横須賀市と横浜市を繋ぐ横浜横須賀道路と言う高速道路が有ります…
その高速の衣笠(きぬがさ)インターを降りると近くに衣笠城址と言う交差点が有りまして…
その地名のまんま、一帯は鎌倉幕府の重鎮である三浦氏の本拠地、衣笠城が有りました。
三浦氏は桓武天皇の系統皇族である平高望(たいらのたかもち)王の子孫の武家です。
三浦氏は鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の旗揚(はたあ)げ当初の同盟者の中で最大勢力を誇った武士団でした。
純粋な武士だけで500騎と言う兵力を誇ったそうです。
当時は騎馬武者1人に口取り(馬の引き綱持ち)と雑兵(ぞうひょう)3人位の編成なので…
騎馬武者1+雑兵3〜4=最低4人
武士500騎×4=2000人
足軽を含めた総兵力は約2000騎と推測出来ます。

当時の関東地方は富士山の火山灰が堆積(たいせき)した関東ローム層のせいで、水田の造成に適さない土地ばかりでした。
江戸時代に入っても依然、畑地ばかりでした。
言い方を変えると…
「関東では」身分の高い人間か軍人の為の
「持ち運び可能な戦時食料」だった
「米穀」を確保するだけの
「水田耕作に適さない土地」だらけで、
「大河川沿いか谷間の粘土質の地層が表層にある地形」でしか
「稲作開発をする土木技術しか無い」時代だった訳です。
しかも当時は今よりはるかに海面が高い時代でしたから、尚更耕作地は少ない訳です。
当然、衣笠城址の山も谷間を抱える様な地形に在ります。

当時の蝦夷(えぞ=北海道)国と琉球国を除いた日本国の総人口は700万人未満です。

三浦氏は、その動員可能兵力の2000人から安土桃山時代の石高に換算すると約7万石の大名に匹敵する勢力と成ります。
が、人口の少なかった平安〜鎌倉時代ではその比率は更に大きく成ります。
安土桃山時代の総人口は1200万人弱です。
つまり…
総人口1200万人の安土桃山時代と比較して…
総人口が700万人未満だった平安時代後期の人口は…
"安土桃山時代の約1.7倍相当の価値がある"ので…
平安時代末期の三浦家動員可能兵力2000人は…
2000人×1.7倍=3400人分の価値となります。
安土桃山時代の侵略戦争での動員可能兵力は「1万石=兵力300人」と言われています。
つまり、三浦家の支配地は三浦半島と横浜南部〜鎌倉附近だけだったにも関わらず"江戸幕府なら11万石相当の大勢力"だったと言えます。

その三浦氏の中でも最も有名な武将は三浦義明(みうらよしあき)公と呼ばれる武将です。
この↓人
義明公のフルネームは平朝臣(たいらのあそん)三浦大介(みうらのおおすけ)義明です。

名前の意味は…
平朝臣=朝廷の臣下の平家の人間
三浦介=相模国の三浦郡知事
義明   =個人名
…となります。

ですので余談ですが、現代人の「大介」と言う名前は…
①名付けた親が「大介」の意味を理解しておらず「何か強そう」だから訳も分からず音だけで付けたDQNネーム
②息子に県知事に成って欲しいと言う希望を持っている
③祖先から「◯◯地方の大介職」を継いでいた家系と言う事になります。

三浦義明公の場合、昔の人ですし三浦介と言う知事職を代々世襲したから大介を名乗った訳です。

さて、そんな名前の義明公ですが、歴史の大舞台で最も活躍するのは88歳の高齢で戦死した時でした。
義明公の最期(さいご)の舞台は衣笠城址の物見岩=本丸付近だと小生は推測しています。
この物見岩の近くには人工的に掘削された堀切(ほりき)り=尾根を断ち切る空堀に成っており、衣笠城址の最高部に位置します。
反対側と堀切で断ち切られていますが…
恐らく平安時代当時は、堀切を穿(うが)った岩盤の上に引橋(ひきばし=戦時には取り除ける橋)で繋いだ物見台が建っていたのだと思います。

物見岩は看板が有り義明公の詠んだ辞世の句が書かれていました…
そこには小さな稲荷神社が有りました。
物見岩の上から削平地を見ると人工的に山肌をL字状に削られた一角がハッキリ見えました。
昔は何某かの曲輪で名前が有ったのかも知れませんね。

物見岩の下からは「御経を納めた筒」や「陶器の合子(ごうす)=薬入れ」等の宝物が発掘されています。
つまり重要な建物の床下だった証拠か、自害の舞台で其(そ)れ等の宝物を最期に隠したか、義明公の外孫でもあり義明公を討ち取った畠山重忠公か、義明公の次代の三浦家当主の義澄公が供養の為に埋めたと推測する訳です。

付近には三浦一族の本丸館跡と思(おぼ)しき平場と呼ばれる場所もあります。
小生はこちらよりも、井戸の近くの大善寺横の畑地の削平地に平時住む御殿が有ったんじゃないかなと思います。

本丸より一段下ですが堅固な切岸ですし上は可なり広い真っ平ら。


物見岩付近の本丸平場付近には、土塁(どるい)=土壁跡と思しき盛り上がりの続く地形も見れました。
衣笠城は自然の山とのたまう輩もいますが…
横浜市金沢区の鎌倉時代の金沢北条氏の居城跡称名寺や、室町時代の北条氏の玉縄城と同じく…
山の尾根の左右を切り込み急な城壁状の狭隘な通路にした地形だらけでした。
幅2m有りません…
しかもメッチャ急峻に削り込まれてるよ!
スゲー怖いよ!
足滑らしたら死ぬ‼︎

こんな場所を総重量30kg以上の鎧着て駆け回った三浦氏や、攻め込んだ畠山重忠公って…
「どんだけ〜⁉︎」
…と思いました。

この衣笠城址の一部分に大善寺さんがあるのですが…
…もうね、明らかに寺の地形じゃないよ。
昔は城の曲輪(くるわ)=防御施設の一つでしたみたいな感じなんです。
この大善寺さん、当然由緒ある御寺でして…
三浦氏一門と家臣団の教育場だったそうです。
江戸時代で言えば藩校、現代なら市立大学みたいな感じかな?

さて…
義明公が何で自害をする事に成ったかを少々話します。

平安時代末期…
源頼朝公が、今の静岡県と神奈川県の県境近くに在る"石橋山"で「反"伊勢平氏"」で挙兵(きょへい)しました。
その際に、伊勢平氏と敵対した平良文(たいらのよしふみ)公の子孫である三浦一族も、先祖の代から盟友である源氏の頼朝公に呼応(こおう)し三浦半島で挙兵しました。
その後、石橋山の頼朝公を救援しようと三浦義明公の命令で義明公の長男の長男、つまり孫に当る和田義盛(わだよしもり)公に騎馬武者300=兵1200位?を付けて援軍に向かわせます。
援軍は湘南海岸沿いに西へ向かうのですが相模川の横断に手間取ります。
恐らく石橋山に行く前に西上(せいじょう=京都方面へ行く)過程で、平家側に味方した藤沢市の大庭氏の居城である大庭城が空に成っていると踏んで落城させておこうとしたのでしょう。
大庭城を落とさないと相模川を渡河中に背後から攻撃され窮地に陥りますからね。
ところが…
大庭城は、後の戦国時代にも北条早雲公が利用した程の堅城だったので攻めあぐねる訳です。
そうこうする間に、今の埼玉県東松山方面から大庭氏の援軍に畠山重忠公率いる秩父平氏軍団が来攻(らいこう)するとの報が三浦軍に入り撤退を余儀(よぎ)無くされます。

援軍に行くはずの三浦軍が逆に東西から挟み撃ちにされる形に成ってしまった訳です。
そこで義明公は一計を案じます…

自らが衣笠城で囮(おとり)に成り、畠山重忠公の大軍を引きつけ、その間に衣笠城の近くの怒田(ぬまた)城に常駐している和田水軍を使い戦力と一族郎党を房総半島に退避温存させる事にしました。
房総半島には三浦氏と同族で婚姻関係にある盟友の上総広常と彼の統括する房総平氏軍2万と合流させる事にしたのです。

結果、三浦軍の温存撤退は成功しますが三浦義明公は衣笠城で玉砕しました。
衣笠城の近くに在る満昌寺と言う立派な御寺に義明公の首塚と伝わる御霊神社が有ります。
源頼朝公が義明公の供養の為に建立した御寺です。
首塚が有ると言う事は義明公の外孫でもあり義明公を討ち取った畠山重忠公が、後に源頼朝公と三浦氏に返還したと言う事に成る訳です。
この畠山重忠公と三浦家の遺恨が頼朝公と言うバランサーを失った直後の、重忠公讒訴や二俣川での重忠公謀殺に繋がるのだと思います。

義明公御自身に話しを戻しましょう。
義明公は衣笠城で玉砕する事により、自分の命と引き換えに三浦一門と軍兵千数百人を助け、更に戦略的に水軍を温存し壇之浦合戦で頼朝公の鎌倉幕府創業を助ける事に繋がって行った事に成る訳です。
偉業を為されたと言って過言では無いと思います。
三浦大介義明公は誠実で判断力深謀遠慮に優れた坂東武者の鑑だと思います。

…と、言うお話でした。
因(ちな)みに三浦義明公の御子孫は戦国時代に全国で大名や名門の重臣に成りました。
奥州の芦名氏
上総の正木氏
相模の佐原三浦氏
駿河今川家重臣の朝比奈氏、由比氏、三浦氏
…等が御子孫に当たります。

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