鎌倉殿の13人、04月17日の上総公暗殺の回、御家人の反応はどこかのO塚家具とかO戸屋とかイニシャルがOの現代の会社でも創業家追い出しでたまにニュースに成ってたのと同じロジックでしたね。
今回先ずは史実の話はしないとして、当初は上総広常公が頼朝公陣営からの埋伏の毒として御家人に送り込まれている筈でした。
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿源阿野全成鎌倉殿源範頼鎌倉殿源義高

鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条実衣2鎌倉殿北条義時2鎌倉殿比企能員

鎌倉殿安達盛長鎌倉殿大江広元鎌倉殿梶原景時鎌倉殿上総広常
        VS
鎌倉殿千葉常胤鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿三浦義村鎌倉殿三浦岡崎義実

鎌倉殿和田義盛鎌倉殿畠山重忠鎌倉殿土肥実平
最近だとO戸屋創業家vsCロワイドとかO塚家具の創業家vsKみこサン所みたいな感じですね~。
いつの時代も人間て進歩して無いんですね~。


この❝ひろゆき❞サンが言ってる人材処遇の話は歴史オタクなら結構知っていて私もちょくちょく人の種別で話すのですが、O塚家具の話のKみこサンの話でまさか出て来ると思いませんでした。
皆で仲良くする事なんか出来ないのかね?
人間のドロドロめんどくさっ!って思ってるので宝くじ当たったら三浦の休耕地買って家建てて毎日釣りと畑仕事して隠棲生活するか、学生に戻って奈良大学に入学して千田先生の弟子に成りたい久良岐のよし・・・
鎌倉殿源頼朝小鎌倉殿北条時政小
   ⇧将来邪魔に成る関係性 ⇧
鎌倉殿北条義時小鎌倉殿三浦義村小
創業者が最初は利用していたはずの幹部社員にいつのまにか依存し過ぎて業務を丸投げしてる内に、部下達が担ぐ神輿別にコレじゃなくても良いよね?と気が付いてしまう。
しかも上の状態から更にドラマでは上総広常公と梶原景時公が御家人側に埋伏の毒として送り込まれてグチャグチャしたダメな中小企業の主導権争いみたいなゲスい状態に成ってました。
鎌倉殿源頼朝
「んじゃ、任せたよ!」
     ⇩
「解りましたぁ~♪」
鎌倉殿梶原景時鎌倉殿上総広常
関東平野と言う限られた土地のピザ🍕の再分配が必要だったんですかねぇ~。
結果の良し悪しは別にして、ドラマではこの時に上総広常公は既に殺される運命だった事に成っています。

余談ですが、この上総広常公の居城は千葉県の一之宮町、高藤山城と伝わります。
城の周りには神話の舞台の鵜羽神社と玉前神社が存在し、そちらは以前解説記事を書いた事が有りますので御興味が有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。

いつの時代、どこの国でも同じ人間の成長しない限界。
能力が衰えると人は防衛本能が強く成り猜疑心が強く成ってしまったり攻撃的になってしまうそうです。
それは、この二人も御互いにそうだったかも知れません。
織田信長明智光秀公
前線に出なくなった大将は部下とのパワーゲームに成ってしまい部下粛清か頭領が隠居して代替わりしてリフレッシュするか部下の下剋上や外部の乗っ取りが待っている。
上司や部下の感情や悩みが共感出来なく成っちゃったり、傍にいないと信頼関係も薄れてきちゃうのよね、人間様は。
まぁ~織田家の本能寺の変に関しては個人的には明智光秀個人の野心とか感情も有った上で当時の近衛前久も足利義昭も細川幽斎も本願寺も堺町衆も全てが関わってたと思いますが。
個人の器にもよるのだけど目標(ビジョン)が低く小さい人程、仲間を仲間と意識できなくなるのが早く自己保身や他人を陥れる事を始めるみたいですね。
ピザ🍕の分配にすると自分の食べる分を多くするには大きく分けて2つの方法が有ります。
①美味しいピザの生産性を皆で協力して向上させて少しでも増やすか1つのピザを大きくして皆で分ける量自体を増やす。
②今あるピザ🍕を少しでも多く食べたいから他人の取り分を横取りするか、自分以外の人間を消す。
決められた利益のピザ🍕を少しでも多く獲りたいと思う②の目標が小さく利己的な人がいると、ピザ🍕全体の出来栄えを考えて作る前に作った後で独占する為に人を陥れたり排除しようとするんですね。
この人⤵みたいにね。
鎌倉殿源義経
「義円、戦ガンバ!」 
(邪魔だから死ね・・・) 
    ⇕
「兄上の為に頑張る!」
(義経あんがとっ!)
鎌倉殿源義円
義経に⤴騙されて死んだ人。
世間では協調性と言う簡単な言葉で片付けるけれど、完成するピザを100点にしたいと思ってるリーダーや優秀な部下がいて、60点の能力しかない人間が多いと60点のピザで終わらせない人間に対して自分達が出来ない事をやるのは「協調性が無いよオマエ」と負の作用をする事もあるので難しいですね。
小生現実社会でこんな事が有りました。
自分が営業職なのに生産管理支援をやっていた時に生産効率を改善して1時間の生産数を例えば100個作れるようにしたんですね、すると生産管理の管理職からこう言われたんです・・・
「報告する生産数、1時間当たり80個で書いておいてね」
「皆でそういう事にしてるから」
これね~、会社の経営者が実力主義で査定したいと思ってても、皆が同じ様にお給料を貰えれば良いと言う負の協調性が働いてる会社なんですよね~、昔の会社の話だから言いますけど「クソ」ですよね。
こう言う事も有って人間は分かり合えないんだと思います。
鎌倉殿源頼朝
「上総56してね~」
    ⇩
「えぇっ・・・ラジャっ!」    
鎌倉殿梶原景時
「双六やりませんか?」
(皆(自分)の為に4ね)
    ⇩
「おっ強いね梶原君」
鎌倉殿上総広常
双六好きで⤴殺されちゃう。
ドラマを見ても見なくても、結果は皆さん御存知の通り。
今回の上総サンの暗殺動機に関してはリーダーが2人いるみたいな状態に成っちゃったからとか諸説有るので話すだけ無駄として、三谷幸喜本人がTV業界で政治ゲームを生きてるだけあり説得力ある話に成っていて良かったと思います。
ただ個人的には鎌倉の伝承を聞いて回ったり自分で古道を歩いて回ってる小生としては地理的に納得いかないのは殺害場所です。

鎌倉殿の13人の脚本では京都人が伝聞で書いた愚管抄の大蔵幕府が暗殺場所として記載が採用されていました。
大蔵幕府は鶴岡八幡宮の東側の清泉小学校の辺りに~横浜国大付属中の手前くらいの辺りに存在しました。
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大蔵幕府𦾔跡
しかも現代の道で3kmも先の上総邸で刀洗って帰って来るとか余り現実的では無く意味不明ですよねぇ~?
当時の京都人が伝言ゲームで書いた愚管抄を無視すると鎌倉の伝承では十二所、明王院裏の谷戸の梶原景時邸に招いて双六をして暗殺した説と上総広常邸で双六をした殺害した説の二つが有ります。
これ恐らく2つの伝承が1つでセットに成っていて正解だと思います。
上総広常公の暗殺場所・・・梶原邸
上総家臣団の粛清場所・・・上総邸
相手の家に行って暗殺をすると言うのは余り現実的では有りませんねぇ~?
梶原景時公が単身で上総邸に乗り込んだら殺す事は出来ても先ず生きて帰れないでしょうし、これから逃げるのに上総邸の前の川で悠長(ゆうちょう)に太刀を洗ってる余裕は無いでしょう。
位置関係を見て見ましょう。
※クリック⤵して拡大して見て下さい。
大蔵幕府~上総邸
現実的な事を考えると大蔵幕府で殺害してわざわざ相手の家まで3km歩いて行って太刀を洗う事は無いので愚管抄は伝聞の間違いでしょう。
相手の家に乗り込んでも御覧の通り上総邸は山深く谷の1本道、梶原景時公が単身上総邸に乗り込んで暗殺を行ったとしても、上総家の家人が血眼(ちまなこ)に成って刀や弓を手にして追いかけて来るので自分の生存率自体が下がってしまいますね。
なので小生は現実的に梶原邸に呼び出して接待して飲みながら双六を行って殺害⇨その後に十二所の上総邸(後に朝比奈峠切通の入口に成る地域)へ武装した兵士を引き連れて襲撃し上総家の人間に対する掃討戦が行われたと考えるのが自然だと考えています。
そうすれば当然ながら上総邸の横の滑川の三郎の滝で梶原景時公と彼が率いた兵卒は血濡れた太刀や衣類と体の汚れを行水して落としたでしょう。十二所と呼ばれる地域の明王院と言う格の高い真言宗寺院に正対して左手に梶原景時公の邸宅が有ったと伝わり、梶原井戸と言う井戸が現存しています。

仮に梶原単独犯で大蔵幕府で暗殺を行ったとなると問題は雪ノ下地区~上総邸の在る十二所まで上総家の郎党を掃討しに行く訳ですから、数十人の武装兵を連れて行くので行軍する途上には畠山邸~足利邸~梶原邸~大江邸~上総邸と御家人の邸宅が並び守衛が立っている訳です。
物々しい数十人の武装兵の集団が大蔵幕府から3kmも上総邸まで歩けば直ぐに騒ぎに成る訳です。
2万の兵を束ねる上総邸の奉公人の人数に対して、武装しても梶原家の単独犯で兵士を引きて襲撃したとしても簡単では無いでしょう。しかし御家人やその家臣達が行軍を目撃した記録が残っていない。と、言うか北条家が編纂した吾妻鏡では上総広常公暗殺の年の記録が丸っと抜け落ちています。
でも上総家では生存者は逮捕されている事は解っているんですよ?逮捕者がいるなら普通に掃討戦が行われている訳です。
この行軍ルートにかんしては当時は真っ直ぐ3km便利に直進とは行きませんでした。
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歌之橋
当時は未だ渋川家によって源実朝公の時代に架橋された歌之橋は存在していませんし、朝比奈切通も開削されていませんでした。
太刀洗の方に行く道は十二所~朝比奈に抜ける熊野神社の古道抜けて鎌倉の外港として機能した六浦(昭和の埋め立てで消滅した湾)を目指すルートでした。上総家は房総半島が本拠地なので海に行き易い一番熊野神社に行き易く尚且つ比較的平坦な道で大蔵幕府に出仕出来る当時のセレブ住宅街の一番奥に居館を構えていた事が解ります。
大蔵幕府~上総邸2
下手すると当初は鎌倉の港は由比ヶ浜だけで良いと考えられていた所を上総家が六浦~熊野神社~大刀洗~浄妙寺地区のルートを開拓して六浦港の使用権を上総家が独占していたのだとしたら、その六浦の利用権共有を求める鎌倉御家人達や幕府との軋轢を生んだ一端何て説も有りかも知れませんねぇ~。
なんせ源実朝公が造成した築地(埋め立て地)港の和賀江島の使用を巡っても出入り口一つで裁判が起こされていた程なので港の利用権と言うのは大きな権益な訳です。

和賀江島は今では港の機能は失われ景勝地として地元民や観光客に広く愛される場所ですが、何の因果か鎌倉幕府にとって重要だった六浦も昭和に埋め立てられ消滅し港としての歴史を閉じました。
六浦港を上総家が支配していたとすれば後に千葉家が六浦に勢力を持っていた事にも説明が着きます。
港に通じる朝比奈切通と切通開削以前の熊野神社の古道を押える位置に上総家の邸宅が陣取っていますが、この道は室町時代にも重要だったので鎌倉市街地側で朝比奈切通の本来の道筋だった場所に存在する時宗の岩蔵山光触寺は、この古街道を往来する製塩業の商人達に信仰され御地蔵様に塩を備える風習が残っている他、室町時代の関東を支配する将軍だった鎌倉公方足利持氏公によって御本尊の御厨子が寄進されていたりします。
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岩蔵山 光触寺(こうそくじ)
時宗の開祖の一遍上人と御弟子サン達は交通の要所の出入口にある御堂や荒廃した寺院を復興して布教拠点化していた事が各寺院の場所と地理から解るので、この光触寺は往来する人々に休憩場所として提供されつつ布教の拠点にも成っていたのでしょう。
六浦の港は戦国時代の北条所領役帳に北条家に亡命し家臣化した上総国の大名真里谷武田家の所領として登場します。

武田殿
百廿七貫文 六浦木曽分
 自前々役無之 但御人数者可有其改

自前々役無之但御人数者可有其改の部分は現代口語訳にするとこんな感じです・・・
「前々から兵役は免除してたんだけど~人揃えて貰う事にルール変えっからヨロ~♪(亡命して来た盟友扱い止めるから君は家臣てことぉ~!)」
・・・みたいな感じです。この地名が木曽分と言うのは恐らく上総家が六浦を占有していたならが取り上げられた後、千葉家や木曽義高公へ再分配された名残りが地名の「木曽分」として残っているのでしょう。
鎌倉殿源義高鎌倉殿千葉常胤
木曽源氏の御曹司だった源義高公は誅殺されてしまい領地を引継ぐ人はいなかった訳ですが、一方で千葉家は六浦の権益を鎌倉時代にも維持しており、これが日蓮聖人の船中問答の舞台の一つである六浦山上行寺を千葉家臣富木胤継入道常忍公が日蓮さんと船に同乗して房総半島から任地の六浦に戻る際に教化されて真言宗から日蓮サンの法華経信仰に改宗し、入道号を日常と改めて市川市に在る日蓮宗大本山の中山法華経寺の前身と成った奥院の法華寺を自宅に開いた事が知られています。
木曽分の他にも鎌倉時代の御家人の所領の名残と思われる場所は鎌倉幕府設立から約400年も経過している1560年頃に検地をした北条所領役帳他に散見出来ます。

宗甫
八貫五百文 神奈川斉藤分

この宗甫は間宮宗甫と言う人物で北条氏康公の奏者(秘書)を務めた人物です。他に横須賀市の西浦賀にも所領を持っていて子孫は江戸時代に三ツ沢壇林と呼ばれ学問所化していた法華宗の豊顕寺の檀家に多く残っています。
豊顕寺について興味の有る方は以下のリンクの記事を御覧下さい。

戦国時代の間宮宗甫の所領の一つとして登場する神奈川区斎藤分町ですが、斉藤と言えば元は木曽の源義仲公の父の源義賢公の忠臣だった家系ですが他にも箱根駅伝で有名な戸塚区不動坂には鎌倉幕府滅亡前後に斉藤家の所領に成っていた様でして大塔宮護良親王が殺害された際に妻女ひなつる姫と侍女が斉藤家に助けを求めて逃げて来た伝承が有ります。

保土ヶ谷区に今井兼平の領地だったとされる今井城址も寺院化と宅地化されて曲輪一つしか現存しませんが今井の地名も残っています。
巴御前も降伏して和田義盛公に継室として嫁ぎ三浦半島の三浦市初声和田に存在した和田城で余生を過ごしたと神奈川県では伝承します。

実は通説と異なり木曽源氏の家臣団は木曽義仲公の滅亡後に巴御前を含めて悉(ことごと)く降伏し幕府に帰順して源頼朝公の家臣に成っていた様です。
鎌倉殿和田義盛鎌倉殿巴御前
和田義盛公も和田合戦で滅亡したとされていますが実際は鎌倉時代には北条家の所領だった駿河国に室町時代に今川家重臣には三浦、由比、朝比奈と和田家や三浦一族所縁の苗字が多く登場します。
更に横浜市港北区の大倉山~太尾見晴の丘の大曾根城の麓にある長光寺は木曽源氏所縁の御寺として知れています。
鎌倉殿木曽義仲
この様に木曽源氏旧臣達は実際には義仲公の討死後には源頼朝公に取り立てられ港や陸路の要衝を押える場所に所領を得ていた状況証拠が地名や社寺の伝承に残っていたりします。
これらの場所は若(も)しかしたら、一部は源義高公の祖父に当たる木曽源氏の家祖の源義賢公や上総家の治めたと思われる六浦の様な場所を、源頼朝公によって木曽源氏滅亡後に木曽源氏旧臣や千葉家に再分配されているのかも知れませんね。
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話しを鎌倉時代の上総家に戻すと、上総広常公の御屋敷は六浦と鎌倉の往来に便利だった十二所の中の太刀洗いと呼ばれる地域に所在し、鎌倉市街地側から行くと三郎の滝の手前辺りと伝わります。
大蔵幕府~太刀洗に至るには、当時は二階堂川を避けて二階堂地区永福寺方面を経由して山を越えて梶原邸の方に出るか、滑川の南岸を通過し大江邸を通過し少し奥の光触寺の前を通って川沿いに十二所太刀洗の上総邸に行くルートしかありません。
山越えで梶原邸に戻るルートなら暗殺し汚れた太刀や服は自宅で洗濯するでしょう(笑)?
滑川南岸を行くなら梶原邸に戻るまでに遠回りになり源氏の菩提寺だった勝長寿院の僧侶達や北条家や大江家の家人や御家人本人に目撃されるか騒ぎに成るでしょう?でも何にも記録が無いんです。
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大江広元邸址
オカシイですよねぇ~?
わざわざ自宅をスルーして単独で上総邸に乗り込む筈も無ければ殺した相手の家の前で刀洗って帰って来る事も無い訳です。
なので梶原単独犯は成立しません。
普通に考えて彼の単独犯だとして畠山、足利、北条、大江が梶原家の軍勢を黙って通過させるでしょうか?
いずれにしても大江さんと言う幕臣の重鎮の家が最終的に有るのですが梶原公による単独犯なら上総公暗殺の事後の上総家の家人による山狩り状態で大騒ぎに成っている描写も無い。
逆に最初から軍勢で攻めても双六やる伝承は残らないし、そもそも騒ぎを大江家の人間だけなく途中の武将の家人も見聞きしていないのはオカシイ。
大江邸での記録が無く素通り出来たならそれはもう幕府公認の活動でしょう。
もう一つクッソ遠回りのルートで大町方面小町大路から名越に向かい北条家の名越邸の下の釈迦堂切通や逗子ハイライドに有った巡礼道(三浦道)を通過する経路が有ります。
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釈迦堂切通
公認ならば梶原単独にやらせる訳が無い、と言うか大軍勢を領国に抱える上総家家臣団を絶対に討ち漏らす事は許されないので、源頼朝公や北条家が加担してない訳が無いでしょう。
そこ等辺りが吾妻鏡の抜け落ちた1年の記録で、あくまで梶原家に罪を着せた後世の偽書の要素が吾妻鏡には幾つか有ると言う事でしょうし、愚管抄は詳しく知らない御家人の糟屋有季公の更に子供からの伝聞を書いたに過ぎない伝言ゲームの結果と言う事なのかも知れませんね。
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飯盛山 明王院 寛喜寺梶原景時公が通説通り暗殺を明王院の付近に有った梶原邸で行い、独自に私兵を率いて上総邸襲撃も出来た可能性が高いので梶原家の単独犯なら普通に伝承が一番整合性が高いでしょう。
相手の多さに相当苦労すると思いますが奇襲で相手は普段着、自分達は甲冑着込んでる訳ですから勝機は十分ですよね。
より確実なのは暗殺と掃討を分業して北条家と大江家が手っ取り早く幕府の兵を率いて上総邸を襲撃する方法です。
鎌倉殿梶原景時
 暗殺の実行犯⤴
 掃討戦実行犯⤵
鎌倉殿北条義時2鎌倉殿大江広元
この構図が一番現実的だと思います。
暗殺と掃討を確実にするには有力御家人に共犯がいるなら役割を分業したら良いのです。
梶原サンが暗殺している内に、幕府の中枢の人間であり尚且つ上総邸を襲撃しても他の御家人に目撃されない場所に住んでる二人が手勢を率いて上総邸に駐在している上総家親族と家臣団を襲撃して抵抗する者は虐殺し、降伏した者の中で重要では無い者は追放するのが一番効率的で失敗も少ないでしょう。
吾妻鏡では上総サン暗殺の年の記録を削除しているので、大河ドラマとは正反対で北条家が共犯か主導していたと考えるのが自然ではないでしょうか。
何時の時代も官僚や政治家にありそうな証拠隠蔽ですよね。
鎌倉時代に限らず江戸時代に成っても幕府が寺社に発給した領地保証の朱印状ですら寺名の誤記も有るし寛政重修諸家譜でも人名の誤記も有ります。
いずれにせよ、梶原単独犯の凶行で大蔵幕府で殺害し自邸に戻らず、上総邸の目の前の滑川上流まで太刀を洗いに行く訳がないですし、梶原家が単独で攻め込むと言うのは多くの御家人が黙殺する必要が有るので地理的に非現実的ですね。
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蝉も鳴かない空気の澄んだ2月、切り合いと怒号と阿鼻叫喚の悲鳴は鎌倉の谷間では遠くまで良く響きますよぉ~(笑)。
横浜~鎌倉の細長ぁ~い谷で繋がる谷戸地形はね、夜になり往時の様に静かな時間帯に成ると5km先の電車の走る音も谷間に反響して良く聞こえてくるんですよ~www。
最後に上総広常公の跡地に跡に開削された朝比奈切通と、切通開削以前の古道だった熊野神社の参道の写真を見て今日のブログを終えたいと思います~。
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最近は春に成ったのに関東では天気の悪い日が続きますが天気が良く成ったら天園ハイキングコースの古道や朝比奈峠~鎌倉駅までの散策を楽しんでみては如何でしょうか~?
コロナに感染しない様に対策をシッカリしつつ歴史散策や鎌倉観光楽しんで下さいねぇ~♪

では皆さん、又、次の記事でお会いしましょう~。