[第2部:海老名後編] 休日雑記2017年04月22日の訪問先…【海老名】有鹿神社~総持院~国分寺跡~海老名市温故館~中村屋~【綾瀬】有馬の春楡~神崎遺跡~【藤沢】飯田牧場~花應院
海老名市探訪の〆に中村屋で人生で一番美味しいと感じた拉麺を食べてから、次の目的地の綾瀬市の神崎遺跡に向かって移動した。
どうやら、この際に通った道が古代の街道だったらしく周辺には多くの史跡が有る事に気が付いたのだが神崎遺跡までの道程(みちのり)には偶然の発見が多数あった。
最初の偶然見つけたのが…
高座豚手作りハム綾瀬本店
高座豚(こうざぶた)と言うのは❝旧高座(たかくら/こうざ)郡❞の厚木市が一番有名な神奈川県旧高座郡産のブランド豚の事だ。
藤沢市境川以西、大和市、綾瀬市、厚木市、海老名市、寒川町、相模原市相模川東岸は昔は全てが高座郡だった。
この高座郡の延喜式内社しかも昔は広い境内に立派な社殿を持ち栄えていた神社が多いので高座(たかくら)=巨大な米倉が建ち並ぶ集落が多かったのに由来するのだろうか?今となっては良く解らない。
そんな神奈川県を代表する豚肉のブランド高座豚の養豚→加工をしている会社の本社直売所の看板を神崎遺跡に向かう道すがら偶然発見して立ち寄って見た訳だ。
店内には様々な高座豚の加工食品が陳列されていたのだが、珍しいスペアリブやレバー等のハムやポークジャーキー等も有り面白かった。
後でGoogle mapのレビューを見たら、ここは豚カツ等の御惣菜も大変美味しいらしい。
今回はレバースモークと…
…ポークジャーキーを御土産に購入して見た。後日、曽我梅林の梅酒と一緒に家族で食したが大変に美味しかった。レバーも全く生臭さが無く美味しかったがポークジャーキーは評判が頗(すこぶ)る良くて今後は他地域の友人への御土産として購入しても重宝しそうだ。
リンクを以下に貼って置く。
高座豚手作りハム綾瀬本店
〒252-1124 神奈川県綾瀬市吉岡2366−8高座豚手作りハム綾瀬本店を後にして、神崎遺跡へ向かう途中で道の右側に何やら大きな石碑が有るので気に成って立ち寄って見た。
どうやら徳川秀忠公や家光公の時代、江戸時代初期に名医として高名だった半井(なからい)端壽(まさとし?)驢庵(ろあん)と言う人物の邸址らしい。しかし発掘調査が行われた形跡や見取り図等は無く石碑だけが昭和初期の神奈川県知事の半井清さんによって建立された様だ。
なんと半井清さんは横浜市長も務めた横浜市民の小生の郷里の大先輩に当たる人物だそうだ。
姓から半井驢庵公の御子孫かと思ったが、どうやら直径子孫では無く半井家に養子に入った人物の様だ。面白い事に半井清市長の生家は岡山県の福井家で、その地で半井家に養子に入っていると言う事は300年近い江戸時代の歴史の中で半井家は岡山にも縁を何か持っていた可能性が有る訳だ。
半井清市長は1946年に公職追放に成っているそうなのでGHQによる処分だろう。戦争協力者のレッテルを貼られた様だが公職追放解除と共に横浜商工会議所の頭取りに成っている。
戦前の神奈川県は役人によって多くの歴史史跡が保護され、例えば大庭城址等にも「保存状態良くて戦国の城が解りやすい場所だから大切にせんといかんよ~」と言う様な趣旨の石碑が神奈川県によって建てられていたりするのだが、半井市長が県知事だった時代の頃だろう。
昔の神奈川県職員や横浜市職員は大変に神奈川県下の文化と史跡を大切にしたのだが、今の黒岩県知事と林文子市長は糟屋館の切岸と帯曲輪と縄文史跡の不保護破壊、笹下城址空堀の宅地開発破壊や円海山蛍生息の環境地破壊等の文化と自然と史跡破壊ばっかりしている。
これは半井市長達が若し御神霊やなんかとして祀られていたら現知事や市長を祟(たた)るレベルの落ち度だろうなとか、撮影した石碑の写真を見ながら半井市長の事を調べてシミジミ思ったりした。
さて、この半井驢庵邸址の傍らに一際立派な木が聳(そび)えていたのだが、これが久々の❝神奈川の名木100選の一つ有馬の春楡(はるにれ)❞の大樹だった。
皆さんもこの石碑が有ったら神奈川の名木100選の木なので説明文を読んでみて下さい。
小生は津久井城址近くの根小屋の諏訪神社、横浜市港南区の永谷天満宮、大和市の延喜式内社の深見神社、横浜市磯子区杉田の妙法寺等で他の名木100選も見る事が出来たが、今回は完全にドライブ傍ら偶然の賜物なので大変に嬉しかった。
これも横浜市長だった半井市長が石碑に揮毫し昔の熱心な方々が史跡の保護活動をして下さった御蔭なので、時代を超えて小生達に史跡と大樹を残して下さった綾瀬市の諸先輩にも心の中で御礼を申し上げたく成る。
今の政治家は開発利権と癒着している人物が多く日本文化も大切にしないので信仰心も無い。
だから平気で先人の遺物を破壊し、先人が残して下さる教訓も世界から抹消してしまう。
しかし昭和初期までの政治家は違った訳だ。
半井清市長、綾瀬の貴重な史跡を残して下さりありがとう御座いました。
以下、半井驢庵邸址と神奈川名木100選有馬のハルニレの所在地。
〒252-1124 神奈川県綾瀬市吉岡2366−8
コメント
コメント一覧 (7)
ま、そんな感じですかね?
これを紐解く鍵が浦島太郎伝説だと考えています。
あれ、700年の玉手箱のタイムラグって700年間の皇族大将軍=日本武尊を一色単に纏めて習合した事を揶揄した全ての日本武尊と関わりの有った神奈川地域土民の藤原氏捏造史観に対する当て付け&暗黙の伝承だと思いますよ。
浦島太郎伝説の舞台の横浜市東部と地名、それと日本武尊や大伴黒主(久応)公、雄略天皇、坂上石楯公の伝説の残る聖地霊場が符合しますから。
どうも橘樹郡域の山々は古代は亀甲峠と呼ばれ、笠原小築が軍事拠点にしたのが小机辺りで、大伴久応の治めた地域が浦島町の地名が残りますからね~。
大豪族の笠原家の内乱である武蔵国造の乱の鎮定と和解させる事、対立した笠原家一族の領地分割と両者の領地間に非武装地帯の設置。
小生は武蔵国造乱と伝わるのは実は佐賀牟国造乱の誤記だろうと推測しています。そして佐賀牟は神奈川県東部と武蔵を合わせた地域で、磯長国と合せ分割統合再編され→駿河国・伊豆国・相模国・武蔵国が成立したんじゃね?とも考えています。
初代相模国司は出雲神族の末裔と伝わり延喜式内社の比々多神社では信州の布施の苗字を持つ布施色布知が初代相模国司です。笠原家も出雲神族で信州出身の名族です。
実は相武国境が武蔵国造の乱後に中央政権が直轄地として召し上げています。そして神奈川県域で当該地域には延喜式以前からの由緒ある聖地が多数在るのに延喜式内社が比較的後に設置された都筑郡の杉山神社一社しか有りません。この久良岐郡~橘樹郡~多摩郡の神奈川県域の長細い地域には古代豪族の宮が神社化する要素が排除された=朝廷直轄地=大守(たいしゅ)=守(かみ)=神不在つまりが排除された事が判ります。
そして、その延喜式内社が無い事が神奈川の地名由来だとも小生は考えています。
神・・・大守
奈・・・無い
川・・・川の様に
地域
みたいな。
時代的にも古墳時代と雄略天皇と整合性が有りますからね。
都筑=都を造る、つまり無豪族地帯の統治に使われたのが武蔵国の延喜式内社六社で、新しく都筑郡を設置統治する郡衙=宮=都を造ったから都筑の地名由来に成ったのではとめ推測しています。
杉山神社は五十猛が御祭神ですが、やはり出雲神族です。
⚫️うじのわきのいらつこ
仁徳天皇の弟ですが、仁徳天皇の代は国家レベルで飢饉が発生していますから、地震による地形変化や不作等の天変地異的災害があり例えば古代の国境の再編成等の必要から平塚市に第3代目の国府を置き東日本再編成をしに来た可能性有り。
真土大塚山古墳からは異常に身分の高い人物の副葬品が出土し、近くの前鳥神社の御祭神に成っている事や前鳥神社伝承から地理的にも五社神社に関与した候補者かなと考えています。
神奈川県東部~南部の神社の中で延喜式内社や延喜式には乗らない仏閣や修験道の聖地化していた場所、つまり醍醐天皇以前から“古い聖地”と貴族に認識されていた場所には雄略天皇の逸話が残る場所がけっこう有りますからね~。
中央政権が東征に来られる状況は戦時食糧の“米”が確保出来る時代に成ったからに他ならないでしょうし、東征するには天変地異による混乱の鎮定や、豪族同士の政変軍事衝突への鎮圧や関与により従属させる時以外に必要性が有りませんから。
しかも神崎遺跡は老若男女人骨が出ないので“集落ではない”“要塞の跡””街道筋の兵站“と地形からも素人ながら推測する次第です。
だから神崎遺跡や五社神社は関与した候補者が日本武尊の神号に習合されまであろう3人の歴史偉人。
⚫️神崎遺跡は弥生時代末期ですが走水神社や久応寺や神大寺地区や妙法寺や鷲宮神社に来た日本武尊=景行天皇の王子。
走水神社の神話で西暦100年代初頭の来訪なので時代的にほぼ整合性が有る。まだ石器を使う東日本に魏から支援を受け大量製産開始された豊富な青銅武具と兵糧の米を武器に国家制度を定着させに来た可能性有り。
ワカタケルというと埼玉古墳群の鉄剣のワカタケルですね
ワカタケルというと雄略天皇
雄略天皇というと倭の五王の武
私が受験で日本史勉強したのは25年以上前だからそれより前の知識なので今は違うのかな?
それにしてももしヤマトタケルが雄略天皇だったりすると神崎遺跡に立ち寄り、ほんとに五社神社で一休み、なんてことがあったのかもしれませんね
埼玉どころか中国にも名が知られた人が綾瀬に来てたのかもと考えるとなんとも歴史ロマンですねえ
神崎遺跡は発掘等の技術が進むまで掘り起こさないらしいので、今ではわからないことも近い未来解明されるのですかね
楽しみです
小生は神崎遺跡は日本武尊の兵站だったと思っているんです。その日本武尊は古墳辭最初期の人物で、数世代の古代の皇族大将軍が一人の神様に習合されて人物像が良く解らなく成っていると思うのですが、恐らく前鳥神社御祭神で仁徳天皇大鷦鷯尊の弟王子に当たる莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)様か雄略天皇獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)なんじゃないかと思っているんです。
神崎遺跡は古墳時代に開発が進む寒川大社~平塚八幡宮一帯に繋がる街道ですし、丁度古代東海道(矢倉沢往還)の旧鎌倉郡の大庭御厨(おおばのみくりや)へ抜ける中継の駅だったんじゃないかと推察しています。
その一帯は高台にありながら湧水も豊富に有りますから、古代に井戸を掘る技術が無かった頃から御腹を壊さない清潔な水も確保出来る環濠要塞が作れたんだと思います。
神崎遺跡のことも書いてくれたのですね
嬉しいです
海老名綾瀬は秋葉山古墳群があったり、神崎遺跡があったり、他でも書いてくれていた国分寺跡があったりと歴史ロマンのまちだと思っています
小学生の頃、ハルニレ(なんじゃもんじゃの木と呼んでいました)経由で神崎遺跡遺跡近くの富士ゼロックス内の遺跡へ遠足したり、秋葉山古墳でかくれんぼしたり、伊勢山古墳で肝試ししたり、、、大好きなまちなので、こうして訪れてくれる人がいるのは誇らしいなぁと思いました
ありがとうございます