有鹿神社(あるかじんじゃ)本宮・中宮…延喜式内社
主祭神:有鹿比古命(あるかひこのみこと)。 ※相模原市の有鹿神社奥宮は有鹿比女命(あるかひめのみこと)が主祭神。
御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・家内安全・家運発展
開基:奥宮は縄文時代にには存在。本宮は弥生時代の遺跡を内包し、奈良時代には国府鎮護として鎮座した。
中興:天智天皇・孝謙天皇・清和天皇・相模国司歴代・海老名家
場所:海老名市上郷。相模国国府跡や国分寺跡が徒歩30分程の場所に在る。DSC_0138
平安時代に関東総鎮守と朝廷に認定された神社の一つ有鹿神社(あるかじんじゃ)が海老名市に鎮座している事を皆さん御存知でしょうか?
前回の記事で紹介しましたが、この有賀神社は元々相模原市緑区に縄文時代の遺跡と共に存在する聖地❝有鹿谷❞に鎮座する奥宮から海老名郷の鎮守として遷座させられ、更には貞観年間に関東総鎮護、正五位の格式に成り、更に鎌倉時代に成ると正一位の各式に定められました。
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上の写真は相模原市南区勝坂に存在する聖地❝有賀谷❞の有賀神社奥宮。縄文時代の遺跡を旧境内地に内包し、その場所には縄文時代からの湧水地の聖地がある原始神道の文化を良く留める。

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さて、何で現在の場所に本宮が有るかと言うと、本来の有鹿神社の草創期の史跡は縄文時代の勝坂遺跡と共に相模原市緑区に現存するのですが、この本宮の場所も❝有鹿の社(もり=森)❞と言われた聖地であり弥生時代の遺跡が周辺から発掘されていたりします。
…神奈川県教育委員会は土建屋と結託しているので、ここでも旧境内史跡を保護せず神社は衰退していくのですが、昔の人がどれだけ、この神社を大切にしていたかと言うと凄まじい歴史が有りまして…
ここが本宮と成った所以(ゆえん)は奈良時代に海老名郷(昔は有鹿郷と言った)が相模国の国府と成った事が一番大きいと小生は推測しています。
有鹿神社は近所に現存する真言宗総持院は明治時代に成るまで有賀神社と一帯に成り神宮寺として機能していましたが、その規模は塔頭僧房合計12坊や幾つもの摂社を巨大な境内地に抱える大規模なものでした。
更に、中宮、奥宮を抱え、天智天皇の時代の西暦664年に国家鎮護の祭礼が行われた記録も有ります。
現在の本宮周辺の位置関係を見るとこんな感じ…
有賀神社と相模国府の位置 久良岐のよし
丁度、聖地❝有鹿谷❞から流れ出す鳩川(有鹿川)と相模川の合流する流域であり、相模川が蛇行しながら河岸段丘にぶつかり、他の支流とも合流する増水すると氾濫(はんらん)する辺りに本宮が鎮座し、更にその本宮の東側には旧相模国国府や国分寺の跡が在ります。
つまり、国府の政庁を守る治水の神様の役割も期待されていた事が位置的に推測出来ます。
まぁ、そもそも、本宮の御祭神は有賀比古(あるかひこ)様ですが、奥宮の神様は水神様でもある奥さんの有賀比女(ありかひめ)様ですから、これは当然とも言える配置ですね。
因みに有賀比古の神様は太陽神です。ですから、治水と太陽に関連深く農業とも関連の有る神社とも言えます。
余談ですが、この地域が奈良時代の相模国の中心だった事を示す国分寺の史跡は発掘され公開されています。
相模国国分寺跡 久良岐のよし
この国分寺は歴史に疎(うと)い人は知りませんが、古代、全ての国府に置かれた寺院でした。
ですから、ここが相模国の中心として機能していた時代が有った証明に成る訳です。
この辺りまで古代は海だったので、現在ではだいぶ内陸の海老名市が現在の感覚で言う神奈川県の県庁所在地に成っていたんでしょうね。
延喜式内社・式外社と縄文時代の海岸線 久良岐のよし
小生のブログを読んでくれている人にはもう御馴染(おなじみ)の画像ですが、Googleearthの画像に古代から存続する延喜式内社と式外社を表示させ、そこに縄文時代の海岸線の画像を貼ると、大凡(おおよそ)延喜式内社と式外社の位置は縄文時代の海岸線と符号します。
そんな訳で、古代から存続し霊験鮮(あらた)かな有賀神社ですが、現在は近所に遷座した中宮も古代は聖地有賀谷から流れる鳩川沿い座間市入谷の左岸の諏訪明神辺りに在ったそうで、西暦500年代に伊勢鈴鹿から移って来た右岸の鈴鹿神社の神様と争って敗戦し、現在の本宮へ本拠を移したと伝承が有るそうです。
鈴鹿の神様は船で遭難し入江の東岸に流れ着いたとされており、それが現在の場所だとされています。
上の画像で説明すると、当時の海岸線は白く表示した部分と推定されていて恐らく西暦500年代位はまだ、この地域は浅い入江だったと思われます。歴史とも神話は整合性が一部有ります。
有賀神社中宮推定値の諏訪明神と鈴鹿明神の位置関係 久良岐のよし
この画像は有鹿神社中宮の在った場所と推測されている諏訪明神辺りと、鳩川を挟んで右岸が有鹿神社の神様と争った鈴鹿明神です。
縄文時代より弥生時代の方が温暖だった可能性が有り、上の上の画像で示した西暦紀元前6000年頃より弥生~古墳時代の入江は更に内陸に広がっていた可能性が有ります。
その証拠に伊勢原市比々多神社周辺や足柄上郡寒田神社周辺には、縄文時代の海岸線より更に内陸ですが❝島❞と名の付く地名が多数現存しています。
因みに、初代の佐賀牟国司は建御名方(たけみなかた)神の御神孫と伝わっています。
建御名方神は、長野県諏訪大社の御祭神で軍神あり治水神です。
この座間市の鈴鹿明神の伝承では、鈴鹿明神の神様の財産を有賀神社の相模原市勝坂の有賀神社の神様が横領しようとして争った際に諏訪明神や弁天様が鈴鹿の神に与力し有賀神社の神様は敗戦し、現在の本宮に来たとされています。
もう一度位置関係を見てみましょう。
有賀神社の奥宮中宮本宮の位置関係 久良岐のよし
実は西暦500年代に大地震が有って神奈川県内陸まで広がっていた海の入江の海底が隆起し土地が出来たはずなので、中央から開拓目的の人間が鈴鹿の移民し入植して来てもおかしくない訳です。
この土地隆起による耕作地の出現が佐賀牟国の武蔵国・相模国分裂の切っ掛けに成り、更に旧相模国の国府祭(こうのまち)と言う神事の元に成った神様同士の争いや、武蔵国造の乱の切っ掛けに成ったと小生は推測しています。
しかも建御名方神の別名は❝伊勢都彦❞だった事が解っていて、現在の伊勢の鈴鹿辺りもこの諏訪神の一族がいた筈(はず)なので、諏訪神=建御名方神=建御名方神の御神孫=佐賀牟国司が鈴鹿からの入植者をかばい在来の有鹿神社の豪族と争った可能性は非常に高いと思います。
もっとも、有鹿神社や先住民からすれば、国司の一族と推測出来る鈴鹿明神の入植者達は侵入者な訳ですがね…。
更に言えば建御名方神は本来、建南方神と書いたそうなので、卑弥呼に敵対した南方の狗奴国と言うのは弥生時代末期~古墳時代の諏訪神族を指し当時の諏訪神族は伊勢辺りまで勢力を誇っていた、もしくは伊勢辺りが根拠地で後に諏訪にまで押し込まれたと神話と歴史を融合させると推測出来ます。
この辺りが、後に天智天皇等、皇統系に有賀神社が国府鎮護や関東鎮護とされ朝廷の後援を受けた理由でもありそうです。建御名方神は朝廷方の祖先神達と争った神様ですからね。
昔の神社は政庁であり豪族の宮殿でしたからね、神(かみ)=上(かみ)=守(かみ)=支配者を示す訳です。
そんな感じで、恐らく有鹿神社の聖なる川の鳩川沿いに隆起した土地に入植してきた建御名方神の御神孫の国司一族と、在地豪族だった有鹿神社の神様の御神孫の争いが、この有鹿神社中宮と鈴鹿明神の争いだったと推測出来ます。

さて、有鹿神社本宮の解説に戻ります。
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有鹿神社は、奈良時代~室町時代中期が最盛期でした。
当時は先述の通り凄まじい広さの境内地を抱えていましたが、平安時代から当地の在郷領主だった海老名家が室町時代中期に滅亡すると、後援者を失い社領を乱入者に横領され衰退して行きました。
しかし天正3年(1575年)、北条氏の治世下で神事❝水引祭り❞の復興が成され相模国五の宮、海老名郷総鎮守にまで復権し、天正19年(西暦1591年)には徳川家康公によって10石の社領を保証する朱印が発行され、江戸時代初期の元和8年(西暦1622年)には領主高木家の奥方によって社殿が寄進されました。
古代程の規模は継続していないものの、この神社の各式の高さと歴史の深さと古代日本文化を守って来た神社である意義は大切で、神社を守って来た氏子サン達の業績は偉大です。
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有鹿神社は境内に立派な御神木が有ります。
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樹齢は書いてないので解りませんでした。
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社務所は宮司様御不在の日がほとんどなので、事前に電話番号を調べて連絡の上、御出勤される日を確かめれば御朱印を頂けると思います。
小生は連絡の上、ここと別の事務所へ訪問し朱印帳に判を頂きました。
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とても凛々しい狛犬さん。石材の状態を見るに江戸時代の作でしょうか?
石の腐食具合がそれくらいに見えるかな。
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社殿外観は覆殿(おおいでん)で、文化財指定されている本殿はこの中に保護され鎮座しています。
本殿は春日造り、屋根は檜皮葺だそうで、格式の高い有鹿神社に相応しい造りです。
残念ながら、訪問した日は時間も遅く既に覆殿の扉が閉じられていて本殿を拝観する事は出来ませんでした。
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扁額は地震かなんかの落下で欠損部分が有りますが、とても立派ですね。
往時の社殿は、この扁額や広大な社領に見合った立派な建築物が何棟も有ったんでしょうね~。
境内の摂社には有鹿天神社と言う菅原道真公を御祀りする神社が在ります。
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元々、海老名源八季貞(すえさだ)公の館跡に鎮座していたのが、この有賀天神社の御神霊で、近年、その御神霊を境内に遷宮する際に御社の形をした祠を新築し直したそうです。
歴史的には海老名氏の崇敬を集めた天神社の今宮に成るので、こちらも霊験鮮かな神様と言えますね。
さて、有鹿神社の前編と合わせて有鹿神社を含めた延喜式内社の大切さが少し御理解頂けたでしょうか?
そして、縄文時代~古墳時代の海岸線沿いや湧水地に延喜式内社が集中して存在している事も御理解頂けたと思います。

ところで、この日の帰りは高速道路の海老名SA上りで豚の串焼きを食べたのですが…
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神奈川県の名物の一つである高座豚(こうざぶた)ですが、この高座豚の高座は古代律令制度の行政区分の高座郡に由来しています。
この高座郡、現代人は高座(こうざ)と読みますが、古代は高座(たかくら)と読んだそうです。
つまり、海底が隆起して現れた平地が有鹿川(鳩川)・相模川・中津川の氾濫や降雨を繰り返して平地の塩分が抜けて工作に適した場所に成り、水田開発が進み、多くの米を保管する❝高床式の倉❞が立ち並ぶ村々が増えって行って古代の開拓先進地域に成って行った事が地名からも伺えますよね。

では!
又、次のブログ記事で御会いしましょう!