瀬戸神社の記事を書く前に・・・
突然だが小生は火鍋も好きだし中華街も良くご飯食べに行くし関帝廟も媽祖廟も御参りするし中国の古代史と中華料理は大好きだ。
そして、日本文化が好きでちゃんとビザを取得して日本に留学に来て苦学している台湾や中国の子等も応援したいと思う。
ニートで働かない日本人より❝親日で日本文化大好きな働き者の外国人❞に❝飛鳥~奈良時代の大和朝廷で活躍した外国人❞の様に働いて一緒に日本の御祭りを楽しんで貰ったりして、ゆくゆくは日本人に成って貰った方がよっぽど国益に適うとも思っている。
無論、日本文化に興味が無くいつまでたっても日本に馴染まず拝金主義の外国人が金を稼ぎ来て日本を切り売りする為に来るなら「どうぞお帰り下さい」と強硬に言う訳だが。
習近平サンが中国の❝領導(ボス)❞に成ってから中国政府による日本国と在中国日本企業に対する嫌がらせが頻発しているのが心底ムカつくんだな。
漢詩や中国文化が好きな上に季布や関羽や呂蒙や顧雍や丁奉や徐盛、岳飛や鄭成功や孫文先生や周恩来先生を尊敬している小生としては苦々しく怒りを感じるので嫌味を書いておきたくて日本神話と三国志の関連の話をして反日派の中国人に彼等の浅学振りをチクリと言っておきたいと思う。

突然だけど小生は卑弥呼の名は発音の漢字音読み表記で意図的に漢帝国~魏の皇帝に憚(はばか)り下賎な字を当てられて中国史書には記録されているのだろうと思っている。
そして卑弥呼は一人の名ではなく古代大和朝廷の元となる日本の一地方の原始国家時代から引き継がれた祭祀を司る巫女(みこ)であり女性の皇子(みこ)、つまり斎王の原形である原始信仰の女性法王的な役職名か現人神(あらひとがみ)としての❝生前の神号❞がヒミコだろうと推測している。
卑弥呼は多分、日本語で日巫女か日御子と言う当字するべき意味の発音なんだろう。
そして縄文時代~弥生時代に移る頃から大凡(おおよそ)それに当たる役割が女系か男系かは置いておいても古代神道の原形の原始自然信仰で選出された未婚の女児が役割を担って来たのだろう。

日本に文字普及する以前の記録に残らない数百年間の斎王がヒミコ=日御子/日巫女/日皇子(女性)で最後のヒミコに習合された人物だったのかも知れない。
或(ある)いは大王(おおきみ)つまり天皇の御先祖の息女だったかも知れないし邪馬台国連合国の盟邦の1ヵ国の中の王女から選出されたのかも知れない。
一人では無く、数世代いたはずだ。
同様に倭建(やまとたける)も古代の大将軍の役職名で数人が一柱に習合されていると思う。で、ヤマトタケルの日本武尊(やまとたけるのみこと)の方は仏教文化の影響で後に当て字された書き方だろう。

そして、その国家宗教の信仰上の役職としての❝ヒミコ❞の役割は恐らく太陽信仰の象徴で天照大神の化身としての現人神(あらひとがみ)だろう。
つまり、そんな歴史が有ったなら天照大神は紛れもなく肉体を持ち天皇家の祖先神を産む事が出来た女性の現人神か天照大神の依代(よりしろ)たる大いなる巫女だったはずだ。ただし、卑弥呼は未婚の巫女や斎王だったろう。
天照大神信仰の形式で日本で普及した太陽神信仰が始まったのは恐らく稲作文化が大陸から輸入され始めた縄文時代~弥生時代の転換点の頃の筈で考古学的な昨今の発見による稲作開始時期と大凡合致する。
稲作が普及して米が生産された事で“腐らない大量の食物”として備蓄確保出来る様に成り、更にその米は“大量輸送”可能で“軍事食料=兵糧”として“軍隊を遠征可能にさせ”原始国家を誕生させたのだと思う。
それ故(ゆえ)に稲作に大切な日照や旱魃(かんばつ)に関係する太陽信仰が、神々の父母たる縄文時代からの神様の伊邪那岐(いざなぎ)命や伊邪那美(いざなみ)命よりも重視される様に成って行ったんだろう。
ヒミコの跡継ぎのトヨが歴代の巫女の親玉と同じくヒミコを名乗れなかったのは恐らく信仰上の巫女資格の無い既婚者だったからだろう。

それ等を踏まえて“最後の卑弥呼”や跡継ぎの臺与(とよ)が正体の一端であろう神格化された神様の日本神話と台湾と中国の友好の歴史を絡め、反日中国大陸人の話をしたいと思う。

西暦238年6月夏
西暦239年
西暦248年9月5日

これらは何の日でしょう?

238年…
卑弥呼が三国時代の魏帝国に使者を派遣した年。

239年…
卑弥呼が魏皇帝曹叡から中華に従属する国王で最高職の親魏倭王の称号と金印紫綬を託された年。

248年…
日本の女王卑弥呼が死んだ日が9月5日。
この日は日蝕が観測されているので判明している。
天照大神の天岩戸の神話に酷似している。

251年…
日本の女王卑弥呼を支援した魏の丞相司馬懿が死んだ年。

これらの記載がある三国志正史の魏志にある記述や歴史背景に合致し、女王卑弥呼に批定される皇族が日本書紀にいる。
すなわち伊勢神宮を開いた倭姫か妊娠中に朝鮮半島征伐に渡海し成果を挙げた神功皇后の何れかだ。
またそれとは別に卑弥呼は天照大神のモデルと主張をする学者もいる。
仮に天照大神の化身が卑弥呼なら、チベットのダライ・ラマみたいに数世代血縁無く継承された宗教指導者と考えると納得行く。

238年6月、魏帝国に卑弥呼が従属同盟の使者に難升米(ナシメ)を送り魏皇帝曹叡つまり曹操の嫡孫から支持され支援を受ける。
最高従属同盟者の証である「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」に加えて銅鏡100枚と5尺の宝剣を2振りを贈った。
この宝剣が草薙剣と天叢雲剣の正体かも知れない。この草薙剣と天叢雲剣が同一と思い込む人もいるが違う、歴史的に倭姫が倭建に貸与した草薙剣は熱田神宮に祀られて以後は朝鮮の新羅人盗賊に盗み出された一度を除いて動かされた事は無く、三種神器の天叢雲剣は皇居に安置されている。つまり別の剣な訳だ。
曹操は青紅の剣、倚天の剣の様に2振りの宝剣をセットで所持したので、同様に王と代行者の大将軍用の2振りを持つのが魏の文化だったりしたかも知れない。
余談だが神社の幣殿に備えて有る鉾と楯と旗、あれは古代史好きなら直ぐに解るが漢代の中国の軍装だな。神社の文化も御神鑑を祀るのは、古代に神格化された豪族に卑弥呼が配布した魏から供与された100枚の鏡が太陽信仰の象徴として祭器に成ったのかも知れない。
そもそも縄文時代以来の古代の日本の信仰は、病気に成らない清涼な飲料水を確保出来る湧水池や山岳の奇岩や河川の合流地点や半島の突端と入江の付け根の漁に出る船を係留できる地形で美しく神秘的な古代人の生活にとっても大切な❝場所❞が神格化されて石座(いわくら)や水神として祀られる様に成って行ったのが考古学的に解る。
だから神社の社殿にある文化は弥生時代~古墳時代の変革期に中国大陸の影響を受けた文化を垣間(かいま)見る事が出来る訳だ。

金印紫綬、卑弥呼に送られた金印は通常、皇族出身の王や高位の太守にしか与えられない物なので前代未聞の事だろう。

難升米(ナシメ)と言う人物の出身を少し推測する。
前漢の時代に漢帝国に朝貢し漢委奴国王(漢のイト国王/漢の委任する奴国王)の金印を得た人物で倭王帥升と言う人物の記録が中国の歴史書「史記」に書かれている。
恐らく古代邪馬台国の王の先祖か王族の1人だったのだろう。
伊都(いと)国と呼ばれた地方は昔の筑前国那珂郡辺りで現代の福岡県福岡市那珂川流域と博多近海の糸島(いとしま)等の小島を含めた辺り一帯であった。
その一帯は大和朝廷初期には、儺津(なのつ)と言う港の有る儺縣(ナンのアガタ)と言われた行政区域だった。奴国(なこく)はもしかしたら発音的には儺津に関係するかも知れない。
そして儺縣(ナンのアガタ)に居所を定めて住んでいたので難升米(ナシメ)は名字を「難=儺」と称したのだろうと思う。
これを考えると難升米は倭王の血を引く伊都国王か奴国王の帥升の子孫だったから先祖の名の升の字を代々継承し「升米」と称したのではないだろうか?名の米の字はもしかしたら稲作を普及させた人物なのかも知れない。帥升の帥は元帥の帥なので、王とか国を束ねる者とか言う役職を指したのかも知れない。

難升米(ナシメ)は、そんな重要な血筋で先祖が中華との外交を行った人物だったからこそ、邪馬台国女王代理として三国時代古代中華の魏帝国への同盟の使者の大役を担ったのかも知れない、まぁ状況証拠だけで何も確証は無い。
彼は魏帝国皇帝から率善中郎将の官位を得ているが、これは漢帝国や魏帝国に於いてもかなり高位の武官職であある。
率善中郎将は後漢の時代には設置された役職で、後漢に柵封された従属同盟国の王の直轄将校であり時として将軍の任務を代行し派遣される様な重役だった。
邪馬台国の使者の難升米(ナシメ)は更に魏皇帝曹叡から気に入られ黄幢(魏帝国の御旗)と詔書を直接下賜されているので、余程の才知か武勇に富んだ武将だったのだろう。
また当事の魏帝国は邪馬台国と連合して、反逆した朝鮮半島を共同で攻撃する必要もあり、太陽信仰の巫女の親玉で女王とされた卑弥呼と武将難升米を重用したのだろう。

この時期、三国志の英雄で魏の2代皇帝曹叡と配下で丞相の司馬懿の魏帝国は、遼東半島や北朝鮮一帯で叛乱した燕王公孫淵と公孫淵と同盟し魏の領土に侵攻した鮮卑(蛮族の意)と対立していた。
帯方郡の長官である太守劉夏が鮮卑に殺害される大事件が発生。
現在の中国の遼東半島には漢帝国時代から魏帝国当時は楽浪郡が置かれ、その更に南に帯方郡が置かれていた…
今のソウル辺りだ。
ソウルは、つい十数年前まで漢字で漢城と書いた。
古代には中国人が沢山いたからだそうだ。
今では歴史捏造大好きでプライド高い韓国人によって、「中国の従属国だったなんか認めたくないと言う屁理屈」から「首迩(ショウアル)」なんて訳の解らない当て字を用いて改名されている。

ところで楽浪郡と帯方郡の叛乱は中華の魏帝国にとっては一大事だった。
まだ南の呉帝国と西の漢帝国と争っていたので、東の蛮族である鮮卑に大きな兵力を割く余裕は無かったのだ。
その状況を知ってか知らずか卑弥呼は魏に従属同盟の使者を送った訳だ。
恐らく同時期に邪馬台国朝鮮半島領の混乱を鎮圧する為に朝鮮の鮮卑を魏に挟撃して欲しい旨を踏まえて、更にはソレ等の状況が魏帝国にとっても好ましい状況である事を全てを知った上での使者派遣だっただろう。

当事の日本は朝鮮半島南部の釜山一帯も漢帝国時代から中華に認められて支配していた。
今の韓国人や北朝鮮人に当たる朝鮮人や中国東北部旧満州を席巻した満州人の鮮卑が帯方郡太守劉夏を殺害したのだ。
この時代に朝鮮族と言う民族はまだ存在せずつまり韓国人も朝鮮人も存在せず辰韓・馬韓・弁韓(三韓)は倭国(邪馬台国)王の領土だった訳で、これらの在る朝鮮半島の叛乱は中国史観から見ても倭国大乱の時期と正に重なる。
卑弥呼の先代の王の統治が弱体化し、中国の公孫一族と結託し叛乱したのだろう。

それを裏付ける様に、238年(景初2年)8月23日には、鮮卑と結びついて叛乱を起こした公孫淵が魏帝国丞相の司馬懿に討伐され、死亡している。
また此の時に公孫淵に同調した朝鮮半島の三韓と呼ばれた地域は古代日本領土だったので、邪馬台国に攻めさせ公孫淵への朝鮮の新羅地方や百済地方からの援軍を断つ為に古代日本領の三韓から北伐し釘付けにするのは当然の戦略と言える。
神功皇后の神話はこの一連の戦略の中の一部分だろう。
もしかしたら神功皇后は卑弥呼ではなく次代の臺与かも知れないし、卑弥呼=倭姫、臺与=神功皇后の方が神話と整合性が有りそうだ。

この卑弥呼なり神功皇后の正体かも知れない臺与なりの功績を評価してかどうかは解らない。しかし後日、魏帝国は邪馬台国を上位従属同盟国とし厚遇し、卑弥呼が体調を崩し始めた出あろう246年に魏の官僚を派遣し技術投資をし邪馬台国を強化し南部朝鮮を支配させた。
それがつまり、この後に記す246年の出来事と247年の出来事だと推察出来る。
  
246年、卑弥呼の死去する2年前に三国志の魏王国帯方郡の武官で塞曹掾史(さいそうえんし)張政が邪馬台国に派遣される。
ちなみに難升米は官職で張政の上官に当たる。
派遣された魏の武官の官職で下士官に当たるので、これは邪馬台国への完全な救援行動だったのだろう。

247年には日本は再び混乱していたらしいので、恐らく246年時点で女王卑弥呼の健康状態に問題があり後継者問題が起きたか、敵対する狗奴国など地方自治王朝によって邪馬台国が不利に成っていた事で反攻戦略として再度、魏への銅剣と銅製甲冑等の先進技術の大量供与要請か生産技術移転要請や援軍そのものの要請を行ったのかも知れない。
その為に張政は日本に派遣され20年間駐在し邪馬台国建て直しに協力した後に中国へ帰国したのだろう。

西暦247年当事は、古代中国魏帝国も前述の通り蜀漢と呉の3ヶ国に分裂しており、東北や西北には後のモンゴル族やトルコ人の先祖当たる勇猛な騎馬民族の匈奴や胡族…
南は今のベトナムやタイにあたる蛮越…
北朝鮮東部には鮮卑王朝の高句麗があり…
魏帝国は蛮越を除いた全ての異国と対立していた。
しかし、その御蔭で魏帝国には日本と言う輩(ともがら)が必要不可欠になり、当時の日本人は曹操の残した仕事方法や司馬懿の政治や軍略や農業や第二次産業である青銅器製造を学び弥生時代から古墳時代に文化発展する機会を得たのだろう。
これは日本人にとって非常に幸運な事だったと言える。
いきなり製銅製鉄技術や開墾に加え屯田兵制度、高度な木造建築や表現力豊かな漢字が導入できたのだから日本文化発展の礎(いしずえ)に成ったと思われる。

日本人の現代に置ける緻密な仕事の性質は、かつて中国が西夏・金・元・清など歴代異民族王朝に蹂躙されるまで本来の中国大陸の中原地域の人々が保有していたであろう曹操や司馬懿等の治めた事実を追求し問題を改善し法秩序に基づく魏の習俗が、日本人に日本独自の文化と共に継承されているのかも知れない。

中華民族王朝が異民族王朝や共産主義に侵略される度に中国国民の民度や文化は都度リセットされてしまったが、成金ではない元々歴代当主が知識階層だった家系の中国人の文化程度は高い。
それはやはり日本人同様に先祖から文化と礼儀の重要性を教わってきたからだろう。
劉少奇・周恩来・鄧小平・胡錦涛は歴史的に見ても比較的優秀な人材であったと思う。
しかし毛沢東や江沢民は…
己の失政が元で失脚するのを恐れたり出世に利用して積極的に中国の知識階層国民を虐殺した負の実績がある。
ちなみに江沢民が日本人を敵視すれば、即ち彼等の敵は曹操と司馬懿の仕事方法や戦略と歴代日本武士の精神を受け継いだ人間が彼等の前に立塞がる訳だが・・・

いくら江沢民や毛沢東が政治家として腐敗し無能だろうが、彼等がいなければ中国人にとって今の中国は存在しなかった。まぁ、日本人にとって毛沢東は名将として評価出来るが江沢民は評価の対象にする価値も無い。しかし毛沢東が文革を起さなければ中国国民の文化度は恐らく、明朝に敬意をはらった清朝から中華文化をそのまま継承し発展させられたはずだし…
江沢民によって天安門虐殺事件が引き起こされていなければ、今頃中国は民主政治で法治主義の浸透した先進国家で、尚且つ中国共産党も世界から白い目で見られなかっただろう。

越の杭州や呉の蘇州のように春秋時代からの文化醸成地だった所は昔から科挙の合格者を大量に輩出し、文化度の高かった人も多いが…
現代の中国では毛沢東と江沢民の失政のせいで、その絶対数は12億の国民数をもってしても民度の高い人材数は台湾1国に及ばないだろう。ただ、教育に御金を投資できる家庭が増えたので大陸も徐々に民度が上がって来ていて上海市では10年以上前に見た様な大きな交差点で我が物顔で赤信号無視して歩く歩行者も、デパートのトイレの洗面所で孫に糞尿させるクソジジイも見かけなくなった。
新幹線に乗っても昔の中国の鉄道みたいに床に食いカスが散らかっている事も無い。
もっとも大陸の中国の民度はまだまだ台湾には遠く及ばない。中華文化も日本文化も否定しなかった中華民国台湾省人の素養は非常に高く礼儀正しく、自国の文化に表面的な態度や自慢ではなく心から誇りを持ってる人が多いし日本文化に対する理解も有る。

散々に大陸の中国人の民度を批判したが、日本でも中国大陸同様に文化度の低い人間もいる。
多くの財産を得ても自国文化を破壊し、現代では貴重な自然を開発利権で消し去ろうとしたり原初の神道の理念なぞ微塵も心に無い腐った日本人が多く、利己的に産業形態を金の澱みが出来る形状に作り変え日本の産業構造を弱体化させ、日本国民の利益を阻害しても自分だけの集金能力を向上させる事に執着させる鬼畜は多い。

日本の明治時代の大商人は横濱の原三渓や淡路島の高田屋嘉兵衛の様に、災害発生時に自分の私財を投げ打って事業縮小しても民草や公共の為に社会貢献する気概が有ったのに…。
彼等の行動は魏の武官張政や鑑真和尚、明の鄭成功に通じる滅私報恩の心意気が有った。 

だから小生は、まかり間違って自分が財を成す事が有れば先人を見習い曹操の仕事、司馬懿の智謀、明治の日本の豪商原三渓と淡路の豪商高田屋嘉兵衛を模範とし行動したいと決めている。
ま…その前に自分を助けないとね(笑)。
 
さて・・・
実は日華の関係を悪くさせる事で自国に利益誘導を図る奴等がいて、ソイツ等は私的組織や個人では無くて実は某朝鮮半島の国の公的組織だったりする。
・・・そいつ等の名前をVANKと言う。
ここからは小生の拙い普通話(プートンホァ)で失礼する。

出生在大陸中国朋友們!請大家不要相心在日本活動的假装日本右翼的朝鮮族和利用日本国籍的原朝鮮族為了破壊日華的関係煽動的情報。 
請注意韓国VANK和朝鮮為了破壊日華関係活動的内容。
如果真的是日本保守派的人的話他們肯定不会看不起古代中華文化、中華料理和中国古代的歴史。連以前的原来武士的日本帝国軍人也過去跟貴国打仗時也没有看不起中華文化。只是第二次世界大戦当時的日本政府被帝国陸軍一夕会占領政治和軍事的人事大権、他們比明治政府的政治家非常利己的思考、只考慮自己的発展、利用天皇統帥権和日本国家。結果陸軍一夕会干部和理性的海軍干部的関係也変得不好,陸海双方的干部之間常常発生了問題,連天皇面前也有両個陸海双方的干部打架過的。這些事情是在日本特別有名的。
原來扶桑武士学習的文学都是漢学、日本的軍記和文学。
明治時代以前的日本人跟大陸人学過的文化可多。
 
愛国不是只有批評外国,会批評祖国的腐敗分子的人才有愛国心。
第2次世界大戦以后許多日本年軽人放棄了好戦的個性,放棄后已経過了好多年中共還不承認日本人的良心,可是日本年軽人之内会批評腐敗分子的人材増加了。
也可以説是有真正的愛国心的日本年軽人還是比中国多了。
在日本1個人都没有焼掉台湾和中国的国旗的日本年軽人。
在日本1個人也没有破壊台湾和中国的産品的日本年軽人。
在日本1個人也没有拒絶台湾和中国的旅客的日本年軽人。
在日本几呼没有討厭三国志演義等古代中国歴史上的英雄的日本年軽人。
在日本一般人1個人也没有去横浜中華街或者神戸南京町破壊中華料理店的、這種的壊蛋。
我們還保持跟中華文化圏国民的祖先学過的文化、所以不会看不起中国文化和親日派中国人。

請大家自己調査古代日本歴史和神話。日本的神社的❝神様❞之内還有従大陸過来的眷属。要是你們敵視日本文化的話,那些思考也可以説是根本不理解古代中国歴史和你們的祖先和日本人的友好之歴史。

我説、先開始侵略的不是日本人而是古代中国人唐朝時代侵略了古代朝鮮半島日本領的安東都護府(三韓)和日本盟邦百済国。然后元寇的時候也是貴国的元朝跟朝鮮一来襲到日本的了。再説倭寇也不是日本人。倭寇的領頭都是中国人和朝鮮人,所以明国皇帝対日本国室町幕府第三代征夷大将軍足利義満要求統帥日本武士軍団攻打在朝鮮半島南部的倭寇基地的事情。根拠古代日本領土,清朝以前你們中国人所説的倭人除了日本本地人以外還表示住在朝鮮半島南部的人,抗日派中国人怎麼連這様的簡単的古代中国歴史也不知道呢?因為全部都是江沢民開始的抗日教育跟在大陸国内統制情報的結果吧?
所以説抗日派太没有見識,也没有文化。

謝謝台湾人一直以来対我們日本人的熱情!
謝謝西安・洛陽・江南地区本地人的祖先過去給我們祖先的援助。