小田原には室町時代から伝統のお土産が3つありまして…
小生、本日、小田原北条五代祭りを見物して来たので全部買って来ました!

一つ目!ういろう
※まだ包装したままですいません(笑)。
前回紹介した戦国時代以前から天皇家と関わりがあり文字通り「本家本元のウイロウ」を製造販売している、その名も外郎(ういろう)家」の直系御子孫が今も社長を務める小田原名物お菓子のういろうですね。
コレを食べると歴史的な話だけでなく、小田原外郎家のウイロウが食感と味が格別に良いのが良く分かると同時に、どっかの地方都市のウイロウがネチョネチョ気持ち悪い食感で甘ったるいだけの偽物だと一口で判らしてくれます(笑)。
めっちゃくちゃ美味い!
ういろうの歴史解説記事は「ココクリック!

二つ目!カマボコ
江戸時代から富士山詣(もうで)で箱根越え前に小田原宿の旅籠(はたご=旅館)に宿泊する客が旅の目的の一つとして食べるのを楽しみにする程に有名だった小田原のカマボコ。
手作りだから板に盛り付けた姿もふっくらしてますが、食べるとコレまた食感がスーパーの大量生産市販物と異なり「ブリブリ」とした感覚と濃い魚の味が口に広がり感動するくらいです!
鈴廣(すずひろ)の蒲鉾(かまぼこ)が有名です。映画の小津安二郎監督が好物だったらしいですね。
小生は今回、外郎サンちの隣の老舗カマボコ屋の山一サンのを買いました。
小津安二郎監督の真似して板ワサにしてみました。
久しぶりの小田原蒲鉾、嬉しくて普段飲まないお酒も飲みました。

三つ目!小田原曽我梅の梅干し
室町時代〜明治時代まで梅干しと言えば横浜市磯子区南区港南区の特産だった杉田梅でした。
南高梅は関東では、つい最近流行り出した歴史の浅いブランドです。
杉田梅が横浜市教◯委員会のせいで消えた話は有名で、以前、神奈川の梅林文化を解説した記事や横浜の殿様間宮家の話でも紹介しました。
杉田梅は現代では姿を消しましたが、その杉田梅と同時期に盛んに植林され恐らく同じ品種だったのが小田原市曽我梅林の曽我梅。
甘ったるく蜂蜜漬けされた偽梅干しと違い甘くない昔ながらの酸っぱい系統の正統派ですが、曽我ブランドの梅は元々の果肉の旨みがあり凄く美味しいんです。
小生、さっき板ワサにした蒲鉾を、この梅干しを醤油代わりに食べてみましたが凄く美味しかったです!
因みに昔の人は生醤油が高級品だったので梅肉をつけて食べたり、梅干しと酒で「煎り酒」と言う調味料作って刺身を食べる人が庶民には少なくなかったらしいですよ。
※神奈川伊豆の梅林文化についての記事は「ココ」「ココ」「ココ」←クリック!

どうでした?
何か食べてみたいお土産はありましたか?

食べ物以外にも隣町箱根の寄木細工なんかもお土産として有名ですよ〜!
そうそう!
小田原市は湘南の一部なのでシラスと鯵も美味しいですよ!
もし車で行く人は西湘バイパスでの上り線の西湘SAで食べれる釜揚げシラス丼がオススメ!

以下に外郎家の歴史を纏めて置きます。
初代:陳延祐
元朝時官途:礼部外交院外郎 
長慶天皇の治世、正平二十三年(1368)年、元朝滅亡時に日本亡命。
医術、天文学に通じる。
博多に住す。
官職から陳外郎と日本では呼ばれる様に成る。
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後円融天皇の従弟、足利義満公により博多より京に招聘。
京に移住はせず博多に戻るが子を京に留める。
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子は京に留まり足利一門の断家、宇野の名跡と旧領を与えられ格を上げられた上で朝廷にも仕える。
外交使節の応対を担当。
足利一門の帰依していた禅宗に入門した事で法名は大年宗奇と伝わる。
父の初代延祐も禅宗に帰依し入道。
今は福岡市博多区に移転した、当時は太宰府に在った横岳山嵩福寺で剃髪、台山宗敬と名乗る。
※この入道号"台山宗敬"は恐らく陳家が浙江省台州出身の貴族である事に由来する。
※帰化後、本来は元朝の官職の外郎を苗字とし読みを官途の外郎(げろう)と区別し外郎(ういろう)にした。
※朝廷に上がる為に宇野を併用した。京極、六角に置ける苗字佐々木の併用に類似の事例。
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陳外郎宇野台山宗敬、享年73歳。
応永二年(1400年)七月二日没。
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後柏原天皇治世
永正元年(1504年)。
五代:陳外郎宇野藤右衛門定治の代に小田原の北条家より招聘され移住。
この際に弟の家を分家させ京に残し接待菓子や薬の製法も弟の家にも残した。
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しかし兵火により京の外郎(宇野)家は断絶する災難に遭う。
※当然、京都の財産や文書も消失。
この際に弟子が外郎の故知の博多、官領代として乱を沈静化させ当時の博多を傘下に置いた大内家により雇用され広まったと、外郎家では山口市と博多市の菓子の外郎を系統と社史で事実上公認している。
血脈は小田原のみ存続する。
天皇家の制約を守り菓子を販売せず。
薬の製法は明治まで一子相伝だった。
※明治時代の解説に繋がる。
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小田原でも北条家の外交使者接待担当。陳外郎宇野家は石高換算で江戸幕府の7000石超相当の格を継続して遇される。
※有職故実に通じたのでの江戸幕府に置ける高家対偶に類似。
※実際に其だけの所領を北条家でも与えられたとは考え難いので関東では室町幕府の格式の維持に留まったはず。実際、当時の石高換算の1貫=2〜4石の最大値で計算しても北条家臣筆頭の松田家で所領役帳で2798貫=11192石となり、やはり外郎家は格式に特化した保証を受けたと考えた方が自然。
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北条家、豊臣秀吉の小田原攻めにより改易、当主氏直公は蟄居。この際、士分の北条旧臣は小田原城下から退去を命ぜられるが朝廷との縁から特例で残留を認められる。
以後は医家として存続、嘗ての朝廷に置ける儀礼を守り透頂香と菓子も外郎の在所以外での販売をせず現代に至る。
この際に天皇家より医家にも関わらず以下の桐紋と建築様式の使用の御赦免を賜る。
八方八つ棟
表側三つ棟玉堂造り
唐破風に桐紋瓦
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江戸時代に至っても外郎家は高名で、今の市川海老蔵の祖先である二代目市川團十郎(元禄元年1688年〜寶歴八年1758年)が愛用し、享保年間に外郎の透頂香で喉の持病が根治した事を感動し歌舞伎の演目"外郎賣"を造り上げ以後は市川家十八番の演目の一つとして現代に至る。
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明治に成ると特許条例が制定されたが、天皇家との関わりで真っ先に特許承認された。
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外郎家系統の製法を受け継ぐ地方では外郎(ういろう)の名を使う事を憚(はばか)り、"ういろ"等と名を変えて敬意を近代まで払っていた。
その名残で今も「ういろう」と平仮名で書いても「ういろ」と発音する人が年配には多い。
但し、外郎家と無関係の名古屋は例に漏れる。


さて、次回は又、北条五代祭りの後に戦国時代の小田原上司の「虎口」と発掘調査中の「百姓曲輪」などを紹介したいと思います。
では!又、次の記事で!