間宮家の顕彰活動と信奉する信長公所縁の土地巡りへ3泊4日の旅へ行って来た。
最近、ブログを更新出来なかったのは遠征の段取りと会う人達へのアポ取りをしていたから。
今回の休日雑記は28日の訪問先。重要な報告も有るので、それも別途記事にする。

東名高速が集中工事中だからね。交通量の少ない深夜に出て朝からの予定に合わせる計画でこうなった…
28日の深夜25時半に出発、途中、浜松SAで休憩。
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朝食に静岡オデン食べ、車にガソリンも補給。
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まぁ、普通だった。
六時半頃に豊田に到着。少し寄る場所が有り、豊田で用事を終えてから安城市へ移動。
予定通り朝9時に目的地の安城市歴史博物館へ到着。
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実はこの博物館は徳川家が松平姓時代の初期の本拠地だった安祥城址だったりする。
学芸員さんに予めアポをとっていたので、可成り親切に熱心に安祥松平家の簡単な歴史を解説して頂けた。
そして城址の切岸の説明や現在は埋め戻されている水掘りの幅等も案内しながら教えて頂けた。
何故、小生がここに来たかと言うと間宮家が❝伊勢家❞の❝与力❞で今川家臣だったと思われる時代に、伊勢家=北条家が主家今川家に援軍を送り安祥城を攻めた時に間宮家も参戦していた事が推測出来る家臣に発給した感状が有る。それを間宮家顕彰文に掲載する為に城址写真撮影と調べ物に来たのだ。
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まぁ、間宮家の為だけでなく、そもそも三河の徳川家の偉大さも理解しているし家康公や初代東照宮大宮司様自体が間宮家と血縁を結んだ方々だが、小生は建勲神=織田信長公や東照大権現=家康公も崇拝し尊敬しているし、北条家の殿様方と並び毎朝起きたら拝んでいるので、三河尾張巡りをするのは当たり前、いつかしなければいけない事だった。
個人的に三河尾張は御縁も有り、以前も史跡巡りをした際に御縁が出来た偉人の血縁者の御子孫にも御会いしたかった。
この歴史博物館は松平家初期の本拠地なので博物館の中には家康公の祖父で松平家の勢力拡大に成功した松平清康公の銅像が有ったりする。
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ここ安祥城址の本丸は現在の大乗寺。
当時、周辺は深田だった。現在も水田だが、水田の周辺に干拓されていない湖沼が広がっていたのだろう。
でも正直、松平家の本拠地とは認めたくない程小さな規模。しかし立地的に関東の忍城や伊勢原市の岡崎城の様に沼城で守りも堅固だったのだろう。沼掘りの場合、攻城側が塹壕掘って城に近づく事が出来ない。
松平清康公の時代には既に岡崎城に転居したそうだ。
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写真は大乗寺。山門が丁度、城の櫓みたいに見えてしまう(笑)。
今回の訪問で持った感想だが、三河地方で戦国期には存在していた浄土真宗の寺院は構造がハッキリ言って城のソレだった。浄土真宗では昔、過激な軍事組織として活動していた同門の寺院の事を御坊と言って軍事拠点にしていた時代が有ったので、その名残だろう。最初から戦う為の寺だったんだろう。
学芸員さんに個人的に御勧めの安城市周辺の城を聞いた際も、「御城ではないけれど~」と渡されたのも浄土真宗の寺院の見取り図だったが、どっからどう見ても城の縄張り図だった。
安祥城の出丸の方は八幡社に成っている。
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これが又、相当に立派な八幡社で、東京横浜では余りこの規模の八幡社が町中に有る事は無い。
富岡八幡宮の様に相当な御由緒でも有れば別だが、三河人の信仰心と言うか伝統を大切にする心意気が強いのだろうと思う。
宗派を問わず、その信仰心の強さから、一度所属する宗派が軍閥化すると三河一向一揆の様に強烈な戦火を引き起こす集団にも成るのだろう。
三河気質は親切で柔らかいが情熱的に熱い。隣の某都市とはだいぶ異なり地域の人々の温かさから観光客も楽しめる。
宿泊するならトヨタ自動車の御蔭で外部からの客を受け入れる事に成れている三河地方、安城周辺や豊田周辺、もしくは古くからの観光地である犬山市の温泉街が親切で良い。
そんな「愛知県もあそこ除けば親切で観光資源も沢山有るのになぁ~」なんて事を感じながら次の目的地に移動。
刈屋城址に行った。
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現代では刈谷市は刈❝谷❞の字で表記されるが昔は刈屋だったんだな。
刈屋城の元に成った水野家の城館から、雁(かり)が飛ぶ姿が良く見られたのだろうか?
地名由来は調べていないので解らない。
刈屋城址は大半が破壊されたものの、恐らく戦国時代には存在した二ノ丸と本丸を隔てる水掘りは今も立派に原型を留めている。
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現代の刈谷市民の皆さんは意識が高い様で、城址を当時のまま復元できる場所だけを現代に蘇らせようとしているようだ。
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良い試みだと思う。
詳細の解らない部分や図面の無い部分をコンクリートで想像して固めるのは❝破壊行為❞な訳だ。
名古屋城天主や大坂城天主や小田原城天主みたいな外観だけ真似したハチャメチャな鉄筋コンクリートビルでは無く、解らない物や当時のまま同じ材料や同じ設計で復元できない場所は遺構をそのまま展示する方が史跡保護に成る。
愛知県で言えば名古屋城天守閣は汚点でしかない。もっと酷いのは全く史実と関係の無い小牧山城天守だろう。
でも刈谷市の試みや、安城市の安祥城の保護の仕方は本当に素晴らしい。擁護すると小牧市の現在の城址発掘保護の方法も素晴らしい。小牧山に邪魔なビルが建っているのは昔の無学な成金が自己満足で関係無いものを悪意無く作って破壊した結果なので、あの小牧山城天守は早く撤去して、あそこに信長公や吉乃様(仮称)が夫婦で暮らした御台所や御殿を発掘しガラス張りで浸食されないようにして公開し、麓に立派な博物館でも作った方が良いだろう。
発掘調査に基づいて公開していこうと言う小牧市の現在の取り組みや、刈谷市の計画は素晴らしい。
刈屋城址の中の❝十朋亭❞の中には、訪れて是非見て欲しい物が有る…
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江戸時代の刈屋城の縄張り復元模型だ。
そんなに大きい物ではないが、元々の城だった本丸周辺に、後から三河流の平地に水掘りを引き込んで細長い帯曲輪を巡らせる独特の築城術を見る事が出来る。
この構造は後の江戸期の河越城に追加された田曲輪や外曲輪等の築城術に繋がって行く。
徳川家と縁の深い水野家の城らしい構造が、この模型を見て貰えば理解出来る。
安祥城と同じく、戦国時代に突入して間もない頃の尾張三河の城は小城ばかりだったのだろう。これは大名の家臣達が自前で城を築城していた統治の問題だろう。
城を家=国単位で築城する財源捻出方法にした信長公の手腕はやはり素晴らしい。
清州城改修や小牧山城築城が出来てやっと関東の先に戦国時代に突入した大名達の築城規模に近づいている。

この日は翌日の行動地域を前提に名古屋市中区で宿泊を決めていたので、今川義元公が桶狭間合戦時に辿(たど)った進路に沿って(自分の推定)で熱田神宮を最終目標地点に名古屋へ行く事にして事前にアポどりをし準備をしてあった。
そんな訳で安城市や刈谷市を後しして義元公の足取りを辿り、ついでに信長公と家康公の関わった場所を巡って行った。
最初に来たのが沓掛城址。
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沓掛城址を目指すには慈光寺と言う御寺を目標にすると良い。
ここは桶狭間合戦後に沓掛城址と成った梁田政綱公の家臣が城址の一角に築いた浄土宗の寺院。
御朱印も頂ける。
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境内の広さは現代では町中の御寺より少し広い位。
御寺の家人もとても柔らかく三河地方の方らしく親切に御参りに来ただけなのに「城址は裏手に有りますよ~」「とか今川義元が桶狭間前日に宿泊したんですよ~」とか説明して下さった。…知ってる情報だけど親切心が嬉しい。
御寺が城域で曲輪だった事は裏手の城址公園に行くと良く解る。
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屈曲した人工的な空堀地形が御寺と城址公園の間に在るからね、御寺も曲輪の一部だった事が一目瞭然。
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簡単な説明文も有るので、訪れた際に読んで見ると歴史に興味無くてもここの意味が解る。
時代が大きく変わる切っ掛けの前日、ここに今川義元公が宿泊していたのだ。
ここに宿泊し、翌日に織田領の残る内陸の大高緑地では無く海沿いの今川領大高城を目指した結果が翌日の歴史転換地点に繋がった訳だ。
つまり、歴史が変わる契機に成った場所がここな訳だ。
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城址公園としては小さいが、上の写真の本丸と思しき一段高所の前にも内堀が残っていたりする。
今川義元公存命中の尾張三河の城は大半が、この規模だったんだろう。
堀の幅は広くても5m 位だろうか。堀底から土塁まで比高7m位有ったか無かったか。
まぁ、現在の城址公園を一回り広くしたくらいの範囲が当時の城域なんだと思う。
正直、同時代の関東の城に比べて工夫も少ない。
やはり築城術を飛躍的に進歩させた信長公は偉大だと思う。

今川義元公はここ、沓掛を出発し、現代では決戦地は狭間古戦場と言われる場所は幾つか有り、桶狭間病院と高徳院の辺りにて合戦が発生したとする学者もいる様だ…
もっとも小生の意見は現地を廻っているので文字しか読まないガクシャ先生とは少々異なり、更に地域の方々の伝承に近い。つまり、主戦場と呼ばれる場所は無く、移動しながら戦っていたはずだと思う。
石碑の名前は桶狭間古戦場。高徳院や桶狭間病院の目の前。
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伝承では今川義元は休憩中に襲われたと言う事に成っている。
その場所が高徳院だとする説を唱える学者がいるが、小生は周辺の戦場と名の付かない宗教史跡も回るタイプなので高徳院前が主戦場説は違うと言う感想を持った場所に行けた。
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ここ高徳院前も戦場だったと思う。
ただし戦場は戦場でも、今川義元公は別の休息地で襲撃され、更に近習が身を盾にして討ち取られつつ御本人は後退し、現在の桶狭間古戦場公園当たりで討ち取られ、今川本隊の後続は細い街道と谷間で前線に出れないまま後退し続け、この高徳院辺りまで追撃戦で追い上げられて戻って来たんじゃないかと推測している。
では今川義元公が最初に織田信長公本隊2000に強襲された場所はどこか、そして在所を捕捉されたのは何処かと言うと古戦場以外に神社も回るとヒントがまんま隠されている。
桶狭間公園と言う緑地辺りには桶狭間神明社と言う神社が在る。ここの背後の山に行くと、桶狭間合戦当時の雰囲気がどんなもんだったか良く解るのだが…
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当時はこの参道みたいな山林に囲まれた、敵側に行軍を捕捉され難(にく)い間道が大高緑地に沢山有ったんだろう。
そこを織田軍は進んだと思う。メジャーな街道を通ってはいないだろう。そして現在その道は廃道に成って残っていないのだろう。
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今川軍はこの桶狭間神明社を高徳院の次の休息地に定めていた筈(はず)だ。
沓掛城→高徳院→桶狭間神明社→大高城と入る予定だったんだろう。
その証拠がコレ…
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この桶狭間合戦時に、ここで武運長久を祈願した瀬名氏俊公は今川一族なのだが、この合戦当日先発隊だったのは今川義元の休息場所を設営する任務に当たっていたからだそうだ。
恐らく、この神社に来たのも、ここを義元公の小休止の場所に定め休憩の用意を整えたからだろう。
そして、自身は次の義元公休息地で当日の目標地点で有る大高城に移動したんではないだろうか。
高徳院も沓掛城から3km程の距離に在り休息地だった筈だ。昔の城はだいたい3~5km毎に1つ築かれているので、丁度高徳院の位置は沓掛城から次に立ち寄りに相応しい距離だ。
しかし、この桶狭間神明社は高徳院から1.5kmしか離れていない。しかし、ここは正に大高城に向かう途中に在る神社なので武運長久祈願を兼ねて立ち寄った可能性は有る。
丁度、義元公が立ち寄るタイミングに成る頃、織田家は千秋季忠公と佐々政次公が今川家を陽動する様に無茶な出撃をしたのも、義元公の休憩を長引かせる為だったのかも知れない。
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この瀬名氏俊公の行動を織田軍はずっと捕捉していたのだと思う。
そして、ここに今川家本隊の前衛や義元公がぞくぞくと先着し、義元公は神明社で祈願をはじめたか休息中に周辺住民からの進物を近習に報告されていた最中、善照寺砦から出撃した信長公が街道では無く山伝いに突如林道から襲来し、桶狭間神明社で参拝中の義元公は戦闘態勢も整えられず引くしかなかったんじゃないか…
と、個人的に推測している。
…そうすれば高徳院・桶狭間古戦場公園・桶狭間公園の三ヵ所で戦闘が起きたと伝承が残る事にも整合性が有る。
さて…
先に述べた通り義元公は大高城に入ろうとしたのだが、ここで休憩なり参拝なりして待機しなければいけない事情が有った。
善照寺に信長公が到着するのと前後して、熱田神宮大宮司で信長公に与力する千秋季忠公と佐々政次公の軍勢が大高城を攻撃したからだ。
この千秋・佐々隊の作戦を小生は❝陽動❞と❝足止め❞だったはずだ。
揺動の相手は今川軍の本隊以外の諸隊。目的は注意を引く或いは、千秋・佐々隊が大高城を攻撃する事で今川諸隊に大高城を救援させ織田信長公の本隊2,000が今川本隊を急襲する行軍が目に届かない場所に陽動する事。
かくして岡部元信の陽動に成功した筈だ。
千秋・佐々隊の陽動に引っかかった岡部は鳴海城を打って出て、大高城の救援に行く。
信長公は指揮官不在と成った鳴海城の真ん前を迅速に通過し林道を伝って桶狭間神明社を急襲したはず…。
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写真は丸根砦。本当に丸い尾根に築かれた小さな砦。
徳川家康公は当時、名を松平元康と名乗り今川家臣だった。この桶狭間合戦の前哨戦で松平元康公は丸根砦の前を通過し、大高城へ兵糧の搬入に成功している。その際、丸根砦に放火、囮部隊で攻めかかり、その隙に兵糧を見事運び込んだそうだ。
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※鷲津砦。
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鷲津砦は若干の堀切等も現存している。
実は、大高城に行くには今川家は織田方の丸根砦と鷲津砦の目の前、大高道を通らなければいけなかった。
今川方の大高城~織田方の鷲津砦は直線距離で600m、大高城~丸根砦も800mしか離れていない。
ここを落とさないと当然、今川義元公本隊は大高城に入れない。無視すれば背後から攻撃されるから。
そんな訳で、義元公が沓掛城に宿泊したり高徳院で休憩したのは、この2つの砦を陥落させながら安全が確保されたのを確認しながら進んだからだろう。
丸根砦は大高城を救援した松平元康公によって攻落され、鷲津砦は今川家随一の名将朝比奈泰朝公によって落城させられ、沓掛城を出立した当日の今川本隊の行軍の安全は事前に確保されていた。
桶狭間神明社が休憩場所に成っていたならば、千秋・佐々隊の陽動にかかった大高城の松平隊と鳴海城の岡部隊が千秋・佐々隊を掃討するのを待って今川家本隊は待機、戦勝祈願していたからだろう。
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大高城址公園
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土塁は撤去されていて、正直、城址公園としては物足りない。
規模も織田家の勢力拡大期の城で、正直、縄張り構造も未発達で規模もそれほど大きくは無い。沓掛城よりは大きい。
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曲輪跡の削平地は、そこかしこに残る。
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城址公園の遊歩道は、恐らく最近作られた道。
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凄く広い削平地が有ったので、恐らくここが本丸だろう。
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その奥に神社が在る。
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小生の郷里神奈川県の鶴岡八幡宮から勧進した御分霊を祀っているそうだ。つまり八幡社だ。
この神社の辺りには、城址らしい施設が残っていた。
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この細い道の左右の雑木林は空堀。つまり、この道は曲輪と曲輪を繋ぐ土橋。
秋の終わり位、雑木林が枯れた頃に来れば見応えが有りそうだ。
大高城の見学を終えて、鷲津砦の説明看板が腐食により解読不能だったので資料を貰いに名古屋市緑区役所の生涯学習課を訪れた。
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資料としては簡単な説明程度の物しか無かったが、緑区内の史跡観光案内のパンフレットを頂けたので収穫に成った。
ここを発つ時、既に16時に成っていた。この後、熱田神宮へ向かう予定だったので少々時間的に余裕が無く正直焦ったがナビでは30分とかからないはずだったので落ち着いて運転は出来た。
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熱田神宮東側大鳥居。
10年近く前にも来たのだが、その時は余り神社仏閣城址に関心は深くなく勉強もしていなかったので「大きい神社だなぁ~」程度の感想しか無かったが、今回改めて訪問して見ると第二次世界大戦での焼失後に明治神宮を意識した再建計画をしているのが良く解る。
木地のままの鳥居、広大な森林。自然崇拝を意識した境内。
しかしながら戦国時代当時の熱田神宮は、現在の様式の境内ではなく、恐らく三嶋大社や津島神社や石清水八幡宮の様に絢爛豪華な社殿が立ち並ぶ神社だった筈だ。
明らかに明治時代に成立した国家神道の影響が見える。
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とは言え、この境内の森林は神聖な雰囲気を醸し出し良い。だから熱田神宮と同じ造営設計の明治神宮が小生は好きなんだな。
ここに来たら皆にも是非食べて貰いたい料理が有る。
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熱田神宮の中には❝きし麺❞の専門店が有るのだが、1杯600円前後と安い上に名古屋駅の高い店で食べるよりよっぽど美味しい。
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遅い昼食に❝宮きし麺❞を注文して食べた。10年位前に来た時もこれを食べたので、今回は来る前から食べると決めていた。
先程、緑区役所で出発時に焦っていた理由は、実はこの店が16時30分閉店で間に合うか微妙だったからだ。
運よく、丁度16時29分位に店に到着し注文する事が出来た。
急いで食べて、参拝再開。
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参道には以前は無かった熱田神宮の各時代の説明看板が出来ていて、これが簡素ながら解り易くとても良かった。
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この参道を過ぎて社殿の在る領域に入る手前に上の壁が有る。
これが織田信長公が桶狭間合戦の戦勝祈願を、熱田の神に成就させて頂いた御礼に奉納した築地塀だ。
この塀が社殿の有る領域を取り囲んでいる。
信長公は神仏に対する信心がとても強かった方で、古典礼儀にも精通した人物だった事を知らない人も多い。
酷いと小説家や学者ですら信長公が信仰心が強かった事を良く知らないまま無宗教とかアホな事を言っている事が有る。バカだな。
信長公程、天皇家に対する忠義深く、天皇の住まう御所や伊勢神宮の復興に大金を投入して力を尽くしてる事は他大名に例を見ない。神社だけでなく寺院も多く再建している。
大坂の本願寺や伊勢長島願証寺や比叡山が信長公に攻落されたのは、彼等僧侶自身が武装化し町を襲ったり守護を襲うテロ組織化していたからで滅ぼされて当たり前の事をしていただけだ。その証拠に信長公以前に六角定頼公や北畠晴具公もそれぞれ武装した宗教集団を攻撃した歴史が有る。
ついでに言えば熱田神宮の大宮司千秋家も武装した武士?豪族?だったので織田家を支持して今川家と戦った訳だ。
当時の宗教観は現代とは全く違い、武士との違いは支配権を明示する大義名分が宗教集団には無かった事くらいだろうか。
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社殿も改めて見るとやはり、明治神宮にソックリ。色的には地味。でもこれが本来の神社。
朱塗りで派手に成るのは仏教建築の影響を受けた飛鳥時代以降の事。
更に造形が細かく色彩鮮やかに成るのは信長公が安土城を築いた頃のから。俗に言う安土桃山文化建築だな。
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小生は神社の社殿が有るなら赤くて綺麗な方が好き。でも境内の雰囲気は熱田さんや明治神宮の様な感じが好き。
でも社殿も何も無い縄文文化を受け継いだ有賀神社奥宮みたいな本来の自然崇拝も好き。
熱田神宮は信長公や源頼朝公と深い御縁が有るので参拝出来て良かった。
参拝を終えて名古屋城近くの錦と言う地区の有名なビジネスホテルに移動した。東〇インね。
19時頃にホテルついたら40時間位寝てなかったんで1時間くらい意識が飛んだ。
夜23時位…ホテル近くの焼鳥屋で一人夕食。
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名古屋飯旨いわ~。

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八丁味噌ベースの串カツ最高!
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八丁味噌ベースの土手煮も美味かった。
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焼き鳥も焼きそばも美味しかった。
翌日は友人と合流し津島大社や蟹江辺りの味醂造蔵本見学予定。


まぁ~、小生の率直な初日の感想を言えば…
「愛知県が観光したくない県ワーストワン」に選ばれてしまったのは100%新幹線の停車駅のある名古屋市街地のありとあらゆるサービス業の接客の悪さと、名古屋から周辺都市の観光地への交通の不便さのせいだ。
名古屋の中心街には熱田神宮と名古屋城位しか観光でメイン張れる物が無い。それ以外はどの大都市に行っても有るものばかり。
周辺の自治体の観光資源を殺す鉄道網の弱さ。東西を結ぶ線の欠如からくる連携の弱さと、バスの異常な少なさが問題だろう。例えば桶狭間合戦の史跡巡りを周遊するバスでもあって緑区周辺の豊明市~刈谷市なんかを一日乗り放題で順繰り観光出来たら、名古屋だけでなく豊明市側の沓掛城址や刈谷市側も廻れて協力地域で潤うだろうし観光客も増えるだろう。戦国ファンとしては名古屋市中心部よりそっちの方が楽しい。
そして車が無いと観光出来ない状態であること自体がダメ。
翌日、翌々日と回った犬山市・江南市・小牧市・蟹江町・あま市・愛西市・稲沢市・津島市・一宮市には名古屋以上に見て楽しい場所が多いし、町の人も接客する店員もどこに行っても笑顔で親切だ。
…名古屋の中心街だけはどこにいっても仏頂面のホテル店員と料理店の店員とコンビニ店員だらけ。ダメこれ。
それに反比例して翌日宿泊した木曽川沿いの旅館なんて、嘗てない程親切でビックリした。 
津島市の人も暖かかったし、とてもフレンドリーだった。

あれだな、名古屋の感じって東京都23区に住んでる江戸っ子じゃない他地域から移住して来た人達のソレに似てる気がする。名古屋で働いてる人も名古屋人じゃなくて警戒心ばっかりで生きてるんだろうか?
それと、今回名古屋に車で行って人生で初めてカーナビで「車両荒らし多発地域です」とか「盗難多発地域です」ってナビを連発された。完全に山口組のせいだろ。 
そりゃ、そんなに治安悪いなら印象も悪くなるほど警戒して生きていくしかないよね。これは名古屋のヤクザのせいだろう。名古屋市長、暫くフィリピンのドルテ大統領 に成って貰ってヤクザ組織を何とかして貰ったら良くなるんじゃないだろうか(笑)。
名古屋の中心街に行くまで凄く印象が良かった愛知旅の初日でした。

あ、名古屋市緑区の人達は親切だったよ。きっと地元で生まれ育って、豊かな自然環境で生活してるから心にも余裕が有るんだろうね。多分、本来の名古屋人てのは緑区の人達みたいので、小生が「おい」と思った接客業の連中は名古屋市街に他地域から移住して来て警戒心満載で生活して客にまで警戒心丸出しなんだろうね。凄くツンケンした感じ。

ま~、名古屋中心街の接客以外は、初日の愛知県東部旅は大変満足、旅行で行きたくない県No1どころか小生の中では愛知良い所って印象の初日でした。