2017年04月22日、有鹿(あるか)神社で海老名の歴史解説の講義受講をTwitterで宮司様から御声掛け頂いて参加しに行って来た。
今年の水引き神事に(寝坊して)参加出来なかったので、文献には載らない祭祀内容や相模国延喜式内13社に伝わる海老名地名の由来の解説等を聞きに行く為だ。
海老名に行くなら未訪問で訪れて見たかった場所も数ヵ所有り、事前に計画を立てて訪問予定地をGoogle mapに登録しておいた。
結果的に行き当たりバッタリ思い付きで突然訪問した場所を含めて書き出すと、この日の行動を纏めるとこんな感じだ。
有鹿神社本宮
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旧有鹿神社別当寺 総持院
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有鹿神社中宮跡
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相模国国分寺跡
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海老名市温故館(郷土資料館)
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中村屋
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有馬のハルニレ(神奈川の名木100選の一つ)
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高座豚手作りハム(ブランド豚の高座豚の養豚、ハム製造の直売所)
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国指定史跡 神崎遺跡(綾瀬市の郷土博物館と国定の弥生時代環濠集落遺跡)
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飯田牧場(酪農家直営のアイスクリーム製造販売店)
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花應院(照手姫伝説の舞台の一つ) 
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コンビニの駐車場で車中で爆睡
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地元のスポーツジム

この日は前日と言うか当日の1時位に仕事から帰宅して、風呂に入ったり食事をし夜にジムに行く準備をして寝ずに朝の6時前に出発した。
早朝の移動なら道路も混まないし、コンビニで仮眠すれば良いかなと思って、いつもの休日鉄板の行動パターンを選択した。
事故渋滞も無く順調に海老名市に7時頃に到着し、有鹿神社近くのセブンイレブンで朝食を購入して駐車場で1時間位ダラダラ休憩してから有鹿神社本宮へ移動した。
有鹿神社の境内駐車場に車を停めさせて頂き社務所へ移動。
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複数人の神職の方が慌ただしく準備をしておられる中、スーツの紳士が声を掛けて下さった。
「久良岐さん?」
「はい」と返答すると、「車から降りて来られて直ぐに解りましたよ」と柔らかく話すスーツの人物が宮司様だった。
実は宮司様との面会は2度目、1度目は昨年07月20日の愛川町の三増峠合戦古戦場と愛川町郷土資料館を見学し相模原勝坂の有鹿神社奥宮と海老名市の本宮を初参拝した日の事だ。
当日は日没直前の17時少し前の訪問で本宮社務所は無人、社務所に書いてあった電話番号へ連絡を入れた所、宮司様の別の仕事の事務所で御朱印を頂ける事に成り、其方(そちら)へ訪問して御朱印を拝領した時が宮司様との初対面だった。
「奥宮とここまで来るのは余程、神社が好きなのですね~」と御優しく対応して下さったのが印象深い。
 宮司様に社務所に上がる様に促(うなが)されて玄関へ回ると可愛らしい鹿の人形が出迎えてくれた。
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 有❝鹿❞神社だけに鹿を寵愛されているのだろうか?
その割には宮司様のTwitterアイコンは「パンダ」なんだよなぁ~(笑)。
 https://twitter.com/mikagenomori
有鹿神社の宮司様は実は宮司職を務める他に社会的な地位が高い人物なのに全く偉ぶる感じの無い、寧ろ柔らかく気さくに親切に話しかけて下さる万葉集にでも登場してきそうな雰囲気の方なのだけれども、Twitterを見ている限りでは内面に遊び心を持つ側面もチョクチョク垣間見える。
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この日の歴史解説と神事の講義は非常に楽しく、相模国13座の延喜式内社と神奈川県教育委員会の認識では海老名の地名の由来が違う事なんかも教えて頂けた。
実は江戸時代に相模国一之宮寒川大社(寒川神社)の当時の宮司が書いた掛け軸あ有り、その記載なんかからも海老名の由来は相模国五之宮有鹿神社の五之宮を文字って当字されたのが由来だと推測出来るそうだ。
海老名の有鹿神社は律令制度確立以前は実は古代の一之宮だった。
しかし 古墳時代に成り海だった県央部が隆起して湿地に成っていた辺りへの人の入植が進むと、寒川神社が一之宮に成った。
どうやら神社の伝承や延喜式内社と式外社の分布と土地の隆起した年代を見ていると現在の中原街道に当たる道が奈良時代位には主要街道に成っていた様だ。だから有鹿神社から寒川神社に一之宮が移されたんだろう。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
しかし、相模国国分寺と国府は古代に有鹿郷と呼ばれた海老名地方に置かれた事からも、依然として重要な土地と認識されていた事が良く解る。
もっとも小生の推測は教育委員会とも宮司様達とも少しだけ違い、神奈川県内には「3つの国の国府」が存在していたのだろうと推測している。
3ヵ所の国府では無く、3ヵ国の国府だ。
小生は有鹿郷(海老名)は古代の佐賀牟国の国府跡、六所神社と川勾神社近くが磯長国の国府跡、そして前鳥神社の周辺が相模国が成立して置かれた一時期の国府だったんじゃないかと思っている。
まぁ詳しい事は解らないが江戸時代の中原街道の元に成っている古道自体の成立は大山街道(矢倉沢往環)よりも新しい道なのは地形的にも付近の延喜式内社の縁起からも間違いない。 

さて、海老名の地名の起源だが、記録に残るものは有鹿神社別当寺だった総寺院の住職が書いた「大きなエビが取れた場所だから」と荒唐無稽な説が文書として残っている為に海老名市教育委員会では延喜式内社一之宮寒川神社と五之宮有鹿神社に伝わる本来の伝承を伝える事が出来ず、歴史学のセオリー通り残った文献から僧侶が書いた物を紹介しているそうだ。
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上の写真は江戸時代の相模国一之宮寒川神社(大社格)の宮司が書いた掛け軸。
一之宮寒川神社~二之宮川勾神社~三之宮比々多神社~四之宮前取神社までは漢数字の宮の順位が書かれているが有鹿神社だけは現代では使われない書体で「護尾」と書いてある。
この「護」が「五」の当字で、本来は衛尾(えび)と書いていたんだろう。そして五之宮と書いては旧一之宮の社格に面目ないので配慮も有り衛尾の衛を洒落て同じ意味の「護」に置き換えて「五」と掛けたんだろうと言うのが有鹿神社の説だそうだ。
これに小生の意見を加えると、衛尾は更に「衛備(えび)」と書いて「衛(まもり)備(そなえる)」と言う意味が有り名付けられた地名なんじゃないだろうかと思う。
古代は有鹿郷と呼ばれていた場所を、大和朝廷が介入してきてから衛備となり→衛尾→海老と変遷したと考えるのが「でっかいエビが獲れました」より遥かに自然な解釈だと思う(笑)。
天智天皇の時代には相模国府が置かれた場所なので、東日本の防衛拠点的な意味で衛備ならシックリくる。当時の武蔵国は開発途上の草原と軍馬生産地だったので、大規模水田の耕作地を抱えて条里制で区画整理された街並みは関東では海老名が一番大きい都市だったんだろう。
まぁ~この海老名の地名は色々と歴史ミステリーを含んで非常に面白い事で有るのは間違いない。
所でこれと似たような良く解らない地名の由来というのは幾らでも全国各地に有って、例えば愛知県名古屋市の地名由来も神奈川県鎌倉市が起源と伝わっていたりする。
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※写真は愛知県名古屋市の熱田神宮の大鳥居。
実は愛知県名古屋市周辺の旧愛知郡や、海部(あま)郡蟹江町一帯の旧海部郡は鎌倉時代は名越北条氏の領地だった。名越北条氏と言うのは鎌倉幕府二代執権北条義時の本来の嫡男(跡継ぎ)の家系なのだが、執権には成れなかった家系だ。しかし祖父の北条時政の名越邸と呼ばれた邸宅を相続して今の釈迦堂切通し辺りに住んでいた。
因(ちな)みに名越北条家初代は名を名越北条朝長公と言う。
名越北条朝長公は承久の乱でも軍の指揮官として大活躍し極めて優秀だったのだが、本来は“正妻の子”だったが母の家系が比企氏だった為、執権北条家と比企氏が源頼朝公の跡継ぎを巡って権力抗争をして行く過程で不和に成り母が離縁された事で嫡男の座を失った。一方で諸長子(しょちょうし:側室の子だが長男)の北条泰時公は母が源実朝の乳母(うば)で三代将軍と成った実朝公と乳兄弟(ちきょうだい)だった事も有り立嫡されて北条家嫡流と成った。
以後、北条得宗家(とくそうけ:嫡流)と名越流北条家は子孫に渡って対立し、極め付けに宮騒動を起こして執権で得宗家の北条時頼公と名越北条の対立は軍事衝突に発展、構図は執権政治を行う得宗家と源頼朝公に恩義を感じている名越北条家と三浦家等の御家人の連合軍の対立だった。
得宗家派の勝利によって名越流北条家は権力の中枢から遠ざかるが最後まで頼朝公の立てた鎌倉幕府を支えようとした一族でもある。
もっとも、対立した北条泰時公も極めて優秀な政治家で日本で最初に法治主義を浸透させた名宰相であり、やはり名指揮官でもあったのだが…
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上の写真の釈迦堂の切通しの近くの山の中に名越邸が存在したのだが…
今の左派推薦の鎌倉市長が落盤を理由に交通封鎖、崩落を食い止める策も講じず、この数年で寧ろ風化が進み消滅を促している様な状況に追い込まれている。真に文化歴史軽視の市長である。
この名越北条氏が住んだ平野が名越野と呼ばれたとの説が有り、それが転化して那古野(なごの)と成り更に那古野(なごや)と呼ぶ様に成り、江戸時代に名古屋城の築城と共に名古屋に地名も変わったそうだ。
こんな風に、漢字を音で時代時代に当字するのは歴史の常識なので、海老名の地名も衛尾と考えるのが最も自然だと確かに思う訳だ。
デッカイ海老が獲れたって何だソレ(笑)。確かに縄文時代なら寒川神社の眼前まで海は迫っていたが…
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
…文章に書いてあるからって信憑性も調査せずに資料として採用するなら、そりゃ神奈川県教育委員会さん、あんた等は書籍に成ってれば何でも資料として使用して良いって素人のwikipedia編集者と同次元ですぜ(笑)?
有鹿神社の宮司様の講義に話を戻すと、有鹿神社の水引き神事や他の神社との位置関係の解説等を一頻(しき)り楽しく受講して瞬く間に1時間が経ってしまい講座が終了してしまった。
しかし宮司様(本職は大学名誉教授と法律関連)の著書を頂いたり、色々と親切にして頂いてとても有意義な1時間と成った。
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境内の銘木や何かを写真撮影していると…
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…宮司様が社務所から出てらっしゃって、わざわざ本殿背後の御神木まで案内して下さったり、旧境内地で昭和の高度経済成長期のむやみな砂利採石による川の浸食で縮小した「有鹿の森」を案内して解説して下さったりした。
有鹿の森は昔は相模川と鳩川の合流地点に広がっていた広大な森だったのだが、砂利の採石と治水工事で川の水面が低い位置に下がってしまった為に森との高低差が大きくなり、木々が水を吸い上げる事が出来なくなり森林が消えて川辺の草原に変化してしまったそうだ。
わずか70~50年位前の話しだ。
そして面白い物も見せて頂けた。写真を撮影し忘れたので禰宜様のwitterの画像の転載許可を頂いた写真を掲載する。
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この本殿前の特に立派な1枚の敷石、実は源頼朝公に仕えた海老名の在郷武士の名門、海老名家の邸宅の敷石13枚の内の現存する一枚だそうだ。
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他の12枚はそれぞれ散逸して行方不明に成ったり別の場所に現存したりするそうだ。
まぁ、そんな感じで本当に御多忙なのに付きっ切りで懇切丁寧に解説をして下さった上に、本殿の覆い殿の中まで通して頂き拝殿の天井の龍や本殿の彫刻の解説もして頂く事が出来た。
この際に写真撮影まで許可して下さったのだが小生のデジカメは性能が悪く帰宅して見てみたら真っ暗で何も見えなかった…小梅太夫じゃないけれど「悔しいです!」としか言葉が出ない。
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宮司様とお別れし、有鹿神社の境内社の天神社で小生の崇敬する歴史偉人の一人で神様に成られた天満大自在天神こと菅原道真公にいつも御守護頂いている御挨拶をして有鹿神社を後にした。
車に乗り直ぐ隣り、昔の有鹿神社別当寺の総寺院へ初参拝した。
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昔は塔頭寺院が幾つも建ち並ぶ大寺院で、有鹿神社を守っていた場所だ。
まぁ、弊害も有って昔の和尚様は世襲じゃないから情報が密に伝わらないし、歴史に興味の無い人も当然いるので「デッカイ海老がとれたから海老名」とか書く人も出て来る訳だ。
神道の儀式に仏教様式が混ぜ込まれてしまう事も有ったり、新編武蔵風土記稿なんかに御祭神が本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想で御神体の本地仏の大日如来に近い大日霊(おおひるめ)の名前しか記録せずに「有鹿姫」様や「有鹿彦」様の神様の本来の在郷の神様の名前が出て来なかったりしてしまう訳だ。
とは言え、神社を守ってくれた事には間違いないし、総寺院は真言宗の寺院なので明治の廃仏毀釈神仏分離令まで日本の神様も大切にして下さった訳だ。
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現代の境内は普通の規模だけれど、とても緑と建築の調和した素敵な御寺だった。
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簡単な歴史の説明も有る。
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そして真言宗寺院らしくお地蔵様がお出迎えして下さった。
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花もとても綺麗。
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本堂は比較的新しい再建の様だった。
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見た感じでは古くても昭和初期だろうか。
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扁額。
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唐破風の軒下には獅子が彫刻されていて、この彫刻が立派だった。
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既に散ってしまっていたが枝垂れ桜も。
又、有鹿神社の紹介記事を追記して、別途、総寺院様も独立した解説記事を書きたいと思う。
この日、まだ御住職様と御話する機会を得なかったので、それは取材してからにしよう。
総寺院を後にして、次の目的地の有鹿神社中宮に移動した。
車で10分もかからず到着。
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中宮と言っても元の場所から移動し、更に新田義貞の乱暴狼藉、永享の乱の戦災、そして武田信玄の乱暴狼藉等の戦火が有鹿神社を何度も襲ったので中宮は現代では縮小してしまった。
ここには奥宮とは別の聖なる池が存在したのだが現在は干上がってしまった。
恐らくこれも相模川の砂利の採石で水面が下がったせいだろう。
ともあれ、ここが有る時期から中宮として機能した場所には違いなく、現代人にとっても日本文化の一端を担った場所として大切な事には違いない。
こちらにも御参り出来て良かった。
参拝を終えて、次の目的地の相模国国分寺跡へ移動した…

国分寺から先の話は次の休日雑記の続き[第2部]へ続きます!
では又、次の休日雑記の続きで!