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・・・この記事の続き。
今年(2016年)の正月3日、明治時代に新道が開通するまで、江戸からの参拝客でごったがえした強い御利益を持つ、それはそれは古い歴史を持つ高部屋神社に御参りに行ってきました。
この高部屋神社のある丘陵が、数十年前まで完璧な城址として残存していた“丸山城”、昔の名を“糟屋(かすや)城”“千鳥ヵ城と呼ばれた平安時代末期~戦国時代中期の御城の跡なんですね。
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丸山城址公園
現在は周辺の宅地化と国道246号線の建設で城址主要部分と高部屋神社は寸断されてしまっています。
ですから丸山城址公園へは高部屋神社から歩道橋を渡って行くか、住宅街の中の上の石碑が有る場所から入る事に成ります…
と、その前に!
少し高部屋神社付近の様子を衛星写真と航空写真で見てみましょう!
現在の高部屋神社周辺です…
糟屋城の現在
宅地化されてしまって、どこがどう城址なのだか、全体像が判り難(にく)く成ってしまっています。
では少し前、昭和52年頃の様子を見てみましょう…
糟屋城カラー
ふむ!これを見ると良く城址の規模が判る!
先に見たGoogle Earthの衛星写真で高部屋神社と糟屋城主要部分の位置を確認して見て下さい。
現在では糟屋城は城址公園部分の半円形の部分しか有りませんが、この1977年の衛星写真を見ると、城址を取り囲む空堀(昔は水掘りか?)が丘陵の東端まで繋がっており、南側は川が外堀の役割を果たしている大分と東西に延びた大きい城址の地形が残存していた事が解りますね!
因みに、この一帯は米軍が終戦直後1946年に撮影した写真も有ります。
糟屋城白黒
この写真だとよりシンプルに道が解りますね!
高部屋神社の記事を書いた時に少し触れましたが、実は神社の前の道が大山街道と呼ばれる旧街道でして、江戸時代は大山詣(もうで)で大山山頂を目指す江戸からの観光客が絶えなかったそうです。
糟屋宿
今でも江戸時代の名残が有りまして、高部屋神社の前の大山街道の古道沿いには旧糟屋宿、つまり大山街道の宿場町だった糟屋宿だった範囲が判るバス停の名前として残っています。
“糟屋上宿”と“糟屋下宿”ですね!
この上下の間の距離は300m程です。この300mの範囲に昔は旅籠(はたご=りょかん)や料理屋が数十軒並んで賑わったんでしょうね~!
さて、何故(なぜ)、この大山街道の話をしたかと言いますと…
江戸時代以前の御城は町を守る為の物では無く、街道を抑えて敵の侵入を阻害し防衛する場所に築城(ちくじょう=御城を建てる事)されたんですねぇ~。
現代人の感覚だと、町を守らない城とか聞くと歴史に興味の無い人は「え?町を守らないのに城なの?」と思うでしょうね。
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でも良く考えて下さい…
江戸時代以前には、根本的に商業都市なんて日本中探してもほとんど無かったんですよ?
だって戦国時代は、庶民の買物はまだまだ物々交換が主流の時代でしたし、商業経済中心の社会では無く農業主体の社会だったんですね。
つまり、守るのは町では無くて領地全体の農地だった訳です。ですから根本的に敵の侵入を防ぐ位置に御城は作られた訳です。
先程説明した通り、この糟屋城の一部にある高部屋神社の前が旧街道です。
戦時には街道の城内部分の門を閉じてしまえば、敵軍の進行を防げますね。
つまり、糟屋城は典型的な昔の御城だった訳ですね。
ついでに言いますと、この御城を築城した最初の城主は糟屋(かすや)藤太郎(とうたろう)有季(ありすえ)公と言う鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の配下武将で、命令遂行能力の高い方でした。しかし、頼朝公亡き後、幕府を乗っ取った北条家と対立し有季公は二代将軍の源頼家公の遺児一幡を逃がそうと奮戦して討ち死にしました。
その一族は京都に逃れ、没落するのですが…
戦国時代にはこの糟屋城は小田原北条家の領土に成ると、その北条家臣の中に糟屋藤十郎と言う名前の武将が存在しています。
彼の苗字の「糟屋」と名前の「“藤”十郎」から、間違いなく糟屋有季公の御子孫でしょう。
推測ですが、鎌倉時代に北条家と対立し降伏した子孫が、勢力は縮小したまま土着して命脈を保っていたか…
京都に移住した子孫が北条早雲公に仕えて共に関東に下向し、祖先の故地を与えられたか…
そのいずれかでしょうか?
北条家の領地支配は大義名分を得る為に、その土地を嘗(かつ)て支配した武将の子孫に領地を支配させて、北条家の領土統治の正当性を示す傾向が有りました。
その代表例が現在の川崎駅一帯の堀之内に在った城塞を拠点にしていた間宮家、それと小机城代だった笠原家の例ですね。
笠原家は祖先がまだ相模国と武蔵国が分裂する前の佐賀牟(さがむ)国国司だった家系の子孫で、その子孫の支配地域と思しき地名が小机なので笠原家を小机に置く事で、北条家の支配の正当性を示したのでしょう。
川崎駅周辺は、鎌倉時代に源頼朝公の重臣の佐々木高綱(たかつな)公の城館が在った場所なので、高綱公の親族の佐々木行定(ゆきさだ)公の子孫に当たる間宮家に川崎駅周辺の支配を委ねたのでしょう。
さて、何で古い城は街道沿いに御城を造ったかが解った所で、丸山城址公園の説明に戻ります。
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この丸山城址公園は、平安時代築城の後、室町時代に扇谷上杉家の支配の後に北条家の支城だったので関東流の特殊な築城術がいくつも盛り込まれていました。
その代表例が上の写真の空堀を障子(しょうじ)の様に区切った“障子掘り”ですね。
障子掘りは小田原北条家特有の施設です。他の大名の城には見られず、唯一北条家以外では北条家の小田原城を攻略出来なかった経験を持つ豊臣秀吉が自分の大坂城建設の時に総掘りに、この北条家の障子掘りの技術を導入していました。
そして下の写真は横矢(よこや)と言って、城壁を登ろうとする敵を横から射殺する事が出来る形状の施設の跡の“出構え”部分です。
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この構造を有する城は関東以外には余り有りません。
甲斐武田家終焉の城、新府城には同じ施設が有りました。
新府城
新府城の縄張り図では上の東堀に同じ構造が見られます。
丸山城址にも、この構造が少しだけ保存されています。コレ↓ね。
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この横矢のかかる出構え部分の下、現在の遊歩道部分は昔は空堀でした。
この空堀部分の上、一段高い所にも少しだけ城跡が保存されていて、説明の看板も有ります。
芝生の公園で、目立たずに見落としがちですが…
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ちゃんと下の写真の様に土塁が一部分ですが保存されています。
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そして、素人でも解る様に、発掘調査に基づいた推定形状も丁寧に解説の看板が立っています。
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う~ん伊勢原市教育委員会、素晴らしい仕事をなさってますな~♪
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こんな感じで、現存部分は極めて狭い範囲ですが、丁寧な説明看板が有り城址公園として整備されていながら、城址公園の上の部分は子供が自由に遊べる広場に成っていて、公園施設と歴史遺跡保存の両立が上手くなされています。
横浜市も城址破壊したり、山をわざわざ削って公園作らないで、城址公園整備による公園確保と史跡保存の両立を見習ってほしいと思いました。
因(ちな)みに近くには、戦国時代関東最高の軍師、太田道灌公の首塚も有ります。

さて、短い記事では有りますが如何でしたでしょうか?
きっと調べれば皆さんの家の近くにも、平安時代~戦国時代の武将達が居た御城の跡が有るはずです。
少し調べて気分転換の御散歩に城址散策して見ませんか?
散歩ししながら先人に思いを馳せると言うのも中々楽しいものですよ!

では!また、次の記事で御会いしましょう!