横浜市港北区に在る「泉谷寺」と言う谷戸に囲まれた歴史の古い御寺が在ります。

しかし全く明治時代以前の伝統が伝わっておらず個人的にガッカリしました。
雰囲気は、鎌倉時代の名残を感じます。
ここは浄土宗で「中本山」格を与えられ、戦国時代には北条氏綱公…

…江戸時代には徳川家康公の保護を受けた寺院です。

恐らく旧街道が鐘つき堂の裏を通る昔の峠道なのでしょう。
戦国時代には大名達は神仏を大切にしていた事や、昔はどこも開けておらず宿泊地が無かった事から御寺を開き時に宿泊所として利用する傍ら和尚様達に御寺を任せて文化醸成の場として大切にしました。
泉谷寺の総門が「冠木門(かぶきもん)」なのは、この名残なのかなぁ〜と感じます。
この冠木門は殿様の陣屋(じんや=宿泊所)や関所に用いられる門ですからね。
にも関わらず、江戸時代には伝わっていた北条氏綱公の事は現代には伝わらず御堂も全く違う用途で使われていました。

本来の浄土宗は日本古来の神様を大切にされた法然上人の教えを受け継いでおり、京都の総本山知恩院は牛頭天王(インドラ神と素戔嗚尊の神仏習合の象徴)の降臨の神話の聖地に建っています。
だから御隣には旧祇園社、八坂神社が鎮座していますね。


後醍醐天皇と関わりの深い百万遍知恩寺は、浄土宗の日本神話と文化への理解の深さから明治時代まで下鴨神社の別当を務める神宮寺の格式を有していました。
ですから境内には神社も在ります。
別当を務めた下鴨神社ですが…
下鴨神社と言えば天皇家の皇女が歴代の斎王を務められた由緒ある京都最古の御社です。
しかし、残念ながら現在の泉谷寺には、浄土宗のそうした歴史も伝統も日本文化も伝承していなかった…
浄土宗だけでなく、他宗派でも仏教界は日本神話と文化へのリスペクトが有るのにね…
なんか、芸術品は大切にしているみたいです。
泉谷寺では、御寺を開いて下さった先人の大旦那への崇敬は途絶え、開基様の事を余り御存知も無い様だし神仏習合の神様が消えていました…

山門…当時と違う位置に再建されてる。
※礎石の位置で嘗ての門の位置は解る。

涅槃堂…涅槃堂なのに涅槃の御釈迦様は祀られていない。
※火災で焼失後、関係無い仏像を置いているのか?それとも徳川家康公所縁の仏様に御堂を当てがったのか?

観音堂は新編武蔵風土記稿の通り。
でも新編武蔵風土記稿の八幡社の位置は観音堂の横に弁天様と祀られているはずの建物は見当たらない。
御寺の先代家人が八幡社の神様が神仏習合の象徴と知らずに明治時代の国家神道の名称「八幡神」から差別撤去したと思われ…
八幡社の神様は正式名称「八幡大菩薩」と自ら神託で自称した記録が有るのだけどな〜。
その山門の左手に在ったはずの八幡社の傍らには弁天様が祀られていたそうだが…
弁天堂も現存せず(撤去されたか?)
現在では山門左手に名残りらしき池だけが在る。
弁天様は池のほとりに祀られている場合が、北条家所縁の寺社仏閣には多い。

弁財天も正しくは「辯才天」「辨財天」と書く「ただの神」では無く仏教に取り込まれたヒンドゥー教のサラスバディー由来で、日本に伝来すると日本神話の市杵島姫に習合され御祀りされた神仏習合の神様。
日本古来の神様と仏教に組み込まれたインド神話の神様の平和的な融合の象徴なのに弁天堂は撤去、或いは火災後に放置されている様だ。
八幡信仰と辨天信仰は北条家の文化の一環なので、大旦那北条氏綱公と二宮織部丞の時より存在したはず。

いずれにせよ、北条氏綱公と二宮織部丞と言う先人による中興開基以来の伝統は廃れ、大旦那に対するリスペクトも現代には伝わっていないようだ…。

しかし、谷戸を形成する周囲の丘と森が鎌倉時代の雰囲気を境内に残してくれていました。
昔と位置は違いますが山門は朱塗りです。
手水舎には徳川家と関わりの有った事を伝える三つ葉葵紋が刻まれています…
御近所の真言宗三会寺さんや磯子区杉田の臨済宗東漸寺さんも格の高さから三つ葉葵の家紋を与えられています。
横浜市は格式高くかつ、庶民との距離が近い御寺が沢山在るんですね。
…泉谷寺さんは少し庶民との距離を置かれていますが格式高い事には間違い有りません。

鐘楼も丘上に在り良い雰囲気です。
鐘楼の山の下にある石碑…
和歌には水で清めるとか書いて有るから、昔は修験道みたいに池で禊ぎでもしたのでしょうか?
御本堂は木製ではありませんが、立派な規模でした。
扁額は木製かな?

総本山の知恩院が何故「恩」を「知る」と漢文の並びで寺院名にしているか、まず、その事を顧みて欲しいと思いました。
折角、関東の偉大な歴史人物との関わりが有った御寺なので、もう少し御寺の存続に尽力された偉人や旧来の建物の歴史を大切になされたら良いのにと感じました。

では、又、次の記事で!