小桜姫は明治時代の小説のヒロインであり歴史上実在しない架空の人物です!
それを利用した悪質なカルト宗教の独身女性の縁結び願望につけ入った宗教勧誘旅行が三浦半島で横行しています!


縁結びを三浦義意公と奥方様の御霊(ごりょう)に御願いするなら御二人に対する正しい歴史認識をここで学んで、カルトに騙されないで済む様に備えて下さい!
ここで正しい歴史と三浦家の聖地一覧を見て置けば、カルトと偽霊能者が如何に歴史的教養が無く嘘ばっかり吐いているかが解ります。

そして、どうすれば縁結びの強い御利益をより得られるか、嘘と本当を見分けて参考に成り良い彼氏さん旦那さんに巡り合える切っ掛けの縁結び祈願が出来るでしょう!
しかし、ちゃんと注意事項と解説も読まない人が、いくら異性との出会いを御願いしても無駄でしょうし、カルトに騙され続けて宗教に入信させられて終り自分で人生を台無しにして終わるでしょう。
※注意事項※
史跡と縁結びの神社の内、直接、小桜姫や三浦義意公に関係の有る場所は【紫色の字】で場所の名前を表示します。

小桜姫様への縁結びの礼儀
縁結びで願掛けをしたいのならば、ちゃんと御寺の場合は❝供養祈願の納経❞する為(ため)の写経した般若心経と御賽銭を、神社の場合は御賽銭を準備して置いて下さい。
まさか、神様にお願いするのに「クレクレ」言うだけで奉仕する心が無いなんて事無いですよね?


歴史事実と自称霊能者が広めた話しと異なる小桜姫神社の差異の解説
小桜姫について
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明治時代に村井弦斎と言う作家が❝都新聞=現在の東京新聞❞に連続架空時代劇小説として掲載した❝桜の御所❞と言う名前の小説架空の人物が小桜姫です。
架空のヒロインだが、小説内で夫とされている三浦義意公の実在の妻と側室の真里谷武田家の姫をモデルにして小桜姫を創作した可能性は否定出来ない。
小説❝桜の御所❞出版以前に、全ての歴史遺物に❝小桜姫❞の人物名は登場しない。又、一般的に歴史上、名前の記録が残る女性は極少数。小桜姫に関しては完全に明治時代以降に登場する名前で創作と確認出来る。
先ず、小説では小桜姫は武蔵国久良岐郡(現:横浜市金沢区)金澤城主楽岩寺の姫とされるが、この時点で創作の人物である事を明言できる。
先ず、金澤城と言うのは現在の金沢文庫駅近く、金沢文庫の地名の由来に成った金沢山稱名寺を取り巻く山に在った鎌倉時代の城砦の事で有るが、この金澤城を要塞として活用したのは歴史上、後にも先にも鎌倉時代の金澤北条(かねさわほうじょう)家のみである。
ところが小桜姫は楽岩寺家と設定されているので金沢城主たりえる事は全く不可能。
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※写真は稱名寺裏の金沢城址、稲荷山からの眺望。
戦国時代に金沢を所領にしたのは小田原北条家臣の伊丹家であり、更に周辺で水軍として勢力を誇っていたのは同じく北条家臣の間宮家や伊東家である。小説の金沢城主楽岩寺家の設定は❝これは完全にフィクションですよ❞と筆者から解り易いメッセージが込められている訳だ。にも関らず、歴史に無知だった偽霊能者はそれを本当と誤認して宗教活動を始めてしまった。
しかも金沢城を稱名寺の敷地に在った居館の詰め城にしていた金沢北条家は、三浦道寸公・三浦義意公の時代よりも約200年前に既に滅んだ家、架空の設定である事が解る様に小説にも書かれている。
当然ながら金沢北条家に“小桜姫”等と言う人物の記録は一行たりとも存在しない。金沢北条家が開いた東日本最大最古の私設図書館で現代の金沢文庫博物館の記録にも登場しない。つまり自称霊能者が媒介と成って小桜姫の言霊を著書にしているならば、その内容は“自称霊能者の虚言”か“自称霊能者が誤って別の自称小桜姫のキチガイ霊魂を召喚して偽称偽証”されられており頭も霊感も弱い三流霊媒師と言う証明に成ってしまう訳だ(笑)。
小桜姫を実在したかの様にデマを拡散する連中に止めをさそう。
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※写真は近世、赤坂と呼ばれた地域から同じく古くは東青野台と呼ばれた能見堂へ繋がる険阻な丘。
そもそも金沢北条家の金沢城は邸宅の詰めの城でしかなく、完全な軍事拠点は青ヶ台(あおがだい)城だった。青ヶ台城は横浜市が発掘調査も保護もせず全容が解らないまま消滅したが、場所は江戸時代まで青野台と呼ばれた能見堂址~東横レジデンス~釜利谷高校一帯の険阻な崖地の上の丘陵と解っている。
金沢城の話から実家とされた楽岩寺家の話に解説を移す・・・
決定的にフィクションと解るのが小桜姫の実家の武蔵国金沢城主楽岩寺家の設定で、楽岩寺家と言うのは武蔵国久良岐郡(横浜市中区~南区~磯子区~港南区~金沢区)に歴史的に存在しない武家である。楽岩寺家自体の姓も存在しない。但(ただ)し武田家と戦った信州の武将に楽巌寺一族はいるが、あくまで信濃国(しなのこく=現:長野県)の武将である。
小桜姫のモデルは実在した三浦義意公の側室で真里谷武田家出身の姫だろう。しかし真里谷武田家は房総の小大名、親戚の武田家とも支配地が違う上に決定的に楽巌寺家は武田家の敵対者だった訳だ。
仮に甲斐武田家の話に置き換えても、楽巌寺家が武田家従うのは武田信玄の時代の弘治年間(1550年代)の話で、当時既に小説で小桜姫の夫と設定された三浦義意公の治めた佐原三浦家は存在していない。
佐原三浦家は永正十三年(1516年)の07月11日新井城(現:油壷マリンパーク敷地周辺一帯)落城と共に滅亡している。史実だとしたら矛盾だらけな訳だ。
つまり、仮に小説の楽岩寺家の小桜姫のモデル人物が実在した千葉県の真里谷武田家の設定を甲斐武田家に置き換えたとしても、楽巌寺家の武田家従属より40年も前に三浦義意公の佐原三浦家は滅んでいるので❝桜の御所❞の著者の村井弦斎から「小桜姫はフィクションの人物設定ですよ~」と少し歴史を知っていれ解るメッセージがふんだんに盛り込まれている架空歴史ファンタジー小説な訳だ。
これを事実誤認した霊能者は、悪意が有ってやってなければ歴史知識が足りないまま嘘を吐いてしまって引っ込みつかないだけか、相当霊能力が乏しいのだろう(笑)。
更に止(とど)めを刺すと、久良岐郡の間宮家の一族で安土桃山時代の武将の間宮信高公は三浦半島の長坂(現:横須賀市長坂)に所領を持ち、実は小桜姫のモデルの人物の実家の真里谷武田家の御子孫、真里谷武田直信公の舅に当たる人物だ。
徳川家の水軍大将として活躍した人物で娘が真里谷武田家に嫁いだのだが、この間宮家の家系図にも歴史書にも一切、小桜姫の名は登場しない。
そして真里谷武田家は小説の仮名で小桜姫のモデル成った真里谷城主の武田家の姫の兄、真里谷武田信隆公の子である真里谷武田信政公と思われる“武田殿”が北条家から久良岐郡六浦木曽分127貫を与えられ北条家臣化し江戸時代にも徳川幕府に仕え愛甲郡に僅(わず)かな領地を貰い存続している事が確認出来る。
その真里谷武田信隆公の子孫は以下の様な系図に成るのだが・・・

【真里谷武田 信保】※上総国真里谷城主、法名“恕鑑(じょかん)”。三河守(みかわのかみ)。
戦国時代(室町末期)の人。
三浦義意公の最初の妻の父親。天文三年(1534年)に亡くなっている。
一般的に真里谷城主の座を巡って兄弟間で内紛が起きたのは、この人物の代とされる。
諸長子(長男だが母が側室)であり嫡子(後継者指名を受けた人物)では無い。
真里谷武田一族の北条家への亡命は、既に佐原三浦家の滅亡した後で御子息の信隆公と信応公の兄弟が真里谷城主の座を争って信隆公が敗北した天文六年(1537年)頃の事なので、真里谷武田家と三浦半島の三浦義意公が合戦をする事は歴史的に有り得ない事実。そして、その時代には既に真里谷武田恕鑑公もこの世にいない。

  ↓
【真里谷武田 信隆】※金沢区移住初代。官途は丹波守(たんばのかみ)を称する。
戦国時代(室町末期)の人。千葉に在った真里谷城主。
三浦義意公の二番目の妻の父親、時代的にこの信隆公の姫が小桜姫のモデルだろう。
永正十三年(1516年)の佐原三浦家滅亡後、父の恕鑑と叔父の争いの後、1537年に信隆公の代でも実弟の信応(のぶまさ)公との争いが起きた。実弟の信応公が父とも争っていた叔父の真里谷武田信秋公に支援され、その二人との争いに敗れ北条家を頼り久良岐郡の六浦(金沢区)に亡命。

最初に北条家に亡命し現在の金沢区に六浦木曾分127貫文の所領を与えられたのは時代的に、この人物だろう。その後、信隆公は北条家の支援を得て上総国(千葉県中部)の真里谷城主に復帰している事から、六浦木曾分127貫文は当初は亡命時代の所領だったと考えられる。
三浦義意公が亡くなった年に北条早雲(伊勢盛時)公の援軍を得て城主の座を争い内戦を戦っているので、房総の三浦一族である正木家との縁も切れている様だ。信隆公の代で一度は北条家の支援を得て真里谷城主に復帰したが、衰退。御子息の信政公の代には、正木家を従える里見家に敗北して父の隠居料だった元の亡命先の金沢区六浦の所領に逃げ帰り信政公の代から土着したと考えられる。

  ↓
【真里谷武田 信政】※官途は三河守を称する。
戦国時代(室町末期)の人。
恐らく里見家に敗北して真里谷城から駆逐され、元は父の亡命先であった現在の金沢区六浦の所領に逃げて来て土着した人物だろう。真里谷城を落ち延びてからは北条家から父の信隆公が一時亡命していた金沢区六浦に土地を与えられ以後は北条家の家臣化したと考えられる。
間宮家の所領の杉田郷と金沢は隣接地なので、間宮家との交流は信政公の代から始まっているのだろう事も推測出来る。

  ↓
【真里谷武田 信次】※官途は信濃守(しなののかみ)を称する。
戦国時代(室町末期)の人。
系図上は室町幕府最後の15代将軍、足利義昭に仕えたと改竄が有るが、生きた時代の参考には成る。
江戸幕府による系図編纂の都合上、良く解らない世代の説明の為に広意義で主家の北条家が足利幕府家臣なので、足利義昭に仕えると書き加えらえたと考えられる。
  ↓
【真里谷武田 直信】※妻が間宮信高公の姫。官途は兵衛尉を称する。
安土桃山時代~江戸時代初期の人物。
系図上は室町幕府最後の15代将軍、足利義昭に仕えたと改竄が有るが、生きた時代の参考には成る。
間宮信高公の姫を妻に迎えている事からも、実際は間宮信高公と行動を共にしたと考えた方が自然なので、北条家→甲斐武田家→徳川家と転々とした筈だろう。間宮信高公が一時武田家に仕えた縁も、真里谷武田直信公と甲斐武田家が同族である血縁に因(よ)ると考えると自然。
  ↓
【真里谷武田 信正→改姓→間宮 信正】※間宮姓へ改姓した初代。助左衛門を称する。
江戸時代初期、徳川幕府二代将軍の徳川秀忠公に仕えた人物。
徳川家臣として愛甲郡に所領200石を得る。
俗名の助左衛門の左衛門は間宮家が代々継いだ官途名でもある。
  ↓
【間宮 信敏】※半左衛門を称する。
江戸時代初期、徳川幕府四代将軍の徳川家綱公に仕えた人物。
  ↓
【間宮 信輝】※この世代で家が滅亡。※権之助を称する。
江戸時代初期、徳川幕府四代将軍の徳川家綱公に仕えた人物。
15歳で亡くなってしまった為に子供がおらず、久良岐郡と縁の有った真里谷武田系間宮家は信輝公の代で断絶した。

・・・久良岐郡と縁の有った真里谷武田家の系図は御覧の通りだ。
信政公の子に当たる直信公に間宮信高公の姫君が嫁いで、武田直信公と間宮信高公姫の御夫妻の御子息が真里谷武田信正公に当たる。この真里谷武田家は信正公の代に母方の間宮姓に改めている。
この信正公の改姓は造酒之丞家が徳川幕府内に置いて水軍を任される重要な侍大将に成っていた事と、間宮本家の笹下間宮家が間宮康俊公の姫君の於久方(おひさのかた)が徳川家康公の側室に有り徳川縁戚として久良岐郡北部や佐渡国や但馬国や摂津国や駿河国で奉行を任された家柄だったので、江戸時代初期に成り真里谷武田家は北条家滅亡後に元々は隣町の御近所同士だった間宮家を頼ったと推測出来る。
例えば当時の佐渡奉行職は先祖代々の給料の領地とは別に3000両もの大金が支給されるので、当然、親族や没落したが有能な旧北条家臣の縁者を雇って救済する事が出来た訳だ。
江戸時代初期の貨幣価値を今の円に換算すると、大凡(おおよそ)、1両=12万円前後と言われてる。だから例えば間宮本家の江戸時代最初の当主で佐渡奉行、但馬奉行、本牧奉行を務めて間宮直元公の基本所得は1000石たが少し計算するとどれだけ収入が有ったか現代でも推測出来て・・・
【笹下間宮家の基本所得】
1000石 ×(1石=米150kg)×(現代の大体の米相場1kg=400円前後)=年収:6000万円
【間宮直元公の奉行職】
本牧奉行(横浜市磯子区、港南区、南区、中区の経営)・但馬奉行(但馬国内の生野銀山、金山の経営)・佐渡奉行(佐渡金山の経営) 奉行職×3
佐渡奉行給与は3000両の手当てが支給されていました。これを参考に但馬奉行職給与も3000両。
3000両×2=6000両 6000両×12万円=年収:7億2千万円
町奉行は1000俵の米の現物支給
1俵=60kg×400円=24,000円 24,000円×1000=年収:約8400万円

7億2000万円(鉱山奉行手当)+8400万円(本牧奉行手当)+6000万円(基本給)=8億6400万円
間宮家の本家、間宮直元公の年収だけで8億6400万円の収入が有った訳だ。しかも奉行職については自分の基本給から人を雇わなくても幕府が与力を配置してくれる、なので人件費は掛からない。そして奉行職として自らに付く与力させる人物を幕府に推薦する事も出来ただろう、何せ間宮直元公は伯母であり名将の間宮康俊公の娘の於久様が徳川家康公の側室に成り姫を生んでいたので事実上の外戚扱いだった訳だ。但し基本給の6000万円の方は、幕府指定の人数の家臣団を常時雇っていなくてはいけなかったので丸々年収に成った訳では無く、相当経営は苦しかった筈だ。
因みに1000石だと雇用しなければいけない人数は以下の通り・・・
鉄砲兵2人(鉄砲1丁約1000万円)+槍兵5人+弓兵1人、騎馬武者1人(馬1頭8~10両=120万円)
そして雑兵(農民)10人+物資輸送担当2人。合計21人+自分自身。
この人達を生涯雇用するだけでは無く当然子々孫々まで永久雇用する必要が有る上に、鉄砲のメンテナンス、数年に一度の馬の買い替え、安くても数十万円する鎧兜のメンテナンス或いはフルオーダーメイドで数百万円。
・・・年収が6000万円でも、そこから途轍もない人件費が消えて行く訳だ。
因みに戦国時代だと1000石では50人前後の兵隊を雇用して、侵略戦争を行う際でも30人程度連れて行き更に食糧費も掛かる訳だ。
戦国時代の間宮本家は単独で200人動員したそうなので、北条家臣時代の給与は動員兵士数の200人から計算すると・・・
間宮家総兵力200人÷(1万石=300人)=1万石の66%の動員数
1万石=米150万kg=年収6億円
6億円×66%=3億9千600万円
所得全体の3億9千600万円から戦国時代は200人雇わなきゃいけなかったので、北条家の玉縄衆黄備え隊の副将だった間宮家でも殆ど贅沢は出来なかっただろう。この玉縄衆黄備え隊と言うのは解り易く言うと神奈川県中央~東部エリアの統括みたいな組織で、間宮家はその副統括だった訳だ。副統括でも生活は楽じゃなかった。しかし、江戸時代は沢山の奉行職を兼務させてもらっていたので、それ等の人件費を補って余有る奉行職の年収が有った訳だ。
この他にも間宮家では戦国時代に分家した隣町の杉田領の江戸時代最初の当主である間宮信繁公も徳川家康公の家臣と成って徳川幕府初代鷹匠頭の奉行職に就いていた。

・・・だから真里谷武田家はじめ安土桃山時代に北条家滅亡で失職した多くの旧北条家臣の同僚を間宮家だけでかなり救済出来た事が解る。
実際に間宮家旧領の横浜市磯子区~港南区~中区~南区一帯には間宮家臣の他に多くの旧北条家臣団と蒔田吉良家臣団の臼居・岡本・金子・北見(喜多見)・苅部(かるべ)・森・佐々木・並木・野本それ等の旧家名士が平成の世に成っても存続している。

その様な経緯が有って、真里谷武田家も間宮家と婚姻関係を結び与力と成り間宮姓に改めた事が推測出来る。しかし、間宮造酒之丞家と関わりの有った真里谷武田家は御覧の通り江戸時代初期の話でなので、三浦義意公や房総半島から嫁入りした真里谷武田家の姫様の室町時代末期の世代とは全く以(もっ)て混同しようが無い時代の差が有る事が解る。

そして江戸時代の武将、旧姓が真里谷武田の間宮信正公の所領が愛甲郡(厚木市~愛甲郡愛川町~相模原市西部)に200石の小録で存在した歴史が有るので、明治時代に愛川町や相模原市でも小説“桜の御所”のロケ地に比定した観光誘致宣伝として地元の本来の民俗伝承に小桜姫伝説を当て嵌め聖地捏造したのが容易に推測出来る。尚、そちらでは小桜姫のモデルを大江家の姫としているそうだが、そうなると更に歴史矛盾が拡大する(笑)。

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※写真は愛甲郡愛川町の中津川の渓流風景。
小桜姫が大江の姫と言う方の解説を採用すると愛甲郡を大江家が治めた時代は鎌倉時代のごく短い期間であり、戦国時代の武将で扇谷上杉家の血筋の三浦義意公の存在を全否定するしかなくなる。根拠作りに困って、この説を持ち出した自称霊能者の判断は実に浅慮で無知だし事実確認が全くされていない。
そもそも関東では鎌倉時代に滅んだ大江家と、戦国時代の三浦道寸公とその御子息が合戦をする事自体が物理的に不可能(笑)!
そのカルトは三浦道寸公の子息を三浦義光と言っているそうだが三浦道寸公の御子息に義光の記録は無い・・・
まして三浦家の所領は三浦道寸公が生きた戦国時代当時に愛甲郡には無い。主家の扇谷上杉家の所領が愛甲郡南西部~伊勢原市北部にかけて存在したので、仮に三浦家が愛川町~津久井~相模原に攻め込めば主家に反逆する事に成る訳だ。歴史的に完全に間違ってる"設定"な訳だ。
仮に本当に霊能者が霊媒と成って、小桜姫を称する霊にソンナ事を言わされたのなら、その霊が
明治時代の小説ヒロイン小桜姫の名声を利用して自分を拝ませようとする“狡猾な詐欺師的な霊”だろう。
更に設定の甘さを追及すると三浦義光って名前を捏造する際、鎌倉時代の大江広元公の御子息で愛甲郡毛利台を所領にしていた毛利季“光”(すえみつ)公の名前と、戦国時代の三浦道寸公の御子息の三浦“義”意(よしおき)公の名前を安易に+して割ってるな。詐欺女悪霊か女霊能者のどちらが決めた設定か知らんが適当過ぎて本当に設定が甘い。
・・・そんな基礎知識も無いから霊媒たる霊能者も簡単に悪霊に騙されるんだろう(笑)。多分、学校で歴史の成績が悪かった人なんだろう。仮に人を騙す心算で小桜姫信仰を小説に乗っかって捏造したなら設定の甘さが馬鹿過ぎる。いずれにせよダメ。反省するべき。
霊能者も霊能者で、ソンナ詐欺女悪霊の正体を見破れないのは歴史知識が乏しい不見識さから来るのだから、早く反省して断家譜、寛政重修諸家譜、北条五代記、小田原衆所領役帳、新編相模風土記稿、新編武蔵風土記稿位は最低読んで勉強する事をお勧めする。それを読んで置けば二度と悪霊に騙される事も、或いは自分が詐欺師なら"設置をミスる(笑)"事も無いだろう。
まぁ~落としどころとして、当該の霊能者は、悪霊の嘘を見抜けない自分の霊感不足や歴史知識不足の不甲斐無さを認めるべきだな。
先ずはちゃんとした宗教指導者に成るべく、神様に興味が有るのなら、この説を流布してしまった霊媒師と霊能者の方は國學院大學か皇學館大学に入り神職の資格を取得される事をお勧めする。
仏教的な知識習得と修行をしたいのであれば、仏教系大学に行くべきだろう。
高野山大学、駒澤大学、大正大学、立正大学、身延山大学、龍谷大学なんかが御薦めだろう。或いは修験道の総本山である奈良の蔵王権現こと金峰山寺で学ぶのも良いだろう。
何(いず)れにせよ、当該の説を流布した霊媒たる霊能者はちゃんとした場所で修行し直し、ついでに歴史も勉強するべきだな。
そして、自称霊能者の本人が歴史知識も嘘を見抜く霊感も無いんだから、ちゃんとした古来の権威ある神道の神社や仏教宗派寺院で、ちゃんとした神社庁に属す宮司様や旧来の仏教宗派の和尚様に払ってもらうべきだろう。
幸い、当該地域周辺には本物の聖地の八菅神社や、大江家旧領愛甲郡小野に延喜式内社の“閑香大明神小野神社”や金徳山光明寺も在る。その神社仏閣で宮司様に払って頂き神様の力で詐欺女悪霊を封じ込めて貰うか、釈迦牟尼仏の力で和尚様に悪霊を供養して貰い閻魔様に送って貰うと良いだろう。
小桜姫と実在しなかった人物名を自称する悪霊を憑依させてしまった霊感不足、知識不足の霊能者にはアドバイスしフォローして置く。

余談だが大江家が愛甲郡の中で所領としたのは現代では毛利台と言われる土地で、大江家は戦国時代の大大名、毛利元就公の祖先に当たる。つまり安芸の広島城主で後の長州藩毛利家の殿様の祖先の故地は神奈川県厚木市毛利台一帯なのだが、それを知る人は現代では少ない。
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愛川町は県内最高の水質を誇る中津川が流れており、キャンプやBBQや鮎釣りの客で夏休みの時期には多くの観光客で賑わう。
仮に愛川町がしかけた聖地捏造ならば、こんな変な宣伝をしなくても素晴らしい観光資源や八菅神社と言う古来権力者に支援を受けた霊験あらたかな聖地も存在する。又、武田家と北条家の三増峠の大合戦を模した三増合戦祭りも毎年行われる。愛川町は歴史探訪で方々を旅している小生から見ても魅力的な観光地として推薦しフォローして置こう。

まぁ、三浦の小桜姫伝承とは関係なので愛川町と厚木市の話から、小桜姫の設定そのものに話を戻す。
何(いず)れにせよ、間宮家と真里谷武田家の血脈にも文献にも「小桜姫の名は1つも登場しない」ので、佐原三浦家、金沢北条家、楽巌寺家、真里谷武田家、間宮家関連の文書を調べ尽くしても小桜姫の名は明治時代に村井弦斎先生による創作されたヒロインの創作名であり伝承は小説に乗っかった観光客誘致目的での悪質な明治時代以降の創作と真里谷武田家の姫の伝承の混同と断言できる。
恐らく、悪意無く小桜姫の存在を歴史事実と誤認した連中の場合は歴史的な知識が乏しく小説が文語で書かれているので「あ~これは歴史書だ!」と思いこんだのだろう。
明治時代に桜の御所の出版で、小説のロケ地巡りとして三浦旅行が流行したので小説に乗っかった明治生まれのカルト宗教や聖地捏造した観光業の連中に騙されたり明治~昭和の歴史知識の乏しい人々が事実誤認した結果が招いたカルト流入と神社仏閣聖地の乗っ取り縁結び旅が今の三浦市の惨状な訳だ。

補足として三浦義意公は扇谷上杉家から三浦家を乗っ取った三浦義同(よしあつ)入道(にゅうどう=僧籍に入る事)道寸公の子で三浦の正当な血統とも言えないが人望と武勇は高かった。しかし、それ以上に父の三浦道寸公は北条早雲公のライバルとしても太田道灌公の親友としても有名な人物で名将だった。

間宮信高公の父君、間宮康俊公は歴史上の名将として有名で地理学者で幕府の御庭番を務めた間宮林蔵公、蘭方医学者の杉田玄白、東京大学の前身と成った江戸幕府官営の昌平坂学問所の頭取を務めた歴史学者地理学者の間宮士信公達の祖先のに当たる。
つまり東大前身の昌平坂学問所で頭取を務めた江戸時代の地理と歴史の大ボスの間宮家は小説で小桜姫と仮名された真里谷武田家の姫と遠い親戚同士であり、その間宮家が江戸幕府の命令で編纂した歴史書にも、後に老中の堀田家が編纂した家系譜にも、各都市の郷土資料にも、問題の時代の北条家の詳細な歴史書にも微塵も小桜姫の名前は登場しない訳だ。

では再び小桜姫の解説も戻ろう。
もう一度おさらいする・・・
モデルに成った人物は、どのような人物かと言うと御夫君の三浦義意(よしおき)公には、房総半島の小大名の真里谷武田家から来た正妻と側室がいた事実が有る。その姫様の内、側室だった方がモデルに成っていると推測出来る。
そして小桜姫の実家を楽巌寺家、或いは歴史的に最初で最後の金沢城主の金沢北条家と設定したのは、小説の舞台に成った時代に小桜姫のモデルに成ったであろう三浦義意公の実在の正妻と側室の生家である真里谷家が諸長子と嫡子の間で家督相続争いが起き、真里谷の姫の兄に当たる諸長子の真里谷武田信隆公が災難を逃れて北条家の支配する現在の横浜市金沢区金沢文庫辺りに亡命したきた事実が有る事を参考にし、同地の著名な鎌倉幕府重鎮だった金沢北条家の雅(みやび)なイメージをヒロインのイメージに取り込んだと思われる。
繰り返しに成るが、金沢北条家は佐原三浦家より約200年早く滅亡して同地に一族も生存していない。
久良岐郡(横浜市)の金沢城主も後にも先にも金沢北条家だけ。
楽岩寺家は戦国時代の小田原北条家の家臣に存在せず楽巌寺家は信濃国(長野県)の国人領主、よって三浦義意公の実在した正妻と側室の真里谷家の姫君がモデルなのは間違いない。
2015-04-01-13-10-04
※写真は小桜姫の実家として設定されている三浦義意公の時代より200年前に滅んだ❝金沢北条(かねさわほうじょう)家❞の邸宅跡、金沢文庫称名寺。江戸時代は真言宗の壇林として多くの学僧がここに学んだ。真言宗の別格本山の格式を持つ。
又、金沢文庫(かなざわぶんこ)の地名は金沢北条家の北条実時(さねとき)公が称名寺の隣の文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)の谷戸(やと=谷間に木戸を設けた居住区)に開いた日本史上初の私設図書館❝金沢文庫(かねさわぶんこ)❞に由(よ)る。
小桜姫伝説を生んだ小説❝桜の御所❞のシナリオは、いくつかの異なった時代の三浦半島周辺の歴史を融合させて構成されていると考えられる。
房総半島の真里谷城主真里谷武田家から三浦半島の新井城主三浦荒次郎義意公に嫁がれた❝真里谷の姫の最後の悲話❞

三浦義意公の時代よりも❝約200年前に実在し鎌倉幕府滅亡と同時に既に滅亡した金沢北条家❞の高文化で風流な家柄のイメージ
そして…
義意公の没後に三浦家の一族が活躍した❝鶴岡八幡宮合戦❞と❝真里谷武田家の跡目争いの内紛❞の史実。
2014-08-31-12-43-08
※写真は鶴岡八幡宮合戦で里見家と三浦一族正木家の放火で一度は鎌倉の町とともに焼失した鶴岡八幡宮。北条氏綱公の差配の下、三浦道寸・三浦義意公の盟友だった蒔田吉良家や太田家、北条家の武将達、諸大名によって敵味方の垣根を超えて再建事業が行われた。
以上の解説の通り、複数の史話と地元伝承をモデルにして融合させ脚色した
と思われる創作小説に登場する架空の人物が現代の小桜姫のイメージで小桜姫伝説は史実では無いが郷土に伝わる真里谷の姫の最期が小説の名とすり替わり、小桜姫とされる様に成ったと推測出来る。しかし新井城や主人公三浦義意公、その約200年前の金沢北条家の存在が歴史上実在した為(ため)に明治時代に小説内の小桜姫の物語や実際の歴史伝承が歴史に疎(うと)い庶民や自称:霊能者に史実と誤解され、流行小説の舞台として観光客向けに明治時代に小説のロケ地と思われる場所が観光名所と成り、自称:小桜姫神社の舞台等が南関東に多数、登場した。
実際の小桜姫神社の舞台は真里谷家の姫の悲話の有る諸磯神明社の境内地と三浦家旧臣の御子孫と地元民も伝えている。
後世、歴史に疎(うと)い人間が、小桜姫の存在や小説ロケ地と自称する場所を歴史事実上の神社と誤認した後に、更に時代が下って平成に成ると、その人気小説の聖地巡礼の名残が更に事実誤認を生んで平成の自称霊能者が明治の自称霊能者の書いた本を鵜呑みにして戦国時代の昔から存続する実在の神社かの様な誤解を生んだのが、❝小桜姫伝説の真相❞です。
❝桜の御所❞執筆者が❝小桜姫を金沢北条家❞としたのは、時代の違う家をヒロインの実家にする事で架空小説であり歴史小説では無い事を明確に読者に理解させる意図が窺える。
にも拘(かかわ)らず、歴史に無学な一部の自称霊能者が事実と誤認して、平成に入ってから紹介してしまったので多くの縁結びを祈願する女性に誤解を与える事に成った。無教養と言うのは罪だと言う典型的な例が誤った小桜姫信仰だ。
しかし実在した三浦義意公の正妻と側室に真里谷武田家の姫がいたので、小桜姫を真里谷家の姫とするならば御利益は否定出来ない。
但(ただ)し、自称霊能者が小桜姫としているのは架空の戦国時代の金沢北条家の姫であって、真里谷家の姫では無い。仮に真里谷家の姫で有るならば、明治時代以前に小桜姫と言う名前は伝承していない。
更に自称霊能者やカルトや商業利用を目論む輩等によって小桜姫神社と誤って違う弁財天を祀る洞窟を紹介しているケースが有るので、本記事内で区別して指摘しておく。

小桜姫の名の由来について
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村井弦斎が小説❝桜の御所❞を執筆した場所が、現在の三浦市三崎町1丁目に所在する本瑞寺だった。
本瑞寺は平安末期~鎌倉時代に征夷大将軍の源頼朝公が桜の花見の為(ため)にに築いた別荘❝桜の御所❞跡地。往時は境内地と対岸の城ヶ島に多くの桜が植林されていたと伝承する。
本瑞寺は小説で小桜姫の夫に設定されている三浦義意(よしおき)公が、戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に開基した史実の有る御寺だが、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した。現在の本瑞寺境内にも観光客向けの歴史説明看板が有る。その義意公の事績と、源頼朝公時代の桜の御所のイメージが小説に盛り込まれた。

小桜姫の御主人、三浦義意公と佐原三浦家の歴史事実について
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※写真は三浦家の拠点の一つ住吉城址から見た相模湾の風景。
三浦義意(よしおき)公が継いだ佐原三浦家は、平安時代末期~鎌倉時代の有力武士の三浦家の分家に当たる家系で、鎌倉時代に本家が滅亡した後に佐原三浦家が名跡を継ぎ、室町時代に鎌倉公方の有力家臣として活躍した家。
但(ただ)し、三浦義意公の実父の三浦義同(よしあつ)入道(にゅうどう:僧籍に入る事)道寸(どうすん)公は、鎌倉公方の家老の扇谷(おおぎがやつ)上杉家から、佐原三浦家へ戦国時代初期に養子に入った人物。
関東に於(お)いて韮山城主の伊勢宗瑞(北条早雲)公、江戸城主の太田道灌公と並び称された名将が三浦道寸公だった。
佐原三浦家と伊勢(北条)家は、扇谷上杉家が山内上杉家と和議してしまった事によって伊勢(北条)家と古河公方家(こがくぼうけ=鎌倉公方足利持氏公の子孫)の外交的な問題で対立するまで扇谷上杉家と古河公方家を支えた盟友だった。
やがて古河公方家―山内上杉家連合の成立により孤立した伊勢(北条)家は独立し北条家を名乗り関東の領地の支配権の正当性を主張して大森藤頼を攻め小田原城を奪取する。すると三浦道寸公は実母が大森藤頼の実父大森氏頼の娘であり大森藤頼は義兄弟に当たる為に、三浦家はやむなく伊勢家と対立するしか無く成る。
ここに岡崎城に大森家を匿(かくま)った三浦家と、伊勢家の戦端が開かれ、以後、断続的に10年に及ぶ岡崎城の攻防が繰り広げられた。
その後、岡崎城が落城すると、瞬く間に北条家は藤沢市の扇谷上杉家の初期の居城だった大庭城、逗子市の三浦家の住吉城を攻め落として、新井城に迫り、新井城では名将三浦義意公の奮戦と指揮により日本最長の約4年間の籠城戦を展開した後に佐原三浦家は滅亡した。
しかし房総半島の佐原三浦家分家の正木家が戦国時代に小弓公方足利義明・里見義豊と結び逆襲し、三浦半島を一時取返し鎌倉まで攻め込んだ鶴岡八幡宮合戦を起こした。しかし里見義豊が源頼朝公以来の武家の八幡信仰の総本社格であった鶴岡八幡宮と鎌倉市街で放火の上乱暴狼藉を働いてしまった為に支配するに至らず、寧(むし)ろ北条氏綱による鶴岡八幡宮再建事業が行われるに至って北条家による相模国支配の正当性が確立されて、三浦家残党の正木家は三浦家の故地に復帰する機会を逸してしまった。
※横浜市磯子区域にも鎌倉以来の三浦家の一族である平子家(ひらこ/たいらこ)がいたが、小生は平子家も鶴岡八幡宮合戦で正木家に呼応して、後に北条家によって駆逐されたと推測している。

以下、小桜姫と三浦義意公、三浦家歴代の史跡、聖地の一覧


●二伝寺…神奈川県藤沢市渡内
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三浦家の全ての直系子孫の祖先、平良文(たいらのよしふみ)公と初期御子孫の菩提寺。
現在の二伝寺自体は北条氏時公(北条氏綱公御実弟)により開基され、浄土宗大本山、鎌倉光明寺の正空和尚が開山と成って造営された寺院。
それ以前の記録は残らないが藤沢市の蟠龍山宗賢院や伊勢原市の蟠龍山洞昌院公所寺の実例を踏まえると、同所に前身寺院や廃寺跡が有り再興開基した可能性は有る。
又、同所は、戦国時代に難攻不落を誇った玉縄城址の出城二伝寺砦でもあった。秀吉の小田原征伐による戦国大名の北条家滅亡後は徳川家臣、大河内松平家の菩提寺と成った。大河内松平家は日光街道に杉並木を植林した一族。

●村岡城址公園…神奈川県藤沢市村岡
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三浦家を含めた良文流坂東平氏系の武将の祖先、平良文(たいらのよしふみ)公の居城跡。
城址公園としては遺構は略(ほぼ)、児童公園化されてしまい存在しない。子孫に当たる明治時代の海軍の東郷平八郎の甥の東郷吉太郎海軍中将が揮毫(きごう=文章を直筆で代書する)した石碑が現存する。
平良文公の子孫には名将が多く、鎌倉幕府御家人や戦国時代の大名に成った家系も多い。
主だった子孫の家系と名将を挙げると…
太字は特に有名な人物
【三浦家一族】
三浦義次
三浦義明三浦義澄岡崎義実・真田義忠・和田義盛・朝比奈義秀・朝比奈泰朝佐原義連・平子有長・正木時茂芦名盛氏由比正雪
【鎌倉家一族】
鎌倉景正大庭景義大庭景親梶原景時梶原景季・俣野景久・長尾景春長尾景虎(上杉謙信)
【渋谷家一族】
渋谷重国・早川実重・東郷頼重・祁答院良重・入来院重嗣東郷平八郎
【中村家一族】

中村重平・土肥実平・小早川遠平(小早川隆景の家名上の祖先)・土屋宗遠(土屋昌続の家名上の祖先)
【秩父家一族】
畠山重忠・江戸重長・喜多見重政河越重頼(源義経の妻の実父)・葛西清重・豊島泰経・小山田信茂
【千葉家一族】
千葉常胤千葉胤富・臼居胤知・千葉周作(山南敬助・山岡鉄舟・清川八郎の剣術師匠)・千葉定吉(坂本龍馬の剣術師匠)
…等の何(いず)れも名将が多い。

●衣笠城址公園…神奈川県神奈川県横須賀市衣笠
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※写真は衣笠城址の本丸跡と伝わる辺り、右側に長い土塁の遺構と思われる風化した盛土が続く。
本家の三浦家歴代の居城。三浦本家が滅亡するまで三浦党の本拠地として機能したが、三浦家滅亡時に廃城と成った。
石橋山合戦での源頼朝公蜂起に呼応し、三浦党は和田義盛公を陸軍大将として三浦義澄公を水軍大将として援軍を送るも陸軍は敵の大庭景親居城大庭城を背後にして相模川を渡河出来ず石橋山合戦に間に合わず、水軍も酒匂川辺りで源頼朝公は敗退し海路を房総半島に逃走してしまった事を知った。更に北から畠山重忠公率いる伊勢平氏(平清盛)の大軍が迫って三浦勢は西と北東から挟撃されてしまう形に成った。それを知った三浦義澄公の水軍は鐙摺城(あぶずりじょう)に撤退、和田義盛公の陸軍は衣笠城に帰還。三浦勢と畠山勢が逗子市住吉城辺りで戦端が開かれたが寡勢(かぜい=少数)の三浦党は撤退し衣笠城に集結する。当時の長老、三浦義明公は88歳と高齢だったが一族を源頼朝公に合流させるべく水軍で房総半島に撤退させ、自(みずか)らは衣笠城に直属の手勢を率いて籠城し畠山軍を引き付け囮(おとり)に成り時間稼ぎをした後、玉砕した。この義明公の活躍により、頼朝公は三浦党の軍勢を旗下に組み込む事が出来たので関東の制覇に繋がり、そして鎌倉幕府樹立へと繋がって行く…。
現地には一部分、土塁遺構と思しき連続した風化した盛土と、切岸と思しき地形が残存し、伝:本丸の広大な削平地と物見岩も現存する。
※ただし城マニア初心者には只の山にしか見えません。
嘗(かつ)ては城域だった、衣笠城址公園と谷を挟んだ衣笠山公園は現在では桜の名所として有名で、衣笠城址にも多くの桜が植林されている。
周辺一帯には三浦家所縁(ゆかり)の神社仏閣と、廃寺史跡が現存する。


大善寺…神奈川県横須賀市衣笠
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衣笠城址内に現存する鎌倉時代の三浦家の学問所の機能をした寺院。それ故(ゆえ)に山号も衣笠山と成っている。三浦家の文化醸成地の址。
大善寺自体も、嘗ての衣笠城の曲輪の一部と考えられる地形に存在していて、急峻な石垣は平安時代の切岸に後から石積みされ参道の階段が設けられたと推測出来る。
大善寺の裏手には、衣笠城本丸や物見岩と伝承する場所への入口。
又、御当寺の周辺は石垣城では無い時代の城らしい人工的な切岸と思われる断崖地形が連続している。

清雲寺…神奈川県横須賀市衣笠
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三浦家本家、分家の佐原三浦家の菩提寺。
三浦家本家の菩提寺は本来は圓通寺だったが、明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈の煽りを受けて存続困難に成り廃寺と成った。その後、三浦分家の佐原三浦家の菩提寺として開基された、現在の清雲寺に明治時代に成り圓通寺の三浦本家の菩提は合祀された。
嘗ての圓通寺を吸収した名残で本殿は圓通閣と呼ばれ、屋根の寺紋は三浦本家の三つ引き両紋である。
多くの三浦家所縁(ゆかり)の重要文化財を収蔵している寺院でもある。

●満昌寺…神奈川県横須賀市衣笠
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源頼朝公への忠義第一の名将として有名な三浦義明公の菩提寺。源頼朝公によって三浦義明公の供養の為(ため)に開基された寺院。
現在も頼朝公御手植えの躑躅(つつじ)が現存していて、頭を躑躅に突っ込むと賢く成ると伝承している。境内の三浦義明公の首塚とされる場所からは遺品が多数出土しており、事前に拝観予約すると御住職様の予定が空いていれば見学出来る。

●佐原城址…神奈川県横須賀市佐原
佐原城址 久良岐のよし
戦国時代初期の大名、佐原三浦家の平安時代の居城。
源義経の❝鵯越の逆落とし❞を立案した名軍師の佐原義連(さはらよしつら)公の時代からの居城。室町時代に成ると佐原家は佐原三浦家を名乗り三浦家本家と成り、居城を三浦市三崎町油壷の新井城へ転居した。
城址は横須賀ダイヤランドテニスクラブ周辺一帯の山で宅地開発により城址遺構は確認出来ない。昭和初期まで地名にも城址の名残りが在ったが、地名の字(あざ)と小名(こな)の廃止により地名も現存せず。

●鐙摺(あぶずり)城址…神奈川県三浦郡葉山町~逗子市桜山
鐙摺城 久良岐のよし
平安時代末期に葉山マリーナ近くには小浜の入江と呼ばれた湊(みなと)が在り、同港は三浦党の相模湾側の水軍拠点として機能していた。
300年余りの歴史を有する有名な和食店日影茶屋の前面に鐙摺城出丸と思しき旗立山が有る。
源平盛衰記に❝旗立山は鐙摺山の北❞と記載されている事から嘗(かつ)ての鐙摺城址の城域は、現在の日影茶屋周辺の現在は桜山と呼ばれる逗子市の葉山町の堀内地区一帯の桜山全域に及ぶ事が、地名と地形から推測出来る。
源頼朝公が伊勢平家(平清盛)に対して挙兵した石橋山の合戦に、三浦党は同地の小浜から三浦義澄(よしずみ)公を大将とした水軍を派遣するが小田原市の酒匂川辺りまで達するも、救援間に合わず頼朝公は伊豆半島より海路房総半島へ敗走した。
それを聞いた三浦義澄公は鐙摺城へ撤退。小坪辺り(住吉城か?)で畠山重忠公率いる平家軍の大軍に遭遇した三浦党との間で開戦。その際に鐙摺城址の出丸と思われる規模の旗立山に三浦党の軍旗を掲げたのが旗立山地名の由来。

●旗立山(鐙摺城址の出丸か?)…神奈川県三浦郡葉山町
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※写真は日影茶屋から見た旗立山と登リ口の階段。
鐙摺城址の項目で説明した通り、平安時代の三浦家の要害の一部。
旗立山には源頼朝の初期の通婚の妻女の実父の伊東祐親公の御廟所が在る。
伊東祐親公は頼朝公と三娘の間に生まれた子、千鶴御前(頼朝公の男児と伝わるが名前の後に付く敬称が❝御前❞である事からして伊東祐親公の三女本人の名だろう、子は❝千鶴御前の子❞とするべき)を見て怒り狂って家来に命じて溺死さた上に、三女は源頼朝公と離縁させて江間四朗(後の北条義時)に嫁がせてしまったとされる。この江間家四朗を北条義時と別人とする説も有るが、鎌倉幕府2代執権の北条泰時は庶長子なのに北条得宗家の嫡流に成り幕府の首相と成っている事、又、生前の頼朝公から可愛がられ初名が❝頼時❞だった事から千鶴御前と推定する歴史ファンも多いが証拠は無い。
同地に伊東祐親の供養塚を築いたのは三浦義澄公で、伊東祐親の長女は三浦義澄公の正妻だった縁に由(よ)る。
※仮に北条泰時公が伊藤祐親三女と頼朝公の実子だとしたら三浦一族が源頼家公・実朝公の将軍家御兄弟を見殺しにしたり、和田合戦の際に北条義時・北条泰時親子に加担した事は伊東家の血筋を優先した利害関係に基づくと説明出来る為、小生も北条泰時公の頼朝公御落胤説を否定出来ない。

●怒田城址…神奈川県横須賀市吉井
怒田城 位置 久良岐のよし
三浦一族で三浦長者と呼ばれた初代鎌倉幕府侍所別当職の和田義盛公の築城した和田家初期の居城で三浦水軍の最重要拠点だった。
同地は縄文時代~平安時代末期の城として活用された時期まで、半島で城址は浪に現れていた入江を抱える港湾の城だった。
現在も城址の麓(ふもと)には❝船倉❞の地名が残り、衣笠~佐原~怒田各城址の下を流れる川は嘗ての湾の名残。
源頼朝公の石橋山合戦での蜂起に援兵を送ろうとしたが間に合わず参戦出来なかった三浦家は、畠山重忠公率いる伊勢平家(平清盛)方の大軍に攻められる。その際に、主城の衣笠城より堅固な和田家が水軍と共に管理する怒田城への撤退を族長の三浦義明公に進言するが却下された。
しかし、義明公が衣笠城へ敵勢を引き付けた事で三浦軍は房総半島へ逃げる事が出来て兵力温存に成功し、それによって源頼朝公の関東制覇が成功する事に繋がった。

●金剛山無量寺・・・横須賀市長坂
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三浦一族で大出世し鎌倉幕府の初代侍所別当を務めた和田義盛公が開いた御寺。
明治時代の小説で小桜姫のモデルに成った三浦義意公の奥方の実家である真里谷武田家に戦国時代に御嫁さんを嫁がせた間宮造酒之丞家の菩提寺でもある。
近世に成り間宮造酒之丞家は東京に墓所を移したが、現在も戦国~安土桃山~江戸時代初期の間宮家の御廟所が大切に守られている。
三浦氏族和田家も間宮造酒之丞家も水軍大将の家系なので、海に関係する仕事の人が御本尊と間宮造酒之丞家の御廟所を御参りすると御利益が有るかも知れない。

●和田長浜(わだなはま)海水浴場・・・三浦市初瀬和田3136
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神奈川県屈指の水質の良さを誇る海水浴場。実は背後の丘陵一帯は和田城址で鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公と愛妻で女武将として有名な巴御前が暮らした場所だった。その二人の子供が鎌倉時代初期の名将として名高い朝比奈義秀公だったりする。
つまり、ここの海水浴場に思い人と遊びに来れば和田義盛公と巴御前の御威徳で良縁で結ばれたり、子宝に恵まれる事も有るかも知れない。聖地かどうかを抜きにしても風景も海水も綺麗な場所なので穏やかな時間を過ごせる場所である。

●扇谷山(せんこくさん)海蔵寺…神奈川県鎌倉市扇谷
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臨済宗の寺院で鎌倉公方足利持氏によって命を受けた、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定公によって開基された。
井戸を掘ると海水が湧いてしまう事の有る鎌倉市街において水質の良さで十本指に入る事から鎌倉十井(じっせい)の一つと呼ばれた❝底抜の井❞や、❝十六の井❞と呼ばれる神秘的な洞窟の中の井戸を寺領に持つ寺院。
風景が綺麗で、観光名所にも成っている。
周辺には❝鎌倉七切通❞の一つ❝化粧坂切通❞と、平清盛の家臣で源頼朝公暗殺を画策した❝藤原景清❞が幽閉された石窟❝景清の土牢❞、三浦道寸公の盟友である太田道灌(どうかん)公の直系子孫で徳川家康公の側室と成った❝於梶(おかじ)の方❞が太田道灌公の鎌倉邸古址に造営した東光山英勝寺等の史跡等が近在する。

●岡崎城址…神奈川県伊勢原市岡崎~平塚市岡崎
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※写真は岡崎城本丸跡に移転した無量寺。
鎌倉時代に三浦義明公の御実弟で猛将名高い岡崎義実(よしざね)公によって築城された。
本丸跡の無量寺裏手には、三連の郭と、堀切が非常に良好な状態で現存する。寺境内地を外れ農道を回り込むと辿りつける。
縄張(なわばり=城の設計)は典型的な扇谷上杉家流の群郭式縄張と沼田に囲まれた平山城。周囲は縄文時代~弥生時代の古代に海だったので沼地だった。
室町時代には三浦家を相続した佐原三浦家の城と成った。
戦国時代初期に小田原を攻略した北条早雲・氏綱親子によって攻められるが、三浦道寸(どうすん)公が籠城する岡崎城は守り堅く、攻略に10年を要した。
佐原三浦家は相模守護として相模国内の大半に領地を保持したが三浦時高が当主の代に犬懸(いぬかけ)上杉家の上杉禅宗が鎌倉公方(くぼう=将軍)の足利持氏(もちうじ)公に反抗して引き起こした❝上杉禅宗の乱❞の際に、三浦時高は犬懸上杉家を支持した為に戦後、鎌倉公方によって相模守護職を解任された。
永享の乱の際に最初は足利持氏(もちうじ)公に属したが、後に相模守護を解任された経緯も有って裏切り、鎌倉を占領し山内上杉勢と室町幕府勢を誘引した。
時高は無嗣(むし=男児がいない)の為、戦後、元鎌倉公方家臣の扇谷(おおぎがやつ)上杉家の上杉氏定の孫の三浦高救(みうらたかもと)公が扇谷上杉家から三浦家に養子に入り継いだ。三浦高救公の実子が三浦道寸どうすん)公。
三浦道寸公の嫡子が明治時代に流行した架空時代劇小説❝桜の御所❞の主人公でヒロイン❝小桜姫❞の恋人役の❝三浦 荒次郎 義意(よしおき)❞公。
三浦高救公は実家の扇谷上杉家当主が討死した際に、三浦家を子の義同(道寸)公に相続せ御自身は三浦の家名を捨てて実家の扇谷上杉に復姓しようとするが、養父の三浦時高は所領が扇谷上杉家の傘下に入る事に成ってしまう事から怒り、三浦高救公・道寸公親子は三浦家から追放された。
暫(しばら)くして道寸公は、この岡崎城で挙兵し三浦家に復帰し三浦時高は死亡した。その後、岡崎城は小田原城の北条家によって落城させられる。

●住吉城址…神奈川県逗子市小坪
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※写真は住吉城址内に築城時から建っている住吉神社。
住吉神社には住吉城址の説明看板が有る。住吉神社の削平地と石段下の削平地も往時の城の曲輪の名残りと思われる。
築城年代は定かでは無いが、要塞としては鐙摺城の旗立山の逸話に登場する❝小坪辺りで三浦軍と畠山軍が開戦❞と有るので、その際に三浦家が陣取っていたのが、この住吉城址と推測出来る。つまり要塞としての歴史は平安時代末期に遡(さかのぼ)れる。
本格的に城として運用されたのは室町時代の様で、現在の京急神奈川駅付近に存在した権現山城(ごんげんやまじょう)で起きた権現山合戦時に、伊勢盛時(北条早雲)が後詰(ごづめ=救援部隊)として❝住吉要害❞に入城した記録が残っているので、この頃に改めて戦国時代の城として改修されたと思われる。
城址は正覚寺~シーサイドコート逗子望邸~海前寺に及ぶ山城で近年まで遺構も存在したが❝シーサイドコート逗子望邸❞の開発によって破壊された。
又、城址には❝住吉神社❞があり、その背後には馬場に通じる抜け道の隧道が存在するが封鎖されてしまった。寺の参道の目の前にも封鎖された古道が有り古代の東海道の街道の一部と考えられている❝切通し❞が現存するが、逗子市が城址と古道史跡の保護を怠(おこた)った為に宅地化され塞がれて通行不可能な状態に成ってしまった。
北条家と三浦道寸公・義意公親子の抗争時、この城には道寸公の実弟で義意公の叔父に当たる三浦道香が城主として在番しており岡崎城を落とされ逃げて来た兄の三浦道寸も共に籠城したが、結局は北条家によって攻め落とされ、三浦家終焉の舞台、新井城まで撤退する事に成った。

●網代山海蔵寺…三浦市三崎町小網代
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曹洞宗の寺院で三浦義同(よしあつ)道寸公によって開基された寺院で、三浦道寸公、三浦荒次郎義意公の菩提寺。
新井城址に当たる油壷マリンパーク近くに三浦道寸公と三浦義意公の御廟所を所有する寺院でもある。
新井城址北側の港である小網代湾の直ぐ傍に在る事から、往時は新井城址の北の鬼門鎮護の寺院だった事も推測出来る。
寺名から三浦道寸公の実家である扇谷上杉家が開基した臨済宗の鎌倉市に所在する扇谷山海蔵寺と無関係では無いと推測出来る。
本来、扇谷上杉家も佐原三浦家も臨済宗の信徒だが、この海蔵寺が曹洞宗なのは曹洞宗の信徒であった伊勢氏流北条家の伊勢宗瑞(北条早雲)公が道寸公・義意の供養として御茶湯領を保護した際に改宗して曹洞宗と成った可能性が有る。
※網代山海蔵寺は原則一般参詣不可、非公開。檀家信徒の参拝だけ可能。
明治時代の小説❝桜の御所❞の小桜姫伝説を流布した自称霊能者とカルト団体のせいで、道寸公と義意公に敬意も無ければ仏教に対する信仰心も無い観光客が本堂も拝まずに帰ったり、建築物だけ写真を撮って帰る等の乱入が相次いだ為の処置。
※私見だが歴史偉人の菩提寺としては当然の対応で、カルト団体と自称霊能者と商業利用しようとした連中に問題が有るので御住職の御心痛は理解出来る。


●新井城址…神奈川県三浦市三崎町小網代

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※写真は諸磯湾の対岸側から見た新井城址遠景。
佐原三浦家の室町時代の本拠地。同地は現代の神奈川の景勝50選の一つでもある。
日本史上最長の約4年間の継続した籠城戦の舞台。
城址の主要部分は現在、油壷マリンパークと東京大学関連施設のある断崖の半島上に築かれた連郭式平城だった。周辺の城塞群と引橋を含めた巨大な群郭式の体を成しており、南・北・西を諸磯湾・小網代湾・油壷湾に囲まれており堅固な城塞群だった。
遺構は略(ほぼ)消滅したものの、東大関連施設内には部分的に土塁が残存、又、周辺の地名に❝引橋❞や❝千駄矢倉(せんだやぐら)❞等が残る。周辺にも引橋を置いた堀切の痕跡と思われる道幅程に削平地の幅がくびれた場所が数ヵ所残る。小網代側には住宅街に井戸も有る事から、海に突き出した籠城戦に際しても水不足に成る心配は無かった事が窺(うかがい)い知れる。

三崎漁港側の三崎城まで城域に含むと主張する説が有るが同説は根拠が無い。完全に別の城である。同時期に運用された可能性は比定出来ない。
※新井城落城時の悲話
(老夫婦の自害)
現在の三浦市南下浦菊名の❝引橋バス停❞付近に戦国時代当時に新井城の外郭の引橋(ひきばし=戦時に格納し敵の侵入を防げる橋)が存在した。その近くで当時は❝六万本の坂❞と呼ばれており茶屋を営む老夫婦が居住していた。
ある日、その老夫婦は相手が北条家の密偵とは知らずに、城と殿様の自慢話をして新井城の事を根掘り葉掘り解説してしまった。後日、老夫婦は、その人間が北条家の密偵で有った事を知ると老夫婦は「殿様に申し訳ない事をした」と心中してしまった。
これと類似の話が藤沢市の大庭城の船地蔵にも有るので、北条家は敵城偵察の際に地元の老人に話を聞く事も諜報活動の一環にしていたようだ。この老夫婦の悲話を三浦市発刊の郷土資料でも正式に紹介している。
(三浦義意公の妻女(側室とも)の最期)
現在の油壷マリンパークの半島上に新井城の主要部分が存在した。いよいよ小田原北条家(小説と小桜姫伝説では金沢北条家)の兵が新井城の主要部分に攻め込んでくると成った時、城主の三浦義意公の妻女は船で諸磯側に逃げた。その場所が諸磯神明社の辺りと現地で伝承するが、結局、三浦義意公の妻女は敵方北条家に捕縛されてしまった。小説では自害と脚色されている。
尚、小説内では結婚すらして居らず相思相愛のまま敵味方として最後まで戦い、思い人三浦義意公が新井城落城後に自害し、小桜姫が後追い自害したシナリオに成っている。
実際は兄の真里谷信隆公が北条家に亡命して庇護下に在った事や、新井城落城から約50年後に武田信玄の水軍大将として駿河で活躍し江戸時代に徳川家康公の水軍大将に成り間宮造酒之丞家として存続した間宮家分家の初代の間宮信高公は娘が真里谷武田家に嫁いだ姫である事から、北条家中でも真里谷武田家の血縁者が凄惨な扱いを受け殺害されたとは考え難い。
小桜姫伝承には不自然で小説中の脚色が史実と混濁されていると考えると自然。恐らく自害しておらず剃髪し門跡寺院だった鎌倉の松岡山東慶寺辺りで尼に成るかして生き延びたと考えた方が当時の価値観からしても自然だろう。

個人的な希望としては間宮家や鎌倉に居た千葉家分家臼居家に再嫁して名の残らない女性人物として幸せに成ってくれていた方が、前夫三浦義意公も安心するのではないかと個人的には思うが・・・
・・・脚色としては夫を思い自刃した方が小説としては美しい悲話に成り盛り上がるのだろう。

●新井城址の荒井浜海水浴場・・・三浦市三崎町小網代(こあじろ)1036
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新井城址の油壷マリンパーク裏手に在る海水浴場。和田長浜と並ぶ神奈川県内屈指の水質の良さを誇る隠しプライベートビーチの様な神秘的な雰囲気の有る海水浴場。夏季は素敵な海の家も営業し、浜辺には蓼科高原の白樺湖畔のペンションの様な素敵な民宿も通年で営業している。
水質の良さから何と河豚(ふぐ)が産卵に来る程の場所でもある。
マリンパークの直ぐ横なので、恋人や子連れ家族でマリンパークの水族館やイルカショーを見学てから来ても良いし、周辺には海鮮料理のレストラン食堂も数軒有り、観光地としても良い。
この浜辺には新井城で生活した三浦義意公と奥方の真里谷武田家姫君も一緒に仲良く散歩したかも知れないので、思い人や恋人と一緒に散歩に来れば三浦義意公と真里谷武田の姫の御威徳に肖(あやか)れて恋愛も成就するかも知れない。普通に散歩に来るだけでも素敵な場所。

●新井城址の弁財天様(小桜弁財天と誤って紹介されている)…神奈川県三浦市三崎町小網代
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小桜姫に縁結びを求めてくる巡礼者の多い場所だが実際は小桜姫とは全くの無関係な弁財天様。
但(ただ)し強い御利益あり、遭難して行方不明に成った江戸時代の漁師の身内が霊夢を得て、御告げの通り、この洞穴に祀られている弁財天様の折れた首を繋げて差し上げた所、三浦で遭難した漁師は無事、藤沢市辺り(鵠沼海岸辺りか?)に漂着して、徒歩、油壷へ帰還した。人命救助でも強い御利益が有る上に、元来、弁財天様は男神にモテた印度神話のサラスバティー神なので、当然縁結びの御利益も期待出来る。
何より強い御神威を発揮された事績が有るので、縁結びで御参りすれば御利益が有るはず。
※但し、小桜姫と関係ないので弁財天様として参拝して然るべき。

●小桜姫神社(諸磯神明社の摂社:若宮社に合祀?)…神奈川県三浦市三崎町諸磯
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本家本元の小桜姫神社。しかし小桜姫の名前は一切無い。
神明社本殿裏手の摂社群の内、左から二番目の若宮社に小桜姫が合祀されていると教えられた。
明治時代に流行した❝小説:桜の御所❞のヒロインとして登場する架空の人物の小桜姫と、地元に伝承する史実では(小田原)北条家による新井城攻めの際に、三浦義意公の妻女か側室が諸磯神明社の土地に実際に逃げて来たものの敵勢に発見され最期を迎えたとされる。
諸磯神明社は説明看板の字の劣化が激しく、現在、何が書いて有るかサッパリ読めない。
神明社なので主祭神は天照大神で間違いないだろう。
この話の姫君を小説と混同し小桜姫と比定して若宮社に合祀したのが始まりだろう。
若宮社とは本来は鶴岡八幡宮の御分霊である。しかし明治時代の廃仏毀釈運動と神仏分離令のせいで多くの八幡社は弾圧の対象となり消滅した。理由は八幡宮の主祭神:誉田別尊(ほんだわけのみこと)応神天皇は明治時代以前まで❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の象徴であった為だ。
平安時代以来の日本全国の八幡宮の総本社である石清水八幡宮には現在も仏像を安置する部屋が残されているし、鶴岡八幡宮の境内は明治以前は現在の横浜国大付属中学の敷地全てを含み壮大な仏教施設を持つ神宮寺が併設されていた。
❝若宮❞と言うのは、鶴岡八幡宮は造営当初は現在地ではなく由比地区に存在し、源頼朝公によって現在地を本社とて新たに造営された為に、❝旧の社殿より若い❞と言う事から鶴岡八幡宮の別名が若宮八幡宮と鎌倉時代当時に呼ばれていた名残りだ。よって鶴岡八幡宮の参道は現在も❝若宮大路❞の名で呼ばれている。
由比の八幡社は現在❝由比若宮❞と名付けられ再建されているが、元々は❝元鶴岡八幡宮❞と一般的に呼ばれている。
つまり、諸磯神明社の小桜姫神社は本来は鶴岡八幡宮の御分霊を頂いた若宮神社だったが、神仏分離令による破壊を免れる為、もう一つは先述の通り地元の姫の悲話に、後から架空の小桜姫の名前が融合し、廃社の危機にあったであろう若宮社=八幡社に小桜姫を御祭神とする事で存続を図ったと思われる。
しかしながら実際の姫君に小桜姫の名が合わさった形式なので、真里谷武田家の姫君として若宮社を御参りすれば実在した真里谷家の姫君にも三浦義意公にも縁結びの御利益を授けて頂けるんじゃないかと思う。但し、若宮社の本来の御祭神は八幡大菩薩=応神天皇=大鞆別命(おおともわけのみこと)なので、先に八幡様に御挨拶した上で真里谷武田の姫にも御挨拶をするべき。

●本瑞寺…神奈川県三浦市三崎町
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三浦義意公が戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に造営した寺院。その後、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した。
移転先に選ばれたのが源頼朝公の❝桜の御所❞と言う別荘地だった現在地だった事もあり、鎌倉時代の三浦家以来の御寺と勘違いされる方も少なくない。
平安時代末期~鎌倉時代は本瑞寺の丘と、対岸の城ヶ島には桜が植林されており、源頼朝公・源頼家公・源実朝公の将軍家三代に渡って遊覧の地と成っていた。
御当地は戦国時代の北条氏規の居城の三崎城址の一部だった。昭和初期まで土塁も一部残存していた事が三崎町公認の三崎城の縄張図から確認出来る。

●小桜観音…神奈川県三浦市三崎町城ヶ島
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古くから縁結びの観音様として有名な場所だった様で、実際に現在も縁結びの御利益が有るとされる。
名は本来は観音様であり、洞穴内に観音菩薩像も有るが近年、小桜神社に列しようとする動きが有った様で神道形式の真新しい御神体(鏡)が観音様を横に置いて洞穴の入口に正対する様に設置されている。
あくまで観音様なので、観音様を拝むと縁結びの御利益も有ると思われる。
又、観音様へ小桜姫への願掛けを御願いするのであれば、小桜姫の名の初出展となる小説❝桜の御所❝の世界観を大切にしたいならば、実在した先人に対して不敬に成らない様に実在した三浦義意公の奥方の「真里谷武田家の小桜姫様」と祈願の際に御名を念じて然るべきだろう。
尚、当時の三浦家の居城は城ヶ島対岸の三崎城でも無いし城ヶ島でも無いので、明治時代に小説のロケ地として推定され小説のファンが訪れたのが、小桜観音の名で呼ばれる様に成った理由と推測出来る。
同地には小桜神社と小桜観音両方の名が有るが、小桜観音自体の石積み等文化的な状況が仏教文化なので観音様として祀られていた歴史が先である事が明らかに解る。
実際に縁結びの御利益が昔から有った場所だから、後に小桜姫ロケ地巡礼の一つに成った事も推測出来る。
※何れにせよ、強い縁結びの御利益が有るのだから、「観音様と、小説の小桜姫様と、実在した真里谷家の姫君」として三方の名を思いながら祈願すれば神仏の加護を得られるのでは無いかと思われる。

●三崎城址…神奈川県三浦市三崎町
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※写真は嘗ての三崎城下水軍基地だった北条湾からの三崎城址の丘の遠景
伊勢氏北条家(小田原城主)の一族で名将の北条氏規公の居城。
築城年代は不明。
三崎城下の入江は北条家の三浦水軍の基地だった事から、現在、漁船の係留地は北条湾の名で呼ばれる。
城址の遺構は土塁と空堀は大部分が宅地化や学校建設で破壊されたが、搦め手側に土塁が一部残り、大堀切や部分的な曲輪の地形も大体の形を残して生活道路に成っている。
築城年代に関しては、三浦氏統治時代にも新井城の一部だった説が有る。
三浦義意公の開基した本瑞寺が三崎城址内に移転したのは江戸時代の事なので、当初は入舩地区に本瑞寺が造営されている事もあり戦国時代初期の三浦家の統治下では現在のメインストリートである三崎銀座商店街より更に南の平地に所在したので、三浦統治時代は漁村程度で水軍の船溜まりが在った可能性は否定出来ないが城塞が在った可能性は低く、新井城の出城説は全く確証が無い。
又、近くの海南神社は元々は筌籠弁才天と呼ばれ平安末期~鎌倉時代初期に三浦一族の和田義盛公によって開かれた弁才天様として有名だったが、やはりこの海南神社の参道も入舩地区へと続いている。
三崎城を鎌倉時代からの新井城城砦郡として含めるのは無理が有り、小桜姫伝説を利用した観光誘致の為に、城ヶ島を組み込む目的で三崎城址まで新井城の一部と無理な解釈をする動きに見える。
仮に小規模な要塞が平安末期に存在したとしてもあくまで新井城とは別の城。

三浦市以外の小説:桜の御所の小桜姫伝説のロケ地と伝わる場所
●天野神社…神奈川県愛甲郡愛川町坂本
三浦義意公と恋仲に成った小桜姫は、北条家と三浦家の双方の所領を天野神社辺りで中津川を挟んで、待ち合わせの相図に御互いに手鏡の反射を用いて連絡として、恋仲の逢引(あいび)き=男女の関係を繰り返した。
しかし、有る時、三浦家の敵方に小桜姫は三浦家の本城の秘密を漏らしてしまった事から三浦義意公によって誅殺されたと伝わる。
※当時の愛川町一帯の領主は津久井城主内藤家の分家で、佐原三浦家の領地は愛川町には存在しない、当然相模原側にも存在しないので完全なフィクション。また、佐原三浦家の居城は初期は岡崎城、後に新井城なので津久井の内藤家は全く関係ない。
※三浦家の居城、新井城の構造を北条方の密偵に騙されて漏らしてしまったのは、現在の神奈川県三浦市南下浦菊名の❝引橋バス停❞付近に当時本当に在った新井城の外郭の引橋(ひきばし=戦時に格納し敵の侵入を防げる橋)の近くで当時は❝六万本の坂❞と呼ばれた場所に居住した茶屋を営む老夫婦だと伝わっている。
又、この老夫婦の逸話を三浦市発刊の郷土資料でも正式に紹介している。
※観光客誘致のモデルとして御当地の別の伝承に小桜姫と三浦義意公を混同させたと思われる。
※愛川町が小桜姫伝説を混同した原因と考えられるのは、平安時代には三浦半島の津久井を治めた三浦一族の津久井家と、津久井城を治めた内藤家も鎌倉時代から存続した家と家伝に伝えていた為に混同されたと思われる。尚、津久井城主内藤家は北条家臣に成ったので、この史実も小説:桜の御所の小桜姫と整合性が無い。更に、津久井城主内藤家は北条家の津久井衆を編成し統治を任される身分だったが、その祖先を鎮守府将軍藤原秀郷と明確に自称している事から、やはり愛川町の小桜姫伝説は小説の話と地元の実在した事件の伝承の混同か、観光地としてのロケ地化宣伝に由るものと推察出来る。
※当然、実在した人物の伝承を混同している可能性が当然高いので、昔から縁結びの御利益が有ったであろう天野神社を御参りすれば縁結びの御利益が得られる筈(はず)。

さて…
纏めると
●三浦義意公の実際の本妻と側室は真里谷武田家の姫君なので、真里谷家の姫君として小桜姫を参詣しないと歴史に矛盾が出るし、三浦義意公にも側室の姫様にも失礼です。
●油壷の弁財天は小桜弁財天はなくて、漁師を遭難から救った強い御利益の有る弁天様であり、弁天様自体が男神にモテまくった神様だし美しい女神様だったから当然、縁結びを御利益出来ます。但し、小桜姫じゃなくて縁結びの弁天様として御参りしてね。
●小桜姫神社の場所は、諸磯神明社の摂社です。場所は本殿の後ろに並ぶ摂社の左から2番目の若宮社です。ただし、モデルに成った元からある三浦義意公の奥さんに纏(まつ)わる地元の伝承の神社の場所が諸磯神明社なのであって、明治時代の神仏分離令や国家神道の都合上、主祭神は天照大神です。小説の小桜姫様=実際の真里谷武田家の姫様に御参りする場合は「小桜姫様と伝わる真里谷家の姫様」と名を呼んで差し上げて然るべきです。
●小桜姫伝説は根本的に明治時代の小説、❝桜の御所❞が初出典であり創作ですが、実在した様々な時代の戦史や人物がモデルに成っています。舞台も実在した新井城で主人公の三浦荒次郎義意公は武勇に長けた名将でした。なので、新井城主三浦義意公と奥方に敬意を持った参拝をして下さい。
●もし、本当に小桜姫のモデルに成ったであろう真里谷家の姫様は三浦家をリスペクトするのであれば、紹介した神社仏閣や城址を巡礼しては如何でしょうか?自分の都合だけで縁結びを御願いしても、神様や仏様に成られた先人からすれば「何、この自分勝手なお願いしかしない奴?」と成るでしょうから。

【小桜姫以外で三浦半島付近の日本神話に登場する由緒正しい縁結びの神様の聖跡】
小桜姫伝説とは無関係ですが、ちゃんと神奈川県神社庁に認められた延喜式外社の神社で日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)様の夫婦神に関する神社が存在します。当然、縁結びの御利益は最高でしょう。

●走水神社…神奈川県横須賀市走水
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走水は現存する関東の地名で唯一の古事記にも登場する場所。
日本武尊と弟橘姫の夫婦神が一緒に過ごした御所ヶ崎の近くに建つ縁結び、勝負運、交通安全、漁業に強い御利益が有る神社。
走水神社本殿の地下には日本武尊が奉納した冠を入れた石室が埋蔵されていると伝承したが、近年の本殿改修で実際に石室の蓋が発見された。開封されず社殿再建で石室を埋蔵し、そのまま地下に保管されている。
同神社近くの御所ヶ崎で御二人が過ごされ、かつて弟橘姫を単体で御祭りしていた御所ヶ崎の砂が縁結びの御守りとして無料で配布して頂ける。大伴黒主と伝わる人物が御二人を歓待したと伝わるが、同様の伝承が神奈川区六角橋にも伝わり、六角橋の地名由来は日本武尊が使用した箸が六角形で大切にされた事から六角橋の地名に転化したと伝わる。そして六角橋の久応山宝秀寺が日本武尊を歓待した大伴久応の邸址と伝わる。この六角橋の大伴久応と走水の大伴黒主は恐らく同一人物か一族だろう。
古代の大伴家は古代の天皇=大王の近衛部隊を率いた軍閥であり、一族の佐伯氏ともども水軍を率いた人物なので六角橋~三浦半島にかけて勢力を誇ったのだろう。
走水では大伴黒主は漁師で海鮮料理人でもあると伝わる事から、まず水軍関係者で間違い無いだろう。
走水神社は普段は宮司不在だが、氏子様が交代で在番しており御朱印も頂けます。

●宝秀寺・・・神奈川県横浜市神奈川区六角橋
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太平洋戦争等の戦火や各時代の火災で古い物は存在しないが、門前に神話の時代(弥生時代頃)に日本武尊一行を歓待した大伴久応の土饅頭=陵墓型の供養碑が有る。その大伴久王の邸址と伝承する聖跡に後世に成り寺院が建てられた。
実は背後の丘陵は戦国時代まで神大寺と言う恐らく権現山城(京急神奈川駅近く幸ヶ谷公園~本覚寺一帯に在った城)の戦いだと思われる戦火で焼けた大寺院が存在した。名前の通り神様との関係が推測される事から、神大寺は日本武尊と弟橘姫を祀る寺院化した聖地だったと推測出来る。これ等の推測と宝秀寺の伝承を補強する史実として周辺の三枚橋町辺りに“店屋”の地名が残り亀甲峠と呼ばれた神奈川区浦島~新横浜駅篠原口へ繋がる丘は古代の街道だった。そして店屋の意味は古代大和朝廷の官営の駅伝制つまり伝達手段の馬の交換地点の事で、既に弥生時代後期頃には古墳時代に駅伝制の基地が置かれる前身の集落が形成されていた可能性が高い。
更に、神話では日本武尊に大伴部と吉備家の軍団が与力として与えられている事実が日本書紀に記載されている。この大伴部の部は部落の部で有り、古代の部落と言うのは一族が固まって住む集落の意味であるので港湾を抑えた水軍一族の大伴家が全国から集まり日本武尊を援護した事が推測出来る。
これらの走水の伝承、宝秀寺の伝承、神大寺の存在と寺名、三枚橋町周辺の古代地名の店屋の全てはリンクしており、更に佐伯一族大伴家が水軍豪族だった史実と天皇の近衛武将だった事もリンクしている。
余談だが源氏所縁の鶴岡八幡宮も宮司家は戦国時代まで大伴家だった。

●橘樹(たちばな)神社…神奈川県川崎市高津区
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弟橘姫が、日本武尊の房総半島への渡海の神事で東京湾に入水した後に、遺品の装飾品が流れ着いた場所が現在の橘樹神社の所在地で、神社の社殿の真裏の宅地化されてしまった丘陵は弟橘姫の古墳と古来から伝承している。
時代を経て橘樹神社の境内地は縮小し、宅地化により古墳の大部分は消滅したが古墳の最頭頂部は部分的に現存し、保護されている。
弟橘姫の古墳なので、当然、縁結びの御利益は強い。

以上、❝久良岐のよし❞による小桜姫と三浦家関連の史跡群と史実と伝承の解説でした!

…まだまだ紹介しきれてない❝真のパワースポットを抱える神社仏閣❞が沢山あるので、早く書きたいと思っています。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

※本記事は時間が無くて写真未掲載ですが、順次、実際の場所の写真を差し込んで行きます。