日本武尊(やまとたけるのみこと)と
弟橘媛(おとたちばなひめ)の夫婦神
漁師と料理人の神様の大伴黒主(おおとものくろぬし)
…その三人の神様をお祀(まつ)りする神社が三浦半島の走水海岸の御所ヵ崎近くに在(あ)ります。

付近は風恋明媚(ふうこうめいび)な漁村です。
釣船屋さんと地魚料理の食堂が立ち並びます。

今回ご紹介する神社の神様は川崎市高津区子母口の橘樹神社とも同じ夫婦神様の日本武尊と弟橘媛です。
川崎市の橘樹神社には弟橘媛様の古墳も一部分現存しています。
詳しく知りたい方は以下の関連ブログのリンクをクリックして見て下さい。
橘樹神社のブログ記事はココ←クリック!

さて、横須賀市の走水神社の御祭神(ごさいしん)が日本武尊と弟橘媛と大伴黒主である理由は、実は御三方はここに住んでいらっしゃったからなんです。
日本武尊と言えば日本を代表する武神であり軍神です。
弟橘媛はそのお妃(きさき=王様の妻)で、海上交通の神様で、浦島太郎伝説の乙姫様のモデルでもあります。
夫婦が揃うと文字通り"日本最強の縁結びの神様"の御利益を発揮される訳です。

走水神社のすぐ近くに小さな半島の"御所ヵ崎(ごしょがさき)"が在ります。
正に其処(そこ)が御二人が夫婦生活を営まれた「御所=高貴な人の館」の所在地だったのです。
だから神社の目の前は海♪
写真左上が御所ヵ崎。

そして御二方に海鮮料理を作り接待したのが"大伴黒主"様なんですね。
走水神社の氏子さんの話では大伴黒主様は後に日本武尊にスカウトされて古代大和朝廷(やまとちょうてい)に仕え総料理長に成ったそうです。
だから料理の神様なんですね。

関係有るかは不明としておきますが…
逸話の内容や古代服装からして、"大伴黒主様は七福神の大黒天"の日本でのモデルだと思います。
大伴黒主の時代の服装の方がより大黒天に近いですからね。
ただ、大黒様はインドのヒンドゥー教由来の神様です。
歴史的には古代の豪族大伴氏は天皇の近衛兵と水軍の管理を任された名族です。

走水神社の上からは走水神社を中心にした漁村が良く見えます。
港の左手には御所ヵ崎…
…海面の高かった古代では"浦"に浮かぶ"島"…浦島に見えたでしょうね。
湾を挟んで対を成す神明神社の在った半島…
埋めたてられる前は、走水神社を中心にして鶴が羽を広げた様な風光明媚な海岸だったんでしょうね。
航空写真を見て頂ければ、その位置関係と地形も一目瞭然…
しかし
明治時代に御所ヵ崎と神明神社の半島は明治政府に接収され破壊され砲台が築かれたので、それ以来入る事は出来ません。
誠に不敬で遺憾な事です。
ですので、心を痛めた東郷元帥や乃木大将や伊東祐亨閣下等の有志により、湾の中心に有る走水神社に橘樹神社と神明神社を合祀(ごうし=同じ神社の敷地内に神様をお引越しする事)しました。
日本武尊と弟橘姫の仮御所だった走水海岸の御所ヶ崎周辺からの眺望は素晴らしく、海に突き出し昔は島だったであろう御所ヶ崎と地続きの丘の上から見る三浦半島の海岸線の先には富士山に夕日が沈む姿が見られ、正に乙姫伝説の海の中の竜宮城の形容に相応し場所です。
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御所ヶ崎の社殿は砲台建設時に明治政府によって接収され破壊されました。
御分霊だけ明治の元勲の中の信仰心厚い面々によって奥宮に保護合祀されたが古代の仮御所の史跡は永遠に失われ訳です。
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冬季であれば雑草も枯れて門の入口から中の様子が少しだけ見えます。
見学されたい方は横須賀市公園管理課に問い合わせて予約すると、御所ヶ崎砲台史跡として見学する事が出来ます。
走水神社から御所ヶ崎に行く途中には下の看板も有り簡単な説明が掲載されています。
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因みに神社には弟橘媛と日本武尊の暮らした御所ヵ崎の砂を"縁結びのお守り砂として無料配付(はいふ)"しています。
スプーン一杯分くらい持って帰ってお守りにして良いそうなので、小さなジップロックみたいな袋か和紙を持参して行くと良いですよ!
この神社の手水(ちょうず)は正に御神水とも言える自然湧水で、富士山系の腐り難いバナジウム天然水らしいです。
ですので、昔は船に積み込むミネラルウォーターに用いられたそうです。
同じ泉質の横浜市中区の打越の霊水は、やはり明治時代に遠洋航海する船の飲水や、同横浜市中区に在った幕末のキリンビールの最初の本社工場で使われた水も同じ泉質でした。
走水神社本殿自体は建て替えられたばかりの綺麗な社殿です。
写真撮り忘れましたすいません…
…面目無い_| ̄|○
神社内には弟橘媛と日本武尊が詠(よ)んだとされる和歌が刻まれた石碑も有ります。
走水神社は古代から此方(こちら)に在ったそうで、伝説では日本武尊が来る西暦2世紀より以前の紀元前には有ったそうです。
建て替えの際に社殿の床から伝説通り日本武尊から奉納(ほうのう=神仏への寄付)された冠(かんむり)を保管する石室の壁が出て来たそうです。
本殿横には弟橘媛の侍女を祀るお社もあります。
今も古代の石造りのお社が走水神社の奥宮に移築され祀らています。
右から…
須賀神社=素戔嗚雨之命(すさのおうのみこと
神明神社=天照大御神(あまてらすおおみかみ)
諏訪神社=建御名方神(たけみなかたのかみ)
つまり…
須賀神社=軍神と水運=日本武尊の信仰した神様。
神明神社=大和朝廷皇族の祖先神
諏訪神社=弟橘媛と大伴黒主の祖先神と同じ渡来系技術の神様。
…と言う感じです。
大伴黒主は別名:久応と伝わります。は日本武尊達を歓待した地元の豪族で漁民で料理人。横浜市神奈川区六角橋の宝秀寺は大伴久応の邸址と伝わり、そこに日本武尊が滞在した伝承が有る。走水神社の伝承では大伴黒主は日本武尊を接待した後に請われて後に古代大和朝廷の料理長に成ったそうだが、日本神話では日本武尊は岐阜県と滋賀県の県境に在る伊吹山辺りの神(豪族)に帰路を阻まれ三重県の鈴鹿辺りで病没しています。
史実としては大伴一族は水軍を率いて天皇家の御林軍も率いた一族なので、走水で日本武尊を大伴黒主様が歓待された事は神話とも整合性が有り、六角橋の大伴久応の伝承とも整合性が有ります。
つまり、大伴久応黒主様の正体は、東京湾沿岸部西部を支配した豪族だったのでしょう。
六角橋の近くには塩嘗地蔵(しおなめじぞう)と呼ばれる御地蔵様が鎮座していて、そこは火事で戦国時代に廃寺に成った神大寺と言う大寺院の参道入口と伝承します。
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大伴久応邸址の在る六角橋近くには浦島町が在り浦島太郎伝説の舞台で有る事や背後の浦島町~新横浜駅近く篠原城址に繋がる丘は古代に海に面した半島で亀甲岬と呼ばれた事、その半島の一部だった鶴見区に亀甲山の地名が現存する事、現在の新横浜に太田道灌公が小机城攻略の前衛拠点として‟亀甲山城”を築いた記録が残る事、陸奥話記にも登場する源義家公与力武将の丸子宿禰家の所領も中原街道沿い川崎の対岸に丸子の地名が残り大伴家と同族である事から、古代の大伴家が支配した地域が陸海交通の要所だった事が解ります。
江戸時代に東海道神奈川宿が置かれた京急神奈川駅近くの幸ヶ谷~台町一帯は足利尊氏公の時代も交通の要所で権現山城が築城された亀甲岬の一部の小さい半島でした。
その重要性から古代に大伴家が支配したこの一帯は戦国時代も北条家臣で間宮林蔵や杉田玄白の一族の祖先に当たる間宮信冬公が活躍した権現山合戦の舞台に成っています。
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出雲大社はじめ古代の水軍を司った出雲神族の家系は家紋に亀甲紋を用いる事から、現在の浦島太郎の物語は関東の日本武尊神話が元に成っている事も判ります。
浦島太郎が帰る家が無くなる様は、兄王成務天皇に皇位継承権を巡って帰京を阻まれた日本武尊の悲運を抽象化したものでしょう。
そして、その東征の目的は佐賀牟国の国司の内紛鎮定だった筈で、現在の神奈川県の地名由来に成った神奈川と呼ばれた地域、久良岐郡~橘樹郡~多摩郡(川崎市域)は古代大和朝廷の直轄地とされ神(かみ=支配する豪族)奈(無し)の地域が川の様に細長く設置されました。
郡衙と国府と延喜式内社と古墳と縄文弥生遺跡 久良岐のよし
それは、あたかも国境非武装地帯の体を成し武蔵国と相模国の国境地帯に重っています。
この佐賀牟国が相模と武蔵に分割され争乱を鎮めた事が垣間見える神無しの地域こそ、‟初代か二代目の”日本武尊の偉業が豪族紛争鎮定であり、天皇家介入による非武装地帯の設置の聖跡だろうと推測出来ます。
それを示す様に同地域には延喜式内社が存在していません。
本来ならば、この走水神社も延喜式神名帳に載るべき場所なのに掲載が無いのは奈良時代~平安時代初期に支配者豪族不在で上奏が無かったか大和朝廷から派遣された代官が働くに郡衙政庁として機能していた為でしょう。つまり、古代からの政庁機能が生きたまま神社には成らなかった場所だと推測出来ます。
更に、日本武尊の人物像に習合されている可能性の有る人物がいます。
雄略天皇の時代450年代~500年頃にも武蔵国造(むさしくにつくりのみやつこ)の乱が勃発しており、埼玉県稲荷山古墳出土した金象嵌鉄剣に彫られた‟獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)”の名こそ雄略天皇であり多支鹵=武尊(たける)の名を継承した大将軍職の尊称だろうと推測出来て、日本武尊神話に複数人の事績が後から習合されているとされる説が根強く有る事も理解出来ます。
応神天皇の別名が大鞆和気命(おおともわけのみこと)や誉田(=多)‟別”尊(ほんだわけのみこと)である事から「和気(わけ)」「別(わけ/わか)」の「わか/わけ」が獲加多支鹵大王の「獲加(わか)」に通じ、「稚」にも通じる音である事から、「ワケ/ワカ」は仁徳天皇以降使われなくなり現代には伝わらない皇族の青年将軍に対する尊称であったと解釈出来ます。
下の写真は延喜式神名帳に掲載される相模国四之宮前鳥神社です。
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相模国四之宮前鳥神社の主祭神で京都の宇治市から神奈川県平塚市に移住した応神天皇の皇子、莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命(のみこと)は、やはり御名に「稚」の字を含んでいます。
前鳥神社の近くには、その御陵と推測される真土大塚山古墳も在り古代大和朝廷や卑弥呼が魏の皇帝曹叡と丞相の司馬懿仲達から送られた200枚の銅鏡に繋がる三角縁神獣鏡が発掘されています。
莵道稚郎子命は日本で最初に漢学(兵法や儒学や雅楽)を学んだ人物とされています。
中世~近世の武士達が当主の嫡子を「若(わか)様」と呼んだのも、この古語の名残でしょう。
この関東で活躍した日本武尊の叔母君の倭姫命が卑弥呼で景行天皇が卑弥呼の弟ならば、走水神社は初代日本武尊の聖跡となり時代的にも史実と誤差が近く成ります。
そもそも卑弥呼も卑弥呼(ヒミコ)=日巫女(ひのみこ)や媛御子(ひめみこ)の音に通じる事から、皇女(内親王)が受け継ぐ斎王職の原型の役職名だった可能性も有る。奈良~平安時代に斎王が支配した伊勢神宮で日本武尊が叔母の倭姫命から神剣を貸与され与力に大伴家を付けられている事からも、六角橋と走水の伝承に整合性が認められ、倭姫命は古代の斎王で正体は卑弥呼本人か、中国で卑弥呼の当て字に翻訳されたを官職名として斎王職の原型の女性宮司を継承し務めた皇女(内親王)でしょう。
この走水の海岸から日本武尊は房総半島の富津へ渡って行きました。
パワースポットでもありますが…
古代へのロマンを感じる場所です。
そんな訳で、景行天皇の皇子で関東鎮撫の大将軍を務めた初代の日本武尊であろう神様と、御妃様の弟橘姫様が仲睦まじい御夫婦の神様だった事と、更には走水神社の社伝で料理達者であったであろう大伴久応黒主様の家系は親衛隊や水軍の将を務めた歴史事実、東郷平八郎元帥達、対馬海戦でロシア帝国の大軍勢を撃破した名将達の崇敬した神社としての実績も有ったりする場所なので戦勝祈願の聖地として紹介しても過言では無い事、それら全ての御利益に預かれる場所である訳です。
皆さんもどうぞ、参拝して日本武尊と弟橘媛様と大伴黒主様に想いをはせてみては如何でしょうか?
近くには「かねよ食堂」と言う素敵なCafeレストランBarと、走水名物の海苔の生産直売をする「ながつか水産」さんも有ったり、昔から東京近郊の御金持ちにリゾート地として親しまれた観音崎灯台や観音崎要塞史跡、多々良浜も有ります。
走水神社に関連する橘樹神社さんもブログ冒頭でリンク貼った関連記事も読んで見て下さい!
きっと皆さん中で歴史の紐が結ばれ繋がりますよ〜♫


周辺の観光地も素敵な場所です。
皆さん、ここに来て散歩してみませんか?
そして、御近所の神社仏閣や城址も御散歩して見て下さい。
近所の小さな神社や御寺や御城の址の山にも思わぬ歴史偉人や武将との関わりが有るかも知れませんよ?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!