前回の記事では大庭神社の論社(推定地)の一つで伝承上の元宮(もとみや=元々の所在地)だと伝承する❝大庭神社舊跡❞と近くの❝神奈川の銘木100選の一つ臺谷戸稲荷の椨の樹❞の風景を紹介しました。
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さて…
今回はいよいよ、現在にも江戸時代の建築遺構が多く残る現在の大庭神社と周辺の風景を写真と解説で紹介したいと思います。
現在の大庭神社は、人口の少なく成った大庭の引地川沿いにヒッソリと佇んでいでいます。
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一見すると余り目立たない普通の神社に見えてしまいますが、ここは前回、前々回の記事でも解説した通り、平安時代の醍醐天皇達から見ても古い歴史を持ち保護すべき神社として延喜式神名張に記載された神社の現在の所在地で、凄まじい由緒と権威の有る神社です。
この神社の現在の所在地は、嘗ては目の前に海の入江が広がっていました。
大庭神社周辺
※拡大して見て下さいね。
画面左に大庭神社の所在地がマークされています。
白い部分が古代の海です。
元宮の大庭神社舊跡とは、湾を挟んで反対側に在ります。現在の大庭神社の在る丘は、平安時代末期に成って鎌倉景正(かまくらかげまさ)公によって開拓された地域です。古代の史跡は全て古代の湾の左岸、つまり大庭神社の舊跡側から出土しています。
さて、何故、現在地に大庭神社が移ったかは【前編】で解説した通りです。
※【前編】解説記事は「ココ」←クリック!
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鎌倉時代末期~室町時代初期の武将で、室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の母方の従弟だった山名時氏公が1352年頃に恐らく元は大庭地区に所在した成就院と言う御寺を現在の稲荷地区に移転させ再興開基した際に、同寺が別当寺として管理を任せていた大庭神社も一緒に舊跡=元宮から現在地に移転させたと考えられるからです。
余談ですが、山名時氏公は横浜市港南区上永谷の永谷城主宅間上杉家の御先祖の宅間上杉重兼公の従兄でもあります。つまり、足利家・山名家・宅間上杉家は親戚なんですね。
稲荷の成就院と大庭神社の歴史を裏付ける様に、成就院の元の寺名は院号では無くて❝宝染寺❞であった事が伝わっていますが現在はその寺名が使われていません。つまり前身寺院が移転して来て名を変えた可能性が成り立つ訳です。
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この様な例は他にも良く有る事で、例えば戦国時代の北条家の重臣の笠原信為公の造営した雲松院と言う御寺が横浜市港北区に在りますが、元々は神奈川区の神大寺の別院的な御寺だったのが神大寺が後に焼失したので神大寺の機能ごと雲松院に移転した歴史が有ったりします。
※笠原家菩提寺の雲松院の記事は「ココ」←クリック!
他にも大庭神社と同じ延喜式内社の比々多神社や高部屋神社等も古代の位置から遷座している歴史が有ります。
その辺にも御興味が有る方は【カテゴリー:延喜式内社と歴史千年以上の古社】←このの中から記事を探して見てみて下さい。
さて、藤沢市稲荷の成就院解説は又、別記事にするとしましす。
と山名時氏公の解説も後回しにして、先に大庭神社の風景と施設を紹介します。
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大庭神社の石の大鳥居の前には、自然公園が広がっています。
引地川親水公園周辺 久良岐のよし
引地川親水公園と言う、引地川の湿地を利用した広大な自然公園で、稲荷の大庭神社の前には湿生園もあり子供達に湿地帯の植物を観察せるのに適した場所であり、都会の藤沢市街地の直ぐ近所で子供が自然に触れられるとても大切で貴重な場所でもあります。
…藤沢市土木事務所、公園課の方々Good Job!
さて、その引地川親水公園の前の鳥居をくぐり、階段を登ると…DSC_0346
写真撮影に行った時は3月下旬で、綺麗な木蓮(もくれん)の花が咲いていました。
参道は鳥居の在る階段を上ると左に折れて社殿へ続きます。
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参道の入口には、格式の高さを感じさせる立派な灯篭が在りました。
氏子サン達、頑張って醍醐天皇の御意思を継いで大庭神社を守って下さっています。
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推測するに、延喜式内社の格式と、足利家の縁戚で室町幕府重鎮と成った山名家の関与が有った神社なので、この周辺、神社境内と平行する削平地と裏の傾斜地は往時は全て大庭神社の境内地だったのだと思います。
丘の上は現在は大企業の工場に成っていますが、この神社の境内と平行した削平地と傾斜地だけは緑が保存されています。
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さて、延喜式内社の解説で良く話すのですが、明治時代に明治政府によって神仏分離令・一村一社令・神仏分離令と言う愚かな政策と、伊勢系統の神様を優遇する政策が行われたせいで歴史の古い多くの延喜式内社を含めた神社と御寺が破壊されたり、❝合祀(ごうし=別の神社に神様を移す)❞と言う名目で聖地を御神体とした神社が消滅させられました。
明治政府には森有礼等の日本文化の破壊を目論んだ勢力が多く入り込んでいて、天皇系統の祖先神を優遇するとの宗教改革の名目で多くの神社仏閣が破壊され聖地霊場も埋め立てられたり掘削されて姿を消してしまいました。
何とか古(いにしえの)社(やしろ)に伝わる文化を保護しようとした方々がいらっしゃって、それが平氏や源氏の武家の御子孫であられた東郷元帥や乃木大将達でした。
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三浦半島の横須賀市走水に在る日本武尊と弟橘姫の神話の舞台の走水神社と言う神社には、現在もその歴史と明治の元勲達の逸話が残っています。
因みに首相も務めた伊藤博文公も横浜市金沢区の野島の別宅から、隣接する横浜市磯子区氷取沢の寶勝寺と言う名の御寺に良く通われていた歴史と遺物が残っていて、どうやら❝明治の元勲達と違う勢力❞が暗躍して、国家神道と言う新しい宗教観が神道に導入され、仏教徒の分離も為(な)されたたようです。
そして多くの延喜式内社は縄文文化を受け継いだ神様が多く、伊勢系統の神様を御祭神としていない場所が多かったので、歴史の浅い伊勢神道系の神社の管理下に置かれ衰退してしまった訳です。

しかし、古代からの神事を守りながらも実は多くの延喜式内社には奈良時代~明治時代に成るまでの日本の千数百年来の伝統が守られている場所が多く有ります。
仏教の文化も異文化でも良い物として、日本の神様達の神社の中に受け入れて融合した神仏習合の日本文化です。
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だから、この大庭神社には成就院が別当寺の役割を解任された現在も、鐘楼が保護されています。
つまり延喜式神名張を編纂させた醍醐天皇達天皇家の方々本来の寛容性の高い価値観を守る神社が、偶然にも宮司様不在に成っている大庭神社や他の延喜式内社には多く残っている訳です。現代の比較的新しい神社では縄文~弥生~古墳時代からの聖地も神事も無い上に、神仏混交時代の遺物や行事も残らない場所が多く古代から大庭神社をはじめとした延喜式内社とは大分、様子が異なります。
さてこの鐘楼の前を通り過ぎると、いよいよ社殿です。
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神社なのに瓦葺(かわらぶき)なので、建物は江戸時代中期以降か最近の建て替えが有った様ですね。
歴史があり格式の高い古社は、金銭的に余裕が有る歴史偉人との関わりから板葺(いたぶき)、それも檜皮葺(ひわだぶき)か、茅葺(かやぶき)の屋根が奉納されています。
ここ大庭一帯は、神奈川県下でも過疎に成りかけていた場所なので、寧(むし)ろ瓦葺でも新しい立派な屋根を奉納で来た氏子サン達は本当に身を削って神話時代(縄文末期)からの神社文化に残った伝統を守ってらっしゃると思います。敬服するばかり。
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拝殿の注連縄(しめなわ)も立派です。本当に氏子サン達の努力の賜物。
神様も喜んで下さるでしょうね。
縄文文化の伝統が現存する神社では、この注連縄に莫告藻(なのりそ=ホンダワラ)と呼ばれる海藻が更に装飾されます。
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この海藻が後に海の遠い大和国に朝廷が転居した頃に、代用品として紙垂(しで)が作られる様に成った事は想像に容易(たやす)い事ですね。
でも、そんな古代の歴史を一度断ち切ってしまった神道では、この伝統が伝わっていない場所が大多数で、代用品の紙垂が「稲妻に似てるから邪気払いとか稲光の梅雨の季節の豊穣祈願」とかバラバラな説明がされているようです。
古代の大王(おおきみ)/大君、その先人達の古墳が海に近い九州や河内や摂津の各地に在る歴史事実を考えれば、莫告藻が紙垂に変化したのは直ぐに理解出来る話です。
聖地霊場や神様に成られた先人の古墳の大切さよりも、神社の建物を作る事と神器の鏡を奉るを重視した明治の国家神道だけ学んでも解らない事です。
考古学や地理、神話の神様の御陵の現在地と古代の海岸線を知らないと繋がら無いですからね。
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順番があべこべには成りますが、大庭神社の御祭神は…
●神皇産靈(かみむすび)の神
女神様で、出雲大社の御祭神である大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命=素戔嗚尊の子孫を助けた神様です。つまり、長寿や治病に御利益が有りそうな神様ですね。

●熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)…元宮の主祭神

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成る。遅くとも飛鳥時代より前の造営。

●大庭三郎景親(おおばさぶろうかげちか)公
元宮や稲荷地区の大庭神社一帯を平安時代末期に治めた在地領主の大庭景親公が御当地の人々によって死後、御祭神として祀られたと考えられる。
大庭氏から領土の守護神として崇拝されたのだろう。それ故に元宮は大庭城の近くに在る。

●菅原道眞(すがわらみちざね)公
江戸時代の天明3年(1783年)秋に地頭(じとう=土地の所有者)の諏訪部定太郎と、名主(なぬし=町長)の山崎六郎兵衛(ろくろうひょうえ/ろくろべえ)包高(かねたか)によって、勧請された。
実は、この西暦1783年は旧暦7月8日(太陽暦の6月くらい?)に浅間山が大噴火している。大噴火の際は雷雲が火口に発生するので、平安時代に雷神として神格化れた菅原道真公を奉(たてまつ)る事で天災から逃れたかった当時の江戸時代の人々の思いが伝わる御祭神だと推測出来る。
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一見して、宮司様も御不在、しかも少し寂しい所にある神社ですが凄い歴史が有るでしょう?
きっとね、皆さんの御近所にも、同じ様に神社や御寺の大きさに関わらず凄い歴史が有って思いもよらない神様のモデルの偉人や武将達との所縁(ゆかり)のある神社や仏閣が有ると思いますよ~。
そして、近所の公園や山は、実は武士達が命を懸けて領民と農地を守る拠点だった旧街道沿いの古城の城址かも知れませんよ?
だからね、少し、御近所の神社や御寺や山を散歩して見ませんか~?
きっと、小さな御社や御地蔵様も、神様や先人と皆さんを結び付けるタイムカプセルに成ってくれるかも知れまんよ~♪

では、又、次の記事で御会いしましょう!
次は大庭城か、藤沢市稲荷地区の成就院と山王社かな?