前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、真土大塚古墳❝跡❞~偽真土大塚古墳~前鳥神社)←コレの続き。
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
前鳥神社への今年の初詣をし御守りを購入して後、車で正月二日最後の訪問地の寒川❝大社❞へと向かった。大社と書いたのには意味が有る。
寒川神社は現代では只の神社と名乗らされているが、これは欧米カブレのキリスト教徒政治家達が明治時代に行った宗教改革で名を改めさせられたのだ。古来よりの天皇家が延喜式神名帳に“大社”と記録してまで守って来た由緒正しい神社なのに。
延喜式神名帳と言うのは平安時代後期に律令制度では国家運営が難しく成って来た国政の問題に対応すべく醍醐天皇が追加した“延喜式”と言う政令で平安時代の人から見ても由緒正しく古く守るべき神社を纏めて記録した文書だ。これに寒川神社は“大社”としてちゃんと記録されており、尚且つ相模国一之宮の格式も有している訳だ。これを腐れ欧米かぶれ政治家が国幣中社等に貶めた。
全くけしからん!
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さて、正月に寒川神社を参拝したのは実はこれが始めてだった。
正月二日に来たのには特別な意味が有ったのだが、神社に着くまでに寒川神社の1km位手前から道路が物凄い参拝客渋滞しており、更に通常の神社専用駐車場が使えず、周辺に有料臨時駐車場が多数開かれていたので、その近辺の駐車場に小生も仕方なく駐車して歩く事にした。
参道は屋台が多数出店しており賑やかでとても楽しかった。
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拉麺屋の屋台とは現代では珍しい。食べなかったけどね。
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寒川大社(現:寒川神社)・・・延喜式内社 相模国一之宮立派な参道の石橋と大鳥居、でも実は寒川神社はここが入口では無くて、この1.5km位手前から昔の広大な境内地の名残の参道が残っているんだな。
まぁ、そこ等辺は過去に記事に書いたので興味の有る人は見て貰うと良いと思う。
延喜式内社、相模国一之宮の寒川神社と追儺(ついな)祭…古代からの神事を伝える一宮。高座郡寒川町。
現代でも寒川神社は立派で、恐らくは鶴岡八幡宮よりも❝御金が有る(笑)❞神社さんだ。
御利益は❝八方除け❞、そして寒川比女と寒川比古の夫婦神様の神社なので縁結びや夫婦和合の御利益、そして芸能の神様としても多くの芸能関係者から崇敬を集めている神社なだが、恐らく大半の参拝客は只「立派な神社だから~」と漠然とした理由と多くの出店が目的で初詣に来ている筈だ(笑)。
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スンゴイ密度の参拝客と出店!
でも脇道それると真っ暗。
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参道に戻ると本当に賑やか・・・
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小生、前鳥神社でケバブ食べただけじゃ物足りなく成り、美味しそうな焼きそばを購入・・・
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・・・屋台の焼きそばなのにとても美味しかった!と言う表現は失礼だろうか?
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多分、昔は仁王門だった只の楼門、でもこれ新しい平成の再建。立派なので本当に多くの氏子さんが寒川神社を崇拝している事が解る。
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この門をくぐると、いよいよ寒川神社の拝殿が見えて来る。
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この神社の拝殿や社務所前は結婚式でも人気の神社だけ有り服が汚れない為の配慮か綺麗な真っ平らな現代風石畳に成っている。中国の紫禁城の煉瓦石畳も広大で凄いが、それよりも日本人の精密な石畳で綺麗だな。
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社務所、ここもアルバイトの巫女さん達が真冬の19時半位の夜遅くなのに大層寒いだろう巫女装束で頑張って参拝者に御守り札を授与してらっしゃった。
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人の役に立つアルバイトとは言え正月休み返上で頑張ってる学生?巫女さん、偉い。
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拝殿の前には大きな御賽銭箱が用意されていたので、どこから投げ銭してもバッチリ(笑)。
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そして拝殿ごしに~幣殿~その奥に神様の御座所である本殿の階段が見える。
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今年はSuper moonで、この正月二日はとても明るかった。月明かりが拝殿の唐破風に映える。
現地で知り合いに成った氏子さんと色々話したが、今年はやはり例年よりも境内が明るく照らされてとても神秘的に感じたそうだ。
この方以外にも、周囲の参拝客から「今年は明るいわね~」と言う声が聞こえたのでよっぽどなのだろう。夜に神社を参拝する事は余り無いので、小生は実感が湧かないが神秘的な月明かりは素直に美しいと感じた。
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この日、小生が参詣したのは“追儺祭”の神事を見学する為だった。
実は寒川神社以外にも追儺神事を行う場所は多いのだが、日本全国大半の神社の追儺神事は仏教の影響を受けていたり、明治時代の宗教改革で廃れ行われなくなった場所が大半だ。
別名で“鬼やらい”と言うが、この❝鬼❞と言う漢字は大半の日本人は勘違いしているがの本来の意味では❝幽霊❞や西洋の❝悪魔❞の様な此の世に在らざる者を指す。
中国人が白人を西洋鬼子や日本人を日本鬼子と侮蔑するのは悪魔扱いしてる訳なんだな、中国人の覇権主義軍拡チベットやウィグルやブータン侵略を棚にあげて(笑)。
“追儺神事”=“鬼やらい”はつまり邪気を払う儀式なのだが、仏教の影響を受けて鬼退治の儀式に代わってしまっている神社ばかりで古来の恐らく縄文~弥生~古墳時代以前の儀式が続く場所は余り無い。
この寒川神社では今も古来の儀式が伝わっており、古墳時代以来の一之宮、そして大社だったのでキリスト教徒政治家達の国家宗教改革を無視しても彼等を介入させずにすんだのだろう。
実は寒川神社以外にも上賀茂神社でも同じ儀式が伝わり現代でも執り行われているそうだ。
神事の始まり・・・
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これまでの人生で見た事も無い人数の神職と氏子衆の行列が神社拝殿の中へと向かう。
総勢100人近くはいただろうか?
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何が始まるのか解らず、じっと見守る。
大体の内容は以前、こちらの神職様に口頭で御教授頂いていたので流れは把握しているのだが、やはり実際に見守ると緊張感も伝わり凛とした空気が一斉に張り詰める。
この神事が始まる直前から寒川神社は境内の全ての灯りが落とされ、屋台も発電機を停止させられ照明のみならず調理器具も電気をストップし神事に協力する。
灯りを消す事で、古代の神事を執行する環境を当時と同じ状態にする訳だな。
明るいのは社殿の中だけ。宮司様が祝詞(のりと)を読み上げ、境内の四方八方を清める聖水を神様の力で作り出す。
相模國一之宮 寒川神社 難波の小池 久良岐のよし
その御神水と成るのが寒川大社本殿裏に在る❝難波の小池❞の水なのだ。
この池を神職様達が「難波の小池ぇ~」と言いながら数周廻り竹筒で水を汲み、それを神前に奉納し祝詞(のりと)を念じる。
以前も話した事が有るが、❝念❞と言う字の❝本来の意味は声に出して読み上げる❞と言う意味なので、この場合は神様への祝詞を読み上げる動詞は念が相応しいだろう。
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そして灯りが消され、もう何が何だか意味不明(笑)!見ぇ~んwww!
・・・仕方ないので寒川神社様公式ホームページ画像を拝借させて頂きます。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 入場
楼門から社殿前の広場へ入場の様子。
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そして先程の清前(きよさき)精製の神事。
そこから神職様達が「難波の小池ぇ~」と言いながら境内を練り歩き、楼門や大鳥居の前等を移動しながら境内で清前を撒き、宝物数えを念じる。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
この時に何と言ってるかハッキリは解らず、後日の電話取材でも電話対応された女性の事務員の方は御詳しくは無かったのですが、小生の聞こえた限りでは・・・
「〇〇矢」「〇〇〇矢」
・・・と言う様に聞こえたので、どうも弓矢が御神宝として古代には保管されていた用だ。
これが破魔矢の由来なのだろう。前回の休日雑記でも書いたが付近は莵道稚郎子命が弥生時代の終わり~古墳時代前期に介入している事が歴史と神話から判る。そして莵道稚郎子命と平塚八幡宮を開いた仁徳天皇大鷦鷯尊の父大王君が八幡大菩薩=応神天皇=誉田別命=大鞆別命なのだが、この応神天皇は現世で御存命の時には弓の名手として神話でも知られた大王(おおきみ)だった。当時は天皇号は存在しなかったので敢えて大王と書かせて頂く。
この神事、寒川大社で誰が始めたか、寒川神社を誰が一之宮として定めたか、察しの良い人は小生の推測と同じ事を考え付いただろう。恐らくは莵道稚郎子様だ。
当時の大王家の首都は京都でも奈良でも無かった。大阪の百舌鳥古墳群の辺りや大阪市の辺りと考えられている。
前回も紹介した真土大塚古墳・・・
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真土大塚古墳復元(模造)
まぁ~この写真は神川県教育委員会が莵道稚郎子御陵をぶっ壊すの容認して後から作った偽物だが、この古墳の本物だった破壊され此の世から消滅した真土大塚古墳は古墳時代前期の建造と判明しており誉田別命や大鷦鷯尊や莵道稚郎子命の時代と整合性が高い。
そして莵道稚郎子命は恐らく日本武尊に偉業が習合された人物の一人で、その仕事は佐賀牟国(相模国相模川以東+武蔵国)と磯長国(相模国相模川以西+伊豆国+駿河国)と毛国(上野国・下野国)の豪族の統制と北関東と東北地域の豪族の邪馬台国へ合掌を促し、参加した国には軍事外交と稲作農地開発と軍馬生産と金属加工技術の導入の技術支援事業と大王朝廷の屯倉(みやけ)の設置を行ったのだろう。
つまり以前から倭国に既に参加していた関東豪族を邪馬台国の末である古代大和朝廷の臣民化させ完全に大王の家臣化させ豪族の自治を終わらせ戦乱を終結させる役割を担って関東に四道将軍の内、東海道を管轄する日本武尊(ヤマトタケルノミコト)=倭建(ヤマトタケル)=倭長=倭(が軍の)長=稚(わか)郎子(いらつこ=王子)=宇治に領国を持つ郎子の倭の軍団長=莵道稚郎子(ウジのワキのイラツコ)となり、関東に下向し、その古代官職名が神号と成ったのだろう。
ところで日本武❝尊❞の❝尊(みこと)❞の当字は仏教文化の影響を受けているので日本で最初に漢学を導入した仁徳天皇の時代の莵道稚郎子以後の神号の当字と考えられるので、以後は莵道稚郎子命以前のヤマトタケルノミコトの当字は倭建と記そうと思う。
莵道稚郎子命の後の日本武尊も小生はいたと思っていて、その人物は雄略天皇=獲加多支鹵(ワカタケル)大王で佐賀牟国と磯長国の解体を行い相模国と武蔵国と駿河国と伊豆国の行政区域分離と再統合を行った人物と小生が推測しており、恐らくその発端は武蔵国造の乱だっただろう。
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小生が保有する縄文土器の破片。縄文時代~弥生時代既に横浜市域を含む神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県は多くの集落が在り箱根や伊豆大島で採取された黒曜石、金属刃登場以前の鋭利な刃物の素材と海産品と栗や団栗等の農産品の物々交換等、海を船で越え当時は内陸まで湾が入り込み激流だった相模川や鶴見川や多摩川の大河川に分断された地形を打ち越えて行きかった交易も盛んだった。
延喜式内社と式外社と寺院と古代の海岸線 久良岐のよし
※上地図の神奈川県域沿岸地域で白い部分が縄文時代の海岸線。
弥生時代に稲作が大々的に始まると空堀と土塁と木柵で村を囲んだ城砦集落が多く出現した。しかもどれも海に突き出した険阻な半島の丘の上で、内陸には元々海だった谷間の湿地が有り稲作に適し、貝塚から多くの海産物の残骸が出土する狩猟採集文化と農業草創期の生活に合った地形だった場所が多い。
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大塚歳勝土遺跡(集落+方形周溝墓古墳群)莵道稚郎子命の存命中の頃、つまり弥生時代~古墳時代前期の❝主力兵器は弓矢❞だった。まだ銅剣、銅戈(どうか)、銅鏃(どうぞく=矢尻)は高級品で、銅の鎧を身にまとう人物は大王や地方の豪族の王や高級将軍だけだった。
弥生時代には銅剣や銅鎧等は高級品で当然普及しておらず、一般兵の兵器はもっぱら磨製石器の石斧や石槍が武器だった。だからこそ、近接戦闘よりも弓矢での攻撃が主力だった訳だ。
一部の豪族の王達は弥生時代に中国の漢帝国との交易で青銅器やガラス製品や青銅製の剣も入手していたが、末端の兵士に行き渡る程は無かった。
古墳時代の王族の甲冑
この埴輪の人物は王侯諸将、つまり高位の将軍達や豪族の王達の姿なんだな。
それ故に北九州の邪馬台国の女王卑弥呼が魏から技術供与を受けて国家的に青銅器の大量鋳造が始まるとさしもの中国地方~関東地方まで開拓していた出雲国も太刀打ち出来なかった訳だ。
つまり小生が九州を制圧し中国地方を併呑した初代の倭建命と推測する景行天皇(卑弥呼の弟大王)と、二代目倭建命(倭姫=卑弥呼の甥)の古代大和朝廷の更なる東征だな・・・
初代倭建命が恐らく景行天皇で熊襲長(クマソタケル)達を討ち果たし、その熊襲の豪族の生き残った親族と和平し婚姻関係を結び邪馬台国に吸収連合し、南九州の隼人を打ち、魏への朝貢で受けた金属鋳造技術と農耕技術で遠征に堪える兵糧と軍馬の導入、恐らく同じ倭国を形成する別派閥の豪族だった出雲神族の治めた秋津洲(あきつしま=本州)へと東征し、出雲神族の中で不服従だった伊勢津彦=建御名方神を追い詰め伊勢国~尾張国まで制圧し建御名方神を三河~信濃以東に押し込め講和し古代大和朝廷を成立させたのが卑弥呼=倭姫と景行天皇=初代倭建命だろう。
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御所ヶ崎砲台遺跡(日本武尊と弟橘姫の行在所址の聖跡)そして今、現在倭建命の神号で一般的に呼ばれるのが実は景行天皇の王子の二代目の倭建命の事績だろう。走水に滞在し大伴久応黒主から歓待を受けた後、東京湾を船で横断し房総半島の富津へと渡った人物だな。
滞在されたのが倭建命の冠を社殿地下の石棺に埋蔵した聖地の走水神社の直ぐ左手前の海に突き出した御所ヶ崎で神話時代~江戸時代の人達までずっと守られてきたが、古代の聖地に否定的な宗教改革を行った明治政府によって接収され神社は破壊され倭建命と弟橘姫の行在所の聖跡は砲台にされ破壊されてしまった。まぁ、公開される時やツアーに入ると御所ヶ崎砲台は見学出来て神社時代の石段の跡が残っているのを見る事が出来る。
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この御所ヵ崎に来た恐らく二代目の倭建と弟橘姫の頃には鉄器も輸入されている。
卑弥呼が従属同盟した三国志の登場人物でもある漢帝国の丞相にして魏王の曹操孟徳、その孫で第二代魏皇帝の曹叡と丞相の司馬懿仲達からは卑弥呼に金印の他に銅鏡100枚の他に宝剣2振りが送られている。恐らく鉄製の剣だろう。この曹叡と司馬懿から送られた宝剣が天皇家や熱田神宮に収蔵されている神剣の正体では無いかと小生は考えている。鉄剣ではない銅剣や銅鏃でも当時は貴重品だっただろう。
日本には呉太伯の渡来の伝承が有り鹿児島県に呉太伯神社も存在するが、この呉太伯と言うのは春秋時代の名軍師孫武(孫子)が補佐した呉王国の呉王夫差の子孫に当たる人物だが、この呉王国の首都が現在の蘇州市に当たる姑蘇城だった。
呉王宝剣 蘇州市博物館
その呉は西暦紀元前600年頃には金属器の製造技術の先端を行く都市で、古来銅剣や鉄剣の産地として有名だったが、現在も蘇州市博物館に収蔵される呉王剣と名付けられた上将軍級の武将が携帯したであろう宝剣が展示されている。
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蘇州市には呉王夫差の父王である呉王闔閭の古墳❝虎丘❞が現存し観光地化しているが、当然盗掘され寺院以外は何も残ってはいなし。
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しかし蘇州市の中心部は今も姑蘇城時代の幅50mを超す水堀に囲まれた古代城塞都市の様子を残している。
因みに三国時代には古代日本と同盟した魏皇帝曹叡とは敵に当たる呉皇帝孫権の首都だった南京=建業以前の首府だった場所だ。だから中国共産党による文化大革命で破棄されるまで、中華民国時代までは孫権の邸址等が史跡指定を受けて保護されたいた歴史も有る。
小生は日本の狩猟採集文化の縄文時代から農業生産と言う弥生時代への生活基盤に革新をもたらしたのは呉からの亡命者達だったりするんじゃないかと考えている。実は蘇州は中国でも古代から有名な❝魚米之郷❞と呼ばれた中国における穀倉地帯開発の先進地域でも有ったりするからだ。
恐らく、天照大神や素戔嗚尊の時代は縄文時代から弥生時代の農耕文化の転換期に当たり呉王夫差が滅びて呉太伯が来日して帰化してから暫くした頃の話だろう。だから農耕に大切な太陽が重視され天照大神の神号が生まれたのかも知れない。
皇紀の開始時期は考古学的にも中国大陸との交易によって稲作水耕栽培の農業技術が大々的に日本に輸入されてきた頃の筈なので、弥生時代に当たる頃の神話に登場する太古の神剣と言うのは呉王剣の様な金属剣を鍛造する技術はおろか青銅器を鋳造する技術すら無かった時代の話なので、中国から輸入された物だっただろう。
その青銅器を大量鋳造出来る技術を手に入れた倭姫命の弟の大将軍たる倭建命が率いる邪馬台国の軍勢は部隊長が革鎧を容易に貫く銅戈や銅鉾を持ち、銅鏃の弓矢や鉄器で武装した精強な将軍が率いる精鋭部隊が兵法を踏まえ街道を守る環濠の陣城を兵站を確保しつつ馬による大量物資輸送を可能にし長期間遠征が可能に成る訳だから、さしもの素戔嗚尊の血を引く出雲神族の御神孫達も石器と僅かな兵糧太刀打ち出来なかった事だろう。
これが建御雷と建御名方神の一騎打ちに歪曲された戦争の真相だろう。武御雷の手が冷たい剣に成り云々と記載が有るが、これは本居宣長の翻訳の間違いで、本来の漢字の意味で重火器を除いた兵器を「冷兵器」と書くのだが、恐らく神話にちゃんと戦争の様子が伝承した鉄器の「冷兵器」と言うのが記載されていたのを勝手にオカルト的に翻訳して誤った神話にしてしまったんだろう。余談だが中国は三国時代に諸葛亮孔明が世界初の地雷を実戦使用していたり、通常兵器として石火矢が存在したり銃火器が既に存在した。だから日本の奈良時代に漢字で書物が書かれるように成った頃には中国には❝冷兵器❞と❝火器❞の区別が既に存在していた。古代日本は現代の欧米で称賛されている素晴らしい縄文文化や弥生文化は有ったが、当時は間違えなく農業でも工業でも技術レベルでは後進国だった。
皇居に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と熱田神宮に草薙剣(くさなぎのつるぎ)が其々(それぞれ)別に有る事を知る人が少なく2振の剣を同一の存在と思っている学者や神職すらいたりするが、実は別々の剣だったりする。
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熱田神宮
抽象化された神話を現実的に考えれば、成務天皇に与力した伊吹山神(恐らく関ヶ原を守備した豪族)に倭建命は毒を盛られ、体調を崩した上に交戦状態に陥り関ヶ原突破を諦め叔母の伊勢神宮経由で鈴鹿関から奈良への帰路を目指し、その前に拠点を熱田に置いたのだろう。しかし鈴鹿で毒が効いて没したのかも知れない。その際に遺品と成った草薙剣は熱田神宮内に保管されて以後、朝鮮(新羅)人に盗まれた1度を除いて門外不出を守られている。
・・・現代も韓国人や朝鮮人は日本で神像や石仏破壊したり骨董品として価値の有る仏像を盗んだり神社仏閣に油を撒いて損壊させるが古代から変わって無いんだよね。
皇族が天皇に即位する際に用いるのは天叢雲剣で皇居内に保管されているが、これは源平合戦で源義経の失態に因って伊勢平家の血を引く幼少の安徳天皇と共に馬関の海の底に沈んでしまい、後から作られたレプリカだ。古来の物は熱田神宮に存在する草薙の剣だ。
さて草薙剣の事を考えると、曹操は自らは倚天剣(いてんのつるぎ)を帯剣していた様だが、劉備元徳配下の名将の趙雲子龍に奪われた青紅剣は、趙雲を捕縛する命令を受けた大将であり曹操の親戚の子でもある夏候徳が命令の執行者の証として貸与されていた物だな。魏皇帝曹家か後漢では剣を2振り一対で主従様に作る習慣が有ったのかも知れない。古代の中国では石斧が君主の代行者の証だった。
この曹操の習慣を踏まえると、魏の儀式として重要な命令を自分の代りに遂行させる代理人に与える剣と対で君主が持つ剣が有り、その習慣が日本では天叢雲剣と草薙剣に残ったんだろうか?
・・・何で神剣が2振り有るんだろうね?これは魏皇帝の曹叡と丞相司馬懿から邪馬台国女王卑弥呼に送られた宝剣は刀剣収集家曹操孟徳の遺品で後の天皇家の神剣に成ったんじゃないのか?
曹操が三国志の英雄の趙雲子龍に強奪された青紅剣と倚天剣と同じ程の宝剣を魏皇帝曹叡から与えられる好待遇を卑弥呼はされたんじゃないだろう。だからこそ卑弥呼に金印を与えた魏以降の中国歴代王朝は古墳時代の倭国王を厚遇し日本列島と台湾諸島と朝鮮半島とを統治する❝使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王❞に任命し、奈良時代の唐も則天武后の登場まで安東都護府の運営を大和朝廷に任せていたんだろう。
そして古代の大将軍職の官職名が倭建(ヤマトタケル)だったから、倭姫(卑弥呼)によって草薙剣と大伴部と吉備家の豪族軍団が与力として二代目倭建に貸与されたんじゃないのか?
古代の大将軍職の官職名が倭建(ヤマトタケル)だったから、倭姫(卑弥呼)によって大伴部と吉備家の豪族軍団が与力として二代目倭建に付け、統帥権の印として草薙剣が貸与されたんじゃないのか?
余談だが倭建命の神号で呼ばれた人物が所持した神器は剣だけではない事を知る人は神奈川県民には少しはいるが他府県民には少ない。
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石楯尾神社石楯尾神社は倭建命が装備していた聖なる楯、天石楯を埋蔵した場所に社殿が築かれた聖地だが、現在ではその神社の存在を知る人は延喜式内社詣りをして御朱印を頂いて回ってる神社好きか、一部の地元民位なもんだろう。
しかし、ここは草薙剣と対を成した❝最強の楯❞の聖域として始まり源頼朝公達も支援した大きな神社だった。これを荒廃させたのは略奪迄婦女暴行奴隷売買の悪魔、武田信玄だった。武田信玄により石楯尾神社は略奪放火され一度荒廃し、その後、北条氏政公によって再建され現在至るが、戦後の主教改革で旧境内地は接収され源頼朝公が造営した石鳥居が並んだ参道址は破壊された。
ここを破壊した武田家が、倭建の神罰に遭ってどんな落ち目に成ったかは歴史好きなら周知の事実。
石楯尾神社の天石楯と対を成した熱田神宮の草薙剣を守る熱田神宮宮司千秋家に支持された織田信長公に敵対した武田信玄は三河から尾張に入る事も出来ず野田城で不審死、更には強大な勢力も次代の武田勝頼公の時代に一気に消滅した訳だ。
こう言った草薙剣や天石楯を装備していた倭建命の神話と当時の時代背景が全てリンクして、倭建命より少し後の時代の大王であった応神天皇=大鞆別命の王子である莵道稚郎子の古墳と伝わる真土大塚古墳からの出土品も古墳時代前期には貴重品だった金属製品が多数有り、破魔の銅鏃や三角縁四神四獣鏡が出土し王族や上将軍だった事の証明にも成っている訳だが・・・

聖地の真土大塚古墳は神奈川県教育委員会と当時の神奈川県知事と平塚市長が保護せずに消滅した。

・・・その縄文~弥生~そして莵道稚郎子命の古墳時代の高級な武器の矢尻、それも破魔の効果が有り八幡大菩薩応神天皇の特技の弓だからこそ弥生時代後半~古墳時代に周辺に大古墳が多数造営され栄えた寒川大社でも神宝となり❝古代より存続する寒川神社の追儺祭❞の神事の宝物数えの言葉に成り伝わったのではないかと小生は推測している。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
そして極めつけは神事で使う❝清前❞の下に成る❝難波の小池❞の存在と名前である。
日本武尊は伯母の倭姫から吉備氏と大伴氏の氏族軍団を与力に付けられている。
大伴氏は佐伯一族で古代水軍の一族で有り大王の近衛部隊も務めた一族で、早くから関東を開拓した一族だ。その大伴家の氏神が大阪の❝住吉大社❞で有る事を知っている人は神社と歴史好きには少なくない筈だ。
・・・つまり住吉大社の在るのは難波(なんば)とも難波(なにわ)=浪速(なにわ)とも呼ばれる現在の大阪府辺りだった。この神事、日本武尊の時代に古代大和朝廷の基礎と成った邪馬台国が九州から近畿を制圧し関東を平らげた頃には始まっていたのだろう。
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旧三浦郡、三浦半島の横須賀市走水の走水神社一帯は日本武尊一行が房総半島へ渡航する際に滞在した土地で❝大伴黒主❞と言う人物が一行を接待したと伝わり、漁師で料理人と伝わるがこれは戦国時代に成っても平時の水軍武将の生活の糧だったので、この大伴黒主公は大伴部の水軍武将だろう。
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そして横浜市神奈川区の久応山寶秀寺は❝大伴久応❞と言う人物が、この寶秀寺一帯に自邸を構える豪族で日本武尊一行を走水神社の神話と同様に歓待したと伝承し、その時に日本武尊が使用した六角形の橋が神宝とされ現地の六角橋の地名由来と成った説が有る。
恐らく、この大伴久応と走水の大伴黒主は同一人物の豪族王、大伴部の一族の将軍で関東に早くから土着して現在の東京湾の神奈川県域を領地にしていたのだろう。となれば日本武尊=倭建(ヤマトタケル)=倭長(やまとたける)=稚長(わかたける)=獲加多支鹵(わかたける)等の当字の名残りは色々考えられるが六角橋でも走水でも日本武尊を接待した人物の大伴久応は走水の大伴黒主は同一人物で不思議ではないどころか、寧ろ同一人物と言い切っても過言ではないだろう。
この時に恐らく走水~房総半島へ渡航したのは二代目の倭建(ヤマトタケル)と成った景行天皇の王子様と弟橘姫様で、大伴部と吉備氏を与力に付けた倭姫を小生は卑弥呼と推測する。その弟で初代の倭建(ヤマトタケル)と推測する景行天皇達の時代とも当時の主力武器と追儺祭で寒川神社に伝わる社宝の数え歌に登場する“矢”は時代的にも整合性が有る訳だ。
つまり古代の軍事力の象徴であり邪気を払い民を守る象徴でも有った筈。
余談だが、後の応神天皇の本来の神号が❝大鞆別命(おおともわけのみこと)❞なのは母方が大伴(おおとも)家の一族の姫だったのかも知れない。
平安時代末期~鎌倉幕府設立まで活躍した源頼朝公が造営した鶴岡八幡宮・・・
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鶴岡八幡宮(若宮八幡宮)
実はここの宮司家は頼朝公以来、少なくとも戦国時代の里見家と正木家による鎌倉市街と八幡宮への放火略奪による焼失後の北条家による鶴岡八幡宮再建時まで大友(おおとも)家が宮司を務めた歴史が有る。源頼朝公は神話に精通していたので、神話と関係の有る地域と神社に関係の有る氏族を送り込んだ様だ。応神天皇と関係不快一族だから大伴家=大友家を宮司に据えたのだろう。
天皇家と同じで本来、明治以前の神社は神主と言うのは血脈が大切だった事を今の神職には知らない人も多いが、出雲大社や宗像大社や阿蘇大社等の西日本の大社格の神社の歴史を見れば一目瞭然だな。
そんな応神天皇やそれ以前の神話の時代、つまり縄文~弥生~古墳時代初期の歴史的な背景が有ったからこそ、邪気=叛徒=戦乱=蛮族による略奪虐殺を抑え邪馬台国連合に参加した国民を安んじる為の神器が弓矢と成り寒川神社の追儺祭や日本中の神事では弓矢が重視され流鏑馬神事が奉納され破魔矢が参拝者に授与される習慣として残ったのではないだろうか?
もしかしたら古代は流鏑馬や軍事演習であり、破魔矢は各豪族への大和朝廷からの武器供与の都市初めの行政(まつりごと)=祭事がスタートだったかも知れない・・・

無論、往古の事は考古学で証明された範囲でしか学者は書けないし無責任に言えないので、コレ等は全て小生が勝手に歴史と文化と地理と状況証拠を繋げた只の妄言の推測と思ってくれて良い。

・・・では何故小生が寒川神社の神事を始めたのが弟橘姫様と走水でラブラブに過された二代目の倭建ではなく莵道稚郎子と思うかと言うと、それは古代の地理と関係が有る。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
現在の中原街道は江戸時代初期に徳川秀忠公が父の鷹狩場だった平塚市中原の御殿へ直結する道を再整備して❝中原街道❞と名付けられたが、実はこの道は古墳時代初期からの街道だった。延喜式内社の寒川大社を起点にして同じく延喜式内社の深見神社近くを通過し古代の橘樹郡の政庁だった橘樹神社へと直結している道なのだ。この道は❝古墳時代の道❞で、初代と二代の倭国の大将軍である倭建の頃の道は文字通り三浦半島~房総半島へと海を越える古代東海道だった。
弟橘姫は神話では東京湾の荒れ狂う海を鎮める為に走水沖で入水し人柱に成っている。
つまり寒川神社を重視し中原街道を整備させるのは弟橘姫の御陵であり政庁も在った橘樹神社裏の弟橘姫御陵が築かれた以後の人物であるはずなので、二代の倭建以後の人物の可能性が高く成る訳だ。
そして二代は卑弥呼の甥っ子でまだ弥生時代~古墳時代の転換期の人物なので中原街道を整備させたとは思いづらい。
しかしながら、この街道と古代一之宮だった有鹿神社を接続する道に在る綾瀬市の神崎遺跡は❝尾張地方の文化の土器が出土する❞上に人骨が出土していない事から小生は状況的には我々❝城マニア❞の言う所の❝陣城❞的な環濠要塞が神崎遺跡で、これは二代倭建が兵站を確保する陣城として築いた物だと思う。日本の稲作は縄文時代末期には開始されていた事が現代の考古学で証明されているので、恐らく米の生産に因って携行できる食料が確保出来る様に成った事で、倭建の時代には遠征を行い征服戦争や豪族同士の合戦への介入の為に在陣出来る様に❝食糧事情の革命❞と❝戦争の規模の拡大❞が起こったのだろう。
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国指定史跡 神崎遺跡綾瀬市の神崎遺跡は古代海だった湿地に囲まれた半島地形上に造られた環濠の要塞集落で古代の有鹿神社~鎌倉郡に続く街道と中原街道が接続する交通の要所に存在する。
ここは❝特異❞な遺跡で❝人が埋葬された形跡が無い環濠集落❞なのだ。
これはつまり生活の拠点では無く街道を制圧する為の陣城だろう。
卑弥呼の時代の倭国大乱と言うのは、それ以前の稲作の普及による軍事行動範囲の拡大に因って不幸にも広がって行ったのかも知れないと小生は考えている。
そして初代の倭建かも知れない景行天皇や二代の頃に築かれた兵站は、そのまま古代大和朝廷の駅伝制へと発展し、数代後の莵道稚郎子の頃には道が整備されたのかも知れない。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
縄文時代には県央部は御覧の通り海だったので平塚市界隈は莵道稚郎子の古墳時代初期以後の発展と言うのも判る。だから平塚市辺りが湿地で干拓が進んでいなかった初代と二代倭建の頃にはまだまだ戦乱樹で東征の前線地域で干拓や街道整備の内政に力を注げたとは思えず、中原街道が初代の頃に大々的に整備され使われていたとは考え難い。なので平和に成った古墳時代以後の莵道稚郎子の事業と考えられなくも無いと思う。
そんな倭建命(ヤマトタケルノミコト)や莵道稚郎子命の時代の弓矢を主力にして応神天皇が得意とした兵器が弓射であり、弓矢が武器なので神事と御守りに成ったんだろうな。
まぁ、そんな訳で、莵道稚郎子の時代以前には寒川神社辺りが相模国の中心として機能していなかった筈なので、相模原の有鹿神社奥宮の勝板遺跡の有鹿郷~海老名市の有鹿神社本宮の海老名郷辺りが佐賀牟国府、伊勢原市の三之宮比々多神社辺りが大山守皇子の一族が関東統治の拠点にしていた国府、大磯町に在る後の相模国総社六所神社~二宮町の二之宮川勾神社辺りが磯長国の国府だったんじゃないかな~?と小生は妄想している。
つまり大鷦鷯尊仁徳天皇や莵道稚郎子に東海道の兵を動員し叛旗を翻そうとしたのが大山守皇子の外戚一族だったのかも知れない。

さて寒川神社の追儺神事は、古来神事に参加する参拝者には破魔の❝弓❞と❝矢❞の御神威の加護が付与された御守りが授与される。
まぁ、現代では恐ろしい数の参拝者が正月に殺到するので人数は限定されるがそれでも数百人分は無料で配布されている。

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弓矢を模した御守りだ。
小生は追儺神事に参加し寒川神社や上賀茂神社で古代の人々から現代に伝え守られた文化を体験したかったのと、この天下無双の破魔の御守りを受領したかったんだな。
この御守りは寒川大社らしく御祭神の寒川比女と寒川比古の夫婦神の御利益で❝子供の夜泣きを鎮める❞御利益と❝八方除け❞で有名な寒川大社らしく強力な❝厄除け❞の御利益が有る。
・・・小生は奥さんに成ってくれる女性と御縁無いので子供もいないが(笑)。
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Super moonの青く光る神秘的な正月二日の寒川❝大社❞での貴重な体験を終えて駐車場に戻り、横浜市の自宅への帰路に着いた・・・

(後書き)
さて、今回は2018年01月02日に訪問先が1日間で19箇所も訪問し自分の中でも過去最高の1日での訪問件数の休日雑記と成ったので書き上げるのに毎週2日間の休日で書くのに丸々1ヶ月間を要してしましました。
しかしながら神奈川県を始め千葉県や東京都や埼玉県が古代より大阪府~奈良県~京都府と繋がりが深く、日本武尊と弟橘姫様と大伴部一族と莵道稚郎子命と追儺神事の御縁で結ばれている事が多くの人に伝われば良いな~と思います。
何となく参加している神社の神事には実は多くの古代からの文化が残っています。
日本人が神社で拍手を2回、出雲大社では4回打ち神様に礼拝しますが、実はこの事も中国の歴史書に記載されており、それが三国志と俗に呼ばれる文書の日本と関わった魏国の魏志倭人伝に「日本人は偉い人にパチパチ拍手して拝む」事が書かれていて現在の神様への御参りが既に少なくとも弥生時代後半は存在した事が解っています。
そう言った事を踏まえて神職だけでなく、明治以前の真言宗の弘法大師空海和尚様や天台宗の伝教大師最澄和尚様も日本の神様を大変大切にされ信仰されていたので、現在も真言宗の寺院や天台宗寺院と天台宗から派生した中国人高僧の蘭渓道隆和尚様の臨済宗や彗光菩薩法然上人様の浄土宗の御寺には御寺の守護神として神社が残っていたりします。道元禅師様の曹洞宗も白山権現を守護神にしていたり、立正大師日蓮和尚様も千葉神社を妙見大菩薩を守護神にされていました。
本来の日本文化は明治時代にキリスト教信者の欧米かぶれ政治家達が、儒学者と結託して宗教改革を行うまでは共存し共栄して日本人の心と文化を守っていた訳です。
明治時代に多くの古代の神事が消されましたが、一部の神社や御寺はキリスト教徒政治家にも盾突く事が出来る格が有ったので、古来の習慣を守る事が出来ました。
屋台で買い食いしながら参拝する初詣や夏祭りを楽しみながら、何となぁ~く祭事の中には古代から続く神事が有る事を皆さんが思い出してくれたら良いなぁ~と思い、2018年1月2日の休日雑記の〆とさせた頂きます。