北条泰時公を御存知ですか?
その北条泰時公の開基(かいき:建設する事)した常楽寺と言う名寺が鎌倉市大船に在(あ)ります。
現代では余り有名とは言えませんが、由緒正しい御寺なんですね。
しかも中国大陸の仏教寺院と開基以来、今でも縁があるんです。

もっとも…
私達日本人にとって明朝を受け継いだ正統な華人文化国は台湾なんですが。

御寺の在る「大船(おおふな)」の地名は元は「粟船(あわふね」と言い、平安時代には海面が今よりも高く、鎌倉市大船を流れる柏尾川が今よりも深かったので海からの輸送船の往来が有ったそうです。
戦国時代でも付近の玉縄城は輸送船が城下のお堀まで入って来ており、造船集団がいた事に由来します。

さて…
常楽寺は今でも立派な山門(さんもん:御寺の門)と御堂、泰時公の御廟所もあります。
北条泰時公は"義務教育で必ず習う人物"です。
…もし御知り合いが知らないなら「中学生の時、授業中に寝てたでしょ?」とツッコミ入れて下さい(笑)。

さて、北条泰時公は、源頼朝公の奥さん北条政子さんのお兄さんの北条義時さんと離婚した奥さんとの間に産まれた御長男で、頼朝公に外甥っ子として幼少の頃は大変に可愛がられた人物だったそうです。
ですから最初の名前は叔父で主君に当たる頼朝公より一字拝領し「頼時」でした。
大人に成ってからは鎌倉幕府三代目の執権として清廉潔白な人柄で善政を行い武士達から慕われていました。
しかしながら父親の北条義時は謀略家で幕府内の同僚達を次々と奸計(かんけい:汚い謀略)により排除して行く過程で当然、泰時公も作戦に参加していました。
その為か、父親が主家に当たる源氏を滅ぼすと名前も「泰時」と改めてさせられたようです。

もっとも、源氏より関東にいち早く根付いた"平氏の出身の鎌倉武士達"の視点では鎌倉幕府は「皇族出身武士による共和政権」で「源氏の家臣ではなく協力者」と言う観念を持っていたそうです。
この事は平良文公の御子孫で坂東武者の代表格の鎌倉景政公が祀られている御霊神社の方がおっしゃっていましたし、歴史の推移を見るに実際、鎌倉武士達の頼朝公への関わり方は実際そのような形だったので納得出来ます。

本来の武士は政治信条や信仰による己の思想を大事にし、誰と組むか誰と戦うか、都度(つど:毎回)、考えるものですからね。
保元の乱も平治の乱も武士達は正に己の思想に従い親兄弟に各家で別れ戦い合いましたし。

儒教を導入し独裁政治を行おうとした節がある源氏側に非がない訳とも言い切れませんね。
源頼家公しかり。

歴史は勝者のみ記録出来ます。
ですから吾妻鏡は当然、北条氏側の観点で書かれてると思います。
泰時公の人格の逸話の多くは、北条氏の制圧した鎌倉幕府側の書いた吾妻鏡の中の記載です。
しかし、泰時公が人格や能力から武士達から絶大に支持されていた事は事実でしょう。
でなければ、その後、藤原氏に朝敵にされた幕府軍を統率出来なかったでしょうね。

泰時公の活躍された時代に「承久の乱」と言う事件が起きました。
承久の乱は、鎌倉幕府成立以前に貴族の藤原一族が独占していた権利を、鎌倉幕府から奪い返そうと藤原氏が傀儡の天皇を利用し起こした政変に対し、醍醐天皇以来の悲願で全国の皇族臣籍降下武士達が協力して打ち立てたた鎌倉幕府側が逆襲し京都に攻め上がり朝敵扱いから大逆転した事件でした。

泰時公は教科書で誰しもが習う「御成敗式目」を制定したり法治主義により鎌倉幕府を運営されました。
その統治能力と裁判官としの実績と軍才が今日でも評価されているんですね。

さて、常楽寺の話に戻ります。

常楽寺は泰時公の開基ですが、実は非常に中国と所縁(ゆかり)がある御寺でして、中国の高僧の方が最初の御住職でした。
四川省出身の蘭渓道隆と言う方です。
当時の中国大陸は「南宋(なんそう)」と呼ばれた国家で、まだ中国が外国人に征服される前で本来の華人文化が残っていました。
しかし当時すでにモンゴル帝国が「宋」の北部を侵略し始めており、鎌倉幕府はその宋の文化人の亡命者達を多く受け入れ保護していました。
中華民国を作った孫文先生を保護した明治政府に関係が似ていますね。
さて、蘭渓道隆和尚も宋から日本に渡って来られた方でした。

この常楽寺の宗派の臨済宗は一番偉い御寺が鎌倉五山の一つの建長寺(けんちょうじ)なのですが、蘭渓道隆和尚は建長寺の御住職も務められていた経緯で、本山と末寺の立場的な問題から常楽寺の開山(かいざん:最初の住職)は退耕行勇和尚とされています。
いずれにせよ蘭渓道隆和尚と退耕行勇和尚と北条泰時公の三者がいらっしゃった御蔭(おかげ)ではじめて御寺が成立したので皆様等しく御寺にとっては大切な方ですね。
ちなみに建長寺は「けんちん汁」の発祥地です。

さて、蘭渓道隆和尚のいらっしゃった頃の日本は、漸(ようや)く武士文化と言う完全独自の文化を持ち始めたばかりなの頃で、まだまだ一般人の識字率低かった時代でした。
そんな時期の日本にはるばるいらっしゃって、仏教文化を通じて日本人の識字率や文化度の向上に貢献して下さったんですね。
何だか鑑真和尚の逸話に似ています。
鑑真和尚の時代、仏教の伝来は日本の建築技術の飛躍的な向上をもたらしました。

確かに独自の神道と言う宗教とは異なりましたが、儒教や基督(キリスト)教と異なり神道を尊重し相互の良い部分を融合させ日本に定着しました。
仏教が攻撃的な宗教で無かった事や、仏教自体が多神教で日本に伝来する過程でヒンドゥー教や中国道教と融合し多様性に寛容な多神教でしたので、多様性を良しとする神道の価値観を持つ日本人に受け入れられ易(やす)かったのかも知れませんね。
近年でも常楽寺と中国の関わりが有りました。
以下は現御住職から聞いたお話しです。
中国が日本と国交正常化して暫くし中国の経済発展が始まった頃、常楽寺に知らない中国人僧侶が突然通訳を伴って来られたそうです。
当時のアメリカ大統領がパパブッシュだった頃だそうです。
その僧侶がおもむろに庭作業中の御住職に中国から来た経緯を通訳を介して話しだしたそうです。
実はこの中国人僧侶は蘭渓道隆和尚の中国時代の御寺の現代の高僧でしが、当時御住職は最初わからなかったそうです(笑)。
相手も蘭渓道隆和尚の開山された常楽寺の御住職が、まさか庭作業なんぞするわけないないと思い最初は御住職を下っ端の僧侶と勘違いしたそうです。
よくよく話を聞いて、お互いの立場がわかると相手は蘭渓道隆和尚の足跡を辿り中国の御寺の記録を頼りに鎌倉市の常楽寺を訪ねて来られたそうです。
そして常楽寺と建長寺に、中国で廃寺に成っている蘭渓道隆和尚と所縁が有った寺院の再興式典に参加を要請に来られたそうです。
改革解放前の中国共産党は文化大革命により仏教を含めた全ての宗派を弾圧しましたからね。
改革解放が始まり漸く宗教活動が大々的に出来るように成った頃ですね。
常楽寺の御住職は要請に応じ、その後、船便で届いた招待状を手に上海に行くと日本の蘭渓道隆和尚と所縁のある御寺の和尚様達と共に国賓待遇で迎えられたそうです。

そうやって蘭渓道隆和尚の御縁で結ばれた中国と常楽寺(日本)の縁でしたが、御住職は最近、中国に対して気持ちは複雑だそうです。

実は小生も中国に留学していましたが、最近の習近平政権の排日政策と日本人差別に嫌気がさしてます。
小生は三国志好きで中国人の友達いますが今は中国に行く気には余り成りません。
商業工業で中国に拠点を持つのもお勧め出来ません。
韓国と中国とは国として政府間交流は挨拶するだけの苦手な隣人くらいの距離の取り方が無難だとも考える程です。
本当に行く必要のある家族が相手国にいる人と、相手の文化を尊重出来る人だけが往来すれば良いと思います。
中国人との関わりは個人単位で誰と付き合うかが大切ですから。
中国人にもモラルの高い階層は文化大革命を経ても生き残っています。

習近平政権は日本人排斥と日本企業弾圧しようとしていますが、宗教も弾圧し始めていますね。
何だか文化大革命の頃に逆行したいみたいだと感じてしまいます。
蘭渓道隆和尚の頃の中国人の面影は、もはや大陸には価値観として余り残って無いのかも知れません。

北条泰時公と蘭渓道隆和尚と常楽寺を通じてモンゴル帝国に征服される前と後の中国人についても考えさせられ、その当時の蘭渓道隆和尚達、南宋亡命者の文化人達の情報により鎌倉幕府が元との対決を決めたのだろうなと…

ただ日本人は忘れないでおきましょう。
蘭渓道隆和尚の様に、日本の為に貢献して下さった華人がかつていらっしゃった事を。
正統な華人文化を受け継いだ台湾と、一部の高文化階層の親日派大陸人は大切にしましょう。
鑑真和尚や蘭渓道隆和尚の為に。
和魂漢才を唱えた菅原道真公の天神様を祀る日本人として。
神道と仏教の融合した八幡神を信仰した鎌倉武士達の意思を引き継ぎ。

最後に北条泰時公の御廟所前の説明石碑と鎌倉武士も見ていた今日の富士山の写真を載せます。
お墓の写真は失礼に当たるので掲載しません。
皆様、御自分で足を運ばれてみて下さい。