前回の記事で伊勢原市の蟠龍山洞昌院公所寺と、そこが菩提寺の太田道灌公である御話し、道灌公がどれだけ偉大な武将だったかを紹介しました。

その際に道灌公暗殺の一部始終も一旦、同じ記事内に書いてみたのですが長く成りすぎて読み難かったので今回の記事に「太田道灌公暗殺の状況」を別記事として分離し、補足情報を追記します。
※前回の記事は「ココクリック!

さて、太田道灌公の説明を改めてさせて頂きます。
太田道灌公
神奈川県の伊勢原市上粕屋町に在る洞昌院公所寺(ぐぞじ)と言う、各時代で関東の歴史事件と関連の有った御寺が有ります。
同寺は室町時代初期〜戦国時代初期の扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家の拠点:粕屋館(大規模な平山城)の遺構の外郭の一部であり…
道灌公暗殺の舞台です。

太田道灌公の祖先は摂津源氏、家は代々、関東管領を務めた扇谷上杉家の執事(しつじ:社長代行みたいな職)を務めました。 
道灌公は河越城や江戸城、佐江戸城を築城し、川越市、東京都23区、新横浜の発展の基礎を築いた人物です。 
合戦では無敗を誇り、築城した城の多くは戦国時代、江戸時代を通じ名城として存続しました。 
後の世に残る築城の名手でも有った訳です。 
更には和歌に造詣も深く、遠く和歌の本場の京都の貴族達の間でも太田道灌公は和歌の名人として認識されていた有名人でした。 

関東人にとっては、関東の発展や文化、神社仏閣の建築遺産の保護に偉大な業績を残された偉人でもあります。

今回の訪問で、和尚様より文献には載らない寺と地域伝承の道灌公暗殺時の一部始終を御教授頂きました。
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この参道にある石柱は山門(さんもん=御寺の正門)代わりですが、太田道灌公が落命した山門は本堂〜80m、この石柱の手前50mの所に在ったそうです。
山門は大正時代の関東大震災で倒壊して以来、再建されていませんが、道灌公にまつわる話が寺伝として残っています。
洞昌院は「道灌公の暗殺事件発生以来、門を閉じてはいけない。」と言う決まりが有るそうです。
ですから仮の門も造られていないんですね。
この御寺の規則が道灌公暗殺事件そのものと関係が有ります。
この洞昌院の横には自然地形を利用した糟屋館の巨大な空堀跡地形も現存します。
目の前の丘陵が全て糟屋館と呼ばれる広大な扇谷上杉家の城塞の跡で…
…その丘の手前の田圃(たんぼ)の有る長い谷が自然地形を利用し手を加えた空堀跡。
 
当時は、この田圃(たんぼ)が自然の障子掘りみたいな状態だったんでしょうか?
付近は第二東名工事と宅地化の事前発掘がされています。
なんせ、付近は全て糟屋館の城跡ですからね。

上の写真は糟屋館の北東部、「外堀」の地名が伝承する地域の発掘調査中の看板です。
ここの発掘調査自体は戦国時代と全く関係無い「古代遺跡」の調査です。 
伊勢原市は神話の舞台な上に、大山阿夫利神社や比々多神社と言う、縄文時代からの祭祀場跡や古墳時代の遺跡を旧社領に大量に抱える2大聖地が有りますからね…
※比々多神社の記事は「ココクリック!
※大山阿夫利神社の記事は「ココクリック!
伊勢原市に新東名高速が開通するのに伴い、神奈川県が「外堀の遺構」に新たな県道を建設する為、事前発掘調査をしています。
又、一つ、黒岩知事によって超重要な城址が破壊される…。
さて、この一見、糟屋館とは関係無さそうな外堀りの日本草創期の古代遺跡が発掘調査中の御蔭で、付近は丘陵の雑木林が伐採され戦国時代の糟屋館(巨大な平山城)の地形が露出し、その人口掘削された地形が綺麗に露出して見えます。
扇谷上杉家粕谷館の北東方面の切岸や曲輪群と思しき地形。
 
この地形↑なんか良く犬走りや曲輪らしき人工の地形が見えますね…
これも↓切岸に犬走りが有り、そこが農道として利用されたと推測できす地形が。
 
この写真、地面が露出していない部分は竹林に覆われていますよね?
どうも小机城、篠原城、笹下(ささげ)城の遺構を見て来た小生の感想として、室町時代の関東流の御城は、城域の切岸(きりぎし:人工的に掘削した石垣代わりの斜面)には雨天に地形が変わらない様に土止めの竹や篠(ささ)を植えていた様です。
竹だと戦時に伐採し、竹束(たけたば:火縄銃の銃弾を弾き返す盾)や乱杭(らんぐい:水掘りや川に設置するバリケード)、逆茂木(さかもぎ:空堀や切岸の底面に設置し、敵が落ちた時に串刺しにする罠)に加工出来ます。
篠は脂分が多く良く燃える燃料(ただし破裂する)にも成りますからね。
城塞の保持と、軍備、更には秋の筍(たけこの)を干して保存食にしたりと様々な用途で役に立った訳です。
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
この糟屋館、名前は館ですが地域の方々が守り伝えて来た地名と洞昌院を位置関係を衛星写真で見て見ましょう。
広大な範囲が城域だったのが解りますし、実際にその伝承通りに要害性の有る地域や、施設の跡が発掘されています。
赤枠で囲まれた文字は現在も伝わる地名です。
水色の線で囲んだ範囲が、伝承と小生が今回自分で見て回った周辺地形から見て取れた扇谷上杉家糟屋館の推定城域です。
水色で塗りつぶしている場所は、外郭と城外との境界と思われる沼掘り・空堀・堀切・切岸等の跡らしい地形です。

洞昌院の右手は現在も地元の老人や御寺の和尚様達によって空堀跡と地形が伝承されています。
さて、この衛星図を見て頂いたので道灌公暗殺の状況を説明します。
●以下「黒字」が共通の伝承以外の部分。
●以下「赤字」が室町時代から伝わる地元と洞昌院の伝承部分。
●以下「青字」が江戸時代の太田資武状の伝承部分。
●以下緑字 共通の伝承部分。

道灌公の暗殺の状況として文章しか読まない学者先生が参考にするのは「太田資武(おおたすけたけ)状」と言う古文書です。
…でもその内容、地元の伝承と比較すると、だいぶ端折(はしょ)られている内容ですし地元に伝わるかなり詳細な暗殺の状況を伝言ゲームしたら間違って伝わった様な感じなんです。
其(そ)れも其の筈(はず)で、太田資武状の著者の太田資武は太田道灌公の子孫ですが、糟屋館の所在地である神奈川県伊勢原市上糟屋と遠く離れた今の埼玉県さいたま市岩槻区生れ、その後、父が兄に造反された際に父と共に茨城県に移り、更に福井県に移住した人物なので詳しい事和は知る筈も無いんですね。
更に太田 資武自身が道灌公の死後84年して生まれた人物なので太田資武状が書かれた頃には既に事件から100年は経過した頃なんです。
ですから、正確な内容が伝わる方が困難なんすね。しかし、中にはそれが全てと誤解してらっしゃる方もいるんですね、机に噛り付いて実際に検証しないタイプの人とか。
でもまぁ、地元の伝承は事の始終が、もっとハッキリ伝わっています。

もう一度、衛星画像で位置関係を確認しながら…
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
1,洞昌院と地元の伝承…暗殺事件発生の原因。
太田道灌公の主家である扇谷上杉家は同族の山内上杉家と関東の覇権を賭けて抗争中だった。
道灌公の活躍により扇谷上杉家は優位な戦況を維持していた。
しかし道灌公の活躍と人望を恐れた器の小さい主君の扇谷定正と関係が段々悪化した。
それに目を付けた山内上杉家は扇谷上杉定正に太田道灌公を殺させ、扇谷上杉家を弱体化させようとした。
その為、定正を煽動(せんどう)した所、器の小さい定正は道灌公を殺害する事にし、糟谷館に道灌公を呼びつけた。
※太田資武状と共通の部分。

2,地元の伝承…暗殺の舞台、糟屋館城域周辺の地形。
洞昌院の場所より内側には、軍兵は進入を許されなかった。当時はここより先は平時は武将のみ入れた。
→洞昌院の直ぐ近くには「しめ引き」と言う地名が有ります。これは恐らく「閉め引き」と書き、そこには引き橋(ひきばし=戦時に撤去出来る橋)と開閉可能な城門が有ったと思われます。ですので、洞昌院の地域に伝わる伝承の証明に成るかも知れない地名です。
→糟屋館は上杉家の屋敷では無く、屋敷を取り込む巨大な糟屋城塞。
※太田資武状では事件の舞台に成った城館が名前の糟屋館から「ただの館」としてしか認識されていない。
※文献には載らない糟屋館の実情を示す地域伝承では立派な城塞の規模と施設を備えていた。

3-1,地元の伝承暗殺された時の状況。
太田道灌公は、主君の扇谷上杉定正に糟屋館(実際は巨大な平山城)に呼び出され訪問した。
その際に定正の館で旅で疲れた体を労わる様に勧められた。
しかし主君は関東管領も務めた家柄なので、家臣の道灌公が主君と同じ風呂に入るのは失礼に当たる為、道灌公は洞昌院の近くにある同寺の塔頭にて休もうと移動した。そこで暗殺者に襲撃された。
その場所は現在、竹藪に成っている辺りと伝わる。
糟屋館近く豊岡(現在の伊勢原市富岡)の在地武将、小沢某も道灌公に与力したが討死した。
道灌公は即死では無く、武装兵の進入が許されない洞昌院に逃げ込もうと傷を負ったまま移動する。
竹藪の近くに在る七人塚の辺りで道灌公の配下武将が敵と交戦し討死
した。
しかし道灌公は洞昌院の山門に辿りついたが、不幸にも門は閉ざされていて逃げ込めなかった。御寺の衆が外の異常に気が付いて門を開け放った時には既に道灌公は虫の息だった。
→七人塚の北側、空堀沿いには竹藪が残る。仮にそこが暗殺者に襲撃された塔頭の所在地だとすると、洞昌院へ道灌公を逃がす為に配下の武将が洞昌院山門への別れ道に当たる七人塚の辺りで敵の追撃を食い止め時間稼ぎをしたと考えられ、七人塚と洞昌院の位置関係と伝承に整合性が高い。
→小沢某は御子孫が富岡に住んでいたので「小沢文書」と言う古文書にも討死の経緯が保存されていた。又、小沢家は在地武将だったので、道灌公が糟屋館に出張する折りの接待役を務めた可能性は高く、寝所の洞昌院塔頭への案内を務めている最中に事件に巻き込まれた可能性は高い。
※地理的にも事件の経過順に位置関係と伝承の整合性が高いので事実だった可能性が高く、しかも詳細。

3-2,太田資武状暗殺された時の状況。
その内容記されている暗殺の状況は、略(ほぼ)以下の様な内容です…
太田道灌公は主君の上杉定正に、扇谷上杉家の糟屋の館に呼ばれた。
定正が道灌公に「風呂にでも入ってゆっくりして行きなさい」と言ったので、道灌公は入浴(当時は蒸し風呂、でも糟屋なので温泉か?)した後、風呂場から出ようとした所、小口で曽我兵庫と言う武将に襲われて、「当方滅亡」と言葉を残し絶命した。
けど、これは先に述べた通り伊勢原の事件現場から、これを書いた太田資武の出身地岩槻まで遠く離れている上に当事者の道灌公達は殺されているので、事件の状況を人づてに伝言ゲームで岩槻に伝えたら不正確に伝わった結果だと、地元の伝承と比較すると解ります。
しかも資武の頃には事件の100年後ですからね。

3-3,「太田資武状」に書かれた状況を、岩槻の人間は知らない現地の伊勢原の地名で解釈すると?
実は「太田資武状」を現地の地名を踏まえて読めばで 「洞昌院伝承」と御互いの情報を補完する自然な解釈が出来るんですね。
道灌公は主君の定正の勧めにより旅の疲れを取る為に湯殿入り小口から出た所を襲撃された。
現地を歩かない、現地の地名を調べない古文書しか読まない怠慢学者が解釈すると誤解しか出来ないし、そのまま「風呂に入って小さい出入口から出ようとした瞬間に襲撃された」としか解釈出来ない。
しかし太田資武状の伝承内容を地名として解釈すると至極自然に無理なく、地元の伝承と整合性が高く解釈出来る様に成る。
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
現地の地形と地名を見て見ると、「湯殿入」と言う地名が有り、その先には「虎口(こぐち=小口)」に当たると思われる屈曲した道路が有り、その先は馬攻口へと繋がっている。
太田資武状の湯殿入や小口を「風呂場の話しでは無く地名と解釈」する
  ↓
道灌公は主君の扇谷上杉定正に糟屋館で「風呂にでも入って休め」と言われ、(城外の寝所に定めた洞昌院の塔頭に移動する際に)湯殿入り(側)から( 馬攻口へ城を)出る小口(虎口)で暗殺者に襲撃され絶命した。
…これだと極々、自然な解釈ですし、地形的にも地元の伝承と整合性が高い訳です。
虎口と言うのは城門に敵兵を迎撃する為の射撃施設を設けている場所で、現代のトーチカ(要塞)みたいな構造物ですから、道灌公が虎口に差し掛かった時に弓兵を率いた暗殺者が作戦を実行し易い場所でもある訳です。

4,洞昌院の内規…道灌公絶命の状況を証明する洞昌院だけの伝承と規則。
道灌公は洞昌院の再興者で最大の支援者なのに、山門を閉じて居たばかりにその恩人を死なせてしまった事を忘れない為、以後、洞昌院は平成の現在に至っても「山門を閉めてはいけない」言う規則が有る。
※御寺の規則と、道灌公暗殺の地元の伝承には整合性が有る。もっとも、現在、山門は大正時代の関東大震災で倒壊後は再建されていない。

【洞昌院と、地名で解釈した太田資武状の両方を合わせ暗殺状況を検証】
…両方の伝承を合わせると、伝承内容と地名が完全に合致して詳細な暗殺の状況が解る。
扇谷上杉家糟屋館の暗殺場所推定
太田道灌公は、主君の扇谷上杉定正に呼び出され、糟屋館(城塞)を訪問した。
  ↓
糟屋館の中、今の立原(たちはら=館原)に在った、扇谷上杉家の御殿(ごてん=屋敷)で定正に謁見し、会見が終了した頃に定正から「風呂にでも入って休め」と言われ退去した。
※この御殿が「湯殿(ゆどの)」と当時言われていたのではないだろうか?
※伊勢原市糟谷や七沢や大山は現在でも温泉地で、ここは扇谷上杉家の湯治場であり大山参りの際の宿泊所だったのでは。
※大山は平安時代から既に武士達の信仰を集めた聖地で、参拝者の通る道「大山街道」が関東全土に広がっている程だった。
  ↓
道灌公の寝所は糟屋館の外郭機能を果たした洞昌院の塔頭だったので、「湯殿入」と言う地名の方面を抜け、虎口(こぐち=小口)から城を下り馬攻口から寝所の洞昌院の塔頭(が在った七人塚の北方の竹藪) へ向かおうとした所、城内から攻撃し易い虎口の中で定正の兵に襲撃された
  ↓
道灌公は虎口で既に負傷したが、洞昌院の外に待機している自らの兵と連絡をとり安全を確保する為に、兵権不介入の洞昌院に逃げ込もうとした。
その際に、道灌公の配下武将7人が時間稼ぎをして道灌公を逃がす為に、(当時の)洞昌院の寺域を囲む参道への入口( 今の七人塚辺り)追っ手を迎撃した末、全員討死した
  ↓
道灌公は洞昌院の山門へ辿り付いたが、生憎と門は閉まっており既に瀕死だった道灌公は助けを呼ぶのがやっとだった。気づいた御寺の僧侶が状況も解らないまま山門を開いて道灌公を収容しようとしたが、時既に遅かった。
  ↓
道灌公は死亡の間際、残り少ない命と気力を振り絞り僧侶達に「当方滅亡…」と言葉を残して亡くなった。
  ↓
●道灌公の亡骸は追っ手により首を取られ定正に差し出されてしまった。
道灌公の胴体は直ちに蟠龍山洞昌院公所寺の僧等によって、現在の洞昌院北西にある御廟所で先ず荼毘に伏され(火葬)され葬られた。
※蟠龍山洞昌院公所寺の現住職様によると、同寺は元は臨済宗の宗門だった。後に曹洞宗に改宗している。
道灌公の首級は後に、現在の伊勢原市の下糟屋の糟屋城址や高部屋神社近く、法雨山大慈寺に葬られた。
※道灌公は幼少時、鎌倉に在る臨済宗の本山である建長寺で修行をしたが、法雨山大慈寺は現在も臨済宗。
  ↓
●道灌公の元盟友で後のライバルだった北条早雲公は、現在の伊勢原市一帯を支配下に治めると、道灌公の没後に荒廃し廃寺同然だった蟠龍山洞昌院公所寺の道灌公が荼毘に伏された場所に正式な御廟所を築き、洞昌院を支援し復興させ道灌公の菩提を弔わせた。近くの御霊神社に太田道灌公を御祭神として祀った。
※北条早雲公とその一族の小田原北条家、及び、その配下武将達は必ず曹洞宗の寺院を開基したり再興して支援し、北条家の方針として曹洞宗の禅で修行する家風が有った。
※公所寺の曹洞宗改宗時期は北条早雲公による支援を受けた頃と考えると極て自然。
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ちなみに↑北条早雲公。
関東で優れた善政を布いて庶民からの支持を集め瞬く間に領土を拡大した名君。
早雲公は今川家臣に伊豆の大名時代に道灌公と親交が有り、その後、扇谷上杉家と対立した事から敵対する立場に成りましたが、伊勢原を統治してから洞昌院を復興し道灌公の供養をしたり神社で御祭神として祀っている事から、ライバルであり親友だった事が垣間見えます。

どうでしょうか?
両方の伝承を現地の地図と伝承する古い地名を見ながら解釈すると、合点がいくでしょう?
こうやって、実際に地元に行くと自分が選んで読む本以外にも色んな補足情報を地元の人や関係者の子孫、歴代の住職や宮司様が伝える歴史を知る事が出来るってのが、小生の持論な訳です。

もっとも…
冷やかしで行くクズ、偉人を呼び捨てにする尊敬の念も無い無礼な奴、史跡を破壊する政商や商奴政治家の御用学者は関係者と縁を結べないどころか祟りに遭うでしょうね、神仏の神通力が本当に有るならば。
…まぁ、そんな学者が訪問すれば、宮司様や和尚様や御子孫は直ぐに見破るでしょうし、御縁は結べないどころか叱られて、ソイツの大学は出入禁止に成るでしょうね。

だからね!
歴史好きなら実際に現地を散歩しましょう!
そして自分の地元の神社サンや御寺サンや城址の里山をリフレッシュがてら歩いて説明看板を読んでは如何でしょうか?
意外な発見が有り楽しいかも知れませんよ!

では、次は信長公とお類様の恋愛を書いた記事の続きでお会いしましょう!