前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、龍散寺~式内社小野神社~毛利家発祥地)←コレの続き。
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
相模国延喜式内社十三座の一社、小野神社の宮司様の御宅へ御邪魔した後、次の目的地の真土大塚古墳の❝跡地❞を目指して車に戻り出発した。
宮司様の御宅から真土大塚古墳や前鳥神社辺りへは道が混んでいても30分とかからず比較的近い。
小生が目指した真土大塚古墳の❝跡地❞は前鳥神社の伝承では八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)=応神天皇(おうじんてんのう)=誉田別命(ほんだわけのみこと)等、後世に様々な神格や僧位や天皇号が追贈された大鞆別命(おおともわけのみこと)と言う神号で恐らく最初は呼ばれていた古墳時代初期の古代大王(おおきみ)つまり天皇家の御先祖様に関わりの有る場所だった。
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莵道稚郎子命御陵=真土大塚古墳❝跡❞(神明神社)ここに眠っていた人物は恐れ多くも京都の宇治神社と同じ御祭神の莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命と神奈川県に在る14社の延喜式内社の一つである前鳥神社に伝承する。莵道稚郎子命は仁徳天皇=大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)の弟皇子に当たる皇族、つまり八幡大菩薩=応神天皇=誉田別命=大鞆別命の王子だった人物だ。
この神明神社が真土大塚古墳❝跡❞と現地人にも神職にも小生からも❝皮肉を込めて呼ばれる❞には意味が有る。何と神奈川県教育委員会と平塚市教育委員会が保護を怠り、歴代皇族の中でも神格を与えられた偉大な古代人物の莵道稚郎子命の陵墓と前鳥神社に伝承しているのにも関わらず宅地造成許可を出して偉大な皇子の御陵(みささぎ)を削平し破戒し住宅街にしてしまったのだ。
だから古墳跡なんだな。
当然、引っ越してきた住民も、そんな事情を後から知ったら事の重大さを思い知る訳だ。古参の地元民と一緒に神様の眠っていた古墳の跡地に慰霊の為に立てたのが、この神明神社だった。
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ここからは中央の大和政権との強力な関係を裏付ける三角縁神獣鏡等、古墳時代初期としては珍しい副葬品が多数出土している・・・神話を考古学が証明した訳だな。
この莵道稚郎子命は日本初の❝漢学(漢字・兵法・漢詩・金属鋳造技術等)❞を治めた文化人にして学者、そして小生の推測では恐らく日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に偉業が習合された人物の一人の筈だ。
真土大塚古墳の写真 平塚市公式より拝借 
平塚市が破壊した後に申し訳程度に掲載している破壊前の真土大塚の写真。
平塚市の地名由来は、古代の大きな古墳が風化して平たく成った物が有ったからと言う説と、坂東平氏の祖と成った平高望(たいらのたかもち)王の一族の平家の姫様が相模国鎌倉郡村岡郷の移住先に辿り着く前に旅の途中で亡くなり葬られた塚が有ったからと2つの説が有るそうだが、古墳説をとるならば正に真土大塚古墳が由来だろう。御覧の通り前方後円墳が恐らく、台風や渋田川や相模川の氾濫などで削れて大分と平たく成っているのが写真から解る。
この戦後の教育委員会が破壊容認した真土大塚古墳の調査は昭和11年に行われた。
つまり、戦前の昭和初期までの県職員は城址や史跡や自然の美しい景勝地を積極的に保護したのと同じく、ここもちゃんと調査して保護していた訳だ。
三角縁四神二獣鏡 平塚市公式より拝借
三角縁四神二獣鏡
三角縁変形四獣鏡 平塚市公式より拝借
三角縁変形四獣鏡
銅鏃 平塚市公式より拝借
銅鏃(どうぞく=銅製の矢じり)
他にも鉄剣や鉄斧等、王族や高位豪族しか持ちえない副葬品が多くの出土し、どれも弥生時代後期~古墳時代初期では高貴な身分を示す物ばかりだった。
中でも三角縁四神四獣鑑には以下の銘文が造形されていたそうだ・・・

「陳是作鏡甚大好 上有王父母 左倉龍右白虎 宜遠道相保」

現代日本の漢字は奈良時代に藤原貴族によって改竄された日本の朝鮮訛りの漢字の意味に成っていて本来の中国の漢字の意味とは違うので、神話(弥生~古墳)時代の四道将軍の制度による東海道の統治を前提にして小生成りに意訳するとコンナ感じ。
  ↓
「古く造りが何もかも大変素晴らしい、上方には王父母(が描かれ)、左に倉(蒼)龍=青龍、右に白虎、遠い道(遠く離れた東海道)を保つには相応しい(物だ)」

・・・これね、もう完全に被葬者が誰だったか判るヒントでしょう。
古い中国語に近い漢字を使いこなせて、恐らく南関東で最初の漢字文化導入の証拠と成る物を製造或いは携行出来るのは莵道稚郎子命以外にいないでしょう。

恐らく百済王族か貴族出身であろう藤原貴族は初代の中臣鎌足は苗字も無く中臣(なかとみ)の古代官職しか伝わらず更には羽曳野市の古墳は朝鮮式の円墳な訳だが、彼等藤原家が自分達が殺した蘇我嶋❝大臣❞馬子つまり蘇我嶋大臣(大臣、鹿島馬子)を暗殺して鹿島家の領地財産地位を天智天皇の公認の下で乗っ取り自分達の家系を古来の日本人と粉飾するべく古事記を改ざんして国の公式史記として書かせたのが日本書紀な訳だ。
奈良時代が始まる最初に歴史改竄する為に書かせたのが日本書紀で、後に藤原氏は古代からの先住日本豪族の橘氏や大伴氏や紀氏や菅原氏、そして新興だが天皇家の平氏や源氏を悉く言いがかりと謀略で殺害したり左遷しまくり更に渡来人扱いして差別している。一方では天皇家に妃を送り込み続けて皇族を人質に取り続けた訳だ。
ところが応神天皇や仁徳天皇の時代には「天皇号」は存在しないし、当然、応神天皇=大鞆別命や大鷦鷯尊や莵道稚郎子命が大王や王族として生きていた時代には藤原氏まだ日本に居なかったので、真土大塚古墳の副葬品の漢文は限りなく中国語に近い。しかもアホの小生でも余裕で意味が解る程度の文章。
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莵道稚郎子命の被葬地と知ってか知らずか、神明社は古墳跡に現代人の破壊の跡に建てられた。
小生は真土大塚古墳から出土した、この鏡の銘文に有るロマンを感じる。
それは、この鏡の銘文は、もしかしたら仁徳天皇から莵道稚郎子命が送られた者物かも知れないと小生は想像するからだ。上方(近畿)の歴史では莵道稚郎子の消息は良く解らない位にあやふやだったらしく・・・
1異母兄の仁徳天皇と帝位を争う意図が無いのを証明する為に自殺した説
2早く死んだ説
・・・が有るが要はハッキリしない訳だ。因(ちな)みに自殺説は元朝鮮人の藤原が捏造した歴史の日本書紀にしか登場しない一説で、他の神話では❝自殺❞なんて表現は全くない(笑)。
まぁ何にせよ関西では恐らく天皇家に憚って語られずにハッキリ伝わらなかったので、宇治神社の御祭神と成っている位しかハッキリした事が解らない。ところが古来、東日本では神奈川県の前鳥神社の御祭神として祀られ真土大塚古墳が御陵と伝わっていた訳だ。

因みに神様と成った莵道稚郎子命の名前を中国語の意味と歴史を前提に解析すると以下の様に成る。
●莵道(うじ)
ウジ=宇治=京都府宇治市一帯を本拠地にしていた人物。
●稚(わき) 
ワキ/ワカ/ワケ=和気(わけ)=別(わか/わけ)。歴代天皇が天皇号成立以前の大王時代に名乗った名には“ワカ/ワケ”を含む名が多い。恐らく今は姓を名乗る必要の無い、古代天皇家の尊称的な姓がワカ。
別/稚(ワカ)=和家=和+家=倭+家と成り、漢字文化導入後の倭国の大王の姓だったかも知れない。
例:大鞆和気(おおともわけ)命、獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ=雄略天皇)他多数。
●郎子(いらつこ)
郎(いらつ)=男系の家系の子=大王の男系男子の王子。
●命(~のみこと)
漢字文化の神号成立以前の神格化された人物や聖地や神器等の神様の魂への尊称。
例えば漢字文化では詔勅(しょうちょく)の詔と書いて詔(みことののり)と訓読みさせるが、詔(みことののり)を分解すると・・・命+祝詞(のりと)=みことののりと=みことののり=神託・・・と成る。
詔勅は天皇の命令を指すが、これは神様=天皇と言う古来の考え方に当たる。天皇を御上(おかみ)と俗に呼ぶのもその為だろう。

・・・つまり、名前を分解すると莵道稚郎子命が神話通り天皇家の人間だった事が解るし、本拠地も神話通り宇治市辺りだった事が解る。もしかしたら皇太子だったかも知れない。
だから小生が思うに、莵道稚郎子命は中国の史書や儒学も学んだであろう人物なので兄弟間の争いで国が亡ぶ先例を踏まえて父大王の応神天皇=大鞆別命の崩御(ほうぎょ=亡くなる事)した時に兄に大王位継承権を譲り、自分は関西を離れたのだろうと思う。
そして神話では没した時の様子がこう続く・・・
莵道稚郎子には大鷦鷯尊とは更に別に異母兄の大山守(おおやまもり)皇子(みこ)がおり、大王位継承権を得られなかった事を逆恨みし反乱の兵を起こそうとした際に、兄の大鷦鷯尊がこれを莵道稚郎子に暴露して逆に莵道稚郎子が大山守皇子を討ち取っている。
これは思うに、大山守ってのは神奈川県伊勢原市大山を中心とした佐賀牟国や磯長国一帯を古代から支配していた大豪族の姫を母として生まれた人物だったのではないだろうか?
そして、この一連の事件は戦乱となり、莵道稚郎子は兄王の大鷦鷯尊に大王位を譲ると自らは四道将軍成立前の日本武尊(ヤマトタケル)=倭建(やまとたける)=倭長(わかたける)=軍団長と成って大山守皇子の外戚が治める東日本を平定に東征し、平塚に鎮守府を設置し関東の古墳時代突入の文明開化を成し遂げ、そのまま関東で没したのでは無いかと思う。
そして宇治から軍を率いて近畿を離れて東海道制圧と大和朝廷による支配制度確立を担う大将軍として東征に赴く際に仁徳天皇から送られたのが、❝あの三角縁四神四獣鏡❞だったとしたら・・・
陳是作鏡甚大好 上有王父母 左倉龍右白虎 宜遠道相保」
「古く造りがどれも大変素晴らしい、上方には王父母(が描かれ)、左に倉(蒼)龍=青龍、右に白虎、遠い道(遠く離れた東海道)を保つには相応しい(物だ)」
・・・この銘文には仁愛で有名な仁徳天皇の弟王子の莵道稚郎子への思いやりが垣間見えるのでは無いかと、近畿の宇治を離れて行く異母弟に父と義母との家族の思い出と、京都を四方の中心として見て東西南北を左右で表現する古代の常識を踏まえて左に東の守神の象徴である青龍が描かれ、右に西の守り神である白虎が描かれている。つまり東(左)を守る青龍が関東にいて西を守る白虎が右側の関西にいる、これは西から東の太平洋を治める古代の道州制の古東海道を表し、仁徳天皇を支える莵道稚郎子命が四道将軍成立の切っ掛けとなる役割を担い平塚に鎮守府を開き、関東平定に来た事を示唆している仁徳天皇の訓辞を描かせた鏡なんじゃないかと思う。
兄天皇と弟将軍が一心同体背中合わせに御互いを守っている事が描かれている訳だ。
そして、この莵道稚郎子命は、初代日本武尊と思われる景行天皇と、二代目と思われる皇子の倭建命に続いて令外官として倭建(日本武尊)と同じ稚郎子(ワキノイラツコ)として磯長国・佐賀牟国・総国・毛国統治の為に赴任して来たのかも知れない。・・・兄大王の信頼を一身に背負って。

小生は学者じゃない。だから古文書の文字だけに拘らず状況証拠と伝承から自由に妄想と言う名の推測をしていたりする。
私利私欲無く学閥に属さない只の素人歴史オタク、学者じゃないから歴史偉人や神様や仏様や宮司様や和尚様を尊敬し、民間人と交流する学芸員サンを慕い歴史の楽しさを感じられる(笑)。

さて、そんな訳で前鳥神社の伝承の状況からも、出土品からも、前方後円墳の規模からも莵道稚郎子命が神格を追贈されて大和朝廷の権力によって古墳が造営され埋葬されたと考えれば極々自然な訳だな。
周りに水堀は無いが、これは古代は平塚市真土一帯が砂丘だったせいだろう。
まぁ、そんな訳で偉大な大王の大鷦鷯尊を支えた異母弟で元皇太子の莵道稚郎子の古墳を神奈川県教育委員会は保護せずにブッ壊した訳だ。・・・祟りに遭えば良い。
祟りが怖くて神明神社を開いたのだろうが、小生はツッコミ入れたい。
そもそも神明社の御祭神は天照大神で莵道稚郎子命じゃない!
ここは前鳥神社の別宮にすべき場所だろう!何で神明社なんだか訳分らんくてイライラする!
・・・和気郎子だけに。あ、神様に怒られそうだから冗談はここら辺までにして置こう。
そんな莵道稚郎子命と思金神と天満大自在天神菅原道真公の3柱の神様を小生は知恵と文化と智謀の神様として崇拝している。
だから2018年の正月二日に古墳跡に御参りに来た訳だ。

実はこの古墳の直ぐ近くに、後の平塚市が申し訳程度に作った偽物の真土大塚古墳のレプリカが有る公園が在る。
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真土大塚古墳復元(模造)
まぁ遊具が有り完全に県外からの移民だらけの地元民には大層な破壊の歴史を知る人も少なく、この公園の偽物見ても腹立つ人も少ないだろう。
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このコンモリした山を教育委員会は❝復元❞と言い張るが、城マニアや史跡マニアの我々に言わせれば❝復元❞と言うのは❝元有った場所に元通りの構造で再建する❞事を意味するので、この偽物は教育委員会と平塚市の欺瞞、自分達の罪悪感を和らげる免罪符、悪の権化の様なものだ。
・・・と怒りたいのだが。
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くそムカつく偽物から見える風景が美しく「あ~莵道稚郎子様は、富士山を拝みながら眠ってらしたんだなぁ~」とか感慨にふけってしまった。
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ここからは大山も見える。大山の山頂からは縄文時代以来の祭祀遺跡が出土し、麓の比々多神社も延喜式内社で大量の縄文時代以来の祭祀遺跡と古墳時代の遺跡から同製品や鉄器が見つかっている。
そして記録に残らない国府と思しき規模と推定される遺跡も発掘されており、これが小生の中で大鷦鷯尊と莵道稚郎子命と大山守皇子の神話と結びつき先程の推測に繋がる訳だ。
何にせよ、こんな重要な場所だが神奈川県教育委員会のせいで真土大塚古墳は消え去った。
近くの平塚八幡宮は元の名を鶴峯山八幡宮と呼び、やはり仁徳天皇が父大王応神天皇を御祭神として開いた場所だった。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
真土大塚古墳と平塚八幡宮の近くからは国府跡と推測される遺跡も発掘されている。そこに莵道稚郎子命の存命中に大将軍稚郎子として赴任していた鎮守府が存在したのかも知れない。
そう考えるとワクワクするし、神様と成った古代の天皇家の一族の傍に近寄らせて頂けた様な何と言うか嬉しい気持ちに成るんだな。
日も暮れて来て御腹も空いてきたし、神様としての莵道稚郎子命に参拝すべく、ついでに屋台での買い食いも楽しみに延喜式内社でもある前鳥神社へ移動した。
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前鳥神社・・・延喜式内社

ここも移動距離は短く車で真土大塚古墳から10分もかからずに到着した。
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参道に屋台は多くは無いが、まぁ、何か現代的なケバブ屋さんとか珈琲屋さんとか、少し小洒落た店がオーソドックスな屋台に交じって出店していた。
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ケバブとコーヒーを食べた。
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参道には神奈川県の古い歴史を持つ延喜式内社の多くで廃仏毀釈から保護された文化財の鐘楼を見かけるが前鳥神社もその一つだ。
実際、歴史の無い神社程、仏教を否定したがる。国家神道がキリスト教徒の政治家によって宗教改革されて出来た物だってのを知らないんだろうな、新しい神社や歴史の浅い所は。
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先鳥神社の境内地は現代では広い訳では無いが❝長い参道❞は奇跡的に残っている。
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神仏分離令以前の仏教文化の石塔もシッカリ残っていて日本文化の風情を守っているね。
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まぁ~日本近代化以後も文化人も多く訪れたらしい。
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この鎮守の森の参道を抜けると漸(ようや)く拝殿が見えて来る。
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途中には祖霊者も在る。
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住宅街の中の神社の正月2日目の夕刻なのに、まだ結構、参拝客が来ていた。
それだけ地元の人に大切にされていたり、学問の神様として受験間近の学生が合格祈願に来ていたのだろう。
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17時を過ぎても社務所も灯りは落ちていなかった。
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アルバイトの巫女さん達も頑張って参拝客に応対していました。偉いね、正月遊ばず働いて。
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ここは御本殿には小生が武神として崇拝する日本武尊と、そしてもう一柱、大山咋神が合祀されている。
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祈祷を受けに来た訳では無いので拝殿の中には入らずに外から普通に御賽銭を投げて神様に御挨拶をして心願成就の祈願と国籍人種問わず親日家の人々と国々の平和とか、御世話に成っている人や親友の幸福祈願をした。
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境内社には菅原道真公が祀られてらっしゃる。
小生は横浜市で知恵の神として文化と知識と実務の神様の菅原道真公も崇拝しているので当然ながら参詣し、有鹿神社の境内社有鹿天神社と合わせて当日2回目の菅原道真公への御挨拶をした。
参拝を終えて、巫女さん達がせっせか働いていた御守り授与の場所へ移動。
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小生も前鳥神社の御守りを購入した。
小生の文化と実務の神様は祖先も崇拝した菅原道真公、まぁ父方の氏神様はもっと古い御先祖の神様で某国造なのだが菅原道真公も実は父方のもう一方の氏神様なので、小生は神奈川県で一番の天神様と思っているのが旧鎌倉郡の永谷天満宮で良く御参りに行き厄払除け守りと取材活動用に足腰守りを大切に持ち歩いている。永谷天満宮は菅原道真公の御子息の菅原敦茂公が住んでいた由緒の有る天神様だったりする。
そして前鳥神社の莵道稚郎子命が学問と兵法と仁義の神様と成る訳だ。

・・・参拝して駐車場に戻ると車中で財布に早速、莵道稚郎子命の御利益を授かる前鳥神社の御守りを付けた。その後、夜の20時頃から始まる追儺神事を見学すべく、そして昨年の八方除けの御利益の御礼参りと新年の御挨拶を寒川比女命と寒川比古命に申し上げるべく寒川神社へ向けて再出発した・・・
※本当は今回で寒川神社の追儺祭まで書き上げる予定でしたが、莵道稚郎子の神話解説が意外に長くなってしまったので寒川神社追儺神事見学は分けて書きます。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑦に続く。