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節分の季節ですね。
節分は太陰暦(たいいんれき)=農暦の名残で、アジア圏で今も続く春節が由来の行事です。
因みに今の日本の暦は太陽暦ですが…
農暦は農業を行うに当たり古代から指針とした暦(こよみ)の伝承ですね。
節分に鬼に豆をまいて追い払うのは、もしかしたら作物の種を植えた際に、畑荒らす鳥に炒って硬く消化悪く成った豆を食べさせて、満腹にさせて畑に蒔いた種を食べられるのを防いだりする為かな?
節分の豆巻きの由来は今となっては解りませんが…
農暦が伝承する様(よう)に神話や文化も現代に伝わる場所も日本中沢山有りますよね?

横浜市磯子区には、妙法寺と言う由緒有る寺院が有りまして…
門前の柏槇(ビャクシン)の大樹は「神奈川の名木百選」にも選ばれた御神木であり…
…その大樹がある事からも、何となく御寺の凄さが伝わって来ませんか?

実は此方(こちら)の妙法寺、御寺ではありますが日本武尊(やまとたけるのみこと)に関する神話の伝わる場所なんです。
門構えはこんな感じ…
門前の石柱が立派ですが、趣きは武家の小大名クラスの陣屋の様な印象の門構えです。
……何を隠そう、歴史好きは知っている伊豆山中城の戦いで大活躍した戦国武将の間宮豊前守康俊公の間宮家の菩提寺でもあるんです。
間宮家は戦国時代に小田原北条家に従い、北条家中で相模国国人(こくじん=在地領主)衆の筆頭として「相模十四騎筆頭」の栄誉を授かった家であると同時に、今の横浜市港南区と磯子区にまたがる広大な笹下城を拠点に杉田港を水軍基地として相模国武蔵国2カ国の北条水軍を統括した家なんです。

間宮家の話しの前に、先ずは冒頭で触れた日本武尊神話に話題を戻しますね。
御寺ですが、日本神話に関係が深いので、境内にはちゃんと神社同様に手水舎(ちょうずしゃ=手と口を浄める場所)も有ります…

この妙法寺、日蓮宗ですが開基は空海和尚=弘法大師なんです。
空海和尚は、どうも日本武尊神話を辿って関東の日本武尊の聖地を巡礼(じゅんれい=聖地を旅しする事)していた節(ふし)が有るのですが…

空海和尚は神話で日本武尊が此の地に立ち寄られたと伝わる事から、今の妙法寺の境内に日本武尊が信仰していた神道では素戔嗚尊(すさのおうのみこと)と同一視されている牛頭天王ですが…
牛頭天王の御社(おやしろ)を京の祇園精舎(今の京都の八坂神社)から空海和尚が勧進されたのが、妙法寺の始まりだそうです。 
上の写真、階段上の御堂が現代の牛頭天王舎です。
階段手前の左側には、日本武尊の奥様の弟橘媛(おとたちばなひめ)も祀られています。
因みに牛頭天王、仏教成立以前のインドの神様インドラ神が原型だそうです。
インドラ神は古代インド神話では天帝とも呼ばれ軍神で、少々破壊神的な側面もあったみたいです。
つまり荒神様ですね。
仏教では帝釈天なんて訳されたりもしています。
日本神話や仏教成立よりだいぶ早い紀元前14世紀には記録の有る神様だそうです。

ところで、この妙法寺のある場所に日本武尊が立ち寄られた可能性は実は本当に高いんです。
下の写真は走水神社です。

日本神話上、日本武尊は西暦110年に今の神奈川県三浦半島横須賀市の走水神社のある場所に立ち寄られ、そこから房総半島に渡ったと伝わっています。
神話に数百年前後して誤差が有ったとしても、日本武尊の称号で呼ばれた人物が関東に東征して来られた事は関東各地に神話通り郷土史が伝わっているので、まず間違いないでしょう。

下の写真は走水神社付近の空撮ですが…

走水神社前の湾の左側、御所ヶ崎(ごしょがさき)と呼ばれる半島が有ります。
今でこそ地続きの半島に成ってますが、当時は島だったはずです。
御所ヶ崎は走水の浦に浮かぶ島だった訳ですが、この島に日本武尊の御所が房総半島への渡航前に置かれていたそうです。
日本武尊の軍船は御所ヶ崎の反対側、写真右手の今は防衛大学の敷地の半島側に停泊してそこから出航したそうです。
※走水神社の記事は「ココ」←クリック!
神話の時代の弥生時代〜貴族の時代の平安時代までは今より海面は高い位置にあり、だいぶ内陸まで海だったんですよ…
逆に言えば、現代の津波警戒区域は海の底。

ほら、横浜なんて是(こ)れ此(こ)の通り半分は海の底…
港北区の綱島なんて、本当に「島」だった訳です。

日本武尊、実は走水からの房総半島渡航に一度失敗しています
これは走水神社の氏子さんから聞いた伝承ですが、出港後、東側に東京湾を突っ切り房総半島に渡るつもりが潮流に流されてしまい、ぐるっと回って走水に戻って来たそうです。
この神社を証明するかの様に現代でも、この海域は浦賀水道と呼ばれ潮流が酷く早い上に岩礁が多く危険地帯なので、外国船がこの海域を航行する際は専門の航海士が乗り込み操舵を交代すると、港湾業務関係者に聞いた事が有ります。

つまり、神話で日本武尊の船が流されたと言うのは信憑性が高い訳です。
さて、そこで杉田の妙法寺が関わって来る訳です。

今度は妙法寺の有る、横浜市沿岸部の地形を見てみましょう…
写真左手、妙法寺の周囲は断崖絶壁が続きます。
昔は海面が高かったので妙法寺裏から続く断崖絶壁は海の波に洗われていました…
この海岸段丘の断崖絶壁は何と三浦半島の付け根の金沢区〜中区の本牧半島の裏側、今の横浜中華街元町辺りまで続く長大な範囲でした。
この丘陵地帯は久良岐の丘と呼ばれ、横浜市成立以前の久良岐郡の地名の由来に成った場所でした。
実は浦賀水道は北西に流されてしまうんだと思います。
何故かと言うと、本牧半島の先には大岡川・帷子川・鶴見川・多摩川・隅田川の河口が狭い範囲に集中してあります。
この大河川は神奈川県部分は西側から東向きに、東京部分は北西側から南東向きに東京湾に注ぎ込みます。
その流れの影響で潮流は房総半島の富津でぐるりと反射し西向きに流れるはずなんです。
この潮流、つまり富津岬の西の先が、正に今の横浜市磯子区杉田辺りに成る訳です。

明らかに富津岬にぶつかる潮流で砂洲が出来てますよね?
その流れの先は正に妙法寺の在る磯子区や金沢区六浦辺り…

現代の地形で当てに成るか分かりませんが、日本武尊神話の弥生時代の人が行動開始したであろう日が昇って来る早朝の東京湾の潮流は調べたらこんな感じでした。
予想通り、満ち潮で東京湾に流れ込む海流は浦賀水道付近から北西向きに流れています。
満ち潮の時間帯、弥生時代の手漕ぎ船では走水から北西に流されて富津には辿(たどり)りつけないですよね〜。

もう一度東京湾の写真を…
日本武尊一行の船団が走水から東に向かうつもりが北西に流された場合、当時、上陸や停泊可能な場所は限らていたはずです。走水以北で上陸可能な地点は弥生時代の貝塚の分布する場所のみ となる訳ですが…
それは、金沢区の夏島と野島、昔の六浦湾、磯子区の杉田妙法寺の付近、屏風浦、南区に有った蒔田湾三殿台付近、横浜市の地名の由来に成った中区関内に有った横浜と言う小さな半島付近、海だった頃の港北区の小机湾鳥山〜小机町か対岸の神奈川区に有った亀甲山や浦島町、川崎市高津区子母口の橘樹神社辺り…
この中の何処(どこ)かに成る訳です。
…まぁ、全て日本武尊伝承と浦島太郎伝説や佐賀牟国造の乱の関係地域でも有る場所ですね〜。

この内、南側の夏島や野島に上陸しても陸路で走水に帰れないので夏島野島は日本武尊漂流後の上陸地点では無いでしょう…
付近は昔は断崖でしたしね。

又、北西に流された場合、磯子区中区方面に行き着きますので金沢区六浦湾には入港出来なかったかも知れません。
実は妙法寺の伝承通り、妙法寺境内の付近、又は屏風ヶ浦一帯こそ、古代の杉田付近では地形的に上陸可能だった場所の可能性が高いと思うんす。
貝塚も出土してますし。
妙法寺説は写真を見て頂くと解り易いです…
周囲は断崖絶壁なんですが、妙法寺の墓地や牛頭天皇社に成ってる西側裏山だけが緩やかなんですよ。
ここからなら上陸可能ですよね。

だからこそ、日本武尊神話を調べた空海和尚は実際に久良岐郡を歩いて回り、現在の妙法寺の境内の場所が日本武尊の立ち寄られた所と当たりを付けたのかも知れませんね。

ちなみに日本武尊は漂流し走水に戻ると、東京湾の潮流を鎮める為(ため)に奥さんの弟橘媛が入水自殺し人柱と成る事で、渡航に成功したそうです。

では弟橘媛様の神話に踏まえ…
なんで入水し人柱に成ったら渡航出来たかですよね。

古代人は天照大御神=太陽神を信仰していたで、太陽が昇ったばかりの早朝から人柱の儀式が執(と)り行なわれたとして、昼に出航したら潮流はどうでしょう?
う〜ん!ビンゴ‼︎
この潮流なら東を目指せば富津に辿りつける訳です。
つまり2回目の渡航は、太陽信仰の古代日本人達の朝から行動開始する習慣が有ったとしたら、弟橘媛様の入水儀式を執り行う事により出航時間を遅らせれたので潮流に阻まれず、昼頃の穏やかな状況で渡航出来たんじゃないかなと思います。

つまり、伝承通り最初の渡航失敗時に日本武尊は弟橘媛様とご一緒に杉田に立ち寄られた可能性が有ると思います。

弟橘媛神話は以前、橘樹神社の記事にも書いたので、そちらを御覧下さい。
※橘樹神社の記事は「ココ」←クリック!

妙法寺と日本武尊の伝承の検証如何でしたでしょうか?
ひとまず日本武尊神話は、この辺りまでにして…
次は室町時代〜戦国〜江戸時代の妙法寺の話をしたいと思います。

冒頭で触れましたが、この妙法寺さんは戦国武将間宮家の菩提寺です。
境内には歴代殿様の御廟所には巨大な石塔群が現存しており、誰でも御参り出来ます。
墓石を写真に撮るのは不敬なので、今回も載せませんが、皆さん、参拝されたらビックリすると思いますよ!
人の身長程も有る歴代殿様の石塔が沢山有りますからね。

因みに戦国時代、間宮家の軍港だった杉田港、現代ではIHIが自衛隊や米軍の艦船を整備するドックが有ったりします。
この様な軍港を任され北条水軍の中核を担った上に鎌倉の最終防衛ラインに成る大城郭笹下城を任されていた事からも、間宮家が厚く信頼されていた事が判りますね。

間宮家の属した部隊は北条軍の中で5分割され色分けされた「五色備え」と言う軍編成の内、関東最強の武将北条綱成(つなしげ)公が統括した「黄備え」と呼ばれる部隊でした。
その辺りの事も北条綱成公と間宮家の関連の記事にしてあるので御覧下さい。
※北条綱成公の記事「ココ」←クリック!
※笹下城の記事は「ココ」←クリック!

笹下城主間宮家で一番有名なのは間宮康俊公です。
小田原北条家最強の武将北条綱成公の黄備部隊副将でした。
豊臣秀吉の小田原攻めの際、伊豆山中城に籠城。部隊長の北条氏勝公を撤退させた後、秀吉軍本隊8万の先鋒隊2万6千を、 たった200人前後の手勢で迎撃しました。
※下の写真が山中城(借り物画像)

伊豆山中城外郭の袋崎砦で秀吉軍先鋒隊の先陣中村隊・山内隊・堀尾隊・一柳隊など秀吉の有名家臣達を大苦戦させた末に、一柳直末(いちやなぎなおすえ)を討取る等の大活躍をして御子孫は徳川家康公の旗本として登用されました。
江戸時代の杉田玄白と間宮林蔵は、その子孫です。

そして、もう一人有名なのが、杉田梅林と言う広大な梅林を築いた間宮信繁公です。
この事は妙法寺にも碑文があり、説明を読む事が出来ます。
昔は梅林を見学に来る江戸からの観光客で栄えたそうで、明治時代には明治天皇や皇族方も度々行幸されて見学にいらっしゃったそうです。

杉田梅林は高度経済成長期に無碍な宅地開発で消失てしまいましたが…
妙法寺には今も梅が植林されて、往時の風流さの名残りを今に伝えてくれています。

今の神奈川駅辺りや本牧半島から船でクルージングして屏風浦と梅林の絶景を船上から見学した後、杉田聖天川に有った桟橋から上陸し梅林を散策するのが当時の江戸からのツアーコースだったそうです。

近郊の「峰の灸」ことお灸治療の総本山、円海山護念寺に行く人も多く、その行列は昭和初期まで蟻のよう沢山の人だったと、峰地区の白山神社の御近所の翁から聞きました。
※護念寺の記事は「ココ」←クリック!

残念ながら、間宮の殿様の笹下城は今年、本丸遺構の切岸も野村不動産の宅地開発で消失します。
円海山の蛍が見れる自然も東急グループにより破壊されようとしています…

せめて私達だけでも、横浜市や周辺の発展に寄与して下さった先人達の偉業や残して下さった文化や歴史を後世に伝えて行きたいですね。

では皆さん、又、次の記事でお会いしましょう!