有鹿神社(あるかじんじゃ)奥宮…延喜式内社
主祭神:有鹿比女命(あるかひめのみこと)。※海老名市の有鹿神社本宮は有鹿比古命(あるかひこのみこと)が主祭神。
御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・家内安全・家運発展
開基:縄文時代には既に湧水の聖地として存在した。
中興:天智天皇・孝謙天皇・清和天皇・相模国司歴代・海老名家
場所:相模原市南区磯部勝坂、勝坂遺跡の有賀谷。
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平安時代の人々から見ても古いと思っていた歴史有る神社を醍醐天皇の時代に後世に伝え保護させる為に記録させた❝延喜式神名帳(えんぎしきじんめいちょう)❞と言う古文書に掲載されている神社を、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)と呼ぶのを皆さんは御存知でしょうか?
平安時代、西暦900年代は既に古来の律令制度での国家運営が難しくなっており、それを改善する為に発布された延喜式政令の一端として行われた宗教政策みたいなものです。
つまり、この延喜式神名帳に掲載されている神社は現在の規模が如何に小さかろうが、現代の建物ばかりデッカイ神社よりよっぽど神様の歴史の重みと重要さが別格に高い訳です。
別に建物だけデカイ神社なんて、金儲けのセンスの問題ですからね…
さて、そんな延喜式内社が神奈川県旧相模国域に13座、武蔵国域に1座有ります。
その内の一つが縄文時代からの聖地❝有鹿谷❞に存続する有鹿神社の奥宮(元々の神社の発祥地)です。
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現在、有鹿神社奥宮は石の鳥居と祠(ほこら)が有るのみですが、その前を流れる小川を数mたどると現在も縄文時代から湧き続ける聖なる水源が有ります。
本来は、有鹿神社はこの辺りに立派な社殿が存在したはずなのですが、相模国の国府が海老名郡に置かれ、平安時代末期に坂東平氏良文流の名族の海老名氏が海老名郡を支配する様(よう)に成ると、海老名郡の総鎮守として、有賀神社も奥宮から現在の海老名市上郷に在る現在の本宮に重要度が移管させられました。
なので、近くの中宮には、本宮の聖地であったであろう池が在りました。恐らく縄文時代~弥生時代には安全な飲水として古代人に重宝されたであろう聖なる湧水地の池も土砂の堆積(たいせき)で消えました。しかし現在も本宮はや中宮の祠の近くには、聖地奥宮の有鹿谷から流れる鳩川が流れています。

延喜年間に聖地とされた場所は延喜式内社の他にも有ります。
そこは平安時代当時に御寺とくっつい修験者(山伏:やまぶし)の道場や天皇家の勅願所、又は国府や郡府として機能していた関連で延喜式神名帳には神社として掲載されていなかった場所で、小生の知る限りでも神話の舞台の日本武尊と弟橘姫の走水神社(はしりみずじんじゃ)・橘樹神社(たちばなじんじゃ)・師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)・八幡橋八幡神社(やはたばしはちまんじんじゃ)等が有ります。
これらは延喜式に掲載されていない事から、❝延喜式外社❞としてカテゴライズされています。
●走水神社の記事

●橘樹神社の記事

●師岡熊野神社の記事

延喜式外社は朝廷を乗っ取り天皇家を傀儡(かいらい)としていた❝藤原家にとって歴史的に都合の悪い場所もあり❞素戔嗚尊を祀(まつ)る祇園社、八坂神社、八剣神社、剣神社、出雲社、津島社も多くが延喜式内社から除外されてしまっています。

さて、延喜式内社と延喜式外社の説明はここまでにして、有鹿神社奥宮の説明に戻ります…
冒頭少し説明しましたが、有鹿神社の奥宮は平安時代末期に海老名市に本宮機能を移転した有鹿神社本宮の元宮です。
そして縄文時代からの文化を受け継ぐ聖地の湧水地に鎮座する神社な訳です。
ですので、この神社を語るには、縄文時代の住居が多く出土した旧境内地の勝坂遺跡の存在と、何故(なにゆえ)御祭神が伊勢神道系の皇祖神ではなく日本神話と関係無い土地神様なのかを解説する必要が有ります。
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※上の写真は有鹿神社奥宮の旧社地に在る勝坂遺跡。
そもそも現代の神社は社殿に祀られた御神体の銅鏡(かがみ)を拝む文化で、神社の建物自体が聖地とされてしまっていますが、縄文時代や弥生時代の神話時代の信仰を受け継ぐ古社の文化は全く現代の神道の鑑を拝む文化とは異なり、聖なる池や聖なる山、又は神様と成った神話時代の歴史偉人の御使用された祭器や武器その物等の遺品が信仰対象に成っていました。
ですから日本最古と呼ばれる奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は三輪山が御神体ですし、熱田神宮は本来は日本武尊を祀った神社だったのでその遺品で三種の神器の一つ草彅剣(くさなぎのつるぎ)=天業雲剣(あまのむらくものつるぎ)が御神体とされています。
もっとも、日本の神剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)=天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と二つの名で呼ばれ同一視されていますが、実は熱田神宮にも東京の皇居にもそれぞれ一振りずつ神剣が存在している事から、小生は初めから2振りの剣が日本国には古代から存在していて、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は別の神剣だと推測しています。
更に言えば伊勢神道に神剣が2振り有る事や銅鏡を御神体にする文化は弥生時代の卑弥呼が魏の皇帝曹叡から贈られた宝剣2振りと銅鏡200枚に由来していると個人的に推測しています。
神剣が天叢雲剣と草薙剣の2振り有るのに神剣が1振りしか無いように世間に誤解されているのは、恐らく藤原家が自家に都合良く古事記の文書化や日本書紀の編纂で歴史を改竄した結果、発生した矛盾によってこの様な事態が発生してしまったのだと推測しています。
皇居には壇之浦の合戦で安徳天皇が平家と無理心中した時に海中に紛失した天叢雲剣のレプリカが有りますが、熱田神宮にも日本武尊が東征に携行した草薙剣が保管されており熱田神宮の公式見解で神器として祀られてより新羅人に盗まれた時以外に境内から外に持ち出された歴史は無いとしている事からも、元来、日本に神剣が2振り有った事が明白です。
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勝坂遺跡入口
江戸時代にキチガイ領主だった徳川光圀(水戸黄門)によって創始された歴史の浅い水戸学を元にして、明治時代に文化や宗教の欧米化を指導した森有糺等の介入により成立した国家神道により、神社の社殿を聖地とする伊勢神道の価値観が基準とされ、更に皇祖神とは異なる神様は軽視されてしまいました。
結果的に縄文~弥生~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸時代の価値観はつい最近の150年前に否定され、以来、土地神様や伊勢神道の神様と異なる主祭神を祀る延喜式内社の多くは明治~大正~昭和に急速に廃(すた)れてしましました。
これは、他の延喜式内社の解説記事でも書いているので、カテゴリー「延喜式内社と歴史千年以上の古社」から選んで読んでみて下さい。
少々脱線しますが因(ちな)みに、小生が水戸黄門をキチガイ扱いするのは彼が領民に重税を課し農民達を苦しめた悪人であり、更に犬の皮を剥(は)いで生皮を将軍の住む江戸城に投げ込む変態行為を行った文字通りの精神異常者だったからです。
彼に関しては、ヤンキーで少年時代に不良グループと群れていた事実以外は全くTVの水戸黄門と異なる作られたイメージなんですね。
彼の評価が高く成ったのは犬を虐待して当時の将軍の徳川綱吉の生類憐みの令に反抗してみせたパフォーマンスと、その反幕府的な姿勢が幕末に後の明治政府の重鎮達に手本にされたからでした。
そんな訳で、彼は江戸時代にも多くの八幡宮等、伊勢系統の神様と無関係な神社仏閣を多く破壊した悪事を行っています。
そんな彼の創始した水戸学の誤った知識により、縄文時代~江戸時代末期まで自然崇拝や土地の神様を大切にした古来の神社文化は衰退させられてしまいました。
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しかし、この有鹿神社や日本全国の延喜式内社には、日本書紀の神話にも登場しない土地神様や日本武尊や弟橘姫が主祭神として存続し、更には縄文~弥生~古墳時代の遺跡を旧境内地に埋蔵した聖地に建っていた場所が多く有ります。
以前に紹介した❝大山阿夫利神社❞や❝比々多神社❞は正に、そんな場所ですね。
●大山阿夫利神社の記事

●比々多神社の記事

この有鹿神社奥宮の有る有鹿谷の上の丘の勝坂遺跡は、有鹿神社の湧水地を聖地としていたであろう縄文の人々の住居跡が発掘調査され、復元され無料見学出来る史跡として整備されており、御参りする時に子供を連れてくるだけでも良い課外学習に成るでしょう。
小生が良く使用する画像ですが、延喜式内社は縄文文化を受け継いでいる証明にも成るのが、縄文時代の海岸線と所在地をGoogle earthで重ね合わせた画像です。
延喜式内社・式外社と縄文時代の海岸線 久良岐のよし
約6000年前の海岸線は今より遥かに内陸に在り、前鳥神社(さきとりじんじゃ)と平塚八幡宮の奈良時代の地殻変動で隆起した地形以外に所在する式内社・式外社は全て、縄文時代の海岸線と一致する位置や湧水地に現在も存在しています。
そんな訳で勝坂遺跡も有鹿神社の聖地である有賀谷の横に在る訳で、縄文時代の村落の史跡の横の有鹿谷が有賀神社の奥宮な訳です。
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勝坂遺跡に復元された住居には、展示時間内なら自由に入る事も出来ます。
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当時の人々の暮らしも想像できますね。
ただ、この住居内部の復元は、横浜市南区の三殿台遺跡程緻密には行われていませんし展示館も無いので、もし日本の神代に当たる縄文時代の人の暮らしに興味が有る人は、横浜市都筑区の❝横浜市歴史博物館❞と横の❝大塚最歳土(おおつかさいかちど)遺跡❞、復元住宅と生活を見たいなら横浜市南区の三殿台遺跡を見学すると良いと思います。
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勝坂遺跡も、住居跡の凹みにちゃんと解説文が説明板に書いて有るので、基礎知識を学ぶには良い場所だと思います。
ここは、日本文化を守って下さる神社の宮司様や御寺の和尚様達にも訪れて、日本文化と伝統の起源を改めて見つめ直して欲しい場所でもあります。
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この勝坂遺跡の入口と、勝坂遺跡の途中に有賀谷に降りる遊歩道の入口が在ります。
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その遊歩道を歩くと相模原市教育委員会の原生林を復興した照葉樹林があります。
明治~昭和期に日本の多くの山は建築材料の調達目的で原生林が伐採され杉の木が植林され生態系が破壊されてしまった場所が多く有ります。
それを踏まえると、この相模原市の取り組みは素晴らしいですね。
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この森をずんずん進みます。
すると…
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有鹿谷の底、小川と湿地の畔に出ます。
ここで生息する希少な生物の説明も有りました。
その傍らに在るのが、有鹿神社奥宮です。
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しかし、この奥宮は聖地の入口に境界の様に建てられています。
平安時代末期までは、上の勝坂遺跡とこの辺りに立派な社殿も存在したのでしょうね。
そして、この祠の前の小川を少し遡(さかのぼ)ると、この地が古来の神道文化を保持している所以(ゆえん)たる聖地が現在も日本文化を大切にする方達に守られていて…
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有鹿谷の壁面から、コンコンと湧き出る有賀神社奥宮の聖水とも言える湧水地ですね。
実は縄文時代~古墳時代の人々の生活で重要な事は飲み水の確保でした。
昔の人は大きな川の水を飲んでいた訳では有りません、そんな事をすれば、いくら昔の綺麗な川でも感染症を起こして死にますからね。
かと言って井戸を掘削する技術も実は平安時代位まで普及しておらず、江戸時代に成ってもまだまだ現代の様に地盤によっては垂直に井戸を掘れる技術は有りませんでした。
だからこそ、この有鹿谷の有鹿神社奥宮を含め、延喜年間には存在した神社…
伊勢原市の大山阿夫利神社や横浜市港北区の師岡熊野神社、東京都あきる野市の二宮神社(二宮小川大明神)、関東最古の大社で日本武尊が造営した埼玉県久喜市の鷲宮神社の様に縄文時代~古墳の史跡や自然湧水地を抱える場所が多い訳です。
●鷲宮神社の記事

どうでしょう?
有鹿谷と有鹿神社の大切さ、縄文人代の先輩達から~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸と、現代人の我々へ受け継がれている事を辿(たどる)る事で御理解頂けたでしょうか?
この縄文の人を潤し、弥生~昭和まで農耕の灌漑用水としても利用されたであろう母なる水を湧かす聖地有鹿谷の神様が、有鹿比女(あるかひめ)と言う女神様である事も忘れないで下さい。
現在の神道も、縄文~弥生~古墳の習慣が残っていますが、更に神話にも登場しない古い時代の神様を平安時代の醍醐天皇達の次代には現代よりも大切にして、現代人の私達に対して❝延喜式神名帳❞を通じて「ちゃんと保護し大切にしなさい!」と伝えてくれた事も忘れないで下さい。

…余談ですが、現在は御寺に成っている横浜市中区にある❝国家君が代と吹奏楽の発祥地❞である妙香寺は日蓮宗の御寺ですが、昔は真言宗の弘法大師空海和尚が開山の御寺だった歴史が有りますが同地の丘には打越の霊水やワシン坂の霊水と言った自然湧水地を多く抱える場所であるのですが、実は空海和尚は自然湧水地と日本神話の日本武尊信仰を大切にされていたので日本武尊神話の伝承地に日本武尊が崇拝していた牛頭天皇=素戔嗚尊を祀る牛頭社や須賀社を開いたり、聖徳太子を祀る太子堂を開いたりしています。
恐らく、横浜市の妙香寺や弘明寺は御寺に成る以前には神社としての機能が有った聖地なのだと思います。
その推測を強化するのが、弘明寺の旧境内地からは❝国府瓦❞が出土しているからです。
国府瓦と言うのは郡衙(ぐんが=群の政庁=現代の市庁舎のような存在)を建設する際に、国府の陶磁器や須恵器を焼く釜で製造され、郡の政庁の建設の際に使用された特別な瓦の事です。
武蔵国橘樹郡の郡役所だったと推定されており、背後の宅地の丘が巨大な弟橘姫の円墳である橘樹神社や、東京都府中市に在り武蔵国の国府として機能していたと推測されている大国魂神社が有る事からも、妙香寺や弘明寺は神社の旧跡に日本神話を大切にする空海和尚が御寺を建てたと考え復興したと自然に推測出来たりします。
これ等の場所が古代の海岸線の港や湧水地である事も、有賀神社や延喜式内社の歴史を辿る事で輪郭が見えてくる明治時代以前の人達の信仰の形だったりする訳ですね。
妙香寺はカテゴリ「御寺」に解説が在りますので興味が有れば読んで見て下さい。
●妙香寺の記事

●湧水地の記事


この有鹿神社の御利益と関わった人物ですが、天智天皇の治世、天平勝宝年間=孝謙天皇の治世、貞観年間=清和天皇の治世にそれぞれ中央との関わりの有る祭事や神社の格上げが確認出来ており、師岡熊野神社や比々多神社同様に朝廷からの支援が有りました。
御利益は、有鹿比女(あるかひめ)様が水の女神さまであり縄文~弥生の開拓地である事から灌漑水田農業振興の神様として農耕の豊穣の御利益、そして本宮の有鹿比古(あるかひこ)様と夫婦神様なので日本武尊と弟橘姫様みたいな縁結びと家内安全が期待できますね!

さて、有鹿神社奥宮の聖地と遺跡の解説はここまで!
次回は、鎌倉時代に移転した海老名市側の本宮の解説をします。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!