ブログネタ
流行語大賞候補、知らない言葉はいくつ? に参加中!
反日と言う言葉を最近良く耳にします。
古代ではそうでも無かった時代もあれば…
…今と同じくらい対立した時代も両方有りましたよね。

あの日本と中国の真ん中に有る某国の迷惑なDiscount-Japan(日本ブランド追い落とし)活動のせいで…
面倒臭い事に成ってますが。

それと少し関係有る昔、昔、古代人の政治や文化のお話を縄文〜弥生時代の遺跡の写真と話をからめ少しさせてください。

三殿台遺跡と言う、一部分が発掘後に保存された縄文時代~弥生時代にかけての遺跡と笹下杉本遺跡と言う破壊され現存しない遺跡が横浜市にあります(ありました)。

今回は、その縄文遺跡の展示品を例に挙げて、金属器の製造技術取得以前の古代神話の時代の日本人のお話を少しします。
三殿台遺跡は磯子区と中区と港南区の中間地点、デュオ歌手ユニット「ゆず」の地元の「三殿台」「岡村町」「滝頭」「藤棚」「上大岡」一帯にかけて広がっていた広大な遺跡の一部分です。
上大岡には曾(かつ)て巨大古墳も有りました。
この三殿台付近の地域は平安時代~鎌倉時代~室町時代にも重視されており、時代が前後するものの三人の高家(こうけ=皇族の子孫の家系)の殿様が住んでらっしゃいました。
三殿台の地名は、その事に由来するのだと思います。
その殿様は大田道灌公、吉良頼康公、平子氏の殿様です。
その殿様達の件は別にブログを書き、改めて紹介したいと思います。

写真は三殿台遺跡の竪穴式住居を在(あ)った場所に復元したものです。
三殿台遺跡には、この様な復元された竪穴式住居が多数有り、他に出土した遺物の展示館も有ります。
IMG_0427

笹下杉本遺跡は港南区笹下と言う地域にあり、こちらも又、戦国時代の笹下城と言う御城の一部の北見掃部屋敷跡の出城でした。
※笹下城に関しては「ココ 」と「ココ 」←をクリックして過去に書いた関連記事を御覧下さい。

笹下杉本遺跡に関しては「教育委員会が"自称"地下保存との虚言で開発の為の掘削を容認し破壊しつくした」ので掲載する風景写真すらありません。場所的には笹下中央公園と言う公園周辺と、公園の前を走る環状二号線の上空10m以上(笑)空中の辺りが主な遺跡の残存地域でした。
因(ちな)み、北見さんと言うのは平安時代~昭和初期まで横浜市南部の大地主だった御一族でして、北見さんの土地だけを歩いて横浜市旧南区(港南区+南区)から鎌倉市まで歩いて行ける程の土地持ちでした。
つまり、かつての荘園の開拓者の御子孫に当たる訳ですね。

さて、まず古代日本の文化についてですが…

皆さん、日本神話の天照大御神(あまてらすおおみかみ)の時代に当たる弥生時代や縄文時代が「未開の低文化」だったと勘違いしていませんか?
もし、そうならとんでもない勘違いですよ!
縄文~弥生時代、諸外国と比べて如何に"古代日本人が既に美術的感覚に優れた文化人の素養を備え"ており、素晴らしい石細工の加工技術や土器の焼成技術を有していたか、現物を見れば一目瞭然ですよ。
確かに中華では日本の縄文時代に既に青銅器の製造を開始していましたが、日本の土器や石器の美術的な意匠はかなり美しい物なんですよ。

三殿台考古館には、こんな↓折れた石剣の「柄(え)と、束(つか)部分」が展示保存されています。
IMG_0433
おっと失礼!
これは"男性のシンボルを模した古代の神器"でした(笑)。

・・・まぁ、ある意味「剣」ですけれどね。
愛知県の"田縣神社"と言う恐らく紀元前から有る神社では御神体はそのまま「男根」です。
興味のある人は「田県神社」「画像」で検索するか「ココ 」←をクリックして見て下さい。
沢山の美女が男根を微笑みながら抱いている画像が出てきますが、この神事には大切な意味が有ります。

つまり、薬も無く、狩猟採集文化で穀物の耕作も始められていなかった古代は"平均寿命が30歳"と現代人の三分の一しか生きられなかったので・・・
日本人そのものの人生における「繁殖期間も平均的に短かった」ので「子孫の繁栄」を願う事も大切な神事だった訳です。
そして、男女の出会いの場にも成ったのが「政(まつりごと)」=「祭り事」=「まつり」だったと推測出来ます。

芸術的な話に戻ります。
これ↓が古代の「石剣の柄」の写真です。
IMG_0434

……
………
「どうだビックリしたか!」
…と、自分の事を自慢するかの様に言いたく成る程に精巧な意匠が施(ほどこ)されていますね。

"柄(え=持ち手)"に当たる部分には"滑り止めのシボ加工と円周直線"が施されており、機能美を備えています

更に、束(つか=グリップエンド)には美術的な"上下対象に刻まれた斜線"と"幾何学的なデザイン"が施され、日本の古代人の芸術的センスの高さが窺(うかが)い知れます。
…本当に美しい…
刀身部分はいったいどんな作りだったのでしょう?
想像するとワクワクしますね。

古代人は更にオシャレも大好きでした。
IMG_0435
左上の耳飾りなんか、現代でもピアスやイヤリングに使えそうな美しさですね。
現代人みたいに古代人の女性も男性にこういった宝飾品を貢がせて、結婚相手の経済力を見極めていたんでしょうかね~?
…女性怖い…

政治的に日本を仕切った「天照大御神」も「卑弥呼」も「臺与」も「神功皇后」も「北条政子」も「日野富子」も「春日局」も女性だし…
「巴御前」や「成田甲斐姫」や「中野竹子さん」や「山本八重さん」に至っては、もうそのまんま戦闘技術的にも男性が敵(かな)わない武力を備えた上に、指揮官としても参謀としても戦巧者でしたから…
子を産む際にアドバンテージが有るのは、種に成る男性を選ぶ権利が有る女性側なんですよね、いつの時代も日本では。
ハッキリ言って、日本人は男性より女性の方がリーダーの才能が有ると思います。

おっと!また脱線しました。

当時は是(これ)等の宝飾品を手に入れるのに、"自分で加工する技術を有している"か、別の村まで交易(こうえき=商売)しに行き、三殿台周辺の海で採れる"海産物から作った保存食品と物々交換して貰うだけの食品加工技術と他人に分けるだけの生産力"が必要だった訳ですね。
つまり石製美術品の加工技術は個人レベルで職人として優れていなければならなく、後者の海産物加工食品の生産ならば村単位で協力し大量生産するだけ組織力が必要だった訳です。
この事から推測出来るのは既に村単位で協力した分業制や統率するリーダーがいた可能性が高かった訳です。
昔のヒッピーが「古代人は平等で地位や組織の優劣なんか無かったから原始時代に回帰しよう!」なんて意見は妄想の産物で"頭の中がお花畑なおバカな幻想"とキッチリスッパリサクっと切り捨て断言出来ます(笑)。
歴史遺物を見て歴史事実を直視すれば、組織で行動し村単位の共存体制が確立されており、古代縄文~弥生時代には既に原子国家の体を成し始めていた事が推測出来ます。

当然、これ等の宝飾品や武具や神器以外に、日常用品として用いられた器(うつわ)や狩猟と食品加工に用いた刃物を加工する職人達もいました。
IMG_0432
写真は三殿台遺跡で展示保管されている弥生土器ですね。
今と違い轆轤(ろくろ=回転台)の無い時代に、手捻(ひね)りで粘土から、これだけの大きい焼き物を、こんな薄さで造形するのも難(むつか)しいのですが(※小生は銀粘土での銀細工や造形も趣味)…
それより焼成する時に高温を出す為(ため)の"窯(かま)"や"燃料の炭(すみ)"が無いのに、よく樹木の薪(まき)だけで、粘土の伸縮率を考慮し割れない様に薄く堅く焼く技術が有ったものだと感心させられます。
※小生の銀細工の趣味は「ココ 」←見てね。

渡来文化の流入した弥生時代の大陸的にシンプルなデザインで厚さの薄い土器と比較して、縄文時代の土器は焼成技術の未熟さからか分厚いもののデザイン性には個性に優れて芸術性の高いデザインに成っています。

写真は小生が個人で所有している"笹下杉本遺跡"から出土した石器と土器です。

縄文土器
2014-11-27-17-31-42
火炎のデザインの様に縁取りされた内側に縄でドット柄がデザインされていますね。

下は唐草文様ぽい…縄文時代と弥生時代の中間くらいのデザインかな?厚さ的にも。
2014-11-27-17-31-02

こちらも上の縄文時代と弥生時代の中間ぽいデザイン。
2014-11-27-17-31-31


弥生時代に入ると格段に土器が薄く固く丈夫に成ります。
2014-11-27-17-32-11
もう平安時代の器(うつわ)と同じ程度の厚さに技術向上しています。
表面も触りイジクリ倒してもボロボロ崩れそうな感覚は有りません。

この様に古代の土器も時代によって、大分と特徴が異なっています。

さて、次は石器です。

石斧
木の棒にくくりつけて斧として使いました。
2014-11-27-17-32-31
…こんなんで頭ひっぱたかれたら一発で陥没骨折脳挫傷の重傷を負って即死するでしょう。
もっとも、当時の石斧は対人兵器と言うより木材加工の為ですね。

この石斧で木を切り倒して縄で木材を結び付け、屋根に茅(かや)を吹いて、竪穴式住居を建築する訳です。
IMG_0431
こんな感じに。
もう、ほぼ日本農家の合掌造りの原型っぽい作りに成っていますね。
きっと夏は涼しかったんでしょう。
ちなみに当時は現代より海面が高かったので、熱帯の気候に近かったはずです。
…今の海面上昇が二酸化炭素による地球温暖化が原因だなんてのは、"ただの利権創出の為の一種のビジネス"でしかありませんよ。
地球が温暖化するのは地下活動が活発化して海の水温そのものが上がり海水が熱膨張したり台風が起きやすくなってるだけでしょう。

逆に室町時代は地下のマグマの活動が活発だったから地震が頻発し、それに反して太陽の表面温度が下がっていた為に欧州等の北限寄りの国家では小氷河期が到来し、農作物が不作に成ったり大雨や雹が降ったりしました。
信長公の桶狭間の戦いでも、突然の豪雨と雹が降った事が記録されています。
たまたま、昭和の時代の世界が「現代人の基準で普通だっただけ」で、地球規模の数千年の歴史から見れば、地球の海面上昇や温暖化なんて正常な事なんだと思いますよ。
縄文時代ばかりか、古墳時代から存続する神社の有る場所は、そんな関係で概(おおむ)ね高台の上ですからね。

磨製石器の石包丁
風化して刃が大分(だいぶん)と丸く成っちゃってますが、下の尖(とんが)りが切り裂く部分です。
2014-11-27-17-32-44
2014-11-27-17-33-07
これ磨くのにどんだけ時間がかかってるんだか…

これ等の器財や土偶の製作を古代から担当し、祭祀(さいし=神事や政治的行事)を司(つかさど)った一族が以下の方々の祖先です。

●土師氏(はじうじ)…菅原道真(すがわらのみちざね)公と大江広元(おおえのひろもと)公の祖先
※菅原道真公は存命中に醍醐天皇に重用され、藤原氏から天皇の御親政を取り戻すべく右大将に任じられた名宰相であり名歌人、軍学に通じた名宰相でした。しかし、藤原氏の陰謀により大宰府に左遷されてしまいました。
※大江広元公の大江氏は、代々漢学と軍学に優れ文化人としても活躍した人物を多く輩出した家系でした。広元公は陸奥守(むつのかみ)を務め、後に鎌倉幕府の設立に貢献し初代政所別当(まんどころべっとう=内務大臣)を務め法制度と財務制度を整備した学者出身の名参謀でした。
宝治合戦で源頼朝の姉妹の血を引く九条将軍を復帰させるべく三浦氏と共に北条氏に反抗した際に敗戦し、鎌倉市の十二所で自害しました。

●忌部氏(いみべうじ)…織田信長公の祖先
※信長公は存命中に右大将を務め死亡直後に相国を追号され、明治時代に建織田神(たけおりたのかみ)の神号を明治天皇より追贈され、現在では京都市の建勲神社の神様として祀られています。


●中臣氏(なかとみうじ)…藤原氏の祖先
※藤原氏は朝廷政治の重職を独占し、天皇家に一族の娘を嫁がせ続ける事で他家の台頭を抑制しつつ、古代大和朝廷で同業種を務めた忌部氏や土師氏を排斥し、又、その子孫の大江氏や菅原氏、大伴氏や蘇我氏や皇族の橘氏、平氏、源氏等の古代からの日本の功臣や皇室王族の一族を陰謀で左遷や殺害させて朝廷権力を掌握した一族です。

弥生時代の終わりに入ると彼らの職業は変化が出てきます。
器としての焼き物である"土器"の製造だけでなく、古墳時代の到来により古墳の備品である"埴輪(はにわ)"の製造を担当する様に成るんですね。
聖地に設置されたであろう神器が子孫繁栄の石器等から変化します。
青銅器の登場により役割が入れ替わり、石を設置した聖地より建築物や神殿的な要素の高い巨大施設の古墳の副葬品の製造に移って行く訳です。
造形的に加工しやすい土器の性質が重用されだした為でしょうか?
勿論、石材加工技術は古墳の石室や古代の神社の石製の御社(おやしろ)等の建造技術としてそのまま継承されていきます。

因(ちな)みに、三殿台遺跡の縄文人のオバちゃんの想像絵図です。
IMG_0436
う~ん…
この絵の女性の抱いてるイノシシは、「これから〆(しめ)て皮剥いで猪鍋にしようかしら?」とか考えているの図…なのかな(笑)?
二重マブタだから縄文時代からの生粋の日本人か中国の呉郡地方とか会稽郡地方とか台湾人と同系統の海洋民族系統の遺伝子かな?
一重まぶたでは無いので朝鮮渡来系の人物の絵ではないですね。

弥生時代に入ると、染物の技術も発達していた様なので、真っ白な木綿の生地に草木染の色鮮やかな土器のデザインみたいな素敵な模様の衣類を着ていたんじゃないでしょうか。

弥生時代の頃の中国は後漢とか三国志の時代ですね。
呉郡と会稽郡は当時の中国の南東。
※ネットの借り物の地図です。
IMG_0440

諏訪原寛幸さんと言う画家さんの絵だと当時の中国はこんなイメージ?
IMG_0529
左は呂布で右は関羽(中華街の関帝廟の神様)ですね。
でも、この絵の武将達の着ている甲冑は明の時代の鎧なので、実際の後漢時代の中国の甲冑はもっと地味です。
後漢時代に漢帝国との直接交易により、北九州の豪族達は青銅器の製造技術を獲得しました。

せっかく身長216cmの関羽の絵と、日本の古代人のオバちゃんの絵を載(の)せたので当時の日本人の体格を考えてみましょう。
後漢時代、漢王朝の人々は朝鮮半島の今の韓国の南部沿岸部と日本列島に住む住民を倭人と呼びました。

この後漢時代の少し後、三国時代に魏皇帝曹叡(そうえい)に謁見した卑弥呼の使者難升米(なしめ)は魏帝国より、銅鏡200枚と5尺の宝剣2振り、親魏倭王の金印とそれを結ぶ紫綬(しじゅ)、それと皇軍の印である御旗(みはた)と成る黄幢(こうどう=黄色い旗)を授けられました。
因みに後漢時代の長さの単位は…
1寸=2.3cm 1尺=23cm
宝剣の長さ=5尺×23cm=115cmとなります。
当時の日本人の身長は150cm以下だったはずなので、身長に対して相当大きな剣だったんでしょうね。
曾ての中国人が日本人を倭人と言う蔑称で呼んでいましたが、実際に日本人は小さかったんです。
戦国時代の武将でも余り背は高くありませんでした。
山県昌景が…140cm程度
豊臣秀吉が…150cm程度
加藤清正公が160cm程度
…だったはずです。

中国の三国時代の中国の人物記載は間違いなく誇張が有りますが…

曹操が…161.0cm・・・南方東部の出身
曹仁が…174.0cm・・・南方東部の出身
劉備が…180.9cm・・・北方東部の出身
諸葛亮…192.9cm・・・北方東部の出身
趙雲が…192.9cm・・・北方東部の出身
太史慈…185.7cm・・・北方東部の出身
朱然が…169.0cm・・・南方東部の出身
…仮にこの記載が20cm前後身長を盛られていたとしても、魏の在所である中国大陸北部の人々の身長はかなり高かったのだと思います。
現在でも中国のモデルの女性は大連市や瀋陽市の出身者が多く、満州族に近い北方人は背が高くスラっとしている遺伝子を持っています。
朱然など、日本人と同じ南方系の遺伝子を持つであろう武将は余り背が高くなかったみたいですね。

そんな南方人系の日本人が中国大陸との関係がより深まり、金属製品製造技術が飛躍的に向上したのが中国の三国時代前後です。

三国時代の魏の丞相(じょうしょう=総理大臣)は有名な司馬懿仲達です。
実はこの時期、遼東半島や朝鮮半島に有った楽浪郡(北朝鮮西部)と帯方郡(韓国北西部)で公孫度(こうそんど)の一族や、それと結びついた原住民(朝鮮人の先祖の部族)が反乱を起こし、魏に任命された太守(たいしゅ=知事)を殺害してしまいました。
それを討伐するべく、朝鮮半島の先に在る古代日本国の邪馬台国と連携し朝鮮半島を挟撃する事が、彼等、古代中国人にとっても得策だった訳ですね。
丁度(ちょうど)、この歴史に合致する日本神話の登場人物がいます。
神功皇后です。
彼女は当時の魏と呼応する様に、朝鮮半島に攻め込み新羅を討伐します。
つまり朝鮮半島の北西から司馬懿が攻め込み、南東を卑弥呼だったかもしれない神功皇后の率いる古代大和軍が攻めて挟撃し、魏は魏領楽浪郡と帯方郡を回復し邪馬台国は三韓を支配し新羅を従属させた訳です。

今でこそ、日本と中国の関係は悪いのですが…
昔はそれなりに協力関係があった訳です。
…朝鮮半島の国家が暗躍すると仲が悪くなるんですね、唐朝の時代や現代と同じく。

文中でも触れましたが…
「古代の人間が階級や組織など無く自由奔放に生きていた」
…なんてのは、歴史を軽視して生きている人間の幻想ですよ~と言うお話と、古代の方々は歴史を知らない人が思っている以上に文化的で芸術的な才能に優れ政治的で組織的に食物を生産していたんですよ~!
…ってお話でした。