皆さんは鎌倉に宝戒寺と言う立派な御寺が在る事を御存知でしょうか?
多分、歴史が好きだったり御朱印受領の神社仏閣巡りをしている人なら知ってる人は多いと思います。
しかし歴史を知らない人は全く知らない御寺でしょう。
鎌倉江の島七福神巡りの一所として有名で、毘沙門天様の御朱印を頂く事が出来ます。
この毘沙門天様を崇拝する事で勝運来福の御利益に預かれる訳ですが、他にも具体的にこの御寺に関わった歴史偉人の実績からも、その偉人達の勝負運と幸運に肖(あやか)れるのかも知れません。
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この御寺、正式な名称は・・・
金龍山(きんりゅうざん)釈満院(しゃくまんいん)圓頓寶戒寺(えんどんほうかいじ)と言って鎌倉幕府第二代執権(しっけん:幕府の首相)の北条義時の邸宅跡で、その邸宅は小町邸と呼ばれていました。その小町邸は彼以後も歴代の北条得宗家(とくそうけ:北条家の本家)の邸宅として使用された土地でした。
しかし鎌倉幕府の歴史にも終焉の時が来ます。
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上の写真の七里ヶ浜から干潮の稲村ヶ崎の干上がった海辺を通り新田義貞の大軍が鎌倉市街地に乱入して鎌倉幕府を滅亡させます。その際の彼の行いは極悪非道で鎌倉に至るまでも多くの神社仏閣で略奪放火をして回ったので幕府軍は劣勢に立たされても降伏する選択肢は無く、全員が執権の小町邸に集結すると、その背後に在った東勝寺の矢倉(やぐら:墳墓を置く横穴式人工洞穴)に移動し集団自決しました。
宝戒寺と東勝寺跡と腹切り矢倉の位置関係 久良岐のよし
位置関係は御覧の通り。
さて、そんな後醍醐天皇と新田義貞によって滅亡させられた北条家ですが元寇の際に朝鮮軍と元朝の中国軍の侵略から日本を守った功労者一族として現代でも評価されており、勿論(もちろん)、後醍醐天皇も北条一族を滅ぼしても功績に対して敬意を払っていました。
そんな訳で滅ぼした北条一族を無碍(むげ)にする事無く、鎌倉幕府の滅亡後、臣下の足利尊氏公に命じて旧北条家小町邸に北条家の菩提を弔う為(ため)の菩提寺として開かせたのが現在の宝戒寺です。
後醍醐天皇は、どちらかと言うと天台宗よりも修験道や真言宗と日本古来の神様の神話を大切にされた方でした。しかし、この宝戒寺の面白い所は後醍醐天皇と天台宗のコラボした御寺である事です。
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宝戒寺では素敵な亀甲型の巨石の石畳と豊かな緑の参道が参拝客を出迎えてくれます。
そんな宝戒寺ですが、後醍醐天皇が天台宗の御寺として宝戒寺を開いたのは恐らく北条家の宗旨が現在の臨済宗の元に成った天台宗の一派の禅宗臨済派だったからでしょう。
後醍醐天皇は政治面では腐れ貴族達に利用され、実際は権力を持てず結局は妃(きさき)を嫁がせた北畠家の利権の為に利用され、後醍醐天皇による建武の新政権樹立、俗に言う建武親政の開始に貢献した武士達には公平な新恩給与つまり新たに倒幕の褒美として給与地と成る所領の分配が行われずに武士達の不平不満が募り、建武政権は事実上破綻します。
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この時に利権を貪った北畠家は村上源氏の出身の為、同族であり後に多くの名将を輩出する事に成る村上源氏の武将達も後醍醐天皇側に与力(よりき:味方する事)して、北畠一族及び貴族と新田義貞達と南朝政権を維持する軍閥化していきます。
北畠家勢力と腐れ利権貴族の排除の兵を挙げた足利尊氏公を旗頭とする勢力は北畠氏排除にまで力及ばずに後の北朝政権を樹立して後醍醐天皇を手放さない南朝勢力と対立して行く事に成ります。
そんな経緯も有って、対立の激化の過程で一時的に関東の統治者として派遣された後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりながしんのう)もやはり外祖父が北畠一族の源朝臣(みなもとのあそん)北畠師親(もろちか)でした。更に護良親王の妃(きさき:妻)も北畠師親の孫の北畠親房の息女(そくじょ:娘)でした。
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この北畠一族に実質乗っ取られていたのが後醍醐天皇の建武政権だった訳ですが北畠一族は更に統治者の不在と成った陸奥国(東北地方)で産出される金の利権を押さえる為か策を巡らして、近親者で皇子の護良親王を介して後醍醐天皇に陸奥将軍府を設置させ上で北畠一族の北畠顕家(あきいえ)を東北地方の事実上の総帥である陸奥守に推薦させます。そして、まんまと北畠顕家に陸奥守補任(ほにん:官職に任命される事)を成功させます。
この北畠顕家、実は護良親王の御妃とは兄妹の関係です。つまり完全に北畠家が鎌倉幕府の武士達から奪取した利権を公益の為に分配せずに私物化してしまった訳です。
事ここに至って、後醍醐天皇に味方した武士達の心は離れて更に多くの者が足利尊氏公と光厳天皇の樹立した北朝派に靡(なび)いて行く事に成り南朝と呼ばれた後醍醐天皇の系統の勢力は減衰して行く事に成ります。
もし北畠家が私腹を肥やさず、後醍醐天皇が平等に武士達の功績を評価して土地を分配していれば間違いなく南北朝の動乱は発生せず室町時代の応仁の乱の動乱を招く事も無く、日本文化も更に発展したかも知れませんね。
そして神仏習合の文化を大切にした後醍醐天皇の偉大さは評価され歴代天皇が大切にした神仏を分離する事無く仏教文化と神道文化は共存したままの伝統が明治時代の西暦1900年代以降も続いたのかも知れません。もっとも建武政権が成功したifが発生する時点で明治政府も存在しないので「if」を語る価値は毛程も無く、北畠家が私腹を肥やし腐れ貴族が楠木正成公の戦略を否定したせいで南北朝の動乱が発生した事実だけが残る訳ですが・・・
そう言った意味では日本レベルに国賊に値するのが北畠家であり、後醍醐天皇から見て逆臣に当たるのが足利尊氏公に成る訳です。そして後醍醐天皇も古来の中国皇帝や日本の天皇家の悪例を踏んでしまい外戚(がいせき:嫁方縁者)の暴走を治めれなかった時点で統治者としては無力だったのかも知れません。
しかし、初期段階で後醍醐天皇は足利尊氏公を非常に評価していたので、宝戒寺の建立を命令したり節目で宗教的に精神的に大切な役割を御命じに成ったのでしょう。

まぁ~ここまで書くと「何だ久良岐のよしってのは南朝を罵倒する不届き者か!」と思う人もいるかも知れませんんが実は小生の祖先は南朝方の大功臣です(笑)。
大切な事は、本来の日本文化と言うのは腐れ儒教に毒された年功序列江戸時代や特に明治以降の価値観とは異なって、家柄の他にも実力や功績によって評価されて引き立てられる文化が存在したと言う事実を示した訳です。
更に勇敢に戦った戦没者や結果的に国と国民の為に成る功績を残した者は敵味方の分け隔てなく経緯を以(もっ)て仏教に基づいて供養したり神道に基づいて御霊を御祀(まつ)りすると言うのが日本人の精神文化だと言う実例が、この宝戒寺の存在であると言う結論に至る訳です。
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この宝戒寺は日本の為に力を発揮した鎌倉幕府執権北条家、そして後醍醐天皇と足利尊氏公と言う現在の日本の形を作り上げた礎の一端を担った英雄偉人達の関わった凄い御寺なのは伝わったでしょうか?
更に戦国時代が終焉を向かえると、天台宗の高僧であり徳川家康公の軍師でもある南光坊 天海 大僧正によって宝戒寺の保護が願い出られて幕府によって存続させられて現在に至ります。
そんな凄い所縁(ゆかり)を持つ御寺なのに、現代では庶民の我々に優しい御寺で御朱印を頂きに上がったり景色を見て参拝に上がると本殿の中に上がらせて頂く事が出来ます。
下の写真は上野の寛永寺の開山堂両大師様。
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この寛容さは天台宗の凄い御寺に良く有る事なのですが、例えば天海大僧正が開いた江戸城鎮護の大寺院、上野の寛永寺の開山堂である両大師様も御参りすると御本堂に上げて頂けます。
天海大僧正は神様も大切にされた方なので、家康公を祀る東照宮の造営にも関与したのか参道に塔頭寺院を建立していたりします。
下の写真が久能山東照宮の参道に在る塔頭の徳恩院です。
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そんな天台宗の文化と英雄達の関わった鎌倉の宝戒寺は花の綺麗な御寺としても知られています。
今の季節、秋だと・・・宝戒寺様も御花の紹介に力を入れてらしゃるので季節ごとに纏めてみましょうか?
【秋】
彼岸花・ホトトギス・つわぶき・酔芙蓉(すいふよう)・萩・紅葉
【初春】
水仙・蝋梅(ろうばい)・梅・福寿草
【晩春】
桜・木瓜(ぼけ:素戔嗚尊の神話の花)・無患子(むくろじ:子供の疫病除けの花)・白木蓮
【夏】
水蓮・百日紅(さるすべり)・花虎の尾
こんな花を見る事が出来るそうです。
小生は2014年の7月21日、夏の真っ盛りに訪れたので余り多くの御花を見る事は出来ませんでした。
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しかし緑豊かな御庭を散策させて頂き、暑い中清々しい気持ちに成りました。
この日は、宝戒寺様への参拝の後、確か本覚寺様を御参りして同じく鎌倉江の島七福神の夷(えびす)尊神様の御朱印を頂いてから鶴岡八幡宮を参拝して大鞆別命(おおともわけのみこと)=応神天皇と源頼義公と源義家公と源頼朝公と頼家公の御霊に御挨拶をして帰りました。

そうだ!
もし鎌倉江の島七福神に御興味有る方、是非、関係先の御寺で販売している専用の色紙を購入して下さい!
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とっても可愛い七福神様の絵が描かれていて額装すれば記念に部屋に飾って毎日拝めば諸々の御利益にも預かれるかも知れませんね!そして・・・
この神社仏閣を我々現代人に残し日本文化と自然と風景の美しさを残して下さった先人に感謝する事も出来ます。
鎌倉江の島七福神会様の公式ホームページより拝借 久良岐のよし


宝戒寺様のアドレスも以下に掲載します。
【金龍山釈満院圓頓寶戒寺(略称:宝戒寺)】さて皆さん、宝戒寺が歴史的にも関与した人物達も御利益も素晴らしく雰囲気の良い御寺さんである事は伝わったでしょうか?鶴岡八幡宮からも近い立地なので、是非、鎌倉観光の際は鎌倉・江の島七福神巡りと専用御朱印色紙、頭の隅に置いておいて参詣して見て下さいね!
そして出来たら仏様と神様に御参りした際に歴史偉人達にも今の私達の生活が先人の御蔭で有る事を感謝してみて下さい。

では!又、次の解説記事で御会い所ましょう!