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7月は七夕祭りの季節ですね~♪
神奈川県では日本三大七夕祭り一つ、平塚市の七夕祭りが有名で毎年数万人の観光客で賑わいました。
…もっとも近年は昔ほどお客さんが集まらないみたいです。
人が定住しなくなり、神社や御寺が生活に身近なものでは無く成って来たからですかね~?
昔は町々の神社や御寺も沢山氏子さんや檀家さんがいて、年中行事の御祭りや神事仏事を皆で行い、伝統文化を伝えると同時に子供達は御小遣いを貰って縁日で買い物をしたり楽しい事が沢山有ったんですがね~。
…お祭りが減って行くのって何だか寂しいですね。

横浜市磯子区の屏風ヶ浦と汐見台地区の境界に森浅間神社と言う古い神社が在ります。
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住宅街と団地の間、昔海岸だった段丘の中腹(ちゅうふく)に下社、丘の上の汐見台地区に本殿を持つ、神社が在ります。
歴史は非常に古く鎌倉時代、源氏の本拠地だった鎌倉市の亀ヶ谷(かめがやつ)と言う地区に在った亀ヶ山福禅寺と言う御寺に源氏の守り神(仏:当時は神道と仏教は融合していた)の不動明王を祀る権現堂が有りました。
※源氏の本拠地の亀ヶ谷については以前の寿福寺の記事ココ 」←クリック!

その権現堂の和尚様の幸蔵坊長慶比丘が建久8年(西暦1197年)に源頼朝公の請願により富士山浅間大社から此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと=素戔嗚命の奥さん)の分霊を勧進し浅間神社を創建したのが、この森浅間神社の由来です。
鎌倉時代末期には、新田義貞が鎌倉幕府に鎌倉市西側の稲村ケ崎から攻め込んできた際に、最後の鎌倉幕府将軍の守邦親王(もりくにしんのう)が、この森浅間神社の在る旧久良岐郡森村に逃げて来られたそうです。
その際に薬師如来像も戦火に遭わないように守邦親王により森浅間神社に移され、此花咲耶姫命の御霊と共に以後御神体として御祀りする事に成ったそうです。
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昔海だった屏風ヶ浦地区から丘を登ってくると中腹に上の写真の森浅間神社下社が在ります。
久良岐の丘づたいに汐見台地区側からも丘の上から来られます。
しかし、どちらから来ても、本殿と下社両方御参りするには長い参道の階段を上り下りしないといけません。
では、なんでこんな急な丘の場所に頼朝公が神社を創建させたかですが…
それは源氏が山岳信仰の御一族であった事と関係が有ると思います。 2015-06-10-11-22-13
面白い事に、下社には明治まで近隣に存在した神社の神様が合祀されていて、そこに浅間神社の神様の此花咲耶姫命の御夫神様の素戔嗚尊が祀られています。
…奥さんは本殿にいるので、なんだか尻に敷かれる現代の日本人男性の様な構図ですね。

所で森浅間神社を開いた幸蔵坊長慶比丘の御寺、鎌倉の権現堂は不動明王をお祀りしていました。
不動明王を御祀りする宗派は仏教の真言宗や修験道(しゅうげんどう)に多く、何(いず)れも山岳信仰の側面もある宗派です。
鎌倉の権現堂は福禅寺と言う名前で「禅」の字が含まれているので、禅宗の臨済宗なのでしょうか?
或(あ)いは、広島県の鞆の浦にも福禅寺と言う御寺が在り真言宗なので、やはり真言宗なのかも知れません。
鎌倉の権現堂は明応年間(1490年代前後)に廃寺に成り、この森浅間神社に本山格としての機能移転されて解りませんが、近い内に図書館で新編武蔵風土紀稿の森浅間神社の別当寺だった泉藏院の項目を調べて後日追記します。

そんな訳で、創建者が山岳信仰と関係が有る権現堂の僧侶幸蔵坊長慶比丘なので、源頼朝公は彼に依頼し富士山の権化として信仰された此花咲耶姫命の御霊を富士浅間大社から分霊したのだと思います。
何で富士山の神様を勧進したかと言うと、頼朝公は信仰から来る登山マニアで、当時登山グッズなんか無かった時代に富士山の山頂まで御自身で登頂された挙句、富士山の火口を一周されたりしています。
そして富士山の神様、此花咲耶姫命の御父神様の大山祇神の権化とされる神奈川県大山にも登り、大山阿夫利神社を参拝されています。
大山阿夫利神社の記事は「ココ 」←クリック!
山岳信仰の対象で修行場でも在っただけあり、参道の階段は本当にキツイです… 2015-06-10-09-05-43
この写真だと伝わりませんかね?
では地形を見て見ましょう…
森浅間神社地形
すんごい崖でしょ(笑)?
この崖上の丘一帯を久良岐(くらき)の丘と呼び、神話の時代に日本武尊(やまとたけるのみこと)が訪れた地域なんです。
そして、この崖直下の屏風ヶ浦の海は神社の神事に欠かせない海産物の海鼠(なまこ)や鮑(あわび)が豊富に獲れる恵まれた海だった事もあり佐賀牟(さがむ=武蔵国と相模国に分割される前の地域名)国の内乱、佐賀牟国造(くにつくりのみやつこ)の乱の後に天皇家の直轄地の屯倉(みやけ)となり、倉巣屯倉として古事記にも登場する場所でもあります。
古くからの景勝地で、豊かな漁村だった訳です。
…今では海は埋め立てられ面影は有りませんが。

実際、頼朝公と頼朝公の御先祖様の源義家公を含めた河内源氏の一族は山の神に対して非常に強い信仰心を御持ちだった方々で、義家公は方々で蔵王権現と言う神仏習合の神様の御社を創建されたり再建されています。
※義家公の蔵王権現信仰については「滝山街道古道の記事リンク 」←クリック!
※義家公の八幡神信仰については「杉田八幡宮記事リンク 」と「世田谷八幡宮記事リンク 」←クリック!

源氏には山岳信仰の伝統が有ったからこそ、この昔は久良岐郡と呼ばれた地域の中の更に屏風ヶ浦と言う景勝地だった断崖の切れ間のなだらかな部分に富士山の神様を祀ったのだと思います。
そして、この森浅間神社は…
ずっと海岸が長い断崖絶壁に囲まれた久良岐の丘の、数少ない船着き場を設けれる地点で有ったので、鎌倉幕府の陣所も設置された訳です。その場所が現在の京浜急行屏風ヶ浦駅辺り「汐汲(しおく)み坂」と呼ばれる辺りで、この一帯は海面の高かった縄文時代も海に下りれる貴重な通行の要所だった様です。
その証に、汐汲み坂の上の汐見台地区には縄文~弥生時代の史跡や港南区最大の古墳等の史跡が大量に在りました。
もっとも例によって神奈川県と横浜市の教育委員会の必殺技「開発幇助の為の史跡不保護」がここでも炸裂し、港南区最大の古墳すら宅地化され破壊されて残っていませんが

少し、屏風ヶ浦の位置関係を見て見ましょう…
森浅間神社位置関係
…京急屏風ヶ浦駅から丘に延びる緩やかな長い裾野が汐汲み坂です。
そして丘陵地帯以外の平地は全て昭和初期まで海でした。
この屏風ヶ浦湾でとれる海鼠は、明治時代まで清帝国向けの輸出用に干しナマコとして出荷され、品質の高さで有名だったそうです。

さて、森浅間神社そのものに話を戻します。
先程の長い参道の階段の他に、久良岐の丘の方から回ってくる汐見台団地の中からの迂回路の参道も有ります。
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ただ、この神社は上にも下にも駐車場が無いので、屏風ヶ浦駅から徒歩5分と近い事も有り電車での参拝を御勧めします。

参道を抜けると、ひっそりとした場所に在る神社にしては期待以上に素晴らしい本殿です。
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そりゃそうですよね、頼朝公直々の命令で創建された神社ですから。
鳥居の右手には手水舎と、神社の由来の説明看板が有ります。
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手水舎も立派でしょう?
それ以上に石灯籠も立派でした!
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そして、狛犬君達も立派です。
江戸時代位の狛犬ですかね~?詳しい事は判りません。
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因みに、この浅間神社の宮司松本家は歴代笹下城跡の出城松本城址に建っている天照大神宮の宮司でもあります。
家紋も笹下城主間宮家と同じ。
恐らく、戦国時代には間宮家の被官として活躍されたのでしょう。
間宮家の系図にも松本姓の分家が登場しますので、この松本家は恐らく笹下城主間宮家から江戸時代に養子を迎えるか御姫様を御嫁に迎えているはずです。
※笹下城主間宮家については「ココ 」←クリック!

屏風ヶ浦付近に他所から引っ越してこられた方々には、恐らく近所にこんな立派な神社が在る事を御存知の方も少ないんじゃないでしょうか?
是非!お近くの方は御散歩されてみて下さい!

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!