歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

神奈川や訪問先の郷土史や歴史偉人、美味しい郷土料理、美しい風景をなんとな~く紹介するブログです。
皆さんが御自分の地域の郷土史や自然に興味を持ってくれたら嬉しいな~♪
写真と本文ともに無断転用禁止!転載したい場合は当方へ確認願います。

熊本大地震と阿蘇山噴火は南海トラフのガス抜きと成るか・・・
はたまた慶長の豊後国・伊予国・山城国伏見の連動型大地震の予兆で南海トラフ大地震に繋がるか?

戦国時代の歴史事実を見ると・・・
1、1582年に日本の真ん中で浅間山が噴火。この年に武田家滅亡。
2、1596年9月1日に南海トラフ沿いに豊後水道海底で大地震発生。伊予国が甚大な被害受ける。
3、1596年9月4日に南海トラフ西の端の豊後(阿蘇山東側)の地盤が圧迫され大地震発生。
4、1596年9月5日に慶長伏見大地震発生。
東寺・二尊院・大覚寺・天龍寺・伏見城天守閣等が崩壊。
伏見城内だけでも死者600人以上。
高槻市で地滑り発生。
尼崎市・神戸市で液状化現象発生。
被害地域は香川県・兵庫県南部・大阪府全域・京都府南部に及ぶ。
5、1707年12月16日に富士山が宝永の大噴火。
小田原藩潰滅。北関東まで降灰。
噴火当日の首都圏は火山灰に覆われ空が暗転、湘南地区は大気中の火山灰の摩擦による放電で激しい落雷を観測。

これを見ると、南海トラフは連動して大地震を呼ぶようだ。
最初に日本の真ん中で噴火➡西の端で大地震➡四国➡京阪神(この間20年)➡関東富士山大噴火(この間約100年)と来ている。
日本の❝溝❞の延長に火山が有る。 久良岐のよし

今回は21年前に先に阪神淡路大地震が起きている。その後戦国時代と同じ様に約20年後に中央構造帯で噴火地震が連動した。
つまり南海トラフや京都直下型も東海大地震も、いつ起きてもおかしくないんじゃないだろうか?
富士山噴火や関東大震災は前例で言えば80年後に来る。
でも100年なんて誤差の内だろうから、備えはシッカリしないといけないね。



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熊本は大参事です。
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以前の記事で箱根よりも熊本の阿蘇山の方が危ないと書いた時に、馬鹿じゃないかと批判の書き込みをした奴がいた。
おい!その時に指摘に対して「馬鹿」と書いたやつ、今の惨状を見て何か言う事無いか?
その時の記事が↓コレ
箱根は安全です。バカTVマスコミの過剰演出を鵜呑みにしないで下さい。箱根は熊本の阿蘇山、静岡の富士山、鹿児島の桜島より安全な状態です!
あのな、ちゃんと地理と歴史を見ていれば、なんとなぁ~く…
「あぁ、火山が有るのって盆地と平野の近くの高い山が連なる地域だなぁ~」
とか
「あ~高い場所から真っすぐ川が海に流れ込まずに海と平行に流れたりしているのは、そこに断層が有って海岸線と平行の断層が有るからなんだなぁ~」
とか
「そっか、平野ってのは恐竜のいた頃から地震が頻発して地形が破壊されてるから山が無くなるんだな」
とか❝感じる❞もんなんだよね。
そんでもって、ずっと火山が噴火している様な場所は、大地震がいつ起きてもオカシク無いなんて馬鹿でも解る様になるんだな。

そこで…
この九州地図を見てみましょう。
日本の❝溝❞の延長に火山が有る(九州)。 久良岐のよし
実は豊後水道をまたいで、四国から一直線に山が連なってるんだよね。つまり、ここがプレートが押し上げられている場所って事。
だから、その延長線上に火山が有ったり、その山の横が不自然に一直線の平野や谷の扇状地が繋がってる訳さ。
で、日本地図を見ると、この線は阿蘇山~神奈川県の大山まで繋がっていて、その途上には富士山や箱根なんかも有る。
日本の❝溝❞の延長に火山が有る。 久良岐のよし
そして、この線の有る場所が全部、南海トラフ大地震や関東大震災の原因に過去成った断層が集まってる地域なんだよな。
郷土史を歴史オタクとして漁っていて、縄文時代の終わり頃から歴史の有る古い神社の氏子サン達と話したり神事を取材したり、御城オタクとして地形マニアに成ってくると面白い事が解る…
実は神奈川県は弥生時代や古墳時代までかなり内陸まで海だった。
高部屋の海岸線
そして、古い延喜式内社と言われる神社は全て、その古代の湾に沿って存在している。
つまり、今では内陸に成ってしまっている神社の所在地も、昔は海から近い場所だった訳だ。
そりゃそうだよね、現代の国家神道と違って明治時代の神社の神事や貴族武士の祭事には「アワビ」とか「ホンダワラ」が必要だったんだからさ。
海が近くないと神事が出来ないもんね~。
そこら辺の話は、以前書いた高部屋神社の記事を見て下さい。

そしてそして…
2014-07-27-19-06-56
県内の延喜式内社で、恐らく一番古い歴史の有る伊勢原市の大山阿夫利神社の奥宮でもある御神体の大山の標高1252mの山頂からは何と何と「サンゴ」の化石が大量に出土されるんですね。
つまりね…
あの最初の画像で小生が指摘した赤い線は、日本の地下の大きい地面と地面の板が上に擦れながら捲(めく)れ上がっている場所が、あの赤い線の通りに繋がってる山々の❝長大な尾根❞と谷間なんだよね。

そして、前回の東日本大震災で日本の右っ側が大きく動いた訳さ、そんで今回は左側(阿蘇山)が動いた訳ね。
つまりね、馬鹿でも解り易い様に、朝日小学生新聞社って子供向け新聞の画像を借りて見ると…
朝日小学生新聞社様公式から拝借 久良岐のよし
もう、まんま…
大山なんかピンポイントでプレートが3つも重なってる。
そして南海トラフに押し上げられた地域が、正に小生が指摘している大断層と言うか、まぁ、押し上げられてる地球の割れ目な訳よね。
だから、その上はいつでも地震が来てもオカシク無いし、東北側で太平洋プレートが動いて、今回はユーラシアプレートが動いたんだから、地面が「キュっ!」と両側から押し込まれたフィリピン海プレートが次は危ないんだよね。
だからさ、この感触だと阿蘇山の延長線上の南海トラフ大地震と、大山周辺に続く活断層で起きるだろう関東大震災、最悪の場合は富士山や箱根周辺の大地震や火砕流も発生する訳よね。

だからさ~
古代史と地理と明治以前の地名はちゃんと勉強していないといけないんだよ。
そして神奈川県民として提言が有ります。

林文子市長、中田前市長、黒岩知事、松沢前神奈川県知事にお願いです。
神奈川県民として熊本県民に物資や支援金を送付したいのですが個人単位では熊本県に迷惑になります。
県に窓口をつくり、崩壊のリスクの無いレジャー用のテントや食料品や支援金の寄付を公募し、県として一括輸送し寄付する組織を編成願います。
そのように、黒岩知事、林横浜市長や県下諸市長と神奈川県選出国会議員で連携し、御協力頂きたく県民としてお願い申し上げます!
賛同してくださる方いれば、上記の首長に陳情願います。
個別支援より先方の迷惑に成らないように県単位の支援を!オール神奈川体制で!
迅速で大量の継続した支援は、被災地を助けるのに個別の支援より有効です。

黒岩県知事ホームページ掲載リンク→【事務所連絡先
松沢前県知事ホームページ掲載リンク→【事務所連作先
林横浜市長連絡先横浜市市民からの提案TOPリンク→【市民からの提案問い合わせ先
※林市長は直接陳情を聞けない様な事を沢山している為か、事務所のホームページは見つかりません。市長失格かな…。
中田前横浜市長ホームページ掲載リンク→【問い合わせ先
参考に歴史上南海トラフ連動型の慶長地震書いた記事もどうぞ「ここ」←クリック!
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日本三名城の一座、熊本城の本丸に聳える特殊な積みかたの石垣「武者返し」と、天守閣。
被害が出たが瓦が落ちて、石垣が崩落しただけで、粘土を何層も塗り固め強度を増した土の土台は「ビクともしていない」と言う、日本の築城技術の耐震性の凄まじい高さ・・・
驚愕の技術だ。

熊本城天守閣及び櫓門等諸施設は、西郷さん率いる薩摩軍30000人によるの西南戦争熊本攻めの際、籠城する谷干城率いる政府軍1400足らずで防衛に成功した鉄壁の堅城だが、政府軍撤退の際に敵軍に利用されない為に放火され一度全て灰燼に帰している。
しかし、築城当時の設計図や写真が豊富に残っていたので、現在建物が復興された。
また、建磐龍神~阿蘇都彦・阿蘇都媛~熊襲尊(くまそたける)~阿蘇家・菊地家~加藤家~細川家と誇り高き気概と文化を継承する肥後モッコスと熊本の女性達が必ず石垣と天守閣を復興させてくれるだろう!
頑張れ熊本!
阿蘇家の御膝下古代の益城郡に住まう民達!
小生も横浜から資金を送ります。
http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2016041502000226.html?ref=rank
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先週末
土曜日は某博物館の図書館へ絶版の資料文書を漁りに…

翌日午前中
小机城址祭りを例年通り見物。
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港北区長サンの演じる北条家五色備えの白備え隊の大将:笠原信為公は今年も武将然として男前だった。
この区長さんは渋いイケメンだな。
笠原信為公は詩歌に造詣が深く文化人であったと同時に、大曾根城主・小机城と白備え隊の代官だった方で合戦の実績も豊富。そして鶴岡八幡宮再建の大事業等でも総奉行を務めたズバ抜けた実務能力の持ち主だった。
今の港北区長さんは外見も笠原信為公に相応しい。

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今年は雨が降らずに良かったですね、武者行列の参加者御一同…
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う~ん、女武者も凛々しいぞ!
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そして今年の個人的MVP…
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今年の御姫様役の地元の先生、めっちゃ可愛い(笑)!
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侍女さんかな?この方もおしとやかな雰囲気で和装が良く似合う。
今年は天候にも恵まれて、申し分の無い御祭りが開催出来たようだ。

苦言を一つ。
防子委員長、今年も城址祭りのアナウンスで、石垣城では無い小机城を石垣城と勘違いしたまま解説文章読み上げるのは「横浜市の恥」なので、早く改善して下さい。


京都から歴史好きな人物が京都から神奈川に出張してきてたので、横須賀を案内した。...
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大津町の信楽寺・・・
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坂本龍馬さんの奥さん御龍サンの菩提所。

走水神社・・・
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日本武尊と弟橘媛様神話の神社。
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一応、歴史の概略を伝え奥社まで案内した。
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奥社から走水湾の風景と走水海岸も案内した。
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本当に漁村。

かねよ食堂・・・
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走水海岸のお洒落なレストラン
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鮪のカルパッチョ
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鮪のフライ
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と、海鮮丼みたいな?三浦の鮪とシラスと芽若芽の丼。
相変わらず美味しい店だった。

その後、友人を駅まで送り届けてから、自分の仕事で移動…
京都から友人が来たので、自分の仕事有るのに案内したのは大変だったが、喜んでくれたのでまぁ、よし。

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前回、前編で油壷マリンパーク一帯が戦国時代初期に日本史上最長期間の約4年間の籠城戦の舞台に成った新井城址だったと紹介しました。
※前回の新井城址の記事「ココ」←クリック!
その時に少し触れましたが、この新井城址でもある、現在の油壷マリンパーク周辺は若い人は知る人も少なくなりましたが、昭和の初期~バブル期頃、ヨット遊びをする富裕層にヨットハーバーとして人気だった場所でもあり、そして風光明媚な場所として明治時代から有名な観光地でもありました。
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その景色は❝かながわの景勝50選❞の一つに選ばれています。
小生の景勝地カテゴリーの他の記事にも、いくつかかながわの景勝地50選に選ばれている所もあるので、綺麗な風景に興味の有る人は見てみて下さい。
油壷マリンパークの手前に、この油壷湾に降りる遊歩道の入口が在(あ)ります。
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ちょっと解り難い、この場所が遊歩道の入口です。
ごちゃごちゃ民宿の看板が有る場所を目標にして下さい。
ここを歩いて行くと、新井城の解説や油壷の説明の看板が所々に有るので、それを見ると、この地域の事が少し解って良い散策に成ります。
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こんな感じ。
で、さっきの神奈川の景勝50選の石碑の場所は、エメラルドグリーンに光る油壷湾の入江地形を観察できる場所でもあります。
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ここの地形は変わっていて、三浦半島の西の端っこに、更に小さい半島が3つ分岐して並んでる珍しい場所なんですね。その3つの半島が更に小さい半島に分かれています。
新井城周辺 久良岐のよし
義務教育で習うリアス式海岸と言う地形です。
この半島の御蔭で入江が形成されており、波が穏やかなのでヨットハーバーとして人気な観光地だった訳です。
石原裕次郎さんや加山雄三さんが若い頃に、逗子マリーナや葉山マリーナや、この油壷ヨットハーバーに船で遊びに来ていたらしいです。
世代が違うので、聞いた話ですが。
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因みに、油壷マリンパークは現在も若いカップルに人気の水族館でイルカのショーを関東でもいち早く行った場所でして、皇族の秋篠宮殿下と御妃に成られた紀子様が若かりし頃にデートをされた場所でもあります。
因みに、当時、お二人が召し上がったのがカツカレーと聞いて「庶民的だなぁ~」と子供ながらに思いました。

さて、今回はメインは油壷の風景なので、マリンパークや港の話題はここまでにして、遊歩道と海岸の風景写真を紹介していきます。
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油壷周辺の散策路については、上の写真の看板がマリンパーク手前200m位の所にあるバス停留所に有るので、写メ撮って参考にして見て下さい。
無論、この画像を拡大して見ても良いと思いますが不鮮明でしょう?
油壷は、バブルが弾けて以降、大分と過疎ってますのでバスの運行数も少ないので先にチェックして置いて下さい。
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本当に少ないです。
駐車場はマリンパークの前にも有りますし、この停留所は平日は確か駐車無料かな?
小生はこのバス停前の駐車場を利用しました。
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で、遊歩道の先程の場所に話を戻します。
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ここは、明治の文豪にも愛された景勝地だったので、歌碑が立っていたりします。
そして、小田原に居住していた北原白秋が、この三浦も愛して三崎町に住していた時代も有り三崎町から程近い、この油壷を好んで散策に来たそうです。
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まぁ、本当に海岸を歩くと綺麗ですからね。
この歌碑を過ぎ遊歩道をズンズン歩いて行きますと…
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この分かれ道に出ます。
この道を右に降りて下さい。
そうすると…
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この砂浜に出ます。
この砂浜は両脇が岩礁の磯でして、その風景も又綺麗です。
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この磯が関東大震災で隆起した、明治時代には海底だった場所ですね。
この磯の横には、何かホテルっぽい建物も有りましたが営業はしていませんでした。
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冬だったので、夏に行けば何か有るのかも知れませんね。
その建物の手前には、遊歩道入口に書いて有ったBBQ施設か海の家と思しき建物も有ります。
多分、ここは若い人にはマイナーな砂浜なので、海水浴シーズンもゴチャゴチャせずゆっくりできるんじゃないかと思います。
砂浜の反対側を見ると、素敵な民宿が在ります。
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この民宿、ロケーション最高なので彼女彼氏とデートで宿泊に来ても、小さな子供連れの家族で来ても、海水浴シーズンには良い休日を過ごせそうですね。
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少し不便な場所に在るけれど、外観は本当に素敵でした。
多分、料理も三浦の地魚を出してくれるんじゃないでしょうか?
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手前の海の家みたいな場所は、冬も営業しているようですが、何か人がいませんでした。
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でもメニューは置いてあった。
今度行ってみよう。
この砂浜を降りてきた方向と反対に行くと、又、上に上がる道に出ます。
で、さっきのマリンパークの入口の横に出て来ます。
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上に上がらなくても、そのまま海岸を通っても遊歩道を真っすぐ行けばマリンパークの入口に行けます。
この入口を真っすぐスルーして行くと、反対側の海岸から登って来る遊歩道にブチ当たります。
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その遊歩道の入口の近くには、この新井城址の石碑と、三浦荒次郎義意(よしもと)公の顕彰碑が建っています。遊歩道を歩いていても、この石碑には辿り着けないので、写真を撮りたい人はマリンパークの駐車場の辺り、マリンパーク正門の右の方を探してみて下さい。
この三浦義意公は、落城寸前で敗戦が決定した最後の突撃の際、長く太い棍棒に鉄板と突起を張り付けた金棒を振り回し、北条方の敵兵300人を殴り殺したり海に突き落として討ち取った猛者でした。
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反対側の海岸へは、さっきの海辺を歩いても回ってこれますが、マリンパークの前を突っ切っても辿りつけます。
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こちら側は、うっそうとした三浦半島の植生を観察できます。
そこから回ると、三浦道寸公の御廟所も在ります。
ここはとくかく風景が綺麗なので、マリンパークだけ見て帰るなんて勿体ない事しないで、もし、油壷に来る機会が有れば是非!海辺も散歩して見て下さいねぇ~♪

ではでは!
又、次のブログ記事で!





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休日なので寝ずに桜の写真撮影に・・・
多分、今週末までが撮影のチャンスだけど今日が一番の見頃と予想し、かねての計画通り強行軍で色々回ってきた。
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朝七時に家を発ち、九時過ぎに伊勢原市の渋田川河畔に到着。
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芝桜と染井吉野の咲く遊歩道を散歩。
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地域の人が守る池田神社を御参り。

厚木市七沢地区小野の延喜式内社、小野神社目指し移動。

途中、高部屋神社により、今年2月16日に社殿が国指定重要文化財に成ったので御挨拶の御参りをした。
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隣接する丸山城址公園の桜も満開だった。
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再出発。
通り道の七沢地区も山々に桜が咲き綺麗だった。
途中、立派な御寺らしき建物が北条家の三つ鱗紋の幟(のぼり)を掲げているのが目に留まり寄り道。
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龍散寺と言う御寺だった。
何と、自分が趣味で調べている戦国時代の鶴岡八幡宮再建時に、神器を一時的に移し保護した寺院だった。
そして同寺は北条氏綱公の御実弟、神保輝廣公の開基である事も知った。
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偶然だけども、光栄な参拝が出来た。
三つ鱗紋を見て飛び込んで良かった。
小野神社に到着。
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御参りした。
宮司様は御不在だったが御家人とは連絡が取れた。
面白い事に気がついた。
宮司様は恐らく戦国大名の毛利元就公と同族だ。
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又、改めて御朱印は頂きに上がろうと思う。
厚木市飯山観音(飯山温泉)地区に向け移動。
飯山地区に着いて、真っ先に橋のたものとの龍蔵神社が目に入ったので御参りした。
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その後、桜並木の綺麗な曹洞宗金剛寺の参道を散歩した。
どうやら先に御参りした龍蔵神社は元は龍蔵院と言い、金剛寺の塔頭寺院だったのが明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈で神社として独立したらしい。
檀家の御婆さんに曹洞宗なのに真言宗の体を成している事を質問した所、昔、弘法大師空海和尚が開かれた太子堂が始まりで後に源頼朝公と御家人足立(安達)藤九朗盛長公が支援していた寺院らしい。
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次代は下り小田原北条家の影響下で真言宗から曹洞宗に改宗したようだ。
御婆さんの話がクソ長くて、話を断ち切るのに1時間かかってタイムロスした。
長谷観音まで登りたかったが、やむなく断念。
次の目的地の伊勢原市上粕屋の太田道灌公菩提寺幡龍山洞昌院公所寺に向け出発。

公所寺に向かうに当たり、七沢リハビリテーションセンター脳神経外科経由で向かう。 この所在地が扇谷上杉家の重要な支城で、戦国時代初期当時、扇谷上杉家当主定正の実弟の七沢朝昌が城主を務めていた堅城だった。DSC_0741
敵対する山内上杉家に攻められた際は城兵200で防衛に成功した実績を有する。
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地勢的に津久井~甲斐や武蔵北部に通じる重要な街道を抑えている。
公所寺に到着。
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扇谷上杉定正の居城とされる大庭城の麓に、寺院の歴史は戦火で途絶えている公所寺と同じ曹洞宗の寺院の宗賢院と言う寺院が有り、公所寺と同じ寺紋”太田桔梗紋”な上に山号まで全く同じ”幡龍山”である事から、御住職に宗賢院さんとの関連性を質問する為に再訪した。
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枝垂れ桜が見事だった。
道灌公の御位牌と御廟所を御参りしてから、まだ訪れていなかった太田神社まで散歩した。
行く間、戦国時代に作られた疎水(そすい=用水道)を大山街道沿いに見る事が出来た。
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あと上粕屋神社も。
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太田神社についてがっかり。
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北条早雲公がリスペクトする太田道灌公の御霊を御祭神として造営した太田神社の社殿が、管理人の子孫かなんかに私物化され一般宅かしてしまったいた。
明らかに形状が拝殿と本殿の造りで鳥居と太田神社の石碑まで有るのに、個人の自宅にされている…
神奈川県神社庁、何とかしろよ。鎌倉に鶴岡八幡宮の観光用の鳥居なんて再整備してないで、偉人達が残した物をちゃんと保護する仕事にも力を入れて欲しい。
その後、当初の予定通り延喜式内社比々多神社へ御朱印を頂く為に移動。
比々多神社で御参りを済ませて御朱印を頂いた後、大山桜を見に大山阿夫利神社の社務所へ移動。
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大山阿夫利神社の御神体でもある大山=丹沢大山国定公園では山々に咲く桜が綺麗に見れた。
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社務所の裏山には樹齢400年前後の桜が数本ある。
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一昨年の夏に水不足で枯れていた愛宕の滝が復活していた。
うん、良い一年に成りそうだ!
残念な事も…
桜の季節で稼ぎ時なのにも関わらず、商店や旅館、懐石料理やが悉(ことごと)く開いていなかった。
かろうじて造り酒屋の遠州屋さんが開いていたので義叔父に御土産の日本酒を買い、昼食とってない自分の間食用に酒粕飴を買い移動。
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車の中で飴を舐めながら、本日の計画上、桜の撮影の最終目的地だった秦野市弘法山へ向け出発。
途中、空腹に耐えられなく成り刀削麺の店に入った。
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主菜に牛肉刀削麺、副菜に豆腐干と砂肝の前菜を頼んだ。
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店員全員中国人で、山西省大同市で食べた時と同じレベルで美味しかった。
近くの鶴巻温泉に入りたかったが、写真撮影優先しスルー。
改めて弘法山に向け移動開始。
弘法山からの眺望は素晴らしかった。
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桜の後ろに大きい富士山が見える。
ただ、頂上展望台への山道の傾斜は結構な角度でキツイ。
しかし登る価値は有ると思う。
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権現山展望台へ登山中、どうも山一帯の地形が腰曲輪らしき形状に見えてしかたなかったのだが…
頂上に行って案内板全て読んで廻ったら自分の推測は当たっていたらしく、権現山は南北朝期の詳細不明の城塞だったらしい。
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麓に古東海道に接続する矢倉沢往還が通っているので、その守りの為に山城化された時代もあったのだろう。
ひとしきり写真を撮影して伊勢原市の義叔父の家に向け出発。
義叔父の家に向かう途中、鶴巻温泉~秦野の東海大学の辺りを通り過ぎ、平塚市内を走行中、たまたま赤信号で止まった交差点の右側に気に成る地形が見えた。
カーナビを見た所”塚越古墳”と表示されていたので近くのスーパーに車を止めて、見学に立ち寄った。
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前方後円墳。
弥生時代までの関東の古墳は方形周溝墓。
古代大和政権の影響下に入った時代の古墳が前方後円墳な訳だから、この古墳の主は邪馬台国もしくは大和に関係が有ったのだろう。
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この古墳を見学していて、すぐ近くに真田城址である天徳寺が有るのを思い出し、又も寄り道の為に移動。
天徳寺を参拝。
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天徳寺の在る段丘が嘗(かつ)ての真田城の本丸に当たる曽我曲輪だったそうで、歴代住職の廟所と思しき場所は土塁と思われる地形の上に在った。
城としての遺構は不鮮明だが、近くのファミリーマート側から天徳寺の台地を見ると笹薮に囲われていた。
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城址は地形の保全の為に笹を植えるのは良く有る事なので、これが昔からの地形だとすると真田城址の遺構の可能性が高い。
もっとも、墓地の宅地開発されていない側には、昔の曲輪の境目が解る地形も一部残存していた。
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近くに真田神社もあったので、合わせて御参りして来た。
特に説明書きは無く御祭神も素戔嗚尊のようだったので三浦一族と関連が有るか不明だが、或いは佐奈田義忠公在城時からの鎮守の御社だったのかもしれない。
ようやく義叔父の家に到着。
御土産を渡してさっさと退散するつもりが、夕食に及ばれして出発したのが19時過ぎに成ってしまった。
夜は下道で1時間程度で着く距離だったが、さすがに24時間以上寝てなかったので睡魔に襲われ自宅まで残り1kmまで帰って来たところでコンビニの駐車場に車を止め仮眠。
僅かな距離でも眠く成ったら寝ないと自己の元。
なかなか眠くならないから耐えれるが、一回眠く成ったらもう駄目だね。
なんだかんだ…
色々回れたけれど、今日、特に感動したのは最初の渋田川の芝桜と、弘法山の桜と富士山の共演の景色だった。
まぁ~中の上の休日に成った。
写真も沢山撮れたし良かった。
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実は、神奈川県には日本の歴史上最長の4年間もの長期間に及んで継続包囲された城、つまり防御力に優れた堅城が存在した事を知る人は歴史オタク以外には現代では余りいません。
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その名も新井城です。
そして、この新井城は戦国時代の幕開けに関与した佐原三浦家の御城なのですが、その佐原三浦家の事と戦国時代が如何にして始まったかも学校では教えないの根本的に三浦家が戦国時代まで存続していて大名だった事すら知らない人が多いのですが…

神奈川県と東京都と埼玉県と千葉県

…この地域が戦国時代の始まりの地域である事を御存知の方は全国的には少ないと思います。
更に言えば、鎌倉市浄明寺地区が戦国時代の幕開けと成った永享の乱の舞台で有る事を知る神奈川県民も非常に少ないのが現実です。
そこで、新井城の風景写真を見る前に、先ずは当時の歴史状況を解説したいと思います。
足利持氏邸古址周辺 久良岐のよし
この戦国時代の幕開けに始終関与したのは鎌倉の将軍=鎌倉公方と、その鎌倉公方と対立したり支持したり離合集散を繰り返した2家の大大名と1家の大名です。
それが…

鎌倉公方足利持氏→鎌倉(古河)公方足利成氏。
二つ両引き
足利家の二つ両引き紋

山内上杉家:今の埼玉県北部~群馬県~新潟県の大名達を支配した室町幕府(京都の征夷大将軍)の直臣。
扇谷上杉家:今の神奈川県~東京都~埼玉県の大名達を支配した鎌倉府(関東東北を治める将軍)の直臣。
竹に雀紋
上杉家の竹に雀紋

三浦家:今の神奈川県中部~三浦半島が所領の大名で平安時代以来の古豪。
三つ引き両紋
三浦家の三つ両引き紋

…以上の大名達の政権争いに鎌倉公方の室町幕府将軍への反抗心が大規模な戦乱に繋がり、そこに室町幕府の将軍に成る権利をクジ引きで引き当てた足利義教と駿河今川家の介入が加わった事で、今度は関東の武士団が反上杉独裁体制で蜂起し鎌倉公方足利持氏公に加担し、戦国時代の幕開けと成りました。
この政治的要因の舞台が鎌倉に在った事の他に、戦国時代が始まる切っ掛けは日本産の銀相場の世界での暴落、地球規模で気候が小氷河期の様に成り作物が取れなかった事も関係が有りました。
つまり纏めると…
戦国時代は、以下の様にして起き段々と西日本へと波及して行きました。
小氷河期で作物が取れず政治が乱れていた時に、足利幕府征夷大将軍4代目の足利義持公の急死で、くじ引きで将軍に成った足利義教への諸大名の不支持。それに因(よ)る鎌倉公方足利持氏と征夷大将軍の対立。
征夷大将軍と鎌倉公方をそれぞれ支持する大名同士の対立。
銀相場の下落が、貨幣価値の混乱を招き、庶民が土蔵(両替商や金貸し)を襲った❝嘉吉の土一揆❞や、応仁の乱の京都市街戦で関西中部中国地方の武士による京都の商人や寺院への略奪で、経済の疲弊した馬借(陸運の物流商人)や寺院と庶民が権利回復の為に連合して起こした❝山城国一揆❞等に繋がって行きます。
三浦家勢力 久良岐のよし
※地図上の城は大まかに有名な場所だけ表示。
そんな戦国時代に最も早く入り、領土争いを繰り広げたのが伊豆の伊勢家(後の北条氏)と、現在の伊勢原市~三浦半島辺りまで支配していた三浦家の抗争です。
この抗争の発端は、古河公方と今川家の外交戦略によって起きました。
今川家と今川家臣だった北条(当時の姓は伊勢)家は、永享の乱で室町幕府に滅ぼされた鎌倉府公方足利持氏公の遺児で古河公方と成り、今の埼玉県の久喜市栗橋に在った栗橋城や古河城に居た足利成氏公を支持していました。
永享の乱については以前、榎下城の紹介記事にも少し書いています。
※永享の御興味有る方は「ココ」←クリックして榎下城の記事を御覧下さい。
鎌倉公方足利持氏公は切腹させられたものの、遺児の成氏公は後に幕府の8代将軍足利義政公により承認され鎌倉公方に成りました。しかし、御父君を切腹に追い詰めた関東管領上杉家との対立は解消されず、その後、関東管領上杉家連合vs鎌倉(古河)公方足利成氏連合の大規模な戦争に発展します。
それが、❝江ノ島合戦❞です。
この戦いでは鎌倉公方郡に付いた関東諸大名の活躍で、上杉家連合軍は敗北します。
そして元は鎌倉公方派であった扇谷上杉家が、山内上杉家と再び対立する事と成り、扇谷上杉家は古河公方に近づき、今川家と伊勢(北条)家も古河公方を支持しています。
その事が伊勢家が、古河公方と対立する伊豆の堀越公方を責める大義名分と成りました。
しかし…
二つ両引き竹に雀紋
しかし後に、古河公方と山内上杉家が和睦してしまった事で、山内上杉家が支持していた堀越公方から伊豆を奪った伊勢家は、伊豆支配の大義名分が無くなりかねない事態に陥りました。
それまでは三浦家と伊勢家は共に山内上杉軍と戦う事も有る盟友だったのですが、対立せざるを得なくなった様です。
二つ両引き竹に雀紋三つ引き両紋
    VS
 三つ鱗紋
伊勢家は伊豆支配の正当性を主張する為(ため)に鎌倉幕府執権北条家の伊豆に残っていた一族に婿養子に入る形式をとり名跡を継ぐ事で、その支配の正当性を保ちました。
これが、切っ掛けで伊勢家は2代氏綱公より北条氏綱を名乗る事に成り、1509年に古河公方足利家の内紛、❝永正の乱❞が勃発した混乱の中で、今川家からも独立し単独で大名と成り、領土を相模国へと広げて行く事と成り、岡崎城を巡って三浦家と北条家が争って行く事と成りました。
そこで、もう一度、この時点での神奈川県内の各大名の支配する城を見てみましょう。
三浦家勢力 久良岐のよし
この頃、上杉家も伊勢原市や厚木市に拠点が点在し、三浦家の拠点も岡崎城まで保持しています。
しかし、岡崎城を巡る攻防は断続的に10年間続いた後、等々、北条家によって陥落させられて、三浦家は東の今の三浦半島の付け根に位置する逗子市に在った住吉城にまで後退します。
この岡崎城も又、断続的とは言え名将北条早雲公が攻略に10年を要した事から日本屈指の堅城だった事が窺(うかが)い知れます。
※以前書いた岡崎城の解説ブログ記事は「ココ」←クリック!
更に住吉城も落とされると、最後は新井城に追い詰められ、ここで日本最長の4年間も三浦家は包囲されたまま過酷な籠城戦を展開します。そして、その新井城の堅城ぶりと、鎌倉武士三浦家臣団の維持と強さを見せつけて滅ぶ事に成る訳です。

…ここまでで、新井城を巡る攻防が如何にして発生したか、歴史背景は御理解頂けたでしょうか?
では、次は新井城その物の構造について写真と伝承を交えて解説していきます。
新井城は、三浦半島の特殊な断崖と谷戸に何重にも囲まれた細長い自然地形に手を加えた堅城で、その谷間は並みの城の空堀では到底及びもつかない深さを誇っていました。
DSC_0192
今でこそ、御覧の様に浜辺に❝磯❞が見えていますが、これは大正時代に起きた関東大震災の際に三浦半島が最小でも50cm隆起した事で、戦国時代の海底が露(あら)わに成っているんですね。
…つまり、昔の三浦半島の地形は、入江の一部を除いては断崖雪壁の下は本当に上陸する余地も無い海だった訳です。
しかも
新井城址の主要部分は現在の油壷湾の所在地、京急油壷マリンパークや東京大学大学院理学系研究科付属臨海実験所(地震観測所)の在(あ)る半島一帯です。
荒井城主の佐原三浦家は平安時代~の関東流の築城術を受け継いでいます。
他地域では余り無いのですが、関東流の築城術では山の尾根の崖の両側を垂直に削り込み、通路幅の狭い城壁の様に加工してしまうので、この様な断崖絶壁上の起伏を削り、隘路(あいろ)に敵を誘い込み、或いは空堀で遮断し、断崖から敵を突き落としたり逃げ場の無い場所で弓矢を射掛けてハリネズミにし敵を殲滅する構造が幾重にも設けられていた訳です。
そして極め付けが、敵勢の侵入を防ぐ何重にも設置されていた断崖絶壁に掛かる引橋です。
引橋の位置は、現在に伝わる伝承と残存地形から十分把握出来ます。
三浦子供風土記
この資料は、三浦市教育委員会が編纂した❝三浦子供ふど記❞と言う本です。
三浦市の教育委員会は素晴らしいですね、土地を開発する際もちゃんと事前に調査をして建設会社に有利な嘘の報告をせず、先人へのリスペクトと地元の伝承を後世に伝える努力を為(な)さってる。
全く歴史のスペシャリストをメンバーに入れない史跡破壊容認が得意な金満土建屋のお友達、横浜市教育委員会とは大違いだ。
さて、この三浦の歴史を子供にも解る様に纏(まと)めた本の中に、新井城の構造に触れる伝承が沢山掲載されています。
先ずは、城の守りの要、大きな空堀状の渓谷の交通を遮断する❝引橋❞は数カ所有った事が解ります。
一番外側は現在も❝引橋❞の地名が残っています。丁度、その場所には現在❝引橋❞のバス停が有る辺りです。
そして、伝承の❝合戦場(江戸時代の城の三の丸の様な場所)❞の前に、伝承通り堀切状の地形が残っている事から、そこが❝内の引橋❞で有る事が解ります。
外側の引橋には、昔、人の良い老夫婦が住んでいて、北条家の偵察と気が付かずに、そのスパイに色々と新井城や三浦家の殿様の自慢をして話してしまったそうです。この老夫婦は、北条家が攻めてくると自分が話した相手が北条家のスパイだったと気が付いた様で、「三浦の殿様に申し訳ない事をした」と後悔して夫婦で自害してしまった悲しい伝承が残っています。
実は類似した伝承が扇谷上杉家の居城の一つだった藤沢市大庭城近くの船地蔵地区にも残っていて、やはり北条家のスパイが老婆に根掘り葉掘り、城の構造を聞き出したそうです。
…ですから悲しい御話しですが、引橋の老夫婦の伝承は実話でしょう。
どうも、生粋の相模国人の気質と言うのは老人程郷土愛が強く成り、又親切心が強くおしゃべりな様ですね。

では、引橋と新井城主要部分の位置関係を見てみましょう。
新井城周辺 久良岐のよし
小生が確認出来ただけでも、最低4カ所は大堀切と引橋の遺構と思われる地形が現地確認出来ました。
先ず、【引橋&堀切地形】と書いた場所が該当する地形です。
大外側、が(1)とした部分で、そこの辺りに戦国時代に老夫婦が茶屋を営んでいた様ですね。
段丘に登って来る渓谷が幾筋も、その(1)の地形に集まっていますので、現在のバス停の名称「引き橋」とも整合性が有ります。
ついで、❝内の引橋❞と呼ばれる場所が(4)と示した場所です。DSC_0187
この現在は遊歩道の入り口に成っている、元・東大の地震観測所の入り口の手前に、記載通り、内の引橋の堀切と思しき地形が在ります。
DSC_0186
ね?当時かなりの深さの空堀が穿ってあったのが現在も判断できる地形です。
反対側はこんな感じ…
DSC_0185
やはり、谷間です。この現在の道路は、後世埋め戻されたんでしょうね。
しかし、この2カ所以外、その手前にも道路として埋め立てられたと思(おぼ)しき両側が堀切状の地形が2箇所有りました。それが(2)(3)です。
又、不明瞭ながらも堀切と怪しい地形も他に幾つか有りました。。

話題は逸(そ)れますが、この本の堀切の老夫婦の伝承を紹介している❝三浦子供ふど記❞中で戦国時代三浦氏の祖先として解説されている佐原義連(さはらよしつら)公は源義経と源範頼兄弟による今の神戸に在った福原攻めの際に、有名な作戦❝鵯越の逆落とし❞を立案し提言した軍師だった事が伝わっています。因みに、この作戦を成功させた功績も源義経では多田源氏の多田行綱公の実績だと現代では解っています。
堀切の説明はココまでにして…
城址の訪問方法と景色の紹介をします。
城址を訪れる場合は最寄駅からバスか、車で行く事に成ります。
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この看板の通り、油壷マリンパークの駐車場が便利です。
小生は現在地と書かれた無料の駐車場を利用しました。
ここにバス停も有ります。
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便数が以上に少ないので、電車バスで行く人は気を付けた方が良いですね。
因みに、この場所には売店が在りまして…
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この売店「はっとり」さん。
この看板娘の御婆ちゃんが三浦家の事を非常に御詳しく、三浦道寸(どうすん)公と三浦義意(よしもと)公の御廟所の場所を聞こうと思って話しかけたら…
歴史オタクの小生が話す前に、御婆ちゃんの口から出るわ出るわ、三浦家関連の拠点の話や三浦家の殿様が何で最後まで抵抗したかの理由なんかが。
…三浦の人は今でも郷土愛が強いんだね~。
だから、ユネスコに世界無形文化遺産登録された❝チャッキラコ❞って御祭りも現在に残っていたりするんだろうね。
そして、なんだか引橋の伝承の老夫婦も、この御婆ちゃんみたいな感じの優しい人だったのかも知れませんね~。
※世界無形文化遺産の御祭り❝チャッキラコ❞に関しては「ココ」←クリック!

さて、御城の解説の続きです。
ぶっちゃけ、城址としては遺構は余り現存していません。
しかしながら、先に紹介した❝内の引橋❞から遊歩道に入ると、いくつかの遺構が見られます。
DSC_0184
この場所の奥の左側に民宿等の看板が有ります。
DSC_0187
ここを入って下さい。
ここに入ると、神奈川の景勝50選の油壷湾を望むポイントに行けるのですが、そこまで行く手前に東大の研究施設の門が有ります。
DSC_0188
確認するには油壷の半島と反対側に行かなければいけないのですが、伝承では、この東大の施設沿いの遊歩道下の岸壁の中腹に穴倉が有るそうです。
その穴が❝千駄矢倉(せんだやぐら)❞と言われており、兵糧が貯蔵されていた遺構だそうです。
岸壁に矢倉を組んで穴を改修して穴倉として利用したんですね。
DSC_0191
この崖下に穴倉が有るらしい…
三浦市教育委員会の解説によれば、一駄は米2俵だそうで、つまり千駄とは米2千俵を貯蔵した場所と言う意味に成る様です。

2千俵を石高に換算して見ましょう。
1石=米俵で2.5俵です。
ちなみにkgに換算すると、1石で❝150kg❞です。
そして荷物の単位の1駄とは、輸送に使う馬に乗せれる量の単位で、米俵で2俵。
千駄=2000俵の米俵
2000俵÷2.5=800石
つまり、補給路が立たれても800石の臨時食料が保管出来ていた訳です。
小生の様な歴史好事家(オタク)でもないと石高で言われてもパッとしないでしょう?
では石高を動員可能兵力に換算して考えてみましょう。
だいたい、1万石で雇用可能な兵力を元にして考えると一般的な定説では以下の様に成ります。
防衛時…1万石=500人前後
遠征時…1万石=300人前後
では、これを元に800石で、どれくらいの兵力を雇えるか計算してみましょう。
新井城の戦いは城主三浦家が防衛側です。ですから防衛側動員数の基準です。
1万石=500人 800石=1万石の8% 500人×0.08=40人…
40人とか少なッ!
…と思った人!別に、この蔵の中の米は全兵士を養う為(ため)じゃなくて、非常食兼、城主と城詰めの職員の常備食ですからね!
戦時下では、各部隊がそれぞれ兵糧を持参しています。

米の話が出た所で、「何で4年も籠城出来たの?」と疑問が湧くでしょう?
それはですね…
新井城の地形 久良岐のよし
新井城の所在地は、現在でも御金持ちのヨットハーバーが有る港湾に適した地形なんですね。
だから備蓄米が底を突いても、水軍を保有する協力者が居て外部から食料と弓矢を補給し続ければ、勝敗が着くまで何年間でも籠城が可能に成る訳です。
そして、この新井城址には昔から民家も有ったので、恐らく塩水じゃない飲み水に適した淡水が湧く井戸が有ったのでしょう。

では、この新井城の三浦家を支援する同盟関係に有り、尚且つ三浦半島周辺を自由に航行出来る水軍を持つ勢力はいるのでしょうか?
新井城と房総の位置関係 久良岐のよし
います。
二つ両引き二つ両引き紋
この足利家の家紋を持つ三浦家の同盟者が房総半島の岡本港を掌握しています。
その名も❝里見家❞ですね。
この里見家は現代で言う所の小説家に当たる江戸時代の❝曲亭馬琴❞が書いた❝南総里見八犬伝❞のモデルに成った家でもあります。この南総里見八犬伝はバブル時代に❝里見八犬伝❞として薬師丸ひろ子サンと真田広之サン主演で映画にも成っています。
里見八犬伝
う~ん…薬師丸ひろ子サンが若くて可愛い。
この里見家と三浦家は協力関係に有ったので、房総半島の穀倉地帯から絶える事無く兵糧が運び込まれた訳です。
因みに、この新井城の攻防が因縁と成り、その後、小田原を本拠地にする北条家と里見家は戦国時代が終結するまで対立する事に成りました。
さて、この新井城が長期籠城に耐える地形的政治的条件に合致していた事が、ここまでの説明で御理解頂けたでしょうか?

では防御施設その物の遺構の有無を見てみましょう。
ぶっちゃけ、土塁や空堀の遺構が現存するハズの東京大学の敷地は当然無許可で入れません。
しかし、曲輪の遺構と思しき盛り上がりのある地形は数カ所見て取れました。
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東京大学の敷地に入る裏口側は、堀底道を利用した?と思える地形でした。
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この空堀状の地形が現代に設けられた地形だとしても、両横の曲輪遺構と思しき台地状の地形はハッキリと残存していますね。
入らなくても、遠目にいくらか確認出来ます…入りたい。今度、東京大学に予(あらかじ)め連絡して許可を貰って見学させて貰おう。
三浦市の教育委員会は歴史の伝承に熱心なので、ちゃんと遊歩道には説明の看板が有ります。
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先に説明した関東大震災の事が書かれていますね。
この隆起した元海底の地形は、遊歩道から下の海岸に降りると見られます。
地形は【後編】で「神奈川の景勝50選油壷湾」と周辺の風景紹介として別記事に書きますね~。
他に丁寧にも説明が幾つも有ります。
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これは神奈川県民の中の歴史好きに有名な話。
油壷の地名の由来。
…実は、4年間の合戦中に戦死した兵士の死骸が現在の油壺湾に満ち満ちて、血油で丸で油の壺の様な風景に成ってしまったそうです。
防衛側も敵味方問わず戦死した将兵の遺骸を城内に置いておくと伝染病が蔓延してしまうので、当然放置できないので海に投げ入れて水葬したりしたんでしょうね。4年間も籠城戦をやれば結果的に、伝承通りに成ると思います。
DSC_0198
まぁ、そんな凄惨な攻防戦が行われた新井城址ですが、風光明媚で昭和には神奈川の景勝50選の一つに選ばれた場所なので、明治時代の文化人達からも愛された様です。
DSC_0205
さて、遊歩道を進むと二手に分かれますが…
DSC_0207
直進すると引橋の遺構の様な地形が有り、その先には狼煙台か何かに使えそうな地形が有ります。
この↓奥のこんもりした森ね。
DSC_0214
戦国時代当時は、この砂浜は海の底で、その森は小さな半島が堀切で断ち切られて離れ小島状の地形だった筈です。
新井城 狼煙台と思しき地形周辺 久良岐のよし
位置関係はこんな感じ。
まぁ、城址としての遺構は概ねこんな所でしょうか?
あと、一カ所、当時の退避用の船着き場と思しき地形が、三浦道寸公の御廟所近くに在りました。
位置は上の画像で確認して下さい。
DSC_0227
この京急油壷マリンパークのゲートを通らず、反対側の海岸に降りる遊歩道の先に在ります。
DSC_0231
この遊歩道を歩いて行くと、道寸公の御廟所の説明が有ります。
DSC_0230
この看板の先…
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ここが三浦家最後の当主、道寸公の御廟所なのですが、この地形も城塞の一部だった筈です。
この御廟所の右手が竪堀の様な地形で海まで下る斜面に成っています。
DSC_0232
この右の斜面。
当時は海面が今より高かった上に、大正時代の隆起で三浦半島は戦国時代より50cm隆起したので、その場所は昔は海に降りる斜面で、隠し船着き場かなんかだった様に思えます。
そして、この道寸公の御廟所が、正に、切腹の場所で有り、三浦道寸の跡継ぎだった猛将❝三浦荒次郎義意❞公の❝300人切り❞の活躍の場だと思います。
余談ですが、❝荒次郎❞と言う名前は平安時代から三浦家の次代の跡継ぎに成る人物が名乗る名前でした。
新井城で活躍した三浦義意公は、生粋の平氏の子孫の三浦家では無く、父の代に扇谷上杉家から三浦家に養子に入った人物でしたが、荒次郎を名乗っているので三浦家の伝統をちゃんと受け継いでいた様ですね。
実は、三浦義意公、刀や弓や槍では無く、木の棒に鉄板と突起を付けた棍棒状の武器で、最後の戦いで北条方の兵士300人を殴り殺した伝説が残っているんです。
この伝説も、普通に考えると嘘くさいのですが、この新井城の地形を利用すると可能に成る訳です…
つまり、敵兵が1人づつしか通行出来ない引橋や隘路の上で、長大な❝釘バット❞で殴り殺すのではなく❝海に叩き落とす❞戦術を取れば300人倒す事も現実的に成る訳です。
昭和世代には解ると思いますが、昔、❝風雲たけし城❞と言うバラエティー番組が有りましたよね?
アレのリアル防衛兵器版ですよ。

細い道を落ちたら浅い安全な池じゃなくて…
30kgの甲冑や刀装備したまま海に落ちて溺れ死ぬ。
鉄の釘バットで殴打されても顔面や手や肩が骨折して悶絶する。
凄惨な風雲たけし城。
※風雲たけし城を知らない世代はYoutubeかニコ動で検索して見て下さい。
…まぁ、バラエティーはさておき、義意公が何で一人で戦う様な無茶な事をしたのかも、現代に成っても地元にはちゃんと伝承していました。
その活躍を語るに当たり、最初の方で紹介した、御土産屋さんの御婆ちゃんの御話を紹介したいと思います。
その御婆ちゃんの新井城の戦いに関する御話はコンナ感じでした…

「三浦家の殿様が何で逃げずに最後まで残ったか解るかい?」
「三浦家の殿様は、女子供や罪の無い身分の低い家来を全員船で房総半島に逃がす為に最後まで残って戦ったんだよ」
「今でも、その時に殿様に逃がされた家来の子孫達が日本中から御墓参りに来るんだよ」
「7月11日に成るとね、命日だから、又御墓お掃除しなきゃね~。」

その、御婆ちゃんが掃除すると言っていたのが先程紹介した道寸公の御廟所と、義意公の御廟所です。
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義意公の御廟所は、冒頭で掲載したこの写真の場所の横です。
親子で少し離れた場所に在るんですね。
小生、この御婆ちゃんの話を聞いて、自分が文書を読んで予想した事と、地元に伝わる伝承が合致してビックリしました…
「切腹したり逃げずに一人で戦うような無茶な事をするからには、何かを守る為に戦う以外に無い!」
…小生はそう推測していました。
それが、御婆ちゃん達、三浦家所縁(ゆかり)の地元の人々にちゃんと伝承していて、❝戦争に成った責任の無い身分の低い家来や女子供を逃がす為に最後の決戦に挑んだ❞と解り、小生の推測が伝承で証明された訳です。
この話を聞いて、帰路、車を運転しながら泣きました。
「最後の一人が逃げるまで、僅かな近習(きんじゅう=近衛兵)と共に敵兵に挑み、守るべき人達が逃げ切ったのを見て敵に突撃し討死した」殿様の気持ちを考えるとスンゴイ泣けました。

そしてこうも思いました。
神奈川県には源義家公や源頼朝公、平良文公や鎌倉景正公や三浦義明公、太田道灌公や北条早雲公や北条氏康公、北条綱成公みたいな有名な武将も沢山いらっしゃったけれど…
この三浦荒次郎義意公の事も、それと同じ程、後世に伝えて行かなければいけない、そんな名将だなと。
必ず、横浜の間宮家や蒔田吉良家や宅間上杉家の殿様達の事と、この三浦義意公の事を小説や顕彰文に起こして世間の人に再認識して貰う手助けや、御祭りを企画運営して地域産業としても殿様の名前を借りて三浦の油壷地区の町起こしを企画して、伝統に成る様な殿様の名前と事績の伝承の伝え方を創生したい。
そう感じた訪問でした。

【後編】油壷の風景は「ココ」←クリック!

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!






  


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早速ですが、横浜市中区の元原財閥私邸を公開している、桜と紅葉の名所、横浜三渓園の桜の夜間ライトアップが3月26日~4月3日の期間行われています。
横浜三渓園は❝神奈川の景勝地50選❞の一つにも選ばれている風光明媚な名園です。
DSC_0578

横浜三渓園のアクセス等に関しては最後に公式ホームページのリンクと一緒に掲載します。
昨日2016年03月30日現在の上京は、各樹の株によって全く開花状況は異なりは3~7分咲き程度とばらつきが有りますが既に添付写真の様に十分綺麗でした。

横浜三渓園その物については以前に紹介記事も書いていますが、明治時代に成り仏教が弾圧されたり伊勢系統の神様では無い神仏習合の天神様(菅原道真公)や御稲荷さんが粗末に扱われた時代に、それらの多くの文化財建築の寺院や御社群を、当時の原財閥の当主だった原三渓サンが自宅(広大な現在の三渓園は元は原家の私邸)の敷地に引き取り保護したので、この園内には恐ろしい程貴重な日本建築遺産群、宗教遺産群が現存しています。
中でも圧巻なのが聖武天皇の勅願所だった京都灯明寺廃寺の旧本堂や三重塔、それと後醍醐天皇の皇女用堂尼様や豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様が住職を務められた鎌倉の縁切り寺こと尼寺の東慶寺旧仏殿です。
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写真は昨日撮影した桜と一緒に照らし出される旧灯明寺三重塔

綺麗でしょ?
他にも豊臣秀吉や徳川家康公が居城した京都伏見の旧伏見城の茶室やら…
織田信長公の御実弟で茶人として有名でもあり、東京の有楽町の地名の由来に成った織田有楽斎が建てた茶室、紀州徳川家の紀ノ川河畔に在った別荘も三渓園に保護され現存しています。
三渓園の歴史なんかに御興味有る方は、以下のリンクから過去に書いた解説記事を御覧下さい。
三渓園の紅葉と重要文化財群…原財閥の邸宅公園。…横濱市中区
2014年12月04日 今年の三渓園の紅葉写真。
2015/04/04(土)三渓園の桜、散らずに満開です!

三渓園は桜そのものも綺麗なので、是非!横浜に来られる機会が有れば皆さん見にいらして下さい!
無論、市民も。
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週末には更に綺麗にピンクに色着いた桜が池に映りこんで、神秘的な風景になりますよ~♪
今だけ、池のほとりの茶屋で期間限定の❝桜餡の御団子❞も食べれます。
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美味しですよ♪
因(ちな)みに小生が昨日食べたのは、左から大根おろし・海苔醤油・桜餡
池の横の茶屋では❝三景椀❞と言う、❝三種類の味が楽しめる手打ち蕎麦❞も提供していて、これが又、絶品です。
又、奥の旧灯明寺本堂の方に在る❝待春軒❞と言う茶屋は、目の前が桜の林で、外の席で桜を見ながら御茶菓子と抹茶を頂く事も出来ます。
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今はまだ、葉桜も目立つけれど、きっと週末にはきれいです。
小生、又、週末に写真撮影に行きます。
皆さんも、昼遅めに行って文化財建築群を観覧し、陽が落ちるまで茶屋で御団子食べて、夕方から夜桜を楽しんでみませんか?
ただし!
毎年いるのですが、垣根で進入禁止と解る芝生にレジャーシート敷いて酒盛りするような日本の恥晒しなDQNは来るな。
てか帰れ!

以下、公式ホームページリンクと交通アクセスと連絡先
【電車】
JR根岸線、みなと未来線、横浜市営地下鉄の根岸駅・元町中華街駅からバス。
三渓園様公式拝借 アクセス電車 久良岐のよし
【車】
駐車場は有りますが、夜間ライトアップ開催中は1時間以上普通に待つので、入る前に閉園してしまう恐れが有ります。電車とバス移動が無難です。
三渓園様公式拝借 アクセス 久良岐のよし
【横浜 三渓園】←ここクリックで公式にリンク!


ではでは!皆さん、三渓園で御会いしましょう♪
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今日は当初の予定は以下の桜の名所を巡り、桜の写真を撮影する予定だった。
●三ッ池公園…横浜市鶴見区
●根岸森林公園…横浜市中区
●久良岐公園…横浜市港南区
●衣笠城址公園…三浦半島横須賀市
…で、先ずは小生のペンネームの由来の地、久良岐公園に早朝、桜の開花状況を見に行った。
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まだ1分咲き。
満開に成ると、園内数百本の桜が咲き、とても綺麗な場所。
2015-04-01-12-01-34

小生は子供の頃から、皆でここに自転車で遊びに来ていたので、大人になってもこうして御縁が有るのは嬉しい。
しかし、まぁ、2016/03/30現在はまだまだ、週末に漸(ようや)く7分咲き位になるかな?
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又、来週の土曜日か水曜日に見に来よう。
因(ちな)みにコンナ↓DQNを発見した。
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本人不在で場所取りしてんじゃね~よ!
燃やしてやろうかと思ったが、器物破損な上に公園が火気厳禁なので、法律を守る事にした。
で、とりあえずブログで晒したった(笑)!

久良岐公園の状況を見て、三ッ池公園や根岸森林公園もまだ桜は見頃では無いと踏んで、予定を中止した…

昼は家でゆっくり過ごし、夜、友人と根岸駅で待ち合わせして三渓園に夜桜鑑賞に向かった。
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綺麗だねぇ~。こちらは概(おおむ)ね5分咲き前後。週末には綺麗に満開に成るかな?
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週末に再訪する予定なので楽しみだ!
その後、横浜名物の美奈登庵と言う日本蕎麦の居酒屋に移動し、友達2人は飲酒。
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酒を飲まない小生は、❝横浜牛せいろ❞を名物の❝富士山盛り❞で頼んだ…
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もう、本当に富士山みたいな形で大量。
でも、完食しました♪

まぁ~、写真撮影で回る予定だった場所は大幅に減ったけれど、普段は一人忙しく古文書漁りと写真撮影に図書館と神社仏閣や城址公園や建築文化財と某神社某文庫を1日に何件も廻っているので…
たまには友人達と、ゆっくり過ごすのも良いだろう。

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金沢文庫博物館が再開され、非売品の配布をしてますよ~!
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しかも金沢文庫は入館料400円と激安の博物館!
拝観すると、こんなポストカードなんかをくれます。今だけ!
桜の名所でもあるので、御花見と合わせて是非!行ってみて下さい!御薦め!
専門書も閲覧出来る図書室も有ったりします。郷土史好きの天国。

金沢文庫って地名じゃないの?
…と、歴史に興味が無い人は思うかも知れないので、一応、説明しておきます。

神奈川県横浜市には金沢区と言う行政区が有りますが、その区名由来に成った金沢文庫と言う鎌倉時代に開かれた武家文化の象徴的な図書館が、現代では博物館と成って運営されています。

下の写真の称名寺と言う御寺が鎌倉時代の武士、金沢北条氏の邸宅跡の大寺院で、その邸宅を守る山に穿(うが)ったトンネルで繋がっていた山向こうの金沢北条氏の私設図書館として始まった文化財の宝庫です。
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この称名寺の西側の山が城壁の役割を担っていました。
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トンネルの金沢文庫側から見るとこんな風景。
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この写真は去年の物ですが、御覧の通り桜の名所でもありますので、今年は4月1日頃には五分~6分咲き位の桜で参道と境内が彩られ初めるでしょう。
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この境内の元に成った邸宅と金沢文庫を造営した偉大な人物は金沢北条実時と言う名将です。
さて、称名寺の話は置いておいて、金沢文庫は鎌倉時代~戦国時代の貴重な文化財書籍を多数管理しており、常設展示でも称名寺の御本尊の完全なレプリカ等の展示が有り、武士文化を知るタイムカプセルの様な場所です。
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こんな風に、鎌倉幕府を掌握していた執権北条家の政治体制や歴史も学べるし…
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鎌倉文化を実際に目で見て体感する事が出来ます。

因(ちな)みに、拝観すると再開記念で現在だけ貰えるグッズとか、改めて紹介。
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普通に入観券
拝観すると貰える物は…
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ポストカード。買ったら1枚200円くらいするよね、記念のポストカードとか。
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古地図
この地域は平安時代~昭和の埋め立てまで「金沢八景」の異名で呼ばれた日本屈指の風光明媚な観光地でした。
その昔の金沢区の様子が解る絵図が表紙、中は金沢文庫称名寺の古地図を現代風に書き起こした解説地図。
これを持って広大な称名寺と裏の稲荷山を散策すると、よいピクニックに成ります。
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ちなみに現在、再開記念で❝金沢百景❞の絵が特別展示されています。
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余談ですが、小田原北条家が豊臣秀吉に攻められた時に、この称名寺は金沢のロリコン変態大名の前田利家にだいぶ略奪されてしまいました。
歴代の日本国の統治者が保護した文化財を私的に略奪し、かってに加賀に持って行き町の名前までパクッて金沢にしちゃったんんだよね。
現在でも金沢市が勝手に市の文化財と言い張ってる文物には、鎌倉時代~江戸時代と通じて金沢文庫の蔵書だった証拠の❝印判❞が押して有ります。
もともと、金沢の地名は❝尾山❞だからな。ついでに前田家は称名寺の赤門も真似して、自分の江戸の前田家江戸屋敷の門を赤門にしてしまった。それが東大の赤門ね。

花見と合わせて是非、拝観して見てね~!
神奈川県と鎌倉武士文化の入口に立てる場所ですよ~♪

次は最近1カ月、訪問再開してる三浦半島~湘南~相模北部の史跡神社仏閣の単体解説記事書きたいなぁ~。
写真が何百枚も溜まってしまった…

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!
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