信長公の自害の直後、御遺骸の一部が埋葬された寺院が実在する事を皆さんは御存知でしょうか?
その御寺の名前は蓮臺山(れんたいさん)阿弥陀寺(あみだじ)と言う、京都市上京区(左京区との境界近く)に現在も実在する御寺です。
実は信長公は本能寺で間違いなく自害しています。
死後、数日と経たずに信長公の御遺体の一部が葬られた阿弥陀寺
の住職に当時の朝廷の勅使が来て「信長公本廟」として認定を受けているんですね。朝廷公認なので疑う方がオカシイ訳です。
先ずは御寺その物の説明からしたいと思います。

阿弥陀寺は度重なる火災で、信長公の遺品も焼失し、御寺の御堂も安土桃山時代の建物ではありません。
しかし、明治時代にも調査が行われ改めて信長公御本廟として認定を受けているんですね~。
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上の写真が現在の阿弥陀寺の山門です。
この日は台湾人の友人夫妻と訪れました。

間違いなく信長公の御本廟で朝廷公認なのですが…
現在の規模はそんなに大きくありません。
元は今の京都市北区の蓮台野と地名が残る地区に在る大規模な寺院でした。
阿弥陀寺と相国寺比較
現在では、豊臣秀吉の嫌がらせで元の場所から強制移転させられた挙句(あげく)、規模まで縮小されてしまった為です。
何故、秀吉に嫌がらせをされたかと言うと、この御寺の当時の住職だった玉誉清玉和尚が信長公の遺骸を秀吉に渡さなかったからなんですね。
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実は、信長公は切腹された後、家臣達に自分の身体を火葬する様に指示していました。
首は…
首は首で、静岡県の西山本門寺に、信長の囲碁仲間の本因坊算砂によって葬られたと伝わっています。
小生、個人的に、この本因坊一門も信長公暗殺に一役買っていたんじゃないかと思ってしまう事が有るんです。
本因坊算砂の弟子の本因坊算悦の更に弟子の「本因坊道策」が毛利家に召し抱えられていた事実が有るんですね。
毛利家は信長公を勝手に逆恨みして暴走した室町幕府最後の将軍「足利義昭」が頼った先でもありますし、信長公の没後、あれ程、信長公には抵抗したのに、秀吉とはアッサリと不可解に深い協力関係に成っていますからね。
本因坊道策の時代は1600年代中期~。つまり、徳川家の天下が定まって織田家が台頭する心配が完全に無くなった時期、しかもまだ3世代目で前時代の影響が色濃く残る面も有る時代に堂々と毛利家から給料を貰っているんですよね。
…まぁ、本当に囲碁の腕を見込まれたのかも知れませんが。
それはさて置き、信長公の御本廟阿弥陀寺の玉誉清玉和尚は、明智光秀の謀反、本能寺急襲の際に信長公の身を案じて一番最初に駆け付けた人物でした。
当時の僧侶と言うのはとても特別な権威を武士達からも認知されていて、合戦の最中でも攻守勢力に関係無く双方を説得する為に往来する事が認められていたのですが、玉誉清玉和尚は明智光秀の軍勢の包囲の手薄な門の兵士を説得し本能寺の中に進入します。すると、燃え盛る本堂とは別の当時広大な境内を誇った本能寺の奥の竹林で焚火をしている織田方の武士を見つけ、何をしているか問い詰めると「信長公の名で御遺骸を荼毘にふして誰か解らない様にする様に命を受けた」と言うので、その武士に「遺骸は引き取るから家臣として存分に最後の戦いをして来なさい」と言う主旨の事を言うと、信長公の家来達は和尚に感謝して敵勢のいる場所に向かったそうです。
その後、玉誉清玉和尚は信長公の遺骸の一部を隠し持ったまま同じ様に二条城にも侵入し、織田信忠公等の遺骸の一部を持ち帰り供養したそうです。
そして、これが当時の朝廷公認の事実であり、明治政府に再公認された事実でもあります。
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※上の写真は阿弥陀寺の山門前にある、当時のあらましを説明した看板。
何故、秀吉が信長公の遺骸を引き取らせてくれなかった阿弥陀寺を移転縮小したのかですが…
それは秀吉自身が織田家を乗っ取る心算(つもり)だったので、後継者として権力を掌握するには織田信長公の葬儀の喪主を務める必要が有り、当然、信長公の御遺体が必要だった訳です。
別に忠義で信長公の供養をしたかった訳じゃありません。
しかし、信長公に忠義を尽くす玉誉清玉和尚は秀吉にとうとう信長公の遺骸を渡さなかったんですね
秀吉が織田家を乗っ取ろうとしているのが見え見えだったんじゃないでしょうか?
結果的に強引な性格の秀吉は信長公の遺体の代わりに香木で信長公の彫像を作り仮火葬しました。
…そうまでして喪主を務めたかったんですね。
本来なら信長公の御嫡孫「三法師」君が喪主、三法師君の叔父である織田信雄公が代理を務めるのが筋です。
秀吉は意地でも織田家を乗っ取りたかった訳です。 

もう、コイツは反逆者明智光秀と同罪でしょうね。

そんなこんなで、玉誉清玉和尚に仕返しをしたかったであろう秀吉ですが、朝廷公認の信長公御本廟なので取り潰す事も出来ず、阿弥陀寺の強制移転規模縮小と言う形で玉誉清玉和尚に仕返しをした訳なんですね。

玉誉清玉和尚が織田家に忠義を尽くした理由ですが…
和尚の母上が和尚を妊娠中に生き倒れに成っていた所を、信長公の異母兄の織田信広公により助けられたので、和尚は此の世に産まれたんです。
和尚の母上は和尚を出産後間も無く亡くなってしまいましたが、和尚は更に織田家の支援で御寺で出家し和尚様に成るまで育てられたそうです。
だから、織田家と信長公に大恩を感じて忠義を尽くされた訳です。
実に庶民と距離の近かった織田家と信長公らしいエピソードです。

ところで、現在の規模がどんな感じか、御近所の大規模寺院の相国寺さんと比べてみましょう。
阿弥陀寺と相国寺比較
…右上に阿弥陀寺、左半分が相国寺。本来の阿弥陀寺なら相国寺と同規模とまではいかなくても、もっと巨大な境内を持っていたはずです。
ところで、阿弥陀寺の在る、斜め「\」左に傾いている道筋を「寺町通り」と言います。
秀吉が京都を再整備した際に、秀吉が「謎」基準で多くの御寺や神社を、その通りに並べて移転させたんですね。
阿弥陀寺付近は秀吉にとって「タブー」の隠したいものが沢山あります。
例えば…
秀吉が見殺しにした名将「山中鹿之助(しかのすけ)幸盛(ゆきもり)」の廟所のある「広布山本満寺」。

当時、世間の風俗を乱すと考えられていた「ややこ踊り」=歌舞伎の原型の色っぽい踊りの創始者である「出雲の阿国(おくに)」が幼少期に巫女さん見習いとして働いていた、当時の「出雲路(いずもじ)=出雲に通じる街道」に在った「出雲路幸神社」。
出雲阿国が通説では出雲大社出身とされていますが、ここにくれば、実際は「"出雲"路幸神社の出身の"阿国"さん」だと言う事が良く解ります。
…歴史はね、特に郷土史レベルでは実際に歩いて回らないと解んない事が多いんですよ(笑)。
で、歩いて見ると秀吉の「ドロドロと澱(よど)んだ薄暗ぁ~い性格」が一目瞭然、解ったりする訳です。
勿論!秀吉も偉大な人物である事には間違いないですが、小生は秀吉を好きな反面「大っ嫌い」だったりします(笑)。

まぁ~小生の秀吉に対する主観は置いといても、秀吉と信長公のイメージは、実際は真逆に入れ替えた方がより実像に近いんですよ。
と、言うか、家康公の「忍耐強いイメージ」と、秀吉の「明るい性格と強引なイメージ」を足したのが実際の信長公に近いと思います。
家康公の実際の性格は「人を見ぬく力が強く、冷血で執念深くて、反面宗教に熱心」と言う所でしょうか。
実際の秀吉は一般的に認識されている「明智光秀の印象に近い」と思いますよ。
これ↓も秀吉の肖像画。
秀吉はね…
「若い頃は友達の縁故で出世」
「中盤は信長公の親戚として出世」
「晩年は金で役職買って出世」
「自分より与力武将達が優秀」
「計算高い」
「カリスマ性は無い」
「上役にイエスマン、部下に丸投げ」
「無茶振り営業担当者」
…と言う所でしょうか。 
秀吉の実力じゃなくて、生駒家の財力、蜂須賀小六政勝の采配、前野長安の人脈、竹中半兵衛重治の智謀、養子で信長公の御実子於継丸様の存在…
それを信長公の事実上の正妻生駒吉乃様から仲介されて得たからの出世でしょう。
まぁ、「油売りの商才=営業力と金勘定」と「ブ男なのに女を口説く力」は、ずば抜けていたんだと思います。
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上の写真は阿弥陀寺の本堂です。
本来、信長公の御本廟でしたら巨大でも可笑しくないのですが、先述の通り何回も火災に遭った上に、根本的に秀吉に境内を縮小された為に現在の規模に成っています。
…関東なら十分立派な規模に数えられる御寺の建築物群を有しているのですがね。
ところで織田信長公の遺骸が埋葬された事実がある事を、多くの小説家は「信長ミステリー」を作り出す為に語りたがりません。
自分の小説が面白ければ良いと思う
外道作家が世に蔓延(はびこ)っているせいで世間に誤解を与えてしまっている訳です。 織田信長公は多くの小説家が自分の小説を面白くする為に、よく調べもせず適当に書くので冷淡な人物に描かれたり又は短気で変な人物にされている事が多いですね。
ちゃんと自分の足で歩いて現場を検証したり、地元の人に地元にしか残らない伝承を取材しているのは司馬遼太郎先生と黒田基樹先生くらいかも知れません。
作家兼学者さんの方が、大学のへっぽこ歴史教授よりよっぽど研究も現地検証も郷土伝承研究もされてます。

…あと、御二人の1000分の1以下くらい小生も歩き回ってる郷土史好事家だと思います(笑)。
小生は歴史学者ではありません。あくまで郷土史と郷土料理食べ歩き専門オタクです。

学者の中には文字ばっかり追いかけて、その実、現地を一度も訪れた事が無い!な~んて脳の腐った歴史学者も大勢います。
信長実像は「短気でも無ければ冷淡でも無い」と言う、小説やTVドラマしか見ない人には意外な姿が見えて来ます。
それは次回の小牧城周辺の説明をする記事で地元の伝承等を交えながら詳しく話そうと思います。

さて、阿弥陀寺は蓮台野に在ったので山号が「蓮臺山」です。
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本堂の扁額に書いて有るでしょう?
境内には立派な植木も有りますが、小生、余り植物に対する知識が無いので何の樹なのか解りません(笑)。
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阿弥陀寺は現在、本堂こそ普通の大きさですが、庫裡(こり)は立派な規模を維持していました。
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庫裡と言う漢字の意味は「倉庫の中」と言う意味ですが、プライベートスペース=一般立ち入り禁止の場所ってな意味からか、日本では御寺の事務所や和尚様家族の居住スペースを指す言葉に転化されました。
御朱印を頂きに上がり庫裡に伺い、更に織田信長公と関わりの有った横浜の殿様「間宮家」の顕彰文を御寺に奉納させて頂きました。
小生は実は、この付近に若い頃御縁が有って住んでいたので、織田信長公の崇拝者としても何回か御参りさせて頂いており、阿弥陀寺は小生にとって大切な場所でもあります。
※信長公と関係の有った横浜の殿様の間宮家の事績を紹介した記事は「ココ」←クリック!
来年の信長公の追善供養に参加するように御寺で言われたので、是非及ばず、当然参列させて頂きます。
…仕事休んでも行く!

織田信長公や御曹司(おんぞうし=跡継ぎ)の織田信忠公の御廟所は下の写真、本堂と庫裡を結ぶ渡り廊下の奥にあり、庫裡で御寺の方に一言、信長公の御廟所を御参りしたいと伝えれば誰でも拝ませて頂けます。
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どうですか?
歴史って、三文小説なんか読んでも筆者が面白く脚色してるから真実とかけ離れている事や、古文書ばかり読んでいても自分の知りたい情報ばかり無意識に選んでしまうから、実際にその場所に赴き、周囲の一見無関係そうな歴史史跡も回って観察するのがどれだけ大切か伝わりましたでしょうか?

逆に言えば…
何気な~く普段散歩して、道すがら在る今は小さな皆さんの御近所の神社仏閣も、実はとんでもなく大物の歴史偉人と所縁(ゆかり)が有ったりするものなんですよ~♪
だから、皆さん、地元に愛着を感じたら、是非!御近所の神社仏閣や城跡の山を散歩してみて下さいな!
そして、立っている説明看板を読んでみると、すごい発見が有ったりするかも知れませんよ~?

歴史や文化は学者が守って来たのではなく、神社の宮司様や氏子さん達、御寺の和尚様や檀家さん達がずっと守って下さってるんですよ、だから御寺や神社を散歩すると、その裏山の自然や庭園や彫刻の美しさに心が癒されるだけでなく少しだけ昔の人と時空を超えて繋がる事が出来る場所でもあるんですよ~♪

では!又、次回の記事で御会い書ましょう!
次回は信長公の本当の性格を、信長公とその奥さん吉乃(きつの)様の実家の周辺に伝わる御二人に関する歴史事実と逸話で解説したいと思います。