実は、神奈川県には日本の歴史上最長の4年間もの長期間に及んで継続包囲された城、つまり防御力に優れた堅城が存在した事を知る人は歴史オタク以外には現代では余りいません。
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その名も新井城です。
そして、この新井城は戦国時代の幕開けに関与した佐原三浦家の御城なのですが、その佐原三浦家の事と戦国時代が如何にして始まったかも学校では教えないの根本的に三浦家が戦国時代まで存続していて大名だった事すら知らない人が多いのですが…

神奈川県と東京都と埼玉県と千葉県

…この地域が戦国時代の始まりの地域である事を御存知の方は全国的には少ないと思います。
更に言えば、鎌倉市浄明寺地区が戦国時代の幕開けと成った永享の乱の舞台で有る事を知る神奈川県民も非常に少ないのが現実です。
そこで、新井城の風景写真を見る前に、先ずは当時の歴史状況を解説したいと思います。
足利持氏邸古址周辺 久良岐のよし
この戦国時代の幕開けに始終関与したのは鎌倉の将軍=鎌倉公方と、その鎌倉公方と対立したり支持したり離合集散を繰り返した2家の大大名と1家の大名です。
それが…

鎌倉公方足利持氏→鎌倉(古河)公方足利成氏。
二つ両引き
足利家の二つ両引き紋

山内上杉家:今の埼玉県北部~群馬県~新潟県の大名達を支配した室町幕府(京都の征夷大将軍)の直臣。
扇谷上杉家:今の神奈川県~東京都~埼玉県の大名達を支配した鎌倉府(関東東北を治める将軍)の直臣。
竹に雀紋
上杉家の竹に雀紋

三浦家:今の神奈川県中部~三浦半島が所領の大名で平安時代以来の古豪。
三つ引き両紋
三浦家の三つ両引き紋

…以上の大名達の政権争いに鎌倉公方の室町幕府将軍への反抗心が大規模な戦乱に繋がり、そこに室町幕府の将軍に成る権利をクジ引きで引き当てた足利義教と駿河今川家の介入が加わった事で、今度は関東の武士団が反上杉独裁体制で蜂起し鎌倉公方足利持氏公に加担し、戦国時代の幕開けと成りました。
この政治的要因の舞台が鎌倉に在った事の他に、戦国時代が始まる切っ掛けは日本産の銀相場の世界での暴落、地球規模で気候が小氷河期の様に成り作物が取れなかった事も関係が有りました。
つまり纏めると…
戦国時代は、以下の様にして起き段々と西日本へと波及して行きました。
小氷河期で作物が取れず政治が乱れていた時に、足利幕府征夷大将軍4代目の足利義持公の急死で、くじ引きで将軍に成った足利義教への諸大名の不支持。それに因(よ)る鎌倉公方足利持氏と征夷大将軍の対立。
征夷大将軍と鎌倉公方をそれぞれ支持する大名同士の対立。
銀相場の下落が、貨幣価値の混乱を招き、庶民が土蔵(両替商や金貸し)を襲った❝嘉吉の土一揆❞や、応仁の乱の京都市街戦で関西中部中国地方の武士による京都の商人や寺院への略奪で、経済の疲弊した馬借(陸運の物流商人)や寺院と庶民が権利回復の為に連合して起こした❝山城国一揆❞等に繋がって行きます。
三浦家勢力 久良岐のよし
※地図上の城は大まかに有名な場所だけ表示。
そんな戦国時代に最も早く入り、領土争いを繰り広げたのが伊豆の伊勢家(後の北条氏)と、現在の伊勢原市~三浦半島辺りまで支配していた三浦家の抗争です。
この抗争の発端は、古河公方と今川家の外交戦略によって起きました。
今川家と今川家臣だった北条(当時の姓は伊勢)家は、永享の乱で室町幕府に滅ぼされた鎌倉府公方足利持氏公の遺児で古河公方と成り、今の埼玉県の久喜市栗橋に在った栗橋城や古河城に居た足利成氏公を支持していました。
永享の乱については以前、榎下城の紹介記事にも少し書いています。
※永享の御興味有る方は「ココ」←クリックして榎下城の記事を御覧下さい。
鎌倉公方足利持氏公は切腹させられたものの、遺児の成氏公は後に幕府の8代将軍足利義政公により承認され鎌倉公方に成りました。しかし、御父君を切腹に追い詰めた関東管領上杉家との対立は解消されず、その後、関東管領上杉家連合vs鎌倉(古河)公方足利成氏連合の大規模な戦争に発展します。
それが、❝江ノ島合戦❞です。
この戦いでは鎌倉公方郡に付いた関東諸大名の活躍で、上杉家連合軍は敗北します。
そして元は鎌倉公方派であった扇谷上杉家が、山内上杉家と再び対立する事と成り、扇谷上杉家は古河公方に近づき、今川家と伊勢(北条)家も古河公方を支持しています。
その事が伊勢家が、古河公方と対立する伊豆の堀越公方を責める大義名分と成りました。
しかし…
二つ両引き竹に雀紋
しかし後に、古河公方と山内上杉家が和睦してしまった事で、山内上杉家が支持していた堀越公方から伊豆を奪った伊勢家は、伊豆支配の大義名分が無くなりかねない事態に陥りました。
それまでは三浦家と伊勢家は共に山内上杉軍と戦う事も有る盟友だったのですが、対立せざるを得なくなった様です。
二つ両引き竹に雀紋三つ引き両紋
    VS
 三つ鱗紋
伊勢家は伊豆支配の正当性を主張する為(ため)に鎌倉幕府執権北条家の伊豆に残っていた一族に婿養子に入る形式をとり名跡を継ぐ事で、その支配の正当性を保ちました。
これが、切っ掛けで伊勢家は2代氏綱公より北条氏綱を名乗る事に成り、1509年に古河公方足利家の内紛、❝永正の乱❞が勃発した混乱の中で、今川家からも独立し単独で大名と成り、領土を相模国へと広げて行く事と成り、岡崎城を巡って三浦家と北条家が争って行く事と成りました。
そこで、もう一度、この時点での神奈川県内の各大名の支配する城を見てみましょう。
三浦家勢力 久良岐のよし
この頃、上杉家も伊勢原市や厚木市に拠点が点在し、三浦家の拠点も岡崎城まで保持しています。
しかし、岡崎城を巡る攻防は断続的に10年間続いた後、等々、北条家によって陥落させられて、三浦家は東の今の三浦半島の付け根に位置する逗子市に在った住吉城にまで後退します。
この岡崎城も又、断続的とは言え名将北条早雲公が攻略に10年を要した事から日本屈指の堅城だった事が窺(うかが)い知れます。
※以前書いた岡崎城の解説ブログ記事は「ココ」←クリック!
更に住吉城も落とされると、最後は新井城に追い詰められ、ここで日本最長の4年間も三浦家は包囲されたまま過酷な籠城戦を展開します。そして、その新井城の堅城ぶりと、鎌倉武士三浦家臣団の維持と強さを見せつけて滅ぶ事に成る訳です。

…ここまでで、新井城を巡る攻防が如何にして発生したか、歴史背景は御理解頂けたでしょうか?
では、次は新井城その物の構造について写真と伝承を交えて解説していきます。
新井城は、三浦半島の特殊な断崖と谷戸に何重にも囲まれた細長い自然地形に手を加えた堅城で、その谷間は並みの城の空堀では到底及びもつかない深さを誇っていました。
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今でこそ、御覧の様に浜辺に❝磯❞が見えていますが、これは大正時代に起きた関東大震災の際に三浦半島が最小でも50cm隆起した事で、戦国時代の海底が露(あら)わに成っているんですね。
…つまり、昔の三浦半島の地形は、入江の一部を除いては断崖雪壁の下は本当に上陸する余地も無い海だった訳です。
しかも
新井城址の主要部分は現在の油壷湾の所在地、京急油壷マリンパークや東京大学大学院理学系研究科付属臨海実験所(地震観測所)の在(あ)る半島一帯です。
荒井城主の佐原三浦家は平安時代~の関東流の築城術を受け継いでいます。
他地域では余り無いのですが、関東流の築城術では山の尾根の崖の両側を垂直に削り込み、通路幅の狭い城壁の様に加工してしまうので、この様な断崖絶壁上の起伏を削り、隘路(あいろ)に敵を誘い込み、或いは空堀で遮断し、断崖から敵を突き落としたり逃げ場の無い場所で弓矢を射掛けてハリネズミにし敵を殲滅する構造が幾重にも設けられていた訳です。
そして極め付けが、敵勢の侵入を防ぐ何重にも設置されていた断崖絶壁に掛かる引橋です。
引橋の位置は、現在に伝わる伝承と残存地形から十分把握出来ます。
三浦子供風土記
この資料は、三浦市教育委員会が編纂した❝三浦子供ふど記❞と言う本です。
三浦市の教育委員会は素晴らしいですね、土地を開発する際もちゃんと事前に調査をして建設会社に有利な嘘の報告をせず、先人へのリスペクトと地元の伝承を後世に伝える努力を為(な)さってる。
全く歴史のスペシャリストをメンバーに入れない史跡破壊容認が得意な金満土建屋のお友達、横浜市教育委員会とは大違いだ。
さて、この三浦の歴史を子供にも解る様に纏(まと)めた本の中に、新井城の構造に触れる伝承が沢山掲載されています。
先ずは、城の守りの要、大きな空堀状の渓谷の交通を遮断する❝引橋❞は数カ所有った事が解ります。
一番外側は現在も❝引橋❞の地名が残っています。丁度、その場所には現在❝引橋❞のバス停が有る辺りです。
そして、伝承の❝合戦場(江戸時代の城の三の丸の様な場所)❞の前に、伝承通り堀切状の地形が残っている事から、そこが❝内の引橋❞で有る事が解ります。
外側の引橋には、昔、人の良い老夫婦が住んでいて、北条家の偵察と気が付かずに、そのスパイに色々と新井城や三浦家の殿様の自慢をして話してしまったそうです。この老夫婦は、北条家が攻めてくると自分が話した相手が北条家のスパイだったと気が付いた様で、「三浦の殿様に申し訳ない事をした」と後悔して夫婦で自害してしまった悲しい伝承が残っています。
実は類似した伝承が扇谷上杉家の居城の一つだった藤沢市大庭城近くの船地蔵地区にも残っていて、やはり北条家のスパイが老婆に根掘り葉掘り、城の構造を聞き出したそうです。
…ですから悲しい御話しですが、引橋の老夫婦の伝承は実話でしょう。
どうも、生粋の相模国人の気質と言うのは老人程郷土愛が強く成り、又親切心が強くおしゃべりな様ですね。

では、引橋と新井城主要部分の位置関係を見てみましょう。
新井城周辺 久良岐のよし
小生が確認出来ただけでも、最低4カ所は大堀切と引橋の遺構と思われる地形が現地確認出来ました。
先ず、【引橋&堀切地形】と書いた場所が該当する地形です。
大外側、が(1)とした部分で、そこの辺りに戦国時代に老夫婦が茶屋を営んでいた様ですね。
段丘に登って来る渓谷が幾筋も、その(1)の地形に集まっていますので、現在のバス停の名称「引き橋」とも整合性が有ります。
ついで、❝内の引橋❞と呼ばれる場所が(4)と示した場所です。DSC_0187
この現在は遊歩道の入り口に成っている、元・東大の地震観測所の入り口の手前に、記載通り、内の引橋の堀切と思しき地形が在ります。
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ね?当時かなりの深さの空堀が穿ってあったのが現在も判断できる地形です。
反対側はこんな感じ…
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やはり、谷間です。この現在の道路は、後世埋め戻されたんでしょうね。
しかし、この2カ所以外、その手前にも道路として埋め立てられたと思(おぼ)しき両側が堀切状の地形が2箇所有りました。それが(2)(3)です。
又、不明瞭ながらも堀切と怪しい地形も他に幾つか有りました。。

話題は逸(そ)れますが、この本の堀切の老夫婦の伝承を紹介している❝三浦子供ふど記❞中で戦国時代三浦氏の祖先として解説されている佐原義連(さはらよしつら)公は源義経と源範頼兄弟による今の神戸に在った福原攻めの際に、有名な作戦❝鵯越の逆落とし❞を立案し提言した軍師だった事が伝わっています。因みに、この作戦を成功させた功績も源義経では多田源氏の多田行綱公の実績だと現代では解っています。
堀切の説明はココまでにして…
城址の訪問方法と景色の紹介をします。
城址を訪れる場合は最寄駅からバスか、車で行く事に成ります。
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この看板の通り、油壷マリンパークの駐車場が便利です。
小生は現在地と書かれた無料の駐車場を利用しました。
ここにバス停も有ります。
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便数が以上に少ないので、電車バスで行く人は気を付けた方が良いですね。
因みに、この場所には売店が在りまして…
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この売店「はっとり」さん。
この看板娘の御婆ちゃんが三浦家の事を非常に御詳しく、三浦道寸(どうすん)公と三浦義意(よしもと)公の御廟所の場所を聞こうと思って話しかけたら…
歴史オタクの小生が話す前に、御婆ちゃんの口から出るわ出るわ、三浦家関連の拠点の話や三浦家の殿様が何で最後まで抵抗したかの理由なんかが。
…三浦の人は今でも郷土愛が強いんだね~。
だから、ユネスコに世界無形文化遺産登録された❝チャッキラコ❞って御祭りも現在に残っていたりするんだろうね。
そして、なんだか引橋の伝承の老夫婦も、この御婆ちゃんみたいな感じの優しい人だったのかも知れませんね~。
※世界無形文化遺産の御祭り❝チャッキラコ❞に関しては「ココ」←クリック!

さて、御城の解説の続きです。
ぶっちゃけ、城址としては遺構は余り現存していません。
しかしながら、先に紹介した❝内の引橋❞から遊歩道に入ると、いくつかの遺構が見られます。
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この場所の奥の左側に民宿等の看板が有ります。
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ここを入って下さい。
ここに入ると、神奈川の景勝50選の油壷湾を望むポイントに行けるのですが、そこまで行く手前に東大の研究施設の門が有ります。
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確認するには油壷の半島と反対側に行かなければいけないのですが、伝承では、この東大の施設沿いの遊歩道下の岸壁の中腹に穴倉が有るそうです。
その穴が❝千駄矢倉(せんだやぐら)❞と言われており、兵糧が貯蔵されていた遺構だそうです。
岸壁に矢倉を組んで穴を改修して穴倉として利用したんですね。
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この崖下に穴倉が有るらしい…
三浦市教育委員会の解説によれば、一駄は米2俵だそうで、つまり千駄とは米2千俵を貯蔵した場所と言う意味に成る様です。

2千俵を石高に換算して見ましょう。
1石=米俵で2.5俵です。
ちなみにkgに換算すると、1石で❝150kg❞です。
そして荷物の単位の1駄とは、輸送に使う馬に乗せれる量の単位で、米俵で2俵。
千駄=2000俵の米俵
2000俵÷2.5=800石
つまり、補給路が立たれても800石の臨時食料が保管出来ていた訳です。
小生の様な歴史好事家(オタク)でもないと石高で言われてもパッとしないでしょう?
では石高を動員可能兵力に換算して考えてみましょう。
だいたい、1万石で雇用可能な兵力を元にして考えると一般的な定説では以下の様に成ります。
防衛時…1万石=500人前後
遠征時…1万石=300人前後
では、これを元に800石で、どれくらいの兵力を雇えるか計算してみましょう。
新井城の戦いは城主三浦家が防衛側です。ですから防衛側動員数の基準です。
1万石=500人 800石=1万石の8% 500人×0.08=40人…
40人とか少なッ!
…と思った人!別に、この蔵の中の米は全兵士を養う為(ため)じゃなくて、非常食兼、城主と城詰めの職員の常備食ですからね!
戦時下では、各部隊がそれぞれ兵糧を持参しています。

米の話が出た所で、「何で4年も籠城出来たの?」と疑問が湧くでしょう?
それはですね…
新井城の地形 久良岐のよし
新井城の所在地は、現在でも御金持ちのヨットハーバーが有る港湾に適した地形なんですね。
だから備蓄米が底を突いても、水軍を保有する協力者が居て外部から食料と弓矢を補給し続ければ、勝敗が着くまで何年間でも籠城が可能に成る訳です。
そして、この新井城址には昔から民家も有ったので、恐らく塩水じゃない飲み水に適した淡水が湧く井戸が有ったのでしょう。

では、この新井城の三浦家を支援する同盟関係に有り、尚且つ三浦半島周辺を自由に航行出来る水軍を持つ勢力はいるのでしょうか?
新井城と房総の位置関係 久良岐のよし
います。
二つ両引き二つ両引き紋
この足利家の家紋を持つ三浦家の同盟者が房総半島の岡本港を掌握しています。
その名も❝里見家❞ですね。
この里見家は現代で言う所の小説家に当たる江戸時代の❝曲亭馬琴❞が書いた❝南総里見八犬伝❞のモデルに成った家でもあります。この南総里見八犬伝はバブル時代に❝里見八犬伝❞として薬師丸ひろ子サンと真田広之サン主演で映画にも成っています。
里見八犬伝
う~ん…薬師丸ひろ子サンが若くて可愛い。
この里見家と三浦家は協力関係に有ったので、房総半島の穀倉地帯から絶える事無く兵糧が運び込まれた訳です。
因みに、この新井城の攻防が因縁と成り、その後、小田原を本拠地にする北条家と里見家は戦国時代が終結するまで対立する事に成りました。
さて、この新井城が長期籠城に耐える地形的政治的条件に合致していた事が、ここまでの説明で御理解頂けたでしょうか?

では防御施設その物の遺構の有無を見てみましょう。
ぶっちゃけ、土塁や空堀の遺構が現存するハズの東京大学の敷地は当然無許可で入れません。
しかし、曲輪の遺構と思しき盛り上がりのある地形は数カ所見て取れました。
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東京大学の敷地に入る裏口側は、堀底道を利用した?と思える地形でした。
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この空堀状の地形が現代に設けられた地形だとしても、両横の曲輪遺構と思しき台地状の地形はハッキリと残存していますね。
入らなくても、遠目にいくらか確認出来ます…入りたい。今度、東京大学に予(あらかじ)め連絡して許可を貰って見学させて貰おう。
三浦市の教育委員会は歴史の伝承に熱心なので、ちゃんと遊歩道には説明の看板が有ります。
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先に説明した関東大震災の事が書かれていますね。
この隆起した元海底の地形は、遊歩道から下の海岸に降りると見られます。
地形は【後編】で「神奈川の景勝50選油壷湾」と周辺の風景紹介として別記事に書きますね~。
他に丁寧にも説明が幾つも有ります。
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これは神奈川県民の中の歴史好きに有名な話。
油壷の地名の由来。
…実は、4年間の合戦中に戦死した兵士の死骸が現在の油壺湾に満ち満ちて、血油で丸で油の壺の様な風景に成ってしまったそうです。
防衛側も敵味方問わず戦死した将兵の遺骸を城内に置いておくと伝染病が蔓延してしまうので、当然放置できないので海に投げ入れて水葬したりしたんでしょうね。4年間も籠城戦をやれば結果的に、伝承通りに成ると思います。
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まぁ、そんな凄惨な攻防戦が行われた新井城址ですが、風光明媚で昭和には神奈川の景勝50選の一つに選ばれた場所なので、明治時代の文化人達からも愛された様です。
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さて、遊歩道を進むと二手に分かれますが…
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直進すると引橋の遺構の様な地形が有り、その先には狼煙台か何かに使えそうな地形が有ります。
この↓奥のこんもりした森ね。
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戦国時代当時は、この砂浜は海の底で、その森は小さな半島が堀切で断ち切られて離れ小島状の地形だった筈です。
新井城 狼煙台と思しき地形周辺 久良岐のよし
位置関係はこんな感じ。
まぁ、城址としての遺構は概ねこんな所でしょうか?
あと、一カ所、当時の退避用の船着き場と思しき地形が、三浦道寸公の御廟所近くに在りました。
位置は上の画像で確認して下さい。
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この京急油壷マリンパークのゲートを通らず、反対側の海岸に降りる遊歩道の先に在ります。
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この遊歩道を歩いて行くと、道寸公の御廟所の説明が有ります。
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この看板の先…
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ここが三浦家最後の当主、道寸公の御廟所なのですが、この地形も城塞の一部だった筈です。
この御廟所の右手が竪堀の様な地形で海まで下る斜面に成っています。
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この右の斜面。
当時は海面が今より高かった上に、大正時代の隆起で三浦半島は戦国時代より50cm隆起したので、その場所は昔は海に降りる斜面で、隠し船着き場かなんかだった様に思えます。
そして、この道寸公の御廟所が、正に、切腹の場所で有り、三浦道寸の跡継ぎだった猛将❝三浦荒次郎義意❞公の❝300人切り❞の活躍の場だと思います。
余談ですが、❝荒次郎❞と言う名前は平安時代から三浦家の次代の跡継ぎに成る人物が名乗る名前でした。
新井城で活躍した三浦義意公は、生粋の平氏の子孫の三浦家では無く、父の代に扇谷上杉家から三浦家に養子に入った人物でしたが、荒次郎を名乗っているので三浦家の伝統をちゃんと受け継いでいた様ですね。
実は、三浦義意公、刀や弓や槍では無く、木の棒に鉄板と突起を付けた棍棒状の武器で、最後の戦いで北条方の兵士300人を殴り殺した伝説が残っているんです。
この伝説も、普通に考えると嘘くさいのですが、この新井城の地形を利用すると可能に成る訳です…
つまり、敵兵が1人づつしか通行出来ない引橋や隘路の上で、長大な❝釘バット❞で殴り殺すのではなく❝海に叩き落とす❞戦術を取れば300人倒す事も現実的に成る訳です。
昭和世代には解ると思いますが、昔、❝風雲たけし城❞と言うバラエティー番組が有りましたよね?
風雲たけし城アドベンチャーゾーン 拝借画像
アレのリアル版ですよ。
細い道を落ちたら浅い安全な池じゃなくて…
30kgの甲冑や刀装備したまま海に落ちて溺れ死ぬ。
鉄の釘バットで殴打されても顔面や手や肩が骨折して悶絶する。
凄惨な風雲たけし城。
※風雲たけし城を知らない世代はYoutubeで検索して見て下さい。
…まぁ、バラエティーはさておき、義意公が何で一人で戦う様な無茶な事をしたのかも、現代に成っても地元にはちゃんと伝承していました。
その活躍を語るに当たり、最初の方で紹介した、御土産屋さんの御婆ちゃんの御話を紹介したいと思います。
その御婆ちゃんの新井城の戦いに関する御話はコンナ感じでした…

「三浦家の殿様が何で逃げずに最後まで残ったか解るかい?」
「三浦家の殿様は、女子供や罪の無い身分の低い家来を全員船で房総半島に逃がす為に最後まで残って戦ったんだよ」
「今でも、その時に殿様に逃がされた家来の子孫達が日本中から御墓参りに来るんだよ」
「7月11日に成るとね、命日だから、又御墓お掃除しなきゃね~。」

その、御婆ちゃんが掃除すると言っていたのが先程紹介した道寸公の御廟所と、義意公の御廟所です。
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義意公の御廟所は、冒頭で掲載したこの写真の場所の横です。
親子で少し離れた場所に在るんですね。
小生、この御婆ちゃんの話を聞いて、自分が文書を読んで予想した事と、地元に伝わる伝承が合致してビックリしました…
「切腹したり逃げずに一人で戦うような無茶な事をするからには、何かを守る為に戦う以外に無い!」
…小生はそう推測していました。
それが、御婆ちゃん達、三浦家所縁(ゆかり)の地元の人々にちゃんと伝承していて、❝戦争に成った責任の無い身分の低い家来や女子供を逃がす為に最後の決戦に挑んだ❞と解り、小生の推測が伝承で証明された訳です。
この話を聞いて、帰路、車を運転しながら泣きました。
「最後の一人が逃げるまで、僅かな近習(きんじゅう=近衛兵)と共に敵兵に挑み、守るべき人達が逃げ切ったのを見て敵に突撃し討死した」殿様の気持ちを考えるとスンゴイ泣けました。

そしてこうも思いました。
神奈川県には源義家公や源頼朝公、平良文公や鎌倉景正公や三浦義明公、太田道灌公や北条早雲公や北条氏康公、北条綱成公みたいな有名な武将も沢山いらっしゃったけれど…
この三浦荒次郎義意公の事も、それと同じ程、後世に伝えて行かなければいけない、そんな名将だなと。
必ず、横浜の間宮家や蒔田吉良家や宅間上杉家の殿様達の事と、この三浦義意公の事を小説や顕彰文に起こして世間の人に再認識して貰う手助けや、御祭りを企画運営して地域産業としても殿様の名前を借りて三浦の油壷地区の町起こしを企画して、伝統に成る様な殿様の名前と事績の伝承の伝え方を創生したい。
そう感じた訪問でした。

【後編】油壷の風景は「ココ」←クリック!

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!