閑香大明神小野神社
延喜式内社
鎌倉幕府の名将に信奉された古代の神
小野小町の出生地で古代史を紐解く神社
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御祭神・御本尊等
:
下春命(したはるのみこと)
倭建命(やまとたけるのみこと)
主祭神は古代から豪族祭神の下春命だったが明治の宗教改革で神格化された皇族の日本武尊に習合された。
御利益:
武芸(スポーツ)上達、学問上達、実務力向上
関係者:
開基:行基 大僧正
中興:女房三十六歌仙  小野小町 
   鎌倉幕府御家人  愛甲季隆 公
   鎌倉幕府政所別当 大江広元 公
旧郡名:高座郡
所在地:
丘陵地帯と平野の際の大耕作地帯の川沿い。
古代の境内地は小野緑地の小町神社辺り。
※所在地をクリックするとGoogle mapで確認出来ます。
【歴史概要】
新編相模風土記稿に記載が有る通り古代から明治時代の神仏分離令と神道改革までは下春命が主祭神だった。奈良時代の元正天皇の頃の高僧、行基大僧正によって神仏習合の神宮寺として薬師如来像が奉戴され始まり社殿が造営された元は修験道系の神社。実は旧境内地は現在地の北側の小野緑地で小町神社辺り、一帯は小野の地名が残り小町神社から判る通り、平安の女流文化人小野小町の出生地でもある。
付近を治めた鎌倉武士の愛甲氏は小野氏出身とされ、小野小町の兄弟の子孫と考えらる。
明治時代に倭建命に主祭神が変更された。
歴史的な背景を考えると近代に倭建命が御祭神とされた事も間違いではない。しかし古来の御祭神下春命と異なる御祭神を近代に祀った事が混乱を生み神話と古代史の繋がりが解り難い原因に成っている。
下春命こと下春(したはる)は日本神話の天下春命を指し大伴氏族の知々夫国造(ちちぶくにつくりのみやつこ)の祖先とされる。
国造(くにつくりのみやつこ)は古代の律令制の国境制定以前の太守の様な冊封豪族王に当たる。
知々夫国は今の秩父地方一帯を指す。
知々夫国造の祖先は大伴氏で、大伴氏族で構成された部民を大伴部と呼ぶが古代大王(おおきみ=天皇)の直属部隊だった。
水軍を率いた佐伯氏族とも同族とされ近畿では大阪の住吉大社一帯を本拠地にした一族だった。
相模国一之宮の寒川神社の聖域にも“難波(なんば)の小池”と呼ばれる聖地の湧水池が有る事から、御祭神の寒川比古と寒川比女の御神霊の元となった古代の豪族も、大伴氏だった事が推測出来る。
大伴部氏は倭建神話に登場する氏族で、倭建命が東征する際に元伊勢神宮の倭姫(やまとひめ)より草薙剣(くさなぎのつるぎ)を貸与されると共に学問に精通した吉備氏と精強な大伴部氏を与力軍として付けられて東海道を攻め上って来た。
倭建命は走水神社の伝承を元にすると西暦100年代初頭に神奈川県に来訪し三浦半島走水~房総半島富津(旧字:布津)に渡ったとされている。
実はこの時代を推定するのに必要な歴代天皇の寿命の計算を以前別の現在日本人が用いる西暦(太陽暦)と明治以前の日本人が用いた暦で全く異なる事を解説した記事の中で書いているので其方も合わせて御覧頂けると解りやすいかと思う。
走水神社の伝承の元に成っている歴代天皇の寿命を古代の天皇の時代の暦の計算は6ヶ月=1年だったとする最近の考古学の説を当て嵌めると説明がつく。
仲哀天皇以前の天皇の寿命を6ヶ月=1年で再計算すると、倭建命が走水の御所ヵ崎の行在所(あんざいしょ:仮御所)に御妃様の弟橘姫(おとたちばなひめ)と滞在していた推定時代が古墳時代の人で西暦280年前後の話と解る。丁度、中国の三国志の終わりの頃の時代に活躍したのが倭建命で弥生時代を終わらせ古墳時代を開始した頃の皇族と言う事が解ってくる。すると丁度、景行天皇の子である倭建命に力を貸した倭姫(やまとひめ)の構図が中国の三国時代の終焉の頃の状況とも整合性が出て来て魏志倭人伝の記載とも合致する。
倭姫=卑弥呼。
景行天皇=卑弥呼に唯一面会出来て神託を実行する人物。
倭建命=卑弥呼の甥っ子で景行天皇の後継者候補。
これらの状況を整理すると後の征夷大将軍の様な役職名らしき“倭建”と呼ばれ実名が伝わらない皇族で、倭建に従って大伴部の軍団を率いて東征したのが大伴氏や知々夫国造の祖先でだと言う事が解る。
大伴氏の神話は横浜市神奈川区六角橋の大伴久應や三浦半島走水の大伴黒主の伝承にも残る事から、現在の神奈川県東部に勢力を持ち倭建の東征に従い神奈川県中央部~東部~東京都の多摩地域~埼玉県西武秩父地方を治めた勢力が大伴一族だった事が解る。
これは衛星写真に小野神社を表示すると一目瞭然に推定勢力範囲に符合する。
小野神社分布図 久良岐のよし
小野神社の分布する地域+秩父を加えると古代の小野氏の関東に於(お)ける勢力範囲の名残が見える。
現在の神奈川県中央部~東部~武蔵北西部秩父地方にかけて勢力を有した古代の豪族が天下春命を氏神として祀る氏族だった大伴氏と小野氏の統治した地域らしいと言う事が推測出来る。
因(ちな)みに小野神社の所在地、これ全て古代の軍馬生産地で戦国時代に成っても馬の生産が盛んだった地域に当たる。当該地域は遺跡から発掘され頭蓋骨を受肉させて復元したモンタージュで日本の先住民縄文系と馬の生産に精通した渡来系集団の人々が両方住んでいたと判明している集落が有った地域と符合する。
この事から海上交通と陸上交通の駅伝=店屋=兵站の運営を古代の大伴氏が担っていた事も何となく見えて来たりする。
武蔵国一之宮はスタジオジブリの映画“耳を澄ませば”の舞台の聖蹟桜ヶ丘駅から程近い小野神社で、武蔵国の国府祭(こうのまち)=くらやみ祭では今も武蔵国一之宮~六之宮の神輿が旧武蔵国府である府中市の大國魂神社に参集し神事を執り行う際に古来、軍馬を奉納する習慣が現在も神馬神事として残っている。
小野神社の御祭神、天下春命だが実は蘇我氏と縁の深い聖徳太子の重心だった小野妹子の小野氏の祖先とされている。つまり大伴氏と小野氏が神話の時代に遡(さかのぼ)ると同族だった可能性にも辿り着き、その一帯には蘇我や曽我の地名が現在も多く残る。
古代の海岸線と式内社式外社古刹の位置関係 久良岐のよし
古代の地勢を考えるに現在の平塚市は縄文時代海の底で、古墳時代にも未だ湿地の多かった相模国の中南部~北部~東部~武蔵国全域は古代の佐賀牟国、相模国西部~伊豆国~駿河国が磯長国(しながこく)だった事を考慮すると、その佐賀牟国の領域が大伴氏部の軍団の勢力分布とも符合する。
時代が鎌倉時代に成る頃には源頼朝公に仕えた名将達から愛甲郡の総鎮守として崇敬を集めていた。
一人目の愛甲季隆公は、畠山重忠公と北条家が現在の旭区の二俣川で合戦に成った際に北条家与力として参戦し畠山重忠公を弓矢で射殺した弓術の名手で、最後まで源氏に忠誠を尽くした忠義の武将でも有る。この愛甲家の祖先は小野妹子で、聖徳太子の異名を追贈された蘇我家出身の摂政の下、遣隋使を務めた有名な大和朝廷の外交官だった事から、元の御祭神が天下春命だった事とも整合性が有る。
愛甲季隆公が畠山重忠公と戦った二俣川合戦は以前記事に書いているので興味の有る方は上のリンクから御覧下さい。愛甲氏は和田合戦で北条家と敵対し厚木市では滅んだが、薩摩に移住した子孫が島津家臣として戦国時代にも生き延びている。
二人目は大江広元公で鎌倉幕府の初代の政所別当を務めた人物で学者だった。鎌倉幕府の法治主義機構の成立は大江広元公の功績が大きい。小野神社の辺りは鎌倉時代初期に大江広元公の所領で戦国大名の毛利家発祥地と成った毛利郷と呼ばた地域の名残りが有り、現在も毛利台の地名が残る。つまり大江広元公は戦国武将毛利元就公に当たる。小野神社は江戸時代にも崇敬を集め、閑香大明神の別名で親しまれたが江戸時代の新編相模風土記稿に閑香大明神の名で紹介され注釈入りで延喜式内社小野神社と併記されている。
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