※休日雑記なので、今回書く小松城・津久井城は又改めて解説記事に書きます。

相模原市 本沢梅園に梅を見に来た。
見頃だった。

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規模は数百本と言う所か。
でも谷間に沢山頑張って梅さん咲いていて可愛かった。
この本沢梅園のある山の山頂、そこに在る金毘羅宮は神奈川県民の貴重な水源でもある。
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その境内にある神社は相模川に注ぐ水源の一つであり、旱魃(かんばつ)に遭った年も水が枯れず、昔は雨乞い神事が行われたそうだ。
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余談だけれども、高部屋神社の記事でも少し説明したけれど、明治以降に神仏習合文化を弾圧した国家神道と言う150年しか無い宗教観では、この神社の本来の御祭神である金刀比羅(こんぴら=クンピーラ)には現在は大物主(おおものぬし)大神が習合されている。
他人の家に住まされる様な事で、大物主の神様にとっても迷惑な話だと思う。自分だったら絶対に!嫌だね。
しかも、ほとんどの神社は神仏習合の価値観で生きていた歴代天皇や貴族や武将や農民によって、その明治時代以前の価値観で神仏平等に祀られたり御社が建てられている訳だ。
クンピーラはサンスクリット語で、本来はインド神話に登場するガンジス河のワニの神様で中国経由で日本に入ると中国では竜神が水神様として信仰されていたので、日本でも竜神とされた。
金毘羅様自体は仏教に取り込まれて、さも仏教の仏と誤解されがちだが仏教の守護神の一つと言う形で仏教に取り込まれたのであって、そもそもは日本の神様2600年強の歴史、ほぼ同時期の仏教開祖のゴーダマシッダルタ=釈尊の歴史よりも古い神様と言うのが実情。
日本人の自然を大切にする風習が、このインドから来た神様も平等に日本の神様として受け入れ大切にさせてきた訳だ。インド人と日本人が仲良く出来るのは、日本の神社や御寺にも知らず知らずに多くのインドの神様が融和し祀られ崇拝されているので、無意識に魂レベルで結びつきが有る…なんて事も有るかも知れない。
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すぐ近くの小松城跡に登った。...
城主は長井氏、平安末期の武将で恐らく岐阜県の長井家の祖先。
この一帯は平安末期に源頼朝公の御父君源左馬助義朝公と、長兄の悪源太義平公に攻められ敗死した源義賢公の支配地だった。
源義賢公の遺児が旭将軍木曽義仲。
同じく西日本に逃げた武将に名将斉藤実盛公がおり、斉藤家も又、岐阜の名族として戦国時代まで存続し明智光秀の家老斉藤利三等を排出した。
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小松城跡は真言宗寶泉寺の境内を含めた周辺の山林に城域が及ぶ。現在の境内は恐らく往時は館が在った場所だろう。
空堀、土塁、櫓台の遺構を見てとれた。
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平安末期築城の伝承通り、自然地形を利用し尾根の両端を削り込み崖地にした切岸、尾根を寸断し通行不可能にする堀切は明確に残存していた。

久しぶりに某ファミレスで昼食。・・・正直不味い。
ファミレスはダメだな。
途中の釜飯屋に入れば良かったな。

その後、小田原北条家津久井衆大将の内藤綱秀公居城、津久井城に登城した。
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途中、津久井湖の観光案内所に立ち寄り、津久井城の縄張り図の載ったパンフレットを入手し、帰りに買う相模原御土産を物色した…
津久井城には城主や家臣団の武家屋敷が在った根古屋(ねこや=武家屋敷街)地区から登城した。
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その地区には城下の鎮守だった諏訪神社が在る。
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横浜市の磯子区杉田の妙法寺の神奈川県の銘木100選のビャクシン以来、久々の神奈川の銘木100選。
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推定樹齢からして戦国時代の頃から、この地の民百姓を津久井城址と一緒に見守って来た根小屋諏訪神社の杉の御神木。
こちらの根古屋地区から登城すると公営駐車場や津久井城関連の資料展示室みたいな場所も在る。
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津久井城は本多忠勝等徳川軍の大軍に攻められ落城したが、それ以前の武田信玄の攻城は凌ぎきった名山城だ。

北条家重臣 内藤綱秀公の居城 津久井城。
津久井衆の拠点だった山城。
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山城としては中規模かな?
山上の要害部は連郭式の山城。麓にも根古屋地区の武家屋敷跡は曲輪群の体を成していて、山上と麓とは別構造と考えると良いと思う。関東なら八王子城、西日本なら鳥取城に似てるのかな?
印象として、車(くるわ)坂から登ると、まぁまぁの登山。足場も不安定で要注意!
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山上の地質は岩盤が多く土にも覆われている、岩を切り出して曲輪を造成したり登城経路を整備した様だ。
つまり、津久井城は戦国時代初期には珍しい石垣山城だった訳だ。
今では草木(そうぼく)に覆われ、石垣の崩落も激しい。
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頂上本丸や飯綱曲輪からの眺望は良かった。
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横浜のランドマークタワーとインターコンチネンタルホテルが遠望出来た。
麓の根古屋地区の観光案内所みたいな施設は、津久井城の復元縄張り図や展示品も豊富で城好きには良い場所だと思う。
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この地域の方々は過疎化に悩みながらも郷土愛が御強く、地元の文化や歴史を大切にしておられる。
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この津久井の方々は、現在も小田原城下で開かれる日本最大級の武者行列の御祭❝北条五代祭❞にも参加していらっしゃって、往時の津久井衆の雄姿を多くの歴史好きの前で披露して下さっている。
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10年後にリニアが開通し人口が増えだしたら、武田家を数度退けた名城津久井城と、この内藤綱秀公の武勇が再び顕彰されるだろう。
その時には、きっとこの山城は新市民の皆様にも愛される自然公園に成るだろう。
開発利権と密接な横浜市教育委員会と林文子横浜市長は現在進行形で多くの文化史跡歴史史跡を破壊容認しています。
旧津久井町の教育委員会の皆さん、そして現在の相模原市教育委員会の皆様、あなた方は素晴らしい事をされています。神奈川の歴史文化を守って下さってありがとうございます。