情報拡散が遅く成ってしまって申し訳ないのですが、今、横浜市歴史博物館で凄い企画展をやっています。
2018年01月08日までと、あと1~2日しか開催されないので緊急拡散します。
横浜市歴史博物館公式 群集する古墳 表 久良岐のよし拝借 
横浜市歴史博物館公式 群集する古墳裏 久良岐のよし拝借 
企画展:群集する古墳
学校では教えてくれませんが、神奈川県内は実は古代の佐賀牟(さがむ)国と磯長(しなが/いそなが/いそたける)国と言う二つの大きな豪族割拠時代の国の首府が有りました。それ故(ゆえ)に実は古代に邪馬台国や出雲王権や大和王権の首府だった九州北部・出雲地方・大阪・奈良・京都に次いで“重要な”古墳時代の出土品が多い地域なんですね。
今回の企画展は小生が年末に紹介した延喜式内社で古代からの聖地の比々多神社や源頼朝公が聖地として修験道の僧侶に再整備させた森浅間神社等の旧境内地古墳群からの出土した副葬品で神社の神器として大切にされている鉄剣や勾玉や甲冑が多数展示されています。
DSC_0148
横浜市歴史博物館※8日月曜日には学芸員サンによる企画展解説も有ります!詳しくは横浜市歴史博物館のホームページを確認するか、電話で解説の開始時間を問い合わせしてみて下さい!
今回は無料で立派な解説パンフレットも配付されています。
DSC_0214
今回の企画展で出土品が多く展示されているのですが昔、鎌倉に在った都筑区の名刹:西方寺を始め、“神奈川県内の凄い神社仏閣一覧”で紹介した神社の神器も沢山有りますので、興味の有る人はブログ記事も参考に御覧下さい。
コレ→
DSC_0150
さて、余り横浜市歴博の事を御存知無い人も多いと思いますので、この博物館の凄さを少し解説させて頂きたいと思います。
DSC_0149
先ず、この博物館の立地を御覧下さい。
センター南駅周辺 久良岐のよし
実は横浜市歴史博物館はセンター南とセンター北の宅地開発の際に、古代都築郡の文化に繋がる縄文~弥生~古墳時代の遺跡が多く発掘され、周辺には平安時代~戦国時代を通じて重要視された交通の要所が通る事から茅ヶ崎城や山田城、そして茅ヶ崎城を築城したとされる多田源氏源行綱公が開いた綱崎山長福寺(現:寿福寺)等が存在しています。
茅ヶ崎城の解説記事はコレ→
そして、この地域の開発当時の市長さんが建設族だけれども政治力に加えて高い文化教養と歴史知識を有していた高秀秀信横浜市長だったんですね。
この市長は凄い方で、建設利権と文化歴史保護を両立させた現代の歴史偉人なのですが(今の林文子と前の中田市長は自然と史跡の保護を怠り多くの場所の不保護→消滅を招いた)、横浜市中区の山手地区の洋館を買取り観光の目玉として保護する事に成功したり、センター南駅の目の前に緑地として茅ヶ崎城址公園を整備して保存と都市計画を両立させる事を成功させた政治家でした。
DSC_0181
中でも横浜市歴史博物館の設立の切っ掛けに成ったのが大塚歳勝土(おおつかさいかちど)遺跡の発見で、こちらも緑地として都市計画に組み込み、貴重な弥生時代の文化と城砦村落である環濠の様子や弥生時代の方形周溝墓と言う平たい方墳を発掘し無料で展示しており、芝生が張られ横浜市北部の市民の憩いの場にも成っています。
さて、そんな遺跡の出土物や茅ヶ崎城や横浜市内の貴重な文化財を常設展示したり、今回の企画展の様に周辺自治体の歴史ある神社仏閣や史跡の出土物を借り受けて展示したり、古代人や武士達と現代の我々を結び付けて下さるタイムカプセルとして❝移民だらけ❞で郷土愛も歴史への理解も足りない人が多い横浜市民に、実は凄い場所に住んでいる事を学習できる場所として高秀所長によって開かれたのが、この横浜市歴史博物館です。
DSC_0151
比較的新しい博物館なので当然、館内は綺麗です。
DSC_0176
この博物館の屋上には大塚歳勝土遺跡への連絡協が有ります。
DSC_0177
常設展の他に体験学習室が有り、古墳時代の甲冑や兜や銅鏡のレプリカも展示され、直接触らせて頂けるんですね。
DSC_0153
例えば普通の博物館なら、こうやって綺麗に飾られているだけですが、こちらでは触らせて頂けるので細かい観察をする事も可能に成っています…
DSC_0155
上から近づいて見ると頭頂部には細かい彫刻が有る事が解りますね。
DSC_0156
側面にも彫刻が彫られており、当時の豪(王)族や将軍が身に付けた甲冑が優美だった事を自らの目で見て学ぶ事が出来ます。
DSC_0161
三角縁神獣鏡のレプリカも職員さんに確認をとると触らせて貰えます。
DSC_0160
ちゃんと裏面が鏡に成っている事が解りますねぇ~♪
まぁ、学習室は色んな時代のモノが置いて有るので…
DSC_0158
観察の為に移動させて貰ったら昭和40年代の居間を再現した場所に古墳時代の兜が有る異様な風景になってしましました(笑)。
この他に、触れない常設展示の方も現物やレプリカと供に、映像資料や解説洞がのミニシアターがふんだんに用意されており、とても良い歴史入門に成る博物館です。
DSC_0163
DSC_0164
DSC_0165
DSC_0167
昔の都筑区は緑区・青葉区・旭区の全域と、川崎市麻生区・横浜市保土ヶ谷区・港北区を合わせ都築郡と言う行政区域で、西八朔には平安時代の人がら見ても歴史が古く大切にされた延喜式内社の杉山神社が存在ています。
古代豪族の姫で日本武尊(やまとたけるのみこと)の御妃様だった弟橘姫(おとたちばなひめ)の古墳が有る橘樹神社(川崎市高津区)一帯に存在した橘樹郡衙や、久良岐郡衙が存在したと推定されている横浜市南区の弘明寺から古代の街道が経由している交通の要所だったので、非常に多くの出土物が発掘され展示されています。
色別標高図&Google map&久良岐のよし史跡位置図 センター南駅周辺
上の図は“国土地理院”の色別標高図と言う地形図をGoogle earthに重ね合わせ、小生がGoogle earth上に登録したセンター南駅周辺の史跡を表示させた位置関係図です。
これを見ると一目瞭然ですが、当然ながら都筑区を含むそんな旧都築郡は交通の要所の地域なので武士の時代にも茅ヶ崎城や山田城と言う城塞が築城されて拠点として活用されました。
DSC_0170
なので他にも戦国時代の横浜市の北条家臣団の解説や模型と解説パネルの展示やら・・・
DSC_0169
これは後北条所領役帳と言う1級資料の古文書の複写を元に地図上に北条家臣団の領地を表示した図ですね、しかしこれだと誤解するかも知れませんが、各殿様は別に在地で自分の領地にいた訳ではありません。
例えば玉縄衆や江戸衆や御馬廻り衆と言う1560年頃の後北条所領役帳を元に当時の軍団編成を色分けされてパネルに表示してありますが、その武将達は自らが所属する部隊の拠点となる城に詰めて仕事をしていました。
横浜で特に活躍したのは下記の4家です。
※家名をクリックすると関連記事にリンクします。
●蒔田吉良家
足利一族の蒔田吉良家、室町幕府鎌倉府の鎌倉公方(将軍)代理も務めた家です。高文化な一族で梅花無尽蔵と言う書物や多くの古文書に登場し奥州探題(東北地方長官)も務めた時期も有った名家でした。
里見家や正木家が横浜市沿岸部~三浦半島~鎌倉に乱入し放火略奪して廻った鶴岡八幡宮合戦で鎌倉市街地が鶴岡八幡宮諸共灰燼に帰すと、その再建に必要な材木の運搬を現在の横浜スタジアム~吉野町辺りまで海で入江だった当時の蒔田湾に南関東の材木を集積し、材木奉行北条綱成の家老間宮家の杉田港まで海運で輸送した高い経済力と海運力も有した一族。特に有名なのは奥州探題吉良定家公、戦上手で太田道灌公の親友だった吉良成高公、鶴岡八幡宮再建で活躍した吉良頼康公。
室町時代初期の本拠は東京都世田谷区世田谷城(豪徳寺)、小大名だった戦国時代初期は横浜市南区蒔田城、北条家親族と成り北条家臣化した安土桃山時代は世田谷城。
後北条所領役帳編纂時は未だ北条傘下の小大名として独立を保っていた。
●宅間上杉家
足利尊氏公の従弟(いとこ)の上杉重兼公が初代の一族で、倒幕の綸旨を足利尊氏公に伝えた武将であり鎌倉公方の代りに関東一円の執務を執(と)り仕切る“関東管領”も務めた家柄で、戦国時代突入の契機に成った上杉禅宗の乱や永享の乱では不利な状況でも主君の鎌倉公方足利持氏公に与力し忠義を尽くした名族で、北条家従属後も御家中衆として親族同様の高位の格式で別格の扱いを受けた。
室町時代初期の本拠地は鎌倉市浄明寺地区報国寺の在る宅間谷(たくまがやつ)、室町時代後半に入り横浜市緑区三保舊城寺の在る一帯の宅地全てが城址の榎下城、北条家臣化してからは港南区下永谷の永谷城(伊予殿根城砦)。
後に北条氏規公を筆頭に三崎城(三浦市三崎町)三崎衆が編成されると上杉規富公が付家老として三崎衆に属している。
●笠原家
古代武蔵国の武蔵国造(くにつくりのみやつこ)と言う大和朝廷に従属してた豪族の王の子孫の家系。
豪族笠原家の祖先は信濃国佐久郡出身で、笠原家の内紛で武蔵国造の乱が勃発すると大和朝廷の介入による仲裁後に相模国と武蔵国の国境に位置する久良岐郡・(未成立:都築郡)・橘樹郡・多摩郡・横見郡が朝廷直轄地として没収された。この後に成立する旧都築郡に現存する杉山神社は緑区西八朔(はっさく)に存在するが、古代は八朔とは書かず罰佐久(ばっさく)と書いた事が記録に残る。
笠原一族が戦国時代に北条家臣化して後に北条氏綱公が主君の時代に江戸城攻略の帰路、横浜市北部を中心とした一帯を統治する玉縄城代に任命される。鶴岡八幡宮再建の総奉行として北条家と対立する他大名からの協力も取り付けて5万人の労働者を動員した鎌倉市街と鶴岡八幡宮再建を成功させた笠原信為公や、織田家との外交使者を務めた笠原政尭公を輩出した家系。
本拠は港北区の大曾根城、小机衆拠点の小机城代。
北条幻庵公や氏尭公の付家老として小机衆白備え隊を統率し小机城で執務を執った。
●間宮家
間宮林蔵や杉田玄白の祖先の一族で特殊な学者肌の技能を有する一族でした。祖先が宇多源氏の氏神である滋賀県安土町の延喜式社沙沙貴神社宮司家で、神道・修験道・真言宗との関係が特に深く臨済宗・曹洞宗の禅宗や日蓮宗や浄土真宗との関係も深く神事に精通し、土木築城技術と水軍を率いた水運、更に鷹狩に使う鷹の繁殖に秀でた武勇と建築と神事と鷹に長けた一族でした。
玉縄城主北条綱成公の与力に成り歴代玉縄城主の付家老として活躍した間宮康俊公が特に有名で、鶴岡八幡宮再建の際に北条綱成公が材木奉行に成り材木の買付けや運搬を取り仕切ると、蒔田吉良家と協力して自領の杦田(杉田)港に材木を集積し管理、鎌倉に輸送した。北条一族と重臣しか出来ない鶴岡八幡宮の築地塀の奉納で名を連ねている。鎌倉時代の名将佐々木高綱公の子孫を名乗っていたが実際は近親であり沙沙貴神社宮司家佐々木一族の末裔。天皇家勅願所の江の島の岩屋や江島神社を管理していた岩本坊別当も間宮家だった。
本拠地は初期に川崎駅前の堀之内の要塞(同地は平安時代末の佐々木邸址)、後に横浜市港南区笹下城。

さて、実は横浜市には戦国時代の上記の家以外にも活躍した殿様達がおりまして、中でも有名なのは富岡~磯子区一帯を鎌倉時代に治めた名越北条氏や、歴史上で武家中1、2に上げれる教養を誇った金沢区の殿様で六波羅探題として京都周辺の支配を任されていた北条実時公、そして三浦一族の平子家と石川家です・・・
DSC_0172
・・・なので久良岐郡禅馬郷(横浜市磯子区岡村~南区堀之内辺り)を所領にしていた平安時代からの武士団で三浦家分流の平子家の解説も有ったりします。
この平子家の平安末期の当主だった平子有長公は“ゆず”の地元の岡村町に岡村天満宮を開いた人物なのですが、曽我兄弟による源頼朝公暗殺を防ぎ逮捕した武勇の士として知られています。
以前、岡村天満宮を紹介する記事も書いて有るので、興味の有る人は参考にして頂ければ幸いです。
コレ→又、平子家の分家の石川家は現在の中区石川町役周辺で江戸時代も庄屋として存続していますが…
DSC_1680

DSC_1679
・・・実はペリーさんの来迎時に江戸幕府の命令で接待の一切を任され日米の懸け橋として活躍されました。
まぁ、鎌倉の隣であり古代からの交通の要所だったので重要な武士団が各時代に配置されるのは必然で、当然ながら合戦も度々起きているのが現在の横浜市域です。
DSC_0173
ですから横浜市博物館には横浜市内で勃発した主な合戦の年代と場所の可視化したパネル等も有り、古代の文化だけでなく武士文化が好きな人も興味を惹かれる場所だと思います。

売店も有り御土産や調査報告書も売っています。
小生は2018年正月06の訪問では黒曜石の原石を購入しました。
DSC_0215
歴史以外の趣味で銀細工で指輪作ったり、ブレスレット作るので、黒曜石を♥️型や○型に削り出したら綺麗かなと・・・
銀の指輪とかブレスレットに興味ある人はカテゴリー[造形/工作]の記事もどうぞ。
歴史好きな人って自分で物を作るのも好きな人が多いらしく、結構、小生と趣味が合う人も多いみたいですね。きっと横浜歴博の売店に行くと、完成品の黒曜石の石鏃(せきぞく)を御土産に欲しいと思うより、小生と同じく黒曜石の原石を買って自分で加工したく成る人も多いはず(笑)。

さて、横浜歴博は冒頭で説明した通り、高秀市長が大塚歳勝土遺跡の保護と出土物展示を兼ねて作られた施設です。せっかく見学に来たら屋上から大塚歳勝土遺跡へ移動してお散歩してみましょう。
DSC_0178
屋上の歩道橋から直接行ける目の前の緑地が遺跡です。
大塚・歳勝土遺跡
DSC_0182
ここは朝鮮文化流入以前の、更に古い漢代の中国と日本の関係を示す弥生文化の方形周溝墓が多く発掘され展示してあります。無論、豊富な解説パネルも有りますが、全部が無料で見学出来ます。
DSC_0194
DSC_0199
例えば弥生時代に成り“収穫した米”と言う財産が出来ると、人間はソレを守る為に堀と土塁で村を城砦化しはじめた事が解る遺構も発掘復元展示されています。
ここの面白いのは武士の時代の城砦と違って空堀や土塁の設置が反対に成っている所でしょうか?
DSC_0196
[弥生人の環濠要塞集落]
外側←土塁←木柵←空堀→集落
[武士の城の防御構造体]
外側←空堀/水堀←土塁/石垣←木柵/土塀→館

IMG_20160702_113529
※箱根山中城
2015-02-28-16-16-24
※小田原城

この様に堀の位置が違う構造に成っていて、正直弥生時代の環濠集落は城マニアでもある小生からすると・・・
「弥生時代の人、順番違くね(笑)?」
・・・と感じたりしますがね(笑)。
DSC_0200
竪穴住居跡も発掘した様子と、復元した住居が両方多く展示されていて自由に中に入る事も出来ます。
DSC_0202
古代の釘を使わない設営の仕方。実は古代から存続する神社は、この弥生時代の建物と同じ技術を伝統として受け継いで作られている場所が結構残っていたりする。
CIMG6242
昨年、国の有形文化財指定を受けた伊勢原市の高部屋神社の社殿とか…
2016-01-03-13-23-50
※上の写真は高部屋神社。
・・・釘が使われていないんだな。
これと同じ茅葺(かやぶ)き屋根や檜皮葺(ひわだぶ)き屋根の古式に則った社殿を持つ神社の内部は、結構こんな古来の伝統が残っていたりする。
高部屋神社の記事→
他にも米を保存する為の高床式倉庫も公園内に復元されています。DSC_0203
この構造物は外観こそ板葺きでは無く草葺きですがデザイン自体は出雲大社の伝承の社殿や伊勢神宮の各境内社社殿の外観に通じる物が有ると思います。小生良く言うのですが、この高倉が神社の社殿の原型で、豪族の王の住居用に作られた高床式建築物が後にそのまま各豪族が氏神様を祀る場所と成り、神社の様式が確立されたと個人的に考えています。
DSC_0204
ですから、現在の相模原市東部、海老名市、寒川町や高座渋谷等、昔は高座郡(こうざぐん)と呼ばれた行政区分の高座(こうざ)を古代は高座(たかくら)と読んだ事実が有るのだと推測しています。
現在では神社を数える単位は“社”だったり神様は“柱”を単位として数えられますが、昔は1座、2座の様に“座(ざ)”を単位として数えられていたのも、高床式の座(くら)が神社の社殿の根本に成っていたからだろうと考えれば、自然で無理が無いですからね。
DSC_0206
さて、大塚歳勝土遺跡の森には沢山のシイの実やドングリが落ちています。
これ、古代人には貴重な栄養と油分を持つ食料だったんですね。

こんな歴史を辿れる大塚歳勝土遺跡と横浜市歴史博物館ですが、本当に今回の企画展示は物量も豊富で見応えが有ります。本日7日と8日の残り2日間と成りましたが、見る価値は非常に有ります。
そして源頼朝公が子宝に授かった御利益の有る比々多神社の埒免古墳等から出土した豪族の王の遺産等は見学し拝めば御利益も有るかも知れませんね!

皆さん、日曜日のレクリエーションが決まっていない人や8日月曜日空いている学生さん等、是非見学されては如何でしょうか?


さて、次回は1月2日の休日雑記の続きの記事を書きます。
では、皆さん、新年皆さんにとって良い1年間に成ります様に~♪