笹下城と言う御城が横浜市港南区に在(あ)ったのを御存知(ごぞんじ)でしょうか?
小田原北条家の家臣で相模十四騎の筆頭とされた間宮氏の居城でした。
そして北条家で最強の部隊「黄色備え(きぞなえ)隊」の大将北条綱成(つなしげ)公の付家老(つけがろう)を務めた殿様が間宮家の間宮信元公や間宮康俊公でした。

先日、野村不動産と三井不動産レジデンシャルに宅地造成されてしまう直前の今だけ笹下城の本丸跡の切岸(きりぎし=土の防壁)が見えると言う内容の写真と記事をUPしました。 
※2015年05月10日時点ですでに老人ホームの建設が開始され本丸大空堀遺構の埋め立てが始まりました。
今回、これを機に笹下城の説明を皆さんにしておきたいと思います。
長文だよ。
文句言う人は数百年の歴史を自分でレポートにまとめてどうぞ(笑)!

先ずは笹下城の城域図をご覧ください。
この資料は旧笹下郷の総社だった天照大神宮の神主様の御厚意で撮影させて頂きました。

さて笹下城とは…
鎌倉市街や鶴岡八幡宮を守る為(ため)に三浦半島の根元を鎌倉市玉縄城と東西で挟み込む位置で築かれた城でした。
笹下城の仮想敵は二ついました。

1つ目は扇谷(おうぎがやつ)上杉家
江戸方面から陸路で鎌倉街道を攻め上って来る敵勢力です。

2つ目は里見家と正木家
房総半島から水軍で来襲し、鎌倉の外港の六浦港(横浜市金沢区六浦に在った港)への上陸を狙う敵勢力です。

その2勢力を抑え今の横浜市域と鎌倉市域を東京湾側で防衛する目的で築かれたのが笹下城でした。

笹下城主間宮氏が今の横浜市磯子区の杉田を海軍拠点にしながら三浦半島の水軍も統括し、今の東京湾の海防と、鎌倉街道と六浦道(むつうらみち=現:笹下釜利谷街道)を抑え敵の侵攻を防ぐ役目を担っていました。
地理的にも交通の要衝全てをカバーする城で、その規模は正に鎌倉を挟んで東西で対(つい)をなし相模湾側を守った鉄壁の玉縄城と同規模でした。

ちなみに玉縄城は城主北条綱成(つなしげ)公ともども歴史に名を遺している名城で、武田信玄と上杉謙信の攻城にビクともせず両者を撤退させた難攻不落の城でした。
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※画像はKOEIのゲーム信長の野望から拝借した北条綱成公の絵
そして、城主の玉縄北条家の北条綱成(つなしげ)公は北条家当主北条氏康公の義弟に当たり…
河越夜戦
国府台合戦
深沢城籠城戦
上田城の救援
…等で大活躍され、他家の武将達から「地黄八幡」の異名で畏怖尊敬される程の指揮官でした。
その綱成公の率いた部隊が「玉縄衆」と呼ばれた集団で、合戦時には黄色の軍装を配備していた事から「黄備え」と呼ばれた部隊でした。
その玉縄衆の付家老が間宮家であり、玉縄衆与力中で1番の戦功を残し、更に鎌倉と鶴岡八幡宮の復興再建や大規模梅林の植林や神社仏閣の保護で多大な文化貢献をされたのが間宮家の殿様でした。
尚、この鶴岡八幡宮再建は間宮康俊公が奉行としてさんかしており…
白備え隊副将」で横浜市港北区の小机城城代家老の笠原信為(のぶため)や…
足利将軍家の一族で今の横浜市南区蒔田に拠点蒔田城を置き川崎市中原区や東京都世田谷区一帯を支配した吉良頼康公も主要人物として参加されていました。
間宮康俊公は奉行としての実務能力以外にも間宮家の歴代殿様の中で特に武勇に優れており、豊臣秀吉の小田原北条家征伐の際、豊臣秀吉軍の本隊80,000の先陣26,000を率いる豊臣秀次軍を箱根山中城の出城「岱崎出丸(だいざきでまる)」にて僅(わず)か200前後の兵で迎撃、豊臣軍を痛撃し秀吉の旗本大名一柳直末を討取る等の大損害を敵軍に与え玉砕し、全国に北条家最強の黄色備え隊と間宮家の武名を轟(とどろ)かせました。

そんな間宮家の居城笹下城ですが…
笹下城の構造は昭和の高度経済成長期当時の神奈川県と横浜市教育委員会の無知と怠慢で詳細にはわかりません。
城址が発掘調査される前に宅地化で九割九分九厘破壊されてしまったからです。

しかし、城好きの小生が城域の伝承地を散歩して見ると、結構、当時の構造が見てとれました。
まだ地形や道路に当時の形跡がありありと残っていました。

以下に「洋泉社MOOK」さんから出版されている「戦国の城を攻める!」と言う雑誌に掲載されている「防御施設のCG」をお借りし小生が撮影して来た笹下城跡の「地形写真」と比べながら、笹下城がどんな城だったか説明して行きたいと思います。

まず笹下城の規模を説明します。
城域に笹下城の出城、北見掃部(かもん)屋敷後の大切岸(きりぎし)と松本城の二つの砦を取り込む三城一体の構えでした。
その規模は南北に2km超、東西に1km程の範囲が城域です。
玉縄城も同じような自然地形に手を加えた広大な城でした。

先ずは笹下城の大手門跡の写真から構造を説明します。
笹下城の大手門は笹下川に架かる今の「元笹下橋」だと伝承しています。
コレ↓笹下城の外堀の笹下川。
元笹下橋↑の上から左右の川の流れを撮影しました。

川に架かる橋を渡ると城門だったそうです。
ここ↓ね

ここには恐らく「かざし」と言われるコンナ↓施設が有ったはずです。
この防御構造で、城門前の橋に侵入しようとする敵勢を妨害したはずです。
そして城門横の土塁(どるい=土の防壁)の上に設けられた木製の防御盾の矢狭間(やはざま=狙撃窓)から弓矢や鉄砲で狙撃するんですね。

次に城門を突破されても、敵兵はコンナ構造の防御施設↓に行く手を阻(はば)まれます。
「食い違い」↑と言う構造の土塁に囲まれた道です。
真っ直ぐ進めず、常に進路の正面から敵に狙撃されます。
笹下城は大手門を抜けるとこの構造がありました↓ココね。
今でこそ平地に見えますが、S字にクランクした道の左右には土塁の跡と思われる1m程、今でも道より高く盛土された地形が見えます。
食い違いの土塁跡と↑おぼしき地形。

第1関門の笹下川〜城門を突破
                ↓
第2関門の食い違いを抜けると…
                ↓
第3関門の「若宮曲輪」の空堀跡らしい地形が↓ココ。
ココ↑を真っ直ぐ行って左に曲がると登城口の若宮曲輪(わかみやくるわ)にたどり着く。
曲輪の下のT字路は周りの宅地により少し低いので城の推定図と照らして空堀だったんだろう。
で、今家やアパートが建ってる一段高い場所は土塁の名残りかも知れない。。
この若宮曲輪の空堀が堀底道に成っていて「角馬出(かくうまだ)し」と呼ばれる施設と同じ機能をしてたんじゃないかと思う。
馬出しと言うのは城兵が出撃したり敵兵を狙撃する施設です。
小田原北条家の城によく見られる構造です。
コレ↓角馬出し
そして若宮曲輪(わかみやくるわ)下の角馬出しぽい道路と地形が以下。
ココ↓若宮曲輪跡の若宮御霊神社入口
この参道は後から作られたモノでしょう。
でコレ↓正面の空堀ぽいT字路の左右の写真
若宮御霊神社参道入口のT字路周りより低い位置にあり空堀跡で、若宮曲輪が四角い土塁で囲まれていたと推測出来る。
そして若宮曲輪へ…
若宮曲輪跡↑の若宮御霊神社。
曲輪(くるわ=廓=丸(まる))と言うのは纏(まと)まった数の兵隊を置いて、城壁や土塁の矢狭間から敵を狙撃し安全に撃ち殺す為の施設です。

今でこそ若宮曲輪に神社の参道階段が有りますが、城だった頃の構造は空堀、土塁、埒(らち=柵列)が並び正面からは登れず回り込む間に槍で突き殺されたり弓矢で蜂の巣にされ射殺されてしまう構造だったんでしょう。

残念ながら笹下城の遺構はこの他に本丸跡の切岸しか残ってません。

本丸跡
本丸横の大空堀地形の残存部

多分昔はコンナ↓毛抜堀(けぬきぼり)の水の無い空堀だった。

そして下屋敷が在った御下(おんしも)公園近くに今でも在る笹下城主間宮氏の関係者の墓がある寺の成就院。
実はこの成就院の山門(さんもん=寺の門の事。時として寺そのものを指す)は間宮の殿様の屋敷の門を移築した物だそうです。
寺の中には間宮家に関係がある方々の墓所が有るのですが、直ぐ後ろに土塁らしき地形が↓残ってました。
多分、この墓地は本丸下の曲輪の一部だったんでしょうね。
横浜の発展に寄与して下さった先人達に感謝のお祈り…
因みに成就院の御住職は字がとっても綺麗ですよ、そして物腰は柔和で親切です!
書いて頂いた御朱印も素晴らしかった!

笹下間宮家の菩提寺は、元笹下橋近くの妙法寺と推測出来るのですが完全に笹下間宮家の家の菩提寺とされる場所は伝わってはいません。
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ここは笹下間宮家の分家、氷取沢間宮家の御子孫に当たる江戸幕府の昌平坂学問所の学者だった間宮士信公が編纂した新編武蔵風土記稿にも、間宮直元公の菩提を弔う寺と書いて有ります。
そして、昭和中期に火災で御寺が焼失させた木の彫像は間宮家御子孫が撮影し現存する写真と新編武蔵風土記稿に記載されている彫像の模写が酷似しているので、それこそが間宮直元公の彫像だと解ります。
現在の御寺の家人は余り歴史を把握されておらず、御墓は区画整理で行方不明に成り、彫像も失火で焼失と散々な状態です。
直元公の墓所は区画整理で不明ですが、彫刻された日付と女性の戒名から直元公の母上か奥方の御墓と思しき墓石が無下に扱われながら存在しています。

この他に間宮家は磯子区の上中里~氷取沢辺りに間宮寺(けんぐうじ)と言う御寺を杉田の妙法寺末寺として再興し共有していましたが、檀家少なく廃寺と無り、元々間宮寺の石仏だった不動明王像が磯子区上中里地区の上中里神社に移され、参道の脇にポツリと鎮座されています。
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往来する人が無い場所に移されても、間宮の武将達の拝んだ石仏が、この地の住民の安全を守ってくれています。

因みに分家で江戸時代に大身旗本と成った杉田間宮家の歴代殿様の御廟は杉田の妙法寺にあります。
妙法寺さん↑の山門
御住職は大学の先生なのに飾らない気さくな雰囲気の方です、そして御話が面白い。
妙法寺の御廟所は人の背丈程もある間宮歴代御一門の墓石が立ち並び圧巻です。
中でも間宮信繁(のぶしげ)公が植林した梅が江戸時代には杉田梅林として江戸市民から人気の観光地になり、当時、杉田梅は紀州南高梅より上の最高級ブランド品として流通していました。
明治天皇御一家も、度々、杉田梅林を観賞に間宮御一門の旧領を訪れたそうです。
しかし昭和の高度経済成長期に県教育委員会が保護を怠り土建屋に乱開発され消失してしまいました。
因みに、信繁公の家系の杉田間宮氏の御子孫が解体新書を書いた有名な杉田玄白さんです。
また間宮家には他にも間宮海峡を発見した間宮林蔵さんもいます。

信繁公は武将としても天下の趨勢を左右する大功績を関ヶ原の戦いで残されています。
北条家滅亡後、信繁公は有職故実や鷹狩と鷹の育成方法や外交儀礼としての鷹の贈答作法に明るかった事から徳川家康公に直臣として取り立てられ「鷹匠の総奉行」として仕える事になります。
軍役は無い役割でしたが、関ヶ原の合戦に信繁公は鷹匠衆に自家の軍装を貸与し自主的に随行しました。
関ヶ原では戦場配置で徳川軍は圧倒的に不利な布陣を強いられ、開戦当初は石田三成率いる西軍有利に展開していました。
開戦当時の布陣を見てみましょう。
※画像はネットからの借り物です
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御覧の通り、間宮信繁公の所属する東軍主力の徳川家康軍本隊は背後に敵方西軍の毛利軍の大軍がいて前進出来ないので味方を救援出来ずにいました。
味方の先鋒左翼側の福島正則隊は敵主力宇喜多軍の大軍に押し込まれ不利…
味方右翼側の細川忠興軍と黒田長政隊は、石田三成本隊が陣城(じんじろ=戦場で簡易的に築く城塞)から放つ大砲の弾丸に陣容を崩され大苦戦していました。
この東軍徳川方の不利な状況の為、最初から徳川家康公に味方する「内通(ないつう)の約束」をしていた小早川秀秋軍15,000の大軍が味方に付かず更なる窮地に追い込まれていました。
つまり、この戦は徳川本隊が前面に押し出し先陣を救援できるかどうかがキーポイントだった訳です。
徳川家康公は後方の敵毛利軍の中の内通者吉川広家が毛利軍の下山を約束通り阻止している事を確認した後に前進し小早川隊を裏切らせ、たった1日で関ヶ原の決戦に勝利する事に成功しました。
実は!
この吉川軍の内応を確認し毛利軍と周辺敵陣の陣容をつぶさに偵察し
    ↓
徳川家康公に前進しても安全な状況を報告
    ↓
徳川軍本隊の前進を成功させたのが間宮信繁公なんです!

鷹匠は勿論、戦国時代までは武士でした。
と、言うか支配階級の身分の人間のスポーツが鷹狩だった訳です。
鷹狩は山川を駆け回る事に長けており、かつ家康公の鷹匠衆は家康公による鷹狩りが行われる際、事前に周辺の状況分析や領民との折衝も任務として常に行っていました。
そして信繁公自身は元々が武勇名高い間宮家の武将です。
信繁公はこの鷹匠衆の機動性と情報分析能力を活用して偵察を成功させ、東軍の前進に貢献した訳です。
事実、この功績の大きさから家康公は関ヶ原合戦後、鷹狩を行う度に間宮信繁公に対してこの時の事を毎回話題にし領地を加増して下さった事が文献にも記されています。
信繁公は内政と智謀に優れた武将だった訳です。
話を成就院に戻します。
成就院の横には笹下城本丸下のもう一つの大空堀が昨年まで残ってましたが、宅地に成ってしまいました。
ココ↓ね
この歩道は空堀に在った「犬走(いぬばし)り」と呼ばれる曲輪と曲輪を繋ぐ通り道の跡。
小生が子供の頃は、まだ家が無く綺麗に空堀も犬走りも土のまま残っていました。

さて…
出城の松本城へ。
松本城は今の笹下中学校と天照大神宮と桜道頂上の陣が台が城跡でした。
中の丸と言う地名↓が今でも残る…
中の丸跡の天照大神宮から本丸跡の陣が台を見る↓コレね。
そして本丸跡の陣が台
春には桜が綺麗な場所。

天照大神宮から、もう一つの出城の北見掃部屋敷跡を見る…

天照大神宮は笹下地区の鎮守の神社だった由緒正しい神社なんですよ!
そして城跡の一部でもある。

次回から横浜の殿様シリーズはじめますね!