京都の友人のKGが横浜出張を終えて帰る日程が決まり、一緒に未だ行ってなかった神奈川県中央部相模川西岸を中心に歴史散策をして来た。
後で訪問地の数を数えたら驚愕の訪問件数に成っていた。
当日の訪問先は以下の通り・・・
訪問先一覧
①JR大船駅・・・AM:08:00集合。
②龍寶寺・・・戦国時代の北条綱成公の玉縄北条家菩提寺。
③玉縄城七曲り虎口・・・関東屈指大城郭の数少ない残存遺構。
④玉縄城大手門跡・・・学校建設で残らないけど看板が有る。
⑤玉縄城の石碑・・・解り難い場所、説明文の内容も雑で事実誤認してる。
⑥寒川神社・・・言わずと知れた相模国一之宮。
⑦前鳥神社・・・言わずと知れた相模国四之宮。
⑧平塚八幡宮・・・言わずと知れた相模国最古の八幡宮。
⑨オリーブの丘・・・横浜市の沿岸部で見た事が無いファミレス。
⑩無量寺・・・岡崎城の本丸にある御寺。
⑪岡崎城三連郭・・・大城郭の数少ない明確な遺構残存部。
⑫岡崎義実公の墓所・・・外郭に残る今上天皇陛下も大学時代にいらっしゃった場所。
⑬高部屋神社・・・延喜式内社で鎌倉時代の名将糟屋有季公の居城、千鳥ヶ城の鎮守の神様。
⑭丸山城址公園・・・千鳥ヶ城の一部分が児童公園化された場所。
⑮洞昌院・・・太田道灌公の死没地で北条早雲公が道灌公菩提寺に定めた場所。
⑯道灌公御廟所・・・道灌公の親友の万里集句和尚と北条早雲公が整備した太田道灌公の胴塚。
⑰七人塚・・・太田道灌公の与力武将が上杉定正公放った追討兵を食い止め討死にした供養塔。
⑱上粕屋神社・・・行基大僧正が比叡山の山王権現の御分霊を勧進し建立させた神社。
⑲扇谷上杉家糟屋館大空堀・・・神奈川県下指折りの大城郭の自然地形を拡張した大空堀。
⑳上杉家糟屋館湯殿入虎口・・・大城郭糟屋城(館)の侵入経路の名残りの喰い違い、近年消滅の危機。
(21)糟屋館・・・産能大学の丘に存在した大城郭。丘上から南北の大空堀が良く見える。
(22)糟屋館武者走り・・・丘の側壁崖地に迅速測図にも残る武者走り地形と土塁が残存。
(23)比々多神社・・・言わずと知れた相模国三之宮。
(24)埒面古墳・・・比々多神社の旧境内地の聖地とされた場所、土建屋に破壊された古墳。
(25)比々多神社元宮・・・北条家に攻められて焼け落ちた比々多神社の旧境内地。
(26)AOI七沢リハビリテーションセンター病院・・・実は戦国時代の七沢城の主要部分。
(27)七沢城の碑・・・病院から少し離れた場所にある石碑、昭和の郷土史家の説明が間違いだらけwww
(28)徳雲寺・・・扇谷上杉定正公の菩提寺で、七沢城の外堀と七沢城址の地形が良く見える。
(29)ZUNDBAR・・・凄いオシャレなラーメン屋、神奈川淡麗系の名店。
(30)新磯子埠頭・・・横浜の夜景スポット。海釣りの名所だけど余り知られてない。
(31)上大岡駅・・・21時位に解散。
・・・我ながら1日で良くも巡ったものである。KGと小生は御互い歴史オタクで城郭オタクでもあるので1日に山城複数個所登ったりもする。
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これの地図の青い線は2月だったか二人で鎌倉城を一周した際の順路をKGのスマホGPSで可視化したタイムライン。市街地を取り囲む鎌倉城の稜線にそって丸々一周した。
この鎌倉城は鎌倉幕府設立後、石材の切出しを行った結果、次第に市街地の整備に伴って城塞化されて行った場所で、小生と横浜市の学芸員サンの共通意見として明確に城塞化されたのは南北朝時代以後だと思う。小生の意見としては空堀や虎口が尾根上に本格的に整備され始めたのは足利尊氏公と北畠顕家公の鎌倉争奪戦の頃に始まり、足利持氏公と上杉禅秀公の内乱が勃発した頃に名越切通しや瑞泉寺裏の一覧亭付近が中世城郭化したのだと思う。
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瑞泉寺の裏山には豊富に堀切等が残っている。
名越切通しは戦国時代の構造体に見える。
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完全に枡形虎口に成っている。
「堀切って何ぞ?」「虎口ってタイガーマウス?痛そう!」と言う次元の初心者にも解りやすい城の構造体と名称の図説解説サイトのリンクを貼っておくのでソレを見て欲しい。
これ⤴ね。
この鎌倉城散策時は完全に体力勝負で朝の9時に集合して稲村ケ崎からスタートし山を一周、材木座の住吉城に到達した時には17時40分くらいで小生はヘロヘロだった。
なんせ稲村ケ崎から時計回りに鎌倉城を登るとズゥ~ット山道の登り坂!体重がストレートに脹脛(ふくらはぎ)と太腿に乳酸を溜めて行く上に、脱水でミネラルが抜けて痙攣しやすく成ってしまう。
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ちなみに、今回の休日雑記と鎌倉城散策は違う日なので又改めて鎌倉城一周トレイルの記事も書こうと思うが、この鎌倉城トレイルは初っ鼻から稲村ヶ崎で波を被ってビショ濡れに成ってた(笑)。
KGは撥水性のジャケットを着ていて無事だったが小生は近所のスーパーに行く様な短パン、パーカーのナメ腐った格好だったので海水を完全に吸収してメチャくそ寒かった(笑)。
この鎌倉市街1周する鎌倉城トレイルの行程を半分進んだ時点で小生は大平山の山頂手前で足攣ったり滅茶苦茶だったが格闘家体系を維持しているKGはピンピンしていた。
けれど、今回は体力ではなくて時間との闘いなので訪問順路の効率の問題でもある。
実は当初の訪問予定候補地は更に多かったが、それはこの日の訪問先を順を追って紹介しながら見て頂きたいと思う。
「1日に29箇所訪問とか嘘だろ?」とか思うかな?
これ⤵を見て貰うと効率的に散策したのが解ると思う。
GoogleMap登録地
小生はGoogleMapに行きたい場所や行った場所をやたらめったら表示を分けて登録して有る。こうしておくと効率的に訪問順路を決められるので皆さんも試して頂きたい。
因みに緑が気に成ってる場所、黄色は訪問済み、ハートは絶対に行きたい場所。
訪問地一覧 久良岐のよし
小生はAndroidを使い始めてから5年で観光で訪問した町が赤い点の場所、訪問箇所は全部で942箇所らしい。
実際にはこれに加えて台湾の台北市と中国の香港市と深圳市にも訪問してる。その3都市で多分、更に50箇所位増えると思う。
小生は一人で行動する時は1日で5箇所以上は訪問する、多い日で10箇所以上、最多記録は14箇所だった・・・
でもこれ、歴史マニアの訪問箇所数としては一般的だと思う。城マニアや神社仏閣ファンは1日に10箇所訪問とかザラだと思うので小生を超える猛者は腐る程いると思う。
小生はどちらかと言うと神奈川県東部限定のローカルな古代の街道オタクなので、普段は山の中を歩いてる事の方が多く、たまに山の廃道を進んで林道と獣道が区別つかなくて横浜市や横須賀市の山の中で遭難しかけたり三浦市の海沿いの崖から落ちて骨折したりしてる(笑)。
・・・ただ今回のKGとの29箇所は今後も超える事が出来ない訪問件数だと思う。訪問地~次の訪問地まで近い場所をずっと辿って鎌倉市~寒川町~平塚市~伊勢原市~厚木市を巡った結果、多い訪問件数でも城に関しては散策に十分な滞在時間も確保する事が出来た。

では!きまぐれクック金子風に本題に戻りぃ~・・・
・・・この日の29箇所訪問旅の話を進めて行くっ⤴!

大船駅でKGをピックアップして先ずは龍寶寺に移動。
大船駅周辺
画像に表示してある場所の内、KGとは平安時代の城の村岡城、玉縄城外郭の二伝寺砦、二傳寺、久成寺、長尾城+定泉寺の瑜伽洞は訪問済み。
神奈川県に出張に来た城オタが必ず見ないといけない城が小田原城、石垣山一夜城、岡崎城、津久井城、大庭城、玉縄城、小机城で、しかし肝心の玉縄城主要部は遺構も少ない事からKGは岡崎城と玉縄城と津久井城だけが未訪問だったので今回は近い玉縄城と岡崎城を訪問コースに入れて見て回る事にした。
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陽谷山 瑞光院 龍寶寺
何故最初の訪問地が龍寶寺かと言うと、この龍寶寺の境内山門の近くには御寺の運営する郷土資料館が朝早くから無料開放されている。
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そこに玉縄城の縄張を再現した地形模型や簡単な解説の展示物が有るので、先ずここで視覚的に立体的な城の構造を復習してから見学すると理解がし易いからだ。
他にも鎌倉の特産品だった雪ノ下胴と呼ばれる甲冑や江戸時代の農機具等の貴重な展示物が有る。
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それにここは玉縄城主の北条家の供養塔も有るので、先ずは御参りして御挨拶差し上げるのが筋と言う物だとも思う。
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因みに玉縄郷土歴史館の立体模型だけでなく余り役には立たないけども日本城郭大系の当該地解説もコピーしてKGと二人で予習してから散策に臨んだ。
先ず目指した場所は七曲りの虎口。虎口と言うのはつまり城の入口を守る防御機構の事。
城=天守閣と誤解してる歴史入門者LVの人は、もう1度上のリンク⤴のサイトで復習してから写真を見ると図と照らし合わせて非常に解りやすく城の構造を理解出来ると思う。
龍寶寺から徒歩5分、直ぐに玉縄城の中心部に登る最終関門となる七曲りが有る。
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今は本丸は女子高で男性には攻め込んだら警察に通報される法律的に難攻不落(笑)の城に成っているのだが、現代も物理的に難攻不落の地形を垣間見る事が出来る。
七曲りは深い谷から一気に本丸の大手門に登って行く道なのだが、谷の両岸は裾切(すそきり)と言われる山裾を直角に切り落とす土木工事がされている。神奈川県の地層は他地域と異なり関東ローム層と隆起した砂岩の地層は登ろうとすると滑る上に地盤としての耐久性は高く加工もし易いので傾斜角が60°以上確保されており、30㎏の甲冑や武器をフル装備した歩兵は絶対に道順通りにしか侵攻する事が出来ない。
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玉縄城七曲虎口
この様に道の斜度もキツイが当時はこの道ではなくフェンスの中に更に直進出来ない様にした九十九折(つづらおり)に農道として残る狭い武者走りと言われる細い道がジグザグに有る。武者溜(むしゃだまり)と呼称される段々に成った曲輪(くるわ)の連続に成っている。
こんな構造体を段郭と言ったり一段しか無い単体なら腰曲輪と言ったりする。この“武者溜”は日本城郭大系にも詳しい図は無く小生もKGも予備知識無かったが見て段地の方が旧道と直ぐに理解出来たし看板にも説明が有ったので確認も出来た。
しかし現代の道は明治時代の地図から改変は無いものの戦国時代の関東の城にしては道幅が2m以上あり虎口としては広過ぎる上に単純過ぎる。
写真でも解るフェンス内の段郭の防御機能を活かす事が出来ていない、恐らく北条家の支配が終わり徳川家臣団が後世に改変させたハッキリ言って城のデチューンと言って良い道だと推測した。
玉縄城主郭周辺 久良岐のよし
現代の道も明治時代の測量図と近い長い直進とL字の連続する喰い違い構造に成っているので、恐らく江戸時代に成って本多正信公か大河内正綱公が城主によって近世城郭に近い形に改編された道だと思う。
こんな単純構造には北条家は城を作らない。元々七曲りなのが五曲り位の道幅も広い大手道にデチューンされてる。
・・・とは言ってもこの七曲り、御覧の通り空堀の堀底道としても機能していて防御力は高い。
ここを進軍すると両脇の城の山の尾根から弓矢鉄砲の集中砲火を受ける事に成る。この様な地形は古代に海が入り込んでいた神奈川県沿岸部の平地、東京都南部~東部、埼玉県東部、千葉県西武~東部、群馬県南東部に多く見られる。
玉縄城は要害堅固で上杉謙信公の15万、武田信玄の2万8千の軍勢に攻められた際も守備兵3千で敵勢の撤退まで守り抜き逆襲に成功した実績が有ったりする。無論、守備した北条綱成(つなしげ)公や北条康成(やすしげ)公は、時には敵だったり時には同盟者だったりした上杉謙信公や武田信玄からも賞賛された名将だったりする。
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七曲りを登りきると右手の変な崖の上に無理やり建てた(笑)民家が有るが、これが三角平場と呼称された曲輪で、七曲りを登ってくる敵を攻撃すると同時に本丸に侵入した際に敵に側面から奇襲を仕掛ける兵士を待機させる構造体だった様だ。
玉縄城縄張図
実はKGだけでなく小生も主郭周辺を見に来た事は無かった・・・
「女子高だからどうせ中に入れないし~」
・・・と自分で文献を読んで無かった初心者の頃の小生はネットの不正確な情報を鵜呑みにして近づいていなかった。
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でも実は住宅街に成った場所にも意外に多く明確な遺構が残っていたんだなぁ~と今更ながらに再認識させられた(笑)。やはり人の情報を鵜呑みにしたらダメだな。
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玉縄城は遺構こそ少ないものの玉縄城址まちづくり会議の荒井会長達の御尽力で解説が有り、残り少ない遺構も楽しく散策する事が出来る。
七曲りの武者溜(段郭)を通過し三角平場の下を突破すると大手門に行く前に左手に太鼓矢倉の平場と堀切と硝煙蔵の平場が現存している。
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説明が有るので良く解らない人でも構造の役割が理解できると思う。
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この写真を見ると太鼓矢倉の尾根が断ち切られた“堀切”が解るだろうか?
平時はここに“引き橋”と言われる仮設の橋が架かっていて、敵が攻めてくると橋を引っ込めてしまって敵が侵入出来ない鉄壁の防御構造に成る。
空堀の深さは堀底~太鼓櫓の曲輪(くるわ)まで比高8m程度と言った所だろうか?普通にこの高さを突き落されたら良くて骨折、悪ければ死ぬだろう。
この構造によって敵は山裾から尾根道伝(づた)いに真っ直ぐ本丸を目指す事は出来ず迂回して七曲りから登って来るか城主の館の道から遠回りして登って来るしかない・・・
「城入門勢の読者の皆さん、ついてこれてますか~(笑)?」
・・・と言う所だが、ここまで読んだ方は既について来れていると思うので書き進める。
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これは清泉女学院高等学校の校庭の下の崖、このコンクリで塗り固められた場所が玉縄城の大手門だった。残念ながら高校建設と宅地化の際に原型が無くなっている。
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でも玉縄城址まちづくり会議の方が説明を掲示してくれているので予備知識が無い人も当時の様子を想像する事が出来る。
この大手門から城主の館が存在したマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに降りる“陣屋坂”に向かう場所に玉縄城の石碑が有る・・・
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・・・と偉そうに解説してるが、こんな見つけ難い場所だったので通行人の人に教えて貰うまで見つけられなかった(笑)。
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登るとこんな小さな仏様と石碑が有る。
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熱心なんだけど昭和初期の郷土史家に有りがちな間違い。徳川氏の治世に成って直ぐに廃城に成ったと書いているが実際は徳川家康公の親友で謀将として活躍した本多正信公が城主に成り、更に松平の苗字の名乗りを許された大河内正綱公が城主に成っても城として機能は維持され廃城に成ったのは元禄十六年つまり江戸時代も中期に差し掛かる西暦1703年の話なので、天正十八年(1590年)に北条家が豊臣家に降伏して大阪で狭山藩1万1千石の小大名として移封されても実に113年間も存続していた事に成る。
これだから明治期~昭和初期の郷土史家や学者の書いた物を鵜呑みにしてはいけない。
因みに先に少し触れたが、この石碑の傍らの坂道が“陣屋坂”で下り切った先に有るマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに城主の居館や庭園が有った。
玉縄城御主殿址周辺 久良岐のよし
玉縄城縄張図
本丸の清泉女子の北側の尾根には御花畑の地名も残り、勇将の北条綱成公が花を栽培して蝶と戯れている風景を想像すると少し笑える位にホッコリとした安らぎも地名から感じてしまう(笑)。
綱成公の御子息の北条康成公は奥方様が主君で義理の叔父の北条氏康公の御姫様の七曲殿だった。
七曲殿の名前からも解ると思うが、七曲り虎口の入口に有る館に住んでいたので地名由来の渾名で呼ばれた様だ。当時の女性はなかなか存命中の名前が記録される事が少ないので隠居後の法名や没後の戒名しか伝わらず、七曲殿もやはり法名の新光院としか伝わっていない。
墓所は鎌倉市内の大長寺で、この大長寺は康成公が実母で北条綱成公の正妻だった大頂院殿の供養の為に建てた菩提寺だったが徳川家康公によって現在の寺名の漢字に改名させらて現在に至る。

まぁ、KGとの鬼の訪問件数の1日、初回の記事は玉縄城の解説と言う事でここまでにして、この続きは又次回のブログで書きたいと思う・・・