戦国時代の北条家の家臣として活躍した間宮家は、江戸時代に間宮於久(おひさ)さんが徳川家康公の側室と成った事、それまでの活躍から徳川将軍家の直臣となり更に活躍したました。
しかし、徳川幕府の御役人に仕事が出来ない方々がいて系図を誤記したり検証をせずに誤った記載をして後世に混乱を与えている事柄が少なく有りません。
現代の学者の中にも人の書いた物を丸写しにするタイプの方が、この誤りを検証せずに誤記を丸写しにして結果的に恥をかいている事も多く、そう言った事が今後減ればとの思いから、根拠と成る資料や写真を掲載しながらここに少しづつ、史料文献と現代の書籍で判明している誤りを訂正しておこうと思います。
特に寛政重修諸家譜は編集した役人の質が悪かった様で様々な誤編纂、誤字が多く有る上に恐らく入道号=法謚と戒名と雅号の違いすら理解してないと推測出来ますので、そのまま引用する資料にする場合は気を付けて下さい。

【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
            &
【間宮康俊公と間宮信俊公が同一人物の可能性との指摘】
            &
【間宮信元公の別名盛頼の使い分けの謎】
既に以下の内容は間宮家顕彰文のプロットで同様の記載をして数カ所の寺院に配布していますのでコピペ無断盗用はネタバレしますので御注意。
『寛政重修諸家譜 巻第四百三十三 宇多源氏 佐々木庶流 間宮の252項内誤編集』

●間宮康俊公の戒名
寛政重修諸家譜で間宮康俊公の戒名を「今の呈譜に宗閑に作る」としていますがこれは誤編集です。
前の寛政譜で「宗覚」と戒名の一部分が掲載されていますが、こちらが正しい戒名に近い物です。
‟新編武蔵風土記稿橘樹郡下末吉村寶泉寺”の項目正しい戒名の記載が有ります。
「今本堂二位牌アリ表二当寺開基間宮豊前守殿堂宿宗覚庵主
・・・この新編武蔵風土記稿の記載が正しい入道号として採用するべき物です。
しかし、これは俗名で戒名では有りません。極めつけは既にこの時点でも位牌の紹介するべき字を見間違えています。それは入道号の一字で新編武蔵風土記稿に書かれている「間宮豊前守殿‟堂”宿宗覚庵主」の「堂」は「壱」を書き間違えたか読み間違えている事を先ず解説したいと思います。
名を入道号と区切る場所も繋げて書いてあり後世に混乱を残す記載の仕方です。もっとも、その原因は徳川幕府の役人だけでなく、そもそもが江戸幕府旗本笹下間宮4代目当主の間宮正次公にも責任が有ります。それを説明するには、先ず寶泉寺の実物の位牌の話をしなければ成りません。
この寶泉寺は近年祝融(中国の火の神、転じて火災の比喩)に遭い本堂を全焼した際、この記録に残る位牌の戒名の元に成った康俊公の入道号として壱宿宗覚庵宿が登場する文書の康俊公の参禅問答の記録は焼失してしまって現存しないそうです。現在の本堂も再建された物です。
しかし、寶泉寺第二十五世祖道秀一大和尚が火災前の記憶を記した‟寶泉寺縁起”にも康俊公の法謚(ほうし=入道号)として壱宿宗覚庵主が登場します。
寶泉寺の火災前の戒名の記録と伝承によれば、間宮康俊公の入道号は‟壱宿宗覚庵主”とされており新編武蔵風土記稿の記載と整合性が高いものです。さらに戒名も位牌によって伝わっており普光院殿壱宿宗覚大居士とされます。つまり間宮士信公が記録したのは、康俊公の戒名の普光院殿壱宿宗覚大居士ではなくて生前の名としての入道号の説明である間宮豊前守殿 ‟壱”宿宗覚庵主で、更に壱と堂を誤記か誤読している訳です。
そもそも戒名に‟間宮豊前守殿”なんて苗字と日本の官途名を全て含んで付けないのが一般的な上、当時の常識として・・・
仮に官位と官途名を含んだ戒名にする場合、正一位関白→相国一品、近衛~→羽林=御林~
・・・上記の様に中国の官途名で名付けられます。これについては京都市上京区の阿弥陀寺や東京都世田谷区の豪徳寺等に行って歴史偉人に日本の歴史発展を築いて下さった感謝を表しに御線香を上げに行くと良く解る筈(はず)です。
そもそも院殿号で‟殿堂”と言うの異質で奇抜で有り得ません。
‟⚪⚪寺殿”もしくは‟⚪⚪院殿”なら貴族武将の戒名として成立します。
上記の‟日本地誌大系記新編武蔵風土記稿”は、間宮一族で昌平坂学問所で総裁を務めた‟間宮士信(ことのぶ)公”によって編集されています。
つまり間宮一族で当事者である士信公が間違える可能性は‟誤字脱字”と位牌の‟裏面見間違え”による生前入道号と戒名の取り違え以外は極めて低い訳です。だから康俊公の入道号と戒名は宗覚が含まれるが正しい。
寶泉寺は安土桃山時代~18世紀の長きに渡り、毎年、間宮家臣団によって間宮康俊公及び累代殿様の法要が行われていた寺院で、間宮信冬公の開基、間宮康俊公の中興寺院です。
事実を元に判断するとこうなります。
康俊公の隠居時の入道号が‟間宮豊前守殿 壱宿宗覚庵主”で戒名は‟普光院殿壱宿宗覚大居士”だった訳です。
対して寛政重修諸家譜は幕府編纂です。
宗閑が戒名として採用される謂(いわ)れは、康俊公のもう一つの菩提寺の宗閑寺が御息女の於久の方の要望で徳川家によって開基された際に、康俊公の戒名を調査した幕府の役人が間違って康俊公の御父君である信元公の戒名と思われる普元院殿武月宗閑潔公に繋がる入道号の宗閑間宮家か関与した寺院で一番有名な弘明寺から探して来て誤ったまま引用し寺名とした可能性が非常に高い訳です。
寛政重修諸家譜では信元公の実名を‟某”とし法名を‟光林”としていますが、間宮家は北条家臣化以来歴代の入道号に‟宗〇”を名乗るのが伝統なので、この‟光林”は雅号を幕府の役人が誤って戒名として記載したと推測出来ます。更に、宗閑の法名の初出新編武蔵風土記稿‟久良岐郡本牧領弘明寺村蓮華院”の項目で記載有る‟弘明寺の扁額”の絵図に登場します。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
※現物は明治期の廃仏棄釈の被害で行方不明。
この扁額は大永元年(1521)年に奉納された物で、「本願宗閑同伴衆」と明記されています。つまり宗閑の法名を使う武将の与力衆が奉納している物に成ります。
間宮康俊公は天正十八年(1590)年に73歳で討死している事から、当時の日本人は数え年で年齢を計算しましたので生年は永正十五年(1518年)と解ります。宗閑の入道号が康俊公の生前の物だとして、当時3歳の康俊公が入道し更に多くの部下を従えて弘明寺に扁額を奉納するのは極めて不自然な訳です。
●間宮信元公の戒名
この事から、普元院殿武月宗閑潔公は信"元"の"元"の字が含まれる事からも康俊公の御父君の間宮信元公の戒名と推測が成り立ちます。江戸幕府の役人が徳川家康公の愛妾だった於久の方からの要望で康俊公の菩提寺を建てる際に、誤って弘明寺に記録されていた間宮信元公の戒名を記録して帰ったと考えられます。
当時も今も、役人の仕事には不手際が多かった様です。
以上の事に気が付いたのは、間宮家研究の第一人者である盛本昌広先生の著作‟間宮家由緒の形成”で当該の絵図に関する奉納期日の記載が有った事、そして寶泉寺第25代住職祖道秀一大和尚様の著作‟寶泉寺縁起”を現在の若様より頂いた事、そして先日他界された間宮家臣御子孫の市村氏から引き継いだ間宮家顕彰の熱意を合わせて諸先輩の記録と記憶を繋いだ結果です。
※以下は完全に推測の域を出ない事柄※
●間宮康俊公と間宮信俊公が同一人物の可能性

三島市側の箱根山中に在る山中城址には、間宮康俊公達の墓碑が在り以下の様に刻字されています。
北条氏直公幕下忠臣(徒←判読困難)
普元院殿武月宗閑潔公之
間宮豊前守康俊七十三歳
圓誉宗覚居士
康俊舎弟監物
天正十八庚寅年三月二十九日
依山中城落城為秀吉公討死
教誉宗〇(←存在しない字)居士監物嫡源十郎
檀主 間宮三郎兵衛尉正次為(師←判読困難)
開基 間宮(〇〇←判読不能)
山中城址間宮家廟所 久良岐のよし
※画像は山中城址の間宮家の御廟所の碑文です。
※上記の様に書いて有りますが、部分的に小生の撮影した画像では判読不能なので解読した方は小生まで御連絡願います。
この墓碑を建てた間宮正次公は本牧奉行を歴任した間宮家の嫡流で康俊公の4代後の子孫に当たり、兄君の間宮正信公の養子に成り家を継いだ人物です。江戸時代の本牧奉行初代直元公の御孫さんですね。
間宮信冬_(兄弟?)_間宮信盛_間宮信元_◎間宮康俊_①間宮康信_②間宮直元_③忠次_④正信_(兄弟)_⑤正次_⑥次信
御覧の通り、墓碑には幕府編纂の系図上の康俊公の弟に当たる監物こと間宮信俊公の戒名が中心に大きく彫り込まれており、不可解な墓碑と成っています。これでは重要な人物は圓誉宗覚居士こと監物信俊公で信俊公が惣領の様に成ってしまいます。しかも監物信俊公の戒名には寛政重修諸家譜以前の、寛政譜や寶泉寺に伝わる康俊公の入道号として伝わる‟宗覚”の二文字が信俊公の戒名として彫り込まれています。
実は新編武蔵風土記稿の弘明寺村蓮華院の項には、弘明寺の扁額以外にも間宮信俊公が修理した花瓶の絵図が記録されています。
新編武蔵風土記稿弘明寺の花瓶 久良岐のよし
間宮監物修理之
天正拾八年庚子二月吉日
・・・天正十八年二月、つまり山中城で間宮康俊公が討死する直前です。この監物は一般的に間宮信俊公を指すとされる官途名です。
間宮家は祖先が佐々木家で、佐々木家は鎌倉時代には源頼朝公と同じく真言宗や修験道の信徒でした。
一方で北条家は曹洞宗の信徒で大半の家臣も公人としては曹洞宗寺院で修行し、それと別に祖先以来の宗旨も大切にした様です。
例えば間宮康俊公の嫡孫で初代の本牧奉行を務めて間宮直元公は壇林として有名だった横浜市南区の寶生寺を支援していますし、間宮家嫡流歴代の殿様も笹下城下に在る寶生寺の末寺の東樹院を支援していました。
間宮康俊公の‟康”の字は、主君の北条氏康公から一字拝領した名前です。
仮に北条家臣だった時代に、寺院の宗旨によって公私で名を使い分けていたとするならば、以下の謎も解けます。
曹洞宗  伝承名   他寺院  伝承名
宗三寺  間宮信盛  寶泉寺  間宮信頼
宗三寺  間宮盛頼  笹下地区 間宮信元
寶泉寺  間宮康俊  弘明寺  間宮信俊
間宮信元公の名は系譜に登場するが、寶泉寺の末寺だった川崎の宗三寺では盛頼と昔から伝わり、笹下の浄土真宗系寺院では間宮信元と伝わります。
更に間宮信盛公の名が宗三寺より早く間宮家と関わりの有った寶泉寺では間宮信頼と伝わります、これは末吉に間宮信盛公が居た時代は未だ大森家由来の間宮信頼を名乗っていて、後に川崎に赴任した頃に伊勢盛時(北条早雲)公から一字拝領して間宮信盛と改名したと推測が成り立ちます。
曹洞宗寺院で盛頼とされる信元公の名が笹下の浄土真宗系寺院に伝わっているのは、間宮家が鎌倉公方の旧臣であり、鎌倉公方の足利持氏公の子である古河公方足利成氏公の家系は浄土真宗寺院と関係が深く有りました。
一方で室町幕府と関係の深かった北条家は室町時代に高田派を除く浄土真宗寺院と敵対関係でした。
信元公の時代は室町時代ですから笹下東福寺と間宮家の関係は信元公の時代には疑問が有ります。
しかし同じ浄土真宗でも江戸時代に高田派に属している成就院は本来の名前は梅花山南無佛院成就坊と呼び、そもそも戦国時代に弾圧を免れる為に高田派だった可能性も有る場所です。江戸時代にも穏健派の西本願寺はで本願寺良如上人と九条関白が金沢遊覧の際に成就坊に滞在し杉田梅林で観梅した記録が残っています。又、成就坊の前身寺院は法相宗の曲田山帶行寺とされ源頼朝公と盟友だった真言宗の高僧の文覚上人が頼朝公出陣前に吉凶を占う護摩焚を行っている記録が観音像由来の記録として残っています。この記録の通りに成就坊は元は法相宗で後に真言宗に成り更に一向宗の中でも高田派に属していたのであれば歴史的にも関係上は室町幕府幕臣今川家臣北条家与力間宮家としても問題が無いので当時から関係が有ったと檀家衆に伝わる伝承にも信憑性が有ります。
いずれにせよ、笹下城址の成就院も東福寺も曹洞宗の寺院ではないので盛頼ではなく信元の名で関わりを持っていたのでしょう。そして恐らく真言宗の弘明寺や東樹院とも信元の名で関わっていた筈です。
北条家は当初は今川家臣(従属大名)でした。時期的には間宮家の当主が権現山合戦直前の信冬公だった時代に当たります。
この宗旨の問題と関連の有る間宮家の寄親の変遷を読み解くヒントが新編武蔵風土記稿に紹介されています。

新編武蔵風土記稿の‟舊家者百姓利兵衛”の項に登場する旧間宮家臣の内田對馬(つしま)サンと言う人物は永正5年三月二日:西暦1508年4月11日に他界していると解説が有った上で、この屋号が古門の内田家に発給された感状の記載が以下の様に紹介されています。

今度稀有之走廻就致之候、従御大途御褒美、自分之面目手前にも外聞にも候間、親子共受領官途申之付者也、仍如件、
 寅三月廿八日     信親(花押)
      内田對馬とのへ
      同源左衛門とのへ 
  
ここで登場する‟間宮信親”名で感状が発給されたのは旧暦寅年(永正6年)三月廿八日:西暦1509年04月27日と解り、それ以前の戦功に対しての恩賞だと解ります。
そして、この論功行賞まで1年間のタイムラグが有るのは、大きく三つの要因が考えられます。
①今川家の論功行賞の遅れの可能性。
今川家の為に北条家が三河遠征を数年間に及んで行ったものの、松平領の切り取りには成功していない為に、恩賞を巡って今川家と北条家の間で論功行賞に関して交渉が行われた可能性。そして結果的に北条家とその与力衆に対して領地の恩賞が与えられる状況では無かった。更にはこの感状発給の前年に今川家と北条家の関係を悪化させる時代が発生している為に所領恩給は無く、止む無く両属の士であった間宮家には1年後に今川家より官位が与えられた可能性が高い。
これが一番、現実的な可能性と思われる。
②根本的に内田對馬の過去帳を管理している東福寺に不備が有った可能性。
東福寺と最古の檀家で本来の大旦那の北見家自体の伝承と東福寺の証言ですら喰い違いが多く有るので、この東福寺に因る誤記の可能性は高い。過去帳紛失による再発行での混乱等も有ったかも知れない。その根拠として寺寶であった梵鐘すら江戸時代には消失していた始末。そもそも、浄土真宗の寺院が戦国時代当時に高田派以外の浄土真宗を弾圧していた足利幕府の家来の北条家の統治下で、寺院を運営出来ていた可能性は低い。古河公方足利家の統治時代ならば足利成氏公と浄土真宗の関係性から信憑性は有るが、残念ながら内田對馬は1508年に他界した人物なので、北条家統治下の笹下で東福寺の運営が行われていた可能性は低い。更に新編武蔵風土記稿内で太子堂として紹介されている場所は再建中と間宮士信公に証言しているが、そここそ古来、北見掃部家の墓所であったので縁起の信憑性に疑問が残る。
北見家発祥地についても、太子堂の管理についても昭和に成っても北見一族と東福寺で揉めた経緯も有る。東福寺がちゃんと管理しているはずの情報や物が北見家一族自体と認識や扱いの丁寧さが異なる事例が多く有る事から、内田對馬の没年にも誤差が有る可能性は高い。極めつけは東福寺では北見本家は第二次世界大戦で子孫が絶えたと伝えているが、これは大きな事実誤認で絶える以前に分岐した北見本家筋の家系は港南区上大岡地区に存続しており、現在の宗旨は真言宗に戻り真光寺に成っている事を東福寺の家人が知らないだけの話なのだ。これは東京駿河台の地名由来に成った蒲原代官と本牧奉行を兼任した間宮忠次公が支援した南区井土ヶ谷の西向山乘蓮寺でもハッキリ認識している。
余談だが西向山乘蓮寺は北条政子様が承久の乱の際に避難した草庵が前身の寺院で、井土ヶ谷の地名も政子様が生活に使った化粧井戸が由来に成っている。
③古門内田家の子孫による偽作の可能性。
そもそも、古門内田家は間宮家最古参の家臣故に、寛政重修諸家譜に登場しない間宮宗甫の所領とされた紺屋領分(西浦賀)の屋号を持つ分家の紺屋内田源次郎家も存在する。
古門内田家は内田対馬守家と内田源左衛門家が両方昭和初期まで存在した。源左衛門家は昭和期に破産し競売に掛けられ失踪し現当主は不明。
感状に登場する内田對馬と、その子の源左衛門の子孫と思われる屋号が両立すると言う事は、源左衛門が亡父の功績により官職を得たのではなく、亡父の嫡子と源左衛門が、それぞれ官職を公私で名乗れる官途状を与えられている事が解ります。つまり偽作の可能性は低く①の可能性が強くなると推測出来ます。
しかし、偽作とすれば間宮士信公は怪しい物は紹介しなかったり、間宮家との関係を捏造して評価を得ようとした神社などの書いた存在しない間宮の殿様の名前に関しては敬意を表さず容赦なく「某」として捏造者の主張を全く紹介していません。よって、信親は実は誰か思い当たる節が有る物の、北条家臣として一番古くに関わった寶泉寺にだけ伝わる間宮信盛公の別名間宮信頼、宗三寺に伝わる間宮信元公の別名間宮盛頼の様に、間宮家の主替えの歴史を憚って、間宮信親が誰かを特定出来ない形で紹介していると推測出来ます。
間宮士信公は散々、自称松田家の偽書と思しき文書等も見ている筈なのに紹介していないので、やはり本物と判断して掲載したと思われます。
尚、この古門内田家の家格を計る物差しとして、内田家が旧蒔田吉良家重臣の森家に養子を出した歴史が有るが、足利一門蒔田吉良家の家老クラスの重臣に養子を出せる意味は誰でも解る事。両者江戸時代に帰農しても現代に至るまで大地主や名刺だった事実も、その家柄を物語っています。

問題の寛政重修諸家譜に登場しない間宮信親公が書いた感状の内容は大凡(おおよそ)ザックリ以下の通り・・・
今度稀有之走廻就致之候、従御大途御褒美、自分之面目手前にも外聞にも候間、親子共受領官途申之付者也、仍如件、
 寅三月廿八日     信親(花押)
      内田對馬とのへ
      同源左衛門とのへ 
「今回の功績を(間宮家の更に上司の今川?の)大殿様から評価されて、(内田サン)親子両方に官職を与えられるよ。」

・・・感状の発給者は間宮信親公とされていますが間宮士信公は、この信親と言う人物を敢えて‟俗称等詳しならず”と、この信親と言う名が公称だった事を示唆する注釈を添えています。つまり主君から名を一字頂いている可能性が有ります。
これは当時は恐らく正式に北条家臣では無く、間宮家は今川家臣だった事を暗に示しており、主君替えの不義理な名前を誰の当時の名前かと特定出来なく伝えているのだと思います。
そして、この信親と当時は名のっていた人物は世代的に間宮信冬公か間宮信盛公に当たります。
間宮信盛公は別名を間宮信頼と伝えられています。恐らく先に使用していたのは間宮信頼の名でしょう。
間宮家は北条家臣と成る前には古河公方家臣だったので、古河公方有力大名で隣接する大森藤頼公の与力武将だった事が笹下間宮分家竹内家の系図で解っています。つまり、間宮信盛公は北条家以前の上官だった大森氏頼公か子の大森藤頼公から一字拝領して間宮信頼と先に名乗っていたのでしょう。
同時に、この時期に間宮信元公も間宮盛頼と名乗っていた筈です。
当時の大森家は扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家に従属していました。
  ↓
その後は今川家の重臣の伊勢(北条)家の伊豆占領時に間宮家は今川家臣化し、伊勢家与力と成った。
※一般的には、この時点で北条家臣と成ったとされているが、古河公方家臣であり今川家臣北条与力で大森家の与力でもあったと考えられる。
この時期の伊勢家と大森家は友好関係に有り共に大森家の上司に当たる古河公方足利家の代行者たる扇谷上杉家に協力しています。
所が大森藤頼公が扇谷上杉家や今川家の敵である山内上杉(やまのうちうえすぎ)家に内通する事件が発生します。
これが伊勢盛時(北条早雲)公が小田原城を横領する大義名分と成り、文亀元年(1501年)に扇谷上杉家公認で裏切者の大森藤頼公を奇襲し以後、小田原城は扇谷上杉家の協力者、今川家臣北条家の支城と成り、二代氏綱公の居城と成ります。
恐らく、この時期に間宮信盛公か間宮信冬公が大森家と手切れをして主君と成った今川氏親公から一字拝領して「間宮信親」と名乗っていたのでしょう。
間宮信盛公の別名は寶泉寺では‟信頼”と伝わっているので、‟信親”の名を使用した可能性が有るのは間宮信冬公だった可能性が高い
  ↓
間宮家の寄親(よりおや=上司)、伊勢盛時入道宗瑞公は今川家の大将として三河国安祥城を永正三年(1506年)~永正五年(1508年)まで攻めています。
1508年で今川家が三河侵略を停戦しているのは、この年に上司であった征夷大将軍の足利義澄公が失脚し足利義稙(よしたね)公が将軍の座を奪う形で就任し、政局が混乱した為でしょう。
この合戦の討死か合戦後か、永正5年三月二日:西暦1508年4月11日に他界しています。
  ↓
この功績に対して行われたであろう感状の発給が1509年4月27日に行われています。ですから内田對馬サンの死後1年後に論功行賞が行われたのでしょう。
この感状では永正五年まで実は間宮信親公は三河安祥城攻めでの戦功に対して御大途(大殿)から内田對馬と子の内田源左衛門に対して下賜された官位を与えている事が解ります。
当時の今川と北条の関係性を考慮して、この感状の「御大途(大殿)」は今川氏親公、恐らく北条は「殿」又は「御館」と呼ばれていたのでは無いかと思いますが、北条早雲公現役の頃の感状をまだ拝見していないのであくまで推測です。
領地では無くて官位が褒美だったのは、今川家側の敗戦で領地が拡大出来なかったからでしょう。
しかし、この1509年以降北条家は今川家から独立し、二代目の北条氏綱公が姓を北条に改めて伊豆国と小田原支配の正当性を主張しなければいけない事件が起きます。
  ↓
伊勢家は九代将軍足利義尚公や大御所の足利義政公、日野富子の家臣として今川家の家督相続混乱の収拾に派遣されています。
義尚公の政策と敵対する行動をした堀越公方足利政知の血族者は敵に当たります。
しかし足利義尚公の没後、将軍職を継いだのは応仁の乱で足利義尚公と対立していた足利義視の子の足利義材や堀越公方の子、足利義澄公でした。
足利義澄公は日野富子や早雲公の本家に当たる政所執事の伊勢貞宗公の支援の下で将軍に就任しますが、足利義政公・日野富子・足利義尚公親子・伊勢貞宗公と対立した足利義材によって将軍の座を奪われてしまいました。
足利義材は名を足利義稙(よしたね)と替え将軍に復帰しますが、北条早雲公にして見れば敵勢力に当たる上に、それまで今川家臣として活動していた伊勢家(以下北条家とする)の伊豆国と小田原支配の正当性が、足利義稙政権下では無くなってしまいます。
更に同年1509年に北条早雲公の甥で主君の今川氏親公が足利義稙に完全に臣従し伊勢家の敵である義稙政権を支持する事で駿河守護遠江守護を認知される事件が起きました。
事、ここに至っては、北条家は今川家臣で有り続けると西湘地域と伊豆国支配の正当性を失い返上を命令される可能性も有りました。
  ↓
結果的に大名として力を付けていた北条家は今川家から独立して、領地支配の正当性を持つ必要が有り、同族で嘗ての鎌倉時代の支配者である北条家の名跡を継承して関東支配の正当性を主張して行く事に成ります。
間宮信冬公が間宮信親の正体かは確定する資料が有りませんが、仮に信親が信冬公の使った名前だとすれば、信親の名を捨た時期は、この今川家と北条家が手切れに成った時期でしょう。
間宮家は北条家に与力する事で西湘の二宮地区にも所領を拡大していたので、北条家に臣従し家臣化する事は当然の流れと言えます。
しかし旧主今川氏“親”公の「親」の字を頂いた名前を、今川家と手切れした後も名乗れる筈も無いので、以後は系図からもこの名前が消されたのだと推測出来ます。

これらは間宮家の武将の名前が、常に主家或いは間宮家自身の同盟関係、つまり扇谷上杉家与力の鎌倉公方旧臣大森家と今川家の影響を受けて変化している事が見てとれます。  
そして、本来の名前と、北条家臣としての名前も関与する御寺の宗派によって使い分けていた推測出来ます。
要点を纏め、改めて間宮康俊公の戒名の問題に話を戻すと以下の様に成ります。
①北条家臣時代の間宮家の当主は神社仏閣に関わる際に、公人と私人で名を使い分けていた。
公人・・・北条家臣として禅宗寺院に関わる際は主君から一字拝領し改名した名前。
私人・・・間宮家の祖先歴代が使用した「信」の字を含む初名、或いは族名として信の入る別名を使用した。
②曹洞宗以外の真言宗の弘明寺や他宗派に関与する際は信盛公は信頼、盛頼公は信元、康俊公は信俊をそれぞれ使用していた。
③入道号:宗覚 
間宮家の親族と家臣団は、生前からの間宮康俊公の入道号を(一宿)宗覚(庵主)と公然の事実として伝わっており、討死前から入道号が間宮豊前守殿(堂×→壱〇)宿宗覚庵主と名付けられていたので戒名を‟普光院殿壱宿宗覚大居士”として菩提を寶泉寺で弔われていた。
④入道号:宗閑
ところが御息女の於久の方が徳川家康公に、父の菩提寺の建立を要請した所、武蔵国に派遣された役人は康俊公が最後に御関わりに成った真言宗の弘明寺で調査を行った。ところが監物信俊公の名は有れど、当然、康俊公の名前は出て来ず又、同一人物とも気が付かない。結果的に、一番近い時代の記録として残る扁額に残る宗閑の記録か扁額と同時代つまり康俊公の一世代前の信元公の戒名を康俊公の戒名と断定し宗閑寺を造営してしまい、間宮家へは事後報告と成った。
⑤問題発生
徳川家が‟葵の紋”を寺紋として下賜して下さった上に、既に造営された宗閑寺の寺名に取り違えられている戒名の問題を指摘する事は、家臣の間宮家としては徳川家康公の側室と成っていた‟於久の方”や外戚として但馬奉行本牧奉行と成っていた‟間宮直元”公の立場を悪くする可能性が有るので、間宮家一門も家臣団も当然、徳川家に対して間違いを指摘する事は不可能。
本来ならば宗閑寺の寺名は普光院宗覚寺でないといけない訳ですが
しかし間宮家が徳川幕府に対して「入道号が‟間宮豊前守殿 壱宿宗覚庵主”で戒名は‟普光院殿壱宿宗覚大居士」です!等と訂正と寺名変更を申請する事なんぞ出来る訳も無く、止むを得ず両方の戒名を使う事にした。
徳川家のメンツを潰さない為に、幕府に対しては弟の名として康俊公の別名である信俊を使用し宗覚とした。
⑥更に問題悪化
間宮康俊公から4代後の子孫で、数えて5代目当主と成った間宮正次公は嫡子では無く死んだ兄の後を継いだ方です。兄が早世して自分が跡継ぎに成った事を不吉に思いたったのか山中城址の宗閑寺で祖先康俊公の追善供養を行って写真の墓碑を建立しています。
山中城址間宮家廟所 久良岐のよし
一見すると右から徳川家に造営された宗閑寺の寺名由来と成った戒名を優先している様で、実は寶泉寺や新編武蔵風土記稿に間宮康俊公の道号として伝わる‟宗覚”を使用した戒名が中心に据えており間宮家臣団と康俊公が直接かかわった寶泉寺で使用された戒名を主に弔っている刻文に成っています。
そして、徳川家に失礼に成らない様に、佐々木一族間宮家として真言宗寺院に関わった際の名の「信俊」を舎弟の名とする事で幕府に感づかれない様に粉飾したのではないでしょうか。
⑦正次公の善意の追善供養が後世に混乱を残した。
寛政期に幕府によって武士達の家系図が作成される際に、最初に間宮家から提出された物が最初の寛政譜だと思われます。しかし、間宮家の宗覚の戒名だけでなく恐らく他家でも幕府のメンツを潰す似た様な問題が有り幕府の誤った記録に基づいて訂正されたのが寛政重修諸家譜なのではないでしょうか?
その寛政重修諸家譜には、間宮正次公が本来は同一人物の信俊公と康俊公を分ける事で幕府の戒名取り間違えに対応した通りの家系図が作られてしまい、それが後に関八州古戦録等でも当然の様に山中城の戦いの記録に2人の人物名が登場してしまい、別人格として誤った系図が形成されて行ったのだと推測が出来ます。
・・・その後、間宮家は間宮正次公は突然、本牧奉行職を辞任したり所領を笹下や末吉から房総半島の印旛郡と安房国長狭郡の地方に転封左遷されているのは寛政重修諸家譜を御覧に成っている皆さんも知る所ですが、着目すべき所は間宮正次公の戒名も宗の字を含む‟宗淸”に成っている所だと思います。
やはり間宮信元公の戒名が光林と言うのは徳川幕府役人の誤植でしょう。
因(ちなみ)みに、皆さんも違和感を御感じに成られていると思いますが間宮信俊公の系図は以下の通り、間宮家有名人物の名前ばかりが登場します。
間宮信俊__間宮源十郎
     |   (弟、綱信公の字)
     |____間宮光信_ _ _間宮正信(三郎九朗、間宮直元公二男)
                                   (養子)
この信俊公の家系の系図の不可解さは、信俊として別人格に分けてしまった康俊公を、子孫の間宮正次公の代で帳尻を合わせて血統上で同一系統に戻せる様に粉飾した結果なのではないでしょうか?
そして、実在した御実弟の‟源十郎綱信公”の名前を登場させて子とする事で、普元院殿武月宗閑潔公の戒名が信元公の戒名で有る事を示唆する暗号とした。ところが、時代が下ると嫡流も傍流もこの事を口伝で伝承させる前に当主が早死にするケースも養子縁組で上手く行かないケースも発生し、更に一族は奉行職を辞して神奈川周辺を離れ家臣団との関係も菩提寺との関係も希薄に成り、結果的に時代時代に家系図を記録する習慣等当然無いし、移住する度に菩提寺も変えて来たので多くの間宮一族の中で後世には誤った記録だけが残ってしまった。
そして実際に各時代の菩提寺にも行かない、又はそれぞれの分家の子孫達に取材もしない学者達によって寛政重修諸家譜の丸写しが多発し混乱に拍車をかけているのが今現在と言う訳です。
〈康俊公戒名問題のまとめ〉
●恐らく普元院殿武月宗閑潔公の戒名は宗閑の入道号の初出年代から間宮信元(盛頼)公のものと思われる。
●間宮康俊公の入道号は宗覚で間違いない。
●間宮豊前守殿壱宿宗覚庵主は位牌の裏面生前名が表面として紹介されている。
●間宮家と家臣団が追善供養で使用した生前の入道号を重視した戒名は普光院殿壱宿宗覚大居士。
※以下は推測。
●恐らく間宮家は北条家臣時代まで曹洞宗と他宗旨の寺院で公私名前を使い分けていた。
●間宮信俊公と康俊公は同一人物の可能性が有る。
●宗閑寺の墓標の圓誉宗覚居士は恐らく隠居時の入道号フルネーム一宿宗覚庵主と没後の戒名の普光院殿壱宿宗覚大居士が暗号化された戒名で、目的は宗覚の字の入った戒名を墓標の忠臣に据える事で康俊公の入道号を宗覚と暗示する為。そして、御父君信元公を上位とする為に右列に普元院殿武月宗閑潔公の戒名を据えた。
●普元院殿武月宗閑潔公を信元公の名と示唆する為に、宗閑寺の墓標には‟教誉宗〇(←存在しない字)居士監物嫡源十郎”として康俊公の御実弟、源十郎綱信公の字(あざな)源十郎を使用し謎解きの暗号としている。宗〇と存在しない字を用いているのも本来の綱信公の戒名の字を書かないで済む様にしている意味が有る。
これが全ての真相だと思います。
以上、久良岐のよしに由(よ)る謎解きと解説でした。