日本文化を守って来た神社である意義は大切で、神社を守って来た氏子サン達の業績は偉大です。
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有鹿神社は境内に立派な御神木が有ります。
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樹齢は書いてないので解りませんでした。
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社務所は宮司様御不在の日がほとんどなので、事前に電話番号を調べて連絡の上、御出勤される日を確かめれば御朱印を頂けると思います。
小生は連絡の上、ここと別の事務所へ訪問し朱印帳に判を頂きました。
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とても凛々しい狛犬さん。石材の状態を見るに江戸時代の作でしょうか?
石の腐食具合がそれくらいに見えるかな。
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社殿外観は覆殿(おおいでん)で、文化財指定されている本殿はこの中に保護され鎮座しています。
本殿は春日造り、屋根は檜皮葺だそうで、格式の高い有鹿神社に相応しい造りです。
残念ながら、訪問した日は時間も遅く既に覆殿の扉が閉じられていて本殿を拝観する事は出来ませんでした。
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扁額は地震かなんかの落下で欠損部分が有りますが、とても立派ですね。
往時の社殿は、この扁額や広大な社領に見合った立派な建築物が何棟も有ったんでしょうね~。
境内の摂社には有鹿天神社と言う菅原道真公を御祀りする神社が在ります。
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元々、海老名源八季貞(すえさだ)公の館跡に鎮座していたのが、この有賀天神社の御神霊で、近年、その御神霊を境内に遷宮する際に御社の形をした祠を新築し直したそうです。
歴史的には海老名氏の崇敬を集めた天神社の今宮に成るので、こちらも霊験鮮かな神様と言えますね。
さて、有鹿神社の前編と合わせて有鹿神社を含めた延喜式内社の大切さが少し御理解頂けたでしょうか?
そして、縄文時代~古墳時代の海岸線沿いや湧水地に延喜式内社が集中して存在している事も御理解頂けたと思います。

ところで、この日の帰りは高速道路の海老名SA上りで豚の串焼きを食べたのですが…
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神奈川県の名物の一つである高座豚(こうざぶた)ですが、この高座豚の高座は古代律令制度の行政区分の高座郡に由来しています。
この高座郡、現代人は高座(こうざ)と読みますが、古代は高座(たかくら)と読んだそうです。
つまり、海底が隆起して現れた平地が有鹿川(鳩川)・相模川・中津川の氾濫や降雨を繰り返して平地の塩分が抜けて工作に適した場所に成り、水田開発が進み、多くの米を保管する❝高床式の倉❞が立ち並ぶ村々が増えって行って古代の開拓先進地域に成って行った事が地名からも伺えますよね。

では!
又、次のブログ記事で御会いしましょう!
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