前回のブログ⤵
コレ⤴で「峰の灸」こと古典落語「強情灸」の舞台が横浜市磯子区峰の「護念寺」である事と、その護念寺が城跡で風景の美しい古道が有る事等を紹介しましたが・・・

今日は、その続きです。

前回の記事で「護念寺」は元々は同じ磯子区峰と港南区港南台の中間にある「阿弥陀寺」の奥院だった事に触れました。
阿弥陀寺の正式な名前は・・・
安養山 浄土院 阿弥陀寺です。
・・・通称:峰の阿弥陀寺。
峰の地名に峯の灸:護念寺の本院だった頃の名残が有りますね。

ですから阿弥陀寺も歴史が有り御寺の雰囲気が、とても素敵です。
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古道だった昔の道からの参道はとても雰囲気が有ります。
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安養山 浄土院 峯の阿弥陀寺
※浄土宗総本山知恩院の直属末寺
夕方に近い頃に訪れると、境内の灯篭に火が点(とも)り、とても石畳も神秘的な雰囲気になります。
この右側には新編武蔵風土記稿にも記載が有る阿弥陀寺の境内本堂とは別に観音堂が在(あ)ります。
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そちらの石畳も良い具合に苔むして良い雰囲気です。
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観世音菩薩様が
誰でもいつでも御参りに来るのを待って下さっています。
観世音菩薩様の御堂から御本堂への歩道も灯篭が良い雰囲気を醸(かも)し出してくれています。
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新編武蔵風土記稿によると別に弁財天様を御祀りする弁天社も江戸時代には存在していましした。
ちょっと写真を撮り忘れてしまいましたが、後で紹介する元々は阿弥陀寺の境内社だった白山神社側の御寺の出入口の横に現在も石祠に姿を変えて弁天様は今も存在しています。
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因(ちな)みに阿弥陀寺の山門から古道へのアプローチは紅葉が奇麗です。
阿弥陀寺は江戸時代に苅部家によって開かれたと伝わりますが、実際はもっと早く恐らく最初は山の下に在り鎌倉時代には存在した筈(はず)です。
再興開基が江戸時代初期の苅部家の頃なのでしょう。
新編武蔵風土記稿の阿弥陀寺その物の記載でも以下の記述が有ります・・・

①本尊坐像にて長一尺餘、恵心の作、
當寺往古は村内小名道場と言う所にあり
本尊は其辺の田間より出現せるよし、故に鍬型の本尊とも呼べり、
鎌倉戦争の時火災に罹(かか)りてより以来、今の地に移れりと云(言)う、又里人の話に、鎌倉戦争死者の屍を埋め菩提の爲(ため)此(これ)に移せりと云、
⑤中興開山覺夢(覚夢)、寛永十八年(1641年)六月二十九日寂す、又第七世の僧淸譽(清誉)も寺に功勞(功労)あるを以て、是(これ)を中興と稱(称)すと云、
⑥地蔵堂
當寺の西の方一丁許隔てあり、もとより寺中のものなりと云、堂は二間に三間西向、本尊長二尺許の立像なり、此所の字を堂山と云、
これを読み解いて行きましょう。

①本尊坐像にて長一尺餘
現在も変わず阿弥陀様の座像です。
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②~③御本尊が出土した道場の近くの水田

境内地の道場の場所、実は現在も御近所に地名の名残が有ります。
前の護念寺の記事でも紹介しましたが・・・
護念寺参道 久良岐のよし
昔、阿弥陀寺の奥院だった護念寺に伸びる赤い線の右端、洋光台6丁目に“坂下”と言うバス停が有ります。この坂下はどこの坂の下で地名に残ったかと言うと、正に、このバス停の有る場所の坂道が道場坂と呼ばれ、そこに阿弥陀寺の前身が在りました。次の④で説明しますが旧境内が道場坂に在った時代に戦災で御寺が焼失しているので、その時に一回慌てて御寺の池か周りの田圃とかに御本尊を投げ入れて隠したのが、田圃に成ってから暫くして発見されたと推測できます。
火災が発生した時に仏像を池や近所の田圃に避難させたと言う話は良く聞く話ですしね。

④鎌倉の戦災で移転
古い記録が残っていないのですが御本尊の解説で話した通り、道場坂の辺りが旧境内で600年前位に戦災に遭い周辺で起きた戦闘で亡くなった人を弔う為に山上の現在地に移り戦没者の菩提を弔った事が伝わっています。ですから遅くとも1400年代の室町時代に御寺が既に開かれていた根拠に成ります。
また、この話から巻き込まれた戦争はいくつかに絞り込めます・・・

上杉禅秀の乱
鎌倉府公方の足利持氏公vs犬懸上杉禅秀公の鎌倉府内の権力闘争と戦闘
【応永二十二~二十三年(1415~1416年)】

永享の乱
鎌倉府公方の足利持氏公vs京都の公方“くじ引き将軍”こと征夷大将軍の足利義教の戦い
【永享十年~十一年(1438~1439年)】

享徳の乱
鎌倉府公方の足利成氏公vs京都の管領細川勝元と手下の関東管領山内上杉憲実の戦い
【享徳三年(1455年)~文明十四年(1483年)】

この内、阿弥陀寺の旧境内地が戦火で焼失したのは恐らく上杉禅秀の乱でしょう。
上杉禅秀公の犬懸上杉家の本拠地は今の房総半島で、彼を支持する武将も大半が房総と北関東の武将でした。この地域は当時、上杉禅秀公が敵対した足利持氏公の腹臣だった宅間上杉憲直公の本拠地が近くの横浜市港南区上永谷(旧鎌倉郡)に伊予殿根の城館が在りました。宅間上杉家は今の横浜市緑区三保町の榎下城も重要な拠点としており、鎌倉への東側の経路の防衛網の最終ラインが当時の円海山と朝比奈切通しでした。
この合戦は鎌倉を占領され更に藤沢の扇谷上杉家本拠地だった大庭城まで戦闘が起きている事から、鎌倉の東側、侵入経路に当たる円海山~十二所大平山の古街道と朝比奈切通に繋がる金沢道が集合する地域なので、ここを守る宅間上杉家vs房総&北関東の将兵との間で戦闘が起きていて当たり前なんです。寺伝は恐らく上杉禅秀の乱を指すと推測出来ます。

御寺の開基年代は護念寺の解説でもしたのと同じ解説のリピートに成りますが・・・

新編武蔵風土記稿では阿弥陀寺の奥院だった護念寺の項目にこう書いて有ります。

宝暦二年(1752年)地頭星谷治兵衛智久志願に因(よっ)て、長野山(円海山)の内十丁四段二畝十九歩の地を寄付し、
又別に山、畠(畑)、永錢(永楽銭=戦国時代の通貨)一貫文を寺費に充(あて)つ、
且(かつ)當(当)寺城山に據(より)て往還便ならざれば、捷徑(ショウケイ/近道=間道)を開闢(カイビャク=開拓)して攀躋(ハンセイ=よじ登る=登山)の便宜とす。


これ、凄い事が書いて有るんですよ・・・
「護念寺の在る円海山は城だよ!」
「そんで往来が不便だったから星谷サンが近道を色々と切り開いてあげたらしいよ!」
・・・ついでに新編武蔵風土記稿の記者のミスも解かります。
永楽銭は明の皇帝、永楽帝が発行し日本では室町時代に輸入され江戸時代初期まで流通した通貨です。
織田信長公が積極的に経済活用に利用し旗印にまで使った事の有る通貨ですね。
そして一貫文と言う金額の単位も室町時代~安土桃山時代の貨幣の通貨単位です。
永楽銭
画像引用元⤵
https://shop.ginzacoins.co.jp/
なんで星谷サンが足利幕府の時代の輸入通貨の永楽銭を寄付しているのに、江戸時代も中期の宝暦二年(1752年)としているんでしょう?その時代には既に江戸幕府発行の貨幣が流通しています。
これは多分、記者か編集かが他の元号と読み間違え更にそのまま風土記に編集された以外にないでしょう・・・
永楽帝の在位期間は1402年~1424年で永楽銭の発行開始は1411年ですから、逆にそれ以前の話でもない事が判ります。
では宝暦の草書体を読み間違えそうな元号を探して、取捨選択してみましょう!
康暦二年(1390年)→1411年以前✖
宝徳二年(1450年)→1411年以後〇
・・・多分、宝徳を読み間違えたんでしょう。では本当に徳と歴は草書体が似ているのでしょうか?

速攻で見ぃ~つけた(笑)♪
徳と歴 久良岐のよし
右の四角い枠で囲ったのが“歴”の字、左ので囲ったのが徳。
行書体が酷似してるんですぅ~(笑)!
ネットじゃなくてもちゃんと書体の辞書って販売してるのにねぇ~。
この調査をした記者の間違った取材の結果を風土記に編集する際に峰村の説明に反映して書いたから、もの凄い誤解が産まれたんでしょ。

更に現代人にも責任が有ります。

この手の江戸時代の役人や著者が誤記したり誤解した武士の名前や地名を一々整合性を確認するのを面倒臭がり、菩提寺や御子孫に取材確認せずに間違えたままコピペして論文書いたり出版してる現代の学者や編集者も沢山います。

・・・誰とは言わないけど。

永錢が永楽銭て現代人の戦国ファンですら誰でも知ってるのに。
よって!

護念寺と本院の阿弥陀寺は宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。

⑤中興開山覺夢(覚夢)が寛永十八年(1641年)六月二十九日に入寂(開基の時期)から再興時期を見る。
この中興開山の方の亡くなった年代から、宝徳二年(1450年)の星谷氏による復興から戦国時代の1500年代に突入すると再び荒廃していた事が判ります。
実は里見家と正木家が大永六年(1526年)に鶴岡八幡宮合戦を起こして房総半島から海賊集団を連れて上陸し杉田辺り~鎌倉の玉縄城下や鶴岡八幡宮と鎌倉市街で略奪放火をしまくり、鎌倉の市街地が焦土化してしまった事が快元僧都の手記から判明しています。この戦いでは阿弥陀寺を江戸時代に復興した苅部家の領主だった間宮一族が走水で防衛戦を展開し里見の海賊を撃破し敵軍船を大量に鹵獲(ろかく=奪取)した記録と、その際に杉田間宮家の間宮常信公が討死した事も伝わっています。
更に天正十八年(1590年)に起きた豊臣秀吉公の小田原攻めの際も、既に北条家と同盟していた里見家は北条家を裏切って、再度海賊集団を編成して三浦半島東岸~東京湾で略奪放火を行いました。もっとも、これには抵抗しない庶民を攻撃する意図の無かった秀吉公から激怒された様です。
実際、間宮家の本領の笹下城下の真言宗東樹院に対して秀吉公による安全保証の為の“東樹院に対する乱暴狼藉の禁止”の命令が布告されていたりします。
戦国~江戸時代の「杉田」の字体。 久良岐のよし
これ⤴
東樹院の昔の御住職が過去帳とか火事で焼ける前に念の為に一切合切、今でいうバックアップデータ(写し書き)して置いてくれたので、今の過去帳見せて貰ったらわざわざ公文書館に読みに行かなくても済んだヤツ(笑)。
素晴らしい危機管理能力!
それに反して里見と来たら・・・
「北条にやり返せるぜ!」
「ヒャッハ~!」
・・・て略奪放火しまくったら、そりゃ秀吉公が安全を担保してあげた地域にアホの里見家は略奪に行ったんだからブチ切れられますね。そんな訳で、恐らく阿弥陀寺も奥院の御念寺も里見のせいで荒廃し、それを佐渡金山奉行&但馬代官(生野銀山奉行)&本牧奉行を兼任し実高5万石に成っていた旗本の間宮家に家臣化していた苅部さん達によって御寺が再興されたのが覺夢和尚の時代の江戸時代初期に成ったんでしょう。
因みに秀吉公は信長公の跡を乗っ取っただけあって、信長公が戦闘員に成った一向宗門徒を伊勢長島や比叡山で撫斬り(なでぎり=皆殺し)にしたのと同じ様に、北条家の善政に恩義を感じて反豊臣の為に武装蜂起して小田原城に自主的に立て籠りに参加した3万人の半農半士の武装農民は全員皆殺しにしています。なので相模国~武蔵国の農村は、豊臣の小田原征伐の際にだいぶ働き盛りの人口が粛清されて復興が遅れたのだと思いますよ。
徳川幕府の治世が安定して来て平和な時代が訪れた事で漸(ようや)く阿弥陀寺を再々復興できたのでしょうね。
江戸時代の5代征夷大将軍で犬公方と揶揄された綱吉公の頃に成ると、阿弥陀寺は更に浄土宗総本山知恩院の第四十七世御門跡を務めた了鑑大僧正の出生地となります。
了鑑大僧正の話はもう少し後で話すとして、先に風土記の記載の解説に戻りましょう。
⑥地蔵堂の場所
江戸時代に記載されている地蔵堂が寺の西方、約1丁(109m)離れた所に在ると書いて有りますが、今は西側100mに地蔵堂や旧跡地は有りません。
実は地蔵堂の史跡は横浜横須賀道路建設で地形ごと消滅破壊されたんですね。
阿弥陀寺周辺 久良岐のよし
※クリックして画面拡大して下さい。
画面中央やや右の緑色の屋根が阿弥陀寺の本堂です。この左109mは何もありませんが、最初公共の水道配水施設の辺りかなと思ったのですが、御住職の話では横浜横須賀道路の場所が昔の地番の小名で“堂畑”と呼ばれ、そこに地蔵堂があったそうです。実際は50m位しか離れてませんね。
ただ、実際に歩いて見ると実際に感覚的には100m以上有ります。
なのでもし新編武蔵風土記稿のこの阿弥陀寺の取材をした記者が直線距離で書いているつもりなら少し距離感音痴だったのかも知れませんね(笑)。
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阿弥陀寺は
名前が南無阿弥陀仏の阿弥陀寺だけあって法然上人の開いた「浄土宗」に属す御寺です。
つまり、総本山が京都市東山区の知恩院、大本山には京都市左京区百万遍の智恩寺が在ります。
何と磯子区の鄙(ひな)びた山寺の阿弥陀寺、実は総本山の京都の知恩院の直接末寺と寺格がとても高いんです。
知恩院の直接末寺なのには理由が有ります・・・
実は2015年4月に御住職と面会の機会を頂き御朱印を頂き、この阿弥陀寺について御伺いした際に御教授頂いたのですが・・・
何と!

この阿弥陀寺からは浄土宗総本山知恩院の第46世住職を務めた了艦大僧正を排出しているそうです!
了鑑大僧正の御実家は今も阿弥陀寺の近くにも存続しています。
徳川家の宗旨は浄土宗なので当然ながら大きな人脈を持つ事と成りますね。
奥院だった御念寺を護念寺として再興した円海山の地名の由来と成った淸蓮社浄譽圓海和尚は薩摩藩主島津綱豊公の奥方の竹姫から仏像を寄進される等の支援を受けた様です。
竹姫はフルネームが清閑寺竹姫で、京都の貴族清閑寺家の出身で実父は権大納言を務めた程の家系で、後に徳川幕府五代将軍徳川綱吉公の養女に成っています。
徳川家の宗旨は浄土宗なので、竹姫が子供の頃にもしかしたら了鑑大僧正と面識を持ったかも知れませんね。

了鑑大僧正は阿弥陀寺の近所で生まれ、阿弥陀寺からスタートした人物です。
御近所の野村家が御実家と伝わります。
ただ、姓がずっと野村姓かは解りません。時代により養子縁組したり男系が耐え婿に譲る事もありますから。
或いは野村姓が元々は“星谷”だったかも知れませんし。
蒔田吉良家臣の森家の御子孫にも間宮家臣の内田対馬守の御子孫の家から養子が入っていたりします。この様な事はよく有りましたし、古文書に書き残していなかったり古文書が有ったけど長い歴史で捨てられたり火災で消える事も有ります。
だから現代でも歩いてピンポンしまくり確認して回る事が大切なんですね。
阿弥陀寺から知恩院四十七世と成った了鑑大僧正は慶安四年(1651年)~享保十二年(1727年)の人です。
島津家藩主の奥方で徳川綱吉公養女の清閑院竹姫は宝永二年(1705年)~安永元年(1772年)を生きた人。
護念寺中興の元光明寺の僧、淸蓮社浄譽圓海和尚は宝暦年間(1751~1764年)に亡くなった人です。
竹姫が子供の頃にもしかしたら了鑑大僧正と面識を持ったかも知れませんね。
だとすれば、竹姫は了鑑大僧正が亡くなった後、自分も老齢に成った頃にふと了鑑大僧正の故地を偲(しの)んで夫の島津綱豊公に阿弥陀寺と奥院の御念寺の支援をお願いしたのかも知れませんね~。

了鑑大僧正が住職を務めた知恩院の門前近くは日本神話に登場する牛頭天王=素戔嗚尊(すさのおうのみこと)の降臨神話の舞台でもあったりします。
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八坂神社(旧称:祇園社)
知恩院一帯が元々は牛頭天王降臨の神話の聖地だから、牛頭天王を祀る祇園社(ぎおんしゃ)が開かれ、更に門前町が京都で一番有名な“祇園”の門前町に発展した訳ですね。
そして明治時代の神仏分離令で神仏習合だった祇園社は八坂神社と改名し、牛頭天王と言う仏教の渡来神の漢字の名前から日本神話の素戔嗚尊の名前に御祭神の呼称を改めたので、現在は八坂神社が祇園の街を見渡す場所に存在する訳です。
因みに浄土宗の総本山知恩院ではなく、大本山の智恩寺の方ですが、そちらは徳川家の名将である鳥居元忠公の菩提寺だったりします。

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長徳山 功徳院 百萬遍 知恩寺
知恩寺の方は鎌倉時代末期~室町時代初期の変遷期、後醍醐天皇の治世に京都で疫病が流行った時に、後醍醐天皇の勅願(ちょくがん=直々の願懸け命令)で僧侶が疫病退散の御経を読み上げた所、その疫病が治まったので…
後醍醐天皇が僧侶に「いったい何回御経読んだら効果あったの?」
…と言う主旨の質問をされた際に、僧侶が・・・
「百万遍は読みましたよ」
・・・と言う様な事を答えたので、それ以降、百万遍知恩寺と呼ばれる様に成ったそうです。
小生は個人的に、この知恩寺がとても好きで、よく週末に近くの京阪電車出町柳駅から歩いて来る途中の商店街で「太巻き寿司」を買って、お散歩がてら知恩寺に行き、境内の御堂の階段に腰かけて御弁当代わりに食べてから、御堂に上がらせて貰って御参りしてました。
知恩寺は毎月縁日もやるんですよ。
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縁日やる位だから境内がとても広い!
色々有って当時人生の分岐点で疲れ切っていた時に知恩寺の和尚さんが・・・
「何にも無くてもいいから、疲れた時、何も考えたくない時はココに来てゆっくりしていったらえええんやで」
・・・と言って下さり、非常に安らぎの一助に成った事は今でも感謝しています。
実は!
この知恩寺に御廟所が在(あ)る鳥居元忠公は間接的に峯の阿弥陀寺と関係が有ります。
小生は戦国時代の建勲神:織田信長公と東照大権現:徳川家康公を崇敬し、地元玉縄城主の玉縄北条家の殿様の地黄八幡:北条綱成公と副将:間宮康俊公や北条氏康公の軍師:多米元忠公や笠原信為公や笠原康勝公を尊敬して顕彰しています。
なので横浜市域の、この殿様達の足跡を辿りに色んな場所に気まぐれで出かけます。
この阿弥陀寺を開いた苅部一族の戦国時代の領主が間宮林蔵や杉田玄白の御先祖の間宮康俊公で、間宮康俊公の御子息、間宮康信公が鳥居元忠公と戦った歴史が有るんです。
麒麟が来る 拝借画像 久良岐のよし
戦国時代に織田信長公が“麒麟が来る”の主人公、明智光秀公に本能寺で討取られると、当時の日本は大混乱に陥(おちい)りました。
この混乱を“天正壬午の乱”と言います。
織田家と同盟していたはずの、北条家は織田家を裏切ります。
百姓には優しいけど武将としては不義理な北条氏政公は織田家を裏切り織田家旧武田領、今の群馬西部に侵攻し、‟神流川の合戦”で織田家臣の滝川一益公率いる織田家関東軍と戦い、滝川一益公は敗走します。
その勢いのまま織田家の支配する旧武田領の信濃国に攻め込み佐久地方や諏訪地方を制圧、更に北条家は甲斐国に攻め込みました。
一方で織田家の同盟者であるはずの徳川家康公も織田家旧武田領に侵攻します。しかし徳川家は織田家の宿老と成っていた羽柴秀吉公に事前に外交的に織田家旧武田領を他の大名に奪取されない為に徳川家の方で接収する許可を取り付けての事でした。
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御坂城址(御坂峠)
この時、大船駅近くの玉縄城を治めた玉縄北条家の殿様の北条氏勝公や、新横浜の小机城主の北条氏光公は黒駒合戦と言う戦争の時に御坂城と言う標高1600mの山城に約1万の大軍勢で立て籠もって駿河国(静岡)と甲斐国(山梨)の県境の峠道の城を守備していました。
信じられない話ですが、この御坂城の所在する標高1600mの尾根道が古鎌倉街道の一つで、源頼朝公の時代の武士も江戸時代の庶民も険しい山道を普通に街道として往来していました。
富士三十六景甲斐御坂越え
この場所から見た風景を江戸時代に歌川(安藤)広重も絵に書いていますね。
・・・小生は上るだけでぜぇぜぇ大変でした(笑)。
ここを下ると甲州盆地で、小山城と言う城が在りました。
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小山城址
小山城は今では地形を活かして畑に囲まれた公園化しており、桜の名所として地域の人々の安らぎの場に成っています。
その小山城を戦国時代も終盤に差し掛かり黒駒合戦が勃発した天正十年(1582年)に守備していたのが鳥居元忠公と、徳川家の当時の無敗のエース水野勝成公でした。
御坂城を北条軍が降りて小山城を攻めに来る兆候(ちょうこう)を鳥居元忠公と水野勝成公が察知して峠道から降りて来たばかりの黒駒と言う谷間で待伏せし、北条軍に奇襲を仕掛けて“黒駒合戦”がは発生します。
御坂城周辺 久良岐のよし
谷間だから行軍中に隊列の側面を攻撃されたら兵の壁が薄く、又、態勢を立て直したくても陣形を展開出来ず瞬く間に壊滅してしまう訳です。
この合戦で上官の北条氏勝公や北条氏光公を逃がし徳川軍に討取られたのが、峯の阿弥陀寺を含む戦国時代の笹下郷を治めた玉縄衆副将の間宮康信公でした。
行軍中の敵に奇襲を仕掛ける際、敵の全体の中程を攻撃し前後の指揮系統を分断し混乱させ、指揮系統を失った敵を側面から順番に“狩り獲って行く”のが兵法の常套手段です。
ですから、討死した間宮隊は中軍~先方の何れかを担っていたはずです。
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竜玉山 称願寺
黒駒の麓には時宗の総本山遊行寺二代住職を務めた他阿真教和尚が開いた称願寺が在ります。
この御寺は戦国時代には武田信玄と対立して追放された武田信玄の父親、武田信虎公が支援した歴史も有る名古刹です。
現代人は野戦と言うと天幕(テント)を持参して野営するイメージが有るかも知れませんが、それは殆どの場合は間違いで、指揮所は普通に御寺や神社や屋敷に置かれる場合が多かったんですね。
恐らく北条軍は山を下りて来て峠道で伸び切った隊列を整え将兵に休息を取らせ軍議をする為に、この称願寺を目指したのだと小生は現地を歩いて推測しました。
他に目標物に成る建物も無いですからね、なので戦闘の火蓋が開かれた最前線は恐らくこの称願寺~御坂峠を降りて来たドライブイン黒駒の間くらいでしょう。
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桶狭間~田楽間と同じ兵を横に展開し難い地形で側面から攻撃されたらどうにもならない上に、恐らくまだ最後尾は峠を下りきってなかったんじゃないかと思います。
もしかしたら、苅部一族もこの合戦に従軍していたかも知れませんね。
黒駒合戦で鳥居元忠公と水野勝成公の奇襲により兵300と共に敗死した間宮康信公でしたが、実は合戦で物凄く強く武田信玄公にも勝っているんです。
武田信玄
武田信玄⤴
武田信玄が今川家との同盟を破棄して南下し、今川家の領国である今の富士宮市の富士浅間大社を代々治めていた富士氏を攻撃し更に駿河の重要な交易港だった蒲原を攻めた際に、間宮康信公が率いる部隊が武田家の軍勢を薩埵峠付近で撃破し更に撤退する武田軍を追撃して戦火を挙げた事が現代に伝わっています。
富士浅間大社周辺
苅部家は元々は鎌倉公方の代理を務めた蒔田吉良家の家臣団で恐らく更に以前は鎌倉公方の直臣だった代々の武士の家系なので、この合戦でも活躍したかも知れませんね。
間宮康信公の治めた
川崎市川崎区、鶴見区末吉、神奈川区富屋仲木戸一帯、旧杉田郷(磯子区~港南区)、戸塚区小雀、海老名市国分には間宮家臣に成っていた間宮・岩本・松本・武内・間辺の間宮一族の他に、荒井・斎田・金子・北見・苅部・岡本・槙田・野本・高梨・武田・笠原・内田・市村・山野井・田野井等の多くの大地主が現在も住んでいます。
この間宮一族以外の名字を見る人が見ると・・・
「あっ、鎌倉~室町時代からの武士の家ばっかだ」
「北条家臣の名字も凄く多い」
・・・と気が付くはずです。
実はこの間宮家旧領の大地主の内、苅部家が江戸時代に大檀那として再興開基した御寺が“阿弥陀寺”なんですね。
つまり、江戸時代の支援者は星谷サンでは無いと判ります。
星谷サンはもっと古い最初の阿弥陀寺~永享の乱頃しかも扇谷上杉側についた鎌倉以来の峰の小領主“地頭”だったんじゃないでしょうか。

小生は玉縄衆北条氏勝公の祖父の北条綱成公や副将間宮康俊公、臼井衆名代の臼居胤知公、小机衆の笠原信為公や中田加賀守をリスペクトしており、やたらめったら関係先をピンポンしまくり突撃していたら阿弥陀寺の歴史に行き着いた訳ですが・・・
何の因果か、小生が青春時代に御世話に成っていた京都の御寺と
鳥居と間宮と苅部一族の御縁で、横浜の阿弥陀寺は少しだけ歴史的に関係が有る訳です。

・・・以前、ブログで紹介しましたが実は京都にも阿弥陀寺が有ります。
この記事⤴
そちらは曾(かつ)て織田信長公の兄君の織田信広公が開いた御寺で、更に織田信長公が亡くなった本能寺の変の際に、信長公と交流浅からぬ阿弥陀寺の当時の住職だった清玉和尚が明智軍の包囲してない竹林伝いに本能寺に侵入し、切腹し家臣に火葬されている最中の信長公の遺歯等を供養の為に持ち帰り埋葬した事でも知られる朝廷公認の織田信長公御本廟の御寺です。
実はこの織田信長公にも間宮家は関係していて、当時、滝山城主北条氏照公の与力だった磯子区氷取沢の領主で間宮康信公の叔父に当たる間宮綱信公は外交の使者として安土城に赴き織田信長公に拝謁し、更に滝川一益公の案内で京都観光をした事が現在にも伝わっています。
同じ名前の京都の阿弥陀寺に眠る織田信長公と、峯の阿弥陀寺は偶然同じ名前ですが、もしかしたら苅部家の御先祖様も当時関西に同行し安土城を見たかも知れませんね。
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横浜市の阿弥陀寺は、夕暮れ時の本堂もとても神秘的に暗がりの中に照らされた仏様がうかびあがって見えます。
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夕方の仏様も奇麗ですが、阿弥陀寺の境内は庭を彩る季節の花も奇麗です。
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う~ん、雰囲気いいね。
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小生は円海山にハイキングに来る度に山頂の尾根から一度降りて遠回りして阿弥陀寺に廻り御参りします。量が多い訳じゃありませんが、御花や紅葉が奇麗ですから。
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阿弥陀寺と白山神社を御参りしてから円海山護念寺も御参りして尾根道に戻ってから一心堂広場に戻り鎌倉まで歩いたりします。周辺は景色もとても奇麗です。
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阿弥陀寺から徒歩5分、護念寺からは10分の円海山の海上保安庁の通信施設近くの畑からは横浜港が奇麗に見渡せます。
この辺りは江戸時代にも眺望が良く駿河国、伊豆国、甲斐国、相模国、安房国、上総国、下総国、常陸国、上野国、下野国が見渡せた頃から“十国見”と呼ばれたそうです。
正直、本当にそんなに見えてるのか冬の空気の澄んでる時でも分かりませんが(笑)。
確かに海抜296mの横浜ランドマークタワー展望台からは筑波山が見えるので、海抜300m超の円海山からは本当に十ヶ国見渡せているのかも知れませんね。
実は了鑑大僧正だけでなく、この辺りは日本神話の神様も往来したりしています。
古代、日本武尊(やまとたけるのみこと)と、その御妃様の乙橘姫(おとたちばなひめ)が三浦半島や横浜市の基(もと)に成った久良岐(くらき)郡と橘(たちばな)郡を訪問しています。
横浜市も浦島太郎の舞台だったり何気に他府県に負けず劣らず神話や歴史偉人とな関わりが深いんですよ(笑)?
横浜に関わった小田原北条家も京都から様々な文化を吸収し領国関東の繁栄の為にアウトプットし、それが鉢型城主北条氏邦公が築いた荒川大堤防だったり八王子城主北条氏照公等が氏邦公と一緒に奨励した養蚕だったりします。
養蚕は幕末明治の主要産業と成り、横浜の原財閥が経営する群馬の富岡製糸場から横浜港にヨコハマシルクとして出荷され、海外輸出品の主要産品になり日本の近代化の礎(いしずえ)と成りました。
本当に神奈川県は京都文化や中央の神社仏閣や歴史偉人と縁が深いですね…。
さて・・・
昔は神仏習合と言いまして、大らかな日本人の性質に合わせて仏教は神道の神様の一部の様に神様と仏様とは等しく人々がら大切にされていました。
この阿弥陀寺も例外では無く、冒頭で解説しましたが境内には今も弁天社の祠(ほこら)が存在します。
なんせ、昔の仏教は学問所(学校)として機能していた上に、そこで勉強する殆(ほとん)どの仏教各宗派の和尚さん達のも御寺の守護神として神社を参拝していましたから。
それに昔の神社は祖先神や御近所や地域との繋がりを維持し季節の神事と合わせて共同で農作業を行ったりする組織の役割を「氏子」と言う形で担(にな)ってました。
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峰白山神社
阿弥陀寺の隣には白山神社が存在します。
実はこの白山神社は阿弥陀寺の昔々の和尚さんが開いた神社です。つまり昔この山全体が阿弥陀寺だった事が神社の歴史を通じて解ります。
ここからの眺望は非常に良く、富士山と相模国人と武蔵国人にとって大切な大山祇大神の権化である石山権現と呼ばれた大山を一望する事が出来ます。
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しかし峰白山神社は悲しい事に明治政府の唯一の失政である「一村一社」「神仏分離令」政策で一度無くなりました。上笹下(かみささげ)神社として、今の磯子区洋光台近くの栗木地区に在ります"栗木神社"に合祀されてしまい他の神社がそうであったように廃(すた)れてしまいました。
昭和中期に地元有志により、鉄筋コンクリートの本殿で復活する事と成りました。
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地元の方々の努力には頭が下がります。
主祭神は神社の名前の由来の昔の神仏混交時代の名前では白山権現と言われた神様ですね。
天皇家の祖先神の伊邪那美(いなざみ)命と呼ばれる神様で、眺望の良い山に相応(ふさわ)しく山の神様です。実はこの場所はとても風が強いので、江戸時代の阿弥陀寺の御住職が山の風害から集落の農民を白山権現の神様に守って貰う為に神社を開いたのかも知れません。
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・・・この神社の両脇、摂社には大地神と御嶽大神が祀られています。
一度合祀されていた栗木神社は国常立尊(くにのとこたちのかみ)を祀(まつ)っているそうです。
国常立尊は歴史的には天皇家の天照大神より先に誕生した神様だったりします。
ですので大地神=
国常立尊なのかも知れませんが国常立尊が出口王仁三郎と言う近代のカルト宗教家に勝手に崇拝対象として利用されてしまった歴史が有り、戦時中は伊勢神道の考え方から国常立尊は一時期弾圧されていた歴史も有るそうです。
本当カルト宗教とか迷惑ですね。勝手に他の宗教の施設を利用したり三浦半島でも問題起こしてますよ。
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まぁ、そんな経緯で大地神は多分、
国常立尊でしょう。
もう一つの摂社は御嶽大神ですので、これは恐らく蔵王権現です。蔵王権現はそもそも日本独自の仏教と神道の価値観を併せ持つ奈良時代から存在する修験道の神様なので、明治時代に日本武尊に御祭神の名前を改めさせられた歴史が有ります。
御嶽大神=蔵王権現については以前も別の神社の記事で解説しています。

御興味が御有りの方は御覧下さい⤴
今ではいくつかの神社が規模はつつましやかに成っても、改めて地域の氏子さん達に勧進されて、元の場所に帰って来ている例も多いみたいです。
笹下城の若宮曲輪(わかみやくるわ)跡にある若宮御霊神社の例も、こちらの白山神社と同様ですね。

笹下城の記事はコレ⤴
阿弥陀寺~護念寺に抜ける道が阿弥陀寺参道を降りた先に在ります。
白山神社と阿弥陀寺の横には今では横浜横須賀高速道路が、昔の村を分断するかの様に通っています。
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この道路が出来た事で潰れた古道も多くあります。ですが、港南台から程近い清水橋と言う地域に戦国時代の昔、箱根の風魔忍者を管理した北条幻庵公の別宅があり、鎌倉に続く円海山の尾根道を鎌倉武士団や戦国時代には風魔忍者達も歩いていた事を考えると・・・
コンクリートとアスファルトで舗装された道でもロマンがわずかばかり感じられますね。
阿弥陀寺~護念寺位置関係
古地図を見ると阿弥陀寺~護念寺に伸びる黒い線が古道ですが、この内の2本は手入れされず廃道同然に成り業者が廃車置き場にしてしまったりしています。更に1本は高速道路建設で寸断されてしまいました。
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昔は阿弥陀寺~護念寺~円海山峰の道へと接続し~更に鎌倉へと人が往来していました。
そこは現在の栄高校一帯に在った上郷深田遺跡でタタラ製鉄で製造された玉鋼を運ぶ鉄の道でもありましたが、上郷深田遺跡と言うタタラ製鉄遺跡で東日本最大規模を誇っています。
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念の為に言うと小生は仏教の殆どの宗派が好きですし、神社も大好きです。
仏教の果たした文化的な役割を評価しつつ、神道の自然崇拝と偉人啓蒙を大切にしている鎌倉武士と同じ様な宗教観なのだと思います。
今回、浄土宗の阿弥陀寺と智恩院の話から製鉄、鎌倉武士と話も広がったのですが・・・
実は以前紹介した、藤沢市渡内の二傳寺(にでんじ)も浄土宗でであり、鎌倉武士団の大半の武将の御先祖に当たる方の関係深い場所だったりします。
二傳寺は小生と御縁の有る鎌倉武士団と平氏系大名の祖先の鎮守府将軍平良文公の墓所のある御寺です。
平良文公と二傳寺の記事はコレ⤴
そして二伝寺の近くに戦国時代の苅部サンの上官の間宮家の所領も有りました。
まぁ、そんな訳で実は円海山の阿弥陀寺は浄土宗の大僧正を輩出した御寺でもあり、京都の御寺とも宗派的にも支援した人々の歴史でも御縁が有る御寺と言う事が伝わったでしょうか?

きっと皆さんの御家の近くにも、実はとんでもない歴史人物と関係ある神社仏閣や、御城の址の公園なんかが有るかも知れませんよ?
・・・だから、ちょっと御近所散歩して、たまには神社や御寺の看板を読んでみませんか?そしてら思いがけず自分の住む土地と殿様の御縁を知り、地元に更に愛着が湧くかも知れませんよ?

では皆さん、又、次の記事でお会いしましょう~♪