豊臣家滅亡の決定打と成った大坂城総堀埋立作戦を立案した間宮直元公と言う武将がいた事は並みの歴史オタクでは余り知ってる人はいませんが、皆さんは御存知でしょうか?
横浜市教育委員会でも知ってる人は少なく、寧ろ兵庫県朝来市教育委員会の方々の方が詳しかったりします。
これは以前、朝来市教育委員会から御提供頂いた生野銀山と代官所と生野城の総構えの縄張図を小生がGoogleEarthに貼り付けて立体表示した画像です。
実は間宮直元公は生野銀山の初代代官と佐渡金山二代目代官、そして今の横浜市長の前身に当たる本牧奉行を兼務した武将だったんですね。
そして叔母の於久(おひさ)サンが徳川家康公の寵愛を受けて御姫様を駿府城で生んでいる事から実質外戚としても徳川家と近い立場に有って、徳川秀忠公とは大の相撲好きとして御互いに召し抱えている配下の相撲取り同士を対戦させて観戦させたり非常に仲が良かった事も“横浜市ではなく”兵庫県や静岡県の歴史資料に記録されて今も残っていたりします。
玉桂山 華陽院
この華陽院は間宮直元公の叔母の於久さんが駿府城で生涯を終えてから御廟所が設けられた寺院で、生前に家康公との間に設けて早世した御二人の子の市姫様の御廟所も有ります。
ちゃんと家康公の本拠地の駿府城下の葵区では於久様を側室として伝えているのに横浜市教育委員会と御用学者は悪意を持って“侍女=使用人”としてしか記載しません。
そして市姫様を静岡ではちゃんと於久さんの生んだ姫様と伝えているのに、御用学者達は同時期に側室だった“於梶(おかじ)の方=於勝(おかつ)さん”の姫と事実と異なる事を書いてる本まで存在します。しかし家康公と於勝さんの姫様は伏見城時代の姫様だったので、今も京都の清涼寺には家康公と於勝さんの御姫様の菩提寺として供養の為に描かれた絵が現存していたりします。
この御用学者ぐるみの横浜市内での歴史改竄が如何に異常事態か皆さんにも御分かり頂けるかと思います。
東光山 英勝寺
因(ちな)みに於梶の方は尼僧に成り隠居すると、鎌倉市扇谷(おおぎがやつ)の先祖の太田道灌公の屋敷地だった場所を隠居地として幕府から拝領して英勝寺を開き、寺内に小規模ながら立派な東照宮を建立して家康公と御先祖様太田道灌公の菩提を弔いました。
太田道灌公については以前、解説記事を書いているので御興味の有る方は下記リンクから御一読下さい。
話を華陽院に戻すと、この御寺はそもそも徳川家康公が今川家の人質時代として駿府城下で生活していた頃に華陽院は“知源院”と言う名前の御寺で、家康公はここで読み書きを学んだと静岡市教育委員会では伝えているのにも関わらず、歴史小説家どもは勝手に事実を無視して歴史捏造して今川義元公の軍師で臨済宗の僧侶だった太原雪斎和尚に学問を習った事にしたりしています。これは大デマです。
特に三谷幸喜の脚本は歴史事実を無視して歴史偉人の実際の行動や言動と真反対の事を演出して真田丸でも偉人を貶める等酷い物でした。
大河ドラマってのはコレ⤴の06:12の所みたいに実在する総合格闘技のカーフキックと言う技術をやっている様(よう)に見せて実際は全くガチじゃない悪質な“嘘”の物語です。
本当の歴史と我々が享受している生活の確立までには下の動画のカーフキックみたいに痛々しく、そして多くの人の悲しみと少しの人の成功の積み重ねの歴史で出来ているんです。
コレ⤴の04:39の部分のカーフキックが本当の歴史だとしたら、歴史と同じ様に本当の様に脚本を書く酷いプロレスが三谷幸喜はじめ歴史作家やドラマの脚本家や御用学者です。
ですから皆さん、大河ドラマや歴史小説を“歴史”として見てはいけないんです。アレは格闘技に例えると嘘ばかりのプロレス、ガチで本当に人が失神したり関節を折られる総合格闘技や軍隊格闘術に当たるのが古文書や社伝や寺伝なんです。
このプロレスの06:53からの嘘の腕関節⤴が大河ドラマと歴史小説。
この総合格闘技02:07からのガチ腕関節⤵が歴史古文書と社伝寺伝。
これ位に歴史と小説は全く違うので皆さんも、小説では無く、そして例え歴史ガクシャ様が書いた物でも、そのガクシャ様のスポンサーに忖度して事実を歪曲したり故意に部分的に“書かない”選択をしている物も有るので、必ず歴史は自分で数百年経っていようが現地に行って墓碑を読み、地形を見て、現地の旧家に取材して下さいね。
小生がブログを書き始めて6年半、歴史が専攻でも無いのに既に多くの“御用”歴史ガクシャ様達の間違った情報が書かれた本を発見しましたよ。
なんちゃらって勲章を貰ったオバチャンも自分のブログに誘導してコメント欄で直接対決して論破し、それをコメント欄で暫く晒していたので古参の読者の方には良く御存知の方もいるかと思います。
小生が良く言う事ですが、特に信じてはいけない丸写しにしてはいけない注意して事実確認してから紹介しないといけないのが明治時代~昭和初期の歴史ガクシャ様が書いた本です。
当時の学者がスッゴイ開発利権に配慮して(笑)、故意か偶然か城として紹介していない部分も実際に歩くと沢山の堀切や竪堀や横掘りや土塁や武者走りが残っている場所が有ったりします。
間宮家は特に横浜市域を本拠地にしていたので、居城の笹下城も地名から巨大だった事が判明していますが意図的に残されていた大切岸を調査せず平面部分だけを調査して、戦国時代の城で曲輪から出る訳の無い建造物を故意に探して“史跡じゃない”と調査報告書が書かれたりして城址は遺構が跡形も無くなってしまいました。
例えば下の写真は笹下城の大空堀ですが・・・
・・・現在では保存されず、こんな風に⤴成ってしまいました。今では平成に成ってから拡張された武者走りが残っているのみです。
最近破壊された場所だと笹下城の大空堀だけでなく、藤沢市の村岡城址公園南側の宅地化された尾根を裾切した典型的な平安時代の山城地形であったりします。
鐙摺城跡は未だ残っていますが、吾妻鏡でも鐙摺城の北西に旗立山が有ると記載されているのにも関わらず、日本城郭大系でもスル―され故意か偶然か紹介から抹消され旗立山だけを鐙摺城と謎の紹介をしています。
葉山港東側の旗立山の更に向かいの日影茶屋裏の桜山には明らかに典型的な平安末期の三浦一族の山城地形が残っていたりしますし、現在葉山町と昔とは異なる地名に改竄された堀之内村の範囲がモロに日影茶屋裏の桜山を囲んだ範囲だった事が明治時代の迅速測図で確認出来ます。
鐙摺城は最近、京浜急行電鉄が開発権利を放棄した場所に当たります。恐らく京急は悪くなく、理由は解りませんが吾妻鏡の記載を書かなかった“ガクシャサマ”が悪いんですね。
鐙摺城は逗子市と葉山町に跨っていますが、横浜市の場合は更に開発利権と行政の結び付きが強く、昔は特に出来るだけ史跡認定せずに開発が進められ発掘調査すらされず平安時代~戦国時代の史跡が破壊しつくされたんですね。
上は小生が最近発見した新編武蔵風土記稿に“城”として御寺の紹介に記載されているにも関わらず日本城郭大系が一切触れなかった円海山の山中に残されている立派な空堀の跡です。
既に横浜市教育委員会には通知して有りますが、今後どうなるんでしょうね?
恐らく城として何の調査もしないと思いますよ。
現在でも神奈川県と横浜市は学芸員に城郭専門家を一人も雇っていないと言う、とんでも無い事実も現在進行形で有ります。
横浜市と神奈川県内には名城が多く“有る”にも関わらずです。そんな事も有って間宮家の史跡は高度経済成長期に悉(ことご)く消滅させられてしまいました。
静岡県三島市では今でも間宮直元公の御爺さんの間宮康俊公は尊敬されていて、箱根山の三島市側に所在する山中城跡で行われる山中城祭りでは主人公として引き立てられています。
戦国時代の神奈川県東部を代表する名将の間宮康俊公や間宮直元公が本拠地の神奈川県では無名で静岡県や兵庫県では有名と言う意味不明な現象が起きているのは、完全に横浜市役所の責任ですね。
そんな訳で間宮直元公は凄い歴史偉人だった訳ですが、上の写真は朝来市教育委員会様より以前提供して頂いた灰吹き法で精錬された生野銀山産の銀塊の資料写真です。
間宮直元公は灰吹き法と言う西欧渡来の当時最先端の金属精錬技術を用いていた様で、生野代官を勤めていた時代に銀の生産の増産に成功しています。当時佐渡金山奉行だった武田旧臣の大久保長安公は思うように金の産出量を上げれず寧ろ段々と業績を悪化させた事で佐渡奉行を更迭され、第二代佐渡金山奉行を間宮直元公が兼務する事に成ると生野銀山の職人衆と神奈川県の笹下間宮家臣団を率いて着任するや否や佐渡金山の生産向上と経営改革を瞬く間に成功させ、佐渡には奉行職の代理を置いて当時の世界経済で金より重要だった銀の生産の為に生野代官所に凱旋した事が朝来市の史料に記載されています。
そして徳川家康公より間宮直元公は最初の夏の大坂城攻めでは奉行職に専念して参戦しない様に厳命されていました。これは自分の愛妻の一人である於久サンの甥っ子である直元公への家康公から配慮があったと思われます。
上の画像、スマホで拡大して字が読めるでしょうか?恐らくPCならクリックして拡大すれば見えるはずですが、江戸幕府が編集した寛政重修諸家譜に記載されている間宮家の系図です。
寛政重修諸家譜は幕府の役人の誤記も多いので、内容の誤字脱字と人物の取り違えは気を付けて読んでいかないといけませんが概略としては使えます。
その間違いが間宮家の記載でも発生している事は以前、解説を書いているので御興味有る方は上のリンクから御覧下さい。
本題に戻すと、直元公の実父の康信公は上司が北条綱成公の時代に駿河戦線で起きた第二次薩埵峠の戦いでは間宮康信隊が単独で武田信玄軍団に猛烈な追撃を仕掛けて武田側に大損害を与える等、武勇に優れた武将でした。
下の写真は黒駒合戦の際に北条家の軍勢が駐留した御坂城から見た河口湖の景色です。
康信公は黒駒合戦で討ち死にしました。
主家の北条家が代替わりし北条氏勝公、北条氏光公と言う戦下手な大将達が軍団を率いる様に成ってから成ってから北条家は連戦連敗でした。この黒駒合戦でも徳川家の鳥居元忠公と水野勝成と言う猛将二人から北条軍は奇襲を受け、康信公は上司を逃がす間に討ち死にしてしましました。
そして祖父の間宮康俊公が山中城で豊臣家と徳川家の軍勢に攻められて討ち死にしてしまっているので、間宮本家は直元公しか指揮官になれる人材が残っていない緊急事態だった訳ですね。
つまり、間宮直元公と於久サンは肉親を家康公の家臣団によって殺害され、直元公も兄弟がいなかったので間宮家嫡流は直元公が急死する様な事が有れば、幼齢で未だ子供だった忠次公しかいなく間宮家が機能麻痺する事を回避する為に嫡子がいても傍流の親戚から養子をとらないといけないかも知れない危機が起こる訳です。
何故(なぜ)、忠次公が当時まだ子供だったと断定出来るかと言うと、間宮直元公は大坂攻めの最中に1614年44歳で陣没します。しかし忠次公が家康公に御仕えしたのは寛永二年(1625年)に成って要約、領地保証の朱印状を発行されているらしい事のが家系図を見ると解ります❝が❞既にオカシイ事は歴史に詳しい小生のブログの読者の皆さんなら分かったと思います。
家康公は元和二年(1616年)に亡くなっているので、タイミングが合わないのにお気づきでしょうか?
これは本来、各家が自主的に提出した寛政譜を勝手に江戸幕府が手入れして再編集した寛政重修諸家譜で編集担当の武士❝役人❞が誤編集してる事が解りますね。
つまり忠次公の話は下の様な時系列でなければおかしい訳です。
●1614年(慶長十九年)
間宮直元公つまり間宮忠次公の実父が大坂城攻めで陣没している。
徳川幕府では後継者指名を行わなわず当主が急死した場合は経営者として不適格とされて所領を没収され解雇されます。しかし特例とする為に幼齢だった間宮忠次公が徳川家康公に直接相続を認められるものの成人まで徳川秀忠公等とも懇意の後見人が代理を務めた事が考えられる。
分家で所領が本牧奉行支配地に隣接する杉田間宮家の間宮信繁公は徳川家康公に直接近習した徳川幕府鷹匠頭(奉行)だったので、この信繁公が本家の笹下間宮家を支援して後見人だった可能性が有る。
仮にこの想定が実在したのならば代々真言宗と禅宗と修験道を主に信仰した本家の笹下間宮家の間宮直元公の御神像を祀り奥方の智性院様の菩提寺の磯子区妙蓮寺が日蓮宗寺院として開かれた事にも説明が着く。
杉田間宮家の宗旨は日蓮宗と禅宗と修験道が主な信仰で、その菩提寺も磯子区妙法寺であり日蓮宗中山法華経寺の直接末寺である事にも整合性が有る。
⇑
間宮直元公死亡
⇕タイムラグ11年発生。
間宮忠次公相続
⇓
●1625年(寛永二年)
間宮忠次が所領を安堵される御朱印を発行された年。特例で家康公に❝特例で仕えた❞がこのタイミングで幼齢だったからこそ1614年~1625年の11年間もの間タイムラグが発生したと考えられる。
実際、この1625年は既に徳川家康公はおろか徳川秀忠公も前年に亡くなっており、既に徳川家光公の時代だったのにも関わらず、間宮本家の所領は没収されていなかった訳です。
それどころか駿河大納言忠長公の改易後、家光公の治世下で駿河(蒲原)代官を務めたのが間宮忠次公でした。東京の駿河台の地名は間宮忠次公が屋敷を造営した事に由来します。
そして慶長十九年(1614年)に発生した大坂夏の陣~187年後の徳川幕府の役人が再編集した寛政重修諸家譜ではあたかも❝忠次公が家康公に実務で仕えたのが1614年から❞と勘違いさせる様な編集がされているが、これは後継者として家康公によって認知されたと言う説明を端折ったか書いた記者が家康公への拝謁と家督相続を時系列で平行の出来事と事実誤認したまま❝誤記❞した以外に有りえない事が解る訳です。
つまり武士の成人年齢は15歳前後ですから、例えば1625年で少し遅く18歳前後で元服したとしても、1614年には未だ7歳前後だった事が推測出来る訳です。
逆算すると直元公37歳の時の子供と成りますが、当然ながら兄や姉もいたでしょう。当時はおろか我家の系図を見ても明治~大正~昭和初期に乳幼児や幼児が夭逝(ようせい:幼齢で亡くなる)事は多数有り珍しく有りませんでしたしね。西洋医学の無かった安土桃山~江戸時代初期なんて更に子供の死亡率は高かったでしょう。
間宮家は所領こそ1千石(年俸6千万円位)と普通の大名家の家老クラスの所得でしたが、本牧奉行、但馬奉行、佐渡奉行と3個も奉行職を兼務しているので実高5万石の大名に相当する所得が有ったと記録されています。
当時の徳川幕府の規則では、当主が跡継ぎを定めずに亡くなった場合は領地没収の上解雇される規則でした。
ただでさえ跡継ぎが幼齢の場合は叔父が後見人に成りますから、色々と面倒くさい事に成る訳です。
こんな風⤵にね~。
今も昔も変わらず、間宮一族内で間宮本家の遺産を巡って跡継ぎ争いの骨肉の内紛が起きてしまう可能性が有ったんですね。江戸時代に成っても暗殺や殺し合いはたまに有った話ですからね~。
家康公は、これを心配し更に自分にとっても愛妻の甥である直元公は実子の秀忠公と主従関係ではあるけれども良い友達だったので身内としても心配なさったのだと思います。
家康公が直接的に急死した直元公の後継者として幼齢でも忠次公を引見すれば特例が成立しますし、直元公と❝相撲オタク仲間❞であり年齢が比較的近い❝親戚❞だった徳川秀忠公の配慮も当然有ったと思います。
それを証明するのが同じく大坂で討死にした分家の高津間宮家の間宮正秀公の存在だろう事も解る訳です。実はこの正秀公は戒名を貰って仏教形式で埋葬されるのではなく、徳川秀忠公の❝御感❞によって神格を認められて千葉県八千代市の❝高秀靈神社❞の御祭神に成っており、尚且つその高秀靈神社が御廟所でもあったりする。
その事は2016年に観音寺を訪問した際に御高齢だった御住職からも御教示頂いているので、これに関しては寛政重修諸家譜は寺伝とも整合性が有る。
因(ちな)みに、この間宮正秀公の御子孫が東京大学地誌編纂室の前身に当たる昌平坂学問所の頭取(学長)だった間宮士信(ことのぶ)公で新編武蔵風土記稿や新編相模風土記稿等の編集長だったりする。まぁ~配下の各記者の誤字や誤記や取材不足は多いんだけどね。
横浜市教育委員会でも知ってる人は少なく、寧ろ兵庫県朝来市教育委員会の方々の方が詳しかったりします。
これは以前、朝来市教育委員会から御提供頂いた生野銀山と代官所と生野城の総構えの縄張図を小生がGoogleEarthに貼り付けて立体表示した画像です。
実は間宮直元公は生野銀山の初代代官と佐渡金山二代目代官、そして今の横浜市長の前身に当たる本牧奉行を兼務した武将だったんですね。
そして叔母の於久(おひさ)サンが徳川家康公の寵愛を受けて御姫様を駿府城で生んでいる事から実質外戚としても徳川家と近い立場に有って、徳川秀忠公とは大の相撲好きとして御互いに召し抱えている配下の相撲取り同士を対戦させて観戦させたり非常に仲が良かった事も“横浜市ではなく”兵庫県や静岡県の歴史資料に記録されて今も残っていたりします。
玉桂山 華陽院
054-252-3673
ちゃんと家康公の本拠地の駿府城下の葵区では於久様を側室として伝えているのに横浜市教育委員会と御用学者は悪意を持って“侍女=使用人”としてしか記載しません。
そして市姫様を静岡ではちゃんと於久さんの生んだ姫様と伝えているのに、御用学者達は同時期に側室だった“於梶(おかじ)の方=於勝(おかつ)さん”の姫と事実と異なる事を書いてる本まで存在します。しかし家康公と於勝さんの姫様は伏見城時代の姫様だったので、今も京都の清涼寺には家康公と於勝さんの御姫様の菩提寺として供養の為に描かれた絵が現存していたりします。
この御用学者ぐるみの横浜市内での歴史改竄が如何に異常事態か皆さんにも御分かり頂けるかと思います。
東光山 英勝寺
046-722-3534
太田道灌公については以前、解説記事を書いているので御興味の有る方は下記リンクから御一読下さい。
話を華陽院に戻すと、この御寺はそもそも徳川家康公が今川家の人質時代として駿府城下で生活していた頃に華陽院は“知源院”と言う名前の御寺で、家康公はここで読み書きを学んだと静岡市教育委員会では伝えているのにも関わらず、歴史小説家どもは勝手に事実を無視して歴史捏造して今川義元公の軍師で臨済宗の僧侶だった太原雪斎和尚に学問を習った事にしたりしています。これは大デマです。
特に三谷幸喜の脚本は歴史事実を無視して歴史偉人の実際の行動や言動と真反対の事を演出して真田丸でも偉人を貶める等酷い物でした。
大河ドラマってのはコレ⤴の06:12の所みたいに実在する総合格闘技のカーフキックと言う技術をやっている様(よう)に見せて実際は全くガチじゃない悪質な“嘘”の物語です。
本当の歴史と我々が享受している生活の確立までには下の動画のカーフキックみたいに痛々しく、そして多くの人の悲しみと少しの人の成功の積み重ねの歴史で出来ているんです。
コレ⤴の04:39の部分のカーフキックが本当の歴史だとしたら、歴史と同じ様に本当の様に脚本を書く酷いプロレスが三谷幸喜はじめ歴史作家やドラマの脚本家や御用学者です。
ですから皆さん、大河ドラマや歴史小説を“歴史”として見てはいけないんです。アレは格闘技に例えると嘘ばかりのプロレス、ガチで本当に人が失神したり関節を折られる総合格闘技や軍隊格闘術に当たるのが古文書や社伝や寺伝なんです。
このプロレスの06:53からの嘘の腕関節⤴が大河ドラマと歴史小説。
この総合格闘技02:07からのガチ腕関節⤵が歴史古文書と社伝寺伝。
これ位に歴史と小説は全く違うので皆さんも、小説では無く、そして例え歴史ガクシャ様が書いた物でも、そのガクシャ様のスポンサーに忖度して事実を歪曲したり故意に部分的に“書かない”選択をしている物も有るので、必ず歴史は自分で数百年経っていようが現地に行って墓碑を読み、地形を見て、現地の旧家に取材して下さいね。
小生がブログを書き始めて6年半、歴史が専攻でも無いのに既に多くの“御用”歴史ガクシャ様達の間違った情報が書かれた本を発見しましたよ。
なんちゃらって勲章を貰ったオバチャンも自分のブログに誘導してコメント欄で直接対決して論破し、それをコメント欄で暫く晒していたので古参の読者の方には良く御存知の方もいるかと思います。
小生が良く言う事ですが、特に信じてはいけない丸写しにしてはいけない注意して事実確認してから紹介しないといけないのが明治時代~昭和初期の歴史ガクシャ様が書いた本です。
当時の学者がスッゴイ開発利権に配慮して(笑)、故意か偶然か城として紹介していない部分も実際に歩くと沢山の堀切や竪堀や横掘りや土塁や武者走りが残っている場所が有ったりします。
間宮家は特に横浜市域を本拠地にしていたので、居城の笹下城も地名から巨大だった事が判明していますが意図的に残されていた大切岸を調査せず平面部分だけを調査して、戦国時代の城で曲輪から出る訳の無い建造物を故意に探して“史跡じゃない”と調査報告書が書かれたりして城址は遺構が跡形も無くなってしまいました。
例えば下の写真は笹下城の大空堀ですが・・・
・・・現在では保存されず、こんな風に⤴成ってしまいました。今では平成に成ってから拡張された武者走りが残っているのみです。
最近破壊された場所だと笹下城の大空堀だけでなく、藤沢市の村岡城址公園南側の宅地化された尾根を裾切した典型的な平安時代の山城地形であったりします。
鐙摺城跡は未だ残っていますが、吾妻鏡でも鐙摺城の北西に旗立山が有ると記載されているのにも関わらず、日本城郭大系でもスル―され故意か偶然か紹介から抹消され旗立山だけを鐙摺城と謎の紹介をしています。
葉山港東側の旗立山の更に向かいの日影茶屋裏の桜山には明らかに典型的な平安末期の三浦一族の山城地形が残っていたりしますし、現在葉山町と昔とは異なる地名に改竄された堀之内村の範囲がモロに日影茶屋裏の桜山を囲んだ範囲だった事が明治時代の迅速測図で確認出来ます。
鐙摺城は最近、京浜急行電鉄が開発権利を放棄した場所に当たります。恐らく京急は悪くなく、理由は解りませんが吾妻鏡の記載を書かなかった“ガクシャサマ”が悪いんですね。
鐙摺城は逗子市と葉山町に跨っていますが、横浜市の場合は更に開発利権と行政の結び付きが強く、昔は特に出来るだけ史跡認定せずに開発が進められ発掘調査すらされず平安時代~戦国時代の史跡が破壊しつくされたんですね。
上は小生が最近発見した新編武蔵風土記稿に“城”として御寺の紹介に記載されているにも関わらず日本城郭大系が一切触れなかった円海山の山中に残されている立派な空堀の跡です。
既に横浜市教育委員会には通知して有りますが、今後どうなるんでしょうね?
恐らく城として何の調査もしないと思いますよ。
現在でも神奈川県と横浜市は学芸員に城郭専門家を一人も雇っていないと言う、とんでも無い事実も現在進行形で有ります。
横浜市と神奈川県内には名城が多く“有る”にも関わらずです。そんな事も有って間宮家の史跡は高度経済成長期に悉(ことご)く消滅させられてしまいました。
静岡県三島市では今でも間宮直元公の御爺さんの間宮康俊公は尊敬されていて、箱根山の三島市側に所在する山中城跡で行われる山中城祭りでは主人公として引き立てられています。
戦国時代の神奈川県東部を代表する名将の間宮康俊公や間宮直元公が本拠地の神奈川県では無名で静岡県や兵庫県では有名と言う意味不明な現象が起きているのは、完全に横浜市役所の責任ですね。
そんな訳で間宮直元公は凄い歴史偉人だった訳ですが、上の写真は朝来市教育委員会様より以前提供して頂いた灰吹き法で精錬された生野銀山産の銀塊の資料写真です。
間宮直元公は灰吹き法と言う西欧渡来の当時最先端の金属精錬技術を用いていた様で、生野代官を勤めていた時代に銀の生産の増産に成功しています。当時佐渡金山奉行だった武田旧臣の大久保長安公は思うように金の産出量を上げれず寧ろ段々と業績を悪化させた事で佐渡奉行を更迭され、第二代佐渡金山奉行を間宮直元公が兼務する事に成ると生野銀山の職人衆と神奈川県の笹下間宮家臣団を率いて着任するや否や佐渡金山の生産向上と経営改革を瞬く間に成功させ、佐渡には奉行職の代理を置いて当時の世界経済で金より重要だった銀の生産の為に生野代官所に凱旋した事が朝来市の史料に記載されています。
そして徳川家康公より間宮直元公は最初の夏の大坂城攻めでは奉行職に専念して参戦しない様に厳命されていました。これは自分の愛妻の一人である於久サンの甥っ子である直元公への家康公から配慮があったと思われます。
上の画像、スマホで拡大して字が読めるでしょうか?恐らくPCならクリックして拡大すれば見えるはずですが、江戸幕府が編集した寛政重修諸家譜に記載されている間宮家の系図です。
寛政重修諸家譜は幕府の役人の誤記も多いので、内容の誤字脱字と人物の取り違えは気を付けて読んでいかないといけませんが概略としては使えます。
その間違いが間宮家の記載でも発生している事は以前、解説を書いているので御興味有る方は上のリンクから御覧下さい。
本題に戻すと、直元公の実父の康信公は上司が北条綱成公の時代に駿河戦線で起きた第二次薩埵峠の戦いでは間宮康信隊が単独で武田信玄軍団に猛烈な追撃を仕掛けて武田側に大損害を与える等、武勇に優れた武将でした。
下の写真は黒駒合戦の際に北条家の軍勢が駐留した御坂城から見た河口湖の景色です。
康信公は黒駒合戦で討ち死にしました。
主家の北条家が代替わりし北条氏勝公、北条氏光公と言う戦下手な大将達が軍団を率いる様に成ってから成ってから北条家は連戦連敗でした。この黒駒合戦でも徳川家の鳥居元忠公と水野勝成と言う猛将二人から北条軍は奇襲を受け、康信公は上司を逃がす間に討ち死にしてしましました。
そして祖父の間宮康俊公が山中城で豊臣家と徳川家の軍勢に攻められて討ち死にしてしまっているので、間宮本家は直元公しか指揮官になれる人材が残っていない緊急事態だった訳ですね。
つまり、間宮直元公と於久サンは肉親を家康公の家臣団によって殺害され、直元公も兄弟がいなかったので間宮家嫡流は直元公が急死する様な事が有れば、幼齢で未だ子供だった忠次公しかいなく間宮家が機能麻痺する事を回避する為に嫡子がいても傍流の親戚から養子をとらないといけないかも知れない危機が起こる訳です。
何故(なぜ)、忠次公が当時まだ子供だったと断定出来るかと言うと、間宮直元公は大坂攻めの最中に1614年44歳で陣没します。しかし忠次公が家康公に御仕えしたのは寛永二年(1625年)に成って要約、領地保証の朱印状を発行されているらしい事のが家系図を見ると解ります❝が❞既にオカシイ事は歴史に詳しい小生のブログの読者の皆さんなら分かったと思います。
家康公は元和二年(1616年)に亡くなっているので、タイミングが合わないのにお気づきでしょうか?
これは本来、各家が自主的に提出した寛政譜を勝手に江戸幕府が手入れして再編集した寛政重修諸家譜で編集担当の武士❝役人❞が誤編集してる事が解りますね。
つまり忠次公の話は下の様な時系列でなければおかしい訳です。
●1614年(慶長十九年)
間宮直元公つまり間宮忠次公の実父が大坂城攻めで陣没している。
徳川幕府では後継者指名を行わなわず当主が急死した場合は経営者として不適格とされて所領を没収され解雇されます。しかし特例とする為に幼齢だった間宮忠次公が徳川家康公に直接相続を認められるものの成人まで徳川秀忠公等とも懇意の後見人が代理を務めた事が考えられる。
分家で所領が本牧奉行支配地に隣接する杉田間宮家の間宮信繁公は徳川家康公に直接近習した徳川幕府鷹匠頭(奉行)だったので、この信繁公が本家の笹下間宮家を支援して後見人だった可能性が有る。
仮にこの想定が実在したのならば代々真言宗と禅宗と修験道を主に信仰した本家の笹下間宮家の間宮直元公の御神像を祀り奥方の智性院様の菩提寺の磯子区妙蓮寺が日蓮宗寺院として開かれた事にも説明が着く。
杉田間宮家の宗旨は日蓮宗と禅宗と修験道が主な信仰で、その菩提寺も磯子区妙法寺であり日蓮宗中山法華経寺の直接末寺である事にも整合性が有る。
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間宮直元公死亡
⇕タイムラグ11年発生。
間宮忠次公相続
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●1625年(寛永二年)
間宮忠次が所領を安堵される御朱印を発行された年。特例で家康公に❝特例で仕えた❞がこのタイミングで幼齢だったからこそ1614年~1625年の11年間もの間タイムラグが発生したと考えられる。
実際、この1625年は既に徳川家康公はおろか徳川秀忠公も前年に亡くなっており、既に徳川家光公の時代だったのにも関わらず、間宮本家の所領は没収されていなかった訳です。
それどころか駿河大納言忠長公の改易後、家光公の治世下で駿河(蒲原)代官を務めたのが間宮忠次公でした。東京の駿河台の地名は間宮忠次公が屋敷を造営した事に由来します。
そして慶長十九年(1614年)に発生した大坂夏の陣~187年後の徳川幕府の役人が再編集した寛政重修諸家譜ではあたかも❝忠次公が家康公に実務で仕えたのが1614年から❞と勘違いさせる様な編集がされているが、これは後継者として家康公によって認知されたと言う説明を端折ったか書いた記者が家康公への拝謁と家督相続を時系列で平行の出来事と事実誤認したまま❝誤記❞した以外に有りえない事が解る訳です。
つまり武士の成人年齢は15歳前後ですから、例えば1625年で少し遅く18歳前後で元服したとしても、1614年には未だ7歳前後だった事が推測出来る訳です。
逆算すると直元公37歳の時の子供と成りますが、当然ながら兄や姉もいたでしょう。当時はおろか我家の系図を見ても明治~大正~昭和初期に乳幼児や幼児が夭逝(ようせい:幼齢で亡くなる)事は多数有り珍しく有りませんでしたしね。西洋医学の無かった安土桃山~江戸時代初期なんて更に子供の死亡率は高かったでしょう。
間宮家は所領こそ1千石(年俸6千万円位)と普通の大名家の家老クラスの所得でしたが、本牧奉行、但馬奉行、佐渡奉行と3個も奉行職を兼務しているので実高5万石の大名に相当する所得が有ったと記録されています。
当時の徳川幕府の規則では、当主が跡継ぎを定めずに亡くなった場合は領地没収の上解雇される規則でした。
ただでさえ跡継ぎが幼齢の場合は叔父が後見人に成りますから、色々と面倒くさい事に成る訳です。
こんな風⤵にね~。
今も昔も変わらず、間宮一族内で間宮本家の遺産を巡って跡継ぎ争いの骨肉の内紛が起きてしまう可能性が有ったんですね。江戸時代に成っても暗殺や殺し合いはたまに有った話ですからね~。
家康公は、これを心配し更に自分にとっても愛妻の甥である直元公は実子の秀忠公と主従関係ではあるけれども良い友達だったので身内としても心配なさったのだと思います。
家康公が直接的に急死した直元公の後継者として幼齢でも忠次公を引見すれば特例が成立しますし、直元公と❝相撲オタク仲間❞であり年齢が比較的近い❝親戚❞だった徳川秀忠公の配慮も当然有ったと思います。
それを証明するのが同じく大坂で討死にした分家の高津間宮家の間宮正秀公の存在だろう事も解る訳です。実はこの正秀公は戒名を貰って仏教形式で埋葬されるのではなく、徳川秀忠公の❝御感❞によって神格を認められて千葉県八千代市の❝高秀靈神社❞の御祭神に成っており、尚且つその高秀靈神社が御廟所でもあったりする。
その事は2016年に観音寺を訪問した際に御高齢だった御住職からも御教示頂いているので、これに関しては寛政重修諸家譜は寺伝とも整合性が有る。
因(ちな)みに、この間宮正秀公の御子孫が東京大学地誌編纂室の前身に当たる昌平坂学問所の頭取(学長)だった間宮士信(ことのぶ)公で新編武蔵風土記稿や新編相模風土記稿等の編集長だったりする。まぁ~配下の各記者の誤字や誤記や取材不足は多いんだけどね。
この高秀靈神社と秀忠公の関係性を見ても、大坂夏の陣で陣没して遺骸が横浜市に帰って来なかった直元公が後で紹介する磯子区妙蓮寺で御神像として本堂に祀られていた状況とも整合する。
直元公の生前の法名は宗夢とされているので笹下間宮本家の例に洩れず、曹洞宗で生前に学問を学んでいた事が解ったりする。
そして真言宗系修験道にも造詣が深い家系なので南区の宝生寺を支援して、現在の❝横浜市❞の地名由来と成った古文書を仏像の体内に残し現代人の我々に伝える事にも成ったのだと思う。
直元公亡き後の11年間、鷹匠頭として家康公の寵臣であり実務力にも長けた間宮信繁公が後見した可能性が出て来るのが、本来は真言宗修験道と曹洞宗が宗旨の間宮本家の笹下間宮家の間宮直元公と奥方様の智性院様の菩提寺の旧笹下郷の磯子区日蓮宗妙蓮寺の存在です。
智性院様の菩提寺として開かれた妙蓮寺は横浜市磯子区田中に現存しています。
常林山 妙蓮寺
横浜市は他都市からの移民だらけで、いつまでたっても意識の中で帰る場所が横浜では無くて別に田舎が有って、自分の町と言う意識が無く全く自分の住む町に郷土愛の無い人も多いですからね。
横浜市は地方都市より御金も有る階層が多いと思うんですけどね~。
豊かさってなんなんでしょうね。
自然や文化を大切に出来ない、金だけかせいで社会貢献もせず先人が今に伝えこれからも残すべき物を何にも大切に出来ない人達は精神的に豊かじゃないと思った1日でした。
でも常正院様と御話出来た様な気分に成った1日でもあり、何だか元気な安土桃山時代~江戸時代初期の女性の様な気がします。常正院様(笑)。直元公にも御話を聞きたいな~。
又、御挨拶に伺いますね~♪
では皆さん・・・
自分の住む地域にも少しは関心を持って、城跡の公園や山、偉人の関わった神社や御寺を散歩してみて下さい!
・・・又、次の記事で御会いしましょう~!
直元公の生前の法名は宗夢とされているので笹下間宮本家の例に洩れず、曹洞宗で生前に学問を学んでいた事が解ったりする。
そして真言宗系修験道にも造詣が深い家系なので南区の宝生寺を支援して、現在の❝横浜市❞の地名由来と成った古文書を仏像の体内に残し現代人の我々に伝える事にも成ったのだと思う。
直元公亡き後の11年間、鷹匠頭として家康公の寵臣であり実務力にも長けた間宮信繁公が後見した可能性が出て来るのが、本来は真言宗修験道と曹洞宗が宗旨の間宮本家の笹下間宮家の間宮直元公と奥方様の智性院様の菩提寺の旧笹下郷の磯子区日蓮宗妙蓮寺の存在です。
智性院様の菩提寺として開かれた妙蓮寺は横浜市磯子区田中に現存しています。
常林山 妙蓮寺
小生たまに箱根山中城跡の間宮康俊公の御廟や川崎駅前の宗三寺の間宮信盛公の御廟、鶴見区の間宮信冬公の開いた宝泉寺や、源頼朝公が開いて間宮家が崇敬した磯子区の泉蔵院熊野神社、間宮家が関与していた南区の弘明寺に御参りに行くのですが、昨日も妙蓮寺に行ってきました。
間宮直元公の奥方の智性院様の墓石は残っているのですが、残念な事に御寺サンが手入れする余裕無いらしく荒れてたので許可を頂いた上で御掃除して御線香を上げて来ました。
上が智性院様の墓石。読めますかね~?
妙法‟智性院法祐日富大禅定尼”位
でも新編武蔵風土記稿には・・・
智性院法祐日富大姉
・・・が法名だと書いて有ります。
間宮直元公の奥方の智性院様の墓石は残っているのですが、残念な事に御寺サンが手入れする余裕無いらしく荒れてたので許可を頂いた上で御掃除して御線香を上げて来ました。
上が智性院様の墓石。読めますかね~?
妙法‟智性院法祐日富大禅定尼”位
でも新編武蔵風土記稿には・・・
智性院法祐日富大姉
・・・が法名だと書いて有ります。
ほらね?言ったでしょ、自分で実物を確認しないで人の書いた物をコピペすると痛い目に合うって。
墓碑には智性院法祐日富大禅定尼位と書いて有るのだから、言うまでも無く僅かとは言え風土記の記載は誤記が有る訳です。
そして、これは板の様な形ですが石碑や供養塔ではありません。
同時期に元北条家臣で徳川家臣だった旭区三佛寺にある宅間上杉規富公と奥方の御墓もこの様式です。
結構巨大で1.2m位の高さが有るので倒れてきたら体の大きな小生でも押し返すのは無理でしょう。
下は宝篋印塔と呼ばれる形式の立派な御墓なのに全く管理されておらず倒れてからパズル状態にままに放置されていました。
この御墓は常正院様と言う御姫様の御墓の様です。この方が誰なのか間宮家の系図を見ても解りませんでしたが、掃除して見て文字が読める様に成って大体誰の関係者かは推測出来ました。
慶安二年(1649年)七月二十九日に亡くなった方ですね~。
法名が“常正院妙宗禅定尼”と有るので御姫様か奥方様と解ります。
この1649年に天寿を全うして亡くなってるとなると、当時の女性の寿命が60~70歳前後だとすれが1580年位に生まれた人物と言う事に成りますね~。
もしかしたら間宮家の奥方様ではなくて若くして亡くなった御姫様と言う事に成るのなら・・・
1630年前後に生まれた方と言う事でしょうね~。
そこでもう一度間宮家の家系図をみてみましょう。
天正十年(1582年)に間宮康信公が42歳で亡くなっています。つまり1540年生まれ、子供を作るのは1560年前後からでしょうから、どうやら康信公の御息女でも無さそうですし奥方でも無さそうです。
慶長十九年(1614年)十二月二十五日に間宮直元公は大坂攻めの最中に44歳で亡くなっています。
直元公は1570年に生まれていることが解りますから、間宮康信公30歳の時の御子さんですね。
直元公が子供を作るのは先に述べた通り、間宮忠次公の推定誕生年が1607年頃と何となぁ~く解るので、つまり1630年に生まれている常正院様は直元公の御姫様の可能性がまず有ります。
次に天寿を全うしているとなると、間宮直元公の奥方の智性院様が明暦二年(1656年)に亡くなっていますから、1649年に亡くなっている常正院様が間宮家の人物ならば直元公の御姉えチャンの可能性が有る様です。出戻りか未婚か、地元で親戚と結婚したかは全く分かりません。
何せ妙蓮寺では過去帳も古文書も火事で全てなくなってしまっていますからね~。
でも何となぁ~く、直元公と同世代の御姫様か、御子さんの可能性が見えますね~。
隣の分家の杉田間宮家の歴代殿様と奥方様達の御墓は同じ様に宝篋印塔な事を見ると、江戸時代以後の人物と考えた方が良いかも知れません。だって智性院様が宝篋印塔では無いですからね~、それ以後に影響を受けている事が解るので御姉ちゃん説より御二人の御姫様説の方が現実的かも知れません。
そして、これは板の様な形ですが石碑や供養塔ではありません。
同時期に元北条家臣で徳川家臣だった旭区三佛寺にある宅間上杉規富公と奥方の御墓もこの様式です。
結構巨大で1.2m位の高さが有るので倒れてきたら体の大きな小生でも押し返すのは無理でしょう。
下は宝篋印塔と呼ばれる形式の立派な御墓なのに全く管理されておらず倒れてからパズル状態にままに放置されていました。
この御墓は常正院様と言う御姫様の御墓の様です。この方が誰なのか間宮家の系図を見ても解りませんでしたが、掃除して見て文字が読める様に成って大体誰の関係者かは推測出来ました。
慶安二年(1649年)七月二十九日に亡くなった方ですね~。
法名が“常正院妙宗禅定尼”と有るので御姫様か奥方様と解ります。
この1649年に天寿を全うして亡くなってるとなると、当時の女性の寿命が60~70歳前後だとすれが1580年位に生まれた人物と言う事に成りますね~。
もしかしたら間宮家の奥方様ではなくて若くして亡くなった御姫様と言う事に成るのなら・・・
1630年前後に生まれた方と言う事でしょうね~。
そこでもう一度間宮家の家系図をみてみましょう。
天正十年(1582年)に間宮康信公が42歳で亡くなっています。つまり1540年生まれ、子供を作るのは1560年前後からでしょうから、どうやら康信公の御息女でも無さそうですし奥方でも無さそうです。
慶長十九年(1614年)十二月二十五日に間宮直元公は大坂攻めの最中に44歳で亡くなっています。
直元公は1570年に生まれていることが解りますから、間宮康信公30歳の時の御子さんですね。
直元公が子供を作るのは先に述べた通り、間宮忠次公の推定誕生年が1607年頃と何となぁ~く解るので、つまり1630年に生まれている常正院様は直元公の御姫様の可能性がまず有ります。
次に天寿を全うしているとなると、間宮直元公の奥方の智性院様が明暦二年(1656年)に亡くなっていますから、1649年に亡くなっている常正院様が間宮家の人物ならば直元公の御姉えチャンの可能性が有る様です。出戻りか未婚か、地元で親戚と結婚したかは全く分かりません。
何せ妙蓮寺では過去帳も古文書も火事で全てなくなってしまっていますからね~。
でも何となぁ~く、直元公と同世代の御姫様か、御子さんの可能性が見えますね~。
隣の分家の杉田間宮家の歴代殿様と奥方様達の御墓は同じ様に宝篋印塔な事を見ると、江戸時代以後の人物と考えた方が良いかも知れません。だって智性院様が宝篋印塔では無いですからね~、それ以後に影響を受けている事が解るので御姉ちゃん説より御二人の御姫様説の方が現実的かも知れません。
全然解んないですけどね(笑)。
火事で史料燃えちゃってるから。
御子息の忠次公の奥方の戸田さん家の御姫様の可能性は忠次公以後の菩提寺は東京都中野区の松源寺なので、ちょっと無さそうです。
間宮忠次公について以前、南区井土ヶ谷の地名由来の乗蓮寺で少し紹介したので、御興味有る方は上の記事リンクから御覧下さい。
まぁ~そんな歴史書物に乗らない御姫様からも御墓の文字を通して色々教えて貰えるし何だか時代を超えて交流している様な感じもするので歴史好きなんですよね~♪
さて、宝篋印塔と言うのは武士や御金の有る家の人しか建てる事の出来なかった石工によって精巧な彫刻の施された御墓の事です。鎌倉末期に始まり南北朝時代に盛んに作られる様になり、室町時代~安土桃山時代~江戸時代に成っても多く好んで作られました。
でもパーツごとに分けて作られるので歴史素養の無い人だと一度ばらけちゃうと只の石ころにしか見えなく成っちゃうんですよね。
横浜市栄区の招菩提寺にも平安時代末期の源頼朝公の忠臣の岡崎義実公の御子息で石橋山の合戦で亡くなった佐奈田義忠公の御墓が有ったのが新編相模風土記稿に絵図が乗っているのに、関東大震災か何かでバラバラに成っていたのを適当な石材業者が勝手に石灯籠に組み直してしまって今でもそのまま招菩提寺から旧琴平神社の壇地に上がる階段の参道横に置かれてしまっています。
普通に御住職が真面目に御寺を開いた殿様に菩提を弔う様に頼まれた佐奈田義忠公の墓の絵図を見ていれば、それが供養塔の一部だと気が付くんですがね~。
妙蓮寺では石灯籠に組み替えたり罰当たりな事はして無い物の、放置されてました。
なのでタワシでパーツごとに御掃除させて頂いてから、人力で直せる部分は組み直しましたが、最下層部は土にずっぽり埋まっている上に恐らく100kg位ある物だったので移動せず断念しました。。
本当は完璧に修復して差し上げたかったのですが・・・
宝篋印塔も組むには組んだのですが、御墓の移動して置いてある場所が基礎工事されてない腐葉土と粘土の混ざった軟弱地盤で倒れて事故が起きてはいけないので、止む無く下層部と上層部に分けて横に並べ直して置きました。
勿論これらの事は御寺に許可を得て行いました。
この御寺は間宮直元公の奥方の智性院様が開いた寺院なので、元は大坂で亡くなった直元公の御姿を写した木造彫像を祀る御寺でした。
しかし・・・
その彫像は戦後、御寺の火災で焼失してしまいました。
でも新編武蔵風土記稿に写生された絵図が記録されており、奇跡的に西湘の二宮町の間宮家御子孫の一人であった間宮家研究の先輩でもある間宮サンが白黒写真を撮影して下さっていたので、どの様な御姿だったか見る事が今でも出来ます。
御身体が帰ってこなかった事と、間宮家は修験道の宗教的な指導者でもある一族で他の分家でも戒名を貰うのではなく神道形式で徳川家から許可を与えられて御神霊として祀られる事が良く有りました。
分家の高津間宮家の間宮正秀公もそうですね。
なので、この間宮直元公の御姿も本来は御神像として祀られていたのに、いつの頃か良く解ってない御寺の人が仏像や御神像に相当するものだと認識出来なくなっていた様で、間宮さんが写真を撮影した時には縁側に置いてあったそうです。でもこれ、悪いのは完全に横浜市なんですね。
横浜市では市内の寺院の❝美術品として価値のある仏像や仏具❞を形式上❝寄託される❞と言う事にして市が一括管理してます。つまり、この新編武蔵風土記稿に記載が有る木像は❝横浜❞の地名が初出典となる古文書を書き奉行職としても稀有な活躍をした戦国武将の間宮直元公の物と解っていながら保護しなかった訳です。
そもそも間宮家は修験道なので御霊信仰で神社が御寺代わりに成る事も有った訳です。この妙蓮寺の様に日蓮宗は天台宗や真言宗同様に密教や古来の日本の神様も大切にする宗派でもあるから、直元公の御神像を祀っていたとしても❝当然でしょ❞と成る訳です。
間宮家は室町時代から聖地江ノ島の管理を行った岩本坊別当だったのが間宮家の一族で、その間宮家は所領が鵠沼や三浦半島にありました。江ノ島を管理する岩本坊の別当職だったので岩本を名乗り、北条所領役帳にも岩本太郎左衛門、岩本和泉、岩本右近、岩本又七代の名前が登場します。
岩本太郎左衛門の領地は・・・
七拾三貫七百六拾七文・・・鵠沼(東郡=藤沢市)
九十六貫六百文 ・・・平佐久(三浦郡=横須賀市)
・・・に成っているので、この人物が明治時代に廃仏毀釈と修験道と仏教弾圧で岩本坊の寺院機能を放棄して旅館に模様替えした今の江ノ島の岩本楼の社長さんの御先祖様なのは間違いないでしょう。
江ノ島の岩本楼の社長は今も岩本サンですが、江ノ島で初代郵便局長と成ったのは間宮サンで❝旅館❞岩本楼の初代サンの御身内であり、俳画界で文化振興に活躍された方でした。
なので間宮家は宇多源氏佐々木家の子孫でもあるので、昔、真言宗系修験道の別当としては佐々木の姓でも御先祖様達が度々歴史に登場したりしており、宗教とプライベートで江戸時代にも姓を使い分けていた様です。
近くの小動神社も鎌倉時代に間宮家の御先祖の親戚の佐々木高綱公が支援した場所として地元では有名ですね。この高綱公を室町時代の間宮家は直接の祖先であると主張していた事も有りました。
そして間宮康俊公が伊豆の山中城で討ち死にした時は間宮家手勢兵200と城将松田康長公だけで豊臣軍8万を迎撃した際には、修験道の僧兵が大山寺=大山阿夫利神社から駆け付けたりしています。
ちなみに上司の北条氏勝公は戦わず兵を率いて居城の玉縄城に逃げてしまい小田原城防衛線を崩壊させた挙句、降伏してしまいました。
大山だけでなく相模国四之宮前鳥神社や三之宮比々多神社等、当時の神社や御寺の僧兵は北条家では武士と同様の戦力として認識されていましたが、貴族化した大名一族の武将よりも勇敢で義侠心が有る神職僧侶が多かったみたいですね。
今では大山は滝が多く景色も良いハイキングコースや参道の温泉街、秋の紅葉と夜景の名所のパワースポットとして老若男女に人気の観光地です。
現代は観光地でしかありませんが、北条家滅亡後に関東を統治した徳川家は、その大山の武力を警戒して関与して改革をさせた程だったんですね。もっとも、徳川家光公の代は大山を崇敬して大規模な支援を行い、江戸時代には江戸からの観光客で非常に賑わったそうです。
大山の僧兵達と共闘して豊臣軍と戦った祖父間宮康俊公の命令で、山中城から主家の撤退に付き添わされて生き長らえた間宮直元公の姿を写した木像は昭和に消失してしまいました。
けど失ったものは仕方がないので写真で皆で共有して語り継ぐとして、小生は先ず御墓を掃除してから積み直した宝篋印塔を御寺の方に見て頂きました。
そして・・・
「もし石材屋さんが来る機会が有る際には安定した地盤の場所に組み直しては如何でしょうか」
・・・とも御寺の方に感想を伝えてみました。
でもね、これ御寺サンが困ってるの一目瞭然なんだし、御寺を開いてくださった間宮の奥方様と関係者の御墓なんだから、本来は御住職が困る前に檀家総代や役員サン達が率先して修繕を申し出て下の安定した平場とかに移設するべきだと思うんですよね、普通ならね。
何十年も御寺開いた開基様の墓所を小生以外は誰も御参りもせず、放置するってのはどう言う事なんでしょうか?
檀家サン達はちょと考えて欲しいですね~。徳川家が大坂城を落城させれた総掘り埋立作戦は、間宮直元公の作戦と鉱山衆の働きが有っての事ですし、智性院様が本領の本牧奉行の御屋敷を守ったから内助の功で生野銀山や佐渡金山で活躍出来たのですからね。
ちょっとは先人と開基様にリスペクトを示して欲しい。
ちゃんと開基様大切にして菩提を弔わないと、仏様や御神霊になった歴史偉人から御利益を御寺が授かる事が出来なく成る様な気がするんですよね。
御寺の御家族は良い方達なので、是非、檀家の役員の方々に御寺の歴史と御寺を開いた偉人を大切にしてもらいたいな~と思いました。
御子息の忠次公の奥方の戸田さん家の御姫様の可能性は忠次公以後の菩提寺は東京都中野区の松源寺なので、ちょっと無さそうです。
間宮忠次公について以前、南区井土ヶ谷の地名由来の乗蓮寺で少し紹介したので、御興味有る方は上の記事リンクから御覧下さい。
まぁ~そんな歴史書物に乗らない御姫様からも御墓の文字を通して色々教えて貰えるし何だか時代を超えて交流している様な感じもするので歴史好きなんですよね~♪
さて、宝篋印塔と言うのは武士や御金の有る家の人しか建てる事の出来なかった石工によって精巧な彫刻の施された御墓の事です。鎌倉末期に始まり南北朝時代に盛んに作られる様になり、室町時代~安土桃山時代~江戸時代に成っても多く好んで作られました。
でもパーツごとに分けて作られるので歴史素養の無い人だと一度ばらけちゃうと只の石ころにしか見えなく成っちゃうんですよね。
横浜市栄区の招菩提寺にも平安時代末期の源頼朝公の忠臣の岡崎義実公の御子息で石橋山の合戦で亡くなった佐奈田義忠公の御墓が有ったのが新編相模風土記稿に絵図が乗っているのに、関東大震災か何かでバラバラに成っていたのを適当な石材業者が勝手に石灯籠に組み直してしまって今でもそのまま招菩提寺から旧琴平神社の壇地に上がる階段の参道横に置かれてしまっています。
普通に御住職が真面目に御寺を開いた殿様に菩提を弔う様に頼まれた佐奈田義忠公の墓の絵図を見ていれば、それが供養塔の一部だと気が付くんですがね~。
妙蓮寺では石灯籠に組み替えたり罰当たりな事はして無い物の、放置されてました。
なのでタワシでパーツごとに御掃除させて頂いてから、人力で直せる部分は組み直しましたが、最下層部は土にずっぽり埋まっている上に恐らく100kg位ある物だったので移動せず断念しました。。
本当は完璧に修復して差し上げたかったのですが・・・
宝篋印塔も組むには組んだのですが、御墓の移動して置いてある場所が基礎工事されてない腐葉土と粘土の混ざった軟弱地盤で倒れて事故が起きてはいけないので、止む無く下層部と上層部に分けて横に並べ直して置きました。
勿論これらの事は御寺に許可を得て行いました。
この御寺は間宮直元公の奥方の智性院様が開いた寺院なので、元は大坂で亡くなった直元公の御姿を写した木造彫像を祀る御寺でした。
しかし・・・
その彫像は戦後、御寺の火災で焼失してしまいました。
でも新編武蔵風土記稿に写生された絵図が記録されており、奇跡的に西湘の二宮町の間宮家御子孫の一人であった間宮家研究の先輩でもある間宮サンが白黒写真を撮影して下さっていたので、どの様な御姿だったか見る事が今でも出来ます。
御身体が帰ってこなかった事と、間宮家は修験道の宗教的な指導者でもある一族で他の分家でも戒名を貰うのではなく神道形式で徳川家から許可を与えられて御神霊として祀られる事が良く有りました。
分家の高津間宮家の間宮正秀公もそうですね。
なので、この間宮直元公の御姿も本来は御神像として祀られていたのに、いつの頃か良く解ってない御寺の人が仏像や御神像に相当するものだと認識出来なくなっていた様で、間宮さんが写真を撮影した時には縁側に置いてあったそうです。でもこれ、悪いのは完全に横浜市なんですね。
横浜市では市内の寺院の❝美術品として価値のある仏像や仏具❞を形式上❝寄託される❞と言う事にして市が一括管理してます。つまり、この新編武蔵風土記稿に記載が有る木像は❝横浜❞の地名が初出典となる古文書を書き奉行職としても稀有な活躍をした戦国武将の間宮直元公の物と解っていながら保護しなかった訳です。
そもそも間宮家は修験道なので御霊信仰で神社が御寺代わりに成る事も有った訳です。この妙蓮寺の様に日蓮宗は天台宗や真言宗同様に密教や古来の日本の神様も大切にする宗派でもあるから、直元公の御神像を祀っていたとしても❝当然でしょ❞と成る訳です。
間宮家は室町時代から聖地江ノ島の管理を行った岩本坊別当だったのが間宮家の一族で、その間宮家は所領が鵠沼や三浦半島にありました。江ノ島を管理する岩本坊の別当職だったので岩本を名乗り、北条所領役帳にも岩本太郎左衛門、岩本和泉、岩本右近、岩本又七代の名前が登場します。
岩本太郎左衛門の領地は・・・
七拾三貫七百六拾七文・・・鵠沼(東郡=藤沢市)
九十六貫六百文 ・・・平佐久(三浦郡=横須賀市)
・・・に成っているので、この人物が明治時代に廃仏毀釈と修験道と仏教弾圧で岩本坊の寺院機能を放棄して旅館に模様替えした今の江ノ島の岩本楼の社長さんの御先祖様なのは間違いないでしょう。
江ノ島の岩本楼の社長は今も岩本サンですが、江ノ島で初代郵便局長と成ったのは間宮サンで❝旅館❞岩本楼の初代サンの御身内であり、俳画界で文化振興に活躍された方でした。
なので間宮家は宇多源氏佐々木家の子孫でもあるので、昔、真言宗系修験道の別当としては佐々木の姓でも御先祖様達が度々歴史に登場したりしており、宗教とプライベートで江戸時代にも姓を使い分けていた様です。
近くの小動神社も鎌倉時代に間宮家の御先祖の親戚の佐々木高綱公が支援した場所として地元では有名ですね。この高綱公を室町時代の間宮家は直接の祖先であると主張していた事も有りました。
そして間宮康俊公が伊豆の山中城で討ち死にした時は間宮家手勢兵200と城将松田康長公だけで豊臣軍8万を迎撃した際には、修験道の僧兵が大山寺=大山阿夫利神社から駆け付けたりしています。
ちなみに上司の北条氏勝公は戦わず兵を率いて居城の玉縄城に逃げてしまい小田原城防衛線を崩壊させた挙句、降伏してしまいました。
大山だけでなく相模国四之宮前鳥神社や三之宮比々多神社等、当時の神社や御寺の僧兵は北条家では武士と同様の戦力として認識されていましたが、貴族化した大名一族の武将よりも勇敢で義侠心が有る神職僧侶が多かったみたいですね。
今では大山は滝が多く景色も良いハイキングコースや参道の温泉街、秋の紅葉と夜景の名所のパワースポットとして老若男女に人気の観光地です。
現代は観光地でしかありませんが、北条家滅亡後に関東を統治した徳川家は、その大山の武力を警戒して関与して改革をさせた程だったんですね。もっとも、徳川家光公の代は大山を崇敬して大規模な支援を行い、江戸時代には江戸からの観光客で非常に賑わったそうです。
大山の僧兵達と共闘して豊臣軍と戦った祖父間宮康俊公の命令で、山中城から主家の撤退に付き添わされて生き長らえた間宮直元公の姿を写した木像は昭和に消失してしまいました。
けど失ったものは仕方がないので写真で皆で共有して語り継ぐとして、小生は先ず御墓を掃除してから積み直した宝篋印塔を御寺の方に見て頂きました。
そして・・・
「もし石材屋さんが来る機会が有る際には安定した地盤の場所に組み直しては如何でしょうか」
・・・とも御寺の方に感想を伝えてみました。
でもね、これ御寺サンが困ってるの一目瞭然なんだし、御寺を開いてくださった間宮の奥方様と関係者の御墓なんだから、本来は御住職が困る前に檀家総代や役員サン達が率先して修繕を申し出て下の安定した平場とかに移設するべきだと思うんですよね、普通ならね。
何十年も御寺開いた開基様の墓所を小生以外は誰も御参りもせず、放置するってのはどう言う事なんでしょうか?
檀家サン達はちょと考えて欲しいですね~。徳川家が大坂城を落城させれた総掘り埋立作戦は、間宮直元公の作戦と鉱山衆の働きが有っての事ですし、智性院様が本領の本牧奉行の御屋敷を守ったから内助の功で生野銀山や佐渡金山で活躍出来たのですからね。
ちょっとは先人と開基様にリスペクトを示して欲しい。
ちゃんと開基様大切にして菩提を弔わないと、仏様や御神霊になった歴史偉人から御利益を御寺が授かる事が出来なく成る様な気がするんですよね。
御寺の御家族は良い方達なので、是非、檀家の役員の方々に御寺の歴史と御寺を開いた偉人を大切にしてもらいたいな~と思いました。
横浜市は他都市からの移民だらけで、いつまでたっても意識の中で帰る場所が横浜では無くて別に田舎が有って、自分の町と言う意識が無く全く自分の住む町に郷土愛の無い人も多いですからね。
横浜市は地方都市より御金も有る階層が多いと思うんですけどね~。
豊かさってなんなんでしょうね。
自然や文化を大切に出来ない、金だけかせいで社会貢献もせず先人が今に伝えこれからも残すべき物を何にも大切に出来ない人達は精神的に豊かじゃないと思った1日でした。
でも常正院様と御話出来た様な気分に成った1日でもあり、何だか元気な安土桃山時代~江戸時代初期の女性の様な気がします。常正院様(笑)。直元公にも御話を聞きたいな~。
又、御挨拶に伺いますね~♪
では皆さん・・・
自分の住む地域にも少しは関心を持って、城跡の公園や山、偉人の関わった神社や御寺を散歩してみて下さい!
・・・又、次の記事で御会いしましょう~!
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