歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。
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有鹿神社(あるかじんじゃ)奥宮…延喜式内社
主祭神:有鹿比女命(あるかひめのみこと)。※海老名市の有鹿神社本宮は有鹿比古命(あるかひこのみこと)が主祭神。
御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・家内安全・家運発展
開基:縄文時代には既に湧水の聖地として存在した。
中興:天智天皇・孝謙天皇・清和天皇・相模国司歴代・海老名家
場所:相模原市南区磯部勝坂、勝坂遺跡の有賀谷。
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平安時代の人々から見ても古いと思っていた歴史有る神社を醍醐天皇の時代に後世に伝え保護させる為に記録させた❝延喜式神名帳(えんぎしきじんめいちょう)❞と言う古文書に掲載されている神社を、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)と呼ぶのを皆さんは御存知でしょうか?
平安時代、西暦900年代は既に古来の律令制度での国家運営が難しくなっており、それを改善する為に発布された延喜式政令の一端として行われた宗教政策みたいなものです。
つまり、この延喜式神名帳に掲載されている神社は現在の規模が如何に小さかろうが、現代の建物ばかりデッカイ神社よりよっぽど神様の歴史の重みと重要さが別格に高い訳です。
別に建物だけデカイ神社なんて、金儲けのセンスの問題ですからね…
さて、そんな延喜式内社が神奈川県旧相模国域に13座、武蔵国域に1座有ります。
その内の一つが縄文時代からの聖地❝有鹿谷❞に存続する有鹿神社の奥宮(元々の神社の発祥地)です。
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現在、有鹿神社奥宮は石の鳥居と祠(ほこら)が有るのみですが、その前を流れる小川を数mたどると現在も縄文時代から湧き続ける聖なる水源が有ります。
本来は、有鹿神社はこの辺りに立派な社殿が存在したはずなのですが、相模国の国府が海老名郡に置かれ、平安時代末期に坂東平氏良文流の名族の海老名氏が海老名郡を支配する様(よう)に成ると、海老名郡の総鎮守として、有賀神社も奥宮から現在の海老名市上郷に在る現在の本宮に重要度が移管させられました。
なので、近くの中宮には、本宮の聖地であったであろう池が在りました。恐らく縄文時代~弥生時代には安全な飲水として古代人に重宝されたであろう聖なる湧水地の池も土砂の堆積(たいせき)で消えました。しかし現在も本宮はや中宮の祠の近くには、聖地奥宮の有鹿谷から流れる鳩川が流れています。

延喜年間に聖地とされた場所は延喜式内社の他にも有ります。
そこは平安時代当時に御寺とくっつい修験者(山伏:やまぶし)の道場や天皇家の勅願所、又は国府や郡府として機能していた関連で延喜式神名帳には神社として掲載されていなかった場所で、小生の知る限りでも神話の舞台の日本武尊と弟橘姫の走水神社(はしりみずじんじゃ)・橘樹神社(たちばなじんじゃ)・師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)・八幡橋八幡神社(やはたばしはちまんじんじゃ)等が有ります。
これらは延喜式に掲載されていない事から、❝延喜式外社❞としてカテゴライズされています。
●走水神社の記事

●橘樹神社の記事

●師岡熊野神社の記事

延喜式外社は朝廷を乗っ取り天皇家を傀儡(かいらい)としていた❝藤原家にとって歴史的に都合の悪い場所もあり❞素戔嗚尊を祀(まつ)る祇園社、八坂神社、八剣神社、剣神社、出雲社、津島社も多くが延喜式内社から除外されてしまっています。

さて、延喜式内社と延喜式外社の説明はここまでにして、有鹿神社奥宮の説明に戻ります…
冒頭少し説明しましたが、有鹿神社の奥宮は平安時代末期に海老名市に本宮機能を移転した有鹿神社本宮の元宮です。
そして縄文時代からの文化を受け継ぐ聖地の湧水地に鎮座する神社な訳です。
ですので、この神社を語るには、縄文時代の住居が多く出土した旧境内地の勝坂遺跡の存在と、何故(なにゆえ)御祭神が伊勢神道系の皇祖神ではなく日本神話と関係無い土地神様なのかを解説する必要が有ります。
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※上の写真は有鹿神社奥宮の旧社地に在る勝坂遺跡。
そもそも現代の神社は社殿に祀られた御神体の銅鏡(かがみ)を拝む文化で、神社の建物自体が聖地とされてしまっていますが、縄文時代や弥生時代の神話時代の信仰を受け継ぐ古社の文化は全く現代の神道の鑑を拝む文化とは異なり、聖なる池や聖なる山、又は神様と成った神話時代の歴史偉人の御使用された祭器や武器その物等の遺品が信仰対象に成っていました。
ですから日本最古と呼ばれる奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は三輪山が御神体ですし、熱田神宮は本来は日本武尊を祀った神社だったのでその遺品で三種の神器の一つ草彅剣(くさなぎのつるぎ)=天業雲剣(あまのむらくものつるぎ)が御神体とされています。
もっとも、日本の神剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)=天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と二つの名で呼ばれ同一視されていますが、実は熱田神宮にも東京の皇居にもそれぞれ一振りずつ神剣が存在している事から、小生は初めから2振りの剣が日本国には古代から存在していて、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は別の神剣だと推測しています。
更に言えば伊勢神道に神剣が2振り有る事や銅鏡を御神体にする文化は弥生時代の卑弥呼が魏の皇帝曹叡から贈られた宝剣2振りと銅鏡200枚に由来していると個人的に推測しています。
神剣が天叢雲剣と草薙剣の2振り有るのに神剣が1振りしか無いように世間に誤解されているのは、恐らく藤原家が自家に都合良く古事記の文書化や日本書紀の編纂で歴史を改竄した結果、発生した矛盾によってこの様な事態が発生してしまったのだと推測しています。
皇居には壇之浦の合戦で安徳天皇が平家と無理心中した時に海中に紛失した天叢雲剣のレプリカが有りますが、熱田神宮にも日本武尊が東征に携行した草薙剣が保管されており熱田神宮の公式見解で神器として祀られてより新羅人に盗まれた時以外に境内から外に持ち出された歴史は無いとしている事からも、元来、日本に神剣が2振り有った事が明白です。
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勝坂遺跡入口
江戸時代にキチガイ領主だった徳川光圀(水戸黄門)によって創始された歴史の浅い水戸学を元にして、明治時代に文化や宗教の欧米化を指導した森有糺等の介入により成立した国家神道により、神社の社殿を聖地とする伊勢神道の価値観が基準とされ、更に皇祖神とは異なる神様は軽視されてしまいました。
結果的に縄文~弥生~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸時代の価値観はつい最近の150年前に否定され、以来、土地神様や伊勢神道の神様と異なる主祭神を祀る延喜式内社の多くは明治~大正~昭和に急速に廃(すた)れてしましました。
これは、他の延喜式内社の解説記事でも書いているので、カテゴリー「延喜式内社と歴史千年以上の古社」から選んで読んでみて下さい。
少々脱線しますが因(ちな)みに、小生が水戸黄門をキチガイ扱いするのは彼が領民に重税を課し農民達を苦しめた悪人であり、更に犬の皮を剥(は)いで生皮を将軍の住む江戸城に投げ込む変態行為を行った文字通りの精神異常者だったからです。
彼に関しては、ヤンキーで少年時代に不良グループと群れていた事実以外は全くTVの水戸黄門と異なる作られたイメージなんですね。
彼の評価が高く成ったのは犬を虐待して当時の将軍の徳川綱吉の生類憐みの令に反抗してみせたパフォーマンスと、その反幕府的な姿勢が幕末に後の明治政府の重鎮達に手本にされたからでした。
そんな訳で、彼は江戸時代にも多くの八幡宮等、伊勢系統の神様と無関係な神社仏閣を多く破壊した悪事を行っています。
そんな彼の創始した水戸学の誤った知識により、縄文時代~江戸時代末期まで自然崇拝や土地の神様を大切にした古来の神社文化は衰退させられてしまいました。
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しかし、この有鹿神社や日本全国の延喜式内社には、日本書紀の神話にも登場しない土地神様や日本武尊や弟橘姫が主祭神として存続し、更には縄文~弥生~古墳時代の遺跡を旧境内地に埋蔵した聖地に建っていた場所が多く有ります。
以前に紹介した❝大山阿夫利神社❞や❝比々多神社❞は正に、そんな場所ですね。
●大山阿夫利神社の記事

●比々多神社の記事

この有鹿神社奥宮の有る有鹿谷の上の丘の勝坂遺跡は、有鹿神社の湧水地を聖地としていたであろう縄文の人々の住居跡が発掘調査され、復元され無料見学出来る史跡として整備されており、御参りする時に子供を連れてくるだけでも良い課外学習に成るでしょう。
小生が良く使用する画像ですが、延喜式内社は縄文文化を受け継いでいる証明にも成るのが、縄文時代の海岸線と所在地をGoogle earthで重ね合わせた画像です。
延喜式内社・式外社と縄文時代の海岸線 久良岐のよし
約6000年前の海岸線は今より遥かに内陸に在り、前鳥神社(さきとりじんじゃ)と平塚八幡宮の奈良時代の地殻変動で隆起した地形以外に所在する式内社・式外社は全て、縄文時代の海岸線と一致する位置や湧水地に現在も存在しています。
そんな訳で勝坂遺跡も有鹿神社の聖地である有賀谷の横に在る訳で、縄文時代の村落の史跡の横の有鹿谷が有賀神社の奥宮な訳です。
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勝坂遺跡に復元された住居には、展示時間内なら自由に入る事も出来ます。
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当時の人々の暮らしも想像できますね。
ただ、この住居内部の復元は、横浜市南区の三殿台遺跡程緻密には行われていませんし展示館も無いので、もし日本の神代に当たる縄文時代の人の暮らしに興味が有る人は、横浜市都筑区の❝横浜市歴史博物館❞と横の❝大塚最歳土(おおつかさいかちど)遺跡❞、復元住宅と生活を見たいなら横浜市南区の三殿台遺跡を見学すると良いと思います。
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勝坂遺跡も、住居跡の凹みにちゃんと解説文が説明板に書いて有るので、基礎知識を学ぶには良い場所だと思います。
ここは、日本文化を守って下さる神社の宮司様や御寺の和尚様達にも訪れて、日本文化と伝統の起源を改めて見つめ直して欲しい場所でもあります。
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この勝坂遺跡の入口と、勝坂遺跡の途中に有賀谷に降りる遊歩道の入口が在ります。
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その遊歩道を歩くと相模原市教育委員会の原生林を復興した照葉樹林があります。
明治~昭和期に日本の多くの山は建築材料の調達目的で原生林が伐採され杉の木が植林され生態系が破壊されてしまった場所が多く有ります。
それを踏まえると、この相模原市の取り組みは素晴らしいですね。
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この森をずんずん進みます。
すると…
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有鹿谷の底、小川と湿地の畔に出ます。
ここで生息する希少な生物の説明も有りました。
その傍らに在るのが、有鹿神社奥宮です。
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しかし、この奥宮は聖地の入口に境界の様に建てられています。
平安時代末期までは、上の勝坂遺跡とこの辺りに立派な社殿も存在したのでしょうね。
そして、この祠の前の小川を少し遡(さかのぼ)ると、この地が古来の神道文化を保持している所以(ゆえん)たる聖地が現在も日本文化を大切にする方達に守られていて…
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有鹿谷の壁面から、コンコンと湧き出る有賀神社奥宮の聖水とも言える湧水地ですね。
実は縄文時代~古墳時代の人々の生活で重要な事は飲み水の確保でした。
昔の人は大きな川の水を飲んでいた訳では有りません、そんな事をすれば、いくら昔の綺麗な川でも感染症を起こして死にますからね。
かと言って井戸を掘削する技術も実は平安時代位まで普及しておらず、江戸時代に成ってもまだまだ現代の様に地盤によっては垂直に井戸を掘れる技術は有りませんでした。
だからこそ、この有鹿谷の有鹿神社奥宮を含め、延喜年間には存在した神社…
伊勢原市の大山阿夫利神社や横浜市港北区の師岡熊野神社、東京都あきる野市の二宮神社(二宮小川大明神)、関東最古の大社で日本武尊が造営した埼玉県久喜市の鷲宮神社の様に縄文時代~古墳の史跡や自然湧水地を抱える場所が多い訳です。
●鷲宮神社の記事

どうでしょう?
有鹿谷と有鹿神社の大切さ、縄文人代の先輩達から~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸と、現代人の我々へ受け継がれている事を辿(たどる)る事で御理解頂けたでしょうか?
この縄文の人を潤し、弥生~昭和まで農耕の灌漑用水としても利用されたであろう母なる水を湧かす聖地有鹿谷の神様が、有鹿比女(あるかひめ)と言う女神様である事も忘れないで下さい。
現在の神道も、縄文~弥生~古墳の習慣が残っていますが、更に神話にも登場しない古い時代の神様を平安時代の醍醐天皇達の次代には現代よりも大切にして、現代人の私達に対して❝延喜式神名帳❞を通じて「ちゃんと保護し大切にしなさい!」と伝えてくれた事も忘れないで下さい。

…余談ですが、現在は御寺に成っている横浜市中区にある❝国家君が代と吹奏楽の発祥地❞である妙香寺は日蓮宗の御寺ですが、昔は真言宗の弘法大師空海和尚が開山の御寺だった歴史が有りますが同地の丘には打越の霊水やワシン坂の霊水と言った自然湧水地を多く抱える場所であるのですが、実は空海和尚は自然湧水地と日本神話の日本武尊信仰を大切にされていたので日本武尊神話の伝承地に日本武尊が崇拝していた牛頭天皇=素戔嗚尊を祀る牛頭社や須賀社を開いたり、聖徳太子を祀る太子堂を開いたりしています。
恐らく、横浜市の妙香寺や弘明寺は御寺に成る以前には神社としての機能が有った聖地なのだと思います。
その推測を強化するのが、弘明寺の旧境内地からは❝国府瓦❞が出土しているからです。
国府瓦と言うのは郡衙(ぐんが=群の政庁=現代の市庁舎のような存在)を建設する際に、国府の陶磁器や須恵器を焼く釜で製造され、郡の政庁の建設の際に使用された特別な瓦の事です。
武蔵国橘樹郡の郡役所だったと推定されており、背後の宅地の丘が巨大な弟橘姫の円墳である橘樹神社や、東京都府中市に在り武蔵国の国府として機能していたと推測されている大国魂神社が有る事からも、妙香寺や弘明寺は神社の旧跡に日本神話を大切にする空海和尚が御寺を建てたと考え復興したと自然に推測出来たりします。
これ等の場所が古代の海岸線の港や湧水地である事も、有賀神社や延喜式内社の歴史を辿る事で輪郭が見えてくる明治時代以前の人達の信仰の形だったりする訳ですね。
妙香寺はカテゴリ「御寺」に解説が在りますので興味が有れば読んで見て下さい。
●妙香寺の記事

●湧水地の記事


この有鹿神社の御利益と関わった人物ですが、天智天皇の治世、天平勝宝年間=孝謙天皇の治世、貞観年間=清和天皇の治世にそれぞれ中央との関わりの有る祭事や神社の格上げが確認出来ており、師岡熊野神社や比々多神社同様に朝廷からの支援が有りました。
御利益は、有鹿比女(あるかひめ)様が水の女神さまであり縄文~弥生の開拓地である事から灌漑水田農業振興の神様として農耕の豊穣の御利益、そして本宮の有鹿比古(あるかひこ)様と夫婦神様なので日本武尊と弟橘姫様みたいな縁結びと家内安全が期待できますね!

さて、有鹿神社奥宮の聖地と遺跡の解説はここまで!
次回は、鎌倉時代に移転した海老名市側の本宮の解説をします。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!
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寒田神社(さむたじんじゃ)…延喜式内社
主祭神:倭建命(やまとたけるのみこと)・弟橘姫(おとたちばなひめ)・誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩・菅原道真公=日本太政威徳天(やまとだいじょういとくてん)
御利益:海外渡航安全・勝負運・縁結び
開基:仁徳天皇(それ以前に日本武尊が当地に滞在した)
中興:源頼朝公・徳川家光公
場所:神奈川県足柄上郡松田町惣領1767
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寒田神社と言う名前の創建年代が西暦315年と伝わるとても古い神社が神奈川県足柄上郡松田町惣領に存在します。
実は日本武尊(やまとたけるのみこと)=倭建命が滞在され神事を行った聖跡(せいせき)に、古墳時代初期に造営され現在も存続している神社で、平安時代の人達から見ても古い神社だったので、西暦900年代に醍醐天皇が当時の人から見て保護するべき対象の古い神社を纏めた❝延喜式神名帳❞にも掲載された神社です。
この様な延喜式神名帳に掲載されている神社を❝延喜式内社❞と呼びますが、寒田神社は神奈川県の旧相模国域に13座しか存在しない延喜式内社の内の一つで、とても権威と御利益の有る神社さんです。
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この日本武尊の伝承は、朝廷に提出された古風土記にも記載が有るそうで、実はこの神社の宝物と言うか御神体と言うか文化財に当たるものに日本武尊が戦勝祈願に用いた❝木椀❞が現存し、保管されているそうです。
伝説によれば、日本武尊は木製の御椀に酒を汲(く)んで現在の酒匂川に酒を撒き、東征に向かったそうです。東征を終えて当地へ戻って来た際に、御椀にまだ酒の匂(にお)いが残っていた事から、目の前の川の名前が酒匂川に成ったそうです。
日本武尊の聖跡な訳で正に聖地に建つ神社なのですが、江戸時代初期まではもっと広かった境内地と神社の所有した社領は酒匂川の氾濫(はんらん)で浸食されてしまい、だいぶ縮小してしまったそうです。
川の洪水は穀倉地帯の宿命ですね。
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ですから風害記念の石碑なんて物も有って、先人が我々子孫に自然災害の起きる土地だと警告を残して下さっています。
さて、この寒田神社、鳥居をくぐり参道を進むと歴史に興味無い人達には現在の知名度は低く成ってしまっているものの立派な社殿と社務所と神楽殿が有ります。
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と、社殿を紹介する前に手前左側に在る手水舎と、延喜式内社らしい神仏習合の神様の石碑を紹介します。
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手水舎も綺麗で、屋根も立派ですね…
正直、松田町は農村の過疎地なので、この規模の神社を維持し、この様に新しい手水を設置し清潔に管理を保つ事は、相当な氏子サン達の努力と出資が窺(うかが)える訳です。
古代からの文化と歴史を保護して下さっている寒田神社の氏子サン達には敬意を感じますね。
もし神社や御寺に参拝する場合は、利己的に心願を願掛けするだけでなく守って下さっている方々への敬意も神様に伝えると良いと思います。
この手水舎の傍らに、明治に成るまで当たり前だった土地神様信仰や神仏習合の名残があります。
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堅牢地神…
神仏習合の神様。新しい神社では余り見る事が無い神様ですね。
密教由来の神様で、土地を堅固にする神様です。
洪水の被害に遭ってきた寒田神社らしい、土地の人々が治水を願った事が良く理解出来る神様でもありますね。
参道を抜けて右手に在る神楽殿は現在でこそ金属製のシャッターで覆われていますが…
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…屋根に注目すると、その作りが立派な事に気が付きます。
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境内地が縮小したとは言え、そこは平安時代の醍醐天皇が保護すべき古社を記録させた延喜式神名帳に記録が残り、鎌倉時代には源頼朝公も松田の別荘の松田亭より度々参拝に訪れた権威有る神社だけあり境内はかなりの広さで、社務所や社殿の前のスペースはちょっとした広めの公園程も有ります。昔は更に様々な建物が建っていたんでしょうね。
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この美しい社殿は覆殿(おおいでん)です。覆殿は本殿を保護する為に本殿ごと覆い囲んでしまう建物の事です。
本殿は江戸時代慶長年間の再建だそうで、つまり1600年代の初期の再建と成ります。
この覆殿の中に、400年前に作られた本殿が在るんですね。
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中を除き込んで写真を撮影する訳にも行かないので、扁額の写真を…
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社殿の横には寒田神社の歴史と神器の解説が有ります。
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納札所。
この寒田神社、本殿の裏にも摂社がいくつか在り面白い御社もあります。
先ずは御稲荷さん。
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どちらの神社にも必ずと言って良い程、多くの人々に昔は愛された神様ですね。
稲荷神社の神様は宇賀御霊神=倉稲魂神(うかのみたま)=豊かさを象徴する神様で、鎌倉時代に成ると弁天様と習合される事も有りましたが、古代の農作物が大切だった時代の神様です。
農民にとって一番大切な神様でしょうか?
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こちらは確か、祖霊社だったと思います。
それぞれの御先祖様に繋がる神社ですね。
そして、この神社オリジナルの祠と言うか供養碑と言うか…
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❝歯❞の供養らしいです。
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何だか、歯の供養って珍しいですけど、ある意味日本らしい場所ですよね。
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こちらは何の神様か説明が無く、よく解りませんでしたが、摂社としては立派なので、もしかしたら主祭神の御祭神の境内社なのかも知れませんが、不明です。

まぁ~立派は境内の広さが有るのは伝わったでしょうか?
そして、日本武尊の御幸された聖地である事からも強い御利益が期待出来る事が御理解頂けたと思います。
因みに、アメリカ最初の宇宙飛行士のジョン・グレンさんは、この寒田神社で安全祈願をして無事帰還出来た事から更に御礼参りまでされたそうです。
海外遠征の事績の有る日本武尊所縁(ゆかり)の神社らしい御利益ですね!

さて、この寒田神社の先に紹介した御祭神の日本武尊ですが…
その寒田神社の土地に御幸した日本武尊の遺物で神器の木椀の神話を元に南関東周辺の延喜式内社の伝承や御祭神、弥生時代~古墳時代の地形を前提にして日本武尊の正体を解説する事で、日本神話と考古学の整合性を解説してみる。
小生の推測では日本武尊が立ち寄られた理由は、既に当時、この地に村が存在したのだと思います。この寒田神社は、古代佐武多神社とも書いたそうです。
恐らく、武塔天神(むとうてんじん)=牛頭天皇=素戔嗚尊(すさのおのみこと)、若(も)しくは、その御神孫の関与が有ったのだと思います。
武塔(むとう)は古い発音では武塔(むた)と読んだはずだからです。
以前も何回か書いた事が有るのですが、現在の漢字の音読みも実は中国由来より朝鮮渡来人のせいで訛(なま)ってしまっている字の発音が少なくないんです。
塔は華語の発音で塔(ta)と発音します。こちらの方が古代語の漢字の発音に近いはずです。
何故、武塔天神=素戔嗚尊の御神孫の集落が、日本武尊の時代に既に有ったと考えるかと言うと、先に触れましたが関東の延喜式内社には素戔嗚尊の御神孫が関東を開拓したと伝承を伝える場所が少なくないからです。
違う神社を紹介すると…
2015-12-19-15-03-12
関東最古の大社で、日本武尊御自身が最初に造営された埼玉県久喜市の鷲宮神社は出雲神族の御神孫の部族が土地を開拓し、日本武尊がお立ち寄りに成られ社殿を造営した歴史が有ります。
恐らく、寒田神社より少し古い神社です。
そして神奈川県の前身である佐賀牟国の初代国主は出雲神族建御名方神の6代後裔と伝承して、おり更に…
2014-07-27-19-06-56
寒田神社と同じ延喜式神名帳に掲載されている大山阿夫利神社も主祭神が出雲神族の大山祇大神と、大雷神、御当地の水神様の高神(たかおかみ)様が祀(まつ)られています。
雷神は出雲神族に習合されたシヴァ神=伊舎那天(いざなてん)=第六天魔王=大黒天=大国主命と同一視されています。
更に大山阿夫利神社の麓、同じ延喜式内社の比々多神社も…
2015-01-10-13-39-45
出雲神族で素戔嗚尊の御神孫である豊国主命(とよくにぬしのみこと)=大国主命が御祭神です。
大和市の延喜式内社の深見神社は土地の水神様の闇神(くらおかみ)が主祭神です。
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名前からして、大山の高神様と同じ系統の水神様でしょう。ただ大山は高い山の中腹に湧水地があり、そこが古代聖地だった事、深見神社の場合は深水(ふかみ)=川の淵(ふち)が聖地だったので底の深いイメージから闇神の名に成ったんでしょうね。
では淵辺が聖地に成り得るのかと言うと、立派に古代人の自然信仰にとっては聖地だったんですよ。
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東京都羽村市には雨乞街道が現存していて、古代からの神事で木製の竜頭を淵に沈めて神事を行ったそうです。つまり古代人にとって水神様は龍神であり泉そのものの象徴だったようですね。大山の高神も竜神とされています。
例外的に、海老名市と相模原市の延喜式内社の有鹿神社(あるかじんじゃ)の場合は、男と女神様に成っていて…
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相模原市の奥宮は縄文時代の遺跡群の中にあり、聖地の谷間が自然湧水地に成っています。
つまり神話の時代に当たる縄文~弥生時代~古墳時代の人々にとって、如何(いかに)に御腹を壊さない清涼な飲み水の確保が大切で、その水を与えて下さる自然を神様として大切にしていたかが解る場所なのですが、ここの神様は❝有鹿姫(あるかひめ)❞と言う土地の女神様です。
飲み水を育む源泉のイメージが女性を連想させるのでしょうか?
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平安時代末期に源頼朝公の重臣だった海老名氏によって海老名郷の鎮守の神様として有鹿谷から現在の本宮に本社機能を移転させて支援したのが現在の有鹿神社で、こちらは有賀彦(あるかひこ)つまり男の土地神様が主祭神になられて鎮座されています。
さて、この様に古代から存続する神社は、明治時代に❝水戸学❞を元に成立した戦前までの約100年間続き現代に影響を与えた❝国家神道❞の❝伊勢系統❞の神様を尊いとする価値観とは大分違った事が解り、寒田神社の御祭神も天照大神ではなく日本武尊である事にも納得していただけたんじゃないでしょうか?
ついでに古代の海岸線を見てみましょう。
神奈川県内の延喜式内社・式外社と古代の海岸線 久良岐のよし
神奈川県内で白く表示されている部分は、神話の時代より更に古い縄文時代の海岸線です。
面白い事に、大半の延喜式内社と式外社は縄文時代の海岸線に存続していませす。これは日本の神社文化には縄文文化が継承されている証拠にも成ると思います。
例外的に前鳥神社と平塚八幡宮は相模川沿いの古代の縄文時代の海中に存在しますが、それは地震で地盤が隆起し干拓が進んだ弥生~古墳時代成立の神社だからです。
地盤が隆起し人が住める土地が増え、各式内社の神社の古代の宮司や領主の役割を担った豪族の間で土地争いが起き、国境の再編と国府設置が必要に成ったのでしょう。これが現代にも伝わる国府祭(こうのまち)と言う神様同士が相模国の一宮=国府の座を争った事を現在に伝える神事で古墳時代~飛鳥時代の出来事と推測出来ます。
そして県央部に人が住むように成った原因が地盤の隆起による海面の後退だと言う仮説を証明する事実として、その時代に大きな地震が神奈川県で発生していた事が考古学的に地層から判明しています。
大正時代の関東大震災でも三浦半島は西側と南側が50~80cm隆起し、東側は東京湾に向かって沈下しています。
気象庁から拝借 地震の仕組み 久良岐のよし
古墳時代以降も伊勢原市の大山の地下で海底のプレートがぶつかり合い、度々大地震が起きています。
鎌倉時代と室町時代の間の時期に横浜市金沢区を襲った❝応長の大津波❞は、対岸の千葉県側で津波が発生していない事から、この三浦半島の付け根に当たる金沢区側が沈下したから❝海没❞したのが❝津波❞と伝承しているのだと思います。
2015-01-07-15-26-01
その際に津波を防いだ伝承が有り、後の江戸時代、高潮の危険の有る埋立地の深川に分祀されたのが、横浜市金沢区の源頼朝公が最初は神戸の西宮神社から御分霊を勧進し造営した富岡八幡宮です。

つまり、武蔵・相模東部を合わせた古代の佐賀牟国、伊豆と相模西武を合わせた磯長国では古代から地震が起きていて、西暦400年代の大地震が起きた時にはとうとう古代相模湾多くの海岸線が隆起して新たな土地が造成され、豪族同士の領土と成る土地の占領合戦が勃発したと推測が成り立つ訳です。
この時期は❝武蔵国造の乱❞の推定発生時期とも合致します。武蔵国造の乱と伝わる事件は❝佐賀牟国造(くにつくりのみやつこ=豪族の王)の乱❞だったと考えるのが自然です。
それを仲裁したのが大和朝廷で、佐賀牟国と磯長国を武蔵・相模・伊豆に分割し調停した。
旧街道と武蔵相模国境付近 久良岐のよし
…これ、この通り結果的に大和朝廷が、この地方の国造だった笠原家の内紛に介入し接収した記録が残る群が、久良岐郡・橘樹郡・多摩郡・横見郡等で、それ等の土地を繋げると、綺麗に武蔵国・相模国の国境を分ける非武装地帯の様相を呈しているんですね。
この時代の政庁の役割を果たしていた場所は現在の神社に成っている豪族や地方の王達の宮殿でした。
ですから国土交通省関東地方整備局が作成した古代街道の簡易図を衛星写真に重ねると、古代の街道は全て延喜式内社と式外社の傍を通過します。そして郡衙も延喜式内社の傍に存在しています。
この地図上の誤差は、関東地方整備局が❝だいたい❞程度の制度でした旧街道を書いていないからで、地図上に詳細に再現すると全てが古代から存続する神社とピンポイントで重なります。
更に古代の海岸線上に延喜式内社と式外社を表示して見ましょう。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
さて、ここで皆さんに質問です。
神奈川県は何で県名が…
神(かみ)
奈(な=無い)

…なんでしょうか?
色んな説が有りますが、小生は正に、武相国境に大和朝廷が非武装地帯を設けて神(かみ)=お上(かみ)=支配者を排除した事に由来していると思っています。
丁度、この大和朝廷の直轄地として非武装地帯に成った場所が、南東~北西に延びる国境の一筋の❝川の様に❞❝神=支配者❞の❝奈=無い❞地域に成ったので、その無主の地域の海側に当たる現在の京浜急行神奈川駅辺りにも江戸時代まで地名として神奈川領と言う行政区分が地名に残り、古代の大和朝廷による相模武蔵地方の豪族の政治紛争への介入と解決の名残りが残ったのだと思っています。
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※写真は京急神奈川駅近く、青木城址の本覚寺から見た幸ヶ谷(こうがや)公園
その現在の神奈川区辺りの地域は全時代で交通の要衝だったので、そこは室町時代にも足利尊氏公が現在の幸ヶ谷公園に権現山城を築いて南朝と戦いましたし、戦国時代も北条家臣の間宮家と上田家がここに籠城し扇谷上杉連合軍を迎撃した歴史が有ります。
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そして、戦国時代の半ばにも成ると、本覚寺も取り込んだ大規模な青木城として改修され、城主には北条氏康公の名軍師として歴史好きには有名な❝多目元忠❞公が城主を務める程、重要な場所だた訳です。

そんな訳で非武装地帯が設けられ、佐賀牟国と磯長国から分割再編し新設された武蔵・相模・伊豆の3ヵ国で国府を設置する必要があり当時は地方王族や豪族の政庁の役割を果たしていた場所が神社だったので、相模国でどこが一宮(古代の国府設置以前の国府機能)に成るかで争いが起きたのが国府祭だったと解る訳です。
因(ちな)みに、小生は日本武尊は複数人いたと思っています。~建(たける)や~武尊(たける)と呼ばれる人物は、その事績から古代の大将軍に当たる官職名だったと推測出来るからです。
そして命(みこと)や尊(みこと)の字は、後に、その人物が神号を追贈され神格化されたと言う事でしょう。
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1人目は景行天皇の王子で❝倭建(やまとたける)❞の称号を初めて今の熊本当たりの部族王だった❝熊襲建(くまそたける)❞に贈号された古代大和朝廷ないし邪馬台国の王子。
その事績は走水神社に残っています。
この倭建命(やまとたけるのみこと)の御妃とされるのが弟橘姫(おとたちばなひめ)です。
その弟橘姫が東京湾に入水自殺し人柱と成った際に、海を漂って流れ着いた装飾品を埋葬して造営された古墳を古代御神体として造営されたのが、川崎市高津区の橘樹神社です。
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この橘樹神社の位置は古代の橘樹郡政庁の跡と推測されている上に、背後の宅地は実際に弟橘姫の古墳跡と伝わる大円墳の跡です。現在も円墳頭頂部の一部が現存していますが、神社の社殿の真っすぐ背後が古墳の頭頂部に向いているのは、古代、この神社が御神体の古墳の遥拝所(ようはいじょ=遠くから拝む為の施設)だったと考えて間違いないでしょう。
この時代の日本武尊が寒田神社の前身に成った集落で、現存する木製の神器に酒を注いで神事を行った人物でしょう。
神奈川県の延喜式内社の神話や、古事記で倭建命の妃として伝承する弟橘姫ですが、何故(なぜ)か渡来の百済人と思しき藤原氏が中心に成って編纂した日本書紀では❝景行天皇の妃❞に❝弟媛皇女❞として名を連ねてしまっています。
…この倭建命の子孫が藤原氏にとって非常に都合が悪い存在だったか、彼らが書かせ改竄させた日本神話に整合性を持たせる為に必要な事だったのでしょうか?
この時代は神話では西暦、考古学的には古墳時代に突入する時期の少し前ですが、歴史の誤差が数十年有ると考えると中国の三国志魏志に記された卑弥呼と卑弥呼の弟で執政官と記された人物も景行天皇と考えれば日本神話と整合性が出て来ます。
つまり日本武尊を助けた伊勢神宮の斎王で叔母だった倭姫命(やまとひめのみこと)が卑弥呼、卑弥呼を助けた実質的な執政者が景行天皇と成る訳です。景行天皇の時代に部族の叛乱が頻発したのも、三国志魏志の記録と整合性が有ります。
つまり、九州に追い詰められた卑弥呼達、倭姫命達の世代に伊勢まで征服乃至(ないし)奪還出来ていたと想像がつきます。そして、卑弥呼に盾突いた勢力の王が、出雲系の神で伊勢都彦の別名で呼ばれていた建御名方神(たけみなかたのかみ=諏訪大神)なのでしょう。そう考えれば、東海地方を支配した叛乱勢力の建御名方神の撤退した先が信濃国=長野県だった事も無理が無い訳です。
そして卑弥呼と景行天皇と日本武尊の代で一時収束した叛乱も、日本武尊を差し置いて大王(おおきみ=天皇)に就任した成務天皇の代で再び反乱が勃発し、日本武尊系の仲哀天皇と結婚した女王、神功皇后の代に成る訳ですが、これも「卑弥呼の後に男王が立王されたが混乱が収まらず、又、女王(臺与=とよ=いよ)が就任したら漸(ようや)く鎮静化した」と言う主旨の記載とも整合性が有る訳ですね。
この時代、邪馬台国の朝貢対象の目上の同盟国であった❝魏❞に対して遼東半島で❝公孫度❞や❝公孫恭❞と言った豪族が反旗を翻し朝鮮半島の鮮卑(せんぴ)と結びついて後漢から皇位を継承した魏皇帝の曹叡の領土である朝鮮半島の帯方郡のや楽浪郡の太守を殺害し魏皇帝曹叡(そうえい)に敵対していました。
当時の曹叡の軍師だった司馬懿仲達に公孫一族や、朝鮮半島の鎮圧を命じるのですが、司馬懿が朝鮮半島に出向く事は無く、司馬懿は軍を率いて公孫一族を討取るに留まりました。
では何故、魏は朝鮮半島に攻め込む必要が無かったのでしょうか?
実は、この事を日本神話が説明してくれます。
神功皇后が魏の盟友だった臺与だとすると、実は神功皇后は朝鮮半島に攻め込み新羅を討伐し、朝鮮半島の南部から魏の司馬懿仲達を助ける動きをした事が解る訳です。
この時代の倭国は魏の前身王朝の漢帝国から朝鮮南部の支配権を認められていた様で、それ故(ゆえ)、現在の朝鮮の釜山(プサン)辺りも倭人の国と認識されていた事が三国志魏志に書かれています。
ついで言うと中国では古代の日本を倭(わ=小さい)国と呼んでいましたが、それ以前は❝扶桑(FuSang=ふさん)国❞と呼ばれていた事が記録に残っています。つまり現代日本に残る扶桑の地名は古代の❝日本❞と言う意味なんですね。
この❝扶桑(ふさん)❞と❝釜山(プサン)❞発音が似ている上に、古代の邪馬台国の支配地域とも整合性がありますね…
つまり、そう言う事なんですよ、古代は朝鮮半島南部は古代中国皇帝に公認された日本の一部だった訳です。
これも素戔嗚尊(すわのおのみこと)が一時、朝鮮半島に行っていたと言う神話とも整合性が有りますね。
そんな訳で、寒田神社の所在地を訪れて神事を行った武将の日本武尊は、この時代の倭建命だと何となく解る訳です。
そして、日本武尊の大和帰還を伊吹山の神(豪族)に命じて関ケ原辺りで阻止させたであろう人物も、成務天皇と推測出来て、成務天皇の正体も大碓命(おおうすのみこと)と推測出来て、稚足彦(わかたらしひこ)命と推測出来る訳です。恐らく❝大碓命❞の❝碓❞は誤字か藤原氏による故意の改竄で、本来は❝大稚命(おおわかのみこと)❞と呼んだのではないだろうか?そうすると、大稚(おおわか)=❝大若❞となり、若(わか)=王子と成るので大
稚(おおわか)=長男と解釈出来るので、実弟に日本武尊がいて、長子の自分を差し置いて東征の功績で立太子された実弟の倭建命を尾張国で伊吹山の神(豪族)に命じて暗殺乃至帰国を阻止して成務天皇=大碓命=大稚命=稚足彦命が天皇=大王(おおきみ)を僭称(せんしょう=勝手に名乗る)したのでは無いかと推測出来る。
この成務天皇の政変が、三国志の魏志に書かれた❝男王が就任したが国が再び乱れた❞と言う部分なのだろう。
歴史と神話は御互いに補完しあう…

2人目の日本武尊は、先に説明した❝武蔵国造の乱❞を鎮圧したであろう。
しかしながら、この日本武尊=大将軍の称号を与えられた人物は、余程、藤原氏に邪魔な人物だったと見えて完全に功績が消されている。そして、日本武尊が他にも歴代いただろうが、それも消されている。
では、この武蔵国造の乱を鎮圧した人物は誰かと言うと、大地震による相模湾の隆起や武蔵国造の乱の発生時期の大王であった❝雄略天皇❞その人だろう。
何故なら、武蔵国造で雄略天皇の調停を受けて武蔵国造に就任したであろう人物の勢力地だった埼玉県行田市の稲荷山古墳から❝獲加多支鹵(わかたける)大王❞の金象嵌文字が彫られた鉄剣が出土しているからだ。
歴史では、この獲加多支鹵が雄略天皇とされている訳だが、獲加多支鹵(わかたける)の当字を先例に基づいて変換すると稚(わか)武尊(たける)大王と成る訳だ。若くて武勇に長けた大王と言う事、つまり王族であり大将軍=日本武尊と成る。
あくまで想像だが、調停を受けた地方の王=笠原(からはらの)使主(おみ=臣)が雄略天皇から、まだ当時は青銅器善政で珍しかった鉄剣を下賜され、記念に金象嵌を施した後、死後副葬品として一緒に埋葬されたのではなかろうか?
この天皇の歴史的文化的な事績は史実だけ見れば偉大なのに対して、何故か藤原氏が編纂させた日本書紀でだけ❝大悪人❞扱いをされてしまっている。
それ故に、思う。
恐らく、この雄略天皇の女系子孫、或いは素戔嗚尊の御神孫に実は蘇我氏がいるんじゃないかと。蘇我氏は藤原氏と対立して滅ぼされた家だ。まして、藤原鎌足の時代の少し前の天皇の継体天皇は、一度断絶した直系天皇家とは別系統から天皇家を相続した天皇だ。仮に小生の推測通り蘇我氏が素戔嗚尊の御神孫な上に雄略天皇の女系子孫にも当たると成れば、継体天皇系の中大兄皇子=天智天皇にとっても都合が悪く、中大兄皇子の家臣に当たる藤原氏にとっても出世の目を摘まれ非常に不味い訳だ。
素戔嗚尊と所縁の深い出雲大社の本殿の裏にある別の社には素我(そが)社が在る。蘇我氏が日本書紀の記載とは異なり本来は出雲族なのだろうと言う証明に成であろう御社だ。
ついでに言えば現在、日本書紀のせいで素戔嗚尊(すさのおのもこと)と読まされている字自体も本来は❝素我王命(そがのおうのみこと)❞だったんじゃないだろうかとすら思っている。
漢委奴国王の金印が出土した志賀島に在る志賀海神社も、昔の御祭神は五十猛(いそたける)=素戔嗚尊の御子息の神様だった。
そんな訳で、この時代の雄略天皇は藤原氏にとって非常に都合の悪い天皇だった訳だが、恐らく日本武尊の官職名を与えられたであろう日本の大王に成った大将軍王子だったはずですが、この人物は寒田神社の土地に滞在した日本武尊とは別人でしょう。寒田神社の木椀は弥生時代の物であるのだから、寒田神社に関与したのは弥生時代の倭姫命(卑弥呼)の甥っ子の日本武尊でしょう。
古墳時代も終りの頃の神様に成った人物では無いはずです。
そして古墳時代に東征を行って相模武蔵の国境確定を実施したのは雄略天皇で久良岐郡、橘樹郡、多摩郡を無主の非武装地帯にした人物だったかも知れんせんね。
この雄略天皇との縁起が多く残るのが西湘地域の延喜式内社と式外社です。この事は、縄文時代にはまだ県央地域が海だった事実、そして古墳時代には陸地に成っていて人が住みだした考古学的な歴史事実とも整合します。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
ですから、雄略天皇との関係が最初の神社の縁起に成っている神社と中原街道は、古墳時代頃に人が住みだした県央沿岸地域を通過します。
そして、縄文~弥生時代からの遺跡を抱える 神社の傍には大山街道(矢倉沢往還)が通っており、その先は平安時代までの東海道だった足柄道へと繋がっています。足柄道は平安時代の富士山の火山活動によって一時期、御殿場を通る足柄峠が通行不能に成った事で廃れた道です。つまり、古い時代の主要街道だった訳です。

この様に、考古学や地理を先に見てから神社の伝承で関わったとされる人物の生きた時代、遺物と出土品の年代を見ると意外に神話と歴史事実は密接に関係が有る事が解ります。
その代表例の一つが寒田神社や比々多神社や有鹿神社や橘樹神社や走水神社な訳です。

きっと、皆さんの家の御近所の小さな神社仏閣、普通にお墓参りに行っている御寺サン、御守りを買っている神社さんも、寒田神社の様に意外な歴史偉人との関りが有る場所が絶対に有るはずです。
…皆さん、たまには神社仏閣や歴史遺跡を御散歩して、郷土の歴史博物館も見に行ってみると面白いですよ!
では、又!次の解説記事で! 

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先週末土曜日、学生時代の仲間との三浦半島弾丸日帰り小旅行。

友人を本牧の自宅に迎えに行き、三崎漁港に移動…
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個人的には1ヶ月間で3回目の訪問(笑)。
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三浦半島に来ると気分が晴れやかに成る。そして海風と日差しが気持ち良い。
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漁船やヨットが行き交う様も見ていて丘とは違う解放感を感じさせてくれる。
❝うらり❞と言う観光漁港の中に、小生オススメのB級グルメの屋台が有る。
鮪の串カツと鮪のコロッケだ。
その二つにサザエの壷焼を注文し、ブランチ?代わりの軽食ですきっ腹を大人しくさせた。
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写真をとっていないが、❝うらり❞の2Fはテーブル席が並んでいて、1Fで購入した特産品を食べる事も出来る。
何故外で潮風に当たりながら食べないかと言うと神奈川の三浦半島以東の海辺は非常に鳶(とんび)が多くて、折角購入した食べ物を盗られてしまうからだ。
腹を満たすと油壺に移動し新井城址の下の荒井浜を散策…
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…油壷マリンパークへ行く途中の、この道がクビレた部分は❝内の引橋❞と呼ばれる新井城址の遺構で、荒井浜の半島への敵の侵入を防ぐ❝堀切❞状の空堀の跡で、現在埋め戻されているが戦国時代当時は空堀に木製の橋が架かっていて、その橋は戦時に収納出来てしまう様に成っていた。その様な城址の橋を❝引橋❞と呼ぶ。
小生達はマリンパーク側に廻らず、新井城址の土塁残存部分側から荒井浜を目指した。
そちら側の風景は❝神奈川の景勝50選❞の一つにも選ばれている。
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この遊歩道を荒井浜目指して歩くと右手にある土と雑木林の傾斜が新井城の土塁の跡で、遊歩道敷設で削られたものの、上に登ると内側より少し高い土塁で有る事が確認出来る…
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解りずらいかな?写真の左手が土塁の海側、右手が半島陸側。
下の写真は空堀の跡。
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私有地とも市の地所とも判断がつかない境界にあるので登ってみるかどうかは個人の判断に任せます。
ここを過ぎて階段を降りると、普段は人の居ない(笑)荒井浜に夏のバカンスに来た若者や家族連れが溢れ、この時期ばかりは賑やかさに溢れている。
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小生達は、水着ギャルを❝後目(しりめ)❞に(笑)、更にこの荒井浜を通り過ぎて奥の険しい岩礁地帯へ行く。
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実は、その奥に遭難した漁師を助けた御利益の有る弁天様を祀(まつ)る洞窟がある。
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ここは中々皆見つけられない危険な場所に在る、だからこそ地元の人も大切にしている。
明治時代の小説、❝桜の御所❞に登場する小桜姫のモデル、三浦義意公の側室の真里谷武田家の姫様所縁の場所を事実誤認している人も多いが、ここは小説の小桜姫とは全く関係ない。
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しかしながら漂流した漁民を生還させたり、多くの参拝者が御縁を結んで頂けたのは事実なので、きっと新井城主だった三浦荒次郎義意公と小桜姫のモデルに成った真里谷家の姫様の御夫婦の御霊が、弁財天様を介して良縁をとりもって下さるのかも知れないね。

弁才天洞窟で小生も良縁を祈願。
これも今月2回目(笑)。
荒井浜でBBQを楽しそうにやってる水着ギャルや家族連れの前をすり抜け、海の家に立ち寄る事無く、小生達は本日のメインイベント❝ネイビーバーガー❞を食べに横須賀ドブ板通りへ移動…。
…「くそ!俺も奥さん見つけたら奥さんに水着着てもらってイチャイチャしてやる!」と思いながら(笑)。

夕食の時間が近づいて来たので、横須賀ドブ板通りを目指し車で再び移動…
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…ドブ板通りの異国情緒は神奈川県内なのに少しウキウキする。
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前回の横須賀宿泊旅行で見つけたネイビーバーガーの老舗、SURF TAKOに夕食の場所を決定。
実は、この日のメインイベントはこれだった!DSC_0019
この友人は通関士で小生とは貿易を一緒に学んだ仲間なのだが、彼とは一年に数度は会う。
小生は休日は略(ほぼ)予定がギッシリ埋まっていて、必ずと言って良い程家に居る事が無く1日に8ヵ所位の訪問地を事前に廻る準備をして訪問先でいつも最低5時間以上は歩き回っている。長いと8時間以上、運転時間を合わせると大体12時間は出掛けっぱなし。
そうで無い時は、鶴岡文庫か図書館か博物館の資料を漁って歴史関連資料をむさぼり読んでいる事が多い生活をもう3年近く送っている。もちろん、趣味の範疇。
なので、友人と遊ぶ事も少ないが、コイツとはたまに会う。
友人はチリビーンズバーガーを…
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…小生は照り焼きをチョイス。
やっぱウンマ〜(*´∀`)至福♪
この店のハンバーガーを食べたら、他所の店より遥かに美味くて衝撃を受ける。
そしてファーストフード店のハンバーガーが文字通りジャンクに感じてしまうかも知れない。

食べ終わって少し散歩しようとしたが、当日は丁度、横須賀花火大会でしかも開催時間目前…
客も町に多くてゴミゴミしていたので、我々は横浜側の横須賀港一望出きるシークレットスポットに移動。

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横浜市の横須賀港を一望出きる場所に移動。
ここからは横須賀港だけで無く八景島、伊藤博文公が大日本帝国憲法草案を纏(まと)めた場所である野島、夏島の夜景も全て一望出来る。絶景だ。
ヒントに上の写真を掲載する。興味の有る人は自分の足で歩いて探すと良い。
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三日月が綺麗だ。
散歩は郷土史に通じる。
さて、絶景で花火を楽しむつもりが…
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回りに客いない場所なので男二人で盛り上がらず数発見ると二人で・・・
「よし見たな、夏らしいことしたな。」
「そだな。みたな。」
「腹も満足だし充実したな。」
「帰るか。」
・・・終了(笑)。
友人を送り、まぁまぁ、充実した弾丸ツアーだった。

追記
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三浦から横須賀へ行く時に、行きつけの農家、石井農園の直売所のザ作兵衛で先月に引き続き又、小玉西瓜を買ったが当たり!
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三つ千円で凄く甘かった。
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石井農園の皆さん、おまけの茄子も美味しかったです。
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ありがとうございました!

ふむ、慌ただしく移動をした1日だったが振り返っても良い休日を過ごせたな。
今年の三浦の西瓜は当たり年、行くなら是非購入をお勧めする。

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前回の記事が7月30日の休日雑記なので前後してしまうけれど、7月16日の休日雑記も兼ねた❝三崎漁港❞の❝海南神社❞の例大祭を紹介したい。

2016年07月11日が尊敬する三浦義意公の太陽暦での命日だったので連休を取り菩提寺への御参りと御廟所への献花をするがてら横須賀~観音崎~三崎~城ケ島~油壷~諸磯~三浦海岸を旅行した。
…横浜に住んでいるので車で45分程度の距離、本来は宿泊する必要も無いのだけれども三浦半島をたまにはユックリ旅して見ようと思った訳だ。
その時に、宿泊先の給仕係のオバちゃんと三崎城址のローカル知識を御教授下さった三浦市の教育委員会の方に、「週末16日に行われる海南神社の例大祭がとっても賑やかだから是非、見学に来られては如何か?」と観光の御推薦を受けていたので「是非にも!」と約束をした事を守る為にも、美味しい物を食べる為にも御祭りを見学する事にした。
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真ん中で鉾(ほこ)を持ち、天狗面で左右に部下を従えて立っているのが猿田彦(さるたひこ)を演じる氏子サン。
猿田彦は天照大神系の武御雷(たけみかずち)神等、敵方の軍勢を先導し出雲神族の神域への侵攻させた❝出雲系の神様❞で神楽等を司(つかさど)っていた。
だから祭りの先頭にたっているんだろう…

この日の祭りは12時から海南神社で神事がスタートすると三浦市役所の方に聞いていたので家を10時に出て、御寺で写経をして11時に横浜を出発したのだが、生憎(あいにく)と夏季の三浦半島の観光地はどこも繁忙期で高速道路も一般道路も全て渋滞…
三崎漁港の海南神社に到着したのは12時半頃だったが、まだ海南神社の境内では神輿の担ぎ手が気勢を発し大声を上げて町内の人々や観光客で盛り上がっていた。
どうやら三崎町の町内各地区に何基も神輿や山車が有るらしく、地区毎に順番に海南神社で出発の儀式をやるらしい…
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だから商店街にも待機している山車が沢山いたんだね…
先に出発した神輿も見かけたので「もう神社の御祭りは終わったのか?」と勘違い。
だってね…
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お好み焼きの屋台も、❝ちんちん❞焼き(笑)の屋台も観光客が全くいない!
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海南神社に向かう途中は焦って小走りに成ってしまった。
因(ちな)みに❝ちんちん焼き❞なんてハマっ子の小生も三崎町でしか見た事が無い(笑)。
なんか卑猥(笑)な名前だが、オノマトペで「ちんちんに熱い」とか言う熱さを表現する言葉が恐らく名の由来だろう。
しかし、そんな懸念は何のその、到着した海南神社は参道は人出溢れかえり、寧ろなかなか境内に入れない程だった。
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ものすっごい活気!
新興住宅地だれけの横浜市内では廃れてしまった昔ながらの御祭りの活気!
そして漁師町=三浦水軍=北条水軍の町だけあって、参加者の町民がワイルドな人が多い(笑)。
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担ぎ手たちが神輿を持ち上げ激しくゆする度に観客達から「オオぉ~っ‼」と言うどよめきと歓声と拍手が巻き起こる。
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海南神社は狭くはない境内、寧ろ中の上位の敷地が有る。この時は境内に神輿が3基残っていて氏子と参拝客と観光客でゴッチャゴチャ(笑)で狭く感じる程だった。
しかしながら、この様な活気有る御祭りは横浜に現存しないので非常に羨ましい。
実は❝ちんちん焼き(笑)❞の強烈な名前を見て思い出したのだが、多分、小生は過去に数回、この海南神社の例大祭を偶然見ていた。
この神社を支援した鎌倉時代の水軍大将で三浦家当主の三浦義澄公に引き寄せて頂いたんだなぁ~としみじみと思う。
病気で辛かった時期に、本当に三浦半島の海に癒されて回復する事が出来たのも御縁なのだろう。まぁ、当時の彼女さんの存在も有ったのだけれど、三浦家の殿様達にも、昔の彼女にも、三浦の風景にも、三浦の海にも、親切な三浦の人々に感謝しかない。
さて、海南神社はこの例大祭の外にも源頼朝公由来の❝チャッキラコ❞と言う神事が有る。2014-01-15-13-52-26
ユネスコに❝世界無形文化遺産❞に指定されている、町の御祭りだ。
※チャッキラコを紹介した以前の記事は「ココ」←クリック!
頼朝公の宿泊する各季節ごとの異なる別荘が三崎町内にいくつか在ったので、この様な頼朝公所縁(ゆかり)の祭りが伝承しているのだ。
因みに、三崎漁港だけでも❝桜の御所❞と❝椿の御所❞が嘗(かつ)て存在した。頼朝公もこの地の風景と人と食事が好きだったのだろう。同地は源頼家公や源実朝公も滞在されたそうだ。
現在では鮪の水揚げが海外勢に押され気味で江戸時代~昭和初期の活気は無いが、平安時代末期~戦国時代の鎌倉文化と水軍の町の色が現在も多く残る土地でもある訳だ。
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町の中にも幾つも山車や神輿が繰り出すので、次第に普段は過疎に成りつつある三崎漁港が全盛期の活気を取り戻していく…
その様にも感慨深いものが有る。

海南神社の夏季例大祭の賑やかさは伝わったと思う。

ここからを休日雑記代わりの07月16日の日記部分としよう。
御神輿に随伴しながら賑やかな御祭りをひとしきり見て満足したら、大好きな三崎漁港の商店街をプラプラ散歩、つい4日前にも、この三崎に宿泊した直後だけど飽きない。三崎漁港は良い…
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昭和の雰囲気を残す建物が多く有る。写真館とか蔵屋敷とか…
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駄菓子屋さんとか…
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玩具店も…
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懐かしい昭和のオモチャ屋さんぽい感じ。
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この町で育ったら、根性ねじ曲がった人間には成らなそうだ。何だか町全体で子育てしてるような人々の繋がりを感じる。
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三崎町は映画ドラマの撮影にも協力していてNPO法人❝三浦映画舎❞なんて団体がいて、休日だと上の写真の展示館で撮影された作品の撮影中の写真や芸能人のサイン等が展示されている。
仰げば尊し
現在放送中のドラマ❝仰げば尊し❞の撮影にも関与している様で、三浦半島の風景がドラマ中に多く登場する。
その事は最近、ブログで紹介したので御興味有れば見て貰うと、ロケ地が書いて有る。
】←ココをクリックで記事にリンク!

一しきり散歩して御腹が空いて来た所で、昼食をとる事にした。
昼食は城ヶ島でとると決めていた。
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前回、城ヶ島を散歩した際に気に成っていた上の写真、旅館の港屋さんが提供しているヤドカリの味噌汁。
これを食べて見たくて車に乗り移動…
港屋に行く前に北原白秋の歌碑と、記念館を見に行った。
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余り知られていないのだが城ヶ島にも砂浜が有って、そこに白秋記念館も在る。
行くには上の写真の石碑の建つ遊歩道を歩いて行くと良い。
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そこを抜けると城ヶ島大橋の橋脚の下の砂浜に出る。
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北原白秋は東京で隣家の奥方と不倫の後、その奥方の離婚成立を待って略奪愛の末に結ばれて、世間の批判から逃れる様に静かな三浦半島の最南端の三崎に新居を構えたそうだ。
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白秋記念館の職員の方に教えて頂いたのだが…
その時に作詞した歌❝城ヶ島の雨❞の歌詞の舞台がこの島なのだが、当時、姦通罪に問われたり父弟が商売に失敗したり暗い時期の作品なので歌詞も暗い描写に成ったそうだ。
…因(ちな)みに、その不倫の末、結婚した女性は松下俊子さんと言うのだが、1910~1914年の僅(わず)かな期間で結婚生活は終了したそうだ。

北原白秋関連の場所の見学を終えて、港屋に移動。
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港屋は眼前に磯が広がる。露天風呂も有り、親子連れが宿泊すれば良い夏休みを過ごせるだろう。上の写真は港屋の庭からの眺望。
しかし小生の目的はヤドカリ…
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でこれが、シラス丼とヤドカリ。
食べてみたら出汁が美味しかったが、ヤドカリはグロテスク過ぎて箸を付けれなかった(笑)。
シラス丼はただシラスを載せただけでなく、御飯に紫蘇の香りがして、とても美味しかった。
周りの客層は熟年夫婦~若いカップル、友達同士と見える連れ等、幅広い年齢層の御客さんで賑わっていた。
前回、この旅館に興味を持った時は平日の昼間に散歩に来たので余り活気は無かったが、この日は土曜日だったので非常に多くの観光客で賑わっていた。
どうも京浜急行電鉄と城ケ島・三崎町がタイアップしているらしく、その観光客が多いようだ。
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だからかは不明だが、多くの芸能人も宿泊しているようだ。
まぁ~これだけ眺望の良い旅館で新鮮な地魚料理を食べれるなら人気あるのも納得。
…いつか泊まりに来よう。

さて…
城ヶ島散歩と腹ごしらえも済み、小網代地区は移動する事にした。
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城ヶ島からは車で20分位だろうか?
小網代には戦国時代最後の三浦家当主である三浦道寸公が開基した海蔵寺と言う御寺が在るのだが、前回の訪問時が丁度、新井城落城から500年、三浦道寸公と三浦義意公の500回忌に当たり、御住職に納経を依頼されていたので約束を果たしに写経した般若心経を持参した次第だ。
小生の遠い遠い祖先は古事記にも登場する、国造で、嫡流の御子孫は大宮司家だったりするのだが、小生は延喜式神名張を編纂させ古代の信仰と文化を守ろうとなされた醍醐天皇の時代の価値観を大切にしているので宗教観的には平安時代の人々や鎌倉武士達と同じ神仏両方とも等しく大切に思っているので、神社も御寺も大好きだったりする。
それとは別に文化的な物が大好きなのでキリスト教の教会の荘厳さも又別格に好きだったりイスラム教のモスクも素敵だと思うし、キリスト教の慈愛の精神とイスラム教の友愛と互助の精神も大好きだったりする。
寧(むし)ろ無宗教の連中が嫌い…
宗教を下に見て先人への敬意も払わず文化と史跡を破壊して回るマルクス主義者とかね。
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海蔵寺は一般参拝不可、飛地の境内地の三浦道寸公・義意公の御廟所への立ち入りも一般は不可なのだが、小生は御住職に三浦家や先人に対するリスペクトと宗教的にも神仏を大切にしている事を認知して頂けたので、御寺への参詣と御廟所への参拝の自由の御許可を頂いている。
今回、尊敬する三浦家最後の殿様の御二人500周年に納経の機会を与えて頂いた事は非常に光栄だった。
どうやら、小生の納経した写経は他に依頼した32人の方の分と共に、経塚に入れられ名前が塚に残るそうだ。
これで殿様が三浦の民に愛された歴史が後世に伝わって行けば良いなぁ~と願いを込めて奉納した。
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小生は佐原三浦家と最期に敵対した北条家の善政も尊敬し、北条早雲公・北条氏綱公・北条氏康公と玉縄北条家の北条綱成公もリスペクトしている。そして北条家と対立した扇谷上杉家の中で最後の鎌倉公方に忠義を尽くした武士の鑑とも言える上杉氏定公、扇谷上杉家の家臣で北条早雲公と三浦道寸公の両方とも盟友だった名軍師の太田道灌公も尊敬している。
なので、写経の為書は三浦家の殿様の供養祈願と共に関わった方々の供養祈願ともさせて頂いた。
この様な敵味方問わずリスペクトするのが本来の神道の寛容な価値観でもあり、柔和で静かな哲学を基本とする仏教との親和性でもある訳だが、それこそ日本人の習俗の源だと思っている。
…良く遊び、最後に尊敬する方々へ日本の発展の一端を担って下さった事に対する感謝も感じた有意義な一日に成った。

帰路は横浜横須賀自動車道で帰るのだが、三浦縦貫道路を通らず、一般道から横横に移動した。
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目的は行きつけの農家、石井農園の直売所❝ザ・作兵衛❞に作兵衛ブランドの西瓜を買いに行く為(ため)だ。
ここの西瓜は独自の❝作兵衛ブランド❞で売っているのだが、本当に美味しい!
ここで夏は西瓜や瓜、秋~冬は大根や蜜柑、初春にキャベツを買いに来る様に成って、もう10年位に成ると思う。
毎年何回も買いに来る。近所に横浜南部市場や小柴ファームと言う産直の販売所が有っても、作兵衛には絶対に季節の果実と野菜を買いに来る。この石井農園が好きなんだな~。
今年は看板娘の御婆ちゃんは骨折して治療中、残念ながら会えなかった。無事に治ります様に…
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今年は家族様に普通のサイズを1つと、自分用(笑)に小玉西瓜を購入。
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中にスが入ってるから安くすると言われた通り割れていたがギッシリ実がつまっていて、しかも今年は特に良く出来ていて甘い!
てな訳で、八月中に又買いに行く事にした。
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三浦からの帰路、最早、恒例に成っている横須賀PAに立ち寄りって買い食い。
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湘南ゴールドと言う湘南地方で生産されているグレープフルーツのフレーバーのアイス。
悪くなかった。てか、なかなか美味しい。

ふむ、歩いて知識詰め込んで感謝して充実した良い休日を過ごせた。



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今朝~夕方まで散歩してた場所…


【しじま】
朝焼けのベイサイドマリーナ
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ポケモンGOやってるカップルが仲良しさんで微笑ましかった。
【朝方】...
柴漁港と名物の小柴の穴子天丼
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最近、忙しくて来れてなかった。癒しの郷土料理。
【正午】
金沢文庫博物館
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涼しい所で歴史を御勉強。

【昼下がり】
称名寺と境内地の稲荷山(金沢城址)
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参道の並木の木陰と心地良い風は天然のクーラー…
コンクリートジャングルにも緑を増やせば良いのに。
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称名寺は安らぎの場…
そしてポケスットップが大量、レアポケモンも沢山出たなこれ…
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称名寺の境内の稲荷山の眺望は…
多くの❝島だった❞地形に、埋め立てられた宅地を脳内で削除し海に書き換えなくても十分綺麗。
でも横浜市が愚かな埋め立てを行わなければ金沢八景と呼ばれた景勝地は更に美しかっただろう。
御老人夫婦が仲良く御弁当を広げていた。
もし結婚する事が有れば、この御夫婦を御手本にしたい。

【暮れ】
氷取沢市民の森と大谷戸広場付近の笹下川(大岡川本流)の源流と氷取沢神社(旧間宮綱信邸宅から現在地へ移転)
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ココか円海山の頂上か瀬上池で鳥のさえずりを聞くのが癒し。
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源流。泥岩と関東ローム層の山を削り流れる笹下川源流は沢と言うより沼なんだな。
これは鎌倉も同じ。
本来なら三浦半島の様に、沢蟹だけでなく陸生の蟹も沢山生きていた円海山の沢。
人が生物を消してしまった。
一見綺麗な大谷戸広場の沢も、下流の笹下川の分水路の建設で魚の遡上も無く成り魚類は絶滅してしまった。
反対側の瀬上池と瀬上沢も林文子市長が東急グル―プと結託し開発し同じ様に天然の蛍やフナを絶滅させようとしている…。
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氷取沢神社は間宮家と関係が有る…
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元々は背後のマンション団地の位置に在ったが、立ち退かされ現在の位置に遷座させられた。
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氷取沢神社の旧社地が、北条家の外交官として織田信長公にも面会し、日本100名城の一つ八王子城を設計し北条氏照公の付家老を務めた間宮綱信公の屋敷跡だった…
場所を移転してしまっては、神社を建てて氷取沢間宮家家老の岡本家が殿様の旧跡を守って来た意味が無い。
…しかしながら、ここに来れば間宮綱信公や御子孫の間宮士信公に御挨拶が出来る。
【黄昏】
円海山の森林越しの鎌倉遠景
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横浜最期の自然大森林…
まだ空が黄色に成り始めた時間、青い空が残っていた。緑が美しく、ここも鳥のさえずりが癒してくれる。

【宵~夜へ】
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ポケモンGO御散歩の成果…
どうやら円海山周辺は山と川と池が多い関係で、色んなレアポケモンが出るらしい。
オッサンがポケモンやりながら御朱印も集めて歴史資料も収集して…脂肪も収集。
脂肪はもう要らない。
まぁ、歩いて山登ってして、汗かいて天丼はチャラかな。

ふむ。
普通、でも休日らしい休日。良かった。
信奉する神仏と、尊敬する歴史偉人と日本の発展に寄与して下さった近代の横浜の外国人の皆さんに小生と多くの日本文化を愛する民と善良な世界の人々を今日も1日御加護頂いた事を感謝。

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小生は良く、神社仏閣や歴史偉人の御廟所、歴史史跡や近代史跡、景勝地を散歩し美味しい物を食べ歩いています。

最近、そんな日本文化や歴史史跡の保護コンテンツとして非常に素晴らしいゲームを見つけました。
ポケモンGOです!
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実はこのゲーム、神社仏閣や史跡、注目されにくい石仏や小さな神様の祠(ほこら)が❝ポケストップ❞と言うゲーム内の❝補給所❞の様な場所に設定されています。
又、その周りでは沢山のキャラクターを採集出来る場合が多いゲーム設定にも成っています。
つまり、今まで歴史や宗教文化や日本の伝統に興味の無かった層に、歴史史跡や神仏やキリスト教の文化を再認識させるコンテンツとしても文化保護の役割が期待出来る訳です。
例えば、小生は横浜市に住んでいますが、近所がポケストップに成っています。
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ポケストップは、上の画面の様にゲーム内でチェックポイントの様な設定に成っていて、GPS追跡で衛星のデータと実際の地図に重ねたゲーム画像がリンクしていて、ユーザーに❝ポケストップ❞に到着した事を携帯電話のバイブ機能で知らせてくれます。
つまり左翼系報道局のネガティブキャンペーンで常に携帯画面を見ながら周りに追突する危険が有るゲームの様なデマが流布されていますが、実際は歩きながら常に携帯を見るゲームではありません
ポケストップに到着して、そこをクリックすると、その史跡の説明が画像付きで表示されます。
下が小生の近所のポケストップです。
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この昇竜橋は現代の自動車道路と歩道とは違う、河岸段丘の一段下の廃道にかかっている目立たない❝重要文化財❞だったのですポケモンGOによる紹介で若者を含め広く市民にも、その存在を再認識させる事に成功した先人が我々に残した遺産で、ポケモンGOの有益性を代表する事例の一つだと思います。
では、この昇竜橋が現代どれくらい粗末に扱われているか目立たない場所に存在しているかを衛星写真で見てみましょう…
八軒谷戸 昇竜橋付近
ね。
…この通り、河岸段丘面の下に存在し、現代の道路は段丘面の上に築かれたので普段は全く気が付かない場所に在(あ)ります。しかしながら、その道こそが鎌倉武士達が朝比奈峠を抜けて鎌倉へ馳せ参じた鎌倉古道の史跡の一つでもある訳です。

小生は鎌倉の某八幡宮の資料館や図書館に良く行く用事が有ったり普段から史跡巡りが趣味なので、放っておいてもポケモンに遭遇する機会が多いようです(笑)。

さて、この様に文化と史跡保護として威力を発揮する事が面白く無い人達がいます…
日本文化と宗教文化を破壊したい共産主義者とマルクス主義者です。
…当然、それらの人が多い左翼系議員と左翼系報道局はネガティブキャンペーンを行います。

一番顕著にネガティブキャンペーンを行っているのは従軍慰安婦問題を捏造したり、報道の中立とは程遠い常に左翼視点の記事を報道し続ける朝日新聞社系列の媒体です。
【ポケモンGO熱中、クマに気づかず接近も 交通事故多発:朝日デジタル】
コンナ↑記事ばっか最初から書いていますね(笑)。
皆さんも、ネガティブな記事とポジティブな記事を見かけたら発信元を調べて見て下さい。そして経済と社会の別記事も一読して見て下さい。そうすると、大体の傾向がコンナ感じで分かれます…
ポケモンGOに肯定的な報道局→保守系
ポケモンGOに否定的な報道曲→朝日新聞系・毎日新聞系・左翼系報道局
全体を俯瞰して見ると、それぞれの意図が感じられて面白いですね(笑)。

さて…
そこで小生なりに意見が有ります。
実際に運転しながらポケモンGOをやって事故を起こすバカや、私有地に不法侵入するクズ、神社仏閣の社殿や御堂がゲームでポケスポットに設定されていて参拝客を邪魔してまでゲームに興じる低モラルユーザーがいるのは問題です。しかし、これはゲーム設定を変更する事で完全に解決出来る問題だと思っています。
なので、以下に小生の考えを纏めてみます…

【朝日系と毎日系、左翼思想者によるポケモンGOのネガティブキャンペーンが多い理由】
コノ手のネガティブキャンペーン、最初に始めたのは共産・民主系と結託している朝日系列と毎日系列の報道機関だった。
左翼がポケモンGOに対してネガティブキャンペーンを繰り広げる4つの理由
1、ポケストップの多くは今まで注目されなかった史跡や神仏の祠(ほこら)、キリスト教系教会等宗教施設や歴史史跡を紹介している。
→これは左翼共産主義マルクス主義者達の反宗教思想には大変に邪魔な存在でしかない。

2、横浜市長の林文子や民進党議員達のような在〇某半島人労働者の多い鉄道会社と建設会社の左翼系労組が支持母体として関係の有る共産系・民主系の議員は、宗教文化を世界に再認識させかねないポケモンGOは文化保護コンテンツ的な要素が有り、開発の邪魔
なので当然、左翼系政治思想者の発言や朝日や毎日の報道は否定的意見が多く、それにより流行を衰退させようとネガティブなプロパガンダ報道が多い。...

3、ポケモンGO運営は自民党押しだから。自民党本部がポケスポットに成っていて「永遠の与党」と説明表示されるのに噛みついたのは民進党だったのは記憶に新しい。
つまりポケモンGOを左翼団体は敵視していて、右翼の保守意識を扇動しポケモン潰しをしようとしている。バカな右翼系保守層も扇動に乗ってしまっている。

4、アベノミクスを後押ししそうな日経平均株価を押し上げる要素は全て潰したいから。



【ポケモンGOの長所】
1、文化・史跡保護コンテンツとして有効
個人的な意見だが、多くの土建屋が調査もせず撤去しようとする多くの史跡や神仏の祠が、このコンテンツで再
認識されるのは日本文化を愛する保守派としては非常に有り難い。

2、反共産主義・抗反日文化勢力コンテンツとして有効。
史跡や神社仏閣を破壊し、石仏や小さい御社を排除して日本文化を破壊しながら宅地開発を行いたい左翼系議員とマッチポンプの建設会社に対して、国民レベルでの日本文化と史跡と神仏宗教の再認識による対抗手段に成り、将来、左翼の史跡乱開発を阻止出来る可能性が上がる。

3、文化保護と同時に、ニートに社会復帰の機会を与える。
家に閉じこもってるニートを外の世界に引っ張り出すリハビリコンテンツとして非常に効力を発揮している。
又、ポケスポットでの史跡紹介が有り、世間に文化歴史史跡を再認識させる効力を発揮している。

【ポケモンGOの短所と対策方法の提案】
1、低モラルユーザーによる宗教施設内の理不尽なプレイ
境内を散歩しながらやる程度は本来遊び好きな日本神話の神々や、寛容な仏様も微笑んで見守って下さるだろうが、問題は社殿や拝殿の近くで参拝客を邪魔してしまう低モラルDQNが発生している事。
対策
→ポケストップを設定した場所を社殿や鳥居の前から、邪魔に成らない境内の池のほとり等に変更した上で、紹介文は神社や仏閣や史跡全体もしくは部分的な説明に改める。wikipediaとの連結にゆる参照程度で十分。

2、バイクor自動車の運転中に使用できてしまい事故を起こすDQNユーザーが少なくない。
対策
→ポケモンGOにはゲーム内にポケモンを入手する手段として孵化装置と言うシステムがあり、GPS追跡による時速測定で自動車運転等の高速移動では反応しない設定がされている。
このシステムをプレイ中の移動自体にも適応し、例えば時速10km以上で移動した場合はアプリが反応しない仕組みにしてしまえば十分すぎる程の改善に成り、運転中の使用は勿論不可能に成る。

こんな所だろうか?
左翼に扇動される右翼も如何かと思うが、実際にDQNプレイヤーが左翼による文化保護コンテンツであるポケモンGOに対するネガティブ扇動の口実を与えてしまうならば、根本的にDQNプレイヤーが発生しようのないゲームシステムに変えてしまえば良い。

以上
乱筆失礼、久良岐のよし

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藤沢市に大庭城址公園と言う大城郭の跡が半分のこされて公園化されている場所が有ります。
大庭城址周辺図 久良岐のよし
大庭城址公園

[築城年代]
平安時代末期…良文流坂東平氏鎌倉家の子孫の大庭家。
[改修年代】
不明…改修次期は二期に分かれると推測、一期は扇谷上杉家、二期は北条家による落城後の北条早雲(伊勢盛時)公、又は北条氏綱公による改修。
[現在の様子]
腰曲輪群・土塁・空堀の遺構が一部保存されている。
大半が現代の神奈川県教育委員会が保護を怠った為(ため)に破壊されるも、昭和7年頃の近代には神奈川県に保護された史跡だった為、一部残存する。現代の教育委員会の意識と知識の低さと、近代の県職員の横浜の開港や近代化と県文化財歴史史跡保護を両立させた意識の高さの差異を感じる城址の一つ。
[所在地]
藤沢市大庭5230-1
[アクセス]
藤沢駅か辻堂駅からバスで20~30分。駐車場無料。
[周辺の見所]
大庭神社(延喜式内社)。
平安時代末期の大庭城築城時、もしくは室町期の領主山名時氏によって現在の境内地へ移されたと思われる。
大庭神社旧跡(延喜式内社大庭神社の元宮と伝承)。
江戸時代には熊野社と別名で呼ばれた。延喜式内社は遊水地や半島に創建された場所が多いので、かつての湖沼地帯である船地蔵地区に近在する大庭神社旧跡が旧境内地と伝承するのは、古代の地形との整合性が高い。
稲荷山成就院宝染寺
足利尊氏公と母方の従弟に当たる山名時氏公によって開基された。江戸時代には大庭神社の別当寺だった。現在の境内地は広くは無いが歴史の有る寺院。
蟠龍山宗賢院
城の南側に位置する大寺院、寺紋が桔梗紋で山号が蟠龍山である事から小生は曹洞宗改修以前は太田道灌の太田家の関与が有った大寺院と推測。寺宝として大庭景親(平安時代末期の領主)の陣釜が伝来する事から、平安時代末期には大庭家が大旦那に成り大庭城の鎮護寺院として開基されていた可能性が高い。
尚、鎌倉時代の周辺領主は大庭景親の亡き後、大庭家の名跡を一度は譲った大庭(懐島)景義公が復帰して鶴岡八幡宮造営等に活躍されているので、大庭景義公との関わりも否定出来ないが度重なった戦火と失火により寺伝は大庭庄の北条家統治後の歴史しか伝わっていない。
【以下大庭城址の風景写真と解説】
神奈川県藤沢市の市域の大半は、かつて鎌倉郡と呼ばれた場所に属していて現在の感覚で言うと鎌倉市の一部でした。
鎌倉市以外で嘗(かつ)て鎌倉郡だった場所は藤沢だけでは無く、更には横浜市戸塚区・栄区・港南区の鎌倉街道以西の地域も含まれていて、現在、その地域を鎌倉市に返還すると鎌倉市は政令指定都市に成れる位の広大な地域が昔の郡域でした。
室町時代には、この鎌倉を支配したのが鎌倉公方(くぼう=将軍)と家老の上杉家の武将達と、平安時代から関東を開拓して来た武将達でした。
特に上杉家は❝関東管領(かんとうかんれい)❞と呼ばれた役職を代々家柄で担(にな)っていた重要な家系で、現代の感覚で言えば関東自治政府の首相を務めた家でした。
その上杉家は犬懸上杉家・山内上杉家・扇谷上杉家・宅間上杉家が主要な4家で、それぞれに関東管領職を輩出した事のある家柄でした。
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その中でも扇谷上杉家の相模国支配の拠点として機能したのが、この大庭城址や伊勢原市の糟屋館や七沢城でした。
日本の戦国時代突入の発端に成ったのが、実は神奈川県の旧鎌倉郡で有る事は義務教育では教えないので余り知られていません。
鎌倉公方足利持氏(もちうじ)公と、鎌倉公方の政治を代理で行いながら京都の将軍の家来だった関東管領上杉家の対立が戦国時代突入の原因とされています。
そして、その最初の戦いが❝上杉禅秀の乱❞です。この上杉禅秀の乱勃発時、鎌倉公方の忠臣として活躍したのが扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定(うじさだ)公です。
氏定公は鎌倉公方の武将として活躍し、犬懸(いぬかけ)上杉禅秀と対峙しますが緒戦劣勢だった鎌倉公方軍に在って傷を負ってしまった上杉氏定公は足利持氏公の鎌倉撤退に同行出来ず、❝藤沢で自決❞した事が解っています。
つまり、大庭城の城の規模や、この上杉氏定公のエピソードは戦火で失われてしまった神奈川県の戦国初期の歴史を補完してくれる材料にも成る訳ですが…
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大庭城址は、扇谷上杉家の城の中でも扇谷上杉家の初期の居城だった事が神奈川県には伝承していて、昭和7年に大庭城址を城址公園として指定した当時の神奈川県によって石碑が建てられています。
上杉氏定公の自決の逸話とも整合性が有ります。
残念ながら、大庭城址は現代の❝神奈川県教育委員会の不見識と怠慢❞により、城址公園と言う名前なのに大半が破壊され、城の北半分については完全に破壊され消滅してしまいました。
昭和初期の県知事以下職員が保護対象にしていたのにね…。
その大庭城址の規模は、後(のち)の扇谷上杉家の拠点の河越城や江戸城よりも巨大で高い丘に築かれ、伊勢原市の糟屋館や厚木市の七沢城の様に沼と大河川に囲まれて守りが堅固な巨大城郭でした。
恐らく規模では伊勢原市の三浦道寸の居城岡崎城や、北条家の小田原城に匹敵する規模と堅固さだったと推測できます。
では現在、この城は何も残ってないのかと言うと、実は空堀や腰曲輪等、部分的に現存しているので、今回、公園の風景と合わせて紹介していきたいと思います。
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大庭城址公園には無料の駐車場があります。こっち側には城としての遺構は余り残っていませんが…
ここからの登城をオススメします。
何故かと言うと後(のち)に解説しますが、こちら側の地区の近所に船地蔵と言う御地蔵様があり、そこが大庭城落城の秘密と関係が有るので、それを学ぶ為には此方(こちら)側の現代の施設に立ち寄る必要が有ります。
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駐車場の階段を登ると直(す)ぐに大庭城址公園管理事務所と言う場所が在(あ)ります。
ここは管理者が一人勤務してらっしゃるだけなので、昼食や警備の時間帯は開いていない場合が有りますが時間をズラして散策後に訪問すると中に展示されている貴重な縄張り模型等を拝観出来ます。
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こんな、嘗ての縄張りを推測出来る地形の模型の他に、小名として残る城施設名の航空写真に拠(よ)る解説や嘗ての城址全景等を学ぶ事が出来ます…
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ここの展示は御金はかかってはいませんが、藤沢市が戦国時代に突入する切っ掛けに成った舞台の地で有る歴史や、全国に先駆けて戦国時代の城塞化が行われたのが大庭城址や扇谷上杉家関連の太田道灌公達が関連した城だった事が良く学べる展示に成っています。
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この立地は本当に伊勢原市の糟屋館(扇谷上杉定正の初期の居城)や、厚木市の七沢城に、扇谷上杉家出身の三浦道寸公の居城だった伊勢原市の岡崎城の良い面だけを集めたような城ですね。
又、ここの展示は城見学入門者向けの丁寧で簡略化された優良な展示資料も掲示されていますので、是非、見学して欲しいと思います。
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こんな感じで「石垣の城なんて戦国時代初期の城じゃねぇ~よw」みたいな正しい知識を学べます。
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あと、通年で見れる花とかの資料も掲示されていますよ。
自動販売機・トイレも有るので水分補給と城址見学の敵、トイレで困る事も有りません。
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公園管理事務所側から登ると上の写真みたいな感じでハッキリ言って遺構は破壊され尽くしていますが、公園の区画自体は往時の縄張りの区画を損ねずに行われている様な気がしました。
50cm有るか無いかの段差は、戦国時代初期当時の縄張りのままの区画だと思うので衛星写真と縄張り図で見比べてみましょう…
大庭城址縄張り図 大庭城址公園管理事務所様 久良岐のよし
大庭城址公園Google衛星写真 久良岐のよし
樹木の残っている場所が縄張り図上の土塁や空堀と重なるので、やはり児童公園かされた部分も僅(わず)かな段差は当時の縄張りを変えずに作られたようですね。
さて、では城址公園内の現在の様子ですが…
駐車場や管理棟は城の現存部左上、そこから入り南側に移動するにつてれ残存遺構が多く成ります。
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最初に目に付くのが、この大庭城址残存部を南北に分断し敵の侵入を拒む最終関門だったと思われる❝堀切❞の跡ですね。
現在では風化していたり西側半分は埋められていますが、当時空堀だった事を知るには十分な地形です。
そこを進むと建築物の遺構が有ります。矢倉が組まれていたか、屋敷地だったのでしょうか?
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看板には「今後の全面的な発掘調査」なんて書いて有りますが、神奈川県教育委員会は自分達で城址の大半を土建屋がブっ壊す時に調査もさせず責務を果たさなかった癖に、何の寝言をホザいているんでしょうか?
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まぁ、それでも昭和の高度経済成長期の破壊を、現在の教育委員会の中の有志が、こうやって少しでも心意気を見せてくれるのは熱い物が有りますが。
別に宅地開発をするのは悪い事では無いんですよ、ただ、糟屋館・七沢城・大庭城・岡崎城・玉縄城・衣笠城・笹下城・蒔田城・青木城・小机城の様に特に重要だった場所、壊してはいけなかった場所が有るのに、神奈川県の史跡は外郭団体に管理丸投げしてしまい、そこが天下り先に成っていて市長や県知事の票田である土建屋と直結しているので現代では保護に後ろ向きなんですね。
いくら近代の政治家や役人サンが優秀だったから史跡が保護されて現代人に引き渡されても、左翼系や無文化な首長を有権者が選んでしまうと、自然や文化が破壊される負のモデルが大庭城の北半分の消失でも有る訳です。
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さて、掘っ建て小屋の遺構の傍には、ちょっと茂った小山みたいのがあります。
これは、城好きな人は直ぐに解る、土塁と言う戦国時代の城の土の壁です。
土の城の土塁は現在はどこも風化していますが、当時はちゃんと相撲の土俵みたいに押し固められていて高さも最低2~3mくらい通常ありました。
更に、敵が侵入してくる側には土塁の下に空堀が設けられているので、通常は最低でも堀底から5m位の高さ、角度60度くらいの防御壁として機能した訳です。
大庭城址の土塁は風化した現在で3mはあるので、当時は5mくらい有ったと思います。
空堀も最低でも2m以上の深さが有ったでしょう。
上杉家でも別系統、足利尊氏公と従兄だった宅間上杉家の拠点の一つだった横浜市緑区の榎下城址(舊城寺)も、その程度の堀の規模は有りました。
⇐榎下城址の過去の記事はここクリック!
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この大庭城址も、南端の方には豊富な曲輪群、写真の様な空堀が有ります。
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北半分は破壊されていますが、まだまだ、城址入門の良い教材に成ります。
それを理解する為にも、あの最初に紹介した大庭城址公園の管理事務所の掲示物を熟読し、縄張り図を写メしてから廻ると良いと思います。
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土塁が芝生取り払われて芝生に成った部分も、これはこれで子供連れの家族が御弁当を持って散歩に来たり、ボール遊びしたり良い親子の時間を過ごせる場所だと思います。

さて…
大庭城址自体の説明はここまでにして、大庭城落城の秘密と悲話を現代に伝える城址南端、引地川と支流の合流地点近くの話に移ります。
大庭城址の南側にコンビニと公園が有ります。
その公園は船地蔵公園と言うのですが、その前に地区名の由来に成った❝船地蔵❞と言う御地蔵様がいらっしゃる場所が有ります。
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実は、この御地蔵様が難攻不落の大庭城を、いとも簡単に北条家に落とされてしまった理由に成っています。
別に神通力や仏罰で城が落ちた訳では無いんですよ。
現代では詳しい場所までは解らないのですが、大庭城址は西側の守りが弱く、そこを堅固にする為に元々湿地帯だった東側の様に西側も川を堰(せ)き止めて湖沼にしていたそうです。
その堤防の傍に住んでいた老婆は、ある日、北条家の密偵とは知らず、大庭城の事を調べに来た人間に、根掘り葉掘り沼掘りの秘密を全て話てしまったそうです。
そして口止めに殺害されたと伝承しています。
その後、北条家によって城西側の水が抜かれて干上がった時に攻め落とされたと推測できます。
水不足の季節、夏か真冬に攻略されたんでしょうかね~。
落城年代も、この地域の宗賢院や成就院と言った大寺院が度々火災に遭っていて記録が現存しない為に、今では良く解りません。

地域の伝承では北条家の密偵に殺されたと有りますが、北条家は新井城址攻防でも津久井方面の攻略でも似た様な伝承が有り、❝老人は口が滑りやすいのか老人に城の様子を偵察する習慣が有った❞ようです。
年取ると判断力無く成りますからね。
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但(ただ)し、新井城址の時もそうですが、北条家の密偵が聞いた相手を殺すとは考えにくく、寧(むし)ろ領主が秘密をばらした人間を誅殺したと考える方が自然でしょう。
だってね、集落で殺人なんか犯したら、瞬く間に騒ぎに成って敵方の追っ手に追跡されたり捕縛されてしまいますからね。
新井城址の場合は城の話を漏らした老夫婦は自害し、津久井方面の場合は現在では明治の小桜姫ブームに乗っかって話が小桜姫の伝承にすり替わってますが城主側が話を漏らした小桜姫を殺害した事に成っています。
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そんな船地蔵は、城の秘密を話してしまった御婆さんを供養する為に建てられた御地蔵様の御堂ですが、現在では水害と交通事故が発生しない様に地域と通行人を見守って下さる地域鎮守の有り難(がた)い御地蔵様として、藤沢市の市民に愛されています。きっと、御婆さんも多くの人に愛されて喜んでいるでしょう。

きっと、皆さんの御近所の御地蔵様や御寺や神社や今では公園に成っている場所も、昔は御城だったり凄い歴史人物が大切にした場所が普通に有る筈(はず)です…

余談ですが、最近流行しているポケモンGO、小生も初めてみました。
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ゲーム内では写真のようにポケストップと言う、ボーナスを貰える補給所みたいな場所が設定されているのですが、小生はこれが文化保護に役立つと思っていて非常に有用なコンテンツと評価しています。
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こんな感じで、余り知られていない重要文化財や石仏や神社、或いはキリスト教の教会等も紹介がされています。
小生、近所に昇竜橋が有る事を知りませんでした(笑)。
現代の道路の一段下の廃道にこんな場所が有ったとは…
これで、小生、❝神奈川の景勝50選❞❝神奈川の銘木100選❞に続いて❝かながわの橋100選❞も廻らないといけなくなりました(笑)・

だから皆さんもポケモンGOやりながら(笑)でもやらなくても、御近所を御散歩してみませんか?
きっと、そんな場所は古代の神様や鎌倉武士や戦国武将達と皆さんを現代に繋げてくれるタイムマシーンの役割を果たしてくれる筈です。

では、皆さん又次回の解説記事で御会いしましょう!




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小桜姫は明治時代の小説のヒロインであり歴史上実在しない架空の人物です!
それを利用した悪質なカルト宗教の独身女性の縁結び願望につけ入った宗教勧誘旅行が三浦半島で横行しています!


縁結びを三浦義意公と奥方様の御霊(ごりょう)に御願いするなら御二人に対する正しい歴史認識をここで学んで、カルトに騙されないで済む様に備えて下さい!
ここで正しい歴史と三浦家の聖地一覧を見て置けば、カルトと偽霊能者が如何に歴史的教養が無く嘘ばっかり吐いているかが解ります。

そして、どうすれば縁結びの強い御利益をより得られるか、嘘と本当を見分けて参考に成り良い彼氏さん旦那さんに巡り合える切っ掛けの縁結び祈願が出来るでしょう!
しかし、ちゃんと注意事項と解説も読まない人が、いくら異性との出会いを御願いしても無駄でしょうし、カルトに騙され続けて宗教に入信させられて終り自分で人生を台無しにして終わるでしょう。
※注意事項※
史跡と縁結びの神社の内、直接、小桜姫や三浦義意公に関係の有る場所は【紫色の字】で場所の名前を表示します。

小桜姫様への縁結びの礼儀
縁結びで願掛けをしたいのならば、ちゃんと御寺の場合は❝供養祈願の納経❞する為(ため)の写経した般若心経と御賽銭を、神社の場合は御賽銭を準備して置いて下さい。
まさか、神様にお願いするのに「クレクレ」言うだけで奉仕する心が無いなんて事無いですよね?


歴史事実と自称霊能者が広めた話しと異なる小桜姫神社の差異の解説
小桜姫について
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明治時代に村井弦斎と言う作家が❝都新聞=現在の東京新聞❞に連続架空時代劇小説として掲載した❝桜の御所❞と言う名前の小説架空の人物が小桜姫です。
架空のヒロインだが、小説内で夫とされている三浦義意公の実在の妻と側室の真里谷武田家の姫をモデルにして小桜姫を創作した可能性は否定出来ない。
小説❝桜の御所❞出版以前に、全ての歴史遺物に❝小桜姫❞の人物名は登場しない。又、一般的に歴史上、名前の記録が残る女性は極少数。小桜姫に関しては完全に明治時代以降に登場する名前で創作と確認出来る。
先ず、小説では小桜姫は武蔵国久良岐郡(現:横浜市金沢区)金澤城主楽岩寺の姫とされるが、この時点で創作の人物である事を明言できる。
先ず、金澤城と言うのは現在の金沢文庫駅近く、金沢文庫の地名の由来に成った金沢山稱名寺を取り巻く山に在った鎌倉時代の城砦の事で有るが、この金澤城を要塞として活用したのは歴史上、後にも先にも鎌倉時代の金澤北条(かねさわほうじょう)家のみである。
ところが小桜姫は楽岩寺家と設定されているので金沢城主たりえる事は全く不可能。
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※写真は稱名寺裏の金沢城址、稲荷山からの眺望。
戦国時代に金沢を所領にしたのは小田原北条家臣の伊丹家であり、更に周辺で水軍として勢力を誇っていたのは同じく北条家臣の間宮家や伊東家である。小説の金沢城主楽岩寺家の設定は❝これは完全にフィクションですよ❞と筆者から解り易いメッセージが込められている訳だ。にも関らず、歴史に無知だった偽霊能者はそれを本当と誤認して宗教活動を始めてしまった。
しかも金沢城を稱名寺の敷地に在った居館の詰め城にしていた金沢北条家は、三浦道寸公・三浦義意公の時代よりも約200年前に既に滅んだ家、架空の設定である事が解る様に小説にも書かれている。
当然ながら金沢北条家に“小桜姫”等と言う人物の記録は一行たりとも存在しない。金沢北条家が開いた東日本最大最古の私設図書館で現代の金沢文庫博物館の記録にも登場しない。つまり自称霊能者が媒介と成って小桜姫の言霊を著書にしているならば、その内容は“自称霊能者の虚言”か“自称霊能者が誤って別の自称小桜姫のキチガイ霊魂を召喚して偽称偽証”されられており頭も霊感も弱い三流霊媒師と言う証明に成ってしまう訳だ(笑)。
小桜姫を実在したかの様にデマを拡散する連中に止めをさそう。
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※写真は近世、赤坂と呼ばれた地域から同じく古くは東青野台と呼ばれた能見堂へ繋がる険阻な丘。
そもそも金沢北条家の金沢城は邸宅の詰めの城でしかなく、完全な軍事拠点は青ヶ台(あおがだい)城だった。青ヶ台城は横浜市が発掘調査も保護もせず全容が解らないまま消滅したが、場所は江戸時代まで青野台と呼ばれた能見堂址~東横レジデンス~釜利谷高校一帯の険阻な崖地の上の丘陵と解っている。
金沢城の話から実家とされた楽岩寺家の話に解説を移す・・・
決定的にフィクションと解るのが小桜姫の実家の武蔵国金沢城主楽岩寺家の設定で、楽岩寺家と言うのは武蔵国久良岐郡(横浜市中区~南区~磯子区~港南区~金沢区)に歴史的に存在しない武家である。楽岩寺家自体の姓も存在しない。但(ただ)し武田家と戦った信州の武将に楽巌寺一族はいるが、あくまで信濃国(しなのこく=現:長野県)の武将である。
小桜姫のモデルは実在した三浦義意公の側室で真里谷武田家出身の姫だろう。しかし真里谷武田家は房総の小大名、親戚の武田家とも支配地が違う上に決定的に楽巌寺家は武田家の敵対者だった訳だ。
仮に甲斐武田家の話に置き換えても、楽巌寺家が武田家従うのは武田信玄の時代の弘治年間(1550年代)の話で、当時既に小説で小桜姫の夫と設定された三浦義意公の治めた佐原三浦家は存在していない。
佐原三浦家は永正十三年(1516年)の07月11日新井城(現:油壷マリンパーク敷地周辺一帯)落城と共に滅亡している。史実だとしたら矛盾だらけな訳だ。
つまり、仮に小説の楽岩寺家の小桜姫のモデル人物が実在した千葉県の真里谷武田家の設定を甲斐武田家に置き換えたとしても、楽巌寺家の武田家従属より40年も前に三浦義意公の佐原三浦家は滅んでいるので❝桜の御所❞の著者の村井弦斎から「小桜姫はフィクションの人物設定ですよ~」と少し歴史を知っていれ解るメッセージがふんだんに盛り込まれている架空歴史ファンタジー小説な訳だ。
これを事実誤認した霊能者は、悪意が有ってやってなければ歴史知識が足りないまま嘘を吐いてしまって引っ込みつかないだけか、相当霊能力が乏しいのだろう(笑)。
更に止(とど)めを刺すと、久良岐郡の間宮家の一族で安土桃山時代の武将の間宮信高公は三浦半島の長坂(現:横須賀市長坂)に所領を持ち、実は小桜姫のモデルの人物の実家の真里谷武田家の御子孫、真里谷武田直信公の舅に当たる人物だ。
徳川家の水軍大将として活躍した人物で娘が真里谷武田家に嫁いだのだが、この間宮家の家系図にも歴史書にも一切、小桜姫の名は登場しない。
そして真里谷武田家は小説の仮名で小桜姫のモデル成った真里谷城主の武田家の姫の兄、真里谷武田信隆公の子である真里谷武田信政公と思われる“武田殿”が北条家から久良岐郡六浦木曽分127貫を与えられ北条家臣化し江戸時代にも徳川幕府に仕え愛甲郡に僅(わず)かな領地を貰い存続している事が確認出来る。
その真里谷武田信隆公の子孫は以下の様な系図に成るのだが・・・

【真里谷武田 信保】※上総国真里谷城主、法名“恕鑑(じょかん)”。三河守(みかわのかみ)。
戦国時代(室町末期)の人。
三浦義意公の最初の妻の父親。天文三年(1534年)に亡くなっている。
一般的に真里谷城主の座を巡って兄弟間で内紛が起きたのは、この人物の代とされる。
諸長子(長男だが母が側室)であり嫡子(後継者指名を受けた人物)では無い。
真里谷武田一族の北条家への亡命は、既に佐原三浦家の滅亡した後で御子息の信隆公と信応公の兄弟が真里谷城主の座を争って信隆公が敗北した天文六年(1537年)頃の事なので、真里谷武田家と三浦半島の三浦義意公が合戦をする事は歴史的に有り得ない事実。そして、その時代には既に真里谷武田恕鑑公もこの世にいない。

  ↓
【真里谷武田 信隆】※金沢区移住初代。官途は丹波守(たんばのかみ)を称する。
戦国時代(室町末期)の人。千葉に在った真里谷城主。
三浦義意公の二番目の妻の父親、時代的にこの信隆公の姫が小桜姫のモデルだろう。
永正十三年(1516年)の佐原三浦家滅亡後、父の恕鑑と叔父の争いの後、1537年に信隆公の代でも実弟の信応(のぶまさ)公との争いが起きた。実弟の信応公が父とも争っていた叔父の真里谷武田信秋公に支援され、その二人との争いに敗れ北条家を頼り久良岐郡の六浦(金沢区)に亡命。

最初に北条家に亡命し現在の金沢区に六浦木曾分127貫文の所領を与えられたのは時代的に、この人物だろう。その後、信隆公は北条家の支援を得て上総国(千葉県中部)の真里谷城主に復帰している事から、六浦木曾分127貫文は当初は亡命時代の所領だったと考えられる。
三浦義意公が亡くなった年に北条早雲(伊勢盛時)公の援軍を得て城主の座を争い内戦を戦っているので、房総の三浦一族である正木家との縁も切れている様だ。信隆公の代で一度は北条家の支援を得て真里谷城主に復帰したが、衰退。御子息の信政公の代には、正木家を従える里見家に敗北して父の隠居料だった元の亡命先の金沢区六浦の所領に逃げ帰り信政公の代から土着したと考えられる。

  ↓
【真里谷武田 信政】※官途は三河守を称する。
戦国時代(室町末期)の人。
恐らく里見家に敗北して真里谷城から駆逐され、元は父の亡命先であった現在の金沢区六浦の所領に逃げて来て土着した人物だろう。真里谷城を落ち延びてからは北条家から父の信隆公が一時亡命していた金沢区六浦に土地を与えられ以後は北条家の家臣化したと考えられる。
間宮家の所領の杉田郷と金沢は隣接地なので、間宮家との交流は信政公の代から始まっているのだろう事も推測出来る。

  ↓
【真里谷武田 信次】※官途は信濃守(しなののかみ)を称する。
戦国時代(室町末期)の人。
系図上は室町幕府最後の15代将軍、足利義昭に仕えたと改竄が有るが、生きた時代の参考には成る。
江戸幕府による系図編纂の都合上、良く解らない世代の説明の為に広意義で主家の北条家が足利幕府家臣なので、足利義昭に仕えると書き加えらえたと考えられる。
  ↓
【真里谷武田 直信】※妻が間宮信高公の姫。官途は兵衛尉を称する。
安土桃山時代~江戸時代初期の人物。
系図上は室町幕府最後の15代将軍、足利義昭に仕えたと改竄が有るが、生きた時代の参考には成る。
間宮信高公の姫を妻に迎えている事からも、実際は間宮信高公と行動を共にしたと考えた方が自然なので、北条家→甲斐武田家→徳川家と転々とした筈だろう。間宮信高公が一時武田家に仕えた縁も、真里谷武田直信公と甲斐武田家が同族である血縁に因(よ)ると考えると自然。
  ↓
【真里谷武田 信正→改姓→間宮 信正】※間宮姓へ改姓した初代。助左衛門を称する。
江戸時代初期、徳川幕府二代将軍の徳川秀忠公に仕えた人物。
徳川家臣として愛甲郡に所領200石を得る。
俗名の助左衛門の左衛門は間宮家が代々継いだ官途名でもある。
  ↓
【間宮 信敏】※半左衛門を称する。
江戸時代初期、徳川幕府四代将軍の徳川家綱公に仕えた人物。
  ↓
【間宮 信輝】※この世代で家が滅亡。※権之助を称する。
江戸時代初期、徳川幕府四代将軍の徳川家綱公に仕えた人物。
15歳で亡くなってしまった為に子供がおらず、久良岐郡と縁の有った真里谷武田系間宮家は信輝公の代で断絶した。

・・・久良岐郡と縁の有った真里谷武田家の系図は御覧の通りだ。
信政公の子に当たる直信公に間宮信高公の姫君が嫁いで、武田直信公と間宮信高公姫の御夫妻の御子息が真里谷武田信正公に当たる。この真里谷武田家は信正公の代に母方の間宮姓に改めている。
この信正公の改姓は造酒之丞家が徳川幕府内に置いて水軍を任される重要な侍大将に成っていた事と、間宮本家の笹下間宮家が間宮康俊公の姫君の於久方(おひさのかた)が徳川家康公の側室に有り徳川縁戚として久良岐郡北部や佐渡国や但馬国や摂津国や駿河国で奉行を任された家柄だったので、江戸時代初期に成り真里谷武田家は北条家滅亡後に元々は隣町の御近所同士だった間宮家を頼ったと推測出来る。
例えば当時の佐渡奉行職は先祖代々の給料の領地とは別に3000両もの大金が支給されるので、当然、親族や没落したが有能な旧北条家臣の縁者を雇って救済する事が出来た訳だ。
江戸時代初期の貨幣価値を今の円に換算すると、大凡(おおよそ)、1両=12万円前後と言われてる。だから例えば間宮本家の江戸時代最初の当主で佐渡奉行、但馬奉行、本牧奉行を務めて間宮直元公の基本所得は1000石たが少し計算するとどれだけ収入が有ったか現代でも推測出来て・・・
【笹下間宮家の基本所得】
1000石 ×(1石=米150kg)×(現代の大体の米相場1kg=400円前後)=年収:6000万円
【間宮直元公の奉行職】
本牧奉行(横浜市磯子区、港南区、南区、中区の経営)・但馬奉行(但馬国内の生野銀山、金山の経営)・佐渡奉行(佐渡金山の経営) 奉行職×3
佐渡奉行給与は3000両の手当てが支給されていました。これを参考に但馬奉行職給与も3000両。
3000両×2=6000両 6000両×12万円=年収:7億2千万円
町奉行は1000俵の米の現物支給
1俵=60kg×400円=24,000円 24,000円×1000=年収:約8400万円

7億2000万円(鉱山奉行手当)+8400万円(本牧奉行手当)+6000万円(基本給)=8億6400万円
間宮家の本家、間宮直元公の年収だけで8億6400万円の収入が有った訳だ。しかも奉行職については自分の基本給から人を雇わなくても幕府が与力を配置してくれる、なので人件費は掛からない。そして奉行職として自らに付く与力させる人物を幕府に推薦する事も出来ただろう、何せ間宮直元公は伯母であり名将の間宮康俊公の娘の於久様が徳川家康公の側室に成り姫を生んでいたので事実上の外戚扱いだった訳だ。但し基本給の6000万円の方は、幕府指定の人数の家臣団を常時雇っていなくてはいけなかったので丸々年収に成った訳では無く、相当経営は苦しかった筈だ。
因みに1000石だと雇用しなければいけない人数は以下の通り・・・
鉄砲兵2人(鉄砲1丁約1000万円)+槍兵5人+弓兵1人、騎馬武者1人(馬1頭8~10両=120万円)
そして雑兵(農民)10人+物資輸送担当2人。合計21人+自分自身。
この人達を生涯雇用するだけでは無く当然子々孫々まで永久雇用する必要が有る上に、鉄砲のメンテナンス、数年に一度の馬の買い替え、安くても数十万円する鎧兜のメンテナンス或いはフルオーダーメイドで数百万円。
・・・年収が6000万円でも、そこから途轍もない人件費が消えて行く訳だ。
因みに戦国時代だと1000石では50人前後の兵隊を雇用して、侵略戦争を行う際でも30人程度連れて行き更に食糧費も掛かる訳だ。
戦国時代の間宮本家は単独で200人動員したそうなので、北条家臣時代の給与は動員兵士数の200人から計算すると・・・
間宮家総兵力200人÷(1万石=300人)=1万石の66%の動員数
1万石=米150万kg=年収6億円
6億円×66%=3億9千600万円
所得全体の3億9千600万円から戦国時代は200人雇わなきゃいけなかったので、北条家の玉縄衆黄備え隊の副将だった間宮家でも殆ど贅沢は出来なかっただろう。この玉縄衆黄備え隊と言うのは解り易く言うと神奈川県中央~東部エリアの統括みたいな組織で、間宮家はその副統括だった訳だ。副統括でも生活は楽じゃなかった。しかし、江戸時代は沢山の奉行職を兼務させてもらっていたので、それ等の人件費を補って余有る奉行職の年収が有った訳だ。
この他にも間宮家では戦国時代に分家した隣町の杉田領の江戸時代最初の当主である間宮信繁公も徳川家康公の家臣と成って徳川幕府初代鷹匠頭の奉行職に就いていた。

・・・だから真里谷武田家はじめ安土桃山時代に北条家滅亡で失職した多くの旧北条家臣の同僚を間宮家だけでかなり救済出来た事が解る。
実際に間宮家旧領の横浜市磯子区~港南区~中区~南区一帯には間宮家臣の他に多くの旧北条家臣団と蒔田吉良家臣団の臼居・岡本・金子・北見(喜多見)・苅部(かるべ)・森・佐々木・並木・野本それ等の旧家名士が平成の世に成っても存続している。

その様な経緯が有って、真里谷武田家も間宮家と婚姻関係を結び与力と成り間宮姓に改めた事が推測出来る。しかし、間宮造酒之丞家と関わりの有った真里谷武田家は御覧の通り江戸時代初期の話でなので、三浦義意公や房総半島から嫁入りした真里谷武田家の姫様の室町時代末期の世代とは全く以(もっ)て混同しようが無い時代の差が有る事が解る。

そして江戸時代の武将、旧姓が真里谷武田の間宮信正公の所領が愛甲郡(厚木市~愛甲郡愛川町~相模原市西部)に200石の小録で存在した歴史が有るので、明治時代に愛川町や相模原市でも小説“桜の御所”のロケ地に比定した観光誘致宣伝として地元の本来の民俗伝承に小桜姫伝説を当て嵌め聖地捏造したのが容易に推測出来る。尚、そちらでは小桜姫のモデルを大江家の姫としているそうだが、そうなると更に歴史矛盾が拡大する(笑)。

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※写真は愛甲郡愛川町の中津川の渓流風景。
小桜姫が大江の姫と言う方の解説を採用すると愛甲郡を大江家が治めた時代は鎌倉時代のごく短い期間であり、戦国時代の武将で扇谷上杉家の血筋の三浦義意公の存在を全否定するしかなくなる。根拠作りに困って、この説を持ち出した自称霊能者の判断は実に浅慮で無知だし事実確認が全くされていない。
そもそも関東では鎌倉時代に滅んだ大江家と、戦国時代の三浦道寸公とその御子息が合戦をする事自体が物理的に不可能(笑)!
そのカルトは三浦道寸公の子息を三浦義光と言っているそうだが三浦道寸公の御子息に義光の記録は無い・・・
まして三浦家の所領は三浦道寸公が生きた戦国時代当時に愛甲郡には無い。主家の扇谷上杉家の所領が愛甲郡南西部~伊勢原市北部にかけて存在したので、仮に三浦家が愛川町~津久井~相模原に攻め込めば主家に反逆する事に成る訳だ。歴史的に完全に間違ってる"設定"な訳だ。
仮に本当に霊能者が霊媒と成って、小桜姫を称する霊にソンナ事を言わされたのなら、その霊が
明治時代の小説ヒロイン小桜姫の名声を利用して自分を拝ませようとする“狡猾な詐欺師的な霊”だろう。
更に設定の甘さを追及すると三浦義光って名前を捏造する際、鎌倉時代の大江広元公の御子息で愛甲郡毛利台を所領にしていた毛利季“光”(すえみつ)公の名前と、戦国時代の三浦道寸公の御子息の三浦“義”意(よしおき)公の名前を安易に+して割ってるな。詐欺女悪霊か女霊能者のどちらが決めた設定か知らんが適当過ぎて本当に設定が甘い。
・・・そんな基礎知識も無いから霊媒たる霊能者も簡単に悪霊に騙されるんだろう(笑)。多分、学校で歴史の成績が悪かった人なんだろう。仮に人を騙す心算で小桜姫信仰を小説に乗っかって捏造したなら設定の甘さが馬鹿過ぎる。いずれにせよダメ。反省するべき。
霊能者も霊能者で、ソンナ詐欺女悪霊の正体を見破れないのは歴史知識が乏しい不見識さから来るのだから、早く反省して断家譜、寛政重修諸家譜、北条五代記、小田原衆所領役帳、新編相模風土記稿、新編武蔵風土記稿位は最低読んで勉強する事をお勧めする。それを読んで置けば二度と悪霊に騙される事も、或いは自分が詐欺師なら"設置をミスる(笑)"事も無いだろう。
まぁ~落としどころとして、当該の霊能者は、悪霊の嘘を見抜けない自分の霊感不足や歴史知識不足の不甲斐無さを認めるべきだな。
先ずはちゃんとした宗教指導者に成るべく、神様に興味が有るのなら、この説を流布してしまった霊媒師と霊能者の方は國學院大學か皇學館大学に入り神職の資格を取得される事をお勧めする。
仏教的な知識習得と修行をしたいのであれば、仏教系大学に行くべきだろう。
高野山大学、駒澤大学、大正大学、立正大学、身延山大学、龍谷大学なんかが御薦めだろう。或いは修験道の総本山である奈良の蔵王権現こと金峰山寺で学ぶのも良いだろう。
何(いず)れにせよ、当該の説を流布した霊媒たる霊能者はちゃんとした場所で修行し直し、ついでに歴史も勉強するべきだな。
そして、自称霊能者の本人が歴史知識も嘘を見抜く霊感も無いんだから、ちゃんとした古来の権威ある神道の神社や仏教宗派寺院で、ちゃんとした神社庁に属す宮司様や旧来の仏教宗派の和尚様に払ってもらうべきだろう。
幸い、当該地域周辺には本物の聖地の八菅神社や、大江家旧領愛甲郡小野に延喜式内社の“閑香大明神小野神社”や金徳山光明寺も在る。その神社仏閣で宮司様に払って頂き神様の力で詐欺女悪霊を封じ込めて貰うか、釈迦牟尼仏の力で和尚様に悪霊を供養して貰い閻魔様に送って貰うと良いだろう。
小桜姫と実在しなかった人物名を自称する悪霊を憑依させてしまった霊感不足、知識不足の霊能者にはアドバイスしフォローして置く。

余談だが大江家が愛甲郡の中で所領としたのは現代では毛利台と言われる土地で、大江家は戦国時代の大大名、毛利元就公の祖先に当たる。つまり安芸の広島城主で後の長州藩毛利家の殿様の祖先の故地は神奈川県厚木市毛利台一帯なのだが、それを知る人は現代では少ない。
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愛川町は県内最高の水質を誇る中津川が流れており、キャンプやBBQや鮎釣りの客で夏休みの時期には多くの観光客で賑わう。
仮に愛川町がしかけた聖地捏造ならば、こんな変な宣伝をしなくても素晴らしい観光資源や八菅神社と言う古来権力者に支援を受けた霊験あらたかな聖地も存在する。又、武田家と北条家の三増峠の大合戦を模した三増合戦祭りも毎年行われる。愛川町は歴史探訪で方々を旅している小生から見ても魅力的な観光地として推薦しフォローして置こう。

まぁ、三浦の小桜姫伝承とは関係なので愛川町と厚木市の話から、小桜姫の設定そのものに話を戻す。
何(いず)れにせよ、間宮家と真里谷武田家の血脈にも文献にも「小桜姫の名は1つも登場しない」ので、佐原三浦家、金沢北条家、楽巌寺家、真里谷武田家、間宮家関連の文書を調べ尽くしても小桜姫の名は明治時代に村井弦斎先生による創作されたヒロインの創作名であり伝承は小説に乗っかった観光客誘致目的での悪質な明治時代以降の創作と真里谷武田家の姫の伝承の混同と断言できる。
恐らく、悪意無く小桜姫の存在を歴史事実と誤認した連中の場合は歴史的な知識が乏しく小説が文語で書かれているので「あ~これは歴史書だ!」と思いこんだのだろう。
明治時代に桜の御所の出版で、小説のロケ地巡りとして三浦旅行が流行したので小説に乗っかった明治生まれのカルト宗教や聖地捏造した観光業の連中に騙されたり明治~昭和の歴史知識の乏しい人々が事実誤認した結果が招いたカルト流入と神社仏閣聖地の乗っ取り縁結び旅が今の三浦市の惨状な訳だ。

補足として三浦義意公は扇谷上杉家から三浦家を乗っ取った三浦義同(よしあつ)入道(にゅうどう=僧籍に入る事)道寸公の子で三浦の正当な血統とも言えないが人望と武勇は高かった。しかし、それ以上に父の三浦道寸公は北条早雲公のライバルとしても太田道灌公の親友としても有名な人物で名将だった。

間宮信高公の父君、間宮康俊公は歴史上の名将として有名で地理学者で幕府の御庭番を務めた間宮林蔵公、蘭方医学者の杉田玄白、東京大学の前身と成った江戸幕府官営の昌平坂学問所の頭取を務めた歴史学者地理学者の間宮士信公達の祖先のに当たる。
つまり東大前身の昌平坂学問所で頭取を務めた江戸時代の地理と歴史の大ボスの間宮家は小説で小桜姫と仮名された真里谷武田家の姫と遠い親戚同士であり、その間宮家が江戸幕府の命令で編纂した歴史書にも、後に老中の堀田家が編纂した家系譜にも、各都市の郷土資料にも、問題の時代の北条家の詳細な歴史書にも微塵も小桜姫の名前は登場しない訳だ。

では再び小桜姫の解説も戻ろう。
もう一度おさらいする・・・
モデルに成った人物は、どのような人物かと言うと御夫君の三浦義意(よしおき)公には、房総半島の小大名の真里谷武田家から来た正妻と側室がいた事実が有る。その姫様の内、側室だった方がモデルに成っていると推測出来る。
そして小桜姫の実家を楽巌寺家、或いは歴史的に最初で最後の金沢城主の金沢北条家と設定したのは、小説の舞台に成った時代に小桜姫のモデルに成ったであろう三浦義意公の実在の正妻と側室の生家である真里谷家が諸長子と嫡子の間で家督相続争いが起き、真里谷の姫の兄に当たる諸長子の真里谷武田信隆公が災難を逃れて北条家の支配する現在の横浜市金沢区金沢文庫辺りに亡命したきた事実が有る事を参考にし、同地の著名な鎌倉幕府重鎮だった金沢北条家の雅(みやび)なイメージをヒロインのイメージに取り込んだと思われる。
繰り返しに成るが、金沢北条家は佐原三浦家より約200年早く滅亡して同地に一族も生存していない。
久良岐郡(横浜市)の金沢城主も後にも先にも金沢北条家だけ。
楽岩寺家は戦国時代の小田原北条家の家臣に存在せず楽巌寺家は信濃国(長野県)の国人領主、よって三浦義意公の実在した正妻と側室の真里谷家の姫君がモデルなのは間違いない。
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※写真は小桜姫の実家として設定されている三浦義意公の時代より200年前に滅んだ❝金沢北条(かねさわほうじょう)家❞の邸宅跡、金沢文庫称名寺。江戸時代は真言宗の壇林として多くの学僧がここに学んだ。真言宗の別格本山の格式を持つ。
又、金沢文庫(かなざわぶんこ)の地名は金沢北条家の北条実時(さねとき)公が称名寺の隣の文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)の谷戸(やと=谷間に木戸を設けた居住区)に開いた日本史上初の私設図書館❝金沢文庫(かねさわぶんこ)❞に由(よ)る。
小桜姫伝説を生んだ小説❝桜の御所❞のシナリオは、いくつかの異なった時代の三浦半島周辺の歴史を融合させて構成されていると考えられる。
房総半島の真里谷城主真里谷武田家から三浦半島の新井城主三浦荒次郎義意公に嫁がれた❝真里谷の姫の最後の悲話❞

三浦義意公の時代よりも❝約200年前に実在し鎌倉幕府滅亡と同時に既に滅亡した金沢北条家❞の高文化で風流な家柄のイメージ
そして…
義意公の没後に三浦家の一族が活躍した❝鶴岡八幡宮合戦❞と❝真里谷武田家の跡目争いの内紛❞の史実。
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※写真は鶴岡八幡宮合戦で里見家と三浦一族正木家の放火で一度は鎌倉の町とともに焼失した鶴岡八幡宮。北条氏綱公の差配の下、三浦道寸・三浦義意公の盟友だった蒔田吉良家や太田家、北条家の武将達、諸大名によって敵味方の垣根を超えて再建事業が行われた。
以上の解説の通り、複数の史話と地元伝承をモデルにして融合させ脚色した
と思われる創作小説に登場する架空の人物が現代の小桜姫のイメージで小桜姫伝説は史実では無いが郷土に伝わる真里谷の姫の最期が小説の名とすり替わり、小桜姫とされる様に成ったと推測出来る。しかし新井城や主人公三浦義意公、その約200年前の金沢北条家の存在が歴史上実在した為(ため)に明治時代に小説内の小桜姫の物語や実際の歴史伝承が歴史に疎(うと)い庶民や自称:霊能者に史実と誤解され、流行小説の舞台として観光客向けに明治時代に小説のロケ地と思われる場所が観光名所と成り、自称:小桜姫神社の舞台等が南関東に多数、登場した。
実際の小桜姫神社の舞台は真里谷家の姫の悲話の有る諸磯神明社の境内地と三浦家旧臣の御子孫と地元民も伝えている。
後世、歴史に疎(うと)い人間が、小桜姫の存在や小説ロケ地と自称する場所を歴史事実上の神社と誤認した後に、更に時代が下って平成に成ると、その人気小説の聖地巡礼の名残が更に事実誤認を生んで平成の自称霊能者が明治の自称霊能者の書いた本を鵜呑みにして戦国時代の昔から存続する実在の神社かの様な誤解を生んだのが、❝小桜姫伝説の真相❞です。
❝桜の御所❞執筆者が❝小桜姫を金沢北条家❞としたのは、時代の違う家をヒロインの実家にする事で架空小説であり歴史小説では無い事を明確に読者に理解させる意図が窺える。
にも拘(かかわ)らず、歴史に無学な一部の自称霊能者が事実と誤認して、平成に入ってから紹介してしまったので多くの縁結びを祈願する女性に誤解を与える事に成った。無教養と言うのは罪だと言う典型的な例が誤った小桜姫信仰だ。
しかし実在した三浦義意公の正妻と側室に真里谷武田家の姫がいたので、小桜姫を真里谷家の姫とするならば御利益は否定出来ない。
但(ただ)し、自称霊能者が小桜姫としているのは架空の戦国時代の金沢北条家の姫であって、真里谷家の姫では無い。仮に真里谷家の姫で有るならば、明治時代以前に小桜姫と言う名前は伝承していない。
更に自称霊能者やカルトや商業利用を目論む輩等によって小桜姫神社と誤って違う弁財天を祀る洞窟を紹介しているケースが有るので、本記事内で区別して指摘しておく。

小桜姫の名の由来について
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村井弦斎が小説❝桜の御所❞を執筆した場所が、現在の三浦市三崎町1丁目に所在する本瑞寺だった。
本瑞寺は平安末期~鎌倉時代に征夷大将軍の源頼朝公が桜の花見の為(ため)にに築いた別荘❝桜の御所❞跡地。往時は境内地と対岸の城ヶ島に多くの桜が植林されていたと伝承する。
本瑞寺は小説で小桜姫の夫に設定されている三浦義意(よしおき)公が、戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に開基した史実の有る御寺だが、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した。現在の本瑞寺境内にも観光客向けの歴史説明看板が有る。その義意公の事績と、源頼朝公時代の桜の御所のイメージが小説に盛り込まれた。

小桜姫の御主人、三浦義意公と佐原三浦家の歴史事実について
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※写真は三浦家の拠点の一つ住吉城址から見た相模湾の風景。
三浦義意(よしおき)公が継いだ佐原三浦家は、平安時代末期~鎌倉時代の有力武士の三浦家の分家に当たる家系で、鎌倉時代に本家が滅亡した後に佐原三浦家が名跡を継ぎ、室町時代に鎌倉公方の有力家臣として活躍した家。
但(ただ)し、三浦義意公の実父の三浦義同(よしあつ)入道(にゅうどう:僧籍に入る事)道寸(どうすん)公は、鎌倉公方の家老の扇谷(おおぎがやつ)上杉家から、佐原三浦家へ戦国時代初期に養子に入った人物。
関東に於(お)いて韮山城主の伊勢宗瑞(北条早雲)公、江戸城主の太田道灌公と並び称された名将が三浦道寸公だった。
佐原三浦家と伊勢(北条)家は、扇谷上杉家が山内上杉家と和議してしまった事によって伊勢(北条)家と古河公方家(こがくぼうけ=鎌倉公方足利持氏公の子孫)の外交的な問題で対立するまで扇谷上杉家と古河公方家を支えた盟友だった。
やがて古河公方家―山内上杉家連合の成立により孤立した伊勢(北条)家は独立し北条家を名乗り関東の領地の支配権の正当性を主張して大森藤頼を攻め小田原城を奪取する。すると三浦道寸公は実母が大森藤頼の実父大森氏頼の娘であり大森藤頼は義兄弟に当たる為に、三浦家はやむなく伊勢家と対立するしか無く成る。
ここに岡崎城に大森家を匿(かくま)った三浦家と、伊勢家の戦端が開かれ、以後、断続的に10年に及ぶ岡崎城の攻防が繰り広げられた。
その後、岡崎城が落城すると、瞬く間に北条家は藤沢市の扇谷上杉家の初期の居城だった大庭城、逗子市の三浦家の住吉城を攻め落として、新井城に迫り、新井城では名将三浦義意公の奮戦と指揮により日本最長の約4年間の籠城戦を展開した後に佐原三浦家は滅亡した。
しかし房総半島の佐原三浦家分家の正木家が戦国時代に小弓公方足利義明・里見義豊と結び逆襲し、三浦半島を一時取返し鎌倉まで攻め込んだ鶴岡八幡宮合戦を起こした。しかし里見義豊が源頼朝公以来の武家の八幡信仰の総本社格であった鶴岡八幡宮と鎌倉市街で放火の上乱暴狼藉を働いてしまった為に支配するに至らず、寧(むし)ろ北条氏綱による鶴岡八幡宮再建事業が行われるに至って北条家による相模国支配の正当性が確立されて、三浦家残党の正木家は三浦家の故地に復帰する機会を逸してしまった。
※横浜市磯子区域にも鎌倉以来の三浦家の一族である平子家(ひらこ/たいらこ)がいたが、小生は平子家も鶴岡八幡宮合戦で正木家に呼応して、後に北条家によって駆逐されたと推測している。

以下、小桜姫と三浦義意公、三浦家歴代の史跡、聖地の一覧


●二伝寺…神奈川県藤沢市渡内
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三浦家の全ての直系子孫の祖先、平良文(たいらのよしふみ)公と初期御子孫の菩提寺。
現在の二伝寺自体は北条氏時公(北条氏綱公御実弟)により開基され、浄土宗大本山、鎌倉光明寺の正空和尚が開山と成って造営された寺院。
それ以前の記録は残らないが藤沢市の蟠龍山宗賢院や伊勢原市の蟠龍山洞昌院公所寺の実例を踏まえると、同所に前身寺院や廃寺跡が有り再興開基した可能性は有る。
又、同所は、戦国時代に難攻不落を誇った玉縄城址の出城二伝寺砦でもあった。秀吉の小田原征伐による戦国大名の北条家滅亡後は徳川家臣、大河内松平家の菩提寺と成った。大河内松平家は日光街道に杉並木を植林した一族。

●村岡城址公園…神奈川県藤沢市村岡
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三浦家を含めた良文流坂東平氏系の武将の祖先、平良文(たいらのよしふみ)公の居城跡。
城址公園としては遺構は略(ほぼ)、児童公園化されてしまい存在しない。子孫に当たる明治時代の海軍の東郷平八郎の甥の東郷吉太郎海軍中将が揮毫(きごう=文章を直筆で代書する)した石碑が現存する。
平良文公の子孫には名将が多く、鎌倉幕府御家人や戦国時代の大名に成った家系も多い。
主だった子孫の家系と名将を挙げると…
太字は特に有名な人物
【三浦家一族】
三浦義次
三浦義明三浦義澄岡崎義実・真田義忠・和田義盛・朝比奈義秀・朝比奈泰朝佐原義連・平子有長・正木時茂芦名盛氏由比正雪
【鎌倉家一族】
鎌倉景正大庭景義大庭景親梶原景時梶原景季・俣野景久・長尾景春長尾景虎(上杉謙信)
【渋谷家一族】
渋谷重国・早川実重・東郷頼重・祁答院良重・入来院重嗣東郷平八郎
【中村家一族】

中村重平・土肥実平・小早川遠平(小早川隆景の家名上の祖先)・土屋宗遠(土屋昌続の家名上の祖先)
【秩父家一族】
畠山重忠・江戸重長・喜多見重政河越重頼(源義経の妻の実父)・葛西清重・豊島泰経・小山田信茂
【千葉家一族】
千葉常胤千葉胤富・臼居胤知・千葉周作(山南敬助・山岡鉄舟・清川八郎の剣術師匠)・千葉定吉(坂本龍馬の剣術師匠)
…等の何(いず)れも名将が多い。

●衣笠城址公園…神奈川県神奈川県横須賀市衣笠
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※写真は衣笠城址の本丸跡と伝わる辺り、右側に長い土塁の遺構と思われる風化した盛土が続く。
本家の三浦家歴代の居城。三浦本家が滅亡するまで三浦党の本拠地として機能したが、三浦家滅亡時に廃城と成った。
石橋山合戦での源頼朝公蜂起に呼応し、三浦党は和田義盛公を陸軍大将として三浦義澄公を水軍大将として援軍を送るも陸軍は敵の大庭景親居城大庭城を背後にして相模川を渡河出来ず石橋山合戦に間に合わず、水軍も酒匂川辺りで源頼朝公は敗退し海路を房総半島に逃走してしまった事を知った。更に北から畠山重忠公率いる伊勢平氏(平清盛)の大軍が迫って三浦勢は西と北東から挟撃されてしまう形に成った。それを知った三浦義澄公の水軍は鐙摺城(あぶずりじょう)に撤退、和田義盛公の陸軍は衣笠城に帰還。三浦勢と畠山勢が逗子市住吉城辺りで戦端が開かれたが寡勢(かぜい=少数)の三浦党は撤退し衣笠城に集結する。当時の長老、三浦義明公は88歳と高齢だったが一族を源頼朝公に合流させるべく水軍で房総半島に撤退させ、自(みずか)らは衣笠城に直属の手勢を率いて籠城し畠山軍を引き付け囮(おとり)に成り時間稼ぎをした後、玉砕した。この義明公の活躍により、頼朝公は三浦党の軍勢を旗下に組み込む事が出来たので関東の制覇に繋がり、そして鎌倉幕府樹立へと繋がって行く…。
現地には一部分、土塁遺構と思しき連続した風化した盛土と、切岸と思しき地形が残存し、伝:本丸の広大な削平地と物見岩も現存する。
※ただし城マニア初心者には只の山にしか見えません。
嘗(かつ)ては城域だった、衣笠城址公園と谷を挟んだ衣笠山公園は現在では桜の名所として有名で、衣笠城址にも多くの桜が植林されている。
周辺一帯には三浦家所縁(ゆかり)の神社仏閣と、廃寺史跡が現存する。


大善寺…神奈川県横須賀市衣笠
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衣笠城址内に現存する鎌倉時代の三浦家の学問所の機能をした寺院。それ故(ゆえ)に山号も衣笠山と成っている。三浦家の文化醸成地の址。
大善寺自体も、嘗ての衣笠城の曲輪の一部と考えられる地形に存在していて、急峻な石垣は平安時代の切岸に後から石積みされ参道の階段が設けられたと推測出来る。
大善寺の裏手には、衣笠城本丸や物見岩と伝承する場所への入口。
又、御当寺の周辺は石垣城では無い時代の城らしい人工的な切岸と思われる断崖地形が連続している。

清雲寺…神奈川県横須賀市衣笠
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三浦家本家、分家の佐原三浦家の菩提寺。
三浦家本家の菩提寺は本来は圓通寺だったが、明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈の煽りを受けて存続困難に成り廃寺と成った。その後、三浦分家の佐原三浦家の菩提寺として開基された、現在の清雲寺に明治時代に成り圓通寺の三浦本家の菩提は合祀された。
嘗ての圓通寺を吸収した名残で本殿は圓通閣と呼ばれ、屋根の寺紋は三浦本家の三つ引き両紋である。
多くの三浦家所縁(ゆかり)の重要文化財を収蔵している寺院でもある。

●満昌寺…神奈川県横須賀市衣笠
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源頼朝公への忠義第一の名将として有名な三浦義明公の菩提寺。源頼朝公によって三浦義明公の供養の為(ため)に開基された寺院。
現在も頼朝公御手植えの躑躅(つつじ)が現存していて、頭を躑躅に突っ込むと賢く成ると伝承している。境内の三浦義明公の首塚とされる場所からは遺品が多数出土しており、事前に拝観予約すると御住職様の予定が空いていれば見学出来る。

●佐原城址…神奈川県横須賀市佐原
佐原城址 久良岐のよし
戦国時代初期の大名、佐原三浦家の平安時代の居城。
源義経の❝鵯越の逆落とし❞を立案した名軍師の佐原義連(さはらよしつら)公の時代からの居城。室町時代に成ると佐原家は佐原三浦家を名乗り三浦家本家と成り、居城を三浦市三崎町油壷の新井城へ転居した。
城址は横須賀ダイヤランドテニスクラブ周辺一帯の山で宅地開発により城址遺構は確認出来ない。昭和初期まで地名にも城址の名残りが在ったが、地名の字(あざ)と小名(こな)の廃止により地名も現存せず。

●鐙摺(あぶずり)城址…神奈川県三浦郡葉山町~逗子市桜山
鐙摺城 久良岐のよし
平安時代末期に葉山マリーナ近くには小浜の入江と呼ばれた湊(みなと)が在り、同港は三浦党の相模湾側の水軍拠点として機能していた。
300年余りの歴史を有する有名な和食店日影茶屋の前面に鐙摺城出丸と思しき旗立山が有る。
源平盛衰記に❝旗立山は鐙摺山の北❞と記載されている事から嘗(かつ)ての鐙摺城址の城域は、現在の日影茶屋周辺の現在は桜山と呼ばれる逗子市の葉山町の堀内地区一帯の桜山全域に及ぶ事が、地名と地形から推測出来る。
源頼朝公が伊勢平家(平清盛)に対して挙兵した石橋山の合戦に、三浦党は同地の小浜から三浦義澄(よしずみ)公を大将とした水軍を派遣するが小田原市の酒匂川辺りまで達するも、救援間に合わず頼朝公は伊豆半島より海路房総半島へ敗走した。
それを聞いた三浦義澄公は鐙摺城へ撤退。小坪辺り(住吉城か?)で畠山重忠公率いる平家軍の大軍に遭遇した三浦党との間で開戦。その際に鐙摺城址の出丸と思われる規模の旗立山に三浦党の軍旗を掲げたのが旗立山地名の由来。

●旗立山(鐙摺城址の出丸か?)…神奈川県三浦郡葉山町
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※写真は日影茶屋から見た旗立山と登リ口の階段。
鐙摺城址の項目で説明した通り、平安時代の三浦家の要害の一部。
旗立山には源頼朝の初期の通婚の妻女の実父の伊東祐親公の御廟所が在る。
伊東祐親公は頼朝公と三娘の間に生まれた子、千鶴御前(頼朝公の男児と伝わるが名前の後に付く敬称が❝御前❞である事からして伊東祐親公の三女本人の名だろう、子は❝千鶴御前の子❞とするべき)を見て怒り狂って家来に命じて溺死さた上に、三女は源頼朝公と離縁させて江間四朗(後の北条義時)に嫁がせてしまったとされる。この江間家四朗を北条義時と別人とする説も有るが、鎌倉幕府2代執権の北条泰時は庶長子なのに北条得宗家の嫡流に成り幕府の首相と成っている事、又、生前の頼朝公から可愛がられ初名が❝頼時❞だった事から千鶴御前と推定する歴史ファンも多いが証拠は無い。
同地に伊東祐親の供養塚を築いたのは三浦義澄公で、伊東祐親の長女は三浦義澄公の正妻だった縁に由(よ)る。
※仮に北条泰時公が伊藤祐親三女と頼朝公の実子だとしたら三浦一族が源頼家公・実朝公の将軍家御兄弟を見殺しにしたり、和田合戦の際に北条義時・北条泰時親子に加担した事は伊東家の血筋を優先した利害関係に基づくと説明出来る為、小生も北条泰時公の頼朝公御落胤説を否定出来ない。

●怒田城址…神奈川県横須賀市吉井
怒田城 位置 久良岐のよし
三浦一族で三浦長者と呼ばれた初代鎌倉幕府侍所別当職の和田義盛公の築城した和田家初期の居城で三浦水軍の最重要拠点だった。
同地は縄文時代~平安時代末期の城として活用された時期まで、半島で城址は浪に現れていた入江を抱える港湾の城だった。
現在も城址の麓(ふもと)には❝船倉❞の地名が残り、衣笠~佐原~怒田各城址の下を流れる川は嘗ての湾の名残。
源頼朝公の石橋山合戦での蜂起に援兵を送ろうとしたが間に合わず参戦出来なかった三浦家は、畠山重忠公率いる伊勢平家(平清盛)方の大軍に攻められる。その際に、主城の衣笠城より堅固な和田家が水軍と共に管理する怒田城への撤退を族長の三浦義明公に進言するが却下された。
しかし、義明公が衣笠城へ敵勢を引き付けた事で三浦軍は房総半島へ逃げる事が出来て兵力温存に成功し、それによって源頼朝公の関東制覇が成功する事に繋がった。

●金剛山無量寺・・・横須賀市長坂
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三浦一族で大出世し鎌倉幕府の初代侍所別当を務めた和田義盛公が開いた御寺。
明治時代の小説で小桜姫のモデルに成った三浦義意公の奥方の実家である真里谷武田家に戦国時代に御嫁さんを嫁がせた間宮造酒之丞家の菩提寺でもある。
近世に成り間宮造酒之丞家は東京に墓所を移したが、現在も戦国~安土桃山~江戸時代初期の間宮家の御廟所が大切に守られている。
三浦氏族和田家も間宮造酒之丞家も水軍大将の家系なので、海に関係する仕事の人が御本尊と間宮造酒之丞家の御廟所を御参りすると御利益が有るかも知れない。

●和田長浜(わだなはま)海水浴場・・・三浦市初瀬和田3136
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神奈川県屈指の水質の良さを誇る海水浴場。実は背後の丘陵一帯は和田城址で鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公と愛妻で女武将として有名な巴御前が暮らした場所だった。その二人の子供が鎌倉時代初期の名将として名高い朝比奈義秀公だったりする。
つまり、ここの海水浴場に思い人と遊びに来れば和田義盛公と巴御前の御威徳で良縁で結ばれたり、子宝に恵まれる事も有るかも知れない。聖地かどうかを抜きにしても風景も海水も綺麗な場所なので穏やかな時間を過ごせる場所である。

●扇谷山(せんこくさん)海蔵寺…神奈川県鎌倉市扇谷
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臨済宗の寺院で鎌倉公方足利持氏によって命を受けた、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定公によって開基された。
井戸を掘ると海水が湧いてしまう事の有る鎌倉市街において水質の良さで十本指に入る事から鎌倉十井(じっせい)の一つと呼ばれた❝底抜の井❞や、❝十六の井❞と呼ばれる神秘的な洞窟の中の井戸を寺領に持つ寺院。
風景が綺麗で、観光名所にも成っている。
周辺には❝鎌倉七切通❞の一つ❝化粧坂切通❞と、平清盛の家臣で源頼朝公暗殺を画策した❝藤原景清❞が幽閉された石窟❝景清の土牢❞、三浦道寸公の盟友である太田道灌(どうかん)公の直系子孫で徳川家康公の側室と成った❝於梶(おかじ)の方❞が太田道灌公の鎌倉邸古址に造営した東光山英勝寺等の史跡等が近在する。

●岡崎城址…神奈川県伊勢原市岡崎~平塚市岡崎
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※写真は岡崎城本丸跡に移転した無量寺。
鎌倉時代に三浦義明公の御実弟で猛将名高い岡崎義実(よしざね)公によって築城された。
本丸跡の無量寺裏手には、三連の郭と、堀切が非常に良好な状態で現存する。寺境内地を外れ農道を回り込むと辿りつける。
縄張(なわばり=城の設計)は典型的な扇谷上杉家流の群郭式縄張と沼田に囲まれた平山城。周囲は縄文時代~弥生時代の古代に海だったので沼地だった。
室町時代には三浦家を相続した佐原三浦家の城と成った。
戦国時代初期に小田原を攻略した北条早雲・氏綱親子によって攻められるが、三浦道寸(どうすん)公が籠城する岡崎城は守り堅く、攻略に10年を要した。
佐原三浦家は相模守護として相模国内の大半に領地を保持したが三浦時高が当主の代に犬懸(いぬかけ)上杉家の上杉禅宗が鎌倉公方(くぼう=将軍)の足利持氏(もちうじ)公に反抗して引き起こした❝上杉禅宗の乱❞の際に、三浦時高は犬懸上杉家を支持した為に戦後、鎌倉公方によって相模守護職を解任された。
永享の乱の際に最初は足利持氏(もちうじ)公に属したが、後に相模守護を解任された経緯も有って裏切り、鎌倉を占領し山内上杉勢と室町幕府勢を誘引した。
時高は無嗣(むし=男児がいない)の為、戦後、元鎌倉公方家臣の扇谷(おおぎがやつ)上杉家の上杉氏定の孫の三浦高救(みうらたかもと)公が扇谷上杉家から三浦家に養子に入り継いだ。三浦高救公の実子が三浦道寸どうすん)公。
三浦道寸公の嫡子が明治時代に流行した架空時代劇小説❝桜の御所❞の主人公でヒロイン❝小桜姫❞の恋人役の❝三浦 荒次郎 義意(よしおき)❞公。
三浦高救公は実家の扇谷上杉家当主が討死した際に、三浦家を子の義同(道寸)公に相続せ御自身は三浦の家名を捨てて実家の扇谷上杉に復姓しようとするが、養父の三浦時高は所領が扇谷上杉家の傘下に入る事に成ってしまう事から怒り、三浦高救公・道寸公親子は三浦家から追放された。
暫(しばら)くして道寸公は、この岡崎城で挙兵し三浦家に復帰し三浦時高は死亡した。その後、岡崎城は小田原城の北条家によって落城させられる。

●住吉城址…神奈川県逗子市小坪
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※写真は住吉城址内に築城時から建っている住吉神社。
住吉神社には住吉城址の説明看板が有る。住吉神社の削平地と石段下の削平地も往時の城の曲輪の名残りと思われる。
築城年代は定かでは無いが、要塞としては鐙摺城の旗立山の逸話に登場する❝小坪辺りで三浦軍と畠山軍が開戦❞と有るので、その際に三浦家が陣取っていたのが、この住吉城址と推測出来る。つまり要塞としての歴史は平安時代末期に遡(さかのぼ)れる。
本格的に城として運用されたのは室町時代の様で、現在の京急神奈川駅付近に存在した権現山城(ごんげんやまじょう)で起きた権現山合戦時に、伊勢盛時(北条早雲)が後詰(ごづめ=救援部隊)として❝住吉要害❞に入城した記録が残っているので、この頃に改めて戦国時代の城として改修されたと思われる。
城址は正覚寺~シーサイドコート逗子望邸~海前寺に及ぶ山城で近年まで遺構も存在したが❝シーサイドコート逗子望邸❞の開発によって破壊された。
又、城址には❝住吉神社❞があり、その背後には馬場に通じる抜け道の隧道が存在するが封鎖されてしまった。寺の参道の目の前にも封鎖された古道が有り古代の東海道の街道の一部と考えられている❝切通し❞が現存するが、逗子市が城址と古道史跡の保護を怠(おこた)った為に宅地化され塞がれて通行不可能な状態に成ってしまった。
北条家と三浦道寸公・義意公親子の抗争時、この城には道寸公の実弟で義意公の叔父に当たる三浦道香が城主として在番しており岡崎城を落とされ逃げて来た兄の三浦道寸も共に籠城したが、結局は北条家によって攻め落とされ、三浦家終焉の舞台、新井城まで撤退する事に成った。

●網代山海蔵寺…三浦市三崎町小網代
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曹洞宗の寺院で三浦義同(よしあつ)道寸公によって開基された寺院で、三浦道寸公、三浦荒次郎義意公の菩提寺。
新井城址に当たる油壷マリンパーク近くに三浦道寸公と三浦義意公の御廟所を所有する寺院でもある。
新井城址北側の港である小網代湾の直ぐ傍に在る事から、往時は新井城址の北の鬼門鎮護の寺院だった事も推測出来る。
寺名から三浦道寸公の実家である扇谷上杉家が開基した臨済宗の鎌倉市に所在する扇谷山海蔵寺と無関係では無いと推測出来る。
本来、扇谷上杉家も佐原三浦家も臨済宗の信徒だが、この海蔵寺が曹洞宗なのは曹洞宗の信徒であった伊勢氏流北条家の伊勢宗瑞(北条早雲)公が道寸公・義意の供養として御茶湯領を保護した際に改宗して曹洞宗と成った可能性が有る。
※網代山海蔵寺は原則一般参詣不可、非公開。檀家信徒の参拝だけ可能。
明治時代の小説❝桜の御所❞の小桜姫伝説を流布した自称霊能者とカルト団体のせいで、道寸公と義意公に敬意も無ければ仏教に対する信仰心も無い観光客が本堂も拝まずに帰ったり、建築物だけ写真を撮って帰る等の乱入が相次いだ為の処置。
※私見だが歴史偉人の菩提寺としては当然の対応で、カルト団体と自称霊能者と商業利用しようとした連中に問題が有るので御住職の御心痛は理解出来る。


●新井城址…神奈川県三浦市三崎町小網代

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※写真は諸磯湾の対岸側から見た新井城址遠景。
佐原三浦家の室町時代の本拠地。同地は現代の神奈川の景勝50選の一つでもある。
日本史上最長の約4年間の継続した籠城戦の舞台。
城址の主要部分は現在、油壷マリンパークと東京大学関連施設のある断崖の半島上に築かれた連郭式平城だった。周辺の城塞群と引橋を含めた巨大な群郭式の体を成しており、南・北・西を諸磯湾・小網代湾・油壷湾に囲まれており堅固な城塞群だった。
遺構は略(ほぼ)消滅したものの、東大関連施設内には部分的に土塁が残存、又、周辺の地名に❝引橋❞や❝千駄矢倉(せんだやぐら)❞等が残る。周辺にも引橋を置いた堀切の痕跡と思われる道幅程に削平地の幅がくびれた場所が数ヵ所残る。小網代側には住宅街に井戸も有る事から、海に突き出した籠城戦に際しても水不足に成る心配は無かった事が窺(うかがい)い知れる。

三崎漁港側の三崎城まで城域に含むと主張する説が有るが同説は根拠が無い。完全に別の城である。同時期に運用された可能性は比定出来ない。
※新井城落城時の悲話
(老夫婦の自害)
現在の三浦市南下浦菊名の❝引橋バス停❞付近に戦国時代当時に新井城の外郭の引橋(ひきばし=戦時に格納し敵の侵入を防げる橋)が存在した。その近くで当時は❝六万本の坂❞と呼ばれており茶屋を営む老夫婦が居住していた。
ある日、その老夫婦は相手が北条家の密偵とは知らずに、城と殿様の自慢話をして新井城の事を根掘り葉掘り解説してしまった。後日、老夫婦は、その人間が北条家の密偵で有った事を知ると老夫婦は「殿様に申し訳ない事をした」と心中してしまった。
これと類似の話が藤沢市の大庭城の船地蔵にも有るので、北条家は敵城偵察の際に地元の老人に話を聞く事も諜報活動の一環にしていたようだ。この老夫婦の悲話を三浦市発刊の郷土資料でも正式に紹介している。
(三浦義意公の妻女(側室とも)の最期)
現在の油壷マリンパークの半島上に新井城の主要部分が存在した。いよいよ小田原北条家(小説と小桜姫伝説では金沢北条家)の兵が新井城の主要部分に攻め込んでくると成った時、城主の三浦義意公の妻女は船で諸磯側に逃げた。その場所が諸磯神明社の辺りと現地で伝承するが、結局、三浦義意公の妻女は敵方北条家に捕縛されてしまった。小説では自害と脚色されている。
尚、小説内では結婚すらして居らず相思相愛のまま敵味方として最後まで戦い、思い人三浦義意公が新井城落城後に自害し、小桜姫が後追い自害したシナリオに成っている。
実際は兄の真里谷信隆公が北条家に亡命して庇護下に在った事や、新井城落城から約50年後に武田信玄の水軍大将として駿河で活躍し江戸時代に徳川家康公の水軍大将に成り間宮造酒之丞家として存続した間宮家分家の初代の間宮信高公は娘が真里谷武田家に嫁いだ姫である事から、北条家中でも真里谷武田家の血縁者が凄惨な扱いを受け殺害されたとは考え難い。
小桜姫伝承には不自然で小説中の脚色が史実と混濁されていると考えると自然。恐らく自害しておらず剃髪し門跡寺院だった鎌倉の松岡山東慶寺辺りで尼に成るかして生き延びたと考えた方が当時の価値観からしても自然だろう。

個人的な希望としては間宮家や鎌倉に居た千葉家分家臼居家に再嫁して名の残らない女性人物として幸せに成ってくれていた方が、前夫三浦義意公も安心するのではないかと個人的には思うが・・・
・・・脚色としては夫を思い自刃した方が小説としては美しい悲話に成り盛り上がるのだろう。

●新井城址の荒井浜海水浴場・・・三浦市三崎町小網代(こあじろ)1036
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新井城址の油壷マリンパーク裏手に在る海水浴場。和田長浜と並ぶ神奈川県内屈指の水質の良さを誇る隠しプライベートビーチの様な神秘的な雰囲気の有る海水浴場。夏季は素敵な海の家も営業し、浜辺には蓼科高原の白樺湖畔のペンションの様な素敵な民宿も通年で営業している。
水質の良さから何と河豚(ふぐ)が産卵に来る程の場所でもある。
マリンパークの直ぐ横なので、恋人や子連れ家族でマリンパークの水族館やイルカショーを見学てから来ても良いし、周辺には海鮮料理のレストラン食堂も数軒有り、観光地としても良い。
この浜辺には新井城で生活した三浦義意公と奥方の真里谷武田家姫君も一緒に仲良く散歩したかも知れないので、思い人や恋人と一緒に散歩に来れば三浦義意公と真里谷武田の姫の御威徳に肖(あやか)れて恋愛も成就するかも知れない。普通に散歩に来るだけでも素敵な場所。

●新井城址の弁財天様(小桜弁財天と誤って紹介されている)…神奈川県三浦市三崎町小網代
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小桜姫に縁結びを求めてくる巡礼者の多い場所だが実際は小桜姫とは全くの無関係な弁財天様。
但(ただ)し強い御利益あり、遭難して行方不明に成った江戸時代の漁師の身内が霊夢を得て、御告げの通り、この洞穴に祀られている弁財天様の折れた首を繋げて差し上げた所、三浦で遭難した漁師は無事、藤沢市辺り(鵠沼海岸辺りか?)に漂着して、徒歩、油壷へ帰還した。人命救助でも強い御利益が有る上に、元来、弁財天様は男神にモテた印度神話のサラスバティー神なので、当然縁結びの御利益も期待出来る。
何より強い御神威を発揮された事績が有るので、縁結びで御参りすれば御利益が有るはず。
※但し、小桜姫と関係ないので弁財天様として参拝して然るべき。

●小桜姫神社(諸磯神明社の摂社:若宮社に合祀?)…神奈川県三浦市三崎町諸磯
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本家本元の小桜姫神社。しかし小桜姫の名前は一切無い。
神明社本殿裏手の摂社群の内、左から二番目の若宮社に小桜姫が合祀されていると教えられた。
明治時代に流行した❝小説:桜の御所❞のヒロインとして登場する架空の人物の小桜姫と、地元に伝承する史実では(小田原)北条家による新井城攻めの際に、三浦義意公の妻女か側室が諸磯神明社の土地に実際に逃げて来たものの敵勢に発見され最期を迎えたとされる。
諸磯神明社は説明看板の字の劣化が激しく、現在、何が書いて有るかサッパリ読めない。
神明社なので主祭神は天照大神で間違いないだろう。
この話の姫君を小説と混同し小桜姫と比定して若宮社に合祀したのが始まりだろう。
若宮社とは本来は鶴岡八幡宮の御分霊である。しかし明治時代の廃仏毀釈運動と神仏分離令のせいで多くの八幡社は弾圧の対象となり消滅した。理由は八幡宮の主祭神:誉田別尊(ほんだわけのみこと)応神天皇は明治時代以前まで❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の象徴であった為だ。
平安時代以来の日本全国の八幡宮の総本社である石清水八幡宮には現在も仏像を安置する部屋が残されているし、鶴岡八幡宮の境内は明治以前は現在の横浜国大付属中学の敷地全てを含み壮大な仏教施設を持つ神宮寺が併設されていた。
❝若宮❞と言うのは、鶴岡八幡宮は造営当初は現在地ではなく由比地区に存在し、源頼朝公によって現在地を本社とて新たに造営された為に、❝旧の社殿より若い❞と言う事から鶴岡八幡宮の別名が若宮八幡宮と鎌倉時代当時に呼ばれていた名残りだ。よって鶴岡八幡宮の参道は現在も❝若宮大路❞の名で呼ばれている。
由比の八幡社は現在❝由比若宮❞と名付けられ再建されているが、元々は❝元鶴岡八幡宮❞と一般的に呼ばれている。
つまり、諸磯神明社の小桜姫神社は本来は鶴岡八幡宮の御分霊を頂いた若宮神社だったが、神仏分離令による破壊を免れる為、もう一つは先述の通り地元の姫の悲話に、後から架空の小桜姫の名前が融合し、廃社の危機にあったであろう若宮社=八幡社に小桜姫を御祭神とする事で存続を図ったと思われる。
しかしながら実際の姫君に小桜姫の名が合わさった形式なので、真里谷武田家の姫君として若宮社を御参りすれば実在した真里谷家の姫君にも三浦義意公にも縁結びの御利益を授けて頂けるんじゃないかと思う。但し、若宮社の本来の御祭神は八幡大菩薩=応神天皇=大鞆別命(おおともわけのみこと)なので、先に八幡様に御挨拶した上で真里谷武田の姫にも御挨拶をするべき。

●本瑞寺…神奈川県三浦市三崎町
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三浦義意公が戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に造営した寺院。その後、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した。
移転先に選ばれたのが源頼朝公の❝桜の御所❞と言う別荘地だった現在地だった事もあり、鎌倉時代の三浦家以来の御寺と勘違いされる方も少なくない。
平安時代末期~鎌倉時代は本瑞寺の丘と、対岸の城ヶ島には桜が植林されており、源頼朝公・源頼家公・源実朝公の将軍家三代に渡って遊覧の地と成っていた。
御当地は戦国時代の北条氏規の居城の三崎城址の一部だった。昭和初期まで土塁も一部残存していた事が三崎町公認の三崎城の縄張図から確認出来る。

●小桜観音…神奈川県三浦市三崎町城ヶ島
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古くから縁結びの観音様として有名な場所だった様で、実際に現在も縁結びの御利益が有るとされる。
名は本来は観音様であり、洞穴内に観音菩薩像も有るが近年、小桜神社に列しようとする動きが有った様で神道形式の真新しい御神体(鏡)が観音様を横に置いて洞穴の入口に正対する様に設置されている。
あくまで観音様なので、観音様を拝むと縁結びの御利益も有ると思われる。
又、観音様へ小桜姫への願掛けを御願いするのであれば、小桜姫の名の初出展となる小説❝桜の御所❝の世界観を大切にしたいならば、実在した先人に対して不敬に成らない様に実在した三浦義意公の奥方の「真里谷武田家の小桜姫様」と祈願の際に御名を念じて然るべきだろう。
尚、当時の三浦家の居城は城ヶ島対岸の三崎城でも無いし城ヶ島でも無いので、明治時代に小説のロケ地として推定され小説のファンが訪れたのが、小桜観音の名で呼ばれる様に成った理由と推測出来る。
同地には小桜神社と小桜観音両方の名が有るが、小桜観音自体の石積み等文化的な状況が仏教文化なので観音様として祀られていた歴史が先である事が明らかに解る。
実際に縁結びの御利益が昔から有った場所だから、後に小桜姫ロケ地巡礼の一つに成った事も推測出来る。
※何れにせよ、強い縁結びの御利益が有るのだから、「観音様と、小説の小桜姫様と、実在した真里谷家の姫君」として三方の名を思いながら祈願すれば神仏の加護を得られるのでは無いかと思われる。

●三崎城址…神奈川県三浦市三崎町
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※写真は嘗ての三崎城下水軍基地だった北条湾からの三崎城址の丘の遠景
伊勢氏北条家(小田原城主)の一族で名将の北条氏規公の居城。
築城年代は不明。
三崎城下の入江は北条家の三浦水軍の基地だった事から、現在、漁船の係留地は北条湾の名で呼ばれる。
城址の遺構は土塁と空堀は大部分が宅地化や学校建設で破壊されたが、搦め手側に土塁が一部残り、大堀切や部分的な曲輪の地形も大体の形を残して生活道路に成っている。
築城年代に関しては、三浦氏統治時代にも新井城の一部だった説が有る。
三浦義意公の開基した本瑞寺が三崎城址内に移転したのは江戸時代の事なので、当初は入舩地区に本瑞寺が造営されている事もあり戦国時代初期の三浦家の統治下では現在のメインストリートである三崎銀座商店街より更に南の平地に所在したので、三浦統治時代は漁村程度で水軍の船溜まりが在った可能性は否定出来ないが城塞が在った可能性は低く、新井城の出城説は全く確証が無い。
又、近くの海南神社は元々は筌籠弁才天と呼ばれ平安末期~鎌倉時代初期に三浦一族の和田義盛公によって開かれた弁才天様として有名だったが、やはりこの海南神社の参道も入舩地区へと続いている。
三崎城を鎌倉時代からの新井城城砦郡として含めるのは無理が有り、小桜姫伝説を利用した観光誘致の為に、城ヶ島を組み込む目的で三崎城址まで新井城の一部と無理な解釈をする動きに見える。
仮に小規模な要塞が平安末期に存在したとしてもあくまで新井城とは別の城。

三浦市以外の小説:桜の御所の小桜姫伝説のロケ地と伝わる場所
●天野神社…神奈川県愛甲郡愛川町坂本
三浦義意公と恋仲に成った小桜姫は、北条家と三浦家の双方の所領を天野神社辺りで中津川を挟んで、待ち合わせの相図に御互いに手鏡の反射を用いて連絡として、恋仲の逢引(あいび)き=男女の関係を繰り返した。
しかし、有る時、三浦家の敵方に小桜姫は三浦家の本城の秘密を漏らしてしまった事から三浦義意公によって誅殺されたと伝わる。
※当時の愛川町一帯の領主は津久井城主内藤家の分家で、佐原三浦家の領地は愛川町には存在しない、当然相模原側にも存在しないので完全なフィクション。また、佐原三浦家の居城は初期は岡崎城、後に新井城なので津久井の内藤家は全く関係ない。
※三浦家の居城、新井城の構造を北条方の密偵に騙されて漏らしてしまったのは、現在の神奈川県三浦市南下浦菊名の❝引橋バス停❞付近に当時本当に在った新井城の外郭の引橋(ひきばし=戦時に格納し敵の侵入を防げる橋)の近くで当時は❝六万本の坂❞と呼ばれた場所に居住した茶屋を営む老夫婦だと伝わっている。
又、この老夫婦の逸話を三浦市発刊の郷土資料でも正式に紹介している。
※観光客誘致のモデルとして御当地の別の伝承に小桜姫と三浦義意公を混同させたと思われる。
※愛川町が小桜姫伝説を混同した原因と考えられるのは、平安時代には三浦半島の津久井を治めた三浦一族の津久井家と、津久井城を治めた内藤家も鎌倉時代から存続した家と家伝に伝えていた為に混同されたと思われる。尚、津久井城主内藤家は北条家臣に成ったので、この史実も小説:桜の御所の小桜姫と整合性が無い。更に、津久井城主内藤家は北条家の津久井衆を編成し統治を任される身分だったが、その祖先を鎮守府将軍藤原秀郷と明確に自称している事から、やはり愛川町の小桜姫伝説は小説の話と地元の実在した事件の伝承の混同か、観光地としてのロケ地化宣伝に由るものと推察出来る。
※当然、実在した人物の伝承を混同している可能性が当然高いので、昔から縁結びの御利益が有ったであろう天野神社を御参りすれば縁結びの御利益が得られる筈(はず)。

さて…
纏めると
●三浦義意公の実際の本妻と側室は真里谷武田家の姫君なので、真里谷家の姫君として小桜姫を参詣しないと歴史に矛盾が出るし、三浦義意公にも側室の姫様にも失礼です。
●油壷の弁財天は小桜弁財天はなくて、漁師を遭難から救った強い御利益の有る弁天様であり、弁天様自体が男神にモテまくった神様だし美しい女神様だったから当然、縁結びを御利益出来ます。但し、小桜姫じゃなくて縁結びの弁天様として御参りしてね。
●小桜姫神社の場所は、諸磯神明社の摂社です。場所は本殿の後ろに並ぶ摂社の左から2番目の若宮社です。ただし、モデルに成った元からある三浦義意公の奥さんに纏(まつ)わる地元の伝承の神社の場所が諸磯神明社なのであって、明治時代の神仏分離令や国家神道の都合上、主祭神は天照大神です。小説の小桜姫様=実際の真里谷武田家の姫様に御参りする場合は「小桜姫様と伝わる真里谷家の姫様」と名を呼んで差し上げて然るべきです。
●小桜姫伝説は根本的に明治時代の小説、❝桜の御所❞が初出典であり創作ですが、実在した様々な時代の戦史や人物がモデルに成っています。舞台も実在した新井城で主人公の三浦荒次郎義意公は武勇に長けた名将でした。なので、新井城主三浦義意公と奥方に敬意を持った参拝をして下さい。
●もし、本当に小桜姫のモデルに成ったであろう真里谷家の姫様は三浦家をリスペクトするのであれば、紹介した神社仏閣や城址を巡礼しては如何でしょうか?自分の都合だけで縁結びを御願いしても、神様や仏様に成られた先人からすれば「何、この自分勝手なお願いしかしない奴?」と成るでしょうから。

【小桜姫以外で三浦半島付近の日本神話に登場する由緒正しい縁結びの神様の聖跡】
小桜姫伝説とは無関係ですが、ちゃんと神奈川県神社庁に認められた延喜式外社の神社で日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)様の夫婦神に関する神社が存在します。当然、縁結びの御利益は最高でしょう。

●走水神社…神奈川県横須賀市走水
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走水は現存する関東の地名で唯一の古事記にも登場する場所。
日本武尊と弟橘姫の夫婦神が一緒に過ごした御所ヶ崎の近くに建つ縁結び、勝負運、交通安全、漁業に強い御利益が有る神社。
走水神社本殿の地下には日本武尊が奉納した冠を入れた石室が埋蔵されていると伝承したが、近年の本殿改修で実際に石室の蓋が発見された。開封されず社殿再建で石室を埋蔵し、そのまま地下に保管されている。
同神社近くの御所ヶ崎で御二人が過ごされ、かつて弟橘姫を単体で御祭りしていた御所ヶ崎の砂が縁結びの御守りとして無料で配布して頂ける。大伴黒主と伝わる人物が御二人を歓待したと伝わるが、同様の伝承が神奈川区六角橋にも伝わり、六角橋の地名由来は日本武尊が使用した箸が六角形で大切にされた事から六角橋の地名に転化したと伝わる。そして六角橋の久応山宝秀寺が日本武尊を歓待した大伴久応の邸址と伝わる。この六角橋の大伴久応と走水の大伴黒主は恐らく同一人物か一族だろう。
古代の大伴家は古代の天皇=大王の近衛部隊を率いた軍閥であり、一族の佐伯氏ともども水軍を率いた人物なので六角橋~三浦半島にかけて勢力を誇ったのだろう。
走水では大伴黒主は漁師で海鮮料理人でもあると伝わる事から、まず水軍関係者で間違い無いだろう。
走水神社は普段は宮司不在だが、氏子様が交代で在番しており御朱印も頂けます。

●宝秀寺・・・神奈川県横浜市神奈川区六角橋
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太平洋戦争等の戦火や各時代の火災で古い物は存在しないが、門前に神話の時代(弥生時代頃)に日本武尊一行を歓待した大伴久応の土饅頭=陵墓型の供養碑が有る。その大伴久王の邸址と伝承する聖跡に後世に成り寺院が建てられた。
実は背後の丘陵は戦国時代まで神大寺と言う恐らく権現山城(京急神奈川駅近く幸ヶ谷公園~本覚寺一帯に在った城)の戦いだと思われる戦火で焼けた大寺院が存在した。名前の通り神様との関係が推測される事から、神大寺は日本武尊と弟橘姫を祀る寺院化した聖地だったと推測出来る。これ等の推測と宝秀寺の伝承を補強する史実として周辺の三枚橋町辺りに“店屋”の地名が残り亀甲峠と呼ばれた神奈川区浦島~新横浜駅篠原口へ繋がる丘は古代の街道だった。そして店屋の意味は古代大和朝廷の官営の駅伝制つまり伝達手段の馬の交換地点の事で、既に弥生時代後期頃には古墳時代に駅伝制の基地が置かれる前身の集落が形成されていた可能性が高い。
更に、神話では日本武尊に大伴部と吉備家の軍団が与力として与えられている事実が日本書紀に記載されている。この大伴部の部は部落の部で有り、古代の部落と言うのは一族が固まって住む集落の意味であるので港湾を抑えた水軍一族の大伴家が全国から集まり日本武尊を援護した事が推測出来る。
これらの走水の伝承、宝秀寺の伝承、神大寺の存在と寺名、三枚橋町周辺の古代地名の店屋の全てはリンクしており、更に佐伯一族大伴家が水軍豪族だった史実と天皇の近衛武将だった事もリンクしている。
余談だが源氏所縁の鶴岡八幡宮も宮司家は戦国時代まで大伴家だった。

●橘樹(たちばな)神社…神奈川県川崎市高津区
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弟橘姫が、日本武尊の房総半島への渡海の神事で東京湾に入水した後に、遺品の装飾品が流れ着いた場所が現在の橘樹神社の所在地で、神社の社殿の真裏の宅地化されてしまった丘陵は弟橘姫の古墳と古来から伝承している。
時代を経て橘樹神社の境内地は縮小し、宅地化により古墳の大部分は消滅したが古墳の最頭頂部は部分的に現存し、保護されている。
弟橘姫の古墳なので、当然、縁結びの御利益は強い。

以上、❝久良岐のよし❞による小桜姫と三浦家関連の史跡群と史実と伝承の解説でした!

…まだまだ紹介しきれてない❝真のパワースポットを抱える神社仏閣❞が沢山あるので、早く書きたいと思っています。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

※本記事は時間が無くて写真未掲載ですが、順次、実際の場所の写真を差し込んで行きます。

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07月10日②の休日雑記の続き。
三連休をとり、三浦半島を旅行した11日最終日、朝は宿泊地の三崎漁港、その三崎に戦国時代に小田原北条氏が三崎衆を編成し戦国後期の三浦水軍拠点として運用した❝三崎城址❞周辺を散策し、鎌倉時代に源頼朝公が❝桜の御所❞と言う別荘を置き同地に戦国時代の初期に三浦義意(よしおき)公が開基した本瑞寺(ほんずいじ)を訪れた事、その本瑞寺と三浦義意公のイメージで創作されたのが小桜姫伝説の基に成った❝桜の御所❞と言う小説だと言う事を前回の休日雑記で紹介した…。


実はこの日、2016年07月11日は道寸公と義意公が、日本史上最長の4年間と言う籠城戦を戦い抜いた新井城(油壷マリンパークの半島が主要城址)の落城から500回忌に当たる。

この三連休、訪問の一番の目的は❝三浦道寸公と三浦義意公の命日❞の御廟所参詣と献花だった。
その為(ため)、車に乗り込み三崎漁港を後にして最終目的地の❝新井城址❞=油壷マリンパークの半島へ向かい、先ず予(あらかじ)め三浦道寸、義意公の御二方の菩提寺である❝海蔵寺❞に御住職を訪問する前に、道寸公の名を冠した❝道寸餅❞と言う銘菓を売る❝なこう❞と言う御当地の和菓子屋を訪れた。
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ここは小生、三浦に良く来るように成り始めた頃、道寸公の名を冠した看板が目に留まり道寸餅を購入して以来の御付き合いに成った。
小生は三浦家と北条家、不運にも主家古河公方家の内紛によって敵対した両家の武将に尊敬する偉人がいる。
特に崇拝しているのは、1人は小田原北条家の名将北条綱成公、もう1人が三浦義意公、両将とも智・仁・勇を兼備した名将だったが義意公は家運に恵まれず、韮山城主で北条家創業者の伊勢盛時公と其(そ)の子の氏綱公によって攻め滅ぼされる事に成った。
両家とも素晴らしい名将を多数輩出している。
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※道寸餅
道寸餅を自宅用と、海蔵寺様への奉納様に2揃(そろ)え用意して貰い、御住職との面会の準備も整い海蔵寺へ移動。
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海蔵寺は小網代の森の西の端、長い階段の上に所在する三浦義意公の御父君の三浦道寸公が開基した御寺だ。
道寸公と義意公の御廟所へ参詣の許可を御住職に頂いていたが、御寺と離れた御廟所を参詣する前に御住職に御挨拶に伺った。道寸餅は、その菓子折り。
御住職は小生と同じで、先人への尊敬や神仏への信仰心を持たない❝俄(にわ)か歴史ファン❞と❝エセ歴史学者❞が大っ嫌いな人物。
御住職がそう成ったのには、いい加減なデマの小桜姫伝説を広めた霊能者気取りの人間と、ソレを商業化しようとした連中に責任がある。
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この明治時代に流行した創作時代劇小説❝桜の御所❞を史実と鵜呑みにした無学な霊能者気取りの人物が書いた史実と全く異なる小桜姫伝説を信じ込んだ連中、つまり騙された人が大挙して押し寄せた事が有った。
先人を冒涜する行為に成る自覚もしない❝御寺マニア❞と❝縁結び巡礼の女性❞が、信仰心も先人への尊敬も無く大挙ズラズラと集団で御寺を訪問し、本堂も拝まずに帰ったり、油壷マリンパーク横の(新井城址)に飛地の海蔵寺寺領にある道寸公と義意公の御廟所に無許可で入る不法侵入が横行してしまったのだ。
御住職は、小桜姫を実在の人物と誤認して心霊スポットとして広めたエセ霊能者詐欺師に怒り、無礼不見識な女性達に嘆(なげ)いておられる。
だから、海蔵寺は一般非公開にせざるを得なく成った。
ちなみに、そのいい加減な小桜姫伝説に踊らされた霊能者気取りの人物はTVにも良く出る江原と言う人物だ。
でも本当に彼に霊感が有るなら、小説と史実の相違も気が付くだろうしウソくらい気が付いただろう。
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御住職様には、小生が平安時代の平良文(たいらのよしふみ)公以来、三浦義継公、三浦義明公等の歴代三浦家の殿様を尊敬し御廟所を参詣している事、道寸公の御実家である扇谷上杉家の所縁の神社仏閣も巡ってきている事は御存知なので❝海蔵寺参詣と御廟所への献花の自由❞を認めて頂いている。
それでも、御廟所を御参りする前には、ちゃんと御住職様には御挨拶に伺い、本堂で御参りしてから油壷の御廟所を訪問する事にしている。
この日も御住職に御会いして、改めて御廟所訪問の御許可を頂いた。
丁度御寺では500回忌もあり、経塚を建設されるそうで御住職様から小生へ最初の33人の納経者に成る様に光栄な役割を依頼されたので写経用の和紙を受け取り、一週間後に納経に来る約束をして海蔵寺を後にした。
新井城址と海蔵寺周辺の位置関係は下の衛星写真の通り近い。
正しい小桜姫神社の神社の位置新井城址周辺の位置関係 久良岐のよし
しかし、周辺は城址と言うだけあり、地形は複雑に谷が入組み直進は出来ず、車では10分程かかる。
海蔵寺の在る小網代湾は新井城址の北側の湾で、水掘り不要の半島城の頑強な守りを担っていた。
つまり海蔵寺~新井城址の遺構残存部は直線距離にして1km程と極近い。
現在、関東大震災による三浦半島の隆起と海岸の埋め立てで、小網代~新井城址まで徒歩で海辺伝いに行く事が出来るが、戦国時代は新井城址の半島の岸壁は海波に洗われていたので鎧武者の行く手を阻む海だった。
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駐車場に車を停めて、おみやげ物屋の御婆さんに久々の挨拶をしてから御廟所へ移動。
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花は近くのコンビニで売っていたので2揃え2組、合計4本の花束を購入した。
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先人への敬意から、御廟所の写真は撮影しない主義なので、御廟所入口に海蔵寺さんが建立した新井城合戦石碑を掲載する。
この奥に三浦義意公の御廟所、一段下がった恐らく戦国時代は物見曲輪か船着場だった場所に道意公の御廟所が在る。
無事、献花を終えてから、油壷の浜に降りて海沿いを散歩しながら地元の人々が弁天洞として崇敬する洞窟に向かった。
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弁天洞へは荒井浜から廻るのだが、この日は道寸公の御廟所の方の浜をユックリ散歩しながら遠回りして相模湾の景色を楽しむ事にした。
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この三浦半島の磯は場所々々で異なった風景を見せてくれて飽きない…
米が栽培できない地質なので、却(かえ)って様々な西欧野菜の栽培が盛んに成った。
東京湾と相模湾と太平洋の三方に面しているので、様々な種類の魚も獲れる。
その上、天気が良いと江ノ島~大山~丹沢~箱根~伊豆~富士山が一望出来る。
だからこそ、逗子・葉山・秋谷・佐島・三崎は明治時代~昭和中期まで別荘地として富裕層が集まった。
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そして、相模湾側は太平洋から直接潮流が流れ込む上に、人の多い湘南地区からも離れているので海水の透明度が高い。
この日は面白い写真が撮れた。
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波が、隆起した縦の地層にぶつかり真上に飛沫(しぶき)を上げる瞬間。
こんな場所をゆっくり散歩していると、岩場は段々険しく成り、そうこうするウチに❝江原が二重に勘違いして小桜姫神社と嘘の紹介をしてしまった弁天洞❞に辿(たど)り着く。
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小生はココ話しは三浦家家臣の御子孫に教えて頂いた。
一般人は探し出せないだろう。
昔からここは弁財天様が祀られる様に成ってから❝弁天洞❞だった。
先に正しい民話を教えて頂いていたので、❝霊能者気取りの人物が誤認して広めた誤った小桜姫伝説を歴史オタクの小生の知識とと三浦同寸研究会の見解で正しておく❞事にしよう。
この油壷の新井城址の弁天洞は小桜姫弁財天と言う名前では無い
ここの弁天様は昔から辨財天とだけ呼ばれていた
※何故辨財天が鎌倉文化圏で洞穴と遊水地に祀(まつ)られるか以前書いた【】の記事の中の【宇賀福神社=銭洗い弁財天】の紹介で触れているので、其れを参考にして貰いたい。
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この油壷、新井城址の弁財天様については、改めて独立記事で詳細に紹介するが、ここは❝漁師が遭難して行方不明に成った際に、折れていた弁天様の首を元通りに繋げて願掛けをしたら、行方不明に成った漁師が藤沢辺りの浜に流れ着き、生きて帰って来る事が出来た御利益の有る弁財天様❞であって、小桜姫伝説とは全く関係ない。
多分、霊能者気取りの人物は何かの明治時代の浅野と言う名のカルト宗教家が同じ様に小説❝桜の御所❞と言う本を読んで事実と誤解して書いた本か何かを更に鵜呑みにした挙句、良く調べもしないで新井城址に在る神社だから小桜姫神社として紹介してしまった訳だ
実は、小桜姫神社は油壷ではなく別にちゃんと諸磯神明社の摂社として存在する。
正確に言うと、そこは小説桜の御所の小桜姫と、地元の新井城址籠城戦の時に三浦義意公の奥方が避難した諸磯で敵勢に捕ってしった秘話が合わさり、小桜姫神社のモデルと成っている。
霊能者気取りの人間の事実誤認は御粗末過ぎて、多くの宮司様や和尚様、郷土資料を司る学芸員サンや司書サン達と交流のある小生からすれば…
「へぇ~霊能者ねぇ~(笑)」
「霊能者なら小説と本当の史実の相違点に気付くだろうに(笑)」
「まして小説の登場人物設定は金沢北条氏、この時代の北条氏は伊勢氏流北条氏で時代に誤差200年を筆者が故意に設定し事実誤認を招かない様にして下さっているのに(笑)」
「義務教育で散々習う❝鎌倉幕府❞と❝下剋上❞で勉強してる筈(はず)なのに無教養って不幸だね(笑)」
…と言った感想しか湧かない(笑)。

ところで、油壷の弁財天様は如何(いか)にも鎌倉文化圏らしい場所に祀られている。

この弁天様が洞窟にいらっしゃり、且(か)つ偶像崇拝の対象に成っているのは、三浦家や三浦半島の人々が鎌倉時代以前からの源氏の御家人であった事から、その文化を受け継いだ名残だろう。
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鎌鎌倉には銭洗い弁天=宇賀福神社と言う場所が在る。
そこを訪問すると文化の変遷に興味が無い人でも鎌倉文化の弁財天信仰には色んな神様が習合されているのが良く解る。
古代日本の豊かさの象徴の神様だったのは❝宇賀神=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)❞だ。
宇迦之御魂神は別の漢字で❝=倉稲魂命(うかのみたまのみこと)❞と書くので、名前からしても縄文後期~弥生時代頃に米穀類の水耕栽培が始まって穀物を保存できる様に成った頃に誕生された神様だろう。
日本の神の系譜で倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は、須佐之男命=素戔嗚尊(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)の間に生まれた神様だ。
南関東の❝延喜式内社❞の古社全てが素戔嗚尊や其(そ)の御神孫の出雲系の神、又は日本武尊(やまとたけるのみこと)か伊勢系と異なる土地神様が主祭神だ。
この事実と考古学と神話の整合性から、素戔嗚尊が縄文時代から弥生時代に変革させた、つまり稲作を関東地方に導入せしめた人物が神格化さた神号(しんごう=偉大な人物に死後送られる神としての名)だろうと思っている。
素戔嗚尊が稲作を普及させた王だからこそ、その妻が奇稲田媛(くしなだひめ)と名に稲田の字が入り、子が倉稲魂命の漢字を当てられる神に成ったのだろう。
 ↓
その後、日本武尊は青銅器導入を南関東一帯に普及させて弥生時代を終わらせた人物だろう。走水神社の西暦100年代の伝承とも整合性が有る。この時代には既に先進地域だった北九州の王族達は中国と交易によって青銅器を導入していたから恐らく間違いない。古代の大将軍や関東知事として九州の叛乱を鎮定し東日本に青銅器を導入し軍事編成を整えた偉大な王子に当てられた神号が日本武尊だったのだろう。
 ↓
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平安時代末期~鎌倉時代初期に成ると経済活動が米穀や海産物等の直接の備蓄出来る食物の物々交換から、❝貨幣経済❞に変わった事で豊かさの象徴が❝米穀❞から❝銭=金❞に変わった。だから源頼朝公によって財神として日本で信仰されていた宇迦之御魂神=宇賀神=倉稲魂命に、古代インドの財神である❝サラスバディー❞を漢字訳した弁財天が習合された。
だから、鎌倉文化圏や三浦半島では弁天様や宇賀神を湧水地や洞穴に祀る習慣が今も残る。

鎌倉時代~室町時代に成ると、武士達に弁財天は水神であり軍神でもある事から泉や海の航行の神様としても信仰される様に成った。
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その最も有名な場所が欽明天皇が勅願所と定めた霊場の洞穴に、源頼朝公が八臂弁財天(はっぴべんざいてん)を奉納し祀(まつ)った写真の江ノ島辨財天だろう。
関東の鎌倉御家人の関係した土地の弁天社は、この江ノ島弁財天の御分霊が多いはずだ。実際、関東の弁天社の大半は鎌倉武士団の居館跡や城址、又は武士が鶴岡八幡宮から勧進した八幡社に近在する。

幕末に成り武士の時代を変革しようとし始める維新志士たちの勢力が胎動しだす頃、伊勢神道による思想統制をされ、明治時代に成ると❝国家神道❞が正しいとされた事で水神様として弁財天と似た御神威を持つ❝一杵島姫(いちきしまひめ)❞が習合された。

明治時代に成り近代化が進むにつれて、時代遅れの印度由来~中国経由の仏教文化を否定する風潮が強く成り、更に明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動で仏教経由の古代インドの神である弁財天が否定され、現存する昔は❝倉稲魂命信仰❞から始まった全国の❝弁財天❞信仰の御社(おやしろ)は❝一杵島姫❞に名を変える事に成った…

新井城址の洞穴の弁天様は遭難した漁師を生還せしめた強い霊験有る弁天様だ。
弁財天様=サラスバティー神は美の女神でもあり、2柱の男神と結婚した神話も有るので縁結びの神様としての御利益も有る
だろう。
ただし!ちゃんと小桜姫では無くて、弁財天様として崇敬すればだろう。
…それも一方的に「男と結婚させてくれ~良い彼氏と付き合わせてくれ~」と信仰心や、神社仏閣に関わった歴史偉人へのリスペクトも無くただ御願いする人は、神様にも仏様にも怒られるだろう。
小桜姫は小説の架空の人物だが、名前が小桜だったかも知れない、実在した三浦義意(よしおき)公の奥方と側室は別にいる。房総半島の小大名、真里谷武田氏の二人の姫君だ。
だから、小桜姫と呼ばれたかも知れない真里谷家の姫に縁結びを御願いする成らば、「真里谷の小桜姫様」と名を正しく呼んで、小説の架空の人物の金沢北条家の小桜姫と分けるべきだ。
もっとも、当時の女性が歴史書に名を残す事はほとんど無く、小桜姫の名が登場するのは明治時代の歴史ファンタジー小説❝桜の御所❞が最初なので、縁結びを姫君に御願いするなら「真里谷の姫様」に御願いするべきだろう。
ではどこに行けば❝三浦家の奥方様が逃げて来て敵に捕まった伝承の有る小桜姫神社のモデルに成った御社の所在地❞に行けるのか…
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明治時代に小桜姫神社のモデルに成った伝承の有る場所には、弁天洞を後にして、駐車場を戻る道すがら荒井浜の御洒落(おしゃれ)な海の家の前を通り、この新井城址を離れる必要が有る。

せっかく、小桜姫伝説(江原の嘘を含む)の場所に2箇所も関わったので、明治時代の小説❝桜の御所❞の流行で正しい小桜姫神社の❝小説のモデルに成った舞台❞として明治時代以来、地元の人々に認知されている正しい小桜姫神社にも入ってから横浜に帰る事にした。
正しい小桜姫神社の神社の位置新井城址周辺の位置関係 久良岐のよし
正しい小桜姫神社の場所は、三浦義意公の奥方が逃げて来た伝説の有る油壷湾と反対側の❝諸磯湾❞側の❝諸磯神明社❞だ。
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こちら側から湾を挟んで新井城址が見える。
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又、詳しく小桜姫伝説と小桜姫神社の真相の解説は独立記事にするが、今回は重要な事だけ書いて置こう。
江原は恐らく小桜姫神社を探そうとしたが、新井城址に神社らしいものが無いから弁天洞を小桜姫ゆかりの場所と紹介してしまったはず。
そりゃそうだ、小桜姫神社なんか昔から存在しないが、モデルに成った神社なら存在する。
だから小桜姫神社の名前を探しても見つからなかった筈だ。
しかも、明治時代の❝小説桜の御所❞の流行による観光客の増加で観光客に対応する為に小桜姫神社とされている場所も、この諸磯神明社の摂社の❝若宮社❞だから名前も根本的に違う。
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※写真は鶴岡八幡宮、神仏習合の名残で仁王像=金剛力士像が安置されたいたであろうスペースは廃仏棄釈により随神門と成っている。
※鶴岡八幡宮の東側、鎌倉国宝館や横浜国大付属小の場所は鶴岡八幡神宮寺の寺院部分だった。
※八幡宮の総本社、石清水八幡宮の本殿横には今も仏像を祀る部屋が現存し保存されている。
若宮社と言うのは、源頼朝公の時代の「鶴岡八幡宮」の事だ。鶴岡八幡宮は元々は❝元鶴岡八幡宮❞=❝由比若宮❞に在った。それを頼朝公が現在の鶴岡に社殿を造営し御遷座され奉ったので、当時の人から見て新しい鶴岡八幡宮は❝若い鶴岡八幡宮❞=❝若宮❞と呼ばれた。だから、この時代に関東で鶴岡八幡宮の御分霊を頂いて造営された八幡社は現在も名前を❝若宮八幡宮❞とか❝若宮神社❞と呼ぶ場所が多い。
しかし、八幡宮の御祭神は明治時代に成るまで❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の神宮寺だったので、歴代天皇家の価値観を否定する明治時代の国家神道による神仏分離令や廃仏毀釈と言う愚かな政策で、其の多くが破壊された歴史が有る。
だから、今残ってる八幡社の多くは御祭神の名前を❝八幡大菩薩❞から→❝八幡大神❞に変更して純粋神道の神様としたり、八幡大菩薩が習合された❝誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇❞の名を改めて主祭神とする事で存続させる努力をした歴史が有る。
だから、諸磯神明社の若宮社は❝小桜姫の神社❞とする事で存続を計ったのだろう…
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なので、世間で小桜姫神社と呼ばれるこの御社は❝小桜姫若宮社❞と呼ぶのが正しいと思う。
その御社は、諸磯神明社の本殿後方に並ぶ摂社の左側から二つ目の上の写真の御社だ。
これは、郷土史も読まないで適当な事を言う❝エセ霊能者❞には解らないし探し出せない場所だろう(笑)。
或いは本当に偽霊能者達に霊能力が有れば、ここを探し出せたろうに(笑)。

根本的な話しを強調し繰り返すが…
❝小桜姫❞と言う人物は歴史文献に一切出て来ないし、明治時代に成って初めて登場する名前だ。
史実では三浦義意公は、真里谷(まりやつ)武田家=房総半島の武田家の姫君が正室と側室として婚姻関係にあった。
この姫と、三浦家を攻めた北条家の立場を入れ替えて三浦家滅亡後に三浦半島~鎌倉を支配した北条家に逆襲し房総から攻め込んだのが正木家(三浦家分家)で、その合戦は❝鶴岡八幡宮合戦❞と呼ばれている。
この合戦や北条家と三浦家の立場を入れ替えて、かつ源頼朝公の桜の御所跡地に建つ本瑞寺のイメージと三浦義意公の新井城落城等を素材にして書かれたのが明治時代の小説❝桜の御所❞で、そこに登場するのが真里谷家の姫君と桜の御所のイメージをモデルにしたと思われる❝小桜姫❞と言う架空の人物な訳だ。
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※写真は城ヶ島の小桜観音。

だから、結婚したくて縁結びの小桜姫詣でをする女性陣には、いくつか諫言(かんげん)をしておこう
小桜姫の実家設定の金沢北条家は三浦義意公の生誕の約200年前に滅亡している、だから小説家も小桜姫を架空の人物でフィクションとして、色んな史実を混ぜて創作している事を念頭に置きなさい。

歴史家でも無いイカガワシイ人間が適当に書いた本を鵜呑みにしないで、自分で歴史書を読み込んで調べなさい。そんな姿勢じゃ❝ロクでも無い男に捕まる❞か❝結婚詐欺に遭う❞だろう。」

「確かに、弁天様や若宮社には御利益が有る、小説のヒロインの小桜姫の聖地(小説舞台)巡礼が流行したのが原因で、後に小説の存在と歴史を知らない後世の人によって、いつの間にか小桜姫が実在したと誤認される様に成ったが、実際には三浦義意公の奥方と側室の真里谷の姫がいたので、拝む事で真里谷の姫の御利益も得られるだろう。だから小桜姫の御名の下に縁結び祈願するなら小桜姫神社(神明社摂社社若宮社)で❝真里谷の小桜姫❞として拝みなさい。小桜姫と言う名が架空の名でも、正しい姓に美しい渾名(あだな)を加えるならモデルに成った真里谷武田家の姫様も喜んで願いを叶えてくれるだろう。」

油壷の弁天様は小桜弁天では無く弁財天なので❝弁財天❞として拝みなさい。

「普段から歴史や神様や先人に対して無関心な癖に願い事だけしている、その利己的な姿勢が出会いを遅らせるのでは?態度を改め、普段からの歴史と伝統を大切にして神社仏閣を御参りしなさい。」

「エセ霊能者に一々影響されず、利己的に縁結び巡礼するだけでなく、普段から自分の祖先神の氏神様と守護仏、或(ある)いは自分の崇拝する教会やモスクの神様を大切にして普段から信仰と文化と歴史を大切にしなさい。

まぁ、それだけ熱心に願掛けする情熱が有るなら、普通に普段から文化と伝統を大切にして、通りがかる神社仏閣を御参りしながら利己的な願掛けじゃなくて日常的に神様と仏様と御先祖様を大切にしてれば、歴史好きな男性や神職や跡取り和尚様等と知り合い、そこが男性との出会いの場に成るかもよ?

…そんな説教をしたく成る女性の何十人もの集団を見かけた三浦旅行最終日だったが、色んな神社の宮司様や御寺の和尚様と交流の有る歴史オタクの❝説教❞としてはそんな所かね。

帰りは横須賀PAで好物の日本蕎麦を食べて帰った。DSC_3598
信仰の在り方や、神社仏閣や先人に対する姿勢を考えさせられる最終日だったが、実際に廻った場所全て素晴らしく、行く先々で関わった人々も優しく親切で沢山色んな話を出来て良い三連休を過ごせた。

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07月10日①の休日雑記の続き。
2016年07月10、早朝の城ヶ島散歩を終え、ホテルに帰り用意されていた朝食を美味しく頂いた後、朝風呂に入り、その後の予定を確認してからチェックアウトの時間までユックリ二度寝させて頂いた。
この日の昼前の散策予定は三崎城址と、当時から存在する周辺の史跡。そして三崎町の観光漁港うらりでの昼食がわりの買食いだった。

ホテルを出て、三崎漁港の駐車場に車を移動し、最初に訪れたのが商店街を抜けた先に在る北条湾…
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ここは現在、漁船の係留される場所に成っているが、戦国時代末期には三崎城の城将、北条氏規(うじのり)公が三崎城主として管理する三浦半島水軍の根拠地として漁船の他に軍船も係留されていた軍港だった。
北条家の水軍基地だったから❝北条湾❞と現在呼ばれる訳だ。
不運な運命で、主家古河公方家の外交政策によって、それまで同輩(ともがら)だった小田原北条家と佐原三浦家は敵対せねばならぬ間柄に成ってしまう。
これが、前回の休日雑記で紹介した❝小桜姫と言う架空の人物❞が明治時代に作り出された物語の基に成った史実だ。しかし小桜姫の基に成った奥方はいた訳で…DSC_3482
まぁ、その話は又、改めて解説するとして、釣鐘状の形をした北条湾の付け根に行くと橋が架かっていて、その名も❝北条橋❞と言う。そして写真右手に見える丘一帯が三崎城址だ。
成る程、海は穏やかで城址は江戸時代の石垣城では作り出せない扇谷上杉流と北条流の築城術のコラボ城址らしく、堅固さの基に成った自然の断崖が城郭外側に構えている。
北条湾の直ぐ横には❝諏訪神社❞が在る…
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城しか調べない学者、戦史しか調べない学者、宗教哲学しか調べない神職僧侶がいるが歴史と言うのは自称❝歴史オタク❞の小生に言わせれば、宗教施設の伝承や記録、城址周辺の地形、城主の崇拝した神様の種類と仏教の宗旨を把握していないと色んな事を見落としてしまう。
例えば戦国時代の北条家は軍神として、この❝諏訪神❞か❝八幡大菩薩❞を城の守護神として城址近くに祀る傾向が有る。
南関東の山城として良く雑誌でも紹介される津久井城・伊豆箱根山中城等は、正にその典型だ。
ここ三崎町の諏訪神社はきっと多くの水軍武将達の崇敬を集めた事だろう。
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ところで、戦国時代も後半に成ると、北条家は初期に編成していた❝五色備え❞と言う方面軍制度を解体し、軍隊編成を地方別所属制に切り替える。
この三崎城は❝三崎衆❞の拠点と成り、鎌倉郡の一部と三浦半島の武将達で構成される編成と成った。
そこに小生の町、横浜市の❝宅間上杉家❞の殿様も三崎城主:北条氏規公の与力として編成された。名を宅間上杉規富(のりとみ)公とおっしゃった。
氏規公から一字拝領した様で、名には❝規❞の字が入っている。宅間上杉家の通し名は❝憲(のり)❞後に❝乗(のり)❞の字に成っていた。宅間上杉規富公も恐らく最初は❝上杉乗富❞と名乗っていただろう。
さて、この諏訪神社は改めて、いつか解説記事を書くとして…
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ここから三崎城址の遠景を見て、改めて三崎城址の丘の東端の一帯は雑木林もあり土塁等の遺構が有りそうだと推測、地形的にも武士達の住む根古屋(ねこや=城将達の集落)とする谷戸(やと=谷の入口に関所を設けた住宅地)に打ってつけの地形だったので、登城口として怪しそうだと推測した…
三崎城推定範囲 久良岐のよし
諏訪神社を降りて、付近の住人の方に質問をした所やはり上に登れる歩道が有るとの事で、そちらから散策する事にした。
三崎城も、いずれ詳細に解説を書くので今回は端折(はしょ)って散歩した時の写真を載せると…
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もう、如何にも北条家の山城でございと言った定番の細さと屈曲した道。
多くの現地を自分の足で廻って自分の目で確認しないバカ学者と雑誌記者と自称歴史家は「三崎城址は跡形も無い云々」書くが、小生が地元の人に現地でリサーチして実際に登って見ると土塁も一部現存し、更に大堀切なんかがちゃんと生活道路としても残っていた。
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その場所は戦没者慰霊堂、ここが三崎城址東端で諏訪神社から見えた雑木林だ。
あの細い道を登ってくると、腰曲輪と思しき崖の上の削平地が有り、そこから台地上に繋がる場所には大人数の通行を制限し行く手を阻む構造の土塁状の盛土と、土塁を切った入口状の道が現存していた。
これ、御城ファンなら小生ならずとも見た瞬間に…
「あ、これ多分搦め手の虎口だな」
…と、解るだろう。
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この削平地を囲むように土塁状の盛土が残っている。もう間違いなく当時の土塁遺構だろう。
土塁はここしか確認出来なかったが三崎城址は、ここを通り過ぎて更に旧三崎中学校を過ぎると、閉鎖された福祉施設辺りの地形は出丸の様な掘り切られた場所に橋を架けて有ったり、土塁は現存しないモノのそこかしこに縄張りを予測可能な地形が残っている。
旧三崎中学校の前には城址案内看板が有った…
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が!
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…しかし看板の白化が激しくて見えない(笑)。
丁度、先程の土塁や堀切と推測した場所の成否も確認したかったので、市役所に移動。
市役所の方を通じて、三崎町の教育委員会で三崎城址に御詳しい方にアポを取って頂いて、詳細を御教授頂く機会を得る事が出来た。幸運だ。
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なんと、三浦市役所の来朝者対応部門以外の各施設は旧三崎中学校の校舎に移転しており、なんだか不思議な感じだった。
もう丸っきり中学校の校舎。日本の中学校に入ったのはもう云十年ぶりだ。
昼の中学校にオタクが忍び込んで変な事をしている様な危ない感じ(笑)?
ここでは、城址が破壊される前にちゃんと編纂した資料が有り、赤星直忠氏著作の「三浦半島城郭史」と言う本を御紹介頂き縄張り図もコピーを下さった。
そして、小生の質問に一々丁寧に御回答下さり、この縄張り図を渡される前に話した小生の推測が完全に調査内容と一致する事から御関心頂けたのは、歴史オタク冥利に尽きる今回の旅で一、二、の光栄な出来事だった。
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因みに入手した縄張り図はこれ。
小生が予想出来無かった事もいくつか有って…
・旧三崎中学校を取り巻く車道が、実は埋め立てられた空堀の跡だった事
・北東の谷は自然地形では無く、人工的に掘り切られた大空堀の跡だった事
・現在の旧中学校と市役所付近の失われた土塁の構造
・旧中学校校庭に大手口からの最期の関門の❝馬出し状の枡形❞が存在した事
…これらは三崎町教育委員会の方に詳細に御教授頂けなければ解らない失われた遺構だったので、本当に三崎市役所と三崎町教育委員会の皆さんには感謝しないといけない。
いずれ、宅間上杉家の殿様達の顕彰文を書く際に、この感謝の便も盛り込みたい。

さて、三崎城址は改めて事細かに書くとして、城址の一角に在る本瑞寺に久々に御参りに行って来た。
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ここも改めて解説記事を書くが、鎌倉時代には源頼朝公の別邸で❝桜の御所❞と呼ばれた。最初本瑞寺は現在の三崎銀座商店街の在る入舩(いりふね)地区に室町時代、三浦義意公が御寺を開基された。しかし三崎町が大火に度々遭い類焼したので、現在の旧頼朝邸桜の御所の旧跡地に江戸時代末期に移転して来た。
そして、先程話した古河公方の外交政策が元で勃発した北条家と三浦家の抗争と、この桜の御所のイメージを合わせて明治時代に村井弦斎によって執筆された❝創作小説「桜の御所」❞の架空の登場人物が前回の休日雑記で書いた小桜姫なのだ。
…つまり、これが小桜姫の由来、実在しなかった歴史事実と矛盾して、現在小桜姫信仰が熟女や独身女性に人気に成った正体だ。
この❝小説:桜の御所❞は都新聞(現:東京新聞)に掲載された連続時代小説で、現在の人気ドラマの様に凄まじい反響があり、そのロケ地とも言うべき三浦半島のモデルに成った場所に、いまで言う❝聖地巡礼❞の様に全国から旅行に行く人々が増え、そのモデルと成った神社仏閣や城址に参拝客が増えた。
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これが時代が下って、訳の分からないエセ霊能者❝浅野馮虚(ひょうきょ)❞と言う歴史を知らない人物が❝実話❞と勘違いして❝霊的(笑)❞に研究して本を執筆したので世間の混乱に拍車をかけてしまった(笑)。
実際には三浦義意公の本妻も側室も二人とも房総半島の真里谷(まりやつ)武田氏の姫君で、小説内に登場する小桜姫は金沢北条氏と設定されている(笑)。
三浦義意公は室町時代1500年代初頭の人物。架空の人物である小桜姫の家、金沢北条氏はそれよりも200年近く前の鎌倉幕府滅亡時に滅亡した家で、戦国時代の北条家とは全く関係が無い(笑)。これは原作者の村井弦斎が、読者を勘違いさせない為に架空の話とわざわざ解る様にした設定だった筈なのだが…
大体の女性は学生時代に真面目に歴史なんか勉強しないし、根本的に歴史に興味何か無いから、エセ霊能者の勘違いを鵜呑みにして騙される。
もっとも、浅野馮虚(ひょうきょ)の名を、日本語で訓読みに翻訳すると…
浅野馮虚(ひょうきょ)→馮虚(ひょうきょ)→馮(つく)虚(うそ)→うそつき
…と成る(笑)。だから、浅野馮虚自体も恐らく詐欺の自覚が有ったか、ギャグや三文霊能雑誌程度のつもりで執筆活動をしたのに人気が有る案件だったので妄信する輩が増えてしまったのだろ。
では、小桜姫関連の信仰が御利益が無いかと言えば…そんな事は無い。御利益は有る。何故なら小桜姫のモデルに成ったであろう三浦義意公の御正妻と側室の真里谷家の姫君は存在したから。
これについては、改めて次回の休日雑記で小生が古文書漁った知識と、三浦道寸研究会の副会長様の御見解と合わせて詳細に話そうと思う。
…エセ霊能者、本職の神職・僧侶・歴史家をナメるなよ!
三浦義意公の開基したこの本瑞寺の檀家サンが歴史を編集した小説を頂いたり、詳しく説明をして頂けたり大変、良くして頂けた。感謝。

ついでに言っておくと…
縁結びの御利益が欲しい女性は、「クレクレ言うだけじゃなくて、ちゃんと先人を敬い歴史を勉強し、御墓参りをして、三浦道寸公や三浦義意公が開いた神社仏閣や城址を廻り、小桜姫と言う架空の名前だけでは無くて❝真里谷の姫❞と実際の実家の名前で尊敬の念を表しなさい」って事だ。
…歴史を知らない偽霊能者のデマに踊らされた挙句、先人に「クレクレ」言うだけの乞食みたいな願掛けして感謝も表せないと天罰が下るぞ!
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さて、散歩に戻る。
本瑞寺の山門を下ると、実は三崎の鮪料理店として有名な❝黒羽亭❞と、寿司屋❝紀の代❞の前に出る。
以前、紹介記事を書いているので興味有る方は参考にしてもらいたい。
※【カテゴリー:旅行(風景/お祭り/食事/買物)】の中の【和食全般/居酒屋/懐石料理/旅館】の分類で書いて有るので、その中に解説記事が有る。
この三崎の商店街は昭和の風情と幕末~大正期の蔵屋敷の名残がある町で、遠洋漁業が海外拠点主流に成り寂れたが古い街並みは、ユネスコ世界無形文化遺産の❝チャッキラコ❞と言う祭りや、夏の海南神社の例大祭には活気が戻り漁師町の様相を復す。
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チャッキラコについては以前記事に書いて有るので【カテゴリー:お祭り】から探して貰えば詳しく書いて有る。
平日で人気の少ない商店街を抜けて、三崎の観光漁港❝うらり❞へ買い食いに向かった。
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ここには小生オススメのB旧グルメが有る。
三崎町観光協会は何故か三崎鮪ラーメンやトロ饅なんてゲテモノをプッシュするのだが、もっとシンプルで凄く美味しい物がここには有る。
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この店で売ってる❝鮪の串カツ❞と❝鮪コロッケ❞だ。
小生は10年ほど前に三崎漁港に良く遊びに来る切っ掛けが出来て、それ以来、三崎に来ると絶対にここの鮪串カツを食べる。
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値段も安いし、本当に美味しいから是非、皆にも食べて欲しい。
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小生は新商品の鮪軟骨入りのメンチ串揚げと、コロッケと串カツの三個をこの日の昼食にした。
ふむ、美味だ!本来B級グルメってこういうシンプルな物の筈だし、これは本当に美味しいし、どの店でも作れるのだから三崎町はこれを特産品にするべきだと思う。
これなら御土産にもなるんじゃないかな?
❝うらり❞は観光漁港なので他にも鮪の珍しい部位の肉が売っていたり…
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豊富な海産品、三浦の農産品もそろっている。
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城ヶ島に磯遊びに来たり、三崎に鮪を食べに来たら、是非、この❝うらり❞にも顔を出すと、良い御土産が揃う。
あと、今回写真は無いが黒羽亭の❝トロカルビ串❞と言うスパイス効いたタレで付け込んだ鮪の干物も御進めの逸品だ。黒羽亭は❝うらり❞に出店していないので、店で購入するしかない。

さて…
三崎漁港と三崎町の散策を満喫し、三浦市役所と三崎町の教育委員会の方、本瑞寺サンに大変親切にして頂いた事を感謝しつつ、今回の3連休とってまで三浦に来た目的の本命、❝三浦道寸公と三浦義意公の500回忌の献花❞をする為、車に乗り込み油壷に移動した…

③へ続く⤵️

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