10月02日、愛知県を去る日。

…と、休日雑記を始める前に、この「去る」と言う言葉、これ不真面目な大和朝廷の国費留学生が中国の漢字の意味を日本語に誤植して広めてしまった言葉なんだよな。
本来「去(qu)」と言う言葉は日本語の「行く」と言う意味。
そして華語の「行(hang)」 には「行なう」と言う意味と「行(xing)」「出来るよ(❝いいよ❞と言う肯定的ニュアンス)」と言う意味しか無い。これは昔から変わらない。
だから仏教経典もそういう意味でしかこの漢字を使っていない。
日本人に広まった漢字の意味には色々と間違いが多い。
勉強も無理をすると言う意味しか無い。
日本語に誤植された「勉強」の意味の華語は「学習」か「学」しか無い。
「娘」は中国語で「母」の意味しか無い、ハッキリ言って真逆。娘の意味の華語は昔から「女児」、現代語では「女孩」とも書く。子供は孩子だな。子供と中国語で書いたら古語でも「子等(ら)」と複数形に成ってしまう。  
なんと漢字の誤植の多い事か・・・古代の国費留学生不真面目だな。絶対に大和朝廷の金で遊んでただろ。

さて、この日の朝は一宮市のアパホテルと言うチェーンのビジネスホテルの部屋から始まった。
このホテルを選んだ理由は愛知を去る前にどうしても参詣したい神社の近くに所在するからだ。
その神社の名は尾張国一之宮の真清田(ますみだ)神社。有る時期は熱田神宮より大切だった神社な訳だ。

この日の計画では8ヵ所巡る予定だった。その内、6ヶ所は静岡市内。6ヶ所回るには最低6時間強を見て置く必要が有る。日没が18時位、逆算すると昼の12時には市内に入ってないといけない。一宮市~静岡市まで休憩無しで運転しても約3時間かかる。そうなると朝の9時頃には真清田神社を参拝しないと予定がこなせなく成る。
一宮市で見たい場所は浅野公園(浅野長政の居城址) と真清田神社だ。
つまり、早朝9時に真清田神社の開門と同時に参詣出来る様に戻って来れる時間に 浅野城址を見学に行かなならない。そうなると必然的に7時頃には出発しないといけない。朝食も食べてられない訳だ。
そんな訳で6時に起きて荷造りし、少し時間が余ったので仮眠した・・・
失敗した(笑)。予定より遅刻だ。
・・・起きたら8時過ぎていて慌てて着替えて浅野公園へ出発。幸い、アパホテルから車で15分位と近かった。
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石柱に邸址とは書いて有るがハッキリ言って城。完全に小さい城。
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 水掘りが良く残る。
ここに義理の舅に会いに若い時分の秀吉も来た事だろう。妻の寧々さんも一緒に。もしかしたら前田利家も来たかも知れない。蜂須賀正勝公や前野長安公も生駒家長公も生駒一正公も来たかも知れない。織田信長公も遊びに来たかも知れない。皆、青春時代に上下身分主従関係の差は有れど友達だったみたいだからね。
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本当、一宮市は都会なのに、良くもこんなにちゃんと城址を保護して下さったものだ。素晴らしい。
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中は良い具合に苔むして、天然の日本庭園みたいな雰囲気だった。そして苔が生えている場所も土塁の遺構。
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いや~広くは無い小城だけど、すんごく雰囲気の良い日本庭園化した城址公園に成ってました。
 一宮市の人は意識が高いんだね~!丸で横浜の三渓園が普通の公園に成ったみたい。
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多分、井戸の跡。
木の葉に埋もれちゃってるけど‟寧々の水”と書いて有る。秀吉の奥さんの寧々さん、後の高台院様がここで水仕事した伝承が有るのかな?
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ちゃんと石碑が建っててね、後世に伝えようとした先輩達の記録を現代、小生達が読む事が出来る。
でもGHQの愚民化政策で日本の公用語の漢字が現代の字体にされたせいで、少し昔まで日本人が読んでいた繁体字の漢字が読めない人が多くなってしまった。台湾の人なら読めるかな。
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多分、ここは本丸。周囲より少し高い。でも狭い。本丸と言うより、館主の部屋が有ったスペースなのかな?
なんにせよ小さくもとても良い城址でした。
来て良かった。
満足して真清田神社に出発。
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さすが尾張一宮、すっごり立派!しかも延喜式内社で古代の水神信仰の伝統をちゃんと引き継いでいる神社。

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とにかく立派。多分、この橋の左右の石畳は昔は川だったはず。
安全上の都合か暗渠に成っている様だ。
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社紋が少し上杉家に似ている。雀がいない竹の社紋。初めて見た。
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社殿は当然だけれど立派。
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比較的新しい他の社殿が多く見受けられたが、延喜式内社らしく古代の自然信仰も境内のそこかしこに残っていた。

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御神水を大切にする風習。
この湧水や池を聖地とする縄文時代以来の風習、昔からある神社でも社殿が重視された明治時代以降に自然崇拝が廃れて只の池や井戸くらいにしか認識してない不勉強な職業神職がいる神社だとぞんざいに扱われていて荒れ放題だったりする。古い神社程、自然湧水地の山や池、古代の海に面していた元は半島だった丘の上やなんかに社殿が建っている。
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この風習を大切にしている事が真清田神社が由緒正しい神社である証拠でもある。素晴らしいね。
そして、もう2箇所、古代からの風習を受け継いでいると推測出来る境内社が在った。
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服織神社。
実は一宮市は近年まで繊維産業が主産業だった。養蚕や紡績業が盛んな地域なのは、ここ真清田神社が有る時代の古代の豪族の首府であり、布を生産する拠点が存在した証拠でも有る訳だ。
だから、この衣類に関わる神様が大切にされているんだろう。養蚕が盛んに成ったのは絹織物が入って来たであろう卑弥呼の弥生時代前後。その頃にはこの神社は豪族の領地運営の拠点だった名残りだろう。
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ただ、この御祭神と七夕の織姫を結び付けるのは後世の仮冒だろう。
そもそも‟端午の節句”‟七夕祭り”‟中秋の名月”‟正月”は中国伝来の習慣。
だから七夕の織姫と彦星も中国から来た伝承なのを、伝来から千数百年も経過すると有る時代から日本人は自分の文化と勘違いした訳だ。ともあれ、先人が守って来た伊勢神宮と同じであろう養蚕や繊維技術を伝承する為の神社として機能した事は疑う余地も無く、弥生時代の風習の名残を今に伝えてくれる大切な場所な訳だ。
そしてもう一つ・・・
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厳島社と八竜神社が仲良く並ぶ境内社。
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ここも広い自然湧水地の池だった。
実は真清田神社は弘法大師空海和尚が旱(ひでり)の酷かった年に来訪して雨乞い神事を行った伝承が有る。
現代の神社の建物と御神体重視の明治以来の神道と異なり、真言宗と天台宗と修験道の僧侶は神事にも精通していて、宮司様達と一緒に雨乞い神事を行ったりしていた。だから現代でも真言宗と天台宗の寺院には境内に神様の御社が在る場所も多く、修験道の山伏達は仏事にも神事にも精通している。天狗さんが山伏の代表みたいな存在だな。
古代、雨乞いが行われる場所は湧水地や枯れない池や水深の深い淵(ふち)、滝の傍等だった。
恐らく、この場所が空海和尚が雨乞いを行った場所だろう。
そして龍神信仰と弁天信仰は水神信仰とも密接に関係が有った。
八竜神社の御祭神は多分、元は八大龍王で仏教の取り込まれたヒンドゥー教の神様だったはず。明治の神仏分離令で八竜神社に名を改めている筈だ。
江南市の生駒家の龍神社と同じ経緯が有るはず。あちらも雨乞いの伝承が残っている。
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※江南市龍神社前の雨壺池
神奈川県の延喜式内社の大山阿夫利神社の主祭神は大山祇大神(おおやまづみのかみ)だが御祭神にも高神(たかおかみ)と言う湧水地に祀られる龍神様がいて天狗信仰とも習合されているが、大山阿夫利神社は古来、雨乞いの神様でもあった。
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※伊勢原市の大山阿夫利神社。本殿の地下に湧水地が有り、参拝者は水を飲める。大山の山体自体が御神体だが、大山には滝も多く在る。
弁財天様は日本の倉稲魂神(うかのみたまのかみ)=宇賀神(うがじん)/宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)に習合されているが、宇賀神は関東では水の湧く洞穴の中に祀られる文化が多く残った。
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※鎌倉市扇谷地区の海蔵寺。洞穴の湧水地に祀られる宇賀神。
宇賀神は鎌倉時代迄は女性の頭に蛇の半身を持つ姿が多い。
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※鎌倉市佐助地区の宇賀福神社。正式な社名よりも銭洗い弁財天の異名が有名。源頼朝公が神託を得て辯財天を宇賀神の祭祀様式で祀った神社。洞穴内の湧水地に祀られる。
この様に・・・
1古代の豊かさの象徴が❝安全な飲み水❞の段階で宇賀神として洞穴の水辺に祀られ・・・
2時代が下り豊かさの象徴が❝豊作の稲と保管する蔵❞に変わると宇賀神の字は倉稲魂神と書かれる様に成り御稲荷さん、稲荷社に姿を変え洞穴では無い耕作地に祀られる事が多くなった・・・
3武士の時代に貨幣経済が主流に成り豊かさが銭金に代わり、仏教の興隆で仏教に組み込まれたヒンドゥー教の軍神で財神の女神サラスバティ神が七福神の弁財天として日本に紹介され、豊かさの御利益の宇賀神と同一視され、水神の性格も持つ宇賀神と弁才天は平等に祀られる様に成った。
4明治の国策神仏分離令で弁財天は弾圧され、弁天信仰と社殿の存続を計った明治の宮司さん達の知恵で、水神様として有名な一杵島姫を祀る厳島神社に名を改める事で存続が図られた・・・つまり、この時点で稲荷社と宇賀神社・弁天社は別の性質に分かれた・・・
だから、恐らく真清田神社の厳島社も当然明治時代以前は弁天社か宇賀福神社の名前で呼ばれていた筈。
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雨乞いの水神様の性格が強かったから、八竜神社も一緒に存在するんだろう。
とにかく、真清田神社は古代の信仰の博物館の様に各時代の信仰が残り、先人達から引き継いだ文化を大切にしている神社であり、かつ神社の社殿を大切にする比較的新しい神社の信仰も併せ持っていて、古代から中世近世近代現代とある意味全ての時代の庶民の生活の守り神を担っている大切な場所な事も理解できた。
真清田神社参拝は当初30分程度を予定していたが、1時間以上も滞在し見応えが有った。
予定が押してしまったので、この後の行動に影響も出たが、参拝は非常に有意義だった。
ここを訪問して暫くの間、愛知を離れる事にした。
次の訪問は数ヵ月後か、1年後か・・・
車に乗ると、名古屋高速経由で新東名に入り、途中2回ほどPAで休憩した。
写真は撮り忘れたが昼食代わりに食べた名古屋の金山名物のあんこ巻きが美味しかった。
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静岡市街地に入る前、2回目の休憩を掛川でとり残り時間と訪問場所を再確認した。
この日の予定では・・・
・華陽院(徳川家康公の祖母と家康公の側室の間宮家の姫様の菩提寺)
・駿府城
・宝台院別院(旧:照久寺)
・久能山東照宮
・三保の松原
・薩埵峠展望台
・・・を廻る心算だったが残り時間的に4ヶ所を廻るのが限界だった。
静岡市に入るのが13時頃、1ヵ所の見学時間を急いで40分程度、移動時間に20分、17時半頃に日没。
そしてこの日は静岡市内の天気予報が降水確率が比較的高い曇天だったので必然的に天気に左右される場所を優先順位を下げる必要も有り、三保の松原と薩埵峠は結果次第で行けたら行くと言う感じに改めた。
最初に訪問したのが電話でアポを取っていた華陽院の御住職様の所だった。
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華陽院は江戸時代の静岡市の度重なる大火で建て直されて来たが、第二次世界大戦の空襲で再び焼けて、現在は火事に強い鉄筋コンクリートで堂宇を再建した。伝統ある建築も大切だが完全に焼失したのであれば残った寺宝や書物を保護する建築にする事も未来に先人の記憶を伝える崇高な手段の一つだと思う。
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この華陽院は徳川家康公の祖母の源応尼様の戒名の院号から現在の寺院名に改名された。実は家康公は今川家の人質時代にこの御寺に頻繁に遊びに来ており、当時の御住職から読み書きを教わったそうだ。
今川義元の軍師の太原崇孚雪斎(たいげんすうふ)が教育した等と俗説が有るが、三河の大名の嫡子の家康公に桶狭間合戦時にも手勢300を率いれる程度の処遇しかしておらず1万石規模?と相当に冷遇しているので、太原雪斎が自ら教育する等と言う事は無かっただろうと個人的に思う。やはり俗説だろう。
それよりは、ちゃんと記録に残る通り祖母に面倒を見られながら、この御寺で遊び学び面倒を見られて育ったんだろう。
そんな場所だったので、家康公は祖母の源応尼様が亡くなると子供の時に遊び学んだ御寺の御住職に、祖母の菩提を弔う様に供養を依頼した。
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その華陽院に、後に横浜の間宮康俊公の御息女の於久様が駿府城で徳川家康公の愛妾と成り姫を産み生涯を終えてから、御廟所が設けられ現在も、その菩提が弔われている。
家康公ととても御縁が深く、間宮家も家康公と直接御縁が有った事を強く伝える御寺の一つだ。
源応尼様や於久様の御廟所は現代も存続するが、小生の主義で理由もなく御墓の写真を掲載するのは偉人を盗撮する様なもので不敬なので今回も掲載しない。
墓前に参詣したい方は、華陽院を訪れ御住職様に許可を頂きにあがれば必ず快く受け入れて貰えると思う。
御住職様は知識が豊富で性格も偉ぶらずとても明朗な性格の方ですから。
小生も色々と一般的な書物には掲載されていない松平忠長公の逸話を聞かせてもらえたり・・・
華陽院は徳川家所縁の寺院なので浄土宗にも関わらず、小生が尾張生駒家の久昌寺の窮状を見て来てどうにか出来ないかと心痛抱いた話をしたら、色々と具体的なアドバイスも頂く事が出来た。
何にせよ、御住職のアドバイスを無駄にしない為にも、小生が日頃から信長公と生駒お類様を崇拝し、そして家康公と於久様も拝んで御加護頂いている以上は無力なりに動き回ってやれる事をやらないといけないと思う。
それに、織田・徳川・北条・間宮の殿様だけじゃなくて和泉式部様や菅原道真公達、文化の神様仏様に成られた偉人や不利な合戦でも戦い抜いた三浦義意公や北条綱成公や間宮康俊公や、源氏や平氏の歴代の棟梁様も崇拝している以上は何もしないで放置すると言う選択肢は自分の信心を失う事にも成るからね。
やらないと。
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一しきり、御住職から様々な表に出ない歴史話や、廃れ行く神社仏閣の話を聞いた所で一つ許可を貰って御寺の玄関に飾ってあった駿府城下町の町割り図の複製を写真に撮らせて貰って駿府城に移動した。
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駿府城坤櫓(ひつじさるやぐら)は城の入口近くの静岡県庁前の通りから見ると迫力がある。
最近の復元だそうだ。
もう、この時点で事前の昔の城域を確認してあった上に、実物の石垣の高さ、堀の幅を見た時点で東海地方一の城だと確信した。ハッキリ言って石垣を見ると一目瞭然、日本屈指のレベルで立派だよ、やっぱり。
現代でこそ多くの建物は明治時代に破壊されて現存しないが、それでも石垣は非常に素晴らしい。
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この入口は、昭和に成って石垣を破壊して後から作られた偽物の入口。どう見たってコンナ単純な構造を当時の人が縄張りする訳が無いし、石垣が綺麗に断面に成ってる時点で笑い話しにも成らない破壊だな。
我が神奈川県の名城小田原城も明治に大破壊に遭い、残った石垣も昭和の無文化建設会社による公園整備の際に変な場所に橋を架けられた。昭和の高度経済成長期の仕事って荒いし雑だったんだよね。
ともあれ、この駿府城、うちの神奈川県知事や横浜市長みたいに無文化な方では無い意識高い静岡市長と静岡県知事と静岡市民の皆さんの仕事で城址公園として再整備が進みつつある。
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例えば、石垣の構造が素人にも解る展示物が有ったりする。
説明看板と実物の展示だね。
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これは素晴らしい。解説を読んでこれを見れば、予備知識の無い人も構造を理解できる。
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何よりも素晴らしいのが、この坤櫓(ひつじさるやぐら)や東門の巽櫓(たつみやぐら)の復元だ。
復元したから素晴らしいのではなくて、その復元の方法が素晴らしい。
地下に元の地盤を発掘後埋め戻し、少し高く盛土して遺跡を埋蔵し破壊する事無く上に建設当時のままに櫓を再建したのだ。
しかも法令で層階に人を登らせる復元が出来なかったので、上層階まで建築した上で床板を貼らずに天井まで下層階から構造を見渡せる様に再建しているのだ。さながら江戸の築城技術の博物館の様に成っている。
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展示方法も素晴らしいのだが、ここの解説員様は本当に素晴らしかった!
小学生が聞き入っているのが一目で解る良い解説。
そして江戸の落語の噺家(はなしか)の様に声が良く通り聴き取り易い。
一しきり解説が終わった所で小生が個人的に溜まっている疑問で質問攻めしたが全てに明快に答えて下さり、仕事としてだけでなく個人的にも御城と歴史が大変に御好きな様だ。
駿府城の話を外れた今川家の居館跡に関して質問もしたが、現在では詳細不明でいくつか候補地が有る事等も丁寧に解説して下さった。
いや~復元も素晴らしいけれど、こういった一般受けもしてオタク受けも良い解説員を雇う静岡市の仕事は本当に素晴らしいと思いますよ。
神奈川だったら外見だけの女解説員か市役所の良く解ってない職員かなんかが業務的な面白くない解説して終りだろうね。
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その解説員さんに教えて頂いたのが、この‟きゃっしる”と言う簡易施設。
実はここ、現在発掘調査中の本丸水掘りの横に併設されている簡易展示室。
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こんな感じの資料とか・・・
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こんな徳川家康公に関する基礎知識を学べたりする。これ、中学生高校生の年齢で歴史好きな子だったら嬉しい掲示物だろう。
ここでは発掘調査中の石垣と水掘りが見られた。
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いや~凄い貴重な経験だよ!
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写真だと伝わらないかも知れないけれど、凄く巨大な石垣。石の一つ一つが巨大だから遠近感感じないけれど実物は物凄く大きい。
大阪城の石垣にも負けない巨大さ。
今しか見られない貴重な風景。
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本丸跡の中心は家康公の銅像が立っていた。
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あと、有名な金言の石碑。
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あと、家康公が自ら植樹した蜜柑が林に成って茂っていた。同じく手植えの蜜柑が華陽院にも有った。
家康公はミカン大好きだったんだね。だから静岡の特産品に成っているのかな?
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東側から発掘された本丸水掘りの遺構も展示されていた。
明治に軍の駐屯地に成った時にいしがきは崩されて堀は埋められてしまったそうだ。
これは先月見て来た佐原城や小田原城なんかと同じ。明治政府は世界的に見ても優秀な政府だが宗教政策の失敗と文化財破壊が汚点だったな。
この堀の先に、東御門と巽櫓が復元されていて坤櫓と合わせて有料だが拝観出来る。
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勿論、文化度の高い静岡県民の仕事、この矢倉の内部展示物も写真撮影自由!素晴らしい!
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中は豊富な展示物があり、江戸時代の駿府を知る事が出来る。
いや~本当に巨大な城だよ。
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ちなみに、これが巽櫓と言う東御門と枡形虎口が一体に成っている防御施設。
街道を城下に組み込み敵の侵入を阻む北条流の築城の影響が見られる。
そして縄張りの大まかな構造は長大な帯曲輪を屈曲させる徳川流と枡形虎口を多用する北条流の合わせ技。
関東東海の城の良い所を併せ持ってる城が駿府城な訳だ。
四角を三連にした造りはコンセプト的に西洋の城の構造にもなんとなく似ている。
三浦按針や耶揚子も関与したんだろうか?
滞在時間は早歩きで移動してもじっくり見学し40分程度。もう少しゆっくり見学したかったが予定がケツかっちんだったので駐車場に戻り、次の目的地の駿河区に在る宝台院別院と久能山東照宮を目指した。
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宝台院別院。
元々は照久寺と言う寺院だった。近代荒廃し徳川家所縁(ゆかり)の宝台院の御住職によって保護された。
この御寺は久能山東照宮にとっても、横浜の殿様の間宮家にとっても凄く大切な場所なのだが・・・
この宝台院別院の前には赤橋が架けられている。
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恐らく昔から赤橋だったのだろう。
実はこの道は久能街道の旧道、つまり江戸時代当時の道。そしてこの川を渡ると東照宮の参道に至る。
つまり、東照宮の最期の関門。恐らく、駿河に松平忠長公が居られた頃には、この場に架かっていた当時の橋を渡って東照宮を参詣されただろう。
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宝台院別院の話に戻る。
何故、この御寺が東照宮にとっても間宮家にとっても大切かと言うと、この照久寺は元々榊原照久公の菩提寺だからだ。この榊原照久公、偉大な人物で石高は1800石と大身とは言えないながらも最終的な官位は従二位、久能山東照宮の初代宮司を務めた人物なのだ。
そして・・・杉田間宮家の当主で徳川家康公の鷹匠頭を務め関ケ原でも活躍した間宮信繁公の御息女を娶った人物でもある。
この間宮の姫との間に生まれたのが榊原越中守照清公で、東京都江東区越中島の由来に成った人物だ。
この越中島周辺は後に埋め立てられて深川と呼ばれる地域に成り、そこに幕末に住したのが間宮林蔵だった。
地縁と血縁で間宮家と結びつきの有った人物で、日本の神職や徳川家臣団から見ても偉人と言える人物だ。
そんな照久公が葬られたのがこの御寺だが、明治以降の廃仏毀釈の影響で衰退し、廃寺同然に成っていたのと宝台院の御住職が救ったそうだ。
実は、その扁額は海に打ち捨てられていたのを御住職が発見して御寺を復興したそうだ。
学者達は知らないが、実は照久寺は今もひっそりと存続している・・・
御住職の熱意で、秘密の場所に。小生は訪問時に横浜と照久寺と間宮家の御縁を管理人様に御伝えし、御朱印を頂いた際に御好意で色んな事を御教授頂けて、更に、秘密の照久寺を参詣させて頂けた。
光栄だった。そこには榊原家の御子孫もいらっしゃるそうだ。
間宮家の顕彰文が完成したら、納経をしに行こうと思っている。顕彰文も見て頂こうと思ってる。
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宝台院から東照宮の参道は近い。徒歩で5分、車で2~3分だろうか?
車を大鳥居の前の“かどや名産店”さんの有料駐車場に停めて参拝した。
・・・この久能山東照宮、前進が久能山城と言う山城だけあって普通の神社を想像するとビックリする。
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鳥居を過ぎると右手には両大師こと天海大僧正所縁の塔頭が有る。今では無住職の小さい御堂が有るだけだが、徳川家の歴史を垣間見る事が出来る。
ここからが大変!
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階段が九十九(つづら)折りに続き一気に社殿の在る旧城域まで登って行く。これは山城時代に無かった参道を崖の壁面に後から作ったせいで急に成ったと個人的に推測している。
実際、旧道は東側に有ったらしい。
階段は蛇行している分、段差は緩く登り易い。とは言う物、かなりの高低差を一気に登るので見下ろすと高所恐怖症の小生には大分怖い。
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しかし絶景!
久野の海岸が一望できる。この景勝を東照大権現家康公は生前、大変に気に入っていたそうだ。
そして、久能山は駿府の本丸の様に感じるとも話していたそうで、この景色と街道と清水の港を押さえる久能山城の重要性から確かに納得出来る。
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途中で質素な門が有るが、ここは久能山城時代からの大手門だったらしい。
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先に進むと勘助井戸と言う井戸が有った。CIMG0828
武田信玄の馬回りを務めた山本勘助に関係が有るのだろうか?説明が無いので良く解らなかったが多分、推測の通りだろう。
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ちゃんと社殿の説明は有った。日光山東照宮と同じく、相殿に織田信長公と羽柴秀吉を祀っている。
羽柴と小生が書くのは、彼が織田家を討ち滅ぼした逆臣だから織田家臣時代の姓で敢えてそう書いて置く。
まぁ、経済制度を刷新した点は尊敬していない訳ではないが信長公が生きていれば、秀吉より素晴らしい事績を残しただろう。
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この東照宮は日光と違って朱漆が綺麗でより神社らしい。
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日光も格別だが、白が多く安土桃山時代から江戸期に入った直後の城郭的な印象が強い。
こちらは完全に神社。
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この日は16時30分頃にギリギリ参詣したが、外国人参拝客と一緒のグループと、2組のカップルがいた。
平日閉門に近い時間でもあり、参拝客は少なかった。
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明治時代の神仏分離までは熊野大社の様に神仏習合の神社らしく三重の塔も有ったらしい。
鶴岡八幡宮や石清水八幡宮にも同様に仏塔が有った。
まぁ、昔は大きい神社仏閣はだいたいが神宮寺だったからね。
神道も仏教も相互に協力して日本文化と歴史を守っていた訳だ。
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社殿はどれをとっても綺麗で、神社らしい神社の様式を守りつつ、安土桃山時代の文化の影響を留めている。
江戸時代の神社仏閣の社殿の様式より美しい。
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いくつかの社殿を通り過ぎる。
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するといよいよ本殿の前の門に辿り着く。
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残念ながら社殿は部分的に修復中で足場が組まれていていた。
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本殿の写真がぼやけているのは家康公に、プライベートな場所だから遠慮してねって注意だと思っておく。
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昔は恐らく徳川将軍家と親藩の大名しか入れなかったであろう家康公の舎利を祀った奥院へも参詣出来る。
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本殿美しいな・・・
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本殿の横を過ぎてこの門を過ぎると、奥院への階段に出る。
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この先に、家康公が今も祀られている聖廟が在るが写真を掲載するのは小生の主義で今回も止めて置く。
拝みたい方はご自分で是非御参りして家康公に御挨拶をなさって下さい。
ここに来れば信長公にも秀吉さんにも御参り出来るしね。
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奥院にはこんな場所も有った。
家康公らしいエピソード。でも後で細川忠興公が書き足した分は悪いけれどセンスを感じない(笑)。
忠興公の、ハッキリ言って無理やり過ぎ(笑)。でも内容は正しいね。
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帰り、社務所で御朱印を受け取り御挨拶をして、又、恐怖の階段を下りて行った。
そして車に乗って暫く走ると三保の松原に近づいた頃に日没を迎え、そのまま横浜を目指して帰る事にした。
夕食は東名高速のEXPASA富士川 の上りで静岡名物の桜海老の天ぷらそばを食べた・・・
写真撮影したのに何故か保存されてない。すいません。
でもこの桜海老の天ぷらが巨大で、とても食べごたえが有って最後に静岡らしい食事が出来て良かった。
上りの東名高速は工事渋滞で中々進まないので、大井松田で高速を降りて下道を進む事にした。
どうせ下道で帰るならと、途中、伊勢原市の義叔父の家によって愛知県土産の古式仕込みの味醂を持参した。
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これと同じ物。
津島市の鶴見酒造が醸造している神鶴純米と言う、昔は武士が高級酒としてリキュール的な飲み方をしていた高級味醂と同じ製法で作られた逸品。値段は高くはない。普通に日本酒と同じ値段。
帰って来て飲んでみたが、スーパーで販売しているのが偽物と言うのはハッキリと解る。
叔父達は喜んでくれたので良かった。
泊まっていけと言われたが、翌日は仕事も有るので、下道でそのまま横浜の自宅に帰宅した。

色んな人に会えた愛知静岡旅行、凄く早く時間の過ぎた5日間だったが自分の人生を少し豊かにしてくれたと思う。
そして、織田信長公の愛妻の生駒お類様の菩提寺久昌寺が廃寺の危機に有るのを知った以上、帰って来て以来ずっと何とかせねばと思う日々を過ごしている。
間宮家の顕彰文の素材の写真は、この後の10月15日に山梨県笛吹市の御坂城址へ登山して最後の素材が揃った。後は書き上げて冊子を印刷して配布するだけ。
少しでも、新しく引っ越してくる人たちに間宮家の殿様の偉業や横浜の綺麗な自然と神社仏閣の事を知って貰って愛着と郷土の誇りを感じて貰えたら嬉しいなと思い3年間やってきた。一先ず、これを完成させたら今度は織田家の久昌寺の救援活動と自分自身の改造に打ち込もう。そして後世の日本人に先人の遺産を残す手助けをしよう。

そんな事を強く思った。