今日は水曜日
休みは微塵も無駄にしたくない。
4万本の梅林を見に小田原市曽我梅林と、夜間ライトUPする湯河原梅林幕山公園に観梅に行く途中…
天然理心流土曜日に引き続き又々、海老名SAに立ち寄り朝食と昼食まとめて摂る。
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テーブル席から関東の聖地大山が綺麗に見える。
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この三角形が古代の男根崇拝や山岳信仰の象徴であったと同時に、相模湾を航行したり漁をする人々から古来、海上から位置を確認するランドマークとしても重要な山だった。
大山山頂からは縄文時代以来の祭祀場の遺跡が出土している。
平安時代末期には源頼朝公が❝関東総守護❞の異名で呼び、坂東武者達の心の拠り所に成った阿夫利神社と大山寺の在る山自体が御神体の聖地。
今日は海老名SA名物の"海老々々焼き"牛串"牛舌串"…
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なんだかんだ1750円かかった。
普通にそこそこのランチ食べれたな。まぁ…屋台なりに美味しいけど。

曽我梅林に到着。
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昨年初めての来場の際、この規模と富士山を背にした絶景に感動し毎年来るぞと決めた場所。
来る途中まで降ってた俄雨(にわかあめ)も止み、富士山が美人な雪化粧の御姿を現してくださった…
綺麗だなぁ~。手間の可愛らしい梅も、去年と同じ場所で出迎えてくれた。
40,000本の梅は、横浜の殿様の間宮家の分家杉田間宮家の間宮信繁公が横浜市磯子区杉田に植林した今は亡き杉田梅林から曽我に移植され、増やされた。そして、品種改良を経て曽我十郎梅が出来た。
間宮信繁公、北条家の殿様方、皆様の残された文化を感じ生きらて幸せです。
ありがとうございます。

北条家最後の対戦相手の羽柴秀吉が築いた石垣山一夜城に写真撮影の為に移動。
通り道、小田原城下町の蒲鉾(かまぼこ)の名店の山一で❝焼き蒲鉾❞を買った。
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隣には❝ういろう❞の本家本元、その名も室町時代以来、外郎(ういろう)家の血脈を受け継ぐ❝本家本元の御菓子のういろう❞の御店が在る。名古屋のは新幹線開業時に流行った偽物。
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外郎は天皇家や足利義満公、小田原北条家との関わりあいから明治政府に最初の商標登録されている上に、江戸時代にも既に歌舞伎の演目にされている。
もっとも…
京都からも江戸からも遠い朝廷儀礼や武家文化ともかけ離れた現代の某地方の人間には、この外郎家の建物の意味も理解出来ないだろう。だから彼等は平気で嘘を真しやかに流布する。
石垣山一夜城に行く途中に此処に寄ったのは小田原城の総構え外堀の役目を果たしていた、ある川で❝黒曜石❞を採集出来るのを知っていて前々から気に成っていたから、拾えないだろうか?と思いソコに行く為に下道で移動したからだった。
その川とは早川の事。
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川岸には結局降りなかったが、小田原城下へ続く❝日本で最初の用水❞を引いた北条家の内政力が他の大名を圧倒していた事を証明する文化財❝小田原用水❞の遺構を見られた。
左が早川、右の水路が小田原用水遺構。
早川の水を小田原用水に引き込み、小田原城下まで繋ぎ飲み水用の❝上水道❞として利用された。
この用水を模倣して作られたのが江戸城下の玉川上水道だった。
徳川幕府が北条家の統治機構を模倣したのは有名な話しだが、小田原と同じく海に近く飲み水用の井戸の確保に困る江戸で、小田原城下の都市計画も模倣した訳だ。
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早川越しに、秀吉が一夜城を築いた石垣山が見える。

実は石垣山一夜城址、有名パティシエの鎧塚シェフの居城に成っている…
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5年位前に来た時は、まだ無かった。
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ここには綺麗な河津桜が咲いていた。
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その林越しに相模湾を望む。
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鎧塚シェフ、良い場所に御店作られましたね!…奥さんと此処を終の棲家にする御心算だったのかな?
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石垣山一夜城は、実は5つの大陸プレートがぶつかる頂点の真上に在る。つまり箱根山脈の入り口。
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この地域は古来の地名を❝風祭❞と言う。
風祭出身の有名な一族がいる…苗字を❝風魔❞と呼ばれた一族だ。
つまり、この地域が風魔忍者の故地であり、ここが箱根山系と伊豆へ抜ける重要な街道群の起点だった事から風磨忍者の出発点は山間に関所を築いて通行料を取る山間の豪族だった事も容易に想像がつく。
感覚的には海を支配し通行税を採取した瀬戸内海の村上水軍みたいな物だろうか?
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石垣山一夜城は、江戸時代の富士山噴火の際の大震災や大正時代の関東大震災で石垣の大半が崩落したが、それでもまだ主要部分の曲輪(くるわ)群の形状は状態良く保存されている。
特に❝栄螺(さざえ)井戸❞の名で呼ばれた飲み水確保の為の井戸曲輪。
飲み水の不足した旧織田政権の秀吉連合軍は小田原城の北条家に対して、自軍の水不足を悟らせない様に米を水の様に馬にかけて馬体を洗う素振(そぶ)りをして水が大量に有る虚偽のアピールをした何てエピソードも有る。
遠くにいる人間から見ると、水を流す様に桶(おけ)からブチマケルと遠目に水と錯覚してしまうそうだ。
このアピールは戦国時代に籠城側が良く攻囲側に行ったと話に聞くが、攻囲側が行った話は少ない。
北条家も結束してあと数ヵ月持ちこたえれば、秀吉連合軍は糧秣不足に成り勝てた見込みが有ったとか無かったとか…❝IF❞は考えても仕方がない。
石垣山一夜城は又、いずれ別記事で紹介する心算(つもり)。

まぁまぁ、有意義な1日だった。