鎌倉市には稲村ケ崎と言う、風景の綺麗な歴史史跡が在ります。
昨日2017年02月15日、横浜の歴史人物の顕彰で使用する風景写真撮影も兼ねて、昼に横須賀市の田浦梅林を訪れた後で七里ヶ浜の夕陽と稲村ケ崎の写真撮影で行ってまいりました。
良い機会なので少し解説と、沢山、稲村ヶ崎から見た夕陽の写真を掲載しようと思います。
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この写真だと少し判り難いのですが、江ノ島の右手には富士山が見えています。
右手は七里ヶ浜と呼ばれる浜辺で、手前の岩礁は今回紹介する稲村ケ崎へと続く七里ヶ浜の一番東の端っこの部分に当たります。
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この七里ヶ浜はとにかく風景が綺麗なので、台湾やアジア諸国からの観光客、そして日本の若いカップルがデートに来る場所でもあります。
七里ヶ浜は江戸時代の浮世絵に書かれている富士山遥拝の名所である事も以前も紹介しましたね。
そんな七里ヶ浜を見渡す一番の場所が下の写真の稲村ケ崎(鎌倉海浜公園)です。
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この入口から入ると左手に小高い丘が有り、公園と道路で隔たれた切通(きりどおし)状の地形の先に鎌倉の極楽寺坂の山々が連なっているのですが、この現代の道路の切通地形は鎌倉時代には存在せず、背後の山とは一体に連なっていました。
稲村ヶ崎と極楽寺坂切通しの位置関係 久良岐のよし
こんな感じ。
当時は西側から鎌倉市街に突入するには、極楽寺坂か化粧坂の切通しを突破するしか無く、更に市街地を取巻く絶壁の山々の全山を要塞化していたので、外敵は苦戦したんですね。
そして稲村ヶ崎の地形が、どれ程に堅牢な防衛拠点だったかは下の写真を見て貰えばわかります。
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先は海に突き出しており、軍勢はここを突破する事は常識では不可能な地形となっています。
そして背後の山々に連なる部分は山裾を人工的に直角に近く“のり切り”されて鎌倉市街地を守る城塞の切岸(きりぎし)として機能していました。
この写真で壁面に四角い窓穴が開いているのが判りますか?
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実は、ここは太平洋戦争でも西側の七里ヶ浜に米軍が上陸する事を想定されていたので、稲村ヶ崎に築かれたトーチカ(要塞)の砲撃用の窓なんです。
こんな事、歴史に興味が無いと見向きもしないんでしょうが、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の着眼点は近代戦争にも通用する程に鋭い戦略だったと言う事の証明でもあります。
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大正時代に鎌倉の青年団が築いた史跡の石碑が公園内には在ります。
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そして現代では稲村ケ崎の岬の頂上へは登る事は出来ませんが、山腹の写真撮影に適した場所までは入る事が出来ます。
その遊歩道の傍(かたわ)らには水仙が植えられており、今の梅の季節の頃に咲いて良い香りを漂わせてくれています。
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うん、皆そろって美人さんだ!
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今日も良い香りをありがとうね~。
登りきると、又、石碑が在ります。
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北里大学の創始者、北里柴三郎先生の師匠、ローベルト・コッホ博士が来日した事を記念して北里先生と鎌倉市で建てたそうです。
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ちゃんと文語から現代語訳された説明も有ります。
この石碑が在る辺りで夕陽の撮影をする方も多くいます。
実は、この場所の崖側に、下の写真の穴が在ります。
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恐らく稲村ケ崎要塞の入口だった場所でしょうね。
現代では崩落も有り入口も狭く人が入るのは不可能な様です。
さて、話を鎌倉時代の終焉の頃に戻しましょう。
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新田義貞は鎌倉攻めを行いましたが・・・
巨福呂坂(こぶくろざか=鶴岡八幡宮裏手北側侵入経路)も・・・
化粧坂(けわいざか=扇谷地区侵入経路)も・・・
亀ヶ谷(かめがやつ=北西侵入経路)も・・・
極楽寺坂(ごくらくじさか=南西侵入経路)の全て突破出来ず、苦戦しました。それだけ源頼朝公が築いた鎌倉城の守りは難攻不落だった訳です。
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そこで、この稲村ケ崎で黄金の太刀を海に投げ入れて海の神へ、潮を引かせて鎌倉への侵入経路を開く様に祈願すると潮が引き海底が露出して大軍が稲村ケ崎の海側から鎌倉市街に侵攻する事に成功して鎌倉幕府執権北条家を滅亡させたと伝承が伝わります。
・・・まぁ、これは眉唾物の脚色でしょう。
しかし、この神事は実際に行ったと思います。
実は古代から平安時代は、鎌倉時代と違って海に囲まれた扇状地の様な湾の様な地形に侵入する経路は、海沿いの崖に切通しが作られた様です。
これは古代の東海道が残る、鎌倉市材木座~小坪の住吉城址と海前寺の切通しの事例を見ても明らかな歴史事実です。
恐らく新田義貞は、極楽寺坂や化粧坂の切通しを攻撃し北条家の注意を引く間に、工作兵を用いて稲村ケ崎の岸に兵士が通行可能な切通しを建設したのだと思います。
そして、そこを通行する際の安全祈願として神事を行ったのだと思います。
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近くに寄ると分かるのですが、特に上の写真の左手部分、人工的に少し平たく削平した名残りの様に傾斜が緩く成っているんですよね。
そして、戦時中に近代要塞が築かれた辺りも崖の裾が今でこそ海波の浸食で崩落して歩く程幅は無いものの、その先には角度の緩い場所が復活しているんです。
今では渡れないこの比較的角度の緩い地形、実は新田義貞が突貫工事で削り出した道の跡なんじゃないかな~?
・・・と感じました。
まぁ、神様にお願いしたら海が引いて軍馬が通れる様に成った方が神秘的では有りますが、現実的では無いですよね。
さて、歴史解説は以上の通りですが、ここは小生の嫌いな勲章を粗末に扱った反日バンド“サザンオールスターズ”の歌「稲村ジェーン」のタイトルにも成っている景勝地。
他にも良い写真が撮れたので少し掲載したいと思います。
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波しぶきと江ノ島と夕陽。
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夕陽を見るカップルの後ろ姿と江ノ島。
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仲睦ましく、いつまでも御二人には幸せであって欲しいなぁ~と思いました。CIMG2573
富士山と七里ヶ浜と江ノ島と夕陽。
素敵な場所でしょ?
実は稲村ケ崎の目の前には素敵なレストランも在ります。
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MAINと言う御店です。
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御覧の通り素敵な内装なのですが、窓辺の席からは富士山と江ノ島と七里ヶ浜を見ながら食事を出来ます。
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昨日は小生、平日の休みを利用して田浦梅林の山登りをしていたので単独行動もあり、稲村ヶ崎も当然一人でしたが、この御店は一人で来てもユックリ落ち着いて食事して有意義な時間を過ごせますし、恋人や夫婦で来ても雰囲気の良い御店ですのでくつろげると思います。
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因(ちな)みに昨日は200gのステーキとカシスティーを注文しました。
この後でスポーツジムに行く予定が有ったので当然、炭水化物抜き(笑)。
とは言いながら、田浦梅林の近くの和菓子の名店、ふじみ屋で買った“梅どら焼き”を食べていたので山登り前に当分は補給済みでした。
もう、昨年凄い太ったので贅沢して美味しい物を食べるときは炭水化物は外さないといけないんです(泣)!
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お肉美味しかったですよ!
ウェイトレスのお姉さん、良い接客をありがとう♪。

今回の記事はここまでですが、稲村ヶ崎、良い所でしょう?
是非、皆さんもお散歩して見て下さい!推薦の場所です。


では次回は鎌倉の円覚寺の解説か、建長寺の解説か、田浦梅林の現時点の梅林の開花状況報告を書きます。
又、次の記事でお会いしましょう♪