※今回の記事は文字だらけです。
前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説③】・・・多❝米❞元忠公と❝多米❞家の菩提寺の豊顕寺は江戸時代の大寺院・・・横浜市神奈川区三ッ沢西町【歴史学者は必ず見る可し!】
コレの続き⤴
最近、断続的に書いている多米元忠公の解説記事に「多米氏を調べてらっしゃる」と言う❝ヨツ❞さんと言う方からコメントが付きまして、そのヨツさんは多米元忠公は多米長宗公と同一人物じゃないかと、戸倉英太郎サンと言う❝先生❞の持論を御参考にされているとの事で、小生が何故(なぜ)「多目元忠公と多米元興が同一人物だ」と推測しているのかと言う質問を頂きましたので、そのやり取りで返信した内容に一部挨拶の加筆と多目元忠公と一体誰が同一人物かと言うのを各時代の北条家周辺の人物名と歴史とを新たに書き加えながら解説したいと思います。
さて、小生は某大宮司家の自分の祖先と、菅原氏、河内源氏や坂東平氏、鎌倉幕府北条家、金沢北条家、名越北条家、室町幕府将軍家と鎌倉公方足利家、蒔田吉良家と宅間上杉家と太田家、小田原北条家と玉縄北条家と間宮家と多米家と福島家、崇敬する織田信長公の織田家と生駒家、徳川家、それ諸家の殿様や奥方様や御姫様を尊敬する所から日本の歴史オタクに成って行きました。
素人なりに色々と御子孫様達にも御会いする事が出来たり、色んな御寺や神社で宮司様や和尚様達に優しくして頂ける御縁にも幸運な事に恵まれ、普通は見せて頂けない過去帳や文書を見せて頂いたりコピーを頂く機会にも恵まれました。
すると面白い事に、文字しか読まず取材しない部類の❝ガクシャ先生❞達が後生大事に丸写しテンプレして論文の根拠にしている❝寛政重修諸家譜❞やら❝風土記❞やら諸々江戸時代の記録と言うのは幕府の一部の役人が字を書き間違えていたり、昭和期に活版印刷にする際に文字の読み間違え誤植が多く有る事に気が付きました(笑)。
なので小生は実際の取材による聞き取りの重要性に気が付いて・・・
と言うよりも、そもそも自分で尊敬する人達の話を御子孫や御住職様や宮司様達の当事者に御会いしに行くのは数百年前の御殿様達に時代を超えて御挨拶する機会を頂いている様な気がして嬉しく、距離感なんか気にも成らずに「自分で会いたい!」と言う衝動に駆られてアポを取り挨拶に伺ったり、直接御参りに行くと❝すっごく!良くして頂ける❞機会に恵まれて来ました。
そして、殿様達の名前は例えば諏訪家ならば諏訪❝頼❞水とか諏訪家の❝頼❞の様に必ず❝家ごとの通し文字❞が有る事、そして殿様達の当時の近郷に住む上司や近隣有力大名からも❝一字拝領❞して例えば間宮家なら間宮❝康❞俊公の御名前は北条氏❝康❞公から頂いた一字である事から、いつの時代に特に重用される存在だったかとか推測する基準に成る事にも気が付きました。
更に、その上司や近隣大名と不和に成り決裂したり別の主君に鞍替えすると名前を元の名前に戻したり、子孫が元の名前の間宮❝信❞俊と伝え直してしまって各家で家系図に混乱を来(きた)してしまう原因に成り、更に徳川幕府に家の惣領が家譜を提出する際に止む無く❝康俊と信俊は兄弟だった❞みたいな帳尻合わせつじつま合わせをせねば無くなり、もうしっちゃかめっちゃかに成っている事も気が付きました。
・・・実は、この現象が多米家の伝承でも起きている事に小生は玉縄北条家の顕彰活動を通じて知った鎌倉時代には❝金沢北条家❞重臣だった間宮家臣荒井家や、扇谷上杉家臣太田家の太田道灌公暗殺の現地伝承と150年後の子孫の口述記録の差異、間宮家の家系図と各家の伝承の混乱を見聞きした経験から気が付きました。
そして得た名前と時代的な周辺の状況から「多米元忠公=多目元興公」と言う結論です。
【多米元忠公と多米元興公が同一人物と考える理由解説】
※KOEIさんの信長の野望での多❝目❞元忠公の顔グラ。名前間違ってるし(笑)。
小生の推測は歴史オタクで素人の域を出ませんが、世代の比較をすると小生は自説の様に思います。
写真は扇谷上杉家終焉地、河越城下の東明寺。ここで扇谷上杉家の頭領の扇谷上杉朝定公は討死します。重臣で後の岩槻城主太田資正公の養父同然の存在だった松山城主の難波田善銀公もここで亡くなりました。
そもそもは時宗の開祖の一遍上人の開いた聖地で、扇谷上杉家と時宗は臨済宗と曹洞宗に並んで深い関係が有る宗派でした。恐らく、扇谷上杉家の初期の本拠地だった旧鎌倉郡大庭城の近くには現在では藤沢市と鎌倉市の市境付近の時宗の総本山格である遊行寺が存在した事や、この河越城下に東明寺が存在した事から関係を深め扇谷上杉家によって支援されたのでしょう。
稲荷山 称名院 東明寺
所で、この小机城、北条氏綱公が江戸城を制圧した帰りに笠原信為公を城代に据えています。つまり無城主だけど城として機能していた事が解ります。この頃には青木城の前身の権現山は廃城に成っていたのかも知れませんが神奈川斎藤領分を間宮宗甫公が領しておりますし更に北条早雲(伊勢宗瑞)公の時代の権現山合戦では間宮家の城として権現山城が登場します。青木城はまだ存在していません。
※写真は扇谷上杉家の戦国時代初期、北条(伊勢)家と協力関係に有り山内上杉家と対立していた時代の本拠地だった伊勢原市上粕屋の大城郭、糟屋舘址の大空堀。
糟屋舘は崖地系を人工的に切岸したり平地を掘削した大空堀の幅は余裕で50m有ります。糟屋の伝承地形は太田道灌公暗殺一部始終の現地取材を元に推定地を記事に書いて紹介していますが、2018年現在、神奈川県の黒岩知事による道路建設で破壊の真っ最中です。しかも事前発掘調査隊には城郭専門家は含まれていません。
●【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
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北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説③】・・・多❝米❞元忠公と❝多米❞家の菩提寺の豊顕寺は江戸時代の大寺院・・・横浜市神奈川区三ッ沢西町【歴史学者は必ず見る可し!】
コレの続き⤴
最近、断続的に書いている多米元忠公の解説記事に「多米氏を調べてらっしゃる」と言う❝ヨツ❞さんと言う方からコメントが付きまして、そのヨツさんは多米元忠公は多米長宗公と同一人物じゃないかと、戸倉英太郎サンと言う❝先生❞の持論を御参考にされているとの事で、小生が何故(なぜ)「多目元忠公と多米元興が同一人物だ」と推測しているのかと言う質問を頂きましたので、そのやり取りで返信した内容に一部挨拶の加筆と多目元忠公と一体誰が同一人物かと言うのを各時代の北条家周辺の人物名と歴史とを新たに書き加えながら解説したいと思います。
さて、小生は某大宮司家の自分の祖先と、菅原氏、河内源氏や坂東平氏、鎌倉幕府北条家、金沢北条家、名越北条家、室町幕府将軍家と鎌倉公方足利家、蒔田吉良家と宅間上杉家と太田家、小田原北条家と玉縄北条家と間宮家と多米家と福島家、崇敬する織田信長公の織田家と生駒家、徳川家、それ諸家の殿様や奥方様や御姫様を尊敬する所から日本の歴史オタクに成って行きました。
素人なりに色々と御子孫様達にも御会いする事が出来たり、色んな御寺や神社で宮司様や和尚様達に優しくして頂ける御縁にも幸運な事に恵まれ、普通は見せて頂けない過去帳や文書を見せて頂いたりコピーを頂く機会にも恵まれました。
すると面白い事に、文字しか読まず取材しない部類の❝ガクシャ先生❞達が後生大事に丸写しテンプレして論文の根拠にしている❝寛政重修諸家譜❞やら❝風土記❞やら諸々江戸時代の記録と言うのは幕府の一部の役人が字を書き間違えていたり、昭和期に活版印刷にする際に文字の読み間違え誤植が多く有る事に気が付きました(笑)。
なので小生は実際の取材による聞き取りの重要性に気が付いて・・・
と言うよりも、そもそも自分で尊敬する人達の話を御子孫や御住職様や宮司様達の当事者に御会いしに行くのは数百年前の御殿様達に時代を超えて御挨拶する機会を頂いている様な気がして嬉しく、距離感なんか気にも成らずに「自分で会いたい!」と言う衝動に駆られてアポを取り挨拶に伺ったり、直接御参りに行くと❝すっごく!良くして頂ける❞機会に恵まれて来ました。
そして、殿様達の名前は例えば諏訪家ならば諏訪❝頼❞水とか諏訪家の❝頼❞の様に必ず❝家ごとの通し文字❞が有る事、そして殿様達の当時の近郷に住む上司や近隣有力大名からも❝一字拝領❞して例えば間宮家なら間宮❝康❞俊公の御名前は北条氏❝康❞公から頂いた一字である事から、いつの時代に特に重用される存在だったかとか推測する基準に成る事にも気が付きました。
更に、その上司や近隣大名と不和に成り決裂したり別の主君に鞍替えすると名前を元の名前に戻したり、子孫が元の名前の間宮❝信❞俊と伝え直してしまって各家で家系図に混乱を来(きた)してしまう原因に成り、更に徳川幕府に家の惣領が家譜を提出する際に止む無く❝康俊と信俊は兄弟だった❞みたいな帳尻合わせつじつま合わせをせねば無くなり、もうしっちゃかめっちゃかに成っている事も気が付きました。
・・・実は、この現象が多米家の伝承でも起きている事に小生は玉縄北条家の顕彰活動を通じて知った鎌倉時代には❝金沢北条家❞重臣だった間宮家臣荒井家や、扇谷上杉家臣太田家の太田道灌公暗殺の現地伝承と150年後の子孫の口述記録の差異、間宮家の家系図と各家の伝承の混乱を見聞きした経験から気が付きました。
そして得た名前と時代的な周辺の状況から「多米元忠公=多目元興公」と言う結論です。
写真は多米元興公の隠居地と伝わる豊顕寺さん、そもそも多目元忠公の隠居地もここと伝わるので訪問すれば直ぐに解る事なんですが・・・
さて、では何故そう思うかを豊顕寺の事は置いておいて多米家の殿様の名前から改めて解説しますが、ここからはもう、ヨネさんに書いた返信をテンプレに写真と場所の解説も書き加えたりしてみます。【多米元忠公と多米元興公が同一人物と考える理由解説】
※KOEIさんの信長の野望での多❝目❞元忠公の顔グラ。名前間違ってるし(笑)。
小生の推測は歴史オタクで素人の域を出ませんが、世代の比較をすると小生は自説の様に思います。
まず、多米元忠公が元の名を改めて元忠と名乗ったのか、それとも元忠が先で元興or長宗と名乗ったかを考えれば小生の説に合点が行くかと思います。
さて、先ず小生は戦国武士の名前は近在する有力武将の従属勢力が本人として考えた場合に有力武将から一字を頂く事を大前提として話させて頂きます。
先ず小生が多米元❝興❞公こそ河越夜戦に参戦し一軍の大将を任せられた上で全軍の進退を主君に代わって指揮を執れる人物だったと思うのは、多米家でそれが可能な人は世代的に他にいないからなのですが、多米元❝興❞公の名前に着目して世代を推測してみましょう。
この元興公の字は小生は扇谷上杉朝❝興❞公からの一字拝領だと推測しています。
御存知の様に北条(伊勢)家は古河公方家と扇谷上杉家と山内上杉家の複雑な外交関係の上で勢力地拡大の大義名分を成立していた家です。
扇谷上杉家とは初期段階で共闘関係に在り、それ故に扇谷上杉家旧臣の大森家が山内上杉家に内応した頃に小田原城攻略の大義名分を得て西湘に進出しています。
仮に多米長宗公が扇谷上杉家との抗争の終局である河越夜戦で一軍を率いた上で全軍を統率するのは年齢的に無理です。
写真は扇谷上杉家終焉地、河越城下の東明寺。ここで扇谷上杉家の頭領の扇谷上杉朝定公は討死します。重臣で後の岩槻城主太田資正公の養父同然の存在だった松山城主の難波田善銀公もここで亡くなりました。
そもそもは時宗の開祖の一遍上人の開いた聖地で、扇谷上杉家と時宗は臨済宗と曹洞宗に並んで深い関係が有る宗派でした。恐らく、扇谷上杉家の初期の本拠地だった旧鎌倉郡大庭城の近くには現在では藤沢市と鎌倉市の市境付近の時宗の総本山格である遊行寺が存在した事や、この河越城下に東明寺が存在した事から関係を深め扇谷上杉家によって支援されたのでしょう。
稲荷山 称名院 東明寺
この河越夜戦で活躍したの多目元忠公は小生は多米元興公だったと推測しますが、恐らくは次代の多米❝長❞宗公の❝長❞の字は北条長綱入道宗哲(北条幻庵)公か、その子息の北条時長公からの拝領でしょう。
多米家が城主を務めた青木城の所在地は江戸時代には眼前の横浜駅一帯は当時は海で港湾としても機能した上に東海道旧道だった重要性から東海道❝神奈川宿❞が設置されていますが、江戸時代の区分は❝神奈川領❞とされています。
幕末には坂本龍馬さん亡き後に未亡人お龍サンが働いていた田中家と言う料亭も今でも営業しています。
余談ですが、北条家の御城跡の傍には現代では拉麺の名店が多く有ったりします(笑)。これは交通の要所を抑えて城を造るのと、昭和の高度経済発展期以後の拉麺文化がトラックの運転手相手にした業態で発展した文化だから奇しくも重なる訳ですね(笑)。
そこ等辺は間宮家や宅間上杉家と尊敬する大勝軒大将の故山岸サン達の顕彰文の廉価版みたいな記事や、お龍サンの記事でも紹介しているので御興味がれば読んでやって下さい。
※タイトルをクリックすると記事に飛びます!
●間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績
●神勝軒:大勝軒山岸サンの弟子の店。…全ての拉麺繁盛店と御城の意外な関係。
●坂本龍馬サンの奥さん、お龍サンの御廟所:信楽寺(横須賀市大津町)と、京都・神奈川で見る「お龍サン」の生涯。
●旧城寺=榎下城址…横浜市緑区三保は上杉家の拠点
●北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
間宮家顕彰文は正式版は出版物にします。
円海山の蛍生息地を東急グループが破壊した場合には工事責任者から営業担当者や経営者と責任者である市長と県知事と教育委員会教育長までの実名を併記して宗教と文化醸成と自然の聖地が消えた❝歴史事実❞として間宮家の歴史と一緒に永遠に語り継ぐコンテンツにするのが目的ですね。「破壊して宅地にしたら勝ち」と思ってる横浜出身じゃない築地出身政治家やその支援者や土建屋の人間は生粋の源氏平氏北条家の気質を受け継いだハマっ子、370万人の横浜市民をナメんなよ・・・
子々孫々までソイツの悪事の対価を背負わせてやるんだわ。
・・・極悪旗本木原家の様にな。そして100年後200年後と時間が過ぎる程に円海山の瀬上沢自然環境を破壊する奴は更に悪名を残す存在に成り、糾弾されるだろうよ。
さて、間宮家や鎌倉武士団と所縁深い円海山の話は置いておいて、ここはそもそも足利尊氏公が南朝方と戦った際に城郭化し籠城し、後に戦国時代初期の間宮家が北条早雲(伊勢宗瑞)公の家臣として籠城した権現山城が前身な訳ですが、北条家が江戸城を奪取し安定するまでの初期段階では小机城を含めた領域も統治領域とした役割を持っていた筈です。
青木城から直ぐ近くの小机城は小田原所領役帳の成立時には❝小机衆❞を束ねる組織に成り、どうやらこの頃には❝北条五色備え❞も解体されている事が推測出来ます。
幕末には坂本龍馬さん亡き後に未亡人お龍サンが働いていた田中家と言う料亭も今でも営業しています。
余談ですが、北条家の御城跡の傍には現代では拉麺の名店が多く有ったりします(笑)。これは交通の要所を抑えて城を造るのと、昭和の高度経済発展期以後の拉麺文化がトラックの運転手相手にした業態で発展した文化だから奇しくも重なる訳ですね(笑)。
そこ等辺は間宮家や宅間上杉家と尊敬する大勝軒大将の故山岸サン達の顕彰文の廉価版みたいな記事や、お龍サンの記事でも紹介しているので御興味がれば読んでやって下さい。
※タイトルをクリックすると記事に飛びます!
●間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績
●神勝軒:大勝軒山岸サンの弟子の店。…全ての拉麺繁盛店と御城の意外な関係。
●坂本龍馬サンの奥さん、お龍サンの御廟所:信楽寺(横須賀市大津町)と、京都・神奈川で見る「お龍サン」の生涯。
●旧城寺=榎下城址…横浜市緑区三保は上杉家の拠点
●北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
間宮家顕彰文は正式版は出版物にします。
円海山の蛍生息地を東急グループが破壊した場合には工事責任者から営業担当者や経営者と責任者である市長と県知事と教育委員会教育長までの実名を併記して宗教と文化醸成と自然の聖地が消えた❝歴史事実❞として間宮家の歴史と一緒に永遠に語り継ぐコンテンツにするのが目的ですね。「破壊して宅地にしたら勝ち」と思ってる横浜出身じゃない築地出身政治家やその支援者や土建屋の人間は生粋の源氏平氏北条家の気質を受け継いだハマっ子、370万人の横浜市民をナメんなよ・・・
子々孫々までソイツの悪事の対価を背負わせてやるんだわ。
・・・極悪旗本木原家の様にな。そして100年後200年後と時間が過ぎる程に円海山の瀬上沢自然環境を破壊する奴は更に悪名を残す存在に成り、糾弾されるだろうよ。
さて、間宮家や鎌倉武士団と所縁深い円海山の話は置いておいて、ここはそもそも足利尊氏公が南朝方と戦った際に城郭化し籠城し、後に戦国時代初期の間宮家が北条早雲(伊勢宗瑞)公の家臣として籠城した権現山城が前身な訳ですが、北条家が江戸城を奪取し安定するまでの初期段階では小机城を含めた領域も統治領域とした役割を持っていた筈です。
青木城から直ぐ近くの小机城は小田原所領役帳の成立時には❝小机衆❞を束ねる組織に成り、どうやらこの頃には❝北条五色備え❞も解体されている事が推測出来ます。
所で、この小机城、北条氏綱公が江戸城を制圧した帰りに笠原信為公を城代に据えています。つまり無城主だけど城として機能していた事が解ります。この頃には青木城の前身の権現山は廃城に成っていたのかも知れませんが神奈川斎藤領分を間宮宗甫公が領しておりますし更に北条早雲(伊勢宗瑞)公の時代の権現山合戦では間宮家の城として権現山城が登場します。青木城はまだ存在していません。
権現山城で活躍した間宮信冬公の子か弟か親類の間宮信盛公も多摩川渡河地点の今の川崎市川崎駅一帯の河崎堀之内館主、鶴見川渡河地点の鶴見区末吉一帯は間宮信冬公、そして神奈川権現山は間宮彦四郎(小生は信冬公と同一と推測)の城でした。
つまり北条早雲~北条氏綱公初期の世代では青木城が存在せず、小机城も城として存在しても無城主で城代は大曾根城主の笠原信為公、1560年以前に小机城主を務めたのが北条幻庵公の御子息の北条時長公です。ここで北条時❝長❞の長の字が登場しますね。
北条家の江戸城攻略は大永四年(1524)です。
●❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
●2017年度 小机城市民の森竹灯籠まつりは10月28日に開催!小机衆家臣団の紹介も!
さて、小机城代を務めた笠原信為公は弘治三年(1557)に亡くなっているので、小机城と小机衆を取り仕切った期間は1524年~1557年と判ります。
●2017年度 小机城市民の森竹灯籠まつりは10月28日に開催!小机衆家臣団の紹介も!
さて、小机城代を務めた笠原信為公は弘治三年(1557)に亡くなっているので、小机城と小机衆を取り仕切った期間は1524年~1557年と判ります。
そして1557年~1560年まで城主だったであろう人物が北条時長公となる訳です。
この小机には、北条時長公の没後も御父上の北条幻庵公の所領が有りましたが後に北条氏繁公に譲られています。状況的には北条時長公が赴任した後に幻庵公の土地に成っのでしょう。
つまり、多米家で青木城の近所に住む❝長❞の字を持つ有力者の影響を受けれる人物は1560年前後の短い期間に元服したりまだ改名しても不自然ではない若かった人物だと思われます。当然ながら1560年代に十代~三十代位の人物ならば小田原城の落城時に小田原城を守備していた多米長宗公がその世代の人物と考えれば極々自然でしょう。
残念ながら多米長宗公は世代的に河越夜戦で全軍の指揮を執れる様な中年では有り得ないでしょう。
さて、では多米元興公はどうでしょう?
多米元興公の❝興❞の字が伊勢家⇔扇谷上杉家の友好的な時代に扇谷上杉朝興公から一字拝領した人物と考えれば、河越夜戦に参戦したのは多米元興公と考えるのが自然でしょう。そして古河公方足利家を頂点として管領格の扇谷上杉家に協力従属した伊勢(北条)家の武将が同世代の目上の武将から一字貰うのは当然普通に有り得る事ですよね。
多米元興公の❝興❞の字が伊勢家⇔扇谷上杉家の友好的な時代に扇谷上杉朝興公から一字拝領した人物と考えれば、河越夜戦に参戦したのは多米元興公と考えるのが自然でしょう。そして古河公方足利家を頂点として管領格の扇谷上杉家に協力従属した伊勢(北条)家の武将が同世代の目上の武将から一字貰うのは当然普通に有り得る事ですよね。
※写真は扇谷上杉家の戦国時代初期、北条(伊勢)家と協力関係に有り山内上杉家と対立していた時代の本拠地だった伊勢原市上粕屋の大城郭、糟屋舘址の大空堀。
糟屋舘は崖地系を人工的に切岸したり平地を掘削した大空堀の幅は余裕で50m有ります。糟屋の伝承地形は太田道灌公暗殺一部始終の現地取材を元に推定地を記事に書いて紹介していますが、2018年現在、神奈川県の黒岩知事による道路建設で破壊の真っ最中です。しかも事前発掘調査隊には城郭専門家は含まれていません。
●【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
では多米元興公に名前を与えたかも?知れない扇谷上杉朝興公はいつの時代の人物でしょう?
長享2年(1488)~天文6年(1537)を生きたのが扇谷上杉朝興公です。
では多米家はその頃に何をしていたでしょう?そこからはブログにも書きましたが…
※安祥文化のさと、ここの周辺一帯全てが三河安城市の市名由来と成った徳川(松平)家初期の岡崎尉移転以前の本拠地、安祥城。ここを訪問した時の記事は【休日雑記】として少し触れていたり、浄土真宗の寺院化した後の事も間宮家が関わった横浜市の梅花山成就坊の事と一緒に紹介しています。
●休日雑記 2016/09/29の訪問先 愛知県豊田市~安城市~刈谷市~豊明市~名古屋市緑区~熱田神宮~中区。
●横浜の梅花山成就院と愛知県三河安城市の大乗寺・・・戦国時代の徳川家と間宮家の❝本丸❞だった浄土真宗の寺院達。
この北条家の前身の伊勢家が今川家臣だった頃に活躍したのが❝三河の土豪❞だった多米元興公の御父上の多米元❝益❞公と伝わり、江戸時代に流布された❝伊勢神宮参りで伊勢盛時公と出会って以来の多米家と北条家の関係❞とか❝室町幕府で同僚だった❞とかは誤りな事が判ります。何たって、小生の三河土豪説は豊顕寺の歴代御住職に直接伝わってきた話で豊顕寺の説明の看板にすら紹介されている事ですからね(笑)。
多米元益公は❝伊勢七騎❞と呼ばれた北条早雲(伊勢宗瑞)公世代の今川家筆頭家老の伊勢家与力として活躍した人物です。もうこの時点で時代背景が判りますね。この頃、実際に北条家の運営をしていたのは二代目の北条氏綱公でした。その後、三河は松平家が制圧し、多米家を含めた親今川勢力は三河から駆逐されます。そして、その頃に相州の北条氏綱公を頼り扇谷上杉家とも友好な時代に生きていたと考えられるのは多米元❝興❞公を置いて他なりません。
●休日雑記 2016/09/29の訪問先 愛知県豊田市~安城市~刈谷市~豊明市~名古屋市緑区~熱田神宮~中区。
●横浜の梅花山成就院と愛知県三河安城市の大乗寺・・・戦国時代の徳川家と間宮家の❝本丸❞だった浄土真宗の寺院達。
この北条家の前身の伊勢家が今川家臣だった頃に活躍したのが❝三河の土豪❞だった多米元興公の御父上の多米元❝益❞公と伝わり、江戸時代に流布された❝伊勢神宮参りで伊勢盛時公と出会って以来の多米家と北条家の関係❞とか❝室町幕府で同僚だった❞とかは誤りな事が判ります。何たって、小生の三河土豪説は豊顕寺の歴代御住職に直接伝わってきた話で豊顕寺の説明の看板にすら紹介されている事ですからね(笑)。
多米元益公は❝伊勢七騎❞と呼ばれた北条早雲(伊勢宗瑞)公世代の今川家筆頭家老の伊勢家与力として活躍した人物です。もうこの時点で時代背景が判りますね。この頃、実際に北条家の運営をしていたのは二代目の北条氏綱公でした。その後、三河は松平家が制圧し、多米家を含めた親今川勢力は三河から駆逐されます。そして、その頃に相州の北条氏綱公を頼り扇谷上杉家とも友好な時代に生きていたと考えられるのは多米元❝興❞公を置いて他なりません。
多米家は「相模国に赴き北条家臣と成った」と伝承しており豊顕寺の説明にも書いて有ります。
余談ですが昭和の活版印刷版の寛政重修諸家譜とか新編武蔵風土記稿は編集者が天文と天正をしばしば誤読して字を誤植しているのも間宮家の御寺を廻って小生は良く知っています(笑)。なので一々、元号や武将の名前記載は江戸時代の役人の記述や昭和のいい加減な酒飲みながら残業した様なオッサンの仕事を鵜呑みにせずに、自分で御寺に行って過去帳や墓石を見て回らないとエライ目に遭ったり世の中にデマを流布する事に成りますよ~。御子孫には杉田間宮家初代の間宮常信公と名がちゃんと伝わる武将を、間宮信次とか間宮信常とか江戸の役人か昭和のいい加減なオッサンの誤植を丸写しして出版物に書いてしまってる人もいます(笑)。
※写真は戦国時代の小田原城本曲輪前の東曲輪から見た、江戸時代の小田原城本丸。
小田原城址公園
※以前書いた小田原城解説⤴
北条早雲公の時代の本拠地は伊豆国韮山城、北条早雲公の晩年に北条家の運営をしていたのは北条氏綱公、北条氏綱公以来の本拠地は❝相州❞の小田原城、多米元興公が相州に亡命し得る松平清康公による三河制圧も北条氏綱公の時代の話ですね。
もうここまで話せば御理解頂けるかと思いますが、青木城に赴任し得るのは多米元益公の次世代の多米元興公を置いて他におらず、元興公は扇谷上杉家の上杉朝興公の名を一字拝領していたが主家北条家と扇谷上杉家の対立が確定した時点で上杉朝興公との縁を切り名を多米元❝忠❞と改めたと考えれば極々自然でしょう。
余談ですが昭和の活版印刷版の寛政重修諸家譜とか新編武蔵風土記稿は編集者が天文と天正をしばしば誤読して字を誤植しているのも間宮家の御寺を廻って小生は良く知っています(笑)。なので一々、元号や武将の名前記載は江戸時代の役人の記述や昭和のいい加減な酒飲みながら残業した様なオッサンの仕事を鵜呑みにせずに、自分で御寺に行って過去帳や墓石を見て回らないとエライ目に遭ったり世の中にデマを流布する事に成りますよ~。御子孫には杉田間宮家初代の間宮常信公と名がちゃんと伝わる武将を、間宮信次とか間宮信常とか江戸の役人か昭和のいい加減なオッサンの誤植を丸写しして出版物に書いてしまってる人もいます(笑)。
※写真は戦国時代の小田原城本曲輪前の東曲輪から見た、江戸時代の小田原城本丸。
小田原城址公園
●小田原北条五代祭りと戦国時代の小田原城…防御力実積日本一の名城!
※以前書いた小田原城解説⤴
北条早雲公の時代の本拠地は伊豆国韮山城、北条早雲公の晩年に北条家の運営をしていたのは北条氏綱公、北条氏綱公以来の本拠地は❝相州❞の小田原城、多米元興公が相州に亡命し得る松平清康公による三河制圧も北条氏綱公の時代の話ですね。
もうここまで話せば御理解頂けるかと思いますが、青木城に赴任し得るのは多米元益公の次世代の多米元興公を置いて他におらず、元興公は扇谷上杉家の上杉朝興公の名を一字拝領していたが主家北条家と扇谷上杉家の対立が確定した時点で上杉朝興公との縁を切り名を多米元❝忠❞と改めたと考えれば極々自然でしょう。
そして青木城築城は永正五年(1508)の今川家の三河攻略失敗以降で更に永正七年(1510)の権現山合戦以降、小机城が小机衆として機能する大永四年(1524)迄の間と言うのが判ります。この時期は丁度、多米元興公が北条家を頼って相州に移住して来た頃とも重なりますね。
そして、多米元益公と北条早雲公が同時代に活躍した人物ならば、その子の多米元忠公は北条氏綱公や北条幻庵公と同世代か少なくとも北条氏康公よりは大分年長だったと推測出来ますから、その様な世代の人物が秀吉による小田原城攻略の頃まで生きていたとは全く考えられません。
多米家が勢力を抑えられたのは、もしかしたら多米元忠公と多米長宗公が関わったであろう本光院殿北条為昌公のせいかも知れませんよ?
そこ等辺も、その内に書きますね。
もし興味が有れば以前書いた❝ゆず❞の地元の龍珠院と金沢区伝心寺の記事とか小机城と篠原城の記事を読んで見て下さい。
●❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区
●横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?
・・・まぁ、これで納得して下さる方も多くいらっしゃるのでは無いかと思います。
現在小生は趣味の歴史以外の事(泣)で多忙なのでいつか、多米家の御姫様に取材できるようにアポイントをとれたら、色々と持論も御話ししながら多米家の事で各時代の歴史家が紹介していない事も記録に残せたらなぁ~と思っています。
皆さん、その時まで待っててね?
落ち着くの、2年ぐらいかかるのかなぁ~。
→その⑤に続く(多米家が重臣ながら貫高を抑えられた原因の推測を書く予定)
●❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区
●横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?
●篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
これが小生の説で、実際に和尚様から聞いたり豊顕寺と多米家の伝承を紹介した文章から推測出来る事です。
これが小生の説で、実際に和尚様から聞いたり豊顕寺と多米家の伝承を紹介した文章から推測出来る事です。
これ、豊顕寺サンに御参りして色々と見聞きすれば直ぐに解ると思います。
江戸時代の人が狭い行動範囲で取材せずに書いた文献だけだと、ローカルな情報をカバーしきれて無い事が多いですしね。新編相模風土記稿も編集の過程で些末なエピソードは端折られてるでしょうし。
間宮に異常に詳しく書かれているのは、新編武蔵風土記稿の編集者が間宮一族の末裔の間宮士信サンだからでしょうね(笑)!
・・・まぁ、これで納得して下さる方も多くいらっしゃるのでは無いかと思います。
現在小生は趣味の歴史以外の事(泣)で多忙なのでいつか、多米家の御姫様に取材できるようにアポイントをとれたら、色々と持論も御話ししながら多米家の事で各時代の歴史家が紹介していない事も記録に残せたらなぁ~と思っています。
皆さん、その時まで待っててね?
落ち着くの、2年ぐらいかかるのかなぁ~。
→その⑤に続く(多米家が重臣ながら貫高を抑えられた原因の推測を書く予定)
コメント
コメント一覧 (14)
更に近代の考古学も文献考古も未発達の時代の物なんぞ史料価値は無いかと。
源頼朝落馬の場所の相模川橋脚と言われる発掘された物ですら大正時代に考古学的知識の無い歴史愛好家が勝手に相模川橋脚と主張して観光資源化したのに茅ヶ崎市が乗っかってるだけで考古学的に相模川の橋では無いですから。
小出川橋脚なんですよ。
横浜ですと某区史も明治期に自家の社格を上げたかった社家が捏造しまくった歴史的に実在しない郷名や都合好く郷社だなんだ、文献と全く異なる事を書いて見事に明治時代に公務員としての神職化してますし。
近世江戸期の価値観で中世鎌倉〜室町〜安土桃山期を見ると大失敗しますし、近世を近代や現代の価値観で見るのも誤りでしかありませんね。
まぁ、そちらの三州に残留し苗字を尾崎に改めた方々と、武州多米は全く別家で、ただ武田家、小笠原家、佐竹家、足利家、新田家が祖先が同じ清和天皇程度の関係性と似たようなモノと言うだけです。
小生に言わせると、日本の海苔巻と韓国のキンパみたいなモノ、レクサスとトヨタ、みたいな感じでしょうか?
どちらが上下や横の繋がりすら成立しないコンセプト(社家/武家、所在地)から異なる別ブランドであり血縁も古過ぎて親戚とは呼べない関係性でしかないかと。
武州に帯同してないんですから。
以上。
御存知かと思いますが確認も含めて言うと、徳川家は修験道弾圧や浄土真宗を内部対立させたり宗教政策改悪しつつ力を弱めたりしましたが、古来の宗教観破壊をしてますね。
氏素性についての価値観の改変もしてます。
たとえば徳川家とか出自が母系の祖先の得川を無理やり字を改め微妙に僭称したりしてますが、他家にも余計な事をしています。
多米と同じ三河にもいた吉良氏ですね、三河のは幕府ではパワハラ上司であり自領では善政を行った例の。
横浜川崎東京の吉良は室町時代に奥州探題、鎌倉公方の代理を努めた蒔田御所/世田谷城主吉良氏です。
室町幕府の認識では蒔田御所こそ鎌倉公方足利家不在時の代理を務める家格であり過去の役職的にも所領も、三河の所領を横領し土着したと吉良氏は完全に分離した別家化していて鎌倉府の有職と三河の土豪無役で異なります。
ところが徳川家に早く縁が有った三河の吉良家が江戸幕府成立時に家系嫡流を横領する工作結果、別流の蒔田吉良家が非嫡流指定され蒔田氏を名乗るように幕府から指令されます。
三河の吉良は御存知の通りパワハラで中絶し、蒔田吉良家が吉良の苗字に復す様に指令されました。
この様に徳川統治下の史観を、それ以前の鎌倉視点〜室町視点と混同して話すと大きなネジレを生みます。
これは気を付ける必要のある事ですね。
→続きます④
武田家と佐竹家と足利家は親戚とは呼べませんよね?
多米と尾崎も同じですよ。
とおい昔に伊勢家を頼り移住した多米家と、苗字を尾崎に改めた貴家はルーツが同じでも別の家です。
つまり武州多米と三州尾崎は親戚ではありませんね。
ぞもそも明治政府に尾崎と戸籍を申請する必要ガ有った訳ですから。
明治期に作られた家系図に武州多米を登場させたのは家格を高く見せたい理由が有ったのでは?
良く有る話ですが神職が公務員化した短い期間、自家を有名人と紐付る事で村社格や郷社等の社格を高め所得を上げようと"努力"されたのかも知れませんね。
別に自己肯定感に御先祖様関係無いので気にしないで良いかと。
自分を充実させれるのは、成功体験と幸福度と5大欲だけですから。
無論、御先祖様や氏神様土地神様や仏様に自分の目標を伝え努力し、実現出来たら感謝する事は大切ですね。
→続きます③
東海地方の方に解りやすく説明するとですね。
尾崎さんが話しているのは視点のピントがズレてます。
榊原照久公 久能山東照宮初代別当
と
榊原康政公 徳川四天王
この二人の子孫の関係性ですね。
嫡子は榊原照久公、でも総領は榊原康政公
これは徳川信康公事件で連座した榊原照久公左遷と、その後の家康公の直参旗本として復帰→従二位の高位別当職として神仏混淆時代の久能山東照宮別当化。
かたや運良く家財と所領をスライド移譲された榊原康政公が大名化したので世間では認知されたもの。
これを一緒くたに榊󠄀原家と現代視点側から見る事を御子孫に当て嵌めれませんよね?
そこで改めて強調すれば三河では多目か尾崎、こちらは多米と室町時代には分かれた別流と言う事、三河に土着し続けた多目とコチラの多米は今川配下時代には分かれた別家ですね〜当時の価値観的に。
文献考古的には兼好法師を現代では忌部家流の苗字の吉田で吉田兼好と呼ばないのと同じですよ。
兼好法師は吉田家と別家ですから。
関東で言うと平良文公の嫡流はありません。
社家として村岡家が分裂し鎌倉で平成二十七年まで残り、跡継ぎ無く職を辞し絶えました。
平安末に武家として子等に所領を分け分家を繰り返し成立したのが鎌倉家、三浦家、渋谷家、秩父家、上総家、中村家等。
更に鎌倉家を分家したのが大庭家、梶原家、長尾家、俣野家等ですね。
この長尾家の上杉謙信と社家の村岡家を同一視する思考をお持ちなら、多米と尾崎は同族かと。
分家とは家を分ける事で近世徳川幕府での本家と分家とは全く違う事が理解出来ましたか?
→続きます②
武州多米はずっと多米と名乗ってましたよ。
それを江戸時代に勝手に同音異字で拡散されただけですよ。
尾崎保有の系図は明治期の物で史料的な価値皆無かと。
尾崎を多米と混同して八十云代とはカウント出来ません。
調停から朝臣や連等の姓を貰い改姓したのですか?
苗字に成った時点でそれ以前をカウントしたらアウト。
もしカウントするなら◯◯朝臣、◯◯宿禰、◯◯君などの祖先から書く必要が有りますし、明治政府非公認なら名乗れないかと。
そこから誤解されてませんか?
尾崎家◯代と書く際は分岐してから或いは改姓してからの代数を述べる必要があります。
余談ですが我家の嫡流さんは古代から改姓していないので明治に華族に指定され昭和中期に九十代を超えてますが、誰も仰々しく自己顕示に第何代なんか書きませんよ。
徳川家でも家康公からしかカウントしてないのに、言うなれば徳川家が毛帽する清和源氏の清和天皇を更に飛び越えて神武天皇皇孫◯◯代と書いてる様な物で天皇家と我を同列に見る不敬かと。
更に確芯的には武州多米と三州尾崎云々は室町に分かれた別流ですから関係無いかと。
最早親類ですらありませんよね。
敢えて言いますと室町時代には武州多米家が三河の菩提寺を廃寺にして機能移転する権限が有ることを鑑みれば、現代人が四の五のどうこう言うまでもないですね。
→続きます①
だから多米家だけじゃなく系図の混乱は凄く有りますよ。
小生だって、辛うじて三代前の名前しか知らず、元の御先祖は古事記にのり神社の御祭神に成っていて、御本家直系は今も大宮司家なのを知っていても、小生の家は傍流ですし江戸時代の先祖なんて大半スッポリ歯抜けです。
寺も今の仏壇も火事に成るから過去帳も焼けちゃいますしね。
岩槻城主の座を追放された太田家の江戸時代の子孫太田資武が祖先の太田道灌公の事を纏めた文書も没後100年以上経過してから現地伊勢原市で取材もしないで書いてるので、現地の地名を城館の施設と勘違いして太田道灌公が入浴中に暗殺されたなんて事実と違う話を創作してしまってます。
500年経っても結構、地元に行くと情報が未だ生きていたり、地名が残ってるもんですよね。
だから、現代でも実際に現地の御寺や神社に行って色々聞いて見るとメジャーな文書に無い歴史がまた口伝で伝わってたり、当事者の子孫や御寺に聞き込みすると面白いですよ。
結構、徳川幕府の杜撰な事務方の粗捜しを400年越しで発見してしまいます。
長文失礼しました。
実際に、旧北条家臣団は江戸幕府に仕官出来た北条旧臣の元上司や同僚を頼り、与力として雇って貰ったり、土地を貰って庄屋やある程度の農民として生活を互助したみたいです。
ワークシェアみたいな感じなんですかね~。
幕府の文書でも誤記だらけなのに、更に武士として存続しないと上手く文書も残らず余計に伝わらないみたいです。
間宮でも茨城に中山家を頼ったか間宮林蔵の系統が農民として根付きましたし。
間宮家子孫の杉田玄白は若狭藩に仕えたり。
大田区善慶寺の義民六人宗に成った間宮是信サンも江戸時代に悪人領主に敵対したせいで犯罪者扱いされ殺害され、元の系図を辿れなく間宮家から消されたり。
間宮林蔵と杉田玄白の家系も書類でどの間宮家の分家の子孫か江戸末期には既分からなかったみたいです。
でも農民に成っても面白い事に旧北条家臣団は幕末まで学問や剣術に秀でて多く学者や剣術家の家系を輩出したみたいですね。
こちらこそ豊顕寺に檀家がいる間宮家の事例を乱暴な口調で列挙し、もう少し言い方を選ぶべきでした。
すみません。
ただ多米家や青木城近くの蒔田御所で鎌倉将軍代理の吉良家与力だった高橋家の江戸時代に書いた物から更に引っ張って来たり北条五代記から引っ張って来てる話が多く、そのどちらも史実に矛盾してる部分が凄く多いので余計な混乱の元に成ってたりしますね。
自称三浦氏の書いた北条五代記なんか里見八犬伝みたいな脚色されてますし。
北条五代記では多米長定公はいるはずのない山中城で討死した話しに成ってますが、彼は箕輪城城代で群馬県現地の伝承で西牧城防衛に失敗し岩山に逃げて切腹したと伝わっています。
山中城に無理やり結びつけたのは間宮家が徳川外戚として本牧奉行、生野銀山奉行、大久保長安の失脚後に佐渡金山奉行を間宮直元公が歴任し大阪で討死後は、次代忠次公が本牧奉行と駿河蒲原代官(駿府城の外港)を兼務、更に次代正次公が本牧のと摂津奉行を兼務していたので、間宮や会津松平家から養子をとり存続した玉縄北条家に縁を求める就職活動だったのかも知れません。
これ以上余計なことは言わないようにしておくけど、質問されたことだけ答えておくね。
>> 江戸時代の創作系図の話し?
江戸時代に作られた多米家の系図があるのは知りませんでした。
私の書いたものはもう少し後で、明治の始めに愛知県の多米家が作成したものだよ。
ありがとうございました。
昔の役人だっていい加減な奴は今の消えた年金問題みたいな適当な仕事しかしないバカもいるし。
今のショーンK(笑)の学歴詐称みたいに家格向上の為に家柄粉飾して本家筋に成り済まそうとして書いた物や、間宮みたいに幕府の失政指摘したら懲罰されちゃうから仕方無く隠す為に間違いに整合性捏造してあげて幕府の面子守らないといけないケースも有るしな。
江戸時代の物を例え幕府の公式文書でも精査しないで鵜呑みにしたら、アホ学者と同じ考証してない丸写しテンプレがバレるよ。
某自称学者みたいにカルトの捏造を丸写しちゃって和田城を出口城て書かされたり、間宮常信公の名前を寛政重修諸家譜の誤記の信常を丸写しで恥かいたり。
同じ豊顕寺に間宮宗甫公の子孫が檀家に沢山おるがな、間宮でも一番有名な間宮康俊公の法名を宗閑て江戸幕府の誤記で伝わるが幕府相手に訂正要求出来なかったらしい。風土記の弘明寺の項目で既に間宮康俊公が3歳時に別人“間宮宗閑”の名前が登場すんだわ。
時代考証すると間宮宗閑が康俊公の父上で多米元忠公の同僚と思われる間宮信元公の戒名ってのも推定出来るんだがな。
徳川家康公が側室に成った間宮於久サンの為に義父になる康俊公の供養に山中城に徳川幕府としての菩提寺を作らせる際に役人がちゃんと調べなかったらしく一世代前の宗閑の法名で間宮と関係無い浄土宗の和尚に康俊公の戒名作らせちまって幕府に申告して宗閑寺作ったせいで混乱したりな。
間宮家臣団は康俊公の追善供養を毎年、家祖信冬公の開いた宝泉寺で安土桃山時代~江戸時代を通じて供養してて、正しい法名も宗覺て伝わってるし、そもそも位牌もそのまんま宗覺なんだわ。
幕府の面子を潰さない為に仕方なく宗閑=康俊公の法名を受け入れつつ、ちゃんと供養する為に恐らく初名の信俊=宗覺と別人格に系図は兄弟として粉飾しながら追善供養はちゃんと宗覺でやり、山中城に康俊公から4代目が信俊宗覺を大きな字で墓石中心に掘り文頭右側に康俊宗閑と書いて、別人にしてる様で一人として供養出来る特殊な墓を作ったりしてる事例が有るけどな。
間宮関連じゃ幕府の朱印ですら役人に寺の名前誤記されたせいで寺号を変えなきゃいけなく成った青梅の海禅寺とかも有るしな。
返信①
江戸時代の創作系図の話し?
豊顕寺に直系本家本元の当主が今も檀家だけどな、豊顕寺でも本家でもハッキリ解らんてのが実情なんだわ。
ただし、豊顕寺の寺伝と時代背景を比較すると元興=元忠に成るけどな。
よく有る話だが江戸時代の“自称子孫”の“自称分家”が話を広い集め時代考証せず“名前が違う”→別人って線引っ張ったり、自分の家に無理くり合わせる為に別故人に偽装したりは良くあるぞ?
北条五代記も油壺に騎馬の軍隊の亡霊が出て云々内容ハチャメチャだが、箕輪城代多米長定が山中城で間宮康俊と討死とか史実と違うメチャクチャな内容だしな。
多米長定の系統は早くに別れた家だろ。
長が付くから伊勢盛時公の世代の分家か北条宗哲公の与力の家系だろが、八王子があっさり陥落した原因の大道寺と一緒に内応ないし投降して攻めた側の家系だろ。
だから本家元忠公の子孫に粉飾する必要が有ったんだろな。