皆さんは、水分補給と言うか…
一息つく為に何を飲みますか?
小生は御茶を良く飲みます。
御茶と言っても煎茶では無く、鉄観音の緑茶ですが。

さて、昔の御殿様達も御茶を良く飲まれた様ですが、世田谷の大谿山豪徳寺と言うそれはそれは立派な御寺にも御茶を飲みに立ち寄られた、ある殿様の御話が残っています。
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この豪徳寺さん、幕末の大老井伊直弼さんの御先祖様、徳川幕府直参大名の彦根藩井伊家と非常に所縁の深い御寺でして、大凡(おおよそ)以下の様な内容の伝承が伝わっています。

ある日、徳川家臣の井伊家2代目、井伊直孝公が今の世田谷の辺りを通りかかった時、ある御寺の前でネコが手招きしていました(出オチだよね)。
それを見た直孝公、これも縁だなと御寺の和尚さんに「ネコに呼ばれて訪問してみたんだけれど、和尚さんの話でも聞かせてくれません?」みたいな事を言った所、あっと言う間に外の天気が大崩れ、和尚さん、殿様達にお茶を出す間に…
「御寺の外は激しい雷雨に見舞われ、御寺をスルーしていたら今頃落雷で大変な目に遭っていたかも知れない」
…と殿様も一安心、これも何かの縁と和尚さんの御話を一しきり聞いた所、その説法に非常に感銘を受け、以後、この御寺を井伊家代々の菩提寺として定め支援する事に決めました。
…この逸話のネコこそ、招き猫のモデルなんです。 2015-06-13-19-06-53
これ↑豪徳寺で販売している招き猫さんです。
本家本元、元祖の招き猫だから古典的なデザインだけれど、可愛らしいでしょ♡?

井伊家の居城、彦根城のマスコットは「ひこニャン」ですよね?
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ここまで話を聞いたら、何で彦根のキャラが「ひこニャン」かお分かりですよね?
つまり、彦根城主井伊家と東京都世田谷区の豪徳寺が招き猫の発祥の由縁であるので、ネコに初代の井伊直政公の兜を被せてキャラにしたんですよ。
…こうして話を知ってしまうと以外にヒネリが無いキャラのデザインでしょ(笑)?
でも可愛いですよね?

実はこの豪徳寺は元々、蒔田吉良家の居城「世田谷城」でした。
「世田谷城」の事は後半部分で詳しく書きますが、その城内に城主の吉良政忠公が叔母の弘徳院様の菩提を弔う為に立てた私設の仏院が北条家滅亡後、その影響下に在った蒔田吉良家が下総国(千葉県)に移転してしまい支援者を失いほそぼそと寺院として命脈を保っていたのを新たに支援したのが井伊家に当たる訳です。
先程の招きネコの発祥の逸話ですね。

江戸時代を通じて大大名の井伊家の菩提を弔い代々支援を受けた御寺だけあって鎌倉の円覚寺や建長寺や京都の大徳寺や相国寺に迫る規模を有しています。
ですので、参道もとても素敵な雰囲気です…
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緑豊かでしょう?
この参道を抜けると立派な三重塔が出迎えてくれます。
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歴史にあまり関心の無い方の為に一応ご説明差し上げますが…
この様な仏塔、よく大寺院に有りますが、実は中は登れない構造に成っており元々の役割は「仏舎利(ぶっしゃり)」と呼ばれる、仏教の開祖「ゴーダマシッダルタ=お釈迦様」の御遺骨を納め奉(たてまつ)る為の建物なんです。
勿論、現代の日本の仏塔にお釈迦様の仏舎利が有る訳ではありませんよ!
あくまで文化的宗教的な役割を担い、かつ御寺の景観を美しく演出する役割が主な所になっています。
この豪徳寺の三重塔の前には楓や紅葉の木が生えていて、ボランティアガイドの方の話ですと秋は非常に美しい風景を参拝客に見せてくれるそうです。

さて、この三重塔の右手を参道にそって真っ直ぐ行くと本堂が在るのですが、そちらを紹介する前に…
こちらから!
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三重塔の前の参道の分岐点を本堂に向かって左手に曲がるとすぐの所に上の写真の御堂があります。
この塔頭(たちゅう=御寺の支店とか別部門みたいな感じ)の門をくぐると…
こんな建物↓があります。
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これだけでも、住宅街の中の小さめの御寺の本堂位の規模があります。
この写真の左側を良く見て下さい…
何か白いの居ませんか?

実は、ここが「招き猫」の御利益に与(あずか)れる御堂なんです。
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この招き猫さん達は願いが適(かな)った参拝客が納めたネコさん達かな?
この招き猫達は寺務所で購入できますよ~!
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小生が購入したのは2cm位(左)のと、右の10cm位のです。他にも同様の物を家族と友人の御土産に購入しました。

三重塔と、招き猫達がいる御堂を過ぎて真っ直ぐ行くと、その先に井伊家との歴代の殿様と、その奥方様達の御廟所が在ります。
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この奥が御廟所なのですが…
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今回も失礼に当たるので御廟所の写真は載せません。
その代わり、幕末の彦根藩旧臣達が明治時代に奉献した、御廟所入口の石柱を載せますね。

さてさて、では三重塔から本堂に向かいましょう…
本堂に向かうと、大きな大きな線香を炊き上げる炉が有ります。
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すんごい立派でしょ!!
御寺の寺紋は井伊家の菩提寺だけあって、井伊家の橘樹紋ですね。

ここを右手に行くと庫裡(こり=寺務所)が在ります。
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招き猫のパネルが有るので直ぐに解ると思いますよ~!
こちらで招き猫や御土産を買ったり、御朱印を頂けます。
御朱印の写真を掲載したい所ですが、小生の御朱印は少々特別な物を御好意で頂いているので掲載できません。御了解の程を…

で、線香炊き上げる場所の更に奥が下の写真の…
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最初の大きな仏殿が在ります。
確か…
こちらが阿弥陀如来様が祀られている方の仏殿だったと思いますが、記憶は定かではありません。

で、寺務所を右手に見ながら、この仏殿の更に裏手に本殿が在りますが本殿を紹介する前に、こちらの仏殿の屋根を見てみましょう。
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彦根藩井伊家の、もう一つの家紋「平井筒紋」が金色にキラリと輝いていますね~。
そして御堂の大きさが伝わると思います。
見切れてる狛犬さんも凛々しいですね。
この写真は仏殿を裏側から見た写真です…

…その向かい側に本殿が在ります。
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本殿前の炉も井伊家の家紋が刻まれていますね~。
如何に、この豪徳寺さんにとって井伊家が大切な存在だったかと言うのが伝わってきますね。
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現在、こちらの本堂は鉄筋コンクリートに成っています。
こちらには確か、釈迦如来様が安置されていたと思います。
入口のガラス戸ごしに拝む事が出来ます。

この豪徳寺、冒頭で少し触れましたが元々は蒔田吉良家の居城「世田谷城」だったので、境内には城時代の土塁遺構がちょこんちょこんと残っていました。
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まぁ~城好きな人以外には「ただの土のこんもりしたの」位にしか見えないでしょうけれど…
これは御城時代の土壁の名残なんですよ。
ですからこの、土塁の延長線上には「世田谷城址公園」も在ります。
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世田谷城址公園には、豪徳寺の山門を出て左手に進むと100m位さきに在ります。
この↓道ね。
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現在、世田谷城址は大部分が宅地化されてしまい余り残っていませんが、公園内には空堀と北条流築城術特有の二重土塁が石垣で補強され保存されていました。
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世田谷城址は吉良家の館を、吉良政忠公或(ある)いは吉良成高公の代に拡張し城郭化したと言われています。
小生の個人的な予想では戦国時代に当たる吉良成高公の代には横浜の蒔田城が吉良家の本城として機能していたと推測しています。
しかし、この世田谷城が本城だと言う意見が主流の様です。
ちょっと蒔田吉良家の所領を見て見ましょう…
吉良家所領域
赤いタグと黄色のピンで表示された地名と施設名が支配域の中心部です。
世田谷一帯・多摩川と中原海道沿いの川崎市高津区と中原区一帯・海運の拠点東京の品川辺り・同じく海運と河川水運の拠点横浜市南区一帯…

多くの学者の意見では、世田谷城が本城だったが、成高公は文化人だったのでしょっちゅう風光明媚な蒔田城に行ってたんじゃないの?…と言うのが定説に成りつつある様です。
小生が蒔田城が北条家時代の本拠で、世田谷城は元の本城として重視された拠点だったと思う根拠は…
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吉良成高(しげたか)公が開基(かいき=御寺を創建する事)された勝國寺が横浜市南区蒔田城址の丘の下に在るからです。
そして、この蒔田城址の大手口に当たる場所に在る勝國寺さんには「吉良政忠公の御廟所」が有るからです。
つまり、小生の予測はこうです…
吉良成高公は扇谷上杉家の執事だった名将太田道灌公と盟友でした。しかし太田道灌公は君主としての器に乏しい主の扇谷上杉定正に今の神奈川県伊勢原市に在った別荘で入浴中に暗殺されてしまいます。
この時期の前後、吉良家は扇谷上杉家の影響下に在ったはずですが、同時期に伊豆国を制圧していた北条早雲こと伊勢盛時公も主を今川氏親(うじちか)から古河公方足利成氏(しげうじ)公に乗り換えていましたので、扇谷上杉家は古河公方家との関係上、伊勢盛時公とも関わりが有ったはずで、当然、伊勢家と蒔田吉良家も関わりが有った筈です。
では何故、伊勢盛時公が伊豆を支配下に治めれたですが、これは正に古河公方家を主家とし仰いだから敵対勢力である堀越公方足利政知の支配地域である伊豆を攻める大義名分を獲得する事が出来た訳です。
ですので、伊豆と隣接する小田原城主の大森家と伊勢(北条)家は友好関係にあった訳ですが…
この関係を揺るがす政変を古河公方家が起こしてしまう訳です。
突如、古河公方は対立する堀越公方派だった山内上杉家と和睦してしまい古河公方派の扇谷上杉家と山内上杉家の関係も改善してきましました…

つまり!
伊勢家の伊豆統治の大義名分が怪しく成って来た訳です。

…しかし、この古河公方=扇谷上杉家と山内上杉家の同盟は、元々山内上杉家と戦う事で領地を拡大していた扇谷上杉家与力の大名たちに大いに扇谷上杉家に対する不信感を与える原因に成ったようです。
しかも!
吉良成高公は太田道灌公の暗殺以来、扇谷上杉家に対して恨みの様な感情すら抱いていた事でしょう。
結果、吉良家は世田谷~中原街道を攻めのぼり太田道灌公の遺領だったと思われる横浜市南区辺り迄攻め込んで来て、同じ様な動機で直ぐ隣の鎌倉郡まで制圧していた伊勢(北条)家と友好関係を結んで、前線に当たる世田谷から蒔田城に本拠を移したのだろうと、個人的に推測しています。
因みに、何故、横浜市南区が太田道灌公の遺領と推測するかと言うと南区には京急線「南太田駅」が在るのですが、その一帯は太田と言う地名で太田小学校は太田道灌公の城跡と伝わっています。
そして!
吉良家が戦国時代に蒔田城の方を主要拠点にしていた決定的な証拠は…
勝國寺の政忠公の御廟所の周辺を取り囲む様に、「森家」「佐々木家」「並木家」の立派な御廟所が有るからです。
吉良家家臣団を知っている人は直ぐに解るのですが、森家、佐々木家、並木家は全て吉良家の主要な家臣なんですね。
つまり主要家臣が戦国時代に御廟を構える場所が当然、本拠地の可能性が高い訳です。
更に言えば、隣の港南区上大岡側と磯子区峰一帯には大地主の「北見家」と「苅部家」がいます…
この北見家も「北見」=「喜多見」であり、やはり吉良家の重臣に当たる姓です。苅部家も同様に吉良家重臣の家柄の姓です。
そして、「森」や「並木」の地名は、蒔田城と一つの丘「久良岐の丘」で繋がっている地名として残っていて磯子区「森」と金沢区「並木」が現在も地名に在ります。 吉良家所縁の地名
この吉良家、北条氏の影響下に入った後の明確な支配域を見ても中原街道沿いの川崎市中原区や東京湾岸等、穀倉地帯よりも交通の要所を抑える傾向が有りました。つまり、海運と陸運を重視した家だった訳です。
そんな関係で…
船舶関係の事業に精通した家系…喜多見家、並木家等が配下にいたのでしょうね。
実際、この輸送能力を生かして吉良家は吉良頼康公の代に鶴岡八幡宮再建で材木の大量輸送に成功しています。
これは羽柴秀吉における蜂須賀小六の比ではない実務能力と経済力の高さを史実として残しています。
そんな関係で、流通の拠点として内陸の街道が沢山通る世田谷と海川の水運に適した蒔田を重視したのは言うまでも無い訳です。

まぁ、そんな吉良家ですが、北条家滅亡時に世田谷城は落城してしまいます。
その際に、吉良の殿様は千葉県に退避していて難を逃れ、そのまま江戸時代に千葉で旗本として存続しました。
江戸時代に成ると、御子孫が前回の記事で書いた世田谷八幡宮を吉良頼康公の故事に習い再興しています。
豪徳寺は井伊家の菩提寺でもありますが、そんな吉良の殿様の室町時代の居城で蒔田吉良領の中核だった訳です。
世田谷城址の豪徳寺を継いだ井伊家は、その後、吉良家の治めた横浜村を開港しています…
これも何かの御縁なんでしょうかね~?
豪徳寺は吉良家と井伊家と言う、とても偉い殿様の関わった御寺で凄いと言うのは何となく伝わったでしょうか?

きっと皆さんの御近所の御寺や神社も、思いがけず凄い殿様や歴史偉人や古代の神様の縁起が伝承して居るかも知れません…
だから少し御寺や神社を散歩してみて、説明の看板を読んで見ませんか?
思わぬ歴史人物との関わりを発見したら、きっと自分の住む地域への愛着も深まる筈です…

では、又、次の記事で御会いしましょう!