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今の日本の政治、ハニートラップやら政治能力と関係ない重箱の突つき合いやら…
真に以って下らない。
けど、昔はもっとエゲツなく、讒訴謀殺暗殺は当たり前に行われていました。
特に藤原一族は…
大伴氏・蘇我氏・橘氏・紀氏・和気氏・吉備氏・菅原氏・源氏・平氏の皇家忠臣のみならず!皇族や天皇すら姦計で陥れたり暗殺する事数えきれず。
…藤原一族がのさばらない今は平和ですね。

実は、小生、根拠が有って「源頼朝公は北条時政と義時父子に暗殺された説」を支持しています。
その話は又、今度。
今回は岡村天満宮に関係のある部分だけ話します。
実は岡村天満宮は、最初の頼朝公暗殺を阻止した人物が開基(かいき=開いた)したんですよ。

岡村天満宮は大凡(おおよそ)800年前に平子家の殿様に開基されました。
以前書いた「横浜市の自慢と嫌な事」を書いた記事とかぶりますが…
ここはゆずの地元の岡村町に在る天神様=菅原道真公を祀(まつ)る神社です。
神社は神聖な場所ですが、ここは、ゆずファンにとっても神聖な場所なんです。
上の壁画、以前、「横浜市の徽章(きしょう=マーク)がダサイ」と嘆(なげ)きの記事を書いた時に少し紹介しましたが…
ゆずが伊勢佐木町で、まだ路上ライブをしていた頃に歌っていた松坂屋の前に当時の様子を描いた壁画が展示されていたのですが、松坂屋が解体される際に、ゆずの地元の岡村天満宮に移設されたものです。
岡村天満宮の御近所には、ゆずファン御用達の岡中ジャージを売っているオリオンスポーツも有ります。

さて、岡村天満宮を開基した人物の話に戻ります。
鎌倉時代の岡村は、当然まだ横浜市も無く地名を「久良岐郡 屏風ヶ浦 岡」と言いました。
この岡村は鎌倉時代は平子家の領地でした。
平子家の居館跡は磯子小学校辺りで、背後の丘一帯に城が有ったと伝わっています。
昔は城の外郭(がいかく=端っこ)に神様や仏様を祀る神社仏閣を造りました。
ですから恐らく、岡村天満宮は磯子城の一番外側で、背後の守に堅い地形の丘は磯子城の一部だったと推測出来ます。
前回も使った航空写真で位置確認…
今は平子家の館跡地の磯子小学校の辺りは平地ですが…
実はその辺りは江戸時代は写真右手の本牧と久良岐(くらき)の丘が続いており間に川は有りませんでした。
…岡村天満宮と磯子小学校も同じ丘伝いに繋がっていたんです。

だから、正に城の外郭に置かれたのが岡村天満宮だったのだと思います。
そして、付近には源家与力の鎌倉武士の城址近くには必ず有る八幡宮も…
中区根岸の八幡様ですね。
現代の中区の地名八幡橋近くに在ります。
根岸の八幡様も岡村天満宮もほぼ区境に有るので、区を跨いでいますがどちらも磯子城跡の近くです。

中村川沿いですが、昔は平地ではなく中村川も有りませんでしたので、根岸の八幡宮も久良岐の丘の上に在りました。
つまり磯子区と中区の岡村町や滝頭町や中村町は巨大な久良岐の丘の上に在ったんです。

何で今は平地に成っているかと言うと…
江戸時代に岡村や滝頭や中村の丘の土を切り出し、海だった今の中区関内や吉野町や伊勢佐木町辺りを埋め立てたんですね。
だから今は平地に成っちゃったんです。
下の写真を見て下さい…
吉野町を上の頂点として、左右に大岡川と掘割川に挟まれて扇型の平地の中に横浜旧中心街の伊勢佐木町や関内が有るでしょう?
その扇型の川に挟まれた平地が昔の蒔田湾の跡の吉田新田(よしだしんでん)です。
3.11の大地震では、江戸時代の未熟な土木技術で埋め立てた土地の関内は、横浜市震度3時に震度5で揺れたそうですよ。

で、そんな訳で今は平地の岡村町、岡村天満宮は今でも丘の上に在りますが…
話を神社を開いた殿様に戻します。
現在、岡村天満宮は戦火により詳しい資料は無くなり、更に太平洋戦争後に米軍基地建設の為に敷地縮小されたりしました…
が‼︎
…平子有長公が開基したと判る伝承が神社に残ります。
「源頼朝公の部下が天神様を祀りたいと願い出て京都の北野天満宮から天神様を勧進(かんじん=神様の分霊を招く事)」した」
…と伝わっています。

もう、これで十分に誰が岡村天満宮を創建したか判(わか)ります。

平子有長公の事の前に、岡村天満宮そのものを先に紹介します。
※写真は現在の参道

この参道は昔の参道ではありません。
昔の参道は米軍に接収され基地に成り、後に岡村天満宮ではなく、何故か横浜市に返還された為に岡村公園に成っています。
航空写真で説明しましと…
写真には上下に3本の道が有ります。
この内、一番右側の道が旧参道の道です。ですから一番下に大鳥居も写っていますが、この道を真っ直ぐ行っても米軍基地跡の旧岡村天満宮社領に造られた岡村公園と復興岡村梅林しか有りません。
途中左折するか、真ん中か左側の道から岡村天満宮に辿(たど)りつけます。

現在の神社の参道の、この鳥居から階段を登ると…
岡村天満宮なのに杉山天満宮と書いた石碑が有ります…
実は、一時、源頼朝公が開いた杉山神社と合祀され名前も折衷(せっちゅう=両方合わせる)して杉山天満宮にされてました。
明治政府の失策「一村一社」の影響です。

階段を上がると素敵な天満宮天満宮した(笑)、本殿が見えます…
が!
先ずは左手を見ると…
可愛いらしい、お稲荷さんお稲荷さんした(笑)、白笹稲荷大明神様が鎮座しています。
こちらは商売繁盛に御利益有りと信仰を集めたそうですが、お稲荷さんは農業の神様です。
きっと、付近の農民に大切にされてきたんでしょうね…
今では付近に田畑は有りませんが、商売繁盛の御利益で、磯子や岡村、上大岡や蒔田の商人を見守ってくれてると思います。
…感謝。

お稲荷さんに挨拶をして先に進むと、次は天満宮の神様の天神様=菅原道真公が可愛がった牛車の牛さんが祀られています。
説明にも有りますが、菅原道真公は暗殺姦計が得意な藤原一族の藤原時平に暗殺されそうに成った時に、牛さんに助けられたんです。
どうやら、この牛さんは横浜の名工が掘った文化財らしいです。

道真公が腐れ藤原家の暗殺者に襲われた際、白牛が暗殺者を角で突き殺し道真公を守ったそうです。
頭の家紋は何じゃらほい?…不明。
牛さんは実際に知能が高い生き物で、芸を覚えたり道を覚えたり出来るらしいです。
因(ちな)みに、道真公は知恵の神様で、生前は優秀な政治家で文化人でも有りましたが、同じく智謀に長けた有名な戦国時代の名軍師の竹中半兵衛は、道真公と同じく馬ではなく牛さんに乗ってました。
もっとも、竹中半兵衛は直に乗牛(笑)?し、道真公は牛車に乗っていたんですが。

牛さんの頭を撫でたら本殿に着きます。
綺麗な本殿でしょう?

横は杉山神社ですかね〜?
境内はこんな感じ…

実は、この境内も米軍接収後の返還時に、岡村天満宮社領を横浜市が横領した被害から氏子さん達が買い戻し岡村天満宮に寄附したんです。
泣ける文化伝承の心意気。

駐車場側の入口も趣きがあります。
天満宮だし、元は広大な岡村梅林だっただけに、境内にはしっかり梅も咲いていました。
綺麗でしょ?
可愛いらしくも凛とした梅の花、良いなぁ♪

さて、ここからは文字だらけ…
何故、岡村天満宮の開基が平子有長公かと言う話しに戻ります。
1岡村に天満宮を立てる領地を持つ人物
2菅原道真公を祀る習慣が有る家柄
頼朝公の部下=頼朝公の時代の武将
4北野天満宮から分霊を持ち帰れる人物

以上の条件を全て満たす人は一人しかいませんからね〜!

先ず1つ目!
岡村の鎌倉時代の領主は平子さんです。
2つ目!
関東で菅原道真公を祀る習慣が有るのは坂東平氏の子孫達か関東管領宅間上杉家です。
平子家の本家は三浦家、三浦家の祖先は鎮守府将軍平良文公で正に坂東平氏の祖です。
※坂東平家と菅原家の関係は以前書いた永谷天満宮の記事「コレ」←クリック!を読んで下さい。
※写真は源頼朝公
3つ目!
頼朝公部下で1と2の条件を満たす人物。
平子家、もしくは平子家本家筋の三浦家の中で頼朝公の時代の御家人を務めたのは…
平子有長さん、三浦一門で一番出世した和田義盛さん、三浦本家の三浦義澄さんか子の三浦義村さんか孫の三浦泰村さんです。
4つ目!
1〜3の全ての条件を満たす人で…
京都に上洛した事が有り、北野天満宮から天神様の分霊を持ち帰れた人。

全てに当てはまるのが平子有長さんです!

つまり岡村天満宮を開基した頼朝公の部下と言う人物は平子有長公なんです。
では有長公はどんな人物だったかと言うと歌舞伎の演目にも成っている「曽我兄弟の敵討ち」に頼朝公の忠臣として登場する人物です。
フルネームは…
平朝臣(たいらのあそん)
右馬允(うめのじょう) 
平子(ひらこ) 弥平(やへい) 有長(ありなが)
…サンと言います。
長いので以下、平子有長 公と省略します。
平子家は坂東平氏三浦家の分家です。

一応、名前を解説します。
平朝臣の「平」が姓、「朝臣」は天皇の家臣と言う意味です。
右馬允は律令(りつりょう)制の「官職名」です。
寮(めりょう)と呼ばれた皇軍の軍馬の管理をする部署 の中間管理職で、上には左馬頭(さめのかみ)と右馬頭が居ました。
今風に言うと戦車部隊の隊
平子が「名字」で、嘗て磯子区の地名の由来の磯子は五十子(いらこ)とか「平子」と書きましたので、つまり平子郷の領主だから平子を名字にした訳です。
有長公の家系と曽我兄弟の事件を分かりやすく系図みたいにすると↓コンナ感じ。
有長が個人名です。

桓武天皇
    ↓(子)
葛原親王
    ↓(子)
高見王
    ↓(子)
平   高望 王  臣籍降下 正親司 上総介
    ↓(子)                                         ↓(子) 
平   良文 鎮守府将軍(弟⇄兄)平  良門
※ 鎌倉郡村岡城主              ※前鎮守府将軍
    ↓(子)                                  ↓(子)
平   忠光                             平   将門
    ↓(子)                               ※神田明神祭神
平   忠通
    ↓(子)
三浦為通⇄(兄弟)⇄鎌倉章名
    ↓(子)                        ⇅鎌倉氏へ養子?
三浦為長⇄(兄弟)⇄平子民部太夫景通
     ↓(子)                     ↓(子)
三浦次(継)長           鎌倉権五郎景政
 ※ 久良岐三郎         ※ 御霊神社祭神
磯子真照寺を開基     上杉謙信の先祖
     ↓(曾孫)
平子弥平有長 右馬允→(家臣)→源  頼朝
(源  頼朝の御家人)                     ⇅(婚姻)
     ↓                                       北条政子
(曽我兄弟狼藉を逮捕した)        ⇅(親子)
     ↓                                       北条時政
曾我祐成(兄⇄弟)曾我時致        ↓(支援)
(亡父の仇工藤祐経に仇討ちをしたい)
     ⇅                          ↓
(敵対) ※有名な曽我兄弟の敵討ち発生
     ⇅                          ↓
工藤祐経→曽我兄弟の父の土地を強奪
(源  頼朝の重臣)         
     ↓
工藤祐経は「曽我兄弟の敵討ち」で曽我兄弟に殺害された。当初、頼朝も義弟北条義時の血縁者である曽我兄弟を助命しようとするも、重臣である工藤家の要求により兄弟を処刑。
     ↑
曽我兄弟の弟曽我時致の烏帽子親(えぼしおや=後見人)である北条時政と、北条義時による血縁一族曽我兄弟の為の敵討ちが…
相模川の橋で起きたであろう源頼朝公暗殺や家潰しと、幕府乗っ取り開始の原因なのかな?
 
頼朝公暗殺節は又、いずれ詳しく書くとして…                      

上の曽我兄弟を巡る家系図で有長公が頼朝公の代に源氏に与力した平子家の殿様で事は何となく伝わりましたよね〜?

次は北野天満宮を勧進出来た訳ですが…
源頼朝公が伊勢平氏=平清盛の一族を成敗し天下を静謐(せいひつ)に還すと、京都に上洛しました。
その際、随行の警護役に平子有長公も居ました。
つまり、有長公は京都にいたので、北野天満宮に分霊を許されさいすれば、関東に天神様を勧進出来た訳です。
しかし、北野天満宮の格式は高いので、坂東平氏の平子家とは言え、一、地方武士の身分では、北野天満宮に分霊を請うのは無理なので恐らく源頼朝公を介して要請したはずです。
そして、その手段は恐らく、頼朝公が北野天満宮の分霊を勧進し、更にその分霊を岡村に勧進したはずです。
…実はこの小生の岡村天満宮成立の仮説を証明してくれる存在が、正に鎌倉の荏柄天満宮なんです。

荏柄天満宮は1104年の創建ですが、源頼朝公が鎌倉幕府を開いた後に、鎌倉の鬼門の方角の鎮守として社殿を新たに造営しているんです。
鎌倉幕府成立は、頼朝公と平子有長公の上洛の後の話しです。
そして、上洛後の荏柄天満宮の社殿造営は恐らく北野天満宮で何がしか改めて宗教的な御朱印を受けたか分霊を受けた可能性が高いと思います。
でないと、社殿再造営する意味が無いですからね。
そして荏柄天満宮の社殿再造営の件と同時に岡村天満宮の為の分霊も受けたと思います。
そうでもしないと、平子家の官位や立場で北野天満宮の分霊を請うのは難しいですから。

まぁ、そんなこんなで、岡村天満宮は北野天満宮の分霊だし、勧進した平子有長公も歴史に名を連ねた勇敢な武士ですよ〜♪
…と、言うお話しでした!

では、又、次のブログでお会いしましょう!