八幡橋八幡神社(式下社・古代欽明天皇の時代は滝頭の丘上に在った神社)
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  御祭神・御本尊等:大鞆別命(おおともわけのみこと:応神天皇)・大山祇大神(おおやまづみおおかみ)・神素戔嗚尊・奇稲田媛・大己貴命・東照大権現(徳川家康公)・宇迦之御魂神
  御利益:治水・地鎮・縁結び・交通安全(海)・工業発展・戦勝
  関係者:
  開基:伝承では欽明天皇以前、古墳時代の古代人。
  中興:徳川幕府旗本 小浜 志摩守
  旧郡名:久良岐郡
  所在地:横浜市磯子区原町、古代は今の滝頭辺り吉田新田埋立の土採掘で消えた久良岐の丘の上
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
欽明天皇の治世551年以前には存在したと伝承する八幡社だが、恐らく古くは霊場若しくは仏教色のより強い八幡社だった為か延喜式神名帳には記載は無い。周辺も平安時代末期以来の領主平子家が戦国時代に北条家を離れ越後に移住する等した上、神社の元在った丘の開削により現在地に遷宮する等あり詳しい文献は現存しない。
江戸時代、明和三年(1766年)に三島明神と氷川明神が勧進されるが両方とも海上交通に纏わる大山祇神と素戔嗚尊が御祭神の神社で、更に安永五年(1776年)に東照大権現徳川家康公の御神霊が勧進されて軍事的性格も強い八幡宮が更に武門の神社として機能する事と成った。
古代の神社はどこも半島の付根や先端、又は湧水池や滝や奇岩や山の頂上が聖地として造営されているが、この八幡神社は元々は現在の磯子区滝頭辺りつまり久良岐の丘の吉田新田埋立で開削され消えた部分の滝の近くに存在した。そこは江戸時代初期までの湾の入江の頂点部分に当たり、古代朝廷の軍馬生産の牧場が在った本牧半島の付根に当たる軍事的にも重要な場所で有り、かつ水神としての役割でも重要な位置に存在していた事が解かる。御祭神が八幡神なのも蒔田湾や本牧半島沖を行き交う船の海上航行の安全を願って八幡神社が造営されている事が容易に推測出来る。
この本牧半島と蒔田湾は安土桃山時代においても鎌倉公方代理の蒔田吉良家の水運の拠点だった事、古代の縄文人は既に丸木船で伊豆大島へ渡航し交易していた考古学的な事実が有る事からも、この地の鎮守の神様は海を治める八幡神でなければいけなかったのだろう。
近くには三殿台遺跡や根岸の丘からも多数の縄文時代〜弥生時代の遺跡も出土しており、本牧妙香寺も弘法大師空海和尚が前身寺院を開基した事実が有る事、本牧半島が古代大和朝廷の軍馬生産拠点だった歴史事実を踏まえると、古代の久良岐郡において、この式外社の八幡橋八幡神社は平塚八幡宮の様に重要な機能を有していた事が解かる。
平安時代末期~戦国時代初期には直ぐ近所に磯子城が存在し源頼朝公の随兵も務めた猛将の平子有長公が居城したので、神社の移転等で文献は現存しないが平子家も必ず支援していた事が推測出来る。
尚、この本牧半島の湧水は長期間放置しても腐らない為に幕末~大正時代に遠洋航海する船舶に飲料水として補給された。現在もワシン坂の霊水、打越の霊水等は一般に汲み取り出来る。
周辺は現代も貨物船の拠点、石油プラント、米軍の軍事拠点が有り、古代~現代に至るまで海上交通の要所、物流拠点、軍事拠点としての機能を有し発展して来た土地で、その繁栄を鎮護して来た八幡橋八幡神社の御神威はとても強い。