前回の磯子の夜景の記事でベイサイドマリーナで撮影した2020年08月04日の満月の写真を載せた時に少し指摘した事なんだけれど・・・
陰暦の睦月の起点を太陽暦の1月に当てはめると漢字の意味が整合性が無くなり大混乱します。
和暦は旧正月を起点にし陰暦で用いないと意味が無いんです。
前回コンナ⤵事書いてました。
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お月様メチャ奇麗ね~!
イケメン!
「何でイケメン?」と思った人は欧米の文化を基準に生活してらっしゃる方かセーラームーン見て育った世代の女性でしょうか?
ギリシャ神話では月の神セレーネとアルテミスは女神様ですが、日本神話では御月様は太陽神の天照大神の弟神の月読神とされています。
月読は読んで字の如(ごと)く、日本は米国に開国させられる迄の暦(こよみ)はアジア諸国と同じ陰暦だったので昔は月を基準に生活していたんですね。
欧米諸国は太陽暦で、現在の日本は明治時代以降に太陽暦を導入し、中国の春節と同じ春の節分を行う春分が本来の“迎春”だった訳ですね~。
コレ⤴だけだと・・・
「ちょっと言いっ放なしで不親切だ」
・・・と思ったので
何が問題なのか解説を追記したいと思います。

歴史と長文嫌いな人は、ここで読むのを辞めて逃げて下さい(笑)。

今の日本は太陽を基準にしてカレンダーの日付を作ります。
しかし本来の日本はアジア諸国と同じで陰暦で1年の行事を行っていましたが現代では意味の有る旧暦は廃(すた)れてしまい、例えば睦月=太陽歴の1月と誤解している人もいます。
本来の和暦を陰暦で見れば漢字の意味で何で年始が睦月で何で年末が“しわす”と言うのかスッキリ解ります。
因みに師走の通説は間違いでしょう。
日本人は暦(カレンダー)の決め方すら長い歴史の中で数回変更している事を古代史で解説したいと思います。

まず睦月は和暦1月と言う表現で本を書いている人がいるから誤解を産む。
睦月は1月でなく睦月は睦月です。
陰暦の睦月でしかありません。 
閏月があるので太陽暦の12分割には当てはまらないんです。
陰暦と太陽暦は、そもそも元日の始まる時間軸から全く異なる別物です。

そして中国由来の陰暦導入以前の古代日本では1年を6ヶ月で区切っていたんですね。だから昔の事を現代の標準で話すのは根本的に無理な訳です。

先ずは写真を見て下さい。
冬に海ほたるPAの朝陽
満月の相模国一之宮寒川大社。
海ほたるの日の出と寒川大社のスーパームーン 久良岐のよし
当たり前ですが、太陽は昼に、月は夜に昇り二つは全く別物!
月と太陽をそれぞれ観測し暦を作り比較すると時間軸にズレが生まれ違う結果に成ります。
それが現在の元日と旧正月の差です。

イスラム圏ではキャラバン(商隊)が交易で長い長い距離、砂漠を旅する際に月と星の位置から現在地を割り出して次の目的地まで通う道標(みちしるべ)としました。
だから今もイスラム圏は月と星を重視していて国旗の意匠(いしょう:デザイン)に取り入れてる国が凄く多いですよね。
トルコ共和国トルコ
シンガポールマレーシア
パキスタンパキスタン
トルコの様な日本の無二の親友国も、マレーシアの様に成長目覚ましい国も、日本とは微妙な関係のパキスタンも、色んな国がイスラム教の考えを重視して国旗に取り入れてます。
極東アジアではイスラム教とは関係なく、月を観測して暦を区切っていました。

中国や台湾では陰暦の事を“農歴”と言い、作物の栽培の為に天体観測をして季節を定めていたので根本的に陰暦は季節感と切っても切り離せません。しかし農歴=陰暦には欠点もあり太陽暦よりも時間の誤差が生じるので、昔は閏葉月、つまり現代の感覚だと7月の延長期間が設けられたりしていました。
なのに1年間を12分割し今の1月1日が起点の太陽暦で決めた西洋由来の暦の月の区切りに対して、陰暦の睦月の名称を当て嵌めるのは根本的に成立しない訳です。
ついでに言えば中国文化が導入されるより更に古い時代の日本ではどうも12ヶ月で1年ではなく6ヶ月で1年としていた事が考古学的に解かって来ています。
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ですから今も日本の神社では夏越大祓と冬越大祓、2回に分けて行います。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が伝えて下さった祝詞(のりと)を唱えながら悪い物を切り裂く茅の葉で作った茅の輪を3回くぐる事で、半年間の自身の業(ごう:カルマ)により溜(た)まった心身の穢(けが)れを素戔嗚尊の御神威で払い清め、長寿健康と心の洗濯を行う季節行事として半年1年区分の古い時代の名残に現代人も触れる事が出来ます。

本当にそうなの?と思いますよね?
小生も思った事が有ります。

日本の歴史を見るには歴代天皇の寿命を見ると古代の時間軸が良く解ります。

   伝承没年齢 → 1歳=12ヶ月変換
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳

この寿命の比較は後で解説しますが、差異を再計算すると面白い事に神話と考古学に整合性も出て、伝承を現実的に再解釈すると、途端に物凄くリアルな歴史の話に変わって来たりします。
中国文化を導入したと伝わる応神天皇と、中国の学問を学んだと伝わる仁徳天皇と菟道稚郎子御兄弟の次世代、履中天皇の世代から古代日本の6ヵ月=1年の暦が破棄され年齢の加算が12ヶ月=1年に成っている事が一目瞭然ですね。

日本の天皇家は公称でスタートしてから西暦2020年時点で
2680年継続しているとされています。
“天皇”の尊称を用いるのは天智天皇からです。白村江の戦で唐帝国と国交断絶して以後に成立した尊称です。
それ以前の時代の歴代天皇の尊称は大王(おおきみ)でした。
つまり、天智天皇以前の天皇の称号は、飛鳥時代以後に後から追贈された天皇号です。
例えば応神天皇の本来の和名は大鞆和気命や誉田別尊と言われ複数名前を変えていた様です。
応神天皇は古墳時代の天皇です。
弥生時代~古墳時代は日本では卑弥呼が活躍した時代です。
中国では漫画“キングダム”の秦の始皇帝や“赤龍王”の項羽と劉邦、横山光輝が漫画化した吉川英治の小説“三国志”の曹操・劉備・孫権の生きた漢帝国や晋帝国の時代に相当します。
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横山光輝三国志は平成一桁の生まれの人はギリ“三国志大戦”で知ってる人もいるかな(笑)?
日本の旧暦は中国から古代に導入された文明の一端ですが、漢の時代と日本の古墳時代の武装を比較すると日本は中国の影響を受けているのが一目瞭然です。
前漢時代の鎧
画像掲載元⤵
https://vitomag.com/military/gayow.html
これは中山靖王劉勝、つまり三国志の主人公に成る劉備玄徳の御先祖様で紀元前100年頃、正に日本の神話の時代に相当する人物の古墳から出土した甲冑の復原品です。小札(こざね)を皮鎧に赤糸で威(おどし)し編み付けた精巧な鎧ですね。中国が漢朝の時代、我々日本人の御先祖様は金属器は未だ少なく、一部の北九州や出雲地方で青銅器が使われていましたが、弥生時代の兵器は石斧や石鏃つまり石で作った刃物しか汎用されていませんでした。
下は古墳時代の日本の豪族の鎧で挂甲(けいこう)と言いますが、前漢の時代の鎧と構造が酷似していますね。
挂甲
画像掲載元⤵
https://costume.iz2.or.jp/costume/559.html
古墳時代に成っても金属鎧は豪族の王の古墳などから出土する程度でとっても高級品でしたが、西暦300年~500年頃の古墳時代の鎧に成って漸(ようや)く紀元前110年の漢帝の皇族である劉勝サンの鎧とデザインやクオリティが似てきます。
古墳時代の埴輪は甲冑を来ていますが、中国の甲冑を導入して改良を加えている事が判ります。
恐らく女王卑弥呼サンと臺与サンの時代に三国時代の魏の皇帝曹叡と
丞相司馬懿に邪馬台国の使者が曹叡の亡くなる1年前に謁見している事が三角縁神獣鏡に彫られている景初三年の元号から判(わか)りますが、魏の同盟国に成った際に様々な金属加工技術を技術供与され、そのまま魏の挂甲の軍装の設計が古墳時代の人に少しだけ改変されて形をほぼ変えずに使い続けられたんでしょう。この挂甲は上下にも伸縮するので騎乗した武者が着用するのに適した構造に成っており、恐らく弥生時代の終わり頃には九州や中国地方に馬も輸入されて軍馬の生産が開始されていた事が判ります。
下は昨年、上野の国立博物館で開かれた三国志展で展示されていた中国三国時代の古墳の副葬品です。
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三国時代の中国の古墳から発掘された工芸品の精巧さ、金属加工技術や宝石も当時の日本とはとてつもない技術力の差を感じざるを得ません。
更に驚愕するのは当時の中国の家屋を模した土器の建物は瓦葺屋根で2階建てや3階建ての御屋敷で、現代の京都の祇園とかに有ってもおかしくない外観。しかも今の神社建築が中国文化の影響をふんだんに受けている事が判る極彩色で、なんと残飯や人間の出す屎尿を利用して庭で養豚してる様子まで土器に作られていました。
そんな三国時代の魏から技術供与を受けた邪馬台国が今度は卑弥呼の没後に内紛が再発してしまい、女王の再登板が必要な事態が起きて臺与(とよ)ちゃんが出て来る訳ですが、その卑弥呼サンよりもチョビっとだけ早く中国との交流が始まっていた事が福岡で出土した金印の存在から判ります。

漢委奴国王印(
福岡市博物館所蔵 )
画像掲載元URL⤵
http://museum.city.fukuoka.jp/gold/
漢委奴国王印
この金印の“
漢委奴国王”を学者サン達はアレコレ深読みして邪馬台国近畿説と北九州説の論争の具にしていますが、小生は普通に“漢(皇帝)が奴婢の国の王に委(ゆだ)ねる”としか読みようが無いんですよね。
当時の日本は先程の武装の製造技術でも分かる通り未開の地でしたから、当然中国から見れば奴婢=野卑な蛮族の土地にしか見えなかったでしょう。
この金印は建武中元二年(西暦57年)に有名な中国の光武帝劉秀から贈られた物です。
ここで遅くともこの時代に中国文化の影響が日本に入り始めた事が判(わか)ります。

実は日本神話と中国の史書にかかれた古代日本の記述に、太陽暦だけでなく古代日本の暦の概念を当てはめると、面白い様に神話と中国古代史に登場する日本の歴史が符号したりします。

神奈川県~千葉県には倭建(ヤマトタケル)が東征に来ていた事が古事記や各神社仏閣の伝承に残ります。
三浦半島の走水に滞在した伝承が今でも有り太陽暦で逆算すると西暦2世紀の1月に当たると伝わります
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つまり関東地方に大和朝廷の国としての統治機構を設置しにいらっしゃった訳です。
卑弥呼達よりちょびっと早い時代の話に成りますが、しかし小生は神奈川に来た倭建は卑弥呼の時代の人だと考えています。

それは天皇家の寿命の解釈が間違って伝わってると思っているからです。
そこで、夏越大祓/冬越大祓の所で話題にした“昔は1年が半年だった”と言う事が関係して来る訳です。

では先ずは倭建と卑弥呼が何故同時代の人と思うのか、ちょっと当時の状況を整理してみましょう。

【卑弥呼】
倭姫=倭建の叔母で伊勢神宮の斎王
当時の伊勢神宮は今の三重県の伊勢神宮ではなく、まだ旧丹波国の元伊勢神宮だったかも知れない。
※斎王の原型が一代限りの女王職で神職の女性長官でしょう。
※斎王と同じく当時の女王は未婚の皇族から選ばれる、女性上位だが世襲ではなくローマ法王の様に大凡(おおよそ)の意思決定だけする神職に徹した歪(いびつ)な女王統治の社会と推測出来る。
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写真は伊勢神宮と同じく平安時代初期以来~室町時代迄の期間、皇女の斎王が祭祀を司る斎宮が置かれていた京都市の下鴨神社。
室町時代の足利家は宮中儀礼を軽視する政権だったのは有名で、斎宮は消滅したまま放置されました。
室町時代以前には下賀茂神社~伊勢神宮を斎王が季節ごとに往来したのが現在の京都の葵祭の原型に成っていて、下鴨神社の斎王は戦後に祭りの中で代理の女性が選出される形で名前だけ復興されました。
現在は三重県の五十鈴川沿いが伊勢神宮と呼ばれていますが、元々は丹波国の元伊勢神宮が置かれていました。
今の京都府に組み込まれている地域が宗教的にも当時の重要な地域だった時代が有った様です。
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※百度より画像転載
三国時代の魏皇帝が曹叡だった景初二年(238年)に遼東半島で公孫淵が魏朝に反逆し公孫淵に呼応した朝鮮半島の部族集団も加わり大規模な反乱に発展しました。魏の丞相司馬懿は兵を率いて北伐して公孫淵を討伐すると、公孫氏に横領されていた元々漢帝国の領土である楽浪郡~帯方郡を取り返し漢朝から政権を禅譲され引き継いだ魏朝の直轄地と成りました。
当時は古代中国人の歴史認識で倭国の一部だった朝鮮半島南部を経由して~帯方郡~楽浪郡~魏の首都洛陽に卑弥呼が朝貢(従属同盟)の使者を送っています。
“韓国北朝鮮の独自歴史解釈”を除いて東洋史の常識として楽浪郡帯方郡を含めた朝鮮半島には当時は朝鮮の統一王朝どころか朝鮮族もまだまだ存在しておらず、部族の首長が割拠していた状態で、そこを“漢帝国が帯方郡・楽浪郡を朝鮮半島に置き支配”していました。
なのでソウルは数年前に首尓と無理矢理漢字表記を変える以前には“漢城”と書いていましたし、今でも中国・台湾・香港は一般的にソウルを漢城と書きます。
又、中国の歴史書を見ても当時の“朝鮮半島南部は倭人(日本)の土地”と認識されており史書にも記録されています。
漢の時代から朝鮮半島では地元の部族が度々太守を殺害し反逆する等、魏にとっても害悪な地域だったので、卑弥呼が魏に冊封を求めて来た朝貢は軍事同盟としても朝鮮半島の土着豪族を背後から牽制するのに心強いWin-Winの同盟関係だった事が理解できます。
実際に司馬懿が卑弥呼との同盟の事を大変に喜んでいた記載も残ります。

【卑弥呼に唯一会える男性】
景行天皇=倭姫の兄弟で倭建の実父。倭姫が卑弥呼なら実質的に政務と軍事を司った“首相”の役割を果たしていた事に成る。
この頃の卑弥呼が当時の標準寿命の60年前後生きたとしても景初二年(238年)に魏に使者を送った当時には成人して国家元首に成っていたはずなので、少なくとも年齢は昔の成人年齢15歳以上で卑弥呼は290年頃には亡くなってるのでしょう。
247年の3月と9月に日蝕が発生しているので、天照大神の化身として権威を持っていたであろう卑弥呼(ヒミコ=日巫女)は少なくとも25歳以上に成っていましたが、大陽の化身を祀る存在だったので宗教的な求心力を失ったかもしれませんね。
卑弥呼以死大作家径百餘歩殉葬者奴婢百餘人
卑弥呼サンが亡くなって大墳墓が造営される様子が記録されていますが、死亡時期の記載は無くヒントも有りません。彼女が倭姫と同一人物だとすれば倭建の東征に力を貸す役割が残っているので、政治的な権力は失っても斎王として権威は持ち続けもう少し先まで生きたのかも知れません。
いずれにせよ卑弥呼さんは247年の日蝕で死んでいなくても、同一人物と思われる倭姫は太陽信仰の天照大神を祀る斎王だったと記録が有るで、日蝕により信頼を失い女王としての役割に抑えられ、中国風に男系男子が皇帝として国を取り仕切る制度に移行し卑弥呼さんの役割は宗教だけの斎王に抑えられたのかも知れませんね。
天照大神の神話に天照大神の憑代(よりしろ)である卑弥呼の話自体が習合されて伝わっている可能性が有るので、天岩戸神話は当時の日蝕と天照大神の失脚もしくは蟄居を比喩した伝承と考えると神話に現実味が吹き込まれて政争の話に変わりますね。
実務を執り仕切っていた景行天皇の権限が強くなり卑弥呼から宗教よりも強い決定権を禅譲されたかも知れない。もしかしたら、宗教的な求心力を失った卑弥呼は責任を感じて自害したかも知れない。
臺与まで景行天皇~成務天皇~仲哀天皇と三代は、魏志倭人伝の“男王の時代に再び倭国大乱と成った”記載とも合致してきます。
魏の滅亡は265年その政権を重臣司馬懿の一族に奪われ晋が建国されます。
晋朝は家祖の司馬懿が邪馬台国支持者だった上に朝鮮半島の諸部族に対する牽制に邪馬台国は必須です。
晋からすれば卑弥呼だろうが実弟の景行天皇だろうが晋にとっては邪馬台国が纏(まと)まる事の方が状況的には重要で、晋から見れば女王でも男王でも実力が有れば良く、司馬氏一族にとっては倭国が纏まらず朝鮮半島を挟撃出来る状況が整(ととの)わない事の方が問題だった訳です。
なので倭国の動向をずっと注視していた事が判る一文が魏志倭人伝に記載が有りますね?
この文章の情報は魏の倭国の支援を担当した帯方郡勤務の軍人である張政サンの報告だと思います。
卑弥呼以死大作家径百餘歩殉葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千余人復立卑弥呼宗女臺與年十三為王國中遂定政等以檄告喩臺與
この文章を解り易く砕けた武州弁に翻訳してみます♪
いやぁ~卑弥呼サン死んじゃってさ~!デッカイ家(古墳)作ってさあ~、直径100歩位の!
殉死者は奴隷(恐らく宮廷の女官か巫女)100人位だってョ!
更に後釜に男王に成ったんだけどさ、これが国全体に不人気で支持されなくてよぉ~。
(就任)当時に千人位(の豪族)で御互いの主張で殺し合いに成っちまってよ~。
しゃぁ~ねぇ~から又さ卑弥呼の親戚の女の子連れて来てヨ、十三歳なんだけど女王に就任してもらってよ!
そしたら、やっとこさ国中の混乱落ち着いてよ!
ウチから出張してる塞曹掾史の張政達が臺与チャンに演説で励ましてやったんだけどな。
つまり卑弥呼が倭姫だとすると卑弥呼が亡くなってから景行天皇が王に就任したけれど男王じゃ全く纏まらず、恐らく倭建と政務天皇の後継者争いの問題だと思いますが、その時に其々(それぞれ)を支持する派閥の豪族が1000人も暗殺や粛清し合って、卑弥呼サンの存在で纏まってた邪馬台国=大和朝廷が又荒れちゃったみたいですね。
本当に男ってバカ。
更に張政サンは帯方郡から出張して来てた魏の塞曹掾史と言う役職の軍人で、どうやら見るに見かねて卑弥呼サンの一族で才能有りそうな人材の臺与ちゃんを発掘してきて説得して女王に成って貰ったみたいな展開だった様ですね。
304年頃から劉淵の一族が晋国内で反乱を起こしまくって混乱を起こしているので、本来なら邪馬台国に朝鮮半島から北上して、帯方郡と楽浪郡を経由して今の北京辺りまで援軍を寄こして欲しかったのが晋朝の意図する所だったの思うのに、何だか知らないけど卑弥呼サン亡くなった後で景行天皇が継いだら成務天皇と倭建を支持する派閥に豪族が割れちゃって、全然ダメダメになっちゃったみたいですね。
そんで・・・
「男駄目なら元の女王に戻しちゃえよ!」
・・・って張政サン達が怒って、卑弥呼(倭姫)の跡継の臺与(神功皇后)を発掘して来た様です。
下は当時の天皇の寿命で、後で他の天皇と合わせて比較しますが、年齢左側が1年を6ヵ月換算で記録されていたであろう没年齢の記載、右がそれを1年を12ヶ月で再計算した没年齢です。
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
これを見ると当時の混乱の様子がうかがえます。
実績を上げた兄の倭建ではなく、何にもしてない弟の成務天皇が後継者に成り、更に成務天皇が倭建の遺児の仲哀天皇を後継者にせざるを得ない状況が発生し、その跡を継いだ仲哀天皇が不審な短命で亡くなっている一連の不可解な権力移譲の様子を忖度無しに簡潔に書いているのが張政さんの報告なんでしょう。
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千余人
この一文ですね。
どうやら三国志の著者の陳寿さんが存命中に発生した事件の当事者の様な報告内容なので、魏に仕えていた張政さんも陳寿さん同様に晋にそのまま仕えたみたいですね。
しかし景行天皇の時代の歴代天皇の寿命を“1歳=6ヶ月”の換算で数えでは、遅くとも三浦半島走水神社の倭建命来訪の伝承が西暦109年に成るのと比較して、史実の卑弥呼の時代とは誤差150年前後が発生する事に成ります。
これが先程、景行天皇達中国の暦導入以前の寿命を昔のまま6ヵ月計算した誤差だとすると、中国文化制度を本格的に導入した伝承の有る応神天皇―仁徳天皇以前の天皇の寿命を古代の1年=6ヵ月→12ヶ月に変換するとピッタリ景行天皇=卑弥呼の時代と整合します。

【再び倭国大乱に陥った原因の男王】
成務天皇=倭建の異母弟。
成務天皇は立太子され大王に成りましたが先代の景行天皇には他にも倭建等の子息がいた上、彼等は異母兄弟であり更に双方の母はそれぞれが異なる豪族の姫でした。
普通に功績を上げたのは倭建の方なので景行天皇の跡継ぎに関して望むと望まざると後継者争いが勃発するでしょう、それが魏志倭人伝に有る、卑弥呼の後に男王が就任したが再び世が乱れたの記載だと推測出来ます。
卑弥呼(倭姫)の跡を継いだ景行天皇が就任した時は混乱なく天寿を全うしている様ですね。
恐らく卑弥呼(倭姫)の跡を景行天皇が継いだ時はずっと補佐をしていた実力も有って纏まったみたいです。しかし子供の代で後継者争いが発生してしまった様です。
東征を無事に終えた倭建は恐らく戦争らしい戦争にすら成らず武威と統治能力で地方の郡衙(ぐんが:市役所みたいなの)と兵站(へいたん:補給網)となる駅=店屋(てんや:駐屯地)の設営に成功して凄まじい武勲を立てた後で暫く後の四道将軍や鎌倉公坊に似た役割で東日本に駐留していたんでしょうね。
父大王の景行天皇の危篤か崩御の一報が有り、重臣引き連れて東山道から帰還しようとし、関ヶ原を経由して畿内(関西)に入ろうとしたんでしょう。
来る時に通った東海道の海路や薩垂峠は焼津で焼き討ちされてるから二度と通りたくないでしょ(笑)。
ところが東山道を進んだら今の神話で伊吹山の神と表現される土地神(かみ:督=豪族)に軍事的に阻止され、倭建は武装せず敵対心が無い事を示して説得に行ったら、暗殺未遂で外傷を負ったか毒を盛られたかは解りませんが重症を負った様です。
二俣川で討死した畠山重忠公みたいな状況。
普通に神話を現実的に解釈すればそうなるし、美濃国~近江国境でそれを画策出来るのは只1人、成務天皇だけでしょう。
成務天皇の母は美濃の豪族の娘で八坂入媛(やさかいりひめ)ですから、異母兄の倭建を排除しないと自分が廃嫡されるか、既に景行天皇が崩御されている状況だったなら最初から後継者争いが起きる前に母方の豪族の協力を得て倭建の帰還を阻止したと考えられます。
最悪、倭建(ヤマトタケル)が立太子された嫡子だったのに、景行天皇が崩御した直後に成務天皇派は倭建の不在を好機として自派で武力クーデター起こして朝廷を制圧したか、存外、東征に参加が許されず朝廷に待機し武功をあげれなかった西日本九州の豪族王達から成務天皇は支持されたのかも知れませんね。
実際、東日本に開拓に入ってた豪族の苗字は各神社の伝承に残りますが九州系は皆無・・・
磯長国造(五十猛?)・鈴木・紀=熊野系(諏訪神系?)
古墳時代~奈良時代
((根国・狗奴国)→駿河~伊豆~相模西武(磯長国)・武蔵東部(橘樹郡・都築郡))
大伴=大鞆
古墳時代~鎌倉時代(神職化)
(摂津住吉郡・相模三浦郡~武蔵橘樹郡=佐賀牟国)
日下部
古墳時代~飛鳥時代
(高座郡南部)
丸子・小野=和迩
古墳時代~平安時代
(相模愛甲郡~相模高座郡~武蔵荏原郡=佐賀牟国→前九年後三年の役頃に東北に移住か?)
下毛野・上毛野・坂田=毛野
古墳時代~平安時代
(上野国・下野国・相模足柄郡・近江坂田郡)
笠原・布施=諏訪神族
古墳時代~奈良時代
(武蔵南部~相模東部~相模中部=佐賀牟国→武蔵と相模に分裂?)
若光=高句麗王族
飛鳥時代
(相模餘綾郡・武蔵高麗郡)
・・・ざっとこんな感じで、それ以後は桓武平氏と河内源氏が支配者として赴任定着しており、唯一九州と無理矢理結び付くのは大伴家=佐伯一族のみ。
天智天皇も天武天皇も後白河法皇も後醍醐天皇も後の天皇家も皇族間で権力闘争を行っている歴史事実から、この大王(天皇)家と各親派の政争→軍事衝突として見た解釈は極自然でしょう。
ウチの某国造系先祖もず~っと室町時代まで似た様な事してたし(笑)。
倭建を陥(おとしい)れた伊吹山の神とは美濃の豪族である成務天皇の母方勢力の軍勢を率いた人物でしょう。
倭建が丸腰で美濃の豪族王(伊吹山の神)を説得に行ってるのは、状況的に自分がそれを出来る“地位を既に景行天皇に与えられていたから”つまり本来の皇太子は倭建の方だったかもしれませんね。
いずれにせよ倭建は重症を負い、更に関ヶ原通過を諦めて、鈴鹿の関所側に遠回りして畿内に帰還を試みながら死亡しています。
この政争は神功皇后が出るまで続いた様で、更に後の時代の筑紫の国造はじめ邪馬台国黎明期の功臣である北九州の諸豪族が大和朝廷に反抗的に成るのは、この頃に成務天皇派についた事で仲哀天皇の代に政治体制から北九州の豪族が排除され関西優位化が進んだりした可能性も発生して来ます。
神功皇后は自分達とパイプの太い卑弥呼の一族だから成務天皇派は矛を納めたのに、倭建の皇子の仲哀天皇とまさかの婚姻関係に成り、北九州の諸豪族の既得権が失われた事が古墳時代~飛鳥時代の北九州勢力が大和王権に楯突く原因としてシコリに成った可能性が有ります。
香椎宮とか、元は伊都国とかの首府だったんじゃね?とも思ったり。
成務天皇は不可解に倭建の実子の仲哀天皇を後継者指名しなければいけない状況に成り、それでも国が纏まらないので張政サン達が卑弥呼サンの親戚で13歳の臺与ちゃんを見つけて来て卑弥呼さんの跡継の女王(斎王)に成って貰い、再び混乱しない様に仲哀天皇と結婚させて倭建の遺臣達の派閥を納得させるしか無かった、この一連の騒動が中国側の歴史記録や当時の天皇の寿命から読み解けたりする訳です。
成務天皇の業績とされている地方の政庁の整備は、どっからどう考えても日本中を転戦した倭建=日本武尊の功績が大王に就任した成務天皇に横領されていると考えた方が自然でしょう。
そりゃ~、東日本の地方豪族達は成務天皇を支持出来ないでしょうね。
そんでも和睦する為に仲哀天皇を跡継ぎに指名する条件を出したけど、成務天皇派は倭建派に権力が集中するのを成務天皇派が恐れたのか、仲哀天皇は他の天皇と比較しても異常に短命な26歳で亡くなっているので、神功皇后が応神天皇を妊娠した段階で暗殺されてしまったのかも知れませんね。
倭建派が主流に成るのを恐れた勢力がいたとしか状況的には考えられません。

【男系王朝が上手く行かず、一代女王(斎王)に就任した人物】
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写真は神奈川県大磯町の高麗権現社(現:高来神社)、昔は裏山の高麗山の上に社殿と僧坊が広がる神仏習合の修験道の聖地で、元は神功皇后の朝鮮征伐の際に倭国に服属した朝鮮半島からの帰化民が周辺に定着し神功皇后を御祭神に祀る神社。百済滅亡時も百済王族の若光が関わった場所でも有る。
神功皇后=臺与。景行天皇と倭姫を卑弥呼の記載に当て嵌めると、丁度時代的に神功皇后に合致する。
神功皇后は仲哀天皇の皇后で、景行天皇が西日本を再統一した卑弥呼の世話をする男性(男王)だとすれば、神功皇后は景行天皇の二世代後の西暦300年代後半位の人物と成る。そうなると正に広開土王碑文の年代と整合性が出て来て極めて神功皇后と臺与が同一人物の可能性が高く成る。
神功皇后がピンチヒッターとして当番せざるを得なかった理由も当時の天皇の年齢を1歳=6ヶ月で換算すると・・・
仲哀天皇の崩御年齢が53歳 →26.5歳となるので、まだ跡継ぎが幼齢だった為に皇后が大王代理を勤めるしか無い状況に陥っていた事も解る。
仲哀天皇は成務天皇に殺害されたであろう倭建の子なので、仲哀天皇自身も不自然な短命な事から何か政争に巻き込まれ暗殺されたのかも知れない。
その原因が、もしかしたら朝鮮半島の勢力や政治とも関係が有ったので邪馬台国の臺与=神功皇后による朝鮮征伐が敢行されたのなら、司馬氏の晋朝の不安定な政情ともつじつまが合ってくる。神功皇后の渡海北閥は、晋の司馬氏に反逆した匈奴の劉淵を背後から挟撃し牽制、晋朝を救援する目的が有ったと考えられる。
夫の仲哀天皇の子、応神天皇が日本で最初に本格的に漢学を導入した人物と伝わり、孫の菟道稚郎子が日本で最初に漢学を学んだ人物と伝わり延喜式内社の相模国四之宮である前鳥(さきとり)神社で仕事と学問の神として御祭神に成っており、菟道稚郎子の兄王である仁徳天皇は日本で最初に父である応神天皇を八幡宮の御祭神として祀らせる一国一社八幡宮設置の政令を出した事が、神奈川県の平塚八幡宮に伝わっている。この平塚八幡宮は相模国国府祭の神事に登場する八幡社でもある。
つまり、卑弥呼が始めた中国の工業技術や軍事制度の導入は卑弥呼の実弟の景行天皇、更に甥の成務天皇を経て、三代後の子孫の応神天皇と更に皇子の仁徳天皇の代に本格的な中国の国家制度や学問を含め暦や年齢の導入が始まり、仁徳天皇の子の履中天皇の代で"1歳=6ヶ月"とカウントする文化が廃止され、中国風の暦が導入され1歳=1年に移行しているんだろうと言う事が推測出来る。

【魏から下賜された魏の皇軍軍旗(黄幢)、金印、200枚の鏡、“二振りの神剣”】
ーー草薙の剣と天叢雲剣ーー
呉王宝剣 蘇州市博物館
写真は呉王剣と呼ばれる中国に現存する春秋戦国時代の青銅合金製の宝剣で三国時代には上級将軍達は鉄剣を装備したが、剣の形状自体には大きな変化は無い。
恐らく魏から下賜された2振りの宝剣が草薙剣と天叢雲剣の名前で伝わる天皇家の神剣の可能性が有るので熱田神宮に現存する倭建の佩刀だった草薙剣は呉王剣と似た形状だろう。
古代中国では王が配下の武将を大将軍に任命する際、戦斧を貸与する習慣が有った。倭建が叔母の倭姫から草薙の剣を拝受し天皇家の近衛部隊である大伴一族の水軍と先進知識に明るい吉備氏の軍勢を与力として元伊勢神宮で付けられたと伝承するのは、正に中国文化に由来する大将軍として統帥権を与える為に宝剣を与える一連の儀式を模している事も推測出来る。
この宝剣は魏から贈られた2振りの宝剣の内の一振りだったはずだ。
現在の天皇家の神剣に天叢雲剣と草薙の剣異なる2つの名前が有るのも、元々魏から贈られた宝剣が2振り有ったからと推測出来る。実は現在も熱田神宮と皇居にそれぞれ存在し、熱田神宮では新羅人の盗賊に盗難未遂に有った一度を除いて倭建の用いた草薙の剣は一度たりとも熱田神宮から持ち出された事は無いと主張している。それに矛盾して源頼朝公が実弟の源義経公に壇ノ浦の合戦で平家を討伐させた際に平家が持ち出した“天叢雲剣”は安徳天皇と共に関門海峡の海に沈み永久に失われている。これを怒った頼朝公が捜索させるが見つからず、後鳥羽天皇は三種の神器の一方の天叢雲剣が無いまま皇位継承の儀式を行う羽目に遭っている。仕方が無いので朝廷では伊勢神宮にレプリカを作らせたのか関係無い剣を献上させる形で失われた天叢雲剣とした歴史事実が有る。
つまり今現在、天皇家は源義経の失態のせいで本物の神剣ではなくレプリカと言う事に成るが、この事から元々神剣は二振り有り、倭建が倭姫=卑弥呼から拝受した神剣が草薙剣で、倭建が岐阜の豪族(伊吹山の神)の妨害により畿内に帰還できず、鈴鹿の関辺りで(暗殺か傷病死だと思うが)病没した際に、豪族尾張氏の拠点だった熱田神宮に草薙の剣が移され、以後門外不出が熱田神宮の伝承通り石棺に入れられ守られていると言う事に成る。
ちなみに走水神社の本殿の地下には倭建の冠を奉納した石棺が埋められていると伝承しているが、近年の社殿建て替えの際に神話通り本当に石棺の存在が確認されているので熱田神宮と走水神社の神器の状況的な整合性から熱田神宮の伝承は事実だろう。
石棺に納められている事実からも、正に倭建や卑弥呼が弥生時代から古墳時代への転換期の人物と言う事に成る。
天叢雲剣と草薙剣は最初から別々の剣で大和朝廷には天皇が所持する神剣と、大将軍に貸与する為に所持していた熱田神宮の草薙剣の二振りが存在している事が判る。
ーー神社で御神鏡を祀る習慣ーー
三角縁神獣鏡
恐らく魏から下賜された金色に輝く青銅の銅鏡200枚が卑弥呼配下の有力豪族に配布され、卑弥呼(日巫女)の主祭神である天照大神を崇拝する太陽神信仰の象徴として祀られたのが始まりだろう。
青銅は鋳造直後は黄金色に輝くし、金属の鏡は陽の光を反射して輝くので弥生時代末期の人には小さな太陽の化身の様に感じる貴重品だった事は容易に想像がつく。
魏皇帝曹叡が景初三年1月末に亡くなっている事から景初三年の三角縁神獣鏡が日本製とのたまう頭デッカチの学者がいるが、当時の魏の経済状況や倭国に朝鮮半島を挟撃して貰いたい状況を考えれば容易に景初三年の銅鏡が倭国に贈られた事が説明出来る。
司馬懿の公孫淵討伐と卑弥呼の使者が魏に到達したのが景初二年なのだから、普通に考えれば魏皇帝曹叡と丞相司馬懿が倭国の卑弥呼に朝貢の返礼と冊封の証として下賜する為に景初二年に製造を始めさせ景初三年に倭国に届けるつもりだったのが、景初三年の1月22日に死没したが、当時の魏は改めて銅鏡等の下賜する礼品に対して製造コストをかけれない状況に置かれていました。
洛陽の宮殿建設と度重なる戦争で経済が逼迫し内乱が起こり呉とも激しく戦を繰り返しており北にも南にも敵に囲まれていた魏にとって背後の朝鮮半島の安定化を急ぐ状況で景初三年のままの銅鏡で出荷せざるを得なかったと考えるのが一番自然です。
ーー幣殿に旗と鉾と楯を祀る習慣ーー
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社殿の内部で本殿前の幣殿部分に楯、鉾(ほこ)、旗を祀るが、これは明ら様(あからさま)に魏から贈られた黄幢(魏皇帝の錦の御旗)、漢代の中国兵が楯と剣or槍or戟(げき)or鉾で武装していたのを卑弥呼の頃に導入していた事に由来するだろう。つまり卑弥呼の時代の軍装が神社の神様を守る様に一揃え設置されている。
漢代の中国大陸では楯は歩兵の標準装備だったので、卑弥呼の時代には邪馬台国兵も魏の軍装を導入していた事が推測出来て、現代でも武具を神社に奉納するのと同じ様に、古墳時代に漢代の軍装を神様に奉納し社殿に設置する習慣が出来たのだろう。
平安末期に成ると日本では武士文化が開花し、攻撃特化した武装に変性していき鎌倉時代の武士は次第に歩兵が木楯を携行する事は無く成った。
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代わりに、日本刀の発展により刀身の側面の鎬(しのぎ)が頑丈に成り太刀打ちの際に楯を持つより刀で相手の刀を弾き返す耐久性が獲得された。
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大鎧の弓矢に対する防御力が向上され首を守る兜の錣(しころ)や流れ矢の顔面被弾を防ぐ吹き返し、前屈すると正面に対して隙間が無く体を覆い楯代わりになる大袖や草摺(くさずり)の構造が発展し楯は無用の長物に成った。
矢合戦の際に前線陣地に押し並べ据え置いて防御壁代わりに用いる程度に役割は衰退したが、卑弥呼の次代~古墳時代~飛鳥時代の軍装は、神社の中に神様を祀る文化の中で形式化され温存された。
ーー鳥居ーー
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中国の古い街の大通りには石造りの鳥居に似たゲートが必ず設置されているので、鳥居は中国文化由来で東アジア諸国に広まった街道や邸宅の入口に設ける門の習慣の名残りなのかも知れない。
そもそも日本の古代信仰はランドマークとなる奇岩や湧水地や川や入江の岬の先端などの自然信仰で、建造物すら存在しなかった事が考古学的にも解かっている。

しかし、これだけ状況証拠が残っていても卑弥呼と臺与の生きた西暦230年代~300年代と倭建が走水に来た109年では、走水の伝承をまま採用すると100~200年の差が発生してしまいます。
この誤差200年が、正に卑弥呼と臺与による中国式の制度が導入され、更に応神天皇の時に本格的な中国文化の暦が導入が開始されている事により発生する誤差に成るのが歴代天皇の寿命で説明できます。

中国の暦が導入されて・・・
1年=12ヶ月=1歳
・・・の基準が決まり、それ以前の・・・
1年=06ヶ月=1歳
・・・と差違が生じて誤解を生んだ境目なのだと思います。

応神天皇の頃まで歴代天皇の寿命は100歳超だらけ不自然な年齢ですが、それが1年=06ヶ月=1歳でカウントされてるからと原因が解れば話しは一気に超現実的に成ります。
1年=12ヶ月=1歳に圧縮するとザックリ見積もっても200年弱の歴史が短縮され現実的な歴史に成り倭建神話に卑弥呼の時代と整合性が出ます。

では、本当にこの推論が当てはまるか歴代天皇の古事記での寿命の記載を見て見ましょう。

※縄文→弥生時代の平均寿命30歳
     伝承年齢 → 1年=6ヶ月説適応
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳👈注目①!
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳👈注目②!
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳

こうやって見比べると、本当に中国の学問を学び導入した応神天皇、仁徳天皇の次代、注目②の履中天皇の寿命が急にそれ以前の天皇より短く成ってしまっているので、履中天皇の時代から日本人の年齢の数え方や暦の数え方が中国の制度が導入されている事が理解できます。
これは神話と成った伝承の通り、応神天皇の方針により中国の制度を学んだと伝わる仁徳天皇と菟道稚郎子の皇子御兄弟時代から国家運営に中国式の暦の制度や国家運営が本格的に導入され始めているようです。
この事から履中天皇~倭建の生きた時代の天皇、景行天皇の半年:1歳の和暦寿命と中国式の1年:1歳の差異を合計すると、倭建が西暦109年に走水に来たと逆算で伝承しているのが更に短縮される事も解かる訳です。
    古代和暦→陰暦年齢
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
年齢合計 557年 → 278.5年

昔の人が結婚するのは15歳~20歳が適齢期でしたから、子供を作る年齢もだいたいそれ位でしょう。
なので中国から導入された1年1歳の陰暦年齢合計から子作り年齢を引けば歴史の年代的な誤差が算出出来る事に成ります・・・

寿命合計278.5
この時代の天皇の人数(5人) × 20=100年
~すると~
278.5年ー誤差100年=178.5年

おんや~⁉
・・・何やら丁度、倭建の走水の逆算年代の伝承と三国時代の誤差200年に極めて近い“178.5年”と言う数字が出て来ましたね。

1歳=12ヶ月で数えた場合に倭建が走水に来たとされる109年に、この誤差178.5年を足してみましょう!

109 + 178.5 = 287~288年

つまり走水に倭建命と弟橘姫夫妻は287~288年前後に来ている事が推測出来ます。
完璧に倭建の父の景行天皇と倭姫=卑弥呼であろう倭姫の弟姉が活躍した三国志の魏朝が滅亡するまでの235年~265年~司馬氏の晋朝と時代が符号します。

三国志の著者である陳寿は233年生まれ~297年を生きて64歳で亡くなっている人物です。
238年に使者を送った卑弥呼が当時15歳~25歳の倭姫と景行天皇姉弟だとすれば、当時の結婚適齢期から倭建と三国志を書いた陳寿は略(ほぼ)同世代だろうと言う事も何となく見えて来ます。
となれば倭建が活躍したのは238年前後生まれ+20~50歳の間に当たる西暦250~290年頃の話と言う事が逆算出来ますね。

走水に倭建が奥さんの弟橘媛(おとたちばなひめ)と走水神社近くの御所ヵ崎で共に夫婦生活を送った西暦109年が古代日本1年=半年を踏まえると完全に三国志の直後の時代の287年位の話になります。
倭建命が40代後半、弟橘姫は恐らく年の離れた異母妹であり妻女でしょう。
景行天皇の皇女(姫)には“弟姫(おとひめ)”が存在します。古代は異母兄妹で近親婚する事が良く有ったので、弟姫と弟橘姫は同一人物でしょう。
1年=12ヶ月に古来の1年=6ヶ月の部分を修正すると、途端に神話が神話ではなく成り、天皇家の偉業と日本文化が古代から引き継がれている事が歴史事実となり、倭建と弟橘姫夫妻の功績を川崎市高津区橘神社~横浜市神奈川区六角橋~横浜市磯子区杉田~三浦半島横須賀市走水の人達が年代誤差も修正され1800年間も話の内容は変らず正確に口伝で伝承させてきている事が証明されます。

時系列を古代:6ヶ月=1年⇔現代:12ヶ月=1年の誤差修正すると、こんな感じなのかも知れません。
                                 
卑弥呼(倭姫)
(220~230年出生→247年禅譲→290年頃没?)

景行天皇 71歳
(220~230年出生~290年頃崩御)

倭建(日本武尊)    
(250年頃出生→300年頃崩御)
※走水に在住時点
古代歴・・・西暦109年
太陽暦・・・西暦288年前後

成務天皇 53歳
(250年頃出生→300年頃崩御)

仲哀天皇 26歳
(270年頃出生→310年頃崩御)

神功皇后    
(270年頃出生→340年頃崩御)

応神天皇 55歳
(300年頃出生→360年頃崩御)

仁徳天皇 71歳
(320年頃出生→390年頃崩御)

まぁ~これは全部小生の「あれ?古事記の記載はおかしいぞ?」と思った事を現実的に解釈した持論なので、全然、皆さんは異論が有って良いと思います。

肝心な事は・・・
「本に書いて有るからって、全部正しい訳じゃねぇ~かんな!」
「上司や親が言ったからって言い訳に出来ねぇ~から後悔しない様に自分で確かめて判断しろよな!」
・・・て言う事例の一つとして、和暦も色々変化が有るよってのを天皇家の歴史で示してみました。

そして・・・
「卑弥呼様ぁ~!」
卑弥呼様ぁ~Q太郎
・・・の次代の人達よりも更に古い時代の天皇家の御先祖様の神武天皇は弥生時代真っ只中を生きた皇族だった事が判りますね。
三殿台遺跡 縄文人女 久良岐のよし
当時の人の服装はこんな感じ。
やっと狩猟採取の生活から、稲作に転換し始めた時期です。中国から輸入された米穀の栽培によって食料の備蓄が可能に成り生存率が向上した半面で“財産”と言う概念が生まれて、更に農耕は大きな集団で協力して土地を開墾したり稲作を行う必要が有ります。
備蓄可能な食糧の出現が、皮肉な事に
リーダーの出現と村より大きな単位での集団の形成と、争いの無い縄文時代終わりを迎えて‟国”と言われた豪族が治める地方の単位が生まれ、地方同士の武力衝突と財産の奪い合いに発展して行き弥生時代=神話の時代に突入して行った訳ですね。
古事記に書かれている天沼鉾(あまのぬぼこ)を用いて伊邪那美神と伊邪那岐神が混沌とした場所で掻き混ぜて島を生み出した国産み神話は、正に土地開拓と鉾を交え戦を行った古代豪族の伝承の比喩だと小生は考えています。
この伊邪那美神と伊邪那岐神が神武天皇の更に御先祖様に当たる神様ですが、弥生時代の始まりは紀元前10世紀頃と今の考古学で解っているので、その頃の話がかいつまんで口伝で伝承されて今の国産み神話に成っているのでしょう。
組織的な集団を作り出し農耕や交易で“勢力”と言う大きな単位を作り出した偉大な先人である事が判ります。

日本神話を纏めた古事記では
日本国の元に成る弥生文化の時代、神話の黎明期に相当する歴代天皇の寿命が異常に長い事も1年=半年で再カウントすると何とも現実的な没年齢に話が変わって来ると同時に、いつの時代から中国と文化を共有しだしたのかの基準が推定出来たりする訳です。
それと同じで現代の太陽暦の12区分で陰暦の月の和名を当て嵌めれないので、太陽暦基準で1月=睦月にしてしまうと“水無月(みなづき)”なのに梅雨の真っ最中みたいな矛盾が発生する訳です。

ここで、本来の月の暦の話に戻ります。

和暦の12ヵ月の漢字を見て見ましょう。

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睦月 むつき 睦つぶ月 
旧正月、01月下旬~2月中旬に始まる月
旧正月は陰暦の為に太陽暦より誤差が大きく毎年数日単位で開始日が異なる。
睦月の“睦”の字は親睦を深めるとか和睦するとか、交流を育む様子を意味する漢字。
本来の睦月の意味は雪解けと共に梅の花が咲き始め春の訪れを知り、人間そのものの往来が増える事が表現されたているのが漢字の意味から読み取れます。

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如月 きさらぎ (前)月の通り
太陽暦の02下旬~03月下旬位。
梅の季節から桜の季節に変わって来て本格的に春の訪れる頃。
漢字では後ろに付く漢字と合わせて〇〇の様だ。の様な意味を持つ。
如月では意味が成立しないので、季節感が睦月と同じと言う意味だろう。

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弥生 やよい いよいよ生まれる月 
太陽暦04月~05月くらい。
晩春で躑躅の花が咲き誇る頃。
弥生の弥は訓読みで“いよいよ”と読む。
弥生を読み下すと“いよいよ生まれる”と言う意味に成る。
春の盛りで花が咲き本格的に暖かくなり農耕の作業が本格化し動植物の繁殖も始まる様子が、もうそのまま漢字にされている。

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卯月 うづき 卯の花由来説は後付け
4番目の月と言う意味。
太陽暦の05月~06月位くらい。
菖蒲の咲く季節。
卯月の卯の字は只単に昔の時間割や方角の割り付けで十二支由来、
卯の刻とか卯の方角とか、羅針盤(指南机)上で四番目を指す意味が有る。
ちなみに日本語で教授する事を“指南”と言うが、これは中国の最初の皇帝の前身と成った人物の黄帝が、敵対者と戦争する際に濃霧が発生する場所に敵軍を誘い込み前後不覚に方向感覚を失わせ混乱させたうえで自軍は迷わない様に南の方角を指示する歯車の仕掛けを作り、敵軍を駆逐した事から指南=教えると比喩されやがて動詞として使われる様に成った。
卯の花が咲くから卯月と言うのは寧ろ、四番目の月の卯月に咲く花だから“空木(うつぎ)”が卯の花と呼ばれる様に後付けされたと考えた方が極々自然。

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皐月 さつき 皐月の花由来は後付け
太陽暦の06月~07月くらい、梅雨の季節。
紫陽花の咲く頃。
夏の始まりだから夏王朝の皇帝の名前を用いて5番目の月の異称にしたのが解かる。
春は動物が交配し繁殖する季節なので、言って見れば淫乱な繁殖期。
夏の皇帝皐の先代皇帝孔甲は性格が淫乱の極みの様な人物だった。
孔甲の跡は皇帝“皐(こう)”が継いだ。
生物にとって春の繁殖期が終わり夏に成る季節だからだから夏王朝の淫乱で交尾ばっかりしていた暴君の皇帝孔甲と、跡を継いだ皇帝の皐の故事から初夏の最初の月が皐月と命名されているのが解かる。
“梅雨(つゆ)”は中国語由来の季節の表現で、太陽暦の6月下旬の中国の雨季は、梅の実収穫時期でもあった事に由来する。当然ながら現代中国語の漢字でも梅雨は梅雨。
現代日本人にとっては芽吹きの春ではなく、夏休みと冬のクリスマスのイベントが繁殖期の様だ(笑)。

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水無月 みなづき 文字通りの意味
太陽暦の07~08月初旬くらい。
海辺に野莞草のオレンジ色の花が咲き誇る季節。
昔の通りに陰暦の春節を睦月の起点にすると、水無月は文字通り梅雨明けの乾期に相当する。
それ以上でも以下でもない。
古代の一年の区切りで、夏越大祓の神事が各地の神社で行われる。

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文月 中国由来で七夕の書物を防腐する月
太陽暦の08~09月くらい。
旧暦の七夕の季節。
七夕の日の由来ではあるけれども短冊の話は日本での後付け旧暦の七夕。
中国では七夕の頃に書物をカラっと晴れた日に天日に干して防腐する習慣が有った。
つまり文月の文はこの中国から受け継いだ書物や文書を管理する月だったから付けらた事が判る。
そもそも論だが七夕自体も中国から日本に輸入された習慣であり伝説でもある。
端午の節句もそうだし、中秋の名月も、旧正月もう色々と季節の節目の行事は中国文化由来だったりする。
最近じゃ日本人はバレンタインデーやクリスマスなんて習慣も新たに取り入れたりしてるよね。
一体、生粋の日本文化ってのは現在、どれだけ残っているんだろうか?と言う次元の話。
小生の知る限り、相模国国府祭や武蔵国国府祭、有鹿神社の水引祭り、高部屋神社の潮汲み神事、寒川大社の追儺祭は生粋の日本の神事かも知れない。
特に高部屋神社と寒川大社の神事は弥生時代~古墳時代の文化の名残りかも知れない。

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葉月 夏が終わり青々とした葉が朽ち始める
太陽暦の9~10月くらい。
台風が頻発して葉っぱが飛ばされたり、葉っぱの色が枯葉の色に変わり始める季節。
関東では海の空気が澄み始めて富士山が奇麗に見える日が段々増えて来る。

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長月 小生にはちょっと意味が解らない
太陽暦の10~11月くらい。
多分、中秋の名月の季節で、気温も少し過ごしやすくなり、昔の人は“秋の夜長”を楽しみ和歌を詠んだり自邸の庭の池に船を浮かべて遊んだり、松明(たいまつ)を炊いて庭の木々を照らし夜景を楽しんだり、笛を吹いたりして貴族が夜を長く楽しむ季節だったからじゃないかとしか思えない。

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出雲大社
※画像掲載元→https://www.izumo-kankou.gr.jp/676
神無月/神有月(出雲国) そのまんま
太陽暦の11~12月くらい。
山の木々が紅葉し美しく萌える季節。
全国の神(かみ=督:神格化された古代の軍属豪族)が、出雲大社に参集して日本全国の年次方針を決めたから各地は無監督状態で神様不在だった事に由来するのは有名な話。
逆に出雲大社には全国から豪族将軍達が集まって来るから神有月。

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霜月 滅茶寒くて地面霜だらけの季節
太陽暦の12~01月初旬。
そのまま真冬で霜が降りる季節だから。
関東では雪化粧した奇麗な富士山を色んな場所から眺める事が出来る季節。

一休さん
師走 中国経由の仏教用語“臘月”由来。
太陽暦の01月下旬~02月下旬。
1年の終わりの月と言う意味。
僧侶が走り回る様に忙しいとかは丸っきり後付けのデマ。
昔は中国で臘月(LaYue:ラーユエ⇒ロウゲツ⇒しわつき)と書いて陰暦で年末最後の月の事を意味したので、ずばり中国の臘月=臘数
(しわす)が由来。
臘数の臘(しわ/ロウ)は中国由来の仏教用語で僧侶が出家して具足戎を受けてからの年数を数える節目の単位でもある。庶民には覚え難(にく)い漢字だったから僧侶が忙しくなる季節と言う表現の師走と言う字に臘数(しわす)の発音だけ誤植した挙句、いつの時代にか師走の字のデマが広まってしまった様だ。


まぁ~そんな訳で、現代の価値観と現代の時間軸で陰暦の暦を当て嵌めたり、太陽暦の1月1日に真冬なのに年賀状に「迎春」とか書いちゃうと整合性が無くなってしまう原因だったりする訳です。
昔の事は現代の価値観で見ても全然違うって事ですね。
昔の人は農業社会で天候と密接に生活していたので季節感が大切だったんですね。
そして日本の制度自体も各時代、外国の影響を受けて色々変わっていると言う事です。


日本の神社の神様には、仁徳天皇と菟道稚郎子に中国の兵法や学問を享受した漢帝国皇族の末裔の阿智使主もいれば、高麗や百済の滅亡時に日本に移住して来て高麗神社を開いた人たちもいます。
南宋が滅亡した時に鎌倉幕府の執権、北条時頼公や北条時宗公も南宋の亡命高僧や文化人を受け入れ南宋の軍事知識と文化を取り入れ鎌倉文化を発展させ元朝と朝鮮連合軍の日本侵略から国民を守った訳です。
実は日本人が生粋の日本文化だと思い込んでいる事の多くは少なからずインドや中国や朝鮮の文化と共通する部分が有り、古代に影響を受けながら日本風に変化させ日本文化を一緒に作り上げて来たのが歴史を辿ると良く解りますね。
だから“外国人”と言う事や“人種が異なる”と言う理由で在日外国人やハーフを外見でイジメたり攻撃するのは、本当の保守派の小生には受け入れられない只の差別でしかなく、寧ろ外国人差別をする人間が真の保守派の敵だと思っていたりします。

そもそも本当の日本文化ってのは自然崇拝ですから。
だから延喜式内社と言うジャンルにカテゴライズされる古い古い歴史を持つ神社は、どこでも自然崇拝の聖地に存在するんです。

水無月や師走の現代人の誤りを紐解いていくと、日本人と言う人種ではない括りの人間は色んな国からの帰化人が在来種の縄文人と協力して国を開拓し文化を昇華させた歴史にも辿り着けたりしますよ~!

そして疑問に思った事は何でも自分で調べましょう確かめましょう、人の言う事鵜呑みにして結果間違ったり判断ミスって人のせいにしたく成ったり悔しい思いするより良いしね。
ネットで調べるより現地に行って自分の目で見て、そんでも解からない事は一番精度の高い現地の人を質問責めにするのが一番早い!

百聞不如一見(百聞は一見に如かず)とは昔の中国の人も良く言ったもんだ。

今の中国は日本人について情報管理されててMSNのページも日本のニュースにアクセス出来なかったり田舎では反日ドラマばっかりやっていて不正確な情報ばっかりで日本に対する偏見強い人もいるけれど、昔の中国人と同じ様に高文化で素養高く親切な人も多くいる。
TikTokやWechatや華微(ファーウェイ)のスマホなんか規制しても良いし、日本人を差別する外国人には容赦なく反撃しても良いと思う。
でも人間は個人単位で評価しないといけないし、先生が言ってるからとか、本や辞書に書いて有る事が必ず正しいとは限らない。
自分で見て経験した物を信じ、知らない事はガンガン直接、現地や現場に見聞きしにいけばよいよ。
仕事もそうでしょ?

・・・と、言う御話しでした。