横浜市中区の日本大通りに、1931年に建築され英国領事館として1972年まで使われ続けた素敵な近代西洋建築遺産が在ります…
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現在は横浜開港資料館と言う名前の博物館 兼 近代資料の図書館に成っています。
横浜市の開港の歴史に関する資料を保存していて市民に公開している場所です。
…公文書館と博物館の中間で近代に特化した感じ?

※ここで注意!※

名前が似ていますが以前紹介した「横浜市開港記念会館」とは違いますよ!
これ↓開港記念会館。
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…開港記念館と開港資料館の区別をつけて貰った所で話を「横浜開港資料館」に戻します。
この横浜開港資料館は近代に建てられ近年までイギリス領事館として機能していたので、余り目立たない場所に在りますが建物は素敵です。
開港資料館と道を挟んで反対には神奈川県旧県庁舎が有ります。

これ、以前紹介した記事⤴
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県庁舎はこんな⤴感じ。
県庁舎側から見た開港資料館の入口⤵。
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ね?何か緑に隠れて目立たないでしょう(笑)?
でも、この緑豊かな生垣に囲まれた中に入ると、建物は素敵なんですよ。
英国領事館だったから、外から余り中が見えないようにしたのか…
…中から道路の喧騒が見えないように生垣で囲ったのでしょうかねぇ~?
では、入ってみましょう…
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県庁側の入口は、こんな感じですが、実はこちら側は正門ではない様です。
ここは昔は海に面した場所だったので、北東側の海側が正門だったようです。
位置関係はこんな感じ…
横浜開港資料館位置関係
横浜開港資料館の右、北側の「キング」が県庁旧本庁舎。そちら側から見る開港資料館の構造より、明らかに海側から見た開港資料館の方が設計的に「正面」ですよね?
因(ちな)みに、開港資料館の海側の入口はこんな↓感じです。
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海側には資料館として別棟で増築された建物があり、中の素敵な英国領事館時代の眺望を台無し(笑)にしています。
この正面に見える樹木有りますよね?これ「たまくすの木」なんですが…
実はペリー提督が横浜の市名の元に成った、この地に有った「横浜」と言う名の半島に上陸した時から存在している樹です。
ペリー艦隊の上陸
ね?右側に生えてるでしょう?
この絵を見ると今は遷座された水神社様、この旧英国領事館のタマクスの木の前に在ったんですね~!
現在は横浜市南区の水天宮に成っている水神社が横浜半島の上に在ったのは知っていましたが、まさか英国領事館に成っていた場所がそうだったとは知りませんでした。
旧英国領事館のタマクスの木、正確には、一度燃えたのですが残った幹から又、枝葉が芽吹き、この様に大樹として元気に往時の姿を取り戻してくれました。
…健気ですね。そして横浜の歴史の生き証人として残ってくれてありがとう!
さてさて、旧英国領事館=開港資料館の建物そのものに話題を戻します。
県庁側から入ると正門じゃないので、すごく素っ気ない廊下が冷たい感じで出迎えてくれます(笑)。
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消火器とかね、全然っ!風情(ふぜい)無いけれど、防火設備は大切よね(笑)。
そんでも、まぁ~中に入って天井とかみると「おっ!」と思う漆喰の彫刻っぽい天井と、何やら権威を感じる様な冷たい光沢のタイルさんで作られた壁で装飾されています。
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この廊下の左手には金属製の銘板がはめ込まれています。
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鶴見区の生麦村で起きた生麦事件から勃発した薩英戦争(薩摩藩島津家vs大英王国)の際に戦死した英国士官だけ弔う為に作られたモニュメントですね…
…これ、日本人だったら英国人日本人の区別なく弔うよね、普通。流石、白人様って感じですかね。
しかも、この生麦事件ね、どう考えても英国側が悪いんですよね。
少し脱線して生麦事件の経緯を辿ってみましょう…
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実は生麦事件の後で起きた鎌倉事件と言う英国人殺害事件に横浜の間宮家一族も関わっているんです。
間宮と言う家は間宮康俊と言う戦国時代の北条家臣の武将の一族で、杉田玄白や間宮林蔵の祖先に当たります。
その同族の間宮一と言う人物が鎌倉事件に関わってるんです、なんと被告側で
先ず最初に言っておきたいのは、生麦事件は当時の白人至上主義の当時の英国人が、土人と馬鹿にしていた日本人の社会ルールを無視し、事も有ろうに英国なら貴族に相当する大名の島津家の大行列に平民英国人が騎馬のまま乱入しました。
島津の殿様を守る為に薩摩藩士達は最初はジェスチャーと日本語で英国人を静止したのですが英国人達は無視して乗馬したまま殿様の行列に乱入したので止むを得ず当時の薩摩藩士だった松方正義さん達が殿様を守る為に狼藉を働く英国人を切り殺した事が国際事件化したのが生麦事件の概要です。
それに対し日本人を下に見ていた白人様の英国政府が見くびり幕府に対して賠償金を請求して、それを島津家の責任と突っぱねた徳川幕府の代わりに島津家の本拠地鹿児島を英国軍が海軍で攻撃したと言うのが薩英戦争の概要です。
この生麦事件は薩摩側は明らかに正当防衛ですね。
それらの事件から日本では攘夷派と呼ばれる外国人排斥運動が流行し過激派が増えました。
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そして鶴岡八幡宮の参道の若宮大路の入口、石の大鳥居を過ぎて今の鎌倉駅付近にある下馬の交差点辺りで鎌倉事件と呼ばれる武士による英国人殺害事件が起きました。

鶴岡八幡宮の入口をこの赤い大鳥居と勘違いしている人も多いですが、実際は若宮大路の入口にある石の鳥居が入口で、今の若宮大路が参道でした。
下馬と言うのは、そこから神域なので馬を下りなければいけない場所なので、英国人が襲撃された理由も大凡(おおよそ)想像できますよね?
多分、乗馬したまま鶴岡八幡宮の境内に入ろうとして下馬しなかったんでしょう、そして攘夷派の人物が激高し斬り付けた。
実はこの鎌倉事件の犯人は元は笹下城跡の本丸跡に建つ由緒ある御寺の成就院の身内で、還俗(げんぞく=僧籍から一般人に戻る事)して間宮家に養子に入った人物です。
因みに成就院↓の山門は、江戸時代の笹下間宮家の屋敷から移築したものです。
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事件の際、当然、この横浜市(旧久良岐郡と橘樹郡)の間宮一族は鎌倉が近いだけでなく鶴岡八幡宮は当時は神宮寺で神仏混淆の寺院でしたし、現在の江ノ島の江ノ島神社の別当職を務めた岩本院(現:旅館の岩本楼)の岩本家も間宮一族だったり宗教に深く関わりの有る武士でした。
…で、時間が経過するにつれて鎌倉で英国人を殺害した犯人が清水清次と言う人間だと解り逮捕され、更に共犯者がいて間宮一が真犯人じゃないかと、段々、解ってきてしまう訳です。
間宮一は逮捕されました。
そして幕府役人は英国の介入が有る前に間宮一を打ち首にして事の解決を計りました。
実はこの鎌倉事件の前年に現在の鶴見区生麦で起きたのが生麦事件でした。
当時の大英帝国は白人至上主義で中国に阿片(あへん=麻薬)を大量に流通させて社会混乱を起こし中国王朝転覆を計っていたような国だったので、生麦事件では日本の徳川政府の迅速な「打開策」にも難癖付けて払う必要の無い賠償金を請求して来た訳です。
そして徳川幕府が賠償金を払わないと解るや、英国内の世論を納得させる為に八つ当たり的に起こしたのが薩英戦争だった訳です。
結果どうなったでしょうかね~?
英国に薩摩藩はべったり、この後は今の横浜市中区本牧に在る妙香寺の敷地に駐屯していた英国軍に入りびたり、様々な技術を導入するように成りました・・・つまり、事実上の従属同盟ですよ。
これに多くの日本人が憤慨し武士は攘夷派に成った様です。
まぁ、しかし…
この時の薩摩人達の学習能力の高さや、幕府や間宮家の対応が他のアジアより素早く意識の高いものだったので英国人の日本人に対する評価はこの事件後一変し、一貫して日本新政府には「"超"が付く位に協力的」に成ります。
そして対馬海戦での東郷元帥率いる連合艦隊がロシア帝国バルチック艦隊と対決するに当たり、英国政府は世界に日本軍に協力する様にロビー活動をし、ロシア海軍がアフリカ喜望峰を回って日本の対馬海峡に辿りつくまで、バルチック艦隊にろくな補給を出来ない様に政治工作をして多数の港湾を封鎖し東郷元帥と秋山中佐の丁字戦法成功の切っ掛けを演出して下さったのも友好的な歴史事実でもあります。
ちなみに間宮一族には杉田玄白や間宮林蔵なんて国際人がいるので、どちらかと言えば開明的な要素が強い家系だったってのも真相です。
戦国時代に間宮家の属した玉縄城主北条綱成公の部隊は既に鉄砲隊が存在していたのも、「三増峠の戦い」でも記録されていますからね~。
…間宮家は、どちらかと言えば主君に対する忠誠心は強いけれど、新技術導入には積極的な家風と言うのが実態ですかね。
おっと!
脱線が過ぎましたかね。
開港資料館に話を戻します…
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廊下を過ぎると、簡単な説明の有る部屋に行き当たります。
そこには関東大震災で犠牲に成った英国人を追悼する銘板が有ります。
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あと、当時の横浜の様子を再現したレリーフ状の模型。
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その部屋を出ると、直ぐに中庭への出口が有ります。
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その中庭に通じる出入口、この日、玄関には特別展示の内容の看板が有りました。 
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本来の英国領事館時代の玄関からの風景なんですが… 
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玄関の正面に樹が見えますよね? 
これが、ペリー提督の来航時代から有った、さっき紹介したタマクスの木です。
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一度燃えたけれど、今では当時と同じ大きさに…
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横浜の開港~国際港湾都市への文明開化~関東大震災~原財閥による横浜復興支援~太平洋戦争の横浜大空襲~昭和の復興~高度経済成長期~バブル崩壊~現在…ずっと横浜の歴史を見守って来てくれた、横浜市民の仲間でもある樹木です。
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玄関横の石柱。…道路に面してないから今じゃ意味なし(笑)。
さて、このタマクスの生えている中庭には、横浜の開港の歴史が解り易いモニュメントが設置されています。
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これを見ると、横浜開港の歴史の基礎の基礎の部分がザックリ理解出来ますよ~。
中庭には、昭和初期から残る共用水道も有ります。
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当時の水道は共用だったらしいのですが、デザインが格好良いですね!
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この中庭が昔の玄関口だったので、こちら側から見た英国領事館の建物の装飾の方が、県庁側より綺麗です。
ここにはベンチも有り自由に出入り出来るので、お弁当持ってきてココで食べるのも良いです。
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ここなら日陰もありますからね~。
この日も観光客や読書に来たハマっ子がベンチに数人居ましたが…結構穴場で人は多くはいません。
おちついて御弁当箱を広げれますよ~(笑)。
でも、せっかく港に来たんだから向かいの象の鼻パークや国際客船ターミナルの芝生で食べるのも良いですね♪
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この開港資料館の目の前、海側にはCJ Cafeと言う、アメリカンなカフェレストランが有ります。
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…オムライスとかもアメリカンサイズで女性だと食べ残しちゃうくらいの量ですが、太平洋戦争後の米軍占領時代っぽい雰囲気を味わえると思います。
小生はこの近くのJack cafeにも良く行きます。 2015-08-01-14-31-52
ここはハンバーガーが絶品!
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ランチに御勧めですが、料理が美味しいだけでなく御酒も飲めるので夜来るのもお薦めです!大桟橋の夜景も綺麗ですしね。夜景散歩に来てからここで食事するのも良いですよ。
また、Jack cafeの記事は別個に書きますね!
あと、古き良きアメリカ的な雰囲気を味わいたい時はだいたい、中華街の中のWind Jammerと言うJazz Barに行きます。
※Wind jamerは以前、記事にしていると思うので興味ある方はカテゴリー「Hotel Restaurant/Restaurant-Bar/Jazz-Bar/Bar 」←ここクリック!
…又、開港資料館からすんごい脱線しましたが、話を戻します。
本来の玄関、彫刻が凄いでしょう!
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これ見に来る価値有りますよ。
この凄い彫刻の玄関の前のタマクスの中庭で、ベンチのある日陰を探して、そこで読書して時間を過ごすだけでも良い休日に成りますね。

最後に、この開港資料館が英国領事館だった頃の、この前に広がる横浜港の様子を明治時代と現代で比較した画像を載せます。
横浜港周辺 久良岐のよし
今は象の鼻パークに成ってる“イギリス波止場”~神奈川県庁の辺りに在った「神奈川運上所」の目の前が開港資料館です。
開港資料館の展示を観覧して、横浜の発展の歴史の基礎知識を付けてから中華街や山下公園や山手地区の一帯を散歩すると、感慨深い物が有ると思いますよ~♪
皆さん、近くを通りかかって時間が有ったら、是非!開港資料館、立ち寄ってみて下さい!

では!又、次の記事で!
来月10月1日~5日は彦根、安土、京都に行ってるので第1週は更新できないかも知れないです。
今月、時間が有ればまとめて書き溜めしておいて、予約投稿出来る様にしておきますね~!