大庭神社(延喜式内社・大庭神社の今宮)
稲荷山 成就院(足利家親族の山名時氏公が開いた大庭神社別当寺) 
日枝社(戦時中の軍飛行場建設で遷宮された神社)
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御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・天満大自在天神(菅原道真公)・大庭景親公・山王権現・愛染明王
  ※熊野社が旧蹟で、今宮の大庭神社には比較的新しい時代の御祭神と神皇産靈神
  ※状況から大庭神社の本来の御祭神は熊野権現と推測出来るが戦乱で仔細不明  
  御利益:武芸(スポーツ)上達・地鎮・雨乞い・治水・学問上達・子孫繁栄
  関係者:
  開基:※不明
旧蹟の伝承通り熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族と推測出来る。
  中興:鎌倉御家人 大庭 景義 公?
           大庭 景親 公?
     左京大夫  山名 時氏 公
     (足利尊氏公の母の従兄弟)
    関東管領家  上杉 氏定 公(扇谷上杉家) ?
    神祇伯    白川 資顕 王
    郷士     諏訪部定太郎公
    郷士     山崎 包高 公
  旧郡名:大庭御厨の内の高座郡域
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
【歴史概要】
大庭神社については延喜式神名帳に記載が有るものの、同地は度々戦乱に捲き込まれ近世以前の詳細な記録が残っていない。
旧蹟側の熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族が土地開拓し祀り始めたと推測される。旧蹟側周辺からは縄文~弥生~古墳~奈良時代の遺跡が発掘されており、この一帯が古墳時代には集落を形成していた状況と古墳時代の穂積忍山宿禰が相模国造である状況が古代から熊野信仰が存在した状況と整合性が有る。直ぐ近くには鎌倉景正公の御子孫、大庭家の居城だった大庭城が在る事から大庭景義公や大庭景親公が崇敬していた事は間違いない。又、戦国時代初期には扇谷上杉氏定公や、子孫の扇谷上杉定正公も大庭城に居住したと伝わる。この大庭神社舊跡(元宮)付近一帯は古来自然湧水地であり堤防を作って湧水を貯めて大庭城の外堀とした記録が有る。その沼掘りの伝承地が“船地蔵”と呼ばれた地域だった。又、湧水地だった事からか江戸時代には大庭神社舊跡(元宮)は水源の神様らしく熊野社であり、古代人の生活に必要な飲用水を確保する水源だった事も判る。直ぐ近くには臺谷戸稲荷神社も在るが古来、稲荷社も湧水地と関係の深い神様で、大庭神社舊跡や臺谷戸稲荷神社や大庭城址の在る大庭地区からは縄文時代~弥生時代の遺跡が出土している事から他の延喜式内社同様に古代人の集落が神社化した事が解かる。
現在の藤沢市善行側の大庭神社一帯が鎌倉景正公によって開拓され伊勢神宮の荘園と成って以降、今宮である現在の大庭神社は旧蹟側と引地川を挟んで対岸に在るが、最初に古代人による開拓が進んだのは大庭神社旧蹟側で有る事が周辺で遺跡発掘されている事で立証されているので、文献考古学から辿れない御祭神も伝承通り江戸時代に熊野社と記録されている大庭神社旧蹟が熊野権現を祀る延喜式内社として創始されたであろう事が推測出来る。
文献が一切残らないのは鎌倉景正公によって開拓された後に御子孫の大庭家は伊勢神宮の荘園として開発を進めるが、河内源氏の頭領の源義朝公に服属しなかった為に源義朝公や同族の三浦義明公等の乱入を招き大庭庄は戦火に捲き込まれ、更には鎌倉時代直前に足利尊氏公の母の従兄に当たる山名時氏公が藤沢市稲荷側の台地を領有した際に稲荷山成就院を開基し大庭神社も現在地に移転された様で、それ以前の記録が正しく伝わらなかった事も推測出来る。その直後の新田義貞の鎌倉乱入では高座渋谷方面から進軍した新田軍の通過点と成ったが、新田義貞はあらゆる神社仏閣で放火略奪を繰り返しているので大庭神社も略奪の対象に成り灰燼に帰したのだろう。
後に神仏の罰を受け滅亡している。南北朝の動乱期に鎌倉一帯を足利尊氏公が制圧する前後に足利尊氏公の母方従弟に当たる山名時氏公が別当寺の稲荷山成就院を再興している事から山名家による支援を大庭神社が受けている事が解る。その時に旧蹟の場所から現在地に社殿を移転したのだろう事も推測出来る。その後の室町時代末期にも戦国時代幕開けの原因と成った永享の乱が起きて、最後の鎌倉公方の足利持氏公に忠義を尽くした当時の大庭城主の扇谷上杉氏定公が犬懸上杉氏憲入道禅秀公に攻められ藤沢の時宗総本山の遊行寺にまで撤退しながら一帯で激戦を繰り広げ負傷、自決している。上杉禅秀公は暫く後に鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義持公の軍代今川範政公率いる幕府連合軍の大軍勢に報復され滅亡している。
善行側、現在の稲荷山成就院の丘上に現在は荏原冷却システム株式会社の広大な削平地が広がっているが、実はここ第二次世界大戦中の海軍飛行場だった。この飛行場の建設で当地に在った日枝神社も現在地に遷宮された。第二次世界大戦に日本が敗戦すると神社は国からの支援が無くなり何処も大規模な境内地を接収されてしまい氏子の寄付金に因る収入源だけが頼りに成るが、戦時中の空港建設で集落が移転してしまい過疎化した事で由緒ある延喜式内社の大庭神社は神主不在の惨状と成り、近年、神楽殿も解体され境内の石鳥居も崩壊したままに成っている。しかしながら、この神社の御利益は歴史が証明している。
初詣も兼ねて、これら一連の神社仏閣城址史跡を散歩すると悠久の歴史を感じられて良い休日に成るだろう。