お盆休み、まだ尊敬する北条綱成公の御墓参りを済ませていなかったので、菩提寺の龍寳寺に御佛前に供えて頂く御菓子を購入して伺った。
山門横を車で通り過ぎ、庫裏(くり)=現在の僧侶の居住区兼事務所前の駐車場に車を停めて、御本堂の御釈迦様に御参りしてから数年前に御本堂の横に移設された歴代玉縄北条家の御廟を御参りし綱成公達に御盆の御挨拶と近況報告を済ませた。
城跡だから寺の在る谷の山裾は全て裾切りされた城壁石垣より強力な防御壁となる断崖絶壁の切岸に囲まれている。
元々は山上の栄光学園一帯が旧境内地だったのだが、儒学者で徳川家六代将軍の側用人だった新井白石が玉縄領主に成った際に龍寳寺を現在の谷間に移して今に至る。つまり昔は龍寳寺は山頂にあり非常時には砦の詰所の役割も担っていた訳だ。
山門横を車で通り過ぎ、庫裏(くり)=現在の僧侶の居住区兼事務所前の駐車場に車を停めて、御本堂の御釈迦様に御参りしてから数年前に御本堂の横に移設された歴代玉縄北条家の御廟を御参りし綱成公達に御盆の御挨拶と近況報告を済ませた。
駐車場前の花園の黄花秋桜(キハナコスモス)がとっても美しかった。
大将の北条綱成公と副将の間宮康俊公が統率した“玉縄衆”は、軍団の前身が“北条五色備え”の内の“黄備え隊”で、統一された隊旗が朽葉色=黄色地に“八幡大菩薩”の御神名を染め抜いた馬印(うまじるし=部隊識別シンボル)だった。
正にキハナコスモスの色がそれだな。
丸で綱成公や康成公を御盆休みに御迎え見送るのに合わせて咲いている様に感じた。
庫裏に御住職を訪ね御盆の御挨拶をし、御佛前に供えて頂く“葡萄餅”を御預けし少し雑談をしてから車に戻った。
柏尾川沿いの道を栄区方面と反対の江ノ島に向かい下って行った。
実は今週半ばから酷いギックリ腰で昨日まで立ち上がるのも辛かったのだが、少しだけ足を引き摺(ず)り歩ける位に回復したのと気分が暗かったのも有り、殿様に近況報告してから海にリハビリを兼ねて散歩に行くつもりだった。午前中は背を伸ばして立つ事も困難だったので、まだ整骨院にも行ってない。
午後に調子が良くなり、龍寳寺参り&七里ヶ浜散歩を決めた次第だ。
夏なので鎌倉の海岸沿いは渋滞激しく流れない。
スラムダンクの踏み切りは今日も観光客でいっぱい。
台風で砂浜が又、流出したと聞いて確認を兼ねて気分転換の散歩に来た。
このレストランの横に公共駐車場があり、今日もそこに車を入れた。
関係ないけど、渋滞に巻き込まれ運転時間長引いてる間にギックリ腰が又悪化して、この写真撮影してる頃は既に痛くてマトモに歩けていない(笑)
思ってたより“砂浜の後退”が激しかった。台風で砂浜が流出し遊歩道の橋脚が露出する事態が発生中。渡れない。
でも、これで小生は文字通り“自然だな”と感じた。
実は1990年代には砂浜は幅はもっともっと有り海水浴場も有ったぐらい。しかし2004年に海水浴場は閉鎖し更に昨日は御覧の通りだ・・・
小生は“これが自然”だと思う。
稲村ヶ崎は新田義貞が鎌倉幕府攻撃の際に奇襲をしかける突破口に選んだ場所として歴史の授業でも習う。
超有名な観光地。
超有名な観光地。
そこの砂浜が反日バンドと化したサザンオールスターズの“稲村ジェーン”の舞台にも成っていた。
水は海水も地下水も川の流路も、いくら人間が“盛土”したり“掘削”した人工的に改変した地形をコンクリートで固定しようとしても、容赦なく周りの砂や土から抉(えぐ)り取り元に戻ろうとする力を発揮する。
右手鎌倉市側の稲村ヶ崎と、左手江ノ島側の小動(こゆるぎ)の砂の流出が特に顕著だ。
これ比較すると小動側の防波堤の形状も工事で変化が在ったみたいだから、波の影響で破損が酷かったのだろうか?
これ比較すると小動側の防波堤の形状も工事で変化が在ったみたいだから、波の影響で破損が酷かったのだろうか?
繰り返すが小生に言わせりゃ・・・
「これで普通」
・・・なんだな。
気象予報士のお姉ちゃんが知ってる自然なんて考古学から見たら短い観測期間しかない。
今の温暖化は普通に元に戻りつつあるだけでしょ?
今の温暖化は普通に元に戻りつつあるだけでしょ?
余り知られてないが室町時代は小氷河期。実は最近まで“地球が冷えてる時期”だったて事だね。
だから農作物も凶作ばかりなので、食料の乏しい冬に成ると上杉謙信や武田信玄は地元の農兵を引き連れて、神奈川県や東京に来ては略奪や婦女子を拉致し奴隷として地元や地方で販売したり鬼畜な事をして越冬していた歴史が有る。
まぁ、生き残るのに人の物を奪いとらなきゃいけない地方が有ったんだ。今の日本は恵まれているね、まだ良くならなきゃいけないけど。
地球が縄文時代の気候に戻ろうと“二酸化炭素の影響ではなくて”温暖化して行く“自然の力”は凄いね。
もう、こんなに砂浜が減った。考古学的な話をすると、だいたい日本神話の時代と比較して現在の平らな地域の海岸線は少なくとも12km位は後退してるから逆に過去の地震による隆起を考慮してもかなり内陸まで海に戻ってもおかしくないのかな?
由比ヶ浜なんかは15年で50m砂浜が無くなってるから、対応しなければ今後10年で33m海岸線が陸を侵食する。
1000年後は少なくとも3.3km。
それがどれくらいかと言うと・・・
・・・江ノ島からだと藤沢駅の手前の石上・本鵠沼・柳小路辺りまで海没する計算に成る。無論、微高地は残るだろうね。
小生が思うに七里ヶ浜の砂浜の減少は河川の護岸工事で砂の体積が阻害されてる影響も大きいのだと思う。江ノ島の境川とか、七里ヶ浜の極楽寺川とか音無川とかの上流が住宅街にされてしまい、風化した鎌倉石の地盤から砂が運ばれなく成ってしまったんだろう。
鎌倉も材木座~大町辺りは平安初期にはまだ入江だった。
つまり15年で50m侵食は比較的早い。人工的な河川工事は海岸部の地形に影響を与えやすいって事かな。
いつまでも自然の摂理で風化した砂が体積するのを阻害する河川の土木工事のままでは内陸まで“元通りの海”に戻るスピードを早くするって事。
1000年後には茅ヶ崎市平塚市は大部分が海の底に戻ってんじゃない?
帰り、元来た道を村岡方面~大船に抜け円海山の麓(ふもと)の自宅に戻ろうかと思いながら駐車場に戻る途中目にしたこの光景。
鎌倉市街地を抜けて帰る上りルートに変更。
帰路、無性に京都拉麺のチェーン店の魁力屋の“唐揚げ”が食べたくなり、朝比奈方面の上郷側にある魁力屋に遠回りして夕飯を食べた。
ふむ、身体はまだまだ、気持ちも暗かったが、少し殿様と海と夕陽の御影で癒され楽に成った。
ちなみに、この時点で無理して歩いたので、もう腰が痛く高齢のお爺ちゃんみたいにビッコ引いて歩いてる状態(笑)。夕陽さん、海さん(笑)、御釈迦様、江ノ島の弁天様、綱成公と玉縄北条家御一族の皆様に感謝を感じた午後だったかな?
では、今日の休日雑記はここまで~♪
コメント
コメント一覧 (10)
まさにそれ!
これに関しては土建屋は歴史知識も無く文化財なんて解らない“自然音痴”ばっかだから理解しろと言っても“固める”“削る”しか思い浮かばないでしょーね。
歴史教養欠けた暴走の結界の災害だから人災なのかな~。
たぶん地形をちゃんと読んで、水の流れも分析すれば良いと思うんですよ、工事箇所だけでなく周囲数㎞単位で。
今は手抜き過ぎと言うか稚拙な力業みたいな状態なのかなとか。
画期的な治水・土木技術があればいいのですが、自然のパワーには敵わないという事がしれません・・・
あ~やっぱり。
なんか新しい治水の土木技術考えて貰わないと却って海波による侵食助長させてしまいますね。
多摩川も羽村市で国交省が堤作ったら、対岸が毎年削られて復旧工事してます。アホくさ。
お久しぶり!
義貞公が奇跡を顕現させた景勝が残るかどうかは、江ノ島と小動とを護岸工事して作った船溜まりを無くせるかどうかだと思うんです。
特に海流の流れや、岸壁の崩落による砂の生成が阻害されてる原因ですから。
平安時代と今という自然界としては短い時間でも海岸線が違うとは驚きました!私が老人になる頃には義貞公の稲村ケ崎は渡れなさそうです。