また小田原城の記事更新じゃなくてすいません(笑)。

女性の地位の事を少し書きたくて…
休日前夜?当夜なのに寝付けないので文字だけの記事を自分への子守唄代わりに書きます。

写真が無いので読者様におかれましては物足りなくお感じに成られるかも知れません。


結婚適齢期で離婚を考えている既婚女性は小生のブログ読者に果たしているのでしょうか?
小生のブログ、ばらつきは有りますが今は毎日100人位の方が見て下さっているようです。

前回、映画「駆け込み女と駆け出し男」の公開に合わせ、鎌倉東慶寺の記事を書きました。
ふと、映画の時代設定の江戸時代より昔の離婚歴や出産歴の有る女性の再婚の事を思い出したので書いてみます。

さて…
江戸時代の中頃〜明治に成るまで、離婚は女性側から申し出る事は出来なかったのですが、現代人から見て寧(むし)ろ深刻な問題は「儒教」が流行し浸透していたせいで夫婦間における女性の地位は男性より下に見られていました。

しかし、実は江戸時代に成ったばかりの頃まで女性は男性からも尊敬され対等の存在だったのを御存知でしょうか?
特に関東=坂東と呼ばれた静岡県の御殿場市以東〜の地域は武士文化圏で腐れ藤原貴族の価値観とはだいぶん異なる世界観で皆生活していました。

まず女性の地位ですが…
例えば、女性でも儒教が流行する以前、平安時代の坂東武者文化圏では、女性も一族の惣領=旦那に成る事が出来ました。
又、男性に劣る体格を武芸と智謀でカバーし実際に軍兵を率いて合戦で活躍したり、或いは一族の政治を差配(さはい=とりしきる)する女性もいました。
その様な女性は戦国時代まで、ちらほら見かけられました。
神話の時代の古代日本では寧ろ女性がリーダーに成った方が上手く行く事もしばしば有ったようです。

特に有名な代表格を挙げますと…

●神功皇后(じんぐうこうごう)…神話時代
卑弥呼にも比定されている神話の人物です。日本全国の八幡神社の神様で軍神の「応神天皇」の生母とされています。
また古代日本軍を率いて朝鮮半島の三韓を征伐したと記録されています。
神功皇后が卑弥呼と推測される理由は卑弥呼の時代背景との合致にあります。
卑弥呼の時代の古代日本王朝邪馬台国は、中国三国時代の「魏」と友好関係に有りました。
この当時の朝鮮半島は魏やその前王朝の「漢」が楽浪郡や帯方郡を今の平壌(ピョンヤン)や漢城(ソウル)の辺りに置き支配していました。朝鮮半島には統一王朝は未だ未だ存在しない時代でしたが、その帯方郡と楽浪郡の原住民が漢帝国から赴任している太守を殺害したり魏から造反した公孫度と言う武将に加担し謀反したりと魏王朝の皇帝「曹叡(そうえい)」は朝鮮半島に非常に手を焼いていました。
曹叡政権の首相を務めたのが丞相(じょうしょう)の司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)でした。
卑弥呼は魏帝曹叡に使者を送り以下の宝器を賜わります。
「黄幢(こうどう)」=魏皇帝軍の軍旗
「宝剣(長さ115cm)×2振り」
「銅鏡×100枚」
日本で一番古い銅鏡は「景初三年」の魏の年号が入った物で、実は卑弥呼の外交使節が最初に魏を訪れたのが景初二年
、景初三年には魏帝曹叡は崩御(ほうぎょ=死去)しているので使節の来訪と同時に製作開始された物だと推測出来ます。
景初元号で製造されてしまった物を作り直す余裕は無いので、そのまま日本に寄贈されたのでしょう。
その頃、司馬懿は朝鮮半島の反乱分子の皇孫氏一族を討伐しています。
つまり、卑弥呼も魏の援軍として朝鮮半島の南側から攻め込み敵勢が纏まる事を阻止した可能性は高い訳です。
もし、卑弥呼が神功皇后だとすれば神話とも整合性があり、正に女王として女性が日本を纏め、その実力を発揮した証拠にも成る訳です。

●臺与(とよ)=邪馬台国女王…古墳時代
卑弥呼の後を継いだとされる女王。
卑弥呼の死後、再び分裂しかけた邪馬台国をまとめ上げた名君主ですが事跡は良くわからない。

●巴御前(ともえごぜん)…平安時代末期
源(木曽)義仲の愛妾ながら武芸と統率力に優れた名将で、合戦に部将として参加し指揮官として実積が有るのみならず、男武将相手の一騎打ちで敵将を見事に討ち取っています。
その活躍から鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛に惚れられて、彼と再婚しています。

●赤井輝子…戦国時代
群馬県太田市一帯を支配した由良成繁の妻。
夫が死去すると小田原北条家が由良家の城に攻め寄せて来ました。しかも赤井輝子の息子二人が北条家に人質にされ、城を明け渡す様(よう)に降伏勧告して来たのですが、彼女は鎧兜を身に付けるや城兵を統率し北条家に大砲を打ち込み捲り降伏から和議に持ち込んだ女傑でした。
前回のブログで紹介した東慶寺の20世住職「天秀尼」様の教育係りと伝承する成田甲斐姫を教育した人物としても知られています。

●成田甲斐(なりたかい)姫…戦国時代
当時、「関東一の美人」と言われた人物。映画化された小説「のぼうの城」にも登場する姫武将の名将で、石田三成軍28000人に居住する今の埼玉県行田市に在(あ)った忍城を攻められた際、従兄弟の成田長親と共に3000人の兵士農民と籠城し戦の指揮をとり敵将を一騎打ちで討ち取り、更に指揮官としても遊軍200を率いて城内不利な味方の軍勢救援に縦横無尽に活躍した。
成田家が今の福島県に移転した際に家臣の浜田兄弟が200人の兵を率いて謀反し母親を殺害すると、自(みずか)ら武装し10人の手勢で浜田勢200人を苦戦させ成田軍本隊の到着まで時間稼ぎに成功する。しかも浜田兄弟の浜田十左衛門を追撃し斬り倒し討ち取り、浜田将監の右手を切り落とし生け捕りにする大武勲を発揮した。
後に豊臣秀吉の側室に成り、東慶寺20世住職で豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様の教育係りを務め東慶寺に同行したと伝承する。

●吉岡妙林(みょうりん)尼…戦国時代
今の大分県の大名大友家の重臣吉岡長増公の息子の吉岡鎮興(しげおき)公の妻。
居住する鶴崎城が島津家に攻撃された際に城主不在の中、僅かな城兵と農民を率いて籠城する。事前に妙林尼の周到な準備の元、鶴崎城域には様々な罠が準備されゲリラ戦術を用いて島津軍を数度に渡り撃退に成功した。
極め付けは偽降(ぎこう=嘘の降参)をして島津家諸将を信じ込ませると、島津軍が城から出るのを待って、妙林尼は島津軍を背後から奇襲し敵大将を討ち取る大功を立てた。
美人としても知られ豊臣秀吉が側室にしようとしたが、妙林尼は亡夫を大切にし僧籍に入ると二度と俗世には出て来なかったと伝承する。

他にも沢山、一族を率いて活躍した女性はいました。
この様に、昔は姫でも妻でも実力が有れば兵を指揮し家政を執行し活躍しました。

では、結婚恋愛について男性との関係や立場はどうだったかですが…
古代は多夫多妻、男女平等でヤリたい(笑)相手とやって良かったようです(笑)。
今でも南太平洋の島国では村全体で村の子として子供を育てる習慣が有りますが、それに近い家族の価値観だったんでしょうかね〜?

平安時代は恋愛は対等で、婚前交渉なんかも当たり前に有った様ですね。
しかし貴族社会の女性を口説くには男性に教養や芸術的な才能が必要で、女性を口説く和歌を詠んだり楽器を演奏して文化的な才能を見せないと顔すら見せてもらえ無かった様です。
恋愛においては女性上位だったようです。
ただ、この頃には男女共に結婚は家同士でするもので、本人同士の意図より家対家と言う認識だった様です。
ただ、儒教に毒されていた近世・近代日本との違いは、この時代の武家や庶民の家に置いて妻の地位は極めて高いものでした。
また、武家の妻は現代でイメージする妻とはだいぶん役割が異なりました。
当時は武家の家の家事労働は全て使用人が担いました。主婦は経理や他家との外交、或いは主家で使用人として勤務していました。
収入は今のように金銭給与では無く、その家に対して土地を与えらるので「旦那の稼ぎ」とか「妻の稼ぎ」では無く「家族や使用人全員で稼いでいるもの」と言う共有共存対等の意識が強かった様です。
豊臣秀吉なんかは出世してからも、よく正妻のネネさんと名古屋弁で夫婦喧嘩をしていたそうで、時代劇なんかで描かれる架空の社会みたいに女性側が男性に服従する構図は事実と異なっていた様ですね。
恋愛に関しても、安土桃山時代には外国人宣教師の記録が有りまして、恋愛は自由で当時の日本女性は奔放に振る舞えたそうです。
…つまり女性側から告白したり別れを切り出すのも自由だった訳です。
因みに16歳の女性を昔は「破瓜期」と言いましたが、それは瓜を女性器に見立てた隠語でして、つまりは、だいたい16歳に成ると恋愛したり結婚したりして女性が女に成る事を表現しているそうです。
つまり、江戸時代以前は昔から恋愛が自由だったんですね。
ただし、結婚は恋愛結婚以前に生まれてすぐに許婚(いいなずけ)が決まっていたり、仲人による紹介など家対家で決まってしまう事の方が多かったようです。
もっとも、昔は今と結婚だけでなく根本的に環境が異なりました。
江戸時代には今と違い教育を受けれる身分の人間は男女問わず少なく、自立する能力や経済力を有する女性は少なかったので結婚してから離婚したい場合は「東慶寺」の様な尼寺で修行し教養や技術を身に付ける必要が有ったのだと思います。
学問も無く、職人としての技術も働き口も無い侭では実家に帰ってもニートにしか成れないですからね…それは男女問わず今と同じ。

結婚や恋愛事情は各時代、伝わりましたでしょうか?

さてさて…
次は離婚経験の有る結婚適齢期の女性や、子連れ女性の再婚に対する各時代の考え方ですが…
昔は熟年の女性が夫と一緒に居たくない場合は出家するんですよ。
つまり世を捨てる訳です。
コレは今みたいに自由に教育を受けて就職出来る機会が無かった時代の悲劇ですね。
まぁ、今でも男だろうが女だろうが必要な社会経験や技術の無い人間に行き場は無いですし、まして若手でも無いなら尚更、再就職先も無いですよね。
離婚し自立するには先ず仕事が必要な訳です。

次に結婚適齢期の女性の子連れ再婚場合です。
先ず儒教思想に毒される江戸時代以前は、離婚経験の有る女性は人生経験が豊かと肯定的に受け止められていましたので、再婚の際は寧ろ「(仕事が)デキル女」的な扱いでした。
子連れ再婚に関しても好意的で子連れ再婚の女性は「子供を産める」し「子育てにも成れている」ので引く手数多(あまた)でした。
別に、今の夫婦1組で子供1人に至ら無い現代的な価値観で子供を産む産め無いの話ではなく当時は乳幼児の死亡率が高いし平均寿命が短かったので、子供を産み育てた実績の有る女性は再婚相手として人気が有った訳です。
勿論!現代でもし「女は子供を産んでなんぼ」とか言うオッサンが居れば、ソイツは時代錯誤甚だしいアフォでしょう。
昔と今では事情が違い、昔は子供を残さないと一族が滅亡する衰退するってのが子供の出生が多ければ多いほど良かっただけで、現代はそうではない訳ですからね。
昔の価値観を実はを元に話せば、実際、小生の家系も系図を見るに祖父母の両親、つまり三代前の幕末生ま世代の祖先の兄弟は夭逝(ようせい=早く死ぬ事)している人物が少なくありません。
だから子供を多く生んで上手く育てる母親が大切だったのだと思います。
しかし別に昔の人が皆んな短命だった訳ではなく、真田幸村の兄君の真田信幸公は93歳で幕府に出仕(しゅし=出勤)していましたし。
現代では別に結婚しても子供を作らない夫婦もいますし、幸せの形は昔とは比較出来ませんし恋愛結婚も御見合い結婚も色々自由度が高いですし、現代人は色んな形の幸せを追及出来るのが昔と違う悩みでしょうか?

江戸時代は女性から離婚を請求出来なかったり、女性が自由に学問する機会が極端に少なかったり…
男尊女卑思想の儒教が横行して以来、女性の地位は抑圧され不平等に成りましたが、明治時代に成ると福澤諭吉先生らが儒教を猛烈に批判し女性が学ぶ機会が戦国時代以来復活させられました。
しかし…
明治政府は何で儒教を禁教にし焚書坑儒しなかたったんでしょうかね~?
逆に平和的な仏教を廃仏棄釈なんかしたんでしょうか?
神道を尊重するのは当然ですが、仏教は極めて神道と関連も深く誘惑していた平和的な宗教なんですがね…。
仏教を衰退させ腐れ儒教を否定せずもてはやした結果の、本来の日本神話や価値観とかけ離れた男性優位的な勘違いオッサンがまだまだ跋扈(ばっこ)する現代社会…
とりあえず、国語の教科書から儒教「論語」を削除しないと、今回書いた諸々の事情で女性は本来の地位に戻れないんじゃ無いかと思います。
あと、女性の立場を男性に男性より下と勘違いさせる原因の一端は女性側にも有ると思います。
何にもしないで家事使用人任せ収入も男の経済力に依存したいだけの依存心強いカン違い姫気取り女がいて、家庭を切り盛りする責任感も社会で活躍する気も無く、女を武器にして発言力を持つ様な無能なヤツがいる限り、社会で活躍したい女性の足を引っ張り続けるでしょうね。
そんなヤツを減らす為には、先ずは保育園の数を十分に増やし戦国時代以前の昔の日本の様に社会全体で子育てをする仕組みを作ら無いといけないかも知れませんね…。

そうすれば、女性側に離婚歴が有ろうが子連れだろうが、寧ろ再婚しやすい環境、子連れでも活躍出来る社会に成るのかも知れないですね。

…と言う独り言でした。
おやすみなさい。
今回のは記事にカウントしないで、今晩、小田原城の記事の続きを書きます。