現代の日本語は漢字の影響を受け過ぎた上に奈良時代の貴族のせいで朝鮮訛りの発音で間違った音読みだらけ、しかも、GHQの方針で文語は使われなくなり平仮名多用の低レベルな口語に成ってしまった。
更に日本人自体の国語力が団塊世代から著しく低下し❝音しか表現できない平仮名❞を使わないとビジネス文書を読めない人間に合わせないといけない社会に成ってしまった。
だから明治時代の山手言葉の衰退による国語力の低下~戦後GHQの指示による国語力の低下を経て、現在ではビジネス用語はおろか、宮司様や和尚様ですら古代語の意味を解らなくなってしまっている。

たとえば…
現代日本語で言う所の「坂」は、本当は「下り坂」って意味しかないらしい。
現代語の「坂」は「上り下り両方の意味」で混同され言葉として劣化してしまっている。
本来の上り坂は古代は「ひら」と言ったそうな。
つまり…
古事記や日本書紀の黄泉平坂ってのは、暗いトンネルみたいな物を連想させる現代人の書いた挿絵は大きな間違いで、”上り下りの有る場所”=”峠道”って事に成るわな。
アイヌ語では、首都の事を「かい」と言ったそうな…
これは甲斐国=山梨県が古代の東日本アイヌ民族=縄文民族の首都だった場所って事だろう。
山梨県に在る日本三大奇橋の一つ”猿橋”は現地伝承ではそもそも最初に「外国人が架橋した」と伝わっている。

近畿地方の伊勢神道と異なる価値観を持っていた明治時代以前の山陰地方や関東地方の古い神社、代表例を挙げれば関東では「鷲宮神社」「大山阿夫利神社」「杉山神社」なんかの伝承は全て出雲系の神様が関東を開拓した伝承に成っている。
つまり、関東を開拓したのは素戔嗚尊系統の神様や御神孫で、その一族が縄文人に弥生文化を広め、更に後に日本武尊が東征してきて弥生時代に古墳時代の青銅器製造や鉄器製造を広めたって事になるのかな。
素戔嗚尊と奇稲田姫ご夫妻が開かれた国が「須賀国」と伝承する。
その須賀の地名は関東、それも平安時代に親王赴任国家だった”ふさ国”=房/総国=上総下総安房国を中心に周辺関東地域に多く残る。
この❝総(ふさ)❞は、日本語の古語発音では❝ふ❞と❝う❞の発音表記は曖昧だったので❝宇佐(うさ)❞と同じ発音だったはずだ。
つまり、宇佐国=海神の国だった訳だ。
宇佐神宮は平安時代に京都の男山の石清水八幡宮に八幡大菩薩(誉田別尊=応神天皇)の御霊が遷座されるまで、宇佐八幡宮と呼ばれ素戔嗚尊を祀る神社と同じく水神様として御神威により地域を御加護されていた。
とどのつまり、いつの時代か治水の神様は素戔嗚命から八幡大菩薩に役割が移った訳だ。だから神話を地名に残す須賀国も総国/房国(うさこく)に改名されたのだろう。
素戔嗚尊は最初に海を統治する様に命令された神話の通り、当初は軍神であり水神様だった。
何で親王赴任国家だったか、その土地の重要性は既に、関東の神話の信憑性を示している。
そして、その土地には曽我/蘇我の地名も多く残る。
蘇我(そが)の”そ”は”す”と呼んでいたはずだ。
華語文化圏では今でも”蘇”は”す”と読む。
日本の現在の漢字は古代と異なり朝鮮訛りの読み方に”毒されている”ので、”蘇をすと読まれると不都合”な連中が朝廷を乗っ取ってから読み方を変えさせられた臭さは今でも匂うが、歴史は勝者が自由に書き残すので文書の証拠は残らない。
蘇我氏は素戔嗚尊に通じる、日本で最初に軍事行動を行い都鄙を開拓し農耕を定着させた一族の可能性すら有るかも知れない。
台湾や中国大陸の呉越辺りから、つまり朝鮮経由では無く直接大陸の農耕文化を持ち込んだ一族なんじゃないかと思う形跡が大いに残っている。
蘇我氏の古墳は、藤原氏の朝鮮式円墳の其れより古い、秦の始皇帝や呉王闔閭の古墳と同じ方形墳墓だ。
そして関東の弥生時代の遺跡の墳墓は悉く方形周溝墓と言う事実は、この推測を補強してくれる。
大阪市羽曳野市の❝朝鮮文化の円墳❞に葬られている藤原の家祖の藤原鎌足は元々は名を中臣鎌足と言った…
現代では中臣(なかとみ)と呼ばれ、彼の苗字と誤認されがちなこの❝中臣❞は苗字ですらない。
元々は古代の官位だったはずだ。昔は中臣(なかつおみ)とか言われたはずだ。
現代は漢字の読み方から変えさせられている。
つまり藤原は奈良時代まで苗字すら無かった一族、外来種な訳だ。
大和朝廷に従属した百済王の一族と言う説が有るが、実際にその可能性は否定出来ないかも知れない…墳墓が物語っている。
では、何故、彼等の家が中臣をさも苗字の様に粉飾する必要が有ったか…!
それは彼らの行った最初の悪事に起因していると思う。
実は彼等が最初に暗殺した偉人、墳墓の形状からして朝鮮の百済より早く大陸から稲作を齎したかも知れない蘇我稲目や蘇我馬子の蘇我氏は、実は❝蘇我だけが苗字では無い❞事を藤原史観の国家神道では全く正しい彼等の家の本来の苗字を伝えていない!
実は、蘇我馬子の名前を例にとると…
彼等の苗字は正しくは❝蘇我島-大臣-馬子❞だ。つまり、中臣氏を後に僭称した元々苗字すらなかった一族より上の大臣を歴代ついだ由緒有る家系だったと言う事に成る。
小生は更に言う…
蘇我は恐らく先述の通り❝蘇我(スガ)❞と呼んだはずだ。鹿島神宮は古代は鹿島と書いて鹿島(しかのしま)と書いた。
実はこの鹿島(しかのしま)と同じ発音の場所が九州北部に在る。志賀島だ。❝漢(かんの)委奴(いと)国王の金印❞の出土地だ。間違う事無き聖地だ。
この聖地志賀島には❝志賀海神社❞が在る。
糸島(いとしま)から近いので、金印も地名だとしたら委奴(いと)国王と呼ぶ説の方が自然だろう。
漢文として読み下せば帝国の皇帝が統治を任する(野蛮:当時の日本は未開地)の

帝国の皇帝が統治を任する(な)の
・・・と読むのが自然だろう。
この神社の御祭神は現在では綿津見(おおわだつみ)三神が祀られるが、藤原氏の登場以前は主祭神は安積磯武良(あずみのいそたける)神/五十猛だった。
素戔嗚尊同様に疫神としての性格を持ちながら、それ故に疱瘡(ほうそう)治病の神でもあった。そして素戔嗚尊の子であったので水神としての性格も継承していた事だろう。
それが何故か、綿津見三神に替えられた。
変えなければいけない理由が有ったはずだ…
変えさせた時代の政治家に。
この志賀島の志賀は古代は志賀(スガ)と音読み表記されたはずだ。❝華語❞の漢字発音で❝志❞は❝志(ジィ/ズィ)❞の発音を合わせた日本語に無い発音をするので平仮名に濁点の無かった時代、日本語発音表記が出来なかったはずで「ズィとジィ」は方言でも影響を受けたはずだ。
そして、この志賀島を古代語の発音で読むと…志賀島(そがのしま)と成る訳だ。
つまり、蘇我島大臣馬子の家系、蘇我島大臣家の出自に見当が付く訳だ。
彼らが大臣に成り得たのは、委奴(糸)国王に連なる家系で弥生時代❝邪馬台国❞以前からの古代大王=天皇家の功臣或いは有力従属者の家系だったんだろう。
紀元前から中国大陸と交易し稲作や青銅器やガラス製品の生産技術を先んじて導入し、日本創成に貢献した一族なんだろう。
その時代は正に素戔嗚尊や五十猛神の時代に当たる筈だ。前漢は西暦紀元前300年から始まる。
昨今、古代専門の考古学者の発掘により稲作も其の頃まで開始時期が繰り上げられる事実が証明されている。
蘇我(そが)家は本来、蘇我島(すがのしま)家だった可能性が、ここに成立する訳だ。
そして蘇我島大臣家の孫、蘇我入鹿(そがのいるか)の入鹿(いるか)は本来は入鹿と書いて入鹿(いかるが)=斑鳩(いかるが)と読ませていたんじゃないのかと推測する。
…現代、実在しないとされる聖徳太子は本当に実在しなかったはずだ。但し、元に成ったモデルの人物はいたが、その人物の功績を後の権力者の家系が認めれない不都合が有ったので❝聖徳太子❞として粉飾したのだろう。当然、聖徳太子は実在しない。別の人物なのだから。
そこ等辺りが直後の山背大兄王のや蘇我入鹿が暗殺されて行く❝記録の多数の矛盾❞の原因でもありそうだ。
まぁ、歴史は勝者が好きに書き換える。同じく漢字導入直後の当時は読み方すら好きに決めれた訳だ。
しかし、出雲大社には素鵞(すが)と書いて素鵞(そが)と読む社が本殿の更に裏に現存する。
…蘇我家の出自ずばりなんじゃなかろうか?
素戔嗚尊は、朝鮮半島に渡ったのち帰国し出雲に入ったそうだ。これはつまり、朝鮮半島に北伐したと言う事じゃないだろうか?事実、中国の三国志の時代には既に朝鮮南部は倭人の国だった記録が残る。
素戔嗚の戔(さ)の字は、本来は我(が)の字だったのを後に書き換えさせられたんじゃないのか?嗚(お)と読まされている字は、古来日本では鳴(おう)と書いたはずだ…
素戔嗚尊(すさのおのみこと)と現代読まされる、この神様の御名前は本来、素戔嗚(すがのおう)=須賀王だったんじゃなかろうか?
つまり御自身が奇稲田姫命と建国された国の名前だ。
だから所縁の有る出身地伊都(糸)国の志賀島に須賀(すが)同じ意味の志賀(しか)の字が残り、この家系が開拓した地域に須賀・志賀・志賀島・鹿島・香取・諏訪の似た寺や発音の地名、そして一族の素戔嗚尊に連なる可能性の有る安積氏族の所縁の地域に、安積の地名も残るのだろう。
安積(あづみ)は古代は安住(あずみ)と同じ発音で読まれたのかも知れない。そうなると安積の意味は安住(あずみ)=安住の地=住吉(すみよし)に繋がり、やはり海の神様に繋がって行く…
古代語を紐解くと、いろいろな粉飾された物が純化されて繋がって行き、国家神道以前の古社の神話が全て繋がって行く。
藤原家の貴族は多くの天皇を暗殺して来た悪の家系だ。
藤原という天皇を軽視する一族の登場の頃からだろうか?
御親政を行おうとした天皇とその皇族は、ことごとく不審死を遂げる。
武烈天皇・継体天皇・安閑天皇・橘奈良麻呂公・天智天皇・大友皇子・大津皇子・清和天皇・菅原道真公・醍醐天皇等々…
見る人が見れば即判るが、全て古豪の名跡を復古したり藤原に毒された政権を取り戻し浄化し様とされた方々ばかりな訳だ。
恐らく、鹿島神宮は最初は主祭神は武御雷神では無かった筈だ。あそこには藤原氏登場以前は素戔嗚尊とか、その王子の五十猛/磯武良(いそたける)神が祀られていた筈だ。
日本武尊の実像は不明とされるが、走水神社の伝承では西暦100年前後に生きていた神様(の元に成った人)。
丁度、古墳時代に突入する直前頃の人物がモデルか神号を贈られた人物と言う事になる。
走水神社の奥宮には須賀社が有る。日本武尊が御祀りしていたそうだ。
…つまり、日本武尊は素戔嗚尊より後の人物で守護神として素戔嗚尊を祀る様な時代に生きていたと言う事に成る。

走水神社の奥宮には須賀社に並んで諏訪社、神明社も有る。
須賀社=素戔嗚尊と奇稲田姫命、諏訪社=建御名方神、神明社=天照大神…
これらの神様を平等に御祀りする家系は、正に建御名方神から信濃国の領地を割譲された素戔嗚尊の御神孫と言う事に成るんじゃないだろうか?でなければ、この3社4柱の神様を祀る謂れが説明つかない。
神職の方や僧侶の方は古代日本語やサンスクリット語や漢文と華語の発音を勉強した方が良いだろう。
良く分からずに誰かが翻訳した解説だけ読んでステレオタイプで詠唱している御経も漢字本来の意味が解ると意味が解ると思う。
その上で最低限、自分の赴任している神社仏閣の存続に尽力した先人を把握した上で、最低限風土記稿位も読んでおくべきだと思う。
もっとも、仏教経典に関しては既に中国語に翻訳されている段階で中国人の主観が大分入ってしまっていて恐らく印度人の御釈迦様達が行ったサンスクリット語の原文とは違う意味に成っているのだろうし、真言も実際サンスクリット語とだいぶん違う発音の漢字をあてがわれてしまっていたり簡略化されていて全く違う減刑の無い当て字に成っている物もある。けれど、それでも現代人の日本語フィルターで意味が解らなくなっているものより正確に解ると思う。
そうすると意味の解らない文章の意味が脳内で神話と神話を連結する要素に成るし、変な点にも気が付けると思う。

例えば古事記を江戸時代に翻訳した結果、明らかに間違っている部分もある。
弟橘姫が走水で入水し人柱に成った際に呼んだ「さねさし佐賀牟~」の「さねさし」は枕詞とか無理やり本居宣長はこじつけているけれど「さねさし」の解釈は出来ていない。
漢字文化流入以前に神話の時代の人が和歌を詠んだかも根本的に謎だ。
本当は「和歌」と無理やり解釈した音読みの漢字を当て字にした現在では見る事の出来ない原文は、本居信長が区切った部分の前にも別の文字が在ったわけで、江戸時代の日本語で考えず古代の日本語で読めば分かった事も沢山あったはずなんだな。
恐らく「さねさし」は古語読みに漢字を当てはめるならば「真(さね)狭(さし)」となるはずだ…
そして正しくは「さねさし佐賀牟」は「~まこと、狭き、佐賀牟国の~」だったのかも知れない。和歌ではなく普通の一文だったかも知れない。

こんな風に間違って解釈をされている可能性が有る部分は他にも大量に有るはずなのだけれど…
現在ではどういうわけか、本居宣長達の世代までが読んでいた古事記の原文は見られない。
「勉強」の様に本来は無理をすると言う意味を学習と間違えられて伝えられた言葉や、音だけ間違って伝わって意味は残った「ちんぷんかんぷん」=聴不懂看不懂(てぃんぶどんかんぶどん)の様に正しい意味が解ったり、元の言葉が解ったりする。
そもそも、多くの神話解説が「さがむ」=「相模」としている事が既に誤りであって、相模国と武蔵国が成立するのは歴史の空白時代の西暦500年前後、獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)=大泊瀬幼武尊(わかはつせわかたけるのみこと)の銘文の彫られた鉄剣が埼玉県の稲荷山古墳に副葬された頃な訳で、この頃が相模国の成立時期だから、日本武尊神話との整合性が無い。

それもと日本武尊の現在では神号と解釈されている名称では無く、まだ官職の存在しなかった古代の征夷大将軍の様な尊称的な呼び名と考えれば、日本武尊が数百年ずれても複数人いたはずだから無理も無く解釈出来る様になる。
その仮説を説明してくれるのが、日本武尊の妃神の弟橘姫様の川崎市高津区子母口にある弟橘神社の存在だろうか…
弥生時代までの関東地方は方形周溝墓が主流なのに、弟橘姫の古墳は巨大円墳…朝鮮半島と交易を始めた後の時代の古墳時代の様神だった訳だ。
神社の本殿が実は神の在所では無く、神社は遥拝所で背後の宅地化されてしまった古墳が御神体そのものだった。
西暦100年頃の関東に円墳は有るはずが無い。
有るのは方形周溝墓。

つまり、走水が舞台の神話に残った日本武尊と弟橘姫様は、古墳時代か其の直前の神様と言う事に成る。
それならばやはり日本武尊は複数人存在した大将軍設置前の尊称で、複数人の先人の偉業が一人の神格として習合されて伝承したのだろう。
…或いは神話の文章化を目指した時点で日本武尊として複数人の偉人の功績を粉飾し、その偉人の家系の偉業を認めたく無かった人物が朝廷の権力者だったかだ。
神話解釈を伊勢神道を規範にしたかった明治時代の国家神道にとって関東を開拓したのが出雲系の御神孫と伝える神社や素戔嗚尊や磯武良/五十猛(いそたける)、日本武尊と弟橘姫の神社はを祀る神社の存在は不都合だったので、神主不在にされたのだろうか?
今では解らない事も多い日本語の古代語だけれど、学校で「古文」の授業で「腐れ儒教」なんか勉強させるより、古語でも復興させて勉強させたらどうなんだろう?
明治政府は正しいことを多く残し、そして日本を強国に育て上げ、ロシア帝国の植民地政策から日本を守って下さった。
但し、英米独国の協力が有って初めて成し得た事で有る事も忘れてはいけない。
そして、山岡鉄舟公や伊藤博文公や東郷平八郎元帥達が、神仏習合の古来の天皇家が守って来た文化や関東や出雲系の神社の歴史を顕彰された事実も忘れてはいけないと思う。
東京の八王子神社、走水神社の奥宮や川崎の橘樹神社、埼玉の鷲宮神社や氷川神社、神奈川の大山阿夫利神社、高部屋神社、比々多神社、杉山神社、牛頭天王社、浦島太郎の神話を関東人は大切にするべきだと思う。
…そこには粉飾されて尚、藤原家に消された先人の偉業がパズルの断片の様に隠れ残っているはずだから。