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滝山城と言う城址があります。
東京都八王子市に、それはそれは広大な規模で良好な保存状態を保たれた関東屈指の名城です。
後北条氏の一族の北条氏照公が築城し城主を務めた城で、築城当時は小田原城に匹敵する関東で1、2を争う規模を誇った大城郭でした。
現地、八王子市と有志の城址保護の取り組みは素晴らしくクオリティも高く、素人が訪れても各防御施設が解りやすいように絵図付きの看板が設置されています。
学術的にも意識が高い公開方法ですね。

入口は何箇所かありますが、下の写真の滝山街道沿いに在るワークマンと言う店を目印にすると良いと思います。
※滝山街道を紹介した前回記事は「ココ」←クリック!
そのすぐ横に入口の看板が有ります。
この目印の横には丁寧な案内看板もあり、更に城址の説明冊子も看板横のポストで無料配布されています。
ここに無くても城址の中の千畳敷や弁天池付近にも配布場所が有るので探してみて下さい。
こんな↓看板
国定公園にも指定されている部分と都立部分が有ったり、八王子市教育委員会と有志で調査したり連携がシッカリしてるみたいですね。
我が神奈川県や横浜市は…
東京都や八王子市と比較すると教育委員会の意識の低さと知識不足具合が恥ずかしいばかり。

では、まず、現地航空写真と比較する現地にある縄張り図をご覧下さい。


滝山城址は入口から関東の城好きが狂喜する保存状態で出迎えてくれます。
…いきなりの良好な保存状態の切通し。
そして、典型的な北条流の「食い違い虎口」、食欲に例えると、もうコレだけで白飯何杯でも食べれるレベルに歓喜しました。
食い違い虎口と言うのは直角S字クランク状に進入路を削り込んだ入口で、入って来た敵兵は常に正面から弓矢や鉄砲で射撃されてしまう防御構造なんです。

しかし…
小生が今迄のブログで紹介した城址と違い、この滝山城址は一々記事で説明しなくても現地に詳細な「施設図解看板」が有るので、その写真を沢山載せた方が解りやすいかもしれませんね。

とりあえず、図解の無い場所は解説します。

入口の食い違いの切通しを抜けると右上の一段高い場所が三の丸跡です。
三の丸には城址に良くあるお稲荷さんが鎮座してました。
 
 
登城できた事を感謝してきました。
親切丁寧ですよね〜?
この様な看板が随所にあります。
どうやら、さっきの食い違いの切通しは天野坂と言うらしいです。
きっと天野サンと言う北条氏照公の部下がいて、あの付近に屋敷が在ったんでしょうね。
天野家と言えば伊豆国出身の鎌倉武士の家系であり今川家の重臣でもあったので、北条早雲公が伊豆を手中に収めた頃に伊豆の在地の天野家子孫か、今川家臣天野家の分家が北条家の家臣に成ったいた可能性は非常に高いと思います。

因(ちな)みに滝山城の事ですが、アホなWikipediaには武田信玄2万に三の丸まで攻め込まれ、3千で守る滝山城は「落城寸前に追い込まれた」とか書いたド阿呆編集者がいますが、逆に現地見ると…
「あ〜武田信玄は大軍で入口しか落とせなかったんだな〜」
…と良く解ります。
Wikipediaに適当な記事を書いたアホは恐らく現地を一度も訪れた事もなければ滝山城址の「縄張(なわば)り図=城の見取り図」すら見ないで適当に書くような人物なんでしょう。
しかも、滝山城は三の丸を過ぎてからが殺傷能力の高い防御構造のオンパレードに成るんです。
「武田信玄、三の丸より内側は落とすどころかお手上げ状態だったんだな」
…と、良く解ります。

入口の天野坂の左手には、北条氏照公の家臣小宮家の屋敷が置かれた小宮曲輪(くるわ)」と言う施設が待ち構えています。
この小宮曲輪、風化した現在でさえ、掘り底〜曲輪の土塁まで高さ10m以上有ります。
当時は空堀は更に1〜2m深く、土塁も1m以上は高かったはずなので比高13m位、つまり3F建てのビルの屋根位の高さが有ります。
※小宮曲輪上から↓下を見た写真
深い空堀と切岸と土塁の小宮曲輪を侵入者は登る事も出来ず、道なりに進むしか無く、曲輪上の守備兵から雨あられと矢弾が放たれハリネズミみたいに串刺しにされる訳です。

その先には第二関門の「枡形虎口(ますがたこぐち)」が待ち構えています。

今は土塁が有りませんが、ここに行く手を阻む枡形虎口の食い違い状の城壁が有りました。
ここまで攻め込むと三の丸を落とせます。
逆に言えば武田軍はこの先に進めなかったと言えます。

さて、ここを抜けると小宮曲輪への進入路と弁天池の跡が在ります。
下の写真の窪地が弁天池の跡です。
実は、この弁天池と大池の2つの池が北条氏照公の内政力の高さを示す証拠なのですが、先ずは弁天池の名前の由来から説明します。

北条家は相模国を本拠地とする武家なので、鶴岡八幡宮や関東武士団の礎を築いた源頼朝公や鎌倉武士の文化を引き継いでいます。
現代でも鎌倉武士の居た地域には必ず「御霊神社」か「八幡宮」か「弁財天」の神社の何れかが有ります。
ですので、源頼朝公や鎌倉武士団がそうであった様に、北条家も江ノ島弁財天や鶴岡八幡宮の旗上弁財天を自領に勧進(かんじん=末社を作る)して信仰していました。
江ノ島弁財天は日本三大弁財天なので、とても御利益有りますしね。
滝山城の弁天池跡、発掘調査の結果、真ん中に島の跡があり名前の通り「弁財天」を祀(まつ)っていた事が判明しています。
次は弁天池が何故、北条氏照公の内政力の高さを示す証拠に成るかですが…
実は、北条氏照公、滝山城を本拠地にしていた頃に新田開発にも力を入れていた様なんですが、水田の水量を必要に応じて安定供給出来る様に弁天池と大池の水を灌漑用水として放水する政策をとっていました。
この効果で、麓(ふもと)の灌漑水田のある村は他の領域内の水田より石高が高かったようです。
戦国時代に新田開発をする武将自体が稀(まれ)で、それだけでも内政力を評価出来るのですが稲作の灌漑技術向上を目指した武将は余り多くは無いんですよ。
北条家の宿敵武田信玄と、北条氏照公は水と油の関係でしたが、どちらも政治力は高かったんですね。
武田信玄の場合は治水と生産力向上を、河川の流路を変える事で実現しました。
これは、甲州も八王子も水害に遭いやすい事や水田に適さない土地が多く苦慮した結果の技術向上だったのかも知れません。

さて滝山城址に話題を戻します…
小宮曲輪入口と反対、弁天池を右回りに進むと三の丸の上から千畳敷と呼ばれる曲輪に繋がる「コの字型の土橋」と食い違い虎口が侵入者の行く手を阻みます。
「土橋(つちはし)」と言うのは、文字通り「空堀に通路として削り残した土の橋」なんですが、滝山城のここの「コの字型の土橋」はかなり特殊で、他の城には余り有りません。
横浜市港北区小机町にある同じ北条家の小机城には「十字状の土橋」が有りましたが、やはり、この複雑な構造は築城名手北条家独特の防御施設であり、高い攻撃力を備えていました。
※小机城記事は「ココ」←クリック!

※ピンクのは小生の携帯外部バッテリー
写り込みすんません。

コの字型土橋の上から進行方向千畳敷を見る。
このコの字土橋、当時は当然今より高く道幅も狭かったはずです。
見て貰えば一目瞭然ですが、侵入者はいくら大軍でも土橋を渡る際には細長く隊列を整列しなければ通れません…
しかも、常に正面の防御施設の土塁に並んだ木盾や竹束(たけたば)の隙間から、防衛側のスナイパーが弓矢や銃で狙撃してくるので侵入者側は大損害を受けます。
北条流の築城術は、この構造を多用します。
そして、伝承によれば武田信玄は2万の大軍でも三の丸までしか落とせなかった…
つまり!この「コの字型土橋」より先に進む事は出来なかった訳です。

この先に千畳敷と呼ばれる広い曲輪があります。

名前と広さからして、ここには殿様や奥方様の居住する御殿や、部下と政務を行う事務所や使者と謁見する応接間が有ったのかも知れません。

この千畳敷と次の二ノ丸を繋ぐのが「馬出し」と言う施設です。
下の写真は典型的な北条家の馬出しの「角馬出し」と呼ばれる、防御 兼 出撃用の城門です。
この復元予想図が下の案内板。

この馬出し、当時は土塁があり、この場所からも侵入者を狙撃出来た訳です。
徳川家康が大坂城を攻めた時に、真田幸村が大坂城総堀に築いた出城と言われるのが巨大な「武田流の丸馬出し」で、やはり絶大な防御力=殺傷力を発揮しました。
因みに小田原城に苦戦した豊臣秀吉は、自分が大坂城を築く時に、北条流の築城術を取り入れ大坂城に総堀を築き、更に北条流の「障子堀」にしていました。


さて…
馬出しを抜けると、いよいよ滝山城の中枢部の「二の丸」「中の丸」に侵入者は突入します。
説明にも有りますが、中の丸は敵が東西二方向から攻撃を加えれる場所で、その脆弱性をカバーする為に進入経路は「櫓門(やぐらもん)」が設置されていたと推測されています。

櫓門は別の漢字で矢倉門とも書きますが、つまり、射撃用の建物が上に有る城門ですね。
写真は二の丸の「堀切(ほりき)り」です。
丘づたいに敵が侵攻出来ないように、尾根に深い溝を「掘り込んで道を切る」から「堀切り」と呼ばれている空堀の事です。

中の丸に入ると、休憩するベンチなんかが有り、ピクニックで来た家族連れなんかにはお弁当広げるのに最適の場所です。
そして、この中の丸からの眺望(ちょうぼう=ながめ)の素晴らしい事!
中の丸の北側からは、秋川や関東平野が一望出来ます!
ここの眺めは是非、見ておくべきだと思います!

そして中の丸から川岸まで幾(いく)段もの「腰曲輪(こしくるわ)」が設置されています。
この風化して段々畑みたいに見える崖が、全て人工的に削られた削平地で、戦国時代には「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる竹槍や木の槍が上下に向けて置かれていまさかた…
攻めのぼって来る敵は逆茂木に邪魔されて進入経路を限定され、隊列が細くなった所を上から守備兵に弓矢で射殺されてしまうんです。
そして、上に登って来ても、槍で下に突き落とされたり足を滑らして落下すると…
下段の逆茂木の竹槍や木の杭(くい)に串刺しに成って死んでしまう残虐な防御施設として機能していたんですね。

この滝山城と丘づたいにある高月城は滝山城と二城一体(にじょういったい=二つ合わせて一つの城の様に機能する)なんですが、やはり高月城の眺望も素晴らしかったようです。
戦国時代初期の京都市左京区にある聖護院(しょうごいん)と言う本山修験宗の御寺の道興(どうこう)と言う貴族の高僧が、「廻国雑記」と言う手記の中で高月城を訪れた時に見た風景を以下の様に記しています…
前庭に高閣あり、矢倉などを相かねて侍けるにや、遠景すぐれて数千里の江山眼の前に盡ぬとおもおゆ」
…滝山城一帯から遠くまで見渡せる山河の景色には、昔の人も感動したんですね。
因みに聖護院は、あの聖護院大根(しょうごいんだいこん)の発祥地です。

さて、滝山城に話を戻しましょう。
中の丸からは、最後の砦の「本丸」へ渡る「引き橋」が深い空掘りの上に架橋されています。
引き橋とは、橋の骨組みの上に、歩く敷板(しきいた)部分を引っ張れば、いつでも敵が橋を渡れなく出来る仕組みの木橋の事です。

下から見上げると、その掘りの深さから引き橋を引っ込められた敵は本丸に進入出来なくなる事が容易に想像出来ます。
すっごい高いでしょ?
天下の名城、熊本城や姫路城にだって、こんな構造は有りませんよ。

仮に侵入者がこの橋を渡れても、今度は再び幾つもの枡形虎口と食い違い虎口が待ち構えています。
橋渡ろうとする時点で、枡形虎口の正面から守備兵に狙撃され、侵入者は隊列の一番前の人間から順番に射殺されて行きます…
この枡形虎口を抜ける為に、一体何人の仲間の屍(しかばね)を越えないといけないんだろう?
史実では武田信玄の軍は三の丸どまりで、ここまで辿り着けていません。
こんな感じで滝山城は無理に攻めれば攻撃側が大損害を被る仕掛けだらけなんです。
下の写真は、この枡形虎口の説明。

本丸には霞神社と金刀比羅神社とが有りました。
霞神社を見ると一段高く成っている場所に在るので、恐らくここが本丸館の有った場所なのかも知れません。

金刀比羅神社

金刀比羅神社の裏側、右手には「横堀り」がありました。
横堀りは敵が山腹を縦移動出来なくする為の空堀です。
横移動出来なくする為の空堀を「畝堀(うねぼ)り」や「竪掘(たてぼ)り」と言います。
写真では判りにくいかな?
現地看板では横堀りも竪堀りも全て山腹の空堀を竪堀りと纏めて説明していますが、複数空堀りが有る為の対応だと思います。

本丸からの眺望も綺麗でした…
…が!また、写真撮るのが下手くそな小生は携帯外部バッテリーを写し込んでしまいました。
すいません。

でも、ここまでで滝山城の規模や保存状態と、保護活動をしている皆様の素晴らしい取組みが何となく伝わったでしょうか?
この他にも山の神曲輪や、信濃曲輪など、まだまだ滝山城には沢山の施設が有るのですが…
この日は、本丸到着時に既に日没寸前だったので、ここから慌てて下山する事に成りました。

また、北条氏照公の開基した滝山城東端に在る少林寺さんを取材する際に、時間が有れば残りの部分も撮影して来て書き足したいと思います。

では…
滝山城の紹介はひとまずここまで!

皆さん、もし、八王子方面にお出かけの際は是非!滝山城を散策してみては如何でしょうか?
見応えも有りますし、春には桜の綺麗な場所です。

次の記事で、又、お会いしましょう!